全78件 (78件中 1-50件目)
利根川を渡る「つくばエクスプレス(TX)」。利根川右岸土手から観る。柏市青田と守谷市野木崎との間に、利根川橋梁が架っている。橋上を走るTX車は、高欄などで上半身しか見ることができない。筑波山が背景となる場所から撮影した。 つくばエクスプレス利根川橋梁は、全長987mのトラス橋。トラス斜材の向きが交互なので、ワーレントラス橋になる。柏たなか駅と守谷駅間の延長5.7kmは、高架橋・橋梁で、空中を走っている。踏切が無いので、線路内に人が立ち入ることはない。無人化運転になるかも知れない。 都内へ出かける際に、利用させてもらう「つくばエクスプレス」。秋葉原と筑波市の58.3kmを快速45分で結ぶ。開業して早16年が経つ。小学校に入学して大学を卒業する年月に相当する。沿線の人口が増えている。これまで6両編成で運行してきたが・・。写真-1 筑波山を背景に走る「つくばエクスプレス」。写真-2 利根川を渡る つくばエクスプレス。写真-3 菜の花咲く利根川土手と筑波山。写真-4 柏たなか駅と高架橋。写真-5 田中調整池に架かる新大利根橋と柏キャンパスシティ。
2021年05月10日
コメント(0)
利根川流域の柏市と取手市には、それぞれ大きな洪水調整池がある。この間を新大利根橋で渡ると、利根川、および田中調整池と稲戸井調整地を横断することなる。必然的に橋長が2.4kmと長大なる。 この橋からは、玉葉橋と同様に、富士山と筑波山を同時に望むことができる。利根川の土手から柏キャンパス・シティのビル群の間から富士が顔を出していた。 新大利根橋は、1980年有料道路として開通した。その後30年を過ぎると、無料開放されて県道となった。橋の管理は茨城県だという。田中調整池側の橋梁区間は、一部自転車の通行が可能になっている。しかし風吹く橋上は、サイクリングにとって厳しいロードである。写真-1 田中調整池と柏キャンパス・シティの奥に富士山が顔を出す。写真-2 つくばエクスプレスが走る。写真-3 利根川越しの赤城山と日光連山の山々。写真-4 新大利根橋から冠雪の富士を望む。写真-5 新大利根橋と筑波山。
2020年11月13日
コメント(0)
利根運河の東口側は、利根川に接続している。現在は埋め立てられ、利根川からの流入はない。しかし、水門が設置されている。この運河水門から西へ1kmほど進むと利根川にぶつかる。そのポイントに常磐自動車道路とTX線の橋梁が架けられている。河口より94.5キロポイント。 運河水門から下流域は、利根川の右岸調整池(柏市・田中調節池)が広がっている。訪れた日、まだ稲刈を終えていなかった。田中調節池の規模は、面積11.75km2×治水容量6千万m3である。対岸(取手市)の稲戸井調整地と合わせると1億トンの洪水を一時貯める事ができる。 昨年(2019年)10月の台風19号では、この調整池が機能した。稲刈後だったため、米への被害はなかったが、浸水による野菜栽培、ビニールハウスは被害に遭う。洪水災害物や土砂の撤去に労力を費やすことになる。 利根川上流に八ツ場ダムが完成したとは言え、近年の大雨を考えれば、田中調整地などの遊水池は洪水対策には有効だ・・。そして堤防の補強と維持管理に、今まで以上に、労力とコストが掛かりそうだ。写真-1 利根川右岸の田中調整池とその田畑。写真-2 利根川堤防天端。左側が利根川、右側が田中調整池。写真-3 田中調整池の中を通す常磐自動車道路の高架橋。写真-4 常磐道と並んで架かるつくばエクスプレス線の橋梁。写真-5 利根川から筑波山を望む。
2020年10月03日
コメント(0)
東武線春日部駅から北へ700mほど歩くと古利根川(ふるとねがわ)に到る。そこにユニークな橋が架かっている。橋上の公園でもある。川を渡る風を感じることができるようだ。訪れた日は、生憎の小雨降る天気。湿った涼しい空気が流れていた。 橋そのものが公園になるよう設計されている。全長79mの橋で、昭和59年(1984年)に完成している。橋のデザインとして、「麦わら帽子」をイメージしたものとされる。ストロー・ハットをかぶった少女の彫刻がある。梅雨があけると、真夏の日差し晒される。麦わら帽子を像に載せると涼しいように見えるかも・・。 左岸の壁に、「千住馬車鉄道」の大きなレリーフがある。明治の頃、千住と粕壁間約40kmを運行した鉄道があったこと示す。客車と貨車をレールの上を走られるもので、馬力は馬であった。1ないし2馬力で、当時の所要時間は3、4時間。現在は電車で20分の距離・・。写真-1 古利根川公園橋を下流から見る。写真-2 橋上に麦藁帽子をイメージするモニュメント。写真-3 麦わら帽子の少女のブロンズ像。写真-4 東詰壁の千住馬車鉄道のレリーフ。写真-5 古利根川の流れを眺める。
2020年08月09日
コメント(0)
下今市駅と新藤原駅とを結ぶ全長16.7kmの東武鬼怒川線。下今市駅を出発すると、直に列車は急カーブして、大谷川を横断する。大谷川には、長さ322.8mゴツイ鉄橋が架かっている。 大谷川橋梁は、下野鉄道時代の大正8年に架けられた。現在の橋は3代目で、プレートガーダー10連の橋。初代の橋は、トラス橋が2径間あった。平成8年に老朽化したトラス橋をプレートガーダーに取り替えた。 昨年(2017年)28月からSL列車「大樹」が、土日祝日に3往復している。駅待合室に、SL大樹の撮影スポットにおける時刻を記したチラシが置いている。列車編成は、C11207(蒸気機関車)+車掌車+3台×客車+ディーゼル機関車となっている。 東武鬼怒川線は、線形的に急カーブが連続するので、速度も遅くなる。また、車輪のきしむ音も大きい。これらの欠点を弱めて、SL列車が走行している・・。写真-1 大谷川に架かる大谷川橋梁。写真-2 大谷川橋梁と下今市駅を見る。写真-3 プレートガーター上を走るSL列車大樹。写真-4 東武鬼怒川線を渡すプレートガーター橋。写真-5 大谷川橋梁の直上流の大谷橋を望む。国道121号を通す。
2018年12月17日
コメント(0)
大谷川(だいやがわ)から見る日光連山は荒々しく感じる。激流・大谷川がそう感じさせるのかもしれない。河床に堆積している転石や玉石がその急流を物語っている。山地から絶えず、土石が大量に供給される川だ。しかし平時は、厚い砂礫層が水をろ過して、清らかな水を流す。 大谷川は、華厳の滝に源を発し、支流を集めて鬼怒川に合流する。流路延長約30km、平均勾配1/33の暴れ坊の川。いまは床固め工が数多く建設され、激流は緩和されている。 稲荷川合流点から下今市・大谷橋まで、約7.5km区間を大谷川中流床固群と称し、床固工・段差工が35基建設された。まさに階段状の川である。大谷川全体では、このような工作物が130基あるとも云われる。多大な費用と時間がダイヤ川に費やされて今日がある。次世代への財産とも言える・・。写真-1 大谷川と日光連山。左から男体山、大真名子山、小真名子山、女峰山。写真-2 階段状の川と日光男体山(標高2486m)。写真-3 女峰山(標高2483m)をズームアップ。写真-4 瀬尾地区昭和56年に造られた第8床固工。写真-5 大谷川グリーンパーク。
2018年11月28日
コメント(0)
柏あけぼの山公園の北側、小丘陵の先端に紅龍山東海寺がある。朱塗りの布施弁天本堂だ。三宝破風造りの華麗な佇まい。本堂外陣は、極彩色の彫刻類で護られている。 布施弁天は、公園や広大な田園風景に囲まれた風光明媚な場所。境内からは、利根川越しに筑波山を望むことが出来る。しかし、ひと昔前までは、大洪水に遭うと周辺の田畑は、一面冠水した。 洪水対策が進んだ現在、柏市側に田中調整地、取手市側に稲戸井調整地が整備された。そのため利根川を渡る橋が長大になる。県道47号を通す「新大利根橋」は、長さが2.4kmにも及ぶ。これらの調整地内では、普通に米づくりが行われている。写真-1 龍宮城のような布施弁天の楼門「最勝門」。写真-2 朱塗りの布施弁天の本堂。写真-3 境内の鐘楼と三重塔。写真-4 布施観音像と筑波山。写真-5 調整地と利根川に架かる新大利根橋。
2018年04月27日
コメント(0)
中川と綾瀬川との合流部を近くで見ると、一風変わった光景だ。二つの川を守るように大きな水門があり、その上空にはS字状の橋が架かっている。上平井水門と葛飾ハープ橋である。見上げると妙な感覚になる。 首都高速中央環状線が綾瀬川の左岸沿いに下って来ると上平井水門にぶつかるため、S字に曲げたもの。その後、首都高は中川を渡って、荒川の背割堤を南下する。河口で首都高湾岸道路に合流する。 上平井水門は、中川と綾瀬川への高潮遡上を防ぐために造られている。径間30mのローラゲートが4門設置されている。昨年秋から耐震補強工事が行われている。浚渫をしている様子。 この辺りは、墨田区、葛飾区、江戸川区の区境である。水門の維持管理は東京都建設局。設置して50年近くが経過。大きな水門の改修工事は、コストと時間を多く要する。写真-1 中川と綾瀬川との合流部に水門がある。写真-2 耐震補強工事の上平井水門。写真-3 中川から葛飾ハープ橋を見る。写真-4 綾瀬川をまたぐ葛飾ハープ橋。写真-5 荒川堤防からスカイツリーを望む。
2017年02月28日
コメント(0)
葛飾区を蛇行して、荒川と併走して東京湾に注ぐ中川。綾瀬川との合流点から上流1.5kmの中川左岸護岸堤上に展望デッキ(奥戸1丁目)がある。スカイツリーや葛飾ハープ橋を展望できるビュースポットである。 護岸の水辺には幅4mのテラスがある。中川の護岸耐震補強工事に併せて造られた。「中川テラス」と呼ばれ、隅田川のテラスをイメージしている。護岸耐震工事は、数年前から行われて、整備された護岸とテラスの延長はかなりのものだ。 中川テラスは、異常時以外は一般に開放されている。釣りもできるようだ。より水辺の散歩ができるので、住民の健康づくりにも役立っているようだ。夜景スポットにもなる奥戸展望デッキ。夏の夕涼み用なのか、テラスに照明が設置してある。 中川は、全長81kmの利根川水系の1級河川。「七曲りの川」と知られ、治水が難しかった川。加えて、海からの高潮・津波にも対処しなければならない。カスリーン台風で甚大な水害を被った葛飾区。多様な水防施設を持つが、管理・運営への人材が追いついているのだろうか・・。写真-1 中川左岸奥戸展望デッキから「七曲り川」の下流を望む。写真-2 葛飾ハープ橋とスカイツリーのツーショット。良く見ると東京タワーも見える。写真-3 富士山の白い頭が見える。写真-4 蛇行する中川の上流・本奥戸橋のトラスを望む。写真-5 中川テラスと下流合流点を望む。
2017年02月21日
コメント(0)
平将門の終焉の地とされる國王神社。岩井の中心街から結城街道(県道20号)を北に1.2Km進むと、杉木立に覆われた國王神社にいたる。将門の岩井営所の直ぐ近く。 神社の祭主は、当然ながら平将門命である。この地は、将門の三女にあたる如蔵尼が三十三回忌に戻り、弔った場所。その際父を偲んで、高さ76cm寄木造りの木造坐像を彫り、「国王大明神」の神号を奉ったのが由来。 本殿向拝の蟇股(かえるまた)に「つなぎ馬」が彫られているという。外廻りからは見る事ができない。将門は、騎馬戦が得意だったとされ、同時に馬を大切にした。「つなぎ馬」の紋所を受け継いだのは相馬氏。神田明神の随神門にも、つなぎ馬の彫刻がある。 境内には市の天然記念物「アラカシ(粗樫)」の古木が聳えている。創建時に植えられたものなのか、自生していたのか、随分古そうな大木だ。これまでにドングリの実をどれほど付けたのだろうか。生き物に恵みを与えた大樹・・。写真-1 坂東市岩井にある国王神社。茅葺屋根の拝殿。写真-2 本殿には彫刻の様子。つなぎ馬の蟇股があるという。写真-3 鳥居と参道。写真-4 境内に立つアラカシの大木。写真-5 平将門の絵にお酒を奉納してある。写真-6 神田明神随神門のつなぎ馬の彫刻。
2017年02月11日
コメント(0)
稲敷市阿波の大杉神社は、「あんば日光」と呼ばれていた。地元では、「あんばさま」。江戸享保期に火災で焼失する以前の社殿群は、いまのそれを凌駕する豪華絢爛なものであったという。「あんば参れば、日光見るに及ばず」と言われたほど。 大杉神社へは牛久沼の墓掃除の帰路に回り道して寄った。相棒が正月は道が混むから、年内に行きたいといいだしたもの。阿波(あば)地区は、霞ヶ浦の南岸に広がる丘陵地。大きな杉の存在が、船乗りの目印になったという。いまはゴルフ場が多く、「ゴルフ銀座」丘である。 日光東照宮にどこか似ている大杉神社。境内の南西端に、見事な装飾の楼門(麒麟門)がある。江戸の鬼門に建てられた麒麟門は、平穏を願う門。この門の扉は開かれることはない。開けると多くの魔物が江戸・東京に侵入するそうだ。 境内には多くの神様が祀られている、大国神社、五十瀬神社、白山神社、四柱神社、そして天満宮が五つ整然と並んでいる。社殿には多様な彫刻で彩られている。特に、瑞垣欄間二十四孝彫刻は、力作揃いだ。写真-1 1250年の歴史を持つ阿波の大杉神社は、「あんば日光」として親しまれている。写真-2 江戸の鬼門に建つ「開かずの麒麟門」。写真-3 豪華絢爛の社殿群。写真-4 境内の左側に五社が並ぶ。写真-5 本殿を取り囲む「瑞垣欄間二十四孝彫刻」。写真-6 霞ヶ浦に注ぐ小野川河口より筑波山を望む。
2016年12月30日
コメント(0)
ダム建設により分断された2地区、右岸の川原湯と左岸の川原畑地区を結ぶ大橋が、河原の頭上に架かっている。将来、すこぶる景色の良い場所となる。ダム堤体の直上流に位置するため八ッ場大橋と命名された。 八ッ場大橋は、ダム湖内に造られた4つ橋の中でもっと高い73.5m。橋長494mとして2014年に開通している。橋の種類は、5径間連続PCエクストラドーズド橋。支間長さが200m以下なればコスト的有利な形式という。日本では小田原ブルーウェイ橋が最初とされる。 八ッ場大橋の下流側を覗くと吾妻渓谷の一部が見える。上流側を観ると、円柱状の岩山が目に入る。昔、山頂に城が築かれたという丸岩山(標高1124m)だ。八ッ場大橋のひとつ上流の不動大橋から見ると、より存在感がある。国道145号と吾妻川を睨む岩峰だ。 丸岩城の築城時期は1560年頃とされる。1582年甲斐武田氏が滅亡した後、真田昌幸がこの城を一時支配して、小田原北条勢に備えた。砦の感があり、他の城と連携して守りを固めのだろう。登山道を登り、山頂からダム湖を望む景色がもうすぐ見られる。写真-1 八ッ場大橋と不動大橋。近い将来、湖面橋となる。写真-2 紅葉に映える八ッ場大橋を左岸下流から望む。写真-3 八ッ場大橋を上流の王湯会館から見る。写真-4 2、3年後には湖底となる秋景色。写真-5 丸岩山と不動大橋。雲が流れ去る瞬間。
2016年11月14日
コメント(1)
関東4県(群馬・栃木・茨城・埼玉)にまたがる日本最大の遊水地は、ハート形だ。利根川の中流域に位置し、渡良瀬川に思川、巴波(うずま)川の二つの川が合流する湿地帯を堤で囲んで造られた。堤の総延長が9200mにも及ぶ。この土手を2000年フルマラソン(4時間4分)した記憶がある。 三つの調整池からなる「わたらせ遊水地」は、面積が33km2×貯水量1.7億トン。霞ヶ浦の北浦に匹敵する規模だ。第1調整池に、わたらせ貯水池ができたのは28年前。現在、水没した村の名前をとった「谷中湖」、ハートレイクとして親しまれている。 現在、渡良瀬遊水地は治水と湿地保全として利用されている。しかし、90年間に及ぶ苦闘の歴史がある。当初、洪水防止の遊水地との名目で事業が始まったが、主目的は足尾銅山の鉱毒事件の尻拭いである。つまり、流出する鉱毒を沈殿させて除去することであった。 旧谷中村一帯を遊水地にすることを決定したのは明治政府。明治43年に遊水地建設が始まる。当然地元の反対運動と反公害運動が続く。大戦を挟み84年間かけて現在の姿となる。廃村の憂き目にあった人々の犠牲でハートができた。日本近代化の影を映し出す水面でもある・・。 写真-1 谷中湖から野木煉瓦窯方面を望む。筑波山の姿が薄かった。 写真-2 中之島へ渡る西橋。その遠方に日光男体山が淡く見えた。 写真-3 中之島の柳並木。りたつう士。写真-4 新三国橋と第1排水門を望む。 写真-5 東谷中橋から内水路上流を見る。
2016年06月10日
コメント(0)
野木煉瓦窯から東へ800mほど離れて野木(のぎ)神社がある。この辺りでは最古の社で、1200年前に建立されたという。坂上田村麻呂が植えたとされるイチョウが、境内を覆っている。 野木神社は、フクロウ神社とも呼ばれる。今年五月に2羽のヒナが巣立った。境内のケヤキの老木に巣穴があり、代々住み続けているらしい。フクロウは、「福来郎」、「不苦労」と語呂合わせながら、縁起の良い鳥とされる。境内にはフクロウの写真や彫刻・モニュメントが設置してあった。 渡良瀬川を見下ろす丘陵地に建つ野木神社。昔、源頼朝が鎌倉幕府を興すに当って、鍵となる「野木宮合戦」(1183年)があった場所近く。頼朝方の小山朝政が志田義弘(源為義の三男)を破った戦い。これにより頼朝は、平氏との戦いに集中できた。2年後の1185年で壇ノ浦の戦で平氏が滅亡する。 水戸街道・野木交差点付近から枝分かれした直線道路が800m北に伸びる。終点が野木神社である。その先が渡良瀬川である。そして渡良瀬遊水地が広がっている。野木町は、栃木県の南端にあり玄関口であった。茨城と埼玉と3県が絡み合う土地である。写真-1 野木神社の境内。狛犬ならぬフクロウが本堂を見守っている。 写真-2 拝殿上梁部に立派な竜の彫物がある。 写真-3 奥社殿の見事な彫刻。りたつう士。 写真-4 フクロウのモニュメントと紫陽花。 写真-5 福来れ・・と呼びかけているようだ。
2016年06月09日
コメント(0)
日光旧市街地を10時方向(北西-南西)に貫く国道119号線。最近整備されたこの幹線道路1.0kmを境に、川側が稲荷町、山側が御幸町である。それぞれ町内に、立派な「回遊桜」が立っている。 御幸町の岸野家敷地内に雄々しく立つ枝垂れ桜は、推定樹齢500年とも言われている。ずんぐりして安定感がある。背丈8mに対して、胴太さが5mもある。品種は、イトザクラと表記されている。 岸野家の桜から東、志渡渕川沿いに龍蔵寺墓地がある。十王堂脇に立つ桜はエドヒガン(り)。見晴らしの良い斜面に、お墓が広がっている。市営墓地のようなだ。熊本大地震では、先祖伝来のお墓が倒壊の憂き目にあっている。 日光の山々に雲が広がり始めた。明日は雨模様の予報だ。スペーシアの時刻を気にしながら、日本ロマンチック街道を下り日光駅へ急ぐ。 今回で「だいやウォーク」は完です。次回から道南(函館)編になります。よろしくお願いします。 写真-1 御幸町・岸野家の桜。[イトザクラ(は)]。 写真-2 樹齢500年のしだれ桜。安定感のある太い樹形だ。 写真-3 龍蔵寺墓地の桜。[エドエガン(よ)]。りたつう士。写真-4 山間に華を添える墓地桜。写真-5 左手の斜面に見える観音寺の桜(つ)。
2016年04月30日
コメント(1)
日光旧市街地には、桜の古木が点在している。多くがしだれ桜である。「日光桜回遊」と称して、町並みを散策しながら、桜を愛でようとする企画。観光案内所に寄り、桜回遊の散策マップをいただいた。 桜の位置や種類・写真が添えられた桜回遊マップを手に歩く。マップには、(い)、(ろ)、(は)・・と記号が付けられている。(た)・・虚空蔵尊の桜、(よ)・・高田家の桜を先ず回ってみる。この二つの桜は、稲荷町内にあり近接している。 虚空蔵尊のしだれ桜(イトザクラ)は、樹齢300年、樹高18m、幹の太さ3mとある。幹に大きな空洞があるももの、高さ18mまで水と栄養を届けている。虚空蔵菩薩とは、無限の知恵と深い慈悲を持つ菩薩で、「13才参り」の風習があるという。 高田家のしだれ桜(イトザクラ)は、樹齢370年、樹高14m、幹の太さ4mとある。道路を覆い尽くす、枝の勢いは圧巻である。個人で維持管理するには大物過ぎる。市の天然記念物に指定され、ライトアップ設備がある。清掃などは日光市が対応するのだろう。 写真-1 虚空蔵尊のしだれ桜。[イトザクラ(た)]。 写真-2 樹齢300年とされる虚空蔵尊のしだれ桜。 写真-3 高田家のしだれ桜。[イトザクラ(よ)]。りたつう士。 写真-4 通路が整備された高田家のしだれ桜。 写真-5 樹齢370年のイトザクラは、市の天然記念物。
2016年04月29日
コメント(0)
急流の稲荷川が大谷川に合流する場所近くに、日光美術館が建っている。美術館の少し前には、門構えのような枝垂れ桜がある。この場所は高台になっているので、大谷川を跨ぐ二荒山神社の神橋が見える。 1997年にオープンした小杉放菴記念日光美術館は、同市のふるさと創生事業から生まれた。日光出身の小杉放菴(1881-1964年)の絵画を通して、日光の自然・文化・歴史を知ることができるという。今回のウォークでは、雨宿りに考えていたが、天気がよかったので入館しなかった。 日光美術館の足元の大谷川に、可働堰とゲート施設がある。東京電力による立入禁止看板があるので、発電に関する施設のようだ。ゲート越に、美術館前の桜が目に入った。 写真-1 美術館前の枝垂れ桜。[イトザクラ(む)]。 写真-2 美術館から日光橋と神橋を望む。 写真-3 美術館の裏手、稲荷川に面する広場。りたつう士。 写真-4 大谷川に設置された可動堰。取水ゲート・魚道なども見える。 写真-5 古い堰柱とイトザクラ(む)を望む。
2016年04月27日
コメント(0)
上鉢石町・観音寺の桜が満開を迎えていた。観音寺は、日光市役所の北側斜面を切開いて建立された。弘法大師が820年に開基したという。現在は天台宗に改宗し、輪王寺の末院となっている。鉢石山(はっせきざん)無量寿院観音寺と云う。 上鉢石町は、神橋の手前に広がる町。日光街道の終点にあたり、輪王寺の宿場町でもある。かつては鉢石宿として大いに賑わった。町名の由来となった鉢を伏せたような石(直径2mほど)が町内に安置されている。 境内手前の「観世音道」という石段を上ってゆくと、小さな観音堂がある。空海自彫の千手観音像が安置されている。さらに上ると、背の高い桜樹と鳥居が立っている。日光連山と輪王寺を見守るような佇まいだ。 観音堂からは日光市街地が一望できる。国道119号・日本ロマンチック街道が正面に伸びている。多くの観光客は、この場所を通り過ぎて、世界遺産・日光東照宮や輪王寺に向かう。金谷ホテルなどの宿泊客などが観音寺付近を散歩するという。静かな空間だ・・。 写真-1 鉢石山観音寺境内のしだれ桜。 写真-2 観世音道から日光市役所の方を見る。桜回遊マップ記号[つ] オオヤマザクラ。 写真-3 観世音道を登ると観音堂がある。町並みを一望できる。りたつう士。 写真-4 観音堂孤高の桜。[オオヤマザクラ(つ)]。 写真-5 鳥居と男体山。
2016年04月26日
コメント(0)
日光大谷川沿いには、新旧土木構造物が多い。橋、水力発電所、用水路、床固工など、その種類も豊富である。当該エリアは、江戸期に日光東照宮造営で特別区となり、明治・大正に中禅寺湖畔が外国大使別荘地となる。政治的に重要な場所であるが故に、インフラ整備と防災に力を注いできた歴史がある。 だいや川公園の展望台から歩き始めると、まもなくアーチ橋が見えて来る。大谷川の支川・志渡渕川を跨ぐ「日光七里大橋」。橋長90m余りだが、白さが際立つ。少々目立ち過ぎの観もある・・。 JR日光駅近くの河川敷に、二宮尊徳像が立っている。彼が設計した五ケ村用水の取水口付近。約6kmの五ケ村用水路は、大谷川から五つの村へ灌漑用水を供給するもの。七里-野口-和泉-平ケ崎-千本木地区まで引いた江戸後期の水路。 霧降大橋下流右岸に所野第一発電所(東京電力株)がある。日光の山と水を活用した明治30年操業の水力発電所だ。前身は、下野製麻紡績工場への電力供給であった。鉄管路上方にある外山原取水施設は、平成25年度土木学会選奨土木遺産に登録された。 写真-1 日光七里大橋と男体山。 写真-2 五カ村用水の記念碑と二宮尊徳の熟年像。 写真-3 所野第一発電所と日光山並み。りたつう士。写真-4 大谷川鎮める落差工。女峰山山頂に雲が湧く。 写真-5 大谷川には多くの魚道が設置してある。
2016年04月25日
コメント(0)
紅しだれ桜が輝く丘がある。だいや川公園西側の一画に整備されたチョウの丘だ。県道248号線と東武鉄道線に挟まれた場所で、自然体験エリアと呼ばれる一部。この丘陵地からは、しだれ桜越しに男体山を望むことができる。 約50種類の蝶が舞うというチョウの丘。今は幼虫または蛹の状態であろうか・・。もう少し暖かくなり、多くの草花が咲き誇ると、蝶の乱舞を見ることができると思う。親子連れで訪れたい丘だ。 チョウの丘は鉄道に面している。蝶の生育に影響するのだろうか。東武日光線は、1時間に2、3本の運行なので影響ないと思う。折よく、特急スペーシアの上りが通過した。スペーシアとはSpa-CEから、温泉と宇宙・空間を連想させる造語らしい・。 スペーシアが去ると静寂な時が戻って来る。のどかな天気のもと暫し休憩する。挽きたての珈琲が飲みたくなった・・。日光・神橋はまだ遠い・・。 写真-1 しだれ桜が満開だったチョウの丘。 写真-2 チョウの丘から見る男体山。 写真-3 しだれ桜のカーテン。りたつう士。 写真-4 特急スペーシアがすぐ傍を通過する。 写真-5 だいや体育館近くの展望台。
2016年04月23日
コメント(2)
東武日光駅と下今市駅との中間付近にある県立日光だいや川公園。オートキャンプ場を含めると、その面積は62ヘクタールと長広い。上下流方向に約2kmもある。大谷川が作り出した氾濫河川敷跡地である。 春のだいや川公園におけるビュースポットは、そよかぜ広場、チョウの丘、展望台であろうか・・。先ず、そよかぜ公園の南側に、長さ80mほどの「やすらぎの池」がある。日光女峰山を水面に映すので、人気スポットである。広場川側に並ぶ満開のサクラは、アメリカ桜という品種。逆輸入したサクラのようだ。 やすらぎの池は、日光エリアでの「水のある風景百選」のベスト8だと言う。ちなみに1位が華厳の滝、そして湯滝、中禅寺湖と続く。やまみの丘からは、日光連山の美しい南東斜面がくっきり見える。紅葉の時期に、訪れたい場所・・。 年間40数万人が利用する広大な総合公園。しかし管理維持費も大きいものと思われる。キャンプ場やフィールドアスレチックなどが有料施設。採算性は厳しいはずだ。少子高齢化を見据えて、公園が長続きするような改善が必要か・・。ひたち海浜公園は、GW8日間で40万人が利用するという・・。 写真-1 やすらぎの池から女峰山を望む。 写真-2 やすらぎの池から男体山を望む。 写真-3 アメリカ桜と男体山。りたつう士。 写真-4 しだれ桜と日光連山。 写真-5 やまみの丘。
2016年04月22日
コメント(0)
多くの急流・激流が流れ込む鬼怒川上流。大谷川もそのひとつである。中禅寺湖から出発して、鬼怒川への合流地点のまで約30kmの一級河川。激流から河床が削られるのを防ぐ対策が施されている。 大谷川は、日光今市地域の扇状地を創った川。その中流域、稲荷川から今市・大谷橋までの7.5km区間に、床固工が35基造られた。低水護岸には、近くの川岸から採取した巨石が使われている。 台風18号がもたらした豪雨により鬼怒川が決壊して、常総市は大規模な浸水被害を被った。あれから2.5ヶ月が過ぎる。東武日光線・鬼怒川線も、数か所で寸断して一時運行休止が続いた。現在は全線で復旧している。 大谷橋は、日光街道から分岐した国道121号を通す。この橋を渡り、鬼怒川温泉-川治温泉-湯西川温泉を経て会津に至る。よって国道121号は会津西街道とも呼ばれ。大谷橋の上から、雄大な日光連山と遠き会津を想う・・。写真-1 今市-大谷橋(国道121号)より日光連山を望む。写真-2 男体山のお膝元、中禅寺湖から流れる大谷川は急流。段差工が幾重にも見える。写真-3 大谷川河川敷と女峰山を望む。 写真-4 大谷橋から下流の大谷川橋梁(東武鉄道)を望む。 写真-5 会津西街道を通す大谷橋と床固工。
2015年11月30日
コメント(0)
秋雨前線、台風などで、日照不足と黴が生えそうな関東地方。野菜の価格が高騰して、ベジタブル栄養素が枯渇気味だ。杉並木街道を散策した後、日光・大谷川(だいやがわ)の様子を見に行く。川の流れは、山の雨を集めて速い。 中禅寺湖を源とし、東流する大谷川。利根川水系鬼怒川の支流。約30km流下して日光市町谷で鬼怒川に合流する。その豊富な水は、古くから水力発電に使用されてきた。従って、場所によっては、水量が小さく、枯れ川同然の時もある。だがひと度大雨になれば、暴れ川に豹変する川だ・・。 下今市駅にて東武線は、日光線と鬼怒川線にブランチする。駅を出るとすぐに大きくスライスカーブして、大谷川を横断する。その箇所に長さ323mの大谷川橋梁が架かる。大正8年に築造された切石積の橋脚の上に重そうなプレートガーター桁が載っている。3代目の10連ガーター橋である。 東武線大谷川橋梁から約1.5km上流に水郷橋が架かる。昭和53年に架けられた比較的新しい人道橋で、桁下流に水管橋を抱えている。この橋からは日光連山が良く見えるはずだったが生憎の曇天日・・。階段式の魚道を近くで眺めて、良しとして引き返す・・。 写真-1 東武鬼怒川線-大谷川橋梁付近の流れ。写真-2 古い切石積の橋脚とプレートガーター桁。特急スペーシアは、なかなか通過せず・・。写真-3 大谷川・瀬川地区に架かる水郷橋と日光連山の方向。 写真-4 階段式魚道を真横から見る。 写真-5 水郷橋から上流を望む。床固工と魚道がセットの川景色。
2015年09月16日
コメント(0)
元荒川合流点より1km上流の忍川(おしがわ)に石田堤の史跡がある。石田堤とは天正18年、豊臣軍・石田三成が忍城を水攻めにするために築いた堤(つつみ)。忍川に架かる堀切橋の傍に「石田堤史跡公園」が整備されている。 石田堤は、比高約3mの堤防を28kmに渡って造ったとされる。現在400mが残っている。上越新幹線はその石田堤を堀割っている。高架下は日除け休息所とミニギャラリーとなっている。 石田堤から上流5kmに水城公園があり、かつて忍城があった場所。1590年の忍城攻防戦は、3年前映画「のぼうの城」にて描かれている。石田三成率いる2万の軍勢対、城主成田長親方の老兵・農民兵3千人との攻防戦。新幹線で分断されている辺りの堤が決壊して、水攻めそのものは失敗する。 水攻めに利用した水は、利根川から導水したようだ。現在、忍川と平行に「武蔵水路」が流れている。この水路は利根川の水を荒川に導く水路だ。忍川より水量が大きいように思える。420年前の水戦が生かされたのだろう・・。 写真-1 石田堤の規模が解るような堤防断面と水を張った池。 写真-2 石田堤を堀割るように上越新幹線が通る。 写真-3 石田堤史跡公園の外観。 写真-4 新幹線高架下の休息所兼ギャラリー。 写真-5 天正18年、水に浮かぶ忍城と三成本陣(イメージ絵)。
2015年06月07日
コメント(0)
布施弁天の膝元に、利根川の堤防があるように錯覚する。土手が紅龍山本堂を取り囲むように築かれているのだ。土塁に見えるが、田中調整池の一部だ。 利根川中流域の洪水対策として、柏市、取手市などにかけて造られた調整池が二つある。利根川右岸(柏市側)に約3千トンを貯留する田中調整池。利根川左岸(取手市側)に約9.5千トンを貯留する稲戸井調整池。二つの調整池の容量は1億トン(面積は16.7km2)を超す。 今年の梅雨入りは、6月6日頃との予想もある。大雨・洪水・土砂崩れの季節がやって来る。昨年は、8月20日の「広島土砂災害」は被害が甚大であった。犠牲者74人も・・。水神様を祀る神社があれば、大雨や大水の災害があった事を示す。 広島土砂災害の一カ月後には、御嶽山の噴火があった。火山噴火も心配な日本列島。先日、鹿児島県・口永良部島で爆発的噴火が起き、住民130名の全島避難があったばかり。水攻めと火攻めにあっているようなだ。「災(さいわい)」の字は、「川」と「火」とに成り立っている・・。写真-1 田中調整池土手から紅龍山布施弁天を望む。 写真-2 布施弁天を囲むような田中調整池土手から新大利根橋を見る。 写真-3 田中調整内を横断する農道。道は利根川右岸堤防にぶつかる。写真-4 北の方角には筑波山が見える[2011年9月撮影したのも]。写真-5 田中調整池土手からあけぼの山農業公園を見る。
2015年06月01日
コメント(0)
利根川右岸の高台に建つ紅龍山布施弁天東海寺。江戸期には、広大な田園風景や沼に囲まれ、風光明媚な景勝地のひとつだった。利根運河ができるまで、水運の要衝が近くにあったため参拝者で賑わった丘だ。利根川もこの丘を避けて竜のように蛇行している。 布施弁天は、江の島、上野不忍に並んで、関東三弁天のひとつ。観光地化されていない分、神気が残っているように思える。本堂内に鎮座する八臂弁財天を観ると、何かしなくちゃ・・と思わせる。才能を開花させる弁天様として、女性の参拝者が多いという。 布施弁天には、紅い龍と天女像の伝説がある。但馬の国で弘法大師が創った弁財天を赤い龍がこの地に運んだというもの。この逸話を時の天皇に話して、開山(807年)したとされる。本堂には柱に菊の紋章が見られる。 山門は大きくないが重厚な建築物だ。総欅二階建ての「最勝閣」という。2階に釈迦三尊を安置し、1階に四天王立像4体を配置している。鐘楼は十二角形で珍しい造り。空気が澄んでいれば、境内の布施観音さまの後ろに筑波山が見えるロケーションだ・・。 写真-1 紅龍山への山門「最勝閣」。文化7年(1810年)建立の竜宮門。 写真-2 布施弁天東海寺の境内。本堂、三重塔そして十二角形鐘楼。 写真-3 朱塗りの華麗な本堂。回柱には菊の紋章がある。 写真-4 利根川をバックに立つ布施観音と大日堂。 写真-5 利根川を望む布施弁天本堂。
2015年05月30日
コメント(0)
真っ赤なポピー畑を見下ろす小さなお山に出かけた。利根川右岸近傍にある柏市の「あけぼの山農業公園」である。この公園は二つに大別される。午前9時から開園し、日本庭園、梅園などがある「あけぼの山公園」。もう一つが、24時間開放している風車とお花畑のある「あけぼの山農業公園」。 自宅からチャリで往復できる距離にある。しかし、年毎に体力低下と紫外線を気にするようになった。また昨今、自転車事故でトラブルになるケースをよく聞く。なるべく移動は公共交通を利用するように心掛ける。あけぼの山は、JR我孫子駅からバスで20分の距離・・。 広さ18ヘクタールを誇る公園は、年中花と畑を整備に追われる。四季の花々が広がるお花畑は4ステージある。4月はチューリップ。7月はヒマワリ。9月はコスモス。そして5月の赤いポピー。ヒナゲシの仲間であるシャーポピーは、「虞美人草」の和名を持つ。乾燥に負けない、強い花だという。 英国人が特別な想いを寄せる赤いポピー。先の大戦における戦没者追悼記念日(11月11日)には、多くの人々が赤いポピー・バッジを胸に付ける。戦争の犠牲者は、戦勝国イギリスにおいても決して小さいものではなかった・・。 写真-1 赤一色のポピー畑と風車。 写真-2 あけぼの山から約1ヘクタールのポピー畑を望む。 写真-3 春モミジと赤いジュータン。 写真-4 風車前のハス池に睡蓮が咲き始めていた。 写真-5 ハス池からポピー畑を見る。
2015年05月28日
コメント(0)
利根川を渡る圏央道の長い橋が完成していた。境町塚崎から五霞町を結ぶ「圏央道利根川高架橋」である。この橋へのアクセス部が未完なので、開通はまだ先のようだ。埼玉県寄りの、白岡菖蒲ICから久喜白岡JCTの3.3km区間は既に開通している。 利根川高架橋の規模は橋長さ835m。橋の形式は鋼11径間連続合成箱桁 (80mのスパン長が主体) である。上部の特徴として、細幅箱桁と鋼コンクリート合成床版を採用して、コスト低減と長ライフサイクルを実現したとのこと。 この利根川高架橋の下流50kmに「圏央道利根川橋」が架かっている。稲敷ICと神崎ICとを繋ぐ渡河橋で、今年の4月に開通した。利根川橋は、7径間・橋長630m。橋の形式は、二つの渡河橋が同じなので、兄弟橋のようなものだ。 境町を通る圏央道利根川高架橋は、ロケーションに恵まれている。境町ICから西(埼玉県)へ向かう際、正面に富士山、右手に日光連山を展望できる。冬晴れの日はより、遠くまで見通せる。ドライバーは富士山を見ながら緩やかにフックカーブ運転になる。標識・看板類の設置如何では、景観が損なわれるかも・・。 写真-1 利根川を渡河する圏央道利根川高架橋。下流左岸から望む。 写真-2 約80mの径間が11スパン連続する。スリムな高架橋の姿。 写真-3 五霞町側に富士山が正面に見える。 写真-4 利根川高架橋へのアクセス高架が工事中。 写真-5 冬晴れの日には日光連山がよく見える。
2014年12月29日
コメント(0)
利根川が二股に分かれる関宿分基点は、「境の渡し」の上流約1,500mにある。分派した江戸川は、南流して60km先で東京湾に注ぐ。一方、本川の利根川は、約120km東流して太平洋に流れ出る。 分岐点における二つの川の流量は、どのようになっているのだろか。平時の水量調節は、分基点下流800mにある関宿水門が担っているようだ。しかし、大洪水ともなれば、江戸川:利根川=2:3程度の比率で流下するようだ。江戸川に毎秒7,000m3が流れ込むと、関宿水閘門は水没してしまうそうだ。 わが町の洪水ハザードマップ(流山市)を見たが、50cm以上浸水する区域が市全体の1割以上に達する。一部、5mを越す場所もある。江戸川が決壊してしまった時の浸水エリアを想定したもの。概ね、200年に1回程度の大雨を想定しているという。昭和22年のカスリーン台風の大雨が念頭にあるのだ。 3、4年前から江戸川では堤防補強工事が目立つ。非洪水期である11月から3月までが河川工事期間。日曜日は休工日であるが、土曜・祝日返上で工事を進めている。想定外が起きる昨今の自然現象。土の堤防に毎秒7,000m3泥流が押し寄せる日がいつか来るかもしれない・・。万が一に備え、足腰をしなやかに保ちたいものだ・・。 写真-1 利根川左岸より下流を望む。 写真-2 利根川と江戸川との分岐点付近は、流れが弱くなり土砂が溜まりやすい。 写真-3 利根川左岸より江戸川口を望む。 写真-4 左岸土手からは筑波山が良く見える。 写真-5 江戸川の流頭部に造られた関宿水閘門。常時の水量調節は水門で可能。
2014年12月28日
コメント(0)
利根川の河口より上流120kmに「境の渡し」がある。千葉県と埼玉県とに接する茨城県猿島郡境町に観光船の発着場である。しかし利根川の水量が低下する10月から3月の期間は休業しているようだ。定員45名の「さかい丸」が利根川堤防で休んでいた。 かつて境町には関宿と結城とを結ぶ街道の渡しがあった。奥州と大江戸を結ぶ輸送ルートの拠点として発展した町。また日光東往還ルートにあたり、宿場町の役割もあった。江戸期は境河岸(さかいがし)として繁栄した歴史がある。 関宿藩は利根川と江戸川の分岐点にあたり、江戸幕府としても重要拠点であった。従って歴代、信頼できる大名が配置された。松平家の2万石から始まり、北条家-牧野家-板倉家-久世家と繋いできた。特に開明派の久世広周(ひろちか)は老中となり6.8万石まで出世した。しかし安政の大獄で失脚させられる。 「境の渡し」近傍の利根川左岸堤防は、「関東の富士見百景」に選ばれている。富士山をバックに関宿城が絵になるのだ。但し、お城に見えるのは、県立関宿城博物館である。江戸城の富士見櫓を模した御三階櫓。4階に当る天守部分は、展望室で遠く、東京スカイツリーも見えるという。 写真-1 関宿城博物館と富士山。最上階が展望室となっている。 写真-2 関東の富士見百景のスポット「境の渡し」。利根川越しに富士が見える。 写真-3 利根川と観光遊覧船の発着場。 写真-4 利根川堤防上で休養している遊覧船「さかい丸」。 写真-5 近くの茨城百景記念公園に設置された石燈籠(常夜灯)。
2014年12月26日
コメント(0)
筑波山南麓は良質の穀倉地帯である。桜川左岸に広がる水田は、昭和初期「筑波北条米」としてブランド化されていた。関東きっての美味しいコメとの評判だった。皇室へ献上された時期があったという。桜川は「坂東太郎」の支川で霞ヶ浦に注ぐ。 筑波山神社から約5km南に農業用ため池の北条大池がある。北条地区のコメ作りを担った水源のひとつだ。春、陽射したっぷりの筑波山をバックに、大池の縁に並ぶ250本の桜は見事だ。大池の水面に映し出される桜と神々の山を仰ぎ見る花見は格別であろう。 北条大池に隣接して、国指定史跡・平沢遺跡がある。奈良・平安時代の筑波郡の役所跡だという。平成15年に古代の大型高床式倉庫を復元。校倉、土壁双倉、板倉の3棟を中心とした芝生公園が整備されている。稲や麻布が税として納められた。昔からコメ作りが普及していたようだ。 標高10mから20mの桜川低地が稲作に適していたのは、御神体山によるところが大きい。筑波山由来のミネラル豊富な水がコメの旨味を引き出すと云われている。一日の寒暖差の大きく内陸性気候が野菜の甘味を作る。しかし昨今の異常気象は、この地に竜巻被害(2002年5月)をもたらした・・。 写真-1 北条大池から平沢遺跡と筑波山を望む。春は花見の名所になる。 写真-2 筑波山から南麓と田畑を眺める(沼田・神郡地区)。 写真-3 古代遺跡の里・筑波郡の役所があった場所。 写真-4 3棟の復元倉庫(板倉、土壁双倉、校倉)が建っている。 写真-5 高床式の土壁双倉と双耳峰を重ねて撮影する。
2014年11月22日
コメント(1)
例幣使(れいへいし)街道の宿場町、そして町を流れる巴波川(うずまかわ)の舟運で栄えた栃木市。その歴史を刻んだ土蔵や古い店舗が街道と川沿い残っている。そこに入れておく物資や資金があるから「蔵」が建ったのだ。北関東の商都の面影を残すこの地は、「小江戸とちぎ」とか「蔵の街」と呼ばれている。 明治初期には県庁が置かれたほどに財力があったまち。その中心市街地の北側に旧日光例幣使街道を守るように、「喜右衛門伝建地区」がある。岡田喜右衛門によって、新田開発され南北を通す街道に沿って屋敷割りがなされた。その姿を今も留めている。 例幣使街道と並行に流れる巴波川沿いには、綱手道と呼ばれる道が整備されていた。荷を満載した都賀舟を数人で曳き、目的地の蔵や店舗に届けるためのもの。時には馬や牛も動員されたと思う。現在は遊歩道である。行燈を並べたりして、市民の憩いの水辺となる。 巴波公園近くには、明治22年創業の古い銭湯がある。通称・金魚湯と呼ばれる玉の湯。文字どおり湯船に浸かり、水槽を泳ぐ金魚を観賞できる。階上は休息所で、宴会やカラオケができるコミニニティとなっている。年間50軒以上が廃業すると言われる銭湯業界。全国には更にユニークな銭湯が数多くあるだろうな・・。 写真-1 大通りに面し、観光の拠点施設として利用されている見世蔵。 写真-2 左右で異なる商売をした「両袖切妻造」を営んだ横山家。 写真-3 例幣使街道に面し、喜右衛門伝建地区の中核をなす岡田記念館。 写真-4 土蔵3棟を連結・改修した「とちぎ蔵の美術館」。 写真-5 老舗銭湯・玉の湯、通称「金魚湯」。二階の休憩所からカラオケが・・。
2014年07月11日
コメント(1)
栃木市は、巴波川(うずまがわ)の舟運で栄えた町。現在は「蔵の街遊覧船」が幸来橋付近の巴波川のほとりを約20分舟行している。女性船頭による「栃木河岸船頭唄」が蔵の壁に響き渡る。 栃木の舟運の始まりは、徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬する際に、荷揚げ基地となったことから・・。巴波川は、利根川水系ではあるが、そう大きい川ではない。運河として利用するのに適していたのだろう。しかし、ひとたび大雨になると川は、「ウズを巻き、波を立てて」流れたそうだ。 江戸時代、栃木河岸から江戸日本橋までは43里(168km)の行程。江戸からは塩や日光山御用達品が運ばれ、栃木からは木材・炭、農産物を江戸へ運んだ。都賀舟(米50俵積み)を使用して巴波川を下り、利根川近くで高瀬船(米300俵積)に積み替えたという。 数年前、小型の和舟に乗った有志が、栃木から日本橋までの川下りを成功させている。渡良瀬川―思川―利根川―江戸川―隅田川―日本橋川と120kmを4日間かけて舟行した。巴波川には「7つのセキ」がある。最初のセキは三番堰。手前の瀬戸ケ原堰は、転倒式に改修されているのでスムーズに通過できそうだ・・。 写真-1 旧木造回漕問屋のほとりを流れる和船。大きな鯉が舟の周りに寄ってくる。 写真-2 舟下りは瀬戸ケ原堰の手前Uターンする。船頭唄がよく通る巴波川。 写真-3 瀬戸ケ原堰を下流から望む。堰の半分を転倒式に改修して、河川浄化作業を容易にした。 写真-4 相生橋近くの片岡写真館。創業が明治2年、昔の街並みや人を撮り続けてきた。 写真-5 県庁堀近くの常盤橋。小さいが古風ある橋が残されている巴波川。
2014年07月09日
コメント(1)
荒川系と利根川系が同時に会する場所がある。利根川水系中川は都内に入ると蛇行が大きくなり、西新小岩地区で、荒川によって寸断され並走する。上平井橋から大平井橋までの中川は、独特の景観を作り出している。これも江戸時代から営々と続けてきた治水普請の到達点なのだろう・・。 新小岩あたりは、葛飾区、江戸川区そして墨田区の三区境でもある。綾瀬川は、荒川に直ぐに合流せずに並走して、中川の背後に注ぐようになっている。そのため水門等施設が多い。川の頭上には高速道路が長屋のように連なる。その堤防には橋脚が並ぶ。複雑なインフラが構築されてしまった。 荒川の水源と言えば埼玉県秩父山地を、利根川の水源は群馬県三国山地を思い描く。その日本を代表する川に挟まれて中川が流れる。そもそも坂東太郎の本流だった中川は、江戸期の利根川東遷と明治・大正期の荒川放水路開削で小さな川になった。しかし架かる橋の数は約90ヶ所と多いのだ。 東京は「水都」とも呼ばれ、水門や陸閘が数多くある。先の東日本大震災で閉鎖すべき水門が約3000施設あったそうだ。故障その他で作動しなかったものが約60カ所あったという。また水門の閉鎖作業や避難誘導で亡くなった消防団員が250人もいた。インフラは財産でもあるが、その管理運営は次世代が負うことに・・。 写真-1 新小岩近くの荒川堤防から東京スカイツリーを見る。 写真-2 綾瀬川と中川との合流点に作られた「上平井水門」。 写真-3 綾瀬川と中川との合流点。首都高速道路が綾瀬川から荒川へ飛び移る場所。 写真-4 中川水門、ハーブ橋、上平井水門が錯綜する区間。 写真-5 中川水門から富士山を見る。
2014年07月03日
コメント(0)
利根川水運の要衝として栄えた佐原。江戸期、佐原の町を北に遡上する小野川両岸とその周辺には、河岸問屋や造酒屋などが軒を並ぶ。その町並みは早くから保存され、江戸の雰囲気が貴重に残されている。下総の小江戸と称される。埼玉県川越市と栃木県栃木市などとよく比較される町。 小野川は、下総台地を水源とする小さな川(流路長5.8km)。しかし大利根川に通じる運河の役割を持つ川となる。川沿い倉庫群が並ぶようになると、人と情報とが豊かになる。幕末佐原を要した佐倉藩は、堀田正睦(老中職、開国派)や伊能忠敬(日本地図の父)を輩出している。 伊能忠敬旧宅前に架かる樋橋(とよはし)は、「手づくり郷土賞」なる認定票が掲げられている。昔、佐原用水を小野川東岸から対岸の水田に送る大樋(おおとい)が設置されて場所だ。橋桁上流の樋から水を流し落とし、往年を偲んでいる。川面と落水が作り出す音から、「ジャージャー橋」とも呼ばれている。 佐原には35軒もの造酒所があった。現在は2、3軒を残すのみ。当時、佐原には東北地方からの産物が霞ヶ浦経由で集まった。現在でいう集配センターである。東北地方からの人の往来も多かったと思われる。酒職人の出稼ぎが酒の醸造を盛んにしたようだ。 写真-1 エンジン付きの小舟が小野川を巡る。干潮時刻は水深が浅くなり、運航が制限される。 写真-2 伊能忠敬旧宅前に架かる樋橋(とよはし)を渡り、「小江戸」を歩く。 写真-3 30分間隔で木製の樋に水が流れる。溢れる水の音が涼しげ・・。 写真-4 190年の歴史を重ねた酒蔵を見学。 写真-5 重要伝統的建造物(明治33年築)の蕎麦屋・小堀屋本店。
2014年06月29日
コメント(1)
潮来伊太郎像と水雲橋がシンボルの水郷潮来あやめ園。常陸利根川に注ぐ前川沿い400mに渡って花菖蒲が植えられ、あやめ祭りが開催されている。運が良ければ、嫁入り舟を見ることができる。花嫁はろ舟乗場を出発して、水雲橋―思案橋―あやめ橋と進み、前川水門をくぐり利根川の畔で花婿と出会う。 前川右岸沿いのあやめ園は、1.3ヘクタールの敷地に500種・100万本のハナショウブで彩られる。前川あやめ園ともいう。園中央部には、あづま屋と連絡する雨情橋、および太鼓橋風の水雲橋が架けられている。昔の水雲橋は、現在の前川水門付近に架けられていた橋で。郷土の名前に由来した橋だという。 江戸期前には「伊多古」との地名が残っていた潮来地区。また、「潮」のことを「いた」とも呼んでいたらしい。海から遠いので、凪の際には海面が板のように見えたとか。昔、霞ヶ浦は海に繋がっており、潮の干潮があった。静かな海面が板のように迫ってきたのだろうか・・。 橋幸夫の歌で有名になった潮来笠。あやめ笠とも言われ、この地方の女性が農作業に日除け、雨よけに使用していたもの。現在は便利な帽子に替って使用されなくなった。民芸品や身を守るものとして、受け継がれている。ベトナム女性のアオザイと麦わら帽子(ノンラー)に通じるものがある・・。 写真-1 ハナショウブに彩られる「水郷潮来あやめ園」。雨情橋と水雲橋が特徴の公園。 写真-2 太鼓橋からアヤメ園を一望できる。花と人が集う園。 写真-3 アーチ橋は、三度笠のようにも見える。写真-4 嫁入り舟終点となる「前川水門」。 写真-5 潮来笠と水雲橋。
2014年06月27日
コメント(0)
利根川と霞ヶ浦に挟まれた水郷地帯は、梅雨の頃華やかになる。「その色彩 東洋一」との宣伝に乗って、水郷佐原水生植物園へ相棒と出かけた。400品種、150万本の花菖蒲が咲くという場所へ・・。住所は香取市扇島とある。佐原市は平成の合併で香取市となっていた。 千葉と茨城の県境が入りくんでいる水郷地帯。利根川との名が付く川が4つもあり混乱しそうな地域だ。本家筋の利根川、分家の常陸利根川、新興の新利根川、そして直交する利根川などの四川。「水郷さわら」は、千葉県に属し、与田浦に接する。十二橋めぐりの船着きを目にしたが、潮来行きバスに乗り込む。 あやめの時期は終わり、ハナショウブは見ごろピークが過ぎ、睡蓮が咲き始めた時期に訪れた。園内の名物である「女船頭とサッパ舟」に乗り込み、池を15分かけて見て回る。サッパ舟とは、笹の葉の形に似ているからとされる。しかし、「作場田舟」説や「田の端舟」説もある。ササのハッパが単純で気に入った。 梅雨時期、憂鬱な日々を慰めてくれる優しい花がハナショウブと言われている。花びらがゆったり垂下り、気品も感じられる。花言葉は、「優しい心」、「優美な心」。イラク北部、ウクライナ東部そして日中韓では、対立構図で殺伐とした状況だ。これら地域人達の心のなかに、ハナショウブが咲いてほしいものだ・・。 写真-1 ハナショウブが見頃の水郷佐原水生植物園。 写真-2 サッパ舟を操る女船頭。昔、水郷地区では料理上手より舟を漕ぐことが嫁入り条件だった。 写真-3 近くに老人ホームがある。散歩を楽しむお年寄り。皆が優しい気持ちなれる水辺。写真-4 十二橋めぐりの船着場。与田浦は二つの利根川に挟まれ、平行に伸びる湖沼。 写真-5 睡蓮の葉から顔を出す小さな花(黄色)。アサザの蕾かな・・。
2014年06月25日
コメント(0)
堀切菖蒲園のすぐ近くに防災用の水門がある。綾瀬川への逆流を防ぐ目的で平成8年に設置された「堀切菖蒲水門」である。しかし、中川合流点から上流2.5km、綾瀬排水機場から下流1.6kmに位置する。少々、違和感を受ける座取り位置・・。 水門の特徴は、2本のチクワを吊り下げたようなゲートにある。「二段式ローラゲート」と名板に記載されている。径間25.5m×高さ9.5mの水門ゲート。太巻きにも見える筒状は、実はカモボコ形のゲートが2枚重なっている。都会ならでのゲートである。2段の形になった閉じた姿を見たいものだ。 三つゲート操作室のうち左岸側のものは、首都高速道路の真下に位置する。建築限界の規制により一般的な水門を設計できなかったようだ。多段式のゲート(コストは嵩む)を採用した。また、綾瀬川の護岸天端高は、荒川より低いが堰柱で高さを調整し、水平な橋を架けている。下流には急勾配の橋がある。 この水門を見て、3匹のヒツジが並んでいると地元の人が言う。確かに斜め横から眺めると「羊の頭」のようにも見える。動物園にいるラセン角を持つヒツジだ。日本の食用羊には角がないのだが・・。毛に埋まったつぶらな目と渦巻き状の角を持つヒツジを想像すると楽しくなる。写真-1 荒川の水辺公園から堀切菖蒲水門を見上げる。 写真-2 水門の管理橋は、綾瀬川を渡る人道橋。スカイツリーが良く見える水門。 写真-3 チクワを吊り下げているような面白いゲート。首都高速道路の真下にゲート巻き上げ室がある。写真-4 ヒツジに見えるゲート建屋。丸いゲートを象徴している屋根。 写真-5 広重・江戸名所百景「堀切の花菖蒲」。
2014年06月15日
コメント(0)
葛飾・堀切の花菖蒲は、江戸期からよく知られていた。名所江戸百景として浮世絵に残されている。江戸から隅田川を渡って容易に行くことができたので、江戸市民にとっては初夏の散策場所となっていた。現在、菖蒲園への入場は無料。近くの住民は、散歩途中に江戸系の花ショウブを観に立ち寄る場所。 堀切花菖蒲園への最寄り駅は、堀切駅(東武スカイツリーライン)または堀切菖蒲園駅(京成本線)である。小生はウォーキングを兼ねて、堀切駅で下車して荒川を渡り、綾瀬川沿いに南下歩き。堀切園は7,700m2の敷地に200品種・,6000株が植えられている。 綾瀬川の左岸近くに位置する堀切園。綾瀬川と並行に走る首都高速道の高架橋が景観に陰をおとす。昔は隅田川の分流が何条も流れるほど湿地帯だったとされる。水を多量に要求する花ショウブの生育に適した場所だった。近くの荒川河川敷の水辺公園にも500株ほどの菖蒲田がある。そこからスカイツリーが見える。 堀切園では、萎んだ花を摘む作業を2,3名で行っていた。花菖蒲が美しく開花する期間は2日間と言われる。ひとつの花茎には二つの蕾がある。萎れた一番花を速やかに摘み取ることで、二番花に水と栄養が行き届く。すると同じ茎から美しい花が再び蘇る・・。 写真-1 堀切水辺公園から荒川と東京スカイツリーを望む。 写真-2 梅雨空に佇む白いタワーと野鳥。 写真-3 堀切菖蒲園の様子。花摘み作業を見守る人々。 写真-4 江戸系の花ショウブが出迎えてくれる。 写真-5 入口に飾られた暖簾と可愛い花ボトル。
2014年06月13日
コメント(1)
下妻市の西側、鬼怒川に平行して縦長の砂沼(さぬま)が広がる。この沼に珍しいY字型の人道橋が架かっている。3つの崎から橋がそれぞれ伸びて、中央部で合体しているのだ。中央デッキには、若い男女が背中合わせして、両手を揚げるブロンズ像が立つ。鳥が羽立つ様子から「飛翔」と呼ばれる。 下妻砂沼は、周囲6km、水深3m、面積55ヘクタールの農業用ため池である。江戸期に干拓され新田開発された。その後、ため池として再整備された。現在は自然とふれあう都市公園-「砂沼広域公園と」して管理運営されている。全国の「ため池100景」のひとつでもある。 暑い夏がすぐそこに来ている。下妻市は、西に鬼怒川、東に小貝川が流れる。しかしこれらの川は、水流や水質から川水遊びには向いていない。海から遠い地域なので、海水浴に出かけづらい。そのため砂沼の東側に10種類のプールを持つサンビーチ施設がある。 砂沼はヘラブナ釣りの場所としても有名。池の畔に愛釣家が設置した「へら鮒供養塔」がある。ヘラブナ釣り用の小舟をレンタルする船宿もあり、シーズンは多くの釣り客で賑わう。昨年、1.4mの巨大なアオウオが釣り揚げられた。また、ブラックバスも増え始めている。釣ったバスは池に戻さないように呼びかけている・・。写真-1 砂沼湖に架かるY字型の人道橋・砂沼大橋。「いばらきの100名橋」の一つ。 写真-2 ため池百景に選ばれている砂沼湖。天気が良ければ筑波山を望める。 写真-3 砂沼大橋の中央部に立つブロンズ像・飛翔。 写真-4 砂沼はヘラブナ釣りが盛んである。貸しボートが並んでいた。 写真-5 砂沼広域公園にある観桜苑のしょうぶ公園。
2014年06月11日
コメント(0)
小貝川上流47km地点に大弓(おおゆみ)を連想させる橋がある。いばらぎ100名橋のひとつ祝橋(いわい)である。ミレニアムの年を祝うように、2000年に完成した国道125号線の橋。祝橋と命名された橋は全国に沢山あると思う。東京の銀座にもあったような気がする。 橋長221m×幅員24mの祝橋は、鋼製アーチ橋。力強いアーチと補鋼桁からなり、単弦ローゼ橋と呼ばれる。広い橋桁を一張りの「大弓」で支えている。故に弓を伏せたよう印象を与える。橋の親柱も武将の兜のように見えた。大弓の材質に耐候性鋼材が使われ、永持ちする橋だという。 祝橋の下流右岸に流れ出る川は糸繰川(いとくりがわ)。糸繰川は旧関宿町から南下して、下妻市内で東側に弓なりに曲がって小貝川に注ぐ。増水した小貝川の逆流を防ぐための水門が昭和46年に、内水被害を低減させるための糸繰川排水機場が昭和54年に設置された。 祝橋は比毛地区と高道祖地区を結んでいる。高道祖は、「たかさい」と読み、難解な地名の一つ。道祖神と関係する地名とか・・。村と村、または川と川とのさかい(境)を示す名残であろうか。ドウソジンとヒゲ、カワを挟んで向かい会っている場所だ。 写真-1 大弓を思わせる国道125号・祝橋。空気が澄んでいれば筑波山が見えるのだが・・。写真-2 上流の小貝川ふれあい公園から単弦ローゼ橋(L=221m)を観る。 写真-3 祝橋の親柱と糸繰川水門。3本縦に並んだ曲面は兜を連想させる。 写真-4 祝橋の歩道から小貝川ふれあい公園を望む。 写真-5 小貝川との合流点近くの糸繰川水門と排水機場を望む
2014年06月09日
コメント(0)
本格的な梅雨を前に小貝川河川敷は、赤・黄・オレンジ色に彩られた。面積5ヘクタールに及ぶ花畑には、200万本のシャレーポピーと130万本のキンセンカが植えられている。下妻市、ご自慢の花畑である。 小貝川に架かる祝橋の上流に「小貝川ふれあい公園」・フラワーゾーンがある。昨年の10月中旬に種まき、今年の3月・4月に除草作業をそれぞれボランテア「ふれあい花の会」が行った成果である。一昨年は増水・冠水にみまわれ「不作」であったが、今年の出来は「良」・・。 ポピー畑は当初0.6ヘクタールから始まったとされる。昭和62年8月の大洪水により小貝川が決壊して、町が泥にまみれた。泥の町ではなく花の町に生まれ変わろうとして始めた活動だ。その後花畑を育てる会の輪が広がった。今では筑波山を背景に、春のホピー、秋のコスモスが風物詩となっている。 小貝川ふれあい公園のシンボルは、国蝶・オオムラサキである。公園入口の「ネイチャーセンター」は、オオムラサキを型とったユニークな建物だ。公園の上流には、蝶を保護する森がある。好物のエノキの葉があるようで、毎年6月下旬に羽化する。森には小径も整備され、観察ができるという。 写真-1 小貝川ふれあい公園フラワーゾーンの赤いホピー園。 写真-2 天気が良すぎて、筑波山が霞む・・。 写真-3 黄色キンセンカも広がるフラーワーゾーン。 写真-4 「ふれあい花の会」の活動内容を示す看板とホピー園。 写真-5 オオムラサキをイメージしたネイチャーセンター館。
2014年06月07日
コメント(0)
一級河川・綾瀬川の護岸天端より低い道路橋がある。東綾瀬公園のカワセミ観察スポットから綾瀬川を渡りTX線青井駅へ向かう途中にある。昭和4年に架けられた幅7m×2車線の橋である。水面と桁とのクリアランスが小さく、満潮時には小型船舶でも通過できない難所である。 綾瀬川は昔、ひと雨降ると流れが変わり、川筋が一定しないことから「あやし川」と呼ばれていた。利根川東遷や荒川放水路ができるまでは、流域に定住する人は少なかった。しかしこの川筋は、江戸・東京の台所を支えた。埼玉平野の農産物を都会に運び、都会の下肥を農村部へ送る循環型社会の静脈を担った。 現在の綾瀬川は、花畑川の合流点から直線で一気に中川-荒川に注ぐ。排水効率重視のコンクリート造りの放水路である。上を見上げると首都高速道路も河となって都会に流れ込んでいる。綾瀬川で最も低い橋から見る川は、無機質で都会の川の代名詞となっている。 綾瀬川を渡る大橋は幾つかあるが、川に近い住民は高い橋まで行くのに、遠回りが強いられる。そこで、容易に渡れる低い橋が必要になったのだろう。護岸堤防を切り欠き、橋を架けるとすぐに隣街へ車で入れる。しかし、いざという時には水門(横スライド式)を閉めなければならない。点検と訓練が要求される橋だ。写真-1 直線的な放水路と首都高速が南流する綾瀬川。 写真-2 護岸堤防の一部を切り欠き、道路橋としている綾瀬新橋。 写真-3横スライド式の水門が設置されている綾瀬新橋。 写真-4 水門の収納状況とスライド床の養生状況。 写真-5 近くの東綾瀬公園にカワセミを観に行くも、不在で別の野鳥がいた。
2014年06月05日
コメント(0)
東京足立区のほぼ中央部を南流する綾瀬川の近くに、小さな池がある。東京メトロ・北綾瀬駅から徒歩2分に位置する足立区・しょうぶ沼公園のなか。木立に囲まれて、五つの菖蒲田に植えられている花ショウブが見頃を迎えていた。綾瀬川の下流には堀切り菖蒲園もあり、アヤメ園が多い地域である。しょうぶ沼では花ショウブの開花に合わせて、仮設の木道が作られる。より近くで各品種を見比べることができる。140品種、8100株は、隊列ごとに「名札」がついている。品種改良した人々の思いが名前に受け継がれている。 北綾瀬駅は、千代田線の終着駅である。綾瀬駅ゼロ番ホームからブランチして、北へ2.1 km環七通りまで伸びる支線。千代田線本線は、代々木上原から綾瀬駅までの22km。北千住駅からはJR常磐線との二重戸籍区間となっている。綾瀬駅から東の次駅は葛飾区の亀有駅だ。区境がアヤトリのように入り組んでいる。北綾瀬駅から更に2kmほど北上すると花畑川(花畑運河とも呼ぶ)にぶつかる。一帯は高度成長期までは、水の恩恵をうけ豊かな穀倉地帯だった。その名残のように、ミニ・三連水車が菖蒲田に設置されている。水を使った水車は都会で見られなくなった。地方では小水力発電が見直されている。 写真-1 北綾瀬しょうぶ沼公園の菖蒲田。各品種の花ショウブには名札が立てられている。 写真-2 日差しが強い時は、藤棚の日陰で休めばよい。 写真-3 電力ではなく、水力で回っている小さな水車三つ。 写真-4 季節の花を寄せ植えする花壇。 写真-5 仮設の木道を利用すると、手が届くように観察できる。
2014年06月03日
コメント(0)
鬼怒川温泉の中心部に碧の橋と白い橋が架かっている。ふれあい橋(碧色)とくろがね橋(白色)である。二つの橋は、お互いに見える位置にある。ふれあい橋からは水力発電所の放水口も見える。大正11年に完成した竹の沢発電所(最大出力8,600kw)で、今も温泉地に給電しているようだ。 ふれあい橋は歩行者専用で、温泉街のシンボル橋。幅員が14mと広く、各種イベントが行われる場所。夏場は橋上ビアガーデンになるという。左岸側の階段には、イメージキャラクターの巨大な鬼怒太(きぬた)が描かれている。 くろがね橋は、ふれあい橋の上流500mにある。温泉街で最も古い橋。大正3年に下滝発電所を建設する際に、川向こう(右岸へ)へ資械材を運搬するために架けられた。工事完了後に町に寄贈され、今日に至る。左岸詰めに足湯小屋が設置され、「ほっと」しながら渓谷を観ることが出来る。 温泉街を流れる鬼怒川には六つの橋がある。それぞれ個性的な橋であると共に、橋から見る景色を異なる。そして各橋の袂には、ミニチュアの鬼怒太が置かれている。橋の色も赤鬼と青鬼に因んだものがあれば、一層面白いものとなる・・。 写真-1 ふれあい橋上流の鬼怒川。竹の沢発電所の放流口が見える。 写真-2 温泉街のシンボル的な橋。碧色の高欄と照明灯が特徴。 写真-3 くろがね橋からふれあい橋を観る。 写真-4 黒金(くろがね)を使用した橋は大正時代には珍しかった。 写真-5 紅一点の邪鬼「遊心鬼」。くろがね橋の足湯入口。
2013年11月14日
コメント(1)
鬼怒川温泉滝と云う地名がある。その温泉滝・護国神社の近くに平成21年滝見公園が造られた。公園から滝見橋(人道用吊り橋)を渡ると、対岸は藤原地区だ。吊り橋の入口には、一度に渡れる人数が30名までとの注意書きがある。 滝見橋は、鬼怒川五橋の一つに数えられている。温泉街の中にある吊り橋で、川面に最も近いのが特徴。従って、渓谷美を近くで観ることが出来る。 案内によれば、橋から「結の滝」が見えることになっている。しかし、生茂った樹木でよく見えない。水量も少なく滝の音は聞こえない。散歩する人と犬によく出会う橋。 滝見公園は、春に芝桜が彩るという展望公園。渓谷側のスペースに少女の像「萌(もえ)」が立っている。未来へ向かって成長する子どもを表現しているという。過疎地では、子どもは宝である。公園で遊ぶ子供よりも、ペットを遊ばせる人が多いように思える。写真-1 鬼怒川温泉街のなかの渓谷。滝見橋より上流を望む。 写真-2 滝見公園展望広場より吊橋を見る。 写真-3 滝見橋より下流を望む。上流発電所の放水量が少ないようだ。 写真-4 鬼怒川左岸水辺の紅葉。 写真-5 滝見公園の少女の像「萌え」。
2013年11月12日
コメント(0)
鬼怒川温泉峡の南に楯岩(イージス・ロック)がある。鬼怒川温泉のシンボルのひとつ。巨大な一枚岩で、高さ100mを誇り、ライン下りの名勝になっている。楯岩の上部には鬼怒姫神社と展望台がある。しかし現在は、通行禁止となっている。 楯岩の300m下流に平成21年、黒塗りの吊り橋が架けられた。鬼怒楯岩大吊橋である。長さが140m、川面から高さ37mの空中人道橋である。吊り橋中央部は幅が広く作られている。安心して景色を眺めることができる。ライン下りの人達に手を振って応じ、エールを交換する人もいる。 楯岩近くの地山が少し不安定となっているため、楯岩頂部への立ち入りが禁止されている。東日本大震災の際に、楯岩の北側に亀裂が出来たことが要因で、大雨で斜面の一部が崩壊したものと報道されている。近いうちに何らかの補強工事をすると思われる。 吊り橋の右詰に「楯鬼」の陶像が置かれている。七福邪鬼めぐりの一つ。鬼怒川五橋めぐりをすると金色の七邪鬼に逢えるようようだ。邪気を払い、福を招くとされる邪鬼。しかし、黒い吊橋の楯鬼は、心配気に楯岩の様子を見守っている。 写真-1 鬼怒川温泉峡の名物である楯岩の北側斜面が崩落している。 写真-2 楯岩の膝元を行く・ライン下りの船。写真-3 楯岩上部の松の木。写真-4 鬼怒楯岩大吊橋を下流から見る。 写真-5 七福邪鬼のひとつ楯鬼。
2013年11月11日
コメント(1)
鬼怒川公園駅近くを流れる鬼怒川。その川中に大きな岩が立ちはだかる場所がある。大岩が急流に身を削られている様を見ることができる。江戸時代に温泉が発見され、滝温泉と呼ばれていた。当時の岩場はまだ浸食が進んでおらず、今よりは滝らしかったのだろ。 この大岩の頭上には国道121号線を通す鬼怒岩橋が架かっている。温泉街の最北部に昭和38年に完成した橋である。橋を境に、上流地区を滝上そして下流地区を滝下と呼んでいた。昔、滝下には温泉奉行所が置かれ、幕府の要人や日光山の僧侶が湯治したと言われている。 橋の右岸ポケットパークから河床沿いに約1kmの遊歩道が整備されている。鬼怒岩橋下の岩場には大滝公園展望台が設置されている。ここから鶏頂山や西平山を望むことができる。鬼怒川温泉峡における本川の滝としては唯一の場所。支川から落ちる滝と区別して大滝と名付けたのだろう。 宿泊したホテルは大滝公園の近く。朝飯前に遊歩道の終点にある滝上河川公園まで散歩した。ホテルの館内ギャラリーには、竹久夢二の絵画や人形が飾られている。人形は市松人形、日本人形、西洋人形と幅広く展示している。風呂上りにノンビリ眺めたが、実に精巧に出来ており感服した。写真-1 鬼怒岩橋下の岩場をうねりながら下る鬼怒川。 写真-2 大滝公園の展望台。正面に鶏頂山や西平山が見える景勝地写真-3 遊歩道から鬼怒岩橋を見る。写真-4 鬼怒岩橋から大岩と滝を覗く。 写真-5 ホテルの館内ギャラリー。精巧な作りの和風人形(大きさ約30cm)。
2013年11月09日
コメント(0)
今秋も鬼怒川・龍王峡を訪れた。健康に感謝しながら落ち葉を踏みしめて歩く。1年後、3年後の環境・体調はどうなっているかの予想は難しい。足腰が満足に動くうちは、これを活用しないと手はない。春と秋は意識して歩くことにしている。 龍王峡は、龍王峡駅から上流の川治温泉まで間の約3km区間。竜がのたうつ姿を思わせるように、曲がりくねった渓谷が続く。下流から白竜峡・青竜峡・紫竜峡と云う3エリアがある。虹見橋から「むささび橋」間の白竜峡を往復した。 白竜峡は、りゅうもんがん(流紋岩)という火成岩が分布する。2,200万年前の海底火山活動に起因するとされる。流紋岩は酸性質で白く見えることから白い竜と称される。10月の台風で、岩壁が洗われ一層白さが目立つ。むささび橋より上流には緑色凝灰岩が分布する。青く見えるので青竜という。 龍王峡駅は、野岩鉄道「ほっとスパ・ライン」の駅。トンネルとトンネルの谷間にある小さな駅だ。地上改札口とホームとは高低差20m以上ある。当然、電動式昇降設備は一切ない。電車を降りとすぐに散策が始まる寸法だ。帰りの下り階段に注意を払う必要がある。 写真-1 虹見橋から上流の白竜峡を望む。台風で岩が洗われ白味が増した。写真-2 五龍神社から河床に降りられる。記念撮影する人が集まる場所。 写真-3 落差20m程の虹見の滝。五龍神社から身近に見られる滝。写真-4 白竜峡と青竜峡とを分ける龍王峡の名所・むささび橋が見える。写真-5 野岩鉄道・龍王峡駅のホーム。トンネルを拡幅して乗降スペースを確保。
2013年11月07日
コメント(0)
鬼怒川ライン下りを十数年ぶりに興じた。温泉街中心の乗船場から中岩ダム貯水池までの約6km(40分)の行程である。鬼怒川ライン下りの特徴は、両岸の切り立った岩壁と奇岩だ。岩壁の一部が崩れ落ちた岩が、長い年月の間に削られて奇岩になった。ゴリラ、ゾウ、クマ、イヌなどいる。 相棒が「まだライン下りをしたことがない」と言うので、あえて紅葉の時期に出かけることにした。11月上旬は混雑が予想されたので、1ヶ月前に特急スペーシアと宿泊ホテルを予約した。川の水量も十分あり、安定した船旅だった。 1日当りのライン下り回数は12回となっている。1回当りの客人数に合わせて、3台から6台の木製和船(定員30名)が船出する。観光シーズンは、この船の船着場から発着場への回送が大忙し。トラッククレーンで4tトラック車に積込み運搬。次に軽索で川に下ろす繰り返し作業だ。 鬼怒川上流は、急流と転石が削った渓谷。鬼怒川の由来は、(1)鬼が怒ったような暴れ川になること、(2)古代の呼び名、毛野川が「きぬがわ」になったとされる。上流部は川幅が狭い。増水した際には、転石がゴロゴロと音をたてながら両岸と河床を削ったことだろう。 写真-1 奇岩のゾウ岩を見ながら船は下る。上空には楯岩吊り橋が見える。写真-2 対岸に張った軽索で木製和船を吊り降ろす様子。 写真-3 お化け岩(お岩さん)を見ながら船は下る。 写真-4 ライン下り終点近くの大瀞。この後、エンジン付ボートでけん引してもらう。写真-5 船頭さんは、ゴリラ岩と言うが・・。
2013年11月05日
コメント(0)
全78件 (78件中 1-50件目)