全33件 (33件中 1-33件目)
1
田舎の住職さんのお話です。世界では毎日テロや発砲事件が相次いでいて、多くの生命が失われています。その点、日本は安全で平和な国だと言われています。私の知り合いでブラジルに行っている人がいます。ブラジルでは窃盗や犯罪が横行、その人も銃を突きつけられたことがあるそうです。私がその人に危険だから日本に帰ることを勧めました。すると、こう言われました。「それでも日本よりここがよい。日本は年間3万人の自死者が出る。行方不明者を入れると、実質数万人の自死者ともいわれている。銃やテロでは、そんなには死なない。日本の方が世間の評価などで精神的に追い詰められていく怖い国だ」この話を聞いて考えさせられたそうです。日本は治安も比較的よい。働いていれば、飢え死にすることはない。どこの家にも、電気、ガス、水道、水洗トイレが完備している。冷暖房完備で何不自由ない生活をしている。テレビ、洗濯機、クーラー、自動車はどこの家にもそろっている。パソコンやスマートフォンなども誰もが持っている。衣類至っては収納場所に困るほど家の中にあふれかえっている。様々な娯楽もふんだんに用意されている。これ以上の贅沢を言えば罰が当たるほどの生活を享受しているのが今の日本人だ。世界中を見渡しても日本ほど物質面で豊かな国はあまり見当たらない。貧しい国から見れば、私も日本に生まれていれば毎日楽しい生活ができたのにとうらやましがられる国なのだ。しかし、日本では自死者が多い。豊かな生活を維持するのに、働き蜂のように働かざるを得ない。人間関係でのトラブルが多く、いつも不安や葛藤を抱えている。目の輝きを失って、うつろな死んだ魚のような目をしている。生活の豊かさと引き換えに、精神的な豊かさを失って、ただ生命を生きながらえさせているような感じだ。その住職さんは9年前にブータンという国に行ったことがあるそうです。ブータンは物質的には恵まれない貧しい国です。建物も衣服も日本の江戸時代にタイムスリップしたかのような生活をしている。もっと農業生産に力を入れて、もっと豊かな生活を目指してはどうですかというと、その年に食べるだけの食料が収穫できればよいのだという。隣村に行くのに谷底まで降りていかなくてはいけないので、橋をかけてあげましょうと提案したが断られたという。欲がないのだ。ブータンの人は助け合って生きている。人々の目はみんな輝いている。ブータンでは殺生をしてはいけないという教えがあります。虫を殺してはいけないのだそうです。そのため、ハエも人の前でゆっくりと飛んでいます。殺されることがないからです。日本でいう野良犬も多いが、人間たちに溶け込んで、幸せそうに暮らしている。一緒に行った僧侶の1人が、 「ブータンに行って思った事は、ブータンならハエに生まれ変わってもいいと思った」と言いました。物質的にはとても貧しい国ですが、「世界で一番幸せな国」という意味がブータンに行くとなんとなくわかるような気がしたとその住職さんは言われました。物質的に豊かなだけでは人間は幸せにはなれない。それを過度に追い求めると、幸せが膨らんでいくのではなく、むしろ自死のほうに近づいていく。心の豊かさとのバランスをとることが必要なのだと思いました。今の日本では、物質的な欲望の追及はできるだけ抑制していくことが、バランスをとるために、今やるべきことなのではないかと感じた次第です。
2019.01.31
コメント(0)
対人恐怖症の人の生きづらさについて、石原加受子さんが明快に説明されている。それは自分中心ではなく、他人中心の生き方をしていることに問題がある。「他人中心の生き方」とは、自分の意識の目が相手に向いていて、相手に自分の欲求を満たしてくれるように要求したり、相手の顔色や反応をうかがいながら、相手の言動によって自分の態度や行動を決めていく生き方です。(すべてめんどくさいと思ったとき読む本 中経出版 41頁より引用)他人中心の生き方は、相手の言うことに自動的に反応したり、相手の言う通りにするのが当たり前という感覚になります。相手に振り回されて、相手の一挙手一動ばかりが気になります。他人中心の生き方をしていると、自分の感情や気持ち、自分の意思は後回しになります。最後には今自分にどんな感情が湧き起こっているのかさえも分からなくなってしまいます。我慢して、自分に湧き起こってきた感情を無視したり、抑圧しながら生きていると自分が自分の人生を生きているという感覚がなくなってしまいます。人と交流することが苦痛になってきます。生きづらさばかりが強くなり、人生の中で楽しみや喜びは感じられなくなってしまいます。これに対して、「自分中心の生き方」は、次のような特徴があります。・どんな自分であっても、ありのままの自分を認める。理想は「自分を大好き」になる。・自分のどんな感情、どんな気持ちも受け入れて味わい実感する。・誰よりも自分の意志を尊重し、それを実感する。・自分のために、自分を自由に表現して生きる。(しつこい怒りが消えてなくなるな本 90ページより引用 すばる舎)「自分中心の生き方」は、いつも自分自身に寄り添い、自分を守る。自分の味方になって、自分自身を愛していく生き方です。どんな感情も認めて許してあげる。どんな気持ちになっても受け入れる。五感を大事にする。マイナス感情ばかりでなく、プラスの感情も存分に味わう。気持ちがよい、痛い、暑い、寒いなどの身体感覚も大切にする。自分の意志に焦点を当てて、やりたいこと、やりたくないことを明確にする。これらを第一に打ち出した生き方は、自分の心と行動が一致しているので葛藤や苦悩は生まれてこないのではないと思われます。森田理論でいうと、他人中心の生き方は相手の「かくあるべし」に対応するばかりの生き方となります。その時、自分の感情、気持ち、意志などは蚊帳の外になっています。これに対して自分中心の生き方は、自分の感情を無条件に受け入れ、自分の気持ちを最優先させ、自分の意志を打ち出していく生き方です。「かくあるべし」がありませんので、心の中と行動が一致しているので、矛盾がありません。自然で理に適った生き方となっています。なんとかして他人中心の生き方を改めて、自分中心の生き方に変えてゆきたいものです。
2019.01.30
コメント(2)
人間は、見える、聞く、 臭う、味わう、触れるなどの「五感」を使って外部のものを認識する特徴があります。現代社会はこの「五感」の働きが危機を迎えているという人もいます。その五感の働きが軽視されると、現実を無視した観念や思考中心の世界にどっぷりとハマり込むことになります。事実を無視して「かくあるべし」の強い人間になってしまいます。観念主義、完全主義、完璧主義、理想主義、コントロール至上主義に陥って、現実、現状、事実とのギャップで苦しむようになるのです。強迫行為などの神経症に陥る人は、小さい頃から五感の働きを軽視して生きてきたのではないでしょうか。そのツケが症状としてでてきているのかもしれません。五感には、不安や恐怖などの他、心地よい感情や嬉しい感情もあります。五感を軽視する人は、マイナスの感情を強く意識し、プラスの感情はほとんど気にも留めないという傾向が強いのではないでしょうか。五感を意識すると、思考は止まります。感じることと思考することは同時に行うことはできません。五感を鍛えて感性を磨く事は、観念中心の世界から抜け出ることにもつながります。まず自分がそのような状態にあって、強迫神経症に陥っていることを認識する必要があります。観念中心の世界に身を置いてがんじがらめになっている人は、五感を鍛えて育むことに取り組むことをお勧めしたいと思います。例えば、自然に涙が出てくるような評判のよい映画を見る。あるいは評判の文芸作品を読んでみる。自分の好きな音楽を聴いてみる。素晴らしい景色の場所に行ってみる。心が癒される場所に行ってみる。アロマセラピーをしてみる。評判の料理を食べてみる。加工食品づくりに挑戦してみる。温泉に行ってみる。料理に挑戦してみる。カラオケや踊りに挑戦してみる。簡単な運動に取り組んでみる。ヨガや気功やマインドフルネスに取り組んでみる。などなど。私は毎日、息を吐ききって、鼻から大きく息を吸い、少しずつ口から最後まで息を吐く。この呼吸法を5回ぐらい連続してやります。不思議とイライラがなくなり、心が穏やかになる経験をしています。その時は思考が止まり、自分の身体感覚が蘇ってくるように感じます。五感は特別なことをしなくても、意識するだけで、いろんなことを感じることができます。このようなことで、観念中心の世界から少しずつ抜け出して、五感が少しずつ回復し、感じる力が育ってくるのではないでしょうか。観念中心の人は、頭の中でああでもないこうでもないとやりくりをするばかりです。頭は過剰に動いていますが、体があまり動いていません。そういう傾向のある人はバランスが崩れているのです。足を使う、手を使う、体を動かす方面にも力を入れる必要があります。五感を使って感じる力を高めていく事は、 「かくあるべし」を少なくして、「事実本位」の生活態度に変えていくための出発点となります。観念中心の生活を送っている人は、それをいったん横に置いて、もともと備わっている五感を刺激して存分に味わうことを意識したほうがよいと思います。
2019.01.29
コメント(0)
大坂なおみ選手がテニスの全豪オープンで優勝した。そして世界ランクは、日本人としては初めて世界1位にまで上り詰めた。決勝では、チェコのクビトバ選手だった。ウィンブルドン選手権を2度制覇した強豪だった。第1セットは7―6という接戦でからくもものにした。ところが第2セットで5―7で落とす。3度のマッチポイントのチャンスを逸して逆転された。クビトバ選手おそるべしと思った。この時はテレビを消したい衝動が湧いてきた。第3セットも接戦だったが、なんとか6―4で逃げ切った。よく頑張った。ほとんど実力の差はないように思えた。それだけに大きな感動を貰えた。特にクビトバ選手の第一サーブが外に決まるとスライスして1.8mぐらい外に逃げていく。中央付近に決まると手も足も出ない。しいて差を上げれば、大坂選手がラリー戦に持ち込むと多少強かったことぐらいだ。大坂選手の試合は以前からよく見ていたが、以前は相手にポイントをとられると、泣いたり、弱気な発言をコーチにしていた。ラケットを放り投げるようなこともあった。今大会では、そういう態度は全くなかった。第2セットで心が折れそうなときもあったが、表情にはわずかしか現れなかった。相手に立て続けにポイントをとられても(ラブフォーティ)、冷静に対応して盛り返したときもあった。自分の思いどうりにならないときは、潔くあきらめて気持ちを切り換えて、自分が今できることをきちんとこなしていく姿勢をつらぬいているように思えた。技術力もさることながら、最後は精神力が勝敗を分けたように感じた。私たちは、どうにもならない壁にぶち当たると、すぐにあきらめてしまうことがある。大坂選手の試合を見て、人生は最後まであきらめてはいけない。今自分のできることをきちんとこなして、苦しいときを何とか持ちこたえる。そしていつか流れを自分の方に引き寄せていくことが大切だ。燃えるような情熱を持って生きていくことの大切さを教えてくれているように感じた。大坂選手は今後も4大大会を何度も制覇していく選手だと確信した。今後も応援してゆきたい。そして生きる勇気をもらいたい。
2019.01.28
コメント(0)
以前に学習したノートを見てみると、次のように書いてある。愚痴を言う事は、行動をにぶらせ、仲間を困らせるだけである。愚痴を言う相手がいると、ある程度は気持ちが楽になります。でも、所構わず愚痴ばかり言っていると、愚痴を聞かされている相手は「またか」という気持ちになり、そのうち真剣に相談相手にはなってくれなくなります。また、自分にとっても、愚痴を言うことによって、過去の嫌な出来事が思い出され、怒りや恨みが増悪してしまいます。これは感情の法則が教えてくれている通りです。愚痴を言えば言うほど、相手が逃げていき、自分が惨めになってしまいます。「愚痴を言わない」という言葉をキャッチフレーズにして、生活を立て直して神経症を克服している人がいる。愚痴はできるだけ控えたほうがよさそうだ。今考えても確かにその通りだと思う。でも、ここで1つの疑問が湧いてくる。カウンセリングの基本技術では、信頼感の形成が欠かせないものとされている。傾聴、受容、共感の態度でクライアントに接しないとカウンセリングは前には進まない。ここでは、人間関係における問題点が愚痴として語られることになる。カウンセラーはその愚痴を永遠と聞くことになる。ロジャーズの来談者中心療法では、傾聴、受容、共感が大きな柱になっている。私たちの学習でも、傾聴、受容、共感の重要性が叫ばれている。しかし愚痴の弊害を考えてみるともうひとつすっきりしない面がある。愚痴を聞いているだけでは、何の問題解決にもならないのではないかという面があるからだ。積極的な問題解決のヒントを指示すことが大切なのではないかということだ。この問題に対して、石原加受子さんは、次のように言われている。悩みを相談すれば、誰かが私の話を親身になって聞いてくれると、私の気持ちはほっとする。その時間だけは相手に依存していられる。この関係ががっちりと確立してしまうのはまずい。石原さんは、この関係性を「同情の支配」といわれている。つまり相談者は自分の愚痴を永遠と述べる。相談された人は、相談に乗りながらアドバイスを繰り返す。2人の関係は共依存関係で、一方が心の傷を吐き出し、もう一方が傷を舐めるという相互関係が出来上がる。こういう関係は、相談者は、自分の話を聞いてくれる人が欲しいのです。ですから、本質的には自分の悩みを解決したいという欲望はないのです。むしろ悩みを解決すると、話を聞いてくれる人がいなくなるので困ってしまうのです。この時相談者は、自分自身を哀れみ、惨めな気持ちになっているはずです。自分自身を哀れな世界へと突き落とし、自分を愛することができない自分になっているのです。自己肯定感が持てなくなり、自己嫌悪、自己否定の悪循環に陥っているのです。石原さんは、他人中心の生き方から自分中心の生き方を提唱されています。そういう方向に転換しないと、人間関係の問題は解決しない。永遠と愚痴を繰り返す。この場合は、相手の言動に焦点を当てていくのではなく、自分の感情、自分の気持ち、自分の意思、自分の身体感覚に焦点を当てて、自分をかけがえのない人間として取り扱うことが大切であると言われています。これは、森田理論で言うと、「かくあるべし」を少なくして、事実の立場に立脚して、そこから一歩、視線を上に向けて生きていくという「事実本位」 「物事本位」の生活態度のことを言われているのだと思います。森田理論も外部の人の考え方と比較しながら学習していくと、より深耕できるものと考えています。(しつこい怒りが消えてなくなる本 石原加受子 すばる舎 124ページより1部引用)
2019.01.27
コメント(0)
広島市はほとんど雪は降りません。今年初めて山が白くなりました。我が家から見た東の山です。
2019.01.26
コメント(0)
現代の日本人は、過剰な物、過剰な食べ物、過剰な関わり、過剰な干渉、過剰な教育、過剰な情報に取り囲まれています。「過ぎたるは及ばざるよりもなお悪し」と言います。これが人間関係、身体の健康や心の問題の悪化に大きく関わっているのではないでしょうか。自立して生きる力を骨抜きにされ、いつまでも親の加護の下にある大人になった子供達。何をするにしても自信が持てなくなり、生きること自体が苦痛になっている若者たち。問題解決能力が身につかず、すぐに投げやりになり、親に責任をとらせる子供たち。自己表現ができなくなり、人間関係で振り回されてしまう人たち。生活習慣病ともいわれるガンをはじめとする様々な身体疾患で苦しんでいる人たち。自分たちの快楽を求めることが最優先され、子供を産み育てるという目標が希薄になった親たち。これらは、あらゆるものが不足している社会ではあまり問題にはなりません。むしろ、恵まれすぎて、すべてのものが過剰に存在する社会で問題になる事ばかりです。欲望は制御不能になり、暴走を繰り返すのが常ですから、森田理論を学んだ者として、社会に向かって警鐘を鳴らす必要があるのではないでしょうか。今日は、この中で子どもに対する過剰な母親の干渉について考えてみたいと思います。子供を産んだ親は、しつけをして、子供たちを自立した人間に育て、社会に送り出していくという大きな役割があります。社会に送り出して、新しい家族を得て、自立した自分たちの生活を始めた途端、基本的に親子関係は終了します。しかし現在の日本の社会では、子供たちが大人になっても、親離れできないという問題があります。経済的にも精神的にも親に依存している。親もまたいつまでも子供を手元に置いて子供を甘やかせている。つまり双方がいつまでも共依存関係にあるのです。この親子関係が続けば、子供はいつまでも自立することはできず、親子とも将来に明るい展望は開けません。キタキツネの母親はひとりで子供を育てます。餌を与え、少し大きくなれば、エサの取り方を教えます。ある程度大きくなり、自立して生活できると判断すると、自分たちの巣穴から追い出してしまいます。子供たちはなかなか巣穴から離れようとしません。それでも牙をむいて追い出してしまうのです。ここで強制的に親子関係を終了させてしまうのです。それが自然に生きる動物の宿命なのだと思われます。本来人間も同じで自然界の動物ですから、その方向が自然なことなのだと思います。現在の日本人の親子の関係をみると、子供を自立させていくという目的が希薄なのではないでしょうか。すべての面で過剰な社会に暮らしている私たちは、子供を育てる面においても過剰な関わりを持ちすぎているのではないでしょうか。小さい頃から過保護で好きなものが好きなだけ与えられています。だから我慢するということを知りません。自分を中心にして世界が回っているかのような錯覚に陥ります。子供が何か行動を起こそうとすると、すぐに親が口を挟み、子供が挑戦する前に親が子供になり代わって解決してしまう。子供の意志はことごとく押さえつけて、親に従属する素直な子供に育てていく。このような子供が大人になると、自分では何も決められない。自分の意志を抑圧して、人の思惑ばかりを気にする大人になってしまいます。こうなると自分の人生は自分の意志で切り開いていくということができなくなってしまいます。子供たちの多くは大人になって生きづらさを抱えてしまう。このことは、すべてのものが過剰な日本の社会では、真綿で首を絞めるように徐々にではあるが、確実に進行して、最後には取り返しがつかない事態に陥る。このことを森田理論学習をした人は、社会に向かって警告を発信する必要があると考えています。
2019.01.26
コメント(0)
カウンセリングで何よりも重要な事は、実際にどうするかを決めるのは、相談に来たその人だということです。クライアントはカウンセラーの前で悩みを打ち明けるだけで随分気持ちが楽になります。クライアントは話すことで、まず心を軽くし、直面している問題を整理し、どんな解決方法はあり得るか、または、そんなものは無いのかを考え、自分の生き方を振り返り、反省して実行できるものは実行に移す、そんな作業をするわけです。その作業を側面から手伝うのがカウンセラーという人の役目なのです。ところが、人から相談されるので、つい自分は偉い人間だと思ってしまうのか、カウンセラーの中には、相談に来た人に自説を押し付け、聞こうとしないで文句を言う者もいるのです。またクライアントの中には、自分で悩みや問題の解決などを一切しないで、最初から「何でも教えて。先生の言った通り、何でもしますから」という態度を取っている人も少なくない。 「最後は自分で決めることですよ。家に帰ってよく考えなさい」などと言われると、もの足りなさそうに反発する人もいる。 (アダルトチルドレンの心理学 荒木創造 日本文芸社 250ページより引用)森田理論学習を行っている集談会には、神経症で苦しんでいる人が数多く参加される。このカウンセリングの話は、私たちが注意しなければならない問題を提起している。集談会に初めて参加した人は、とても緊張している。だからまず、緊張感を取り除いてあげることが必要だ。初めて来られた人には、笑顔で一言声をかけてあげることが必要だ。笑顔で温かく迎えてあげることが大切だ。「よく来られましたね。この会はホームページで見つけられたのですか」などと声をかけてあげる。誰も対応しないで、そのまま放置されていると不安になってくると思う。また何回も参加している人が親しそうに会話をしているのを見て、不安をあおることもある。集談会は始まる冒頭には、この会の運営方針や指針について伝えることも必要である。自分の自己紹介は、初めて来られた方に配慮して、自分が神経症で苦しんでいたときのことを話してあげる。初めて来られた人は、自己紹介は最後にしてもらう。自己紹介カードを見て分かる範囲で自己紹介をしてもらう。体験交流ではそれを元にして、さらに話してもらう。ここではできるだけ多く、自己開示をしてもらう。ただし無理強いしてはいけない。そのためには、ここでの話は決して誰も口外しないことを説明する。他の参加者は初めて参加した人の話に真剣に耳を傾ける。ここでは性急にアドバイスをしてはいけない。受容と共感の気持ちで聴くことに専念をする。参加者の前で自分の悩みを話すだけで随分気持ちが楽になるのだと言うことを忘れてはならない。次に、初めて参加された人は、森田療法理論が本当に自分の悩みを解決してくれるものであるかどうかが気になる。今まで薬物療法やカウンセリング、認知行動療法などの精神療法を受けられた人も多い。神経症克服のために、どのやり方が自分に合っているのかを見極めに来られているのだと思う。その1つの方法として、森田療法理論の学習会に参加されたということである。ですから、様子見で参加されている人が多いという認識を持っておくことが必要である。それで1回参加しただけで来なくなってしまう人が多いのだ。こういう状況の中で、私たちはその人たちにどのような対応をすればよいのか。続けて参加してもらいたいために、性急に森田理論の内容を説明をすることがある。あるいは森田療法理論を使ったアドバイスを行うことがある。これらは、最初のうちは差し控えた方が良いと思う。相手にとっては押しつけがましく聞こえるかもしれない。すべての人に森田療法が適用できるわけではないという気持ちを持っておくことは大切だ。1回だけで終わってしまう人は、森田療法理論には縁がなかったと諦めるしかない。森田療法理論が自分に合っているのか、合っていないのかを決めるのは、相手自身である。そのための判断材料を提供してあげるのが私たちの役目ではなかろうか。自助組織の仕組みと役割の説明。森田の参考図書の紹介。外来森田療法を行っている精神科医の紹介。森田療法を取り入れている臨床心理士の紹介。心の健康セミナーの紹介。などなど。最初から森田理論を説明するのではなく、外堀から埋めていく方法である。こうすれば、他の精神療法と比較検討することができるのではなかろうか。その上でどの精神療法を選択するのか、あるいはどれとどれを組み合わせて取り組んだらよいのかは、相手に一任するのがベストなのではなかろうか。その中で森田療法理論の特色が相手に伝われば十分なのではないかと思う。
2019.01.25
コメント(0)
私は県外に単身赴任をしていた時、その地区にある森田の勉強会に参加していました。その会では、後日会合の様子がメールで送られてきました。故郷へ帰った後は、遠方なのでその勉強会には参加することができませんでした。でも、そこで知り合った仲間とは離れ難く、メールの送信が必要かどうか聞かれたので、 「ぜひ送ってください」とお願いしました。それから10年間毎月メールで送られてきました。ところが最近、個人情報の内容が含まれているので、メールの送信は中止することにしたという連絡が入りました。送信してくれていた人は、メールを一方的に送るばかりで不安になられたのだと思います。それはちょうど、真夜中に不審者が自分の家の中を覗いているような気味の悪さだったのだろうと思います。誰だって相手のことが分からないと疑心暗鬼になり、不安でいっぱいになるでしょう。その不快感を払拭するために、私に対して一方的にメールの送信を拒絶されたのです。気味の悪い不快な感情を取り去ることに注意が向いていたのだと思います。私は、わかりましたと返事をしました。しかし、どうも納得ができませんでした。これは不気味な感情に対する短絡的な対応なのではないでしょうか。では、この場合は気味の悪い感情をどのように取り扱えばよかったのでしょうか。気味の悪い感情をそのまま受け入れて、はからいをやめるとどうなるでしょう。不快な感情に抵抗しなければ、それ以上に大きくなることはありません。また軽率な行動に走ることも避けることができます。この場合、不快な感情に対して、そこを出発点にしてどのように行動すれば、不快な感情をなくすことができるのか考えるようになります。ハンドルネームで書かれているけれども、個人情報も多々含まれているので、漏えいすることには最初から抵抗がある。これは誰でもあります。そこで、守秘義務違反はしませんという文章を作成してサインをしてもらうのはどうだろう。サインをしてくれた人にだけにメール送信を行うようにするのだ。さらに、一方的にメールを送るばかりで、相手はそのメールをどのように取り扱い、読んでいるのかわからない。これが不気味さの大きな原因になっている。その問題をどう取り扱うか。私なら、少なくとも3ヶ月か4ヶ月に1回は、その人の近況を必ず報告してもらうように義務付ける。そして、それを2回ぐらい怠った場合は、申し訳ありませんが、メール送信を打ち切ることをあらかじめ了解してもらう。そうすれば、自分と相手が双方向の交流ができるので安心である。また、他のメンバーも昔交流した人の動向がわかるので、交流の幅が広がって楽しい。なにより勉強会が井戸の中の蛙になることを防ぐことができる。そういう交流が深まってくれば、遠距離で学習会に参加できない人でも、なんとか工夫して1年に一回とか、2年に一回ぐらいは参加するようになるかもしれない。そうなればその学習会自体が活性化してくるかもしれない。不快な感情を払拭するために、相手に「かくあるべし」を押し付けるのは弊害が多い。反対に不快な感情を受け入れて、その感情を基にして、自分はどのように手を打てば良いのかと考えていけば、事態は好転していくのである。感情の取り扱い方は誤らないようにしてほしいものである。
2019.01.24
コメント(0)
最近の学校ではいじめが後を絶たない。職場でも陰湿ないじめが横行しているという。弱々しくて反発してこない人は、すぐにターゲットにされてしまう。そして孤立して居場所をなくしてしまう。仲間内から排除され、危害を加えられる事は生死にかかわる問題である。普通は理不尽なことをされたり、攻撃されると反撃をするものです。いじめられる人はいじめられるだけでなすすべがない。そんな人でも幼稚園児のところは、泣き叫んでも抵抗していた。対等に渡りやって喧嘩をしていたのである。ところが、いつの頃からか反撃を止めて相手のなすがままに身をゆだねるようになった。これは幼い頃から子供の周りにはいつも大人がいて、喧嘩をするような場面は、親が仲裁に入っていたのではないでしょうか。その場は何とか収まっても、お互いに傷つくような喧嘩の経験不足は、大人になってそのツケが、子ども達にのしかかってきた。当然経験しなければならない人間関係の持ち方を学ぶ機会がスポイルされてきたのである。幼い頃に喧嘩をする経験は貴重なものです。まず自分の気持ちや意志を相手にぶつけるという意志や積極性を育む。相手に徹底的にやり込められてしまえば、自分が大いに傷つくという経験も持てる。相手を徹底的に痛めつけてしまえば、罪悪感も味わうことができる。そして数多くの喧嘩の経験を積んでいると、お互いに喧嘩の頃合いがわかってくる。これ以上暴力をふるっては相手に怪我を思わせてしまう。これ以上の暴言を吐くと相手にダメージを与えすぎてしまう。それなのに、周囲の大人達はどうして幼児の喧嘩に対して止めに入るのだろうか。このような経験を幼児期に数多く体験しておく事は大人になって役に立つ。他人を自分の思い通りにコントロールすることはできない。相手には相手の意志がある。自分には自分の意志がある。そこには当然深い溝が横たわっている。自分の一方的な気持ちを相手に押し付けるのではなく、話し合いによって歩み寄っていく努力をするというやり方が自然に身についてくるのだ。幼児期に喧嘩を経験していないと、いじめに発展しやすい。支配と被支配の人間関係に陥りやすいのだ。支配する人は自分の思い通りに相手をコントロールしようとする。自分より弱い人を見つけては、いじめに走るのである。そういう人は自分より強い人からはいじめられるようになる。支配される人は、自分の気持ちや意志を封印して防戦一方である。肉体も精神もむしばまれて、生きていくことが苦痛になる。子供の頃の経験不足は大人になって大きな問題となって表面化してくるのだ。自然や相手を自分の思い通りにコントロールしようとする「かくあるべし」は結局自分に降りかかってくる。理想と現実とのギャップに苦しむようになる。その苦しみから逃れるためには、森田でいう思想の矛盾を解決することである。つまり「かくあるべし」ではなく事実に根を張った生き方をすることである。「事実本位」の生き方に切り替えていくことが大切になる。そして、次に大切なことは、少しでも自分の気持ちや意志を大切にすることだ。「純な心」を大切にして、自分の感情、気持ち、 意志を前面に打ち出していくことである。私メッセージで、少しでも相手に自分の気持ちを伝えていくことだ。他人の言動に振り回されるだけでは生きていくことが辛いばかりである。自分の気持ちや意志を前面に押し出す、自分中心の生き方が事態を変えていくと思う。
2019.01.23
コメント(0)
私たちは職場において、普通腹が立つことがあってもできるだけがまんして、波風が立たないようにしようとします。これは感情のままに怒りを出してしまうと、人間関係がめちゃくちゃになってしまうという気持ちがあるからだと思います。あるいは相手の反撃で自分が傷つくことを恐れています。つまり、怒りの感情は我慢し耐えて押さえつけているということです。理性でマイナス感情をねじ伏せているということです。しかし、心の奥底では、それで納得しているわけではありません。なんとか反撃をして言い返して怒りの感情を解放したいと思っているのです。そうかといって子供ではない、理性のある大人なのだからと思って対応しようとしているのです。理性と感情のギャップで苦しむようになるのです。森田でいう思想の矛盾で苦しんでいるのです。でも、いつまでも解放できないと、精神交互作用で怒りの感情はどんどん燃え盛り、憎しみや恨みが怨念となってしまいます。普段から感情を抑圧している人は、心の中では多くの怒りが渦巻いています。それは、その人の顔の表情や口調などに表れています。目がつりあがり、体が硬直して、神経が極度の緊張状態にあります。感情を抑圧している人は、自分は感情的になっていないと思っていても、他人から見ると、人を寄せ付けないオーラを発しているのが、手に取るようにわかります。職場で感情を抑えることが習慣になっている人ほど、ますます感情的になっています。最初はできるだけ我慢していても、不快な感情はどんどん蓄積されて、いずれ持ちこたえられなくなります。そしてちょっとした出来事をきっかけにして大爆発を起こし、会社中の噂になってしまいます。感情を抑えつけることばかりに注意を向けている人は、腹立たしさや怒り、嫉妬心などは人一倍感じますが、嬉しいとか楽しいとかというプラスの感情は感じられなくなってしまいます。マイナス感情ばかりに振り回されていると、生きることはつらいことだらけとなってしまいます。そこで、食べる、飲む、寝る、ギャンブル、性欲などの刹那的欲望で埋め合わせをしようとします。感情と生活の悪循環が繰り返されることになります。これに対して森田理論はどう教えてくれているのでしょうか。感情は怒りの感情も喜びの感情も否定してはなりません。感情はすべて自然現象ですから、コントロールすることはできないし、してはならないのです。どんな感情でも行き着くところまで行きつかせて、成り行きに任せることが重要です。感情に振り回されている人は、感情を意のままにコントロールしようとしている人です。その結果自分の思いとは反対に、いつまでも感情で苦しんでいるのです。怒りの感情は、精神交互作用で刺激を与えなければ、いずれおさまってくることが多いものです。次に森田先生は腹の立つことがあってもすぐに売り言葉に買い言葉で対応してはならない。この腹の立つことを文章にして記録しておく。そして3日経ってもまだ腹立たしさが収まらないときは、すこし冷静になったときを見計らって、自分の気持ちを相手に伝えたほうがよいといわれています。つまり自分の感情は、いつまでも自分の胸のうちに持ち続けるのではなく、何らかの方法で吐き出すことが大切なのだと教えてくれています。できれば大火事になる前のボヤのうちに吐き出すとよいでしょう。自己表現を心がけていると、相手も言いたい放題ということは出来なくなります。自己表現するときは、「私」を主語にした「私メッセージ」の発信が重要です。それから、腹が立つ時は、「純な心」を思い出すことも大切です。腹が立つというのは、自分が相手を是非善悪で価値判断していることが多いものです。その前の「はっとした。びっくりした。どうしよう。心配でたまらなかった。悲しかった。つらかった」などという初一念は蚊帳の外になっていることが多いものです。そういう時は、 1番最初に感じた素直な感情(初一念)に立ち戻ることが大切です。例えば上司が、「何年その仕事やっているのだ。こんな簡単な事がわからないのか」と叱責した。最初の気持ちは、「しまった。またやってしまった。どうしよう」だと思います。そのうち、上司はどうして自分だけ叱責するのだ。無性に腹が立って仕方がないという流れになっていると思います。こういう時は、最初の感情に立ち戻ることが大切です。しつこく初二念、初三念の感情が湧き起こってきますが、そのたびに初一念の感情を思い出すことです。この態度は「事実本位」というのですが、そうすると他人に振り回されることが少なくなり、出来事の後始末のほうに向かっていくようになるのです。このことを森田理論では「物事本位」の生活態度になっていると言います。
2019.01.22
コメント(0)
私は30年以上森田理論学習を続けてきて、自分の生きづらさの問題点に気がついた。それは大きく分けると4つあった。1 、対人恐怖症のために予期不安があると、人前から逃げるという習性があった。2、対人関係では、勝ち負けにこだわり、いつも相手と張りやってきた。負けず嫌いが他人に向けられていたのである。3 、自分の感情、気持、意志を押さえつけていた。いつも他人の言動に振り回されてきた。4 、 「かくあるべし」が強く、今あるものや自分や他人を否定しながら生きてきた。これらは森田理論学習のおかげで少しずつ改善できてきた。今では生きていてよかった。神経症は辛いものであったが、神経症になったからこそ今がある。神経症になってよかった。神経質性格に生まれてきてよかったと心の底から思えるようになった。1番であるが、「欲望と不安」の単元が役に立った。不安には大きな役割があることがわかった。さらに不安だけを問題視するのではなく、生の欲望と不安のバランスをとる生き方が大切なのだということがわかった。その方向で努力し、日常生活が充実し、 一人一芸の習得で毎日が充実している。2番目であるが、これはなかなかしぶとい。修正は不可能なのではないかと思う時もある。他人が自分のことを非難したりするとすぐに戦闘モードになる。相手の意見を価値判断なしによく聞く。それに対して自分の意見を述べる。双方にある意見の違いをはっきりさせる。そしてその溝が少しでも埋められればよしとする。勝ち負けにこだわるよりも、不全感は残っても、人間関係をぶち壊さないことが肝心だと思っている。3番目であるが、他人の言動に振り回されるばかりだと、自分の生きる楽しみはなくなる。つらくなるばかりだ。他人の言動に右往左往するのではなく、まず自分の感情、気持、意志を見つめることが大切だと思った。自分はどのように感じているのか、自分はどのような気持ちになっているのか、自分はどのように考えているのか、自分はどのようにしたいのかを前面に押し出して生きていくように方向転換をした。そこで役に立ったのは、 自分の素直な感情を、小さいうちにどんどん外に吐き出していくことだった。自分の感情、気持ち、意志、五感、身体感覚を外に向かって吐き出すことに力を入れてきた。どんなことがあっても、自分の心と体は自分自身が守らなければならない。自分は自分の最大の味方である。自分を粗末に扱うことだけはなんとしても避けたい。4番目であるが、 「かくあるべし」を少なくする生き方が重要であることがよくわかった。「かくあるべし」の反対は、現実、現状、事実を素直に受け入れて、そこを出発点にして目線を一歩上に上げて生きていくことである。今まで生きてきた中で頑固な「かくあるべし」が身に付いているので、とても難しい挑戦であった。しかし森田理論学習のおかげで、生活態度はその方向に向かっている。ここでは、事実には4つの事実がある。その事実を正確に把握する。事実は両面観で多面的に見る。事実を見ないで、是非善悪の価値判断をしない。事実は具体的に赤裸々に取り扱う。「純な心」を体得する。私メッセージを使って発信する。
2019.01.21
コメント(0)
私の月曜日から金曜日までの生活を紹介したい。朝は6時40分に起きる。すぐにパソコンのスイッチを入れる。6時30分にはすでに予約していた今日のブログの原稿がアップされている。それを一通り目を通す。間違いがあればすぐに修正をする。次に、明日の朝アップ予定の原稿を手直しをする。ちなみに1ヶ月先にアップ予定の原稿はすでに予約している。7時から8時までは、昨日用意していたテーマのブログ原稿を音声入力で作成している。それが終わると、高知のしばてん踊りとどじょうすくいの踊りの練習をする。約10分間。それから、布団をたたみ、洗面を済ます。朝の食事は、ニンジンりんごジュース一杯とヨーグルトが中心である。時々季節の果物を食べている。最近はみかんが多い。朝はしっかりと食事をとったほうがよいとアドバイスをしてくださる人もいるが、私にはこの方法があっている。体重が増えなくなり、健康診断でも異常値が出なくなった。今考えると、以前は間食もあり食べ過ぎであったと思う。特に菓子パンがよくなかった。そして朝刊にざっと目を通している。8時40分になるとバイクに乗って出勤する。職場は近いので助かっている。約15分で職場へ到着する。その間は腹話術の口上の練習をしている。仕事はマンションの管理人をしている。9時からは仕事ができる体制を整える。9時から10時までは受付業務だ。誰も来られないことが多い。株式のチェックや持参した本をこっそり読んだりする。10時から12時までは主に清掃業務だ。始める前は入念に体や声のストレッチを行う。10階建てのマンションなのでエレベータは極力使わずに階段の上り下りを心がけている。これは足腰を丈夫にして、かくし芸の獅子舞の練習にもなっている。清掃中はボイストレーニングやカラオケで歌う曲を口ずさんでいる。声を出すことは精神状態もよくなるようだ。今ではカラオケ仲間と歌うことが大好きになった。1か月に2回はカラオケに行っている。12時から昼食をとる。家から弁当を持参している。玄米ご飯だ。2日に1回は納豆ご飯にしている。12時15分から12時55分まではうつぶせになって仮眠をとる。携帯のタイマーをかけているので寝過ごすことはない。13時から14時までは受付業務。特段何もなければ本を読む。14時から15時30分までは、曜日ごとに割り当てられた仕事に取り組む。電球の点検と交換、解放廊下の側溝の掃除、サッシや玄関の拭き掃除などである。15時30分から17時までは、基本的にはまた受付業務。人間関係は、居住者や管理会社の人との会話だけである。居住者の人とは基本的には雑談は控えて挨拶だけにしている。特定の人と親しくなって、個人的な付き合いをすることは禁じられている。17時になるとすぐに家に帰る。帰ると草花などの手入れをする。部屋の掃除や整頓をする。そしてパソコンでメールのチェックを行う。適宜返事を出す。それからアルトサックスの練習を行う。時間にして30分から40分ぐらいだ。次回の老人ホーム慰問の演奏曲があらかじめ分かっているので、それを中心に行う。6時30分から晩酌を兼ねて食事をする。30分ぐらい。家族団欒の時間だ。食事がすむと録画したテレビ番組をみる。人生の楽園、情熱大陸、プロフェッショナル、なんでも鑑定団など。ときどき9時からのニュースを見る。また明日のブログ原稿の草案を練る。風呂に入って11時から12時ごろには寝るようにしている。こうしてみると毎日切れ目なく取り組む課題がたくさんあり、あっという間に1日が終わってしまうようだ。土曜日曜日は、普段できないことをメモしておいて取り組んでいる。10個ぐらいは課題がある。なかにはコンサート、落語会、カラオケ、里帰り、飲み会などもあり、土日も充実していると感じる。一日一日を大切に生きてゆきたいと思う今日この頃である。
2019.01.20
コメント(0)
人間は猿から分化した原始社会では、脳幹の働きがとても重要でした。他の肉食獣が近くにいれば、戦うか逃げるか、とっさの判断を迫られました。もたもたしていると、すぐに肉食獣に食べられてしまいます。自分と家族の安全を確保するためには、戦うか逃げるかしかなかったのです。特に男性は、食料を確保して生き延びるために、日夜他の動植物と戦っていました。その痕跡は、現代に生きる私たちの中にも、依然として生き続けています。国同士は、覇権と資源の確保を狙って、常に臨戦状態にあります。多国籍企業は、世界中のライバル会社と熾烈な生き残りをかけて戦い続けています。会社内では、自分の居場所や地位の向上を目指して、仲間同士がライバル競争を繰り広げています。現代でも人間は常に他人の動向を意識して神経が緊張状態にあるのです。勝つか負けるか、征服するか従属されるか、相手より強いのか弱いのか、相手より優れているのか劣っているのかということに神経が過敏になっています。そこには二者択一しかなく、相手と調和して助け合って生きていくという中庸の考えはないのです。社会を戦場のように捉え、自律神経の交感神経をピリピリと緊張させながら、脱落しないように厳しい社会を勝ち抜くという考え方にあまりにもとらわれているのではないでしょうか。相手をライバルとして見なして、自分を鼓舞して目標に向かって努力するという姿勢は立派なものです。スポーツの世界を見ても、ライバルと競争して、切磋琢磨して技術を磨き、頂点を目指す事は素晴らしい事です。ところが、何が何でもライバルには勝たなくてはならない。どんな手段をとっても相手を蹴落として勝利を掴むという考え方は、自分たちの生き方をゆがめているのではないでしょうか。何が何でも相手を倒さなければならないということになると、自分を高めるものではなく、逆に自分を苦しめる道具となってしまうのです。そうなりますと、自分の感情や気持ち、考えや意志などは蚊帳の外になってしまいます。寝ても覚めても他人の言動に注意や意識が向いていきます。そして、他人に批判、否定、軽蔑、無視されることに異常なまでにこだわるようになります。相手に負ければ自己嫌悪、自己否定することになります。そして心の中ではいつまでも相手を恨み、反発するようになります。これでは自分の人生を生きているのではなく、周囲の人に振り回され、他人の人生を生きているような状態になります。人生の意義を見失い、生きる事は葛藤と苦痛以外の何物でもないと考えるようになります。このような「かくあるべし」は極力少なくしていかなくてはなりません。本来は人間同士を互いに助け合いながら、仲良く暮らしていくのが一番だと思います。そのためには、何が何でも相手に勝ち続けるという人生観は修正しなくてはなりません。人間は意識しないと、つい人間関係が対立して生きずらさを抱えてしまうことに思いを馳せる必要があるのではないでしょうか。
2019.01.19
コメント(0)
電車で4人掛けの椅子に座ると目のやり場に困ることがある。そこで、 4人掛けの椅子が空いていても、そこには座らないという人もいる。これに対して森田先生は次のように話をされている。これは目がスラスラと動かないで、固定し、見つめるために起こるのである。目は自由に動こうとするのを、つい一定のところを見てはならないと、故意に牽制しようとするため、目がかたく、動かなくなるためです。目の動くままに自由に放任すればよい。そのためにどうするか。・この苦しい事柄は、怪我や災難と同じように、防ぐことのできないことである。・怪我は痛く、恥ずかしい事は苦しく悩ましいのは、当然のことである。すなわちそれは、忘れようとしたり気をまぎらわせようとしたりしても、どうすることもできないことである。もっとも正しい事は、従順に、おとなしく、さからわず、これを受忍ことであります。そうすれば、感情の法則により、その苦悩は、最も早く、薄紙をはがすように、次第に消失するものです。・長上の人や、知人と交話するときは、日本の礼法としては、その尊敬の度の強いほど、その人の膝の先、下腹、胸部というように、その近辺を、ぼんやり見ながら(その方向に、見るともなしに、目を向けながら)先方が何か言う時、または自分の意見を確かめる時、先方の顔をちょっとの瞬間、盗み見るのが法で、それがちょうど、人情の自然であります。それをことさら見ないように、あるいは一定のところを見つめよう、人の目を見つめようとかいうふうに考えると、目が凄くなるのであります。また進んでは、むしろ自分のイヤと思う局部を見つめるように、稽古することが得策です。それはかえって、自分の心の自然であるから、むしろ、それに従うという心の態度であります。そうすれば、かえって苦しい、恐ろしい、そのために、ますます執着するような気持ちはするが、私のお勧めする通り、思い切って実行すれば、必ず早く治ります。・ 「顔が上げられなくなる」そのままで、よろしい。強いて勇気を出して、顔を上げようとせず、おどおどして、恥ずかしがっていればよいのです。以上申しあげるとおり、その心持ちだけを、ただ実行しさえすれば、必ず治ります。(対人恐怖の治し方 森田正馬 白揚社 234ページより引用)ここで進んで、自分のイヤと思うことに目をむけるとよいというのがあります。普通は恐怖から逃げようとしているのですが、ここで森田先生がお勧めしておられるのは、恐怖に抵抗しないで、むしろ入り込んでいくという方法です。少し症状が軽くなったときに、意識的にパニック発作などを起こそうとすると、自分の意志とは反対に症状が遠のいていくという現象が起こるのです。不眠障害の場合も、無理に寝ようとしないで、寝られなければ朝まで寝られなくても構わないという心境になれば、不眠障害はたちまち治るといわれています。
2019.01.18
コメント(0)
今日は嫉妬心について考えてみたいと思います。同僚が素敵な人と結婚した。同僚がみんなの前で上司から賞賛された。知り合いの人が豪華な家を新築した。豪華な乗用車を購入した。友達がゴルフコンペで優勝した。自分とあまり能力の差はない人が課長に昇進した。などの出来事があると、嫉妬心がメラメラと湧き起こることがあります。これは無意識のうちに、その人と張り合っているということだと思います。しかし、現実には相手に負けてしまってみじめな気持ちにとらわれているのです。心の中では、相手より自分のほうがすぐれているはずだ。だから自分のことを認めて正当に評価してほしいという強い願望があるのです。ところが、その願いが叶られないので失望して逆恨みしているのです。嫉妬心の強い人は、人間関係において、相手のことを常にライバルとみなしているのです。そして相手に勝つことを意識して、いつも闘いモードになっているのです。常時注意や意識が相手のほうに向けられて、緊張状態にあるのです。それがゆきすぎると、生意気だ、我が強い、強いプライドを持っているなどと言われることもあります。嫉妬心の強い人は、他人から認められることに大きな価値があると思っている人です。自分で自分を認めたり評価しても、それが何の意味があるのだという気持ちなのです。本来自分で自分を認めて励ますことは大切なことですが、自分に自信が持てないので、そこに価値を見出せないのです。対人恐怖症の人は、他人の思惑が気になって苦しくて仕方がないと言います。注意や意識が他人の言動にばかり向いていて、あまり自分の気持ちや意志の方には向いていません。他人に認められたり、ほめられたりすることで自己の存在意義を持ちたいと思っているのです。たまには評価されることがあるでしょうが、いつもそのようなわけにはいきません。むしろ非難されたり、否定されることの方が多いと思われます。この方法で自己の存在価値を満足させることは不可能です。それでは、自分で自分のことを認めるという自己肯定感はどうすれば獲得できるのでしょうか。他人の言動に振り回されるのではなく、自分自身の気持ちや考えを大切にすることだと思います。自分の気持ちはどうなのか、自分はどう考えたのか、何をしたいのかという視点に立って、現実、現状、事実にしっかりと足をついて、そこから出発するという態度が大切なのだと思います。これは森田療法理論の事実本位の生き方につながるものです。相手の言動に振り回される生き方よりも、自分の感情や気持ち、意志を大切にして生きていきたいものです。
2019.01.17
コメント(0)
不安、恐怖、違和感、不快な感情に振り回される。他人と比較して劣等感に振り回される。心配性という自分の神経質性格に振り回される。他人の仕打ちや言動に振り回される。他人の思惑に振り回される。親や子供、配偶者や恋人に振り回される。台風や地震などの自然現象に振り回される。それらに振り回されているときは、精神的にはとてもきつい。そんな時、注意や意識は対象物に向かっており、振り回されないように対応している。しかし、そんな努力が報われることがなく、さらに加速度をつけて振り回されるようになる。このような努力はエネルギーを消費するばかりで、精根尽き果ててしまう。それを解消するカギは、森田療法理論の中にある。「かくあるべし」を少なくして、できるだけ事実に即した生き方を身につけることである。言い換えると、どこまでも自分の心と身体を大切に守っていくという生き方である。心や身体の病を引き起こさないように、自分をいたわり癒していく生き方である。不安や恐怖などの感情は、なくしようと努力するのではなく、自分の体の中で起こった自然現象として捉え、受け入れていくことだ。他人の言動に対しては、たとえ理不尽なことであっても、訂正させる事はとても困難である。他人の言動に対して、すぐに腹を立てて反撃したり、言いたいこと我慢することは人間関係を悪化させたり、ストレスを蓄積させる。そんな時は沸き起こってきた自分の感情のほうに注意や意識を向ける。とりわけ、感情には第一に沸き起こってくる感情と、それに引き続いて「かくあるべし」を含む第二の感情が沸き起こってくる。肝心な事は、第一に沸き起こってくる感情を大切にすることだ。第二の感情が沸き起こってきたときは、第一の感情に立ち戻っていくことが大切だ。感情は自然現象である。それは感情の法則が教えてくれている。自然の変化の流れに身を任せて、目の前のなすべき事に手をつけて生活していく。湧き起こってきた感情を目の敵にするのでもなく、また気分本位で逃げ出すのではない。自分の体の中で起こってきた自然現象として捉え、淡々と慈しみ味わい尽くすことだ。そういう態度で入れば、他人の仕打ちに振り回されることは少なくなるだろう。つぎに他人の言動は他人の自由である。相手はそういう気持ちや意志を持っていると認めることである。そのように認識していると相手と争うことがなくなる。本来相手の言動は、自分に対して強制力はないのだ。ただ相手はそういう気持ちや考えを持っているということだ。そういう意見を述べているに過ぎない。提案を行っているに過ぎない。それに対して、自分がどのように感じ、どのような気持ちになり、自分がどのように行動したいのかは自分の自由なのだ。相手に振り回されるよりも、自分の気持ちを大切にしていくことだ。このように捉えることが自分を楽にしてくれる。それは自分の気持ちや意志を打ち出しているからである。つまり、自分自身に対して優しく寄り添っていることになる。人間関係で振り回されて葛藤や悩みを抱えている人は多い。そういう人は、自分の存在、自分の気持ち、すべの感情、自分の意志、五感、身体感覚に焦点を当てて、自分をいたわり大切にするという態度に立ち返る癖をつけることが大事である。自分を守り、自分の最大の味方になってくれるのは、他でもない自分自身なのですから。
2019.01.16
コメント(0)
森田療法理論を学習していると、どんな感情でもやりくりしないで受け入れなければならないと学んだ。すると、月曜日の朝になると会社に行くのが気が重い。休んでしまい。サボりたい。このまま寝ていたい。そういった感情のままに仮病を使って休んでしまいたい気持ちになることがある。実際にそのまま休んでしまう人もいる。これは感情の取り扱い方を誤解しているのだと思う。不快な感情のままにやるべきことを回避する態度は、気分本位な態度である。会社に入社するときは、自分が労働することによって、賃金を支払うという契約をしている。感情がいかに出勤すること拒んで居ようとも、嫌々仕方なしに出勤しなければいけない。会社に勤めているということはそういう責任があるということです。出勤してぼつぼつ仕事に手をつけていいるうちに、次第に仕事に対する意欲が高まっていくのである。行動をしているうちに弾みがついて、新しい感情が生まれてくる。感情と行動は切り離して考えることが大切である。ここで大事な事は、月曜日の朝になると会社に行くのが気が重い。休んでしまい。サボりたい。このまま寝ていたい。そういった感情のままに仮病を使って休んでしまいたい気持ちに、どう対応するかということである。2通りの方法がある。1つは、自然に沸き起こってきた感情に対して、あってはならないものとして観念で抑えこもうとすることである。「かくあるべし」で自然現象である感情を否定してしまう態度である。こういう気持ちで、会社を休んでしまうと、瞬間的には気が楽になるかもしれない。だがしばらくたつと罪悪感が出てくる。自己嫌悪や自己否定の感情も出てくる。会社を休んでいても、同僚や上司の鋭い視線が心の中に突き刺さり、いてもたってもいられなくなる。月曜日の朝の重い気分は、火曜日に繰り延べることになる。火曜日の朝も辛い感情を味わうことになる。火曜日も引き続いて休むということになると、次第に会社を辞めたいなどというネガティブな感情が出てくる。観念上で悲観的な考えが次から次へと悪循環を始める。こういう人は普段から人の目を気にして有給休暇の申請が全くできなくなる。忌引き休暇等に対しても申請すること自体罪悪感を感じて右往左往する。これに対して、月曜日の朝の不快な感情をそのままに認めて許すという人もいる。どんな感情でも自分の身に起こった事は正しいことだと思える人だ。こういう考え方をする人は、会社の仕事の状況を見ながら、思い切って有給休暇の申請をすることができる。他人の目を気にして、過労死寸前なのに無理をして出勤するということは避けることができる。罪悪感がないので、有給休暇をとった時は思い切ってリフレッシュすることができる。会社の都合よりは、自分を第一にして、自分もいたわって大事に扱うことができる。自然現象である感情に対して、観念で目の敵にして抑圧している人と、どんな感情でも認めて受け入れている人ではその後の展開が大きく違ってくる。私達は森田療法理論学習によって、どんな感情でも抑圧や否定をしてはならない。感情の事実に対して素直に受け入れていくということを学んで実践しようとしているのである。
2019.01.15
コメント(0)
身寄りのない一人暮らしの人が亡くなった場合、死後1週間とか1ヶ月とか放置されていることがある。かわいそうなことだ。警察官が検視のために駆けつけるが大変な状況になっているという。一般的には民生委員の人が定期的に訪問して安否確認を行っている。それでも孤独死が放置されているのが現状である。最近は一人暮らしの人のために、人の動きを検知するセンサーを取り付けて、センサーが24時間反応しないと警備員が駆けつけるサービスがあるという。高齢で一人暮らしの人はそういうサービスを手配しておく必要があるのかもしれない。現在女性の半分は90代まで生きている。男性も4人に1人は90歳まで生きている。長生きするのは結構ではあるが、老化は確実に進行していく。それを遅らせるためには、テレビの前で漫然と過ごすのではなく、朝起きてから寝るまでしっかりと一日を生き切ることが大切である。社会的役割がなくても、ささやかに日々の課題を選び、周りの人達との交流が必要なのである。普通は80歳ぐらいまではぴんぴんして動き回り、痴呆に縁がない人でも、次第に体力が衰え、いくつもの病気を抱えるようになる。そしてアルツハイマー病などの脳の障害を抱えるようになる人も多い。こうした老化による精神と身体の変化は、十分に予測可能なものである。森田理論に不安は安心のための用心であるという言葉がある。どうすることもできない不安は、格闘するよりは受け入れた方がよいと森田理論で学んだ。しかし、不安に学んで、対策を立てることで自分の生命や安心を得ることが出来る事は積極的に行動に移さなければならないと思う。私たちは元気なうちに不安に学んで、あらかじめ自分の死後に備えて周到な準備をしておく必要があるのではなかろうか。体の自由が効かなくなったときはどうするのか。寝たきりになったときはどうするのか。痴呆になったときはどうするのか。長生きした場合、生活費はどのようにするのか。元気な70代、 80代うちに自分で考えて準備しておく必要がある。自分の財産目録をきちんと整理して、子供たちが右往左往しないように記録を作っておく必要がある。自宅や田畑などの不動産がある場合は、自分の死後、どのようにするのか決めておかなければならない。また、自分の死後、誰も墓参りをしてくれる人がいない場合は、墓じまいをしておくことも必要だ。その他、葬儀のこととか、財産分与のこととか、色々と準備しておくことがたくさんある。これらは終活と言われている。そのために書店に行けばエンディングノートが用意されている。「何とかなる」という考え方では、いつの間にかチャンスを逃してしまい、残された人に負担がかかるのである。「立つ鳥後を濁さず」という気持ちで取り組んでいきたいものである。
2019.01.14
コメント(0)
森田先生が形外会である患者に次のように質問された。先生から「神経症が少しは良くなったか」と聞かれたとき、君ならどう返答するか。ある患者は次のように答えた。実際には、まだ良くなっていなくても、それをそのまま口にすることは憚られる。だから、 「おかげさまでだいぶ良くなりました」と答える。これに応えて森田先生曰く。それで上等だ。先生に対しても、 「治りません」とは言いにくいから、つい会釈笑いをしながら「だいぶ良くなりました」という。それでよい。その人情の自然から出発すれば、万事がスラスラと流れるようになる。先生に対して、 「ちっとも良くならない」と言い放つ患者は、自分もいつまでもその不快の症状にとらわれて、その執着から離れることができず、医者からも愛想つかされるようになる。これに反して、少しでも良くなったことを喜んで感謝するようになると、次第に自分の良い方面ばかりが気がつくようになり、ますます症状は軽快して全治するようになるのである。(森田正馬全集第5巻 766ページより要旨引用)ここで間違いやすいのは、自分が理想としている神経症の完治から現状を見てみると、まだまだ不十分のような気がする。100%神経症が完治したとは思えない。その事実を事実のままに発言することが正しいように感じる。ましてや森田理論では事実本位の生活態度を身につけることが重要であると言っている。このケースでは、 「少しは改善できているかもしれませんが、まだ全然だめです」というのが、事実に正直に対応することになるのではないか。森田先生は、そういう発言は屁理屈であると言われている。事実唯真、事実本位を盾にして、 「事実に正直であるべきだ」という「かくあるべし」 にとらわれている態度だ。こういう時は、「純な心」から出発することが大事である。ここでの「純な心」はどんなものであろうか。森田先生に好かれたい。自分勝手なことを言って嫌われたら困る。これからも森田先生にすがって神経症を治したい。だから、自分の都合ばかり主張することはできない。とっさにこのようなことが頭の中を駆けめぐるのではないだろうか。この気持ちから出発すると、頭をかきながら、バツが悪そうにしながら、本心とは違う発言をするようになる。自分の最初に浮かんだ感情、気持ちから出発すると、万事うまく収まるのである。反対に初二念や、初三念を基にして発言することは人間関係にヒビ割れを生じさせることになるのだ。それは、人情から出発していないから問題が大きくなっているのである。
2019.01.13
コメント(0)
学校や会社の人間関係の中で、相手から自分のこと非難、説教、叱責、罵倒、指示、命令、脅迫、軽蔑、無視、からかう、責任転嫁などの仕打ちを受けることは多々あります。これに対して、反発心やエネルギーのある人は即座に応戦します。売り言葉に買い言葉です。これは幼い子供と同じ対応方法です。すると、たちまち人間関係が崩壊して犬猿の仲になります。一般的には、人間関係が壊れることを恐れて、言い返したい事を抑圧して、我慢して耐えています。しかし、心の中では言い返したい気持ちでいっぱいです。するとイライラや怒りの気持ちは精神交互作用てどんどん増悪してきます。それが一定の限度を超えると、我慢の限界を超えて大爆発を引き起こすこともあります。また、扁桃体や海馬などの脳神経がダメージを受けて、うつ病などの精神疾患を発症します。さらに、胃潰瘍などの身体疾患を招いてしまうこともあります。この場合、相手は「かくあるべし」を自分に押し付けているわけですが、自分もまた、相手に対して「かくあるべし」で対応しようとしているのではないでしょうか。相方がお互いに相容れない自己主張を繰り返しているわけです。力でもって相手をコントロールしようとしているのです。言いたいことを我慢するというのも、表面的には喧嘩にはなっていませんが、心の中では相手に対して反発を繰り返しているのですから、同じようなことです。人間関係がいつもこのようなパターンで対立していると、生きていくことが辛くなるばかりです。この解決策は森田療法理論が明確に教えてくれています。相手が「かくあるべし」を自分に押し付けてくる事は、理不尽なことですが、どうすることもできない事実です。これに対して、自分が「かくあるべし」で応戦すると、自分が傷つくばかりで何のメリットもありません。自分を楽にして、自分を救うためには、自分の感情や身体感覚に注意を向けていくという方法があります。森田理論で言うと、事実本位、自分中心の立場から相手と接触することです。この方法ですと、相手と云い争いにはありません。そして、自分のイライラや怒りを癒してくれる効果があります。まずは、相手の言動を五感を使って十分に把握することに努める。見たり聞いたりして事実関係を正確につかむ。次に、相手の言動に対して、第一に沸き起こってきた感情、つまり「純な心」をしっかりと認識することです。初一念を思い出して対応するのです。 その際「かくあるべし」を含む初二念、初三念は横に置いておくのです。相手の言動に対して、自分はどのように感じたのか、どのような気持ちになったのかを「純な心」で掴んでいくのです。そこから出発して、自分はどう考えているのか、どう主張したいのか、どう行動したいのかを考えてみるのです。相手をどうやってやり込めるのかというよりは、自分自身に立ち戻って、その時の第一の感情を見つめて、否定しないで受け入れていくのです。そのことに専念することです。また、相手の言動に対して、すぐに対抗意識を燃やすのではなく、その時の自分の身体感覚はどうなっているのかに注意を向けていくのです。できれば、つぎに「純な心」でつかんだ自分の感情や気持ちを、私メッセージを使って相手に伝えていくとよいと思います。これは相手を言い負かすことではありません。相手の言い分に対して、自分の感情や気持ちを伝えて、自分を解放して癒してあげることにつながっているのです。
2019.01.12
コメント(0)
森田先生は入院生を引き連れて近くの青果市場へ野菜の屑拾いに行かれていた。これをうさぎのえさにされていた。プライドの高い入院先は恥ずかしくて躊躇していたようだ。特に、野菜車の下にあるものをかがみ込んで取り出すときなど、周囲の人が、自分たちを蔑む様な目つきをするので、恥ずかしくてたまらない。などと日記に書いている。これに応えて、森田先生は次のようにコメントされている。車の下にあるものでも、なぜもぐり込んでとるのか。それは欲しいからであり、獲りたいからである。その欲しい心の方面は、少しも認めず、ただいたずらに恥ずかしい嫌な方面のみを主張し、強情に言い張るのである。われわれは欲しいことと恥ずかしいこと、この心の両方面をえこひいきなく、正しく認めて、素直に境遇に順応すれば、強迫観念はなくなるのである。神経質の患者は自分の苦しいことばかりを主張し、屁理屈などを並べて、少しも先生の指導に従う事しない。これではいつまでも、苦しいことばかりに屈託して決して愉快な面白い方面を見ることはできないのである。金持ちになりたいけれども、働くのが苦しいから、金持ちになりたい心を排斥し、貧乏で満足する心を養成しようとする。修養と勉強とがイヤだから、恥ずかしがらない性根を作り、カラ威張りを稽古しようとするようなものである。この場合に、一方には貧乏は嫌、恥ずかしいのは苦しいという心と、一方には、金持ちになりたい、人に優れたいという心とを両立させて、これを明確に認めるとき、はじめて努力が起こり、進歩があるのである。(対人恐怖の治し方 森田正馬 白揚社 、 200ページより引用)神経症に陥ると、不安を目の敵にしてなんとか取り除こうと悪戦苦闘する。そのやり方では、不安がどんどん大きく膨らんで、どうしたらよいかわからなくなる。そして生活が滞ってくる。これは不安に対処する方法が間違っているのである。薬物療法や多くの精神療法は、この不安をなくしたり軽減するものである。骨折した人が松葉杖をつく程度のことならよいが、それが不安に対する絶対的な対応方法だと思っていると墓穴を掘る。森田理論では、不安は欲望があるからこそ発生するものである。だから、不安は一時棚上げにして、欲望のほうに目を転じる事を勧めている。生の欲望の発揮に邁進することである。まず日常茶飯事に丁寧に取り組んでいく。凡事徹底である。興味や関心のあることに積極的に手を出す。夢や目標に向かって努力していく。さらに言えば、無制限に欲望を追い求めていると、欲望が欲望を生み出して制御が効かなくなる。これはこれで自分を苦しめていく原因となる。森田理論では、不安に翻弄されて、生の欲望の発揮を無視してしまう事は問題である。生の欲望を前面に打ち出しながらも、不安の役割を認識して欲望をある程度制御することが大切であるという。不安と欲望の調和、バランスを意識することが、最終的な目標になるであろう。
2019.01.11
コメント(0)
視線恐怖は2通りあります。1つは、自分の視線が他人を傷つけるのではないかという不安です。これは加害恐怖に近い不安です。家に子供と2人きりの時、唐突に包丁で子供を刺してしてしまうのではないか、あるいはベランダから子供を投げ落としてしまうのではないかというあってはならない感情が沸き起こってきたときに感じる不安です。この感情にとらわれてしまうと、重い神経症に陥ってしまいます。例えば、包丁を持って料理をすることができなくなる。あるいはおしめを替え、ミルクを与えたりすることができなくなってしまいます。森田理論を学習している人は、このあたりのからくりはよくわかっていますので、パニックに陥る事は少ないと思います。感情は暴れ馬のような自然現象で、時としてこのような感じたくない感情が沸き起こってきます。このような感情がわき起こると、もしかすると行動に移すかもしれないと不安になるのです。実際には、子供が可愛くて、子供を守ってあげたいという気持ちが人一倍強いのです。その反動として、子供傷つけ、危険な目に合わせることを恐れているのです。これは人間に、ある感情がわき起これば、自然にその反対の感情も沸き起こるという精神拮抗作用が発動しているために起きることなのです。そのように森田理論で学習していると思います。加害恐怖のひとは、本来は家族に対する愛情がとても深いのです。その家族に対して、傷つけるようなことがあってはならないという不安や恐怖の裏返しとして加害恐怖に苦しんでいるのです。加害恐怖で苦しい時は、不安や恐怖にばかり注意や意識が集中しています。その不安や恐怖を取り除き、逃れることばかり考えているのです。この不安や恐怖から逃れるためには、精神交互作用を断ち切って、具体的に家族の役に立つことを淡々とこなしていくことが肝要であると思われます。もう一つの視線恐怖は、他人から自分の事を批判的、軽蔑的に見られているのではないかという不安です。例えば、出勤途中、前の人を追い越して歩き始めた途端、それまで何ともなかった歩き方が急にぎこちなくなり、手と足の動作がちぐはぐになるようなものです。あるいは、自分が重大な身体的欠陥を抱えている場合、他人の視線がそこにばかり集中して、自分を否定している。そこから発展して、自分の全人格も否定されているに違いないと思い込んでいる場合もあります。こういう視線恐怖の人は、常日頃他人の思惑を気にして右往左往している人です。愛着障害を抱えて、他人に対する信頼関係が持てないでいる人です。他人から嫌われるようなことがあると、生きていけなくなる。そのために自分の気持ちや希望を打ち出していくことができなくなり、専守防衛で他人の思惑に振り回されているのです。こういう方は、まず友人、集談会、趣味の会、地域活動などで心の安全基地となるべき人を見つけることが大切になります。森田理論でいう不即不離の人間関係を幅広く築いていく中で、気心の知れた人を見つけることができます。そういう人間関係が全くないと孤立して、視線恐怖はますますひどくなってくると思われます。その後で、人間関係の在り方を森田理論で学習することが有効だと思われます。
2019.01.10
コメント(0)
学校や会社などで休憩時間や雑談の場が恐ろしいという人がいる。そういう時間帯に、仲間とどのような付き合い方をしたらよいのかわからない。他人は自分が少しでも隙を見せると、自分して攻撃してくるはずだ。それを放置すると自分が大きく傷つくはずだ。それだけはなんとか避けたい。自分の気持ちや意志を伝えることを抑圧して、巨大な要塞を作り、一途に他人から責められることを防ごうとしているのだ。その不意の攻撃から我が身を守るのは、雑談の場から離れておくことだ。一人で勉強や仕事をするフリをしてごまかしているのだ。確かに仲間外れにされて孤立することはとても辛いことだ。でもこてんぱんにやっつけられて再起不能に陥ることは絶対に避けたい。そういう態度でいると、他人の言葉はいつも自分を責めているように思える。相手の一言一言は自分に喧嘩を売っているようなものだ。相手の話を相談を持ちかけられているようには思わない。自分を相手が思うようにコントロールしようとしているのだと決めつけているのである。相手の話を聞き、自分の意見を言って、双方の主張のズレを確認する。そしてそのズレを埋めるために協議をする。譲ったり譲られたにしながら、妥協点を見つけるという方向にはいかない。勝つか負けるかしかない。負けると自分が惨めになるので、絶対に勝たねばならないと考えているのだ。人間関係が敵対関係になってしまうと生きていても、辛いことばかりだ。そのうち生きる事はひとりで孤独に耐えることなのだと思ってしまう。そういう態度は、相手からしてみると、自分たちを拒否しているように見える。顔色が殺気だっている。体がガチガチで固まっている。今にも暴走して殴りかかりそうだあの人はどうしていつも目を吊り上げて、怒ったような顔をしているのだろう。何を恐れているのかさっぱりわからない。またいつ暴言を吐くのかとても心配だ。何をしでかすか分からない要注意人物とみなしているのだ。相手の態度を見て、自分たちも油断しないで対決するという態度でいる必要がある。さらに「触らぬ神にたたりなし」の方向で、接触を避けよう。このようにしてますます人間関係はどんどん悪循環を繰り返していく。このような人間関係を改善する方法を森田療法理論が教えてくれている。この態度は、常に相手の言動に注意を払い、一喜一憂している態度である。それが予期不安となって、精神交互作用により、泥沼に落ち込んでいくのである。石原加受子さんがよく言われている、 「他人中心の生き方」になっているのである。それを、 「自分中心の生き方」に戻すことがとても大切になってくる。他人の言動に振り回されて、その対応に振り回されるのではなく、自分の素直な感情、自分の素直な気持ち、自分の意志、五感、自分の身体感覚に注意や意識を振り向けるのである。森田理論では、感情の事実、自分の状態、相手の仕打ち、自然の出来事をそのまま受け入れて、「事実本位」に生きていく方向に転換することである。どんなに横道にそれても、そのたびごとに「事実本位」の態度に立ち戻ることが肝心なのである。そのための方法としては、事実をあらゆる角度からよく観察する。事実に基づいて具体的に話す。安易に価値判断を持ち込まない。「純な心」の体得。「私メッセージ」の活用などをお勧めしている。森田療法理論の学習と実践により、少しでもその方向転換ができれば、人間に生まれてきて本当によかったと思えるようになる。
2019.01.09
コメント(0)
人付き合いを円滑にするためには、 「純な心」を意識することはとても大切である。物事や出来事に接して、 1番最初に湧き上がってくる素直な感情のことである。森田理論学習をしていないと、なかなかこの感情をキャッチすることが難しい。例えば、中学生ぐらいの女の子が家に連絡もしないで帰宅が遅れると親はとても心配になる。何かあったのではないかとやきもきする。あっちこっちの心当たりのところに電話をする。あるいは警察に相談したり捜索願を出すかもしれない。なんとか無事に帰って来てほしいという願いでいっぱいである。これが親の子供に対する「純な心」である。ところが、そのうち何事もなかったかのように娘が帰ってくる。その姿を見ると急に怒りがこみ上げてくる。「こんなに遅くまでどこをうろついていたのだ。家族を心配させるのもいい加減にしろ」と感情を爆発させる。これは、最初に感じる素直な感情とは言い難い。親が娘の行動を見て、是非善悪の価値判断を行い、娘を自分の思い通りにコントロールしようとしているのだ。その時、注意や意識は自分の素直な感情にはない。こうした例はいくらでも存在する。こうした時は、どのように行動すればよいのだろうか。まず感情には瞬間的なものと、それ以外のものがあるという事実を頭の中に入れておくことだ。そして瞬間的な感情は、よほど注意をしておかないと、すぐに見落としてしまうという特徴があることを押さえておく。つぎに、第一に感じる感情の次に、 「かくあるべし」を含む第二の感情が発生するのだ。この第二の感情に基づいて行動すると、事実のねじ曲げ、ごまかし、言い訳、隠蔽、対立などが起きやすい。そして人間関係に摩擦を生みやすいということだ。この第一の感情と第二の感情は連続して起きるものである。その区別ができないということが問題になる。怒りの感情が湧いてきたとき、これは第一の感情なのか。あるいは第二の感情なのか、自分に問いかけてみる必要がある。そういう習慣作りが肝心である。ほとんどの場合は、怒りの感情は第二の感情である。先の例で見てきたように、怒りの感情の前に「心配で仕方がない。イライラして落ち着かない」という気持ちがあるのだ。この第一の感情に立ち戻っていくことが極めて重要なのである。「無事に帰ってきてくれて嬉しい。帰るまでは、気が気ではなかったんだよ」これこそが、素直な自分の感情だ。そこから出発して、その気持ちを娘に伝えればよいのだ。以後、娘が早く帰宅するようになるのか、あるいは電話をするようになるのかはわからない。その判断は娘に決定権があるからだ。第一の感情を大切にするようになると、大きなメリットがある。自分の素直な感情、自分の気持ち、自分の意志、五感、身体感覚などに注意を向けていると、頭の中での試行錯誤はなくなる。相手に対する怒りの感情に火がついて燃え上がるということがなくなる。自分の感情や感覚に注意を向けていると、是非善悪の価値判断をすることがなくなる。それは頭の中でその両方に同時に取り組む事は出来ないからだ。1つしかできない。そうなると、自分の素直な感情と対話することだけになる。排斥したり逃げたりしないので、最後には味わい尽くしてしまうと鎮火してしまうのである。感情の法則が教えてくれている通りだ。「純な心」を学習し、自分の生活の中に取り入れて定着させること極めて大きな意味がある。森田理論で「純な心」学習をした人は、集談会の場などで個人の体験を持ち寄り、議論をして欲しい。そうすることが、 「純な心」を身に付ける近道であると思う。
2019.01.08
コメント(0)
「イライラする、腹が立つ、絶望的な気持ちになる、悲しい、つらい、苦しい、怒り、恨み、憎しみ、不安、落ち込む」などの感情ばかり味わっていることはありませんか。こんな感情ばかりと付き合っていると、扁桃体や海馬はたまったものではありません。脳細胞が常時緊張してオーバーワークになります。最終的には大きなダメージを受けて、うつ病などの病気になります。あるいは胃潰瘍、ガンなどの身体疾患もでてきます。感情には「欲望、うれしい、楽しい、幸せ、気持ちいい、ここちよい、楽な気分、すがすがしい、さわやか、安心する、ほっとする」などの感情もあります。マイナス感情ばかりではなく、プラスの感情も存分に味わうことが必要なのではないでしょうか。そのバランスが崩れると、脳細胞だけではなく、身体面にも悪影響を及ぼすということです。一般的に感情は自然現象であって、マイナス感情ばかりに翻弄されることはどうしようもないことだと思われているかもしれません。しかし、感情の発生や成り立ちを考えてみると、そうとばかりは言えません。感情は、物をじっと観察する。自ら行動する。他人から自分に対するなんらかの働きかけがある。様々な自然現象などが身の回りに起きることによって発生するものです。どこに注意や意識を向けて観察するのか。どのような行動を取るのか。自分の身の回りに起きる出来事に対してどのように受け取るのかによって、感情の発生は大きく違ってきます。弱点や欠点、ミスや失敗を防ぐことばかりに焦点を当てていると、マイナス感情を引き起こしやすくなります。対人関係でも自分を守ることばかりに気をとられていると、人の言動に神経過敏になり、マイナス感情を招いてしまいます。理不尽な自然現象に対して、「どうして自分ばかり。このような目に遭うのだ」と対立的に捉えていると、自然現象に怒りや恨みを感じるようになります。ではどうすれば、プラスの感情をより多く味わうことができるのでしょうか。まずプラスの行動をする習慣を作ることです。自分の好きなことをする。興味のあることをする。人の役にたつことをする。ものを作る。目標を持つ。人と仲良くする。これらのプラスの行動をすることによって、快の感情が湧いてきます。快の感情は快の感情を呼び寄せて好循環をもたらします。さらに日常茶飯事に丁寧に取り組むことによって、気づきや発見が生まれるようになってくると、プラスの感情の好循環が生まれてくるようになるでしょう。ここで注意したいのは、物質的に豊かな欲望を追い求めるやり方は行き詰まってしまうということです。欲望が欲望を生みだし果しがなく、それとともに鋭い感受性はどんどん減退してきます。小さな何気ない出来事にはプラスの感情が湧き起こらなくなり、欲求不満に陥ってくるのです。それから、プラスの感情をより多く受け取るためには、 「かくあるべし」を少なくして、事実に重きを置く「事実本位」の態度を身につけることが大切だと思われます。「かくあるべし」は、「○○してはいけない」「○○であるべきだ」などという考え方で、現実、現状、事実を否定する行為です。自己嫌悪や自分否定、他者批判や他人否定からはプラスの感情は湧き上がって湧きません。現実や事実を素直に認め、そこから前進するために、自分はどうしたいのか、何を改善したいのかという態度で望まないとプラスの感情を呼び寄せることができないのです。ちょっとしたボタンの掛け違いが、その後の展開を大きく左右してしまいます。
2019.01.07
コメント(0)
「純な心」というのは、突発的な出来事に遭遇した時、自分が何か行動を起こした時、相手が自分に対してとった態度、理不尽な自然現象などに対して、真っ先に湧き起こってくる素直な感情のことである。第一に起こってくる感情、夾雑物などが入り込まない素直な感情のことである。森田理論学習をした人は、「純な心」という説明は受けておられると思う。「純な心」の反対語は、 一言でいえば「かくあるべし」である。観念や理想、完全や完璧の立場から現実を否定すると「思想の矛盾」に陥る。「思想の矛盾」に陥ると、人生は葛藤や苦悩の連続となる。だから、 「かくあるべし」から出発することはできるだけ避けた方がよいのである。そのためには、現実や事実をよく観察して、それらを受け入れるという態度の養成が大切になるのである。「純な心」の態度の養成だ。ところが、その感情はすぐにかき消されてしまうという特徴がある。ですから、気がつかないうちに見落としてしまうのです。そして次に、 「かくあるべし」を伴う感情がどんどん膨れ上がってきますので、どうしてもそちらのほうの影響を大きく受けてしまうのです。また親や先生から、小さい頃から「こうしなさい、ああしなさい」と絶えず指示命令されて育ってくると、自分の感情を育んでいくという習慣が持てなくなっているのです。自分に素直な感情が湧き起こってくているという感覚が持てなくなっているのです。本来は、自分に沸き起こってきた感情、自分の素直な気持ち、見る、聞く、匂う、味わう、触れるという五感、自分の身体の変化などを十分に味わう必要があるのです。それらに注意を向けてしっかりと感じることができる人は、葛藤や苦悩を抱え込むという事は少なくなると思われます。これは素晴らしい能力ですから、森田療法理論を学んだ人はぜひとも身に付けたいものです。森田理論の学習によって、その辺の理屈は分かっている人は、たとえ「かくあるべし」がでてきても、原点回帰が出来るのではないでしょうか。例えば、子供が親の言うことに素直に従わない様な場合、つい叱責したくなります。この場合、子供の行動を見ているとモタモタして間違いだらけだ。口で言ってきちんと躾をしないといけない。言うこと聞かないと体罰を与えてでも、強制的に躾をしないといけないと考えているのです。このときの、最初に沸き起こってきた感情は、子供のやっていることが、心もとなくて心配で仕方がないということだと思います。この「純な心」を重視すれば、反射的に子供を叱り付けたりすることはなくなるでしょう。私メッセージを使って、「お父さんやお母さんは、あなたのやっていることが心配で心配で仕方がないのよ」と伝えることになるでしょう。その後、その言葉を受け取って、子供がどう対応するのかは基本的には子供の自由なのです。親は近くにいて見守ってやることしかできません。次に「純な心」は、絶えず初二念・初三念によって、絶えずかき消されやすいという特徴もあります。例えば、 丸選手が巨人に移籍を表明したとき、残念だ、ショックだ、がっかりしたという気持ちがありました。いわゆる初一念の素直な気持ちです。ところが、 丸選手は巨人球団と5年で35億円の契約をしていた。あるいは、子供は10月で幼稚園を辞めていた。東京に11月の時点でもう新居を購入していたという話が出てくると、やはりカープに対する愛情よりは金だったのか。巨人と事前の話し合いをしていたのではないのかと腹立たしくなってくるのです。初一念のことをすっかり忘れて、初二念や初三念に翻弄されてしまっているのです。だから、いったん初一念に立ち戻ればもう後は大丈夫だというわけではありません。絶えず初一念と初二念・初三念はせめぎ合いをしていると思った方がよいと思います。その度ごとに、初一念に原点回帰するという姿勢を持つことが大切なのです。これは素晴らしい生き方を手に入れるための、内なる戦いの連続なのだと思ったほうがよいでしょう。それが習慣になるまで、自分の素直な感情や気持ち、五感や身体感覚に意識して注意を向けることが大切になります。
2019.01.06
コメント(0)
自分の部屋が散らかっていて、母親に「自分の部屋ぐらいきちんと掃除をしなさいよ」と言われたら、あなたならどうしますか。「わかった。すぐ掃除します」といえますか。それとも「自分の部屋なんだから、ほっといてくれ」と言って反発しますか。小さい頃から母親に厳しく躾をされてきた場合は、 「母親の言いなりになることはイヤだ」という感情が真っ先に出てくるのではないでしょうか。母親との関係が対立関係にあると、最初から母親の意見には素直に耳を傾けることができません。常に絶対に母親の言いなりなどにはならないという信念のようなものを持っており、最初から歩み寄るという気持ちがないのです。人間関係が対立していると、それは反発の言葉だけではなく、顔色、目つき、身体症状として現れてきます。その反応を見て、母親も態度を硬化させるのです。このようにして対立関係は泥沼化してくるのです。そして注意や意識が気になる相手の態度にばかり向けられるようになって、目の前のなすべき事に向かわなくなるのです。イライラするようになり、そのストレスから抜け出るために、相手と接触をすることを避けるようになります。人間関係は煩わしいものであり、苦痛以外の何物でもなく、人間関係が希薄な仕事を選択するようになります。母親との人間関係で問題を抱えている人は、夫婦の人間関係、子どもとの人間関係、学校や職場での人間関係でも問題を抱えている人ではないでしょうか。こういう人は、森田療法理論の「純な心」の学習をして、人間関係の中で生かしていく必要があります。「純な心」では、相手の言動に対して腹が立つというのは本当に「初一念」ですかと聞いてきます。腹が立つ前に、別の感情は沸いてきませんでしたか、と聞いてきます。母親に掃除しなさいと言われれば、よほどの対立関係でなければ、最初に少しは部屋の状態に注意がむきます。「そう言われれば、散らかっているな。それで最近イライラして落ち着かなかったのかな」などと気づき、部屋の中を状況を客観的に観察できるようになります。この感情が大事なのです。しかし、人間関係がいつも対立関係にあると、そんな感情はすぐに吹っ飛んでしまいます。そして、 「絶対に親の言いなりになんかはならないぞ」と身構えてしまいます。森田で言う「初二念」「初三念」で敏感に反応して、すぐに対立的な言動をとってしまいます。ますます相手との関係が気まずくなって、人間関係の修復は難しくなってしまうのです。「確かに部屋が散らかっていると精神的にイライラする。でも今は素直にお母さんの言われることに従うという気にならない。お母さんの言った事は、貴重なアドバイスとして受け取るわ。でも掃除するかしないかは私に任せてほしいの」と言うことができればどうでしょうか。母親から「そう、私はあなたの部屋を見て、イライラしてその不快な感情をあなたにぶつけていたのかもしれない。言い過ぎていたらごめんなさい」という返答が返ってくれば、言い争いにはならないでしょう。反対に、 「何を子供みたいなこと言ってるの。どうして親の言うことにいちいち反発するの」などと言われるかもしれません。「お母さんの言っていることは分かるわ。でも指示されるとやる気がしなくなるのよ。私に任せておいてほしいのよ」とお母さんの心配する気持ちを受け止めたうえで、自分の気持ちを前面に打ち出すようにすることが肝心なのではないでしょうか。このような対応を森田理論は教えてくれているのです。
2019.01.05
コメント(0)
2019.01.04
コメント(0)
夫婦、子供、両親、ごく親しい友達などの付き合いの中で、相手を批判的、否定的に見ている事はないでしょうか。例えば、クレジットカードの暗証番号を忘れた人を見て馬鹿なやつだ。カラオケで歌の下手な人を見て、どうしようもない人だ。パソコンが扱えないなんて、時代遅れの人だ。仕事でミスをした人を見て、どうしてこんなに簡単な作業で人に迷惑をかけるのだ。実力も能力もないのに、よくのうのうとと会社にいられるものだ。車の運転免許を持ってない人を見て、今時クルマの運転ができないなんて信じられない。出てきた料理を見て、よくこんな不味い料理を平気で出せるものだ。専業主婦なら、毎日きちんと掃除をするのが当たり前だろ。こんな簡単な問題ができないなんて、お前はバカか。何一つスポーツができないなんて魅力がない。などなど例をあげればきりがありません。これは、いつも上から下目線で他人を批判的、否定的に眺めているのです。相手を否定的に眺めていると、相手にはストレスが溜まり、それを払拭するために反撃をしてきます。絶えず相手と自分の間に溝が存在しますので、いつも人間関係は戦闘モードになっています。目の前の仕事や勉強よりは、相手との戦いに勝つことに注意や意識が向いていきます。そうなりますと、人間関係は煩わしいことばかりで、絶えず神経がイライラし殺気立ってしまいます。これに対して、相手の弱みや欠点、ミスや失敗などについてはそのままにして、相手の存在そのもの、相手の強みや長所、成果や成功などに目を向けて好意的、肯定的に見ることができる人がいます。その人達も相手の弱みや欠点、ミスや失敗などは気にはなっているのです。しかし、あからさまにすぐに否定の言葉を口に出す事を控えているのです。ある人は、相手の言動に我慢ができなくなった時は、手のひらに「人」と言う字を書いて飲み込むようにしていると言いました。相手を否定することから生まれるのは、ギクシャクした人間関係と孤立した自分です。そんな事は誰も望んでいないのに、相手を否定的に見て、それを口にすることで簡単に実現してしまいます。相手の言動に腹が立つという事は、日常生活の中では頻繁に起こり得ることです。ですから、腹が立つことを抑圧することはできません。腹が立つ時は腹立たしいままにしておくしか方法はありません。ただし行動には意志の自由がありますから、軽はずみな言動だけは控える必要があります。本来は相手を見るときには、否定的な目と肯定的な目の両方の目で相手を見る必要があります。そのバランスを意識する必要があります。相手の否定的な面ばかりが頭に浮かんだ場合は、すぐに原点回帰をする必要があります。相手の存在価値、相手の強みや長所、成果や成功などを思い出して、プラス面とマイナス面の両方で考えるようにするのです。自分の頭の中で相手のネガティブで批判的な目にばかりとらわれているときは、マイナス面の考え方ばかりに偏っていますので、この際マイナス面の考えは横に置いておきます。そして、相手の存在そのもの、相手の自分に対しての思いやり、強みや長所、成果や成功などのプラス面にばかりに目を向けていくのです。プラス面とマイナス面のバランスを取るということに意識を向けていくのです。このようにして、一呼吸を置くことができるようになれば、相手との人間関係がすぐに壊れてしまうということは避けることができます。心の中では否定的な感情でいっぱいになっても、時間の経過とともに人間関係は癒されてきます。自分の頭の中は、 7割から8割がた身近な人のことを、批判的、否定的に見て、口に出して相手を非難していると感じている人は是非とも取り組んでみる必要があります。好意的、肯定的にも見えるようになったとき、あなたの人間関係は大きく変化していることでしょう。
2019.01.04
コメント(0)
相手の言動に腹を立てて「無言電話」をかける人がいるそうだ。面と向かって自分の気持ちや意見を言うことができず、憎しみや恨みが頂点に達し、陰湿な嫌がらせをしている人だ。発散のやり方に問題があるのだが、本人はどうしてよいのか分からない。無言電話を受ける人は気味が悪い。電話の主はたいてい見当は付いているのだか、確たる証拠がない。無言電話が度重なるたびに、 「いったい誰なんだろうか。どこからかけているんだろうか。もしかしたら無言電話は終わらないんじゃないだろうか。もっとエスカレートして、外を歩いていて襲われたらどうしよう」などと妄想を膨らませて、その度に恐怖心を募らせてしまう。無言電話をかけている人は、 「最初は罪の意識があって、体が震えたが、繰り返していくうちに、そんな思いは消えてしまう」という。そして無言電話をするのにすっかり慣れてしまうと、玩具を手にするような感覚で、 「腹が立ったら電話をするという風に、相手を選ばず、気軽な気持ちで電話に手を伸ばしていくようになる」という。無言電話を受ける人の対応は次の5つのパターンに分かれる。「怒って対応する」 「冷静に答える」 「優しい言葉をかける」 「黙ってすぐ切る」 「怯える」無言電話をかけていいる人からすると、相手が怒って対応すると、すごく愉快になるという。次に相手が怯えるというのも、相手が怒る以上に愉快になるという。陰湿ないじめやイヤがらせに対して、受け手が怒りや恐怖で反応すると、無言電話をかける人はどんどんエスカレートしてくるという。「無言電話はやめてください」 「どなたですか」と強く言われると、相手が感情的になってイライラしていることが分かりとたんに嬉しくなる。しかし、相手が私をいぶかっていないことがわかると、やってもムダだと感じる。無言電話をかけてむなしくなるのは、何度電話をかけても相手が感情的に反応しない。自分の無言電話が相手に何の影響も与えていない。気にもかけていないんだと思うとむなしくなる。特に相手から幸せというか、満ち足りた日常感が伝わってくると、寂しくて辛くなる。電話をするたびに、自分の孤独感が感じられて無言電話はやめてしまうという。(もう、他人にふりまわされない 石原加受子 大和出版 133ページ参照)この本から分かる事は、相手の無言電話に対して、恐怖や怯えている態度を見せていると、相手の無言電話もどんどんエスカレートしてくるということである。それが相手の自分に対する精一杯の復讐なのだ。その復讐の効果があると判断すると、再び繰り返される。だから気味が悪くても、すぐに売り言葉に買い言葉の対応をしてはならないのだ。ではどうすればよいのか。こんな時はすぐに自分に立ち返ることが大切であると思う。自分にどんな感情が湧き上がってきたのか。どんな気持ちになったのか。自分はどうしたいのか。自分はどうしようとしているのか。相手に反発する前に、自分の素直な感情や気持ちを思い出すことだ。自分は最初無言電話受けて、何だろうこれは。間違い電話なのかな。「どなたですか」と聞いても何も答えない。気味が悪いなと思った。そのうち無言電話だと思った。だいたい相手はだれだか想像がつくけれども、正確に相手が誰なのか知りたい。もしその相手が自分に対して不平不満があるなら聞いてみたい。そして自分の気持ちも伝えたい。できれば双方の溝を埋めたい。そのためには、例えば「君は僕に何か言いたいことがあるのだろう。一回会いませんか」と提案してみる。そのような対応ができれば、感情的になって相手に怒りを爆発させたたり、怯えまくるということはなくなるのではなかろうか。相手も自分に対して、言いたいことを我慢しているうちに、憎しみが恨みに変わり、精神交互作用でなかなかマイナス感情を手放せなくなり、とうとう陰湿な無言電話に手を出すようになったのです。そういう対応がとれれば、自分だけではなく、相手も救うことになるのです。
2019.01.03
コメント(0)
親や会社の上司などが「かくあるべし」を振りかざして自分のことをバカにしてきたらどうすればよいのか。その言動に対して、 「なめられてはならない」 「この腹立たしい気持ちを取り去りたい」という態度で対応しようとすると、相手と言い争いになる。我慢すると憎しみがどんどんエスカレートして、恨みに変わってしまう。相手の理不尽な言動に対して、相手といがみ合う方法は、決して良い結果をうまない。こういう時は森田理論の「純な心」を応用したいものだ。親や会社の上司に注意や意識を向けて、腹を立てて反発しようとする気持ちがわき起こってきたら、すぐに初一念思い出すことだ。初一念に引き続いて、初二念、初三念が湧き起こってくるのですが、こういう時は初一念に立ち戻るという癖をつけていくのです。この能力を身につけたいものです。 1番最初自分にどんな感じがわき起こってきたのだろうか。自分はその感情に対してどういう気持ちになったのか。その感情を受けてどうすればよいのか。どうしたいのか。その気持ちを相手にどう伝えたらよいのか。つまり売り言葉に買い言葉で相手と対応するのではなく、 1番最初に感じた初一念から出発するのである。それは五感・身体を通じて湧き起こってきた感情であり、一切夾雑物が入り込んでいない素直な感情なのである。この感情を、「私メッセージ」を使って相手に伝えていくのだ。例えば会社の上司で、仕事上のミスをして叱られたとする。「バカかお前は。こんな初歩的なミスをして。能力がないのならさっさと辞めろ」まさかこんなことをあからさまに言うような上司はめったにいないかもしれません。例えばの話です。こんな時後先考えないと、すぐに破れかぶれで反発するか我慢します。そして会社にいられなくなるかストレスが溜まり精神障害を引き起こします。そんな時森田の「純な心」で対応するのです。私「ミスをしたことは謝ります。申し訳ありません。でもバカだ、無能力者だと言われて、私はとても傷つきました。」上司「なにを子供みたいなこと言っているんだ。そんなこと言うからバカだって言われるんだ」私「そのような人格否定をされると、私は恐ろしくて何も言うことができなくなります」上司「恐ろしいだと。俺のどこが恐ろしいんだ。俺は正当なこと言ってるつもりだ。本当にお前は馬鹿なやつだ」私「そんな風に言われるとますます嫌いになってしまいます」上司「それはお前が会社のお荷物になるようなことをしたのだから当然のことだろう。反省して、おとなしくしておれ」私「課長はそういう気持ちなんですか。私はあなたには失望しました。お話する気力もありません。残念です。失礼します」これは言い訳をしたり、相手にこびて服従しようとしているのではありません。私は上司の言動が恐ろしくて仕方がありませんという「初一念」の気持ちを伝えようとしているのです。あくまで自分の素直な感情を伝えようとしているのです。森田でいう「純な心」です。そうすると、上司は最後の言葉で返す言葉を失ってしまいます。気が抜けたような気持ちになります。この上司と話をしても時間の無駄だと部下は判断しているのか。もうこれ以上自分と話をしたくないという事は、自分にはついていけないと思っているのか。それが噂をよんで、他の同僚や私の上司に知れ渡ったらまずい。自分には部下を育て、組織をまとめあげる能力がないとみなされるのはイヤだ。自分の言葉は、天に唾するようなもので、最終的には自分に降りかかってくる。自分の最初に湧き起こってきた感情を思い出して、そこに焦点をあてて自分の気持ちを口に出していくと最悪の事態に至らず、しかもストレスをため込むことがありません。そんな対応ができないから苦しんでいるのだという反発があるかもしれません。すぐに自分の初一念や気持ちを上司に向かって伝えることはできません。理屈が分かったからといっても、そのような行動がとれるのは別問題です。まずはその方向が神経症に陥らず、自分を救う道なのだということをしっかりと理解することが大切だと思います。
2019.01.02
コメント(0)
読者のみなさん、新年あけましておめでとうございます。決意も新たに、新しい年を迎えられたのではないでしょうか。昨年で平成の時代は幕を閉じ、新たな元号がスタートいたします。皆様にとりまして、今年一年素晴らしい年となりますように祈念いたします。さて昨年1年間は大変お世話になりました。たくさんの励ましの言葉を頂き、何とかほぼ毎日投稿することができました。昨年は約37万人の方にアクセスいただき、またブログを始めて6年目で100万人アクセスを達成することができましたことは望外の喜びでした。今年は10年目標の7年目に突入します。7年目は、神経症克服のためのヒントのみならず、森田療法理論を基礎に置きながら、人間の生き方の問題、人間関係の問題、心や身体の健康の問題、環境問題、子育て・教育の問題、政治・社会の問題など幅広く取り上げてゆきたいと考えています。瀬戸内海だけで泳いでいた魚がいよいよ太平洋に出ていくような感覚です。ホップ・ステップ・ジャンプといったところを目指してゆきたいと考えています。それだけ森田療法理論は、奥が深く包容力があるように感じています。また私生活では、森田療法理論を存分に活かした生活が定着してきました。生活の中で森田理論を活用することがとても楽しいのです。折に触れて、森田理論を応用した、私の生活ぶりを公開していきたいと思っています。どうか、これからの1年間、宜しくお願い致します。
2019.01.01
コメント(0)
全33件 (33件中 1-33件目)
1