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良い本だと思います。 読んでおいて、決して損はしません。 と言うか、とても真っ当なことが書かれているので、 これから色々と判断する際に、きっと役立つと思います。 例えば、「はじめに」に書かれている「後医は名医」のエピソード。 後から診た医師は、最初に診た医師に比べ、 新たな情報を得られる状況で患者と接するので、より適切な診断や処置ができる。 とても分かりやすいですね。 *** 私たちが拠りどころにすべきなのは、「たった一人の体験談」ではなく、 「統計学的なデータに裏付けられた知識」です。(p.47) よって、「学会や公的機関からの情報を優先的に参考にする」のがベター。また、がんの種類ごとに作成される「ガイドライン」についても、数百、数千といった患者を対象に得られた薬の効果を解析し、それらをまとめた論文を参照して作られた「標準治療」を採用しています。 一方私たちは、ある症状で外来に来られた患者さんに検査をしても、 その症状の原因が医学的にはっきりしない、というケースをよく経験します。 「病名をつけられない状態」にもよく出会います。 むしろ、症状の原因やメカニズムが完全に明らかになることの方が少ない、 とも考えています。 こういう「はっきりした答えの得られない問題」は、 医療現場においては日常茶飯事で、 私たち医師はこの現象に疑問を抱いてはいません。 なぜなら、医学とは、人体とは、「そういうもの」だからです。(p.64)なるほど、やはり「そういうもの」だったのですね。薄々気付いていましたが、得心しました。 もし患者さんが、「治る」を「医療から完全に自由になること」だと捉えているなら、 多くの病気は「治らない」と言えるでしょう。 一方、私たち医師は多くの場合、 「医療から完全に自由になること」だけを目指すのではなく、 「病気を治療しながら、日常生活の質を落とさないこと」を もっと大きな目標として掲げます。 「病気とうまくお付き合いする手段を提供する」という感覚です。(p.132)これも、やはり「こういうこと」なのですね。求めるところを変える必要がありそうです。 OTC薬でも処方薬でも風邪薬に「風邪を治す力」はありません。 風邪薬の目的は、風邪の症状を軽くすることです。 こうした、症状に合わせた治療のことを「対症療法」と呼びます。(中略) (p.235)また、これも「こういうこと」なのでした。風邪薬は症状を和らげてくれるだけで、治すのは自分自身ということです。 では実際、出身大学(の偏差値)と臨床力は比例するのでしょうか? 結論から言えば、あまり関連はないと私は考えています。 自らの経験則からそういう印象を持っている、というのも理由の一つですが、 もっとシンプルな理由として、「大学に入るのに必要とされる能力」と 「医師になってから必要とされる能力」はかなり違うから、 ということがあります。(p.92)これも、納得できるものですね。大学医学部入試と医師国家試験を突破できる学力があれば、あとは、コミュニケーション能力や様々な状況への対応力ということになるのでしょう。これは、他の職業についても同じですね。
2020.01.26
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読み終えた時、久々に付箋だらけになってしまいました。 よく売れたのも頷けます。 私たちが、いかに思い込みにとらわれているかに気付かされます。 誰もが読んでおくべき一冊です。 *** いったいなぜ、金持ちと貧しい者のあいだに分断が存在するという考え方が、 ここまで根強く残っているのだろうか。 わたしが思うに、人はドラマチックな本能のせいで、 何事も2つのグループに分けて考えたがるからだろう。 いわゆる「二項対立」を求めるのだ。 良いか悪いか、正義か悪か、自国か他国か。 世界を2つに分けるのは、シンプルだし直感的かもしれない。 しかも双方が対立していればなおドラマチックだ。 わたしたちはいつも気づかないうちに、世界を2つに分けている。(p.050)著者は、「多くの場合、実際には分断はなく、誰もいないと思われていた中間部分に大半の人がいる」(p.059)と述べています。分布を調べ、2つのグループの重なりに注目するという姿勢は、とても大切ですね。また、高いところから低いところを正確に見ることの難しさも、指摘の通りでしょう。 人々が「世界はどんどん悪くなっている」という思い込みから なかなか抜け出せない原因は「ネガティブ本能」にある。 ネガティブ本能とは、物事のポジティブな面よりも ネガティブな面に気づきやすいという本能だ。 ネガティブ本能を刺激する要因は3つある。 (1)あやふやな過去の記憶、 (2)ジャーナリストや活動家による偏った報道、 (3)状況がまだまだ悪いときに、 「以前に比べたら良くなっている」と言いづらい空気だ。(p.083)良い出来事はニュースになりにくく、悪いニュースの方が広まりやすい。悪いニュースが増えても、悪い出来事が増えたとは限らない。過去は美化されやすく、「悪い」と「良くなっている」は両立する。これらの著者の指摘も、大いに頷けます。 メディアはメディアで、わたしたちの恐怖本能を利用せざるを得ない。 恐怖本能を刺激することで、あまりにもたやすく、 わたしたちの関心を引くことができるからだ。 特に2種類の恐怖を同時に煽ることできれば、効果はバツグンだ。(p.137)あなたのもとには恐ろしい情報ばかりが届いている。そのため、世界は実際より恐ろしく見えてしまっている。リスクは「危険度」×「頻度」で決まるのであり、恐ろしさでは決まらない。パニックに陥らず落ち着いて行動しよう、という著者の言葉には説得力があります。 メディアは過大視本脳につけこむのが得意だ。 ジャーナリストたちは、さまざまな事件、事実、数字を、 実際よりも重要であるかのように伝えたがる。 また、「苦しんでいる人たちから目を背けるのは、なんとなく後ろめたい」 と思う気持ちを、メディアは逆手に取ろうとする。(p.167)「過大視本脳を抑えるには、比較したり、割り算をするといい。」(p.185)数字を、それ単体だけ見て終わりにするのではなく、全体の中で、その意味しているところを、正確に理解しようということでしょう。「80・20ルール」も使えると思いました。以上、本著で示された「分断本能」「ネガティブ本能」「恐怖本能」そして、「過大視本能」の部分についてまとめてみましたが、これ以外の、「直線本能」「パターン化本能」「宿命本能」「単純化本能」「犯人捜し本能」「焦り本能」も、本当に納得できるものばかりでした。何かの情報を得たとき、「自分はその情報を正しく受け止め、判断できているのか?」と、今一度、立ち止まって考えてみることの大切さを本著は教えてくれました。様々な情報が飛び交う今だからこそ、価値ある一冊だと思います。
2020.01.26
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副題は「コーヒーカップいっぱいの愛」。 珈琲店タレーランのオーナー・藻川又次が狭心症で倒れ入院。 同店のバリスタで藻川の姪・切間美星は、大叔父からある依頼を受ける。 それは、40年前に亡くなった藻川の妻の謎の行動を明らかにすることだった。 美星はタレーランの常連客・アオヤマ、そして藻川の孫・小原と共に、 天橋立、そして浜松を訪れ、事の真相に迫っていく。 そこには、藻川の妻と画家の秘められたロマンスが…… そして、タレーラン開業の経緯も関わっていた。 ***今回の舞台は京都市街を離れ、京都府北部の天橋立。さらに、府外の浜松まで加わって、これまでのお話とは少々趣が異なります。注意深く読み進めていけば、途中で引っかかる部分は明らかなので、ミステリーとしては、読者にとって難解なものではないでしょう。それにしても、3年ぶりの新刊ですか。前巻も、1年半ほど間をおいての出版だったので、ペースとしてはゆっくりですね。それでも、途中で放り出さずに、作品を続けてくれることは、読者にとっては、とてもうれしいことです。
2020.01.13
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小野さんの著作を始めて読んだのは『新版 家族喰い』。 「尼崎連続変死事件」という、7家に及ぶ複雑で陰惨な事件を描き出した作品で、 首謀者・美代子は、私達とは異なる世界の中で生きているとしか思えなかった。 また、それを描き出した著者の小野さんにも、強烈な興味を抱くこととなった。 そして、本作は、美代子を含む10人の連続殺人犯について述べられている。 どれもこれも、事件発覚当時、世間を大いに驚かせた重大犯罪ばかりで、 そこに記されている事件の様態は、とても人間の為せる業とは思えないものばかり。 改めて、このような存在と共に、この世に同居している事実に愕然とさせられた。さらに、これらの凶悪犯罪事件と正面から向き合い、捕らえられた犯人と、実際に面会を繰り返しながら、事の真相に迫り、また、周囲の関係者のもとにも再三足を運んで、事件の全体像を把握しようとする著者の行動力と精神力にも、さらに興味・関心を高めることとなった。巻末の著者自身による「殺人犯との対話のあとに」や「悪に選り分けられた者たち - 文庫版あとがき」を読むと、それらの作業がどれほどのものであるか、その一端を伺い知ることが出来る。また、重松清さんの「解説」も秀逸である。
2020.01.13
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近年、インバウンド(訪日外国人)の数は飛脚的な伸びを見せてます。 「観光立国」を目指す政府としては、ねらい通りなのでしょうが、 観光客の急増により、「観光公害」ともいうべき現象が各地で発生しています。 京都をはじめ日本各地で、昔ながらの風情が失われつつあるのです。 この「オーバーツーリズム(観光過剰)」は、世界中で問題になっています。 バルセロナやフィレンツェなどでは、観光客により住民の生活が脅かされ、 「ツーリズモフォビア(観光恐怖症)」という造語まで誕生しています。 今、適切な「マネージメント」と「コントロール」が求められているのです。 *** 一方、宮内庁が管理する京都の桂離宮や修学院離宮も名所ですが、 これらは観光ブームが始まる以前から事前申し込み制を採用し、 観光公害をまぬかれた成功例です。 桂離宮はネットを通じて予約申請ができ、 18年秋からは入場料を徴収するようになりました。 先駆けてそのような「コントロール」を行ってきたからこそ、 価値が守られているといえるでしょう。(p.86)本著にも記されているように、京都の観光地では、平日でも人が溢れかえっています。清水寺や錦市場、嵐山等は連日大賑わいで、外国人の占める割合は相当なものです。それに比べ、宮内庁管理の京都御所や京都仙洞御所、桂離宮、修学院離宮は別世界です。職員の方の丁寧な説明を聞きながら、本来の風情をゆっくりと味わうことが出来ます。 「不便はすなわち悪」、 あるいは「醜悪な建造物を見ても何も感じない」といった意識が強いままでは、 国にどんなに観光資源に恵まれた場所があろうとも、真の観光立国に結び付きません。 その意味で、観光公害の責任は行政や業者だけでなく、 国民自身にもあるのです。(p.117)素朴で美しい景色の中に、観光客に便利なようにと道路や駐車場を建設し、安全性を高めるために、山や川にコンクリートを敷き詰め、景観にそぐわないハコモノを建設することを、著者は嘆いています。本当に大事なものを守り、それを見てもらい、味わってもらうことが大切なのです。 言語だけでなく、さまざまな文化や生活習慣を背景に持つ観光客に対して、 どのようにマナーを喚起するか。 それについては世界中が試行錯誤を続けている最中です。(p.135)観光地には、「旅の恥はかき捨て」という心理が働くためなのか、それとも、自国での常識が訪問先の国の常識と異なるためなのか、目を覆いたくなるようなマナー違反やルール違反が溢れています。そして、この状況は、世界各地の観光地で起こっているようです。 一方で第1章で触れたように、 歴史として日本は江戸時代末期に「開国」されたものの、 本当の意味での開国はなかなか達成されなかった、という事情があります。 現在のインバウンド増加で これまであまり見かけなかった国からも観光客がやって来るようになり、 ようやく本当の開国が始まった、というのが現状です。(p.161)これは、島国日本も、全世界的な情報網や交通網の発展の中で、いよいよ真の国際化を迫られる状況になったということでしょう。こんなにもたくさんの外国人が、日本国内を闊歩する状況はこれまでなかったことで、どのように対応すべきか、まさに今、早急な対応を迫られているのです。 ではもう一つの個人旅行者を誘致する「小型観光」をモデルに考えてみましょう。 徳島県の一棟貸しの宿泊施設群「桃源郷祖谷の山里」と「篪庵」の9件で、 1年に約3000人が宿泊しています。 1日にすると約10人ですので、地元の生活などへの悪影響はほとんどありません。 ここに来る人たちは、宿泊を伴いつつ、それ以外にもお金を使ってくれます。 宿泊や食事代などの金額を推計すると、一人あたり1日で約1万5000円弱です。 一方で。大型バスでのスポット観光はどうか。 一般的に計算すると、40分ほど滞在する場合、自販機の飲み物代と土産物代、 それに駐車場代を加えて、一人700円ほどと推計できます。 この計算では同じ売り上げを達成するためには、 6万人以上の旅行者が必要となってしまう。(p.184)これは、本著における著者の主張の中でも特に重要と思われるものであり、今後、日本が「観光立国」を掲げ続けるならば、絶対に押さえておかねばならないことだと感じました。そのことにより、日本の「良きもの」を守り、観光客に楽しんでもらえると思います。
2020.01.12
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副題は「関東芸人はなぜM-1で勝てないのか」。 著者は、ナイツの塙宣之さん。 昨年8月に発行されたものですが、「なるほど」と思わされる記述が多く、 本著を読むことで、昨年末のM-1の結果を、より納得することが出来ました。 *** そもそもM-1は吉本がお金を出し、吉本が立ち上げたイベントです。 いわば吉本が所属芸人のために設えた発表会なのです。(中略) 本来、僕らはM-1の階段を上れるだけでも幸せなんです。 卑屈になる必要はまったくありませんが、 非吉本芸人は、不利を承知で敵地に乗り込んでいくのだというくらいの 覚悟はあっていいと思います。(p.110)これが、M-1を語る際にベースとなる事実。本著の副題「関東芸人はなぜM-1で勝てないのか」の大前提。そして、次のような現実もあります。 どういう勘定の仕方をしているかは不明ですが、 現在、吉本の芸人は約6000人いると言われています。 東京のタレント事務所が抱えている芸人の数は、多くても数十人程度です。 在京事務所が束になっても、 メジャーリーグと日本プロ野球ぐらいの差はあると思います。(p.109)さらに、次のような事情も。 しゃべくり漫才のルーツは関西です。 必然、漫才という演芸そのものが関西弁に都合がいいようにできています。 言ってしまえば、漫才の母国語は関西弁なのです。(中略) 東京の寄席では、落語が中心で、漫才は「色物」として扱われます。 トリは当然、落語です。 ところが、関西ではほとんどの場合、これが逆になります。 落語が「色物」となり、漫才師がトリを務める。(中略) ひとまず、こう言い切っていいと思います。 漫才とは、上方漫才のことであり、 上方漫才とはしゃべくり漫才のことなのだと。 漫才会の勢力図は今も昔も、完全な西高東低なんです。(p.37)このような状況を考えると、関東の芸人さんは、M-1で大健闘していると言えるのかもしれません。さらにさらに、次のようなことも関係してきます。 漫才にクラシック三冠のように、2000メートルの皐月賞、 2400メートルの日本ダービー、3000メートルの菊花賞と、 時間ごとの大会があったとしたら、三冠王候補は断トツで中川家でしょうね。 ナイツは菊花賞は強いけど皐月賞は向いていないし、 サンドウィッチマンは皐月賞は一番人気でしょうが、 ダービー、菊花賞はきついと思います。(p.115)「M-1は100メートル走」と同様、とても分かりやすい例えです。それぞれのコンビに、演じる時間一つとっても、得手不得手があるということでしょう。そして、本著の中で、私が最も心に残ったのが次の一文。まさに、金言です。 2019年、和牛がM-1に参戦するかどうかはわかりませんが、 僕は、スタイルを変える必要はないと思います。 ここは強く言いたいところなのですが、 M-1で勝つことがすべてではありません。 M-1は漫才師なら誰もが憧れるタイトルです。 一時期を捧げるのに、十分すぎるほどの価値がある。 でも、いちばんやってはいけないことは、M-1を意識し過ぎるあまり、 自分の持ち味を失ってしまうことです。 芸人生活は何十年と続きます。 コンテストはモチベーションの一つにはなりますが、 そのためにやっているわけではありません。(p.117)
2020.01.05
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著者は、かつて公立高校の教諭として約20年間勤務し、 早期退職後に大学非常勤講師や公立教育センターでの教育相談、 高校生・保護者対象の講演等の教育活動に従事してきた方。 教諭としての初任校は「底辺校」、その後「進学校」での勤務経験も併せ持つ。 実は「教育困難校」にはアルファベットを正しく書けない生徒が 相当数存在するという問題だ。 特にbとd、mとn、qとgなど似た文字を書き分けられない生徒が多い。 全く勉強する気がなく覚えようとしない生徒も少しはいるが、 先天的な学習障がいを持ちながら、 今まで気付かれず何も訓練を受けなかったからという理由が ほとんどではないかと推察できる。(p.53)あくまでも「推察」である。しかし経験上、そう感じざるを得ないという実感が著者にはあるのだろう。 これからの社会では、考えられる人、 主体的に学び続けられる人が求められると言われて久しい。 そのような人の育成を目的に各学校段階でアクティブ・ラーニングや 協同学習などの新しい教育方法が試みられており、高校教育でも例外ではない。 だが、教育方法の改革以前に 授業を成立させること自体が難しい高校がある現実から、 目をそらしてはいけない。(p.67)改革を進めようとする際、このような現実は枠の外に置かれてしまいがちである。本著出版の意義は、それも含めて論議することの必要性を示している点にある。 会議が終了した時点では既に19時を過ぎている。 それから担任は、事件の当事者の生徒や保護者に電話連絡を入れる。 それ以外の教員の中には、明日の授業準備を始める者もいる。 何か事件が起こらない日の方が少ないので、 「教育困難校」の職員室はほぼ連日21時過ぎまで照明が点いている。(p.97)「働き方改革」が叫ばれているが、その前にこのような現実がある。地域の児童・生徒が通う小中学校だと、「電話連絡」でなく「家庭訪問」になることが多い。その他、本著には、「教育困難校」の生徒たちの類型や、先駆的な脱「教育困難校」改革の動き等、「なるほど」と思わされる記述が多い。そして、このような状況の中で奮闘している教職員に世間の関心が向けられ、正当な評価、給与などの待遇面での厚遇、十分な休養が得られることを願わずにはいられない。
2020.01.05
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討入の日が迫る中、続々と仲間が集結。 ゾロは日和から「秋水」に代わり「閻魔」を譲り受け、 ルフィは新たな力を習得するため修行に励む。 一方、カイドウとビッグ・マムは「海賊同盟」を結成。 その頃、驚愕のニュースが世界中を駆け巡っていた。 それは、”王下七部海”制度の撤廃。 これにより、世界の勢力図は大きく書き換えられることになった。 そして語られる「ゴッドバレー事件」。それは、ロックス・D・ジーベックを船長とし、若き日の白ひげ、ビッグ・マム、カイドウらを擁した世界最強の海賊団を、海軍中将・ガープが、天竜人とその奴隷たちを守るため、ゴッドバレーという島で、海賊・ロジャーと手を組んで打ち破ったという事件。さらに、「ワノ国」の海賊「光月おでん」は、かつて、白ひげの船で隊長を務めていたが、その後、ロジャーに引き抜かれ、”海賊王の最後の旅”に同行したことも判明。そして始まる「ワノ国第三幕」。決戦の集合地・兎丼の常影港には一隻の船も現れない。それは、オロチが常影港へと続く全てのルートを塞いでいたから。そして、お話の場面は一転、41年前の「花の都」へ。ワノ国将軍・光月スキヤキの息子・光月おでん(18歳)は、幼少時から問題行動を頻発、「山の神事件」を契機に絶縁され、都を追放されるが、無法の地・九里を、人の住める里に変貌させることに成功する。父に許され「九里大名」となったおでんは、自身の仲間を家臣とし、さらに、ミンク族もそこに加わって、彼らは「ワノ国」の守り神となった。そこに現れたのが白ひげ・エドワード・ニューゲート。世界を見たいおでんは、白ひげの船を追い、そこに乗り込むことを許されたのだった。 ***今巻の帯には、「物語はONE PIECEの核心へ」とありますが、それは、おでんの冒険を通じて明らかになっていきそうです。それにしても、前巻も今巻も、読み進めるのがたいへんでした。とっても疲れた。
2020.01.02
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霜月康イエが処刑されたのに、笑うえびす町の人達。 それは、人造悪魔の実「スマイル」の失敗作を口にしたため。 父を救おうとするトコに、オロチが銃口を向けたとき、 そこにゾロとサンジが現れ、トコの逃走を仲間たちに託す。 その頃、兎丼には罪人・人斬り鎌ぞうと脱獄囚・キッドが送られてくる。 そして、この二人の運命も伴うクイーンによる処刑・大相撲インフェルノが再開。 そこへ割って入ったのが、「おしるこ」を求めるビッグ・マム。 クイーンを2撃で倒し、”開かずの檻”も破壊。ビッグ・マムの次のターゲットはルフィ。絶体絶命の窮地に陥ったとき、ルフィはヒョウ五郎の首輪を外すことに成功。これこそが、かつてレイリーが使っていた「覇気により内部から破壊する力」。しかし、ルフィは、まだその力を自在に使うことは出来ない。ビッグ・マムの次なる突撃に、クイーンが無頼男爆弾で立ち向かう。それによってビッグ・マムは記憶を取り戻すが、直後に眠ってしまう。クイーンはビッグ・マムを海楼石の錠と鎖で巻き付け、鬼ヶ島へと急行。そして、”開かずの檻”からは、13年ぶりに光月家家臣・河童の河松が登場した。看守長・ババヌキは、”疫災弾”を囚人たちに向かって乱射させ、触れるだけで敵を倒せる”人間兵器”にしてしまう。そんな状況に絶望する囚人たちを、ルフィは体を張って説き伏せる。そしてモモの助が現れると、敵に知られることなく兎丼制圧に成功したのだった。一方、目覚めたビッグ・マムは、鬼ヶ島に向かう船を完全掌握。そこへ、カイドウが現れると、四皇二人の対決が始まった。また、ゾロと日和は道中で河松と出会い、そこに生鬼丸、狛狐・オニ丸も合流。オニ丸は、刀を守るため、墓荒らしと戦い続けていた。 ***今巻は、色々結構込み入っていて、しっかり読み込まないと、話の筋が見えてきませんでした。ローは捕まっちゃってるし……既に巻95も発売されているので、この後立て続けに読んでいきます。
2020.01.01
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