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2024/04/26/金曜日/西へ東へ南へ花粉多少〈DATA〉出版社 芸術新聞社著者 平山周吉2015年4月20日 初版第1刷発行〈私的読書メーター〉〈本タイトルは意外にも物議を醸す現代アーティスト会田誠の展覧会から。彼の作品に藤田のアッツ島玉砕を読み重ね、過日著者が向き合ったその絵の背景を縦横に追う。編集者由来の執念を覚える。閑話休題、会田誠は社会学教授実父を疎い、父三島由紀夫、祖父小林秀雄を仮想しているとか、笑う所か呆ける所か揺れる。藤田の揺れ方もそのサービス精神においては三島同等か。しかしアッツ島を観た刹那、私はこれを反戦画であると直感したしゲルニカにはこんな動揺を持たなかったことを思い出す。岡本太郎には自身の同心円拡大芸術の一つのカタチを見る。〉我が市の図書館にはこの本の所蔵がない。ふん、何が平和都市宣言か。選書会議をまともに持てるほどの人材もおらぬかと毒づきたくもなる。したがって随分待った上に2週間ポッキリで返却せねばならぬ。中5日は旅行で不在。同じ著者による小津安二郎の本だと全然間に合わなかっただろうが、これは比較的早読みが可能だった。また、私の関心の寄せる分野でもあった。藤田嗣治は、現地に行かず、というより現実的には行けずに取材や写真を通してアッツ島玉砕を描いたのである。しかしその絵が現実と同じ力を持って戦争の悲惨な痛哭を観るものに訴え来るのだ。この絵は絵以上なものである、と直感した著者がその絵の根源を探っていく、そんな本である。本書にはアッツ島で玉砕した一兵卒と部隊長の実例が詳細に取り上げられている。花巻出身で帝大を繰り上げ卒業した太宰治の弟子にして詩人、三田循司の父が10年後、アッツ島に骨をかひろいに行く章の、父の哀切。部隊長山崎保代の境涯も涙無くして読むことはできない。このご家族のもつ、日本人とは何かを語りうる佇まいは、もはや令和の世で見つけることは無いだろう。 私たちが平和で民主的であろうとして失ったものも確かに存在するのだ、という事実は相当苦しい。 藤田の父は森鴎外の後任として陸軍医総監になった人物で、息子から画家になりたいと聞くと森鴎外に相談した。そんな環境で育った彼は親類縁者から戦局の機密も漏れ聞いたことが想像されるのだ。まして欧米に芸術家として受け入れられ、世界的視野をもつ藤田は、あれだけの戦争ゆえに転倒したとはいえ、その芯の芯は近代を凌駕しているように思われる。花々。北限の、短い夏を命を燃やし咲くアッツ島の花藤田が観想でとらえ、杉山吉良が歳月を超えフィルムに捉えた花の姿そこに托されたのが著者の、藤田アッツ島玉砕という戦争画への祈りでもあるのではないか。ところで、ここでも小林秀雄である。平山周吉氏は、大叔父小林秀雄と仮定かな?かなりな敬愛ぶりだ。同時に読んでいる橋本治と同じ引用を見つけたが、私もこの小林秀雄の啖呵にはしびれる。「僕は無智だから反省しない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか天皇制の問題も単なる政治問題ではないでしょう。それは単なる政治的判断ではないからだ。日本国民という有機体の個性です。生きている個性です。不合理だからやめるというわけには参らぬ。個人でも強い人間は飽くまでも天賦を生かして行くでしょう。短所欠点さえ美点に変じて生かすでしょう。偉い人は皆そういうことをやっている。日本国民がもし強いなら、天皇制を生かすでしょう。」平山周吉は『小津安二郎』から2冊目この人の日本人へのアプローチが好きだ。しかし、この人には蒋介石を書いてもらいたい。蒋介石を通して日本人を見る。なんて。
2024.04.26
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2024/03/26/火曜日/止まぬ雨の日近頃稀に見る良い読書時間をもった。〈DATA〉出版社 作品社著者 ジョン・ウィリアムズ訳者 東江一紀編集協力 布施由紀子2014年9月30日 初版第1刷発行2015年10月30日初版第9刷発行〈私的読書メーター〉〈よい小説は遥か遠い所へと読む者の心を運び、これが体験でなく読書であったことに戸惑いをもたらす。そんな作品だ。最終章、静かに涙をこぼす。涙の源泉が何であるかも掴みきれない。ストーナーは幸せだったのか不幸せだったのか。そんな線引きは意味を成さず、ただ控えめでよき人の偽りのない人生があったのだと感得する。学問への感激、「死にゆく肉体に生が振り付ける舞踏のような」老いの横溢も全て受容する。ストーナーの両親が一人子の彼の全てを受け入れたように。その愛はストーナーが肉体を去る間際に更に大きな光に変容し彼を包容する。〉ウィリアム・ストーナーは、「大草原の小さな家」のように、夫婦だけで原野を開墾する農家の一人息子として生まれた。彼をめぐるごくわずかな人びとが、どの人も細大漏らさず描写されている。無学だが心から息子を愛する両親風変わりだがこれまた心から英文学を愛する指導教授スローン。彼が暗唱するシェイクスピアのソネット!これがこの物語終章に共鳴しているのだ。二人の学友の内、一人は志願した第一次世界大戦で命を落とす。若くして逝った友はストーナーにとって決して不在ではない。一目惚れの美しいイーディスとの結婚狂想曲。彼女の極端さは振り切れ方が戯画的だ。プロテスタント的な純潔鬱屈の犠牲者のヒステリーと、静かで繊細だった、引き裂かれるまでは彼の支えでもあった娘。家庭の中に居場所のないストーナー。同僚、厄介な学生、大学内の政治的駆け引きキャサリンとの出会いは淡々としたものだ。大学院指導ゼミ受講者だった彼女が目を通してもらえないかと差し出した学位論文。その出来栄えに蘇生するかのようなストーナー。英文学の理解、感受性、方向性を一にするような二人の官能の日々、完璧な恋愛はストーナーに初めてもたらされた精神と肉体の一致でもあった。これこそが彼にとっての聖なる結婚という化学反応だ。二人の逢瀬はやがて引き裂かれることを理解した上での最後のクリスマス、雪の山小屋。短かくも文学的な実りの多かった二人の結晶ともいうべき学位論文は何年か後、出版される。キャサリンの献辞、W・Sに を扉に符してこのイニシャルはかの英語圏の文学王、ウィリアム・シェイクスピアと同じではないか。そして時代背景。第一次世界大戦、禁酒法、世界大恐慌、第二次世界大戦。穏やかな時などないのだ。従軍を匂わせるストーナーに、激昂するスローンの、戦争の後の人間の荒廃に関する話は、心に留めおきたい。この教授は、武力によるものではない戦争についても言及する。それはストーナーの研究者としての未来を暗示してもいる。〈感想をありがとうございます。この小説は小津好み、というか当時米国で振るわずフランスでヒットした、という背景もうなづけました。ストーナーの、見を控えて観をよくする態度や極限の悲哀に雪の風景に同化するところ、禅観すら覚えました。真に結ばれたキャサリンとの間に文学の子どもを残しましたが、その献辞のイニシャルがシェイクスピアに一致している点、冒頭のソネットがこだまします。ものの哀れを翻訳の大和言葉が掬い上げるようで。 こんな小説に再び出会いたいです。〉
2024.03.26
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2024/03/05/火曜日/日差しのない日〈DATA〉出版社 新潮社著者 平山周吉2023年3月30日 発行〈私的読書メーター〉〈映画は何度目かのリバイバルブームで代表作を幾つか観たが、まとまった小津安二郎本は初めて。一番心惹かれたのが本居宣長との繋がりで、この章が後半にもっと深められることを期待したがそれは得られなかった。著者のいう近代日本人の最高の姿が小津監督にあるなら本居宣長との霊脈である松坂時代が重要ではないかと素人考えを抱く。「敗北を抱きしめて」の如くの一見平凡な、それでいて絶対的小津芸術の凄みに死者の眼差しがある事には深く突かれた。日本領シンガポールで米映画を2年以上観られた境遇を天与された20世紀人の心棒貫く人生だ。〉おやまあ、こんなことしちゃった。『小津安二郎』読書最中に、ひょいと娘と婿殿と鎌倉散歩に行くことになって。あー、あるね。ダイヤ菊。蓼科の山荘にもちゃんといつ帰ってもいいように置いてあったねえ、娘は覚えていた。何年か前に一緒にそこを訪ねた。そうか、著者はこの墓碑銘の無の字に違和感があるのだねえ。小津の生涯をくくる文字に、小津自身がこれを選んだのでない経緯も記されている。小津の映画の魅力の背後には矢張り人として魅力的な小津さんがいるんだろう。表現するものは全てその人そのものの写しなのだから。この墓には小津安二郎のお母さまも一緒に眠る。小津は母思いで知られ、最後まで共に暮らした。ばばぁ、ばあさん呼ばわりしていたのは照れ隠し以外の何物でもない。先の敗戦では小津も年長ながら応召され、支那事変の辛酸を舐め、弟とも思う山中貞雄をその間に戦病死で亡くした。当時若い兵士たちは天皇陛下万歳を唱え死ぬことを教えられたそうだが、殆どはお母さん、おっかさん、母ちゃん、おっかあと叫んで散ったのだ。この本を読んでいると沢山の山中貞雄たちの母恋の声が、小津の母思いにまで連なっているように感じられる。小津の軍隊階級は下士官だったけれど、そのような部下たちへの鎮魂として、安心せよ我が母なれど貴様らの母とも思い死ぬまで孝行を尽くす、と決めていたかのようにさえ感じられる。そうして独身を通した。焦土日本には社会的寡婦と戦争未亡人百万人そんな小津の情をアングルやカット、カメラアイや役者の表情、会話に先験的に感知する者は我が意を芸術にまで高めた小津に平伏するしかない。何だか能の世界である。戯作者小津は浮かばれぬ魂に慰めを与える僧侶のようでもあり。でもそれだけではない。何というか、そんな理屈を排してほのぼのとした朗らかな一つの、純な日本人の好さ、そんな味わいを笠智衆や東山千栄子に凝縮させた才覚、それが好ましい。意外な印象を持ったが、小津は志賀直哉を大変尊敬した。これもまた私自身が志賀直哉に対する貧相な経験しか持ち合わせない所以か。小津が書き留めた志賀直哉の言葉に独立した芸術には向こうからこちらへ来るものがある。趣味の世界のものはこちらから愛撫するスキがある。それはまた非常に強い魅力だ。だからどうかすると騙される。しかしどんな魅力があっても独立した芸術と一緒には考えられない。がある。これは柳宗悦とも関わった志賀直哉の、というより民藝運動を経た美意識ではないだろうか、とも思う。小津は志賀を大先生、里見弴を小先生と尊敬し、彼らは旅を共にする事や座談もした。そんな繋がりゆえか、小津は映画界で初めて芸術院に選出された。ところで、この読書から、小林秀雄『本居宣長』を読みたくなった。里見弴に至っては一冊も読んでいない。読書は次の読書を呼ぶ。宣長の言語論、和歌論、文学論。姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シを感じさせる小津の演出作法を著者は解く。同じく小林秀雄『私の人生観』に触れられている宮本武蔵の「観の目強く、見の目弱く見るべし」を引いて小津の演出にその影響を見る、という達観だ。観についての小林の引用続く。「目の玉を動かさず、うらやかに見る」目があること、即ち「意は目につき、心は付かざるもの也」常の目は見ようとする意が目を曇らさせる。だから見の目を弱くして観の目を強くするよう剣豪は教えた、と。うらやか、とは晴れ晴れとのどかな様東京物語の夫婦の会話シーンはまさにうらやかな観の目、であったのだ。 なるほど小津のワンシーンワンカットは西行の桜の空観にまで貫道するものであったのかは!円覚寺の小津の墓碑銘は「観」が相応しかったと著者は考えたろうか。登場者が多すぎる。どなたも魅力的た。氏の文章スタイルも良い。藤田嗣治のことを書いた本も機会があれば読みたいと思う。しかし先ずは本居宣長→小林秀雄これはこれで遥かな道のりだ。
2024.03.05
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2024/03/03/日曜日/暖かく少し風のある〈DATA〉出版社 光文社著者 吉村喜彦2006年7月20日 初版発行第1刷発行〈私的読書メーター〉〈サントリー広報部のご出身らしく飲酒表現が定型過ぎるキライあれど。全7章からなる本書の6と7章、泡盛と与那国の段がよく楽しめた。沖縄で失われた黒麹菌は戦前に東大で保管されていたことが近年に判明、かつての泡盛復活に首里の瑞泉酒造が取り組んだ。泡盛が好きでたまらない仙人のようなおじいが紹介されているがその夫婦の持ち味、発酵感が絶妙だ。こんな想いが重なり今の泡盛興隆があるのだろう。情熱が若い人にバトンタッチされ過去から未来へ古酒のカスタマイズリレーが世紀を超えていく。鍾乳洞で丸くなるのを待つ酒は平和の風味ならん。〉今回の沖縄旅行の前に読む。賑やかな観光冊子を追うのもとみに面倒くさくて。意外と訪問地の今帰仁や本部、羽地、大宜味村辺りの情報もあり。
2024.03.03
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2024/02/23/金曜日/寒いミゾレ雨つづく〈DATA〉出版社 平凡社著者 森まゆみ2013年6月27日 初版第一刷発行カバー、扉『青鞜』1911年創刊号表紙長沼智恵デザインより〈私的読書メーター〉〈恋愛史百年冊子や朝日新聞創刊百年資料などで若いツバメなんてのも十代の頃から目にはしていた。瀬戸内晴美著作で、二十歳ほどのらいてうが禅の公安を貰い、数年掛けて解決を得、見性を許された女性であったことを知り、関心湧く。生きることへの真摯な問いを何故待ち得たのか、明治末に人格形成した少女が、何よりも人間であることを尊ぶ思想がどこから来たのか。この著作でも少し触れられているが、そもそもの主題が同人誌青鞜の歴史、そこに著者のタウン誌の興亡を重ねながらの感想が多く求めたものとは異曲だが。あとがきは、なるほど興味深い。〉先年、この方の「『五足の靴』をゆく 明治の修学旅行」を読んだ時の記憶が蘇った。そもそも『五足の靴』はなんと!与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、実はこの斜め段は削除し、別途2時間余り掛けて仕上げた感想が消えていた、ということに昨日気づいた。かなり萎えます。あの時間読書したらどうか、とか。しかし考えを巡らせ文章を少しだけ推敲した体験そのものは消えた訳ではないのだ。と、気を取り直す。著者は、青鞜も自分たちの地域刊行物も後書きが精細を放っていた、と述べているが実は本書もそのとおりに後書きが、本篇以上に興味深い。例えば平塚らいてうお金を稼ぐことのない若いツバメアーティスト奥村の脚を揉んでやり、おやすみなさいませと床で挨拶した後に彼女は糊口を凌ぐための文章書きに精を出したのだ。当時としては自由で、母の大きな愛情に包まれ成人したらいてうも、矢張り武家の血を引く明治の女なのである。老いてなお矍鑠、凛として 奥村は私の何倍も眠ったと述懐したのは彼女の伝記を書いた馴染みの作家のみが知り得た事、そんな種々が記されている。最近、伊藤野枝のが映画化されている。原作者はらいてうより野枝を贔屓にしているとどこかで公言していたが、私はらいてうの良さをしみじみ思うのだ。奥村愛玩の石を二人の孫である彫金デザイナーが指輪に仕立て、それを今、森まゆみが所有する。そんな物語を紡いだらいてうを。
2024.02.23
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2024/02/15/木曜日/春一番、都内21度〈DATA〉出版社 学習研究社有吉佐和子 瀬戸内晴美 集昭和45年9月1日 初版発行昭和49年1月20日 13版発行「現代日本の文学」49 全50巻〈私的読書メーター〉〈奈良では吉野川、紀州で紀ノ川となり滔々と海に流れ行く太き水の上から下へ、女4代の途切れぬ命の輝きはどうだろう。花は籠に乗せられ川沿い下流の真谷家へ、語り継がれるほどの嫁支度をして嫁ぐ。祖母の選択眼に叶う夫は県の長から国政へと上り龍だが、当人もこれが花の深い意志の展望である事を知悉している。しかし女庭訓を鑑とする花は古風を崩さない。長男至上主義であっても彼の幼児期、ものを噛み砕く弱さに既にこの子の将来を見通す冷徹さをも持つ。その目にして琴奏楽の耳。娘、文緒に付ける稽古の場面の張り詰めた糸が弾けるような様!〉小説の舞台を訪ねた紀行など兼ねた解説を含む。さすが全集、充実している。うろ覚えだが、尾崎秀実さん解説だったか。うむ、時代は降りて。あいにく図書館に返却したので、今現在この本は手元にないため確証はない。さてこの巻の、好みをいうなら有吉佐和子さん。きっぷがよい。ベタつかない感性が気持ちよい。谷崎潤一郎の『細雪』四姉妹が、明治大正と昭和の戦前戦後に分解されて、縦に時間軸並んだような女たちの物語。しかし内実は全く違う。そこに現れる女を見る目が谷崎とではまるで異なる。『紀ノ川』で最も因習的な花が、実は最も勁い。お金の遣い方一つとっても最後まで豪放磊落。一見新しい女めいた花の娘、文緒の方が脆く感ぜられる。母娘の裏表が面白い。「新しい女」は取ってつけた意匠とでも言わんばかり。この本の4代女たちは紀ノ川そのものだ。水の女、流れの女。それが生まれ出づる森の奥の奥のひとしずく。魚でもあるかのような男をその中に棲まわせて、泳がせたり太らせたり。全くもって控えめでいて強かな水、なのである。因みにこの頃気になる平塚らいてうの両親もまた、紀州の出だ。小説の中で、田畑持ちは山持ちよりも肩身が狭い、という表現があった。まして現金持ち株券持ちなんぞ、ニーサ浮草のようなものなんだろう。何かで著者の祖母、つまり物語中の花と思われる人物が子ども時代に神戸の外国人家庭に、兄と共に下宿させられ教育を受けた、と読んだ記憶があるが、出典は不明。紀州というところ、あれだけの山を控えていると、底知れないお金持ちもいるのだろう。山育ちと思ったら、どっこいゴリョウハン。さてさて紀州も訪ねたい土地の一つとなるなり。
2024.02.15
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2024/02/06/火曜日/積雪15センチ〈DATA〉出版社 学習研究社有吉佐和子 瀬戸内晴美 集昭和45年9月1日 初版発行昭和49年1月20日 13版発行「現代日本の文学」49 全50巻〈私的読書メーター〉〈学研『現代日本の文学』全集49で読む。昨年12月に英国人女性による伊藤野枝をテーマにした音楽会を自由学園で見聞した。アナーキスト、新しい女、大正、くらいの像しか結ばなかった野枝に関心をもち本作を読んだ。本作は2部構成。前段は野枝を取り上げる動機や取材の事実など。後段は野枝の短く激しい生涯を知り得る限りの事実を重ねながら野枝という人間に肉薄していく筆力には、瀬戸内自身が幼い児を置いて出奔した苦い思いが重く映り込んでいる。女は自らの人生を選び生きることができるのか。社会構造と霊と肉の狭間で。古く新しい。〉こういう全集が4年で13版を重ねた戦後25年を経た昭和という時代を思わずにはいられない。そんな時代に我を生きた瀬戸内さんは大正に生を受け平成に得度して令和に彼岸に渡られた。敗戦前後を北京で暮らしていたのである。その時出会った夫の生徒と出奔。そのことがなければ小説家になることはなかった、という。小説に登場する伊藤野枝、神近市子、平塚らいちょう、三者三様に欲しいものへの直ざいな、持て余すようなエネルギッシュさで、当に 原始女性は太陽であった の青鞜発刊のノロシそのものだ。小説に登場する男性三名、辻潤も大杉栄もらいちょうの若いツバメ奥村某も装飾音に過ぎない印象で描かれる。主旋律を奏でるのは女たち。このような伝記小説の草分けは、森鴎外の『渋江抽斎』が挙げられるだろうか。文学史的にそんな指摘があるかどうかは知らないが。タイトルにある渋江抽斎よりもそのお内儀の五十、イオ?だっけが圧倒的に魅力的な描写だ。ところで先日鴎外の短編について心惹かれた文章に出会った。「サフラン」であったか。鴎外は小さな頃から部屋に籠り勉強ばかりをした。同い年の男の子と塗れて遊んだ記憶もない。コト=知識ばかりを詰め込み、モノ=経験を知らぬカタワになった、という述懐。そのように自分を観察できるのは科学的な態度で流石、鴎外なのだ。さて、伊藤野枝である。この人生は凄まじい。伊藤野枝が文学的才知や閃きを得ていたか、というと瀬戸内晴美自身の評価もまるで低い。しかし彼女が28歳で暗殺されるまでに三人の男、その内の二人は学識も文学の素養も思想も凡夫の遥か先を生きた二人の男と惚れたら命掛け、の道行で七人の子を産み落としたのだ。これって本当に途方もない!男と常に恋愛中にありながら常に懐妊していたということなんだから。恐るべし明治の女。この辺の野枝の心理や擬態の描写がどこか突き放すようでいて実は作者と螺旋を描くような濃密さがあり、抜き足ならぬ。彼女をして子宮小説と言わせた所以か。そしてそんな風評は十代そこらの私には何かべとつく感じがして避けてきたなあ。幸田文とか有吉佐和子なんかが面白いと思った。貧血気味の私なんぞは、著者含めこんな女たちの爪の垢でも煎じて飲めば死んで惜しくない恋愛が訪れたのかもねー。女子校時代の同窓の女の子の顔を思い浮かべると、そんな恋愛能力高い人は既にその予感をたっぷり含んだ水気というか色があったなあ。一方で、辻との最初の息子の人生の終わり方はやはり辻同様、悲しさが募る。私は男より子、であるなぁ。
2024.02.06
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2024/01/25日/木曜日/大寒の朝、水瓶に氷張る〈DATA〉出版社 文藝春秋著者 絲山秋子2023年11月10日 第1刷発行「文學会」2021年二月号、九月号、2022年一.五.八.十一月号、2023年三、七月号〈私的読書メーター〉〈表紙を見ながら小さな木のパズルを思い出した。上手くいくとカニが仕上がる、みたいな。うんと小さな子にとって、年長の者がするするピタリとそれに到達する不思議は正に神の手だ。この物語の神もまたそんな身近な神だ。人間とは何であるか。八百万もいる神の中にあって、奇特なことに神自ら人間と彼らが暮らす日本のどこか地方、ここでは黒蟹県に住み入り人間を学ぶ。その土地の中にあるだけの素材を用いて時々神の手パズルでピタリとシンクロさせては神の恩寵の道筋を人間との間に蘇らせる。作者が与える土地、植物などの詩的な想像力が高い。〉あーあ、消えちゃった。うっかり者だから、ねえ。いろいろ感想を書いたのになぁ。とりあえず記憶に残るものを拾い集める。建築家として世界的な賞を得て益々の、という矢先にすっかり仕事ができなくなった赤い髪の男が、実はあの、消えた幼馴染で…彼は売り出されたガソリンスタンドを自分の手でリフォームし、クリーニング店を営み、ミシンまで踏んで暮らす。そこに加わる誰かしらの屋台、カフェと様相が変化するのは植物層のなんとか、のようである。人間社会層?ある男が、今までの世の価値を捨て去った後に湧いてくる新しい世のカタチであるか。そうして贈与交換の社会建築家となるのだが、神は何らか手を出したのか、出さなかったのか。いやいや、そこまで行ければ去るた彦、でござる。という。神さま、おいらたちにチャンスを。
2024.01.25
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2024/01/24/水曜日/空気は冷えて大寒〈DATA〉出版社 毎日新聞出版著者 梨木香歩2023年9月15日 印刷2023年9月30日 発行毎日新聞連載 202006〜202303掲載〈私的読書メーター〉〈毎日新聞連載のエッセイ集。2020年6月から2023年3月までを収録。大学卒業後に英国留学した後『西の魔女が死んだ』でデビューして以来、この方の持ち味が一貫している様に驚きつつ敬愛の念が湧く。認知症を患う母を施設から引き取り、古い自宅を処分した上で家族と交互に看護している九州の実家、その近在の山荘、高度1700mの八ヶ岳の山荘、かつて暮らした琵琶湖の見える住まい、東京の自宅などを鳥のように渡りながら、カラやアカショウビン、シカやヒメネズミ、キノコや樹木、草花との交歓を記す。湯たんぽの結びの文が秀逸。〉さて、その秀逸な文末が掲載されていたのが「秋は悲しき」なぜ湯たんぽを英国の人はホットウォーターボトルというのか。それはどう見てもゴムバックであるのに、と彼女はいう。二十代で暮らした英国の下宿女主人は、寒い夜には梨木さんにも夜の儀式のよう湯を入れ、カバーを掛けて手渡した。大荷物になるに関わらず旅先にも梨木さんの分まで携行する。思えば40年以上、その疑問を抱えて生きて来た、旅して来たといえる彼女の境涯である。なぜバッグでなくてボトルか。おまじないを唱えながら湯たんぽを手渡してくれた夫人ももうとうに草葉の影に横たわる。その由来がとうとう判然とする。「長い間持ち続けてすっかり血肉になったような、昔馴染みの疑問に、墓標が立った思いでいる。寂しい、けれど決着を見届けた安堵、とでもいうような。」墓標が立った思い。そう言える疑問を携え続けることの重さと長さえ、たかが湯たんぽだって⁈なんで(どんな理由で)泣いたか、ではなく、どれだけ泣いたか、それが決定的に重要だと『飛ぶ教室』の長い前書きでケストナーも言っているではないか。彼女がこの世を去って、件の夫人と再会したならば、必ずやその話題に花を咲かせることだろう。そんなお土産話を携え、あの世に渡れる仕合せをしみじみ寿ぐ。
2024.01.24
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2023/12/26/火曜日/だんだん明るくなる〈DATA〉 出版社 双葉社著者 上田早夕里2023年3月25日 第1刷発行「小説推理」2021〜2022掲載の加筆修正〈私的読書メーター〉〈金本位制ならぬ阿片本位制。そんな東南アジアの近現代史がよく分かるノワール小説。清朝末期の混乱が凝縮したような魔都上海を中心に、青幇と呼ばれる組織に関わりを深める黄基龍こと日本人ジロー。貧農を嫌い一旗あげようと辿り着いた上海で営む小商い。そこにやって来た謎の女が差し出す最上級の阿片種を巡り帝国軍秘密組織や青幇組織、国民党、雇われ暗殺集団などが入り乱れる抗争に英仏からの独立を目論む植民地国の動きまで、複雑な背景をすっきり読ませる。中国的擬家族の結束に招かれながら個人であることを選択するジローの新しさ、良し。〉大英帝国とは恐ろしい妄想帝国だったのだなぁ。インドを侵略、綿花プランテーションを建設し、現地の人間を安い労賃で奴隷の如くこき使い、植民地や同等の国々に売り捌く。ところが対中国貿易では豊かになった英国国民のお茶の流行の背景もあり、赤字がかさむ。時はアメリカ独立戦争の時代、戦争には金がかかる。そこでインドで作らせたアヘンを中国に蔓延させて巨富を得るべく動き出す。狙い的中、中国人のアヘン中毒患者は年を追うごとに倍増していった。本当に酷い。モラルとか人間らしい心のカケラもない。こんな行為が彼らの宗教心にフィットするのか。そんな思想のたどり着く果ては不毛の極寒地だろう。アヘンと共に恐ろしいのが金、なのである。差配一つ、指一本で巨万の富を得て権力の上に立つ、そんなゲームが大航海時代から繰り広げられている。そんな世界は要らない。心穏やかな、慈しみあう世界を取り戻したい。WHOのやっていること財務省のやっていることまさにお薬と金、だと知る2023年末
2023.12.26
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2023/12/19/火曜日/最高気温8度、曇天の1日〈DATA〉 岩波新書 1944著者 國分功一郎2022年10月20日 第1刷発行〈私的読書メーター〉〈新書であるのに読むのに随分時間が掛かった。新書というのは知識の概要とか表面をさらっとおさらいするイメージを勝手に囲っていました。全て咀嚼することは能わず、ただ朧げに今まで折りに触れ読んできたシュタイナーの人智学、論語、或いは仏教の理性的論者方の文章に触れた思いがします。スピノザの認識の三段階の先にはどうしても学解の対象ではなく実践の理解が示されている、と思いました。そういう意味では学問を超えているような。こんな知性が17世紀半ばにオランダで、民衆の理解し得ない共和制と共に息付いていた事実に驚くばかり。〉読書中、最も心動かされたのは、実はオランダのハーグで1672年に起きた、共和政指導者デ・ウィットに対する民衆の非道な「厄災の年」殺戮事件だった。私はこの事件を扱ったとも知らず、デュマ『黒いチューリップ』を読みたいリストに入れてみたものの、そのまま長く放置している。この事件が起きた時、しかもその現場から徒歩にして15分ばかりの場所でスピノザはエチカを記述していたという。当時の欧州は、新旧キリスト教徒の間で残忍な殺戮が100年も続いていた。魔女狩りと称して、薬草で病人を救ける女たちが告げ口で火炙りにされ、村人や町人の見せ物と化し、恐るべき暗黒の歴史を刻んでいたのだ。シェイクスピアはその時代に生まれた旧教徒で、『ハムレット』はオランダの王家の悲劇だった。『ハムレット』に見られる王殺し、姦通、自殺、毒殺さえ、優雅な推理小説に思えるほどに「厄災の年」殺戮事件は陰惨だ。優れた理性的なリーダーが世に現れて、人間の尊厳をかかげ、理想的な統治を法に基づき執行しようというのに、民衆はたとえ愚鈍だろうと年幼かろうと、血すじとしての王を求めるのだ。そして知的な理想は、民衆になぶり殺され、その皮は剥がされ、肉がこそがれ、市場で売り捌かれるのだ。この現実!自己の中にエチカ=倫理を持ち得なければ、一神教の妄信的行為は人をして、かくまで惨虐に兄弟を殺し得るのだ。民衆が煽られた背景には、100年を超える宗教戦争、大航海時代の貿易がもたらす巨大な富と利権が絡む、秘密裏に結託した英仏のオランダ侵攻があった。煽られる民衆とは私に他ならない。何が真実かも見えず、小さな利益に汲々として。老いてどんな変化が心身に訪れ、どのように朽ちるのか、漠とした不安は予測される自然災害と捻り合いながら私の意識を昏くする。コロナは、ワクチンは、国家主権は、個人の人権は、少子高齢化は、経済は、パー券は、万博は、ひもじい思いをしている子どもたちは、インボイスは、リニアは、木原事件は、出稼ぎ男娼は、、、われら民衆はどうしたいのか、世界がどうあってほしいのか。デカルト:Cogito ergo sumスピノザ:Ego sum cogitans考えつつ存在する「スピノザは、総合的方法こそが哲学の真の方法であると考えた。」「定義、公理、定理、証明」ユークリッド幾何学原論、「エチカはこのような様式で書かれた」手の仕事を科す素描画家/アムステルダム/レンブラントレンズ職人/デルフト/フェルメール倫理的決断が理性を自立せしめるその名も『知性改善論』という自伝的著作。所有、官能、名誉の欲からどれだけ自由でいられるか、の考察。それを考えている間はそれから離れられるという発見精神がものを理解することが多くなるにつれて、同時に精神は、理解の道をいっそう容易にたどるための新しい道具を獲得していく真であることは公共的に共有されるとみたデカルトの道は科学へと進行し、共有されないとみたスピノザは、ある種秘教としての哲学は進んだのか?人間の本質は欲望悪魔のようなものは四角い円のようなものでありえないと分かるものに過ぎない。「どうすれば人間は、悪魔を仮定しようなどという考えが心をかすめもしない生き方ができるようになるか、それを考えようではないか。これこそが【エチカ】で開陳されるスピノザ哲学である。」神には外部がない神は永遠であって始まりも終わりもない。神は存在し、また作用するにあたって、自身の法則以外のなにものにも左右されない。全ては神の法則、すなわち、自然の法則に従って起こる。神は実際には、常に既に変状して存在している。「存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する」これはまさに大乗仏教的な思想ではないだろうか。人間精神とは身体を対象とする観念しかし、人間精神は身体を認識しない。精神が身体について認識するのは身体に起こることだけである。スピノザは動物どころか無機的な物質にも精神があると(程度の差こそあれ)みているキリスト教密教とか神秘思想のようでもあるが、観念に目を凝らしていけば矛盾なく成立する、のだろう。意識が陥る原因目的の転倒のメカニズム現れている意識の下の広大な無意識層について、フロイトに先駆けての考察自由な意志というものはない。感情の模倣喜び、悲しみと欲望の3つが基本的感情であり、こらの組み合わせによって全ての感情は説明される。同類と感じる者には、その者と似た感情を抱く。妬みは受動のモード、能動的に生きるにはどうするか。『エチカ』の中断エチカを中断し、『神学・政治論』を執筆しなければならなかった、時代背景序文での呼びかけ、来るべき哲学者にむけて。ものごとを自分で判断する自由、考えたいことを考える自由は誰も放棄することはできない。これは最大の自然の権利である。なぜ思想の統制を行なってはならないか。それが権力の自由にできるキャパシティを超えた目論見であり、それを目論む体制は暴力的にならざるを得ない。自然状態ならば人は意識を伴う衝動によって自然権を行使しているだけだが、契約が成立し法が存在するなら、行為のもたらす意識は法についての表象をもたらす。ここまで。エチカについて拙い反省を試み、短日の半分を費やした。経験を通して、つまり身体の変状を通した意識は、この世に悪も善もないことを理性に表象した。という言い方はできる?ただ悪い関係と良い関係はある。スピノザのいう能動的に思考し、生きるということは倫理の実践を必ずや伴うのだと理解する。欲望が私を存命させるが、理性はそれに意味を与えんとする。大いなる自然の現れの中で、客観を主体的に生きる、ことを常に意識する。
2023.12.19
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2023/12/10/汗ばむ陽気〈DATA〉著者 三國万里子発行所 新潮社2022年9月30日 発行2022年12月20日 4刷〈私的読書メーター〉〈タイトルのイメージとは随分異なる。作者であるニット作家の三國さんがどんなきっかけで編み物と出会い、デザインし、実際にどんな作品に結実したか、そんな回顧が作品と共に展じられるのかなあと妄想していたので。表紙の人形。素材である木とマッチングしていてとてもよい。人形はお顔が命?メムリンク彷彿の禁欲的な求道的な堅さが私好み。三國さんによるカーディガンもしっくり馴染んでいる。ポングラッツ人形も奥さまが草木染めした毛糸で編まれた衣服でそれが木彫の顔とこの上なくよい取り合いだったなあ、と思い出した。〉本書で一番心惹かれたのが、Sasha Luneva さんの木彫りのこの人形。って、だって彼女の作品はこの人形に着せたミニチュアカーディガンくらい。随分前に彼女の編み物本を買い、その中でも和風ウロコ紋様のミトンが気に入り何枚か編んだ。他にも作品を見て想像しながらボレロも編んだ。そうしてキットを「ほぼ日」から取り寄せた。取り寄せたキットの編み方図。作り目=キャストオンは、その手法の指定が無い。作り目はおろそかにできない、ということを最近ようやく理解するようになった。デザインや糸の個性に相応しい作り目の手法が本当に豊富にある。それらの技術は考案した人からその知合いへと次々とリレーされ、改良されて、みなの集合知になって来た歴史そのものなのだ。どんな作り目を選択するのか。その集合知からもっとも相応しい一つを最初の作り手が決裁するものなのだ。と思うのだ。これが無いことの頼りなさ。というものを感じた。思いかえせば、インディ意識の高い編み物仲間は、三國万里子さんのデザインを求める人が少ないように感じる。言葉で直接聞いた訳ではないけれど。楽しく編めればそれでよし、なのではあるけれど。デザインが好みならそれでよし、かもしれないけどもやもやとしてしまう。
2023.12.10
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2023/12/08/金曜日/陽光眩しい大寒〈DATA〉著者 ウィリアム・シェイクスピア訳者 木下順二発行所 岩波書店1997年9月16日 第1刷発行2021年7月5日 第24刷発行〈私的読書メーター〉〈ある台詞が放たれるや登壇する人物。異なる話題なのに台詞内容はその人物の内実や未来を暗示している、とシェイクスピア劇を観ていて感じたことがある。リエゾン視覚化?木下順二氏の後書きにその点が触れられていた。大海の水と洗面器一杯の水の対比や王が身にする衣装の比喩の指摘など改めてなるほどなあ!魔女的存在はマクベス自身気づいてない自分の、否、人間の地金が独特な気候風土の中でホログラム化した、の印象強まる。魔女裁判の時代に沙翁のメタ認知、木下氏のいう今日的マクベスが時代に符合し過ぎ、かの政治家にこの台詞ぴったりとは。〉木下訳の言葉のノリは江戸っ子伝法な、というか石原裕次郎の若い頃の東京ことばはきっとこんな、みたいな勢い。しかし下品に落ちることはないのが氏の持ち味。翻訳って面白いのねえ。戯曲って面白いねぇ。時代がかった言い回し、宗教的な了解の引用、語られれば即ち現実という即妙、なんぞはシェイクスピア劇のドラマツルギーそんな緊迫やスピード。それが会話一つ一つに欠損なく幕が降りるまで一貫して流れる。素人の私にも感じられる木下訳の上質感。こんな台詞で聞かせられれば、換骨奪胎、時もところも変えて戦後間もない日本の、仁義なき、大企業出世闘争物語にもなりうると感じた。言葉ってすごい。話し言葉って。さて。ヒースで魔女に初めて出会ったとき、マクベスは同輩バンクォーと共に在った。それは彼らには予期せぬ遭遇だった。そそのかす魔女にマクベスの心は千々に乱れるが、バンクォーは冷静であった。再び魔女に会ったとき、マクベスは一人であった。しかも自ら望んで会いに行った。魔女と人間が出会うために、また預言と幻影を得るために、あり得ない種々を大鍋のるつぼに混ぜ入れる、かの儀式。そのナンセンスなごった煮。マクベスは人間界では悲劇だが、転倒した魔女界からは滑稽な見ものだったのかも知れぬという惨劇。レイディマクベスの落差の振り幅は人間界を超えているようにさえ感じる。あのような認識を生身の人間は長時間持ち堪えることはできない故の狂い死にの結末なのだろう。病膏肓に至った妻に効かせる薬をマクベスが叫ぶ。「大黄でもセンナでも」大黄は漢方薬、これらは女性の便秘薬に用いられる。最近、丁先生の対談読んだところなのだ。過剰なもの、停滞したものの排出。そっか。断捨離だ!世のレイディのみなみなさま。塵は塵に 灰は灰に
2023.12.08
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2023/12/05/火曜日/家にいる日は曇天でも好〈DATA〉著者 ウィリアム・シェイクスピア訳者 石井美樹子発行所 河田書房新社2021年5月20日 初版印刷2021年5月30日 初版発行〈私的読書メーター〉〈同じ翻訳テキスト再読。あらら読むたび新た。2年前の私は今の私ではないことの証明か。先日の初冬が本日は小夏。今どきの天候のように落ち着かぬマクベスが心情。ヒースに現れた三人の魔女にたぶらかされ夫人に油を注がれ、忠臣マクベスは王を殺害し、側近に罪を被せた上で彼らも討つ。さもさも忠君義憤の二枚舌。悪業がばれれば王殺し、の恐怖に彼の剣は次々と血塗られる。死人に口なし。死者の思いはマクベスの独白に、彼の幻視に、大地の空気に織り込まれマクベスという人間を震わせる。或いは、過去から未来から三人の魔女の姿を結ばせる。〉問題の fair is foul, foul is fair. 石井訳では 晴れは曇り、曇りは晴れこういう訳は初めて。きれいはきたない、が慣れ染めている。スコットランドやアイルランドの変わりやすい天候は、短日滞在の私も経験している。一日の中に晴れも曇天も雨も夏も冬もあるような日には「fair is foul, foul is fair. 」とも確かに言いたくなるだろう。それに連動するマクベス登壇の最初の台詞を「こんなに天気が悪いのに戦いに勝ち、こんなに良い日は初めてだ。」と訳している。これはどうか。救いようもなく人殺しに堕していく主人公マクベスの第一声とするには物足りない。これから先のマクベスの運命が織り込まれたものになるにはどうすべきなのか。魔術によって、「バーナムの森がダンシネンの城にやって来るまで」、また「女から生まれた」者によってはマクベスは滅ぼせない。本書訳では女から ではなく女の股から、と表現される。マクベスを討ち取るマクダフの産まれた経緯からするとその方が整合性も高く、すっきりする。この言い回しについては、後書きにシェイクスピア時代のイギリス国教会埋葬式の『共通祈禱書』から次の引用がある。「女から生まれた者が生きるのはつかのま、人生は悲惨に満ちている。…花のように伐られ、やがて影のように消える」OED Oxford English Dictionary を駆使し、幅広くキリスト教研究も重ねている訳者の努力に敬意。訳者が『マクベス』の主題は二律背反の二枚舌、と見る歴史背景に、議事堂爆破計画未遂事件があったという。これぞ王殺しとテロを目論む事件だった。カソリック神父ガーネットの『二枚舌の論考』は、英国で締め付けのきつくなったカソリック信者が生き延びる方便として書かれ、二枚舌論が巷間、論議の的となり、社会現象となったという。事件の真相は、カソリックの根絶やしを図った英国王の最側近である国務長官のでっち上げ、というのががまことしやかだ。盧溝橋事件であるか。事実、この事件を機に英国のカソリック教徒への差別と迫害の歴史が始まる。とどのつまり誰が益したか。歴史はそこからよく見えて来る。宗教と政治の権力闘争の17世紀初頭英国、大航海時代の富が偏在しはじめたその時代。大資本家時代の幕開けに。11世紀のスコットランドを舞台に、魔術的二律背反の枠組みの中に、二枚舌のマクベスなる臆病な残忍な偽の王をいっとき現出させ、結果、人間の留まるところを知らない欲望を裁断する。マクダフのいう自由はどこまで有効なのか。そんな問いも含み幕が降りる。バーナムの森は動いた。女の股から生まれなかった漢がいた。この二律背反はどうか。動く森バーナム。トールキン『指輪物語』のエントはこれが源泉か。お釈迦さまは母である王妃が花園で咲く花に手を伸ばした時、その脇から生まれ出て歩いたのだった。聖王の統べる古い秩序世界が、サカシマに破壊された。それは二枚舌を繰るニセの王だった。二律背反に符合した新たな勢力はこれを討伐した。穏やかな眠りが再びもたらされた。しかし、fair is foul, foul is fair. と見据えた魔女らは杳としてその行方が知れぬ。ヒースに忽然と姿を現すか、我らの時代に。
2023.12.05
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2023/11/23/木曜日/早朝の雨〈DATA〉著者 坂田和實 尾久彰三 山口信博発行所 新潮社とんぼの本2008年5月20日 発行〈私的読書メーター〉〈民藝館へ2度訪問の谷間で読む。「とんぼの本」って気楽なガイドブック、の印象だったがいやいや。どうしてどうして、予定調和なき坂田和實氏と尾久彰三氏とのやりとりの迫力に読む私も痛みを感じるほど。古道具坂田は閉店。遂に訪ねることができなかったがその道でつとに高名で彼の元から民藝が軽やかに広がったように感じられる。日本民藝館即ち柳のチョイスを坂田好みチョイスした品々を鼎談するのだが、鈴木大拙の名は出ずともやがてその思想に環流する。ように思う。千宗屋「民藝と茶の湯はある意味同じ問題を孕む仲の悪い兄弟」、包摂平和祈念〉柳宗悦の御伴侶が声楽家であったことが、柳宗悦の欠けたるところを補って余りあるように思った。即ち、ものの美は上々。その一方で音楽が日常に溢れていたこと。演奏されるその時のみに立ち現れ消える一回性の美、だ。しかも人間の声の。柳兼子さんは当時、声楽の神さまとまで称され、ドイツ留学の折のベルリンリサイタルも大好評を得たという、正真正銘の芸術のミューズだ。旧居の図面では、民藝館側に音楽室が大きく取られている。軍歌は強要されてもそれを拒み、柳宗悦と共に半島に渡り、日本の圧政を非難しながら当地の文化を守った。本書に寄って知ったが、空襲の火の手がすぐ先まで迫った時、オロオロする柳宗悦を横に建物に水を撒きかけ防災に奮闘したという。火の手は手前で奇跡的に消えた。後年、自宅と民藝館は米軍の攻撃対象外指定であったことを夫妻は知る。敗戦間も無い国破れた風景。亡失の男が幼い娘と二人で、導かれるようにこの無傷の建物を訪れた。建物に入ると娘は何故か赤とんぼを歌いだす。遅れてそれに合わせ美しい声で唱和する女性の声。それは兼子さんだったろう、という思い出がとてもうつくしい。兼子さんは経済的にも柳を支え、晩年まで一線で活躍した。柳宗悦の見る目は人間においてもかくも。彼女を主体にしたストーリーに出会いたいもの。
2023.11.23
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2023/11/21/火曜日/穏やかな日和〈DATA〉 編者 河井寛次郎記念館発行所 講談社講談社カルチャーブックス1291998年10月5日 第一刷発行〈私的読書メーター〉〈耳目に届いていても実は何一つ知らなかった。そんな事ごとの山に分け入り、丹念に葉裏まで確かめながら何事かを感じ考え糧にして生きていく「暮らしが仕事」になればなぁ!天才寛次郎は、土を捏ねてもロクロ回しも釉薬研究、上手の中国、李朝の写しにも遺憾無く才能を発揮した。当時柳宗悦とは誌上議論がぶつかり不仲だった。京都疎開中の柳宅を訪ねようと後輩濱田庄司に促され、渋々の体で訪ねた先で柳の木喰仏に遭遇する。寛次郎の魂消た反応をみて一瞬の内に彼らは氷解する。晩年民藝のその先へ全く自由になる作品群は岡本太郎のエネルギーの如く〉同じ講談社の自然科学系ブルーバックスに対応するのか、人文系カルチャーブックス。シリーズ発刊の言葉は野間佐和子氏。「新しい時代において、私たちがなすべきことは、「物質文明」の追求ではなくて、「精神文化」の充実を図ることであり、国際化がますます進む現代社会において必要とされるのは、ビジネスのことだけではなく、自国、他国の文化を理解することです。…」経済大国も今は昔。インドや韓国にも抜かれそうな具合で、貧困層は3度のご飯が頂けない一方、世界二位の金持ち者数とか?ただし2021年の円レートらしいけれど。いつの間にか、ほんとに歪な国になったもんだ。「物質文明」はお金がなくちゃ対応不能でしょうが。「精神文化」ならいつでも対応可能。世界のトレンドに即しているなあ、わがニッポンあ、金持ちが世界二位ほどいるんだっけ。私とは縁もゆかりも無いからツイよその国のように思う。貧しいことは恥ずかしいことでは無い。恥ずかしいのは人間の品位を貶める行為だ。私の親はそのように子の成長を促したけれど、今になって周囲を見回すとそれは少数派だったかもしれない。バブル以降の世にあって、隔世の感がある価値観ではあるけれど、それが私の「美の標準」だ。たまにその標準を持ち合わせ生きる人を見つけてはとても嬉しく心が軽くなる。河井寛次郎もそのようなひとの一人と確信する。
2023.11.21
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2023/11/09/木曜日/秋らしくも立冬〈DATA〉 著者 里文出版編平成二十三年二月二日 発行〈私的読書メーター〉〈「民芸の100年展」以来、モノ、特に家屋や里山を歩き見る事が俄然増した。鄙びた里山歩きの参考になるかしらと手にした本書。6組の対談集なのだが、どなたがコーディネートしたのか登壇者の振れ幅が凄い。志村ふくみ×近藤高弘、岡村美穂子×千宗屋の対談からは柳宗悦と鈴木大拙、民藝がまるで今ここにある生々しさと迫力がある。柳から破門された志村の、対談の末に現れることば。原点への創発というか、常に初に生まれ変わり続けることで自分自身であり続ける様、人間存在の極意を見る思い。大拙の秘書を長く務めた岡村さんがまた素晴らしい。〉▲濱田琢司×久野恵一 ー本来「民藝」というのはスピリットだと思うんですが、その部分が伝わらなくて、表面的なスタイルだけが伝わっているのではないでしょうか。久野恵一さん 私の好きな民藝小鹿田焼 飴釉打刷毛目大皿濱田琢司さん 私の好きな民藝河井寛次郎記念館 臼のテーブル▲尾久彰三×豊島愛子・鄭玲姫小谷伊太郎さんはご存知ですか?素敵なかたで、艶福家で、自前で遊んだかたですからモテたんです。尾久彰三さん 私の好きな民藝革製水注 イギリス 18世紀豊島愛子さん 私の好きな民藝鉄製の燭台▲志村ふくみ×近藤高弘ひょっとしたら、柳先生が民藝を発見されたときから、民藝は民藝じゃなくなってしまってるのかもしれない。「糸である、繭である、植物である」.こういうところに視点をもっていかなければ、できあがったものを見せても、着られもしない高い着物、そんなもの見せて何になろうかというところに、内藤礼さんの展覧会で気づかされたんです。志村ふくみさん 私の好きな民藝飛天(梵鐘) 慶州泰徳寺近藤高弘 私の好きな民藝鋳鐘窯 河井寛次郎記念館▲千宗屋×岡村美穂子ふだんの柳先生は身体から感じられるものは、一言でいうならば、「孤ボウ庵の井戸茶碗」ですね。お点前をしたりするのは「和敬清寂」の「寂」を自由に動かすためのお稽古である、という「寂」の解釈がいいなあと思います。「生死」も相対の次元を指す言葉ですから、「生きながら死人となりてなり果てて、思いのままにする技ぞよし」という至道無難禅師の偈があります。 つまり自由になるということは、一度生きながら死ぬことにある。いっぺん死んで生きるというのが、利休さんにもあったのではないでしょうか。美しさの基準がどこにあるのかを知る必要があります。柳先生は、民藝は「自由」と「安らぎ」の作であって「無心」である「無有好守醜」の境地から生み出されているからです、とおっしゃった。人もものも救われないと「用の美」ではないわけです。ー柳が禅宗から浄土真宗に行ったのは、転機になる何か決定的なことがあったんでしょうか。禅も真宗も何も釈尊の教えですのでもとより相違はないのです。柳先生は恐らく『大無量寿経』に書かれている四十八願のうち、第四番目の願文にいたく感動されたのだと思います。「無有好醜」の願ともいいます。…何れの願文も相対の次元を超えることを約束されることにあるのです。上下、左右、高低、遠近、善悪、好醜などなど。その次元を超えることを仏教では物事がまだ分かれていない「大本」「本来」を確認することにあるのです。分かれるということは分かれていない「本」がある。柳先生はきっと、美とか醜とかが未だ分かれない大本を指して、計らいのない無作為の世界に民藝を見ることができたのだと思います。人間から手仕事を奪うと必ず心の病に悩まされます。健康であることは「手と頭と心のバランス」だとバーナード・リーチ先生はよくおっしゃっていました。それはまさに民藝の本質でもありますし、宗教もまた同じでしょう。千宗屋さん 私の好きな民藝絵唐津秋草文壺岡村美穂子さん 私の好きな民藝柳宗悦「無有好醜」▲星野若菜/五十嵐恵美×田中敦子やっぱりつくっている人も楽しくないとダメなんじゃないでしょうか。工程に関わる全部の人、買う人も、使う人も、つくる人も、私たちもみんなが幸せでないといけない。幸せな気持ちから生まれる心地よさはものに現れると思います。星野若菜/五十嵐恵美 私の好きな民藝足立茂久商店のわっぱセイロ田中敦子さん 私の好きな民藝豊岡杞柳の飯行李▲馬場浩史×テリー・エリス/北村恵子今回は「民藝に未来はあるか」というのがテーマだけど、むしろ未来が民藝的な世界観を必要としてるんじゃないか、と思っているのです。馬場浩史さん 私の好きな民藝藁作りの神馬テリー・エリス/北村恵子さん 私の好きな民藝ゆしびん 上江洲茂雄
2023.11.09
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2023/11/06/月曜日/朝のうち雨↓新幹線移動中に読み終える〈DATA〉 NHK美の壺制作班2009年5月30日 第1刷発行〈私的読書メーター〉〈偶に見るこの番組、これは見逃していた。書物で読めるのは幸い。本書でも指摘があるけれど、柳宗悦が果たした「用の美」の着眼は、それまでの美への考えを反転させ、新たな気づきを日本人の感受性に与えた点で千利休に匹敵すると思う。豪華絢爛ではない侘び寂びに、ときの権力に抵抗する千利休。日韓併合の、国も民もこぞって雪崩れた時代に朝鮮の素朴な、無心の工人の手業に驚嘆し、当地に関心を寄せ芸術の尊敬の念を醸した柳。そんな背景が短い文章にしっかり記述されている。ブレイクから入り木喰上人、他力へ至る柳の柔らかい微笑が好い。〉益子の一日訪問の移動には新幹線に3回乗る。その間、どうせ風景は楽しめないから、軽く薄い本を探していたら、丁度こんな本に遭遇はあ、東北大震災前に放送、上梓されていたんだ。番組の構成に沿った編集壱のツボ てらいが無いから美しい弍のツボ 自然の意志を感じよ参のツボ 使い込むほど美しい浅川兄弟が挨拶がわりに持参した李朝の小壷冊子白樺に、後期印象派の作品論文などを20歳そこそこで載せていた柳宗悦。私の記憶では、彫刻をする浅川兄が、柳宗悦がロダン作品を有しており、それを見せて貰うために訪ねたのだった。ところが、李朝の工芸品を愛する浅川兄弟の手土産に柳は打たれる。その刹那、民藝運動が始まった。それまで生活雑器であったものが一変する。見るものをして「これは美しい」と承認させるパラダイムシフトがおきたのだ。柳が美しいというまで、それはただの古臭いやぼったい下手物に過ぎなかった。それまでの詫びや寂びの中に美を研ぎ澄ました日本的感性に、更に民衆の中にその創造者を発見した、という点で柳は偉大な思想家とも思う。達人のことば、という本書の結びに日本民藝館学芸部長、杉山喬司氏の一文がある。そこに引用された『柳宗悦 時代と思想』(中見真理著 東京大学出版会) に心惹かれた。「柳宗悦の生涯を貫く問題意識の核心に、『複合の美』の思想があることを指摘している。そしてこの思想は強者の力によって世界が一色になることに抗い、大小の草花が共生する自然界のような『複合の美』の世界を、非軍事的方法によって作り上げていくこと」を希求するもので、これは近代日本人が持ち得た内発的で良質な平和論の一つであると高く評価している。と記される。巨大なプラットフォーマー、或いは超監視国家によって知らず自分の思考も感受性も一色に染められかねない現代である。私もまた『複合の美』の端で、糸を染めたり編んだりしながら、よく知る顔の他者に身に付けてもらえるような努力を重ねたい。いや、全然見知らない人のためにもいつかおくりものとして届けたい。
2023.11.06
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2023/10/27/金曜日/天気上々〈DATA〉 晃洋書房著者 谷釜 尋徳 タニガマ ヒロノリ2023年2月10日 初版第一刷発行〈私的読書メーター〉〈なるほど分類384。章ごと参考文献がいかにも学究の第一次資料。といっても堅苦しい研究書とは違い、版画なども織り交ぜながら旅歩きへの憧れを駆り立てる本に仕上がっている。本書が参考にした女性の旅日記(記述者が男性のケースも含む)、年代的には1669年から明治すぐそこ、の1863年まで22巻も!健脚、健啖、物見高さで古の日本女性なれど、すぐ近の共感が湧く。関所越えの緊張、河渡りのヒヤヒヤ、古刹名刹、伊勢参りと言いつつの宿の年若主人の美貌を褒める一筆も。名物、ご馳走、買い物、芝居通いとまぁ我らに似たる人事欠かず。〉うむ。著者の名前が凄い。これは本名であるか?尋徳。漢方医か何か、そんなお家柄よのような。しかしご本人は、『江戸のスポーツ歴史事典』も出されている研究者だ。事典を作るのは大変な難行と想像する。本書はその折の、こぼれ話を拾い集めた気安さ。とはいっても、江戸時代に何故、おなごが日本地理の半分近くを何ヶ月も掛けて踏破できたか。その背景がきちんと論理立てて示される。参勤交代のための街道、宿場町、交通などのインフラが整えられたこと。貨幣経済が全国津々浦々に行き渡り、金貨銀貨を銭貨に両替したり、為替の仕組みもあり、大金を持ち歩く必要がなかった。また、名所図会なる観光ガイドブックがお土産、グルメのご当地情報を詳細に伝えてくれた。何よりも庶民が豊かで文字書きそろばんが行き渡り、旅の計画、予算の計上など旅人として自立できていたこと、などなど。凄いな、江戸時代。あ、書名の江戸は、地域区分ではなく時代区分。タイトルだけを眺めると江戸に住む女子が大山詣とか牛に曳かれて善通寺、とかを想像したけれど。もちろん江戸の商人妻、中村いと←こんな人と一緒に旅したい!←の例などもあるけれど、大半が江戸以外から。藩士藩主の妻なんぞもいるけれど、名主、地主、商人、農民妻もいて、大盤振る舞いも節約もそれぞれに工夫を凝らし楽しむ様子が伺える。しかし出たちは同じように、足袋に草鞋、脚半に道行、杖に菅笠ファッションである。この菅笠を、明治初めに日本奥地探検したイザベラ・バードが激賞していたとか。さて、着物。足さばきが困難と思われるのに、平均で一日30〜40Kmを歩くのだ。2日に一度は草鞋を買い換え、これが土地の農民の現金稼ぎにもなったろう。しかも履き潰した草鞋は捨て場が茶屋近くに置いてあり、集められた草鞋は解いて再利用できるものは再び草鞋になる。もうね、ここまで来ると涙もの天晴れ日本の民衆。質素で簡素でつましく、エコロジーな姿よ永遠なれ
2023.10.27
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2023/10/25/水曜日/日中はインディアンサマー〈DATA〉 早川書房著者 バーナード・コーンウェル訳者 泉川紘雄1990年3月20日 初版印刷1990年3月20日 初版発行〈私的読書メーター〉〈懐かしいような馬鹿馬鹿しさと真理の端っこを掴ませる手応えの海洋冒険小説。セーリング好きには応えられないだろうヨット操縦心得満載。フォークランド紛争で負傷したニックは障害を抱えながらも『テンペスト』の魔女名シコラクスをもつ愛艇で海洋に出る夢を諦めない。生来のおぼっちゃまパーソナリティ故の行きがかり、嵐の大西洋でヨットwildtrackをワイルドトラックする羽目に。「世の中を動かしているのは正直さでも正義でも愛でもない」と諭す父のような成功者の側ではなく、艇を動かす風の吹く海で生きる選択の清々しさよ。〉ハリー・アボット警部補は、いい漢なんだなぁ。「仕事ってなんだったんだい、ハリー」彼は質問を無視した。「サンドイッチをすこし持ってきた。それに新聞は置いてくよ。嘘ばっかし書いてあるが、漫画くらいは楽しめるだろう」新聞の記事はといえば(←1982年のフォークランド紛争から1.2年ほど後の設定?因みにこの本が日本で出版された1990年、英国とアルゼンチンの国交は再会されたが、本年3月ニューデリーでの20カ国サミットでは再び島の領有権の交渉がテーブルに載ったという)「北アイルランドではひとりの男が膝頭を撃ち抜かれ、イラクとイランは砂漠でおたがいに痛めつけ、ロシア人はアフガニスタンで農民を痛めつけ、炭鉱夫はだれかれ見境なく痛めつけている。エイズと呼ばれる病気が、清教徒が千年かかってできなかったことを達成しようとしている。イギリスはまだクリケット一色」という時代のリアルな新聞報道の最後のゴシップ記事では物語の核が進行している。すなわちニックの愛する女性アンジェラの結婚ニックは関わる新聞記者からも闇商売に精出す造船業主人からも大バカ呼ばわりされているある意味愛すべきやっかい者。フォークランド紛争最中、作戦ミスで敵陣突撃したとき、自分が何と叫んだか、思い出せない。嵐の中、素人に操縦を任せ、恋敵の命を救おうと隣接させた艇に障害のある身体で乗り込もうとする刹那、自身の口から同じ言葉が飛び出したことに打たれる。「気違いやろう!気違いやろうだ!」前者はつまるところ、紛争=戦争時の軍人として、女王陛下の国土を守るという軍事目的が後者では、恋敵の命を救うよう懇願する愛する女性のためのブルトン騎士精神が発露され?たごく私的な目的が海を相手の船乗りで神の存在を否定するものはない、と無神論者のアンジェラと会話するヨット内のシーンがある。極限で、そのアンジェラが祈るのだ。自然の猛威の中で人間存在のあまりに無力だと知る、そんな経験を海で山で人はもつ。丘では間も無く運転手のいないタクシーが走るそうだが人間よ、思い上がってはいけない。一身の力と知恵と心を尽くし生きてみたことがあるだろうか?そんなふうに、この冒険ミステリーは問いかけもするのだ。やはりニックはビクトリア女王の愛称をもつ黒猫と今日も海に出ていく。その名の勲章は刑務所で暮らす父に託して。警部補はまともな男だった。日本にもまともな元警部補がいる。それは希望といえるものだ。
2023.10.25
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2023/10/15/日曜日/振り続ける雨〈DATA〉 河出書房新社著者 ジョゼ・サラマーゴ訳者 雨沢泰2023年7月20日 初版印刷2023年7月20日 初版発行〈私的読書メーター〉〈独特な文体故に始めは手こずる。しかし一人の存在が像を結ぶと、不思議なことに登場人物らの声色が聞こえ始めリアルな存在に変わるのだ。『白の闇』パンデミックから四年後の首都。市民は圧倒的な白票を政権に投じる。統治の正当性を失う危機に政権は市民の犠牲などはへとも思わぬ残虐な牙を剥く。その口から漏れるのが民主主義への暴挙とは。既視感を覚える。警察権力やマスコミはなるほどこう使うのかと得心させる内務大臣と首相の私利私欲権力闘争に背筋が寒くなる。その中で一人の警視が小さな物語を思い出す。遠吠えをしろ、と犬が、涙の犬が。〉実は所々笑える。政権闘争喜劇とか探偵物ぱくりとか、サラマーゴの掌で大いに遊ぶ、だけでなく興味深く、読書後も何度も繰り返し考えさせられる。こんな本は『八月の光』以来か。もっともフォークナーはあまり笑えなかったけれど。ポルトガルの光、ともいえる作家。全作品が翻訳されているわけではないし、元々寡作だ。秋の夜長、読書の楽しみが続く。世界の何処かにはこんな優れた作家が数えきれないくらいいるだろう。今年のノーベル文学賞は北欧の作家が受賞した。彼のコメントで、地中海の海ではだめだ北の海でないと、みたいなインタビューが印象に残る。ポルトガルは殆ど地中海には面さず大西洋に開いている。その長い海岸線にナザレという名の小さな漁師町がある。その地の海の家みたいなバルで大西洋を眺めながらイワシの塩焼きを食べたとき、白ワインくらいは呑んだらうか、私のことだから。最果て、の文字を白い雲で青い空に描きながらその町の、海で夫を失った寡婦は頭から爪先まで黒一色の衣装に生涯身を包む。少なくとも私が二十代にそこを訪れた時には。ところが、殆ど民族衣装と言ってよいそのデザインは若い娘も全く同じフォルムなのだった。膝が隠れる程度の短めギャザースカートには寡婦のものとは異なり派手な色と刺繍がみっちりと施されていた。イベリア半島がゲルニカのきな臭くささを放った時代、サラマーゴもナザレのような村で塩焼きイワシを食べたかもしれない。権力者たちのテーブルとはまるで違うその味を。きっとあの警視も。小説には乾いたビスケット程度の食の場面は出てくるが、私は一方的に大西洋のイワシを食べて成長したこの男をイメージする。なんとなれば、この男が、『白い闇』で唯一目が見えていた眼科医の妻に招かれランチのテーブルを夫妻と囲んだ前後、彼は昔読んだ本の中の小さな言葉を思い出した、のだから。キリスト者にとって食卓を共にするとは、家族になる、ということ。イエスは魚を漁るように弟子を集め、もっとも愛されたヨハネも漁師だった。そのランチは最後の昼餐かもしれない、にしても。物語後半、枯れた泉を流し続ける乙女の像の前で、二人の人間が全き精神となり、その精神が触れ合う美しい場面。サラマーゴは詩人。社会主義者で無宗教とのことだけれども塩焼きのイワシ以上に、よく摂取し栄養としたのは、キリスト教の本質的な純なところではないだろうか。さて。市民に民主主義を教えるべく謀議を尽くす閣僚会議の最中に、先ず司法大臣が辞任を求め席を去る。曰く白票の投票はもう一つの病と同じくらい破壊的な盲目の表れなのだ。あるいは見える目(=正気)の、、、白票の投票は、それを行使した側からすれば、見える目の表れとして評価できるかもしれない、、実際、いまほど司法大臣らしい、あるいは正義(ジャスティス)の大臣らしいときはなかったと思いますよ。そして文化大臣も退席した、のだ。政治が権力者に従う時、司法と文化はその社会から消えることを意味する、ように著者は見ている。そして司法大臣を首相が兼任し、公共事業大臣に文化大臣を兼任させる。すごい皮肉とパンチが効いている。ここ日本でも法は首相の内閣府が握り、どのようにも成形可能な粘土法だ。文化なんぞ公共事業紐付き程度の所業に貶められているではないか。13人?いる閣僚の中で正気を保ったのが二人。七つの新聞社の内、政府発表の垂れ流しをしない社は二つ。首都市民の87パーセントが白票。政権の見えるところ、閣僚の13分の2程度は正気。正気故にその席を離れる。敗北。報道が未だ生きているなら、7分の2が正気。検閲を知恵でかわしても、バレたら記事掲載紙は没収の上、罰金。敗北。無記名投票なので個人名は見えない。しかし市民の多数が正気である。勝利。瞬く間にキオスクから消えた新聞の、警視による政府の内実スクープ生地はどんどんコピーされ、街角で手から手へ、ビルの屋上からばらまかれる。87パーセントの市民は真実を目にする。政権には見えない正気が8割を超えたら、確実に世の中は変わるだろう。一方、真実を伝えるジャーナリズムが日本では壊滅状態という認識をみなが持っているかさえ怪しい。そんな感懐を持ちながら進む読書ではある。警視の物語部下に何故警視になれたかを話す場面しかるべき場所に友人がいたり、ちょっとした便宜をはかったりするだけで、人の望みは達成されるものなんだ。おおお。露木氏、栗生氏の処世術に他ならぬ。人間性とか適正とか仕事が出来るできないは問われない、官僚機構はそんな建て付けでございます。人間的なあまりに人間的な。警視は言う。きみは医者の妻が有罪だと断定的に言っていたがいまは無実だと聖なる福音書に誓いそうじゃないか。福音書には誓うかもしれませんが、内務大臣の前では絶対に誓いません。わかるよ、きみには家族もいれば、キャリアもある、人生がね。そうです、警視、お好みならそこに勇気の欠如を加えてもかまいません。あゝ我ら凡夫の生きる道、極まる。勇気が足りない、のよ。警視が思い出した小さな言葉私たちは生まれる。そしてその瞬間、まるで自分の人生の契約に署名したかのようだ。しかし、いつか自分にたずねるときが来るかもしれない。いったい誰がわたしのために署名したのかと。この問い。誰が署名したのか。全き人間となった警視は、迷い逡巡しながら良心を生きる決意をする。無実の人間を罪人に仕立てよと言う上司、内務大臣の命令に警視は背く。契約に署名したのは自分自身だという答えを、その行為によって導き出す。ここにサラマーゴの人間への希望を見る。例え命を失うことになっても、自らの署名、その名を汚さない意志。夥しい凡夫の中から、このような人生を掴み取る人が必ず出てくる、という希望たった一人、パンデミックから免れた女性がいたように。彼女が見た極限の人間、獣以下の姿に、流す涙を舐めてくれた犬が傍にいた、ように。ところが。サラマーゴはスパイスの一捻りを忘れない。エピローグのような物語最後で一転、無知蒙昧な臆病者小市民としての我々は描写される。そのとき、目の見えない男がたずねた。何か音がしたかい。銃声が三発したよ、ともう一人が答えた。でも、犬の遠吠えもしたよな。鳴きやんだ、たぶんそれが三発目だったのさ。よかったよ、おれは犬どもの遠吠えが大嫌いなんだ。遠吠えが止むとき、遠吠えを嫌うとき、目の見えない事実に気づかないとき私たちはすっかり隷属している
2023.10.15
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2023/10/07/土曜日/天気は上々、道は混む〈DATA〉 集英社著者 五野井郁夫 池田香代子2023年3月29日 第1刷発行〈私的読書メーター〉〈安倍銃撃事件のわずか17日後にネット番組で対談されたものをベースに、被告人のツィッター1364件を読み解きながら失われた30年の日本社会を考察する本書。五野井郁夫という同世代政治学者と、被告人の母親世代に近いドイツ文学者池田香代子氏の対談中のサブカルやネット用語は逐次解説もあり、理解しやすい構えだ。新自由主義の果てに見えるロスジェネの心象風景。いつどこで〈無敵〉な存在がバーストするかもしれない切迫を五野井氏は語る。誰一人こぼさず包摂する社会を目指したい。折しも教会に解散命令は出たが有効性を見極めなくては。〉Twitter上に山上被告は言葉を残していた。本書第三部には、山上徹也がsilent hill 333 のアカウント名で、2019年10月13日から2022年6月30日までのツイート全1364件が網羅されている。これらは事件後間も無く削除されたそうで、それを予測したネット民が保管していたというのだから、ネットの人びとの情報処理能力恐るべし。事件を報道するのが仕事の新聞社はもはや「新聞」の名を看板から下ろした方がよいかもしれない事態新聞で当初から統一教会との関係を指摘した所は一社も無かった、という忖度の事実。ネットで盛り上がりながら紙面には出て来ないいくつかの最近の事案も合わせ考えれば、一体いつになれば報道が報道として機能するのか懐疑をもつ。昭和世代の家庭からさえ固定電話も新聞も消え去る日は近いのではないだろうか。我が家ではすでにTVも殆ど見ない。さて。そもそも事件が起きなければ、安倍晋三氏はじめ多くの自民党議員らの選挙応援にがっちり組み込まれ政策に反映される、韓国の摩訶不思議な宗教団体との関係も遅ればせながら紙面に顕になることはなかったろう。保守政治の虚実、極まれり山上被告とほぼ同世代の五野井氏は自分が山上被告でないのはたまたまだという強い思いを何度も述べている。また、ロスジェネを産む構造が変わらない限り、第二第三の山上は生まれると警鐘を鳴らす。ロスジェネと命名された多くの同世代人がそのような感情を共有していることは想像に難くない。自分こそヤマガミだ、という。そのことは、人は決して絶対孤独の一人ではないとも示している。日本の失われた30年。 ロスジェネ世代が満足な職に就けず、その事実は本来公的、社会的な構造の帰結であったのに、本人の努力不足に置き換えられ、個々の問題にすり替えられた。 その認識は殆ど正しいと思う。竹中平蔵であり小泉元総理であり、2004年のイラク人質事件バッシングであり、安いもの安いものへとひた走る私たちの30年だ。ついでに言うなら、日本の、まともな宗教に関わる団体や人びとは何故山上母のような人を慰め包摂し得なかったのだろうか。社会福祉の後退を目にして、宗教関係者がこの事件の前で無関係無関心ならば、あまねく日本に宗教は無いと言える。そしてエセ宗教はいよいよはびこり、プレデターは哀しい人を食い物に太る。山上被告のツイートから「世間を支配するのが虚の中で、安部政権の虚実から実だけを取ったらこうなったのだろう」と当時の菅首相をを非難し、「人間なんてこんなものだと最近ヒシヒシと感じる。世界を支配するのはデタラメ、表層しか見ない無関心とそれに基づいた感情、最後まで生き残るのは搾取上手と恥知らず」と、続ける。搾取上手と恥知らずが生き残る、というのはフランクルの『夜と霧』の記述が、私にはぼんやり浮かんで来る。ところで、山上被告が言及した文学作品2点、『カラマーゾフの兄弟』とル=グウィン『ゲド戦記』は、私にはピタピタな本である。虚の中で、安部政権の虚実から実だけ この文言の真意がうまく掴めない。 それは安部政権への評価の、山上と私の差異でもあるかもしれないけれど。 先日たまたま目にした、近松門左衛門の芸術論「虚実皮膜論」きょじつひにくろん虚と実の間の薄い隙間に芸術が存在する、は二項対立とは異なる感受性の成熟を覚える。人はその人生、その虚実を生きる限り、あわいの芸を求めずにはいられない。 映画や文学、音楽好きな山上被告がその皮膜で生きられれば、受験生エリートの勝ち組人生という狭量な価値観からは少なくとも自由だったろうに。 しかし政治的人間は、虚と実を串刺しにした。失われた30年それでも生きてきたではないか。シニカルに陥ることなく、より良い選択を重ねて少しでも住みやすい世の中にしていく。そう願い、そう行動する。私は。
2023.10.07
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2023/10/01/日曜日/曇り、最高気温28度予想〈DATA〉 新潮社著者 マギー・オファーレル訳者 小竹由美子2021年11月30日 発行 〈私的読書メーター〉〈アン・ハサウェイは悪妻と言われている。しかし明らかなのはアンは裕福な農家育ち、劇聖は落ちぶれたジェントルマン家の若造でやがてロンドンで大成功するが、せっせと妻に送金し引退後は妻の元に戻る。三人の子の内、11歳で夭折したハムネットの死因は不明ということ。息子の名(ハムレットとハムネットは同名という)を悲劇に用いた事、また当時欧州を席巻したペストへの言及がない事に著者は疑問を抱いたという。その疑問を骨子に大胆な肉付けを行い鮮やかな芝居を見せつけられた。頁毎に著者の言葉への共感覚のようなこだわりが感じられる。〉凄い才能。ハムレットをハムネットに、ハムネットをハムレットに。芝居×芝居。ある家族の、ある歴史が生じる場所に行き、戯作が生まれる背景を創造するマギー・オファーレルこそ、まじ魔女。物語出だしのハムネットの登場シーンからワシづかみにされる。双子の妹ジュディスのただならない様子を見て、何とか頼れる大人を見つけ、それを伝えなくてはいけないのに、今日に限って家には隣の祖父母宅にも誰ひとりいない。この焦燥は不安の連打すると突然場面は変わる。アグネス=アンと18歳のラテン語家庭教師シェイクスピアの出会いへと14年ほど遡る。それからアグネスの不思議な力の源泉としての産みの母が森のひと、だったことなどのエピソードが挟まれる。著者は北アイルランド生まれであることが想起されるではないか。ケルトの緑の目の女王なんかが。物語年代の1596年の夏、ペストが英国にやってくるまで。ムラーノの職人のベネチアンビーズ、アレクサンドリアのマーケットの猿、船で働く水夫、マン島の男の子、ネズミ、猫へと、ペスト菌がノミに運ばれていく様が、あたかも証言されているかのように、息もつかせぬ速度で描かれる。その年、両親はジュディスではなくハムネットを失うことになるが、その前段の双子のお産の場面は、まるて『テンペスト』。怒涛の嵐だ。母であるアグネスがどれほど子どもを愛しているか、痛いくらいの看護だ。子どもの病気ほど親が辛く思うことはない、まして可愛い盛りの子どもを失う悲しみは…と同時に、言葉が頭から溢れあふれるシェイクスピアの伸びゆく才能を、義父の事業で摩耗させることも受け入れられないアグネスは、彼をロンドンに旅立たせる。そして彼は夫は、ハムネットが生まれた時も息を引き取った時も不在だったのだ。ハムネットの埋葬後、芝居のためにすぐロンドンに戻る夫との間にできる溝。それでも夫は妻と残された娘のためにストラトフォードに大きな屋敷を買い、家族を住まわせ年に一度か二度帰省する。不思議な暮らしぶりだ。今で言う単身赴任。創作の源泉であるアグネスと子どもを汚染ロンドンから距離を置き、汚れなきオーチャードに留まらせるシェイクスピアの意図があるかのような筆致。読者は著者の物語に招き入れられ運ばれる。ハムネットの死から4年。その名で悲劇が書かれ、ロンドンで上演されるニュースを運んだのは、人の不幸が蜜の味、アグネスの継母だった。しかし、いたずらパックというか北欧神話のロキのように悪意の継母が見せた芝居のチラシのタイトル、ハムレットの名を見てアグネスは我を失う。夫の真意を見極めようとロンドンへ生まれて初めて出発するアグネス。そこで見聞きするグローブ座界隈のロンドンの掃溜め具合がリアル。死んでまだ4年、その子の名を悲劇にすることは許されない、アグネスははっきり三行半を言い渡すつもりで芝居を観た。そして、全ての意図を理解する。舞台では現実が反転したのだ。死んだハムレットの父の亡霊はシェイクスピアが演じる。ハムレットを演じるのは、まるで成長したハムネットを思わせる瓜二つな役者の演技、仕草。物語では触れないが、読者は知っている。生きるべきか死ぬべきか、或いは存在しているのかしないのかという自問のハムレットを。夫婦の深い悲しみの癒し、やがて家族が乗り越えていくだろう物語の描かれない未来に向けて。著者は あとは沈黙。
2023.10.01
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2023/09/21/木曜日/急な雨〈DATA〉 平凡社著者 簾内敬司2004年3月10日 初版第一刷発行〈私的読書メーター〉〈山形の詩人の「冬の鹿」に触発されるように、消えた鹿やオオカミを求め、みちのく風土歴史ナラティブの体で始まる。信濃まで越境するのは偶々のご縁であるのが氏らしく慎ましい。考察は日本海対岸へ拡大し、ナナイ族デルスウのつぶやき「これからどうして生きていくか」。氏はそれを命ある生き物全体の問いかけと受取り、自分の場所みちのくから具に検証し、花岡事件中国人蜂起、南部藩百姓の国捨て一揆、戦争敗戦の記憶、千三の墓碑へ、細部へ環流する。忘却が絶滅を招くならそれにあがらう。「記憶・責任・未来」の碑文を刻んだ塔こそ本書だろう。〉簾内敬司さんの小説も三章で構成されているが、随筆に分類される本書も三部のつくり。序、破、急の氏の呼気でもあろうか。1 . 絶滅と記憶著者は眠れない夜久しぶりに、眞壁仁の詩集『冬の鹿』に手を伸ばす。眠れぬ夜には郷土の先達の晩年の歌を紐解くのである。そんな著者の暮らしぶりなのである。そして詩人の初期の作品『青猪の歌』を想起する。あお と しし について。マタギの言葉、或いは菅江真澄の記録ばかりか、1952年に山形県下の中学生女子の作文「村の風土記」までも丁寧に、自在に行き交う。そして論考は、常陸の国の鹿島神宮大明神の春日大社渡りへ、みちのく東北の神社で奉納される鹿踊りの月と篝火の薄明へ。さらに日本書紀に記述された古い地名の 肉入籠(シシリコ) を襲う阿倍比羅夫へと時空のあわいが溶けて、東北の深い森へ何層のベールの姿が重なる。シシは息の長い言葉であった、シシは肉を、すなわち鹿を猪を羚を指す狩猟採集の、みちのく民衆の食生活の基盤を象る言葉だ、と氏は言いつつ レヴィ=ストロースを案内する。集団就職の風景が見られなくなった時代、山仕事で声を聞きながら姿の見えない鹿、明治には絶滅したとされるニホンオオカミ、トキへと揺れながら、やはり鹿へと焦点を戻させるのが『秋田マタギ聞書』2. 人間のくに、神の山沿海州/夕陽海岸藤田省三アルセニーエフ『デルスウ・ウザーラ』日露戦争とデルスウの時代の北満州から東シベリア「デルスウはゴリド人やウデヘ人ばかりの子ども時代を思い出す。ところがそこへ中国人が現れ、やがてロシア人がやって来て生活は年毎にむずかしくなり、その後朝鮮人がきた。森の火事がよく起きてクロテンは遠ざかり、他の野獣も少なくなった。そして今は海岸に日本人までやってきた。」「どうしてこれから生きていくか」著者は狩猟民デルスウの嘆息の背景に、テントを張ったナイナ河口の夜の景観を思い描き、「水晶の夜」に重ね思う。その後にやってくる「夜と霧」の時代を。みちのく南部藩の凶作と大飢饉は、オホーツク海からの寒気がヤマセとなって引き起こした。重い年貢に苦しむ飢えた農民が集団で国を捨てる逃散。人間ばかりではない。かつて大口の真神と敬われたオオカミたちも広がる耕作地に追いやられるようになり、群れは離散して自らのテリトリーを捨て逃げ去る。そうして遠野郷からオオカミも逃散した。生き延びるために。三閉伊一揆「幸ひ思ひ 出立申すべし」『三閉伊百姓愁惣記』柳田國男『狼史雑話』ハンナ・アーレント3. 獅子ケ森に降る雨逃散したのは同国人や生き物だけではなかった。花岡事件のあらましあと1ヶ月余りで敗戦の日本がGHQに命じられ解散させられた直前。非道に思い余って労働収容所から逃走した事件。一個のおにぎりを飢えた中国人にあげた女性。結局その中国人はなぶり殺されてしまう。ここで、著者はフランクルの『夜と霧』の重要な一文へ読書を連れてゆく。「私を当時文字どおり涙が出るほど感動させたものは物質的なものとしてのこの一片のパンではなく、彼が私に与えた人間的なあるものであり、それに伴う人間的な言葉、人間的なまなざしであった」『秋田県警察史』蜂起の翌日にはあらかたの中国人は、鹿島組、鉱山関係者、警察、自警団、憲兵隊、住民によって山狩された。彼らは炎天下、三日間水も与えられず広場に座らされた。息耐える者が続出したが、彼らは犬や猫に食われるままに放置されたという。この残忍性はどうだろうか。これは私の血にも同様に流れる日本のものなのかと自問するだに恐ろしい。戦後55年目の夏、著者はその現場である大館市立花岡体育館を訪れ、小さな碑が雨に濡れるのを見る。この雨がせめて一日でもあの時降ってくれれば、と詮無かことを思うのだ。そして敗戦後のドイツと日本の行動の差を考える。「記憶・責任・未来」を考える力を。文末で著者は高橋セキ、千三母子の墓に触れている。母子は文字どおり母ひとり子ひとり。藁葺きの薪小屋に住んで日雇仕事という貧乏のどん底で千三を手塩にかけて育てた。千三は小学校を卒業すると働きに出る。心優しい親孝行息子で、休みが取れらば必ずセキの元に帰り安心させた。文字の読めないセキが次はいつ帰る?を口癖に指折りしては息子の帰りを心待ちにしたのだ。千三に赤紙が届く。その時校長に話したセキの言葉が残っている。『石ころに語る母たち』「これまで、千三をオレの子どもだ、と思っていたが、間違いだったス。兵隊にやりたくねえど思っても、天皇陛下の命令だればしかだねエス。生まれた時から、オレの子どもでながったのス」千三はニューギニアで命果て、敗戦の数日前に白木の箱の小さな骨一つになってセキの元に帰った。天皇の赤子と連れて行かれた子は、小さな骨に成り果て今、母の元に帰って来た。著者のいう換骨奪胎とはまさにこのことだ。杖とも柱とも頼るもっともよき人千三を亡くして、セキは千三の墓を建てようと決心する。朝4時に起き日雇いで得た30円から爪の先に火を灯すように貯金をし、10年後道路に向けては南無阿弥陀とだけ彫った墓石を建てた。「牛や犬の死んだようにしたくねえと思って、長い間に少しずつためたお金で墓石つくってやったス。オレ死ねば、戦死した千三を思い出してくれる人もなく、忘れられでしまうべと思って、人通りの多い道ばたさ建てたス。その道を通った人たち墓石見で、戦死した息子の千三を思い出してけるべエ。お念仏をとなえてくれる人もあるべし、知らねえ人でも、戦死者の墓だと思えば、戦争を思い出すべななス」簾内敬司さんは、自分の住む土地の一人の戦没者とその母の人生をきちんと語り、この本を終えている。映画福田村事件で生き残った男の子が、亡くなった者一人一人の名前を声に出してしっかり警官に聞かせる。故人は抽象的な数字ではない。具体的な生きた一人ひとり異なる大切な人なのだと訴えるように。そのシーンは本作の言わんとする終わりに重なる。
2023.09.21
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2023/09/18/月曜日/秋はどこ?〈DATA〉 岩波書店著者 簾内敬司1997年9月15日 初版第一刷〈私的読書メーター〉〈『千年の夜』続編。東京で就職した僕が、公子の死をきっかけに帰郷を決意。村暮らしも落ち着き三人組復活と窪地の李さんとの関わりが深まる。著者が「ねんごろ」と表すのも懐かしい。李さんの生計の助けに花卉栽培を勧めると李さんは規模を更に拡大する様子。気分を転じようと出かけた海べで4人は祭りに出会す。篝火を囲み、横笛奏でる女踊りは浜に流れ着いた死者を慰める踊だという。無言で見つめる李さんの涙に篝火が宿る。ひたすら耕すお花畑、花は売らないと李さんは言う。李さんの願いと3人の友情は希望の橋渡しとなる予感で閉じる。乞う続編ー海抜け ー谷の研究 ー涙ぐむ目で踊る三章立て。李さんの過去が語られる。花岡事件を思わせる背景や自警団を率いた村の区長のその後の姿は、映画「福田村事件」を思い出させる。その頃まだ生まれていないぼくたちではあったが、村で積極的に語られて来なかった事件を知るようになる。三人組の内村に留まった田口は町役場に、西方は農協に職を得たのだから、町村の歴史は徐々に三人に共有されたのだ。村は山の谷深い場所にあり、町から差別されている。町の中学に上がると肌身にそれを感じる。町は大きな市から見下される。大きな市も東京からは田舎者と扱われる。東京も京都人からは所詮田舎者の集合地なのだろう、そんな扱いを受けたとアルバイト学生が話したことを東京に勤務していた時代の話として父が語ったことを思い出す。普通に考えればバカバカしいにも程がある。属性には意味がない。その人間を人間たらしめている本質こそ鑑賞され交流される価値のあるものなのだ。私にとって簾内敬司という作家に出会ったことは今年最大の収穫だ。ふと漏らした李さんの「海へ行きたい」。考えてみれば山襞の窪に住むぼくらは海を初めて見たのは遠足の時。その記憶は鮮烈だった。李さんにとって海は捕縛されて来たこの国と祖国の間の回廊なのだ。三人は李さんを誘い、県境にほど近い日本海の小さな浜に辿り着く。40年前の李さんの、鉱山からの逃散は海を目指したのだった。40年窪地を耕し、愛する人との出会い別れの後、花壇が姿を表し始めた。そうして高齢者となり、生き延びるための希望の海に若い理解者、友人らとやって来たのだ。浜では折しも女たちの踊りが始まる。篝火に照らされ横笛だけの無言のおとなしい、何かに耐えるような、長い歳月を物語るような踊りを見つめる李さんの目に涙が浮かび流れていく。次章では美しい谷川の釣りやキャンプの様子が描かれる。林業に従事した父が僕に語った、涙を流す木、ブナの原生林、渓流の自然描写は爽やかな一陣の風だ。過激な行動に出た自然保護活動家らしき品川ナンバーの男と親しくなる李さんが示す友情はぼくら以外では珍しい出来事で、その恩恵に被れるのは誠に選ばれた人、というべきか。李さんの弛まない働きでお花畑は見事に出来上がっていたことに息を呑んだ三人は、庭にデザインを施していく。しかし窪は李さんの土地ではなく村の入会地、コモンスペースだ。誰のものでもないが誰が使っても良い場所。それを李さんと三人は村人が誰でも寄れるお花の溢れる公園にしようと画策する。偏狭な村人がそれを受容するかどうか。入会地と道路を結ぶ歩道もないのだ。問題解決には、法も感情も歴史も複雑に絡む。まして土地の問題は大きいが、三人は寄り合っては知恵を磨く。リレーションの良さは何といってとも、李さんという中心があった上で同じ体験を育んだ幼馴染であることが大きい。それぞれの個性も伸びやかだ。そして公園の公開に、三人はぼくの妹も加わり、長らく廃れていた鹿踊りを復活させるのだ。その踊りは、涙ぐむ目と名づけた、目をデザインした花壇の周りで篝火を焚いて演じられる。いつかの浜の李さんの涙であり、森や谷に生きる山女や樹木の涙であり、人と人を隔てる無言の一瞥の毒への公子親子の慟哭の涙を鎮める奉納舞でもあるのだ。鹿踊りの練習を始めた三人に先ず興味を寄せたのが子どもたちであったことが素晴らしい。大人が夢中になって何かやっている。一体何が始まるのか、ワクワクするのはいつの時代も垣根のない子どもらなのだ。
2023.09.18
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2023/09/16/土曜日/夏が終わらない〈DATA〉 白水社著者 矢野誠一2023年3月5日 印刷2023年3月18日 発行〈私的読書メーター〉〈藝能評論家という肩書きも珍しい。敗戦時10歳で、まもなく麻布中高に進んだ著者は映画クラブで鳴らし、下町の遊び慣れた同級生の薫陶を受け芝居遊びに明け暮れた。日々の暮らしのエピソードはいつか観た芝居、歌舞伎、文楽、落語、新劇、ミュージカルの一コマにピタリとハマる。芝居が人生か人生が芝居か、境目なく捻合わさった一本の紐の如く。茶人だった祖母が普請した数奇屋の実家の隣家表札「寓」には近衛文麿のお妾さんが棲んだ。敗戦後ひっそりと姿を消したら長谷川一夫一家が入居した。北村和夫エピソードに笑う。昭和の時代感たっぷり。〉著者、敗戦の年に10歳ならば、今現在は88歳。米寿だ、目出度い。お仕事仲間はずいぶんと電子化されてしまったが、氏は未だにペリカン万年筆。パソコンはおろか携帯電話も持たない。もっぱらファクシミリでやり取りだとか。電脳化について何度か逡巡があったようだが、それらの機能をマスターする時間があれば1ページでも原稿を書きたい、が心情だという。賢明だ。君子である。君子、危うきに近寄らず。私め小人。PCすなわちパーソナルコンピュータが黒白画面を脱したOS初期の1995年を激しく思い出す。もっともMacパクリと言われたが。それは富士通PCだった。何度初期化嵐を見舞われたか。消えたデータ、ソフトウェア再インストール、どれだけ空しく時間を浪費したか。その時間でどれだけの本が読めたか。データ処理も通信速度も、もしもし亀よの時代。見よ、今はPCを開くことさえ無い。スマホ一択だ。さて、氏の話である。今の今まで組織に属さず自尊自衛の自営業。自らも役者をやったり演出をしたり文章を書いて戦前戦後を生き抜き、舞台をずずずいーと眺めてきた目利きの、肩の凝らない息抜き人生。妙に懐かしい。ご近所にご隠居さんがいなくても、こんな本のページを開けばたちどころに現れる、ご隠居さんが。
2023.09.16
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2023/09/10/日曜日/暦では白露〈DATA〉 影書房著者 簾内敬司1989年5月10日 初版第一刷1990年2月28日 初版第二刷〈私的読書メーター〉〈読書中「福田村事件」を観て映画と小説が交叉するようだった。戦後10年ほどして谷間の寒村の、見捨てられた湿地の窪地に一人の背の高い男が住み着いた。小学生3人組のぼくらにも村人が男を忌み嫌い、今にも襲い掛かろうと算段の様子が見える。その空気に乗じてぼくらは肝試しに男の陰踏みに打ち興じる。町から母娘二人して逃げ帰った公子の影も面白半分に踏みつけると公子は痛い!と蹲った。ぼくらが人の心の痛みに触れたとき、窪地の男への憐憫が芽生え、公子の母、祖母の悲哀に抉られる。故郷を離れ成人した僕にある日公子の自殺が伝えられる。〉ストーリーは三つの構成からなる。「影踏み」「魂の力」「菩薩花」半分は著者の自伝的要素を含むように思われた。「魂の力」母千代の魂の抜け殻としての死を見て公子が身体の奥の奥から絞り出す声。村人の「心ない」噂や眼差し態度に潜む毒。心を理解する魂が無くて、人間は生き延びられるか。公子や母、祖母がようよう生き延びられたのは僕の母が、いくばくかでもその魂を持ち得た隣人であったからだろう、と著者は描いているような場面が幾つか描かれる。しかし村人の毒は徐々に千代を侵食する。熱さも冷たさもひもじさも睡眠も、何も感じない肉体になり、魂はただただ会いたい人へと抜け出していく。そんなモノ想いに取り憑かれるような、まるで平安貴族の恋物語を我が身の上に感じとれる経験もしくは感性がなければ、読み手はおそらく大仰に感じられる章だろう。認識を他者と共有する困難さを考える時、認識の階層について思う。私たちは計量できるものについては共通認識が持てる。すなわち科学の領域。歴史も一応人文「科学」であるが、これについてはどうだろうか。知られている史実に捏造や加変があるとしたら、共通理解はせいぜい地理地質の分野までだろうか。その先の計量不足な情の絡む分野ともなれば人の数だけ認識の数も増す。そんな私たちが認識を超えて共同体を育てていくには、過去の過ちから学んでそれを個々に克服する作業が必ず問われる筈だ。さて、この本について誰もが過たず共通に認識できるのはコンテンツではなく、パッケージだ。私は 岡茂雄の『本屋風情』読んで以来、パッケージの方にも関心が向く。それは絵画を囲む額縁の如くして。本の重さとか四辺の長さとかページ数とか発行日、出版社、責任表示としての発行者名とか、本のパッケージを具に眺める。で、本の本体にISBNが無い、ことを発見する。おおよそ1980年代半ばには、ISBNバーコードが日本の刊行冊子殆ど全てに付与された。本書発行の年代から考えるとそれがないのは少し不思議だ。装丁は大変しっかりしている。一体影書房とはどんな出版社なのだろうか。と別の方に関心が湧く。ネットで調べてみた。こだわりのある出版社であることが分かる。韓国の詩人など早くから朝鮮文学を日本に伝えている。影書房を立ち上げた松本昌次という出版人もとても興味深い。そしてこの本の初出が影書房の季刊誌「辺境」の6.7.8号に連載されたことがよく理解される。辺境には第一次、第二次、第三次が存在し、前の二つは井上光晴が編集人で、豊島書房から出たこと。第三次が影書房から全10巻出されたことが分かる。その掲載を見ると、列島の周縁から遠い声、小さい声を拾いあげていることがよく眺められる。本作続編の『涙ぐむ目で踊る』は、その季刊誌に連載されていない。さて、それは?
2023.09.10
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2023/09/04/月曜日/久しぶりの雨↑図書館で借りたあと、あまりにも気に入って購入。絶版〈DATA〉 岩波書店著者 簾内敬司2001年1月29日 第一刷発行〈私的読書メーター〉〈藝能評論家という肩書きも珍しい。敗戦時10歳で、まもなく麻布中高に進んだ著者は映画クラブで鳴らし、下町の遊び慣れた同級生の薫陶を受け芝居遊びに明け暮れた。日々の暮らしのエピソードはいつか観た芝居、歌舞伎、文楽、落語、新劇、ミュージカルの一コマにピタリとハマる。芝居が人生か人生が芝居か、境目なく捻合わさった一本の紐の如く。茶人だった祖母が普請した数奇屋の実家の隣家表札「寓」には近衛文麿のお妾さんが棲んだ。敗戦後ひっそりと姿を消したら長谷川一夫一家が入居した。北村和夫エピソードに笑う。昭和の時代感たっぷり。〉岩波書店はさすがだなぁ。こういう著者を見逃さない。私は東北がらみで菅江真澄に関心があって、本書をたまたま図書館で手にしたが、そうでもなければおよそ知らないままに過ぎてしまう作家だったろう。1951年生まれということでまだご存命だと思っていたら、もう一期閉じてしまわれていた。高い山の崖地で、知る人なく咲き散る高山植物のように、ひとり太陽や風、雨、星の運行、雲のかたち、たまに訪れる虫たちを眺め充足した。そんな印象を持ってしまう。全10章、どれも何度も味わいたい。この本で知った寒立馬。著者が思い立ってその姿を見に行ったように、私もある日思い立って下北半島にそれを見に行きたい。それに北限の椿の群生。歳取らず死なない女、八百比丘尼の辿る先々の椿をも。
2023.09.04
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2023/08/21/月曜日/じっとしていても汗ばむ残暑〈DATA〉 文藝春秋著者 小川洋子2023年3月10日 第一刷発行 文藝春秋2020年9月〜21年12月号カバー作品 中谷ミチコ 「すくう すくう すくう」〈私的読書メーター〉〈からだの美というタイトルには「用の美」という民藝運動の思想が思い起こされる。「用いられるからだの美」ともいえる、肩、声、中指、爪先、視線、首、ふくらはぎ、腕、太もも、足の裏、指先といった人間細部。また、ゴリラの背中のシルバーバック、ハダカデバネズミの皮膚、シロナガスクジラの骨、カタツムリの殻という作為のない、自然進化の美への視点も著者らしい。挿入写真が美しい一方で不思議なカバーの、両の掌のようなオブジェが、作品最後の赤ん坊の握りこぶしと響き、連なる生命への賛歌に、力強い肯定になるのが妙、作本の美となり。〉小川洋子さん、名前の字画が既にうつくしい。小さな水源地の側のささやくような水の流れが、はるか海を目指してゆったりと広がる様が見てとれるような。そしてそれを裏切らない作品群。ときどき不思議な窪地の底に潜む水を巻き返し、流れを渦巻かせるような不穏な時も味わいがあるけれど。この作品はすーと、まさに掬う、救う、すくう。福井晶一の声 本当の意味で生身の人間の声に圧倒された、との小川さんの感動を私も同じくした。コロナ禍の前だったろうか、彼の存在が他のすべての役者を引き上げてさえいたように感じた。その前年か、ロンドンのウエストエンドで観た本場舞台、尤もロンドンのステージはみな小ぶりだから、その比較は公平ではないかもしれないけれど、より遥か上を行くパフォーマスに、日本のミュージカルの厚さを認識したのだった。観客席の椅子の奥深くに身体が沈み込むような、そんな感動を覚えている。羽生善治の中指の震え前人未踏の先の一手、その真空のような静けさの中に入るときの畏れに肉体は震える。まるでシスティーナ礼拝堂のアダムの指先バレリーナの爪先重力に抗う筋力では無い、ほかの要素。爪先の鋭い痛みは、アンデルセンの人魚姫が娘の脚を得て、地上を歩くとき、その一歩ずつにナイフで切られる痛み、とあったのをぼんやり思い出す。その痛みが無くて自分が縛られている世界から飛躍することはできないのだ。痛みが、それを見つめる万人をしてサクリファイスと胎底に落ちるとき、芸術が立ち昇るのかもしれない。なんということ。私もゴリラのシルバーバックにすりすりして遊んでみたい。そして叶うものならば、ボートのエイトの一人として、水も空も溶け合った輝きの中を滑るように流れてみたい。
2023.08.21
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2023/08/13/日曜日/残暑、ときどき大雨〈DATA〉 講談社著者 石田夏穂2023年1月24日 第一刷発行 〈私的読書メーター〉〈百頁に満たない中編と短編二つ。主人公は共に自立した、能力の伴う仕事をこなす女性だ。低体温から逃れたい一心で、或いは並外れた太ももコンプレックスで、つまるところ自分は太っていると思い込み(相対的な数値な訳だから)、その克服にどこまでもストイックにゴールを目指し精進する。細くなる、小顔になる、艶やかな肌になる、周囲の態度が変化する。役割としての女性的振る舞いをメタ受容してみる。益々周囲が変わる。ルッキズムというよりは肉体を卑下し、その改造を試み、それによって精神にどんな変化が展開されるか。ディープラーニング?〉殆ど修行僧である。この身体のイジメ方。主人公である私は、身体や感情が反応する前に思考の一拍が必ず挟まれる。意識の前の身体の動きなど無いかのようにまるで人間の生理がAIと同期しているみたい。〈ケチる貴方〉の私=佐藤 の昏倒。頻脈が原因だが、その時の意識の消失はまるでバッテリー切れ、のようでもある。心遣いの出し惜しみを止めると低体温が少し緩和されることに気づいた私は、仏頂面はとりあえす脇に置いて、新人指導に当たる。この新人二人の内、一人が大事な日に遅刻してくるのである。その時の新人くん曰く、「さあせんさあせん」。笑える。そういえば 若い人の あざーす。ケチるって、会話というか物言いに表れております、ことばをケチる貴方。一方、主人公の私 は上司にきちんとすいません、と言える。新人との8年の差という時代変遷。ところで新人の内、一人はエクセルがまともに使えない。年配者はPCが使えない、が意外にも職場では逆転していると、何年か前にニュースで見たけど。今となってはスマホ万能、ヨロズ無料アプリ、レポートはチャットGPT、コンビニでアウトプットなんだから、ゾロリと重いPCを立ち上げ、周辺機器をアップデート気にしながら揃える必要もない。さあせんチャラ男は愛嬌はあれど、オツムはもう一人の新人にある。そしてその新人くんは日をおうごとにケチる貴方、の地金が出てくる、のだ。嘘寒い。寒いねと言えば寒いねと応える人のいる温かさも横滑りの寒さで、物語閉じる。何だろなぁ。〈その周囲、五十八センチ〉太ももの脂肪吸引のところがリアル過ぎて、もうホラー小説のようなんですが。作者はもちろんホラー小説を書きたいわけではないだろう。幼児期より見た目で評価されなかった分、奮闘努力してエリート大学に入る到達点を通過したのち、その営みモードを今度は自分の理想形を手に入れるため、歯を食いしばる痛み、注ぎ込む大金へと情熱を傾けた三十路の女の自己肯定。それを言いたいのでもないだろう。肉体の自然、正直な感情、共感する思考みたいな幸福感から途絶されている、それは令和5年夏を生きる我らのプロブレムである、と。まあ、とりあえずそのように捉えた。8/6、8/9、8/12、8/15全部アメリカと日本が交差する歴史の日、なのだ。本当に苦しんだのは民草ばかり。何を到達点にして、何のためにそこまで自分を蔑ろにして。
2023.08.13
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2023/08/11/金曜日/はあ、久々に涼しい朝〈DATA〉 出版社 東洋経済新報社著者 ジェイソン・ヒッケル訳者 野中香方子2023年5月4日 第1刷発行 2023年6月21日 第2刷発行 〈私的読書メーター〉〈今夏の台風の暴虐と迷走、地球規模の酷暑、山火事、大雨。またぞろ復活のウィルス禍。地球環境異変が続く近年。かつてない難民の数、いつ終わるともしれないキャンプでの劣悪な暮らし。なのに世界の穀倉地帯での長引く戦火が食糧難を助長。この状況下で、1%の富豪らは彼らが保有する世界の富の40%を更に嵩上げすべく権力闘争を繰り広げる。資本主義成長神話。当に我ら火宅の人だ。「魂をモノに変えた産業」から再び「モノに魂を」授けられるだろうか。「なぜ二番ではいけないのか」を嘲笑するマチズモから自由で、ビリでもと笑っていられるか。〉経済人類学、そんな分野もあるのね。著者は経済人類学者だ。エスワティニ、そんな国がアフリカにあるのね。著者はそこで育った。もっとも当時はスワジランドと言った。あ、それはなんか耳にしたような。本書は2部立て、第1部 多い方が貧しい第2部 少ない方が豊かこの切り口で第1部では資本主義の台頭とその思想的屋台骨であるデカルト二元論が語られ、自然を搾取の対象とみなす欧州人の価値に基づくテクノロジーの進歩、現状が今後地球にもたらす禍いを、統計やグラフで証明する。ここで、ハタ、と思うのだが。中東のユダヤ人青年、すなわちイエスが3年間説いた初期キリスト教ではなく、ローマ・カトリックによって権威付けられた方のキリスト教って、実はデカルトで完成したんだなぁ、ということ。カーペンターズ兄妹が、高らかにトップオブザワールドを歌う、あの神が創りたもうた最高のクリエイチュアとしての、最高の白色人種の歌、がよぎる。とってもアメリカ的的。第2部では、デカルトではなくスピノザの思潮が欧州で受け入れられていたら世界は別のものに、という著者の考えが述べられている。スピノザはフランドル地方ネーデルランドのユダヤ人で、厳格なキリスト者からは異端扱いされた哲学者だった、くらいの理解しか持たない私。以前からその著作が日本ではブームと言ってよい状況が続き、周囲から読んでみたらプッシュが絶えぬ。ラティオの思潮をいつか捉えたい、とは思う。またまた、ハタと思うのだが。今度は北方ルネサンスの地で、イエスと同じくユダヤ人青年スピノザによってアップロードされた筈の、ブラザーサン、シスタームーンの側の宗教観は結局、強固な権利システム構造の前に粉砕された、と。しかし、そのカケラを集めて世界を再構築するトレンドがある。ということ。人類が生き延びるためにはそちらを目指すしかない。ノースから見れば、地球の生命ネットワークは何とか平衡を保っているように見える。そしてそこで終末から目を閉ざし日々をやり過ごす茹でガエルとなる。そういえば、この前露天風呂で四肢を伸ばして白いハラを見せ浮かんでいるアヤツを見た。私に視ることを強いるアヤツを。が、サウスではもう始まっている。引き戻すことのできない沸点に到達したときを想像できる人はどれだけいるのか。著者は欧州言語で二元論を克服する語り部?として隘路に陥った現代文明を告発する、その原点は少年時代に夢中になった小さな生き物たち。でもでも日本人の私からすれば日本は、アジアはとうにというか、元々汎神論が世界観のベースではないの?身構える必要も無いくらいに、当たり前のように水道の蛇口からお水を飲むように←世界のスタンダードでは当たり前ではない、山川草木全てに同等の生命を感じ、お天道さまが見てござるから人として間違ったことはできない、を身上として祖先を敬い生まれ変わりを信じ、生きてきたのではないのか。生命のない石にさえ、亡くなった人でさえ、世界に張り巡らされた網の結束として私と一体で、その一つが破壊されるなら、世界そのものが消失する、という世界観それはイデアでは無い。身体的な感覚だ。喉を潤す水と同等の、現実的な具体的な感覚だ。またもやハタと思うのだ。成長する、進化する、と言った所で、人類の中に100mを5秒切って駆け抜ける者は登場しない。富士山を超えるビルディングは建たない。生命体も物理体も限界があるのよ。ビッグブラザーに洗脳、コントロールされたひ弱な現代人、わたし、はそんな限界はないと踊り狂う、マーヤの闇祭りの群衆、である。現実を具に観察し、思考する人は現在の気候変動、プラネタリー・バウンダリーは100年河清を待っていられる状況にない、と警告する。渋谷の高級アパートに住むアメリカ人一家が夏休みで2ヶ月留守にする際、200m2の居室のエアコンをオンのまま帰米した。帰宅した時に部屋が暑いのがイヤだから、という理由で。こういう人に付ける薬ってあるの?こういうムードを煽る建築を作る作家、ゼネコン、許認可役所に問題ないの?それで儲かっている人だーれ?それは原発へ核燃料ウランへ、核戦争へとつながらないと言えるの?複雑で暑い日本のパラダイス♫
2023.08.11
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2023/07/29/日曜日/カッコーの声がこだまする↓たまにはこんな環境下で読みたい。〈DATA〉 光文社古典新訳文庫著者 フォークナー訳者 黒原敏行2018年5月20日 初版第1刷 発行 〈私的読書メーター〉〈引き込まれ読んだ。アメリカ南部の悲劇を描くと同時にその土地の持つ肥沃さが培った向光性とでも呼びたくなる無垢な希望が始まりと終わりに円環している。宗教を持たない私にはとても宗教的な作品と受容された。ネガティブキリスト存在とも言えるクリスマスの、己とは何者か?の切実な問いが来した、飲まず食わずの荒野の彷徨、肉体と精神に及ぼす描写はただならぬ迫真を持ち殆ど求道僧のようだ。また、血族の物語の中に囚われ生きた元牧師を告解へ至らしめる赤子の取り上げ。印象的な道の表出を誘うような信仰告白の響きは八月の残光の如く微かに。〉作品中に現れる印象的な道の描写もう一度確かめたくて読み直す。それはこの文庫本の482頁にある。伏線は476頁。保安官と自警団がいよいよクリスマスに迫る場面。今まさに夜が明けようとする。…吸い込む空気は泉の水のようだ。…怒りや絶望とはまったく無縁な静かな寂寥とひとつになっていくように感じる。『俺が欲しかったのはこれだけだ』そして冷たいまだ暗い泉に顔を映し髭を剃る。『地面の畝のところをたどるほうが楽だが、そうはせず、まっすぐに歩く。短い距離をへて道路に行きあたると、その脇に座り込む。静かに現れ、静かに消えていく、静かな道路だ。白っぽい土埃の上には細い車輪の跡がまばらに残り、ほかには馬やラバの蹄の跡、所々に人間の足跡。』静かに現れ静かに消える静かな道路!メキシコの人がいう カミーノ 日本のひとがいう 神の道これはやがて、コーマック・マッカーシー『THE ROAD』に続くのだろうか。この読書の元、この島国では父親が娘への歪んだ愛情と自覚することを拒絶するような、新しい事件と古い事件が蘇った。『八月の光』の中で、フォークナーは、ひとり見知らぬ土地を目指す臨月のリーナの姿を見た、行きずりの男たちの会話でこう言わせている。この娘にはきっと母親がいない。なぜなら男親はどんなに娘が可愛くても赦せないことをしたら追い出すが、女親はどんなに娘が赦せないようなことをしてもやっぱり可愛くて一緒に暮らすからだ。さすれば、フォークナーは、巷間賑わす日本の2つの事件を見て、この国に父親という構えの欠落を発見するだろう。そして、およそ独立したもの同士の契約ができる交渉相手では無い、と考え、恐喝に至るのは実に簡単なことだろう。物語中、私がもっとも人間的に止揚されていくと思えるハイタワーが、クリスマスなる人物について憐れむ述懐、どんな場合でも、人を殺すことは正当化されるものじゃない。みんなの命を守るために働くことを誓った公務員ならなおのこと、人の命をとってはいけない。それがどういうにんげんであれ、…警察庁長官よ、聞きなさい。法と規則と人間性に基づいて。あなたはフォークナーが嫌いかもしれないが。旧約聖書と、本書の登場人物、そしてフォークナー自身の血脈、アメリカの分断の歴史なども読み解けば、いよいよ興味と好奇心の募る読書だ。
2023.07.29
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2023/07/15/土曜日/曇り。日差し遮られ過ごしやすい。〈DATA〉 新潮文庫 著者 太宰治昭和25年11月20日 発行 平成15年5月30日 百四刷改版 令和4年3月20日 百四十一刷〈私的読書メーター〉〈高名な作品だけど初めて読んだ。明治末年、津軽の金木という所、津島修治なる聡明な人間に生まれてくることの難儀さを想う。父は貴族議員も務めた大地主。三十人の使用人に囲まれ豪邸に住む子ども。属する世界の乖離の淵を覗けば、王族のごとき暮らしは貧しい農民の搾取の上に成立する事実が見える。優しい心根を育む何不自由無いオーチャードという母胎。その優しさが含羞を含んで、虐げられた人びとへの慚愧の念へと固まり身も財も潰す苦しさ哀しさの往復運動、下々からすれば諧謔やら無頼やら。太宰に殆ど重なる直治の遺書にそれが鮮やか也。〉版を重ねている。沢山の読者を得ている。よく読まれているということ?こんな重苦しい世界を描いているのに。もっともただ暗いだけではない。かずこの健康な生きる力は、貴族的な母と狂乱蕩尽弟の直治という〈光と闇〉に不思議な日の差し方を投げて交差する。一つの世界を創造したのだ、確かに。蛇の卵を焼く、薪のボヤ、竹の子暮らし、西片町…作者は、直治に伊豆の山荘ではなく、西片町のあのお屋敷で死にたかったと述懐させている。実際、西片町はには多くの作家、編集者、学者、音楽家が住んでいた。木下杢太郎のような人も。牧野富太郎も。太宰の早い頃の作品を読んで作家になることを諦めた、三島由紀夫を育てた木村徳三という編集者も。その地に、この一族のお屋敷はあった。一族とは、太宰治が考えた文学や絵画、音楽などの芸術の血脈で繋がる一族だろう。故に『斜陽』の聖家族である、母、姉、弟を含め、太宰を取り巻くその時代の、芸術デモーニッシュが大小投影されたものでもあるだろう。投影される光の源へ。エセ芸術家の妻へのプラトニックな恋慕は、彼女のプロフィールを冬の夕空を背景に、横たわる位置から仰望したとき頂点に達する。全く自然な、彼女から差し出された毛布の親切にヒューマニティーの蘇生を見る直治は、戦争末期の焦土、焼け跡の人心荒廃の現実の福音となり得た。本当に大切なその人を思い浮かべ、姉かずこに、道徳の過渡期の犠牲者と理解される直治の死道徳の過渡期!新しい道徳が生まれて来なければ人はどうやって生きていけるだろう。「革命は、いったい、どこで行われていやのでしょう。少なくとも私たちの身の廻りに於いては、古い道徳はやっぱりそのまま」あれだけの敗戦があっても古い道徳は残り人びとは変わらない。この文章を読むと呆然とする。新しい道徳は未だ生じないのに、利権だけは蛇より聡く素早く雑草よりも強かに蔓延る。3.11が起きても、古い利権は残り人びとは変わらない。のだ。これ以上の犠牲者は要らないのに。「この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかってきました」かずこは「女がよい子を生むためです」と結論付けた「よい子」。私はこの言葉にとても引っかかった。しかし、かずこが太田静子その人であれば、その前に心中を運命付けられた赤ん坊の父親である太宰は、よい子が授かるようにという願いよりもはるかに強い言霊を静子に与えたのではなかったか。そう、腑に落ちた。「マリヤがたとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になるのでございます。」敗戦後に、かずこのこの言葉に救われた女性がどれだけあったろう。いや、今でも。だからよい子を生んで、と祈らずにはいられない。芥川賞がとれなかった。そのことに衝撃を受け、入院治療する津島修治さんは実に繊細だ。男とは哀しい存在であることを如実に体現した人だなあ。
2023.07.15
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2023/07/11/火曜日/朝から暑さ甚だ〈DATA〉 新潮文庫編者 太宰治昭和42年8月30日 発行平成23年11月25日 七十一刷改版令和3年11月20日 七十八刷〈私的読書メーター〉〈ざっと120年前のロシアを映す戯曲2つ。名訳と言われる神西清の新潮版『桜の園』と『三人姉妹』を収録。貴族階級が没落し新しい支配階級が台頭し、無産階級の人びとも労働を通して自己実現を図ろうとするような時代に揺れるロシアの大地に共鳴するように切り倒される桜の樹。かつてその実を瑞々しく保存したレシピは既に失われた。しかし開墾された土地には沢山の小別荘が建ち並ぶと今や金満家になった小作の倅は幻視する。神の救済に寄らない人間中心の時代精神の招来への祈願はアジア的な野蛮、無知蒙昧を遠い未来克服していくとの予言は?〉上る朝日と沈む夕日、どちらがお好み?うーんそれぞれ味わいが違うわよね。朝日はエネルギーがこちらにまで満ち溢れる印象、夕日にはたまらなく郷愁の念が湧くという。起きよ立てよ、とだだんだんのリズムの予兆。色は持たずかたや優しく労わる弦の調べ、偶に何事かと驚嘆せざるを得ない色彩の展覧自然観察と時代観察がチェーホフの中に併存して…あ、だからか。これを読んでいる最中に何度も『日の名残』が蘇った。つまり朝日と夕日の印象もしも私が舞台演出するなら色と音でインプレッションに強弱を付ける。あと役者の肉体がとても大切。夕日側の方には半年ほど前からグランメゾンの食事三昧、ホテル暮らしと社交。できれば老婆やと執事付きでのらくら過ごして頂く。若しくは一瞬にしてその肉体を顕現させる方。こちらのおねぎが3円安い、が見えてしまうはあるまじきにて。さて。2作ともに重要な存在は高齢の男だ。『桜の園』では、売られた屋敷に閉じ込められて今当に息を引き取る高齢の執事フィールスドラマ最後のセリフを引き受ける最期の独白はフィールスの、「…ええ、なんてざまだ、精も根もありゃしねえ、もぬけのからだ…」そしてセリフの後、ト書きでドラマを締めくくる。「はるか遠くでまるで天から響いたような物音がする。それは弦の切れた音でしだいに悲しげに消え」桜を伐採するために「木に斧を打ち込む音だけ」になるのだ。『三人姉妹』終幕前、三人姉妹の「生きて行こう働こう、楽隊の音はあんなに楽しそうに鳴っている.私たちの苦しみは後に生きる人たちの悦びに変わる」とそれぞれ明るく前を向きながらも、聡明なオリガは何のために今苦しんでいるのか、「それが分かったら、それが分かったらねえ!」それに被せて、耄碌した軍医チェプトイキンの口上。タララ、ヤ、ブンビヤーと口ずさみ「道の置石に腰かけて」、新聞を読みながら「おんなじことさ!おんなじことさ!」被せてオリガ、「それが分かったら、それが分かったらねえ!」言葉のロンド、そして幕。ところで『三人姉妹』でアレーコの名が登場する。これは、あの「アレコ」かな?先だって青森美術館で観たバレエに仕立て上げられたプーシキンの、あの詩ジプシー女に恋をして家出した貴族の青年アレコは100%自由を得、愛を得たと思ったが、恋に奔放なジプシー女は他の若い男に心変わり。怒れるアレコの女に振りかざすナイフは彼女の命を奪う。本作中「いかるをやめよ、アレーコ」のセリフに対して、「なんだってアレーコなんか持ち出すんです」。これ当時のロシアの観客に受けたところかも。同時代の有名作を引っ張り出すお茶目振り他にもロシア文芸に通じた人には、ははーんが沢山あるに違いない。芸術作品としてはやはり『桜の園』の美しさが一際輝く。
2023.07.11
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2023/07/07/金曜日/腫れ上がり〈DATA〉 新潮文庫編者 太宰治昭和49年3月30日 発行平成21年4月20日 四十刷改版令和5年1月10日 四十五刷〈私的読書メーター〉〈面白い。言葉と感情の連弾と疾走。どうみても若きハムレット=旧制高校時代の太宰治。金木の生家、斜陽館は当時周囲を圧倒し当にお城であったろう。津島家をデンマーク国王一家に置換。一大事はお家=お国の存続。番頭一家のいわば庶民クラスの交情なんぞは夾雑物、家政円滑のかなめは振舞いであり感情は糊塗され、見た目至上。若いハムレットは立場を理解するも甘えたい、訴えたい。オフィーリアに言葉で愛が欲しいと漏らして反論される。彼女といい王妃といい、ぶれない存在の周囲をとち狂う男たちが戦争を前に体面を繕おうと躍起。これ戦中作品〉率直に言えば、太宰治はそんな好きな作家ではない。そもそも教科書の『走れメロス』が初対面というのもいけなかった。教えられる道徳がイヤな年頃にこれはフィクション過ぎた。周囲の文学少女に背中を押されるように読んだ『人間失格』は読むのが苦しい作品だった。それから何年も経って3.11の事を伺った方から勧められて読んだ『駆け込み訴え』大変驚くべき作品だった。その才能は信じられた。本作はそれに連なる作品で、心理描写と言葉が溢れもつれ、渦の中に引き込まれる勢い。新潮文庫版には他に短編四つが含まれる。『女の決闘』は、当時の逐次刊行6回に登壇した、何というかオリジナルを解説しつつ太宰治文学を建築する講座、のような実験的作品。その技巧の手の内をどこまで披露したかは私なんぞには理解及ばぬ。それに比べると『乞食学生』は素朴ながら、太宰治という人の美質が素直に表現されて、また師匠の井伏鱒二のような諧謔を持ち合わせ、わたしなんか大好きだなあ、これ。熊本君の鼻エピソード、バスを待ちながら爆笑堪える。ゼンチンナイグの鼻などにじむ。しかし。後年この人喰い川と地元の人に言われた玉川上水での入水自殺が重なる事実を呼び起こせば、腹に下駄の後、背中に冷水、ピカピカの革靴。↓桜桃忌6/19 2023↓6/17の山梨の桜桃 2023
2023.07.07
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2023/07/05/水曜日/晴れのち曇り、凌ぎやすい〈DATA〉 文藝春秋/著者 中村圭志2008年9月20日 第一刷印刷文春新書656〈私的読書メーター〉〈聖書、旧約の面白さは格別で何度か子どもに読み聞かせ私自身も楽しんだ←不敬?しかし凡百の私らを楽しませ喜ばせ、果てに考えさせ、人間らしく生きる術を説くのも、その道で修行される先達、宗教人の功徳でもあろう。一方、お釈迦さまの生涯はそれとなく理解するが仏教経典に縁がないのは如何。法事でナムナム語られているあの中身は何か?興味を抱く。この本のチョイスが妥当かどうか今ひとつピンと来ないけれど、ナムナム中には沢山の譬え話が活写されている事を知る。『銀河鉄の夜』が法華経ファンタジーである背景もおぼろに見えて来る。〉もう随分前に読んだのだった。反芻の時間はあったが本は既に手元にない。法華経を教理として学ぶと法華経の持つダイナミズムが損なわれる、ということはこの本で理解した。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天 の六道を輪廻転生する我らは、胎、卵、湿、化の何れかのテイでこれらの界に生じる。とはいえ一人の人間さえも、その短い生の日常の刻々の最中にさえ、六道を目まぐるしくへ巡って、心静かな時などない、のである。仏教的な考え方では、私という実体は昆虫にさえ輪廻するのだなぁ。人間を創造物の頂点に置かない発想がよい、と思う。保護犬を見て、これはかつての夫であったよ、このカタツムリはいつぞやの母であった、と目が開けている方は認識するのやもしれない。こんな世界観を主知主義の人は滑稽に感じるだろうが、私には豊かさ、大らかさを与えてくれるものだ。生きとし生けるものへの温かい情が自ずと湧いてくるのだ。
2023.07.05
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2023/06/21/夏至につき、本日より冬モーメント〈DATA〉 KADOKAWA/ 著者 横山起也 ヨコヤマタツヤ令和4年12月25日 初版発行書き下ろし〈私的読書メーター〉〈いやー何というか。壺にハマりました!この組み合わせ。他の本をうっちゃって一気読み。作者の横山起也さんはYouTubeチャンネルで知っていましたが、こんな小説も書けちゃうの⁈これ、初めて書いたとは思えない戯作振り。ひょっとしてライトノベル覆面作家とか?お茶や心理学、江戸学に関しても相当濃い知識をお持ちと想像しますが、さまであらず、な楽で軽い語り口で誰もが楽しめる敷居の低さ。は。お手前見事でござります。人魚の肉で不老不死コキリ、年齢不詳の御前さま、何より気になるジュノ!次作待ち遠しい、ニット侍仕組まれて候。〉久しぶりにこんなエンタメ読んだー面白かったー幕末に武士の内職で編み物というのはあった。ということを横山氏のチャンネルで以前に知った。それをまともに取り上げた初めてのちょんまげ物ではないだろうか。考えてみれば、漁師は編んでいたはず。猟師も野良仕事者も馬飼牛飼いもみんな編んでいたはず。しかし2本差しが2本針で編む姿はほのぼのするではないか。物語中に、編むことで静まる心の有り様がよく紹介されるが、編み物をする人の一番の喜びは実はコレではなかろうか。無心になれる時間。半畳の空間と針と糸があれば、それだけで深い呼吸と瞑想へ誘われ、ありゃま不思議なことに何ものかに仕上がっていく。もっとも私は深い瞑想の前にうたた寝に落ちていき、あらぬ方向は針が動いて、はっと目覚めた後盛大に解き直しの悪路を繰り返すぼんくらでござりまする。ところが、このお侍は徹夜で編み通しても目も乱れず。明鏡止水の如し、ツワモノなり。私は大変楽しく読んだけれど、編み物教室のみなさま(さすがご存知で、既に読んだとか購入した人数名)方の反応は今ひとつ、でした。
2023.06.21
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2023/06/15/木曜日/午後から雨降る〈DATA〉 吉川弘文館/編者 圭室文雄(タマムロフミオ)2004年7月1日 第一刷印刷〈私的読書メーター〉〈何しろ吉川弘文館である。学術的と信頼して主に天海の章を読んだ。これを読んだ限りでは、都市計画者として江戸のグランドデザインを行なった様子は想像が難しい。八重洲にその名の残るオランダ人ヤン・ヨーステンの方が関わり大かな。しかし、顕密修養した上の、江戸城鬼門の東叡山寛永寺、更に江戸武州の鬼門に日光山東照宮。幾重にも江戸を守る陰陽の仕組み。山王一実神道を打ち立て家康を大権現という神にまで祀り上げた天海の眺望は仏道か政か。家光からは実父のように慕われ、比叡山焼き討ち後には信玄の元に身を寄せるも若い時は杳として。〉本書は「日本の名僧」シリーズ全15巻の15巻目。1から順に見ていくと、聖徳太子、行基、最澄、空海、空也、重源、法然、親鸞、道元、叡尊・忍性、一遍、日蓮、日親・日奥、と続く。執筆者と主な著作宇高良哲 / 『近世関東仏教教団史の研究』管原新海 / 『日本人の神と仏』浦井正明 / 『上野 時空遊行』高藤晴俊 / 『日光東照宮の謎』佐々木邦世 / 『平泉 中尊寺金色堂と経の世界』原田正俊 / 『日本中世の禅宗と社会』上田純一 / 『九州中世禅宗史の研究』伊藤真昭 / 『織田信長の存在意義』竹貫元勝 /『新日本禅宗史』船岡誠 / 『沢庵』#太字は読んでみたい本ヨーロッパの芸術文化を知ろうと思えば、キリスト教を学ばねば深化しない。日本の古典に関心があれば自ずと仏教に触れずにはいられない。私はあまりにも仏教を知らなさすぎた。ひょっとしたらキリスト教よりも知らないかも。日本に生まれ、日本語を話し、四季の巡りやご先祖さまの関わりが時代と共に薄れたとはいえ、子ども時代の記憶に未だ結びついているに関わらず、全く無知である。幾つになっても遅くはないだろう。少しずつ、仏教と日本人について知りたいものだけど、どのようにアプローチするのが良いのか。思案中。
2023.06.15
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2023/06/12/月曜日/一日雨模様〈DATA〉 角川春樹事務所/著者 原田ひ香2022年3月18日 第一刷印刷2022年3月28日 第二刷印刷〈私的読書メーター〉〈神保町愛満ちる。平松洋子さんのエッセイにソフトな物語が重なったような。結婚もせずに両親を介護し看取った珊瑚さん。音信不通気味の次兄の滋郎さんが残した神保町の古書店とそのビル、それに長年の投資財産を相続して、旭川から単身やって来た。右も左も分からないままに古書店を引き継ぐ。大学院生の姪、美希喜(みきき)〈←珊瑚さんといい、キラキラネーム?〉のお手伝いやご近所仲間を得て、店はのんびり回る。東山さんが滋郎の恋人に行き着く辺りは少し出来過ぎ?だけど物語の飛地、戸越銀座も魅力的。読みたい本もいくつかあり、嬉しい。〉巻末に、本書紹介の書籍案内があるその内の読みたい本三冊を拾う。『お伽草子』筑摩書房 谷崎潤一郎訳含むもの『輝く日の宮』丸谷才一 講談社『落穂拾ひ』小山清 筑摩書房本書登場の神保町グルメ神保町からはちょっと離れてる 笹巻けぬきすしは小川町駅。我が職場からは近い。ドーピイスーガ への通りがけ、何度かお店の前を通るもどうなんだろうと逡巡。未だ食べたことはない。一度買ってみよう。という気持ちにさせるから、本の力知るべし。神保町のカレー激戦区は神田駅辺りまで広範囲で、中華屋さん、洋食屋さん、飲み屋さん風まで、それぞれに独自の一皿がある。神田駅ガード下の723ナツミさんのカレーが私的には結構お気に入り。新世界という中華やさんも実は賄いカレーが評判で、いつしか表メニューとなったらしい。それも食べてみたい!けれど、ロシア料理もいいなあ。珊瑚さんがピロシキを買って帰るロシア料理店は、ろしあ亭かな?鹿島茂、池波正太郎が好んだという、揚子江菜館の五目焼きそばが表紙を飾る。万年少女のような華僑女性?がサービスしてくれる。何と無しシンガポールの中華人みたいで、雰囲気が盛り上がる。神保町は老舗中華がかつてはもっとあったように思記憶するのだけれど。読書と食事、それにカフェとバー。うーん、私もこの界隈の店主になってみたい!読書より食べること、にいやしく惹かれ。
2023.06.12
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2023/06/05/月曜日/雨過ぎて爽やかさは中くらい〈DATA〉 作品社 / 著者 三田誠広2022年7月20日 第1刷印刷2022年7月25日 第1刷発行カヴァー写真/日光山輪王寺蔵 木像天海僧正坐像〈私的読書メーター〉〈108歳まで生き、三代の将軍に仕えた天海の存在は寛永寺縁起で知っていたが、確かに叡山修行僧ならではの、都鎮護に基づく江戸ランドスケープの発案というのもあり得るかも。「見てきたようにウソを付き」というのが小説家の才能の一つとも覚ゆ。戦国時代の数多の傑物らの志や欲望のヒダを縦横無尽に動き回り、戦さの無い平和な浄土を日本国に現出せんと謀り、図り、計る。戦乱の只中に生まれ、太平の徳川の世を見届け、更に先の世までを透視した250年の江戸の安寧。天海が生涯を賭して平和を希求した動機の印象が薄い、それが惜しい。〉初めて訪ねた川越市立博物館で、偶然にも学芸員による喜多院蔵の天海僧正坐像修復の話を伺った。その前に訪れた寛永寺の縁起を通して開祖天海さんについての記憶があった。長命の秘訣を尋ねられて、曰く気は長く つとめはかたく 色うすく食ほそうして 心ひろかれ長命は粗食 正直 日湯 陀羅尼おりおり御下風あそばさるべし最初のうたは素直に理解できる〉〉食ふとうして、心せまい、なあワレハ、笑次も日湯というのは、日日の湯浴みで身体を清潔に温めることかと考える。その次の陀羅尼は、はて。奈良當麻寺の古い薬、陀羅尼助かしらん。胃腸を涵養しなさい、かな?と思案して検索してみる。能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力をいう。と、あるではないか。なるほど。これは覚えておこうというときには、腹中に陀羅尼と唱えてみるのもよいかも?くわばらくわばら、つるかめつるかめ、だらにだらに。のご呪文でござろうよ。更に続くおりおり御下風あそばさるべしこれは味わい深い。晩年は日本仏教界の首座にあり、家康を神の座に押し上げた天海大僧正偉ぶってはなりませぬぞ、折に触れ誰かの風下、弟子の体でおりなさいよ、と自身、戒めるかのように諭された、ということらしい。文言の中には実にその人らしさが垣間見える。物語では、そんな天海が、明智光秀が辿り着けなかった 欣求浄土の日本の姿を、家康に重ねて描いてみせる。狡く、己の弱さを知っている苦労育ちの家康であればこそ、天下を治めることができる、と天海は考えた。かもしれない。有名な家康遺訓人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。たいてい冒頭だけが紹介され、本書でも家康が2回ばかりそこを呟く。私がよいなあ、と感じるのは堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。 勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。 おのれを責めて人をせむるな。とりわけても堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。 おのれを責めて人をせむるな。がよい。大局に立ち物事をながむるには、これが肝心だと理解しつつ、いざ我が身に嫌なことが起きれば、そんな理解はどこはやら。凡夫に付ける薬なし。だらにだらに。
2023.06.05
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2023/06/02/金曜日/しのつく雨、日がな〈DATA〉 平凡社 / 著者 赤坂憲雄2014年5月23日 初版第1刷タイトル副題 [会津・置賜篇]『日本奥地紀行』を歩く〈私的読書メーター〉〈まあ、恐ろしい。既に感想もこちらにアップしていながらの再読、読んだは前世⁈みたいな体験。感想を読み直すとフィクションをノンフィクションと誤入力の恥ずかしさ。とまれ、著者が繰り返す「バードは何を見て何を見なかったか」の問い。凡そ「書かれた事は書かれなかった事によって歪曲され」かつ、書き手の思想信条、或いは体調や天候によっても大いに異曲を奏でることだろう。150年も前にバードの眼が捉えた日本奥地紀行は様々な趣向で刊行続く。バードが不快に思えた事も含め何とも一途な好奇心と偽りなく天真爛漫な祖先の姿を懐かしむ。〉それまで抄訳しか出されていなかった『日本奥地紀行』の完訳版は本書と同じ平凡社から、本書と同じ頃出版されている。これか、オリジナル版の他に『中国奥地紀行』が大変面白いから読んでみたらと兄に推薦受けて、後者はつんどくのまま、はや数年。お茶を濁すように本書をそれと気づかず2度読み。うむ。凡人の極みでござる。本書の副題を読めば著者の誠実さがほの見える。バードの跡を辿り一つ一つ確かめながら実踏したくても時間が取れないこと。完訳全四巻中の1、その後半と2の前半一部だけの記録である事を弁明している。しかし東北学を打ち立て、3.11後の重積を学際で担う著者にとってはぎりぎり押さえている、と言えるかもしれない。もっとも秋田青森が抜けているし、岩手はバードの紀行に含まれていない。やはり資料は第一次に当たるにしかず。宮本常一氏もその著書中、2冊に取り上げているのだなぁ。本書参考文献の古川古松軒『東遊雑記』も、現代語訳ならば読んでみたい。
2023.06.02
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2023/05/24/水曜日/空が青い〈DATA〉 言視社 / 著者 川副秀樹2016年8月31日 初版第1刷〈私的読書メーター〉〈著書は高尾山ガイドもする庶民信仰や古文書の在野の研究家。間も無く三社祭だが、浅草寺はそも三社権現社と呼ばれていた。三社は檜前浜成(ヒノクマハマナリ)と竹成兄弟とその主人、土師眞中知(ハジノマツチ)をさす。浅草寺縁起は兄弟の漁った黄金の聖観音像が本尊と記す。が、著書によれば檜前兄弟は浅草一帯で牧場を経営する郷士、主人土師氏は野見宿禰の末裔で彼らは上総へ渡る一帯「豊島駅」の支配者だという。そういえば浅草寺と隅田川の間に馬道通りがありマツチは待乳山を思わせるし黄金像にまつわるミステリーは長昌寺へと興味深い。〉〈関心が浅草今戸石浜に向かい、高尾山まで辿りつけない(;ω;)高尾山と浅草を比較しつつ、墓を持たない両寺の経営戦略である、大衆好みの聖と俗を織り込んだ物語性を指摘。かつ歴史的背景も資料に当たり押さえている。かと思えばパワースポット案内など混じえ、寺の経営本領が著者にもそのまま見出せるなぁ。〉不思議も読書に劣らず大好き。そもそも人間に関心大。人間て、なんて不思議な生き物だろう、かく言う私もその内のひとりであるか。本を読む→好奇心に駆られる→見知らぬ場所へ出かける→モノコトヒトに会う→その印象を携える→読書で深めたり寄り道する 書は捨てず街に山に海に河に出る、のだ。そんなこんなで隅田川界隈は好んで出かける。そのきっかけが江戸から明治に至った時代の東京や神仏の歴史に関わる読書から、であった。↓関連図書の一つに素白先生のこれがある。副題の「お菓子に散歩に骨董屋」がもうもう私の好みとピタリ重なる。この随筆中の風景は川瀬巴水の版画が重なり、そんな時代を知らない私に、ツイこの前の日本とは、そこに暮らす人とはこんな事であったよ、と語ってくれる。それらは懐かしい記憶のようになって私の裡に畳まれていくのである。素白先生の文中の待乳山聖天さんに惹かれて何度か足を運んだ。関東大震災前の待乳山を隅田川対岸から観た眺めの良さが「向島」の章にある。観音堂、その先に五重塔、晩秋初冬のそれら眺めを版画さながらに述べている。震災後、聖天堂をくるんでいた巨木が倒れ、お堂が中空に浮かんでいるかのようだったのも束の間、戦災で消失し、甍も五重塔も失せた変わりように変わらぬは隅田川の水ばかり、と書き留めている。待乳山は真土山とも記すように周囲から10米は迫り上がった小山だった。川副氏の本であらためてハジノマツチ(他にも読み方がいくつかある)の名を聞くと隅田川沿いにここだけ、ぽっこりと高いのは、ひょっとして土師真中知の墓所だったのでは⁈と妄想を抱く。筆者の私説が述べるところ土師真中知は野見宿禰の末裔という。宿禰は出雲系の勇者であり当麻ケハヤと力比べの相撲でこれを負かし、垂仁天皇に召し上げられた。皇后の葬儀では殉死の生贄を止めさせ埴輪を考案し、土師の臣の姓を賜り豪族となり、その一族から菅原道真も出た。従って真中知も埴輪をはじめとする古墳増築の技術者であった可能性をとく。ここで思い出すのが、『深大寺の白鳳仏』。本書でも武蔵野に転封された渡来人某が、相撲の腕で出世し時の帝に重用されて姓を賜る。坂東に国分寺を建立する際に、まつろわぬ土地のものたちをまとめ上げ、事業を成し遂げた。おそらくその功によって橘夫人の持仏を授けられた、のではなかいかという内容であった。因みにこの国宝は、深大寺でいつでも身近に拝観できるのがたいそう有難い。当時の土着オリジン日本人からすれば、異能異才の帰化人らは、大陸半島から海を超えて辿り着いた島国で大きな仕事を為し、姓を得て重用され、やがて貴族に列せられる者も出てきた。そんな歴史が想像されるではないか。待乳山聖天さんの縁起では推古天皇の代に、この場所が一夜にして盛り上がり樹木繁り、どこからかやって来た金龍が山をぐるりと囲んで聖別した、というもの。推古天皇の、西暦628年が浅草寺建立とされるのに歩調をあわしているが、更に浅草寺の山号は金龍山、である。川副氏の考えに戻ると、一方の檜前ヒノクマ氏は927年編『延喜式』に「武蔵国檜前の馬の牧」の文字が見られるため、この一帯に牧場を営む土地の豪族でやはり阿智王と共に来訪した帰化人であったという。また、『続日本後紀』には「檜前舎人連は土師氏と祖を同じうする」とあるのだとか。そうならば、待乳山と浅草寺は同一の、仏教に帰依した帰化人一族の霊所であり、浅草寺完全秘仏の、一寸五部の金像は、大きさからいっても渡来の時に携えた持仏であったろう、と解く。浅草寺を訪れると、そのあまりの観光の賑わい雑踏歓楽振りに信仰的な雰囲気は私的には後退する。奥の院ともいうべき聖天さんは、ガネーシャ🟰聖天の本地としての十一面観音が本尊とのことだが、どことなし異国的な持ち味がある。さて、浅草寺秘仏巡り散歩へと浅草、今戸へその先へ散歩は続く。と書いてきたら、土師眞中知の名と神戸連続殺人事件の被害者、土師くんはハセくんだったことに気づく。今日、5月24日が命日だと新聞で読んだ。合掌
2023.05.24
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2023/05/21/日曜日/本日晴天、初夏らしく〈DATA〉 角川書店/ 著書 艾未未 アイウェイウェイ 訳者 佐々木紀子2022年12月1日 第1刷発行 〈私的読書メーター〉〈中国モダンアートにも疎い私は著者アイ・ウェイウェイを初めて、だが、本書で能く知り得た。自伝とあるが全体の3分の1を割いて詩人だった父の生涯が先行する。絵の志を立てパリ遊学を果たし民主主義に共鳴しながら党独裁の匙加減一つで辺境に追いやられ苦難の人生を歩んだ。清王朝末期、日中戦争に重なる怒涛の大変革の時代描写は一つの山場。インターネット勃興期に米国滞在でアートシーンの自由を得たウェイウェイが祖国で葛藤するのは道理。取調室の詳細はこれ自体インスタレーションのような錯覚を覚える。後日作品化の強かさは天晴れだ。〉交河故城にてまるで隊商が街を通り抜けていったかのよう人の喧騒に混じるラクダの鈴の音変わらぬ市場のにぎわい尽きない人と荷馬車の流れいや、違うーー豪奢な宮殿は荒れ果てて廃墟となった千年の歓喜と悲哀、出会いと別れは一片の痕跡すらない今生きている者は、全力で生きねばならぬ天地が記憶してくれると、望んではならぬ1980年、艾青の詩が巻頭を飾る。艾青とは著書の父である。この詩からタイトルが定まっている。千年、誰がこの土地を、この家族の二代に及ぶ無益な苦役を記憶するというのか。しかし私は試みないではいられない。なぜなら息子、艾老が生まれたのだから。著書のそんな声が聞こえる。今現在著書はドイツ在住だが、彼自身、ドイツが産んだ社会芸術家ヨーゼフ・ボイスを彷彿とさせる。アートを狭義な世界から解放し、現実をアート作品に展開していく、時間や個々の人びとの関わりの変化を包摂するといった手法が共に見られる。ように思われる。芸術における至高の価値は自由なのだから不自由を自由に変換することは芸術行為である。と私は考える。そんな気概を彼に覚えるし、それを実行した彼の生命力、怒りを創造力に転換させる意志に感嘆する。彼に匹敵しうるアーティストを日本に探すとしたらだれだろうか。岡本太郎か草間彌生或いはオノヨーコ、坂本龍一、安藤忠雄?規格外、個人で国とか世界に対峙しうるそんな若いアーティストを切に求む。
2023.05.21
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2023/05/10/〈DATA〉 朝日新聞社 / 著者 富岡多恵子 1993年12月1日 第1刷発行 〈私的読書メーター〉〈 いつか読みたいと思う内に著者は冥土に渡ってしまう。そんな事がそろり増えている。この随筆は主に新聞冊子に掲載されたもの、或いは私信など。なので矩形?大阪の商家育ち。浄瑠璃歌舞伎に幼い頃から馴染み艶やかな感覚の持ち主であると同時に都会育ちのサバサバ感が見通す慧眼合わせ持ち、さすが詩人感覚。巻頭、三島由紀夫に代表される女性嫌悪、女性憎悪の我が国文化の伝統と出生率低下を絡めた文章は実に32年前。一方で編み物を能くされて鶴岡真弓さんと紋様を求めアイルランド巡り!垂涎止まず。看取った犬の事、北志向など感じる点多い〉全五章立てそのⅠのいきなりが 「女ぎらい」の文化三島由紀夫の稚気とアンバランスな文才を短文の中にようもまあ。返す刀で少子化笑止、の留めとは鮮やか政府の歌う 異次元の少子化対策富岡多恵子さんの評価で溜飲下げたいなぁ対策って、なんか根本を欠いている。しかも何でも異次元って。ドラえもんポケットに財政が並ぶ異次元ですわ。保育園落ちた日本しね、のお母さんとか。富岡さんを幽冥境から召喚の異次元チャットGPTとか駆使する?歴史学者社会学者アーティスト民俗学者伝統芸能者、宗教家産婆さん保育士教師なども呼んでみんなで先ず意見を出し合って。みたいなスタートを、富岡さんが警鐘した32年前からじっくり寝かせては試すをしなくてはいけなかった。人口動態などの統計では測ることのできない複雑さに丹念に取り組まなくてはならなかった。今ではそんな余裕は無さそう。目の前の巨魁な老人層をどうするか?老いと病のちがいで、長谷川町子の去り際を富岡さんは簡潔に述べ、共感している。私も大いに共感する。長谷川町子は同居の姉と三つの約束をした。密葬にしてほしい。病気になっても入院させないでほしい。手術を受けさせないでほしい。長谷川町子と異なり、社会的立場なんぞない私の葬式は必然として密葬のようなものだろうけれど。後の二つ、これは全く私もそう願う。いや、既に密かに実戦を始めているのだ、うふ。老いと病気の違いをきちんと見据えた長谷川町子への敬愛の念と、一人の人間が真っ当に朽ちて死んでいくことの現代的困難さを見事にまとめている。さすれば懐かしくもある、蟷螂の 尋常に死ぬ 枯野かなとりかへばや物語武智鉄二近代読者論津軽中勘助など出会いを求めたい。文中、表現者の責任として死をも覚悟、ではあるがあまりに誤解の多い受取方に対しては抗議もするとした、そんな態度に惚れ惚れとする。『網の男たちのセーター』ようよう手に入れたときの喜びが思い出され、編み物の好みも近しく覚える。
2023.05.13
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2023/05/05/こどもの日、筍のウラ年〈DATA〉小学館 / 著者 山田風太郎2002年8月20日 初版第1刷発行 〈私的読書メーター〉〈昭和21年1月から12月末までの日記。1行で終わる日、長く綴られる日混在。印象に強く残ったのが、借りた傘が持ち去られた顛末にみる山田青年の意外?な生真面目さと敗戦後の振興宗教女にたたられる朋輩小西氏の顛末を描く筆の妙、冴えて日記逸脱。女性に対する蔑視あれど、そこに至る母恋に同情も覚え。欠乏にあって日々の食べ物日々の読書、克明。世相早くも雨後の筍の如く屋台闇市メチル混在の怪しい酒、田舎へ田舎へと買い出し溢れる人びと。知人製造の糊の行商に徘徊する東京市中に今の東京風景を重ね、当時からの忘れ物を夢想する。〉この本の口絵に、山田風太郎氏がタバコをくゆらせている写真がある。片方の目は前方を鋭く見、片方は気弱げに過去を眺めいるような風貌だ。そこはかとなく寂しげである。その裏側に医学専門学校時代のエリート青年、やや文学寄り、な姿から随分遠くへ来たではないか。無茶苦茶な戦争、敗戦前の凄まじい空襲。焼け出されて日用品どころか食べるものがない。頼る人を失くした幼い浮浪児の群れ、乞食に身を落とした老人の群れ、猛烈なインフレ、田舎と都市の食糧格差、栄養失調、人心の荒廃、大陸からの引揚者手のひら返しの新聞報道、権威の失墜、昨日鬼畜米英、今日カムカムエブリボディ日本の歴史の大転換。あれから間も無く78年山田風太郎24.5歳。敗戦からまだ5ヶ月足らずの現在を生きていた記録だ。大切に感じたところなどを引用する。P26〜27 1月16日付け「今の日本の新聞は何処の国の新聞か分からない。今の日本の壇上で叫ばれる口、今の日本の紙に書きなぐられる筆は何処の国のものか分からない。寂しい。寂しい。あんまりひどい。あんまり惨めだ。戦争が正しいとは思わない。それは人間の悲劇だ。しかし人類は戦わねばならない時がある。戦うべき時に戦わないのは、更に恥ずべきである。神の目から見たら「戦うべき」時などはないであろう。戦争の口実は許されないであろう。しかし吾々は神を相手に戦ったのではない。アメリカ人を相手に戦ったのだ。アメリカ人が悪いから戦ったのではない。しかし日本も悪いから戦ったのではない。戦いはそれ自身は「悪」であろうが、戦う人間は互いに「悪」を超越している。戦うべき戦いを戦って、吾々は敗れた。「悪」のせいではなく「力」のせいである。 そうして吾々はこの前途に全く光のない暗黒の惨憺たる日本に生きている。聞こえるものは飢餓のうめきと「戦争犯罪人」への罵倒と、勝利者への卑屈な追従の声ばかりだ。」P107 〜 3月6日付け「吾々は「知る」権利がある。「知る」結果は幸か、不幸かそれは知らない。(自分はちょっと暗澹たる気持ちになる)しかしともかく可能なる限り知らねばならない。月は女神の住む天上の鏡だと信じて疑わなければ幸福であろう。しかしそれは地球の衛星の一つで日中は焦熱地獄、夜更は八寒地獄の断崖絶壁の岩石の大塊であると、もし事実がそれを示したならそれは知らねばならない。それをイヤでも美玉であると信じさせようとするのは人間の尊厳に対する罪悪である。 天皇制がそれである。吾々は先ず知らねばならぬ。歴史的真相を、人格的真相を。ーー知ってなお尊敬出来たら幸せである。月はその本態を知ってもその美観は人間の魂の中にレベルを落とさない。天皇制もそうであったら幸せである。しかし、ーー天皇は月のごとくそうであるだろうか? 親友松葉との会話は続く では君は神なら拝むか?と松葉はいう。 神も信じない。少なくとも今のような人間の形 をした神を、今までのような気持ちでは拝まな い。 世界はだんだん神を失ってゆくのだろうか?と 松葉。 今までのような神は失われてゆくだろう。しかし 宗教は残るだろう。すぐれた人は、自らの神、 心の神によって自ら動く。トルストイの基督は 文字通りトルストイの神であったごとくにだ。松葉は更に世界の人間がコスモポリタン的になるのか問う。百二百年の近い将来は無理でも千年以内にはそうなるだろうと応える山田青年。この世界融合をイヤでも実現せしめるのは科学である、と。 考えてみれば日本人が天皇制に熱狂しているのは、くだらないことである。それは第一義的の問題ではない。これからの教育の第一義的なものは生徒を「人間」に育てるということだ。偏らぬ、自由な、世界的なものの見方をするように、そういう性格を育て上げるということだ。 世界が次第に一つになってゆくにつれて、今の日本人の好むと好まざるとに拘らず、天皇制は人間の批判的精神に耐えなくなるだろう。それはやがて崩壊するであろう。P223〜 5月31日付け…抜弁天より電車にのりて、万世橋より一つ手前にて降りる。廃墟の草原の中を上る坂道の右に焼け残れる神田明神の青き屋根見ゆ。宮本公園を見ればジャガ芋畠となれり。昭和18年、ここは樹木美しく涼しき小公園なりき。19年には池が出来、ドイツ人夫婦が散歩する姿も見えたが、先だっては崩れた煉瓦コンクリートの柱に夏草が覆い、今や芋畠になった、と。風景の目まぐるしい変わりようを今また吾は見る。P310〜 9月13日付け生来絵が好きで、絵ばかり描いて中学生で天才とさえ言われたが今では描かなくなり。剣道は中学で選抜されたが、これも4、5年時には、専らサボりで、剣の字を聞けば胸が悪くなる平和論者になったが、その頃より文学に興味が芽生え、小説みたいなものを書き出し、受験誌に当選し嬉しがっていたが、これは今でもちょいちょいくだらぬもの考えてなぐさんでいるが、これも滑りはじめて、自分は結局、何の趣味もない、また自分の職業にそれほどの愛着もない凡々たる「お医者さん」になるらしいと感懐しているが、11/14日記で『達磨峠の事件』の原稿代920円を得ている。当時叔父から月150円ばかりの、もっともカツカツの送金であったから、新人とはいえ、まあまあの稿料であったろう。沖電気勤め以来身内のような高須さんのにわか商売を手伝いつつも、右から左に移して金子を得るようなことは自分には出来ない、と断言し、はて何で食っていくかの分かれ道がこの敗戦の翌年であったのだなぁ。そして、日記は女性への偏執的蔑視を羅列した上に、冬に向かうに連れボリュームが薄くなる。P388〜 12月30日付け小西哲夫よりハガキ来る。朝鮮人なら切符買える由、高須氏、朝鮮人連盟の知人に頼みて証明書2枚貰い来たり。余夕、経堂駅に買いにゆけど買えず。十三章「注意」読。にて了。
2023.05.05
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2023/05/02/火曜日/素晴らしきかな五月〈DATA〉講談社 / 著者 多和田葉子2022年10月18日 第一刷発行〈私的読書メーター〉〈消失した、かもしれない列島故郷。Hirukoは居住地デンマークから、事実を確かめに東を目指す。彼女を含む6人の旅の仲間が信じられないほど知的で素敵なんですけど。頼りなげなHirukoが物語の進行と共にくっきりと像を結びSusanooの長姉というポジションを示す如く変身する、濃くなる。アカッシュに誘われ腰を上げたクヌートの相手になるべく素早く立ち上がりダンスを堪能、ラトビアの蜂蜜の官能。蘆の舟で流された未発達の赤子=ヒルコは自ら船になることを意志する。太陽諸島から来て、新たに生まれる太陽諸島へ渡る船に。〉『地球に散りばめられて』『星に仄めかされて』に続く三部作の最終巻となるのかな。いつかスピンオフとかエピローグが生まれるのかもしれないけれど。これらの物語が生まれた背景には、著書がどう発言しているかは全く知らないけれど、どうしたって3.11があるのだ、と思う。彼女にとってドイツは既にホームランドであるから、日常触れることのない祖国は彼女の日々において余り意識に上らない、本当にその国があるかどうかさえあやふやな存在だろう。欧州では、世界では?国境は動き続け、今はない国があれば新たに生まれた国もある。東アジアの片隅の島国を呑み込んだ津波繰り返し電波に乗って流れた、黒い水に奪われる家、車、諸々と自分と近しい姿をした罹災者、焼き尽くされる沿岸の街、そして神の怒りに触れたかのような原発事故。多和田葉子さんは既にそこを離れ何十年?だが、ここまで近しくいたわしく切なく覚えた祖国の姿は無かった筈だ。何とか言葉で物語で、希望に続くか或いはディストピアか、紡がずにおれない。そんな多和田さんだったのではないか。彼の国の物語、基盤となる一番古い物語であるところの祖国の神話を辿ればあの列島から最初に流された、かもしれないヒルコという存在、に出会う。一方に、母の国へ帰りたいと暴れ狂ったスサノオという存在。その両人?両神?が思い浮かぶではないか。多和田さんは、その二人の周りに、インドの、性のお引越し中なるアカッシュ。彼はクヌートに思いを寄せる。ところでクヌートはヒルコの編み出したパンスカ語に関心を抱くデンマークの若き言語学者。日本人に間違えられるグリーンランドイヌイットの多言語話者ナヌーク。そんなナヌークに惹かれる、意識高い系ドイツ人女性ノラと多士済々、多言語、多様性。その過ぎたる複雑さをHirukoは何によって結びつけるのか。それは「空洞」かもしれないと思うのだ。Hirukoとは何か。帰るべき所が失くなった、そんな切迫感に苛まされる空虚を内に抱いているのは、ひょっとして今地上に存在する全てのわたしたち。かもしれない。その空虚をどこか共有するゆえに、旅の、道行の同行者はより空洞を持つヒルコに対して、わずかでも、あるモノ、思い、を盛ることはできるだろう。太陽の中心爆発が日食で塞がれれば観測できるあのコロナ現象はまさに空洞の見える化。原子炉ならぬ太陽の溶鉱炉そして天照らすヒルコになりゆく。物語はフィクションと現実、今と昔と未来を行きつ戻りつする。そしてたまにはっとするような詩が浮かび上がる。鳥の声が王冠か花輪を空に描き、それが地上に降りて来る、あの表現の美しさ。何ページであったか。探したけど見つからない。さて。一行も訪れるリガ。そこで得たhoney &moonで、ヒルコに魔法が掛かる。「空洞」はヒルコによって「家になる」意識、意志に変換されていく、それが希望に他ならない。ラトビアの、白樺のジュース黒い太陽のようなパン自家製の、お手製の多種多様な金のハチミツ緑なす森の豊かなマーケット歌と踊りと手仕事市民が、彼らの手のリレーで蔵書を新設図書館に運んだ、街で最も立地な建物は教会でも市庁舎でもなく、図書館!そんな街リガを再び訪ねたい。
2023.05.02
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2023/04/22/土曜日/寒さ戻る〈DATA〉 WAVE出版 / 著者 高橋琢磨2017年3月25日 第1版第1刷発行 〈私的読書メーター〉〈山田風太郎日記に橋田邦彦の名を知る。なぜか後ろ髪引かれこの本に出会う。もう少し彼の生涯に肉薄したものを想像したが、昭和前期と後期の政治、外交、戦争を浚う事に紙数を費や、というか時局の解説で資料の少なそうな彼の行動の背景を探った、と言うべきか。医学者橋田邦彦の著作『正法眼蔵釋意』はなぜ生まれたか。西洋科学は細部へと分け入り全体を捉える事がない。即ち医科学、医術あって医道なし。東洋に無かった医科学を一早く学んだ日本がその三位一体を完遂させ、人間をトータルに見る「科学する心」を啓く、という構想は果たして…〉青年山田風太郎は、敗戦の詔に魂を千切られたのである。最後の一人まで戦うのでは無かったか。世界の片隅で、あの大人しいすずちゃんが、血相を変えて臓腑の底から叫んだではないか。それが降伏だと!先立った息子たち、空襲に焼かれた老若男女、市井の人びと沖縄の惨状、これらにどう申し訳を開くのか。自分のたちもその後に続くのだ。皆そう覚悟したではないか。おそらくごく普通の人の当時の率直な気持ちはそれだったと思われる。ところが敗戦を一旦受け入れるとそんな昨日までが180度反転する。小賢しく小利口に立ち回る人間が私益を膨らませていく現実が日夜、表出してくる。国土壊滅に至らせた国の指導者がおめおめ生き延びて軍事裁判に引っ張られる姿に、なぜハラを切らないかと青年風太郎は歯軋りするのだ。執拗に新聞報道を調べ、敗戦後188人の自決者である事に触れている。その中に橋田邦彦が含まれ、青年風太郎は直接知り得ないはずの橋田が立派な人物であった事を特記している。ところで東大銀時計の若き橋田邦彦が欧州留学の折携えたのは尺八、硯、陽明学の本、泉鏡花などであったという。こんな所に橋田という人がよく現れているではないか。当時、学生らによる法律と医療相談に奉仕する「東大仏教青年会」に請われた橋田は医学、医療、医道、科学、宗教、政治に至るまで講和し、学生らに盛況であったという。一方で生理学を独立した学会設立と為すなど実際家でもある橋田は『正法眼蔵』に基づき、学会長を置かないとした伝統が今尚続くという。その行動力と学生から慕われ後進を育てる姿を見知った人物の推挙を受けて一高校長へ、更に難しい時局の文部大臣拝命を受ける固辞するもとうとう折れたが、学徒出陣には我慢ならず辞表を出した先に服毒自決があったのだ。科学者橋田は日本の敗戦が見えており、大臣の地位に就くことの意味もその先も理解していた。まして幼い頃より繰り返し心身に刻んだ陽明学徒なのだ。愛妻きみゑも養女の看護がなければ共に、の覚悟の青酸カリ。そしてそれは近衛の要請を受けて地中から掘り起こされ渡されたというのである。橋田の遺書の辞世の句いくそたび 生まれ生まれて 日の本の学びの道を 護りたてなん「科学する心」で「道」を通し科学立国せしめ、その科学を基礎に産業を起こし、日本の経済を強くし、その横展開によってアジア全体が豊かに発展する構想そんな夢を橋田に見出した著者の経歴が野村総合研究所のロンドン支店長、主席研究員を務めた、というのはさもありなん。そんな氏がどうしても触れずにおられない天皇の戦争責任について、感じる所は大いにあった。文中、明治天皇にも引用される夏目漱石だが、昭和天皇に向けての文章は『坑夫』から。「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ。富士には、かなわないとおもった。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士はやっぱり偉いと思った。よくやってると思った。近衛や橋田の生き方を通して見てくると、おそらくこのようであらまほしき天皇が、著者に去来するのであろう。実際の所はその変身振りに皆が戸惑ったのだ。敗戦直後の自身による外交、神から降りて日本中をへ巡り、炭鉱にまで潜って坑夫を激励したかと思えば、いつの間にか奥所にこもり祈ることが多くなった、と。橋田の遺書のもう一つの辞世の句大君の御盾にならねど国のため死にゆく今日はよき日なり文中から読みたく思う資料『田島日記』、加藤恭子いくつか。また時実利彦が橋田の愛弟子であったことを知る。彼の脳学と人間の成長を捉えたシリーズには多くを学んだ。
2023.04.22
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2023/04/18/火曜日/今朝方は寒さで目覚める〈DATA〉 講談社文庫/ 著者 山田風太郎1985年8月15日 第1刷発行 1995年6月30日 第9刷発行 〈私的読書メーター〉〈80年近く前の人の日記とは思えぬ、現代人の意識と地続き。孤独であり合理的科学的、ややもすれば冷笑的な個人が日記にいる。故に神州、神通力などは埒外である。されど教育。「人と成ったのが大正時代の半老人」からは著者世代が骨の髄まで軍国主義であると指摘される、そんな血の沸騰が8.15の夜、生来する。それも一夜鶏声の内に霧散するのは心情でなく頭脳が怜悧過ぎる所以か。戦火に遭っても凄まじい読書量、風景を描く瑞々しい綴り方。何故を問い続ける敗戦前後の東京と疎開地の日本人の有り様。市井の人びとの声など一級資料ならん。〉この発行日は!断じて敗戦から40年後のその日に出版!の強い意志が出版社や編集人から感じられるではないか。今年はそれから43年。文中から山田 僕は日本精神そのものの実在さえ疑っている。そんなものがあったのか松葉 それはあんまりだ。国民精神というものはどこの国にもある。…それを具体的に見たいと思うなら、大樟公を見ろ、吉田松陰を見ろ、高山彦九郎を見ろ。あれがすなわ日本精神の凝って人々となったものだ。山田 ところが僕は大樟公が信じられない。太平記という小説に理想化された忠臣を見るばかりで、人間樟公を知らない。…修養するにもまったく手がかりのない神的人物だ。高山彦九郎や松蔭はどうか。僕はそこに彼らの人間を見る。しかし一風変わった人物を見るばかりだ。僕は彼らを思うと、耳を切ったゴッホを思わずにはいられない。対象が天皇と美と違うだけで。心理状態においては同じのような気がする。山田 僕は日本精神というものを認めない。僕の認めるのは日本民族性だ。教育というものが決定的に重要として、松葉からそれではきみは将来子どもにどんな教育を施すかと問われた山田風太郎は、僕は人間性を知らない。どうなったら人間は平和な状態にあるといえるのか知らない。人間社会には、一定不動の平和などというものはあり得ない。平和というものは推移するところにあると思う。万物流転の上にあると思う。従って、不動の教育などあり得ないと思うだけだ。と答え、僕は日本精神を認めず、民族性を認めるといったが、実は僕は人格などというものも認め得ないのだ。僕の認めるのは性格だけだ。そしてそれは結局大脳ということになる。人格の向上などはあり得ず、大脳の訓練あるのみだと結んでいる。彼はこの間、医学書よりもロシア文学を多く読んでいた。もっともドストエフスキーは一冊も現れない。驚くのは3月10日の大空襲の翌朝にも進級試験が実施されていた事実。馬込の方では釈迢空が弟子と日本的美を息を潜めるように深く試問し、岩崎小弥太だったか、広田フッコサイと曜変天目か何かの国宝を挟んで睨み合いまんじりともしない図が、業火の阿鼻叫喚中に繰り広げられていた訳なのだ。引用の日記は9月20日、親友松葉との会話。天皇制問答として閉めている。こんなある種ニヒルというか徹底的に科学する心の医学生山田風太郎が戦時中を通して事物をそのように観察し得たことそのような思考を誠実に打ち明け、話し、受け容れる友のあったことをこの日記から知り得た。医学生山田は医者にはならず山田風太郎になった。千回の晩餐を新聞に載せたころは、「耳を澄ませば」の舞台となった聖蹟桜ヶ丘の頂きに住んで、駅のスーパーに美しく並んだ食材を感に堪えず眺めていたらしい。そういえば、ここにあったブーランジェリーでバゲットを買う谷川俊太郎を数回見かけたが、昨今谷川氏はバゲットはいかがか。ところで山田の本籍のあった村は、やはり作家となった三島由紀夫の本籍地でもあり、兵役回避の希望でここまで検査を受けに来たという。三島は結果、兵役を免れ父と小躍りしながらその場をそそくさと離れた。山田は甲種合格でないことを恥じ、何かにつけて列外にある自分というものを考えざるを得なかった。後日、三島はこれを恥じた事もあったろう、肉体改造と割腹自決で人生を終える。山田はスーパーの食材を飽かず眺め、美味いものを食べ、荒唐無稽を書き連ね流行作家になり、初恋の女性と結ばれ子育ても楽しんだようだ。やはり小説作品にはそのような若い時の生き方が何となし滲み出るし、晩年、あるいは人生の閉じ方にはなおさら明瞭となるのだなぁ。
2023.04.18
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2023/03/27/月曜日/薄曇り、道に薄紅の小さき降る〈DATA〉 集英社 / 著者 加納朋子 2022年5月30日 第一刷発行 「小説すばる」南の十字に会いに行く 2017/6月号星は、すばる 2020/10月号 箱庭に降る星は 2020/12月号木星荘のヴィーナス 2021/2月号孤舟よ星の海を征け 2021/4月号星の子 2021/6月号リフトオフ 2021/8月号 単行本化にあたり、加筆修正〈私的読書メーター〉〈加納朋子さんだし基本はジュブナイル。併せて昔懐かしい少女漫画の王道のような展開に、誰も安心して〈沼っち〉読書になること請け合い。母のケアが受けられない七星の、学校で迎える初潮の戸惑い。母は少女期に両親が離婚し、父は、研究を諦められない母親が出奔という幼児体験をもつ。凄惨なイジメやストーカー、汚い大人の存在、災害、思わぬ事故による夢の喪失などなど、書き連ねると辛い話題のてんこ盛り。が、これらが時空を超えて結びつくときピタリと幸いの像を成す。これこそ物語。現実にも最年少女性飛行士がT大医学卒のシンクロ奇跡。〉ピタリと幸いの像を結んだその刹那、巡る星座の星空の如く、はや様相は変節を遂げる。ここが心地よいと断じても留まることはできないお約束。今の幸せも流転の内に不協和音を生ぜしめ、辛いモノヘと相関していくのが、生じ滅していく生命の理しかし嘆くなかれ、それとてもほんの束の間のカタチならん。願わくば、日本のロケット、日本のジェット、次のステージでピタリと仕合わせ果たさんか。
2023.03.27
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2023/03/22/水曜日/桜はほぼ満開〈DATA〉集英社社 / 著者 小川哲2022年6月30日 第一刷発行 2018/10月号〜2019/5月号 2019/7月号〜9月号 2021/1月号〜11月号 「小説すばる」〈私的読書メーター〉〈どなたかの「物理的に重いがはそこまで重くない」感想に膝を打つ。山田風太郎賞受賞の意義あり。主題は拳=戦争というよりは20世紀初めに幻のように現れた、今は世界地図のどこにも無い満州国の架空の街の都市計画上に、やはりフッと立ち上がった建造物の、時間と空間と言えるのかも。そこに入れ替わり立ち替わりの群像劇。中でも魅力的なのが細川と孫悟空。共に百年のオーダーで「地図」を幻視した。建築と音楽のヴォイドについて前者は内井昭蔵の建築雑誌寄稿文を昔日興味深く読んだ事や建築家中村與資平の事などが想起された。〉地図といえば、忘れられない記憶がある。学生時代に訪れたカトマンズの、確か「チベット人の家」とかいう名の食堂の壁に貼ってあった世界地図。その地図は、それまで私の目に親しんだ世界地図とは全く異なるものだった。中央にはユーラシア大陸。日本は正しくファーイーストの右端隅っこで、何と!北海道は欠けていた。おおー、世界からはこう認識されていたのだ本邦よ、という発見。そんな目から鱗、意識の座標転換体験こそ、実はインドネパール旅の白眉だったかもしれない。そんな世界の隅っこ島国が抱いた仮想敵国ソ連への深謀遠慮。ソ連の南下を防ぎつつ、石炭エネルギー確保に走るにあたり、日露戦争犠牲10万英霊に対する勝利品の貧弱という国民不満の醸成。その追い風も受け仕立てられた満州国は、しかし世界のどこからも国として認知されなかった。あゝ〈遅れてきた青年〉の一周半遅れ。つまり、世界地図に載ることはなかった。ここで疑問。日本で当時、満州国の存在する世界地図は存在したのだろうか?小説中の幻の島と満州国がだぶるではないか。さて、五国共和を歌った満州国小説では、日本人朝鮮人ロシア人満州人漢民族モンゴル人及びその土地で死んだ英霊がうち揃い、自由と平和と繁栄を享受する、そんな浄土を打ち立てようと若きアンビシャスを具現化した細川がいた。確かに、二心なしに理想の大地を目指した人びとも現実にいたときく。そんな彼らも、妖怪岸信介←故安倍氏祖父、のような自己の利益に聡い満州国官僚の姿に幻滅して早々萎んでいった。何でもアヘンでひと財産築いた?凶作と不況に喘ぐ日本の寒村から娘が売られていく現状を打破しよう、満州でなら小作農ではなく大きな耕地の持ち主になれる。政府が甘言を弄したと非難される側面大とはいえ、その農地はそもそも誰のものだったか、自らに問う事にフタをした、その事実も重い。しかし、どちらが辛酸を舐めたか。官僚機構は結局あの敗戦を挟んでもそのまま引き継がれたのだなぁ。この鉄の構造。長野県飯田市に程近い、阿智村に満蒙開拓平和記念館がある。満州国に渡った人びとの実情を学ぶことができる。当初個人の力で設営された記念館である。そこを見学した際に、平成天皇ご夫妻がこの記念館を訪れた事を知り少しは心が温まった。さて、この小説の重要なファクター、もう一つの柱は都市計画だろうと考える。コルビジェの 輝く都市 だったかの話なども出てきた。コルビジェといえば。若い頃、マルセイユまで出かけて ユニットアビタシオン 集合住宅壁のレリーフ、人間のモデュロールを見たときは感激した。けれど建築そのものはピンとこなかった。コルビジェはやはりロンシャンの教会堂ユニットアビタシオンが機械とするならロンシャンは生命だ。そのくらい違う。私は建築好きなので、こんな小説は美味しいのであるが、文中で、中川が明男の建築プランを「明後日」と代官山同潤会アパートの部屋で評した件。これは アーコサンティ を匂わしたのか?などと妄想した。思想は跳躍しても技術は一歩ずつ前進するのだなぁ、「エレベーターと空調」なるほどなぁ、の超高層。それに内井昭蔵の寄稿文に影響を受けたのではないかと思われる、建造物とその利用空間についてもっと迫りたいものだがここでは一つ音楽について。音楽家は五線譜に音符を連ね作曲する。現代音楽はいざ知らず、再現性のためにはともかく。しかし音楽を聴くものは、そのピン留めされた音符の移行のみを音楽と感じているだろうか。実は音と音の間、インターバル。或いは休符、その無音にこそ音楽的感情が乗るのではないか。摩擦で生じるのでは無い音をウパニシャッド哲学だった? アナハタ と名づけている。そんな音の原型が宇宙を満たし、生じ滅して流れているのではないか。ひとは設計された建築物ではなく、それが構成した空間を動いて暮らして休んでいる、ように。本を読んで随分遠くまでふらふら来てしまった。
2023.03.22
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