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村上和雄先生のお話です。社会を見る場合でも、生物を見る場合でも、自分だけ、あるいは自分の所属する共同体や国だけを見ていては、相対的な目を養うことはできません。一旦自分から離れて、相対的な視点から自分を見ていかないと、自分や自分の所属している共同体や自分の国というものはよく分からないわけです。そのために一番いい方法は、場所を変えてみることです。自分についてわかりたいと思ったら、自分を他者の中に置いて、いわば外からの視点で客観的に眺める必要があります。例えばこんな話があります。日本で不登校になった日本の子どもの話です。ケニアに住んでいる村上さんの弟さんがその子をアフリカに連れて行きました。現地の様子を見て、その子どもは大変ショックを受けました。現地では、ある学校の校長先生が生徒たちの点呼をとり、授業料を払っていない生徒は帰ってくれと教室から追い出します。すると、追い出された子どもたちは学校へ行きたい、勉強したいと、校門にしがみついて泣くのだそうです。その光景に、日本で不登校のその子どもはびっくりしました。自分は、学校に行ってくれと親が泣いて頼んでいるのに、学校なんか行くものかと行きませんでした。ケニアの子どもと逆です。同じ学校にいかない子どもがいるといっても、その理由はまったく異なります。その子どもは、猛烈にスワヒリ語の勉強を始めました。それと同時に、教科書を無償で配布するトラックに乗り込み、スタッフと一緒にケニアの奥地にある学校に向かいました。すると、行く先々で全校をあげて歓迎してくれます。それまで自分のやった行為で人を喜ばせることなど一度もなかった彼は、そのことに感激します。その体験によって、彼は変身します。これは環境が変わったことが大きく作用しています。日本にいれば、ご飯を食べるのも、学校へ行くのも当たり前です。それがいかに恵まれていることなのか分かりません。しかし、アフリカには、ご飯もまともに食べられないし、学校に行きたくてもいけな子どもたちがたくさんいます。それは、話として人づてに聞いたり、テレビで見ているだけでは実感できないことです。それを現地で体験すると、やはり人間が変わるのです。現地に足を運び、直接現実に接することは大きな影響力を発揮します。(望みはかなう きっとよくなる 村上和雄 海竜社 101ページ参照)この話は現地に足を運び、直接事実に接することは、人の考え方を変える力を持っているということだと思います。私たちはいちいち事実を確かめなくても、頭で判断すれば、すべてのことが分かり、何も問題は起きないと思いがちです。本当にそうでしょうか。たとえば、昔日航機が群馬県の山中に墜落したことがありました。この飛行機はそれ以前に伊丹空港で尻もち事故を起こしています。ボーイング社で後部の圧力隔壁を修理していました。その修理が不十分だったため、後部トイレの開閉に問題が出ていました。その原因を十分に確かめないで、あいまいにしたままで運航していました。過去の尻もち事故を見直して、再度点検修理に出していたらこの惨事は防ぐことができたかもしれません。この場合は事実の取り扱いを軽視・無視したことが事故の原因となりました。問題や事件の原因を見誤った場合は、対策を立てて行動しても、どんどん横道にずれてしまいます。努力はほとんど無駄になってしまいます。最後には万策尽きて投げやりになってしまうことになりかねません。そうならないためには、面倒でも、時間がかかっても、現地に自ら足を運び、事実に真摯に向き合うことが大切になります。手間を惜しんで、安易に先入観、決めつけ、思い込みなどで、事実を捏造して行動することは間違のもとになります。取り返しがつかなくなります。神経質性格者の場合、それがマイナス思考、ネガティブ思考と結びついていますので、特に注意が必要になります。
2023.01.31
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多くの人が日常生活で経験していることだと思いますが、こちらから求めていると、それに関連したことに出会うという不思議なことが起こります。たとえば、昔の親友のことを思い浮かべていたら、突然電話がかかってくるような事です。解決しなければならないような問題を抱えていたとき、偶然目にしたものから突然アイデアがひらめくようなことです。単なる偶然では片付けられないような、あたかもそこに何か意味や意図が隠されているような偶然の一致のことです。こうした現象を「シンクロニシティ」(共時性)と呼びます。村上和雄氏によると、次の3つの条件がそろったときに、科学や論理では説明しにくいシンクロニシティが起こるケースが多いといわれる。1、「こういうことをやりたい」という明確な目的意識を持っていること。2、その目的に向かってひたすら努力を重ねていること。3、何らかの障害があって、その進行が手詰まり状態になっていること。森田先生は自宅の机の脚で床が傷つくことに心を痛めておられました。ある日自転車屋の前を通りかかったとき、タイヤのチュウブを見て、これを机の脚に取り付ければ床が傷つかなくなると思いつかれました。早速チューブを取り付けて、床が傷つくという問題を解決されました。週末に60キロ離れた田舎で家庭菜園を楽しんでいる私の悩みは水やりでした。日照りが続くと定植した苗が枯れるのです。枯れると何度も植え直しになります。あるいは種まきしても芽が出てこないのです。適期を逃してしまうことがありました。何年もどうしたらよいのか困っていました。近所の人に水やりの仕事を依頼しようかと考えていました。またペットボトルからポタポタと水が落ちるグッズも試してみましたが、効果はありませんでした。あるとき、ネットで水やりのタイマーがあるのを見たとき、「そうか、ポンプの電源に簡易タイマーを取り付けて、蛇口を緩めておくとうまくいくかもしれない」とひらめきました。早速蛇口の先に延長ホースを取り付け、その先に水が染み出るホースを接続しました。これはうまくいきました。私にとっては世紀の大発見でした。ささやかな幸せを感じることができました。遺伝子研究の村上和雄先生は、これはサムシング・グレート(目に見えない偉大な神様のようなもの)からの贈りものではないかと言われています。私たち神経質者は不安や不快な問題や課題を抱えてしまうと、せっかちですぐに解消しようと考えます。でもすぐに解決策を思いつかないということが多々あります。こういう時は、イライラしながら、一旦その案件から離れて、サムシング・グレートを信じて別のことに取り組むようにする。問題を抱えたまま、散歩をしている時、風呂やトイレに入っている時に、ハッと妙案がひらめいてくることがあります。これは神様が、これくらい悩んできたのだから、解決のヒントを与えてやろうと思われているのかもしれません。神経症を乗り越えたいと考えている場合に、この考え方を応用していくというのは如何でしょうか。森田理論では神経症は正攻法ではなかなか克服できないと学びました。神経症にまともにぶつかるのではなく、神経症からいったん距離をおくようにするのです。つまり、神経症を抱えたまま、目の前の必要なルーティンワークに手を出していくことで、神経症はどんどん良くなっていく体験を多くの人が持っています。それは村上和雄先生のいわれるサムシング・グレートが、苦労を抱えながらも目の前のことに一生懸命取り組んでいる人に助け舟を出されているのではないか。私の神経症との格闘の歴史を振り返ってみると、森田理論学習とその応用や活用によって何か目に見えないものに助けられたように感じます。
2023.01.30
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トランス脂肪酸の弊害についてはご存じだろうか。トランス脂肪酸とは、植物油は常温では液体であるので取り扱いが難しい。さらに酸化しやすいという問題もあります。そこで食品会社が考えだしたことは、水素を添加して、植物油の性質を常温でも固形化することでした。空気中でも酸化しないものに変えれば使い勝手がよくなるということでした。これは自然界には存在しないものです。パンつけているマーガリンはトランス脂肪酸そのものである。コーヒーフレッシュはミルクだと思っている人が多いがトランス脂肪酸である。ファーストフードのフライドポテトは2年くらいは腐らないという。その他食品表示にショートニングと書かれているものがある。マーガリンの仲間で、トランス脂肪酸が多量に含まれている。ファーストフード店では、植物性シートニングを高温で溶かし、これを揚げ油として使っているのである。このことを科学者たちは、「オイルをプラスチック化」するというそうだ。トランス型になった脂肪酸が人間の体内に入ると、分解や代謝に大変なエネルギーと時間を消費し、大量のミネラルやビタミンを消費することが分かっている。しかも、体内で活性酸素を発生させる。私たちの体の細胞膜は脂質で構成されているが、トランス脂肪酸を取り込むと、必須脂肪酸の役割を果せないばかりではなく、細胞膜の構造や働きが不完全なものになる。さらにトランス脂肪酸は、身体のコレステロールのバランスを崩してしまうため、心臓病を誘発することも分かっている。そして糖尿病の発症にも深くかかわっている。これは、すい臓からインスリンが分泌されても、それを受け取る細胞膜の受信機能が鈍くなってしまうためだ。トランス脂肪酸の影響を最も受けやすいのが脳であるという。それは、脳の60%が脂質でできているからだ。イギリスオックスフォード大学のピュリ医師らは、トランス脂肪酸が脳の活動に必要な酵素を破壊し、注意欠陥障害(ADD)や注意欠陥多動性障害(ADHD)などを引き起こす要因になると報告している。また、アメリカ神経学会の学術誌(2004年)に発表された論文によると、トランス脂肪酸を多く摂っている高齢者は認知症になりやすいという。脳を構成する脂質は、不飽和脂肪酸のオメガ3脂肪酸が欠かせない。これが不足してくると、トランス脂肪酸が構成材料として使われる。その結果、脳の細胞膜が不安定になり、脳の伝達機能が衰えてしまうのである。アメリカのC・ベイト博士は、トランス脂肪酸が慢性的な抑うつ症状や疲労を生み出していると報告している。トランス脂肪酸の摂取が精神障害を招き寄せているというのは衝撃的である。そういうものに囲まれて生活しているという認識は持って置いたほうがよいと思う。(心の免疫学 藤田紘一郎 新潮社 103ページ)
2023.01.29
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巨大な星は超新星爆発によりその残骸を宇宙空間にまき散らします。オリオン座にあるペテルギウスはその候補と言われている。爆発した残骸の中から、新たに星の赤ちゃんが生まれます。宇宙空間では、巨星が死を迎えることで、新しい命が生まれているのです。その際、超高温の核融合反応によって、新しい元素が次々と作り出されます。それが新しく生まれる星たちに豊富に供給されているのです。炭素や酸素や鉄などの元素は、超新星爆発がなければ生み出されないということになります。地球も様々な元素に満ち溢れていますが、超新星爆発の恩恵を受けているのです。これは超新星爆発という巨星の死が、利他的な側面を持っていることを意味しています。一見パラドックスな現象ですがこれは宇宙の真実です。この宇宙の法則は人間にも当てはまるのではないでしょうか。考えてみれば、私たちの体の細胞も死と誕生を繰り返しています。ケガをしたときにその部分の細胞が死んでかさぶたができます。それが取れると元に戻ります。目の角膜は毎日、約3000億個の細胞が死に、それと同数の細胞が誕生しています。また成人の赤血球は毎日、数千億個が入れ替わっているといわれています。こうした細胞の死と誕生は遺伝子に書き込まれているそうです。手足の指は、元々分離していません。それが胎児として成長していく過程で、指と指の間の細胞が自死することで分離されていきます。その部分の細胞が死んで、他を活かすための材料となるという仕組みは、利他的遺伝子として人間の細胞に組み込まれているそうです。永遠に増殖して増え続けるがん細胞は、死の遺伝子を持っていません。ガン細胞には利他的遺伝子がないので、貪欲に増殖します。ところが生存可能な領域を求めて拡大し続けると、宿主を死に至らしめます。その結果最後には自分自身も絶滅してしまいます。誕生と死は繰り返されているという考え方は希望が湧いてきます。次につながるのであれば、今現在の生き方を見つめ直すことができます。今が良ければそれでよしという考え方はできなくなります。次につながる生き方ができるようになります。遺伝子研究の村上和雄氏によると、人間には自己中心的な遺伝子も、利他的遺伝子も両方とも組み込まれていると言われています。自己中心的な遺伝子のスイッチがオンになると、紛争や戦争を起こすようになります。この方向は、ガン細胞と同じように人類の破滅につながります。利他的遺伝子のスイッチがオンになると、人類の共存共栄が可能になります。人類は助け合い、平和な繁栄を謳歌できるようになります。世界の悲惨な紛争や戦争の歴史を見ると、利他的遺伝子をオフにしたままで、自己中心的な遺伝子のスイッチをオンにしていた場合が多かったのではないでしょうか。森田理論の中に「物の性を尽くす」というのがあります。この考え方は、その物に居場所や活躍の場を与えて、その物が持っている存在価値や能力を最後まで存分に発揮してもらうという考え方です。この考えを実生活に活かしていくことは、人間に組み込まれている利他的遺伝子のスイッチをオンにする生き方のことではないでしょうか。(望みはかなう きっとよくなる 村上和雄 海竜社 参照)
2023.01.28
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あいつだけはどうしても許せない。死ぬまで恨んで呪い続けてやると思っている人はいませんか。それが他人だけではなく、自分自身に向いている場合もあります。その強い執念を持ち続けるのは、大変なエネルギーが必要になります。莫大なエネルギーを補給し続けているわけですからある意味で立派なことです。しかし、そういう生き方はしんどくありませんか。そういう生き方とは違う別の生き方を選択することもできます。理不尽な仕打ちによって、大きなダメージを受けても、時の経過とともに、水に流して許容していく生き方です。反抗や対立とは反対の、許す・許容するという生き方です。臨床心理士の杉山崇氏がそのヒントを提案されています。これらを自分の生活に応用することで、許容力が身につくと考えます。以下は、「許す練習」 杉山崇 あさ出版を参照しています。1、感謝の気持ちを持つ。感謝の気持ちで生活を続けていると、怒りを手離して赦すことができるようになります。その手法の一つとして、内観療法というのがあります。一般的には内観研修所に行って一週間くらいの時間をかけて行います。「身調べ」と言われています。してもらったこと、してさしあげたこと、迷惑をかけたことを調べていくのです。母親、父親、祖父母、兄弟姉妹、友達、仕事仲間・・・などに広げて、年代ごとに区切って調べていくのです。私は大阪の内観研修所で一日内観を行いました。1日では何の効果もありませんでした。しかし1週間の集中内観を受けた人の話を聞くと、感謝の涙が止まらなくなるそうです。誰に聞いてもそういわれます。しかし日常生活に戻るとその効果はしだいに薄れてくるそうです。家で自分一人で日常内観できるように習慣化することが大切だそうです。2、目的や目標を持って生活する。目的や大きな目標を持って生活している人は、現実にしっかり足を着いて、下から上目線で生活している人です。そういう人は、理不尽なことに反抗する態度は少なくなります。目的や課題を意識している人は、結果として許容できるようになります。森田理論の事実本位の態度を身に付けている人は、他人や自分を非難・否定することよりも、肯定、許容できる態度を身に付けた人と言えます。目標を持つ生き方については、2022年10月21日投稿の「仕事を面白くするコツ」を参照してください。3、マインドフルネスを活用する。マインドフルネスの要諦は、過去や未来に振り回されないで、「今ここに」集中して、湧き上がってきた自分の感情に気づくということです。感情に振り回されないで、その感情を客観的な立場から眺めることができるようになります。私はマインドフルネスに詳しい山口県の臨床心理士、刀根良則先生のWeb講座で勉強しました。また、藤井英雄氏の「マインドフルネスの教科書」「マインドフルネス人間関係の教科書」などの本も参考になります。
2023.01.27
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坂村真民氏の詩です。鈍刀をいくら磨いても無駄なことだというが何もそんなことばに耳を借す必要はないせっせと磨くのだ刀は光らないかも知れないが磨く本人が変わってくる(坂村真民 詩集「自分の道をまっすぐゆこう」 PHP研究所 「鈍刀を磨く」より一部抜粋)この詩は日常生活の中で小さなことに手を抜かないで、ていねいに取り組むように心がけていると、人間として器の大きな人間になれるということだと思います。神経質者は小さなことが気になりますが、それはよくないことだと思っている。発揚性気質の人のように、細かいことが気にならない人にあこがれています。自分の性格のよい点を軽視して、ないものねだりをしているのです。自分の性格を磨くことに力を入れた方がよほど意味があります。普通は雑事や雑仕事などはできるだけ手を抜いて、自分の得になることや他人から称賛を浴びるような大きなことに取り組みたいと考えている。あるいは何もしないで、ひたすら快楽を追い求める生活に甘んじている。水谷啓二先生は、「我々は風雲に乗じて成功を遂げるタイプではない。平凡に徹し、それを継続することで評価されるタイプの人間である。平凡を20年30年と積み重ねた人は、極めてまれな非凡の人となれる」と言われています。神経質性格者は、このような生き方をめざしていくべきだと思います。陸上競技でいえば、短距離よりもマラソン競技の方に向いています。マラソンは地道な競技ですが、42.195キロを完走する人は大きく評価されます。集談会でルーティン生活を大切にしておられる方に出会いました。日々の日常生活の中で、小さなことでささやかな楽しみや感動を数多く味わっているといわれるのです。たとえば・おいしくビールを飲むコツをみつけた・魚のあら炊きをおいしく仕上げる方法・一人カラオケを楽しむ方法・父親の残した盆栽を楽しむ工夫・毎朝近くを散策する楽しみ・路傍に咲く花を心ゆくまで楽しむ方法・市営プールでの水泳の楽しみ方・テレビでの大相撲の楽しみ方・庭の雑草退治や剪定を面白くする工夫・夫婦の人間関係を改善する会話・生活の発見誌を隅々まで読む楽しみ・自家用野菜の世話をする楽しみ・野菜畑の土つくりについて・市の映像ライブラリーの活用方法その他にもいろいろと教えてもらいました。その方の信条としては、お金のかかることは安易に手を出さない。新しいものはすぐに手を出さない。みんなに行き渡ったころに必要と判断したら初めて買う。今あるものを修理し、工夫してできるだけ長く使うことに喜びを見つけている。だから老後の貯えなどはそんなに必要ないと言われる。森田理論を生活の中で活用することに生きがいを見出しておられる。その中でも「物の性を尽くす」「ものそのものになりきる」ことにかけては、他の追随を許さないという雰囲気がある。この方の話は体験に裏打ちされているのでとても参考になりました。いつも参加者の話をよく聴いて、自分の経験をもとにして話しされました。現在は体調を崩されて集談会には参加されていませんが、いまだに大きな存在感を示しておられます。私は仕事や人間関係で困ったことが起きたときは、「こういう場合、あの方はどう考えて行動されるだろう」と考えるようにしています。こういう方に集談会でお会いできたことは私の一生の宝物です。
2023.01.26
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矢野惣一氏のお話です。感謝というと「ありがとう」ですが、「ありがとう」だけでは、本当の感謝ではないのです。感謝には、「謝る」という字が入っています。本当の感謝は「ありがとう」と「ごめんなさい」の両方の気持が込められているものなのです。「ありがとう」と「ごめんなさい」には、それぞれそのあとに省略された、次のような言葉があります。「ごめんなさい。こんな私を許してください。受け入れてください」「ありがとう。私はあなたの好意を、確かに受け取りましたよ」(うまくいかない人間関係は「愛の偏り」が原因です 矢野惣一 廣済堂出版)普通感謝の気持ちをあらわす言葉は「ありがとう」だと思います。矢野氏はそれだけでは片手落ちだと言われているのです。「ごめんなさい」という言葉とセットにならないと感謝にはならない。難しくて何のことを言われているのかよく分かりません。今日はこの問題を取り上げてみました。父親と娘の仲が壊れたとき、父親が亡くなる前に、娘に「今まですまなかった。不器用な自分を許してくれ」といっただけで、娘は泣きながら父親を許すことができそうです。父親は冷たくした子どもでも目の中に入れても痛くないものです。生きている限り、いつまでも子どものことが気がかりなのです。それがいつの世でも子どもを持った親の姿です。娘だって離れて暮らしていてもお父さんのことが気になっているのです。父親が下手に出てくれば、「私の方こそ反発ばかりしてごめんなさい。許してください」と素直に謝ることができるようになります。「ごめんなさい。許してくれ」は親子がすぐに和解できる魔法の言葉ではないでしょうか。このように考えると、謝罪と感謝はセットになっているのです。世の中には「ありがとう」は連発するのに、「ごめんなさい」を言うことに抵抗を持つ人がいます。お客様や上司には「申し訳ございませんでした」と言えるのに、大切な家族や友人には、口がさけても言えないという人がいます。「ありがとう」は、自分と相手の立場が対等か、もしくは自分のほうが上の場合に使われます。「ごめんなさい」という言葉は、相手よりも自分の立場が低くなります。「ごめんなさい」は、自分を相手よりも対等以下に置かないと出てこないのです。プライドの高い人は、この言葉は屈辱以外のなにものでもありません。口がさけても絶対に口にしたくない言葉となります。それが相手と対立し、傲慢で鼻持ちならない人にみえるのです。そういう人は孤立して寂しい人生を送ることになります。「ごめんなさい」を言いたくない人は、自分の立ち位置を上に置いて、上から下目線で他人を見つめているということになります。森田理論でいえば、観念優先で完全主義の態度を前面に押し出し、相手を非難・否定することに生きがいを感じているような人です。負けや誤りを素直に認めて「ごめんなさい。許してください」と言える人は、森田理論の事実本位の態度を身に着けている人だと思います。これを身につけた人は、神経症的な葛藤や苦悩とは無縁の人となります。矢野氏の言われている「ごめんなさい」は、あなたのことをいつも非難・否定している自分を許していただきありがとうございます。寛大な包容力で許容していただいたあなたに、心から「ありがとうございます」と感謝いたしますということではないでしょうか。謝罪と感謝という言葉は、裏表の関係にあることに留意したいものです。
2023.01.25
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先日図書館に本を返しに行った時のことです。私は、本を読むとき、これはと思ったところに、付箋をつけています。その部分を再度読み返しています。あるいはコピーをとっています。もちろん返却する時はすべて取りはずしています。その日はまだ読み終えていない本がありました。2週間の返却期間を過ぎたらいったん返却して、予約者がいない場合はさらに2週間延長してもらうことができます。予約者がいないことを想定して、付箋を付けたまま、「予約者がいなければ延長してもらいたいのですが・・・」と受付係の人に申し出ました。すると受付係の人から、「付箋をつけると本が傷むので止めてください」と言われました。私はとっさに何と理不尽なことを言うのだろうと思いました。私には付箋を付けたことで本が傷むことは考えられないという気持ちがありました。その証拠に付箋を取り除けば借りたときと同じ状態になります。それよりも時々本の隅を折っている人がいます。さらに鉛筆で棒線を引いている人がいます。この方がよほど問題だと思っていました。私は腹立たしくなって暴言を吐きそうになりました。実際には「申し訳ありません。以後気を付けます」と言いました。なんとか怒りの感情に振り回されることはありませんでした。森田では怒りの感情と行動は別物として取り扱いましょうと学習しています。今回は学習した通り、なんとか切り抜けることができました。でももし暴言を吐いていたらと思うとぞっとします。きっと後で後悔することになります。以後図書館には行きづらくなります。本が借りられなくなると私にとっては死活問題になります。このことで2つのことを学びました。本を返却する時は、延長を申し込む場合でも、すべての付箋を外しておくこと。きちんとルール通りにしていると何も問題は起きません。手を抜いてズボラをするとろくなことにはなりません。それが受付担当者の顰蹙を招く原因を作ってしまいました。今度からはこういうことはしないようにしたいです。次に、相手から理不尽なことをされた場合は、自然に腹が立ってきます。感情は自然現象ですからあたりまえのことです。誰でもそうです。森田では売り言葉に買い言葉的対応は問題ですよと教えてくれています。でもそのような状況に置かれると、感情に振り回されてしまう場合があります。自分の意思とは反対のことをしてしまうことがあるのです。この問題にどう対応すればよいのでしょうか。付箋をしたまま延長を申し出た私の行動は軽率でした。しかしよく考えてみると、受付係の人から何らかの苦情を言われるかもしれないという気持ちが少なからずありました。以前にも付箋が一つだけ残っていて注意されたことがあったからです。その小さな心配な気持ちを無視しないで大切に取り扱う必要がありました。この気持は森田理論でいうと「純な心」にあたるものだと思います。自分の素直な感情、直観、第一に湧きあがる感情のことです。この感情を軽視、無視することが問題になるのです。「純な心」を分かったうえで行動するのと、分からないままに行動することは、その後の対応に大きな違いが出てきます。相手から何か言われるかもしれないという気持ちがあると、「そうですよね。私もそう思っていました。ごめんなさい」と素直に謝ることができます。一方分からないまま行動すると、怒りの感情に振り回されてしまいます。直ちに相手と戦うという気持ちが生まれてきます。それは人間の本能のようなものでしょう。交差点で出会いがしらの交通事故を起こすようなものです。売り言葉に買い言葉でどうにも止まらなくなります。大人がこういう場所でキレたら実にみっともないことです。後で後悔し、自己嫌悪に陥るのです。事故を起こしてしまうと後の祭りです。この件では、森田の「純な心」の貴重な経験をすることができました。これは次回に必ず活かしていきたいと思っております。
2023.01.24
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鍵山秀三郎氏のお話です。警察官のAさんは、正義感の強い方で、正しいことは正しいと言い続ける人です。法で定められたことを、曲げずに主張するものですから、周りの方と摩擦が起きていたのです。同僚からも「そんなに堅苦しくやらずに、もう少し柔らかくなれ」と言われていたそうです。私と出会った頃もずいぶんと悩んでおられ、警察を辞めようかと思われていた時期でした。当時は帯広の駐在所の勤務でしたが、不法駐車を巡って住民との間でトラブルになっていたのでした。厳格な取り締まりのために、住民から不満が噴出していたのです。Aさんは私にそのような悩みを打ち明けられたので、私は言いました。「毎朝、奥さんと一緒に近隣の掃除をしなさい」と。それからAさんは奥さんと二人で掃除を始め、40日くらい続いた頃に、住民の駐車違反がなくなったそうです。住民との関係が、掃除をきっかけに良好になったのです。その後Aさんは帯広から札幌に転勤になり、留置場勤務となりました。留置場は真ん中に通路があり、両側に未決囚が入れられているそうです。私はAさんに、「朝就業時間前に通路を掃き、雑巾がけをし、囚人の顔を見て声を掛け、おはようございますと挨拶をするように」と言いました。それを毎朝続けていたら、囚人が隠し持っているものをみんなAさんに出すようになったそうです。(大きな努力で小さな成果を 鍵山秀三郎 育鵬社 183ページ)この話は、毎日掃除に真剣に取り組むと、自分の心も同時に浄化されるようになるということだと思います。そして、自分の心が浄化されると、それを見ていた周囲の人の心や考え方や行動によい影響を及ぼしていくことではないでしょうか。不思議なことがあるものです。本当のことかと疑心暗鬼になります。今日はその現象に焦点を当ててみたいと思います。このケースでは、掃除をする責任のない人が掃除をされました。もちろん報酬を伴わないボランティアです。それを毎日のルーティンワークとして継続されました。その結果、公道や留置場がきれいになりました。と同時に、目には見えませんが、Aさんの心のなかもきれいに掃除されたのでしょう。それを見ていた人は、最初はあの人は何をしているのだと不審に思われたのでないでしょうか。悪く考えると、何か魂胆があるのではないか。あるいは、これ見よがしにあてつけがましいことをしているのではないか。しかし40日も続けていたら、そんな気持ちが薄らいできました。これは、掃除に取り組むことで、周りの人の心もいっしょに浄化されたということではないでしょうか。周りの人の心も気づかないうちにすっきりときれいに掃除されていたのです。周りの人の心の中の汚れなどが取れてきたのです。泥水の泥が底に沈殿して、上水がきれいに澄んできたような感じです。汚かった水が魚の住める水に変わってきたようなものです。心が澄んでくると、ねぎらいの言葉をかける人が出てきました。しだいに共感者や賛同する人が生まれてきました。その流れはしだいに大きなうねりとなり、渦を巻くように広がっていきました。毎日きちんと掃除している人は、心の中もきれいに浄化されます。掃除をほとんどしていない。どうにもならなくなって初めて掃除をするという人の場合は、心のなかは少々荒れ気味ということかもしれません。心の中は目には見えませんが、自分では気づかないうちに、他人に対する心ない言動として噴出するようになるかもしれません。さらに心の中が荒れている人は、やることなすことが裏目に出るようになります。人間関係もうまくいかない。仕事もうまくいかない。子育てもうまくいかない。そのうち投げやりになって、人生に愛想をつかすことにもなるかもしれません。隅々まで掃除されている場所やきちんと掃除や整理整頓を心がけている人の側に行くと、何か自分にも良いことが起きそうな気になります。その人のオーラを受けて感化されるようになるのです。あえて汚してやろうとか、悪さをしてやろうとは考えなくなります。自分を気持ちよくしてくれたことに感激・感動するようになります。できればお役に立つことがあれば協力してもよいと考えるようになります。掃除による心の浄化作業は、しだいに周りの人に波及してくるということです。その結果、よくないことや迷惑行為をする人が少なってきます。住環境も人間関係もともに改善されます。そして思いやりのある住みやすい社会に生まれ変わります。凡事徹底の取り組みの一つとして、掃除に取り組むことをお勧めします。
2023.01.23
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相田みつを氏に「つまづいたおかげで」という詩があります。神経症で苦しんでいる人の応援歌のように思えます。つまづいたり、ころんだりしたおかげで物事を深く考えられるようになりましたあやまちや失敗をくり返したおかげで少しずつだが人のやることを、暖かい眼で見られるようになりました何回も追いつめられたおかげで人間としての、自分の弱さとだらしなさをいやというほど知りましただまされたり、裏切られたりしたおかげで馬鹿正直で 親切な暖かさも知りましたそして・・・身近な人の死に逢うたびに人のいのちのはかなさといま ここに生きていることの尊さを骨身にしみて味わいました人のいのちの尊さを骨身にしみて 味わったおかげで人のいのちをほんとうに大切にするほんものの人間に裸で逢うことができました一人の ほんものの人間にめぐり逢えたおかげでそれが縁となり次々に 沢山のよい人たちにめぐり逢うことができましただから わたしのまわりにいる人たちはみんな よい人ばかりなんです(にんげんだもの 相田みつを 文化出版局)私も、この詩の中でいわれているように、苦難の人生を生きてきました。神経症で苦しみ、大変つらい思いもしました。後悔や失敗、恥ずかしい思いが山ほどありました。他人から非難・否定されることも数多かったです。想定外のことが多かったが、それは無駄ではなかった。トータルで見るとむしろプラスになってきたように思います。神経症は、神様が私に難題を出されたような気がします。この問題をどう解決するのか、お手並み拝見といった感じです。その難題に取り組むにあたって自分一人では難しかったです。途中で挫折していたかもしれません。そういう私に神様は救いの手を差しのべてくださいました。森田理論と学習仲間というツールを提供してくださいました。私は藁にもすがる思いで森田理論に取り組みました。そしていつのまにか37年という時が流れました。今思うと森田理論は神経症を治すためだけではありませんでした。神経質性格者としての生きる指針を与えてくれたのです。人生をよりよく生きるための智恵を学ぶことができたのです。こんな余禄がついているとは思ってもみませんでした。森田理論と学習仲間には感謝以外に何も思い浮かびません。今後は自分の得たものを、還元していきたいと考えるようになりました。森田理論は私にそういう生きる目標も与えてくれました。今や霧が晴れて視界良好になったような気分です。あとは自信をもってゴールに向かって走り切ることだけです。終わりよければすべてよし。神様はきっと高く評価してくれるに違いない。
2023.01.22
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筑波大学の征矢英明先生と有田秀穂先生の対談です。征矢先生は、ある実業団のランニング選手のコミッショニングに携わって5年くらいになります。選手の中に、駅伝の中心選手で、精神的に強く、パーフォーマンスがもっともよかった女子マラソン選手がいました。ところが、ある試合をきっかけにして、走れなくなったそうです。うつ状態になり、最終的にはうつ病になりました。ジョギングさえもできなくなって、内科、外科的な治療をやりましたけれども、まったく効果がなかったです。その後、この選手は幸いにも、三環系抗うつ病薬がよく効いて治りました。非常にパラドキシカルですけれども、トレーニングがうまくいっていたときはセロトニンによって頑張れたわけですね。しかし、その後なぜだか分からないうちに、元気がなくなり、競技成績もガクッと落ちてきたのです。これは専門的にオーバートレーニング症候群と呼んでいます。そのために回復するのに何年もかかったりします。どうしてそのようなことが起きるのか。不思議な気がします。一般的には、セロトニン神経系を活性化させることは良いことだといわれています。この常識を覆すことになるのではないか。良かれと思って取り組んでることが裏目に出てくるのですから納得できません。この問題について有田秀穂先生は、次のように説明しておられます。オーバートレーニング状態は、まず乳酸が蓄積されていることが考えられます。乳酸に加えて、その他ストレス関連物質、そういうものがセロトニン神経の本来持っていた役割を落としてしまうわけですね。それと、もう一つ考えられるのは、セロトニン神経の特徴として、自己調整機能があるのですね。セロトニンが過剰になると、オートレセプターに回収されてしまうのです。セロトニンが不足しているのではないのです。そういう仕組みが発動するために、不足している時と同じようなことが起きるのです。リズム性のトレーニングを始めた人や坐禅の呼吸法を始めた人たちが、「トレーニングを始めてしばらくすると、逆にうつ状態になってしまう」と言われることがあります。ここで慌ててしまうのですが、この状態を通り過ぎると、普通は以前よりも良くなるのです。そういうメカニズムが働いていることは留意しておくべきでしょう。(セロトニン呼吸法 有田秀穂 高橋玄朴 地湧社)脳科学を学習すると、セロトニン神経系を鍛えることが大事なことがよく分かりました。しかしこれも程度問題で、やりすぎると、再吸収が促進されてしまい、逆にセロトニン不足を招いてしまうという仕組みがあるようです。この状態はセロトニン神経が枯渇している人と同じ結果になりますので、右往左往することになります。セロトニン神経系は、報酬系神経系や防衛系神経系の暴走を抑制していることが分かっています。それ以外にも大切な役割を果しています。このブログでは、セロトニン神経を鍛える方法をいろいろと紹介してきました。しかし、セロトニンのこの特徴を考えてみたとき、過度にのめり込むことは禁物です。例えば、ウォーキングがよいといって、毎日一万歩以上をノルマにして歩く。長時間太陽の光を浴びるといったようなことです。やりすぎは弊害が出ることを、肝に銘じて、ムリなくゆっくりと、継続的に取り組むようにしたいものです。ここでもほどほどにやることが肝心だということです。そうすれば、問題が解消して、体も心も元気になると思います。セロトニン神経の鍛え方については、2022年2月13日の記事をご参照ください。
2023.01.21
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和暦は昭和、平成、令和と変わりましたが、果たして西暦でいうと何年になるのか戸惑われたことはありませんか。誕生日、中古車、入社日などを和暦表示されると、経過年数がピンときませんね。この問題を解決するためには、和暦と西暦対比表を作り、手帳やスマホに挟んでおくと便利です。和暦は3つも変わりましたので、西暦の方が計算しやすいです。ごまかそうと思えば、和暦を使う手もありますが・・・。こういう問題は疑問に思った時点ですぐにメモしておくことが大事になります。そのためには小さなメモ帳を持ち歩くことが必要になります。あるいはスマホの「メモ帳」やスケジュール帳も役に立ちます。そうしないとすぐに忘れて、思い出せないことが多くなります。こうした気づきのストックをいかに多く持っているかが大事になります。細かいことが気になるという神経質性格を活かすためには、心して取り組むことをお勧めいたします。これに関係して、平成3年(1991年)4月号の「生活の発見」誌に、次のような趣旨の投稿記事があります。誰でもやればいいなと思うことは日常いくらでも思いつきます。思うだけの人は能力があるとは言えない。その宝物はすぐに忘却の彼方へと消えてしまいます。それは思いつかなかった人と同じ結果になります。つまり神経質の素晴らしい性格を活かすことができなくなります。頭の中にひらめいたことを、きちんとキャッチできる能力は、本人が意識している以上に素晴らしい能力です。このメモが宝の山に替わる可能性があるからです。私は早速対比表を作りました。その一部を紹介します。昭和20年 1945年昭和25年 1950年昭和30年 1955年昭和35年 1960年昭和40年 1965年昭和45年 1970年昭和50年 1975年昭和55年 1980年昭和60年 1985年昭和64年/平成元年 1989年平成5年 1993年平成10年 1998年平成15年 2003年平成20年 2008年平成25年 2013年平成30年 2018年平成31年/令和元年 2019年令和2年 2020年令和3年 2021年令和4年 2022年令和5年 2023年ちなみに私の勤めている会社は、すべて西暦表示に変更になりました。バブルがはじけたのが1990年(平成2年)、生活の発見会の会員数が一番多かったのが1993年(平成5年)でした。
2023.01.20
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五木寛之氏の「無用の用」というお話です。最近、この世には無用なものなど何もないのではないか、と思うようになりました。生きているだけですでに意味がある。そう考えながら世界を眺めると、意味のないものなど一つもないと感じるのです。すべてが合理的で効率的な動きをする人ではなく、変なやつ、なぜいるのかよくわからないやつ、そうした連中も仲間に加わっている方がより人間的な集団になります。思いもよらぬ状況が発生した時、「変なやつ」が最も冷静にダイナミックに対処できるかもしれない。それどころか思わぬミスをしたことによって、思いもかけない成功につながることもあるのではないでしょうか。無用な人などいない。また、無用な出来事など何一つないのです。人生の中にはそうした分からない部分があった方がいいのです。(ただ生きていく、それだけで素晴らしい 五木寛之 PHP)五木寛之氏は、この世に存在しているものや人は、生きているだけで価値を持っていると言われています。千に一つの無駄もないということです。どうすれば、「無用の用」という考え方に変わるのでしょうか。そのヒントを森田理論から考えてみたいと思います。「無用なものを排除する」とは、壊れたもの、機能を果たさなくなったもの、耐用年数を超えたもの、歳をとった人、病気になった人、能力的に見劣りがするものなどを、ジャンク品、廃用品、役立たず、用済みなどと判断して排除しようとする態度のことだと思います。この考え方は、森田でいうと「かくあるべし」という観念優先の態度を前面に押し出している態度だと思います。効率重視、成果第一主義、理想主義、完全主義、完璧主義の考え方をしている。対象物を自分の意のままにコントロールしようとしている。理想の立場に身を置いて、上から下目線でものや自分や他人を見下ろしている。すると対象物の問題点や欠点ばかりが目に付くようになります。それらを目の敵にして、非難、否定して対立するようになります。つねに緊張状態を強いられて気が休まる時がありません。神経質性格の人は神経症を引き起こすようになります。五木寛之氏の「無用の用」という考え方の人は、事実を否定しないできちんと向き合い、受け入れることができる人だと思います。事実を受け入れて、きちんと向き合うことができるようになると、争うことがなくなるので、エネルギーの温存が図れます。次にそのエネルギーの有効活用を考えることができるようになります。森田でいう「生の欲望」の発揮に向かうことができるようになります。事実にきちんと向き合い、受け入れると、そこを出発点として課題や目標に向かって、逆転人生の足がかりができるということです。五木寛之氏の指摘されている「無用の用」の考え方は、すべてのものや人に居場所や活躍の場を与えて、生きがいを持って生活してもらうという考え方だと思います。この考え方は森田理論でいえば「物の性を尽くす」ということになります。
2023.01.19
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私は土曜日、日曜日は中央競馬を楽しんでいます。土曜日、日曜日の楽しみがまたひとつ増えました。今日は競馬と仲間との楽しみ方を取り上げました。普通中央競馬は全国3会場で行われています。たとえば中山、阪神、小倉といった具合です。1会場1日あたり12レースですから、全部で36レースあります。私は馬券を買っていますが、1日当たり1レースだけです。1日1000円から2000円以内です。これは厳守しています。馬券はいろいろありますが、私は3連複1本に絞っています。3連複は1着から3着までに入る馬を的中させるのです。1着から3着までに入っていれば順不同でも的中となります。レースを、順当か、小波乱か、大波乱かに分けて考えています。順当なレースは、1番、2番、3番人気の馬がそのまま入線するレースです。入線する確率は高くなりますが、配当はごくわずかです。いくら入線確率が高いからといっても、あまり食指は動きません。大波乱は、9番から16番人気の馬が3着内に1頭でも入線してくる場合です。これは高額配当になりますが、的中させることは至難の業です。闇夜で鉄砲を撃つようなものになります。この場合は、潔くあきらめるしかないと考えています。小波乱は、1~3番人気の馬が1頭は入っているが、それ以外は4番人気から8番人気の中から2頭が入ってくる場合です。私が目をつけているのは、この小波乱のレースです。小波乱でも、的中すれば、万馬券近くいくこともあります。そのための購入の条件は、2つあると考えています。まず1番人気のオッズが3.0以上、できれば4.0以上であること。次に、4番人気の馬のオッズが12.0以上であること、できれば15.0以上が望ましい。オッズ2.0というのは、100円の単勝馬券を買って的中した場合、200円の払い戻しがあるということです。単勝オッズはJRAが随時公開しています。事前に目をつけておいて、直前に最終確認しています。買い方はフォーメーションです。まず1頭目は1番人気~3番人気の馬から1頭だけ選択する。その中でも特に1番人気の馬に注目しています。オッズというのは馬券を買う人が事前に人気投票をしているようなものです。信頼度はかなり高いです。全く無視することは得策ではありません。次に2頭目は、4番人気の馬から8番人気の馬をそのまま5頭選択する。3頭目も、4番人気の馬から8番人気の馬をそのまま5頭選択しています。つまり2頭目と3頭目は同じ馬を5頭選択しているということになります。的中例としては、1着が1番人気、2着が6番人気、3着が8番人気というようなケースです。うまくいけば、万馬券が狙えます。この買い方のメリットは、掛け金が少額で済むことです。1000円で万馬券を狙っているということになります。本当は1頭目として1番人気~3番人気をすべて買いたいのですが、そうすると合計30通り、3000円分の馬券を買うことになります。1万以上の配当があれば、ペイするのだから、全部買ってしまえという人がいますが、その考え方は掛け金がかさみ趣味の域を出てしまいます。私は賛同しかねます。必ず的中するという保証はないわけですから。たまに惜しいというのはありますが、縁がなかったときっぱりと諦めています。私は宝くじは買いません。馬券が宝くじだと思っています。趣味ですから多少経費が掛かっても構わないと思っています。プラスマイナス0になれば、それだけでもう十分です。現在7回~8回に1回くらいは的中していますのでほぼトントンです。的中しても外れても、一喜一憂しているようでは身が持ちません。競馬を楽しむ方法は自分なりの戦略が大切だと思います。相場師の予想に頼って買っている人が多いように思います。それでは外れたときに後悔するようになります。それは天に唾をして自分に降りかかってくるようなものです。競馬仲間との競馬談議は楽しいものです。競馬仲間には研究熱心な人がいます。血統にこだわる人、枠順にこだわる人、騎手にこだわる人、過去の成績にこだわる人、調教師にこだわる人、距離にこだわる人、コースにこだわる人、芝かダートにこだわる人、その日の天候にこだわる人、展開を予想する人、会場にこだわる人、馬場の状態にこだわる人など。こういう薀蓄の話は聞くだけで為になり、とても面白いものです。この利害関係のない和気あいあいとした人間関係は気に入っています。精神的な息抜きとストレスの軽減につながっているように思います。仲間の人が言うには、競馬をしていると、生きがい作りとボケ防止に役立っているそうです。
2023.01.18
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村上和雄氏のお話です。大乗仏教の経典である「般若心経」に中に「色即是空」という言葉があります。「色」とは、宇宙にあるすべての形ある物質や現象のことで、「空」とは、実体がなく空虚であるということ。つまり「色即是空」とは、この世にあるあらゆる物質や現象は決して永遠不滅のものではなくて、常に変化していくものであるということをいっているのです。逆に見ると、この宇宙にあるすべての物質や現象は目に見えないエネルギーを持っていて、このエネルギーが時々刻々と形を変えて様々な物質や現象となって生み出されているとも考えられます。(君のやる気スイッチをONにする遺伝子の話 村上和雄 致知出版 69ページ)この世に存在しているものは常に変化している。片意地をはり、自我を押し通そうとしていると、変化の波に飲み込まれてしまう。それは川の流れに抵抗して川上に向かって泳いでいるようなものだ。川の流れにベクトルを合わせて、川下に泳いでいけば、体力の消耗を防ぐことができる。自分の意志をしっかり持つことも大切であるが、行動は周囲の変化に合わせて生きていくことが好ましい。不快な感情も時間の経過とともに変化していくのだから、いちいち不快な感情を取り除いてから、次のことをするというやり方ではなく、不快な感情を抱えて、後ろ髪を引かれるままに、次の課題に向かっていくというやり方をとりましょうということです。そうすれば不快な感情はしだいに薄まり、最後には無くなってしまう。森田先生は臨済録を引用して、次のように説明されている。心は万境に随って転ず、転ずる処、実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば無喜無憂なり。とらわれのない心のままであるならば、万境にしがって、心は刻々に流転してとどまるところがない。その流転していくありさまは、まことに不思議なくらいである。その流転していくままの姿が心の本来性であることを認得するならば、喜びも悲しみも超越することができる。これを感情の法則にまとめておられます。・感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。・感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志によってコントロールできるものではありません。私たちは変化する感情と一体になって、その時々の感情と素直に向き合っていくしか他に方法がないということではないでしょうか。時々の変化に素早く対応できるようになった人は、大きな能力を身につけたということになります。
2023.01.17
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四書五経の中の一つ「易経」の中に次のような教えがあります。「小人は小善をもって益なしとして為さざるなり。小悪をもって傷(そこな)うことなしとして去らざるなり」この言葉は次のように理解できます。小人、つまり普通の人は、たいした効果がないこと、自分の利益に結びつかないこと、他人から評価されないことはなかなか手を出さないということです。たとえば、お金にならないことや人がほめてくれないことは進んでしない。たとえば、ボランティアの仕事などです。空き缶を拾うとか、家の前の公道の掃除をするようなことです。汚い、臭い、きついと言われる3Kの仕事などもそうです。一方、他人から非難されないことや、大きな損害がでないと判断すれば、本当はやらない方がよいと思っても平気で手を出してしまう。たとえば、タバコを吸われる方がタバコを吸って吸殻をポイと捨てる。あるいは空き缶を国道の植木の中に捨てる。テレビや冷蔵庫やクーラーを山の中に捨てにいく。確かにこれらをしたからといって、急に人生が暗くなるわけではありません。あるいは酒が好きな人が、日本酒は1合まで、ビールは中瓶1本までと決めていても、欲望に負けてつい深酒をしてしまう。たまには日頃のストレスを発散するのもいいものだ。これくらいなら許容範囲だとつい自分に甘くなってしまう。これらは特に問題がないようにも見えますが果たしてそうでしょうか。森田の「凡事徹底」の考え方から見ると違和感があります。これを逆にするとどうなるでしょうか。つまり小さなことでやればいいなと思ったことは積極的に手を出していく。逆に、やらないほうがいいなと思うことは、我慢して抑制する。やるべきことは日常生活の中でいくらでもいくらでも見つかります。すぐにできることは早めに手を出す。今すぐに出来ないことはメモして、時間のあるときに取り組む。これだけを心がけるだけで、生活はすぐに活性化してきます。できれば、人の役に立つことを見つけて行動に移す。そういう心がけで生活している人は、自分の所有物や周りの人を大切に取り扱うようになります。そして居場所や活躍の場をあたえようとします。所有物や周りの人との関係がすこぶる良好になります。それは自他ともに幸せな生き方となります。やらない方がよいことはどんなことがあるでしょうか。まず自分の身体を痛めつけるようなことは避けたいものです。人間の寿命は125歳といわれていますから、精神的ストレスや食べ物によるストレスを避けて、脳と身体に適度の刺激を与えれば長生きができると思います。人間関係ですが、他人を非難しないようにしたいものです。他人を否定しない。グチや不平不満を口にしないようにする。相手の「いいとこさがし」を心がける。相手に「ありがとう」と感謝の気持ちを積極的に伝える。相手への「お役立ちさがし」を見つけて実行する。これらを心がけて、日々実践すれば、人間関係で苦しむことは少なくなると思います。
2023.01.16
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イエローハットの創業者の鍵山秀三郎氏のお話です。私が商人人生において、経営者として重視してきたことは、とにかく手抜きをしないことです。手抜きをしたら、そこからどんどんほころびが出てきて、最後は取り返しがつかなくなります。私は今、これから何かを成そうと思っている人にすすめたいのは、「手をかけること」です。手を抜くのではなく、逆に「ここまでやるのか」というぐらいに、手をかける。手抜きには限界があるけれど、手をかけることには限界がありません。これでもか、これでもかと手をかけていく道は、どんどん先が広がる楽しい道です。手抜きは、先が行き止まりになる道です。手抜きで行き止まるから、今度はだますということで道を広げるけれど、また行き止まるのです。展示してあるものは、どうしてもホコリをかぶります。ホコリをかぶったままにしておくのではなく、順番におろしてホコリを払って戻すと、同じものなのですが光り輝いて見えるのです。人間の手は、そういう不思議なものを持っています。その不思議な力を持っている人間の手を省くから、全体が死んでしまうのです。そうすると、しまいには安さだけしか残りません。安さを追求するということは「私は何もしませんから、ただ安くしますよ」と言っているのと同じです。(大きな努力で小さな成果を 鍵山秀三郎 育鵬社 20ページ)この話を参考にして私の体験を振り返ってみました。私はマンションの管理人をしています。仕事の半分は掃除です。掃除というのは、目視でまだ汚れてないし許容範囲だなと思うと、ルーティンワークの掃除でも飛ばしてしまうことがあります。今日やらなくても明日やれば同じことだという気持ちになるのです。このような気持ちに振り回されると、凡事徹底というスローガンは絵に描いた餅になります。それが1日延ばしになり、2日延ばしになります。埃というのは、箒で履いたり、雑巾がけをして初めて気が付くものです。許容範囲だと思って掃除をさぼっていると、しだいに埃がたまってしまいます。そのうち気付けばよいのですが、慣れれば無頓着になります。たかが掃除、されど掃除だと思います。平凡なことを毎日手を抜かないで丁寧にこなすという目標を無視するようになると、小さなことが気になるという神経質性格は活かすことができなくなります。外に向かわなくなった神経質性格は内向きになって、自己嫌悪、自己否定するようになります。外に向かえば神経質性格は大いに育みがいがありますが、内に向かうと手に負えない代物に変化してくるのです。運が悪いと、居住者が先に埃を見つけることになります。親切な人は教えてくれますが、意地の悪い人は他の居住者と噂話をするようになります。マンションの中でしだいに管理人への悪評が広がってきます。受付、点検、立ち合い、連絡報告、金銭管理、鍵の管理の仕事も手抜きをしているのでないかと思われるようになります。あの管理人は、見張りをつけていないととんでもないことをするかもしれない。毎月の理事会で、管理人の悪評が出てくるようになります。その噂は管理会社にも伝わり、出来の悪い管理人として判定されてしまうのです。退職勧奨の対象者になるのです。掃除は1週間単位で、毎日取り組むべき仕事は決まっています。汚れていようがいまいが、ルーティンワークとして、心をこめて、ていねいに取り組むことが大切だと思います。そうしないと、心がそこから離れてしまうのです。いったん離れた心は元に戻すことはとても難しくなります。そのような仕事ぶりでは、問題の発見や工夫は思いつかなくなります。気づきや発見がないと、掃除が面白くなりません。仕事は辛いばかりということになります。頭の片隅には、もうそろそろしないとやばいかもと思っても、手と足がついていかなくなるのです。「まあ、いいか」と思えば、凡事徹底はスローガンだけになってしまいます。反対に心を込めて、共用トイレなどをピカピカに磨きあげると驚かれます。あるいはグレーチングを外して、中にたまった落ち葉を綺麗に片づけている。各階解放廊下のドレンを外して、ワタ埃や髪の毛を綺麗に取り除いている。各階解放廊下の塩ビシートの水モップ掛けをしてくれている。鳥の糞を見つけたらすぐに取り除いてくれる。夏にクモが発生したらすぐに駆除してくれる。居住者にとっては想定外の掃除をしていると、驚きや感動があるのだと思います。真剣に取り組んでいると、掃除に関する相談が寄せられるようになります。しだいに人間関係がよくなり、いろいろと気を遣ってもらえるようになります。仕事は相手に感謝・感動を与えるくらいな気持ちで取り組みたいものです。常に何か相手に役に立つことはないかを探している。そういうのはよい評判として拡散されますので、益々仕事が楽しくなるのです。するともっと居住者に感動を与えたいと奮闘するようになります。凡事徹底とは具体的にはこのようなことを言うのではないでしょうか。
2023.01.15
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長野市千曲川のほとりにある円福寺の和尚さんが作られた詩があります。「はきものをそろえる」はきものをそろえると 心もそろう心がそろうと はきものもそろうぬぐときにそろえておくとはくときに心がみだれないだれかがみだしておいたらだまってそろえておいてあげようそうすればきっと世界中の人の心もそろうでしょう(はきものをそろえる 清水克衛 総合法令出版 93ページ)はきものをきちんとそろえるというのは、そんなに重要なことなのでしょうか。今日ははきものをそろえることと心の関係を考えてみました。靴を揃える、部屋や風呂の掃除をする、洗濯をする、整理整頓をする、後片付けをする、洗車をする、料理をつくる、加工食品をつくる、ペットの世話をする、身支度をする。私たちの生活は、このようなルーティンワーク、雑仕事の連続です。雑事をおいて私たちの生活はないといわれますが、まさにその通りです。森田では毎日心を込めて丁寧に取り組むことをお勧めしています。本当はやりたいことではない。めんどうだがしかたない。つまらないことに時間がとられるのが口惜しい。どうにもならなくなくってやっと重い腰を上げる。その結果、どうしても粗雑になってしまう。気がつくと、家中に物が散らかっていて、埃だらけになっている。それに慣れているので、別に気にはならない。つまり感覚が麻痺してしまっているのです。そのような態度が心にどんな影響をもたらすのか。ルーティンワークが崩れてしまうと、規則正しい生活が乱れてきます。基本的には、手抜きをするようになります。そして目先楽しいことを追い求める生活になります。するといつの間にか心が浮ついてきます。落ち着きがなくなります。そして小さなことから心が離れていくようになります。現実から離れて、空虚で憂うつな気持ちになっていきます。自分では気がつきませんが、傍から見ている人にはよく分かります。やったらよいかも知れないが、そんな小さなことに関わり合いたくない。自分はそんな小さなことをするために生まれてきたのではない。もっと意味のあることやクリエイティブなことをしたい。でもそんなものになかなか出会えないというジレンマを抱えている。小さなことを無視していると、小さなことに愛着が持てなくなります。目の前のものや他人を粗雑にとり扱うようになります。まるでゴミや廃棄物のように取り扱うようになります。そういう人は、周りのものと対立することが多くなります。小さなことに感動・感謝することがなくなります。日常生活の中で小さな幸せのかけらは見つけることができなくなります。小さな喜びでは満足できなくなり、欲望は益々エスカレートしていきます。それを求めてお金やエネルギーや時間を投入して飛び回るようになります。それでも心の中の不安はなかなか払しょくすることはできません。大きな喜びが見つからないと、手持ち無沙汰になって、心が外向きにならない。心が一転して内向きになってくるという問題も発生します。自己内省力が強まってくる。自己否定や他人否定を繰り返すようになります。その息苦しさから逃れるために、短絡的、享楽的、本能的な欲望で穴埋めするようなことを考えるようになります。森田では「外相を整えれば、内相自ずから整う」といいます。この言葉は、日常生活に丁寧に取り組んでいると、小さな楽しみがいくつも見つかり、小さなことを大きく喜ぶことができるようになる。さらに小さなことで、すぐに感動の涙を流すことが増えてくる。心が浮つかなくなり、落ち着きを取り戻してくるということだと思います。心が豊かで満ち足りてくるようになる。安心感と安定感が生まれてくる。そして毎日の生活を楽しむことができるようになります。砂を噛むような人生を歩んでいる人との差はどんどん広がるばかりになります。この言葉を理解したら、ぜひ自分の生活の中に取り入れてみてください。
2023.01.14
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対人恐怖症の人は、人付き合いの下手な自分を自己否定しているのではないでしょうか。それがますます人間関係を悪化させている側面はないでしょうか。私は人の輪の中にいると、緊張して、いつも息苦しさを感じています。仲間とワイワイ騒いでいても、一人になるとホッとします。一人になって好きなことをするのが至福のひとときなのです。基本的には一人で過ごしている時のほうが、緊張感もなく居心地がよいのです。たまには仲間と飲んだり、カラオケを楽しむことがあります。これはカンフル剤のようなものだと思っています。カラオケを録音して一人で楽しむのもいいものだと思っているのです。あるいは好きな本を読んで古今東西の人の話に耳を傾けることが楽しい。アメリカに住むハタネズミは、山岳に住んでいるサンガクハタネズミと平地で暮らすプレーリ―ハタネズミがいるそうです。同じハタネズミですが生活スタイルは全く違います。サンガクハタネズミは単独行動を取ります。群れで暮らすことを嫌います。家族や子供や仲間と仲良く暮らすよりも、自由で気ままな生活が性に合っているようです。これに対してプレーリーハタネズミは、家族や仲間を大事にします。群れの中で仲良く暮らすことに、大きな価値を置いているのです。私の場合は、サンガクハタネズミのタイプなのです。大阪に単身赴任していた時にそのことがよく分かりました。休日になると、大阪、京都、奈良、神戸、和歌山、滋賀などの観光地などをめぐり歩くことが一番の楽しみでした。帰省するのは、月1回くらいでした。帰省するよりも家族を呼び寄せて、単身赴任先で家族と休日を楽しみたい。その中でも一押しは、サントリー山崎工場見学、サントリー京都工場見学、京都競馬場、天満天神商店街、その中のすし屋「春駒」での食事でした。ツアーを組んで、多くの人を接待して喜ばれました。特に酒好きの人はたまりません。同じ単身赴任の人でも、不安タイプの人は全く違っていました。金曜日になると家族の住んでいる家に帰省するのが、唯一の楽しみだというのです。休日に心の飢えを癒さないと体がもたないようなのです。観光地巡りを提案しても全く取り合ってくれません。私は対人恐怖症の人は、その特徴を自覚することが大切だと思います。仲間と群れるよりも、単独行動により大きな価値を見出している人間だということです。それが分かれば、無理して群れに関わるようなことを考えなくなります。そういうスタイルで生活すると決めたら、群れて楽しく生活している人をうらやむことはやめることです。それよりも自分の生活スタイルをとことん楽しむことです。但し人間は社会的な生き物ですから、まったく他人との関係を断って生活することは不可能です。対人恐怖症の人は、常識的な付き合いでさえ無視ないしは軽視する傾向があります。あいさつをしない。愛想笑いをしない。懇親会に行かない、葬式に行かない。町内の共同作業を欠席する、約束を守らない。平気でドタキャンを繰り返す。暴言や暴力をふるう。とにかく自分勝手な言動が多い。森田では人間関係は「不即不離」をお勧めしています。これは引っ付きすぎず、離れすぎない人間関係です。対人恐怖の人は、離れすぎて問題を起こすことが多いという傾向があります。自分では気づかないうちに、人間関係を悪化させている場合があります。ここを注意すれば、単独行動を好む生活はストレスもなく楽しい生き方となります。スポーツでいえば、サッカーやラグビーのような団体競技には向きませんが、剣道、柔道、マラソンのようなスポーツには向いていると思います。仕事でいえばチームで仕事をこなすのは苦手ですが、農業、職人、料理人、自営業、研究職のように単独で一つのことを掘り下げるような仕事には向いていると思います。
2023.01.13
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清水克衛氏のお話です。同じことを継続すると、何が変わってくるか。それは、脳の直感力が鍛えられるという事ことなんです。「直観」と「ひらめき」って違うんですよ。脳科学者に言わせると、ひらめきはなぜ起きるのか説明できるらしいんですけど、直観や第六感というのは説明できないそうなんです。なぜ「これだ!」と思ったのかが説明できない。でもそれをやると成功する。実は、直観というのは、「脳が活性化すると出てくる」ものなんです。そして、直観が出てくる場所と、人が自転車を乗っている時に使う脳は同じらしいんです。自転車って、最初からいきなり乗れるわけではないですよね。何度も練習をしているうちにバッとれるようになる。直観もそれと同じなんです。日々の積み重ねの中で、磨かれてくる。だから、「はきものをそろえる」や「落ちているゴミを見逃さない」といった、そういう小さなことの積み重ねによって、まっすぐな情報が入ってくる人間になれるんです。他人を変えることはできないけれど、自分を変えることはできる。その積み重ねが大事なんです。(はきものをそろえる 清水克衛 総合法令出版 105ページ)直感力というのは、森田理論の中の「純な心」の学習の中で出てきます。森田では素直な感情、第一に湧き上がってくる感情、初一念の感情と説明されています。直感力を磨きあげるとはどういうことか考えてみました。私が社会保険労務士試験を受けたときのことです。5択のうちから最も正しいもの、あるいは間違っているものを1つ選びなさいという問題がありました。なんとか2つくらいには絞れるのですが、その先がどうも一つに絞り切れない。迷いながらも最後は直感力を信じて答えを出しました。ですから試験が終わった時、合格しているのか、不合格なのか全く分からない。でもそのときの直感力は比較的よく当たっていました。不思議なことですが、それが事実だったのです。社会保険労務士試験は1000時間の勉強が必要だと言われています。それをクリヤした人は、何か神様のような目には見えない力が加勢してくれたとしか言いようがない。あなたは十分勉強したので合格させてあげようというような。直感がよく当たるというのは、そういう努力の積み重ねの後に待っているものではないでしょうか。努力の裏付けのない直感はことごとく外れるように思います。例えば、競馬や株のデイトレードの場合は、いくら神頼みをしてもなかなか当たりません。闇夜に鉄砲を撃つようなことになります。清水克衛氏は、「はきものをそろえる」や「落ちているゴミを見逃さない」といった小さなことを継続していると、直感力は磨かれると言われています。普段やったらよいけれども、見逃しているようなことを習慣化して、毎日真摯に取り組んでいると「これだ!」という直感力が鍛えられる。私は皿回しの大道芸ができます。これは最初から難なくできたのではありません。大道芸のパフォーマンスを見てこれは面白そうだ。私もできるようになりたいと思いました。すぐに皿と棒を取りそろえて、日々練習を繰り返しました。やっては落とし、やっては落としの連続でした。でも私は執着性と負けず嫌いの強い性格ですから、あきらめませんでした。すると、偶然ですが、ある日突然できるようになりました。私はついに皿回しのコツを掴んだのです。1回できるようになると、つぎからは10回のうち7回くらいは成功するようになりました。これは身体感覚を通して掴んだものです。ですからやってみたいという人にいろいろと口でコツの説明をしますが、これがなかなか難しいのです。たまにできるようになる人は、あきらめないで、何回も練習を積み重ねて、そのコツを自分自身で体得しているのです。決して人から口で教えてもらってできるようになったわけではないのです。こうしてみると「純な心」の体得は、何回も失敗をくり返しながらも、あきらめないで取り組んでいると、ある日突然そのノウハウというか、コツがわかってくるというものではないでしょうか。一度掴んでしまえば、忘れることのない一生の宝物になるように思います。
2023.01.12
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昨日の続きです。第2世代の中国系アメリカ人でエイミー・チュア氏は、「タイガー・マザー」という本の中で、独自の子育て論を展開しておられます。彼女はスパルタ教育で2人の娘を育てました。長女は世界で活躍するピアニストになりました。そしてカーネギーホールでリサイタルを開いています。次女はバイオリンを選択しました。13歳という年齢にもかかわらず、コンサートマスターに抜擢されるほどの腕前になりました。その後、バイオリンのほかに、テニスにも取り組みました。まもなくトーナメントで優勝するまでに上達しました。エイミー・チュア氏は、大学教授という激務をこなしながら、子どもたちにつきっきりでスパルタ教育を施しました。しかし子どもたちは成長するにつれて、自分たちを意のままに動かそうとする母親に対して、猛反発を始めます。特に次女の場合はそうでした。それに対して、エイミー・チュア氏は、自分の子育ては、子どもの人生に必ずプラスに作用すると言ってはばかりません。彼女の書いた「タイガー・マザー」という本は、個性や自由を尊重する欧米的な子育てと、彼女のスパルタ教育の是非をめぐってアメリカで大論争になりました。齋藤孝氏は「訳者あとがき」の中でこの問題を分かりやすく説明されています。欧米式の子育ては、子どもたちの個性や自主性を尊重し大切にしています。子どもたちに自由を与えることで、子どもたちは素直にすくすくと成長していくはずだ。そして大きな目標や一生の仕事を自分で見つけて自立していくはずだ。親は支援するけれど、強制してはいけない。子どもの可能性を信じて、暖かく見守っていくというスタンスです。エイミー・チュア氏はその対極で、ハードなタイガー・マザー的教育方針です。小さい子どもには選択基準もないしわかるわけがないのだから、子どもが何をすべきかを親が選択して道を切り開いてやるという考え方です。例えば3歳の子どもが「バイオリンをやりたい」と言うはずがありません。少しでも興味や関心があれば、親が強制力を発揮して子どもに始めさせる。そして厳しいスパルタ教育を行う。子どもの自信や成功は、厳しい試練の先にようやくたどり着くものだ。最初は強制されるのですが、少しずつできるようになると、子ど達には自信が芽生え、やがてそれが好きになるという好循環が生まれます。これが欧米式子育ての対極に位置する、もう一つの教育法です。(タイガー・マザー エイミー・チュア 朝日出版社 齋藤孝訳 288ページ)エイミー・チュア氏の子育てで参考になるのは、子どものやる気が出てくるまで静観していると、結局何も見つけられなくなる。最初は、子どもに興味や関心があろうがなかろうが、親が強制力を持って挑戦させることが大切になるというところです。この点は、イチローのお父さんとよく似ています。イチロー選手は幼いころから父親と二人で、毎日毎日、友達と遊ぶこともなく野球をしていました。「友達と遊ばずに1年365日のうち360日、毎日野球をしているから僕は絶対にプロになれると思います」という趣旨の作文を書いています。ときにはカッとなって父親と会話をしないときもありましたが、そんな夜でも必ず父親はイチローの足の裏をマッサージしていたそうです。森田理論を学習していると、課題や目標を持って生活することがとても大切になることがよく分かりました。その課題や目標の見つけ方ですが、自分が成長する過程で自然に見つけられれば一番良いと思います。でも人間は新しいことに挑戦することは、なかなか難しいのが実情です。そして普段の生活に流されてしまいます。普通の人ならいいかも知れませんが、神経質者の場合はそういう人生では後悔することになるのではないでしょうか。そんな時に第3者から課題や目標を与えられたらどうでしょうか。就職して初めて仕事をする場合は、こういうケースが多いと思います。自分がやりたいことでない場合は、最初は精一杯の反発をするだろうと思います。でもほかにやりたいことが見つからない場合は、その提案に乗ってみるという道もありということだと思います。第3者から強制力を持って指示されたことでも、一心不乱に取り組んでいるうちに、いつの間にか自分の課題や目標になっていたということもある。ここで大切なことは、最初に取り組むときはどんな状態であれ、最後にものをいうのは、自分なりの課題や目標を持って生活しているかどうかだと思います。エイミー・チュア氏の場合、最初強制されて取り組んだ子どもたちが、それぞれの道で成功を収めたにも関わらす、いつまでも自分の目の届く範囲内に置いて、子どもたちをいつまでもコントロールしようとしていた点にあると思います。イチローのお父さんのように、子どもが明確な課題や目標を掴んだ時は、親はすぐに子離れをしなければなりません。
2023.01.11
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中国系アメリカ人のエイミー・チュア氏の子育ては独特です。欧米人の親は子どもたちの自尊心を極度に心配することに私は気づきました。子どもたちが何かに失敗したときに、彼らの感情を傷つけまいとし、テストで平凡な成績しか残せなかったり、発表会で大した演奏しかできなくても、ことあるごとに、あなたは優秀なんだからと言って、子どもたちに自信を与えようとします。つまり欧米人の親は子どもの心理面を気遣うのです。中国人の親は違います。彼らは子どもたちには弱さではなく、強さがあることを前提としているので、結果として欧米人の親とは全く違った行動を取ることになります。例を挙げてみましょう。子どもがテストでAマイナスを取って帰宅したとします。欧米人の親なら、ほとんど子供をほめることでしょう。でも中国人の親の場合、非常にショックを受けて、どこが間違っていたのか、子どもたちに問いただすのです。打ちひしがれた母親は、数十の、いえ数百の練習問題を準備して、子どもがAを取るまで、つきっきりで勉強させることになります。自分の子どもが満点を取れると信じているからこそ、中国人の親は子どもに完璧さを求めるのです。それができない子供に対しては、努力がまだ足りないのだと決めてかかります。この考え方があるから、普通の成績をとった子供は、常に非難されたり、罰を受けたり、恥をかかされたりという目に遭うことになります。中国人の親は、自分の子どもたちは恥をすすぎ、進歩していく強さがあるのだと信じているのです。(タイガー・マザー エイミー・チュア 朝日出版社 68ページ)欧米人の親は、子どもがミスや失敗をした時、子どもがそのことで自信をなくすことを恐れています。子どもを非難、否定したい気持ちを抑えて、慰めたり、励まします。森田理論を勉強した人は、自分の「かくあるべし」を子どもに押し付けてはいけないと肝に銘じていますので、欧米人と同じ対応を取りやすいと思います。エイミー・チュア氏は、親が子どもの傷を癒すことよりも、もっと大事なことがあるといわれているように思います。目標に今一歩到達していないときに、親は子どもを慰めてはいけない。子どもの緊張感の糸を切って、弛緩状態に陥れることは百害あって一利なしだ。子どもが、ホッとして気を抜くようなことを親がしてはいけない。親がすべきことは、子どもがもっと大きな高みに挑戦していくように、子どもに寄り添い、叱咤激励していくことだ。子どもに嫌われても、それが親の責務だ。その能力を子供は先天的に持っているのだから、その芽を親が勝手に摘み取ってはならない。中国の親がよく分かっているのは、何をするにしてもうまくなるまでは楽しいことなどないということです。そのためには努力が必要ですが、当の子どもたちは放っておけば努力などしませんから、親が子供たちの希望など無視することが重要なのです。子どもは反抗しますから、親の方に不屈の精神が求められます。最初が一番大変なので欧米の親は、たいていここであきらめてしまいます。しかし、きちんと取り組めば、この中国式のやり方は好循環を生むのです。(同書 40ページ)親として思うに、子どもたちの自尊心のために良かれとやっていることが、子どもたちにあきらめを生んでしまったら、それは最悪のことではないでしょうか。その一方で、自分にはできないと思っていたことができると知ったときほど、自信がつくことはないのです。(同書 82ページ)友だちのような親子関係は、緊張関係がないので楽ができますが、それでは将来子どもが大人になった時、困難を乗り越えていくたくましさを持てなくなってしまうかもしれません。
2023.01.10
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冬もベランダに色鮮やかな花があると癒されます。
2023.01.09
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森田理論では、感情と行動は別物と言われています。不快な感情でいっぱいのときでも、役者のように行動するのは如何でしょうか。役者は腹だたしいことを抱えていても、いつも上手に演技をしています。私生活での腹立たしい感情が、演技の中で分かるようでは、役者として失格の烙印を押されてしまいます。プロ野球選手でも、ポーカーフェースの人がいます。ヒーローインタビューで意味不明な発言をしている人がいます。こう言う選手は、相手選手からしてみると厄介だそうです、「あの選手は何を考えているのか全く分からない。手の内が分からない」そういう選手は癖がない。次の対策が立てられないというのです。これを戦略として行っているとすれば、すごい選手だと思います。でも普通の人は、不快な感情の取り扱い方に未熟な人が多い。とくに神経症で苦しんでいる人は、その言動ですぐにばれてしまいます。いけないことだとは分かっていても、感情にまかせて暴言を吐いてしまう。相手にけんかを売って、不快な気持ちを払拭しようとする。吐き出した瞬間は少しだけ楽になるが、そのあと後悔するようになる。交通事故と同じで、一旦事故を起こしてしまうと、事後処理に手間取る。不快な感情と行動を切り分ける方法を考えてみました。腹が立つときは、反射的に相手の言動や行動を非難・否定しています。このやり方はもっともまずいやり方になります。よく考えてみれば、一方的に相手が悪いということはあまりないように思います。交差点の出会いがしらの事故の場合、相手が一方的に悪いような場合でも、こちらが少しでも動いてれば、少なからず過失があったと判定されます。人間関係もこれと同じではないでしょうか。反射的な対応は百害あって一利なしです。ムカッとしても、少しだけ我慢する、耐えることを心がける。間合いを取るようにする。相手との距離をとる。トイレに行く。コーヒーを飲みに行く。次に相手のいいとこ探し、ありがとう探しをしてみる。腹が立つでしょうが、対応方法を変えるのです。あえて相手のいいとこ探し、ありがとう探しをするのです。例えば、相手が約束した時間を無視して、自分の予定が狂ってしまうことがあります。当然腹が立ちます。ここで買い言葉に売り言葉の短絡的な対応は、一旦横に置いておきます。腹が立つが、相手は別の好ましい面を持っているはずだ。そうでないと人間としてバランスが悪い。それを考えてみよう。思い出してみようということです。相手のいいところ探し・・・おわびの言葉があった。時間には遅れたが来てくれた。メールで連絡してくれた。自分によくお誘いの声をかけてくれる。私の悪口は聞いたことがない。相手のありがとう探し・・・よくプレゼントしてくれる。ほめたり、評価してくれる。不快な感情を役者のように取り扱うことができるようになった人は、多少不平や不満があったとしても人間関係にひびが入るような事にはなりません。そして時間の経過とともに、いつの間にか不快感は忘れ去ってしまいます。ここでは森田理論の「感情の法則」の検証ができます。そういう段階に至った人は、「感情取り扱い主任者」として、免許皆伝の称号を与えてもよいかも知れません。
2023.01.09
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佐々木常夫さんのお話です。株主総会の質疑応答やテレビのインタビューなどで、上場会社の社長が、会社の数字や業界の数字を即答している姿を見たことがあるはずです。「さすが、頭がいいな」と思われる方もいるかもしれませんが、違います。社長というものは、株主総会の直前、2~3週間、株主総会を想定した問答集を経営企画部が作成し、何度も練習をしているのです。東レの場合は、問答集は500問近くありましたが、これをすべて記憶していました。社長も準備しているのです。(すぐ動くのはやめなさい 佐々木常夫 青春出版社 164ページ)上場会社の社長さんが、株主総会の前にこのような準備をしているとは思ってもみませんでした。この準備のおかげで、株主総会が滞りなく進行しているのですね。私はこのような準備を森田理論学習に参加する前に行うことを提案したいと思います。集談会では、自己紹介、近況報告、体験交流があります。ここで発言する内容を出発する前に、家でとことん準備するのです。自己紹介は初参加者がいる場合と顔見知りの人ばかりの場合を想定して2通り用意するとよいと思います。初めて参加した人は、たいてい神経症的な問題や生活上の問題を抱えてやってきます。そういう人には、私と同じように人生の悩みを抱えている人がいるということを知らせる必要があると思います。心がけることは、自分が神経症と格闘していたころの話をする。森田の自助組織があることを知り、初めて集談会に参加したころのことです。これは1回準備すれば、いつでも使えます。顔見知りの人の場合は、話の内容をガラッと変えた方がよいと思います。症状についてはみんなよく知っているわけですから、森田理論を学習して新たな発見があったことや森田理論の応用や活用の話を用意する。応用例や活用例は、ここ1か月の日記を見て整理します。1か月のうちにはいろんなことがあったはずです。その中から1つか2つをピックアップする。それを膨らませてみんなの役に立つように話を整理する。私が今回用意したのは、坂道でバイクがエンストして困った話と自家用野菜の灌水施設のトラブルの話でした。両方ともその後解決策が見つかったので、人によっては参考になる話だと思ったのです。今までを振り返ってみると、健康の話、ペットの話、介護の話、旅行の話、観葉植物、自家用野菜作り、加工食品、趣味の話、運動の話、音楽の話、テレビ番組の話などいろいろと参考になることが多いです。次に体験交流ですが、5名程度の小さなグループで行います。順番に話したいことを話して、みんなで意見交換します。ここでは体験交流用に自分の話す内容を家で準備しておくことが大事です。自分の神経質の症状、今月の生活の発見誌で参考になった記事、森田の単行本で感銘を受けたこと、学習会に参加して参考になったこと、今現在困っていること、人間関係のこと、最近楽しかったこと、感動したこと、趣味への取り組みなどです。これらから5分程度の話になるようにまとめていくのです。内容を整理して膨らませていく作業は楽しいものです。その話が参加者に影響を与えて、体験交流が盛り上がることになれば、こんなにうれしいことはありません。さらに喫茶店や居酒屋での懇親会は、弾みがついてさらに盛り上がりを見せることになります。こんな会合は、集談会以外ではほとんど思いつきません。「自己開示 懇親会で 全開放」これは私が以前作って最優秀賞をもらった川柳です。
2023.01.08
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森田理論の「物の性を尽くす」を具体的に応用する方法を考えてみました。それは衣類、本、書類、資料、CD、道具、文房具、電化製品、小物などを定期的に棚卸することです。棚卸すると言っても、そんなに大げさなことではなく、普段あまり見向きをしなくなったものを改めて取りだしてみるようにすることです。衣類は季節の変わり目には誰でもおこなっていますね。季節の変わり目だけではなく、ときどきやってみるのです。今まで気がつかなかったが、今度は着てみようと思う服が見つかります。あるいは、もう二度と着ることのない衣類が山のようにあることに気づくのではないでしょうか。何とか陽の目をみさせてやりたいと思うようになります。欲しい人にあげる。バザーに出す。メルカリなどに出す。など。棚卸すると、持っているものを改めて見直す機会が持てます。今まで眠っていたものを有効活用できるかもしれません。自分に必要ないものは、他人に譲って有効活用してもらう。本の好きな人は、書棚にたくさんの本が並んでいるでしょう。1回読んだ本は再び読む機会はほとんどありません。それでは宝の持ち腐れになるように思います。あらためて読み返すと、新たな発見があるかもしれません。本は図書館で借りることがより「物の性を尽くす」ことになります。読みたい人の間を次々に回りますので、活用度が格段に上がります。本にとってはうれしいことです。1月号の生活の発見誌によると、国立国会図書館には、個人向けデジタル化資料送信サービスがあるという。「森田正馬」で検索をかけると、198件がヒットしたそうです。その中には「形外先生言行録」など貴重な本が含まれている。気に入った本は付箋をつけ、マーカーで印をつけ、書き込みを入れたりしますが、最初はブックオフなどに持ち込むことを想定して書き込みなどは控えた方がよい。書き込みを入れた本は、基本的に引き取ってくれません。そうなると、その本を有効活用することができなくなります。今日は取り上げませんが、自分のノート、日記、集めた資料、CD、MD、カセットテープ、レコード、書類、道具、文房具、電化製品、小物なども「性を尽くす」ために棚卸をすることが有効です。棚卸をすると、自分はこんなものを持っていたのか気づくことになります。以前のようにまた使ってみたいと思うようになるかもしれません。あるいはこれは自分にはもう必要ないものだと判断するかもしれません。棚卸をしないとその価値に気づくことなく、永遠にストックされたままです。眠らせたままでは自他ともに不幸なことです。「物の性を尽くす」とは、そのものの存在価値を引き出して、居場所や活躍の場を与えてあげることです。自分のもとで居場所や活躍の場を与えてあげられない場合は、思い切って自分の手元から離して、新たな活躍の道を与えてあげたいものです。すると家の中が片づき、手放された物も新たな自分の居場所が見つかります。「物の性を尽くす」ことができるようになると、「自分の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「時間の性を尽くす」「お金の性を尽くす」に波及してきます。みんながそうなると、争いがなくなり、和気あいあいで、仲良くなれるように思います。
2023.01.07
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五木寛之さんのお話です。つらいこと、悲しいことがあると、早くこの心の痛みをどうにかしたい、治したいと願ってしまいます。一刻も早くこの傷から逃げたい、晴れやかな幸せな気分になりたい、そう思ってしまうのは当然のこととは思いますが、本当にそれでいいのでしょうか。こころを癒すという時に、その傷ついた状態を「悪」と考えてしまい、「だから治さなければならない」という考えになってしまうのは間違いではないかと思っているのです。本当の意味で、こころの傷や痛みは治ることはないと私は考えます。治らないけれども、その痛みと折り合いをつけて生きていく。その折り合いのつけ方を工夫するほかない。こころの傷というものは、そういうものではないでしょうか。他人のこころが傷つくこと、それは善でも悪でもない。一つのあるがままの自然な状態なのです。簡単ではありませんが、こころの傷は「治める」ことはできるかもしれません。もしあなたがこころの傷を負ったと感じたら、無理にその傷を「治そう」と思わないでほしいのです。人は、生きていく中で、大なり小なりたくさんの傷を負います。その傷を抱えながら、少しずつ治めながら、ともに生きていくのです。(ただ生きていく、それだけで素晴らしい 五木寛之 PHP 73ページ要旨引用)五木寛之氏の言われている「こころの傷」というのは、我々でいえば神経症的な不安や恐怖、不快感のことだと思います。これらは治そうとしてはいけないと言われています。治さずに治めるようにする。何とか折り合いをつけるようにする。その不安を抱えながら、折り合いをつけて、ともに生きていくことだと言われています。不本意であっても、不安を持ったまま、自分の人生を切り開いて前進していくしかない。森田では不安は欲望の裏返しで発生しているので、不安はそのままにしておいて、生の欲望を発揮していく方向を目指していけばよいと言われています。五木寛之氏は森田理論と同じことを提案されているのです。この点については、森田先生の言葉をご紹介します。症状が治るか治らないかの境目は、苦痛をなくしよう、逃れようとしている間は10年でも、20年でも決して治らないが、苦痛はこれをどうすることもできない。仕方がないとあきらめ往生したときはその日から治るのである。すなわちやりくりをし、逃げようとするのか、あるいは我慢して、耐えて踏みとどまるかが、治ると治らぬとの境である。(森田全集 第5巻 389ページ)
2023.01.06
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仕事をする目的は、収入を得ることだけでしょうか。それだけの目的しかないと、問題が出てくるように思います。与えられた仕事をこなせばいいんでしょうということになります。仕事に身が入らないために、仕事をすることが苦痛になってきます。より良い条件を求めて転職を繰り返すようなことにもなります。また仕事の内容については無頓着になります。低収入よりも高収入の仕事の方がよいということになりやすい。収入を得る以外にどんな目的があるのでしょうか。仕事をする意味について考えてみました。1、生活ができるだけの収入を得る。2、自分が持っている頭脳や身体の有効活用ができる。3、様々な人との交流が生まれる。4、仕事に真剣に取り組むことで生きがいが生まれ、人間的な成長が図れる。5、他人に役立つ物やサービスを提供すると大いに感謝される。これ以外にも仕事をする意味があるだろうと思います。仕事をするにあたっては、これらのすべてを視野に入れるというのはどうでしょうか。目的が増えれば、仕事に取り組む姿勢が変わってくると思われます。1、自分や家族の生活費を稼ぐという気持ちはもちろん大変重要です。集談会では月給鳥という鳥になって餌をとってくるという気持ちが大切だと聞きました。仕事が辛いときは、タイムカードを押しに行くという気持ちだけはしっかりと持つことが重要になります。2、仕事に取り組む中で、問題点や改善点が見つかると、感情や身体が動き出します。仕事は自分の居場所や活躍の場を提供してくれています。仕事があることで、精神的に落ち着きが出てきます。仕事をすることで、行動半径が大きく広がって行きます。仕事は頭と身体を鍛えて、廃用性萎縮を防止しています。仕事に対して感謝の気持ちが湧いてきます。3、仕事をすることで、様々な人と交流が生まれます。人間関係で苦しいこともありますが、反対にかけがいのない友人関係を築くこともあります。尊敬できる上司や先輩に巡り合うこともあります。仕事での付き合いの中で人生の師に出会うこともあります。なかには職場で配偶者を見つける人もいます。定年後も温かい友情関係が続くこともあります。仕事をしないと、社会的には孤立してしまいます。仕事をすることで他人と温かい人間関係を築くことができます。4、仕事をすることで、さまざまなノウハウを身につけることができます。収入を得ながら、新たな能力、技術を自分のものにすることができます。人間的に大きく成長することができます。そのノウハウを持って転職する人もいます。あるいは定年退職後、その技術を他人に教えてあげることもできます。仕事をすることで新たな自分を創造してくれます。5、他人に物やサービスを提供することで、お客様に大きな感動を与えたいという目的を設定している人がいます。そのクオリティを高めるためには、少々の苦労を厭わない人がいます。他人の喜ぶ姿を見ると、自分も幸せな気持ちになれます。人生を豊かにしてくれる感動を味わうことができるのです。このように考えて仕事をしていると、仕事はさまざまな恩恵を与えてくれているのではないでしょうか。仕事を持っていることを感謝できるようになります。仕事をすることが辛いと考えている人は、目的を広げて、仕事をする意味を今一度整理することをお勧めします。
2023.01.05
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小笹芳央氏は、「仕事においても、変化を恐れ、拒むと淘汰される」と指摘されている。(変化を生み出すモチベーション・マネージメント PHPビジネス新書)古くは飛脚。自らの足を使って日本中を縦横無尽に駆け回っていた彼らだったが、自転車や自動車の登場によって出番が無くなった。その自動車も将来乗用ドローンによって淘汰される可能性があります。かっては踏切の近くに小屋があって、遮断機を人力で上げ下げする踏切番が常駐していたという。これはセンサー技術の発達とともになくなった。サイレント映画時代の俳優は、トーキ映画の発達とともに仕事を失っていった。JRの切符切りは自動改札機にとってかわった。印刷会社の写植オペレーターは作家やライターが書いた原稿を一文字ずつ組んでいた。しかしこの仕事もDTP技術の発達のおかげで姿を消した。街の現像屋さん。デジタルカメラとパソコン、プリンタの普及によって、わざわざDPEショップで現像する人はめっきり減った。今やスマホのカメラがスタンダードになっている。一時期カセットやMDやレコードなどが流行ったが今は見る影もない。テレビ番組の録画方法もまるっきり変わった。私が老人ホームで行っているチンドンミュージックのパフォーマンスも商売としてはほぼ淘汰されている。時代遅れになったものは早く見切りをつけて、新しい変化の流れに対応することが大切になります。しかし、変化に乗り遅れて、従前のものに固執してしまうのが人間です。人間には「現状維持バイアス」が強く働いているのです。これは、合理的に考えれば変化に対応した方が得な場合であっても、現状に固執し維持しようとする人間の強い心理のことである。将来淘汰されることが分かっていても、現状にある程度満足している場合や愛着を感じている場合は、それにしがみついてしまう。それらを破棄するよりも、できるだけ長く守り抜くことに力を入れる。ダーウィンは変化の対応に乗り遅れたものは、進化の過程ですべて淘汰されてきたという。ある経営学者よると、会社の命はおおよそ30年であるという。一時期は毎年どんどん成長しても、一山超えると衰退の道を下っていく。会社の成長を維持し、さらに発展させるためには、定期的に3分の1の事業を見直して、新しい事業と入れ替えるような意気込みが必要になるという。つまり順風満帆で何の問題もないときにこそ、将来の変化を読み、変化に対応する目標や課題を設定して、行動を開始しなければならないということです。神経症の場合、ある特定の不安に執着することは、変化に対応するという人間本来の生き方を軽視・無視していることになるのではないでしょうか。将棋でいえば専守防衛にエネルギーを投入していることになります。攻めることを忘れていると勝ち目はなくなります。そうなりますとエネルギーの投入先が行き場を失い自己内省一辺倒になります。過去のことを悔い、将来のことを取り越し苦労し、身動きできなくなります。そして不平不満で一杯になり、自己嫌悪、自己否定するようになります。そうならないために目付を外向きにする必要があります。そしてイヤイヤ仕方なしの行動に打って出ることです。行動の中から問題点や課題を見つけるように心がけていくことです。興味や関心、気づきや発見、工夫やアイデアが見つかれば、変化の波に飛び乗って疾走することが可能となります。森田理論の変化の波に乗るという考え方は、ぜひとも生活の中に取り入れたいことの一つです。
2023.01.04
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日曜日にNHKで「超進化論」という優れた番組がありました。録画していなかったがNHK+で視聴できた。第1回目は植物の進化を取り上げていた。今まで植物は物言わぬ弱い生き物であると思っていたが、それは大きな間違いであることがよく分かった。植物は音、温度、湿度、雨、風、水分、虫、病気などに敏感に反応していた。柳の木にヤナギルリハムシが近づいて葉をかじっていた。柳の葉は、有毒物質を作り出して精一杯抵抗している。食べられている葉だけではなく、周りの葉にも有毒物質が作られる。またその情報は他の柳の葉にも伝えられて、隣の柳も毒物を作り出していた。人間と同じように情報の共有化が図られていたのである。またヤナギルリハムシを食べるカメノコテントウムシを呼び寄せるための物質を出していた。カメノコテントウムシは目がよく見えないにもかかわらず、その物質に引き寄せられて害虫を食べに来ていた。柳の木は昆虫の力を借りて自分が生き延びる仕組みを作り上げていたのだ。また植物は他の植物と競い合って、光や栄養を奪い合っているものと思っていたが、それは間違いということが分かった。植物同士助け合いの仕組みが備わっていたのだ。植物は自分の根からチッソ、リン酸、カリウムなどの栄養物を吸い上げていると思っていたが、それだけでは限界があるそうだ。実は植物の根には菌糸がびっしりとまとわりついている。この菌糸が栄養分を吸い上げて、植物全体に栄養源を補給していたのだ。さらに菌糸は土中に縦横無尽に伸びていて、他の植物と複雑に絡み合い相互扶助のネットワークを構築していた。例えば森で巨木があると近くの幼木は日が当たらず成長しないといわれる。実際には、巨木の根にまとわりついている菌糸が、幼木の菌糸に伸びていて、栄養分を補給して成長を助けていた。夏に葉が茂り盛んに光合成をする落葉樹は、菌糸を介して、盛んに針葉樹に栄養分を分け与えている。冬になって落葉樹の葉が落ちてしまうと、今度は針葉樹が落葉樹の栄養分の補給をする。植物同士は戦うばかりではなく、補い助け合うことで、お互いが健康で長く生き延びるための仕組みを作り上げているのである。植物は動物のように自由に動くことはできないが、与えられた環境の中で精一杯生き延びようとしている。自分一人だけではなく、協力し合ってみんなで長生きしようとしている。人間は植物の共生関係から、人間関係の在り方を学ぶ必要があると思う。さらに人間と自然の共生関係も見直す必要がある。現在その自然の営みに対して人間はどう対応しているのか。現在地球上では週に9万ヘクタールの森林が消えているという。森林伐採や焼き畑です。特にアマゾン流域の森林破壊がすさまじい。将来的には豊かな森林が失われてしまう可能性が高い。今のレバノンは砂漠地帯だが、元は立派なレバノン杉の森だったそうです。人間の手によって、すべての木が伐採されて不毛の土地になったという。一度破壊された生態系を回復させることは至難の業である。今や人間の欲望が暴走して自然破壊に歯止めがかからない。しかも世界の人口はどんどん増え続けて食料不足が深刻化すると言われている。温暖化による気候変動、オゾン層の破壊、酸性雨、砂漠化の問題もある。このままの状態が続くと人類が滅亡してしまうことにならないだろうか。森田理論に「物の性を尽くす」という考えがある。現在あるもの、自分が持っているもの、相手が持っているものの価値を再評価して、居場所や活躍の場を与えて、生き尽くしてもらうという考え方である。人間関係の在り方や自然との共生の問題を考える際、基本となる大切な考え方だと思う。
2023.01.03
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萩本欽一さんのお話です。いろんな大スターに会ってきたけど、大スターほど言うのはね、「俺ね、本当は駄目なんだよ」ってこと、楽屋でよく言うんだよ、小さな声で。「俺、こんな欠点がある、ほんと駄目なんだよな」「うそ!」あれ? おかしいな。スターほど「できない」と「駄目」が多すぎて、自分の短所をよく知っている。その駄目をね。でも、もう駄目なんだからって半分ぐらいあきらめて、そこのところは無理しないでさりげなく出していく。駄目なところがあっても、逆にそれをいいって言われる。それがスターなんだよ。昔から大スターの逸話とか伝説ってあるじゃない。僕は、ああいうのが好きなんですよ。すごいなあって思う。(ユーモアで行こう 萩本欽一 KKベストセラーズ 108ページ)大スターは歌がうまくて、演技力抜群です。ユーモアのセンスもある。さらに容姿端麗の人が多い。あるいは強烈な個性を持っている。だから大スターになれたのだと思っていました。萩本氏の印象では、その見方は間違っているといわれる。大スターほど、自分の弱点、欠点、ミス、失敗を自覚している。それらを決して隠そうとしない、捻じ曲げようとしない。言い訳をしないで、むしろ周りの人におもしろおかしく公開している。人間はどんなに立派に見えるような人でも、醜悪な面を持っている。これだけは秘密にしておきたい過去を持っている。長生きしている人ほどたくさん持っています。それらが他人に知れると、人から軽蔑されるような気がする。できれば一生涯隠し通してしまいたいと思っています。この態度が自分を窮地に追いやっていることに気づかない。萩本さんはこんなことも言っている。オーディションではみんなうまく演技して、何とか受かろうとする。だけど、努力して受かったやつがそのまま芸能界でやっていけるかっていうと、そう簡単なものではない。芸能界ではうまいからって使われてることはほとんどないよ。昔は実力の世界なんて言われてたけど、それはもう古い言葉。今は性格なの。僕は長いことテレビをやってて、「あいつはうまいから使おう」なんて話、聞いたことがない。一番使われるのは、「あいつはいいヤツだから使おう」っていう、この言葉が多いんですもん。だとすると、演技なんかよりも性格を磨いた方がいいよ。(同書 117ページ)萩本さんの言ういいヤツとは、裏表のない人間のことではないでしょうか。事実を隠さない、ごまかさない、言い訳しない、責任転嫁しない人のことです。自分の醜いところを上手に隠して、実物以上にかっこよく見せようとしていると、相手に警戒心を起こさせる。そういう相手と一緒にいると、緊張状態を強いられます。その点、過去の忌まわしいミスや失敗、自分の恥部、弱点、欠点、ミス、失敗を赤裸々に公開するような人は安心できます。自分もその人の前では全部をさらけ出しても大丈夫だという気持ちになれる。事実を捻じ曲げて実物以上によく見せるというのは、詐欺師の常套手段です。一度は上手に相手を騙せても、長い目で見ると信用を失います。一旦失った信用は二度と取り戻すことは出来ません。森田先生は言い訳や責任転嫁の言葉を大変嫌われています。ウサギが突然入ってきた野犬にかみ殺されてしまうという逸話が残っています。そのときウサギ小屋の世話をしていた入院生は、これは入り口の扉の作り方が悪かったので起きた事件ですと言い訳をした。自分の立場を擁護するために責任転嫁されたのです。森田先生は、自分の立場を正当化する言い訳や責任転嫁ではなく、かみ殺されたウサギの気持を察する気持ちがどうして出てこないのかと言われています。事実を素直に認めることができると、失敗を次に活かすことができるようになります。事実をごまかしてしまうと、もう二度とウサギ小屋の世話はまっぴらごめんだということになります。自分の都合の悪い事実を素直に認めることは難しいです。そしてそれを周りの人に公開するというのはさらに難しい。森田理論の「純な心」という考え方は、最初に湧き上がってくる素直な感情を前面に押し出していくことだと言われています。この考え方を指針にして、自分の言動を点検していけば、事実をごまかすことが少なくなると思われます。
2023.01.02
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今年の1月4日でこのブログは10年を超えることになります。毎日投稿しながら最初に設定した目標をついに達成しました。最初10年はとてつもなく長いと思っていました。過ぎてしまえば「光陰矢の如し」でした。この10年間を振り返ってみました。毎日投稿することで、リズムのある規則正しい生活が身に付きました。毎朝6時20分に目覚ましが鳴るのですぐに起きるようにしています。冬は真っ暗、夏は朝日を全身で浴びています。「早起きは三文の得がある」といいますがその通りだと思います。この習慣は投稿するという目的があるからこそ可能になったのです。次に自分でもびっくりするくらい森田理論の深耕ができたと思います。それを生活の中で、縦横無尽に活かすことができるようになりました。森田は表面的な学習をもう少し掘り下げたところに豊かな鉱脈のようなものが横たわっていると思っています。宝の山はそこに眠っているように思います。それを日々見つけていくのが楽しみになりました。高良武久先生は、10年一つのことに取り組んでいけば、その道の専門家になれる。それが自信になって、対人不安は気にならなくなるはずだといわれました。これについては、いまだはっきりしたことはよくわかりません。ただ森田理論学習に取り組んだ中で、一つだけ言えることがあります。神経症はケガや折れた骨がくっつくような完治はしないのではないか。神経質性格者に、大小さまざまな不安が次々と出てくるのは、どうすることもできないように思います。生活に支障のない状態になれば、それでよしとした方がよいのではないか。むしろ細かいことが気になるという性格を、実生活に活かしていくほうがより意味があるのではないか。私は神経症が治るとは、頭の中で神経症的な不安のことを考える割合が、どんどん減っていくことだと思っています。それが50%くらいになれば、もう治ったも同然だと思っています。仕事や集談会の運営、趣味や野菜作り、老人ホーム慰問活動のこと等を考えることが多くなった時点で、一応神経症の克服宣言をした方がよいと思っています。むしろ治り過ぎて尊大な態度になることの方が問題だと思います。つぎに読書の習慣がつきました。本が大好き人間になりました。1ヶ月に10冊から20冊は読む習慣がつきました。1年で120冊から240冊です。10年で1200冊から2400冊の本を読んできました。読書はブログのネタを探すという目的を持って読んでいます。森田の琴線に触れるところはすぐにキャッチできるようになりました。本はほとんど市と町の図書館からネットで予約して借りています本を読んでいると引用文献が紹介されています。芋づる式に読みたい本が増えてきます。先人の考え方や生きざまに接することは大きな喜びとなっています。そして今やブログの投稿は、私の趣味、生きがいになりました。最初は10年でやめる予定でした。今は弾みがついて、今後20年は継続したいと思っています。できれば命尽きるまでです。まさに生涯森田です。ボケる暇はなさそうです。そのために体力をつけたいです。現在、おおむね1ヶ月先に投稿する記事を今日書いています。1か月間寝かしておいた原稿をアップする時、再度読み返して、「自分の書いた記事に自分自身で感動することができるかどうか」投稿原稿は、そこを基準に考えていきたいと思います。不十分なら書き直すか、ボツにするつもりです。最後にみなさまの今年1年のご活躍とご健勝を祈念して年頭のあいさつといたします。今年も森田理論を大いに深めていきましょう。
2023.01.01
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