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”こむら返り”には、1年に3回はなる。夜寝ている事、足を伸ばすと右の”ふくらはぎ”がつって非常に痛い。もう途轍もなく痛くて、10分ぐらい足を差すって何とかなった。今年は、長崎や五島列島に行った時、両方の足がつって非常に痛かった。こむら返りは、夜になり前の日にかなり歩いた所為でなる。足がつって激しく痛むのがこむら返りだ。原因の第一は筋肉の疲労だ。整形外科医が言う事には、漢方薬の「芍薬甘草湯(しゃくやくかんそうとう)」が効くという。試した事はないが、実際何時なるのかわからないし、その後は何でもないから使う事はない。だけど、こむら返りは非常に痛い。
2019年05月31日
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”ウツ病”というのがあるが、実際その病気に掛かった人に会ったのは初めてだ。1人は、10年前本田美奈子の掲示板に書いていた時、知り会った人であった。自分より8つ年下で、自分はウツ病だという。こちらはウツ病やホームレスなど、全然気にする人間ではない。北見市に住んでいて、初めて会った時うちに泊まったことがある。まあ、会っていろいろ話をした。本人は、小学校の先生をしていたそうだ。何で辞めたかは聞かなかったが、今はウツ病の障害年金に掛かっているらしい。一晩寝たが、別に何でもなかった。ただいろんなところに注文が多すぎる、対した注文でもないけど。2回目に会った時も、うちに泊まった。親しくなり、自分もいい感じで接していた。ところが、ある日電話で「自分が、僕の事をウツ病だといっている」と、言う。「そんな事はない」と、言ってもダメだ。神経質なんだが、自分はそんなカウンセラーじゃないし、つい親しくなったものだし、こちらが否定してもダメだった。それから2回電話が来たけれど、被害者意識が強いし、掛かり会うのは止めた。友達が「あった事もない人を泊めるなんて」と言い、そうかなと思った。ウツ病を、好んで友達にしようとは思わない。ただ人間的に普通の人間と思っている。あと1人は、友達の”猫おやじ”の義兄だ。これまた10年前、猫おやじが義兄に自分の事を話したらすぐ会いたいと言って、うちに連れて来た。65歳で、1人身で身体は丈夫な寂しがり屋だ。。ただ自分はいつもの様に接したが、すっかり気に入れられた。猫おやじは「本人はウツ病だ」とは、一言も言わなかった。後で電話で聞くと、本人はウツ病だけど。「お宅に1人で来ていいか」と言うから、別に断る理由もないし「いい」と答えた。4~5回会ったが、何の事もなかった。そして、いきなりどうしてだか自殺をした。ウツ病もひどくなったら、自殺をするらしい。年金も大分もらっているのに、何か心配事でもあったのか。ウツ病は、真面目で、一つの事を考えると他の事は考えられない、職業で言えば公務員に多いそうだ。自分みたいにチャランポランに生きている男であるから、ウツ病にはならない。ウツ病とは分かるけど、どうしてそういう気持ちになるのか分からない。
2019年05月30日
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ある朝の出来事、猫が戯れている。草を食べるおすまし何を見ているカッコいいぜここまで登るかヒョイヒョイと登る猫は黙っていない。寝ている時は20時間ぐらいで、起きている時は歩き回る。何処でも行くから、写真を撮るにも容易じゃない。
2019年05月29日
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マンダム~男の世界(ジェリー・ウォレス) チャールズ・ブロンソンマンダム~男の世界(ジェリ・ウォレス)、チャールズ・ブロンソンが売り出すマンダム、歌もヒットした。若い頃、整髪料は付けた事はなかった。マンダムが流行った頃、自分も流行に習って付けた。2年ぐらい付けたかな。何の効果も得ずに止めた。今は、何も付けずに(白髪でハゲて)いる。50歳ぐらいからハゲてきて、白髪になってきた。年を取るとしかたがないな。自分でバリカンで5分で刈る事が出来る、いいことだよ。髪を気にする事はないよ。今は全く坊主頭ではないが、小学、中学校と5年間ちょっと坊主頭にしたのがなつかしい。なおその頃、チャールズ・ブロンソンが好きになった。「さらば友よ」「雨の訪問者」「レッドサン」など、「荒野の七人」も、かなり見た。2003年に81歳で死去。
2019年05月28日
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本間千代子は引退しているが、吉永小百合と同世代で同じ年である。今は74歳のおばあちゃんになっているが、東映のニューフェイスでとてもかわいい清純な娘だった。プロマイドの売れ行きが、吉永小百合を抜いて1位になった事もある。吉永小百合が抜かれても、本間千代子ならしようがないと思っていた。あだ名は”チョコ”ちゃんと呼ばれていた。歌を歌い、主に映画は、舟木一夫と西郷輝彦の相手役であった。映画は「君たちがいて僕がいた」「十七歳のこの胸を」、歌は「純愛の白い砂」など。かわいい娘だった。ところが、人気絶調の22歳の時、歌手の守屋浩と結婚してガッカリした。守屋浩と別れて違う人と結婚したが、そのまま引退した。今はそうでもないが、若い頃は清純でかわいい娘だった。
2019年05月27日
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大宮駅20年前冬の出張で、大宮(さいたま市)に行き、ホームレスAと会った。1週間自衛隊で仕事をして、ちょっと(3日ぐらい)間が空いた。自分は、大宮駅で時間を潰していた。晩飯は、そこら辺に腰を掛けてパンと牛乳で済ました。隣にホームレスが座っていた。自分は、別にホームレスを毛嫌いにしてはいなかった。話し掛けてきたので、話になってやった。そのうち、酒が飲みたいというからワンカップを買ってきて挙げた。その日はそれで済んだが。次の日の朝、大宮駅の西口でまた座っているホームレスAと会った。いろいろと話を聞くと年は55歳で、昔柔道をやっていて背が高く、しかし猫背で、結婚していたらしく、ケガをしてビッコになり、言葉は不自由で、今はホームレスという事だ。そこら辺のチンピラにやられ、惨めな状態であった。夜のなって、近くの焼き鳥屋で酒を飲ませてやった。食べる前に「ありがとう」と言い、涙を流して喜んで焼き鳥を食べた。酒をコップ2杯飲んで別れた。その後、何処へ行くのだろうと後を付いて行った。商店街の閉まっているところで、段ボールを頭から被って寝ていた。どうしようもなく、次の日は自分は埼玉県の白岡町に行った。それまでだ。3年後、さいたま市の大宮駅に行ってみたが、ホームレスの彼は何処にもいなかった。どうなったか、わからない。 大宮駅 西口は上で2階
2019年05月26日
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あいりん労働公共職業安定所東京山谷・大阪釜ヶ崎(あいりん地区)・横浜寿町は日本三大ドヤ街だ。山谷には4回、釜ヶ崎には4回、寿町には1回行っている。ドヤ街とは、日雇い労働者が多く住む街である。この頃は、ドヤ街も変わってきている。町並みもビジネスホテルで出来て、街もきれいになってきている。高度経済成長期には、力になった人たちも、年老いてきている。山谷も新しくビルが建っているし、そこら辺に朝っぱらから酔っ払らっていて、路上に寝ている人もいた。釜ヶ崎では、違法な売店がそこら中にあったのだが。Youtubeでは、よく釜ヶ崎で事件があったというのがある。自動販売機には、50円の缶コーヒーが売られている。宿も安くて、住むには安上がりだ。ただイメージが悪い。
2019年05月25日
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「赤ちょうちん」(かぐや姫)のイメージ映画「赤ちょうちん」(日活 1974年 藤田敏八監督)キネマ旬報9位秋吉久美子主演で、かぐや姫の歌謡曲「赤ちょうちん」をイメージして、放浪性と狂気を描いている。若い2人(秋吉久美子と高岡健二)が、引越しする毎に「赤ちょうちん」の歌が流れるのはいい感じだ。映画「赤ちょうちん」は、歌謡曲「赤ちょうちん」とは違う世界を描いている。映画「赤ちょうちん」は、中々おもしろかった。「赤ちょうちん」は、(あの頃2人のアパートは~裸電球まぶしくて~)で、始まる歌詞がいい。そのまま、2人の生活があふれている。「赤ちょうちん」は、今でもドーナツ盤の”レコード”を持っている。映画、歌謡曲、居酒屋の「赤ちょうちん」は、好きだな。
2019年05月24日
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映画「八月の濡れた砂」(日活 1971年 藤田敏八監督)キネマ旬報10位村野武範主演、主題歌「八月の濡れた砂」(石川セリ・歌)藤田敏八監督は、学生時代は演劇をやっていて、たまに俳優で出ている。(故人)「ツゴイネルワイゼン」(1980年 鈴木清順監督)に、準主役で出ている。キネ旬の男優賞にも後1歩で、キネ旬1位で2回見ていいる。映画は、若者の反抗を描いたものだ。その主題歌がすごくいい。歌手の石川セリは、井上陽水の妻である。映画はよかったけど、歌が投げやりな歌い方がいい。「八月の濡れた砂」(石川セリ)のレコードは、今でも持っている。だけど、Youtubeで聴いている。
2019年05月23日
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女優「高峰秀子」とビデオ高峰秀子は(1924年ー2010年)享年86歳で亡くなった。彼女の映画を見る様になったのは、20歳台の頃で「二十四の瞳」であった。「二十四の瞳」(松竹 1954年 木下惠介監督)は、反戦映画という事だ。最初は12人の子供が出てきて、後半は戦争が終わった立派な反戦映画だ。当然小説は読んだ。(新潮文庫 壷井栄著)最後のシーンは、戦争が終わって高峰秀子が学校に復帰する時、歓迎会が開かれて、生き残った8人が集まった。戦争で目が見えなくなった田村高広が、12人が写った写真を見て「これが先生じゃろ、こっちが〇〇じゃ」と「これだけは見えるんじゃ」と。月丘夢路が歌う「浜辺の歌」が、高峰秀子が雨の中、カッパを着て自転車をこいでいる画面に代わって、急に(仰げば尊し~)と「仰げば尊し」が流れる。そのシーンは最高で、涙が流れそうだ。そういう映画を見て、すっかり感動して高峰秀子のイメージを追って何本も見た。かなり見たけれど、「二十四の瞳」を超える映画はなかった。結構いい役もあり、「二十四の瞳」の役柄もあったな。高峰秀子は5歳の時、映画に出演して”天才子役”と呼ばれた。1972年(48歳)に現役を引退し、小学校を満足に行けなかったが、独学でエッセイを書く様になった。夫は松山善三監督で、2016年91歳で亡くなる。 本と切り抜き
2019年05月22日
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吉永小百合は長年のファンである。高校の同級生が、吉永小百合の「寒い朝」を歌っているのを見て「吉永小百合はいいなあ」というので、自分もファンになった。 「まぼろし探偵」の、右の奧が吉永小百合 月光仮面はおまけ生まれは1945年、デビューが57年のラジオの「赤胴鈴之助」、これは役柄は「さゆり」と言った。59年、ラジオでそのうちテレビで「まぼろし探偵」だ。ファンは「サユリスト」と呼ばれ、タモリや野坂昭如がサユリストだ。自分は永遠のファンであり、何があってもファンであり続ける。新聞の切り抜き、映画雑誌「キネマ旬報」、CDがある。
2019年05月21日
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このところ、昼間は暖かいが朝晚は冷える。猫たちも寒さにはどうしようもない。ちょうどいい物があった、家で、屋根や壁をひっくり返して、下にフアフアを敷いた。 2匹とも元気でいい 狭いけどいい いつものところがいいか
2019年05月20日
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火事にあったクラスメートは、中学3年の時だった。中学3年の3学期、転校してきた女の子だった。2月の半ばだったが、夜消防自動車がウーウーと走ってきた。今はそうでもないが、その頃は火事となるとすぐ駆け付けた。学校へ行く途中の道で、自動車工場が燃えていた。雪が積もっていて、野次馬は大勢いた。1時間いたかな、火事も治まってきた。朝、朝刊にきのうの事が新聞の半ページに載っていた。見ると、転校してきた女の子が焼け死んだと、写真入りで載っていた。そういえば、きのう家の隅で「助けて!」と言う声が聞こえたようだ。自動車工場で親父さんが働いて、一家そろってそこに住んでいたのだ。葬式の日、親父さんが「俺が代わってやればよかった」と涙を流した。親父さんは、生きているならば95歳になっているだろう。かわいい娘だったが、かわいそうだな。
2019年05月19日
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高校時代のAは中学の時に知った。中学1年の時、姉から教えてもらった英語の塾に行った。いつもの様に、何も出来ないで3か月で止めた。そこにAがいた。遅刻をしてきて、皆の前で「あれでB中で1番の人なんだから」と、先生が自分の隣の中学の人である事を言った。名前は覚えていて、高校に入った時にいっしょになった。高校3年の時、最後の席に我々と3人がいっしょになった。中肉中背でメガネを掛けて、あまり人と話さずに人と交わるのが嫌いなんだか、成績は3年500人の内で常に5番以内で、家はすぐ近くの本屋なんだが、しょっちゅう遅刻や早退をする。時々代返をしてあげた。誰も文句は言わなく、数学の時間だったか、始めから最後まで先生と”生き方”を話して、周りの生徒は黙って一言も言わなかった。1時間、2人だけのえらい時間だった。その授業が終わってから、すぐ早退をした。何も言わずに、自分たちが「帰るのか」と言うと、ニヤリと笑って帰って行った。学校祭の仮装行列の時、歴代の首相を演じる事になった。自分は、石橋湛山首相を演ずる事で(高校生で政治には無関係で、石橋なんて知らなかった)、他の人は吉田茂だとか。そこに人と交わるのが嫌いだが、Aは全く無関係な”ママゴン”というのを作った。1人で何を作っているのか、3~4人が入れる籠の様なものを作った。それが全く無関係のものだが、クラスの人は大喜びをした。そんな調子で、成績は順調で北大の医学部に現役で入った。だれもが、あいつなら入るとな。ところが、1年の秋にメスの様なもので腹を切って自殺をした。理由はよく分からないが、ビックリしたね。 学校祭のママゴンの写真
2019年05月18日
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「ナガサキ」と「エイズと生きる時代」 今年の正月に行った長崎(平和公園)「ナガサキー1945年8月9日」(岩波ジュニア新書 長崎総合科学大学平和文化研究所編)ひとたび核戦争が起これば、それは局地的なものに止まることなく、地球の全域に広がる。核戦争は長崎で終わりにしなきゃ。長崎の人は「もう戦争はいや、原爆はごめんよ。私のような被爆者をつくらないで」と言っている。戦争はとんでもない。「エイズと生きる時代」(岩波新書 池田恵理子著)池田恵理子は1950年生まれで、早大を出てNHKに入社している。エイズ(後天性免疫不全症候群)は、日本では1986年に始まった。異性間性交の他に血液製剤で起こる。アメリカから輸入した血液製剤で、血友病の患者が感染した。血友病=エイズではないけど、そういうイメージが生まれてしまった。エイズパニックのきっかけを作ったのは患者の情報を管理していた行政当局と医療機関であり、それをパニックに仕上げていったのがマスコミだ。エイズの問題を掘り下げていくと、社会的弱者を切り捨てて平気でいる日本の民主主義が問われている。まさに、今の国家権力のその儘である。
2019年05月17日
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飛行機に乗ったのは17回である。この頃は、滅多に飛行機は乗っていない。20年前、家族(妻と娘)で”ヨーロッパ旅行”に行った時は、十分に飛行機に乗った。ドイツではローテンブルク、ノイシュバンシュタイン城、スイスではユングフラウ山、フランスではパリと9日間の旅であった。また行きたい気もするが、1人じゃ行けない。英語を話せないし(英語は7年間勉強したけど)、ヨーロッパに行った時は、女房が少し英語を話せるので自分は何も話さなかった。とにかく、飛行機の旅は良かった。この頃は、旅をするのは飛行機よりもフェリーだ。速いよりも遅い方がいい。
2019年05月16日
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フェリーに乗ったのは、もう数え切れない程だ。青函トンネルが出来るまで、函館ー青森間は船に乗った。何回か船に乗ったけど、函館駅で船に乗る為走った事がある。それから、本州に行く時は「北斗星」か飛行機に乗って行ったものだ。船は、大分古くて時間が掛かる。本州に行くのは、友達が船で行くのが最高だと言う事だ。乗ってみると、船は十分な乗り物だと言う事に気が付いた。今では、もう60回ぐらいは乗っている。小樽ー舞鶴間を約20時間、風呂に入り、レストランを利用せずに、カップラーメンとおにぎりを用意してのんびりと過ごす。値段は安く、中々快適な旅である。 小樽ー舞鶴の新日本海フェリー プロムナード 一番安い寝台時間があるならば、フェリーをお薦めだ。
2019年05月15日
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新函館北斗駅でのH5系新幹線新幹線に乗ったのは4回である。25歳の時、岡山駅から大阪駅に行くところ、姫路駅でちょっとホームに降りたら急行が出発してしまった。荷物を置いたままで出発してしまったのだ。すぐ時刻表を見て、新幹線で行けば神戸駅で間に合うと。神戸駅で間に合ったが、隣の人に「何処に行っていたんですか」と、言われ恥ずかしい思いをした。しばらく新幹線には乗っていなかったが、北海道に新幹線が来ると言う事でさっそく乗ってみた。乗心地はさすがにいいが、窓が小さくて最短の距離で行くものだから、景色に何もあった試しはない。確かに速いのはいいけど、値段が高すぎるよ。 新函館北斗駅 盛岡駅で”はやぶさ”と”こまち”が合併速さだけだったら新幹線がいい。自分は、速さだけじゃなく景色を楽しむので鈍行列車がいい。
2019年05月14日
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押し入れの奧に、昔のノートが出て来た。一つは「土地家屋調査士」を受ける為のノートである。30歳ぐらいのノートである。もう1つは、旅に行った時のノートだ。これは、あまり旅をしなかった頃のノートで(20歳ぐらい)、5年に渡って書いたものだ。何時から何時まで汽車に乗って、駅と時間を書いたものだ。よくそんなものを書いたものだ、それによく残していたものだ。映画の事も、いろいろと書いている。何を何処で撮ったのかと、「昭和残侠伝」「男はつらいよ」とかシリーズ物を順番に書いたものがある。小さい時は、何でも順番を付けるのが好きだった。今はそんな事はしない。
2019年05月13日
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秘境駅とは、人家が少なく利用者がほとんどいない駅だ。それでも、昔は利用者がいたのだろう。いずれ、廃止駅になるだろう。目をそむけたくなるような、厳しい現実と、悲しい駅の末路に光を温める様に、存在に目を向けたくなる。秘境駅と言っても、普通のならば1~2時間待たなきゃならない。何もないところでは、10分もいればもう満足である。わざわざ1つの駅に、ひどい時には3時間も待つ事になる。秘境駅は写真で結構だ。小樽市の函館本線の張碓駅は、2006年に廃止になった。それまでは、片側が崖、もう片側は海であり、汽車でしか行けない夏の海水浴場に行くレジャー様の駅だった。廃止になる前は、1番の秘境駅だった。札幌駅からも近いし、汽車の窓から見えたものだった。今一番の秘境駅は、室蘭本線の小幌駅である。家も無い、山の中でトンネルとトンネルの間の囲まれた信号用の駅である。自分も何回か通った事があるが、降りて見るほどの駅ではない。降りると、行くと帰る汽車が中々来ない。何回か、Youtubeで見ている。5年前、広島県庄原市の芸備線の備後落合駅に行った。降りるつもりはなかったのだが、2時間もそこに誰もいなくて次ぎの汽車を待たされた。秘境駅で、家は1軒人は1人もいなくて、次に行く新見駅まで1人も乗ってこない。当然、誰も乗って来ないし誰も降りて来ない、1人だけの列車だった。夜8時頃に1時間半、まさにたった1人の秘境駅だった。駅の掲示板を見ると、昔は駅員がかなりいて、乗車する人もかなりいたそうだ。おととし、四国に行った時。三好市の土讃線の坪尻駅で15分ぐらい停まったら、そこはちょうど秘境駅だった。山の中で、15分も停まっていい感じだった。JRは4600駅、私鉄は2350駅があるが、秘境駅は200駅以上ある。随分あるものだ。
2019年05月12日
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汽車の本はまだ棚にある旅が好きだが、おまけに汽車も好きになる。1日中汽車に乗っているのも好きだ。汽車に乗るとまず窓の外を見る、何遍も通ったところでも何か変わったところがないかと見る。今年の正月に”長崎・五島列島の旅”に行った時、小樽港から舞鶴港までフェリーで、京都府の舞鶴駅から長崎駅まで鈍行列車で行った。1日で行けず、舞鶴駅から博多駅まで朝5時半から夜10時まで13駅に降り、汽車を乗り継いで行った。さすがに13駅の2駅を違うホームに乗り、間違えて疲れたよ。
2019年05月11日
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広い宇宙、宇宙の本がまだ棚にある 宇宙の本の1部 星座早見盤宇宙を見ていると、とんでもない大きな物である。太陽系が何千億あって銀河系を、その銀河系が何千億ある。我々太陽系から1番近い星(ケンタウルス座のα星)でも、光の速さで約4.36年は掛かる。地球の中でいざこざが起きるとは何と小さな事だと思う。小さな国同士が、争っている事をバカみたいに思えるよ。ちっぽけな地球を破壊しようとして、どうするつもりだろう。途轍もない大宇宙で、地球なんて小さなものだよ。小さな愚かな人間が多すぎる。戦乱に付ける薬はなし。宇宙の事を考えると、ちっぽけな事なんかバカらしくなる。 光の速さで120~130億年、気が遠くなる。想像出来ない。
2019年05月10日
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大嫌いなヤクザと出会ったのは3回ある。ヤクザ映画とは違う、本物のヤクザである。。1回目は、23歳の頃新宿駅の中央口で、あまり人が来ないところで小雨が降っていた。労務者が5~6人で昼間から酒盛りをしていた。自分はそれを見つめていた。中の1人が、自分に「1杯飲め」と進めてきた。自分も嫌いではないから、バカみたいに飲んでいた。途中で、2~3人ヤクザがやってきた。自分を見て、「おまえ見どころがあるな。おまえ、ちょっと近くの喫茶店に来い」と、言ってきた。喫茶店へ行くと、アニキらしいのが「おまえいい度胸をしているな。うちの組に入らないか」と言ってきた。自分は組に入る気はまるでないので、「いや、いいです」と答えたところ、「それなら、ここら辺をうろつくな」と、ドスの効いた声で言った。こちらは、ビビッてしまって、1年ぐらいそこには行けなかった。2回目は、30歳の頃札幌のススキノで友達と飲んでいた時。信号が赤で、車が自分のすぐ前で停まった。「危ないじゃないか」と、タイヤを足で蹴っ飛ばした。するとヤクザが出て来たが、自分は酔っ払っているから顔に一発食わして逃げた。2丁ぐらい逃げたが、ヤクザはいつの間にか追いついて3~4人で我ら2人をボコボコにしてしまった。周りの人は誰も助けてくれない。交番に行ったところ、「やれやれ災難だったな」と、誰も同情をしてくれない。顔のケガは、1週間も腫れていたよ。3回目は、東京に行った親友とススキノで飲んでいた時。居酒屋で、ちょっとした事でテーブルの奧にいたチンピラに絡まれてしまった。その時はそれで済んだけど、酒がまずかったよ。ヤクザは、命しらずが多くて係わりになってはいけない。ヤクザは、いくら言っても話が通じない。ヤクザには、係わりがないように逃げなくてはいけない。
2019年05月09日
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本棚に、高倉健と菅原文太の本と新聞と週刊誌ヤクザ映画に出ていた高倉健と菅原文太が好きだ。”ヤクザ”は大嫌いだが、”ヤクザ映画”は好きだ。中でも、高倉健の「昭和残侠伝」と菅原文太の「仁義なき戦い」は好きだな。他の映画も見たけれど、やはり彼らが出ている映画が好きだ。高倉健が歌う「昭和残侠伝」の主題歌「唐獅子牡丹」(義理と人情を~秤にかけりゃ~)は味があっていいな。元の女房である江利チエミはいい歌手だが(「酒場にて」「新妻に捧げる歌」)、彼女が歌う「唐獅子牡丹」よりも高倉健のぶっきらぼうに歌う方がいい。83歳で高倉健が亡くなったけど、菅原文太も日を開けずに81歳で亡くなった。非常に残念だ。高倉健は陰とすると、菅原文太は陽である。全く正反対の2人である。だけど、2人が共演したのは8~9本ある。ヤクザ映画も終わったが、終わってからもいい映画に出ていた。高倉健主演の「幸福の黄色いハンカチ」は非常に良かった。
2019年05月08日
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自分の家族は、親父が北海道新聞社の支社長や支局長を勤めて転勤が多かった所為で、皆生まれがそれぞれ違う。皆、生まれは北海道だが。 生まれ 亡くなった都市父親 奈井江町 札幌市 享年67母親 利尻町 〃 87長女 旭川市 岩見沢市 50 息子 岩見沢市 〃 38次女 稚内市 〃 44 在住三女 深川市 津久見市 娘 津久見市 大分市 息子 札幌市 札幌市長男(自分)岩見沢市 〃 娘 札幌市 名古屋市 猫1 札幌市 〃2 〃まあいろいろである。 猫1,2
2019年05月07日
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自分の家族構成は、両親と姉が3人で一番下の末っ子で長男の自分だ。両親は亡くなって、1番目と2番目の姉がガンで亡くなった。姉達は早く、長女が50歳で胃ガンで、次女が44歳で子宮ガンで亡くなっている。2番目の姉には、学校の先生で特に感謝しているよ。両親は、父親が新聞記者で死因は他の病気だが、胃ガンに患っていた。母親は学校の先生で、死因は別だったが、乳ガンに患っていた。すぐ上の姉は九州の大分県津久見市で、乳ガンと肺ガンに掛かり、今は病院に患っている。一家そろって、皆ガンになる家系である。自分だけがガンになっていない。脳出血で命が失うような病気をしたからか、ガンに気を付けている。自分としては、胃ガンか食道ガンが掛かりそうだが、毎年胃カメラを飲んでいる。今のところは大丈夫だが、気を付ける。1番目の姉の男の子供は、子供が小さくて38歳で自殺をした。弱い子供で、姉が亡くなって子供はまだ小さいのになあ。2番目の姉は、結婚していたが子供はいない。自分は、よく遊びに行ったよ。3番目の姉の子供は、女の子は札幌市にいたが今は大分市にいる。男の子は、札幌市にいて2人とも独身である。最後は自分だが、18年間いっしょに暮したが女房と別れた。子供は1人で女の子で、今は名古屋市で孫が1人いる。皆、それぞれいろんな事があるが、自分もがんばっている。自分は、最初は6人で暮し、そのうち姉2人が結婚して4人。親父が亡くなって、すぐ上の姉が東京へ行き、自分と母親と2人になった。そして結婚して子供が生まれ、母親も亡くなり3人で暮した。自分1人で暮した事は無かったが、53歳の時に1人身になった。今は、自分と猫2匹だ。1人で生きて行くのはどうかなと思ったが、2年後には自分1人で生きていくのは楽だと考えるようになった。寝たい時に寝るし、起きたい時に起きる。こんな時間は(自分の時間)は、何よりも貴重な物だよ。自分は、特にやりたい事をやり、趣味に生きているよ。
2019年05月06日
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5月5日こどもの日、非常にいい天気だった。札幌の予想最高気温が26℃、最低気温が8℃で、快晴の日だ。近所を散歩し、桜が満開だった。東北を旅した時は桜が満開だったが、今は札幌が満開だ。毎年、桜が咲いている近所に行ってみた。 桜が満開だ 近くの公園から見た山々左の小さな山が藻岩山、右の山は手稲山である。 手稲山
2019年05月05日
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映画「黒部の太陽」三船敏郎、石原裕次郎主演の「黒部の太陽」(熊井啓監督)を見たのが、高校3年の2学期だった。その頃は、自分の就職を何処に決めようかと悩んでいた。一応、親父の勤めていた北海道新聞社に入ろうと思っていたが。「黒部の太陽」を見て、壮大な映画が運命を変えた。当然、小説(講談社 大木正次著)も読んだ。今から10年前に、中々行けない”黒四ダム”にも行ってきた。すごく雄大で圧倒されたよ。大学で土木をやろうを決めた。だけど土木科に入って、急にやる気が無くなった。大学に入ったのはいいけど、全く勉強しなかった。他の事に夢中になり、大学を止めようと思った。そのままズルズルと4年になり授業には出ないし、親父は亡くなって、4人姉弟の2番目の学校の先生をしている姉が、「学費を出して上げるから何とか卒業をしなさい」と、5年目の学費を出してくれた。姉には非常に感謝しているよ。(44歳で、子宮ガンで亡くなった)大学を出て何も勉強しなかったので、土木とは関係ない仕事を探した。最後に、友達が新聞の広告で測量設計の会社を見つけてきた。それが何にもわからないままで土木の道に入った。今は、土木とは何の縁はないし、すっかり忘れたよ。だけど、あの映画はすばらしい物だったよ。
2019年05月04日
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京都でコーヒーを飲む自分は大学の土木科を嫌々ながらも出て、結局測量士、土木施工管理技士を取り、始めは測量をしていた。今は年金暮らしである。都市で測量をする時もあったが、そんな時昼休みになると喫茶店に寄った。いろんな喫茶店に寄った。札幌中の喫茶店の半分ぐらいは回った。1年365日のうち、100日は喫茶店を回った。今はそれ程回りはしないが、喫茶店を月に1回かな、行くのは。遊びではジャズ喫茶やコンサート喫茶なども行った。役所で打ち合わせの時は、その後喫茶店に必ず寄る。喫茶店はそれ程好きではないが、仲間と「今度違う喫茶店を回ろう」と、話していたのだけど、喫茶店巡りは好きだったのだろう。今は、ドトールコーヒーに凝っている。(220円と安い)安くて窓が広い、人が歩いているのが見える様な喫茶店がいい。(味はまあまあでいい)旅をした時、あちこちでいい喫茶店を見つける。京都、岡山などでは馴染みの喫茶店がある。札幌では5軒のドトールコーヒー屋があるが、古本屋(BookOff)に寄って大通りのドトールコーヒー屋がいい。
2019年05月03日
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東京大空襲の記録東京駅界隈 手前が八重洲焼死体戦争の本となるが、「写真版 東京大空襲の記録」(新潮文庫 早乙女勝元編著)太平洋戦争の終わり、1945年3月10日の零時を回った頃、一夜のうちに東京の下町を焼け野原にした東京大空襲。10万人の死者を出した大空襲。B29による約4千機が来襲し、1万6千発の爆弾、38万8千発の焼夷弾が投下された。どうしてそれ程までに犠牲が出たのか。1 被害地の地形である 土地が低いだけで川が多い。2 その夜の気象状況である 北風が激しい。3 都民の防空観念である 短期間のとまどいがあった。4 防衛当局のミスである 戦況把握の悪条件である。と、説明が続けている。とにかく、広島・長崎原爆投下、東京大空襲のようなことが2度とあってはならない。「ある憲兵の記録」(朝日文庫 朝日新聞山形支局著)山形県から憲兵のなった男が、憲兵時代の体験を語った。「お国ため、天皇のためだ。何人でも殺せ」という大義のまま、燃えて突き進んでしまった。善良な地方の一農民を、平気で人を殺す兵や憲兵に仕立て上げ、長い抑留生活を強い、帰国をした後も、罪の意識で苦しめ続ける。戦争が終わってから、若い世代に憲兵としての体験を語り、反戦を訴え続けている。 いつも、戦争の本を安く手に入れている。もう大分戦争の本がある。
2019年05月02日
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新聞のそのままと下のスクラップ帳新聞の切り抜きで、死亡記事を集め出したのはもう12年になる。映画俳優やタレント、作家、野球選手など、有名な人を集めている。何で亡くなったのか、いくつかそれを見ている。名を残した人でも、病気で亡くなるのだな。それを見ていると、いつか自分もそういう目に合うのだろうと思う。最近は、マラソンの高橋尚子の元コーチの小出義雄が亡くなった。高倉健は、たいぶ前に亡くなった。
2019年05月01日
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