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篠田桃紅さんは次のように語られています。なにか夢中になっているときは、ほかのことを忘れられますし、言い換えれば、一つなにか自分が夢中になれるものを持つと、生きていて、人は救われるのだろうと思います。仕事に夢中になったり、趣味に夢中になったり。宗教などに夢中になるのもそうだろうと思います。(103歳になって分かったこと 篠田桃紅 幻冬舎 69ページ)篠田さんは墨絵による抽象画の第一人者です。現在107歳だそうである。その人の言われていることは、経験に基づいていて味わい深い。篠田さんの指摘されていることは、森田理論でもその通りだと思います。夢中になるものを持っていることは、生きがいを持っているということになろうかと思います。でも歳をとると、夢中になって取り組むものをやめてしまう人がいます。また若い人でも、仕事や勉強には夢中になれない。趣味などに取り組む余裕がないという人もいます。これらは、夢中になれるものは、そこらに転がっているものではないと考えているのではないでしょうか。何か壮大な夢を想定されているのかもしれません。あるいは、エネルギーが枯渇して、生命を維持している状態で満足されているのかもしれません。残念なことです。作家の宇野千代さんは、「幸福のかけらは身近なところにいくらでも転がっている。ただそれを見つめることが上手な人とそうでない人がいる」と言いました。普段の生活の中で小さな夢や楽しみを数多く見つけることが大切なのではないでしょうか。生活の発見会の集談会などの自己紹介では、小さな楽しみをみんなにおすそ分けするという気持ちで発言している人がいます。とても好感が持てます。役に立ちます。・生活の発見誌で見つけた素敵な記事の紹介。例えば、12月号でいえば、「雑草は踏まれても何をされても種を残すという最終ゴールを決して見失わない」・最近挑戦した男の料理の紹介。カボチャマフィンの作り方。・家庭菜園で会得した野菜つくりのコツ。・犬のしつけで心掛けていること。・暑さや寒さをやわらげる方法。・音痴の人のカラオケ上達法。・安くておいしい酒のつまみ。大きな夢や目標というのは元々あるものではありません。日々の生活に懸命に取り組んでいく中で、問題点、改善点、課題などに気づくことから始まります。それらを何とかしたいと思って、頭で考え、実際に行動することでしだいに膨らんでくるものです。夢や目標を持つに至るには、いくつかの段階があるということです。規則正しい生活、凡事徹底の当たり前の生活の中から、夢や目標を育てていきたいものです。そして人生を大いに楽しみたいものです。
2021.01.31
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水墨の抽象画家である篠田桃紅さんは現在107歳だそうだ。この方が含蓄のある話をされている。森田理論を深耕するうえで参考になる話がいくつも出てくる。今日はその中から五感の活用について紹介したい。今の人は、自分の感覚よりも、知識を頼りにしています。知識は、信じやすいし、人と共有しやすい。誰しも、学ぶことで、知識を蓄えることができます。たとえば、美術館で絵画を鑑賞するときも、こういう時代背景で、こういうことが描かれていると、解説を頭に入れます。そして、解説のとおりであるかを確認しながら鑑賞しています。しかしそれは鑑賞ではなく、頭の学習です。鑑賞を心から楽しむためには、感覚も必要です。感覚を磨いている人は非常に少ないように思います。感覚は、自分で磨かないと得られません。絵画を鑑賞するときは、解説は忘れて、絵画が発しているオーラそのものを、自分の感覚の一切で包み込み、受け止めるようにします。このようにして、感覚は、自分で磨けば磨くほど、そのものの真価を深く理解できるようになります。(103歳になって分かったこと 篠田桃紅 115ページ)観念主導ではなく、感性主導で絵画を鑑賞することが大切なのではありませんかといわれています。私たち神経質者は、元々感性は強いものを持って生まれてきました。普通の人が感じないようなちっぽけなことでも、感じることができる能力があるのです。これは生まれた後で獲得したいと思っても、天性のものですから難しいのです。私たちは高性能なレーダーのようなものを標準装備して生まれてきたのです。その結果ノイズのようなものまで捕捉して、それに振り回されて神経症と格闘しいるのが現状です。そこで、こんな高性能のレーダーなんかない方がよかったという人もいます。それは他に欲しい人がいっぱいいるのに、自分の持っている物の価値を過小評価して廃棄処分を考えているようなものです。これは強い感性の取り扱い方が間違っているのではないでしょうか。神経症で苦しんでいる状態はまさにこのことなのです。五感によって得た感性を活用して、芸術に高めたり、生活をより良くするために活用することが大切なのではないでしょうか。そのためには最初に感じたことを右から左に流しては駄目です。感性は貴重な宝物として確実にキャッチすることが大切になります。そうしないと貴重な気づきは忘却の彼方に飛び去ってしまいます。メモなどを活用してきちんととらえる態度が後々絶大な効果を生み出します。きちんととらえたら、そこを基点にして考えて行動していくことが大切です。というのは、そのあとで必ずおせっかいを出すものがいるからです。人間だけに備わっている前頭前野です。前頭前野は「小さな親切大きなおせっかい」を仕掛けてくるのです。それが役に立つ場合もありますが、せっかくの感受性を否定するように働くことが多いのです。それに主導権を渡してしまうと、鋭い感性は活躍の場を奪われてしまうのです。実に残念な結果に終わってしまうことになります。つぎに鋭い感性は鍛えて磨きこまないと、さび付いて使い物にならなくなります。廃用性委縮現象が表面化してきます。一旦さび付いてしまうと、復活させることは極めて難しくなります。元々よいものを持って生まれてきたのに、無為の人で人生の最終章を迎えてしまうことになります。そうならないためにはどうするか。緊張感を持って動くことです。凡事徹底に徹する。リズ感のある規則正しい生活を続ける。夢や目標を追いかけていく。そうすると泉のごとく感情が湧き出てくる。その好循環に入ることで、感性はさび付くことなく、どんどん研ぎ澄まされていくのです。感性をさらに鍛え上げていくことで、自分にも他人にも、家族にも、子供にも好影響を与えることができるようになるのです。
2021.01.30
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公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団のホームページで神経症の克服体験談の動画が配信されています。期間は2月1日12時までです。今回は、対人恐怖症とパニック症の2名の方です。時間は16分と21分です。興味のある方は是非ご覧ください。
2021.01.29
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森田先生のお話です。これまで、不潔恐怖の患者はよく私の妻が治したものですが、たいていは一度や二度は、妻に泣かされたものです。少し残酷のようですけれども泣かないものは、どうも治り方が遅くて不完全のようです。つまり、よく完全に治るような人は、泣くばかり苦痛を忍んでも、必ず治したいという努力のある人です。それで治す人と治される人とが、うまくぴったりと行くときは、随分早く、2、3週間で治ることもあります。ただズボラでズルイような人は、入院しても、あまり厳格にやれば、閉口して逃げ出すものですから、これを泣かせるという所までは行かないのであります。私の妻に泣かされた人は、数えれば随分沢山ありますが、後ではみな感謝して、いつまでも恩を感じるものです。(森田全集 第5巻 612ページ)ガスの元栓が気になる。戸締りが気になる。電気のスイッチが気になる。水道の栓を締めたかどうか気になる。手足や体にばい菌が付いたのではないかと気になる。車で人をはねたのではないかと気になる。ウィルスに侵されているのではないか。ガンにかかっているのではないか。不安の種は真砂の数ほどあります。こういうことにとらわれて、何度も確認行為をくりかえす人がいます。生活に支障が出るようになると、強迫神経症のなかの「強迫行為」といわれています。強迫行為をしながら、自分自身や自分の行動を否定しているという自覚があるのが特徴です。とりわけ完全欲が強い人です。完璧主義、理想主義の人です。つまり森田でいう「かくあるべし」の強い人です。観念優先の態度が習慣化されていて、どうしても行動優先に切り替わらない。森田先生のところでは、強迫行為をしている人が入院してくると、第三者が介入して、有無を言わせず無理やり強迫行為を中止させるという荒療法をとっていたのです。強迫行為によって、不安を解消して一時的な安心感を得ようとしていたのに、それを禁止されるのですからたまったものではありません。気が狂うほど、泣きわめいて抵抗する訳です。しかしこの方法が一番効果があったというのです。それぐらい強迫行為の治療は難しいということです。現代はこの方法は不可能です。下手をすると虐待と間違われる。ではどんな方法があるのか。先ずは薬物療法で不安を軽減する方法があります。そのうえで、慈恵医科大学第三病院などに入院する方法があります。あるいは、外来森田療法を受けることになります。森田療法以外では、認知行動療法などが選択肢に入ります。私は森田療法をお勧めしています。それから、生活の発見会の中に、強迫行為で苦しんでいる人たちの自助組織があります。生泉会という組織で、全国から参加されています。この会に参加して、仲間同士励まし合い、克服した人の話を参考にするのです。強迫行為は一人で乗り越えることは、ほぼ不可能と認識することが大切です。強迫行為に精通した精神科医、臨床心理士の協力、自助組織への参加が必須となります。それから強迫行為を治すための足がかりとなる書籍があります。「強迫神経症の世界を生きて」 明念倫子 白揚社仲間とともに「強迫神経症を生きる」 生泉会発行 問い合わせは生活の発見会この二冊はぜひとも読んでみてください。神経症で苦しんでいる人も大変参考になります。特に森田理論の精神拮抗作用のからくりをしっかりと理解することができます。いずれにしても、強迫行為を伴う強迫神経症は対症療法で簡単に治るようなものではないようです。気になる事を完全になくするというような希望を持たないほうが宜しいかと思います。気にはなるが、生活していく上においては支障がない状態が完治と心得ることが大切になります。強迫神経症を抱えながら、日常生活を淡々と送れている方は、もうすでに何かを掴んでいる人です。強迫神経症によって人生の指針を掴むことができれば、まさに雨降って地が固まるということになるわけです。
2021.01.29
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森田先生のお話です。剣道に限らず、なんでも勝負事は、相手の強い事を知って、これに負けないようにしようとすると、自分を防ぐ方の事ばかりを考えて、いたずらに委縮するばかりで、わかりきった相手の虚があっても、その方には少しも気がつかないで、負けるよりほかに道はなくなる。これに反して、相手が弱いという事を知った時は、軽蔑心が起こって、相手の虚ばかりねらって、隙間のないところまで、無理押しをしようとして、しかも自分の虚には、見えすいた事までも気がつかないで、全く馬鹿げた不覚を取る事が多い。(森田全集 第5巻 607ページより引用)勝負事において、相手が自分よりも強いと判断すると、しっぽを巻いてすぐに逃げ出してしまうという傾向があるといわれている。勝負をするという気持ちが萎えてしまって、ぶざまな負け方はなんとか避けたい。逃げ回ってなんとか引き分け程度に打ち込めば十分だという考え方である。そういう気持ちだと、本来の目的を忘れて防戦一方になる。専守防衛に片寄る。防戦の方法は思いつくが、対手にどうすれば勝つことができるかについての考えは全く蚊帳の外となる。自己防衛というのは、神経症でいうと、普段の生活を維持することを放り投げて、意識と注意を神経症にフォーカスさせている状態です。精神交互作用によって神経症の固着に向かって突き進んでいるような状態です。観念と行動の悪循環をおびき寄せています。このような悪循環に陥らないためには、いくら精神的に苦しくても、日常生活、仕事、勉強、子育て、必要最低限の人間関係を維持していくことが大切になります。自己防衛、専守防衛に、あまりにも偏り過ぎているということが一番の問題です。剣道でいえば、対戦相手から逃げ回っているだけの姿を見せつけられた観客はがっかりします。それは目の前の困難に対して、果敢に挑戦していく態度を放棄しているのを許せないからです。そういう人はそのほかの人生の問題に対しても、逃げることばかり考えているのではないか。そんな生き方は、人間本来の生き方とは違うでしょうと、その人の人間性を問題視しているのだと思います。一方相手が自分よりも弱いと判断すれば、勝負に勝つという工夫を怠るようになる。精神が弛緩状態に陥り、とにかくイケイケどんどんの状態で勝負を急ぐ。ところが相手が切羽詰まったときに、奇襲作戦を仕掛けてくると、思わず不覚を取る事が起きる。この場合は、事前の勝負に対する作戦というものが希薄であるというのが問題になります。精神の緊張感が薄く、自己内省力が全くないという状態です。将棋でいえば、守りがお留守になって、相手を早く倒すことばかりに意識や注意が向いている。気が付いたら負けていた。こんなことは認められない。でも、もうすでに勝負が終わっていて、後の祭りということになります。これらの事例から学ぶことは、自己防衛に偏り過ぎても、攻撃一辺倒に偏り過ぎても結果はよくないということです。森田理論は、バランスや調和の維持を目指しているといわれます。サーカスの綱渡りでいえば、長い物干し竿のようなもので、絶えずバランスを維持しようとしている。そのバランスのとり方が絶妙なために落下して大けがをすることがない。しかも、目的地に向かって少しずつ前進している。このように意識して生活しましょう。生の欲望の発揮、事実唯真という考え方とともに、このバランスの維持という考え方を身につけましょうというのが森田の思想なのです。具体的には精神拮抗作用、心身一元論、欲望と不安の単元などで深耕してしていきましょうということになります。
2021.01.28
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今日は森田先生が大変評価されている西郷隆盛の一生を紹介してみたい。1827年 鹿児島市で誕生1833年 7歳で儒学を学び始める。1844年 18歳で薩摩藩の仕事を始める。1850年 24歳で陽明学を学ぶ。1852年 26歳で最初の結婚をする。1854年 28歳で藩主島津斉彬に見いだされて江戸に行く。妻とは離婚。1856年 30歳で篤姫の輿入れ準備に奔走している。1858年 32歳の時藩主島津斉彬死亡。僧月照と錦江湾で入水自殺を図ったが、一命をとりとめた。1859年 33歳の時藩命により奄美大島に潜居する。島の娘愛加那と結婚。2児を設ける。1861年 11月21日35歳の時藩主島津久光より召喚状が来る。1862年 しかし藩主島津久光の命令に背く行動により、今度は沖永良部島に流罪となる。1864年 38歳の時藩より召喚状が来る。7月禁門の変で長州兵を撃退している。1865年 イトと3度目の結婚をしている。3人の子供を設ける。1866年 40歳の時、坂本龍馬の立会いの下で薩長同盟を結ぶ。1868年 明治元年 42歳の時勝海舟と江戸城無血開城を決めた。1871年 45歳の時、廃藩置県を断行。1873年 47歳の時、陸軍大将になる。朝鮮問題が発生。閣議で決定した朝鮮派遣使節が中止になった。すべての役職を辞して鹿児島に戻る。1874年 48歳の時、私学校を作る。1875年 49歳の時、吉野開墾社を作る。農業に従事している。1877年 51歳の時、西南戦争が起きる。鹿児島の城山で自決する。波乱に満ちた短い生涯であった。最後は新政府と西南戦争で戦い国賊扱いされても仕方がないところであるが、明治天皇をはじめ、政治家、財界人、文化人、民衆から圧倒的な支持を集めている。前アメリカ大統領のトランプさんとよく似ている。1889年 憲法発布の大赦で罪を赦されて「正三位」を追贈されている。1898年 上野に高村光雲作の犬を連れた浴衣姿の西郷隆盛の銅像が建てられた。鹿児島の城山にも西郷隆盛像がある。山形県鶴岡市には「敬天愛人」の碑がある。「南洲翁遺訓」という本があるが、これは庄内藩有志によって作られた。当時庄内藩は幕府派に属しており、討幕派の薩摩藩とは敵対関係にあった。庄内藩はこともあろうに、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしたのである。その後庄内藩はそれ相当の報復を覚悟していたという。ところが官軍の総大将の西郷隆盛は、きわめて寛大な処置をとり、敗者に恥辱を与えることをしなかったのだ。これに感激した庄内藩はいたく感動して、以後西郷隆盛に指導を仰ぐようになった。この本は西郷隆盛に指導を受けた人たちが、西郷隆盛から聞いた人生訓、政治家、指導者、リーダたちの心構えのことを書いている。
2021.01.27
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西郷隆盛の言葉です。間違ったときに改めるにあたっては、自分が誤ったと思いついたらそれでいい。そのことをさっぱり思い捨てて、ただちに一歩前進することだ。間違ったことを悔しく思って取り繕うとして心配するのは、例えば茶碗を割って、そのかけらを集めているのと同じことでどうしようもないことである。(南洲翁遺訓を読む 渡部昇一 致知出版社 176ページ)これは森田先生の「純な心」のことを説明されている。西郷さんは、間違った考え方や行動に気づくことが大切だといわれています。これは、ミスや失敗という事実をそのまま認めることですから、たやすいことにように思われます。ところが現実は難しいというのが実情です。ミスや失敗、能力や力のなさが白日の下にさらされると、自分の存在価値なくなるようで心もとない。周りの人たちから非難されることはどうしても受け入れることができない。自分が今まで苦労して築いてきた財産や名誉、信頼や地位などを失いたくない。不都合な事実がばれなければ、それらを今まで通り守ることができるはずだ。なんとかして不都合な事実が公に広がらないように努力しようと考える。事実はごまかすしかない。見つからないうちに隠した方が身のためだ。取り繕うしかない。事実を捻じ曲げて自己防衛するのである。事実を捻じ曲げることに成功する場合も確かにある。でもほとんどは失敗する。またエネルギーの消耗が激しくて心身ともに疲れ果てる。そしていくら本人が事実を上手に隠したと思っていても、周りの人はきっとうそをついているなと感じてしまう。直観的に信頼できない人だと判定されてしまう。事実は隠せば隠すほど、周囲の視線が集まってくる。政治家や芸能人などの事実隠蔽が大きく報道されるようになると逃げようがない。いかに上手に事実をごまかしていても、ほころびが出てくることがある。そのほころびをごまかすために、また別のうそついて整合性を保とうとする。いかにうまく整合性を取ったとしても、全体を見渡せば不自然なことになる。第3者の証言や監視カメラなどで事実が明らかになると形勢はにわかに逆転する。そして最後には、「こうするしか方法がなかった」と白旗を上げざるを得なくなる。その時点で今まで築いてきた数々のものを失ってしまう。最初はちょっとしたボタンの掛け違いのような状態だった。それが最終的に当初自分が考えていた方向とは真逆の方法に向かうことになった。この時点ではもう手遅れです。最初のこの事実は受け入れたくないなと思った時が肝心なのです。事実は事実のままに認めて受け入れる習慣を身に着けことが大切になります。そうなると、次回から不本意な事実を招かないように手を打つことができるようになります。同じようなミスや失敗を防ぐことができるようになるのです。事実を認めないで、事実を捻じ曲げることが習慣化してくると、次にまた同じようなミスや失敗引き起こします。それは反省やフィールドバックが行われていないからです。森田理論は事実を事実のままに認める態度を身につけましょうという理論だと思います。
2021.01.26
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森田先生は西郷隆盛を高く評価しておられます。そこで私は、現在西郷隆盛の研究をしています。ここでは気が付いた3点を紹介したいと思います。こんなエピソードがあります。西郷さんは漢詩をたくさん作られて、揮毫されている。なんでも鑑定団などでよくお目にかかるが真筆のものは高値が付く。ある時永田さんという人から漢詩を頼まれて揮毫している。それを永田さんは、元薩摩藩士で後に京都府知事などを務めた中井弘さんに見せた。その中に、「子孫に美田を買わず」という文言があった。この文言に中井氏は「こんな馬鹿なことがあるものか」と異を唱えた。むっとした永田さんは挨拶も早々に辞去してしまう。そしてそのことをさっそく西郷さん本人に話してしまった。普通は自分の考えを真っ向から否定されると苦々しく思うのではなかろうか。後日、中井弘氏は西郷隆盛に会った。気まずかったに違いない。しかし、その時、西郷さんは次のように言い放ったという。「あなたは、先日私の漢詩の内容について強く非難したそうだが、私は元々漢詩を作るのは下手なんだよ」と鹿児島弁で話したという。漢詩の内容について、中井さんにこんこんと説明するわけでもない。相手の言動を真っ向から非難するわけでもない。身分から言えば、西郷さんは新政府の陸軍大将まで上り詰めた人だから、そうであっても不思議ではない。それなのに相手を批判することもなく、ユーモアというオブラートに包んで返答したというのである。このエピソードのような対人関係が西郷さんの普段の態度なのだ。つまり「かくあるべし」を前面に出して、相手とやりあうことがなかったということなのです。喧々諤々の議論の時は、静かにみんなの話をじっくりと聞いていることが多かった。自分の意見を持っていないわけではない。むしろ先見の明があり、自分の考えはしっかり持っていた。ただそれを前面に出すということはされなかったということだ。流れに身を任せていたということだ。しかし衆目一致した結論が出ると、意に添わなくても今度は自分がリーダーとなって先頭に立って行動する。それが間違いかも知れないと思っても、立場上責任を全うするべく最大限の努力をする。これはなかなかできることではないと思う。次に、明治維新の時は、数々の実績を上げておられます。そのまま政治の中枢にいて最高権力者として存分に力を発揮できたはずです。ところが西郷さんは、征韓論で敗れると、いつの間にかいなくなり鹿児島に帰ってしまう。帰省してからは、学校を開いて教育をはじめる。また農業と開墾に精を出す。私は農業始めたというところに共感が持てる。西郷さんは、「命もいらず、名誉もいらず、官位もいらず、金もいらない」という気持ちが強かったようです。欲望が暴走している人に、国家の大業はなし得ないとまで言っている。欲望を抑制する中に本来の人間の生き方があることを見抜いていたのではないかと思う。3点目として、「我が身は天物なり」と言っている。「敬天愛人」というのが西郷さんの思想の根幹にある。私なりに解釈すると、天を敬うということは、2600年も続いてきた天皇制を中心とした日本の国体、日本人の心意気を大切にするということではないか。一人一人の人間の存在や国民の生活を第一にするという考え方である。自然の変化に服従する生き方である。「我が身は天物なり」というのは、自分の心身は、神様からの預かりものであるという考え方ではないでしょうか。預かりものであるからいずれお返ししなければならない。預かりものだからこそ大切に取り扱い、精いっぱい活用させてもらう。そして預かったときよりもさらに磨きをかけてお返しするのだという強い決意が感じられます。森田理論に照らし合わせてみても、素晴らしい人物であると思います。さらに西郷隆盛研究を続けていきたい。
2021.01.25
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森田理論は「変化に素早く対応する」「変化についていく」「変化を予測して変化に備える」ことを目指しています。そのために、自分なりに分かりやすい指針となる言葉を見つけて、座右の銘とすることが励みになります。参考になる話を3つ紹介します。岩もあり、木の根もありファーストフライもあれどさらさらとたださらさらと水は流れるこれは箕島高校元野球部監督の尾藤公さんが、元星稜高校野球部選手の加藤直樹さんに送った言葉です。1979年8月16日、星稜高校と箕島高校は全国高校野球3回戦で戦った。延長16回裏二死無走者で箕島高校のバッターがファーストフライを打ちあげた。一塁守備の加藤さんがチャッチすれば星稜高校の勝ちゲームとなるはずだったが、転倒してとることができなかった。それどころか、その後箕島高校に逆転されてチームは敗退した。これは世紀の落球事件として、加藤さんの人生を狂わせてしまった。あれから15年後、その時のメンバーが再び試合をした。最後は一塁の守備の加藤さんのところにフライが上がった。その時、尾藤さんは、勝負を忘れて「加藤、捕れ」と大声を上げていたという。試合後の懇親会で、尾藤監督が加藤さんに送った色紙の言葉である。つぎに、鴨長明の方丈記よりゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。・・・・。うたかたは泡のことだそうです。世の中の変化流転をぴたりと言い表している言葉だと思います。最後に、平家物語より祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。・・・楽しみをきはめ、諌めをもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の憂ふる所をしらざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。あんなに栄華を極めた平家一門も最後は滅亡してしまいました。自分たちの欲望の追及に邁進して、民衆をしいたげていると、いつかはしっぺ返しが来るということだと思います。今の世界の外交、国防、政治、経済、金融政策を見ているとそう思います。会社もイノベーションを怠れば約30年の命といわれています。経営学者のドラッガーは、5年ごとに3分1の事業を入れ替えていくようなつもりで、会社の経営に取り組まないと、会社はいずれ時代遅れになって、とり残されていくと言っています。不安、恐怖、違和感、不快感も、刺激を与えなければ、いずれ変化して、薄らぐか消失してしまう運命にあるということだと思います。このほかにも座右の銘に該当する言葉はいろいろとあると思います。自分にぴったりの言葉を、ぜひ探してみてください。これらを口ずさみながら、「変化に合わせて、変化に対応する」という生活態度を養成していきましょう。
2021.01.24
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森田先生のお話です。婦人などに、よくある事ですが、例えば昨日からの予定で、一緒に松坂屋とか・花見とかに行こうというときになって、気が進まないでいやになったとき、「頭痛がする」とか「気分が悪い」とか、直接に自分の実際を言うことができないで、言を左右に托して、「天気が悪いから」とか「着物が間に合わなかったから」とか、いろいろの口実を設けて取りつくろうとする事がある。自分でもあえて、虚偽をいうつもりではないが、自分のいやになった根本的の理由に、自ら気がつかないのである。そして、その口実が曖昧であるから、かえって相手の感情を損ないやすいのである。これもみなその本心は、自己弁護の心から起こるのである。(森田全集第5巻 596ページより引用)森田先生は一旦やろうと決めたことを、途中で取りやめたいと思うのは一向に問題はないと言われているのだろうと思う。問題はそこにあるのではない。ついさっきまでは、そのつもりだったが、時間が経過した結果、行動する気持ちが萎えてきた。それを相手に向かって、発言することは、いかにも子供じみている。子供でもどちらかというと幼児並みである。相手からそのように判定されては、自分の人格を否定されることになる。どうしようもない人間だとみなされると、風評が広まり、ますます自分の立場が悪くなる。そこでとる態度は、自己弁護、言い訳、ごまかし、事実の捻じ曲げである。これらは森田先生が最も嫌う行動です。事実を認めて、受け入れるということが森田理論の眼目なのです。それに真っ向から逆らう態度が、事実を無視、事実の捻じ曲げ、捏造、言い訳、自己弁護にあるのです。皆さんの周りにも、気分本位の塊のような人で、いったん決めた事なのに、ころころと態度を豹変される人がいらっしゃると思います。一旦約束しても相手からドタキャンを食らい、やむなく予定を変更させられる。そういう習性の人は神経質性格よりも、意志薄弱性気質の面が強い人かもしれません。いったん約束したことは、それを第一優先順位とする。自分の都合で勝手にその約束を反故にすることはまずいのです。さらにその気持ちを隠蔽するために、表面的にうそをついて、隠蔽工作を画策することになると、森田理論で目指している事実本位の態度からどんどん離れて行ってしまうのです。森田先生はチャンスの神様は前髪はあるが後ろ髪はないといわれる。チャンスと判断すれば、できるかできないか判断できなくても、イエスといって引き受けなさいと言われています。そうしないと後で後悔することになる。これはいったん引き受けたからには、何が何でも成功させるという不退転の決意があってのものです。背水の陣を引いて自分を追い込んでいくということはそういうことです。気分本位で意志薄弱性のタイプの人は、このような安請け合いは禁物だと思います。自分にも他人にもうそをつかなくてはいけない状況に追い込まれることが多くなるからです。自分の素直な感情に対してうそをつくということは、森田の目指している方向とは真反対になります。この態度が改善できれば、森田でいう「事実本位」に近づくことができます。
2021.01.23
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結婚するにあたっては、誰しも相手の性格、容姿、仕事などあらゆる側面から検討していると思います。どういう点を基準にすればよいのか、森田理論をもとにして考えてみたいと思います。まず結婚するにあたっては、意見の対立が発生した場合はどう解決していくかを取り決めておくことが肝心です。これをあいまいなままにして結婚すると、自己主張の強い者同士の場合、必ず喧嘩が絶えなくなります。最悪の場合は離婚に至ります。そこまでいかなくても家庭内別居状態になります。心身ともに悪影響を及ぼします。さらに悪い事は子供の成長に暗い影を落としてしまうのです。世間では夫婦仲に問題を抱えているという話はよく耳にします。それは結婚する前に、そういう話し合いをしていないからです。合意していても、解決策を着実に実行していない。一つ屋根の下で生活している夫婦が、毎日顔を合わせないようにして暮らす生活は、苦しみ以外の何物でもありません。次に性格や趣味の合う人の方が楽しい家庭を築いていけるという考え方があります。やることなすことが対立することがない。夫婦円満になるという考え方です。これは頭で考えることと実際は違うということになるように思われます。性格や気性や趣味が異なると絶えず対立して波風が立つという風に考えがちです。でも夫婦の人間関係は、もともと小さい波風が立つのが普通の状態です。小さな波風が立った時、それを抑え込んだり、我慢すると問題はどんどん増悪してしまいます。しかし神経症の場合よく感じることですが、落ち込んだ場合、波長が同じなので同時に落ち込むことがあります。それが増幅されてしまうのです。特に二人とも対人恐怖症という場合は、特に注意が必要となります。強迫神経症と不安神経症の組み合わせはまだましだと思っています。基本的には、我々のような神経質性格者の場合は、発揚性気質など他の性格者の人の場合がよいのではないでしょうか。森田先生もそういわれていたように思います。その方が磁石でいえば、プラスとマイナスを近づけるようなものですぐにくっついてくれる。ところがプラスとプラス、マイナスとマイナスをくっつけようとすると、反発するばかりでなかなかうまくいかない。お互いに足りないものを相互に補うような人間関係の方がうまくいくように思います。結婚相手で「かくあるべし」を前面に押し出す人がいます。よく言えば信念が強い。強いこだわりがある。完全欲、完璧主義、コントロール欲求が強い人です。相手が自分の期待を裏切る事をすると絶対に見逃さない、許さないという人です。そういう人は、相手を思いやるやさしさが少ない。自己中心的で妥協や柔軟性はほとんど皆無です。そういう態度で結婚相手とかかわっていくのです。これに対して、あらゆることを我慢し、耐えて相手の言いなりになる人もいます。バランスの崩れた夫婦関係も心身の不調や子供の養育に悪影響を及ぼします。理想的な夫婦は、お互いに言いたいことを言い合える夫婦だと思います。そして絶えず小さな対立を抱えている緊張感がある夫婦です。これが普通の状態です。その時自分の気持ちや考え方を「私メッセージ」を使い相手に伝えている。我慢して引き下がるよりも、どう調整していくのかを常に考えている。一時的に対立しても、少し時間が経てば、いつの間にか水に流している。譲ったり譲られたりすることが臨機応変になされている。四六時中一緒に行動していても、全く苦にならない。人間関係のコツを会得しているかのように思えるような夫婦である。いろんな対立を抱えていても、心の中では相手を信頼して助け合っている。ミスや失敗があっても、基本的には寛容な気持ちで許すことができる。こういう対等な関係を維持している夫婦は見ていてほほえましい。1プラス1が2ではなく、3にも4にもなる夫婦だと思う。
2021.01.22
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生活の発見誌の12月号に3年間休職している男性の話がある。28歳の教員で、20歳のころから性的煩悶がある。3年前から人前に出ると自分の挙動が変になり、妙な奴だと思われはしないかと苦になる。予期恐怖甚だしく、そのため3年前から休職したままである。これに対して森田先生のアドバイスです。休職して、安楽に静養すれば治ると思うのが、常識的の大間違いです。一般には、これを治そうとする方法をする間は、10年でも20年でも、決して治ることはありません。症状や苦痛はそのままにして、自分の欲望に従い、四角四面に働くようになったら、一方の性的の方も自然に調整されて治るから不思議です。この方は森田先生の「神経衰弱と強迫観念の根治法」(白揚社)を読んで理屈は分かるが実行できませんと返答されています。本を読んで森田理論を理解することで神経症は多少なりとも改善できるはずだと思われているのです。私たちの所属している自助組織でも森田理論の理解に留まっている人がいる。理屈はよく分かるのですが、神経症が強くて行動に移ることができない。例えば、対人恐怖で営業の仕事ができない。つい仕事をさぼってしまう。その結果、毎月ノルマが未達で営業成績が不振である。上司から絶えず叱責され、同僚や事務の女性社員から軽蔑されている。会社を辞めてしまいたいが、辞めると家族が路頭に迷うことになる。八方塞がりです。どうしたらよいのでしょうかといわれる。理屈は分かるが、どうしても実行できないという場合どうしたらよいのでしょうか。こういう人を見ていると、決して実行力・行動力がないわけではない。その証拠に、パチンコや競馬のことになると目の色が変わる。ネットゲームなどには時間を忘れるほど熱心である。その他自発的に取り組んでいる趣味や学習にはとりわけ熱心である。その生の欲望のエネルギーの強さは仕事に熱心な人と遜色がない。しかし本職の仕事の方は、対人恐怖症が障害となって、どうしても「ものそのものになりきる」ことにならない。他人と交渉する能力がない。失敗ばかりで自信がない。やってもダメに決まっている。つい気分本位になり、仕事をさぼってしまう。そうなると自己嫌悪に陥り、精神状態が不安定になるので、刺激的、享楽的、刹那主義の快楽追及でその穴埋めをしようとしているのである。どこまで行っても悪循環が続いているのである。私はそういう人に対して、言い訳をしないで森田理論を応用して仕事に積極的に取り組みなさいとは言えない。まさに自分の場合がそうだったのですから・・・。そういう人にあえて、アドバイスするとすれば次のようになる。会社勤めをしているときは、生活費を稼いでくるという目的をはっきりさせた方がよいと思う。その目的さえ見失わなかったら、それで十分ではないかと思う。間違っても人間関係の改善や昇進することを目指さないことである。人間関係が良好というのは大切だが、第一優先順位に持ってくるのは違う。ここを勘違いして、力尽きて退職してしまうのは実にもったいないと思う。定年退職した後で振りかえってみると、あの時に辞めないでよかったということになるのだ。仕事をさぼり、対人関係で苦しみ、上司に叱られても、仕事を辞めないで、家族を支えて生活費を得続けたことが重要なのである。その中で、多少なりとも、仕事に興味や関心が生まれて、仕事の工夫や改善や改良を思いついて取り組むべき課題を見つけることができたならそれは望外の喜びである。つぎの策として、仕事以外の事で取り組むべき課題や目標を持つことである。気分本位になって、刺激的、享楽的、刹那主義の快楽追及は線香花火のようなものだ。それはカンフル材のようなものだ。一時的には効果があるが持続性がない。生活の発見会の集談会などに参加して、森田理論を学習しながら、アットホームな人間関係を築いていく。あるいは家庭菜園などに取り組んで、食料の自給自足を目指す。ついでに、料理や加工食品作りにも取り組んでみる。スポーツに取り組む。その他、一人一芸に取り組み、ボランティアの慰問活動に精を出す。こちらの方にエネルギーを投入してみたらどうだろうか。これらは対人恐怖症が障害となる事はない。それは利害関係がないからだと思う。自分も積極的に人生を楽しむことができるし、世の中の為にもなってくる。私は、この二つの生活態度を心掛けて、なんとか定年まで持ちこたえたような気がしている。
2021.01.21
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上司、同僚、友人、配偶者などから罵倒される。喧嘩を売られる。叱責される。批判される。こんな時、誰しも悔しい、むしゃくしゃする、イライラする。できることなら仕返しをしたい。こうしたネガティブでマイナス感情が、突然泉のように湧きおこってきます。どのように対応すればよいのか、森田理論で考えてみたいと思います。その前に、こうした感情は何らの方法で解消しないと、怒り、恨みとなって心の中にしこりとなって固着してきます。精神衛生上大変問題です。よくありがちな方法は、相手のなすがまま、我慢する、耐える方法です。あるいは、売られた喧嘩を買うという態度にでることです。これらは実によく見かけるパターンです。こうした対応は後々禍根を残すことになり森田ではお勧めしていません。森田先生は、その時カッとなった感情のままで相手と言い争うことは控えた方がよいといわれています。怒りの感情をその場でストレートに出すやり方は幼児のやることと同じです。少し我慢する。なんか理由をつけて席を外すことがよいと思います。でも、いつも下手にでていると、相手になめられてしまいます。以後も同じようなことが繰り返されて、精神的に立ち直れないほどズタズタにされてしまう。なんとか言い返したい。仕返しをしたいと思うことは自然現象です。その対抗心・反抗心という感情は大事に取り扱いたい。そこで、理不尽極まる出来事の詳細を日記などに書きつけて、論争に備えて整理しておく。後日、お互いに冷静になったときに「少しお話しがあります」といって論争する。高知では3日間考えて、まだむしゃくしゃする場合は、自分の方に理がある事が多い。その時は後に引かないほうがよい。覚悟を決めて自己主張する。理路整然と。その日に備えて、態勢を整える時間を作ることが肝心だといわれている。このやり方は、夫婦や同僚などで力関係が拮抗している間柄では有効だと思います。圧倒的に力関係に差がある場合は、難しいかも知れません。反対にやり返されてしまうので、私はお勧めしていません。私は感情の法則を利用して、その怒りの感情を「実況中継」することをお勧めします。この場合も、売り言葉に買い言葉でその場で短絡的に行動をとることはできるだけ抑制します。「腹痛くなりました。先にトイレに行かせてください」といって、その場を離れる時間を作る。タバコを吸いに行く。缶コーヒーを飲みに行く。コンビニに行くことでもよいのです。冷却期間を置くのです。ここでの目的は、エンジンが焼き付いて使い物にならなくなることだけは避けることです。しかしここで無為に時間をつぶすだけではもったいないです。感情の法則を利用して、例えば次のようにアナウンサーになり切って「実況中継」するのです。ただいま怒りという大型台風が私の頭の中に上陸しようとしております。今年一番の大型台風で、風雨ともますます強まっております。これではどうすることも出来ません。ただいま緊急避難中です。しばらくは外に出ないでください。しばらくすると、足早に台風は日本海に抜けてしまうことが予想されております。今までの経験上、ずっとその場に居座り続けた台風はありません。必ずどこかに行ってしまいます。間違いありません。安心してください。落ち着いてください。仮に、外にいる場合は、枝を振り乱している柳の木の対応を見習ってください。怒りで気が狂いそうだ。仕返しをしてやりたい。それでいいのですよ。その感情のままに枝を振り乱して結構です。振り乱しても、なぎ倒されることはありません。むしろこの対応の方が身を守れるのです。間違いないところです。台風が通り過ぎたら、何事もなかったかのように元に戻ります。間違っても、松の大木のように台風に立ち向かうことだけはご法度ですよ。絶対にこれだけは守ると約束してくださいね。今回のような大型台風ではひとたまりもなく根元からなぎ倒されてしまいます。その証拠に日光の松の巨木が倒壊した姿を思い出してみてください。これだけのことができたら、ご褒美として今夜はおいしいビールが待っていますよ。それにあなたの大好きな焼き鳥もつけてあげますよ。おいしいビールを飲めるように精一杯応援していますよ。頑張ってね。私は定年までは、会社の対人関係で、こうしたマイナス感情に随分悩まされました。その時、この感情の法則をアレンジした言葉を紙に書いて持ち歩いていました。そして、そのような場面に遭遇したとき、席を外して、トイレに駆け込み、この紙を取り出し読み返していました。これによって何度救われたかと思うと今でも涙が出てきます。トイレで、怒りの感情がひと山かけ登り、つぎに下降するのをひたすら待っていたのです。森田理論は第一の法則でこのことを高らかに宣言しているのです。これは何回も成功体験をしました。間違いない考え方です。だから、森田理論の感情の法則は感謝以外ありません。森田先生ありがとうという気持ちです。ただ、残念なことに、このままでは実際にはなかなか使えないのです。感情の法則を自分なりにアレンジして、実生活の中で使いこなせる状態にしておくことが肝心だと思っております。皆さんも自分なりに加工して、自分のものにしてご利用ください。
2021.01.20
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森田理論には大切な考えがいくつかありますが、私たちの精神活動は、絶えず流動変化していて、一時も、静止して固定しているものではないというのがあります。これは精神活動にとどまりません。宇宙を観察してみると一目瞭然です。地球は高速で1年かけて太陽の周りを一周しています。太陽系は天の川銀河の4分の3に位置しており、2億年かけて一周しているということです。天の川銀河の近くにはアンドロメダ銀河があり、お互いの引力で接近しているそうです。そして最終的には2つの銀河は合体する運命にあるといわれています。引力と遠心力という真反対の運動エネルギーがバランスを維持して、高速で運動し続けるという条件の中で初めて存在が許されているということだと思います。分かりやすく言えば、コマの回転や自転車の走行に似ています。運動エネルギーが働いている時が、一番安定しているということになります。頭で考えると、静止し固定している状態が最も安定しやすいと考えがちですが、事実は全く逆になっているということです。不安定どころか、生存さえも危うくなるということです。私たち人間の生き方としては、この運動観を理解して生活に応用していくことが大切になります。基本的には、周囲の流動変化を見極めて、その変化に自分を合わせていくということです。周囲の変化を無視して、単独行動をする。どんな状況でも我が信じる道を突き進むということでは生存することさえ危ういものとなります。この運動観は相対性理論のもとに成り立っているということを忘れてはなりません。自分の運動エネルギーが他の運動エネルギーといかに折り合いをつけて調和できるかどうかという一点にかかっているのです。心構えとしては、第一に周囲の変化を正確につかむことがかかせません。第二には、双方が生き残るためには交渉を重ねて妥協点を見つけることです。不満足かもしれませんが、折り合いをつけて双方が生き延びる道を探る事が肝心です。運動観という視点から神経症を見てみると、感情の動きを停止させて固定化する方向にエネルギーを投入しているのです。そして蟻地獄に陥っているのです。不安や恐怖などに対して、運動観の立場に立つと、それらは静止させて固定化させるというやり方は間違いということになります。これらは時の経過とともにその中身がどんどん流動変化していくというものなのです。時の変化に身をゆだねて、不安なときは不安のまま、苦しいときは苦しいままでいくしかないのです。時間の経過とともに、それらは問題にならないほど小さくなって消え去るというのがこの運動観の意味なのです。どうして静止させて固定化する道を選ぶのか。それは無駄なエネルギーは極力使いたくない。変化を選択してもしうまく事が運ばない場合はどうするのか。苦労はしたくない。楽をしたい。現状のままで何か問題でもあるの。なんとかなっているのだから、今いるところでじっとしていたい。こういう考え方が態度に現れているのだと思います。それは一理あるように思われますが、大自然の流れではないのです。むしろ自然の流れに反旗を翻している態度です。川下に向かって泳いでいくと、自然を味方につけてスムーズに泳ぐことができます。自然の流れに反抗して、川上に向かって泳いでいる人は精魂尽き果ててしまいます。
2021.01.19
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本来自然界には「雑草」という植物はありません。田んぼの畔や耕作放棄地に生えている草を、役に立たないもの、人間にとって迷惑なものと判断してなずけているものです。雑魚、雑木林、雑仕事、雑誌などもそうです。つまり本来なら生命体として存在してはいけない。さっさと消え失せてほしい、存在そのものを忌み嫌い、否定しているものです。私は4月に入ると仕事が休みになるたびに田んぼの草刈りをしています。夏場から秋にかけて同じところを3回も刈り取らなければなりません。平場だけならまだましです。ところが田舎の田んぼは傾斜地が多い。高速で回転する草刈り機は危険作業なのです。また踏ん張る力が必要になり無理な態勢で体力の消耗を招きます。特に夏場は熱中症との戦いになります。草刈り機も高価なものです。私は用途に応じて2台持っています。近所の人は自走式のものを持っておられますが、それは一台30万円もします。それなら放置しておけばよいのにと思われるかもしれませんが、近隣住民に迷惑が掛かり、クレームがきますので草刈り作業は欠かせないのです。昔、牛や馬を飼育していた時は、雑草という考え方はありませんでした。牛や馬の貴重な食べ物だったのです。この牛や馬はトラクターがなかった時代は、田起こしや山からの薪の運搬になくてはならなかったのです。田んぼの草を刈り取って牛や馬の餌にしていたのです。無駄や無理がなかったということです。田んぼの草刈りは朝飯前の一仕事でした。自然循環と自分たちの生活が好回転していたのです。この草は化学肥料をふんだんに与えて作る牧草と比べると、様々な草が混ざった天然ものでありうまいものだったのです。この草に藁を刻んだものや米ぬかや残飯を混ぜて与えるととても喜んでおいしそうに食べていました。こう考えると、田んぼの畔に生えている草は、牛や馬を育てるための貴重な自然の恵みとしてとらえていたということです。こうしたあるものを活かして、とことん活用しつくすという考え方は森田理論の「物の性を尽くす」という考えです。存在しているものはどんなものにも価値があるはずだ。それを見つけ出してできる限り活用し尽くして、陽の目を見させてあげましょうという考え方です。雑草という先入観や決めつけで、汚らわしいもの、いなくなってほしいものという対立した考え方を取ってはいないのです。ではどうして長年続いてきた農業の仕組みが壊されてきたのでしょうか。農業はきつい、汚い、必要悪だという考え方で、改革や改善がなされ、今までの暮らしの仕組みを根こそぎ破壊してしまったからだと思います。今は牛や馬はいません。その代わりに、トラクター、田植え機、コンバイン、軽トラック、乾燥機などがあります。便利で楽になりました。しかしそれらを買いそろえるためのお金は少なくても1000万円にも上ります。そのために本来の農作業は簡単にして、勤めに出てせっせと稼がなくてはいけなくなったのです。一方では雑草退治に貴重な時間を奪われているというのが実態なのです。伝統的な生活、生きがい、自然循環、近所の人とのつながりはほぼ破壊されているのです。その結果田舎に住みたい若者はいなくなりました。それどころか、夜になると鹿やイノシシや猿やクマが縦横無尽に出没するようになったのです。共同体も破壊されて、地域の維持管理ができない限界集落が出現しているのです。これは人間が勝手で短絡的な価値観で従来の暮らしを破壊してきたための自然からのしっぺ返しを受けているように思えてなりません。現在田舎の土地は二束三文です。その土地を中国が狙っているのです。特に北海道の土地の3分の1はすでに中国に買われました。後50年もすると田舎の土地は中国に買い荒らされて、日本という国は実質中国の属国になっていたという笑えない状況がすぐそこまでやってきているのです。残念なことですが、これが日本の現実です。
2021.01.18
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2020年12月の生活の発見誌に興味深い記事を見つけた。森田理論は各論ばかり学習してはならないという話でした。神経症発症のメカニズムを説いている「森田の総論」を学習する必要がある。私も、森田理論学習を続けている人は、「森田の総論」の学習をする必要があると考えています。ですから、この考え方に賛同します。ただこれだけでは何のことを言っているのか、分からないかもしれません。もう少し説明してみたいと思います。私は森田理論のキーワードや特殊用語の理解を優先するのは一向に構わないと思っています。また、生活の発見会が発行している、「改訂版 森田理論学習の要点」に沿って、一通りの基本的な学習から森田理論を学んでいくのがセオリーだと思います。その方が一番早く基礎的な森田理論の学習レベルに達すると考えています。ところがそこに安住していては、森田理論には詳しくなりますが、症状や生きづらさはほとんど改善されないという事態に陥る場合があります。全員がそうなるとは限りませんが・・・。神経症によって、生活が停滞するという問題は、「不安を抱えたまま、なすべきをなす」ことで解消できますが、その先の重苦しい精神的な苦痛、生き辛さなどはなかなか改善できません。これは大きな問題です。何のために森田を学習しているのか疑心暗鬼になるからです。私の場合がそうでした。派遣講師として森田理論の解説は縦横無尽にできるようになりましたが、対人緊張は依然として強く、生きづらさは解消することができなかったのです。これは、森田理論のキーワードや特殊用語を学習して深めていくだけでは限界にぶち当たるということだと思います。行動力が旺盛になっても同じ結果になると思います。それをぶち破るのは、第1に森田理論学習で目指すべき目標をしっかりと定めることだと考えました。神経症を治すだけでなく、神経質性格者としての人生観の確立を目指すことを目標にすることだと考えています。目標をこのように設定すると、意識が外向きになり、生活上の悪循環が改善されても、その段階は神経症の全治からすれば道半ばだという認識が持てます。そして第2に、「森田理論の全体像」を学習することが肝心であると考えました。この問題が生活の発見誌で問題提起されている「森田の総論」に当たる部分です。今回は第2の問題に絞って説明します。遊園地などに巨大迷路というのがあります。ゴールを目指して挑戦しますが、試行錯誤の連続で、なかなか目標のゴールには達しません。この時、丘の上に登って、上からその全貌を見ることができるとしたら、状況は全く変わってきます。どのようなコース取りをすればゴールにたどり着けるかが自づから分かるようになります。森田理論学習も同じだと思います。「学習や実践の全体像」をあらかじめ把握しておくということは、その後の展開を大きく左右するのです。私は折に触れて「森田理論学習の全体像」について話します。私個人としては、この「森田理論全体像」を理論化した時点で大きく変化しました。15年間も停滞していたのは、この視点からの学習の取り組み不足に尽きると思っています。ではどのように変わったのか。「森田理論全体像」を理論化して、治るということはどういうことかがよく分かりました。最終ゴール地点に対して、今自分はどのような地点を走っているのかが分かるようになりました。キーワードや特殊用語はそれぞれが単独で存在しているのではなく、すべてが人生観の確立という目標に向かって関連性がある事が分かりました。そして、今の自分が理解不足に陥っている部分と実践で手抜きになっている部分がはっきりとわかるようになったのです。森田理論を活用・応用していく際の重点項目がはっきりと見えてくるようになりました。森田理論の理解のステージが一段階上に変化してきたことが実感できました。プロ野球でいえば、長らく二軍でプレーしていた人が、1軍の試合に帯同して活躍できるようになったようなものです。ですから、森田理論の基礎学習を終えた後は、早速「森田理論全体像」の学習に入るほうがよいと思います。専門学校や大学に進学するようなものです。念のために申し上げておきますが、前提として、基礎的な学習はおろそかにしないできちんと取り組むことです。基礎的学習は生活の発見会の「学習の要点」を活用するとよいでしょう。さらにこれに、「認識の誤り」の項目を加えて学習するとよいでしょう。学習した人はよくお分かりだろうと思いますが、森田理論全体像には大きな4つの柱があります。簡単に言えば「生の欲望の発揮」「不安の役割と欲望との関連性」「かくあるべしの弊害と苦悩の発生」「事実本位の生活態度の養成」です。この配置図が肝心です。これらは単独で存在しているのではなく、相互に密接につながっております。このブログで詳しく説明していますので、知りたい人はキーワード検索してみてください。まずこの森田の4本柱について大まかに理解を深める。合わせて相互の関連性について理解を深めてください。その後、改めて4本柱について深耕して本格的に学習する。さらに森田のキーワードや特殊用語の学習などで補足していく。家でいえば4本柱の隙間を埋めて天井や壁を塗っていくということになります。神経症の蟻地獄から地上にはい出た後は、ホッとして中休みに入る人が多いように思います。これは実にもったいないと思います。この段階で手を抜かないほうがよいと思います。そうしないと神経症が再発する場合があります。また私の経験上、神経症の根底にある、生きづらさはほとんど解消できません。神経質性格者としての人生観の確立を最終目標として、「森田理論全体像」の学習に入ることでそれらの問題はクリアできます。そして人生90年時代を悔いを残すことなく走り抜けていこうではありませんか。そのための応援は惜しむことなく続けていきたいと思っております。
2021.01.17
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現在「第1回企業向けビデオセミナー 働く人のメンタルヘルスと森田療法」と題して、you tubeで北西憲二先生の講演の動画がアップされています。ご覧になりたい方は、公益財団法人メタルヘルス岡本記念財団のホームページにアクセスしてみてください。告知がないせいか、まだ100人足らずの人しか見ておられないようです。視聴期間が1月18日(月)12時までとなっています。私も全部は視聴していませんが、大変分かりやすい内容です。取り急ぎご案内いたします。
2021.01.16
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森田先生は、「くたぶれて、ヘトヘトになった時に、どうすればよいか」とか、「読書して、頭がぼんやりした時は、それでも無理に読むか」という風に、反問してはいけないといわれる。そういう窮地に達すれば、自らそれを切り開く道が現れて、心の変化が行われるようになる。時と場合における事情は、常に複雑極まりのないものであるから、臨機応変で、決してこれを「どうすればよい」とかいう鋳型にはめるべきものではないのである。(森田全集第5巻 568ページより引用)今日はこの話をもとに投稿してみたい。くたぶれて、ヘトヘトに感じたというのは事実そのものである。その事実に対して、気分本位な行動に走ってはいけない。またどう対応したらよいかと頭で考えてはいけないといわれている。その考えを押し通すと、周囲の状況と調和しなくなるからだ。森田先生は周囲と調和することが最も大切であるといわれているのです。それでは、ヘトヘトになって疲れたときはどうすればよいのか。その時の状況に合わせればよいのだと言われている。そのためには、正しい状況判断をする必要があります。正しい状況が把握できれば、臨機応変に状況に合わせた行動をとる態勢が整います。ヘトヘトでもう歩けないときでも、そこで安易に休んではいけないのです。そうすると最悪の場合、命に係わる危険にさらされることがある。そういう場合は、無理をしてでも、歩き続ける必要がある。強行軍です。酷なようですが、周囲の状況や変化に合わて行動することが肝心なのです。次に眠くなった時、それでも本を読み続けた方がよいのか。この場合も、その時の状況に合わせて行動する。急ぎでなければ、眠ってもよいでしょう。でも、近々試験があるという場合は、そのまま寝てしまうと大変なことになる。そういう時は、まずはうつらうつらしながらも時間の経過を待つ。時間が経てばぼんやりしていた頭がすっきりしてくることもある。どうしても寝てしまいそうなときは、いったん本読みから離れて、外に出て気分転換する。あるいは風呂に入る。シャワーを浴びる。頭を使うことから、身体を動かすなりして気分転換を図る。そうするといつの間にか眠気が飛んでいくことが多い。そしてつらいでしょうが試験勉強に取り組むしかない。そうまでしても、本を読まなければならない場合もあるということです。つぎに車の運転中に急に睡魔が襲ってくることがある。そのまま車を運転すると事故につながりやすい。とくに高速道路では大変危険である。そういう時は、すぐにサービスステーションに入り、15分程度の仮眠をとることが必須である。この場合はすぐに休むということが、正しい対応になります。法事などの時は、倒れないように気を付けながら、うつらうつらとしていても構わない。それが嫌なら、住職に合わせて、お経を唱和するしかない。つまり自分の行動は、常に周囲の状況に合わせることが肝心だということです。自分の気分や意思を前面に押し出して、自由自在に行動してはならないのです。進化論で有名なダーウィンは、「この世で今日まで生き延びてきたものは、力の強い者か。そうではない。富や権力を持っていたものか。そうでもない。時代の変化を正しく見極めて、その変化に即座に対応できた生物であった」と言っています。変化に対応し損ねた動植物は、進化の過程ですべて絶滅してきたということです。森田理論でも刻々と絶えず変化している状況に合わせて、自ら率先して臨機応変に対応していくという態度を目指しています。大河の流れに逆らって泳ぐよりも、大河の流れを見極めて、その流れに沿って泳ぐ方がよほど理にかなっているということです。
2021.01.16
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本日は信州大学の能勢博先生お勧めの「インターバル速歩」について紹介します。人の体力は30歳を過ぎると、10歳ごとに5%から10%程度低下してくるそうです。高齢者は、足の筋力の衰えにより、寝たきりになることもあります。寝たきりは、脳の活動を休止して、認知症などを呼び寄せてしまいます。それは何としても普段の生活の中で防止しなければなりません。そこで「インターバル速歩」が役に立つのです。最大体力の70%以上に相当する「速歩」と、40%以下の「緩歩」を3分間ずつ交互に行うものです。実に簡単です。これを速歩が1日トータルで15分以上になるようにして、一週間では4日以上行います。これは出勤時間や買い物に行く時間を利用して取り組めます。ウィークデイに時間をとれない人は、週末にまとめてトータルの歩行時間が週60分になるようにしてもよいそうです。ポイントは、意識して3分間だけは「速歩」を取り入れて歩くのです。大股歩きもよいそうです。そして、3分間の「速歩」の後には、必ず「緩歩」に切り替えるのです。つまりウォーキングにリズムを取り入れることです。言い換えると、ただ歩くのではなく、足に少しの負荷をかけるのです。それが筋力や持久力の向上に役立つのです。「インターバル速歩」を5か月間行えば、体力が20%増加するそうです。さらに生活習慣病指標が20%改善するそうです。そして医療費が20%削減につながるといわれています。能勢博先生は、これらをまとめて「20%の法則」と呼んでいます。私は通勤時間の中に歩く時間が往復40分あります。その時間帯で、3分速歩をして、3分緩歩をしています。あの橋まで、あの信号までと目安を作っています。この「インターバル速歩」で、末永く足腰と頭を鍛えていくつもりです。この記事はSNSの情報から取り上げました。興味のある方は「能勢博」で検索してみてください。
2021.01.15
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私は友人とカラオケ店に行ったとき、自分の歌唱のどこに問題があるのか把握するためにビデオを撮りました。後で見返してみると、音程と安定感をそれぞれ2点程度高めることができると、全国平均に達することが分かりました。ここでいう安定感は、音程が不安定に震えてしまっていないか、まっすぐに発音できているかどうかを採点しているということでした。自分ではどこに問題があるか分かりませんが、ビデオに撮って第3者の立場から客観的に観察すると改善点ははっきり分かるようです。対策としては、腹式呼吸とビブラートをかけることを意識する事でした。それ以外に、ビデオを見ていてショックを受けたことがありました。歌唱の最後に歌唱力の採点が発表されるのですが、そのときに「ああ、ダメだ」「悪すぎる」「最低だ」という言葉を、曲が終わるたびに連発していたのです。85点以下の時はほぼ間違いなく否定的な言葉を発している。今日はこの否定語の弊害について考えてみたいと思います。このような否定的な言葉を聞かされた友達はイヤになったのではないかと思いました。私が反対の立場だったら、否定語を連発するような人と付き合うと、こちらまで滅入ってしまう。次回から付き合う頻度を下げようと考えるような気がします。否定語には、「ダメだ」「悪い」「最低だ」以外にどんなものがあるか。「間違っている」「改善しなさい」「限界だ」「これ以上はできない」「能力不足だ」「馬鹿だ」「耐えられない」「我慢できない」「もう打つ手がない」「救いようがない」「難しすぎる」「厳しすぎる」「運がない」「ついてない」「あきらめるしかない」などがあります。国語辞典によると否定語は、そうではないと打ち消す言葉とある。反対することです。それに対して肯定語は、その通りで間違いないと認めることです。賛成することです。この方が人生に対して前向きになれます。希望が持てます。明るくなれます。否定語を使うことが多い人は、それが習慣となっていて、物事の良し悪しを判断するときに、ほぼ毎回ネガティブ、悲観的、否定的に見下している場合が多いように思います。始末が悪いことに、この実態が自分では全く分からない。無自覚です。これが問題です。他人が親切心でそのことを忠告してくれても、「そんなことを言われる筋合いはない。そんなことを平気で指摘するあなたに、その言葉をそのままお返しします」などと言う。それが自分だけならまだしも、配偶者、子供、友達、同僚、上司などにも向けられています。それが習慣化している人は、人間関係が悪化します。葛藤や苦悩を抱えて苦しむことになります。そのうち、煩わしくなって、他人との交流を避けるようになります。この否定語を無意識に使いこなしているということは、森田理論の世界では無視できません。それは、事実、現実、現状を「かくあるべし」という観念で価値判断して、絶対に容認しないという態度につながるからです。素直ではない。天邪鬼な態度です。否定語を連発する人は、事実本位になれないので、益々神経症の克服から離れていきます。苦渋に満ちた人生に甘んじることしかできなくなります。これを実感するために、自分の会話などを録音や録画して第3者の立場から見ることが有効です。あるいは配偶者や親や子供や友達に、自分はどんな否定語をよく使っているか、素直な気持ちになって聞いてみることです。すると普段いかに否定語と親和性があるのかよく分かると思います。人間関係がぎくしゃくする理由の一端が垣間見れるようになると思います。ついでに言えば、みっともない何気ない仕草も見えてくることがあります。そういう人は、意識して肯定語を使うように心がけることです。森田でいう形から整えていくようにするのです。肯定語を使い慣れて習慣化することを目標とするのです。「ありがとう」「感謝しています」「この次はきっと大丈夫だ」「成功するまであきらめないぞ」「頑張ってるよ。今のままで大丈夫だ」「またチャンスはやってくる」「たいしたもんだ」「課題がはっきりしてきた」「失敗の中に成功のヒントが見つかった」「ここは改善してみよう」「あきらめるには早すぎるぞ」「家族のためにも頑張るぞ」「英気を養って出直そう」「ここはよかった」「いいところもあった」「神様は乗り越えられない課題は与えない」「ここを乗り越えれば自信になるはずだ。自分は成長できる」「自分ならきっとできるはず」「運命を切り開いて、つきを呼び寄せるぞ」「力になってくれる人がいる」「絶対できる」「そうなんだ」自分なりにそれぞれに納得できる肯定語をいくつか持っておくことです。それを日常会話の中で使えるようになるまで繰り返すのです。肯定語が習慣的に口をついて出てくるようになればよいと思います。さらに、否定語が出る時は、事実を軽視している場合があります。否定語が出てきそうなときこそ、事実だけを述べることを心掛ける。決めつけや先入観や思い込み、感情やイメージはご法度とする。「かくあるべし」で良し悪しの判断を慎むようにする。私のカラオケの場合でいえば、「85点か。全国平均は89点だ。平均まであと4点だ。ロングトーンは満点に近い。得点をアップするためには安定感を改善すればよいのか」誰が見ても能力もお金も知識も力もないからダメだろうと思われるような人でも、物事を肯定的に捉えている人には何とか応援してあげたいと思うものです。それは相手が、一緒になって人生の困難に立ち向かおうというエールを発していることを感じるからかもしれません。
2021.01.14
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昨日の引き続きです。森田理論の第2の要点について投稿します。自分にとって都合の悪い出来事、問題のある出来事が目の前に突き出されたときにどのように対応すればよいのかという問題です。よくありがちなことは、その事実を軽率に取り扱うことです。事実を無視してしまうことです。さらに進んで、事実を隠す、ごまかす、捻じ曲げる、責任転嫁をする。そのための手段として、「かくあるべし」という観念で対応します。気分、イメージ、雰囲気で判断してしまう。先入観、決めつけ、思い込み、他人の意見で事実を解釈してしまう。大衆意見、常識、先例、法律、しきたり、慣行で是非善悪の判断をおこなう。この方向に向かうと、事実が見えなくなります。事実を観念によって捏造してしまうことが起きます。都合の悪い事実や問題のある事実はさらに混迷の度を深めていきます。真実が闇に葬られて、問題解決の糸口は見えなくなります。間違った行動や対策をとることによって、状況は益々悪化してきます。神経症を発症して蟻地獄に落ちてしまうということになります。森田理論では、自分にとって都合の悪い出来事、問題のある出来事に対してどのような対応をお勧めしているのか。まず、本当の事実関係を精査しなさいということです。観念や決めつけや前例に振り回されるのではなく、事実を事実として正しく取り扱いなさい。問題のある不都合な出来事をゼロベースで見直しなさいということです。同じような出来事であっても、すべて同じということはあり得ない。真実こそが神様であるという立場に立つということです。そういう態度をとり続けることで、事実を隠す、ごまかす、捻じ曲げる、責任転嫁することはなくなります。最初は精神的に耐えがたい痛みがありますが、いずれ消え去ります。隠していると、どこかにほころびがでてくることが多くなります。それをさらに隠す、ごまかす、捻じ曲げるための工作を考えて実行しなければなりません。実に無駄なことに貴重なエネルギーを投入しなければならなくなるのです。また、ごまかしている自分自身を嫌悪するようになります。さらに、他人を欺くことですから、他人を不幸に陥れることになります。他人の信頼は得られなくなります。他人から反発を受けることにもなります。どんな不都合な事実であっても、基本的には、その事実、現実、現状を認める。そして受け入れるようにするのです。事実にこだわっていると、問題点や改善点がはっきりと見えるようになってきます。そしてどのような対策を立てて行動するとよいのかが明確になります。事実にこだわればこだわるほど精度が増してくるのです。問題解決、目標達成、相手との合意に至る確率が高くなります。森田理論の言わんとするところを学習して、実行できるようになったとき、あなたの新しい人生が始まるのです。ぜひ事実にこだわる態度を身に着けていきましょう。
2021.01.13
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森田理論は神経症を克服して、素晴らしい人生観を手に入れることを目指しています。そのために2つの視点から説明されているように思われます。まず、第一の要点から説明します。不安、恐怖、違和感、不快感、怒り、悲しみ、劣等感などが湧き上がってきたときにどう対応するかです。神経症の人は、これらを精神の安定を損なう異物とみなして、取り除くことに精力を傾けます。どうにも対応でないと思うと、白旗を上げるのではなく、逃げ回る道を選びます。この道は精神交互作用で神経症の固着に向かうことは、何回も学習されていると思います。森田理論によると、「不安は欲望の裏返し」であるといいます。不安はなくならない。欲望が大きくなると不安もそれにつれて大きくなる性質があります。不安は人類の進化の過程で淘汰されませんでした。それは不安の果たす役割が生命の安全にとって欠かせないものだったからです。信号でいえば黄色を点灯させて、注意を促すという役割です。その信号に従ってスピードを落として慎重に運転すれば、事故に遭う確率は少なくなります。また人間は欲望が暴走しやすいという特徴があります。欲望が暴走すると、「今だけ、金だけ、自分だけ」という気持ちになり、他人を痛めつけることになります。そんなことが進行すれば人類の滅亡を招いてしまいます。それに歯止めをかけているのが不安です。有難いものなのです。不安を活用して、さらに暴走を抑止することは、人類が生き延びていくためのキーとなっています。ですからこれらは、上手に活用する物であって、取り除くようなものではなりません。また取り除こうとしても、決して取り除くことはできないものです。ここに大きな認識の誤りを抱えている人が多いのです。紛争、内乱、戦争は欲望の暴走以外の何物でもありません。この不安、恐怖、違和感、不快感などについて、森田理論では無条件に受け入れることを提案しています。耐える、我慢することを求めているのです。これができない人は、神経症で苦しむことになります。下手をするとそれは一生付きまといます。自分は葛藤や苦悩を体験するために、この世に生を受けたと勘違いすることになります。曲がりなりにも「無条件受け入れ」の方向に向かっている人は、次の展開が両手を広げて待っています。家でいえばコンクリートのしっかりした基礎が出来上がりましたので、その先はその人の好みに応じて、どんな家でも建てることが可能になります。なすべき課題、自分に与えられた問題、夢や目標に向かって舵を切ることができるようになります。そこに全エネルギーを投入することができます。大いに人生を楽しむこともできます。まとめです。森田理論が目指している第一の要点は、自然現象である不安、恐怖、違和感、不快感などが湧き上がってきたとき、その対応方法を誤らないようにしてくださいということです。間違った方向を選択するととんでもないところへ行くことになります。神経症で苦しんでいる人はその方法に行きかけているのです。でも森田理論を学んでいるあなたは、引き返すチャンスを与えられているのです。森田理論を学習して、実践によって正道を歩むことを応援しているのが森田理論学習です。第2の要点は都合の悪い出来事、問題のある出来事が目の前に突き出されたときにどう対応するのかです。この視点からの考察も重要になります。この2つが理解できて、行動に結びついてくると、神経症の苦しみからは解放されます。それどころか、人類史に貴重な1ページを刻むことができるようになります。第2の要点は明日投稿します。
2021.01.12
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対人恐怖を治そうとしないという決意を固めて、目の前の課題に取り組むことができるようになった人に参考になる話をします。1、人間関係は森田理論の「不即不離」を応用することです。1990年11月号の生活の発見誌に、人は親しくなることを目的として付き合うわけではありません。活動の場を通じて引っ付いたり、離れたりしています。対人恐怖症の人は、コップ一杯に満たされた親密な人間関係を築こうとしている人が多いようです。コップに1割程度しか飲み物が入っていないささやかな人間関係が普通なのではありませんか。神経質者は人間関係にのめりこむことがあります。これは極めて危険ですよ。薄くて幅広い人間関係作りを目指すことで、ストレスは大きく軽減されます。必要な時に、必要に応じて、必要なだけの人間関係を築いていきましょう。そのためには生活の幅を広げて、自分の方から積極的に声をかけていくことが大切です。こういう人間関係が身についてくると、無理がなくなり肩の力が抜けてきます。2、人に役に立つ人間をめざす。他人を喜ばす芸を身につける。森田先生は人の役に立つことを見つけて実行しなさいと言われています。私は集談会で世話役を長らく引き受けてきました。今も続けています。このブログはなんとか神経症で苦しんでいる人のお役に立ちたいと思って始めました。自分の症状のことはさておいて、他人の役に立つことを探して実行することが大切です。自分の症状のことは、その後で考えようと思っているうちに、神経症の苦しみは楽になっていくものです。つぎに、森田先生は鶯の綱渡り、民謡などいろんな宴会芸を持っておられました。私は、これに学びアルトサックス、どじょう掬い、獅子舞、腹話術、浪曲奇術などを身に着けて、老人ホームの慰問活動をしています。もっとも下手なものばかりですが・・・。するとそこでいろんな芸を持った人と知り合いになりました。ボランティアで一芸を身に着けている人は、一言でいうと面白い人の塊です。こういう人間関係に囲まれて暮らしている私は幸せ者です。3、高良武久先生は、対人恐怖の人はエキスパートを目指しなさいと言われています。世の中で役立つ知識や技術や能力を身につけなさいと言われているのです。10年ぐらい一つのことに真剣に取り組めば、その道の専門家になれます。そうなれば、自然に人が集まり、人間関係がうまくいくようになるといわれています。1992年6月号の生活の発見誌に曽野綾子さんが次のように書かれている。ある板前さんで、妻から「お父さんは、経済のことは何も知らない。カラオケに行けば音程がでたらめ、麻雀ではみんなにカモにされる。ゴルフも下手くそ。何をやらせてもダメ。そばにいる私が恥ずかしくなる」と皮肉を言われている。その話を聞きながら、当の板前さんは、悠々と笑いものになって平然としている。それは料理にかけては誰にも負けないという聖域を持っているからなのです。聖域を持つということは生きる自信を生み出しているのです。これは実に胸に響く言葉ですね。仕事でなくてもよいのです。特技や趣味、家庭菜園、ペットのしつけでもよいのです。10年ぐらいかけてそういう聖域を一つだけ作ってみませんか。4、対人恐怖で苦しんだことは無駄ではなかった。対人恐怖で苦しんだおかげで、森田理論に出会い、人生をより深く考えることができました。自助組織の生活の発見会にも参加し、素晴らしい経験を積み重ねることができました。即それは仕事、社会活動の面で大いに活用し応用できました。そして、とりわけ素晴らしい全国の仲間と知り合い交流することができました。発見会にやってくる人は、頭の回転がよい。優秀な人間集団です。好奇心が旺盛でいろんな趣味を持っている。親切で思いやりがある。いざというときなんでも相談に乗ってくれる。人生についてより深く考えている。素晴らしい経験をたくさん持っている。こんな人と交流できることは、普通に暮らしていてはあり得ないと思います。素晴らしい人の出会いは、人生のオアシスを見つけたようなものです。これはいくらお金を積んでも買い求めることはできません。望外の喜びでした。確かに神経症の苦しみの渦中は苦しいことの連続でした。いっそのこと死にたいと思ったこともあります。今考えると、その時は苦しかったけれども、それ以上に得たものが限りなく大きかった。計り知れない多くのものを受けとることができました。「神様は乗り越えられない試練は与えない」と聞いたことがあります。多分有意義な人生を築き上げるための試練として、神経症という課題を与えられたのではないかと思います。それをどう料理していくのか、どう味付けをしていくのか、あなたの腕の見せ所です。「人生に無駄なことは一つもない」と言いますが、まさにこのことを指しているのではないでしょうか。どうぞ災い転じて福となしてください。以上で、4日間にわたり対人恐怖症で苦しんでいる人の為にいろいろと話してきました。これに刺激を受けて元気を取り戻してくださる人が一人でもいてくれたらと願っております。これで対人恐怖症の乗り越え方の説明は一旦終了とさせていただきます。
2021.01.11
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対人恐怖症克服に向けての3日目の投稿です。対人恐怖症の人は、他人から自分の存在を軽々しく扱われることを極端に嫌がります。他人から非難、叱責、否定されることには耐えられないといいます。これをよくよく考えてみると、そのような出来事が起きた結果、不快感、不安感、恐怖感が湧き上がってくることに耐えられないということだと思います。もう少し細かく見てみましょう。不安、怖れ、おびえ、腹立たしい、むかつく、イライラする、侮辱される、非難される、けなされる、悲観する、見捨てられる、孤独になる、悲しい、憂うつになる、疲れ果てる、力が抜ける、傷つく、絶望する、無気力になることに耐えられなくなる。イライラしてすぐに取り除いてしまいたくなるのです。実際に起きた出来事ではなく、そこから発生した感情を問題にしているのです。ここは勘違いしやすいところですから、しっかりと理解してください。注射針を打たれたような痛みを感じる。注射針の場合は、覚悟を決めて、少し我慢すれば、すぐに楽になります。ところが、不快感、不安感、恐怖感は耐えることができない。我慢することができない。自分自身が精神的に混乱し、取り乱すことを見逃すわけにはいかないと考えるのです。また一方では、そういうものは適切な手を打てば取り除くことができるものだと考えているからだと思います。逃避するというのは、一時的ではありますが、簡単に不快感から逃れることができます。カンフル剤のようなものになるのです。実際には、そのような手っ取り早い手段を使って、解決しようとすることが、症状をどんどん増悪させていくのです。そのことが頭で分かるのではなく、心の底から体感できるかどうかが、その後の展開を大きく左右します。そのためには何度も失敗を繰り返して、いったんは絶体絶命のところまで落ち込むという体験が有効になるのです。中途半端はあまり効果がありません。これは不安神経症の場合は、生きるか死ぬかという切実な問題が突き付けられるのでそういう体験がすぐにできます。強迫神経症は生死に直結しないのでそういう心境に追い込まれないのです。なんとかなる、救いの道があるはずだと考えている段階では、いつまで経っても、その覚悟を固めることができないのです。私がスタート地点にたどり着くまでに15年かかった原因はここにあります。覚悟を固められるかどうかが、対人恐怖症が治るかどうかの分岐点になるのです。そういうマイナスの感情を放置することができるとどうなるのか。オリンピックのマラソン選手が選考レースを勝ち抜いて、スタートラインに立つことができたようなものだと思います。日本人の出場枠は3人程度です。並みいる強敵に打ち勝ち出場権を得るまでは大変な努力と実績が必要になります。でもここでスタートラインに立てたという意味は大きいと思います。その先にはまた大きな試練が待っているのですが、まず出場権を得ないことには、メダルを獲得することは、絵に描いた餅になってしまいます。森田も同じです。神経症を治そうとしないという覚悟を決めることがとても重要になるのです。神経症が治るかどうかのポイントはここにあるといっても過言ではありません。対人恐怖症の人が、不快感、不安感、恐怖感を取り除くことを断念すると、今まで無駄に使っていたそのエネルギーを別な方面に振り分けることができるようになります。家でいえば、コンクリートの基礎(土台)がしっかりと完成したので、その上に自分の思い描いた家を建てることができるようになるのです。森田ではその方向に向かうことを「生の欲望の発揮」といいます。出発点から、目線を一歩上に向けて、問題点、課題、目標の達成に向けて歩みだすことができるようになるのです。生産的。建設的、創造的な行動がとれるようになるのです。治そうという態度ではそんなところに注意が向かないと思います。とくかく神経症の苦しみを取り除くことが最優先になるからです。対人恐怖症の人が、不快感、不安感、恐怖感に襲われたとき、難しいことですが、深入りしないでさっと流し、目の前のなすべきことに取り組めるようになったときが対人恐怖症を克服した時です。症状が治ったかどうかを詮索するよりも、不快感、不安感、恐怖感などを、我慢して受け入れられるようになったかどうかを問題にすることがより重要になります。そしてスタート地点に立ち、目の前のやすべきこと、課題などにエネルギーを投入できるようになった人は、ほぼ対人恐怖症を克服した人です。そういう視点で、対人恐怖症を克服した人を集談会の中で探してみましょう。そして、どうすれば不安などに耐えられるのか、我慢して受け入れられるのか聞いてみてください。さて明日は対人恐怖の私が、生活の発見会活動の中で、学んだこと、役に立ったこと、実践していることを紹介します。
2021.01.10
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今日は対人恐怖症は治そうと努力すればするほど悪くなるというテーマです。こればどういうことだ。意味不明と思われる人が多いと思います。私は小学生のころから対人緊張が激しかったのです。中学生のころから、他人の思惑が気になってしかたがありませんでした。高校、大学、社会人になってからも苦しんできました。森田療法に出会ったのは、会社勤めをしていた37歳の時です。長谷川洋三先生の「森田式精神健康法」で生活の発見会を知りました。その時は会社内で人間関係が悪化して孤立していました。この本を読んで、私の対人恐怖症が治せるかもしれないと直感しました。あれから34年。ほぼ毎回集談会に参加してきました。入会してから「症状はそのままにして、なすべきことをなす」をキャッチフレーズとして、実践目標を掲げて頑張ってきました。世話役も引き受けて、様々な経験を積み重ねてきました。1年ぐらいですぐに効果が現れました。きめ細かな仕事ぶりで、上司からも信頼されるようになりました。ボーナスの査定もよくなり、昇進もできました。プロジェクトのリーダーにも推挙されたこともあります。行動面は申し分なかったのですが、対人恐怖症の葛藤や苦悩は全く改善できませんでした。昨日投稿したような葛藤や苦しみはどんどん強くなりました。その後15年くらいは、依然として対人恐怖症でのたうち回っていたのです。そんなある日のこと。森田先生の次の言葉にくぎ付けになりました。「神経質の症状はこれをなくしようとする間は、10年でも20年でも決して治らない。治すのをやめたら治る」これってなんかおかしくない。森田療法で対人恐怖症を治そうとしている人は、みんな涙ぐましい努力をしているではありませんか。そのために森田理論学習を続けているのですよ。森田療法は神経症を治すためにあるのではないのですか。治そうという努力をしなければいつまでも神経症で苦しむことになるじゃありませんか。何もしないほうがいいというのが、どうしても腑に落ちなかったのです。これが私の言い分でした。憤懣やるかたない気持ちになりました。つまりこの言葉は自分とは縁がないものだと思っていたのです。今考えると、これが最大の誤算だったと思います。反発心を持ったまま、症状から解放されることもなく、失意のうちに15年の年月が流れました。そのうち、森田理論にはたいした期待もしなくなりました。生活の発見誌も読まなくなりました。でも世話役をしていたので、仕方なく生活の発見会には残りました。懇親会での宴会が楽しみという有様でした。ある日の集談会の体験交流の時、ある方が「森田はまな板の鯉になったような気持で取り組むとよい」という話をされました。症状を治すという気持ちを捨てて、焼くなり、切るなり好きなようにしてくれという開き直りの気持ちになれば症状は治るといわれるのです。私はそれを聞いて、なるほど、これが森田先生の治そうとする間はいつまでも治らないという意味ではないかと理解しました。15年も対人恐怖症で苦しみ、絶体絶命、自暴自棄になっていましたので、この言葉は比較的すんなりと心の中に入ってきたのだと思います。ここでイチかバチかで、いったん治すことをやめてみようと決意したのです。このように決意すのまで15年の長い年月が経過していたのです。では果たしてどんなことができるか考えました。私の場合は対人恐怖の症状が出ると、一目散に逃げるという習性があります。逃げたのでは症状は取り去ることはできませんが、逃げた瞬間一時的に精神的に楽になります。逃げまくることで不快感、不安、恐怖から逃れようとしていました。でもその反動は実に恐ろしいものがありました。そのあとの味気なさは言葉では言い表すことができません。アフリカの草原でライオンに追われる小動物は一目散になって逃げています。逃げれば逃げるほどライオンは勢いよく追い掛け回して最後は仕留めてしまいます。私も症状から逃げれば逃げるほど、症状に追い掛け回されてしまうのです。そして症状はどんどんと雪だるまのように大きくなるのです。増悪してくるのです。そこで何とか踏ん張って、逃げないで一旦不快感、不安、恐怖を受けいれてみようと考えました。それも最初は10回に1回か2回受け入れられればよいという気軽な気持ちでした。受けいれたら自分で自分を誉めて、ご褒美を与えることを考えました。つぎにミスや失敗については、ごまかさない。隠蔽工作をしない。事後報告をすぐに行うようにする。弱点や欠点については取り繕ってなかったように見せることは止めよう。ありのままの自分をさらけ出してみよう。批判、叱責、否定されたときは、言い訳は止めよう。反発したり、喧嘩を売るのは止めよう。自分が悪かったら素直に謝ろう。相手の言い分を聞いてみよう。すぐにはなかなか実行できませんでした。いつも反省して、今度こそはという気持ちは常に持っていました。これらは、対人恐怖に伴う不快感、やりきれない不安感、恐怖を是非善悪の価値判断をしないでそのまま素直に受け入れることにつながります。これがその後の展開を大きく変えていくことに気づかされることになりました。この続きは明日投稿いたします。
2021.01.09
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今日から4日間にわたり、対人恐怖症や人間関係に問題を抱えている人の為に解決のためのヒントを投稿していきます。今回は対人恐怖症の人の特徴と問題点です。対人恐怖症の人は、他人の評価を気にしています。他人から自分の存在を無視される、軽くあしらわれることが我慢できません。また自分が完全に否定されて仲間として扱われなくなることを恐れています。欠点や弱点は他人につけ入るすきを与えているので、できるだけ隠蔽工作をします。ミスや失敗は、叱責、非難、否定の原因になるので、報告を遅らせ、ごまかし、責任転嫁をしようとします。注意や意識の大半が他人の動向に向けられています。他人が自分ことをどう取り扱ったか。またどう取り扱おうとしているのかを予測して、ビクビクしているのです。注意や意識が外向きにならず、内向きで、防衛一辺倒になっています。相手とけんか腰、対立関係に陥り、友好な人間関係を持つことができません。力の弱い人とは喧嘩をし、力の強い人には近づかないようにしています。あるいはしっぽを巻いてすぐに逃げる。最終的には、他人との信頼関係は持つことができなくなる。対人恐怖症の人は、他人から一目置かれる人間にならなければいけないという「かくあるべし」が普通の人と比べるとはるかに強いのが特徴です。自分のことを尊重してほしい。大切に扱ってほしい。評価してほしい。誉めてほしい。などという気持ちがとても強いのです。ところが、現実は自分の考えていることとは真反対のことばかり起きるので、そのギャップのはざまで葛藤や苦悩と闘っているのです。どうにもならないので精神的にも疲れ果て、肉体的な病気にもかかります。ネガティブで悲観的なことばかり考えてうつ状態になります。生きて行くことが苦しい。希望が持てない。そして予期不安に振り回されて、益々他人との接触を避けるようになります。他人との接触を避けていると、人間関係の社会体験が不足してきます。その結果、他人との距離感がつかめない。どう付き合ってよいのか分からない。特に異性と何を話してよいのか、どう付き合ってよいのか全く見当がつかない。他人は恐ろしいものという先入観や思い込みがどんどん大きくなっていきます。針の筵に座らされているようで、生きることは苦痛以外の何物でもないと考えるようになる。投げやりになり、ストレス解消のために、刹那的、刺激的な快楽を求めてさまようことになります。その日暮らしに甘んじた生活に陥ってしまいます。万策尽き果てて、集談会にやってくる人が多いように思います。私も対人恐怖症と格闘してきましたので、なんとか打開してほしいのです。明日は対人恐怖症は治そうと意気込んではますます悪くなると題して投稿します。
2021.01.08
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私たちはやりたいことややるべきことがあっても、できない理由を考えることが多いようです。・資金がない。・賛同者がいない。・時間がない。・能力や才能がない。・どこから取り掛かったらよいか分からない。・どうしても意欲的になれない。など。実践・行動した場合、目の前に立ちはだかる障害や壁を予測して、思い切って踏み込めないのす。その障害は自分で対応するには大きすぎると考えてしまいます。結論として、リスクをとって挑戦するよりも、現状維持の方がよいと判断してしまうのです。失敗するとお金や時間の無駄使いになる。エネルギーの消耗を招く。他人に付け込む隙を与えてしまう。それらは何としても回避したいと考えてしまうのです。一時的にはホッとしますが、長い目で見ると無為の人生を送ってしまいます。この問題に対して、一般的には、できないという大きな原因や障害があるために、挑戦することをやむなくあきらめていると考えています。アドラーはこの考え方は間違っていると言っています。人間というものは、課題や目的、夢や目標を持って生きている動物です。ここでの目的は、「実践、行動、挑戦」は取りやめにしたいということだというのです。現状維持、危険回避、リスク回避という目的の達成のために、やらない、やれないという理由付けをしているに過ぎない。その目的を達成するために、さまざまな言い訳や弁解を持ち出しているのだという考え方をとっているのです。そういわれれば、その通りかなと思います。森田理論では、イヤイヤ仕方なしに目の前のなすべきことに取り組むことが大切だといわれます。最初はイヤイヤ仕方なしに取り組んだことが、終わった後には、行動してよかったと思うことが沢山あります。さらに生の欲望の発揮に邁進することが、本来の人間の生き方ではありませんかと指摘しています。不安を抱えたままで、なすべきことをこなしていくのが森田理論です。その方向を目指すことは、現状維持を打破して、現状を変革するということになります。その際、現状維持を打破するという意志を明確にすることが必要になります。実際にはエネルギーを使います。時間やお金が必要になります。その補給も考えていく必要があります。協力者を作ることも必要になるかもしれません。技術や能力を磨き上げることも必要になるかもしれません。方法や戦略を練る事も必要になってきます。現状を変革するために努力するという生活習慣を身に着けていきましょう。努力即幸福という生活態度が、人生を味わいのあるものにしていくのですという考え方です。そのためには、できない理由、言い訳を考えることは中止したらどうですか。それよりももっと別なところにエネルギーを投入していきませんか。そのエネルギーを現実、現状、事実を正確につかむことに振り向けていきませんか。言い訳、弁解、ごまかしを考えて工夫することは百害あって一利なしという考え方です。事実唯真、事実本位という考え方です。森田理論の核心部分です。さらに気分本位という態度で行動することは問題であると考えています。イヤだ、しんどいと思われることは回避したい。楽をしたい、心身を休ませたい。そして絶えず興奮するような刺激を求めていきたい。これらに流されてしまうといつまで経っても、森田的な生活に入る事はできない。失意のうちに人生は終焉を迎えてしまいます。自分で本能や気分本位に流されてしまうと自覚している人は、第三者に抑止力として協力依頼を取り付けて生活することが大切ですよと教えてくれています。そのための一環として、集談会を活用していきましょうということなのです。
2021.01.07
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昨年インフルエンザのワクチンを打ちました。筋肉注射なので一瞬ですがとても痛いです。翌日になると、注射したところが赤くはれて痛みが出てきます。ワクチンは、流行が予想されるウィルスを弱くして接種するものです。すると自分の日ごろ待機していた免疫機能が目覚めて、ウイルスと戦いを始めるのです。痛みがなくなると自分の免疫機能が勝利したということになります。その戦いの中で抗体を作り出します。その抗体のおかげで、次に強いウィルスが入ってきたときに、すぐに撃退できるのです。敵の威嚇を想定して、有事の時は適切な行動がとれるということです。考えてみますと自分たちの周りは危険がいっぱいです。コロナウィルスもそうです。人類にとっては未知のウィルスです。相手と戦った経験がないので抗体がないのです。まだワクチンが開発されていないので、闘うすべがないのです。最近宅配業者を装って偽のメールを送り付けて、被害を拡散する事例が報告されています。私はアマゾンを利用しているのですが、ある日アマゾンを装った偽のメールを受け取りました。フィッシングメールでした。言葉巧みに情報を聞き出してきました。ついうっかり引っかかってしまい、クレジットで多額の商品を買ったことになり、決済されそうになりました。その時はカード会社から翌日電話がありました。何とか事なきを得ましたが、もしカード会社が気づいてくれなかったならば、まんまと決済されて次々と銀行口座から引き落とされていたと思います。それ以降カードを更新したのですが、何回もカードの内容について問い合わせの偽のメールが届いています。手口を知っているので被害に遭うことはありません。ウィルスやフィッシングメールの脅威は、常に私たちの周りに存在しています。私たちは、それらの敵に対して常日頃から関心を寄せて情報収集する必要があると思います。そして、もしそういう場面に遭遇したときに、とるべき対策を立てておくことが必要になると思います。指をくわえてみているだけでは、相手に乗っ取られて、身体を損傷したり、財産を奪い取られることになりかねません。これ以外にも、あおり運転、故意による交通事故の演出、オレオレ詐欺、ワンクリック詐欺などもあります。普段から保健所や警察などからの情報収集を怠らないようにしたいものです。さらに集談会、友達、知り合いとの情報交換が有効になります。起きたときの対策方法についてはあらかじめ決めておくことが必要になると思われます。地震の避難訓練、火災の消防訓練なども、体験していないと、とっさの事件に巻き込まれたとき、右往左往するばかりで、被害が拡大することになります。神経質者はとりこし苦労が多いのですが、こういう面では大いに活用していきたいものです。無関心で無知というのは、騙す方からすると、「ネギを背負っているカモ」に見えてしまうことになります。いざというときはすぐに対応できるように、日ごろから準備しておきましょう。
2021.01.06
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私が購読している新聞には、日曜日になると「7つの間違い探し」というのがあります。これは楽しみながら事実の観察ができますので紹介します。右と左イラストには7つの間違いがあります。この部分を切り抜いて、家族の人数分拡大コピーします。あるいは集談会で行う場合も人数分コピーします。数名でいっせいに始めて順位を競うのです。ゲーム感覚です。楽しみながら、事実本位の体験ができるのです。何気なく見ていると気づきませんが、注意や意識を向けているとなんとか見つけることができます。このゲームのよいところは、イラストの違いを比較することで、事実にこだわる態度が多少なりとも身に付くということです。コツがつかめると早くなります。そしてさらによいことは、その違いに気が付いても、是非善悪の価値判断はしません。ただひたすら間違っているという事実を観察するだけです。これがよいのです。普段の生活の中では、他人と比較することで、価値判断を行い、劣等感や優越感に陥ります。人それぞれ違う物差しをあてて、価値の判定を行ってそれぞれの立場で、一喜一憂しているのです。優越感を持つことは自信となり、むしろよい事ではないかという人がいます。しかし優越感は他人を見下ろすということであり、見下ろされた人から見ると傲慢な人に見えてしまいます。また優越感を味わうことを好む人は、反面で劣等感に苦しむ人でもあります。それは優越感と劣等感がコインの裏表の関係になるからです。劣等感は自己嫌悪、自己否定につながります。それは自己肯定とはまるで反対の事態を招きます。つまり神経症の発生原因となっているのです。森田理論は、「不安は安心のための用心である」といいます。慎重であるという性格を活かして、取り掛かる前にあらゆる問題点やリスクをつぶすように準備をします。しかし、その後はどんなに理不尽な事実が目の前に突き出されても、イヤイヤ仕方なしにでもその事実を認めて受け入れるほうがよいという理論なのです。不安を持ったまま、目の前の課題や問題解決のために努力するという態度の獲得を目指しているのです。7つの間違い探しはインターネットで探すといろんなものがあるようですので、集談会や家族みんなで楽しんでみてください。
2021.01.05
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大リーグで活躍されたピッチャーの野茂英雄さんのお話です。野茂さんはストレートフォークボールで勝負してきた。成績が悪くなると、周りから「なぜスライダーを覚えないのだ」とか「チェンジアップがあると、もっとピッチングの幅が広がるぞ」と助言されたそうです。これに対して野茂さんは、自分のやり方は変えたくなかったといわれています。変化球をまじえての「打たせてとる」ピッチングは、自分の志向する野球とは相容れない。かりに、そうしたピッチングの方が有効だったとしても、自分を偽っての白星は、真に心を満たすものではない。心の底からカタルシスを得ることもできない。(超一流の自己再生術 二宮清純 PHP新書参照)2つの球種だけだとバッターからは球種を絞りやすい。ストレートだけを狙ってタイミングをとればよいということになる。ピッチャーは勝負に負ける確率が高くなる。普通のピッチャーは、他の変化球を覚えて打者に的を絞らせないようにと考える。このやり方は、もともと自分が持っていないものを、練習によって精度を高めて、試合で通用するものに変えるというやり方です。この方向で球種を増やしていくのがセオリーである。こうした方向で、自分のピッチングの幅を広げていくことは素晴らしいことだと思う。ピッチャーとしてだけではなく、人間としての生き方にかなっている。野茂選手は自分の持っているストレートとフォークボールに自信があったのか、その方向には向かわなかった。成績が悪くなるときは、コントロールを乱した結果、自らのピッチングパターンを押し通すことができなくなったからだと分析していた。メカニックの微妙な狂いが成績の悪化を招いているという認識なのです。だから、他の変化球を覚えることよりも、ストレートのコントロールの精度を高めていくことが何よりも大切になる。そのためにはまず足腰を鍛えていくことが有効になる。次に映像による動作解析によるフォームの修正に取り組んだ。今はピッチングフォームをデジタル処理して、線の動きでフォームのチェックを行うことができる。ボールを投げる際の肩やヒジの位置、肩の幅、スタンスの幅、腕の振り・・・。この分析によって、成績の良かった時と比べると、上半身のブレが見つかった。問題点が見つかったことで、努力目標が明らかになった。一時成績を落としたシーズンもあったが、2001年13勝を挙げることができた。この話は神経質性格を持っている私たちにも勇気を与える。神経質性格は、心配性で小さなことにとらわれて、不安や不快感で精神的に苦しむことが多くなる。神経質性格はよくない。性格改造を行い、少々の不安や不快感を吹き飛ばすような人間になりたいと考える。自分がもともと持っている神経質性格を悪い性格と決めつけて、発揚性気質の人間に作り変えてしまおうと考えがちになるのです。そう考える前に神経質性格のプラス面にも焦点をあててよく分析してみましょう。神経質性格も細かいことによく気が付く。感性が豊かである。分析力が豊かで、真実を追求する力を持っている。粘り強い。好奇心が強く、生の欲望が強い。真面目で責任感が強い。自分にないものを求めるのもいいのですが、前提として自分の持っているものを再評価してみましょう。そしてそれを鍛える。磨いていく。活用していく。まずその方面にエネルギーを投入しませんか。森田理論はそのことを訴え続けているのです。
2021.01.04
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シドニーオリンピックの女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子さんの話です。高橋さんは、小出義雄監督の指導を受けて成長した選手です。最初は、練習ではいい走りを見せても、試合に行くと結果を残せないという選手だったそうです。それを打開するために、小出監督はいろいろと試行錯誤を繰り返しました。例えば、全力走とジョギングを交互に繰り返すインターバルトレーニングを取り入れました。また、トラックや平地ではなく自然の中を走るクロスカントリーにも取り組みました。その他、考え得るさまざまな練習方法を試してみました。ところが、それらの試みはすべて失敗したそうです。途方にくれました。万策尽きた小出監督は、高橋選手の走りを、練習方法や技術面だけでなく、精神面、調整方法を含めて、先入観を排除してゼロベースで見直すことにしたそうです。森田でいう両面観、多面観で分析することにしたそうです。その結果、正確に原因を究明することができたそうです。それは、従来の常識では考えられないところにあったそうです。つまり森田でいう「かくあるべし」に凝り固まっていては、とうてい到達する事はできなかったと思われます。通常、マラソン選手は、試合の前になると調整期間を設けて猛練習をストップさせます。試合に向けて、身体の疲労を取り除き、栄養の補給やメンタル面の強化に力を入れる。そして試合当日に体調と精神状態をピークに持っていこうとするのが常識とされています。調整期間を設けると、練習でつけた筋力は当然落ちてきます。でも常識的に考えて、そのスピードはごくわずかなものとされてきました。普通は短期の調整期間程度で、本番に影響するほど落ちるようなものではない。高橋さんの場合も、そうに違いないという先入観と決めつけがあったそうです。小出監督は、事実はそうではなかったということを発見されたそうです。高橋さんの場合は、他の選手に比べると筋力の落ちるスピードがあまりにも早かった。筋力の測定で初めて明らかになったそうです。原因が分かった段階で、トレーニング方法をがらりと変えたそうです。それは、調整期間を気にしないで、負荷をかけつづける練習方法にしたそうです。他の選手が調整期間に入っても、高橋選手には練習をさせた。高橋さんが大学を卒業するまで、誰もこの事実に気づかず、記録を出すことができなかった。高橋さんが小出監督の指導を受けることがなかったとしたら、二流の選手で終わっていた可能性が高いそうだ。(超一流の自己再生術 二宮清純 PHP新書参照)常識、先入観、決めつけで、その人の能力や実力を判断することは、その人の将来の成長を台無しにするものだということがよく分かります。ですから安易にそういうものに頼り切ってはいけないということです。森田先生のように実際に現地に行って自分の目で確かめる。実験をして事実確認を行う。せっかちに結論を出すのを急ぐのではなく、両面観、多面観で検討してみる。事実こそが私たちがよりどころとすべきことなのです。そういう態度で生きていくことが、自他ともに将来の可能性を広げるきっかけになるということを、森田理論学習でつかみ取っていきたいものです。
2021.01.03
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日本の女子マラソンの監督に小出義雄さんという方がおられました。指導した選手の中に有森裕子選手がいました。オリンピックの2大会でメダルを獲得した選手です。有森さんは5000mの標準タイムは16分台だった。一流選手は15分前後で走るので、一流と呼ぶには程遠い。それでもオリンピックでメダルを獲得できたのは、負けん気の強さだったといわれている。その気持ちの強さはちょっと信じられないほどだったという。この一見長所に見える負けん気の強さは、こだわりの強さ、頑固さと紙一重である。神経症の原因にもなるものです。性格には両面性があるのです。アトランタ五輪の前にこんな出来事があった。有森選手は、レース本番にはソックスを履かずにシューズを履こうとしていた。小出監督は、これに対して反対した。素足にシューズでレースをしたら、絶対に靴擦れを起こす。痛くて走れなくなる。靴下は履いた方がよいと何回も説得したが、彼女は頑固だから、自分がそうと決めたら絶対に聞かない。小出監督は、いかにして有森選手を説得するかに腐心した。そこで採った作戦は、実際のコースを靴下なしで試走させることだった。ところが1回目は完走しても靴擦れは全く起こらなかった。小出監督が思ったような結果が出なかった。有森選手の考えを変えることはできなかった。そこでもう1回だけといって試走させた。2回目の時は、靴擦れが起きたそうです。「監督、痛くて走れません」ということになりやっと納得してくれたという。これがもし本番で靴下なしで挑んでいたとすると、銀メダルは幻に終わっていたかもしれない。小出監督は自分の考えを無理やり押し付けるようなことはされていない。有森選手の考え方を頭ごなしに否定するという方法も採られていない。つまり「かくあるべし」を押し付けるという方法はとられていなということです。もとより意思の強い性格の有森選手をそんな方法で説得できるとも思われない。そんな事をすれば監督の指導に反旗を翻して、仲たがいになることも十分に考えられる。小出監督は有森選手に本番を想定した試走をさせることで、体験的に分からせようとしたのである。このやり方は森田先生のやり方と同じである。森田先生は、事実を確認しないで、先入観で決めつけるという態度を避けようとされている。疑問があれば、現地に出向いて真偽のほどを確かめる。実験をして事実を確かめるという姿勢で貫かれている。事実確認できたことだけを信頼する。それをよりどころとして行動する。対策を立てることを心掛けておられる。頭の中で思いついたことを、事実として早合点することはなかったのである。観念優先の行動は、常に事実によって裏切られることが多くなるということを指導項目に掲げられていたのである。事実唯真というのは、森田理論の中でも核心部分となっている。逆に言えば、考え方や出来事を、事実に基づかないで、観念の世界で判断することで神経症は生み出されているということなのです。これが理解できて、生活面に応用できるようになると、生き方が変わってきます。
2021.01.02
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みなさま、新年あけましておめでとうございます。昨年はコロナウィルスの感染拡大で大変な年でした。昨今では変異種が問題になっていますね。なんとか早期に収束して、平穏な日々に戻ることを祈るばかりです。それとアメリカの大統領選挙の混乱に見られるように、世界の政治、経済の情勢が混迷の度を深めてきました。どちらが大統領になるにしても、中国を含めて内乱が起きるように思えてなりません。さて、私のこのブログは今年で9年目に入ります。昨年は1年間で延べ42万人のアクセスがありました。1日あたりでは1000人強です。建設的な助言をいただきながら、暖かく見守っていただいた読者の皆様には感謝いたします。本当にありがとうございました。今年前半には、一つの節目である延べ200万人のアクセスは達成できそうです。夢としては、そこは通過点で、今後20年で1000万アクセスを目指したいと考えています。1年で約40万アクセスが続くと仮定すると、20年で800万アクセスになります。1000万アクセスは決して非現実的なことではないと思っております。達成できれば、少しは森田理論が多くの人に伝わるのではないかと考えております。大きな目標を持って、実践目標は小刻みに頑張ってまいります。そのためには1にも2にも投稿内容が大切になってきます。内容が悪ければアクセスする人はすぐにいなくなってしまいます。さらに精進していく覚悟です。さて、森田理論は、神経質性格者の方にとって、人生観確立のために一度は真剣に学ばなければならない哲学であると考えています。学んだ方が神経質な人にとって、絶対にプラスになる理論となっています。それを「分かりやすく具体的な例を織り交ぜて解説する」「日常生活への応用や活用方法の提案を積極的に行う」「森田理論をもとにして政治、経済、外交、国防、日本の自立、安全保障、食料問題、環境問題にも言及していく」をモットーとして、今年1年を楽しみながらさっそうと駆け抜けていきたいと思っております。一人でも多くの人に森田理論を深めていただいて、素晴らしい人生観の獲得のお手伝いをさせていただきたいと願っております。今年もどうぞよろしくお願いいたします。東洋の地中海といわれています岡山県牛窓の海です。オリーブで有名です。向こうに見える島は小豆島です。瀬戸内海は穏やかな新年を迎えています。
2021.01.01
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