【不眠症カフェ】 Insomnia Cafe

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2021.03.07
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【歴史 日本】
​「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか​
渡邊大門(歴史学者)
2018/09/23
 天正10(1582)年6月の織田信長の横死後、豊臣秀吉は着実に自らの基盤を固めた。関白になったのは、天正13年のことである。ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』は、秀吉のむき出しの権力欲について、次のように表現している。
 政治的な権力を保持した秀吉は、自己の権威を高めようとした。その一つが、天正11年から開始された、大坂城の築城である。大坂城築城の意図や工事の様子については、『十六・七世紀イエズス会日本年報』に次のように記されている。
(秀吉は)己が地位をさらに高め、名を不滅なものとし、格においてもその他何事につけても信長に勝ろうと諸国を治め、領主としての権勢を振うに意を決し、その傲慢さをいっそう誇示するため、堺から三里の、都への途上にある大坂と称する所に新しい宮殿と城、ならびに都市を建て、建築の規模と壮麗さにおいて信長が安土山に築いたものを大いに凌ぐものにしようとした。
 秀吉は信長に並々ならぬ対抗意識を燃やしており、安土城を凌ぐような城郭を欲していた。フロイスの『日本史』でも、ほぼ同様の記述がなされている。
 『十六・七世紀イエズス会日本年報』では続けて、大坂城築城の意図を秀吉の意図を「己の名と記憶を残す」ところにあったと指摘する。信長亡き後、秀吉は畏敬(いけい)されるとともに、一度決めたことは成し遂げる人物であると評されていた。大坂城の工事では何万もの人夫が動員されたが、それを拒否することは死を意味したとまで記されている。
 大坂城の豪華さに訪問者は驚嘆し、言葉が出ないほどであった。『十六・七世紀イエズス会日本年報』には、城郭が大小の鉄の扉を備えていること、多くの財宝を蓄え、武器・弾薬や食糧の倉庫を備え付けていること、などが記されている。
 さらに、城には美しい庭園や茶室が設けられ、室内は絵画で彩られていたという。一言で言うならば、贅(ぜい)が尽くされたということになろう。
 フロイスの『日本史』によると、大坂城が豪華絢爛(けんらん)だったことについては、秀吉が高い出自でないものの、信長の後継者になったことで天下を掌握したと指摘したうえで、秀吉が「皆の者の心を自分に向けるため、あらゆる方法で自分を権威付けて飾る」と述べている。信長がかつて豪華壮麗な安土城を作ったように、秀吉もそれをまねて、かつ超えようと努力したのである。
 大坂城と巨万の富を得た秀吉にとって、次なる必須アイテムは女性であった。秀吉の女好きという一面は、よく語られるところであり、大坂城には女性を囲う施設が必要だった。
 江戸時代には「大奥」なるものがあった。実は、秀吉も大奥と類似した「御奥」(おおく)なるものを大坂城に持っていた。室町将軍や戦国大名も御奥を持っていたと考えられるが、その史料は乏しい。例外的に大坂城の御奥だけが、史料的に豊富なのである。
 大坂城の御奥に関する史料としては、天正14(1586)年4月6日付の豊後のキリシタン大名、大友宗麟の書状がある(『大友家文書録』)。宗麟は薩摩島津氏が豊後へ侵入したため劣勢に陥り、秀吉に助力を乞うため大坂城へやって来ていた。
宗麟は秀吉への援軍要請に来たのであるが、この書状は大坂城の見聞録としての価値が極めて高い。巨大な大坂城の天守、黄金の茶室、名物の茶器の記述も重要であるが、注目すべきは御奥の見学である。宗麟は御奥を実見した数少ない一人だった。
 大坂城の御奥の存在に関しては、フロイスの書簡や『顕如上人(けんにょしょうにん)貝塚御座所日記』に、その一端が記されている。特に、フロイスの書簡では、秀吉と同じく織田信長がすでに御奥と同じような制度を持っていたこと、そして御奥の女性の身分が高かったことを述べている。
 御奥に在籍した女性の数は、約120人といわれている。人数的に江戸時代の大奥には劣るが、それなりの規模であった。後には城内に豪華絢爛な装飾が施され、300人以上の美少女が召使いとして雇われていたという。
 宗麟が案内されたのは、御寝所であった。御寝所は9間(約16・2メートル)四方の広さがあり、長さ4尺(1・2メートル)の御寝台がある。褥(しとね、敷物)は猩々緋(しょうじょうひ、黒味を帯びた深紅色)で、枕の方には黄金の彫り物があった。そのさらに奥には6間(10・8メートル)四方の御寝所があり、唐織物の夜着がたたんであった。いずれも高級な寝具である。
 御奥には、数々の掟が制定されていた。特に、女中衆に対する制限は大変厳しく、外出は当日の午後6時から翌日の午前8時まで禁止されていた。これは、無用な男性との接触を避けるためだろう。
 女中に対して手紙が夜中に届けられた場合は、その性質を十分に見極めたうえで、手渡しで女中に届けられた。検閲ではないが、男性からの恋文に対する警戒心ではなかったか。そして、最も重要なのは、門番衆の男を除いては、他に一切御奥に寝泊りさせてはいけないという規則である。
 このように御奥は、非常に充実したものであったが、秀吉の女好きに関しては、次の通りフロイスの『日本史』が貴重な報告を行っている。
(秀吉は)齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた。
 今とは違い、当時の50代は相当な老人である。フロイスは、秀吉の精力に驚いたのであろう。当時のヨーロッパでは、一夫一婦制が基本であり、御奥のようなところに女性を囲っている例はなかった。したがって、キリスト教の教えと相まって、フロイスの目には秀吉が不純で肉欲に溺れた野蛮人のように映ったのである。
 では、秀吉が囲った女性たちは、どのように集められたのであろうか。続きを見ることにしよう。
 彼(秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。
 このようにフロイスは記したうえで、秀吉の性格が尊大であり、この悪癖が度を過ぎていること、そして「彼(秀吉)は自分の行為がいかに賤しく不正で卑劣であるかにぜんぜん気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し命令するままに振舞って楽しんでいた」と手厳しい意見で結んでいる。
 秀吉には「おね」という正室がいたが、淀殿をはじめ多くの側室がいたのは事実である。しかし、当時において側室を迎えるということは、生き残りの問題と絡んでいた。それは後継者を生むことである。特に、秀吉の場合は子に恵まれなかったので、女性には性的な快楽を求める以上の意味、つまり後継者をもうけるという意味があった。
 天正19(1591)年12月、秀吉は養子となった秀次に訓戒状を与えている。その中の一つに「女性は屋敷に置き、それは五人でも十人でも構わない」と記しており、外で乱れた女狂いになってはいけないという項目がある(「本願寺文書」など)。
 誠に興味深い一節であるが、これは単に一般的な話をしていると解せられる。それなりの身分になれば、女遊びもわきまえよということになろう。この書状もまた、秀吉の女好きの史料として取り上げられることが多い。
 秀吉がこだわったのは、単に女性だけではない。それは、栄達願望だった。秀吉が足利義昭の養子となって、将軍職を得ようとしたことが、『義昭興廃記』に記されている。次に、その内容を記しておこう。
天正13年、秀吉は足利義昭の養子となって、征夷大将軍の職に就こうと望みましたが、義昭の許しを得られませんでした。それどころか義昭は、卑賤の者を子とすることは、後代の嘲(あざけ)りとなるので叶えることができないといいました。秀吉は激しく立腹し、結局、関白の職に就いたのです。
 秀吉が義昭の養子を希望したのは、征夷大将軍になるためであった。最も手っ取り早い方法であろう。義昭は天正16(1588)年に出家して昌山と号し、朝廷から准后に遇せられていた。しかし、『義昭興廃記』によると、義昭は秀吉の出自が賤(いや)しいという理由により、その願いを一蹴したのである。やむなく秀吉は征夷大将軍の夢をあきらめ、関白に就任したという。
 同様の話は、『後鑑(のちかがみ)』や林羅山(江戸時代初期の儒学者)の『豊臣秀吉譜』にも載せられている。秀吉が義昭の養子になろうとして拒否されたことは、長く事実であると信じられた。しかし、現在では関係する一次史料を欠いていることから、虚構であると指摘されている。こうした説が流布したのも、秀吉の身分が低いというコンプレックスが大いに反映されているように思える。
 次に、秀吉が狙ったのは、関白だった。天皇が幼少のときには摂政を、成長してからは関白をそれぞれ置くことが慣例だった。摂政と関白との違いは、摂政が天皇の代理人的な意味合いがあるのに対し、関白は天皇を補佐する地位に止まるとされている点にある。しかし、実質的には、両職に大きな差はないといえよう。
 鎌倉時代以後は、五摂家と称せられる近衛、九条、二条、一条、鷹司の各家が、交代で摂政・関白の職を務めるようになった。そして、秀吉は関白相論という、二条昭実と近衛信輔が関白職をめぐる争いに乗じて、関白に就任したのである。

天正13年5月の段階において、関白以下の任官状況は次のようになっており、
以後の予定はカッコ内のようになっていた。
① 関 白・二条昭実(一年程度の在職ののちに辞任)
② 左大臣・近衛信輔(関白〔左大臣兼務〕)
③ 右大臣・菊亭晴季(辞任)
④ 内大臣・羽柴秀吉(右大臣)
 この人事計画に反対したのが、秀吉だった。秀吉が仕えた織田信長は、右大臣を極官(きょっかん、最高の位)として、天正10(1582)年に本能寺の変で横死した。この事実が縁起が悪いと指摘した。秀吉は信長の「凶例」を避けるため、右大臣でなく左大臣就任を要望した(右大臣よりも左大臣の方が高位)。
 秀吉の申し出に対して、朝廷は大いに困惑した。天皇・朝廷は、信長の横死後に台頭した秀吉に対して、相当な配慮をしなくてはならなかった。その理由は、秀吉が御所造営にも援助を惜しまないなど、決してなおざりにできない存在だったからである。
 ところが、秀吉の要望を受け入れると、事態は複雑化するのが目に見えていた。内大臣の秀吉が左大臣に昇進すると、いったん信輔は任官のない状態を経て、昭実の辞任後に関白職に就く。こうした手順は今までになかったことで、極めて面倒だった。
 信輔は左大臣を秀吉に譲らざるを得なくなったため、「近衛家では元大臣という(無官)状態から、関白になったことは今までなかった」と主張し、即刻昭実に辞任を迫り、関白職を譲るよう要求したのである。これに対して、昭実にも言い分がある。昭実は関白に就任してわずか一年足らずでもあり、「二条家では関白に就任して、一年以内に辞任した者はいない」と主張し、関白辞任を拒否したのであった。
 2人の争いは朝廷に持ち込まれたが、解決の糸口は見えなかった。結局、この争いは秀吉に持ち込まれ、円滑な解決が図られることになった。早速、秀吉は配下の前田玄以と右大臣の菊亭晴季の2人に相談を持ちかけ、穏便な解決策を検討した。
 ここで、晴季から「秀吉を関白職に就ける」という奇想天外な提案が提出された。そして、秀吉自身は「いずれを非と決しても一家の破滅となるので、朝家(朝廷)のためにならない」ともっともらしい理由付けをして、関白就任の意向を示したのである。
 しかし、秀吉が関白に就任するには、秀吉の出自という大きなハードルがあった。関白に就任するには、五摂家の出身者に限られている。結局、すでに引退していた信輔の父、前久(さきひさ)は秀吉を猶子(ゆうし)として迎えることと引き換えに、将来、信輔を関白職に就けることを約束させた。まさしく苦渋の決断だった。
 猶子とは仮の親子関係のことで、相続を目的とせずに結ぶものである。前久も信輔も、秀吉の関白職就任はあくまで一時的なものであり、後には五摂家のところに戻ってくると信じていた。このようなプロセスを踏まえて、秀吉は天正13年7月、晴れて関白に就任したのである。
 しかし、秀吉が一連のプロセスを計画的に仕組んで、関白に就任したという疑惑を拭い去ることはできない。この約束は、結局守られなかったからである。後に秀吉は関白職を養子の秀次に譲り、約束をほごにしたのである。
 その後の秀吉は、快進撃を続けた。翌天正14年9月、秀吉は京都の大内裏跡に聚楽第(じゅらくてい)を築き、大坂城から移ってきた。正親町天皇は後陽成天皇に位を譲り、秀吉の造営した新御所に入っている。また、秀吉は太政大臣に就任し、新たに「豊臣」姓を下賜(かし)された。
 さらに、秀吉は近衛前久の娘、前子を猶子とし、後陽成天皇に入内させた。こうして秀吉は天皇の外戚となり、天正16年に後陽成天皇が聚楽第に行幸した際には、諸大名に対して天皇と秀吉に忠誠・臣従することを誓約させている(『聚楽行幸記』)。このように秀吉は、一気呵成(いっきかせい)に朝廷を取り込んだのである。
 秀吉は栄耀栄華を極めたが、やがては死ぬ運命になった。晩年の秀吉は五大老の面々に対し、秀頼を支えるように遺言状を残した(「毛利家文書」)。秀吉は五大老に対し、秀頼が一人前に成長するまで、しっかり支えてほしいと懇願し、これ以外に思い残すことはないとまで書き記している。さらに、追って書き(追伸)の部分では、配下の五奉行たちにも、申し付けてあるとまで述べている。「人間秀吉」の真の姿であった。
 『甫庵太閤記』によると、秀吉は自身が所有していた茶器、名画、名刀そして黄金を多くの人々に与えたという。とりわけ家康や利家には厚く、下々の者にまで贈られた。しかし、晩年の秀吉は病気に悩まされ、失禁したことが当時の記録に見えている。
 晩年の秀吉の臨終に関しては、フランシスコ・パシオ師の貴重な報告が残っている。その記録によると、秀吉は臨終間際になっても息を吹き返し、狂乱状態になって愚かしいことをしゃべったと伝える。もはや往時の権力者の姿はなかった。
 秀吉が最期まで心配したのは、秀頼の行く末だった。秀吉が最も恐れていたのは、五大老の一人である家康であった。その死の瞬間まで、家康を支えにして、秀頼を盛り立ててほしいと願ったのである。
 死に向かう秀吉は孤独であった。もはや頼るべき親類などはおらず、まったくのアカの他人に秀頼の将来を委ねざるを得なかった。しかし、これまで秀吉自身が行った所業を考えてみると、誠に都合のよい話かもしれない。それでも繰り返し、五大老に秀頼の将来を頼み込む姿は、親としてできる最後のことだった。
 慶長3(1598)年8月18日に秀吉は亡くなった。それから2年後に関ヶ原合戦が勃発し、豊臣家の勢力は大きく殺(そ)がれた。そして、慶長20(1615)年5月の大坂の陣で、豊臣家は滅亡した。秀吉の願いは、結局通じなかったのである。
※主要参考文献
渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)





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最終更新日  2021.03.07 12:11:05
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