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今日の午後から伊東へ温泉につかりに行くので、年内の日記はこれでおしまい。昨日は、軽い咳が結構長い間続いている息子を病院の小児科に連れて行きました。私はこの程度の咳はなんでもないと思うのですが、主人や母がうるさいので、おととい実家近くの小児科に行ったらすでに年内診療を終了した後だったため、今度は主人の実家近くの病院の最終日に駆け込むしだいとなりました。まず病院の総合受付で初診の申し込みをし、診察券をもらってから、小児科の受付へ。 年内最終日だからなのか、病院っていうのはいつもこんなものなのかは知りませんが、とにかく待つ人がそこらじゅうにうじゃうじゃ。 もともと診察を受けることにあまり気が進まなかった私は、これじゃあ却って病気になりそ~、とますます意気消沈。 結局、病院に到着してから約3時間後に晴れて名前を呼ばれるまで、ほかのすべての患者さんを見送る羽目になりました。 この間、患者である息子はベビーカーの上で約1時間の睡眠をとりました。午前中の外来が終わる頃から、出産して退院する人たちが隣の検診コーナーに続々とやってきました。 それぞれに新生児を抱いて待っている様子を見た感想。1. 私の場合は病院の個室ですべての手続きを終えた後、即帰宅することが出来たのですが、こちらの病院では部屋を出てから看護婦さんとなにやら確認をして家に帰るまでの間にかなり長い間待たされています。 新生児をあやしながら、病気の患者さんたちのすぐ横の待合所で長時間待つのはなんだか気の毒な気がしましたが、これって普通なのでしょうか。2. アメリカでは、新生児は何はなくともオムツと帽子をかぶせられます。 これは、頭から一番熱を奪われやすいから、という理由。 なので、私は家に戻ってからも1ヶ月ぐらいは息子の頭に常に綿の帽子をかぶせていました。 なのに、昨日見た新生児は誰も帽子をかぶっていなかった。 それに、アメリカでは、新生児といえどもちゃんと靴下や柔らかいブーツのようなものを履かせるのに、昨日見た赤ちゃんはみんな小さいあんよがむき出し。 胴体は柔らかいおくるみで包まれているのに、頭と足が無防備なのにはちょっと不安を感じてしまいました。で、結局、診察の結果、特に異常は見当たらず、もしも咳がすごく気になるならばと、喘息の子供に貼るパッチのお薬の処方箋を出されました。 これが効くようなら喘息の疑いもある、という程度の診断であり、私はこんなに元気でほとんど咳をしない子供にわざわざ薬を使って喘息と決め付けるのはまだ早急すぎると思ったので、昨日のところはお薬を受け取らずに帰ってきました。夜は実家でお刺身を食べたら、イカはとろ~り、ハマチも脂が乗り、中トロも美味しかったので、たったの1切れずつでしたが大満足でした。 納豆も、アメリカの冷凍のものとは違って、日本のは異臭がなく、味わいがあって美味しい!ちなみに、親がテレビで食べ物を見るたびに「おいしそ~!!」と叫ぶのをまねして、息子もしょっちゅう「おいしそ~!」とか「おいし~!」と叫ぶようになってしまいました。「おいし~!」の言い方があまりに大げさで可愛いので、バアバ(私の母)は食事のつくり甲斐があると大喜びしています。それでは、皆さんよいお年を。 来年もよろしくお願いします。
December 30, 2003
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今日はまず、年賀状を発注してきました。 昨日、当面の住居になる社宅のある場所の役所で住民票を提出してきたので、その住所案内を兼ねた挨拶状が何とか年内に発送できそうです。最近日に日にゴホゴホと咳のひどくなる息子をやっと実家近くの小児科に連れて行きましたが、年内診療は昨日で終了だったとのこと。 1月4日の診療開始までの間に何もおきないといいけれど。午後は、本当は父のお墓参りの後、祖母の家に行く予定でしたが、今日はとても寒い上に風が結構あったので、息子の体調も考慮してお墓参りは延期とし、祖母の家にだけ行ってきました。 JR線に乗った息子は大はしゃぎ。 まだ窓のほうを向いて後ろ向きに座るということを知らないので、今日のところはまっすぐ前を向いておとなしくお座りしていてくれました。 今日は母と主人も一緒だったので、実家からJRの駅までと、同じくJRの駅から祖母の家までの間はタクシーに乗りましたが、平日私一人で息子を連れて電車を乗り継いで都内を移動することが果たして今後私にできるのでしょうか。 考えただけで気が重くなりました。大ばあばの家に到着すると、最初のうちは緊張した様子の息子。 大ばあばともまともに会話をしません。 それでも自分の好きなものを見つける目ざとさだけは相変わらずで、祖母のテレビの上においてあったイギリスのバスとトラックのミニチュア模型を早速見つけては欲しがるわ、テレビを勝手につけるわ、テーブルの上においてあったみかんをつかんで食べたがるわ、今日もマイペースでやってくれました。みかんというのはくせもので、考えてみれば冬のこの時期の日本の家庭には結構みかんが箱で買ってあって(頂き物でおいてある場合もあるが)、テーブルの上のバスケットの中にも山積み、廊下にも箱が放置された状態になっているのです。 息子は日本のみかんが気に入った様子で、テーブルで1つ、廊下で1つ、と手につかんでは「please~」と持ってくるわけです。 こちらが無視すると、すでに自分で皮をむきつつ丸かじりする。 無農薬みかんでない場合には皮は食べて欲しくないので、結局親が皮をむいてやらないといけない。 このようにして、息子は毎日数個のみかんを平らげているようです。大ばあばにはおすしをご馳走になりました。 普段食べられないような特上にぎりの器には、中トロ2個、いくら、うに、ひらめの縁側、イカとマグロのシソまき、鉄火巻き、卵、甘エビなどが入っていました。 日本のおすしはオイシ~~~!! おすしを食べ終わる頃には息子が眠くてハイになっていたので、今日のところは早々にお別れして帰ってきました。 大ばあばにハグ(hug・抱擁)するのをずっと嫌がっていた息子も、最後にはちゃんとハグをして、さよならー、ばいばい、またね~をちゃんと言って大ばあばのお家を後にしました。 まずはめでたしめでたし。
December 27, 2003
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実家近くのホテル暮らしも明日で終わり。これまで毎日朝食後タクシーで実家へ行き、夜ホテルに戻るパターンを繰り返してきました。周囲の注目と関心を一身に集め、ちやほやされまくりの息子、すでに悪影響が出始めて、かなりわがまま度が増してきています。 まずい…特に甘いのが私の母。 なんといっても待望の初孫がやっと帰ってきたとなったら目の中に入れても痛くないとはこのこと、息子がどんなにワルのときでも辛抱強くかまってくれます。私や主人が用事で外出しなければならない時にも、常にベビーシッターを申し出て預かってくれます。私たちはそれで随分助かっているのですが、息子の方は「ばーばハウス」(実家のこと)に来ると親に置き去りにされる、というパターンがすでにわかっているせいか、タクシーに乗る頃までは「ばーばハウス!」と言って楽しみにしているのに、ドアの前に着くと急に「やだー」と言って入りたがらない。ま、ここまでは大したことないのですが、一番大変なのはやはり親が外出のために玄関を出て行った後。 昨日も主人と二人でドアを閉めてからしばらくの間、マンションの外廊下まで「ぱぱー、ままー」っという泣き声が響き渡っていました。この、「ぱぱー」と「ままー」の回数ですが、頻度的にはどうやら1対2の割合のようです。 あるいはもっと。 我が家は今のところ主人の労働時間も長くないので主人と一緒にすごす時間も多い方ですが、パパとママが共にいない時になきながら呼ぶ回数は、ママの方が多いそうです。(母談)これは男女に関係なく個人差があるのでしょうか、それとも、やはり男の子はママ派だから?
December 26, 2003
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久しくご無沙汰しておりました。 12月20日に無事日本に帰国しました。シカゴ-成田の13時間超のフライトは、大人にとっても退屈で辛いものなので、わんぱくちびっこにとってはなおさらのことだったと思いますが、その割には息子はよく頑張ってくれました。 これも、会社もちでビジネスクラスに乗ることが出来て、2歳未満の息子にもちゃんと座席が与えられ、スクリーンでアニメが見れたことや、お子様用機内食が出たことや、座席の周りでミニカーで遊ぶことができたおかげでしょう。しかし、子供の体内時計っていうのは実によく出来ているので、大人は「到着地の時間に合わせて今寝ておこう」とかってできるけど、子供は周りが真っ暗でみんな寝ていようがお構いなし、自分が普段寝ている時間でなければ寝てくれない。 おかげでこちらも少々睡眠不足のまま日本に到着しましたが、とにかくやれやれです。空港には二人のおばあちゃんが孫のためにお出迎えに来てくれていました。 前回日本に来たときは空港から家に帰るまでの間眠ったままだったので主人の母は寝顔しか見ることが出来なかったのに、今回は2人のおばーちゃんに「ばーば」などと言ってリップサービスもした上、京成スカイライナーの窓に張り付いたまま「カー!」「ハウス!」「クランキークレーン(トーマスに出てくるクレーンの名前で、クレーンを見ると必ずこう呼ぶ)」と、うるさいうるさい。 大いにおばあちゃんたちを喜ばせていました。最初の晩は主人の母のところに泊まり、鍋物の夕食の後は親の方まですぐに寝てしまいました。翌日からはホテルに移動。 船便の荷物が到着するまでの約1ヶ月間、基本的には実家に居候しないといけないので、会社がホテル代を出してくれる期間中はせめてホテルに宿泊することにしました。 実家にも近く、普段自腹では泊まれないような高級ホテルで比較的手ごろな朝食つきプランを見つけたので、今は毎朝ホテルで朝食をとった後、タクシーで実家に来るという生活をしています。 朝食は主人が休みの日はレストランへ行きますが、会社の日はルームサービスの方が楽なのでルームサービスを利用しています。 息子の食事は頼むと追加料金がかかってしまうので、自前のシリアルを食べさせていますが、オーダーの時に子供用の食器もお願いします、と書いておくとちゃんとミッフィやけろっぴーのついたプラスチックのボールとスプーン、フォーク、それにコップ入りのお水を届けてくれます。もちろん、ここが都内でもトップクラスのホテルだからこそ最上級のサービスが受けられている、というのはありますが、チップも渡さないのに何から何までサービスが行き届いているのには戸惑いを感じるほどです。 (アメリカのホテルでこんなにいろいろサービスを受けたらものすごい額のチップを払う羽目になることでしょう…) 初日にはベビーシャンプーやベビーローション、子供用のボディスポンジ、ガーゼのハンカチなどなどが詰まったバスケットが部屋においてあったし、ベビーベッドのリネンも毎日交換してくれるし、オムツ用のゴミ箱や加湿器も無料で貸してくれるし、子供にとっても至れり尽くせりなんです。昨日は、子供を実家に置いて主人と携帯電話を買いに行ってきました。 自宅を持たずに生活しているとなおのこと、携帯がないと本当に不便。 妹にはえ~っと言われましたが、auの家族割引のプランに加入しました。 auは確かに学割がお得なので若いユーザーが特に多いようですけど、別に年寄り(ってほど年取ってませんよ)が持ってたっておかしくないですよね??今夜は主人の姉がホテルまで会いに来てくれるのですが、イブの晩にガキンチョ連れで外食をすると人様に迷惑なので、部屋で夕飯を食べることにしました。皆さんはどのようにクリスマスイブを過ごされるのでしょうか。それでは、Merry Christmas, have a wonderful time!!
December 24, 2003
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ふ~っ、おととい何とか無事に引越しを終えました。うちは小物が本当に多いので、引越し屋もひーひー言いながら(作業員はメキシコ人だったのでひーひーではないか?!)朝の9時過ぎから夕方7時過ぎまで頑張ってくれました。で、昨日は午前中掃除のおばさんがアパートをきれいにしてくれて、それを見た大家さんが敷金を全額返してくれて、カギを返して、車を売りに行って、やっと身一つの旅行者気分になれました。今日は銀行に行って、それから主人の会社の女性とランチした後、友達とショッピングモールに行って最後の買い物をしてしまった。 (ひひひ :P)荷物全部トランクに収まるかなー…そして今夜は主人の会社の人のおうちにお呼ばれして、お鍋をご馳走になりました。 最後の夜、息子がレストランでぎゃーぎゃー言う心配をせずしてリラックスして過ごせたのは本当に良かったです。明日は正午の飛行機でいよいよ帰国です。13時間を超えるフライトの間、息子はどうやって過ごすのやら。次は日本に無事着いたら日記書きますので、今後ともよろしく~!
December 18, 2003
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ついに、明日は引越し!主人の荷物はもうすべてきれいに片付けられているのに、私のほうは明日引越し屋が来たらなんと指示してよいやら迷うものばかりを放置している。 もう夜の11時。 まだ自分で持ち運ぶ貴重品も整理してしまっていない。 あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!すみません、今日はちょっと気が触れているので、いつもと口調が変わってしまったかも。 でも、叫んでこの場がしのげるならば叫び続けたい気持ち。主人は今日出張でニューヨークに行ってしまっていていない。 明日の早朝帰宅予定。 戻らなかったらどうしよう…ろくなもの食べてないのもストレスの原因かもしれない。 買いだめ癖のある私は冷蔵庫にもかなりの食品を溜め込んでいたので、大量に処分したものの、自分で作ったおかずの残りとかはできるだけ食べちゃわないと罰があたりそうな気がしたので、今日は子供ともども昼、夜ともに残り物だけで食事を済ませました。 子供には夕食後、缶詰のフルーツポンチを開けてデザートに食べさせたので満足そうでしたが、私にとってはこれも気が滅入る原因の一つかも。 明日から数日間はホテル暮らしになるけど、子供のご飯はどうしよう。 最近、息子は自分が食べ終わると「でした~!」と言って席を立ってしまい、レストランに長居することは不可能なので、外食もままならないのです。 あー、早く日本に帰っておばあちゃんの世話になりながら少し息抜きがしたい。…と、ここまで書いて、愚痴ってばかりいてはいけないと反省。今日あったいいこと。子供のプレイグループの仲間に入れてくれて、昨年主人が病気になったときにも力になってくれたアメリカ人の友人の家に夕方ちょっとだけ遊びに行った。 もう一人のお母さんも私に最後に会いに来てくれて、子供たちにクッキーを食べさせている間、ワインでお別れの乾杯をしてくれた。 ここイリノイでは白人社会の中であまり周囲に馴染めずに暮らしてきたけれど、この人たちは数少ない友達だったので、とても嬉しかった。
December 15, 2003
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今日は主人の誕生日。ですが、引越しの最後の追い込みであまりの忙しさに何もできないので、朝、息子からカードだけ渡してプレゼントは特になし。(帰国記念に相当高価なボールペンを自分で買っていたので、あれがプレゼントも兼ねてくれるかな。)朝には我が家が2台所有している車のうち1台をトラックが取りに来ました。 こっちの車は日本に帰って乗るために、船で送ることにしたのです。昼間はとにかくずっと荷物の仕分け作業。主人は出張慣れしているせいか荷物の整理をするのもやたら早い。主人の私物はもはやほとんど箱またはトランクに詰められている。まずい…ただでさえ作業の遅い私、まだ何にもできていない。そんな中、私はついに風邪を引いてしまいました。 今回のは鼻に来た。 一人でドラッグストアへ車を飛ばして風邪薬を買ったついでに日本に持ち帰るための常備薬も購入。息子がお昼寝から起きたら、夕方は3人で買い物へ。今年2度目の倒産をした大手ベビー用品&おもちゃ屋さんへB型ベビーカーを買いに行ったら、なんと全品2割引の閉店セール。ベビーカーだけでなく、トーマスのビデオ、レール、Dora the Explorerのビデオ、それに、楽天のこの広場で見て知ったLeap Padの本体とソフトを買ってしまいました(英語教育熱心なお母様たちが選んでいらっしゃる教材なようなので)。 なんとも散財でしたが、まあ日本でB型ベビーカーを1つ買う値段ですべてが収まったのでいいか、といいかげんな納得の仕方をして、雪のちらつく中帰途に着きました。 (外は終日冷凍庫並みの寒さです…)夕飯は主人には申し訳ないけれど冷蔵庫の中の残り物整理メニューとなりましたが、かろうじてケーキだけは近所のスーパーで買ってきました。火曜日に引越しなのに主人は月曜日出張で、帰りは火曜日の早朝。 私たち、本当に何とかなるのでしょうか…
December 13, 2003
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スペイン語わからない方には失礼します。 今日はスペイン語でご挨拶させていただきます。Les deseo muy felices fiestas y un feliz Año Nuevo lleno de bendiciones.Si usted entide la frase arriba, me gustaría que me comunicara en español.Para el año que viene quiero expander mi amistad con los que sepan español en Japón.Si uste ya es parte de la comunidad española o de habla hispana, me gustaría que me introdujera a su comunidad, si se permite la participación de los japoneses.A ver cuantas personas responden a este mensaje...スペイン語のできない方でも、スペイン語圏やスペイン語に興味のある方はぜひご連絡ください。年が明けて落ち着いたら私のサイトでスペイン語に関連する内容を充実させていきたいとともに、人的ネットワークも広げていきたいと思っておりますので。もちろん、英語やアメリカに興味のある方も大歓迎です。せっかくアメリカに8年弱暮らしましたので、追々アメリカ文化や言語に関する話もしていきたいと思っています。上記のいずれにも該当しない方でも、私のサイトを見ていただいて興味を持たれた方はどうぞお気軽に掲示板に書き込みしてください。 ネットという場を利用し、地域や年齢を超えていろいろな方とお知り合いになれるのを楽しみにしております。
December 12, 2003
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今夜は主人の会社のクリスマスパーティ&送別会でした。会場は、会員制のカーリング(っていうスポーツ知ってますか? 漬物石みたいな円盤を氷の上でまっすぐ運ぶ競技です)&ゴルフクラブのクラブハウスのレストラン。 会社の現地従業員の一人が地元出身のお坊ちゃんなので、彼の計らいで昨年もここでディナーをしましたが、今年はリモートオフィス(営業所)の従業員もカップル(配偶者や恋人がいない場合は家族や友人を同伴してもよい)で参加したため、個室を借り切っての豪華で素敵なパーティでした。お酒には決して強くないものの飲むことが大好きな私は、最初のカクテルアワーの時にブラディーマリーの辛口を注文しました。 出来上がったカクテルには、タバスコがいっぱい入っているのはもちろんのこと、ウォッカの分量もかなり大目でした。 昨夜の寝不足に加え、カクテルを飲んでしまったあとフルコースディナーの間にも赤ワインをちょいちょい飲んだ結果、会がお開きになる頃にはとても眠くなってしまいました。 特に醜態はさらさなかったものの、みんなが挨拶している時に何度かあくびをしてしまい、さらには主人の運転する車に乗った次の瞬間には居眠りしてしまいました。 ちょっと反省。ディナーの始まりに、従業員全員から主人にプレゼントがありました。 それは、クリスタルでできた板のようなオブジェ(置物)で、そこには会社のロゴとメッセージと従業員全員の名前が刻まれていました。 8年以上前にこの事業をゼロから企画し、以来運営してきた主人にとっては最高の記念品です。 成功するかどうかもわからない新規事業のためにアメリカ転勤してきたときには、まさか自分が帰国する時にこんなにもたくさんの立派な従業員を抱え、事業が拡張を続けているとは夢にも思っていなかったのです。 ディナーの締めくくりに挨拶した主人は、このロゴを見つめながら、ロゴにまつわるエピソードをみんなに話していました。 それは、主人が当初誰もが大して感心を寄せていなかった事業の会社を設立した時に、会社のロゴを作りたいと上司に相談したところ、仕事もないのにロゴどころじゃないだろう、と反対され、仕方がないので当時私の仕事上の取引先であったデザイナーに事情を話して特別料金で簡単なロゴをとりあえず作ってもらったものの、そのロゴは決して洗練されたものとはいえなかったため、後日会社の事業が軌道に乗ってきた頃、アメリカのデザイン会社にまともなお金を支払ってリデザインしてもらった結果、現在のロゴが出来上がった、という内容でした。 このたび会社の事業拡張に伴い社名が変更になるようですが、この事業プロジェクトの歴史を秘めたこのロゴを社名変更後にも引き続き使って欲しいと言って話を締めくくっていました。私がのらくらと学生生活を送っている間に主人は相当な苦労を乗り越えてきたんだな、としみじみ思わされたエピソードでした。
December 11, 2003
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この日記は木曜日の朝書いています。昨夜は、こちらで仲良くしている日本人のお友達と出かける予定を立てたところ、主人も息子とのお留守番を快諾してくれたため、夕方主人が帰宅すると入れ替わりに私はシカゴの街に向かって家をでました。ダウンタウンに住む友達の家の近所の駐車場に料金を確認して車を停め(オーバーナイトで$29でした)、友人宅からはタクシーでレストランへ。 この時期は特に取締りが厳しいかもしれないことを考え、drink&driveはしないことにしました。到着した地元の人に人気のイタリアンレストランでは1階のテーブルは2人でも40分待ち。 2階のバーの横のテーブルならすぐ座れるよ、と言われたので2階へ移動。 車の心配がないからキャンティクラシコのリセルバを1本注文し、アペタイザー(オードブル)にはムール貝のスパイシートマトソース味を選びました。 ムール貝、臭みがなくって身がぷりぷりしていておいしかった!続いてメインはパスタ1皿とチキンサルティンボッカを頼んで、2人で分けることに。 気取った店では一人一皿が原則で、取り分けることはしませんが、こんなカジュアルなとラットリアであればOK。 あらかじめこれらの料理はシェアしますと伝えておいたため、登場した料理は一人ずつの大皿にすでに取り分けられていました。 これなら料理の皿と取り皿とでテーブルがあふれかえることも防げます。ところで食事中に窓から外を見ると、大雪ではありませんか! 昼間は小雨がずっと降っていたのですが、一度止んだかと思われた雨が夜の気温の下降にともない雪に変わったようです。 どうしよー、車、屋外に駐車してきちゃった。 明日の朝、主人が会社に行く前に家に帰らなきゃいけないのにー…料理の分量はかなり多かったので残してしまいましたが、デザートはやっぱり食べたかったので、一人一品ずつ注文。 私はバナナブレッドプディングにバナナチョコレートアイスクリームが乗ったもの。 甘すぎず、おいしかったけどやっぱりボリュームがありすぎて全部食べられなかった。 ごめんなさい。食事の後は、シカゴの夜にふさわしく、ブルースクラブへ。 私はブルースというものについてほとんど何も知りませんが、東京やサンフランシスコではブルース好きの友人と何度か聞きに行ったことがありました。 シカゴはブルースで有名なところらしく、昨夜行ったこの店は観光ガイドブックでもよく紹介される有名店らしいです。 入り口でIDを見せて(21歳未満は入店不可)、入場料($12)を払い中へ入ると、店内にはステージが2つあってそれぞれの前にテーブルがたくさん並んでいます。 2つのステージで交互にライブが行なわれる模様です。 私たちは1つのグループの演奏しか聞きませんでしたが、知っているチューンもいくつかありました。 ただし、歌詞とかせりふの部分は一部(全部?)アドリブでやっているところがあるようで、周りのお客さんが反応を示しているのに私には聞き取れなくてわからないところもありました。 黒人の英語は発音にも言い回しにも特有なものがあるため、全く耳が慣れていないせいもあります。 一緒に行った友人が「客は白人がほとんどなのにどうしてみんなにはわかるのかな」と言うので、わたしは自分なりの見解として「それは東京の人が関西弁の漫才を聞いて笑うのと一緒で、自分では同じようにはしゃべれ(ら)ないけど聞けばわかるんじゃないのかなー」と答えてしまいましたが、本当のところはどうなんでしょうか。 まだまだ私も英語の修行が足りません。店を出てふたたびタクシーで友人宅へ戻ると、彼女が「うちジャグジーあるよ」と言うので、それではお言葉に甘えてバブルバスに入れさせていただきました。 バブルバスの素をお湯に入れてジャグジーのスイッチを入れたら、メレンゲのようにきめが細かくてしっかりとした泡が立ちすぎてしまい、ジャグジーのほうはすぐに止めなければなりませんでしたが、ちょっと映画のシーンみたいな自分の入浴姿を見ながら、こんなバブルバスもアメリカ滞在最後にふさわしい経験かしら、と、ちょっと大げさに思ったのでした。結局おしゃべりが長引いて、昨夜床についたのは2時半を回った頃だったにもかかわらず、朝はちゃんと7時に起きて、コーヒーを一杯頂いてから帰途に着きました。 通勤ラッシュとは逆向きなのでそれほど混んでいなかったので、8時過ぎには家に着きました。 あー、なんて久しぶりの朝帰り。
December 10, 2003
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いよいよ1週間後の今日、我が家は引越しです。このごろ楽天が楽しくてかなりの時間を割いている私ですが、いよいよこんなことしてる場合ではなくなってきました。船便で引越業者に持っていってもらう荷物と自分たちで持って帰る荷物および航空便の分を仕分けし、住所変更手続きをすべて済ませ、送別会に参加し、少しは子供の相手をし、お土産も含めた最後の買い物を済ませ、発つ鳥後を濁さないよういろんなことを片付る期限がついに迫ってきたのです。明日からは、皆さんのところへ書き込みするのは一時中断するようにするつもり(だって、書き込みするとまた行って返事を読みたくなって、そのついでにいろんなところ見に行っちゃうと、ゆうに2時間ぐらい使っちゃうのです)ですが(完全にしないとは言い切れない…)、皆さんとはこれから先の長いお付き合いをさせていただきたいので、どうか私のこと見捨てないでくださいね。一言でもいいから日記ぐらいは記入を継続するつもりですので、何か面白いことやいいこと悪いことがあったらとりあえず私の掲示板に書いておいて頂ければ、それはちゃんと読みます。今日は雨。 今のところ気温が少し高めなので雨ですんでいますが、夜間に気温が下がって雪になるといやだなー。 明日から気温が下がるらしいので、雪に降られると予定の行動が麻痺してしまう! どうかせめて晴天でありますように…それでは、また明日~。
December 9, 2003
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今日は習っているテニスの最後のクラスでした。年内の本当の最終日は来週の月曜日なので、我が家の引越しの日程も私のテニスやりたさから最終日の翌日に決めたものの、やはり引越しの前日に悠長にテニスしてる場合じゃないだろう、と誰に言われたわけでもなく反省したので、今日で終わりにしました。初級者として今年の夏から始めましたが、テニスって楽しいですね~。母は私を幼稚園に入れてからテニスを始めて今もやっているので、すでにテニス歴30年超ですが、何度か勧められたときにも私はあんまりやる気がしなかった。だけど、子供ができて、そんなに遠くに出かけたり自分のために長い持間が取れないときにも気軽にできるかな、と思って始めたテニス、初級者の壁を越えたあるときから急に面白くなってきました。テニスをやっている間にもう一つ良いことが。 それは、息子が託児所でよい子に待っていられるようになったこと。 今年に入ってから息子は託児所を極端に嫌がるようになってしまったので、入っていた託児所付きスポーツクラブにもお金だけとられていかれずじまい、託児所付きテニスコートでのレッスンの間1時間半すら待っててくれないのでしょうがないからベビーシッターをわざわざ雇って高いテニス(って言ったって、日本よりははるかに気軽にベビーシッターが使えます)を始めたものの、先月のある日突然ベビーシッターからもうできないって(古い車を売ってしまったので足がなくなったと)言われてしまい、えーーっ、せっかく引越しの前日までテニスできるように予定組んだのに、そ、そんなー…と思いつつ、よし、息子も夏からまた成長したに違いない、もう一度最後の望みをかけて託児所を利用しよう、と連れて行ったところ、コートでいつ呼びに来られるかとはらはらしている母親をよそに息子は楽しく遊びほうけていた模様。 その翌週も、そして今日も。 今日などは、託児所を去るのを嫌がるほど。これなら、日本に帰ってからもよそにお預けができそうなので、少し安心しています。東京に帰ったら母の入っているテニスクラブにたまに行かせてもらおうとひそかにたくらんでいます。 そして、母の足元に強烈なサーブを打ち込み、母の返球をアグレッシブなボレーで向こう側の無人地帯に押し込もう、などと親を負かすことを考えながら練習に励んでちゃいけませんよね。 親は立てないと…
December 8, 2003
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さて、我が家もいよいよ帰国まで秒読み段階に入りつつあります。ってことで、ありがたいことに、いろんな人たちから送別会をやっていただけるようなのですが、今夜はその第一弾がありました。今日の集まりはこちらの日本人のお友達グループ。会場は韓国料理屋のお座敷で。こちらで韓国料理屋に行くと、まあ、韓国ではもちろんそうなんでしょうが、まずテーブルに小皿に入った数々のお惣菜が並びます。お惣菜はメインの食事料金に込みで、おかわりもできます。今日のレストランは日本の七輪のような本格的炭火焼。日本で食べたら高いだろうな~というような厚手の骨付きカルビの大皿がテーブルに並びました。 他にブルコギ、イカ、生カニの辛味漬、鳥焼き、えび焼き、野菜、などなど。ビールはもちろん韓国のOGビール。 後にジンロも出てきましたが、運転手の私は今夜は我慢。ところで息子はいつも家で食事するとき、(私が販売している)お食事エプロンをします。 たまにご飯が目の前にあるのにエプロンをしていないときは"Apron!"などと言って自分から催促します。 なのに、最近困ったことがあって、と言うのも、最も洋服にしみを作って欲しくない外食やよその家に行った時に限って、息子はエプロンを嫌がり、「やだ~」と言ってすぐにむしりとってしまうのです。 これは多分、自分だけがベビーのようにエプロンをしていて、他の人はしていないことを意識した結果なんだと思いますが、親としては家にいるときはちょっとぐらいこぼしてもいいけど、外にいるときこそちゃんとエプロンして欲しいんですけど…。話を戻すと、今日、感動したのがみんなからのプレゼント。 それぞれにシカゴの思い出となるような品々を選んでくれました。 アメリカの主要高層ビル(サンフランシスコのトランスアメリカやシカゴのシアーズタワーももちろん入っている)の絵、シカゴにまつわるエッセイ集、シカゴ名物のロゴの入ったアメリカンサイズのビッグなグラス、日本の家の玄関に飾れるようにとWelcomeの札、シカゴアートインスティテュート(シカゴを訪れる方には絶対おすすめの美術館です)のガイドブックとパズル、そして息子には「日本語の」トーマス絵本。みんなの温かい気持ちがひしひしと伝わってきました。ちなみに主人がアメリカに会社を設立して以来ずっとお世話になっていたコンサルタントからはサンフランシスコの美しい写真(額入り)を前に頂いていたので、日本の我が家の狭い壁には所狭しとアメリカの記念グッズが飾られることでしょう。あー、こうしてまた一つ、別れの場面を経験してしまった。人生長く生きた分だけ出会いも多くあるけれど、別れの数も増えていく…。The longer you live, the more hello and good-bye you say, ってか?
December 7, 2003
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さーて、そろそろ日本で使う家電のリサーチを始めました。アメリカ生活ですっかり洗濯機⇒乾燥機に慣れてしまいましたので、以前日本に住んでいたときのように乾燥機なしでの生活はちょっときついかな、と思い、昨今流行のドラム式洗濯乾燥機を眺めています。 が、値段が高いうえに、乾燥機としての機能は単独の乾燥機に比べ落ちるなどという意見を耳にしました。 でも、狭い日本の住居で1台2役の家電は魅力ですよね。 また、ブランドに関しても、輸入物の超高価なものから国産品までさまざまなようです。 ヨーロッパではドラム式洗濯機ってかなり昔から普及しているのでやはり信頼のヨーロピアンブランドのものがいいのでしょうか、それとも、日本の事情に合わせて作られた日本製がいいのでしょうか?ドラム式洗濯乾燥機について知っている方、どんなことでもいいので教えてください。
December 6, 2003
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今日は私の大好きなジュエリーブランド、Dyrberg/Kernのことをちょっとだけ書きます。実は、先ほど欲しかった今シーズンアイテム数点のお金を支払ってしまいました。私はダイヤモンドのアクセサリー数点とちょっといい時計(2個ともに完全防水)をいつも大切に身に付けている以外、高級ジュエリーを保有しませんが、シルバーとか貴石のお手ごろジュエリーをちょこちょこ買うのは結構好きです。 でも、このデザイナーのジュエリーは金属部分はめっきだし、石もクリスタルとかなのにそれほど安いわけではないので、めったには買えません。何より、私が住んでいるイリノイ州には代理店がないので、サンフランシスコにいたときみたいにちょこちょこお店を覗いて商品をチェックすることができません。 なので、どうしても欲しいときはメールでディーラーに連絡して送ってもらいます。ちょっと過激なイメージのサイト、http://www.dyrbergkern.com/default2.asp でそのブランドについて知ることはできますが、イメージ写真ばかりで実際の商品ラインアップについてはここではわからないので、手元に私の注文した商品とカタログが届いたらそのうちアップしますね。日本にはまだショップがないようなので、私に資本金があれば代理店になりたいところですが、自力ではとても無理。 どなたかお金が有り余って困っている方がいたらご紹介くださ~い…
December 5, 2003
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さあ、今日はすこし話題を明るくして、息子の英語教育についてお話しましょう。といっても、我が家の場合は「教育」というより、単に日常生活の必要上から会話に英語を取り入れているだけなのですが。今日でちょうど23ヶ月になった息子は、アメリカ生まれ。 妊娠中は母親が6割がたスペイン語で会話をしていたので(残りは英語と日本語の半々?)、胎教ではスペイン語にちょっぴり親しんだはずでしたが、生まれてからはやはり日本語が8割。 言葉のしゃべれないベビーにはあえて英語で話しかけたりしていませんでしたので、ここでいっきに日本語データベースを構築。 一方、生後5ヶ月の時にイリノイに引っ越してからは母親もほとんどスペイン語を話さなくなったので、スペイン語はお休み。 たまに頼んでいたベビーシッターは英語で話し掛けていたし、母親もアメリカ人と一緒になるととたんに子供にまで英語で話し掛けるので、ここで一気に英語データベースを構築。 我が家には当初日本語のビデオが全くなかったので、テレビやビデオも英語。 そんなわけで、日本人の両親のもとに生まれながら、息子は幸いにして日本語と英語の音に同じぐらい耳が慣れてきています。 (スペイン語は母親がスペイン語圏の人としゃべるととたんに息子にもスペイン語で話し掛けるので、少しは聞いています。 この間スペイン人の集まりを去る時には、いつもの「ばいばい」ではなく「あでぃおーす」と言っていたので、母親感動。)息子の一番の英語教材はトーマスビデオ、トーマスのカタログ、トーマスの絵本です。 カタログはもう卒業しましたが(すべてのキャラの名前を覚えてしまったので…)、一時期はカタログ狂で、私は何度となくキャラクターの名前を端からすべて言わされました。 ちなみに覚えた名前はすべて英語読み。 ビデオの歌のうち何曲かは私がかならず一緒に大声で歌うので、テレビの音から学んだのか、私の声から学んだのかはわかりませんが、息子もそれらの曲のさびの部分を歌います。 "Toby, OH, Toby~♪"とか、"Haaroldooo~♪"とか。 今日夕方車で外出したときには、息子はチャイルドシートの中でずっと"Thomas, love you~♪"(Thomas I love youのIがかならず抜けている)を歌っていました。 "Island of Sodor"というところでは必ず"I Sodor~♪"になってしまいます。 まだ子音の組み合わせで発音できないものがたくさんあるようです。 大好きな曲、"Let’s have a race"も一度もまだ出てきません。数字は1から10までを3ヶ国語で教えてありますが、本人が勝手に独り言で数を数えるときはなぜかいつも英語です。 4と7と9が必ずと言っていいほど抜けるので、one, two, three, five, SICK(sixとは言えない…), eight, TEN!!とよく叫んでいます。今日はお買い物を数件はしごしたのですが、1件目の店を出た時に息子が"shopping~!"と言うので、"Do you wanna go MORE shopping?"と聞くと、"shopping~!"。 しかし、2件目を終えるとなんと車の中で、"More shopping~!"。 これには私も驚きました。 ちゃんと応用している…。 ちなみに3件目を出たあとも同じだったので、今度は私が"If you wanna go more shopping, we can go tomorrow, but for today, we are not gonna go more shopping. We’re going to have DINNER!"と言うと、"dinner, cheeeese, cheese pan!"(パンはbreadではなく、スペイン語と日本語に共通のpan)。 この間ハンバーガーやさんでわざわざ息子のためにチーズホッとサンドを頼んだら、一口も食べずに残したくせに、本当はチーズ好きなのだろうか…? というわけで、晩御飯は手抜きのマカロニチーズ。今日は夕飯を食べ終わったら遊ぶ元気がなかったみたいで、すぐに「ねんね!」と自分から日本語で言う。 「ねんね」は絶対に日本語がいい。 "go to bed"とか"go to sleep"というより、眠る感じがする。 なので、歯磨きをしてオムツを替えてパジャマに着替えて、「がんきー」("blankie"、つまり毛布のこと。子音BLの組み合わせは言えない)を渡してcrib(ベビーベッド)に入って「ぐんなーい」。 真っ暗闇の中で勝手にオルゴールをつけて聞きながらしばらくごそごそしたあと、寝てしまう。日本に帰ったらどうやって英語教育を続けるのが良いのでしょうか…
December 4, 2003
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3日間にわたって過去のことについて書いています。たまたま主人の病気のことについて触れたのがきっかけで回想文を書き始めましたが、これは実は私にとって、絶対にしておくべきことだったのです。 人の記憶はあいまいではかないものです。 去年、人生でもそう味わうことのないであろうさまざまな出来事を体験している間は、このことは一生忘れないであろう、などと思っていましたが、人間の脳みそなどもろいもの(特に私のは)、もうすでに多くの詳細についての記憶があいまいになってきています。 普段日記もつけていない私にとって、この場であのときのことを書き記すことにはとても意味があるので、読む人の退屈を無視してもう少しだけ書き綴ります。私の父は近年目に見えて老け込んできていましたが、昨年春、5ヶ月の息子を日本に連れて行き、初孫に対面させたところ、急に生気がよみがえってきて生きる望みをふたたび見出したかのように見えました。 私たちの滞在中、目尻が下がりっぱなしで、息子のお昼寝中にも何度となく寝顔を覗きに行って大喜びだった父。そんな父がそれから間もなく、おなかの痛みを訴えました。 かかりつけの医者経由病院に行って検査をするも、原因がはっきりわからない。 何度か同じ検査を重ねたら、ついに結果がでました。 そう、あの、不治の病でした。しかも、運の悪いことに、父の症状はかつて某テレビ局の某人気アナウンサーがかかったものと同じタイプの悪性腫瘍が大腸にできたもので、これは胃にできるケースに比べても非常にまれなのだそうです。 この種の腫瘍の場合、通常の悪性腫瘍のように手術で切除することができないそうなので、唯一残された望みは悪性細胞との共生です。初孫とのご対面から約3ヵ月後、父は抗がん剤治療のために入院しました。最初のうちは薬剤の投与が1クール終わると帰宅してご馳走をほおばっていた父。 それでも治療がすすむにつれ見た目にもやつれ、食欲も落ちていったのですが、主人が入院騒ぎになったのはまだ初期の頃でした。 主人のことを伝えると、驚き、慌て、嘆く両親でしたが、そのときには身動きが取れません。 電話で、メールで、こちらに助けに行かれなくてすまない、自分たちのほうは心配ないから私は主人の回復のために全力を尽くせ、この人生最大級の困難をそれぞれに乗り越えよう、と励ましてくれました。しかし、病気の原因がわかったときから自分の症状についてすべてを把握していた父にも、ついに知らされざる事実がドクターから母に言い渡されました。 余命あと1ヶ月、海外にいる娘さんたちを今呼び寄せないと後悔しますよ、とのこと。 そのニュースが母からメールで伝えられたのは、主人が無事退院し、自宅でのリハビリを開始してまだ間もない頃でした。 当時、私の妹は2年間の任期で南米の某国で仕事をしていたので、私は急遽妹と打ち合わせ、一緒に帰国することに。 主人は(見た目はぜんぜん大丈夫じゃないのに)僕はもう山場を越えたから大丈夫、お父さんのところへ行ってあげなさい、と言ってくれた。 こんな病人の主人を一人残していくのはつらいものの、一方うるさい子供がいなくなったほうがのんびりリハビリができるという事実も考慮し、母子は日本へと旅立つことに。こちらにはそれほど知り合いもいない状態でしたが、主人の会社の東京本社からはピンチヒッターが来てくれていたし、たまたま加わったばかりの地元のニューカマーズクラブ(新しく越してきた人たちのための集まり)の人たちが1週間に3度夕食を届けてくれる(もちろん、ボランティア!!)という、アメリカの郊外ならではの素晴らしい人々の申し出に助けられ、おまけに息子のベビーシッターをたまにしてくれていたおばさんが週2回、数時間ずつ食事の世話や掃除に来てくれることになったり、日本人の知り合いがたまに日本食も届けてくださるというので、本当に皆さんのおかげで私は父のところへ行くことができました。父には何も知らせていなかったので、私と妹が突然病室に現れると、居眠りからさめたばかりの父はこれは夢か、と狐につままれたような表情で一瞬私たちを眺めた後、大喜び。 今まで娘たちに心配をかけるまい、と自分を制して頑張ってきた緊張が一気に解けたように、心から嬉しそうでした。それからは毎日誰かしらが家で赤ん坊とお留守番しながら、交代で病院通い。 父は私と妹に昔話をしたり、なんと私には内緒の話までしてくれました(母と見合い結婚する前の恋人のラブレターをどこにどう葬ったかとか)。 でも、だんだん長い間話ができなくなり、大好きだった読書もできなくなり、 …(中略)… 最後にはかなり苦しんだ挙句、結局父はこの世を去ってしまいました。葬式は一切するな、という生前からの遺言を尊重して、家族だけでの密葬。 その後間もなく、仕事をこれ以上放置できない妹と、主人をこれ以上一人にしておけなかった私は母一人を残してそれぞれの場所に戻りました。帰宅してみると、主人はその間にかなりの回復を遂げており、車を運転したり、会社の書類に目を通したり、会社にたまに顔を出すようにすらなっていました。 退院直後の頃にはひどい頭痛に悩まされていたのも、今では薬なしで何とかやり過ごせるほどに。 (アメリカ人だったら当然強い薬を飲み続けたであろう程度の頭痛は残っていたようですが、さすが、痛みに強い日本人!) 普段料理は全くしない(できない)のに、カレーや焼肉も自分で作って食べていたそうです(ともに一度だけ…)。 結局、家族3人で紅葉を見ながらの静養旅行には行かれずじまいだったけれど、主人は徐々に勤務時間を延ばしていき、ついには職場完全復帰を果たしました。主人の体をあんなに気遣ってくれていた上司や同僚の記憶も、しかしながら、結構簡単に消えてしまうものなのでしょうか。 半年後に執刀主治医との面談をしてすべて良好、今後同じ病気にかかることはまずないだろう、という太鼓判を押されてしばらくしてからは、妻である私でさえあの病気のことを忘れて主人にがんがん物言いしてしまいますし、主人の仕事もかつてをしのぐハードさ。でも、健康のありがたみと日頃の健康管理の重要さだけは常に頭の中から抜けないようにして、さらには日々の健康管理をきちんと実践していこう、と改めて思います。
December 3, 2003
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では、昨日の続き…主人がIUC病棟に移された頃、会社関係の人で某大学病院にコネのあるという人が現れる。 某大学病院はこのエリアではトップクラスの病院なので、そこの病院で治療が受けられるならばそれに越したことはないので、当たってみていただいた。 が、夕方遅くに連絡があり、そちらの病院の脳外科チームは明日の朝の手術のためのメンバーがそろえられないとのこと。 この病気は早く処置したほうが助かる見込みが高いので、いたずらに時間を過ごすことはできないと思い、当初運ばれた病院で手術を受けることにしました。ところが、夜11時半過ぎに、たまたま昼間電話しておいた数少ない知り合いの一人のアメリカ人から電話があり、他の病院を当たったのかと聞かれる。 某大学病院で断られたことを話すと、じゃあXX大学は、というので、私はこのエリアでどこの病院が良くてどこが良くないのかとか何も知らないし、知り合いもいないので何もしていない、と伝える。 すると彼女、「とにかく今から病院に行くから待ってて」といって深夜に病院に駆けつけてくれました。彼女のだんなさんは中東の出身で、中東のお金持ちがアメリカで高度な医療処置を受けられるよう手配するようなことを仕事にしています。 よって、この病気ならこの病院のこのドクターが一番、などという情報に詳しく、彼女が駆けつけた時に手にしていた紙切れには3人の脳外科ドクターの名前が。 一人は最初に断られた病院の人なのでボツ。 もう一人(二人だったかな?)はXX大学病院に所属。 彼女に、主人を移送する意思があるかどうか聞かれる。 私は意識ももうろうとしかけている主人と相談し、もし自分たちが日本にいたならばたまたま運ばれた救急病院でなく、少しでも優れた病院で手術を受けるであろうことを考え(しかも盲腸などではなく脳の手術!!)、移転を希望。 深夜に彼女がXX病院の宿直の脳外科のドクターと相談し(そう、そこの病院には脳外科の専門医が常駐しているのです)、翌朝手術の手配を付けてくれる。深夜の患者の移送手続きも病院間でしてくれる。 XX大学病院はヘリポートも備えているので、ヘリで移送、ということになりそうだったのに、こちらの病院にはヘリポートがないのでヘリは使えない。 そこで夜中の3時過ぎに救急車が到着し、そこから夜間で約30分離れたXX病院へと引越し。XX病院の脳外科のICUでは良くなりかけた患者さんを普通病棟に移して部屋を空けてくれたばかりなので、なんと当直の先生自ら掃除を手伝って準備してくれていたとのこと。 こちらの病院は脳外科のICUだけで10室ほどあり、スタッフも皆プロフェッショナルな様子。 午前4時半頃に一段落したので私は主人の会社の人と待合室で仮眠することに。午前7時過ぎ、主人は手術室へ運ばれていく。 開頭手術に当たるのは、学会では世界的にも名の知られたドクターM。 ちょっと神経質そうで、クールな感じのハンサムなドクターです。 手術には3~4時間かかるとのことなので、待合室で待機。 カフェテリアで昼食を取り、もうそろそろかな、と待ち続けたものの誰も何も言いに来ないので不安が募る。 結局5時間ぐらい待ったところで手術に立ち会ったナースが来て、手術は無事終わったのでしばらくしたら主人が部屋に戻ってくるとのこと。 まずはホッと胸をなでおろす。それからしばらくしてついに主人とご対面となる。 白い包帯で頭をぐるぐる巻きにされている。 私が誰で、どこで今何をしているのか、はっきりはわかっていない様子。 看護婦さんが何度もここはどこ、今日は何日、といった質問を繰り返しているが、日付についてはたまに間違えてしまう。 そんな主人の様子を見ていると涙が止まらない。 手術前は痛がりながらもきちんと話ができたのに、今はすべてが混乱しているみたい。 看護婦さんやドクターはこういう状態は術後には良くあることなので心配要らない、と言うが、もしこのまま良くならなかったらどうなるのだろう、という不安は消えない。 その日はとりあえず10分ぐらい病室にいただけで帰る。一方日本からは主人の母が病院に直行で駆けつけてくれたので、息子をピックアップして3人で一緒に家に戻る。 何もわからない赤ちゃん。 平日の昼間だと1時間はかかる距離にある病院の集中治療室にいる主人。翌日からは毎日昼ごはん時に病院に到着し、夕方のラッシュの前に病院を出る生活が続く。 日本では脳の手術を受けた患者さんにどういった接し方をするのか知らないけれど、この病院の看護婦さんたちは主人を病人扱いせず、単なるけが人のように扱う。 だから、ご飯も自分で選んで注文し(さすがアメリカの病院、アメリカンフードのメニューの種類は豊富で、前菜、メイン、デザート、飲み物の種類まですべてこまかく選べるようになっており、また選ばなければならないのです)、自分で食べなければなりません。 主人は食欲がないといって食べたがらないけれど、看護婦さんはたんぱく質だけでも食べろと言ってサラダの上に乗ったグリルドチキンを勧める。 主人は元気なときでもこういった食事はあまり好まないので、この先こんなものばっかり食べろ食べろと言われてもかわいそうだなと思い、果物やおにぎりを毎日持っていったのだけれど、それすら食べさせるのに一苦労。 おにぎりも一口かじっただけで放置されてしまう。 みるみる骸骨のようにやせていく主人。数日後、歩行訓練を開始。 バランス感覚がまだあまりよくないのでまっすぐ歩けない。 病院の廊下を一周して終わり。 その後、徐々に歩く距離を延ばしたり、階段の上り下りを練習する。術後の経過はまずまずだったがまだ安心はできない。 手術後3~5日目(だったかな?)に起こりやすい合併症のような症状(血管の収縮が起きるらしい)がでる危険性があって、手術がうまくいってもこの合併症によって命を落としたり体の機能が麻痺してしまう人がいる。 毎日多量の痛み止めと吐き気止めと血管を広げる薬を大量に飲む。 自律神経も狂い気味なので極度に寒がったり、食事をすぐにもどしてしまったり、また、血液が少量脊椎に入り込んだことによる腰の痛みもひどいらしい。 マッサージしたり、ベッドのマットレスをエアマットに変えたりするが、始終愚痴が耐えないので、病人のわがままとわかっていても、看護する側にとっても結構辛い。8日目に一般病棟に移る。 ICUでは患者2人につき1人の看護婦さんがいるので、呼べばすぐに対応してくれるが、一般病棟では1人の看護婦さんが10人近くの患者さんの面倒を見ているため、呼んでも薬を頼んでもすぐには来てくれない。 主人は「僕はまだ重病人なんだぞ、ICUに戻してくれ」と言うが、ICUは生命に危険のある人が入るところなので、危険が去った以上は置いてくれない。 が、2日目の午後、合併症が起きていないかどうかを見る検査の結果が芳しくないので急遽ICUへ戻ることに。 本人も私もちょっと安心。 結局危機は乗り越え、17日の入院後、退院。退院して家に帰るその足で家具屋に行って、安楽いすを注文する。 なんだか病院をこっそり抜け出してきたかのような風貌で顔から頭にかけて傷のある客を接客した店員はきっと内心びびっていたに違いないが、主人がいろいろないすに座ってみて試した結果、結構なお値段のリクライニングチェア―を買うことになるが、これから1ヶ月間、寝たきりにならないようにリビングルームで座って過ごすためのいすだからケチるわけにはいかない。会社の東京にいる上司は仕事のことは一切心配要らないからリハビリに最善を尽くしてくれとのこと。 その言葉に感謝しながら、自宅でのリハビリ生活が始まる。 最初のうちは寝ている時間が多いし、文字も読みたがらないが、それでも階段の上り下りも自分でするし、シャワーも自分で浴びるので立派なものだ。そんなリハビリ生活が10日目に入った頃、今度は別の大問題が発生。続く…
December 2, 2003
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…昨日突然シリアスなテーマに触れてしまったので、それについてお話します。我が家は昨年5月末にカリフォルニアからイリノイ州に引っ越しました。 サンフランシスコでは市内の住宅地に住んでいたのであの美しい街を庭のように動き回っておいしい食べ物を堪能しまくっていましたが、今回は子連れでの引越しとなったのであえて誘惑の多い市内は避けて、郊外の閑静な住宅街に落ち着くことになりました。 カリフォルニアとイリノイではカルチャーもかなり違うし、郊外は退屈だし、何より私は以前自分が大学で友達の輪を広げたように友達を作ることができなかったのでいつも"Illinois sucks!"とカリフォルニアの友達に言っていました。(ここでジョークを思い出しました。 スウェーデンのElectroluxという電機メーカーが自社の掃除機を北米市場で宣伝する際に"Electrolux Sucks"というキャッチコピーを作ったそうですが、これではこの掃除機、アメリカで売れるわけがありません。 なぜだかお分かりですか? suckという単語は確かに吸い取るという意味の動詞なのですが、米俗語では「使えない」「しょうもない」という意味にしばしば使われるのです。)さて、話を戻して、イリノイに引っ越して間もない8月、我が家はつまらない日常を脱出すべくナイアガラの滝&トロント旅行、そしてその翌週末にはサンフランシスコへと、楽しく旅して過ごしておりました。 (あの頃は息子もbabyだったので、どこへ連れて行くのも楽チンでした…)楽しかったサンフランシスコから戻った翌日の昼頃、主人の同僚のアメリカ人から電話がかかります。 なにやら、今、病院へ向かう救急車の中からとのこと。 冷静になって行き先の病院の住所を書き取り、お昼寝していた息子を無理やり車に載せて病院へ直行。救急入り口から中へ入って案内されたのはICUの個室。 そこには毛布でぐるぐるまきにされてげーげーしている主人がいました。 ものすごく頭が痛いそうです。 会社でたまたまトイレに行った時に突然ハンマーで後ろから頭を殴られたような激痛に襲われ、そのまましばらく動けなくなったもののなんとか這い出して廊下を渡ってオフィスに戻り、同僚を呼んだそうです。 私たちは引っ越して間もないし持病もないのでそのときホームドクターというものを持っていなかったので、とりあえず同僚のアメリカ人の車で彼のドクターのところへ行こうとしたらしいのですが、主人がこの痛みは尋常じゃないから脳に何かが起きたに違いないので救急車を呼んでくれ、と頼み、救急車で病院に運ばれる次第となったようです。私が到着したときにはすでにCTスキャンを終えていたようで、しばらくおろおろとしていると、ドクターに呼ばれ、病状の説明。症名はsubarachnoid hemorrhage caused by rupture of aneurysm. 辞書も持たずに病院に駆けつけた私にsubarachnoidの日本語訳は浮かばないものの、ドクターの説明の内容はよくわかる。 要は、脳の動脈瘤破裂による出血。 場所は前頭葉のあたり。 ドクターは、主人の場合出血が比較的少量なので助かる見込みは十分にあるが、"One third of people who have this, DIE."といきなり言う。 "The other third of people, LIVE, but with some PROBLEMS..." OK... "And the other third, live normally".家族も友達も知り合いさえもろくにいず、幼子を抱えた私。いきなりこんな説明を受けてがががが----ん!!このままほおって置いてもそれなりには治るが、破れたところをクリップ止めする手術を受けたほうが賢明とのことなので、どうしていいかわからない、他に相談する人もいない私はドクターの勧めに従うことに。その後、会社の日本人や数少ない知り合いにとにかく電話をして、その晩のベビーシッターの手配をする。主人は日本の大手企業の社員ですが、アメリカではずっと子会社の仕事をしています。 なので、直属の同僚はニューヨークと東京にいるので、まずはニューヨークの同僚がその日の夕方の飛行機ですぐこちらに駆けつけてくれることに。 本社の事務所の日本人も次々と病院に駆けつけて励ましてくださいました。息子は、わらをもすがる思い出電話した小児科の先生がなんと彼女の家で一晩面倒を見てくれるとのこと。 夕方、息子は連れて行かれる。手術は翌日行なわれることに。 この病院には脳外科の先生は常駐していない。 なので、日勤の先生が帰ってしまうと脳外科の専門家は病院にはいません。 あまりの痛みのあまり吐き続け、寒さに震え続ける主人は本当に助かるのでしょうか。この時点でまだ辞書を手にしていなかった私は、主人の病名があの恐るべき「くも膜下出血」であることを知る由もありませんでした…。この続きはまた明日。
December 1, 2003
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