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スラーム地区東部、モスク群の中心部にカイロ最大の大スーク(市場)がある。数百年の歴史を誇る屈指のスークだ。14世紀末にスークができ、周囲に広がる。現地では「ハン・ハリーリ」と呼ぶ。いまは、土産店が主体のようだ。旧市街の観光スポットのひとつ。 かつてこの一帯は、隊商宿が多くあったという。エル・ハリーリーという人物が建てた隊商宿を中心に発展してきた。「ハーン」とは交易、「ハリーリ」とは親しい友人という意味もある。ハン・ハリーリの広さは、半径100mほどであるが、その中を縦横無尽に横路・斜路が通り迷路化している。ガイドの案内でバデスタン通りからムッイッズ通り、ムスキ通りと周回して店を見て歩く。 ホセイン・モスクの前がフセイン広場。その広場を眺める一画に、カフェが並ぶ。公衆トイレがないので、集合場所を兼ねて用を足す。ミントティーを飲みながら、水煙草を楽しむ人々を眺めた。 10日間の旅ではあったが、ブログ期間は4ケ月以上に及んだ。パンレットや入場券を見ながら写真整理するのは楽しい作業だ。「エジプト紀行」もそろそろ終わりたいと思います。写真-1 イスラーム地区のフセイン広場とホセイン・モスク。写真-2 フセイン広場は人で溢れていた。写真-3 広場に面するカフェ通り。写真-4 ムスキ通りとバデスタン通り。写真-5 バデスタン門と聳えるミナレット。写真-6 水タバコ用品とお土産品が並ぶ。
2019年05月06日
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シタデルの中核にムハンマド・アリ・モスクがある。内部の壮麗さは、イスラーム地区で抜きん出ている。このモスク(ガーマとも呼ぶ)は、名前のごとくムハンマド・アリが建設した。1824年に着工して1857年に完成した。約27年の歳月を要した。 ムハンマド・アリ・モスクの外観は、トルコ風の佇まい。トルコ・イスタンブールのアヤスフィア大聖堂をモデルに建築された。52mの大ドームと2本の84mのミナレット(尖塔)を持つ。カイロのランドマーク的な存在だ。日が暮れると、ガーマのシルエット姿が美しく浮かび上がる。 寺院の中庭中央には、身を清める八角形の水場がある。精巧な彫刻が施されている。また、中庭北端には、ルクソール神殿のオベリスクを贈ったお返しに、フランス政府から贈られた時計が飾れている。時計台に足場が組まれ、補修しているようだった。写真-1 シタデル内に建つ「ムハンマド・アリ・モスク」。写真-2 カイロのランドマーク的な建物で世界遺産。写真-3 モスク中庭の水場と時計台。写真-4 天井のアラビア模様とシャンデリア。写真-5 モスク内部の装飾類。写真-6 モスクの夕暮れ・シルエット。異国情緒漂う風景。
2019年05月04日
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シタデルは、「カイロ歴史地区」のムカッタムの丘にある。シタデルとは城塞または要塞の意味。1170年代、十字軍の侵攻に備えた建設された。高さ10m×暑さ3mほどの城壁に囲まれている。1218年に王宮が造られて、エジプトの中心となった地区。 カイロ東南部にあるカイロ歴史地区。イスラーム地区とオールド・カイロ地区に分けられている。そのうちのイスラーム地区を観光する。イスラーム地区は、1000のミナレットの町とも呼ばれ、約南北4km×東西2km、寺院(ガーマ)、城壁・門、廟墓など600もの世界遺産がある。 シタデルは、高台にあるので城壁からカイロ全景を見渡せる。西の方には、スルタン・ハサン・モスク、カイロタワーが見える。よく晴れた日にはキザのピラミッドを望むことができる。東側に石切場跡があるが、ここからピラミッドの化粧石を切り出したとされる。写真-1 強固な城壁に囲まれたシタデル要塞。写真-2 シタデルの入口付近の円形城塞。写真-3 城壁の展望広場。カイロ市内を一望。写真-4 スルタン・ハサン・モスクとカイロタワー。写真-5 石切場山と遠方のピラミッドシルエット。写真-6 シタデルの入場チケット。
2019年05月02日
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カイロへ向けて出発する前に、ルクソール市内のお土産店に寄る。お土産の定番として、パピルス、アラバスター細工、エジプトコットンなどがある。パピルス紙作りの実演する店で、芸術的な絵画を鑑賞する。 ペーパーの語源になったというパピルス。上エジプト(ナイル上流)の象徴がパピルスで、下エジプトの象徴がハス。 紀元前3000年頃エジプトでは、パピルスの茎を使用した紙作りが始まったとされる。三角形をした茎を薄く剥いで、水に浸し格子状に並べたシートを圧密脱水すると出来上がる。丈夫で長持ち・・。 パピルス絵画には蛍光塗料を施しているものある。大きいサイズは、魅力的な作品ばかり、但し高額・・。小さなパピルス画を一枚お土産購入する。丸めるとコンパクトになる。仲睦ましい一枚の絵「ツタンカーメン夫妻と黄金の椅子」。一組のサンダルを二人で片方ずつ履いている。 アラバスターとは、大理石の一種、和名で「雪花石膏」と呼ばれる石。この石を加工・細工したものが土産店に並ぶ。定番ピラミッド・アラバスターやコップ、花瓶、ブローチなどある。光を透過する性質があるため、ホテルなどでキャンドルカバーとして置いている。写真-1 ルクソール市内のパピルス店。写真-2 パピルス紙の作り方を実演。剥いで、叩いて、伸して、圧密脱水すれば作業完了。写真-3 「古代エジプト暦」と「生命の木」。写真-4 お土産にしたパピルス絵。(20USドル)。写真-5 アラバスター(雪花石膏)の加工細工。
2019年04月30日
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ルクソール東岸のナイル河畔に連泊する。クルーズ船が水上ホテルになる。2重列から4重列に船が片寄せ合う姿は、マンションが立ち並ぶ雰囲気がある。 ジャズ・ジャビリー号が停泊した場所は、ルクソール大橋から約1.5km上流。川岸と船とを結ぶ簡易桟橋は、歩くと上下左右に揺れる。日が暮れて暗くなっての帰還だったのでゆっくり渡る。 ルクソール神殿から約6.5km上流に位置するルクソール大橋。長さ460mのPC橋が架けられたのは1997年だという。橋脚にはエジプトらしいパピルスなどの絵画が描かれている。 早朝、空路でカイロに戻る。古代エジプトの遺跡巡りを堪能してルクソールに別れを告げた・・。写真-1 停泊中のクルーズ船よりルクソール大橋を望む。写真-2 ルクソール大橋より連泊したか河畔を望む。写真-3 ルクソール大橋を渡る。写真-4 停泊中の船とデッキの様子。写真-5 ジャズ・ジュビリー号のネグラへ戻る。
2019年04月15日
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ナイルの西岸に夕日が沈むと、東岸の古代神殿に明りが灯る。3500年前の巨大建物が発掘され、そして甦ったルクソール神殿。ライトアップされると徐々に黄金色を帯びる。古代エジプトの王たちの「夢の跡」を歩いた。光を得て、ラムセス2世像が動きだしそうだ。 スフィンクス参道は工事中のため、灯りの参道を見ることができなかった。参道の両脇に松明を灯すと、荘厳な夜景になるものと思われる。灯の続く参道を想像すると、映画「1000年女王」のラストシーンを想い出す。新竹取物語「1000年女王」は、西暦1999年を舞台に、宇宙人よる地球支配と戦うスペースバトル。地球を救うが、女王は死す。女王の棺を乗せた船が、緑色の松明に沿って夜空に消えて行く。 1000年女王、ラ・プロメシューム(雪野弥生)の容姿は、エジプト新王国に生きた、ハトシェプスト女王と王妃ネフェルタリに重なる。または後世のクレオパトラ7世を意識したものだろうか。ナイルの夜空を見上げて、悠久の地を離れる。明日は、空路カイロへ向かう・・。写真-1 ナイルの空に輝くルクソール神殿第1塔門。写真-2 光を得たラムセス2世の巨像。写真-3 ラムセス2世の中庭と紫に染まるナイルの空写真-4 荘厳な大列柱廊とラムセス2世座像。写真-5 アメンヘテプ3世の中庭。写真-6 第1塔門とスフィンクス参道。写真-7 映画「1000女王」のラストシーン。
2019年04月11日
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ラムセス2世座像の後ろに、巨大な列柱が立っている。高さ19mの開花式パピルス柱2列14本が並ぶ大列柱廊だ。ラムセス2世の中庭とアメンヘテプ3世の中庭とを結ぶ廊下にあたる。まさにザ・神殿だ。左右の壁には、オペと祭りなどレリーフがある。 大列柱廊を抜けると、アメンヘテプ3世の中庭。合計64本の閉花式パピルス柱が立ち並ぶ。1本の柱は、パピルス8本を束ねデザイン。アメンヘテプ3世は、 第18王朝の第9代ファラオ(在位:前1386年-前1349)。ラムセス2世より約60年前の王のようだ。 列柱広間を通って奥へ進むと、ローマによって皇帝崇拝所に改築されたホールがある。ローマ風の円形ドームとコリント式柱が異色。更に奥にはアレキサンダー大王の間がある。ローマ軍やマケドニア軍などは、地中海からナイル川を上り、古代都市テーベで宿営したのだろう。写真-1 ルクソール神殿大列柱廊のレリーフを観て進む。写真-2 大列柱廊の帰り道。写真-3 アメンヘテプ3世の中庭。写真-4 アメンヘテプ3世列柱から大列柱廊を望む。写真-5 神に捧げ物をするレリーフ類。写真-6 皇帝崇拝所と発掘前の列柱状況。
2019年04月04日
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ルクソール神殿は、ローマ帝国支配後中世までイスラム教徒の人々が暮らしていた。塔門のラムセス2世像は肩まで埋まり、列柱は半分以上が地面の中にあったという。1884年から発掘が始まり、1960年まで断続的に調査が行われた。今は観光客が訪れるナイル川の河畔だ。 第1塔門を抜けると数多くの列柱が並ぶ。ラムセス2世の中庭は、閉花式パピルス柱に囲まれた広場。柱の間にラムセス2世立像など立っている。この広場の上方にモスク(アブ・ハッジャージ)が建っているのが印象的だ。中庭から見上げる珍しいモスクだ。 中庭にはトトメス3世の小神殿がある。アモン・ムート・コンスの3神に捧げられた礼拝殿でもあった。第2塔門の近くにツタンカーメン王の像がポツンとある。アンケセナーメン王妃が寄り添った座像だ。後ろを見ると腰に手を回す姿が仲睦まじい・・。 砂と瓦礫に埋まった、この中庭を掘りだして整備するために、多大な労力を要した。発掘から95年後、1979年に世界遺産「古代都市テーベとそのネクロポリス」に登録される。多くの人々を惹き付ける遺跡に、足を踏み入れることができた。写真-1 ラムセス2世の中庭と大列柱廊。写真-2 ラムセス2世の座像。写真-3 列柱の間にもラムセス像がいた。写真-4 中庭の様子とツタンカーメン夫妻像。写真-5 埋もれていた遺跡の上に建てたモスク。写真-6 ルクソール神殿平面図。
2019年03月31日
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ルクソール神殿は、カルナック神殿のアメン大神殿の付属神殿として造られた。両神殿は、かつてスフィンクス参道で繋がっていた。現在、この参道を復原中で、完成すれば約2km以上の参道になる。近い将来、両神殿を徒歩で行き来する日が来そうだ。 第1塔門はラムセス2世門とも呼ばれる。高さ24m×幅65mの壁面には、不鮮明ながら浅浮彫りが施されている。ヒッタイト軍と交戦するラムセス2世の姿。王の武勇を刻んでいる。そして入口に花崗岩のラムセス座像(高さ16m)が見張っている。 荘厳なラムセス門には、かつて4体の巨像があった。向かって右側に女王と娘の立像が残っているが、破損している。徐々に修復・復原作業を進めているようだ。夕方に訪れたので夕陽が眩しかった。朝日に染まり赤くなる東面の壁である。 塔門の前に、かつてラムセス2世のオベリスク(高25m)が2本あった。現在無、無[左側の方だけが残っている。片方は、1833年出国し、その3年後にパリ・コンコルド広場に立つ。数年前にパリのコンコルド広場で見かけた。オベリスクは、立て込むもの大事業だが、倒して海洋を運搬するのも大事業だ・・。写真-1 ラムセス2世の門と呼ばれるルクソール神殿第1塔門。写真-2 ルクソール神殿門から延びるスフィンクス参道。修復作業中。写真-3 夕日のルクソール第1門と入場チケット。写真-4 ラムセス2世門の巨像たち。写真-5 高さ25mのラムセス2世のオベリスク。写真-6 パリ・コンコルド広場に立つルクソールのオベリスク。
2019年03月28日
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カルナック大列柱室を抜けて崩れた第4塔門付近。2本の古代オベリスクが立っている。父と娘の親子のオベリスクだという。通路右側(南)に立つのは、トトメス1世の高さ22mオベリスク。第5塔門の前に立つのが、エジプト内では最大級のハトシェプスト女王のオベリスク(高さ約30m)。 古代エジプト時代、アメン神殿には20本ものオベリスクがあったという。持ち出されたり、壊われたりして現在2本が立っている。ハトシェプストのオベリスクは、2本対で造られたが、そのうちの1本は折れて、聖なる池の傍に横たわっている。先端を近くで観ることができた。 列柱とは異なり、オベリスクは一本もの。30m級ともなれば重量は300トンを超える。この細くて重い石の「串」をどのようにして建て込んだのだろうか。解明されておらず諸説あるようだ。そのなかのひとつに、盛土した土を下から除いて、自重で自立させたとある。写真-6を参照。 世界各地に散った古代オベリスクで最大のものは、ローマ・サンジョンンニ広場にあるトトメス3世の高さ32.2m。カルナックのトトメス3世の片方のオベリスクは、現在トルコ・イスタンブールのヒッポドロームに立っている・・。写真-1 大列柱室を抜け、2本の親子オベリスクを望む。左側がトトメス1世のオベリス。写真-2 第5塔門から中央通路とオベリスクを見る。右側がハトシェプストのオベリスク。写真-3 トトメスのオベリスクのアップと台座。写真-4 折れたハトシェプストのオベリスクとスカラベの彫刻。写真-5 第7塔門・8塔門の西側にある「聖なる池」。写真-6 古代オベリスク立て込み方法の一例。 写真-7 イスタンブール・ヒッポドロームのオベリスク。
2019年03月18日
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カルナック神殿のハイライトは、巨大パピルスが生い茂る大列柱室だろうか。重量感ある巨大な円柱が空間を狭くしている。完成させたのは、やはりラムセス2世だ。この場所で「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」をすると楽しいと思う。映画のシーンにも使われている。 大列柱室の規模は、幅102m×奥行43mで、134本の太い柱が無ければ、大ホールである。これらの円柱のうち122本は高さ15mの未開花パピルス柱。中央通路の12本が開花パピルス柱で、高さ21m×直径3.0mもある。巨大パピルス柱の群生地だ。 輪切りの円柱を積み重ねて、21mの柱が出来ている。そして、柱ピースには、レリーフやヒエログリフ(絵文字)が刻まれている。一部、淡く彩色が残っている所もあるが遠くて良くわからない。柱と梁そして天井の絵が色鮮やかに復原されると美術館になるだろう。 直径3m×高さ2mの円柱を10段積み上げると柱高さが20mになる。クレーンの無い3600年前、どのようにして列柱を建造したか、興味深い。砂の斜路を造り、30トン近くの円柱ピースを運搬・設置したのであろうか・・。写真-1 中央通路に建つ開花式パピルス柱。高さ20m×直径3mの巨大パピルス。写真-2 高さ15m×122本が「群生」する未開花式パピルス柱。写真-3 大列柱のリレーフと彩色があった頃の絵画。写真-4 柱に刻まれたレリーフやヒエログリフ。写真-5 建築王・ラムセス2世像。写真-6 中庭ラムセス神殿側に並ぶスフィンクス。
2019年03月15日
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ルクソール東岸は、古代エジプトの首都として栄えたテーベ。紀元前1150から前1069年頃まで。西岸を死者の街とすれば、東岸は聖者の都とされた。カルナック神殿は、アムン大神殿を中心に、複数の神殿が複合したもの。歴代の王が増改築を行い、エジプトの最大規模の神殿施設となった。 かつての船着き付近から第1塔門へ向かう。門まで道の両側に雄羊の頭を持つスフィンクスが並ぶ。雄羊は最高神アムンの聖獣。スフィンクス参道を進み、エジプトで最大級の第1塔門へ。その高さ43m×幅113m×厚15m。塔門の内側には、積み重ねられたレンガがある。 第1塔門を抜けると中庭が広がる。南の壁際にもスフィンクスが並ぶ。第2塔門の前に、オシリス神ポーズをとるピネジェムの巨像が立っている。この巨像は、元はラムセス2世像だという。その足もとにラムセス2世の王女ベントアンタの像が置かれている。 昔の映画場面にあったように、プトレマイオス朝時代クレオパトラとシーザが訪れたというカルナック神殿。二人揃って、スフィンクスの花道を歩いたかも・・。地中海に面する首都アレクサンドリアから1000km近くの船旅だ。人力と帆船で、長くもあり楽しい旅だったことだろう・・。写真-1 エジプト最大の塔門、カルナック神殿第1塔門。高さ43m。写真-2 カルナックのスフィンクスが並ぶ花道。写真-3 参道の雄羊スフィンクス列とポーズとるワンちゃん。写真-4 第1塔門と第2塔門の間の中庭。写真-5 ピネジェムの巨像と王女ベントアンタ像。写真-6 カルナック神殿の見取り図と模型。
2019年03月11日
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メムノン巨像から北へ2km進むと、王妃の谷と呼ばれる岩窟墓群がある。この谷には、色鮮やかで壮麗なネフェルタリの墓(VQ66)があることで有名だ。その内部は、色豊かな壁画で彩られていた。 1904年に発見されたネフェルタリの墓。その際、すべての宝物はすでに持ち去られていた。ラムセス2世の寵愛を受けた正妃の墓なので、その財宝は如何ばかりであろうか。1992年に墓の修復が終わったが、断続的に閉館となっていた。 2016年の秋から特別鑑賞館として再オープンした。但し、厳しく入場制限を設けて、文化財を守っている。一日150人程度、一人当たり約15分間の見学時間しか与えられていない。ガイドは中に入ることはできない。見学料は、王妃の谷100ポンド+ネフェルタリ墓1,200ポンド。 墓内の壁画の意味は次のようなこと。死者の魂が玄室、つまりオリシス国という地下世界へ降りてゆく、儀礼的な旅を表しているとされる。最後、「死者の書」に従って、太陽・ラーと同一視され。「夜明けに出現(復活)」するとの概念なのだ。写真-1 王妃の谷とネフェルタリ墓。写真-2 案内説明板とネフェルタリ墓の入口。写真-3 ネフェルタリ墓内の玄室見取り図。写真-4 現地調達したガイドブック。写真-5 墓内控え室などの色彩鮮やかの壁画。写真-6 玄室などの彩色壁画。写真-7 入場チケット合計1,300ポンド(約8,000円)。
2019年03月08日
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かつて舟でルクソール東岸からナイル川を渡ると、西岸で最初に目にするのがメムノンの巨像。この対の座像は、新王国時代絶頂期のアメンホテプ3世(前1388年-前1351年)が建立した。もともと座像の後ろに彼の葬祭殿があったが、後の王たちが石材として使用したため破壊された。 メムノンの巨像は、カイロ近くの石切り場の石灰岩を運んだという。その石灰岩を刻み、高さ16m超える巨像を作った。現在のナイル川から約3kmに建つ。氾濫した際には冠水したという。ここから北側800mには、ラメセウスの遺跡がある。 メムノンとはトロイア戦争に登場するエチオピア王に由来する。紀元前27年の地震により。北の刻像に亀裂が入る。それが寒暖差等より奇妙な音を発する。その音がアキレウスに殺されたメムノンの嘆きの声に似ていたそうだ・・。 近くのラメセウスは、紀元前1270年頃に建てられたラムセス2世の葬祭殿。彼は「世界一自己顕示欲の強い男」とされる。第2塔門にオシリス神の角柱がたっているが、頭部は見事に切断されていた。写真-1 ナイル川から3km奥まった平地に座るメムノンの巨像。写真-2 南の座像の傍に、王妃キィイ像が建って居る。写真-3 亀裂が大きい北の像は、ハトの棲みかに・・。写真-4 2体の像の奥にも、お仲間の刻像が見える。写真-5 ラムセス2世葬祭殿だった「ラメセウス」。写真-6 メムノンの巨像付近の上空写真[ガイドブック]。
2019年03月07日
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ハトシェプスト女王神殿の三階テラスに並ぶオリシス神は、女王の顔をしているという。付け髭をして、自らを偉大に見せている。アブ・シンベル大神殿と同じ志向だ。岩窟至聖所は、神殿の一番奥。また、第二テラスの左右には拝礼所(ハトホル女神とアヌビス神)がある。 この谷にはもともとハトホル女神の神殿があった所。ハトシェプスト女王が父親・トトメス1世と自分用に改築するように命じたとされる。南テラスの礼拝所は、牛の耳をしたハトホル柱が立っている。列柱室には、雌牛の乳を飲む女王の姿もある。またプント国交易(現在のソモリア)に遠征して、乳香や薬などを求めて、交易を行った様子も描かれている。 1997年11月に痛ましいテロ事件(ルクソール事件)がこの葬祭殿前で起きた。武装集団の襲撃で、観光客62人が亡くなっている。そのなかに日本10名も含まれていた。当時、繰り返し報道され、一時エジプト観光旅行が中止された。あれから20年、平静が戻っていた。写真-1 神殿背景の岩肌も神々の像に見える。写真-2 ハトシェプスト女王の顔したオシリス像と考古学博物館の頭部像。写真-3 ハトホル女神柱と雌牛の姿をしたハトホル女神。写真-4 岩窟聖至所の入口とアヌビス神礼拝所入口。写真-5 供物卓の前に、アヌビス神とアモン神。写真-6 プント国交易の壁画。写真-7 葬祭殿の見取り図
2019年03月06日
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ルクソール西岸に現存する最大の古代建物は、ハトシェプスト女王葬祭殿である。葬祭殿は、王の再生復活を願う神事を執り行う施設だが、次第に権力を誇示し、功績を讃える神殿へと変化する。3階建て、大きなテラスを持つ女王の神殿だ。 ハトシェプスト女王は、古代エジプト第18王朝5代ファラオ(前1479年-前1458年)。夫のトトメス2世の死後、跡継ぎが幼少のため摂政をとる。そのまま国を統治し50歳で亡くなる。その22年間、戦争を好まず、平和外交を貫く。交易に力を注ぎ、国を反映させたファラオだという。 ナイル川を挟んで、カルナック神殿から見て西に位置するハトシェプスト女王葬祭殿。そしてこの神殿の裏山(テーベ山)の尾根を越すと王家の谷になる。女王の墓とされるKV60墓と神殿の距離は直線で300m余り。トンネルで繋がっているのかも知れない。神殿の背後に屏風岩とその山尾根が広がる。テーベ山は軟質な石灰岩からなる。地下トンネルを人力で掘るのに適している。 上方2段に造られたテラスからは朝日が良く見える。夕刻には背後の岩山に太陽が消えて行く。ハトシェプスト女王葬祭殿は、壮大な建物に見せる絶妙の位置に建っていた・・。写真-1 屏風岩をバックにハトシェプスト女王葬祭殿が建つ。ウル・クルン山も見える。写真-2 女王葬祭殿とテーベ山尾根、そして王家の谷の位置関係。写真-3 壮大な神殿をオリシス神像が守護。写真-4 広いテラスと参道が特徴的。写真-5 葬祭殿からルクソール東岸を望む。写真-6 ビジターセンターに展示している模型と入場チケット。
2019年03月04日
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王家の谷で、まだ世に知られていないファラオの手つかずの墓が発見されたのは1922年11月。18歳で亡くなったツタンカーメンの王墓(KV62)である。豪華な副葬品に反して、墓そのものは質素であった。当時から王の不慮の死で埋葬したものと考えられていた。 3,000品を越える埋葬品のなかでも、ひと際美しいのが王の棺。三重の棺だ。金箔の木製棺で二重に覆われ、最後に純金の棺が収まっていた。見事な金細工が施された一級工芸品。そしてその金の重量は0.11トンの人身棺。更に、ミイラは黄金のマスクを着けていた。 発見者は、豪華絢爛な副葬品の中で目に止めたものがある。少年王の妃が添えたものと思われる干からびた花束があった。ドライフラワーとなっていた。棺の蓋が開かれると、「王の呪い」が解き放されたと噂となった。発掘に携わった人達が急死したため・・。 ほとんどの埋葬品は、エジプト考古学博物に収められている。小生らは、先立って博物館を見学した。王の臓器が入っていた四つのカノプス壺や玄室入口を守衛した像などが展示してある、3,500年前の工芸職人の匠の技がスゴイというしかない・・。写真-1 KV62ツタンカーメン墓付近の背景。写真-2 墓内にガイドは入坑できない。入口で説明を聞く。写真-3 玄室の石棺と彩色壁画。写真-4 三重人形棺の解説と発見当時の玄室控室・守衛像。写真-5 カノプス壺と金箔の木箱[エジプト考古学博物館2階]。写真-6 エジプト考古学博物館の展示品。写真-7 美しい飾り物の副葬品[ガイドブックより]。
2019年03月03日
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古代エジプト第20王朝の第8代ファラオは、ラムセス9世(前1126年-1108年)。統治期間は18年間と長い。ラムセス3世の王子のひとり。彼が眠っていたお墓はKV6。約100mのトンネル通路の壁には、古代文字(ヒエログラフ)がびっしりと書き込まれている。 ラムセス9世の時代、王家の谷では盗掘が行われていたことが発覚している。「墓泥棒のパピルス」にそのことが記載されているという。埋葬されてから20年余りしか経っていないラムセス6世の墓もその標的になっていた。 通路壁に書かれている書は、「ラーの連祷(れんとう)」とされる。冥界で太陽神ラーが、色々な姿に変わり、最後に死せる王と一体化する。そして再び、天に上る内容。太陽神を讃えることで、ファラオに対して畏敬の念を持たせようとする意図を感じる。 古代エジプト人が描いた図案と絵が、時代を追って増えている。王墓はデザインと絵の宝庫である。デザインやアニメを手掛ける人にとって、玄室などを飾る彩色壁画は勉強になるものと思う。写真-1 ラムセス9世の墓に入る。写真-2 通廊の壁に「ラーの連祷」が書かれている。写真-3 ラムセス9世の玄室。写真-4 玄室天井画、ヌト女神がラーを飲み込む。写真-5 船に乗る神々の彩色画。写真-6 王墓入口の案内板
2019年03月01日
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番号KV-9は、ラムセス5世、6世の岩窟墓。王家の谷で9番目に発見された墓。ラムセス5世は、金融スキャンダル、リビア人集団の暴動など政情不安定な時代に生きたファラオ。当時流行した天然痘で落命する。僅か4年間の統治だった。 ラムセス5世の後を継いだラムセス6世(前1141年-前1133年)は、ナイルデルタ以東の領土を喪失し、王国が衰退して行く。またラムセス6世は、5世の墓を拡張して自分の墓を造った。通路から広間にかけて、神々と王の姿などが「洞窟の書」などとして描かれている。 ラムセス6世の墓は、暗青色で表わされた夜空と黄色い神々の天井画が有名。天空の女神ヌトが毎日西方に沈む太陽・ラーを飲み込み、そして翌朝再びラーを生み出す様を描いている。古代エジプト人たちの神への想いと宇宙感が映し出されている。写真-1 ラムセス5世、6世の墓に入る。写真-2 通廊の壁は、「洞窟の書」が記述されているという。写真-3 ラムセス6世の玄室と石棺。写真-4 玄室の天井画の一部。写真-5 玄室の精巧な壁画。写真-6 玄室奥の「地の書(アケルの書)」。 写真-7 王墓入口の案内板。
2019年02月28日
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ラムセス3世の岩窟墓(がんくつぼ)番号は、KV11。王家の谷で11番目に発見され、1905年に発掘調査される。盗掘された墓だ。休憩所の南西100mにその入口がある。ラムセス3世は、第20王朝の2代目ファラオ。統治時期は前1187年から前1157年の31年間。偉大なラムセス2世から百年余り、経ている。 長期政権で、エジプト王国最後の繁栄を築いた王。西方のリビアの侵略を退け、北方の異民族集団(海の民)をも退けている。カルナックに大きな娯楽施設を作っている。 ミイラのCTスキャンにより、ラムセス3世の暗殺説が裏付けられた。昔から「宮廷陰謀パピルス」が存在し、王妃が家臣を抱き込んで、後継争いの結果だというよくある話。暗殺後、4世、5世、6世らの治世は短期間で混迷することになる・・。写真-1 地下室に続く回廊。写真-2 岩窟墓見取り図とラー神と対面する図。写真-3 通廊の壁画。三つ頭と足のある蛇。写真-4 副室の壁画。大勢の人が蛇を持ち上げている・・。写真-5 古代の神々。ホルス神、オリシス神、アヌビス神など。
2019年02月27日
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ルクソールのナイル川西岸にある岩山の谷を「王家の谷」と呼ぶ。古代エジプトの新王国時代(紀元前1570から前1070年)に岩を掘った造った墓が集中している。24の王墓を含む64箇所の墓が発見されている。ほとんどが横坑か斜坑のトンネルだ。そのうち十数箇所が公開されている。 ビジターセンターから牽引式の簡易トレインで、谷の入口まで運ばれる。チケット売り場を抜けると、複数の谷とその上に君臨するピラミッドのような山が目に入る。標高420mの「エル・クルン(AL Qurm)山」、西岸のシンボリック的な山だ。 各墓には、KV10など記号と番号が付けられている。KVはKings Valleyの頭文字。数字は発見した順番を表すという。ちなみに、KV1はラムセス7世の王墓、KV62がツタンカーメン墓。小生らは、KV6、KV9、KV11とKV62の4カ所を見学する。 入場チケットは、共通券(3カ所)200ポンドとツタンカーメン墓250ポンド。更に、例によってカメラチケット300ポンドを購入する。但し、ツタンカーメン墓は撮影不可。写真-1 谷入口から王家の谷を望む。写真-2 王家の谷を見下ろす「エル・クルン山」。写真-3 各王墓の入口と岩壁。地下トンネルが張り巡らされている。写真-4 ビジターセンターからアクセス。舗装道路と運搬車両。写真-5 地下トンネルと部屋の位置を示す模型。写真-6 王家の谷-案内図と見学地点。写真-7 入場チケット(共通3カ所+ツタンカーメン墓)
2019年02月25日
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古代の都、ルクソールに夕刻着く。ナイル川が大きく右に蛇行を終えて接岸する。この時期、夕日がナイル川上流に沈む。美しい夕照のナイルに、魚採りボートが浮かんでいた。 クルーズ船は、ルクソール大橋とアーマント島の中間地点の東岸で停泊する。船着場での停泊方法は、日本では考えられない、「二重駐車、三重停車」である。つまり、一番川側に停船した船の乗客は、隣の船中を通り抜けて、下船することなる。船が多いため「工夫」であろうか・・。 ナイル川には大小さまざまな400隻を超えるクルーズ船が航行しているという。ナイル川に架かる橋や閘門規模、水深に制約されて、大型クルーズはいない。その分、船やサービスの質は、ピンキリだという。小生らは、良いクルーズ船に出会ったと思う。写真-1 ナイル川のサンセット。写真-2 ナイル川に浮かぶアーマント島に沈む夕陽。写真-3 ルクソール河畔から見る夕日。写真-4 船着場の様子とルクソール大橋。写真-5 夕闇迫るナイル川。
2019年02月24日
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エスナ閘門から古代の都・ルクソールまで、約3時間の船旅。ランチを終えて、昼下がりのクルーズだ。船はそう広くないナイル川を蛇行しながら進む。両岸の移り変わる景色を楽しみながら、時を過ごす。 ナイル川の右岸(東側)には、エスナからの運河が平行して流れているはずだが見えず。しかし、畑や酪農地を見かける。川の中央に浅瀬があるのだろうか、船は水深を求めて岸に寄ることがある。途中、浚渫作業を見かけた。浚渫土は、農地開墾に活用しているようだ。砂漠の砂より肥えた土砂だ。 ナイル川の流況は、10月から2月の期間が減水期。この時期、水位は下がるという。更に、ナイル上流で完成したばかりの巨大ダムの影響も大きいらしい。4、5年年前、エジプトとエチオピアとは、ナイルの水をめぐって、険悪に状態になったというが・・。 エチオピアは、国家再生事業としてスーダンとの国境近くに、青ナイルを堰き止めるダムを建設したばかり。堤高170m×堤頂長1800m、総貯水量740億m3(琵琶湖28杯分)の発電用ダム、グランド・ルネッサンスダムだ。イタリアの企業が建設。発電所機械等の調達資金は中国から借款だという。ここにも中国は進出している。写真-1 ナイル川下り、ルクソールに近づく。写真-2 ナイル川右岸を眺めて時を過ごす。写真-3 砂丘と緑地のコントラス。写真-4 航路の確保と土砂採取を兼ねた浚渫作業。写真-5 ナイル川を遡上するクルーズ船群。写真-6 エチオピアのグランド・ルネッサンスダム。
2019年02月22日
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旧エスナ堰(橋)の下流1kmにエスナダム(新エスナ堰とも呼ぶ)がある。イタリアの企業体が1994年に完成させたダムである。多機能を有するダムだ。観光客としては、ダム左岸側に設備されている閘門を通過することがイベントになっている。 エスナ閘門の規模は、長さ160m×幅17m×2室で、水位差6mから8m。小生らが乗ったジャズ・ジュビリー号の幅は14.9mなので、両サイドそれぞれ1mの余裕。上流から入室したので、後方のゲート(観音開き式)が閉じる。すると前方のゲートから水を放出して水位を下げる。約20分間の出来事。 エスナダムは、日本で言う多目的ダム。ダムの目的としては、発電、灌漑、連絡道路、異常水位低下に備える。ダムの型式は複合ダム。左岸側は、発電所とラジアルゲート11門を備えたコンクリートダム(29万m3)。右岸側は、堤体積91万m3のロックフィルダム。閘門を見上げると車両が通過して行く。 2条の閘門の直ぐ脇は水力発電所。出力は。6基×15MW=90MW。低落差に適したカプラン水車を採用している。日本では高落差用の発電機が多いが、エジプトでは、低落用のプロペラ型が多いという。写真-1 エスナダムを上流から下流へ通過する。写真-2 エスナ閘門内に入室。上流側の水位。写真-3 前方のゲートから放水して水位を低下させる。写真-4 閘門室内の水位低下を待って、船が動き出す。写真-5 下流からみたエスナダム。フィル部とコンクリート部。写真-6 エスナダムの平面関係。
2019年02月21日
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古代の首都ルクソールから約50km上流に位置するエスナの町。ナイル川の氾濫原で発展したような平野が広がる。砂漠が後退しているエリアだ。この町を貫流するナイル川を横断する橋、いや堰・ダムが2箇所架かっている。 川幅約1kmに渡る旧エスナ堰は、1906年にイギリスが建設したもの。アスワン・ロウダム(1902年、英国)に似たような雰囲気のダムだ。この旧エスナ堰の上流両岸に水路の取水口がある。特に、右岸側の水路は、幅が50m以上もある運河だ。下流のルクソールへ伸びている。 旧堰本体の左岸端に船を通す水路がある。1kmに下流に新たに造られた新エスナダム(エスナ閘門)で水位差を解消しているので、旧堰は単なる水路である。昔は閘門の役割もあったものと思われる。クルーズ船は、この狭い水路を徐行して通過しなければならない。 エスナ堰は、鉄道の高架橋のようにも見える。水門列と砂丘とのコントラストが珍しい・・。堰柱がこれほど並ぶ姿は、古代エジプトの列柱に通じるものがある。写真-1 エスナを流れるナイル川に架かる美しい橋、いや堰か・・。写真-2 旧エスナ堰左岸端の水路をクルーズ船が通過する。写真-3 旧エスナ堰の天端道路と堰の下流側。写真-4 狭い水路を通過。水路頭上に歩道橋がある。写真-5 エスナの2つの堰と運河の位置。
2019年02月19日
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朝8時過ぎエドフを出航して、水門と神殿遺跡のあるエスナに向かう。古代都市の面影あるエスナ。かつて上エジプト第3州の州都で、「ラトポリス」と呼ばれていた。エドフの下流約50km、ナイル川西岸の町。エドフとルクソールのほぼ中間点に位置する。 ナイル川クルーズにおける景色の特徴のひとつは、やはり迫る砂丘。 川の両岸を潤す緑地帯とその背面に広がる砂漠のコントラが続く。人々は取水堰や水路を造りって、ナイル川の沿岸に農業を発展させて来た。 この町には、第18王朝ブトレマイオス王の時代に建立したクヌム神殿が残っている。高さ13mほどの柱が24本ある列柱室(長さ33m×幅18m)である。柱頭に彫られた装飾は、いろいろな花をモチーフにしている。地表より低い敷地であるが、保存状態は良好。写真-1 古都エドフを出港して、50km先のエスナ町をめざす。写真-2 ナイル川から緑地帯と砂丘を望む。写真-3 ナイル川を下る。写真-4 商魂逞しい水上・ボート販売。商品を船上へ投げ込む。写真-5 水門の町・エスナに接岸。閘門の時間調整。写真-6 クヌム神殿の列柱室。
2019年02月18日
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アスワンとルクソールとのほぼ中間に位置する古都エドフ。大きい町ではないが、中心街の道路は自動車が溢れている。しかし、車と馬そして人とが共存している町だった。おしゃれな飾りを付けた2人乗りの馬車が出迎えてくれる。 クルーズ船が岸に着くと、観光馬車がずらりと並ぶ。船着場から北西1.5kmほどにエドフ神殿がある。この町を訪れる観光客にとって、この馬車が唯一の移動手段だ。歩いて行くには勇気と運が必要だ。 馬車を曳くのはアラブ馬。車主と客の3名を載せて走るのが標準運行のようだ。馬によるが、街中心地をはずれると結構早く走る。アラブ馬は、サラブレッド比較すると小柄で走力が劣る。しかし対候性と耐久力で優れている。馬の品種として最も古く、古代エジプトの壁画にも登場する。 船着場と神殿とのアクセスは、連絡バスの方が安全で速いと思うが、ここでは馬車なのだ。馬車組合のようなものがあり、観光バスの市内乗り入れに抵抗するらしい。既得権か・・。入場料の一部と考えて、馬車を楽しもう。写真-1 広場からホルス神殿の塔門を望む。写真-2 ホルス神殿からエドフの町を眺める。写真-3 停馬車所の朝風景。写真-4 アラブ馬が曳く馬車。写真-5 船着場とエドフの町並み。
2019年02月17日
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クルーズ船・ジャズジュビリー号は、夜中にエドフの岸に着く。朝食前にホルス神殿(エドフ神殿とも呼ぶ)へ出かける。小さな町エドフに、広い神殿遺跡があるとは想像していなかった。 この古代の町は、上エジプト第2州の州都だったという。ホルス神を祀った神殿は、古い神殿をプトレマイオス朝時代に建造したもの。カルナック神殿に次ぐ規模で、正面幅80m×奥行約140m。塔門の高さは36mもある。 回廊の壁や柱には、古代エジプトのローマ時代における言語・神話・宗教等の情報が詰まっている。またホルス神とセト神との長く対立する物語が綴られていると、ガイド・アクナム氏が語る。中庭に立つホルス神(ハヤブサ)は、高さ2mを越える黒花崗岩の彫刻品。記念写真スポットとなっている。 エジプトの遺跡のなかでは保存状態が非常に良い。至聖所の手前にある前室の天井は残っている。黒くすすけているは、後にキリスト教徒が台所として使ったためだという。至聖所にはレバノン杉の聖船が安置している。妻のハトフル女神が船に乗り、エドフのホルス神に年に一度逢いに来たそうだ・・。写真-1 堂々たるホルス神殿の塔門。入口の左右にイシス女神とホルス神が描かれている。写真-2 中庭から高さ36mの塔門を見上げる。写真-3 中庭から第1列柱室入口見る。両側にホルス神が立つ。写真-4 前室の煤けた天井と塔門入口の天井画。写真-5 回廊壁画を説明するアクナムさん。ホルス神とセト神の物語がある。写真-6 至聖所の聖船と入場チケット。
2019年02月15日
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クルーズ船は、コム・オンボに夕刻接岸する。定例16時のテイータイムを過ごした後、遺跡へ向かう。見学途中で、コム・オンボ神殿がライトアップされる。内部の柱や壁に描かれているレリーフにも灯りが向けられている。夜に神殿を歩くのも悪くない。 コム・オンボは、アスワンから約46kmナイル川を下った東岸に位置する。地名はアラビア語で、オリンポスの丘という意味。船着場から団体で歩いて、その丘に登る。敷地内に「ワニの博物館」もある。ワニのミイラを展示していた。 プトレマイオス王朝時代(紀元前305年から前30年まで)から建設され、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に完成した神殿だという。神殿内に2本の通路があり、至聖所が南北に2ケ所ある。神殿全体が二重構造と、一風変わった神殿だ。 東寄りの至聖所にワニの神である「ソベク神」を、西寄りの至聖所に太陽の神である「ホルス神」を祀っている。上記の二神以外の神々も、レリーフとして描かれている。ガイドさんの説明があっても、よく理解できない。エジプト神話の勉強不足が悔やまれる。写真-1 コム・オンボの丘の灯り。写真-2 ライトアップされたコム・オンボ神殿。写真-3 夜の神殿内のレリーフを観ながらそぞろ歩き。写真-4 レリーフの一例。写真-5 大きな壁画と入場チケット。
2019年02月14日
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アブ・シンベルを9時に発ち、再びアスワンに戻る。いよいよナイル川クルーズだ。アスワンから下流のルクソールまでの約200kmをゆったりと移動する。この辺りは、船中泊がより安全だという。 ナイル川には、乗客200名程度のクルーズ船が数多く行き交う。途中に閘門があるため、船舶の大きさが制限される。小生らは、アスワン駅近くのナイル右岸から乗船する。近くにマクドナルド店があった。 3日間お世話になる船は、CROWN ジャズ・ジュビリー号。全長72.2m×幅14.9m。客室80室、乗客定員160名の5階建の船だ。抽選により、3階・右舷前方の部屋となる。大きな窓があり、景色は良い。また持参した電気ポットは、大変役立った。 心配されたシャワー・トラブルもなかった。朝食に和食(味噌汁+お粥+佃煮)が用意されたこともあり、不自由ないクルーズをすることができた。日本を発つ際、掛かり付けの医師からは、下痢ならないためのアドバイスを頂いていたが、問題なく過ごしている。写真-1 クルーズに出発するアスワン船着場。マクドナルド店の近く。写真-2 ナイル・アスワンでの出航風景。写真-3 エレファンティネ島とモーベンピックホテル。写真-4 夕照のなかナイル・アスワンが遠ざかる。写真-5 サンデッキで夕日とお茶を楽しむ。
2019年02月11日
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王妃ネフェルタリとハトホル女神に捧げられたアブ・シンベル小神殿。ハトホルは、音楽・愛・ダンスの女神とされていた。列柱室は、幅11m×奥行10.8m、その天井を6本の柱が支えている。至聖所には、ハトホル女神が祀られているが、その状態は良くない。 柱面は、ハトホル女神や王妃ネフェルタリを優雅に描いている。6本×4面=24面があるので、その他の神々も彩りを添えている。シストルムを振る王妃ネフェルタリが多く描かれているようだ。 シストルムとは、ハトホル女神の崇拝の祭儀などで用いられた楽器とされる。女王または女官が持つ神器。馬蹄形の枠とその柄からなるシンプルなものに、金属片がついた細い棒にソロバンの珠が動くようになっている。ハトホルの顔をしたシストルムもあるという。 写真-5のレリーフは、ラムセス2世がパピルスとハスの花の花束を安産の神に捧げている様子。その後ろでが、パピルスを片手に持ち、一方の手でシストルムを振っている。夫婦で子宝を授かるように祈願しているのか、それとも大勢の子どもに恵まれたので感謝しているのだろうか・・。写真-1 南側の列柱室をみる。通路面にハトホル女神が並ぶ。写真-2 南側の列柱にも、やはりハトホル女神が並ぶ。写真-3 前室に通じる入口とその壁のレリーフ。写真-4 前室内の壁画。雌牛のハトホル女神が小船に乗っている。写真-5 ラムセス2世が花束、ネフェルタリがシストルムを振る。写真-6 柱と壁に描かれたネフェルタリの姿。
2019年02月10日
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アブ・シンベル大神殿内は、古代画廊ギャラリーの感がある。入口をくぐると先ず、冥界の支配者オシリス神の姿をしたラムセス2世像が見下ろす。大柱列室は、幅17m×奥行18m、8本のラムセス像柱が支えている。天井には、ハゲワシの姿のネクベネ女神が描かれている。 大柱列室とそれと続く第2柱列室には、びっしりと壁画が彫られている。南壁のレリーフは、有名な「戦車のラムセス2世」だ。ヒッタイト軍とのシリア・カデッシュの戦い(紀元前1286年)場面。この戦いではエジプト遠征軍は大損害を受け、講和して退却したという。 大神殿入口から約50m奥に、至聖所がある。安置されている4体の神像は、左側からプハタ神、アメン神、ラムセス2世、ラー・ホルアクティ神。年2回(2月22日と10月22日)に、この部屋に朝日が差し込むという。これらの日にちは、彼の誕生日とファラオ即位日とされている。 神殿内での写真撮影(フラッシュ無し)はOKだ。但し、入場料200ポンド+カメラチケット代300ポンドを支払う(約3500円)が必要。壁画などをゆっくりと観る人が多いので、撮影する時間は少ない・・。写真-1 両手を交差させたオリシス神が向い合う大柱列室。奥に至聖所が見える。写真-2 カデッシュにおける「戦車のラムセス2世」などのレリーフ。写真-3 大柱列室の柱画と壁画。写真-4 前室の壁画と至聖所の4体の神像。写真-5 至聖所の北面と南面の壁画。聖なる船が浮かぶ。写真-6 倉庫に使われた部屋にも数多くの壁画がある。写真-7 神殿の入場券とカメラチケット。
2019年02月08日
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昼・夜・朝と、ほぼ一日アブ・シンベルに滞在する。宿泊ホテルは、神殿と同じ島(岬)にある、セティ・アブシンベル。神殿まで直線で1.2km。歩いて行ける距離ではあるが、警備上のこともありバス移動となる。 当ホテルは、各部屋からナセル湖に面した中庭に出られるコテージタイプの宿。花や木の手入れが行き届いている。赤・白・黄色のブーゲンビリアが、青空に美しく映える。南国の島に来た気分になる・・。 ホテルのあちこちにアーチ形・半円のものを多く見かける。ヌビア人の家をイメージしているのだろうか。丸屋根のレンガ造りの住居が砂漠に適しているとのこと。強烈な太陽光を反射させて、室内の高温化を防ぐのだ。但し、エアコンのない時代。現在、ホテルの各部屋にはエアコンが設置されている。 「セティ」というと、ラムセス2世の父親で、元軍人(宰相)からファラオになった人物。高齢で即位し、亡くなる。そのためラムセス2世は24歳で即位する。彼の最初の妻、ネフェルタリは、少なくとも3人の息子と2人の娘を儲けた。しかし父親が90歳まで長生きしたため、彼女の息子が王を継ぐことはなかった。写真-1 部屋のベランダからナセル湖を望む。写真-2 色とりどりのブーゲンビリアが咲きほこる。写真-3 シーズンオフなのか、静かなプールサイド。写真-4 半円がシンボルのセティ・ホテル。写真-5 ヌビアの子ども達と丸屋根の住居群。
2019年02月07日
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ラムセス2世は、朝日を浴びて赤銅色になっていた。ホテルを5時半に出発して、日の出をみる。昨夕、船上から見た表情から一変して、力強いラムセス2世だ。明灰色の砂岩を掘り込んで創り上げたもの。砂丘も朝日を受けると、驚くほどに赤くなる・・。 高さ32m、幅38mの大神殿の正面には、高さ20mのラムセス2世の巨像が4体配置されている。但し、神殿完成した後、大地震(紀元前1248年頃)で、一体が崩れ落ちたとされる。王権を表すネメス頭巾をかぶり、二重の王冠をつけ王座している。 大神殿から北に100mほど離れた小神殿は、王妃ネフェルタリとハトホル女神に捧げられたもの。小神殿の正面には、高さ10mのラムセス2世立像とネフェルタリ妃立像が、奉納碑文で飾られている。ネフェルタリ像は2体で、カツラをかぶりその上に二枚の羽根と角がついた太陽円盤が置かれていた。 古代エジプトの南辺国境はアスワンであった。その南1000km(スーダン側)の土地は「ヌビア」と呼ばれた。アスワンから約300kmから離れたこの地に神殿を造ったのは、軍事的、商業的に重要な要衝だったことが伺い知れる。金・銀などの鉱物資源が豊なことだった事を示している。写真-1 朝陽に染まるアブ・シンベル大神殿のラムセス2世座像(高さ20m)。写真-2 朝陽を受けるアブ・シンベル小神殿の6体の立像(高さ10m)。写真-3 大神殿から日の出を見る。写真-4 ラムセス2世巨像とその上下に配置されている彫刻類。写真-5 太陽新ラー・ホルアクティ像と神殿奥の至聖所。写真-6 小神殿前のラムセス2世夫妻像。 写真-7 上下エジプト統一の儀式、ハスとパピルスを結び付ける構図。
2019年02月05日
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起源前6世紀頃から、アブ・シンベル神殿は、北から吹く嵐がもたらす砂に埋もれ、人々の記憶から忘れ去られた。それから2400年後の1813年に、スイス人の探検家・ブルクハルトによって発見された。しかし神殿内部へ初めて入ったのはイタリア人・ベルツォーニ。埋葬品の一部を待ちだしている。 1960年代ダムの建設により、アスワン上流のヌビア遺跡群が水没する事態となる。ユネスコは、世界に呼びかけて、救済事業(24遺跡)を開始する。アブ・シンベル神殿の救出は、規模からして別格だった。新奇なアイデアに富む5つの案が比較検討された。そして、スウェーデン案の切断・移転案に決定した。 移設の切断ブロックは、大神殿が807個、小神殿が235個の計1,042個。最も大きいブロックは30トン。ダム建設工事ではないが、大型クレーンが活躍した現場。多くの国から技術者・技能者を集めて、足かけ5年、3,600万ドルをかけて、期間内ギリギリで移転を終えた。 ラムセス2世巨像の後ろには、巨大なコンクリート製ドームがつくられて、柱や壁のレリーフが復元されている。また、移転前と同様に、特別な日(10月22日と2月22日)に神殿最深部の至聖所に朝日が差し込むように設計されている。写真-1 朝日を受けるアブ・シンベル神殿の大神殿。写真-2 アブ・シンベル神殿の移転事業(大神殿のケース)。写真-3 砂に埋もれていた神殿と移転前の神殿。写真-4 1,040個ほどに切断して移転する。写真-5 遺跡の組立作業とコンクリート・ドーム造り。
2019年02月04日
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日が暮れて、湖面が暗色になる頃、アブ・シンベル神殿の広場へ出向く。主に宿泊客を対象に「音と光のショー」が行われる。15名以上の参加人数があれば、毎日でも開催される。当日の宿泊人数の多い国の言葉が採用される。日本語での上映だった。 音と光のショーは、神殿の岩山をスクリーンに見たて、プロジェクターを使用して音と映像を映すもの。約30分間のショーが終わると、ライトアップされた神殿の前で記念写真を撮るのが定番。20時過ぎにホテルに戻り、ディナーと民族ダンスを楽しんだ。 ラムセス2世(紀元前1314年-1224年)は、11人の妃を娶り、100人以上の子どもをもうけたという。24歳で即位し、66年間統治する。90歳で没する。王族の人間関係で、王妃ネフェルタリは特別の存在であることを小神殿が示している。写真-1 夜のアブ・シンベル神殿の明り。チケットを添付。写真-2 ライトアップされたラムセス2世の巨座像。写真-3 大神殿と小神殿。写真-4 約30分間の歴史絵巻「音と光ショー」。写真-5 ナセル湖畔を歩いて会場に入る。
2019年01月31日
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ナセル湖から世界遺産・アブ・シンベル神殿を眺める。夕刻タイムの遊覧だったので、日陰の遺跡を観る。砂岩の岩盤を掘り込んだ巨大なラムセス2世像が灰色になっていた。まるでサンド・アート作品のようだ。眠りにつくような表情・・。 小型の遊覧船は、宿泊ホテル(セティ・リゾート)の岸から発着した。遥かスーダンを望み、夕照の湖上を進む。定員100名ほどのボートを貸し切り、ガイドさんから説明を受けてアブ・シンベル岬を周って戻る。約30分間の遊覧。神殿遺跡は、離れ小島のような場所にあった。 古代のアブ・シンベル神殿は紀元前1274年頃から創られたもの。現在の神殿は、1968年に移転したものだ。アスワン・ハイダム建設で水没する危機にあった「ヌビア遺跡群」の救済事業により、復原された。ユネスコの世界遺産事業が世に知れ渡る契機となった遺跡神殿でもある。 世界遺産第1号は、1978年イエローストーンやガラパゴス諸島などの12件。翌年の1979年にアブ・シンベル神殿など(46件)が登録された。日本における最初の登録は、1993年の法隆寺他。アブ・シンベル神殿やピラミッドの登録から14年遅れ。現在世界遺産は、登録数1,090件にのぼる。写真-1 ナセル湖からアブ・シンベル神殿を望む。写真-2 ラムセス2世の巨座像と大神殿の入口。写真-3 ネフェルタリ王妃に捧げた小神殿の立像と入口。写真-4 ナセル湖遊覧でアブ・シンベル神殿岸畔に近づく。写真-5 夕照のナセル湖と乗船した遊覧船。写真-6 アブ・シンベル神殿付近の地図。
2019年01月29日
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サハラ砂漠をはじめて走る。と言っても自分の足で走った訳ではない。バスに乗って300Kmを往復しただけ。アフリカ大陸の1/3を占めるサハラ砂漠。ごくゴク一部を見たに過ぎない。しかし、映画でよく登場する「砂漠の蜃気楼」を少しだけ、窓越しに見える。 アスワンからアブ・シンベルまで、砂漠の中を一本道が貫いている。スーダンへ通じる道でもある。途中、武装警察の検問で一時停止することがあるが、途中下車は許されない。従って、約3時間半バスの中で、砂漠の景色を見るか、眠るしかない。 アスワン・ハイダム近く、決められたポイントで、砂漠の砂を採取する。粒子は細かくてサラサラしている。砂時計に使用する砂のようだ。汚れた手足を洗浄すると奇麗になるという。昼間、太陽光で消毒される砂なのだ。 アスワン市内にはガラス工芸店が多い。アスワンの砂は、ケイ酸の純度が高く、ガラス材料になるという。ラクダの形をした香水瓶に、この砂を詰めてお土産として、日本に持ち帰る・・。写真-1 砂漠の蜃気楼。湖があるように見える「逃げ水」現象。写真-2 遠くの岩山が浮き上がって見える蜃気楼。写真-3 砂の海に浮かぶ岩礁。写真-4 砂漠の中に新たな水路と居住地を建設中。写真-5 サラサラのアスワン砂をラクダ瓶に詰める。
2019年01月28日
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アスワンにおける旅の宿は、大きなリゾートホテル。ナイル川に顔を出している細長い島が、丸ごとホテル施設だ。「ピラミサ・イシス・アイランド・アスワン・リゾート」と長い名称。大きなプールと庭園を備えている。当日、結婚式が行われたようで、夜遅くまで賑わう・・。 アイランド・ホテルは、切りかけのオベリスクから真西へ1Kmの位置。空港、ヌビア博物館、および市中のスークに近い。但し、島へはボートで渡ることになる。山、入江、林と風光明媚なところ。夕食はバイキング形式。遅くにシャワーすると、湯の出が悪くなると言われ、早めに身体を洗う。体調管理が大切と言い聞かせる日々が続く。 早朝、島一周散歩する。ナイル西岸には、砂丘の山々が迫っている。朝日に染まる高台に建つのは、「アガ・ハーン廟」。桃色の花崗岩で造られた霊廟。アスワン市街を見守っている・・。写真-1 ナイル川西岸(左岸)の山が朝日に染まった。写真-2 リゾートホテルの庭園とナイル川。写真-3 宿泊ホテルからナイル川東岸を観る。写真-4 ナイルの水を曳いたような入江。昼と夜の景色。写真-5 ピラミサ・イシス・アイランドホテル。写真-6 アスワン市内地図とホテル位置図。
2019年01月25日
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古代オベリスクを切り出していた石切り場がアスワン中心街から南1Kmにある。オベリスクを基盤から抜き出す際に、亀裂が入り作業を中止した跡だという。岩質は、硬い赤っぽい花崗岩。 作業途中だったので、かえって貴重なものと判断され現在、野外博物館として保存されている。ノミ痕やクサビ穴の跡が残っており、どのように石が切り出されていたかを伺いできる。木のクサビを切り込みに打ち込み、水で濡らすとクサビが膨張して石が割れるそうだ・・。 このオベリスクは、ハトシャプスト女王(紀元前1508-1458)の命により作られた。カルナック神殿のオベリスクを補うためと言われている。切り出されていれば、長さ42m×重量1,168トンにもなり、エジプト最大のものとなったオベリスクだ。 太陽神のシンボルだったオリベスク(和名、方尖柱)。ピラミッド状になっている先端部には、金や銅の薄板を貼り、光輝くようになっていた。現存する古代オリベスク約30本は、世界各地に持ち出されている。エジプトに7本、ローマに13本がある。写真-1 花崗岩の石切り場。亀裂が入り中止されたオリベスク。写真-2 下の方から「切りかけのオベリスク」を見る。写真-3 切り込みをズームアップ。写真-4 カルナック神殿のオベリスク。写真-5 石切り場の跡を整備して野外博物館にした。
2019年01月24日
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アスワン・ロウダムによって堰き止められたナイル川に浮かぶフィラエ島のイシス神殿。フィラエ島は、オシリス神の島であり、イシス神がホルス神を生んだ島とされる。ホルス神は、ハヤブサの頭部をもつ天空の神・太陽の神。古来、一生に一度はこの島に巡礼する風習があった・・。 イシス神殿は、プトレマイオス王朝(紀元前332年-30年)に建てられた。比較的新しいので、遺跡類の保存状態は良かった。神殿内部のレリーフは優美に彫られている。アスワン・ロウダムの建設で、長らく半水没状態にあったが、ユネスコにより救済された神殿のひとつ。 ナイル川を見渡す南端に、古代ローマ的な遺跡が建つ。トラヤヌス皇帝時代のキオスク(休息所)。彼の時代、ローマ帝国史最大の版図を現出した。14柱の柱頭デザインが印象的。 フィラエ島を渡るにはボートが唯一の手段。船着場は約20人乗りのボートで犇めく。運転する人々はヌビア人が多いという。船着場付近の沿道に、ヌビア地方の民芸品や産品が並んでいた。背丈20cmほどのコケシをお土産にした。写真-1 アスワンダム湖に浮かぶイシス神殿。写真-2 イシス神殿の第1塔門と列柱。写真-3 ハトホル神の柱頭とトラヤヌス帝のキオスク。写真-4 至聖所と壁レリーフ。写真-5 フィラエ島へは、エンジン付きボートで渡る。写真-6 船着場の様子とヌビアのコケシ。
2019年01月23日
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ナイル川でフルーカ(帆掛け舟)が良く似合うのはアスワンだという。アスワン市の西を流れるナイル川の中州には、大小の島、岩礁が浮かんでいる。その中のひとつ、岩場のような島に建つレストランでランチをとる。 そのレストランは、ヌビア風の外装が可愛い店。店の入口上に、EL・Dokka(エル・ドッカ)という円形のマークがあった。川の浅瀬と溜り場、そしてエレファンティネ島を眺めてのランチタイム。食事内容よりも、周囲の景色が御馳走だった。 岩場の船着き場から、アスワン・イチの高級ホテルが見える。ナイルを見下ろす高台に建つ「オールド・カタラクト」である。アガサ・クリスティが宿泊したホテルだという。推理小説「ナイルに死す」を書いたという。観光船での怪事件に、名探偵・ポアロが挑むもの。1937年なので当時、アスワン・ハイダムはない。 カタラクトとは、小さな滝または浅瀬を意味するという。この中洲・浅瀬があるため、アスワンが美しいといわれる所以だ。ダムの直下と言うこともあり、川の水は澄んで綺麗であった・・。写真-1 アスワン駅近くの船着き場とナイル川とエレファンティネ島。写真-2 行き交うフルーカとアガサ・クリスティ「ナイルに死す」のポスター。写真-3 アスワンで最も有名なホテルオールド・カタラクトを望む。写真-4 小さな島のレストラン・エル・ドッカ。写真-5 レストランから見たカタラクト。
2019年01月20日
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アスワン・ハイダムから下流約7kmにアスワンダムがナイル架かっている。新たにハイダムが造られたことから、アスワンダムは、ロウダムまたはオールドダムと呼ばれる。一見、長い橋のようにも見える。アスワン空港と中心市街を結ぶ要衝だ。 アスワン・ロウダムの規模は、堤高51m、堤頂長2,140mのバットレス(扶壁)ダム。当時エジプトを統治していた英国が4年間をかけ1902年に完成させた。その後、2度に渡ってダム改修・嵩上げをしたようだ。55億m3の貯水量では、ナイル川を治めことができなかった。 ロウダムの右岸リム部に小さな町があり、フィラエ島へ渡るボート発着所がある。フィラエ島には、古代エジプトでは聖なる島とされ「イシス神殿」があった。このダム建設によりナイル川の増水期には、イシス神殿が2mほど冠水する。その後のユネスコ救済事業で高台へ移築された。 旧ダムは、下流地域の綿花増産を計ったもの。しかし上流域のヌビア地方の農地を冠水させてしまった。ヌビアとは「金」に由来する言葉。過去にヌビアは、金・銀の採掘された場所で、古代エジプトでは特別な場所だった・・。写真-1 上流からアスワン・ロウダムを望む。写真-2 下流側の扶壁を見る。写真-3 アスワンダム右岸リム部の町とボート発着場を望む。写真-4 ダム下流とアスワン市街地を望む。写真-5 ダム左岸部を上空から見たもの。写真-6 バットレスダムの概念図。
2019年01月18日
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かつてのヌビア地方への入口・アスワンへは、カイロから空路を利用。フライト時間は約1時間20分。アスワン国際空港から東5kmにアスワン・ハイダムがある。市内に向かう途中、ダム天端下流に設置された展望広場に寄る。巨大な貯水池(ナセル湖)を眺めた。 アスワン・ハイダムは、紆余曲折があったが、ソ連の支援を得て1970年に完成したダム。その規模は、堤高111m、堤頂長3,600m、堤体積44,000千m3の曲線・ロックフィルダム。何よりも貯水量が桁はずれに大きい1,620億m3。 人造湖としては世界第3位を誇る。琵琶湖の60倍もあるのだ。 アスワン・ハイダムは、下流にある旧ダム(アスワンダム)ではナイル川の流量について行けなかったため建設された。すなわちナイル川の減水期の農業用水確保と、増水期における農地保護を目的とした国家事業だった。加えて、原子力発電所2基相当の水力発電所を作ることでもあった。 ダム建設には功罪がついて回る。ハイダム建設により、湛水面が遠くスーダンまで及ぶ。その地域には多くのヌビア人が住んでいた。また多くの文化遺跡が水没する事態となった。ユネスコが世界遺産を本格的に始めるきっかけとなる。ヌビア遺跡の世界的な救済活動は、アスワン・ハイダムが発端だ・・。写真-1 アスワンダムは、ナイル川河口より約900Km上流に位置する。写真-2 アスワン・ハイダムの堤体と展望広場。観光バスが横付けできる。写真-3 展望所からナイル川とダム堤体左岸下流を望む。写真-4 展望所に掲げられた平面図とダム標準断面図。写真-5 ダム天端から貯水池(ナセル湖)を望む。写真-6 ダム展望所への入場券(30Eポンド)。
2019年01月15日
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古代エジプト古王国時代に首都として栄えたメンフィス。最盛期は第6王朝時代で、プタハ神信仰の中心だった。カイロの南20km、ナイル川左岸のミト・ラヒーナ集落に神殿跡とメンフィス博物館がある。 荒地に放置されていた、巨大なラムセス2世像は、現在二階建ての建物内に横たわったまま保存されている。体長が15mもある。2階回廊から眺めることができる。この像は、かつてプタハ神殿の入口を飾った一対の巨象。片方はカイロ駅広場に置かれている。 メンフィス博物館の中庭真ん中に、アラバスター(雪花石膏)製のスフィンクスが座っている。1912年に発見された10mほど彫刻像。キザのスフィンクスは、顔が一部損傷しているが、こちらは比較的良好だ。 ラムセス2世は、新王国時代のファフラオのなかで、ひと際在感がある。アブシンベル神殿やカルナック神殿などを造る。建設王の称号を与えられている。また、66年間におよぶ治世で、100人以上の子どもつくる。90歳を超えて、長生きをしたそうだ・・。写真-1 メンフィス野外博物館。広場中央にスフィンクスが座っている。写真-2 建物内に保存されているラムセス2世の巨像と発見当時のスケッチ。写真-3 雪花石膏岩を彫刻したスフィンクス像。写真-4 プタハ神殿跡に立つラムセス2世像。写真-5 顔の彫刻具合と入場チケット(E80ポンド)。
2019年01月14日
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ダフシュール地区、赤ピラミッドの南2kmに奇妙な「屈折ピラミッド」が聳えている。建造者は、赤ピラミッドと同じスネフェル王。建築年代は、赤ピラミッドより少し早い、紀元前2600年代とされる。ピラミッドとしては失敗作品のようだが、そうではないという説もある・・。 ピラミッドの中腹から石積の傾斜が急変するので屈折ピラミッドと呼ぶ。高さ105m×底辺189mと堂々たるものだ。傾斜角度は下部が54度、上部が43度。表面を覆っている化粧石が大幅に残っている。他のピラミッドとの違いだ。 途中で角度が変化する理由として、(1)完成を急いため、(2)崩壊の恐れを察知し、設計変更したなど諸説ある。また、北面と西面の2箇所に入口があり、それぞれ異なった玄室に辿り着く。 ガイドのアクナムさんによれば、ピラミッドの発展史を物語っているという。1段積み(マスタバ)→階段ピラミッド→屈折ピラミッド→真正ピラミッドという順序になる。つまりクフ王の高さ147m×52度の形状がピラミッドの金字塔と考えられる。写真-1 ダフシュール遺跡のひとつ、屈折ピラミッド。高さは何と105mもある。写真-2 外装に当る白色の化粧石がかなり残っている。写真-3 急勾配(54度)のピラミッド下部。写真-4 近く黒ピラミッドというものも見えた。写真-5 ピラミッド内部概念図と入場チケット(60Eポンド)。
2019年01月12日
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サッカラの階段ピラミッドから南7kmに、ダフシュールの赤ピラミッドがある。化粧石の白い石灰岩石は、剥がされて持ち去られた。現在、基礎部分に一部残っている。露わにになったピラミッド外観は、赤いぽい花崗質の石。但し、風化が進んだ岩質のようだ。 赤ピラミッドは、高さ104m、底辺220m、傾斜角度43度と安定感ある形状だ。建造物はスネフェル王(クフ王の父にあたる)。建築年代が紀元前2600年頃。約11年間をかけて築造したとみられる。 ピラミッド断面が二等辺三角形の真正ピラミッドとしては最古とされる。北面の地上28mの所に入口がある。ピラミッド内部へ入ることは可能だった。しかし通路が狭く、急斜面、そして異臭があるとの現地ガイドのアドバイスに従ってパスした・・。写真-1 ダフシュール遺跡のひとつ赤ピラミッド。遠くに階段ピラミッドが小さく見える。写真-2 花崗岩質の石が積まれた粗姿。服に該当する白い石灰石は剥がされた。写真-3 砂の安定勾配とされる43度の斜面。写真-4 赤味を帯びた石を近くで観る。軟質な花崗岩。写真-5 北斜面下部に玄室への入口がある。内部概念図を貼り付ける。
2019年01月11日
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キザの南約10kmにサッカラ遺跡群がある。2列×20本の柱廊を抜けると、広場と階段ピラミッドが眼前に広がる。紀元前2650年頃の建造で、古代エジプトでは最古のピラミッドだという。第3王朝ジォセル王のピラミッドとも呼ぶ。 ピラミッドの規模は,高さ62m×東西125m・南北107mの長方形の底面を有する。史上初の石(石灰岩)を使用したピラミッドで、その建設方式や宗教的理念は、後世に大きく影響を与えた。ピラミッドの地下には、深さ28mの地下室が作られている。現在も発掘調査が行われている。 階段ピラミッドは、単体ではなく周辺の付属建造物と一体となっている(ピラミッド複合体)。北側に葬祭殿、東側に王宮などが配置。これらを高さ10mほどの外壁(延長約1500m)が取り囲む。 最近、サカッラ遺跡から4400年以上前の「聖職者の墓」が発見された。先月の15日報道。第5王朝に仕えた高位の聖職者。色鮮やかな色彩のレリーフ像24体をエジプト考古学チームが発見したという。更なる新発見があるかも知れない・・。写真-1 遺跡広場から階段ピラミッドを望む。高さ62mの6段ピラミッド。写真-2 サッカラ遺跡入場門とチケット(150エジプトポンド)。写真-3 柱廊を抜けると階段ピラミッドの前に出る。写真-4 ジォセル王のピラミッドとその構造。写真-5 遺跡広場の出入口と隣接する砂漠。
2019年01月09日
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カフラー王ピラミッドの真東500mに、大スフィンクスが鎮座している。アラビア語で、アブル・ホール「畏敬の父」と呼ばれる。ファラオの顔とライオンの身体を持つ神聖な生き物とされる。敵を打破する力と王または神を守護するシンボルだ・・。 ギザのスフィンクスは、一枚岩から掘り出した石像。その大きさは、全長73.5m×高さ20m×幅19m。スフィンクスの前方には、河岸神殿と船着場がある。水運を利用して、大石の運搬に使われた。そして、スフィンクスから西参道がピラミッドへと続く。 発見当時スフィンクスは、体を頭部5mほど残して砂に埋まっていたという。18世紀、ナポレオンが訪れた時も首から下は埋もれていた。有名なダビッド・スケッチがある。スフィンクスの母岩は、硬質な石灰岩と軟質な石灰岩の互層からなる。 軟質部スフィンク造りは、紀元前2500年頃とされ、青銅器時代より前。銅器具と石のハンマーを用いて、長い年月を要したという。気の遠くなる作業を経て完成した石像。信仰の力がなければ難しい・・。写真-1 観覧席から見た、雄大なピラミッドとスフィンクスの風景。写真-2 互層の石灰岩を彫り出した石像・スフィンクス。写真-3 スフィンクス正面と「音と光のショー」。写真-4 河岸神殿・船着場跡とカイロ市内を見つめる石像。写真-5 ファラオの顔とダビッド・ロバーツのスケッチ絵。
2019年01月05日
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クフ王のピラミッドから西南西へ1.3Kmの場所に、ギザの三大ピラミッドを一望できるミニ広場がある。ピラミッド・パノラマポイントだ。砂漠の中に位置するので、観光バスで移動する。雄大なピラミッドをラクダに揺られて眺めるアトラクションが用意されている。仮設トイレも完備しており有難い。5ポンドなり。 ナイル川の河岸段丘上に、クフ王、その息子カフラー王、孫のメンカウラー王のピラミッドが並ぶ。いずれも紀元前2500年頃に建設されたものだという。今から4500年前の出来事。その頃日本は、縄文時代後期にあたり、岩石の加工や金属の精錬・加工などの技術は発達していない・・。 4500年前の昔、ピラミッドの一面を北向きにして、高さ100mを超える四角錐を拵えた。神の技かも知れない。大阪府堺市の前方高円墳・大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は5世紀に築造されている。約3000年の開きがある。 ピラミッドの造り方については諸説ある。(1)直線傾斜説、(2)螺旋傾斜説、(3)内部通路説など・・。はたまた宇宙人説まである。文明の進んだ宇宙人が、砂漠の中の目印に築いたのか・・。建造目的と築造方法について、謎に包まれているのがピラミッドである・・。写真-1 パノラマ広場から三大ピラミッドを望む。中央がカフラー王ピラミッド。写真-2 カフラーの王ピラミッドとラクダ。写真-3 メンカウラー王のピラミッドとラクダ隊。写真-4 砂漠のピラミッド風景と仮設トイレ。写真-5 航空写真で知るパノラマ広場の位置。
2019年01月02日
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