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2年ほど日記を休んで今いた。その間facebookで「瀬川昌秋」で一言日記とジャズを中心に「今日の1曲」を書きこんでいます。若し興味があったら瀬川昌昭facebookで県sく空いてみてください。
2020.10.08
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こんにちは昨日の夜はちょっと悲惨でした。土曜日はデイサービスの日、フラツキがひどくて一人外出は無理だったのですが、デイサービスはドアツードアの介護サービスなので、ヘルパーに支えられながら西早稲田に行きました。そもそも今回の体調不良は6月12日水曜日から始まりました。前回のブログに書き込みしたように脳内科と行きつけ医師の診断により、ふらつき改善のために薬を減らすという診断で寝る前の精神安定剤の服用が中止したのです。その夜はやや寝つきが悪かった程度でしたがその夜13日木曜日は一睡もできなくなりました。フェイスブックでも色んな方から心配やアドバイスをいただきましたが、身近ななんちゃんから「先生が言ってたじゃない、“薬を止めると2,3日症状が出るかもしれません”よって…・」と言われて、安定剤を止めた副作用かもしれないと殆どベッドに横になって過ごしました。が、その夜14日金曜日も寝付かれません。でも一晩で30分×3回90分ぐらい微睡んだような気がします。そして土曜日介護付きデイサービス西早稲田なら安心して眠れると思って行ったわけです。でも「眠り」は取れませんでした。この時点で50時時間あまり「無睡眠」状態でした。ふらつきは極限、体もよく動かなくなりお箸で食事を摘むにも指が震えて落としてしまったりしました。若い時は徹夜マージャンで二夜連続眠らないなんてこともありましたが、「そりゃ違う、俺いま90歳なんだ。こりゃあいよいよ最後の時が来たのかもしれない、もしこれで死ねれば最高の安楽死だ」「だけど死ぬ前に隣に住む長兄にサヨナラしなきゃいけないなとかなんちゃんにお金のこととかちゃんと説明しとかくちゃ」「学校とかNHKの友達にお別れを告げておく人はいなかったかな」終活が何も出来ていない思いが頭を駆け巡りました。そして昨夜15日土曜日の夜、睡眠導入剤だけ2錠飲んで眠りに入ったところ気が付いたら朝の11時ほぼ10時間熟睡して目を覚ましした次第です。また起き上がってみたらふらつきもよくなって物につかまらず足を踏み出せる状態、4日ぶりにモーニングコーヒーを楽しみました。さてこれからどんな日々が待っているのか? 浮かぶ言葉は明日は明日の風が吹く又があるかどうか分かりませんが今日はこの辺で
2019.06.16
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皆さんこんにちは昨年11月26日に書き込みをしてから、今日で半年がたちました。その日の書き込みから僕の環境は何も変わりはありません。ただ老化は着実に進み過去の人生の記憶は断片になりましたた。指が思うように動かないので一字一字キーボードを見ながら打ち込んでいます。この6か月間色々なことがありましたが、2階のベッドルームへの12段の階段の上り下りはキツさを増しました。変わらないのは心臓の鼓動です。一時起こった不整脈は殆どなくなり、今のところ2020東京オリンピックはTV観戦は90%だと思います。今一番気になっていること、半年も書き込みしていないのにPCのアクセスリポートがずーっと100~200を維持していることです。PCは嘘をつかないと思うのですが、”あのジジイまだ生きているのかな?”と毎日僕のブログにアクセスしている方が何百人もいるとは考えられません。どなたか教えていただければと思います。では今日はこのへんで
2019.05.26
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こんばんはあと1か月1週間、平成最後の年が暮れようとしています。昨年6月肺に水が溜まって肺癌の可能性を診断され、我が人生これにて終了と覚悟したのでしたが、まだ生きています。生きているどころか病状悪化の兆しは無く肺にたまった水もも取れ、往復1kmぐらいはさしたるくもなくあるいています。一体あの胸に溜まった原因は何だったのか?謎のまま。退屈な毎日を過ごしています。と言うのも歩けると言っても並の人の半分以下のスピード、地下鉄の階段の上り下りはちょっと無理なので、柳町周辺からは離れあれません。ナンチャンに送ってもらうか近間でタクシーを利用するか行動範囲が限られます。要介護1が取れたので週1回土曜日に「デイサービス西早稲田」に通うのが楽しみなりました。「デイサービスに祖早稲田」は所謂老人クラブのようなものですが、スタッフが家の前まで送迎してくれて介護付き入浴サービスがあります。そして何よりも介護スタッフの懇切丁寧なサービスが心を癒してくれます。今一番気を付けているのが転用しないこと、加齢性黄斑変性の症状が少しずつ悪化して視力を失う危険にさらされているためふらつきが止まらず、転倒したら一巻の終わりが目に見えているからです。でも人間て不思議なもので、僕の目標は2020の東京オリンピックを見てオサラバしたい気持ちが強くなりました。実はネットで90才の余命を検索したら4年と出ました。若し転倒して骨折でもしたら4年間「寝たきり老人」になりかねません。94才の誕生日など迎えたくはありませんが、思うにませないのが人生の宿命だとつくずく思います。では今日はこの辺で
2018.11.26
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こんにちはお久しぶりです。定期的な書き込みを止めてしまったのにかかわらずアクセスを見ると毎日100を越しています。この爺何時くたばるか? そんな興味で見ている方が少なくないと思う次第ですが去年肺に水がたまって肺癌と診断され、余命2年と覚悟した後「誤診」が判明。僕の心臓は鼓動を止めません。どうもこの調子だと2020のオリンピックは間違いなく観戦できそうです。あと5年~10年生きるかもしれません。えっ10年!100才ですよ、100才!大変です。まず2階にあるベッドルーム、上り下りが出来なくなったらどうしよう。寝たきりになったらどうしよう・・・そろそろ老人ホームを探さくっちゃ、でも老人ホームってタバコが吸えるのかなあ etc.何かネガティブなことばかり考える毎日です。では今日はこの辺で
2018.09.28
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こんにちは90年間生きてきましたが、こんなに暑さが続くのは初めてだと思います。つまり異常気象、人間の環境破壊によって地球が悲鳴を上げているとみるのが妥当でしょう。気象情報はどことかの高気圧とどことあの高気圧が重なってとか重なって云々と解説してくれますが何故そうなるか?についてはほとんど触れません。然し嘗て糸川秀夫博士が予言していました。「地球は100憶の人口負荷に耐えられるか?」僕は地球滅亡の時が近づいていると考えます。人口が100憶に達するのは約30年後ですが、もう一つ財政長があります。鈍化しているとはいえ中国のGDPは依然6%台、インドは7%。ほほ10年で倍増します。2国の人口を合わせれば20億近く。つまり人口20王の国が二つ生まれる勘定です。水、食料など生活インフラさえ賄えない時代が目の前に迫っています。幸か不幸か僕は「地球滅亡の日」をこの目で見ずにおさらばできるとは思いますが、それでも毎日生き抜く苦労を背負い続けることは避けられそうにありません。では今日はこの辺で
2018.07.16
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こんにちはなんちゃんから、「時々ブログ付けた方が良いよ、皆パパがまだ生きてるかどうか?見てるんだから」と言われました。確かに1月以来書き込みしていないのに、アクセス記録は毎日100前後を示しています。先ずはご報告、まだ生きています。東京の桜はほぼ散り、青々とした葉が春の到来を付けています。これでどうやら7月満90歳の誕生日は迎えれらそうです。昨日4月2日は僕にとって人生の記念日でした。69年前の1951年4月2日NHK入局、社会人としての第一歩を踏み出した日です。あの年も4月1日が日曜日で、初出勤は4月2日となりました。世間知らずのボンボンがよく人生を全うできたものだと自分自身不思議です。今は肺に溜まった水と戦う毎日ですが、去年6月肺がんと診断されて目立った自覚症状は起こらず、まだ杖をつきながらヨチヨチ歩きしています。昨日は新宿区の「高齢者総合相談センターを訪ねて、「介護申請」をしてきました。手続きは結構面倒くさくて認可まで一月以上かかるみたいですが、最近はお風呂に入ると心臓が苦しくなって溺死の心配がトラウマになってきたので、せめてデイケア・サービスぐらい受けらえたらと期待しています。来週火曜日には、国立国際医療研究センター呼吸器科の予約を取りました。肺癌の進行状態と、肺に溜まった水の取り出しを聞いてみるつもりです。これからは、できるだけマメに書き込みして行きたいと考えています。では今日はこの辺で
2018.04.03
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こんにちはこの前ブログを付けたのは去年の年末30日、久しぶりに開いてみたら書き込みが無いブログに毎日50人以上アクセスが続いているのに驚きました。今年7月、90才の誕生日を迎える僕ですから、たまには書き込みしないと「ついに逝ったか!」と思われ方のいることでしょう。ドッコイまだ生きています。2018年も25日が過ぎました。どうやら平昌オリンピックは観られそうです。胸に立った水も去年病院で1リッター抜いてもらってどうにか収まっています。ゆっくりゆっくり歩いて柳町まで買い物に行くくらい歩けます。それよりも寒波です。老体には寒さが堪えます。思い出してみれば80年前小学生時代は毎朝「霜柱」踏んで学校に通った記憶がありますが寒さが身に堪えたとは思いません。今は寒いと言っても霜柱は立って居ませんから「寒さ」は矢張り歳のせいなのでしょうか?一昨日定期検診のかかりつけ医師のアドバイスもあり、要介護申請をスことを決めました。2か3が取れるだろうと先生は仰います。もうこれ以上生き続けたくはなのですが、頭の片隅には「若しかしたら2020の東京オリンピックを見て死のうかな?という慾がかすめます。生きることと戦っている毎日ではありますが、この心臓はまだまだ動き続ける予感がしないでもありません。では今日はこの辺で
2018.01.26
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こんにちは静かな年末です。パトカーや救急車の警笛も聞こえてきません。今年もあと2日、満90歳を迎える年になりますが、どうやら誕生日(7月5日)までは生き延びそうです。併し今年の6月僕の人生は実質的に幕を閉じました。あの日の思い出。200メーター先のファミマまで歩いて行く途中、息苦しくなってしゃがみ込みました。ハアハア言いながら家に辿りつき、なんちゃんに国立国際医療センターにかつぎ込んでもらいましたが、診断結果は「肺に水が溜まった」でした。CTsキャン検査の結果は原因不明でしたが、見落としがあるとすれば肺癌と言われました。そしてもし肺癌とすればステージ4、余命2年との説明を受けました。但し癌細胞が見つかっていないので、3年たっても生きていたら「御免ね」・・・・との注釈付き。でもこれで我が人生は終わりを告げ得ます。地下鉄に乗れない、旅行は出来ない、爾来2度胸水を抜く治療を受けましたが,容器に溜まった1リッターの液体を見ると人生の終わりを思い知らされます。それでも未だ肺には1.5リッターの水が残っているのだそうです。同時に眼の¥黄斑変性も悪化しました。3ヶ月に2回注射ちりぃうを受けていますが、夜目は殆ど見えません。前方から黒い翳が近づいてくる感じ、男女の区別は出来ません。併しこれと言った苦痛の自覚症状が無いので、一昨日かかり付け医に訊いてみました。肺癌て、痛みとか苦痛が無くて寿命を向かることがあるんですって・・・いまわの時は痛むのでしょうが、安楽死に近い死に方です。何度も言いますが、何一つ思い残すことない人生、来年平成30年は安楽死に向かう一里塚のなって欲しいと願います。では皆さま=良いお年を
2017.12.30
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こんばんは11月13日にブログを付けたまま、1ッカ月半経ちましたが毎日アクセスは50前後を示しています。あと3日で新年を迎える僕、アクセスして下さった方々は「あの爺生きてるのか?死んだのか?」がきになっておられるにが違いありません。ご報告します。生きてます!死に損なってます。明日今年を振り返って〆のブログをかきます.乞うご期待です。では今日はこの辺で
2017.12.29
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こんばんは一昨日のことになりますが、11月11日(土)は年に一度、50年前のNHK報道局社会番組部の仲間が集まる「士会」の日。原宿の南国酒家に10人が集まりました。熱海から駆けつけた人が2人千葉県銚子市からが1人居ました。「士会」は今年で8回目になります。僕は先日も書き込みしたように肺に水が溜まった体、原因は肺癌で余命2年と言われています。ただし癌細胞は検出されていないので、「若し3年後に生きていたら御免ね」と言う但し書きつきです。取りあえず仲間にそのことを報告しました。僕より年上の先輩はもう他界されて一人もいません。50年前ですから一番若くても後期高齢者に属しています。そんな仲間が千葉県や静岡県から駆けつける職場同窓会は全国でも珍しいのではないでしょうか?いずれにせよ僕はこれが最後の出席になるかもしれない戸いうことで、僕が忘れた昔話を出来るだけ沢山聞かせてくれるよう頼んでおきました。そうしたら、銚子からはるばる出てきたN君が驚くべき記憶力を披露してくれました。何と名前入りで昭和34年58年前の職場のデスク配置図をメモ書きにして配ってくれました。当時は番組ごとにデスクが判れていましたが僕の名前は「日本の素顔」グループに書き込まれ(ほとんど不在)と注釈付き、思わず君は記憶の天才だったのかあ~と顔を見つめなおしてしまいました。(ほとんど不在)とは、近くのパチンコ屋か雀荘を探せば見つかるという説明に一同大爆笑・・・そうです、今の時代だったらひと月もすればクビになるような日常にどっぷりつかっていた自分が眼に浮かびました。同時にこれら仲間たちに何もしてあげられなかった僕を囲んで8年間も集まってくれる人たち、これぞ人生の宝物としか言いようがありません。あまつさえ、幹事のS君が帰り路自宅までタクシーで送ってくれまあした。感謝!感謝!あと1年何とか元気で生きて、来年もう一度という慾が湧いた一日でした。では今日はこの辺で
2017.11.13
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こんばんは10月5日以来ブログの書き込みを休んでいるのに、アクセスリポートを見たら毎日50~100のアクセスがあるので驚きました。死んだかと思われると申し訳ないので、せめて生きているしるしに書き込みしてみました。なんちゃんは一昨日からカレシのところへ、パパはお留守番、庇を打つ雨音と暮らしています。投票は一昨日済ませました。今夜は8時から開票速報を観ますが、自公でr過半数確保は間違いないところで議席がいくつ減るかだけのつまらない選挙。安倍ちゃんの自慢節が出ないうちに寝ようと思っています。では今日はこの辺で
2017.10.22
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こんばんは昨日は東京都市博覧会の中止で、ビジネスが致命的な多劇を受けたと書きました。折しも経済は金融ビッグバンで大きな変化が起こっていました。このビッグバンのうねりに乗って幾らか仕事を立ち直らsることが出来たのですが、思い出すことに聊か疲れたので「我が人生」は故声終りにします。ご愛読有難うございました。では今日はこの辺で
2017.10.05
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こんばんはあれは1995年のことした。東京の鈴木都知事が念願の東京都市博覧会の開催を決定、電通の総合プロデュースのもとに実施計画に入りました。僕の事務所は運営担当に決定、コンパニオン・警備・清掃等の計画をたてました。東京都当局からは「運営プロデューサーは、会場内に居室を設けるから、会期中常駐して下さい」と言われ、翌開催年の仕事はすべてキャンセルして待機しました。ところが・・・・この年、鈴木知事が引退、東京都市博覧会中止を公約に掲げた青島だア~のお笑い芸人青島幸男が当選、博覧会は中止に追い込まれました。都から違約金としてお涙金はでたものの、我が事務所としては毛亭的な損失を受けます。今何とか生活していられるのは、当時同時に進行していた金融ビッグバンだったとは何とも皮肉な話、首の皮一枚でつながる僕の人生を象徴する出来事でした。では今日はこの辺で
2017.10.04
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こんにちはこのところ3日間、体内時計が狂って、眼を覚ますと正午前後。今週金曜日は田中医院の健康診断なので、主治医の先生に相談しようと思っています。さて我が人生ですが、沖縄海洋博での人との出会い~運命の天気は電通だけではありませんでした。当時堺屋太一の片腕として万国博覧会を仕切っていた荒山柑という人物との交流もその後の我が人生に大きな影響を与えます。1985年筑波国際科学技術博覧会の政府出展テーマ館のプリデューサーに任命されました。NHK時代の僚友吉田直哉君の忠言を守って僕はプロデューサーに専念、ディレクターには、親交のあった著名な方をお願いし、日本で初めて政府館の入場者数記録更新に成功しました。テレビ番組プロデューサーから転身して今度は博覧会パビリオンプロデューサーに変身したかのように見えましたが、その数年後東京都市博覧会という思わぬ落とし穴が待ち受けているとは考えつきませんでした。では今日はこの辺で
2017.10.02
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こんにちは唱和53年、沖縄海洋博が終わってその翌年、NHK勤続25年で起業年金が支給される期間になりました。NHKに辞表を提出、新しい事務所は学習院の1期後輩の大洋漁業オーナーも中部君が麹町に持っていた10坪ほどの事務所を無償絵提供してくれました。分かれと出会い。僕の人生にはその都度新しい道が開けたように思います。博覧会絵の出会いは、後に電通の副社長前出世する豊田年郎氏とそのスタッフ、博覧会の専門オペレーター荒山柑氏たちがその後の事務所運営に少なからず貢献っしてくれることになりました。先ず新しく開いた事務所は電通とのパイプを持つって仕事を始めました。或る日電通本社に豊田氏を訪ね、帰りのエレベーター前絵ばったり豊田氏の部下にあったところ、「ああ、丁度いい時に会った!」と声をかけられました。聞くと彼はその時明治生命の百周年記念イベントの企画を引き受けていて、スポンサーとの折り合いが悪く、規格変更を迫られていたところと言います。「瀬川さん、プロデューサー引き受けてくれないかな?」マンションの一室、一介の小プロダクションで仕事を探し回ってまわっていた僕は億単位の仕事はまさにタナボタで、二の返事で引き受けました。内容は明治生命の営業おばさん1万数千人を東京に集めて日本武道館でイベントを開くというものえした。早速、テレビマンユニオンの友人白井君にディレクターを依頼して新しい企画を作ってもらい、製作に入りました。これが大成功!どんな仕掛けかは忘れましたが武道館を埋め尽くした万余の女性営業員が感動のあまりハンカチで眼をぬぐうシーン等があったと記憶しています。これを機に事務所は明治生命を主クライアントとする基礎が生まれることになります。このような出会いは電通の他、博覧会オーガナイザーの荒山柑氏との因縁も長く続きます。我が人生は別れと出会いが上手く繋がって75才で僕が引退すまで四半世紀の歴史を刻むこと出来来ました。では今日はこの辺で、
2017.10.01
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こんばんは今日は一日ボ~としていました。外出する気力もなくなんちゃんが旅行中とあってぼけ老人の一人暮らし。これで丸二日一言も他人と話していません。孤独感に襲われます。でもこれ僕だけじゃあないんでしょう。全国何百万人もいると思われる一人暮らし高齢者、1週間も1カ月も会話できない人もいることでしょう。こうした「一人暮らし老人の孤独」橋田すがこさんじゃなくても「安楽死」を望んでいる人が数知れず居るに違いありません。我が人生の続きは明日にします。では今日はこの辺で
2017.09.30
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こんにちは今日は体調が戻りました。昨日の体調不良の原因はどうも睡眠導入剤の過剰摂取にあったようです。我が人生、NHK会長を辞され、沖縄海洋博の最高プロデューサーに就任された前田義徳氏から、世界海洋少年大会を開く財源として船舶振興会から10億円の補助金をもらって来いと命じられ、笹川良一会長にお願いしました。前に書きましたが僕は笹川さんにはNHKの番組出演以来可愛がって頂いていたので、話は案外楽にまとまりましたが、一つ条件がありました。「資金ねん出のため特別レース野プログラムを開く必要があるので運輸省~今の国土交通省~の同意が要る。担当審議官にOKをもらって来い。」、役所となるとNHKの肩書がモノを言います。担当審議官とはすぐアポが取れました。そしてその担当審議官とは後に政界に進出して大臣まで務めた原田昇左右さんだったのです。僕は前田氏と原田氏の会談をホテルオークラにセットしました。その時の光景は今でも瞼に焼き付いています。前田氏は原田氏の膝に手を伸ばして、ハグせんばかりに懇願する姿に感動しました。そして別席でもう一つおまけがつきました。「博覧会が終わったら僕は次の衆院選に出るから、君は広報担当をしてくれ」と原田さん。これば運命の出会いと言うか人生の機微と言うか思いがけず〝原田昇左右衆議院議員”との長い付き合いの単著になりました。沖縄海洋青少年大会はこの補助金のおかげで無事開催に成功。僕は沖縄現地に張り付いて事務局長を務めました。大会が終わって、沖縄の海辺に寝転がって考えました。今更NHKの戻っても出世の見込みはないし、辞職してPR会社でも開いてみるか?たまたま、中学時代に陸上競技のvs付属との定期戦で何時も僕のひとつ前を走っていた副島有年君が大蔵省~現財務省~を定年になったら事務所を作ろうと言う話が持ち上がっていたので、一足先に地ならししておくtもあるかな?などなど・・・沖縄海洋博の後始末をつけて帰郷後、NHKに退職届を出すに至りました。事務所を開いて最初の仕事は自民から出馬した原田昇左右さんの選挙演説の原稿書きと演説指導。静岡2区から新人当選を果たすことになります。では今日はこの辺で
2017.09.29
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こんばんは今日は体調不良で一日ベッドです。なんちゃんは今日から1週間カレシと東北ドライブ、自転車レースのボランティアに参加するとかで一人お留守番。明日は何とか頑張って体調を回復したいと思います。では今日はこの辺で
2017.09.28
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こんにちはあっちがあっちならこっちもこっち、政治家の闇ルートを使って社会番組部長の座を射止めた僕でしたが、天網恢恢疎にして漏らさず、部長職にありながら局内女性スキャンダルを起こして権力迎合派のH氏の術中に嵌まることになります。部長就任の次の年ンお春、技術担当の報道局次長Os氏から耳打ちされました。「世論調査所に移動されるよ。」世論調査所は愛宕山の放送文化研究所にあり、閑職の際たる部署です。そんな時シマゲジこと島桂次君から声がかかりました。「俺は報道のニュースと番組を統括する。俺は汽車をおさえるから、お前は番組の方を纏めないか?そしたらスキャンダルはもみ消してやるがどうだ。」これは全くジャーナリズムの世界の出来事ではなくてミニ永田町の志向です。リベラルを信条とおする僕には権力追随派手先として報道番組のジャーナリズムを曲げることは納得できず断りました。もう一度隠れスポンサーの武田喜代子さんに左遷人事を止めて下さいとお願いし、編成部長のポストに踏みとどまりましたが、矢張りNHKのような組織には知恵者が居るものです。辞令は沖縄海洋博覧会担当部長。一般番組とは全く関われない仕事です。併し僕の人生は不思議な悪運がついていて、ここでまた前田会長とのご縁が復活します。前田義徳氏は会長を引退され、沖縄海洋博特別顧問に就任されたことで、再びアシスタントとして働くことになりました。そして最初のご下命は「海洋博で世界海洋少年団大会と言うイベントを開く。船舶振興会の笹川良一会長から10億円の特別予算をもらって来い。」でした。では今日はこの辺でこのことが僕の人生後期の変革に繋がります。
2017.09.27
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こんばんは70年代我らの世界の「統括プロデューサー」を1年余続けたと報道局政治部の社会番組部への干渉ははげしさをまします。権力追随型政治記者のH次長は腹心のシマゲジこと島桂次君を政経番組部長として送り込んで来ました。僕は政治記者でもジャーナリスト派の平野宗義氏にお願いして、社会番組部長のポストに着こうと試みましたが、「的は身内に居たよ、長澤さんがあいつは現場人間絵管理職向きじゃないってさ」長澤さんは僕が現場に転職した時の上司、局内人事としては失敗。そこであっちがあっちならこっちもこっちと僕も政治家の力を借りる手立てに出ました。隠れスポンサーは当時NHKの脚本課に在籍しておられた武田喜代子さん。武田さんは三菱の岩崎家の御令嬢で少女時代から吉田茂の愛顧を受け→吉田茂→佐藤栄作→田中角栄と意を通じ合える関係を持つ方でしたが、何故か僕を可愛がって下しました。そこで「僕。社会番組部長の也たんですけれど、角さんに頼めませんかね?」と相談すると二の返事で角さんの目白亭で面会のアポをとってくれました。当時政権は佐藤栄作から田中角栄に移りつつあり、NHK会長も前田氏から、角さんの息がかかった郵政出身の小野吉郎氏に代わっており、角さんはその場で個人筆頭秘書の榎本さんを招んで、「この人の願いを小野に伝えるように」と命じました。数日後榎本氏はNHKを訪問、胃の会長に面会した後、社会番組部の入り口から顔を出し、副部長席の僕に向かって手で〇をかいて無言で去って行かれました。この結果僕は周囲の驚きを尻目に部長就任となります。ここで前田義徳氏との因縁は途絶えたかのように見えたのですが1年後あることをきっかけにまた復活します。では今日はこの辺で
2017.09.25
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こんにちは一夜寝て体力は一応回復しました。さて懸案の我が人生の続きですが、僕も40才代テレビマンとしても一人前の年頃に入りました。海外取材番組「明治百年」はだえ成功に家に終了。特別プロジェクトは解散して元の番組部に戻りましたが、その頃NHKの報道番組組織には変化が訪れていました。報道局政治部の台頭です。理由は二つあって、元々記者と言う存在は英語絵言えばReporter、原稿を出稿するだけでなくテレビに出演して自らの言葉でニュースを伝えるのが本りの姿、そのことにkづき始めて、番組製作部門に記者を送り始めたこと、二つ目には政治からのプレッシャー。政治家がテレビの世論への影響力増大に伴って、記者と通じて干渉を強め始めたことです。政治部記者藻二手に分かれました。政治家からのプレッシャーに背を向けるジャーナリズム派と追随する権力志向派。報道番組製作者の僕たちには有形無形のメッセージが送られてくるようになりました。例えば、後に有名なジャーナリストに成長した柳田邦男君や木村太郎君らは、自ら取材したテーマを携えて僕のところえ番組提案を持ってきました。僕は番組PDを選定してチームを作り与え、勝れた報道番組の数々を完成されました。これらの反して権力迎合型の典型例は特別番組「70年相我らの世界」第1回「若者たちへの道」です。当時報道局次長に政治記者出身のH氏が居ましたが、若者たちへの道の試写会でダメを出しました。理由は、「こんな番組を放送したら官邸からおしかりを受ける、訂正せよ。」と言うもの、当時の総理は佐藤栄作でした。70年代我らの世界と言う番組は前田会長じきじき発想で、1970年代をあらゆる観点から展望せよというご下命。アドバイサーとして日本指折りの知識人にお集まり頂いて地球的な規模でのテーマと取り組みました。アドバイサーの先生方は全部は忘れましたが、銀貨人類学の中根千恵、未来学者の糸川英夫、経済学者の大来佐武郎氏ほか2名。試写→修正指示が起きたのは夕刻だったので我がプロジェクトチームは孤立無援、断固修正を拒否してプロジェクトチームに籠城しました。併しH次長は腹心の政治部記者を動員してあくまで修正を迫ります。要するに番組では、日米仏の若者が70年を機として体制変革運動に立ち上がるだろうという趣旨に過ぎ中たのですが、政治部の言い分は、アメリカのジーパンを穿いた学生運動指導者など「穢がらわしい」と表現しなければ官邸から文句が出るなど他愛ないものでした。そんな時代があったことは今平成の時代考え及びません。僕は一部妥協してナレーションを書き直し、兎に角放送にこぎつけました。で、放送の結果は視聴shからの絶賛の電話の嵐でした。H氏の反応は?手のひらを返すように、番組担当PDの間を回って、洋服だかワイシャツ高の記事を配って歩いていました。今考えてみればこれぞ「昭和」の出来事と言えそうです。では今日はこの辺で
2017.09.24
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こんばんは今日は秋分の日、次兄昌治監督の後を追うように逝った嫁さえ子さんの一回忌が小石川の護国寺で行われ、瀬川家の親戚一同薬20余名が集まりました。幸い先日肺に溜まった水を抜いたせいで、お経の後の墓参もそれほど息切れせず、何とかこなせました。併し帰宅してみると気力が消耗してベッドにバタンキュウ。今やっと起き足手パソコンを開きました。明日は日曜日。何の予定もないので我が人生の続きを書き込みします。では今日はこの辺で
2017.09.23
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こんにちは昨日は東京女子医大病院で眼の治療でした。加齢性黄膜変性、一昨年の運転免許更新の検査でチェックされ、治療を始めてから2年以上経ちます。最初は右眼。これは手遅れで視野の中央がボケて見えるままの状態で固定しました。その後左眼にも発症、かれこれ1年余り治療を続けています。治療方法は病原の目玉の奥の部分に注射するのですが、目玉に注射されることぐらい気持ち悪くて不快なことはありません。検査→診断→麻酔→注射まで最短3時間、自己負担額も1回¥44,400かかります。でも女子医大の担当専任教授から「失明の恐れがあるから注射は続けた方がいい」と毎月の注射を診断されて通院しています。昨日はどうも注射がうまく行かなかったようで、津量後は殆ど視野がボケたままタクシーで帰宅しましたが、麻酔が解けてテレビ画面を眼を開いて見られたのが午後9時、針を刺した傷の痛みは今朝まで残って今も時々チクチクしています。我が人生の続きはちょっとムリなので明日以降の様子見にします。では今日はこの辺で
2017.09.22
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こんにちは一昨日は笹川良一氏との出会いを書きましたが、今日は僕のNHK生活で最も記憶に残る番組、「明治百年」と「70年代我らの世界」について思い出してみます。月日は流れて僕も副部長になっていました。ある日上司から「来年は明治から100年になる。前田会長からの勅命で明治百年を振り返るドキュメンタリーを企画せよとのお達しがあったので提案書作れ。なおこの番組は特別プロジェクトにして、報道だけでなく全局から人材を集めてチームを結成せよとのことだ。」早速報道局のドキュメンタリー担当の部下たちに企画書を作らせて提出しましが会長からはOKが出ません。フト思いついて、百年前と言えば映像資料は残っていない。ドキュメンタリーはムリなのかもしれない。ドラマ仕立てが必要ではないか?とすると吉田直哉くんかな・・・彼は当時大河ドラマ「太閤記」の製作で芸能局に移っていましたが相談してみました。そうしたら彼は「瀬川さん、その企画去年僕がパリに出張した時前田さんとばったり一緒になってメシ喰いながら提案したネタなんですよ。」と企画の下書きを取り出してくれました。手元に資料が無いのでネットで見つけたタイトルをコピーしますと1968/9 VOL.9 NO.18 通巻第202号 財団法人NHKサービスセンター『 グラフNHK 』表紙:三宅雪子 // 『 海外取材特別番組:明治百年 』百年間のエネルギー~第一集:プロローグ・四海見聞~ / 薩摩藩とイギリスの軍楽隊~第二集:西洋音曲~ / 世界中に先人の足あとを:吉田直哉 / さて どんな軍隊を作るか~第三集:兵隊屋敷~ / 原料を欧米から運んで~第四集:煉瓦・コンクリ~ / 先人の苦闘の足あと~第五集:自由・平等・独立~ / ひかり号までの百年~第六集:陸蒸気~ / ウェブスター辞典に感激~第七集:英学・英才~ / 外人の目に映った日本の女性~第八集:女人の像~ / マンモス・タンカーへの道のり~第九集:黒船建造~ / リンゴはいつ日本へきた~第十集:果樹・牛酪~ / パリの下水道に感嘆~第十一集:西洋医術~ / 汽車より早い電信に驚く~第十二集:エレキテル~ / 野原だった丸の内~第十三集:一丁ロンドン~ / 夏目漱石の文明感覚~第十四集:沙翁伝来~ / 討論会などで“百年”の意義を~第十五集:脱亜入欧~ // NHK相談室から読みにくくて済みませんが、謂わば吉田直哉君ならではの文明批評番組でした。提案はすぐ通りました。前田会長も人が悪い、初めから吉田直哉に訊けと言ってくれればいいものをです。でもこの番組は吉田君が僕に言い放った一言でNHK人生の転機になりました。「瀬川さん、あなたは演出の才能は無いんだからプロデューサーやってよ。」先輩に向かってあなたは演出の才能が無いなんて失礼な言い分に聞こえますが、真の友情と言うのは耳に痛いことをすんなり言えることではないでしょうか。この特別番組は今も生き続いています。では今日はこの辺で
2017.09.20
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こんばんは今日は11時30分、国立国際医療顕幽センターの呼吸器科の予約でした。先週のCTスキャン検査の所見、すぐ終わるだろうと思っていったところ、肺に水が溜まる病~無塚しい病名で覚えられないのですが~は膠着状態で先生は「大分水がたまってるから今日抜いておこう。」と診断を下しました。再度レントゲン写真をとって、処置待ち。肺の水を抜く先生は別の部署から来ます。結局処置が終わったのは14時半、3時間かかりました。肺から抜いた水の量は1rリッター、茶色の液体でした。まだこれ以上残っているそうですが、取りすぎても悪影響が出るとのことです。肝心の病因は? 細胞は出ていないけれど私は癌と考えていると先生。これで漸く「三途の川」が見えてきた思いですが「2年経っても3年経ってもこのまま問いこともあるから、息苦しくなったらその都度抜きに来なさい。」ですって・・・神様!お願いです、そんなに長く苦しめないで早く川を渡らせて下さい。あと50回ブログを付けると3650回、丁度10年分になります。Life is a stage このブログの幕引きはキリのいいところで牽きたいものです。我が人生の続きは明日にします。では今日はこの辺でc
2017.09.19
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こんにちは昨日は30才そこそこの若造PDが、日米テレビ史初の衛星中継の挨拶原稿を書き直して事なきを得た話を書きましたが、これが前田義徳会長との長いお付き合いの始まりになりました。次はNHK受信料不払い運動対策でした。当時は自動振り込みは少なく、主に集金人が戸別訪問して細かいお金を集めて回る時代でしたが、テレビが普及して視聴者が急速に増えてきたところ、右翼の大物笹川良一氏が主導するテレビ料金不払い運動が拡大して経営のも影響が表れ始めていました。不払い運動を解決せよ!この会長命令がどうして僕のところにお鉢が回って来たのかは思い出せませんが兎に角PDとしては見当違いの仕事を背負わされました。笹川良一氏は、児玉義雄、三浦義一と並ぶ右翼の3大大物、僕のような若造がそう易々と近づけるものではありません。そこで、学生時代から学習院vs付属陸上競技対抗戦でよきライバルだった大蔵省理財局の副島有年君に「何嘗てはないかな」と相談しました。副島有年君は後になって金融ビッグバンの時にASインターナショナルと言う会社を立ち上げたビジネス・パートナーでもありますが、現役大蔵官僚時代もいいアドバイスをくれました。彼は大蔵省の上司で後の総理大臣福田赳夫氏と大変入魂であり、福田氏の秘書を通じtれ笹川さんにアポを取ってくれました。笹川良一氏は競艇も元締め船舶振興会の会長室の若造を招き入れてくれました。噂と違って案外気さくな人物で、「受信料不払い運動を止めていただきたいとおねがいにまいりました。」と切り出すと「NHKはわしが公認賭博で悪銭を稼ぐ悪者のようにいうておる。しかし協定の収益はの本の若者のため有益に使っておるのに事実を報道せん。事実をっ報道しない放送に金を払罠くて当然じゃ」「若者のためと言いますと?」「競艇の儲けでわしが設立したブルーシー・アンド・グリーンランド財団では全国的に青少年の会場活動を育成する事業を展開しているが知らんだろう。」「恐れ入りました。私は毎朝の番組で”スタジオ102”と言う生放送を担当しておりますが、そこにご出演頂いて詳しくお話しいただけませんでしょうか?ただし受信料不払い運動中止と引き換えでおながいしますが。。。」かくして交渉成立、右翼の大立者笹川良一氏の番組出演が実現しました。しかし、笹川氏の出演中から、番組部の大部屋では抗議の電話が鳴りっぱなし!!!この問題は続きがあります。僕は何故か笹川氏に気に居られ、前田会長も含めてのお付き合いが10年以上続くことになりました。では今日はこの辺で
2017.09.18
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こんにちは今日は眼の調子が今一つ、虫眼鏡を使いながらの書き込みです。宿命的にNHKに入社、文書化→社会部→札幌中央放送局→社会部出戻り、これが昭和32年、部区が29歳の年でした。それから2年ほど経ってテレビ放送が始まりここで僕の一生を決定づけた前田義徳会長との出会いが運命的に起こります。前田義徳氏は、朝日新聞からNHKのラジオニュース強化のため移籍し会長まで上り詰めたジャーナリストの逸材でした。時系列的には僕と前田義徳氏がどんな経緯で付き合ったか忘れてしまいましたが、雲の上の存在と繋がった発端はテレビ界初の日米衛星中継番組でした。日本からは前田会長が日本語でメッセージを送る予定で、僕がその原稿を作る役目を仰せつかったのですが、前夜遅くまで衛星放送のテストと原稿書きに没頭、早朝の放送だったので若し家に帰って遅刻したら大変と当時のトルコ風呂~胃までいう「ソープ」で時間を潰し、午前4時ごろタクシーを拾って「NHKまで頼むよ。」と言うと運転手さんが、「早いですね、もう駆けつけえすか?」といいます。「何で?」と聞き返すと「ケネディー大統領の暗殺でしょう。」と運転手さん。「ええつ!」車は5時頃曲について、放送は確か8時頃開始。昨夜書き込んだメッセージ原稿を急遽ケネディー暗殺のお悔やみ文の書き直して前田会長にお渡しすることが出来ました。これが僕が35才のときで、これを機に二人の因縁が20年近く続くことになります。続きは明日では今日はこの辺で
2017.09.17
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こんばんは一昨日昨日に比べて、今日は何とかパネルの字が読めます。朝方担当医の田中医院に行ってきました。肺に水が溜まる肺水腫にかかってから、罹病以前の状態に戻るリハビリはないものか伺ったところ、「それはムリ、現状で余計な負担がかからないようにしてください。」と言われました。息苦しさと視力とこれからどこまで保つか?老化との戦いです。さて我が人生ですが、NHKのラジオ番組製作現場に肺って、僚友の吉田直哉君と手がけたのは「都民の時間」と言う朝の番組でした。何しろ放送のデレクターとしてはズブの素人ですから、ただデンスケ(肩から掛ける携帯録音機の通称)を担いでとないを走り回るだけのことですが、結構夢中で朝まで録音テープ編集やナレーション書きの没頭したものです。札幌で2年のお勤めを果たし、元の社会部の帰ってからは、「街頭録音」というNHKのラジオ版文としては伝統のある番組を担当したことがあります。ウィキペディアによると藤倉修一アナウンサーが始祖となっていますが僕の時代は寺内アナだったと思います。そして録音場所として覚えているのは浅草雷門前と新橋烏森口広場など、ゲストの招いた政治家は福田赳夫さん、中曽根康弘さんが記憶に残っていますが、20歳代の若造が、将来の総理の逸材を引っ張り出して、警官の警備もなく街頭で庶民の声を聞き、政治家が意見を述べる番組など担当出来たのはまさに昭和の良き時代だったからこその弁実として懐かしく思い出されます。そしてやがて迎えるテレビ時代、僕の人生を決めたテレビドキュメンタリーへの路が開けます。では今日はこの辺で
2017.09.15
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こんばんは昨日、今日と眼がぼやけて、パネルの字が読めません。虫眼鏡をかざして読んでいます。その日その日の体調でこんな時が間々おこります。一寸ブログを付けるにはしんどいので休みます。明日はよくなりますように・・・では今日はこの辺で
2017.09.14
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こんばんは昨日はなんちゃんの若い時代について書きました。我々家族は誰一人「有名人」はいないのですが、いわばテレビで取り上げるB級グルメのような存在です。僕も若い時に六本木であるクラブに入ったら、ママから「アラ、ナオミちゃんのおようさんですか?」といわれてぎゃふんしたことがあります。そんな一人娘と付き合って60年が経ちました。パパとしてはもう十分親孝行してもらいました。彼女にはまだ20年余の人生が残されています。これ以上負担をかけないうちに姿を消してやるのが親として出来る最後のプレゼントと思う今日この頃です。我が人生、家族のことはこの辺にして明日からは僕自身の思い出を書き残したいと思います。では今日はこの辺で
2017.09.12
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こんにちは昨日のブログを読み返してみたら、誤字の多いことに我ながら恥じ入りました。眼のお患い「黄斑変性」が進行して虫眼鏡を当てないとうちこんだ文章が読み返せなくなりました。キーボードのアルファベットを見て一字一字ゆっくり打つように心がけますので何卒ご容赦ください。さてなんちゃんの成長ぶりですが、東京に帰ってから正月2日に同じ職場の後輩ディレクターたちが我が家に集まってお正月パーティーを開く習慣が生まれました。パーティーと言ってもママの手作り料理と安酒、専ら花札,おいちょ株、ポーカーなどばくち初めの乱痴気騒ぎです。とはいっても集まる人たちは東大、早稲田、慶応等優秀校出身者ばかり、なんちゃんはそんなエリートのおじさんに囲まれて育ちました。おいちょ株を教えられた成果で、幼稚園で足し算引き算が出来る天才と言われたこのもありました。パパは「こんなに小さい時から頭が開発されたら、どんな大人になることやら」と心配してがっこうにあがってからはママに「直美には勉強させるな、遊びたい明け遊ばせろ。」甲斐あって低学年の内はどうにかついて行けましたが高学年からは下から数えた方が早い劣等生、ママはさぞ悔しかっただろうと思いますが、一言の愚痴もこぼさない夫唱婦随で時が過ぎました。問題は、女子部中等科3年,とうとう落第の通知をもらってしまいました。学習院女子部は当時世間体を重んじて(落第制度」が無くて他校への転向を勧められます。これを聞いてパパとママは奮起しました。2人で学校に押しかけ先生たちを前にしてぶち上げました。「そもそも教育とは排除ではなく育成ではないでしょうか?私は転校には賛成できません。落第してもう一度立ち直らせて下さい。」結果学習院女子部始まって以来の「落第」が実現し、なんちゃんは人より2倍の同級生を持つことになります。50年近くたった今日、災い転じて福となすではないですが×2の友達が彼女の宝物になっています。まだあります。高等科3年、一貫校の学習院で大学進学不可のビリ3人に入ってしまいました。私立にお金を出して裏口入学という手もあったのですが、パパは海外留学を選びました。ちょうど日頃面倒を見ていた慶応大学国際旅行部に依頼して、イギリスの語が悪留学のホームステーに出しました。ここが人間の運命の不思議さだと思います。ホームステー先が英国王室の看護婦長のおばさんの家庭、メチャ可愛がられて毎週日曜日にはハブに連れて行かれて英語とイギリスのマナーを教え込まれました。なんちゃんから聞いたことで一つ覚えていること。おばさんは教えました。「Naomi!、sureなんて決して言うんじゃないよ。certainlyといいなさい。」なんちゃんが英国留学で身につけたことはもう一つあります。それはどんな環境の元でも生きてゆく道を覚えたこと。可愛い子には旅をさせ・・・このことわざはまさになんちゃんのためにあるような気がしています。では今日はこの辺で
2017.09.11
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こんにちは昨日は何故かブログページがインターネットに繋がらず書き込みできませんでした。妻の臨月をマジかに控えて札幌に単身赴任した7月、1通の手紙がとどきました。「無事出産して退院しました。女の子です。おじいちゃまが素直で美しくと言う意味で直美と名前をつけて下しました・・・」思い返してみれば我々夫婦は生まれてくる子供の名前さえ相談しないまま別れ離れになってきたのです。でも運命とは不思議なもので、おじいちゃまが下さった直美と言う名前が、なんちゃんの一生に思いがけない運命を背負わせたのでした。NAOMIと言う名前はユダヤ教の聖書に出てくる名前で、殆ど世界中で通用する名前です。僕の父がそこまで考えて名前を考えたとは思っていませんが若し僕の一字を取って昭子とでもつけていたら彼女の人生は別のものになっただろうと今でもおもっています。なんちゃんの子供時代には数えきれないほどの逸話がありますが、札幌では僕の留守中にママが突然盲腸炎をおこして呻き苦しんだ時、まだ言葉も話せない赤ん坊が階段まで這い這いして下の大家さんに大声で知らせたという出来事がありました。札幌の転勤生活は2年、東京に戻りました。僕はラジオ番組の製作に夢中、家を空けることもしばしばで育児は専らママとおじいちゃままかせ。それでも時は流れ市う学校入学の時期が来ました。僕は矢張り母校の獏衆院に入れたかったのですが、一応ある教育研究所を訪ねて知能テストをしてみたことがあります。結果はIQ135、学習院でも慶応幼稚舎でも指揮なところに入れますと太鼓案をおされました。次はなんちゃんが成人するまでの思い出話を書いてみたいと思います。では今日はこの辺で
2017.09.10
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こんばんは新妻美枝は誰からも愛される天性の優しさをもち「自分」と言うものを持たない人でした。瞬く間に僕の両親・兄弟・親戚に打ち解け、明るい家族の一員になります。結婚の翌年解任しましたが、当時の月給は確か\8000前後、育児に自信が無い僕は下すことを提案しましたが、彼女は一言も言わず指定の病院に向かいました。帰って来手の報告、「男の子だっていわれたわ」唱和28年、総務部門では役に立たないとレッテルを張られて、編成局社会部の配転、ラジオ番組の製作に携わることになります。これが社会人としての僕の人生を決める転機になりました。そこで出会ったのが部長の長澤泰治さん、隣りに座った新入局員の吉田直哉君。長澤さんは世田谷の大地主で、何事にもおおらか、腹の太い人格者で僕のリベラルな思想を100%受けいる手管しました。吉田直哉君は、知的な中に文明批評家の素質を秘めた大器の卵。そして社会部の先輩には後に理事に出世するジャーナリストの先輩がゴロゴロいました。ここで僕は父親から受け継いだリベラルな思想のもとに、マスメディアとは何か?を学ぶことになります。とはいっても学生時代から身につけた僕のヤクザ性は払しょくされたわけではありません。仕事上のスキャンダルを起こして札幌中央放送局に飛ばされました。唱和30年4月、丁度亡妻美枝がなんちゃんを懐妊しているときで、緑溢れる札幌に単身赴任することになります。では今日はこの辺で
2017.09.08
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こんばんは今日は小雨が二人止んだりで予報ほど気温が上がらず過ごし易い1日になりました。さて振り返ってもる我が人生ですが、東京大学経済学部をビリで卒業、親の七光りかなんかでNHKに入ったところまで書きました。これも親の七光りか?総務部門絵は出世コースと言われる文書課に配属されましたが、何しろ世間知らずのスポーツ小僧でしたから社会のルールさえ知らず、仕事が無い暇な時間に職場に携帯ラジオを持ち込んで音を立てるなど非常識な行動が多くて周囲の顰蹙を買う始末。今だったら即刻クビになったことでしょうが、そこが昭和と言う時代の寛容さに助けられたと思います。社会に出て、1年余亡き妻美枝と結婚することになります。亡妻とは学生時代からのトモダチでした。高校時代からラグビーの対校試合に応援に来てくれる東京女学館の美女グループがありましたがb区は祖に家の一人O嬢にぞっこん惚れ込んで、その親友の雲野美枝さんにラブレッターのメッセンジャーを頼んでいたと言う仲でしたが不幸にもO嬢は結核でこの世を去りました。美枝との交際はその後も続いて、ダンスパーティーにパートナーなどデートを重ねていました。ある日美枝の母上に呼び出され、「うちに娘と結婚していた開けるのでしょうか?結婚話を断り続けているのはあなたのためだと思うのですが・・・」そう言えば漢書は僕より3才年上で、結婚相手としては深く考えたことが無かったのですが、言われてみれば数年の付き合い。意を決して父に相談しました。父はお前の好きなようにしろと言っただけ、ただ3人兄弟に末っ子が一番先兄結婚するので式は内々にしかできないと言われました。人生の出会いとは運命そのものです。かくして僕はこの世に稀な「天使」と一生を共にすることになりました。唱和27年5月、僕23才、彼女27才の出来事でした。では今日はこの辺で
2017.09.07
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こんばんは今日は1オ月上旬並みの涼しい一日、でも明日からまた夏日が戻ってくると言います。今日から「我が人生」~社会人時代~の思い出を欠くつもりでしたが、それは60年以上前のこと、頭もぼけて、NHK入局→文書課配属→結婚→、社会部転配→札幌転勤→報道番組、記憶が線に繋がりません。今日寝る前に頭を整理して明日から再開します。では今日はこの辺で、
2017.09.06
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こんばんは6月25日以来10日間ブログをさぼったのに、アクセスリポートによるとその間50以上のアクセスリポートがあったことを知りました。89才の老体、みなさん「まだ生きてるかな?」とアクセスして頂いていることは感謝の限りです。実は先月から始めた「我が人生」、成人して社会人になったところでどうしても個人情報に触れる書き込みが多くなってしまうので続けるかどうか悩んで中断していたところでしたが、アクセスがたえないことから兎に角ブログの書き込みだけは続けて行こうと決めました。このところの近況報告ですが、相変わらず胸の苦しさが治癒せず、100メーターほど離れたコンビニまで杖を突きながらゆっくりゆっくり歩いて往復するのがやっとです。家に居てベッドに寝転がってテレビを見る一日は長くて溜りません。今週は何も予定が無いので長~い日がまだまだ続きます。明日からせめて個人情報に触れない範囲で、人生の思い出を書き綴ろうかと思いますのでよろしくお願いします。では今日はこの辺で
2017.09.05
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こんばんは昨日突然猛暑日が戻ってきました。やや涼しさに慣れた89才の体はこの急激な温度の変化に順応できません。モーニングコーヒーを飲むと、パソコンを立ち上げてFBの「今日の1曲」を選曲し、エアコンを付けっ放しにしてあるベッドルームに逆戻り、お昼にはインスタントラーメンで一息ついてまたベッドへ。ほぼ「寝たきり老人」状態で時間の経つのを待ち続ける半死半生そのものですがまだ生きています。明日は30℃止まりとか・・・予報を信じてあと半日頑張ります。では今日はこの辺で
2017.08.25
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こんばんはまた暑さが戻ってきました。あと1週間ぐらいは夏日が続きそうです。さて我が人生ですが、これから僕の青春時代について記憶を辿ります。終戦後アメリカ兵が進駐して街の様相は一変しました。軍国主義終焉の結果得たものは具体的にはスポーツとジャズでした。武道とラグビー以外禁止されていたスポーツが一斉に解禁。芋畑と化していたトラックは復旧し、ラジオから日夜ジャズが流れます。主なビルやホテルは進駐軍に接収されて、今の銀座4丁目角服部時計店ビルの1階か地下か「チョコレートショップ」と言うダンスホールが生まれ、僕たち学生もジャズとダンスに明け暮れる日々が始まりました。また、現在の銀座7丁目当たりのヤマハの辺りにはABC~アシベと言うダンスホールが出来て盛況を極めた記憶がありますが、ネットで幾ら探しても「チョコレートショップ」とか「アシベ」とかいうダンスクラブは見つかりません。戦後は遠くなりにけりです。まだ未成年の分際でしたが、学校の部活費用稼ぎに、運動部主催(テニス・ラグビー・野球・陸上等)のダンスパーティーが丸の内の経団連ホール等で盛んに開かれましたが、参加するにはパートナーが必要です。そこでまず学習院女子部のお付き合いが始まり、ロマンスも生まれます。そんな自由を謳歌したのが我が青春時代の始まりでした。では今日はこの辺で
2017.08.21
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こんにちは大学から社会人へ、つまり昭和23年から26~7年にかけて僕たち3人兄弟がどこでどうしていたのか?定かな記憶がありません。長兄はアメリカ留学、帰国後大日本印刷から富士銀行(現みずほ銀行)そして富士銀行NY支店開設準備要員として再渡米したと思います。次兄は野球×映画で新東宝に入り野球部で活躍すると同時に、松林宗恵監督の元助監督としての道に進みました。社会人としての3人兄弟は、それぞれの仕事に精出して殆ど触れ合うことがありませんでしたが、漸く60才代になって、「最後の晩餐」と称して年一度の夕食会を持つようになりました。僕の一つの自慢としては、父+3兄弟ともウィキペディアで検索できることです。長兄はジャズ評論家として紹介されていますが、富士銀行在職時代は、岩佐凱実頭取の秘書として、日米経済交渉を成し遂げるなどの実績もあります。次兄は監督として一本立ちしてからは、フランキー堺とコンビを組んで旅行シリースなど数々の喜劇映画で実績を残していますが、残念なことに昨年先立ちました。では今日はこの辺で
2017.08.19
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こんばんは一昨日書いたように、僕が東大に入ったことによって我が家族は父と3人の息子が揃って東大とそろいました。でも3兄弟の大学生活はまさにバラバラでした。長兄は前述の如くA級戦犯の親を持つ同級生のサポートで東京裁判でアルバイト、次兄は東大野球部でスぽrつに専念、末っ子の僕は東大陸上部とラグビー部を掛け持ちで3年の在学中教室に出たのは試験科目の日だけ、練習が無い日は母校目白の雀荘に通って後輩と麻雀三昧と言うやくざな日を過ごしました。やがて卒業→就職の日がやってきます。八幡製鉄所(現日鉄)ラグビー部の先輩が「面接はラグビーで通してえやる。」と言ってくれたので八幡製鉄を受け為したが筆記試験で失敗。ラグビー部で最後まで秋北が決まっていなかった親友の石坂(東芝会長の息子)が「俺、決まったよ。」と明るい顔を見せて焦りは頂点に達しました。最後の手段、父親に就職の相談を持ちかけました。当時僕の父は「電波監理委員会」と言う政府の諮問機関委員としてテレビ放送の免許をどこに下すか?の決定権限を持つ立場にあり、「放送局なら話ししてやるぞ」と言ってくれたのでNHKの試験を受けることにしました。筆記試験に通って面接へ、筆記試験が情実で取ったのか、合格点に達していたのかは、NHK入局後も「謎」とされていました。当時のことは面接試験で東大の成績表が面接官の手で提示され、11科目優・良・不可の3段階不可のところ全部「良」で試験官に爆笑されたのを覚えていますがこれには裏話があります。漸くNHK入局が決まって陸上部の部室に行き、マネージャーの杉村君に「やっとNHKに受かったよ」と告げたら、部長の会計学の佐々木先生に報告に行ってくれました。そしたら息せき切って帰ってきて「佐々木先生がそりゃいけねえ、今お前の会計学に不可を付けてきたって言ったよ。でも学生課に行って取り消して来ようだってさ!」かくして3人しか知らないひみつですが唱和26年東京大学経済学部商業学科をビリで卒業下のは僕だという紛れもない証拠が残されている筈です。では今日はこの辺で
2017.08.18
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こんばんは今日はやや体調不良で疲れたので、ブログは休みます。では今日はこの辺で
2017.08.17
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こんばんは72年前の昨日、まだ我々3兄弟は一つになりませんでしたが、共通して得たものは自由。リベラルな両親の元に享受してきた自由が一家だけでj無く社会的に通用する時代になりました。長兄は前述のとおり復員事業に携わり、次兄は野球と映画の没頭、僕は陸上とラグビーと麻雀。両親は子供たちの好きなようにただ愛情を持って見守ってくれました。長兄は氷川丸の復員作業が終わった後、同級生だった木戸孝允,梅津美治郎A級戦犯のご子息をサポートするため東京裁判のボランティア身を投じました。今当時を振り返ると、3人一緒のようでバラバラ、たとえば部活長兄テニス部、次兄野球部、僕陸上競技部とラグビー部大学は3人東大ですが長兄法学部、次兄文学部、僕経済学部僕の東大進学についてはエピソードがあります。当時は戦後で戦中に運動場を失った大学も多く、学習院のトラックには慶応大学が練習に来ていました。その慶応大学、南部さんと言う方がマネージャーで、僕を慶応大学に引っ張ってくれました。その手口何と試験問題を丸ごと盗んで教えてくれたのです。ほぼ満点の成績で慶応陸上競技部への進学が決まっていたのですが、この時ばかり名父が渋い顔をしました。「東大も試して見ろ」と言う顔です。でも前述の如く僕は町へ逃れで理科に進んでいたので、化学とか数学とか学力ゼロ、受験するだけの学力はとてもありません。一応調べてみたら経済学部が歴史・英語・論文と3科目で競争率も5倍前後と比較的低いことが分かり、これなら一夜漬けでも何とかなるかもしれないと経済学部を選びヤマを賭けました。歴史は日本史を選択、幕末以降の参考書を、論文は中央公論の「巻頭言」を1カ月かけて丸暗記。コレが見事に当たって東大入学を果たした次第です。あの時もし慶応大学に進んでいたらその後の人生は一変してたろうと改めて「Life is a stage」の一語を噛みしめる思いです。では今日はこの辺で
2017.08.16
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こんにちは今日は8月15日、終戦の日です。72年前の今日僕は何をしていたんだろう?思い返しても記憶は蘇りません。何となくカテゴリー分類の「自叙伝的日記」をクリックしてみたらビンゴ!10年前2007年8月15日のブログが出てきました。その記事によると僕は長兄が所属する海軍奈良奈良経理学校を訪れて、日本のポツダム宣言受諾を知らせたことになっています。いわゆる「終戦の詔勅~玉音放送」は1945年正午にNHKラジオで放送されたものですから、終戦当日であったか前日であったか定かではありませんが、何れにせよ僕は日本の敗戦を2,3日早くキャッチ居ていました。同級生に菅忠義君と言う人(後に学習院大学数学部教授)がいて、父親は兵器開発に携わる陸軍中将でした。彼から長崎水爆投下後の御前会議で昭和天皇が幸福を決意されたという情報を得ていたのです。長兄に知らせに富んだ日時は当日か前日か定かではありませんが、その時の長兄の反応ははっきりと覚えています。「えっそうか!!! さっき降伏という噂があるが惑わされることなく職務にまい進せよと訓示しちゃったよ。」併し彼は終戦後家族のもとに帰ることなく、復員船氷川丸情宣を志願して戦後処理に身を投じ3兄弟が揃ったの斑年後のした。では今日はこの辺で
2017.08.15
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こんばんは最高気温28℃と過ごし易い日が続きます。9日間観続けた世界陸上も昨日で終わりました。日本が獲得したメダルは4×100Mの銅と50キロ競歩の銀銅3個に止まりましたが、9日間を通して印象的だったのはアフリカ勢の活躍です。種目によっては世陸ではなくてアフリカ陸ではないかと訝る位黒一色の競技が多々見られました。この傾向は今後も続くのでしょうか?さて我が人生-5ですが、学習院中等科→高等科→大学と3兄弟同じようで少し違う青春時代が始まりました。先ず中等科、部活は長兄がテニス、次兄が野球、そして僕が陸上競技と別れます。僕が中等科の時、戦火が広がって太平洋戦争が勃発。長兄は東大法学部進学と同時に「学徒出陣」で幹部候補生として奈良だったか和歌山だったかの海軍経理学校へ、次兄は次兄はその翌年「兵役年齢」で四国高知の「人間魚雷部隊」配属となります。僕はまだ徴兵年齢には間がありましたが徴兵逃れで理科に進みました。次兄が軍隊に入ったのは丁度大学進学の年でしたので、申告入学と言う制度があって僕が軍隊にいた次兄の代理で入学申込みに行きましたが、第一志望の東大法学部には成績が及ばず文学部ならばと言う成績で本人の希望に従って英文科への入学届を出してきました。次兄の出征に当たって母が中等科でずーっと国語の指導を受けた清水文雄を夕食に招き、自宅ですき焼き萎えを囲んだ記憶があります。当時はもうお米も配給制で胚芽米さえやっとの時代でしたが、母親は何処からか純白米を手に入れて先生をおもてなししました。茶碗に盛った白米を手に取った清水先生が「オオー雪だ!」と相好を崩されたのを今でも鮮明に覚えています。では今日はこの辺で
2017.08.14
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こんばんは昨夜は世陸4×100m観て正解でした。サニブラウンを太腿の故障絵で欠いた日本チームでしたが、ケンブリッジ飛鳥がアンカーで頑張って着順3位で決勝に進みました。その決勝は日本時間午前4時過ぎとあって観戦は断念しましたが、先ほど再放送で観たら見事銅メダル。世陸日本初のメダルを取りました。ジャマイカがアンカー ボルトの故障で順位が繰り上がったという幸運があったものの、9日間観つづけた買いがあったというものでした。さて「我が人生ー4」ですが、前回は我々3兄弟の初等科の成績に触れましたが、父親の秘かな叱咤激励位に関わらず、卒業時の成績は長兄だけがトップを通し、次兄は2番、末っ子の僕は3番と言う結果におわりました。次兄も僕ももう少しがり勉していたらトップも夢ではなかったと思うのですが、母親は結局子供の自由にしてくれたのです。次兄と僕は塚区に住む4年先輩の織田さんが率いる少年野球に夢中で勉強は二の次の楽しい少年時代を過ごしました。ただ一つ僕が自慢できる出来事は初等科5年生の時の運動会のマラソンで1番を取ったことです。1年早く入学した僕のことですから本来4年生が先輩を打ち負かしたことになります。そして、ゴール近くに父親が応援に立って居て声援を送ってくれていた姿が今も脳裏に焼き付いています。その他にも種年時代には色々ありましたが、当時は軍国主義の時代でした。担任の後藤先生と暑い夏休みの一日、学校近くの民家を回って、軒先に「出征兵士の家」という表札のある家を訪ねては慰問袋を届けて廻ったことが眼に浮かびます。そして6年卒業のときに後藤先生がかけて下さったひとこと「大器は晩成だぞ!しっかりやれ。」ご期待に添えず何とも申し上げられません。明日は、小中高大と我等兄弟の思い出を欠こうと思います。では今日はこの辺で
2017.08.13
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こんばんは今日は世界陸上4×100m 観戦のため休みます。
2017.08.12
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こんにちは今日も比較的過ごし易い一日でした。これで残暑が終わるといいのですけれども、また週末から真夏日がぶり返す予報です。昨夜、一昨夜と深夜に世界陸上を見るので日中の体調がイマイチ不安定です。さて、昨日は規則より1年早く学習院初等科に入学した話をしましたが、両親は僕の通学に配慮して、四谷本村町の貸家に転居しました。今の牛込原町の家だと、四谷の初等科校舎までチンチン電車で柳町→飯田橋乗り換え→若葉町と30分かかりますが、本村町だと歩いて10分の距離です。小さな貸家でしたが、この家で男3人兄弟一部屋の始まります。2回の6畳間ぐらいの部屋に3人枕を並べ襖を隔てて両親が寝ていました。多分僕が2年生に進級したころのことだったと思います。父親の怒鳴り声で目が覚めました。なにやら次兄の成績がクラスでクラスで2番に下がったことで母の教育態度をし勝っているような会話でした。兄は2人そろってクラスで1番の成績を通していたのが4年生になって席次を2番に落としたことが父親の期限を損じたようです。学習院初等科では学期末に1番から3番前の優等生を発表するしきたりでした。「誰か聴いているか!」父が怒鳴りました。「ハイ、マサアキです。」と答えると何かぶつぶつ説教を言ったに覚えていますが内容は覚えていません。すると不不磨を開けて、母が僕の枕元に駆け寄ってきました。「パパとママがこんな喧嘩したのを聞いてひがんだりしちゃいけないよ」とほほを摺り寄せてくれました。不思議とこの光景だけは記憶によみがえります。このような両親の教育熱と愛情に包まれて、僕たち3兄弟は長兄が6年間首席を通し、次兄は2番、僕は3番と金銀銅で少年期を過ごした次第です。因みに長兄に次ぐ2番の優等生は後に創価学会の池田大作に次いで副会長を務めた北条浩さんでした。では今日はこの辺絵
2017.08.11
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こんばんは今日は真夏日の予報でしたが案外すごしやすく、エアコン使わずの一日でした。さて昨日は英語幼稚園に入ったところまで幼時の記憶を辿りましたが、次の記憶は園児の仲間と喧嘩して「もう幼稚園には行かない」駄々をこねたことです。その間何日何か月通ったかは思い出せません。駄々暫くは4才年上の長兄と3歳年上の次兄にまつわりついて、仮名文字や足し算引き算の算術を覚えたことです。両親はそれを見て、意外と覚えが良かったことと兄たちの勉強の邪魔になることに気づき「いっそ学校に通わせた方がいい」と考えたのではないかと思います。数え7才満5才の春、母に連れられてが開く学習院初等科に連れてゆかれました。するとそこで先生に読み書き・算術の簡単な試験をされて、スラスラ答えられたような状況が浮かび義ます。で、結局小学校入学規則より1年早く、6歳9か月で入学を許されました。皆より一つ年下とはいえ、カタカナの読み書きができ、足し算引き算の算術が出来る子は他に居ませんでしたので忽ち優等生になりました。因みに二人の兄はそれぞれクラスで一番だったと思います。ただここから先が仲良し3人兄弟の不思議な人生が幕を開けて行きました。今日はここまで…また明日
2017.08.10
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こんばんは今日の東京は337℃。たまたま午前11時に月例定期診断のアポがあったのでなんちゃんに車で四谷の田中病院まで送ってもらいました。昨日から残暑ですか?こんなバカ暑い「残暑」なんてあったでしょうか?台風一過のフェーン現象だと言いますが、何度気象情報の説明を聴いてもよく分かりません。今日は意外と体調が良くて、田中医院の後、耳の検査で若松町の耳鼻咽喉科医院に補聴器用の検査に向かいましたが、焼けつくような日差しの下何とか杖を突きつき辿りつか増した。今日の検査はアイウエオの聞き取り検査でしたが、左耳の聴力が一段と衰えていることが自覚されました。午後3時家に辿りついてバタンキュウ。漸く起きだしてパソコンに向かっています。今日から我が人生を振り返る「我が人生の思い出」の書き込みをするつもりでしたので、オギャアとうまれてからの最初の記憶を記します。多分あれは4才の春だったと思います。今住んでいる牛込の家から歩いて数分、母に連れられて「河合幼稚園」に入園しました。河合幼稚園は英語教育の幼稚園で、僕はウィリーというニックネームをつかられたと記憶しています。その幼稚園を無事卒業すれば、僕の人生は全然変わった藻にになっていた楼と思いますがそこが(運命」の分かれ道でした。続きはまた明日・・・では今日はこの辺で
2017.08.09
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