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2023.12.19
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テーマ: 読書(8637)
カテゴリ: 本日読了
2023/12/19/火曜日/最高気温8度、曇天の1日




〈DATA〉 岩波新書 1944
著者  國分功一郎

2022年10月20日  第1刷発行


〈私的読書メーター〉 新書であるのに読むのに随分時間が掛かった。新書というのは知識の概要とか表面をさらっとおさらいするイメージを勝手に囲っていました。全て咀嚼することは能わず、ただ朧げに今まで折りに触れ読んできたシュタイナーの人智学、論語、或いは仏教の理性的論者方の文章に触れた思いがします。スピノザの認識の三段階の先にはどうしても学解の対象ではなく実践の理解が示されている、と思いました。そういう意味では学問を超えているような。こんな知性が17世紀半ばにオランダで、民衆の理解し得ない共和制と共に息付いていた事実に驚くばかり。〉


読書中、最も心動かされたのは、実はオランダのハーグで1672年に起きた、共和政指導者デ・ウィットに対する民衆の非道な 「厄災の年」 殺戮事件だった。

私はこの事件を扱ったとも知らず、デュマ 『黒いチューリップ』 を読みたいリストに入れてみたものの、そのまま長く放置している。

この事件が起きた時、しかもその現場から徒歩にして15分ばかりの場所でスピノザは エチカ を記述していたという。

当時の欧州は、新旧キリスト教徒の間で残忍な殺戮が100年も続いていた。

魔女狩りと称して、薬草で病人を救ける女たちが告げ口で火炙りにされ、村人や町人の見せ物と化し、恐るべき暗黒の歴史を刻んでいたのだ。

シェイクスピアはその時代に生まれた旧教徒で、『ハムレット』はオランダの王家の悲劇だった。

『ハムレット』に見られる王殺し、姦通、自殺、毒殺さえ、優雅な推理小説に思えるほどに 「厄災の年」 殺戮事件は陰惨だ。

優れた理性的なリーダーが世に現れて、人間の尊厳をかかげ、理想的な統治を法に基づき執行しようというのに、民衆はたとえ愚鈍だろうと年幼かろうと、血すじとしての王を求めるのだ。

そして知的な理想は、民衆になぶり殺され、その皮は剥がされ、肉がこそがれ、市場で売り捌かれるのだ。

この現実!

自己の中にエチカ=倫理を持ち得なければ、一神教の妄信的行為は人をして、かくまで惨虐に兄弟を殺し得るのだ。

民衆が煽られた背景には、100年を超える宗教戦争、大航海時代の貿易がもたらす巨大な富と利権が絡む、秘密裏に結託した英仏のオランダ侵攻があった。


煽られる民衆とは私に他ならない。

何が真実かも見えず、小さな利益に汲々として。

老いてどんな変化が心身に訪れ、どのように朽ちるのか、漠とした不安は予測される自然災害と捻り合いながら私の意識を昏くする。

コロナは、ワクチンは、国家主権は、個人の人権は、少子高齢化は、経済は、パー券は、万博は、ひもじい思いをしている子どもたちは、インボイスは、リニアは、木原事件は、出稼ぎ男娼は、、、

われら民衆はどうしたいのか、世界がどうあってほしいのか。

デカルト:Cogito ergo sum
スピノザ:Ego sum cogitans


考えつつ存在する

「スピノザは、総合的方法こそが哲学の真の方法であると考えた。」
「定義、公理、定理、証明」ユークリッド幾何学原論、「エチカはこのような様式で書かれた」


手の仕事を科す

素描画家/アムステルダム/ レンブラント
レンズ職人/デルフト/ フェルメール


倫理的決断が理性を自立せしめる

その名も 『知性改善論』 という自伝的著作。所有、官能、名誉の欲からどれだけ自由でいられるか、の考察。それを考えている間はそれから離れられるという発見


精神がものを理解することが多くなるにつれて、同時に精神は、理解の道をいっそう容易にたどるための新しい道具を獲得していく


真であることは公共的に共有されるとみたデカルトの道は科学へと進行し、共有されないとみたスピノザは、ある種秘教としての哲学は進んだのか?


人間の本質は欲望

悪魔のようなものは四角い円のようなものでありえないと分かるものに過ぎない。
「どうすれば人間は、悪魔を仮定しようなどという考えが心をかすめもしない生き方ができるようになるか、それを考えようではないか。これこそが【エチカ】で開陳されるスピノザ哲学である。」


神には外部がない

神は永遠であって始まりも終わりもない。神は存在し、また作用するにあたって、自身の法則以外のなにものにも左右されない。全ては神の法則、すなわち、 自然の法則に従って起こる。

神は実際には、常に既に変状して存在している。
「存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する」

これはまさに大乗仏教的な思想ではないだろうか。


人間精神とは身体を対象とする観念

しかし、人間精神は身体を認識しない。精神が身体について認識するのは身体に起こることだけである。

スピノザは動物どころか無機的な物質にも精神があると(程度の差こそあれ)みている

キリスト教密教とか神秘思想のようでもあるが、観念に目を凝らしていけば矛盾なく成立する、のだろう。


意識が陥る原因目的の転倒のメカニズム

現れている意識の下の広大な無意識層について、 フロイト に先駆けての考察

自由な意志というものはない。


感情の模倣

喜び、悲しみと欲望の3つが基本的感情であり、こらの組み合わせによって全ての感情は説明される。

同類と感じる者には、その者と似た感情を抱く。

妬みは受動のモード、能動的に生きるにはどうするか。


『エチカ』 の中断

エチカを中断し、 『神学・政治論』 を執筆しなければならなかった、時代背景

序文での呼びかけ、 来るべき哲学者 にむけて。


ものごとを自分で判断する自由、考えたいことを考える自由は誰も放棄することはできない。これは最大の自然の権利である。

なぜ思想の統制を行なってはならないか。

それが権力の自由にできるキャパシティを超えた目論見であり、それを目論む体制は暴力的にならざるを得ない。

自然状態ならば人は意識を伴う衝動によって自然権を行使しているだけだが、契約が成立し法が存在するなら、 行為のもたらす意識は法についての表象をもたらす。



ここまで。
エチカについて拙い反省を試み、短日の半分を費やした。


経験を通して、つまり身体の変状を通した意識は、この世に悪も善もないことを理性に表象した。
という言い方はできる?

ただ悪い関係と良い関係はある。

スピノザのいう 能動的 に思考し、生きるということは倫理の実践を必ずや伴うのだと理解する。


欲望が私を存命させるが、理性はそれに意味を与えんとする。大いなる自然の現れの中で、客観を主体的に生きる、ことを常に意識する。





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最終更新日  2023.12.19 12:32:20
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