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昨日は、久しぶりに秋山氏に会って、次の企画の打ち合わせ。その際、5月2日のブログでお話しした通り、4月27日に富士山麓で撮影した不思議な物体の写真を鑑定してもらいました。こちらの写真です。ぼんやりしたドングリのような物体が真ん中の下方に写っていますね。この写真を見るなり、秋山氏は「あっ、(UFOの)偵察機だ!」と述べたうえで、「面白いですね。はっきり真ん中に写っています。よく写っていますね。ビー玉(偵察機のこと)はなかなかはっきりと写真に撮れません。これは意図的に撮影させているように思われます」というようなことを語っておりました。やはり私が感じた通り、小型UFO偵察機の可能性が高いようです。偵察機(あるいは波動観測機、記録センサー)に関しては、三月に発売した新著『UFOと交信すればすべてが覚醒する』の52ページや193ページをお読みください。私は続けて、「拡大すると物体の右上にオーブのような光の玉が写っていますが、これはどうしてですか」と聞きます。拡大写真はこちらです。右上に丸いオーブが写り込んでいますね。私が小学生のときにじゃんけんをしたときに、相手の頭の向かって右上に吹き出しのように出たセピア色の映像もこのような感じでした。もっと薄かった(ただし、もっとリアルだった)ですけどね。私の質問に対して秋山氏は「どんぐりとか、甲虫とか、そうした物体ではないことを示すために、わざとそのように写り込んだのです」と説明しておりました。その後、なぜ現れたのかとか秋山氏に聞きましたが、正確な答えを覚えていないので、後日取材テープを起こしたうえで、またお知らせするかもしれません。とりあえず、お約束した鑑定結果のご報告でした。
2023.05.31
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テニスを覚える一番手っ取り早い道は、うまい人とできるだけ長くラリーの打ち合いをして、難しい打球に慣れることです。 ドライブ、スライス、フラット、横回転、斜め回転など、テニスにはいろいろな種類の打球がありますから、最初は戸惑います。しかし、慣れれば打球の軌道を予測しやすくなりますから、うまく打ち返せるようになるんですね。そのうち、相手のフォームやラケットの動きを見ただけでどのような打球が来るのかわかるようになります。すると、スタートが早くなり、対応できるようになるわけです。テニスで一番大事なのは、anticipation(予期)であると、一年先輩のテニス理論好きのYさんに教えてもらいました。その理論家のYさんは大学卒業後、テニスコーチとしてしばらく働いておりました。当時としては、珍しいトップスピンを打つテニスプレイヤーで下。 初めのころは実力が同じくらいの人と試合をさせられますが、夏合宿の辺りからは実力の上の人、つまり先輩のベテランプレイヤーたちとも練習をしたり試合をしたりさせてもらえるようになります。 当初は打球が初心者とは明らかに違うので、うまく打ち返せません。 でも、そのうち球に慣れてくると、打ち返せるようになりました。 テニスは習うよりも慣れよ、ということでしょうか。 で、私が段々強くなってきたのは、一年生の晩秋のころでした。 野球やラグビーで培った基礎体力と運動能力は高かったですから、結構素早く動けたことが良かったのだと思います。 レギュラー選手は6人なのですが、そのうちナンバー6やナンバー5の人に時々勝てるようになったんですね。 そのことを知ったナンバー1の先輩のTさんが、一年生を鍛えればチームが強くなると判断し、12月上旬から始まる冬学期の期間中、一年生のための朝練を特別に実施してくれました。 Tさんは左利きで、左の肘を痛めて強打はできなくなっていましたが、高校時代から数々の大会で優秀な成績を残したテニスプレイヤーでした。テニスの経験値が非常に高い人でした。そのTさんが教えてくれたので、こちらとしては願ってもないチャンスでした。 朝練は平日のほぼ毎日行われました。霜が融ける前の午前7時30分くらいから8時30分くらいまでのみっちり1時間。授業の一時限目が始まるのが午前8時半でしたから、ぎりぎり間に合う時間まで(多分5分前まで)練習漬けの日々でした。ただし、毎朝午前5時半起きで、睡眠時間的には大変だったので、その分、図書館やチャペル(パイプオルガンを聴きながら瞑想)などでこっそり昼寝をしておりました。 (続く)
2023.05.29
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こんな静かな入り江があるんですね。山の蔭に隠れていたようです。不断通り過ぎているところなので、びっくりしました。
2023.05.28
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新緑の季節です。その緑と白い富士山の組み合わせがいいですね。5月16日の撮影です。
2023.05.27
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合宿前のテニス部の練習が8月下旬にICUのテニス部のコートで始まりました。 私は、中国視察旅行からはギリギリセーフの日程で戻ってきて、その練習に間に合いました。 まだ残暑が厳しい夏の暑い最中、帰省先から皆が戻ってきて、テニスの練習に参加するわけです。 でも暑さに関して言えば、高校野球の練習で慣れていますから、むしろ半ズボンの涼しい格好でできるスポーツが私には快適でした。 この事前練習を含む、約2週間のテニス漬けの合宿で一年生はかなりうまくなります。 球拾いが主だった練習も、ほかの先輩たちと同じような練習に替わって、テニスの面白さや難しさが段々とわかってきます。 しかも合宿先の山中湖は、標高が約1000メートルと高いですから、一日中練習をしても暑さでばてるなんてこともないわけです。 唯一の欠点は、山のそばにあるため時々雨が降ることです。 雨がたくさん降ると、コート整備をする必要が出てきます。 そのコート整備は、クレイコートが乾くのを待たなくてはならないなど、結構時間がかかることがあるんですね。 でもそういう時は、ご安心ください。 待ち時間を使って、一周14キロの山中湖マラソンが開催されます。 一年生の時は、激しい雨が降って、雨が上がってもコートが乾くまで待たなければならなかったので、マラソン大会が開催されました。 でもその後、二年生、三年生の時はコートがすく乾くくらいの雨しか降らなかったので、マラソン大会が開催されることはなかったと記憶しています。 まあ、本当にテニス漬け、スポーツ漬けの二週間でした。 当時の仲間たちです。 何か楽しそうですよね。実際、本当に楽しかったです。 (続く)
2023.05.26
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北京に1週間~10日間くらい滞在した後は、上海を訪れました。移動は夜行列車だったと思います。 上海でまず驚いたのは、同じ無地の服(人民服)しか着ていない北京の人たちと違って、上海の人たちはカラフルでオシャレな服を着ていたこと。全く違う国のようでした。新しいもの好きらしく、街中でカメラのフラッシュを焚こうものならあっという間に人だかりになりました。 上海からは杭州も訪れています。あるいは杭州に立ち寄ってから上海に行った可能性もあります。 とにかく盛沢山の日程で、夜は夜で京劇を見に行くなど休む間もなく、出歩かなければなりませんでした。後半はツアー参加者から「少し休ませてくれ」という懇願が出されたほどです。 まあ、そんなこんなで20日間。 中国という国の一面を見させてもらいました。 何といっても隣国ですからね。興味深い国ではありました。 忙しくて正規の授業としては履修しませんでしたが、このツアーがきっかけとなって、ICUで同時評判科目だった中国語の授業を聴講して、中国語で自己紹介くらいはできるようになりました。 その後、中国(大陸)を訪れることはありませんでしたが、後にジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院で国際関係論を勉強しているときにも一年間、中国語を履修して二学期ともAを取っています。その証拠がこちら。各学期の下の方に基礎中国語(Chinese、Basic)と書かれています。ほとんど役に立ちませんでしたが、2007年に台湾を訪れたときに少しだけ役立ちました。 さて、1977年の夏休みは、夏風邪で二週間寝込んだ前年とは打って変わって、式根島キャンプに始まって、北海道周遊、テニスの他流試合、中国初訪問と一か月半以上、ほとんど休む間もなくジェットコースターのように飛び回っていました。でも、まだまだそれで終わったわけではありません。 8月下旬からは9月初めにかけてはテニスの合宿が山中湖でありました。 (続く)
2023.05.25
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中国へは丸20日間の視察旅行だったと記憶しています。 大体の日程は決まっていましたが、現地で、皆で話し合ってどこに行くかを決めることもできました。 最初は北京。 天安門広場や、天壇公園、故宮博物院 (紫禁城)、頤和園、明十三陵など主だった観光地は全部回りました。もちろん北京郊外の万里の長城にも行きました。 写真はそのとき撮影した万里の長城です。 長城を登っているときの筆者。当時は海外からの旅行客は珍しいので、どこでも熱烈大歓迎されました。 というか、町を歩くだけで、珍しがられて黒山の人だかりになることもありました。 訪問先では質疑応答の時間も十分にとってくれて、いろいろこちらからも質問しました。 大体同じような答えがいつも帰って来るので、そのうち質問しなくなりましたけどね。 とにかく当時は、悪名高い四人組が追放されて、国中が歓喜して大騒ぎの状態でした。 どうしてこんな騒ぎになったかというと、1960年代の半ばに始まった文化大革命が背景にあります。 四人組といえば、1960年代から約10年続いた中華人民共和国の悪名高い文化大革命を主導した4人の政治家、毛沢東の妻であった江青・張春橋・姚文元・王洪文を指す呼称ですね。文革四人組とも呼ばれます。 この四人組は、1971年9月に毛沢東の後継者と目された林彪(リン・ピョウ)が失脚し、墜落死してから、中国共産党指導部で大きな権力を握るようになりました。 1973年8月の第10回党大会では四人全員が中央政治局委員となるや、従来の文革路線を踏襲して、政敵を迫害・追放します。 その後も四人組は、政敵・鄧小平を失脚させるなど権勢を振るいますが、1976年9月9日の毛沢東の死後、反文革派が反撃し、逆に四人組を逮捕。結局四人組は1977年7月の第10期3中全会で党籍を永久剥奪され、政界から追放されるわけです。つまり、我々青年団が中国を訪れた1977年8月というのは、まさに四人組が追放された直後だったわけです。まあ、凄まじい権力闘争の嵐の後、という感じでした。 私は中国現代政治史にそれほど通じていたわけではありませんでしたが、それでも鄧小平がこれからどうなるのか興味があったので聞いてみても、そのときはあやふやな答えしか返ってきませんでした。結局、鄧小平が名実ともに中国の最高指導者に躍り出るのは、翌78年の12月のことでした。 (続く)
2023.05.24
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最北限の礼文島の後は、札幌に立ち寄ったくらいだったでしょうか。 北大のポプラ並木や、大通り公園の時計台を訪れたと思います。 これで北海道はほぼ一周したことになります。後は帰るだけ。 周遊券は20日間でしたが、2、3日早めて東京に帰ったのを覚えています。 というのも、テニスの夏季大会にエントリーしていたからです。 確か7月20日ごろから大会が始まりましたから、それに間に合うように帰ってきたわけです。 東京に帰ってからは、ICUのテニスコートで同じ一年生仲間と自主練をします。 ほとんど初心者ですから、どれだけ通用するかはわかりませんでしたが、一回戦の相手は向こうも一年生だったこともあり、何とか初勝利をあげました。 しかし、二回戦は敗退。その相手も一年生でしたが、まあどんぐりの背比べだったことは否めません。でもこれも経験です。大学生のテニスの試合がどのようなものであるかを知りました。 当時は試合に負けると、「負け審」といって、次の試合の主審をするルールがありました。 その後まもなく、この「負け審」ルールは撤廃され、セルフジャッジ方式に変わりました。 北海道から戻ったころだったでしょうか。急に思いがけない話も飛び込んできました。1972年の日中国交正常化の流れを受けて、日本から青年団を中国に派遣するという話があり、その青年団に兄と一緒に参加しないかという話が持ち上がったんですね。 トントン拍子に、その話が進み、兄とともにその青年団に滑り込み、中国に約20日間の日程で視察旅行に行くことになりました。しかも、中国政府から補助金が出るらしく、格安の旅行だったと記憶しています。当時はなかなか中国へはいけませんでしたから、またとないチャンスです。 中国がどのような国なのかをしっかり見てきました。 (続く)
2023.05.23
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標津町からは知床半島の方には回らず、そのまま北上し、網走で下車します。 網走の展望台からの風景です。 初めて見るオホーツク海でした。 その後、電車に乗って旭川経由で北海道を横断。日本海に面した西の羽幌町に出ます。かつての日本屈指の炭鉱の町でした。 今は、天売島、焼尻島への起点など道北地域の交通や観光の拠点となっています。 ここのユースホステルには二泊しました。 そして、丸一日を焼尻・天売両島の観光ツアーに当てました。 ものすごい数の海鳥でした。 そこからはさらに北上して、最果ての稚内へ。 ここで利尻島に行くか、礼文島に行くかで少し迷いましたが、利尻島のユースホステルでは「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む ぎんぎんぎらぎら 日が沈む」の歌い出しで有名な童謡「夕日」に合わせて派手に踊らなければならないと聞いて、面倒くさそうなので礼文島を選びました。 礼文島にも二泊したと思います。 そこで参加したのは、スコトン岬までの4時間だったか8時間だったかのハイキングツアー。起伏のある海岸線の道を皆でひたすら歩きます。 ところどころに珍しい高山植物が自生している高原のような道でした。 「最北限の地」の碑が建つスコトン岬に着いたときには、夕方になっていたように記憶しています。以前は宗谷岬と共に最北を名乗っていましたが、測量の結果宗谷岬が「最北端」と判明したため、スコトン岬は「最北限」を名乗るようになったそうです。 最後は、みなで記念写真を撮りました。ガイドを入れて総勢8人のツアーだったことがわかりますね。 楽しい思い出となっています。 (続く)
2023.05.22
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団体旅行と個人旅行はそれぞれに面白みがありますが、個人旅行の面白さは自由にどこにでも気ままに行けるところにあります。 我々二人が旅行したころは、まだ大方の夏休みが始まる前だったので北海道も空いており、全く予約なしで行き当たりばったりで旅することになりました。 大沼公園で宿泊した後は、アイヌ文化で知られる白老に泊まり、何もない襟裳岬のユースホステルへ。確かに一日目は、霧で何も見えなかったです。襟裳では二i泊して、一日は近くにそびえるアポイ岳のハイキング登山に費やしました。宿の人からは熊に気をつけるようにアドバイスを受けたので、鈴をつけた杖を借りて、それを叩きながら登ったのを覚えています。山頂でK君と一緒に写った写真があったはずですが、今回は見つかりませんでした。 ところで、一緒に旅行したK君は、受験校で知られる武蔵出身で、物静かな哲学者風の真面目な学生でした。武蔵には小学校時代のクラス・メイトのY君もいましたから、彼のこともよく知っていました。共通の知人がいたわけですね。 我々2人ともラーメンとアイスクリームが大好きだったので、昼はほとんどいつもラーメンとアイスクリームを食べておりました。 夕食と朝食は宿泊先のユースホステルで取りました。すると安上がりで済み、二食付きの宿泊料金が2000円ほどだったと記憶しています。 安い代わりに、食器などは宿泊者が洗うことになっておりました。 襟裳で二泊した後は、釧路を経由して、知床と根室半島の間にある野付半島の標津町のユースホステルへ。野付半島は全長28キロもある日本最大規模の砂嘴(さし)ですね。 そこでも二泊して、翌日の野付半島4時間ツアーに参加しました。 その時の写真がこちらです。 写っているのは当時の私です。ひたすら4時間このような湿地帯を歩くわけですが、蚊の大群に襲われて大変でした。 ちゃんと目的地ではユースホステルの送迎バスが待っていてくれて、帰りはバスで戻りました。 (続く)
2023.05.21
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夏休みに青春を謳歌 チームスポーツである野球やラグビーの選手から転身して、個人スポーツの色彩が強いテニス部の部員になることは、ある意味とても面白い経験でした。チームスポーツと違って、テニスで負けるのはすべて自分のせいですからね。 テニスが本当に面白くなってきたのは、夏休みになってからでした。 夏の大会の個人戦があったからです。 よその大学と違ってICUのテニス部はかなり自由で、その大会に出るかどうかも、個人の判断にゆだねられました。 自分の田舎に帰省したい人は、そちらを優先しても構わないわけです。 ただし、夏休み中のコート整備の担当割り当てだけはちゃんとこなさなければなりません。 それ以外はほぼ自由ですが、確か8月の下旬に山中湖の平野で約1週間のテニス合宿があったように思います。合宿前練習を含めると2週間ほどテニス漬けになりました。 で、その夏休みがいつからいつまでだったかというと、6月下旬から9月上旬までの丸々2カ月とちょっと(プラス一週間くらい)です。こんなにたくさんある休みを有効利用しない手はありません。 ですから、ICUでの一年目の夏休みは盛沢山でした。6月下旬に最後の試験が終わるや否や、セクション・メイトたちと伊豆諸島の式根島に2泊3日ほど(うち船中泊1泊?)のキャンプに行っています。で、本土に帰ってきたら今度は、同じくセクション・メイトのK君と二人で北海道の旅に出ました。出発した日が6月30日。20日間の周遊パスの料金が高くなる直前に滑り込みセーフの割安チケットを購入しました。 上野発の夜行列車に乗って、青森に翌朝到着。青函船で函館に着くと、そこからJR(当時は国鉄)の周遊パスを使って大沼公園へ。ユースホステルを使ったK君との貧乏旅行が始まりました。 (続く)
2023.05.20
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大学に入って老後のために始めたテニスについても触れておきましょう。 私が入ったのは、同好会ではなく、体育会のテニス・クラブです。 初心者歓迎だったのが嬉しかったです。 私はそれまで遊びでテニスをやっていただけでしたから、実はラケットのもち方を習ったのもICUのテニス部に入ってからでした。 基本形は「人と握手をするようにラケットを握る」なのですが、ほかにもいろいろなラケットの握り方があることを習いました。 グリップ一つで、まったく違うテニスになります。 当時はジミー・コナーズの全盛期で、ボールが当たってからフラット(水平)に押し出すような打ち方が流行っていました。そこに現れたのが、トップスピンで激しくボールをこすり上げるボルグです。打球も同じスポーツとは思えない程、違ってきます。 私は最初、フラット系でボールを打っていましたが、それから自然にスピンをかけるようになり、今ではバックハンドもフォアハンドもどのような打ち方でもできます。ただしもう遊びの世界の話ですけどね。 ところで、ICUのテニス部ですが、いくら初心者歓迎といっても最初は、一年生は球拾いから始まります。レギュラー選手たちの練習が一通り終わった後、初心者用レッスンが始まります。そこで打ち方を習ったり、知識を学んだりするわけですね。 ICUのテニス部でよかったと思うことは、学業が最優先されることでした。練習は週3日だったと思いますが、その三日間も授業があればそちらが優先され、授業が終わってから練習に加わればいいわけです。つまり遅刻ができるということになります。 そのほか、ローラー引きや水巻きなどのコート整備(クレイコートだったので、雨の翌日には砂を巻いてローラーを引くことになっていました。夏は水巻きが必要になります)を皆で分担してやることになっていましたが、上級生と下級生、レギュラー選手と控え選手の分け隔てなく、公平に割り当てられていました。運動部というと、上級生が威張り散らしているパターンがよく見受けられますが、ICUのテニス部にはそのようなことは全くなく、先輩も後輩も基本的にやるべき義務は平等に分配されました。 日曜日には練習試合が組まれることもありました。 他大学のテニス部とダブルス3試合、シングルス6試合の9試合で勝敗を競います。つまり5勝したほうが勝ちというわけですね。 一年生は当然、ボールボーイや審判員などとして、試合の手伝いをします。 私は何でも見て覚える質なので、他校の選手のプレイぶりを見ることが非常に役に立ちました。ボールをどのように当てて、どのように回転をさせるのか、つぶさに観察しておりました。 ですから、一年生の春学期はテニスの観察の時間だったわけです。 (続く)
2023.05.19
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FEPの科目の中では、作文の評価が一番高く、Aを二回取っています。一度遊び心で洒落た英語の文章を書いたところ、アメリカ人講師から「とても詩的で面白い」という評価を得て、意外と英語でも詩が書けるかもと少しだけ自信を持ったことを覚えています。 といっても、私はそちらの方面には進みませんでしたけどね。 一年目はFEPの宿題に追われ、ほかは基礎科目しか履修できませんでしたが、二年目からは好きな専門科目を取れることができます。 そのときまでに私は、英文学を学びながらフランス文学を専攻しようと決めていました。 高校時代にパリを訪れたときに、何となく19世紀のフランスに親近感を覚えたことがきっかけだったと思います。 その後約30年経って、自分の前世の中で19世紀のパリにいた記憶が蘇ったことによって、フランス文学を専攻するようになった理由がより明らかになってきます。 当時、私は多分イギリス人でしたが、1889年か1900年のパリ万博に行っている気がします。どうやらフランスとは深い因縁があるようです。同時にその万博で、日本文化に触れる機会があり、今生では日本に生まれてきた――そのような輪廻転生の物語がおぼろげながら浮かび上がってきました。 まあ、その物語が本当かどうかは、神のみぞ知るというところでしょうか。 この物語についても、追々語っていこうと思っています。 さて、フランス文学を専攻するとなると、いろいろと必修教科や必修科目が出てきます。 まず履修しなければならない教科は、当然フランス語ですね。それにラテン語も必修科目でした。 英語が終わったと思ったら、今度はフランス語(6単位)とラテン語(3単位)が私を待ち構えていたわけです。 語学のほかには、二年生の春学期には言語学(3単位)と政治科学(3単位)の基礎教科系選択科目を履修しました。成績は言語学がCで、政治科学とフランス語がB、そしてラテン語はAでした。 必修科目の体育も1単位履修しており、成績はBでした。 A(100-90)が4ポイント、B(89-80)が3ポイント、C(79-70)が2ポイント、D(69-60)が1ポイントとして、科目ごとの単位を掛け算してグレードポイントを出しますから、私はこの春学期では16単位で3・00のグレードポイント・アヴェレージだったことになります。通常の履修単位が一学期で12単位であることを考慮すると、4単位多いわけですから、まあまあの成績でした。ラテン語で挽回しましたが、言語学のCが痛かったですね。 (続く)
2023.05.18
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四月入学の一年生が受ける英語演習プログラム「FEP」で新鮮かつ印象的だったのは、英語で行う議論(ディスカッション)の授業です。 小グループに分かれ、毎週、自分たちでテーマを決めて、英語によるグループディスカッションを実施します。 グループのリーダーは持ち回りで、学期中に必ず一回はリーダーを務めなければなりません。 私は「民主主義とは何か」という硬いテーマを選んでしまったので、うまく行きませんでした。 意外と盛り上がったテーマは、他の学生が考えついた「神について」です。 みんな、神とは何かを真剣に考えて、それぞれの意見を言い合いました。 私が、神は外に求めるモノではなく、自分の中に求めるモノだ、神は自分自身の中に存在するとの見解を述べたら、そのディスカッションを監督する立場にあるアメリカ人の講師はびっくりしていました。 同時に私もびっくりするわけです。私にとっては神を外に感じたことはなく、常に自分の中に感じていたからです。ある種、東洋と西洋の激突がここにあります。 この経験を通じて、多くの西洋人や既成宗教の信奉者にとっては、神は自分の外に存在しており、彼らはその存在を理解するために教会・寺院や聖書・聖典などの権威に頼らなければならないと思い込んでいるのではないかとの思いを強くしました。 この考えが、後にケント大学留学中に親しくなったクウェート人留学生でイスラム教徒のワエルとの神論争に発展するわけですね。 ところで、このFEPを教える講師陣がどのような人たちかというと、一番身近な立場で教えてくれたのが、主にアメリカの大学を卒業したばかりの英語を母国語とする人たちです。 たとえば、当時、マイケル・クスマノという講師がいましたが、彼は前年の1976年にプリンストン大学を卒業したばかりの若者でした。 アメリカ人にしてはちょっと物静かで、独特の雰囲気を持つ人でしたが、結構学生には人気がありました。1976年から78年までFEPの講師をしておりました。 後で知りましたが、クスマノ氏はその後、フルブライト奨学金を得て東京大学で経済学を学び、1984年にはハーバード大学でビジネス史と日本学の研究で博士号を取得。その後、経営学を専攻してビジネス戦略と情報技術の大家となり、マサチューセッツ工科大学スローン経営大学院教授や東京理科大学特任副学長を歴任したようです。 日本関係の論文が多く、主著に『日本の自動車産業』(’85年)、『日本のソフトウェア戦略―アメリカ式経営への挑戦』(’91年)、『食うか食われるか ネットスケープVS.マイクロソフト』(‘98年)、『君臨する企業の「6つの法則」』(2012年)などがあると紹介されています。 クスマノ氏以外にも面白い人材が講師をしておりました。ただし、そのほかの講師たちがその後どのような人生を歩んだかは不明です。(続く)
2023.05.17
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勉学とスポーツ――。私のICUでの学生生活は、文部両道が基本としてあって、その背景に、あるいは原動力としてオカルトがあるという図式ですね。もちろんオカルトは「秘して語らず」というわけです。 ICUに入って、一年間は当時「フレッシュマン・イングリッシュ・プログラム(FEP)」と呼ばれた英語訓練コースを取らなければなりませんでした。 もっとも、元々TOEFLや海外での学業成績など英語だけの試験で9月に入学してきた「セプテンバー」と呼ばれる「9月入学生」はこのコースを取る必要はありません。 帰国子女でも4月に入学した「4月入学生」の人たちは、よほどのことがない限り、このプログラムに参加しますが、だれでも「英語演習」でAを取れば次の学期からは免除され、好きな科目を取ることができるようになります。 免除されないと、FEP以外に必修基礎科目を一つと、同じく必修科目である体育をとるのが精一杯となり、思うように好きな科目を取れません。 ちなみに成績はA、B、C、Dまでが合格で、それ以下はF(Failure)が付き、単位はもらえません。日本の大学でいえば、秀、優、良、可、不可ということになります。 私も頑張って「A」を取り、免除されようと努力しましたが、結局、最後の三学期目で「A」を取ったため、一年間このプログラムを全部履行させられました。 ICUは春学期、秋学期、冬学期の各11週3学期制で、まるで高校生活の延長のようでした。つまり、すぐに試験がやってくるということです。 特にFEPは毎週一冊英語の本を読まされて、その内容を理解しているかが、毎週試験されます。 科目としては「英語ドリル(演習)」「英語コンテンツ(内容理解)」「英語ライティング(作文)」の三つがあり、私の成績は、春学期と秋学期は演習と内容理解でB、作文でA、冬学期は免除されそこなった演習がAで、他の二つはBでした。フレッシュマン(一年生)のときは、基礎科目として「数学」「環境意味論」「キリスト教入門」を履修、最初の二つはBでしたが、必修科目の「キリスト教入門」はCを取ってしまいました。一年目唯一のCです。ほかに体育理論と基礎健康の科目がAでした。 (続く)
2023.05.15
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ICUの学生生活について語る前に、私のオカルト人生がどのような変遷をたどっていたかも考察してみましょう。 小学校のときに、漫画の吹き出しのように人間の頭の上にその人の考えていることが映像化することを体験したり、現在と未来が共鳴する現象を体験したり、霊的な写真を撮影したりしていたことは既に述べた通りです。しかし、そのようなオカルト現象について普通の人はまず理解してくれないので、ずっと秘して語らないようにしていました。 ですから、中学・高校時代はオカルト的なことにはいっさい頭を突っ込まない「堅物のがり勉君」を通しました。目に見える世界だけに重点を置いた方が、確かに生きやすいですからね。 で、ICUでも基本的に「勉強・運動好きのテニス青年」を貫きました。 それでも未来と現在が共鳴するような現象は年に何回かは経験していたし、オカルト的な話にもちょっとだけ耳を傾けたりしていました。また、直感力だけは人生を通じて使いまくっていましたから、決断はいつも早かったです。自分の直感には、いつも従っていました。だから人生の決断で悩んだことはあまり記憶にありません。 その一方、オカルト的な現象は否定しないものの、易経などの占いの類には非常に懐疑的で、歯牙にもかけない状態でした。 つまり、基本的には霊視や啓示などのある種オカルト的な能力に関しては、小学生以来封印したままだったわけです。 その封印を解いたのは、21世紀になってから。2006年12月のことでした。そうした不思議な話も追々語ってゆくことにいたします。 (続く)
2023.05.14
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国際色が豊かなので、ICUに行くと、面白い人脈が築けます。当時でも、ロックフェラー家の人間と仲良くなった人がいたかもしれません。ラジオのパーソナリティーとして名をなしたジョン・カビラも同じころ、ICUに在籍していましたし、私のセクション・メートには、ざっと調べても、のちにNHK報道局のヨーロッパ総局長になるN君や、先に紹介した日銀理事のお嬢様でのちに京大で文化人類学の教授となるHさんらがおりました。後に三菱商事の社長・会長になるM氏のお嬢様も、ほぼ同学年のテニス部の仲間で、その後、インターナショナルなジャーナリストになったときいております。私が知らないだけで、他にも名をなした方がそばに大勢いたはずです。 ICUを卒業してからも、取材先でよくICU卒業生の先輩や後輩に出会いました。同じくNHK報道局のヨーロッパ総局長を務めた平野次郎氏にも会ったことがありますが、ICUの大先輩です。社員数2000人の共同通信社でも、ICU卒業生は多かったです。 ICU卒業生で日本人初の宇宙飛行士・秋山豊寛さんとは、国際縄文学協会の理事長で弁護士の西垣内堅佑氏が銀座で開催したパーティーで出会いました。非常に気さくな方でした。私がICUの後輩で、しかも新聞記者で同業だと伝えると、業界話でいろいろと盛り上がりました。 1990年代前半にコメの市場開放問題の取材でアメリカに行ったとき、ワシントンDCで米下院議員数名に取材しましたが、そのとき全米コメ協会が連れてきた通訳の方がICUの先輩でした。私が90年代後半に米国の大学院に留学しているときに、ジョンズ・ホプキンス大学の病理学研究所で研究をしているICUテニス部の二学年下の後輩がいたのにはびっくりしました。当時私は、SAIS(高等国際問題研究大学院)に在籍していたのですが、そこにも外務省から派遣されたICU卒の語学研修生がおりました。 一学年で500人ほど(現在は約700人)しかいない規模の小さな大学で、卒業後にこれだけ多くの世界で活躍している先輩や後輩に出会えるのも、ICUが育むユニークな人材から来ているのではないでしょうか。(続く)
2023.05.13
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国際基督教大学(略称ICU)についても簡単に語っておきましょう。 まず戦後間もない1949年、御殿場にあるYMCA東山荘において日米のキリスト教指導者が会議を開き、「世界と日本を結ぶ架け橋としての使命を自覚し、国際理解と文化交流の進展に貢献することをめざす大学」の創設が決定されました。設立準備委員会の名誉総裁は高松宮宜仁親王で、当時の日銀総裁一万田尚登らが募金運動に奔走します。キリスト教の信者かどうかにかかわらず、企業や団体、個人の多くの国際的な善意によって寄せられた寄付金1億6000万円を使って東京郊外の武蔵野の広大な土地が購入されました。その地に初代学長として湯浅八郎(前同志社総長)を迎え、1953年に開学したのがICUです。第一期生は198人だったそうです。 本当に広大なキャンパスで、かつては隣のゴルフ場もキャンパスの一部でした。今は野川公園になっています。正門からは約600メートルの「滑走路」(実際にかつては中島飛行機三鷹研究所の滑走路として使われていたと聞いています)と呼ばれる桜並木道を歩かなければなりません。授業に遅れる可能性が高まりますが、いい運動になります。運動部対抗駅伝レースのコース(キャンパス一周約五キロ)の一部でもあります。 ICUの面白いところは、教養学部という一学部しかないことです。その中で、ある程度自由に自分の好きなように学科をクロスさせて専攻することができるようになっています。 私は単純に英文学とフランス文学をくっつけて勉強しましたが、いろいろな組み合わせが可能となるはずです。 大学に集まってきた学生たちも、ユニークな人や変わった人たちが多かったです。 加えて、後に三菱商事の社長・会長になったM氏の娘さんや、当時日銀理事で後に日銀総裁になるH氏の娘がいたり、ロックフェラー家の人がいたり、盛りだくさんの人材がいました。 商社の子女など、海外生活が長い帰国子女が集まる大学でもあったわけです。 そうした多種多様な学生を分ける言葉として、ノンジャパと呼ばれる英語圏などからの海外留学生と半ジャパと呼ばれる帰国子女の日本人、純ジャパと呼ばれる海外経験のない日本人の3種類がありました。半ジャパの中には、長年外国語圏で暮らしてきたため日本語がたどたどしくなった「変ジャパ」という呼称もありました。確かに日本人なのに外国人のアクセントで日本語を話す人はおりました。そういう人にとっては、英語が母国語のようなものですね。 (続く)
2023.05.12
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あちらこちらで薔薇フェスタ(お祭り)が始まりました。昔、オフ会で「薔薇を愛でる会」を開催しておりました。バラフェスタの開催中は非常に混んでいて、平日でも駐車場を見つけるのが難しいときもあります。まあ、人気があるということはいいことですね。ちょうど薔薇フェスタが始まった5月9日に撮影しました。
2023.05.11
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東京外国語大学の入試には一次試験と二次試験があり、一次試験に受からないと、3月下旬に行われる二次試験を受けられませんでした。 一次試験は英語だけで、それは難なくクリア。 問題は二次試験です。国立大学ですから確か5~6教科の試験はあったように記憶しています。 結論から言うと、結局二次試験であえなく不合格となりました。 2勝3敗――。奇しくも高校時代の公式戦の投手成績と同じ成績でした。 負け越し人生だった青春時代? まあ、負けて越してもいいじゃないですか。 いいときがあれば、悪いときもあるのが人生です。 どんなに失敗したにせよ、少なくとも第一志望のICUに受かったわけですから、大成功です。 担任の先生は、私に国立を狙ってほしかったと思っていたようですが、私の心は既にICUにありました。 それはやはり大正解でした。 その後の留学時代を含め、あんなに自由に伸び伸び勉強できた時代は後にも先にもありませんでした。水が合ったんですね。とくに自然科学、人文科学、社会科学の教科を比較的幅広く選べる教養学部という場が私には合っていました。 ICUでは早速テニス部に入部しました。嬉しかったのは、高校時代と違って皆勉学優先で、だれも勉強をおろそかにする人はいなかったことです。 他の大学の体育会系運動部に入ると、そうはいかないと思います。 そもそも経験者でないと、その運動部に入れてくれないところが多いです。 ICUの運動部では、そういうことはありませんでした。 初心者大歓迎です。それがICU運動部のいいところですね。 テニス部に入るときに、「高校時代にラグビーと野球をやっていのに、なぜテニスをやるのか」と先輩に聞かれました。 私は「ラグビーと野球はせいぜいできても30代までです。テニスは年を取ってもできるので、老後の健康のために選びました」と正直に答えたら、結構受けていました。 今でもその考えに間違いはなかったと思っています。 テニスは生涯楽しめるスポーツの一つです。(続く)
2023.05.10
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京都でたぶん惨敗して帰ってきた私に、何と朗報が待っていました。 京大を受験している間に、先に受けた慶応大学文学部の入試に合格していることが分かったからです。 発表の日に私は京都にいたので合格発表は兄が見に行ってくれました。 実は、その前に受けた上智大学の受験では日本史がわからず、落ちています。 慶大では世界史で受かったわけですね。 日本史の敵を世界史で討ったようなものでしょうか(笑)。 もし上智大学に受かって入っていたら、同大学の教授職で教鞭をとっている母方の叔父が手ぐすねを引いて待ち構えていましたから、そのような事態は何とか回避できたわけです。 叔父は上智大学で国際関係論を教えていましたから、実際に叔父のクラスを受講したかどうかは別問題ですけどね。 話は脱線しますが、随分後になって、私のテニス人生で、亜細亜大学の学長を1990年代当時に勤めていた衞藤瀋吉(えとう・しんきち)氏と親しくテニスをしていた時期があります。私の父と一年違いの年齢でしたが、よく一緒にダブルスを組んだテニス友達でもありました。 衛藤先生も国際関係論を東大などで教えており、東大では叔父の7年ほど先輩に当たります。 衛藤先生は私の叔父のことを知っていて「よく勉強している」と褒めていました。 なんでも勉強をしない教授もたくさんいるのだとか。 それはさておき、慶応とICUが受かった一方、上智と京大が落ちて、受験成績は2勝2敗の五分となりました。 もちろん第一志望のICUに入ることはほぼ決定していましたから、入学申し込み手続きは進めます。慶応大学は入るつもりはなかったので、手続きはしませんでした。 で、もちろんここで受験をやめてもよかったのですが、私はせっかくだから国立二期校の東京外語大学の入試も受けることにしました。京大と同様、せっかくの機会だから、受験生としての人生を謳歌?したかったわけです。ただし、既に払い込んだ受験料がもったいなかったからだとの説もあります。 何はともあれ、まさに高校生活最後の腕試しです。 (続く)
2023.05.09
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雪の京都は美しかったです。 ただし、試験の結果は、惨憺たるものでした。たとえば数学。 久しぶりの数学でしたが、最初の二問は難なく解けました。 「この調子なら受かるかも」などと思っていたら、三問目から滅茶苦茶難しくなります。確か全部で五問あったと思いますが、時間配分を間違えたこともあり、後半の三問は全滅に近かったです。 英語はいつものように良い点を取ったと思います。 国語は可もなく不可もなく、歴史は日本史も、世界史も多分だめで、理系科目として選んだ地学もさえませんでした。 二日間にわたって受けた京大の入試受験は、結果を見るまでもなく、惨敗でした。 しかし、せっかく京都に来て雪も止んで晴れたので、二日目の試験が終わった後、今度は嵐電嵐山本線に乗って嵐山に出かけました。 鞍馬山ほどではありませんが、まずまずの自然が残っている、素敵な所でした。 で、ここで持っていたお小遣いの配分を間違えるというミスをします。 嵐山に行って十分に戻ってこられるお小遣いを持っていたはずなのですが、夕刻の帰り際の嵐山駅で家族にお土産を買っていなかったことに気づき八つ橋を買ってしまったのが運の尽き。 この八つ橋を買ったせいで、鉄道の帰りの運賃を払うお金が無くなってしまいました。 有り金を全部はたいても、朱雀大路くらいまでしか戻れません。 「しまった。試験同様、配分を間違えた」と思っても、後の祭りです。 前にもブログに書いたと思いますが、京都(平安京跡)の中央辺りから東の外れの山科区にある宿泊施設まで、お化けの出そうな暗いトンネルをものともせずにひたすら歩いて、一時間以上(2時間くらい?)かけて無事生還しました。 もう辺りは真っ暗で、深夜徘徊に近い状態でした。 まあ、これも青春の思い出の一つ。おかげですっかり京都の町の大きさや地形を身に染みて理解することが出来ました。 その結果が、2015年に上梓した『竹内文書と平安京の謎』(成甲書房刊)であったことは説明するまでもありませんね(笑)。 (続く)
2023.05.08
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ICUの入試が受かっていた時点で、早稲田大学の受験は取り止めて、国立大学の入試に備えることにしました。当時、国立大学一期校の入学試験は三月初旬、二期校は三月中、下旬です。 これまで私大受験でおろそかになっていた数学や理学に力を入れました。 第一志望がICUでしたから、国立大学の受験も取りやめる手もあったのですが、せっかく人生に一度しかないような貴重な体験ができる時間でしたから、腕試しの意味もあり、そのまま受験勉強を続けました。 目指すはまず京都大学。 作戦を練りながら、足りない部分を補う勉強を続けます。 京都に到着したのは、試験前日の3月2日か3日ごろだったと思います。修学旅行以来の京都。 なかなかいい所でした。「哲学の道」を散策しながら会場の下見をします。 試験日に道に迷って遅刻するわけにはいきません。 ルートや会場を確認した後、夕食までまだ時間があったので、ふいに京都を見学しようと思い立ちます。どうせ今から勉強しても、学力が急につくわけでもありませんからね。 で、選んだのが、鞍馬山でした。 別に神仏に合格祈願をいったわけではありません。 ただ何となく、行きたくなったんですね。 背景には、牛若丸と弁慶の話や鞍馬天狗の話が子供のころから好きだったということもあります。叡山電鉄に乗って、京都市左京区にある標高584メートルの山に向かいました。 で、私は鞍馬山で決定的な人生の出会いをしたのだと思いますが、当時の私はまったくそのことに気づきませんでした。あとから思うと、京都大学受験はこのためだったと思えることもあります。 それはそれとして、翌日の京都大学の受験は朝から激しく雪が降る大荒れの天気となりました。 (続く)
2023.05.07
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ICUの入学試験は面白かったですが、面白かったから受かるというものでもありません。試験の結果がわからないまま、私は次の志望校である上智大学外国語学部の入試に備えました。たぶん2月中旬(15日ごろ)だったと思います。 試験科目は英語、国語、日本史ですが、日本史が難しすぎてわからず、かなり苦戦したことを覚えています。 次に受けた入試は、2月下旬(20日ごろ)の慶応文学部。ここは国語がなくて、受験科目の選び方を見ても、私がどうしようもない受験音痴だったことがわかりますね。 普通、私立大学の受験で社会科の科目を日本史と決めたら日本史で通すはずです。 ところが私は、上智では日本史で受けて、慶応では世界史で受けるというハチャメチャぶりでした。どちらかの歴史に特化せずに、どちらも不可もなく可もなくという感じで受験勉強をしてしまったということです。まあ、一応国立大学を目指していましたからね。日本史も世界史も均等に勉強したので、私立大学の入試ではどちらでもいいと思ったわけです。 この慶応大学文学部の入試を受けた前後に、ICUの入学試験合格者が発表されました。合格者発表の掲示板を自分で見に行きましたが、結構緊張しましたよ。 「受かっていなかったらどうしよう」と気が気ではありませんでした。 掲示板の番号を目で追いながら、緊張が高まって行きます。そして、その緊張が最高潮に達したときに、自分の受験番号を見つけたんですね。 そのときは本当に嬉しかったです。 最初に感じたのは、「これで浪人しなくて済みそうだ」というホッとした気持ちです。 「留学をするためにも受験浪人はできない」と決心していましたからね。仮にこれから受ける国立大学に受からなくても留年するつもりはありませでした。 すぐに高校の担任のY先生に電話してその旨を伝えます。 (続く)
2023.05.06
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1977年の年が明けたころになると、模試の結果などで大体自分の実力がわかってきます。 国立大学の文系は当時、国語、数学、外国語(英語)、社会科系教科二科目、理科系教科1科目の計6教科の試験を受けなければなりませんでした。 準備不足は否めませんでしたが、国立は京都大学文学部と東京外国語大学を、私立はICU(国際基督教大学)、上智大学外国語学部、慶応大学文学部、早稲田大学第一文学部を受けることに決めました。 最初の受験は、二月上旬(9日ごろ)のICUでした。受験会場の下見を兼ねて事前に見学したICUのキャンパスは、私好みで素晴らしかったです。 とにかく武蔵野の自然がそのまま残っていて、奥行きがあって、見渡す限り木々に囲まれている感じがしました。 一目見ただけですっかり気に入ってしまい、志望校の順位第一位に躍り出ます。 ICUの入学試験も面白かったです。入試の願書にも、「好きな映画は何か」などを書かなければならなかったので楽しかったです。 当時は、ICUの過去入試問題集などは発刊されておらず、大学からもらった公式入試概要以外に、どのような試験が出るかはまったく知らされておりませんでした。つまり特に受験勉強をしなくてもいいということですね。 その入試概要によると、能力試験のようなテストがまずあり、英語の試験もあります。その後、人文科学、社会科学、自然科学の各論文を読まされて、論文が回収(?)された後、五者択一の質問に答えるという、ユニークな試験でした。 特に面白かったのは、自然科学の試験です。空間座標における放物線の方程式の求め方が書かれた論文だったのですが、当然、高校では習いません。 でも私は数学が大好きですから、「どうやって方程式を求めるのだろう」と、読みながら面白くてしょうがないわけです。 夢中で読んで理解しようとしました。確かメモはしても良かったので、私が勝手に導いた「放物線の頂点の座標」などをメモ書きします。 無我夢中で質問に答えて、それで終わり。 あっという間の楽しい試験でした。 (続く)
2023.05.05
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三年生になってからは完全に受験体制に入りましたが、何かチグハグな受験生生活だったような気がします。 そもそも試験科目を絞りきれていませんでした。 当時、国立大学を目指していたのですが、文系で受けるとして、社会科の二教科をどうするかで迷いました。 私の決断は、日本史と世界史。どちらの歴史も将来、一般教養として役に立ちそうだと思ったからです(実際、世界や日本の歴史の本を書くようになったわけですから、結果的にそうなりました)。でも後から聞いたら、両方とも歴史というのは、よほどの歴史好きでないと取らないそうです。世界史か日本史だったら、もう一つは政治経済や倫理社会を取るのが普通だとか。 私は両方とも歴史を選んだので、それだけ莫大な量の暗記をしなければならなくなりました。最も苦手とする分野です。 理系の科目は、地学を取りました。これも結構、暗記ものの科目です。 強みは、それほど暗記を必要としない国語と英語と数学ですが、模試の国語と数学では鳴かず飛ばすでした。 歴史の教科はとにかく教科書を丁寧に読み込みました。要点を書いたノートを作成し、問題に出そうな箇所を箇条書きにして覚えるようにしました。 誤算は、夏休み中に夏風邪をひいて二週間ほど寝込んだことでしょうか。 これで私の予定は大幅に遅れることになりました。 親からは大学在学中に留学をしたければ、現役で大学受験に受かることという暗黙の了解がありましたから、ちょっと焦り始めます。 大学受験で浪人したくない理由はほかにもありました。私たちの代は、ちょうど共通一次試験が始まる一年前で、浪人すると共通一次を受けなければならなくなる世代だったからです。 共通一次を避けたければ、現役で合格するしかありません。 多分秋ごろだと思うのですが、その予行演習として、国が共通一次試験の模試を実施しました。各校2人ずつ選ばれて参加するという模試に、私も学校代表として出席しました。 英語はすこぶる簡単で、ほぼ満点近い得点だったと記憶しています。 あとは平均よりも少しいいくらいだったでしょうか。 年が明けて、1977年。いよいよ大学受験シーズンがやってきました。 (続く)
2023.05.04
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部活を辞めて暇になったせいかもしれませんが、高校二年の秋から卒業するまでの記憶が結構稀薄になっています。 一体何をやっていたんでしょうね。もちろん受験勉強みたいなことはやっていたのだと思います。 と言っても独学、自学自習みたいな勉強でしたから、効率は悪かったです。 Z会などの添削問題をやったこともありましたが、最初だけ国語で全国2位になった後は、最高でも10位となって伸び悩み、時間がかかることもあり止めてしまいました。 今から考えると、私の受験勉強は無駄なことだらけで、テストの得点に結びつくようなことはあまりやっていませんでした。特にはかどらなかったのは、社会科の教科です。 日本史や世界史などの模試をやってもいつも落第点。 暗記物はつくづく苦手だと痛感させられます。 一夜漬けは得意なのですが、覚えているのはテストの日だけですからね。 たとえ学校の社会科で4や5を取っていたとしても、一夜漬けでとる4と5と、本当にその科目が好きでとる4と5とでは、全く理解の度合いが違うんですね。 私は当然、社会科に関しては前者でしたから、本当の実力は身についていなかったわけです。 その代わり英語の模試は、いつも楽勝でした。偏差値は常に70を軽く超え、英語だけに限れば合格の確率はかなり高かったです。数学や国語は可もなく不可もなく。 受験勉強以外で覚えているのは、二年生の最後の1976年3月の卒業式で、在校生総代として卒業生を送る「送辞」をやらされたことです。当時の三年生の卒業生総代が女子生徒だったので、在校生総代は男性がやらされることになり、私が総代となったわけです。 かなり緊張したことを覚えています。 でも、少なくとも舞台でこけることはありませんでした。近視と乱視だったので、眼鏡をかければよかったのですが、格好をつけて眼鏡なしで送辞をやってしまったので、途中自分の書いている文字がよく見えなくて焦り、適当に読み上げたような記憶があります。 知っている先輩からは辛口の採点をもらいました。 まあ、それも青春のほろ苦い思い出ということで、いい財産になっています。 (続く)
2023.05.03
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吊るし雲や龍雲、虹が出た4月26日の翌27日のことです。良く晴れたので、富士山の近辺に写真を撮影に行きました。標高が高いので、富士山麓ではちょうど八重桜が満開でした。そのとき撮影した写真がこちら。満開の八重桜の向こうに富士山がくっきり写っています。何枚か写真を撮ったのですが、そのうちの一枚に変なものが写っていることに後で気が付きました。中央下に変な物体が写っていますよね。拡大してみましょう。ピントが外れた物体が写り込んでいます。これが何なのかは、正直私にはわかりません。昆虫がたまたま写り込んだだけなのか、上から落ちてきた季節外れのドングリか。一つ気になるのは、この物体の右上に写り込んでいるオーブのような光の玉です。何となく目が二つ付いているように見えますから、10年ほど前に瀬戸龍介さんのお宅で目撃・撮影した透明クリスタルUFOと非常によく似ています。可能性としては、「ビー玉」と称される小型偵察UFOかもしれませんね。今度会ったときに秋山氏にも鑑定してもらおうと思っています。
2023.05.02
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先日(4月26日)、久しぶりに虹を見ました。最初は空が賑やかだったので、外に撮影に行きました。先ほどまで降っていた雨が止み、間もなく太陽が雲から顔を出しそうです。その中で異彩を放っていたのがこちらのUFO雲(吊るし雲)。巨大な円盤のように見えますね。海上を見ると・・・一部ではまだ雨が降っておりました。そして海上の雨がこちらにやってきたときに現れたのが、こちらの虹。予想通りに現れました。その虹が出た後には、龍雲が現れていました。4月26日は何か特別な日だったのだと思います。まだ何の日だったのかは不明です。
2023.05.01
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