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昌徳宮の見学で、旅行観光の日程はすべて終了。隣の昌福宮は、訪れることが出来なかったが、光化門広場をバス車窓から眺めた。昌福宮は、宿泊ホテルから歩いて行ける距離。以前に一度訪れたことがある。ソウルの五大王宮で最も規模が大きい昌福宮。守門将交代式(1日2回)が見学できる有名なスポット。 ソウル市内から金浦(きんぽ)空港までの距離は約16km。多少の渋滞があったが、約30分で到着した。途中、漢江右岸沿いを下り、「傍花大橋」で漢江を渡った。この橋は、赤いリブアーチがある印象的な橋(全長2600m)。この橋を更に進むと、仁川(インチョン)国際空港に到る。 金浦空港は、仁川国際空港の開業(2001年)に伴い、しばらく国内線のみを運行していた。しかし需要があるため、日韓線(東京羽田と大阪)を復活した。成田空港からは仁川空港への定期便が飛んでいる。金浦空港を利用すると、料金が少し高くなるがソウル市内へのアクセスが容易。私たちは、19時20分発(KE2105便)で韓国を後にした。羽田まで2時間15分。韓国旅景色-完-。写真1 昌福宮・光化門を通る(車窓)。写真2 光化門ライトアップと守門将交代式など。写真3 漢江(傍花大橋)を渡って金浦国際空港へ。写真4 金浦空港ターミナルの様子。写真6 37番ゲート口と搭乗機(大韓航空)。
2024年02月12日
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昌徳宮敷地の隅に、質素で風流な佇まいの建物が並んでいる。カラフルで装飾の多い宮殿建物とは異なり、「楽善斎」は、落ち着いた雰囲気がある。1849年に24代国王・憲宗が後宮を迎い入れるために建てたとされる。 王朝末期には、皇族や後宮・女官が余生を送った場所。床板が高く、オンドルなどの暖房施設が設えてある。この楽善斎で、日本の梨本宮家から嫁いだ李方子(り・まさこ)さんも過ごしたという。1970年夫の李垠(り・ぎん)皇太子が死去したが、その後日本に戻らず韓国に留まる。日韓両国の架け橋になった強い女性・・。 楽善斎の裏側に、室内から花を愛でるように階段状の花壇が造られている。四季折々に花を観賞し、芸術作品などを見て、静かに暮らしたのだろう。当時の様子が伺いできる空間だった。写真1 質素な佇まいの楽善斎。写真2 楽善斎の塀と亀の甲羅模様(長寿を願う)。写真3 床高の板の間(マル)と長楽門。写真4 裏庭の花壇の様子。写真5 オンドルの煙突と六角堂の上凉亭。写真6 故李垠(ぎん)・方子(まさこ)夫妻と位置図。
2024年02月09日
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昌徳宮仁政殿の東側に、青瓦で葺いた宣政殿(ソンジョンジョン)が並ぶように建っている。1461年に建てられ、もともとは王の寝殿だったが、後に王の執務室として使われた。座って話したり、書いたりできるように、月台が置いてある。各天井には、鳳凰柄と花柄が描かれている。 現存する韓国の宮殿で、唯一青い瓦葺きの屋根をもつのが宣政殿。少し前までの韓国大統領府は、青瓦台(せいかだい)だった。青色の瓦屋根は、位の高い者がそこで政治など国家の大事を司っているという象徴的な意味があった。また、宮殿に緑色が多く使用されるのは、陰陽五行説における「木」に対応する色で。健康や成長・繁栄を象徴するという。 宣政殿の奥に大造殿(デジョジョン)がある。この建物は、王と王妃の寝殿であった。特徴として、やるに棟瓦がない。国王が龍に例えられたので、棟瓦を省いたとされる。殿内の中央に、螺鈿の椅子が置かれていた。建物の床下にオンドルを温める焚き口が、裏庭の花階にその煙突があった。寒い冬を乗り切る古い暖房施設が観ることができた。[韓国世界遺産-16]写真1 青い瓦を葺いた宣政殿の屋根。写真2 宣政門を進んで宣政殿へ。写真3 宣政殿とその内部(日月五峰図)。写真4 大造殿とその内部の路殿の椅子。写真5 大造殿の床下暖房施設。写真6 花壇と煕政堂前広場。
2024年02月03日
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ソウル五大古宮のひとつ昌徳宮(しょうとくきゅう、チャンドックン)を訪れた。昌徳宮は、正宮である景福宮の離宮として建設された宮殿。広い敷地(13万5千m2)に13棟の宮殿関係建物がある。世界文化遺産の建物が多いので、分割してアップします。 昌徳宮の正門にあたる大きな敦化門(トンファムン)から入場する。1412年建てられ、ソウル市内最古の門とされる。王の行列などの儀礼の時、出入口として使用された。文禄の役の際、一度全焼したが1609年に再建された。再建から415年経過しても、当時と変わらずに堂々として大建築物だ。 敦化門を抜けて進み、仁政門、仁政殿を観賞する、仁政殿は、王宮の儀式を執り行う、昌徳宮の中心的な場所。見た目には二階建てのようだが、中は吹き抜けになっている。絢爛たる玉座が設置されていた。朝鮮王朝末期の建築様式を観ることができる。広場の花崗岩による石畳みが眩しかった。[韓国世界遺産-16]写真1 昌徳宮の正門、敦化門。写真2 進善門と仁政門屋根の雑像。写真3 仁政門と広場の石畳。写真4 仁政殿と玉座。写真5 粛章門と敦化門広場。写真6 古木と世界文化遺産碑。写真7 仁政殿付近の案内図。
2024年01月31日
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宣陵を後にして再び漢南大橋を渡り、ソウル中区の北倉洞地区へ向かいランチとする。北倉洞(プクチャンドン)は、3つの大通りに囲まれた台形のエリア。北に市庁、南に南大門が控えている。プラザホテルの南側、韓国銀行本館の西側辺り一帯は、雑多な飲食店が軒を連ねる「食い倒れ通り」。 小公路に面して建つ、韓国銀行の旧館・貨幣金融博物館は、日本統治時代に辰野金吾氏が設計したもの。旧小樽日本銀行の建物に似ていた。また日本橋にある日銀本館の面影もある。金融街の裏手、北倉洞にはホテル、雑多な食事処、コンビニがある。ビジネスマンがランチ、夕食をとる通りで、「風流通り」とも呼ぶ。 ガイドさんの案内で韓国銀行の裏路にある「全州会館」に入り、石焼ビビンバをいただく。全州ビビンバの特徴は、牛骨肉スープで炊いたご飯の上に、野菜やユッケ、卵の黄身を石鍋に盛り付ける。冷めにくい石鍋で暖かい混ぜご飯は、大変美味しい。海鮮チヂミと一緒に食した。韓国旅行において、最後の団体食事となった。写真1 漢江に架かる漢南大橋を再び渡る(車窓)。写真2 韓国銀行本館と貨幣金融博物館。写真3 北倉洞の「風流通り(食い倒れ通り)」。写真4 韓国銀行本館の裏手にある「全州会館」。写真5 全州石焼ビビンバのランチ。写真6 プラザホテル南側の台形エリアが北倉洞。
2024年01月27日
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再度、漢南大橋を渡って、江南区三成洞にある宣陵(せんりょう、ソルルン)を訪ねた。宣陵は、朝鮮王朝第9代王成宗とその王妃が祀られている。隣接して中宗の靖陵もあるので、三陵公園と呼ばれ、敷地面積19万m2を超える広大な敷地。周辺のビル群と緑豊かな王陵のコントラストが印象的な場所。 2009年世界文化遺産に登録された朝鮮王陵は、歴代の王たちが眠る。ソウルを中心に40基が点在している。王朝時代のソウルは、漢陽(ハニャン)と呼ばれ首都だったので、近郊に王墓が多い。韓国の伝統文化と美しい自然が調和する空間で、600年前の祭礼が今日まで受け継がれている生きた文化遺産と言われる。 朝鮮王陵は、基本的に3つの空間で構成されている。上段に王と王妃が封墳されているのか陵寝空間。その手前にT字閣があり祭礼を行う祭祀空間。そして、王陵の管理や祭礼の準備のするための進入空間。陵寝には、虎や羊の石像、そして王墓を守る武人石像が配置されている。[韓国世界遺産-15]写真1 江南区三陵公園の宣陵。写真2 紅箭門からT字閣。写真3 祭礼を行うT字形の建物。写真4 王の業績を刻んだ石碑と碑閣。写真5 陵寝空間の石像等。写真6 案内図と世界文化遺産碑。
2024年01月24日
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チヂミと大餃子スープを食べ温まったところで、明洞からほど近いNソウルタワーに上り、ソウル市内の夜景を眺めた。日没から2時間近く経っているので(マジックアワーをずらす)、展望台へはスムーズに入場できた。混雑することなく360度のパノラマを観る。但し、三脚撮影出来ないため、暗い写真となる・・。 ソウルタワーは、ソウル城郭の南側標高240mの南山(ナムサン)に、1971年テレビ塔として建設された。1980年から一般公開され、ソウルの街並みやビル風景を眺めるビュースポットとなる。2005年にリニューアルされて、Nソウルタワーと改称。タワーの高さは236m。しかし南山高台分を加算すると、海抜360mの展望台となる。東京スカイツリーの展望デッキよりも少し高いことになる。 2017年に松坂区に、韓国一高いビルが出現した。高さ555mのロッテワールドタワーで、その展望台が人気となっている。入場料は、ソウルタワーの1.7倍程度で東京スカイツリー並か・・。当日、ソウルタワー展望台からは、うす暗いワールドタワーの輪郭がやっと見えた。写真1 ソウル繁華街・明洞の夜景。写真2 ライトアップされたNソウルタワーを見上げる。写真3 タワー街のエントランスと展望台デッキ。写真4 ソウルタワー展望台からの市内ビル夜景。写真5 漢江方面、聖水大橋とロッテワールドタワー。写真6 夜景ビュースポットを追加。
2024年01月21日
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夕食前にソウル市内の仁寺洞(インサドン)小通りの石畳みをそぞろ歩く。仁寺洞は、王朝時代に両班(リョウハン)と呼ばれる貴族や官僚が住んでいた街。陶磁器や絵画、および骨董品から伝統アレンジ小物の洒落た店舗が軒を連ねる。裏路地に入ると昔ながらの韓屋が並び、食事処や伝統スイーツを提供するカフェがある。 ガイドさんの案内で、行き止まりの裏路地に進む。耕仁美術館の向いに、行列のできるマンドゥの店「クン(宮)」がある。半月型マンドゥ(饅頭)を作る様子が見学できる。この名物店で、大きな半月型餃子6個入りスープとチヂミを食した。スプーンですくい上げて醤油ダレを浸けていただいた。6個は多かった・・。 饅頭(まんとう)の起源は、中国三国時代にさかのぼるという。蜀漢の諸葛孔明にまつわる伝説があるそうだ。南蛮を征服して帰還する際に、ひどい波風に遭った。この災難を乗り越えるために、人の頭の代わりに49個の饅頭を水神に捧げたという話・・。写真1 石畳舗装の仁寺洞小通り。写真2 仁寺洞6街の陶磁器やお土産店。写真3 ガイドさんの案内で裏路地の飲食店へ。写真4 行列ができる(マンドゥ宮)。写真5 6個入りの餃子スープとチヂミの夕飯。写真6 ビルグルマン評価の有名店。
2024年01月19日
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ソウル市内の観光名所のひとつ「北村韓屋村」を歩く。北岳山の南麓の傾斜地に形成された住宅街。朝鮮王朝の古宮・景福宮と昌徳宮に挟まれた位置にあり、韓国の伝統家屋が密集して建っている。主に王族・貴族等が住んでいため、他の韓屋村より格式が高いとされる。 市内の目抜き通りだった「鐘路」の北に位置する街だったことから「北村」と呼ばれている。その北村韓屋村は、坂の街だ。坂道に沿って韓屋が並んでいる。車1台が通行可能な狭い坂に、大勢の観光客が上り下りしている。坂の上に建つ「展望台カフェ(北村東洋文化博物館)」でひと休みの、ミルクチョコレートを飲む。テラスからは、韓屋村の瓦屋根と市街地を展望できる。 北村の坂道を登る前に、繁華街。地下鉄明洞駅近くの焼肉専門店「知牛」で、純豆腐チゲ(スンドゥブチゲ)のランチをとる。一人前用の石鍋に、豚肉、アサリ、ネギ、唐辛子などの具入りスープに、豆腐がたっぷり入れた料理。ご飯と共に美味しくいただいた。写真1 韓国の伝統家屋が密集する北村韓屋村を観光する。写真2 北村韓屋村の代表的な坂道。写真3 高台まで上るとソウルタワーが見えた。写真4 展望台カフェとテラスからの展望。写真5 北村東洋文化博物館でティータイムする。写真6 明洞の焼肉専門店で純粋豆腐チゲランチを・・。
2024年01月16日
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ソウルの中心を東西に流れる漢江(ハンガン)は、市のシンボル的な存在。東京の隅田川を大きくしたイメージ。その漢江に、橋長さ915m×12車線の漢南大橋が架かっている(2004年拡幅)。市道41号線ではあるが、京釜高速道路に繋がっている交通の動脈。この橋を往復して、南の新沙洞と北の梨泰院の街歩きをする。 先ず、江南エリアの新沙洞を訪れた。漢江の南はおしゃれな町が多いといわれているが、なかでも新沙洞路は人気のストリート。カロスキル(街路樹通)とも呼ばれ、イチョウ並木のメイン通りから路地通りまで、ファションからグルメまでソウルを代表するトレンドスポットとされる。 漢南大橋を南から北へ渡って、梨泰院(イテウォン)を散策する。米軍関係や大使館があることから外国の人々が集まる街。異国の雰囲気ただよう賑やかカルチャースポット。ランドマーク的なハミルトンホテルがあるが、このホテル西側の路地坂で、不幸な雑踏事故が2022年10月末に起きた。160人近くの若者が命を落としている。写真1 島山大路(トサンデロ)からカロスキルの起点。写真2 カロスキル(街路樹通)を散歩する。写真3 2000年頃の漢江と漢南大橋。写真4 梨泰院(イテウォン)路。写真5 梨泰院路T字路の地下に地下鉄梨泰院駅がある。写真6 雑踏事故現場に近接するハミルトンホテル。
2024年01月13日
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ソウル明洞(ミョンドン)のランドマーク的なデパートは、ロッテ百貨店本店と言われている。免税店も併設されているので、観光客が買い物に立ち寄る場所だという。小生は、化粧品やブランド品に興味がないので、10階と11階を一回りして地上に降りる。 ロッテ百貨店は、南大門路と乙支路(ウルチロ)の交差する南側に立っている。乙支路口交差点の地下は、地下鉄2号線の乙支路入口駅となっている。また西側に地下2号線市庁駅がある。東京日本橋三越本店のような場所。ソウルを代表するビジネスと商業エリアだ。 乙支路沿いには、金融、銀行そして有力企業の高層ビルが立ち並んでいる。交差点から眺めると、「鉄鋼の水晶体」と呼ばれるフェラムタワーや「九の字」に曲がった携帯通信会社・SKテレコムの特徴あるビル風景がある。「ビルの森」とも呼ばれる。韓国は地震が少ない土地柄でもあり、高層ビル群が各地にある。写真1 乙支路口交差点。写真2 ロッテ免税店(ホテル)側その他。写真3 南大門通りの店舗と地下鉄駅入口。写真4 免税店へ続くスターアベニュー通路と有名人手形。写真5 ロッテ百貨店と反対側の高層ビル群。写真6 フェラムタワーとSKテレコムビル。
2024年01月10日
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儒教精神が今も残る韓国で、その聖地とも言える場所が「宗廟(そうびょう)」と言われている。ソウルの中心部(鐘路区)にあり、辺りは静寂に包まれている。朱塗りの柱に、黒瓦をいただく荘厳な建物に、朝鮮王朝(李氏朝)歴代の王と王妃の位牌が祀られている。訪れ時期、正殿は修復工事中だった。 朝鮮王朝を興した太祖李成佳は、儒教を国教と定め、1393年に宗廟を建てた。正殿と別廟の永寧殿がある。正殿には功績がある19人の王と王妃が、永寧殿には正殿に祀られなかった、その他の王族が祀られている。東西に連なる正殿は、位牌が増えるたびに増築され、101mもの長大な建物になった。単一の木造建造物では世界最長という。 宗廟は、独特の建築様式もさることながら、伝統行事「宗廟祭礼」が知られている。年に一度5月初めに、朝鮮王族の末裔たちが集まり、歌舞と音楽を祖先の徳を称える。500年以上も続けられているこの儀式は、世界無形遺産となっている。中国や台湾にも宗廟が残っているが、伝統の祭礼が継承されているのは韓国のみとか・・。[韓国世界遺産-14]写真1 宗廟外大門前広場。写真2 沐浴して祭儀の準備をする斎室。写真3 「三道」脇を歩いて正殿南門へ。写真4 仮囲いの正殿と祀られている19人の王と王妃。写真5 正殿に祭られなかった王と王妃などの祭る永寧殿。写真6 案内図と世界文化遺産碑。
2024年01月07日
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九龍浦港でズワイガニを食べた後、一路首都ソウルをめざす。バスは、高速道路を繫いで走るが、約250kmの行程。お腹が満たされているので、車中昼寝タイムとなった。眠りから覚めると、高速道路のサービスエリアだった。ドライバーさんに感謝しつつ、トイレ休憩とコーヒーブレイクする。 ソウルに着く頃には辺りが暗くなり、夕食タイムなる。ソウルの繁華街・明洞(ミョンドン)の裏道にある食堂に直行。ソウル市の郷土料理「ソルロンタン」をいただく。お腹があまり空いていないので、ありがたいメニュー。牛の足、頭の骨、内臓をじっくり煮詰めたスープだ。スープの中には、牛肉、ソーメン、青ネギが入っている。後味があっさりしている。 ソルロンタンは、その昔農業の豊作を祈るお祭りで、先農壇(ソンノンタン)という祭壇で祈りを捧げた後、牛骨スープを飲む風習が謂れともされている。小生らは、塩と胡椒で味を調えてから、白菜キムチや大根キムチを添えてご飯と共に食べた。食後、ソウル市庁近くの「コリアアナ・ホテル」に宿泊する。写真1 休憩した高速道路のサービスエリア。写真2 サービスエリアの施設など。写真3 ソルロンタンとキムチ。写真4 明洞街角の食堂で夕食。写真5 ソウル市内目抜き通りの夜景。写真6 宿泊したコリアナホテル。
2024年01月03日
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慶尚北道・浦頁(ポハン)市へ向かう。韓国最東部に位置する浦頁は、小さな漁村だったが、1970年代に浦頁製鉄所が開設されると、経済成長の後押しもあり急速に発展した。人口49万人の工業都市。迎日湾の西裏側に九龍浦(クリョンポ)港がある。その港通りの「カニ料理通り」で、蟹ランチをとる。 九龍浦港は、ズワイガニの産地で、韓国での水揚げ第一位をほこる。そのため新鮮なズワイガニを安価で食べることができる。カニ料理通りには、大きな蟹看板を掲げたカニ専門店が軒を連ねる。船溜りに面した店に入り、美味しく頂いた。 日本統治時代、豊富な漁場を求めて日本から集団移住して開拓場所が九龍浦だという。日本家屋がまとまって残っているエリアがある。カニ料理通りの北側に平行して伸びる「近代文化歴史通り」として整備されている。日本の西ノ島町(島根県隠岐郡)が、九龍浦港の緯度にあたる。写真1 九龍浦港のカニ料理通り。写真2 店舗の前でズワイガニをさばく。写真3 入店したカニ食堂。写真4 ズワイガニのランチをいただく。写真5 九龍浦港浜通りと船黙り。写真6 日本的な街並がのこる「近代文化歴史通り」。
2023年12月28日
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仏国寺の創建は774年とされる。日本の法隆寺の創建(607年)より160年余り後に造られた木造建築物。いずれも古墳時代の仏教建築で、伽藍配置が共通しているようだ。門-塔-本堂-講堂が南北に直線に並ぶ伽藍配置。仏国寺の場合、紫霞門-多宝塔-大雄殿-講堂そして毘盧殿と続く。 石垣の上建てられた伽藍は、回廊によって大きく3つの領域に分けられている。本殿の大雄殿は、秀吉の朝鮮出兵により焼失したが、1975年に再建された。現世の娑婆(しゃば)世界を表わす大雄殿、天界の西方極楽浄土を表わす極楽殿、そして来世の蓮華台蔵世界を表わす毘盧殿を観て回る。 仏国寺は、もとは毘盧遮那仏を本尊とする華厳宗の寺院だったが、現在、禅宗系の豊渓宗の寺院。大雄殿に釈迦三尊仏が安置され、奥の毘盧殿に毘盧遮那仏が安置されていた。[韓国世界遺産-13]写真1 佛國寺大雄殿とその境内。右端手前は多宝塔。写真2 大雄殿の建物と釈迦像。写真3 無説殿(講堂)と祈願の提灯。写真4 奥の毘盧殿へ石段を昇る。写真5 毘盧殿と毘盧遮那仏像。写真6 極楽殿を観た後、西門から出る。
2023年12月25日
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慶州吟含(トハム)山の中腹に造られた仏国寺(ぶっこくじ)。仏教において、仏の世界とされる仏国土を現世に再現するとの目的に、770年代(新羅)に完成したという。最盛期には、約60棟の木造建築物で構成されていた。しかし、秀吉による朝鮮の役で、大半を焼失するも、1973年に復元された。 新羅芸術と仏教文化をそのままに語り伝える仏国寺。天王門をくぐり、しばらく進むと城壁前のような場所に出合う。石造りの階段・橋、そして門を仰ぎ観る。東側、青雲橋・白雲橋の階段34段の上ると(現在立ち入り禁止)紫霞(しか)門。西側、18段の蓮華橋・七宝橋の階段を上ると安養門がある。いずれ花崗岩で築造されている。 紫霞門と本堂にあたる大雄殿との境内には、加工した花崗岩を巧みに組み上げた多宝塔が、その西側に釈迦塔が立っている。花崗岩を切り出し、加工して様々なものを作り出した新羅の技術の高さをみる思いだ。一方、日本統治時に国を奪われた悲しみを伝える意義深い塔でもあるようだ・・。[韓国世界遺産-13]写真1 慶州吟含山の中腹に造られた仏国寺。写真2 天王門と四天王像。写真3 紫霞門し青雲橋・白雲橋。写真4 安養門と蓮華橋・七宝橋。写真5 仏国寺のシンボル、多宝塔と釈迦塔。写真6 世界文化遺産碑と案内図(パンフレット)。
2023年12月23日
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慶州吟含山(トハムサン)の山頂近くにある(標高約550m)を訪れる。山腹をくねくねした道路をバスで登ること約30分。新羅時代長い歳月を費やして8世紀後半に完成した石窟庵だ。入場ゲートとなる山門から更に、山道(整備されている)を約20分歩くと辿りつく。 当該石窟の大きな特徴は、山の斜面を円形に削り、花崗岩の石材を積上げもので、珍しい人口石窟とされる。その構造は、前方後円形をしていること。地界を表わす木造方形の全室と、天界を表わす石造りむの主室からなる。特に、ドーム天井は、360個以上の加工石材で巧みに築造されている。世界文化遺産の評価部位だ。 主室中央に、本尊である如来坐像(たかさ3.45m)が鎮座している。この如来像は。新羅仏教芸術の最高傑作と云われる。硬い花崗岩を彫刻ではあるが、滑らかな曲線で表現されている。眉毛、長く垂れた耳など、崇高で慈悲深さが伝わってくる。 朽ちた状態でこの石窟は、1909年偶然発見される。崩壊寸前の石窟を、当時統治していた日本側が修復工事をしたとされる。そのことが逆に反日感情に利用された経緯があるらしい・・。[韓国世界遺産-12]写真1 吟含山石窟庵。写真2 山門ゲートから少し山道を歩く。写真3 斜面に造られた石窟と木造の前室。写真4 ドームに鎮座する如来坐像(花崗岩を彫刻)。写真5 如来像が見つめる景色。写真6 駐車場の石段を上ると世界文化遺産碑がある。
2023年12月21日
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宿泊したコモドホテルの裏手に、晩秋の湖「普門湖(ポムンホ)」が広がっていた。慶州市中心から約6km離れた一帯は、慶州観光団地とも呼ばれる。1975年に開発されたリゾート地。湖周辺には、大きなリゾートホテルや「慶州ワールド」など各種娯楽施設、公園施設が整備されている。 普門湖大きさは、面積約160万m2あり、東京ドーム35個。湖の西端に堤防と排水路があるという。慶州市の水道水は、地下水が主体とされ、この人造湖を水源としていない。日本でいうの「観光ダム」で、ボート遊びや、湖を周回するサイクリングロード、ハイキング道も整備されている。 慶州市は桜の街で、普門湖も桜の名所のひとつ。この湖周辺を巡る「慶州さくらマラソン」が今年4年ぶりに開催されたという。ハーフ、10kmコースに約1万2千人のランナーが国内外から集まったという。この時期、周辺の宿泊施設は盛況を取り戻したという・・。写真1 ホテルの部屋から普門湖を見る。写真2 慶州普門リゾートエリア。写真3 普門湖と遊園地。写真4 いまは誰もいない湖畔。写真5 コモドホテルの庭と廊下の写真パネル。写真6 サクラの頃のホテル周辺とさくらマラソン。
2023年12月19日
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慶州での夕食は、暗くなってから大陵苑近くのレストランとなる。慶州名物の「サンパブ」を4人でシェアする。韓国料理は、テーブルいっぱいにおかずが並ぶのが特徴だ。食事後、今夜の宿泊場所へバスで移動する。普門リゾートの「コモドホテル慶州」に宿泊。 ご飯等を野菜の葉で包んで食べる料理がサンパブ。「サム」は包む、「パブ」はご飯との意味がある。サンチャ、エゴマ、サニーレタスなどの葉に、様々な食材や味噌サンジャンを添えてご飯と一緒に食べる。サンジャンは、各食堂により微妙に異なる、ピリ辛味噌ダレ。 店内の壁に、ハス田の大型写真が掲げられていた。膽星台近くの「雁鴨池」の蓮田とのこと。6月下旬から7月上旬にかけて見事な蓮景色が楽しみ。また、慶州はさくらの名所で有名。コロナ前には毎年「慶州さくらマラソン」が開催され、日本から参加者も多いという・・。写真1 大陵苑近くのレストランで食事する。写真2 慶州サンパブをいただく。写真3 野菜の葉は、サンチュ、エゴマ、サニーレタス。写真4 店内の雰囲気。写真5 店内に飾られている雁鴨池付近の蓮田写真。写真6 普門リゾート・コモドホテル慶州に宿泊する。
2023年12月18日
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慶州大陵苑の南側、隣接する広大な広場に、ぽつんと石造り塔「膽星台(たんせいだい)」が立っている。夕闇のなか淡いピンク色にライトアップされ、訪れる人も多い。周囲の古墳もライトアップされ、薄緑色の小山が浮き上がって見える。幻想的に光景だ・・。 膽星台は、新羅時代の善徳女王の在位(632年から647年)中に造られもので、東洋最古の天文観測台とされる。祭壇説もあるが・・。塔の規模は、直径5.2m×高さ9.4m、地台石の一辺の長さ5.35m。直線と曲線を取り入れた安定感がある建造物。2000年に世界文化遺産に登録されている。 花崗岩を加工した基壇の上に、27段の石を円筒形の曲線で積上げている。上部には長大石を井桁に重ね、天空を眺める構造だという。南壁面に、下から13段と15段の間に窓のようなものがあり建物内部に入ることができるらしい。陰暦を連想させる361個の石で積み上がっている。 膽星台の更に南側に明るく輝くスポットがある。慶州中心を流れる南川に架かる「月精橋」。新羅時代、王宮月城と南山を結んだ橋。2018年に当時の形に復元され、ライトアップされている。[韓国世界遺産-11]写真1 慶州の膽星台。写真2 淡いピンク色の輝き。写真3 夕闇に浮かぶ古墳。写真4 古墳と柿そしてホウキ草。写真5 復元された月精橋。写真6 膽星台と月精橋の位置図。
2023年12月16日
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夕闇迫る中、新羅王朝王族の大規模な慶州古墳群を訪れた。慶州(キョンジュ)は、地域一帯に散らばる古墳や文化財などの数から、屋根のない博物館と称される。古墳公園となっている大陵苑内には7基の王陵をはじめ、23基の古墳が集まっている。苑の敷地面積は、12万5千坪と大規模だ。 慶州エリアに存在する古墳のほとんどは、誰が埋葬されたかも判っていないという。その中で、最も有名なのが「天馬塚(チョンマチョン)」。1970年の発掘時に「天に昇る馬の姿が描かれている絵」が見つかったことで、この名が付いている。大陵苑の中で唯一内部が公開され、内部構造や埋葬品のレプリカを展示。 韓国南東部にある慶州に都を定めていた新羅は、百済、高句麗の三国時代を経て、朝鮮半島を始めて統一した国(7世紀から10世紀)。長らく王宮があったので、仏教施設を含む建築物の発展が見られる遺跡が並んでいる点が評価されて、世界文化遺産して登録された。[韓国世界遺産-10]写真1 慶州大陵苑の大皇南塚と池。写真2 大陵苑後門と天馬塚チケット売り場。写真3 天馬塚入口と木槨石積の様子。写真4 木槨と副葬品。白樺の樹皮に描かれた白馬の絵。写真5 副葬品のレプリカ。写真6 大陵苑案内図と世界文化遺産碑。
2023年12月15日
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海印寺を15時半頃に出発して、慶州(キョンジュ)へ向かう。その頃から、山岳方面に縞々の雲「波状雲」が広がり始めていた。大邱付近の高速道ジャンクションで、京釜(キョンブ)高速道路に入る。 東大邱JCTから約7km進んだ平沙(ピョンサ)サービスエリアで休憩する。空を仰ぎ見ると、波状雲が更に広がっていた。波状雲は、水面が波立つように見えることからそう呼ばれる。空気が波打っていることを現わしている。長くみていると、頭がくらくらしてくる。日本にSAと変わらない施設状況だ。 京釜高速道路は、首都ソウルから南部港湾都市・釜山を結ぶ416kmの高速道路。韓国内を縦断する動脈道路。但し、高速道路の一部は、有事の際に滑走になるため、8車線道路・直線区間がある。 現在も続く休戦状態の朝鮮戦争。当初北朝鮮軍の侵攻をうけた韓国軍は、釜山近くまで後退させられた(釜山橋頭保攻防線)という。国連軍の援軍によって巻き返し、現在の北緯38度線がある。ソ連の指導者スターリンが亡くなって休戦が実現できたとか・・。写真1 海印寺の麓から山を望む。写真2 海印寺の雲景色。写真3 京釜高速道路・平沙(ピョンサ)サービスエリア。写真4 平沙SAから西の空を望む。写真5 車窓からも波状雲が見えた。写真6 七十三年前の釜山橋頭保攻防ライン。
2023年12月13日
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海印寺の本堂・寂光殿の裏手の、一段高い場所に世界文化遺産「海印寺蔵経板殿」がある。13世紀、モンゴルによる侵攻が続いた高麗で、国を守りたいとの願いを込めて、仏教の経典を版木に刻んだ「八万大蔵経」が製作された。この15世紀の高麗八万大蔵経を保管するために、建造されたものが蔵経板殿。 大蔵経版木が8万枚以上作られたことから「八万大蔵経」と呼ばれる。推定文字数は5200万字とか。初版は江華島(現ソウル)で作られたが、モンゴル軍によって焼失する。その後15年もの歳月をかけて、1488年復刻された。白樺の版木は、縦24cm×横70cm×厚さ4cmの大きさ。文字は、美しい古代朝鮮文字で漢字がびっしりと刻まれている。推定文字数は5200万字とか。 600年以上も版木が損なわれずに保存されていたことに驚嘆する。殿内部の底には、塩・炭、石灰・砂が順に敷き詰めてあるという。害虫予防だ。室内の空気が滞留しないように、窓の大きさ・形も工夫されている。この高麗八万大蔵経の版木から刷られた大蔵経を、増上寺(東京都)が所蔵しているという。[韓国世界遺産-09]写真1 海印寺蔵経板殿の中庭。写真2 蔵経板殿の門に登り、入口に入る。写真3 蔵経板殿内部の様子と版木。写真4 八万大蔵経の保管状況。写真5 奥の蔵には仏像が安置してある。写真6 中庭三層石塔と世界文化遺産碑。
2023年12月12日
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伽那山海印寺は、韓国中南部に位置する大邱(テグ)の郊外にある。伽那山(標高1430m)の山あいに広がる寺院は、1200年の歴史をもつ名刹。韓国最大規模の宗派・曹渓宗の三宝寺院。「海印」とは、海のように澄み渡る仏の境地を示す仏教用語だという。 海印寺入口の最初の門は、「一柱門」、紅霞門とも呼ばれ、周辺の景色と調和している。更に参道を進むと、「鳳凰門」がある。金剛力士像が描かれているので仁王門。そして「海東国宗大伽藍」の額を掲げた「解脱門」を抜けると広い境内が広がる 本堂にあたる「大寂光殿」には、毘廬遮那仏など3体が安置されている。左から観音菩薩像、毘廬遮那仏、法規菩薩像。建物壁面には、法宝壇などの額が掲げられ、楽器を奏でる天女や仏陀にまつわる仏教画が描かれている。隣に緑色を基調とした、装飾模様が美しい「大毘廬殿」が並ぶ。写真1 海印寺の大毘廬殿と大寂光殿。写真2 紅葉を観ながら長い参道を歩いて、第一の門「一柱門」へ。写真3 更に進むと鳳凰門(仁王門)へ。写真4 解脱門を潜ると境内が広がる。写真5 大寂光殿と汎鐘楼。写真6 大毘廬殿と本堂外壁と御本尊。写真7 海印寺の境内案内図。
2023年12月10日
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全州韓屋村の目抜き通り「太祖路」に面して、「慶基殿」の正門がある。朝鮮王朝を建国した李成桂(キョンギジョン)の御真(公式の肖像画)を奉るために、1410年に建てられた。その後、慶長の役などで正殿は焼失するも、1614年に再建される。日本では、戦国時代・大阪の陣があった頃・・。 慶基殿とは、「慶ばしい場所に建てる」との意味。正門でチケットを購入して、石垣に囲まれた晩秋の殿地へ入る。紅箭門(こうせんもん)と慶基殿門へと続く。正殿の屋根に亀二匹が載っている。火災除けのお守り。次に、高床式の全州史庫および朝鮮時代の家屋を巡る。 韓国ドラマや映画などのロケ地にしばしば使用される慶基殿。民族衣装を着飾った観光客が思い思いの場所で記念撮影していた。女性はチマチョゴリ、男性はパジチョコリとのこと。また正殿東側にある竹林も、撮影ポイントらしい。また石垣道と聖堂の建物は、異国的な情緒があった。写真1 民族衣装を着た人々が集まった慶基殿前広場。写真2 正門(チケット売り場)と紅箭門。写真3 慶基殿門とその美しい装飾絵。写真4 慶基殿正殿と李成桂肖像画。写真5 イチョウ絨毯と全州史庫その他。写真6 韓国で最も美しいとされる西洋建築の殿洞聖堂。
2023年12月09日
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扶余から約55km南下すると、全羅北道・全州(チョンジュ)到る。全州中心部に、観光地「全州韓屋村」がある。韓国の伝統家屋である韓屋700軒あまりが密集している。実際に住民が生活する集落だ。高台から眺めると、黒瓦と木造建築を一望できる。 韓屋村を東西に伸びる「太祖路」の両側に、伝統工芸、性格体験館、およびカフェ・ショップが並ぶ。交差する脇路に入っても、朝鮮王朝時代の景観を保存している。伝統衣装をまとって街歩きするカップルが多い。日本の浅草・京都のように、着物姿で観光するのと同じ感覚。紅葉が残る街を歩いた。 街歩きしてお腹が空いたところで、ランチとなる。美食の町・全州は、「ビビンバ」発祥の地と云われる。ビビンバは、「混ぜ」と「ご飯」との意味がある。全州ビビンバは、真ちゅう製の器に入っている。具材として、陰陽五行説に基づいた食材が盛り付けられる。色鮮やかなで。目でも楽しめる食事だ・・。写真1 全州韓屋村を歩く。写真2 黒瓦の韓屋700軒の歴史保存地区。写真3 韓屋村のメインストリート(太祖路)。写真4 脇路をそぞろ歩く。写真5 伝統茶屋と店舗棟。写真6 ランチは全州ビビンバ。
2023年12月07日
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扶余各地を巡り終えて、東へ約40km離れた儒城温泉に19時30分に着く。150万都市大田(テジョン)の奥座敷と言われている。宿泊ホテルは、老舗の「儒城(ユソン)ホテル」。大浴場は、ホテルのホビーと繋がった別館にあった。但し、入浴時間21時まで。 日本の統治時代に大きく発展した儒城温泉。儒城ホテルは、1915年創業以来、温泉街の中心的存在で、これまで4回ほど増改築し現在に至る。泉質は、地下350mから湧き出すラジウム温泉とされる。全室に温泉が供給されるという。しかし小生らツアー客は、全員大浴場で寛ぐ。 朝風呂にゆっくり浸かる。宿泊者以外の入浴客が少なくない。地元の人のようだ。ホテル前の通りと商店街は、足湯などあり観光地らしいが、夜になるとネオン街に替わる。少し妖しい雰囲気が漂う街だった。写真1 大田(テジョン)から西11kmにある儒城ホテル。写真2 ホテルエントランスのイルミネーション。写真3 樹や花をライトアップ。写真4 ホテル前にコンビがある。写真5 創業時のホテル建物とロビー展示物。写真6 温泉浴場と客室。
2023年12月06日
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扶余での夕食は、きのこの形をしたレストランでハス料理をいただく。この建物の裏にハス池があり、自前のハスを使用した料理が並ぶ。扶余名物と言われる「蓮の葉蒸し御飯」は、ハスの葉にもち米とレンコン、松の実などの穀物を包んで蒸したもの。この他にレンコンの天ぷら、カモの肉、焼き鯖など食べきれないほどの料理だった。 扶余は、ハスの名所としても知られている。定林寺址の南に、「宮南池(クンナムチ)」あり、池の周辺で沢山の蓮が見られるという。宮南池は、韓国最古の人口庭園の池。仏教と結びつく蓮の花。蓮を愛(め)で、食して、古代百済を偲ぶ、そんな土地柄なのだろう・・。 お腹いっぱいに食べた後、大田(テジョン)の儒城温泉へ向けてバスは走る。写真1 扶余市内のキノコの形をしたレストラン。名前は「ハスの花物語店」らしい・・。写真2 蓮の葉蒸し御飯定食。写真3 ハスの葉の中は・・。レンコン、栗、豆、松の実などが。写真4 食堂の傍のミニ庭園。蓮を植えている。写真5 店内に明り灯る。写真6 食後の夕景。
2023年12月05日
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かつて白村江(はくすきえ)と呼ばれていた白馬江を、軍船を模した船で遊覧した。白馬江は、錦江とも呼ばれる大河で、黄海に注ぐ。かつての百済は海運で栄えた。倭国(日本)との人的・文化交流も頻繁に行われた。ゆったりと流れ白馬江は、湖のようでもある。船上から落花岩と扶蘇山を眺めた。 白馬江クルーズは、皇蘭寺船着場から出港し、白馬江橋手前で反転してクレゥド渡し場まで移動する約20分間のコース。遊覧船は、30名程度集まったら出航するようだ。途中、水陸両用のバスとすれ違う。日が傾いた「百済」の夕景に出逢う・・。 遥か昔の663年、白馬江の河口で、「白村江の戦い」があった。百済復興を目指す百済遣民・倭国の連合軍と唐・新羅連合軍が戦う。日本側では、情報不足とリーダー不在で大敗を期す。そして百済が滅んだ。その際、百済から逃れて、日本に帰化した人は少なくなかったという。写真1 扶蘇山北絶壁と白馬江。写真2 皇蘭寺船着場と連絡船。写真3 日が傾いた白馬江と白馬江橋。写真4 百済末期の悲劇を伝える「落花巌」。写真5 クレゥド渡船場と駐車場。写真6 白馬江の碑と夕景。
2023年12月03日
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扶蘇山城(プソサンソン)は、百済(起源前18年から660年)の全盛期から滅亡までともにした象徴的な砦があった場所。白馬江に面し、扶蘇山という自然防壁で守られた泗泚(サビ)時代に最も栄えた百済。土城・扶余羅城とつながって王都を護る役割があった扶蘇山城。百済の最後の瞬間まで、王宮を守護した砦だった。 自然が豊かな扶蘇山の断崖絶壁の上に四阿「百花亭」が建っていた。新羅・唐の連合軍が王宮に迫った秋、敵軍から純潔を守ろうとした女官たち3千名が崖から身を投げたとされる。女官たちの飛び落ちる姿が、まるで花がヒラヒラと舞い落ちるようだったことから、崖を「落花岩」と呼ばれる。 百花亭から白馬江を眺めた後、落花岩を下りて河岸に建つ「皇蘭寺」を観る。このお寺は、百花岩から身を投げた女官たちの霊を鎮めるために、高麗時代初期に創建された。寺の外壁には、「身を投げる女官」や「十牛図」が掲げられている。また寺の奥にある岩から湧水を、一口飲むと3年若返るという「皇蘭薬水」が保存されている。扶蘇山城は、2015年に百済歴史遺跡地区のひとつとして世界文化遺産に登録された。[韓国世界遺産-08]写真1 扶蘇山への登山口、扶蘇山門。写真2 扶蘇山門と世界文化遺産碑。写真3 豊かな自然の中、山頂を目指して歩く。写真4 百花亭と白馬江。写真5 落花岩の下に建てられた皇蘭寺。写真6 極楽寶殿と寺院外壁の絵画。
2023年12月02日
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扶余(ぷよ)市の中心街にある定林寺(じょうりんじ)址を訪ねた。百済が扶余に都を移した泗泚(サビ)百済時代に建立されたお寺。見どころとして、高さ8.3mの定林寺址五層石塔。1400年の歳月、風雨に打たれながら凛として立っている。高麗時代にも定林寺は再び繁栄したという。 定林寺の伽藍配置は、中門から五重塔、金堂、講堂の順で直線になっている。そしてこれらの建物は、回廊が囲む「一塔一金堂式」という。この様式は日本でも見られる。定林寺址五層石塔は、加工した149枚の花崗岩を組み合わせて作られた。扶余の空に優雅に立っている。 講堂址には、木造の講堂が建てられている。その中に高さ5.6mの石仏座像がぽつんと安置してある。素朴な表情が魅力的に高麗時代の石仏とされる。傷みがひどいが、狭い肩幅や左手の位置などから毘盧遮那(びるしゃな)仏と言われている。頭と笠が独特の雰囲気を醸し出している。[韓国世界遺産-07]写真1 扶余中心部の広がる定林寺址を南から望む。写真2 金堂址(盛土)と講堂を観る。写真3 加工された花崗岩149ピースで造られた五層の石塔。写真4 復元した講堂とその装飾。写真5 高麗時代の石仏座像。写真6 世界文化遺産碑と博物館外壁沿いを歩く。
2023年11月30日
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扶余(プヨ)王陵苑は、海抜121mの陵山里の南斜面に造られた百済時代の墓群。東西と中央にそれぞれ群を成している。全部で3群16基が分布している。訪れたのは中央部の王陵群(7基が並ぶ)。古墳の外形は、すべて円形封土墳で、内部に羨道がある竪穴式石室墳となっている。 扶余王陵苑は、「百済歴史遺跡区」として、2015年世界文化遺産として登録さけたひとつ。扶余市内から東へ約3km離れている。百済泗泚(サビ)都城を防御するために築かれた扶余羅城の外側にあたる。案内された東T塚(1号墳)の入口。現在も内部に入ることができないが、国宝級の出土品は国立扶余博物で展示。 約700年に渡って続いた百済は、その分発見発掘された遺跡が多い。660年に滅亡するまで、周辺国と交流がある。倭国・中大兄王子が援軍を送った「白村江(きくそうこう)の戦い」は良く知られている。日本の飛鳥時代には、百済から多くの人々が来日し、朝鮮文化をひろめたという。[韓国世界遺産-06]写真1 扶余王陵苑の中央古墳群。写真2 苑内を撮影した鳥瞰写真看板。写真3 中央古墳群を仕切る柵と1号墳入口。写真4 発掘作業中(5号墳)。写真5 模型館と内部壁画。写真6 世界文化遺産碑と国宝の大香炉。
2023年11月29日
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公山城を散策した後、市場と小川が流れている場所近くの食堂でランチする。忠清南道に位置する公州市からは、黄海や浅水湾などが近いので、海産物が豊富な街だ。 ランチ料理は、「あさりスープのカルグクス」で、初めて食べる機会を得た。あさりを水炊きした鍋に、切りうどんを煮込んだもの。煮込みうどんのイメージ。「カル」とは包丁で切る、「クグクス」とは麺という意味。うどんのコシはないが、トロミ味がある。キムチと一緒に食べると味に深みが出る。 忠清南道では、鍋モノ、焼きモノ料理では、大きな器で拵えて、数人で小分けして食べるのが一般的とされる。日本でも、ちゃんこ鍋、寄せ鍋、すき焼きは、皆でとり合って食べる。親睦と連帯感が育まれる。公州のカルグクス料理で身体が温まる。ビールが欲しくなる料理だ・・。写真1 あさりスープのカルグクスでランチ。写真2 食堂の外観。ハングルは読めない・・。写真3 店の名前と2階店内の様子。写真4 煮込み切うどんを小分けして食べ合う。写真5 店内に掲げられている大絵画。写真6 市場通りと川の散歩路。
2023年11月27日
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百済の息遣いが感じられる公山城(こうざんじょう、コンサンソン)。熊津(ウンジ)百済期(475年から538年)を代表する城郭だった場所。錦江(クムガン)が直角に曲がる南に連なる城郭。総延長266m(土城735m+石城1925m)の規模。4つの門なども復元保存され、2015年世界文化遺産に登録。 百済国は、歴史的に高句麗と常に対峙して来た。475年高句麗の攻撃により、文周王は漢城から熊津に都を移す。その都を守護するために、錦江沿いに築造された城壁が公山城。築造当時は、土城だったとされるが、朝鮮時代に現在のような石造りに改築された。 公山城の見どころは、公州市を流れる錦江などの景色の良さだろうか。整備された散策コースは、城壁の上を歩ける場所もあり、市民の人気場所となっている。双樹亭史跡碑のある広場(推定王宮跡)では、今なお発掘調査が行われている。漆塗りの皮鎧、馬甲、矢先などが出土。[韓国世界遺産-05]写真1 百済の城址、公山城。写真2 錦西楼と石垣門。写真3 ロータリー広場と武寧王像。写真4 公山城から望む錦江と公州市。写真5 双樹亭史跡碑と発掘調査場所。写真6 世界文化遺産碑他。
2023年11月26日
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百済時代の王や王族が眠る古墳が公州宋山里(そうざんり)にある。2021年から「宋山里古墳群」から「武寧王陵と王陵園」と名称を変更。当該場所には17つの古墳があったが、7つの古墳が復元整備されている。その中で唯一、名前が判明しているのが武寧王陵。その他の墓は、盗掘され誰の墓なのかが不明だという。 武寧王は、百済国が公州を都と定めた中期に、国の安定を図った王(461年から522年)とされる。「三国史記」によると、高句麗の侵攻に対して、壊滅的打撃を与えたという。また「日本書紀」(雄略天皇)で、武寧王の出生の話に触れているという。百済と倭国とは、仏教や文化面で繋がっている。 1997年に王陵園内には、武寧王陵の内部の公開が禁じられたのを受けて、展示館が作られた。武寧王陵および5、6号墳の内部が再現されている。実物大で作られているので、内部へ入って見学できる。玄室はレンガ積アーチ天井構造。武寧王陵か出土した副葬品のレプリカが展示されている。[韓国世界遺産-04]写真1 公州の王陵園。写真2 武寧王陵の入口と案内図。写真3 6号古墳と展示館。写真4 レンガ造りの玄室。写真5 武寧王像と副葬品(レプリカ)。写真6 世界遺産碑と墓護獣石像。
2023年11月24日
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百済時代(475年から660年)の遺跡が点在する公州(コンジュン)に、山寺の名刹・麻谷寺(まこくじ・マゴクサ)がある。創建が640年される。9世紀新羅の国内情勢不安定により廃寺となるも、1172年再建される。しかし豊臣秀吉の朝鮮出兵で、寺の建造物ほとんどが灰塵と化す。1651年には台寂光殿など再建される。 山門と本堂境内の間には小川が設けられ、その上に架った「極楽橋」を渡ることで、俗世を離れて仏の世界に入ることができるとされる。境内の真ん中にそびえる五重石塔は、高麗末期ラマ教の影響を受けて建てられという。高さ8.7mの石塔頂部には、青銅製の円形装飾がある。 世界文化遺産「山寺、韓国の山地僧院」には、7寺が登録されている。麻谷寺はその一つで、普徹和尚の説法を聞くため、集まった人々が渓谷を埋め尽くし麻畑のようだったというこが由来。奉華川がつくった渓谷の奥にあり、奉華山に抱かれた寺院。お寺と紅葉が似合う・・。[韓国世界遺産-03]写真1 奉華山麻谷寺の山門。写真2 解脱門と守護像。写真3 極楽橋と梵鐘楼。写真4 大光寶殿(本堂)の境内。写真5 大雄寶殿と冥府殿。写真6 五重石塔と世界遺産碑。
2023年11月23日
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朝鮮王朝第22代国王・正祖が、父の墓を水原に移した際に、城壁や門を築いた。東西南北に壮麗な4つの門と約6kmにおよぶ城壁が保存修復を経て残っている。城郭完成後まもなくに正祖が亡くなったので、遷都は立ち消えとなる。いわば水原華城は幻の都。ライトアップされた城壁や門は、目を見張る美しさだ。 華城の設計は、実学者が登用され、実学と西洋建築とが導入された。1794年から1796年に建設され、37万人もの労力を投入。しかし滑車やテコを応用したクレーンのようなものを用いて工期を短縮させたという。石材とレンガを多用し、当時の最高技術が結集されている。1997年にユネスコ世界文化遺産に登録。 城壁に囲まれた中に、華城行宮がある。行宮とは、王が地方を訪問する際に宿泊する施設。しばしば韓国ドラマや映画のロケ地となっている。日本でも放映された「官廷女官チャングムの誓い」や「イ・サン」などの撮影地。韓流ファンの聖地でもある。[韓国世界遺産-02]写真1 水原華城の北側を城壁に沿って歩く。写真2 夜空浮かび上がる空心墩(とん)。写真3 東北舗楼と暗門。写真4 池の水面に映る城壁と角楼。写真5 東北各楼(訪花隋柳 亭)。写真6 長安門と世界遺産碑。
2023年11月20日
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羽田空港を出発し南漢山城を観た後、首都圏南部の中核都市「水原(スウォン)市」に向かう。世界遺産の「水原華城」がある街へ。ライトアップされた華城を観るために、早めに夕食となった。 今宵の食事は、名物「水原王(ワン)カルビ」。テーブルいっぱい並ぶおかず(パンチャン)は、おもてなしを意味しているようだ。主食の骨付きカルビの大きさに驚く。塩ベースの薬味で味付けしたものを網で焼く。頃合いを見て、店員さんがハサミで細切れにしてくれる。美味な牛肉に舌鼓する。 ソウル特別市から南35kmに位置する水原市(人口120万人)。サムソン電子の本社がある都市として知られている。大型ディスプレイやネオンが並び、夜でも明るい街だ。小生らは、水原駅に隣接する「ノボテル・アンバサダー」ホテルに宿泊した。写真1 大韓航空機で韓国へ飛び立つ。写真2 夜の水原へ。写真3 夕食は水原王カルビ。写真4 大きな骨付き牛カルビを炭焼きする。写真5 宿泊ホテルと湖の水原駅方面。写真6 ノボテルホテルのロビー景。
2023年11月19日
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羽田空港を午前中に飛び立ちソウル金浦空港で降りて、15時にはソウル市街を見渡す南漢山城に居た。この度、韓国の世界遺産を巡り、美食を楽しむツアーに参加した。世界遺産16箇所の旅景色は、好天気と好ガイドさんに恵まれた。 南漢山城は、首都ソウルの南東約25kmに位置し、14世紀から20世紀に繁栄した朝鮮王朝の山城。海抜500mほどの山と尾根を結び、全長11.7kmの城壁で囲むように築かれている。17世紀初頭のアジアを代表する要塞とされる。火器への対応を備えた要塞の姿が残されており、2014年世界遺産に登録された。 高句麗時代に築かれたとも言われているが、歴史に現れるのは1600年になってから。1636年清国が侵攻した際、王が籠城・抵抗した(丙子の役)するも、食料が尽き降伏した歴史がある。京畿道(キョンギド)の道立公園としても市民に親しまれている。小生らは、北門(全勝門)付近まで歩いた。[韓国世界遺産-01]写真1 南漢山城の連なる城壁。写真2 山城の北側の全勝門。花崗岩の石積みアーチ通路。写真3 城門通路と城外の石積み。写真4 城壁の天端構造。写真5 坂道を登り、ソウル市街を望む。写真6 バス停付近と世界遺産登録碑。
2023年11月18日
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