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野村克也さんと妻の沙知代さんは40年連れ添ったおしどり夫婦といわれている。なりそめは、野村さんが1972年に離婚訴訟中だったころ、沙知代さんと出会った。当時の沙知代さんには夫がいた。それで略奪婚などとバッシングを受けた。沙知代さんはマスコミの前でも言いたいことをいい、世間をあっと言わせる行動をとる人だった。野村さんが南海の監督だったころは、球場に出入りして、監督夫人として振る舞うようになった。そのあまりの横暴さに、オーナーは野村氏に「監督をとるか、女房をとるか」と迫ったという。野村氏は「女房をとります。仕事はいくらでもあるが沙知代は一人しかいない」と言ったそうだ。そして監督を解任されている。1996年に沙知代さんは衆議院選挙に出馬している。1999年には沙知代さんのメディア出演が続き「サッチー・ミッチー」騒動を引き起こしている。2001年には沙知代さんは、脱税事件で有罪判決を受けている。2009年には「女房よ」というシングルをリリースしている。沙知代さんが作詞を担当して、野村氏が歌手として歌っている。歌詞を見ると、「誰もいない この世のどこにも お前を超える人は」とある。沙知代さんは自己愛性人格障害者ではないかと思える内容である。それだけ沙知代さんは、あらゆることに自信満々だったのだろう。これだけの世間を騒がす問題行動が重なると、普通は離婚するのではないかと思う。ところが、野村さんは、不祥事を起こすたびに妻を許し、かばい続けていた。それが何とも不思議です。一切批判や否定をしないのですから。完全に妻を信頼して、どんな不祥事を起こしても妻の肩を持っているのですから。森田でいう事実をあるがままに認める。素直に受け入れるということです。そしてどんな不祥事を起こしても、自分が妻を護りきって見せるという太っ腹な性格なのです。これが自分を信頼し、選手を信頼して、成長させた原動力になっていたのでしょう。二人でテレビに出たときも、沙知代さんが言いたい放題のことを言う。時には夫の失敗なども持ちだす。性格も問題にする。野村氏は、その横で発言を控えて、苦虫をつぶしたような苦笑いをしている。監督としては言いたい放題、やりたい放題なのに妻の前では借りてきた猫だ。これは完全にかかあ天下の家庭だなと思っていた。脱税で有罪判決を受けたときは、「妻の問題で監督を2度もクビになっているのは、世界中を探しても私ぐらいだろう」と言いつつ、「老後の蓄えを思って始めたこと」と沙知代さんの行動を咎めることはしなかった。全幅の信頼を置いていたということだろうか。野村さんは妻のことを「ド―ベルマン」と評していた。その意味するところは「外では一見凶暴に見えるが、家では主人に従順」ということだそうだ。事実沙知代さんは家庭の問題はきちんとこなして、野村さんが野球に専念できる環境を整えてくれていたそうだ。それだけに沙知代さんが亡くなられたときは、無精髭を生やして痛々しかった。その後2年間で急速に衰えが目立つようになっていった。私は夫婦といえども不即不離を念頭に置いている。基本的にはそれぞれが好き勝手なことをしている。助け合う場面があればできるだけのことはする。発見会活動で出歩くことが多いが、苦情を言われたことはない。今では私も不十分ながら妻の話はできるだけよく聞くようには心掛けている。昔は「かくあるべし」を押し付けてばかりで、申し訳なかったと思っている。後悔で穴があったら隠れたいような気持になることがある。妻は趣味や飲み会、会合に出かけることが多いが、私も快く送り出している。お互い言いたいことを言いあうので、波風はよく立つが、別れるといった話になったことはない。料理、洗濯、掃除をよくしてくれるので大いに助かっている。今考えると、これでよかったのではないかと思っている。
2020.03.21
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今日は森田理論の中で出てくる、「平等観と差別感」について考えてみました。森田では差別感については、「劣等感的差別感」などと言われます。この意味するところは、自分だけがことさら外界からの刺激に対して、特別に抵抗力が弱い。他人と異なって、自分だけが精神的、身体的に重大な欠点や弱点を持っている。このように絶えずネガティブ、悲観的に思考する傾向がある人のことを言います。他人の持っている長所や強みと、自分の短所や弱みを比較して劣等感に陥っているのです。本来なら、自分に短所や弱みがあるのなら、その反対に長所や強みもあるに違いない。自分の長所や強みを自覚して、それを活かすことを考える必要があるのです。差別感というのは、自分と相手を比較して、その違いに着目して、自分なりの価値判断をしているのです。たとえば、人間は誰でも耳や目は2つ、鼻や口は一つあります。ところがその形状は十人十色です。その違いに着目して、美人、イケメン、ブス、三枚目などと勝手に価値判断をしてランク付けをしているのです。問題なのは、その判断は自分独自のものではなく、普遍性を持っていると勘違いしていることです。それを基にして、自分にも他人にも修正を求めてくるのです。整形美容、過度なダイエット、アデランスなどをして自分をごまかし、普通の人間を装おうようになるのです。差別感を前面に押し出している人は、隠す、ごまかす、否定する名人です。これに対して平等観を身に着けている人は、人間は誰でも苦しいときは苦しい。楽しいときは楽しい。人間は誰でも耳や目は2つ、鼻や口は一つあります。基本的には、体つきや考え方は同じようなものだと思っているのです。ところが詳細に観察してみると、考え方、思想、性格、容姿、能力、生育環境などは2つとして同じものはありません。その違いが存在していることを、あたりまえのことだと思っているのです。その違いを自分の価値判断に合わせてやろうなどと大それたことは考えていません。それを認めて受け入れないと何も始まらないと思っています。人間同士はもともと考え方が違うので、まず相手の考え方をよく聞く必要がある。そして自分と相手の考え方の違いを白日のもとにさらけ出す。その後話し合いを行ってその溝を調整していくしかない。つまり他人の存在、考え方、性格、容姿などを尊重しているのです。互いに自分の意見をぶっつけて言い争いにはなりますが、その底にはなんとか和解したいという気持ちが働いています。ストレスを二人の力で解消しようとしているのです。差別感を身に着けている人は、自分の考え方を相手に押し付けようとしているのですから、最初から信頼関係などはありません。殺し合いの喧嘩になることもあります。相手を自分の思い通りに手なずけてしまおうとしているのですから、お互いが傷つけ合うようになるのです。森田理論ではお互いの違いをあるがままに認めて、そこを出発点にして生活していきましょうという考え方なのです。
2020.03.19
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玉野井幹雄さんのお話です。人は誰でも、自分自身に対するように人にも対するものです。ですから、自分自身を大事にするのと同じ程度に、他人を大事にすることができるということになります。逆に言うと、自分自身を大事にすることのできない人は、他人を大事にすることができないということです。同じことですが、ありのままの自分を受け入れることができない人は、他人を受け入れることができないものです。また、自分の欠点を許すことができる人は、他人の欠点を許すことができますし、自分の欠点を許すことのできない人は、他人の欠点を許すことができないものです。ですから、人間関係をよくするためには、まず自分自身の中の折り合いをつけることが先決だということができます。つまり、自分の中が「現実の自分」と「それを批判している自分」に分かれて争っている状態の和解を図ることが先決だということです。「現実の自分を受け入れる」ようになれば、無駄な抵抗をしなくなりますから悩みも少なくなり、孤立感からも解放され、人間関係もよくなるのであります。(いかにして悩みを解決するか 玉野井幹雄 自費出版 160ページより引用)自分で自分を嫌ったり、否定するということはあり得ないように思えますが実際にはあります。本来一枚岩になって、目の前に迫ってくる危険、問題点、課題に対して対応しなければいけないのに、仲間同士で骨肉の争いをしているようなものです。戦争で目の前の相手と闘わなければいけないときに、自分の後から味方となるはずの身内が、「あとずさりするな」と自分に向かって鉄砲を放って脅しているようなものです。精神状態が不安定になり、本来のやるべきことには手がつかなくなります。自分のなかで対立している二人が仲良くなるにはどうしたらよいでしょうか。森田で勧めているのは、批判している自分が現実の自分に寄り添うようになればよいといっているのです。現実の自分が批判している自分に寄り添うようになると神経症になります。精神的な葛藤と苦しみでのたうち回るようになります。これが森田理論でいう「かくあるべし」を少なくして、事実、現実、現状を素直に受け入れて、そこを出発点として生活していくということなのです。事実、現実、現状を素直に受け入れるとは、自分の容姿、神経質性格、自分の病気、体力。能力、経済状態、家族、会社、学校、社会、境遇、環境、生まれた地域や国、時期などを価値批判しないで素直に認めてしまうということです。受けいれて服従していくことです。一体になれば闘う必要がありません。エネルギーの無駄遣いもなくなります。どんなにか精神的に楽になります。そうなれば、目の前に迫ってくる危険、問題点、課題に対して心置きなく対応できるようになります。夢や希望に向かって歩みだすことができます。そのための方法は、森田理論が詳しく教えてくれています。このブログでも数多く取り上げています。興味のある方は、「事実本位・物事本位」のカテゴリーの中から、学習してみてください。きっとご自分に合った方法論が見つかると思います。
2020.03.11
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「怒らない技術2」(嶋津良智 フォレスト出版)という本の中に次のように書かれています。人間は放っておくとすぐに人のあら探しをします。他人の短所にばかり目が向きます。「あの人はこの欠点を直すべき」ということにはいくらでも気がつきますが、「ここがすばらしい」ということは、なかなか見えてこないものです。痛いところをついていると思います。私自身を振り返ってみるとその傾向が強い。これが身についてしまっているのです。それで何度人間関係で問題を起こしてきたことか。反省してもしきれません。今日はこの問題について、深耕してみたいと思います。こうなる理由は2つあると思います。まず、人間には生存欲求、自己保存欲求があります。自分を護り、できるだけ延命を図りたいという欲求です。危険は回避したい。健康で長生きしたい。十分な食料を確保したい。などです。このような欲望は誰にもあります。なければ簡単に命を落とします。しかしこの欲求は抑制力を働かせて節度を守らないと、すぐに暴走してしまいます。他人を押しのけて、この欲望を満足させようとすると、争いが起こります。今の世の中は欲と欲のぶつかり合いで、国同士は脅しや戦争にまで突き進んでいます。人間は放っておくと、自己中心的になります。利他よりも利己主義に陥ってしまいます。そうなりますと、自己保身にばかりに意識や注意が向いて、他人の存在を思いやり、長所に気づくことはなくなってしまいます。するとぎすぎすした社会になってしまいます。人間はもともと、排他的で頑固な自己中心性を身につけた生き物であることを自覚して、制御する知恵を身につける必要があると思います。2番目の理由として、人間は成長するにつれて、親や家族、学校、社会から様々なことを学びます。そしてそれぞれの人が、それぞれのものの見方、考え方を身につけていきます。人それぞれ独自の物差しを持つようになるのです。観念的な価値観、主義、主張、生活信条、信念、行動パターンと言ったものです。森田では分かりやすく「かくあるべし」と言っています。よい言葉でいえば、アイデンティティの確立などと言います。この物差しを使って価値評価をし、次の行動を選択して生活しているのです。ここで注意したいことは、人それぞれこの物差しは違うということです。10人いれば10通りの物差しが存在するということです。ところが、自分の物差しにこだわり、普遍性のあるものだと勘違いしている人が多いのです。すると自分の物差しを相手に一方的に押し付けてしまうということが起きるのです。冷静になって考えれば、そんなことはあり得ない。元々人間同士は分かり合えない存在なのです。だから話し合って分かり合う努力をする必要があります。現実は譲ることもあれば、譲られることもある。絶えず妥協点を見つけて、話し合って、折合う点を見つける態度が欠かせません。「かくあるべし」を前面に押し出すと、人間関係がぎくしゃくしてとても生きずらい社会になります。いつも自分だけのことに過度にとらわれていては、他人の存在、長所、強みには全く気付かない。反対に欠点、弱点、ミス、失敗をことさら拡張して相手を追いこんでいくのです。人間関係は悪化の一途をたどります。他人が敵のように思えて自己防衛にエネルギーを投入せざるを得ないようになります。森田理論を深耕してその弊害に陥らないようにしたいものです。
2020.03.03
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私はカラオケが好きだ。その中に「浪花恋しぐれ」という歌がある。歌詞に若干の違和感がありました。春団治という落語家は、芸のために女房を泣かす。酒もあおるし、女も泣かす。多分博打もやるのだろう。それらはすべて優れた芸人になるため必要な投資だという。つまり金を湯水のように使い、本能のままに生活しているような人だ。それを正当化してやまない。これに応えて奥さんが次のように言う。そばに私がついていなければ何もできない人やから泣きはしません、つらくとも。あんたが日本一の落語家になるためやったら、うちはどんな苦労にも耐えてみせます。このようなことは外国では考えられないことだ。なにしろ、俺についてこいと我が道を進んでいると、奥さんはすぐに回れ右をしてしまうという。男性がそんな気持ちで生きていると、奥さんはさっさと荷物をまとめて出ていってしまう。これは日本人の理想の夫婦愛を唄った曲のように思える。春団治は日本一の落語家になるという大きな夢を持っている。その夢を実現するために、奥さんはどんな苦労にも耐えて、夫を支えていくと決意を持っている。男性にとっては、どんなことをしても奥さんがしりぬぐいをしてくれるので、たまらないだろう。奥さんはさぞかし大変な思いをして生活されているのかと思いきや、旦那を支えていくことが生きがいになっているという。このような人間関係は問題はないのだろうか。見方を変えると共依存の関係である。春団治は本能のままに生活して、問題を起こしても、「それがどうした、文句があるか」と開き直っている。どんな問題を起こしても、奥さんが解決してくれる。しかし奥さんがいなくなれば、何もできない。ここが問題だ。完全に頼り切って、わがままのし放題なので、もう一人では生きていけなくなっている。過保護で育てられた子供が、自立して生きていく力を身につけることなく、親の財産を当てにして生きているようなものだ。経済的にも精神的にも親に支配されているような状態だ。奥さんがかいがいしく世話をすればするほど、春団治は依存体質から抜けられなくなる。大きな夢を持っているとはいえ、精神的に不安定になることはないのだろうか。自分で何もできないということは、自信喪失、無力感、自己嫌悪、自己否定に陥ることはないだろうか。少なくとも自己肯定感は生まれてこない。こういう人が日本一の噺家になれるとは到底思えない。春団治は有名な噺家になったそうだが、きわめて稀なケースであろう。神経質性格なら、むしろ神経症に陥る可能性が高い。人間は生まれ落ちると、親に全面的に依存している。しかしいずれ依存体質から抜け出して、自立して生きていくことを宿命づけられた生き物ではなかろうか。大人になっても依存体質が抜けられないことは大きな問題だ。奥さんは旦那の世話をやくことが、生きがいになっている。もし春団治がいなくなれば、自分の生きがいもなくなってしまう。生きがいや課題や夢や希望がないことほど寂しい人生はない。むしろ春団治が自分でしでかした不始末は、自分で解決しなさいと突き放すことが必要だったのではないか。金魚の糞みたいにいつまでもくっついていてはうっとうしい。私をたよりにしないで、自分の力で日常生活を維持してください。その時に私が役に立つときは極力協力させてもらいます。今後何から何まで世話をやきずぎることは、差し控えさせていただきます。そして私は私なりに日常生活、課題や問題点、趣味、夢や目標に向かって挑戦していきます。これからは、つきず離れずの人間関係でいきます。そのような夫婦関係に戻していくことが大切なのではなかろうか。実は樹木希林さんはこのような夫婦関係を保っておられましたね。
2020.02.27
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1月号の生活の発見誌に私がいつもお世話になっている臨床心理士さんの投稿があった。とても役に立つ記事なので要旨を紹介したい。今から800年前、山口県の壇ノ浦で、源義経は平家一門を完全に攻め滅ぼしてしまいました。平家一門を完全に討つだけではなく、幼少の安徳天皇まで殺害しました。普通でしたら、源一門はめでたしめでたしというところですが、実際には兄弟による骨肉の争いが起きました。義経は兄の頼朝との覇権争いに巻き込まれたのです。頼朝にとっては、平家一門滅亡の瞬間から、義経は必要な人材ではなくなったどころか、むしろ朝廷の権力者と繋がり、自分を脅かす邪魔な存在となってしまったのです。覇権争いに敗れた義経は、奥州の方まで逃げ延びざるを得なくなりました。どうしてそのようなことが起きたのか。平家一門を討つという共通の目的があるうちは、兄弟が一致団結して行動することができました。その目的を完全に達成してしまうと、目的を見失ったのです。そして、今度は兄弟同士で誰が権力者になるのかという目的にすり替わってしまったのです。昨日までの仲のよかった兄弟は、今日の敵となったのです。仲のよい兄弟といえども、骨肉の醜い争いをするようになるのです。戦いにおいて、勝ち過ぎは災いの元です。敵を完全完璧に叩き潰してしまうと、その瞬間から別の災いが起こってきます。敵を完璧に崩壊などせず、むしろ弱った敵に塩を送るくらいの度量、度胸、戦略性があったほうが何事もうまく収まるものです。と臨床心理士さんは指摘されています。不安、恐怖、違和感、不快感への対応も同じことが言えます。森田理論学習では、それらは欲望が存在するから発生したものです。私たちは人間は欲望をなくすることができないわけですから、不都合だからといって、それらを排除することはできません。欲望が大きければ大きいほど、それらも欲望に比例して大きくなるという特徴があります。それらは、注射針を刺されるように心に痛みを与えますが、欲望が暴走しないように制御機能を果たしています。大切な役割を果たしています。だから進化の過程で、淘汰されなかったのです。欲望は不安などを活用して、調整する必要があるのです。神経症に陥ると、ことさら不安などに意識や注意を向けて、霧散霧消しようと格闘しています。それらを完全になくしてしまおうと考えることは、水車小屋に飛び込んでいったドンキホーテのようなピエロを演じているのです。完全に方向性を見誤っているのです。森田理論学習をしていないと、全くそのからくりは見えてこないでしょう。不安への対応は2つに分かれます。将来に明るい展望が見えるものと他人に役に立つ不安は、不安解消のために立ち向かうことです。放置していると、自分や他人に災いが及びます。それ以外の不安は、不安の役割を踏まえて、それを持ちこたえたまま、本来の欲望をしっかりと見据えて、欲望の達成にエネルギーを投入することなのです。神経症的な不安というのは主にこちらの方に入ります。そのバランスがとれていれば、欲望が暴走して、自分や他人、他国に惨禍を撒き散らかすことはなくなるのです。不安を完全に取り除くという努力は、百害あって一利なしと心得ておきましょう。
2020.02.20
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樹木希林さんは、道路にごみが落ちていたらすぐに拾う。ヒッチハイクをしている人がいたらすぐに乗せる。困っている人がいたら、自分がどんなに急いでいても、「どうしたの」と聞く。何かに出くわしたときに、よく考えもしないで、とっさに自分のできることをやってしまう。娘の也哉子さんからしてみると心配で仕方がない。それがすごく嫌だった。だって怖いでしょ。ヒッチハイクでも、見ず知らずのおじさんを平気で乗せちゃうんですよ。近所で兄弟が大げんかをしていると、窓から覗いていた母はすぐに現場に行く。そして、樹木希林さんは、殴っているお兄ちゃんを後ろから抱きしめて、「そうだね。分かるよ。あんたの気持ちはよく分かるよ。つらかったんだね」などと言う。普通、けんかの仲裁は、「何やってるんですか」とか、「やめなさい」とかいうじゃないですか。でも、樹木希林さんは、殴っているほうを抱きしめた。見ず知らずのおばさんが突然現れて、「あなたの怒りは私の中にもある」と言われたら、けんかなんかできなくなってしまう。現に2人とも、きょとんとしてけんかを止めてしまいました。也哉子さんは、母が亡くなって、おせっかいな存在がいなくなってしまうと、母がしていたことは人間が生きていく中で、大切にしなければいけないことだったのかもしれないと思うようになりました。(この世を生き切り醍醐味 樹木希林 朝日新書 参照)そういうところは森田先生とそっくりだった。形外先生言行録の小熊虎之助氏のエピソードを紹介しよう。私の妻は、私の宅に先生が土産に持ってこられた桃の皮をむくに、ナイフを使っているのを認められて、早速先生のお叱りを受けた。水蜜桃は指先でむくべきものである。先生は他家へお客に来ておられても、叱るのに遠慮がなかった。先生の言行には、いつも遠慮のない子供らしさがあった。子どものような無邪気さがあった。子どものようにごまかしがなかった。だから私の妻は、先生に叱られてもかえって笑っていた。これは先生の人徳の一つであろう。樹木希林さんも森田先生も、ともすると反発を買うような言動の連続であった。しかし、事実は反対である。多くの人を引き付けてやまないのである。これは人柄という面もあるだろう。私が感じるのは、「かくあるべし」押し付けているのではなく、人情から出発されているからである。たとえば、賭博をやっていた父親を子供が警察に訴えたという話しが紹介されている。その子は、「悪事を憎む」という教えを忠実に守っている素晴らしい子供かと思いきや、森田先生はいくら父親が問題行動をしていても、子供は親をかばうのが当たり前である。その子は低能か意思薄弱児だといわれている。人情から出発しなればならないといわれているのだ。この2つは紙一重のところがあり、まかり間違えば総スカンを食らう。その人になりきり、何とかしたい、役に立ちたいという執念のようなものが必要なのだと思う。相手は圧倒的な包容力に度肝を抜かして、たちまちファンになってしまうのだろう。価値評価や自己顕示欲があるとすぐに正体がばれてしまうのである。
2020.02.14
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樹木希林さんがでていたCMに、「お正月を写そう」というのがありました。当初のセリフは、「美しい人はより美しく、美しくない人も美しく写ります」だったそうだ。樹木希林さんは、「それはおかしくないですか。どうして美しくない人が美しく写のですか」と聞いたそうです。「写真を修正でもするのですか」と。そして「そうでない人はそれなりに写ります」に変更を申し入れたそうです。「それなりに」という言葉は、相手を思いやる気持ちのはいった言葉だそうです。最初は担当者が渋ったそうですが、最終的には樹木希林さんの意見が採用されたそうです。それが思いもかけない有名なCMになったとのことです。樹木希林さんは、ドラマや映画でも、台本のセリフに違和感をもつと、セリフの修正の提案を積極的にしていたそうです。監督の演技指導についても、自分の意見を述べていたそうです。他の俳優さんは、監督の言うことに、「はい、分かりました」と素直だったそうです。娘の也哉子さんによると、友達を家に連れてくると、母は平気で友達を叱る人だったそうだ。だから、友達を連れてきたりすると、友達が叱られるのではないかとヒヤヒヤしていました。もう、それは容赦ないですから。こういうところは森田先生とそっくりですね。樹木希林さんはその弊害をよく分かっておられたのだと思います。自分の考えや主張を素直に口に出すという信条は、時として対手と摩擦を引き起こす。ところかまわず自分の言いたいことを言う変なおばさん。人間関係がぎくしゃくしてくる。だから対策を立てておく必要がある。それが森田理論でいうところの、「不即不離」だと感じるのです。一旦自分の思ったことを口にするけれども、その後は深追いをしないでさっと引く。相手がその後どういう結論を出そうが、それに対して自分は関知しない。いつまでもひっつきすぎてはまずい。だから引っ付いてはすぐに距離をおく。「私はこうしたほうがよいと思うけど、あとは自分で考えなさいよ」と突き放す。夫の内田裕也さんとは、45年間ずっと別居をしていた。一つ屋根の下で暮らしたのは3ヵ月ぐらいだったという。この夫婦は一緒にいると何かにつけて対立する。内田さんも自己主張が強い人で、しかも自由奔放に生きている人だった。そういう夫婦が一つ屋根の下で暮らしていくことは大変なことですよ。いつも言い合いをする。殴り合いの喧嘩ですよ。それも前歯が折れるような喧嘩です。普通はこういう対立的な人間関係になるとすぐに離婚してしまうでしょう。実際に内田さんが勝手に離婚届を出したことがあった。樹木希林さんもやれやれとほっとされるかと思いきや、離婚訴訟に持ち込んだ。そして離婚を破棄させてしまった。人間が二人いれば、意見の相違は必ず生じます。それが人間の人間たるゆえんだと思います。それがなくなれば支配と服従の人間関係になってしまう。その人間が何とか折り合いをつけて生きていこうとすれば、「不即不離」を身につけておけばよい。合わせる場面では、二人で協調歩調をとる。刺激を与えあう。大いに助け合う。二人で大いに楽しむ。いがみ合うときは、その人とは距離を置く。遠巻きに眺めておく。でも全く無関心では困る。自由放任でもまずい。アンテナを張って情報収集だけは怠らないようにする。これが森田理論が教えてくれている究極の人間関係なのだ。樹木希林さんは、ベタベタ、ピッタリの人間関係は、自由が束縛されて窮屈じゃありませんか。それを目指している人は何か魂胆があるのですよ。「そういうやり方ではうまくいきませんよ」と教えてくれているような気がします。
2020.02.11
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先日の集談会で対人恐怖症はどういう風に治ったのですかという質問を受けた。「治らずして治った」と答えた。その理由を説明してみたい。私は子供のころ父親が私のやることなすことを否定して育てていたので、他人は恐ろしいものだという強迫観念が出来上がってしまった。人の輪の中にいることは苦痛以外の何物でもなかった。一人で好きなことをして過ごすとほうが精神的に楽だった。しかし反面、他人から大きなことをして評価されたいという欲望は相当強いものがあった。こういう状態で社会の荒波の中に入っていった。当然適応不安が強かったのです。自己防衛中心の生活は、針の筵に座っているようで、死んでしまいたいほど苦しかったのです。社会に出て15年ぐらいしてやっと森田理論に出合いました。1年間は、森田理論の学習と集談会の先輩が教えてくれたことに真剣に取り組みました。実践課題や気もついたことをメモして丁寧に取り組んだのです。成果は1年ぐらいですぐに出てきました。会社の中での雑仕事の取り組みで、上司や同僚から評価されることが多くなってきました。賞与の支給や昇進に反映されました。仕事に対する自信が自分を支えていました。生活面においても活動的になり、森田のおかげて大きく改善できました。ただこの時点では、人が恐ろしいという対人恐怖症は手付かずでした。依然として人前ではビクビクハラハラして精神的には苦痛だったのです。それは驚くことに、少なからず定年退職まで続きました。今思えば小さいときに植え付けられた対人恐怖症は、死ぬまで治らないのではないかと思っています。では治ってはいないのではないかという質問が聞こえてくるようです。それでも私は対人恐怖症は治ったと宣言したいのです。それは人間関係に振り回されて疲れ果てるということがなくなった。また、すぐに人間関係を避けて逃げ回るということもなくなった。とても気になるが、生活面への悪影響がほとんどなくなったことを持って治ったと言っているのです。それよりも人と付き合う楽しみもたくさん経験できた。私のやり方は対人関係を絶って孤立することではありません。むしろ薄くて幅広い人間関係作りを増やしていくやり方です。森田学習で分かったことは、人間関係はすべての人と親密な人間関係を築く必要はないということがよく分かりました。特に仕事や学校以外の人間関係が希薄であるというのは大変危険です。普通の人間関係は、必要に応じて必要なだけの付き合いで構わないのだということで楽になりました。森田でいう不即不離の人間関係を心がけたのです。仕事だけの人間関係だけではなく、家族、親戚、友達、集談会関係、趣味、一人一芸を目指している仲間、園芸や家庭菜園の仲間、カラオケ仲間、飲み仲間、麻雀仲間、プロ野球の応援仲間、町内会、資格試験を目指す仲間、同級生、ボランティア仲間など頻繁ではないが幅広い付き合いを心がけました。どれも薄くて広い人間関係です。利害関係がからむのは仕事関係の付き合いだけです。その時、その場で付き合う人がどんどん変わっていくイメージです。その結果、利害関係の大きい仕事関係ではつらいことが多かったのですが、それ以外の分野では楽しい付き合いができました。時には苦しいときに相談に乗ってもらったり、助けてもらいました。適材適所の人間関係を築いてきたのです。精神的には集談会の仲間に助けてもらいました。仕事の人間関係で苦しくてとらわれても、比較的早く気持ちを切り替えることができたのです。そんな感じでなんとか定年まで苦手な対人関係で大崩れしなかったのかもしれません。会社ではあたらずさわらずの、のらりくらりの人間関係でした。対人恐怖症の人は、すっきりと治したいと思っておられるかもしれません。私の経験ではそれは無理なのではないかと思います。芯のようなものは最後まで残ると思います。そこをなんとかしたいと格闘することは、神経症が治るどころか益々増悪するばかりとなります。交際範囲を広げることを心がけて生活することで、特定の人に振り回されることなく、人生を全うする道もあるということを森田で学んでほしいと思います。気になる人はあたらずさわらず、最低限の付き合いで済ませることが大事です。これが私の治らずして治ったということの中身です。すっきりとは治らないが、この程度しか治りようがないと感じています。
2019.12.27
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幼児が服のボタンがけを一人で出来るようになったとき、「すごいね」「えらいね」などとほめることがあります。着替えが一人できちんとできるようになったときも「すごいね」「えらいね」という言葉が出てしまいます。靴を一人ではけるようになったときも、「すごいね」「えらいね」などと言うことがあります。これに対して、子供はたいして「すごいこと」だと思っていないそうです。それではどう思っているのか。今までできなかったことが、何回も挑戦して、「やっとできた」「これだけ練習したのだからできてあたりまえ」「そんなすごくはない」と思っているそうです。ほっとしているというところでしょうか。子供の気持ちとしては、親に褒められることよりも、その事実を、認めてもらいたいという気持ちが強いのだそうです。子供が「お母さん、見て、できた」といったとき、その気持ちに応えるとすれば、「できでよかったね」「そうだね。できたね」と共感してあげるだけでよいのです。逆にいつもほめまくることを習慣にしていると、ほめられることを目的として行動するような子供になってしまいます。ほめられないことには取り組まないという気持ちが強く働いてくるのです。必要に応じて、必要なだけ行動するという目的からそれてしまうのです。私たちも集談会などで森田理論を生活に活かしている人などの話を聞いて、「すごいね」「えらいね」と反射的に反応してしまうことがあります。私も以前はこの言葉を使っていました。相手に怪訝な顔をされたことも何度かありました。ある人から厳しく注意されました。その言葉は、先生が生徒に向かって使う言葉ですよ。あなたは集談会では先生なのですか。集談会には先生はいないはずですよ。あるいは、相手のことをほめてあげなければということにとらわれすぎているのではないですか。生活の発見会の活動指針の中に、「会員は相互に平等である」と唱っているではありませんか。私たちの自助組織は、たとえ大臣をされている人がきても、ここではみんな平等なはずですよ。先生が入りこんでいると、森田の相互学習は成り立ちませんよ。形骸化してしまいます。できれば、上から下目線的な発言は控えたほうがよいと思いますよ。私はそんな気持ちはなかったのに、第三者からそのように見られていたということにショックでした。言葉の端々に上から下目線の態度が露骨に出ていたのでしょう。ではどうすればいいのですかと聞いてみました。共感の気持ちをもって接するようにすればよいと思います。そして事実をそのまま口にすればどうでしょうと言われました。例えば「森田を生活の中で活用できるようになってよかったですね」「森田的な生活になっていますね。私も見習いたいです」「森田理論学習がすごく深まっていますね」などなど相手の状態を認めて、そのままの事実を言葉にすればよいのです。その際価値評価は必要ありません。相手の考え方や行動を価値判断してオーバーに褒めるということは、「かくあるべし」を相手に押し付けることにつながるのかもしれません。
2019.12.07
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あなたは普段の生活の中で、家族、仕事仲間、友人、自助グループなどで、不平、不満を感じて愚痴や悪口をいうことはありませんか。例えば、・当然やるべきことに手をつけない。・本来やるべきことに気がつかない。鈍感すぎる。・やることなすこと、全く真剣味が感じられない。・自分が取り組んでいるいることを手伝おうとしない。・進んで協力しようという態度が感じられない。などなど。これらは私がよく感じていることです。本来はみんなでやるべきことなのに、どうして手伝おうとしてくれないのか。これでは自分だけが貧乏くじを引いてしんどい思いをしているだけじゃないか。つい何気なく愚痴をつぶやいたり、相手の批判をしてしまう。今度は絶対にこのようなことは引き受けないで断ってしまおうと思ってしまう。これらは上から下目線で他人を見ているために、自分の頭で想定していることと現実の乖離が発生して自分一人がイライラしてストレスをため込んでいるのです。森田理論では、他人に自分の「かくあるべし」を押し付けないで、相手の現状を理解して受け入れなさい。そうすれば思想の矛盾で苦しむことはなくなりますよということになります。このからくりは、理屈は分かっているのですが、どうしても相手の立場を受けいれて、相手に寄り添うことができない。反発心だけが次から次へと出てくる。この対応方法が一つ見つかったので紹介したい。イライラする気持ちはどうすることもできないので、それは受け入れるしかない。でも愚痴や批判を口にすることをなるべく控えることは意識すればできる。自分の心の中で思うのは仕方がないとしても、他人の前では口にしないように心がける。次に自分が相手のために何か役に立つことはないかと考えてみる。相手を楽にしたり、楽しませることはないかと考えてみる。思いついたら、一つを選んですぐに行動に移す。例えば、配偶者が部屋の拭き掃除をほとんどしない。観葉植物の水やりをしてくれない。家庭菜園の畑に入るのに長靴に履き替えない。こんな時に相手に不満をぶちまければすぐに喧嘩になる。そこで、自分が相手に何かしてあげられることはないかと考えて実行するのだ。発想の転換ですね。こう考えることがポイントです。配偶者は食事の準備、洗濯と大忙しだ。せめて拭き掃除ぐらいは手伝ってあげよう。それで弾みがついて、掃除機をかける。整理整頓をするようにもなる。配偶者とは険悪になることなく、感謝されることもある。観葉植物の手入れは自分の趣味でやっていることだ。相手が水やりをしてくれないと不満をぶちまけるのはお門違いだ。自分で毎日水やりをして、手入れを楽しめばよい事だ。不平不満を言わなくなるだけで、イライラはすぐになくなり、険悪な人間関係は避けられる。家庭菜園に外出用の靴で入ると靴が汚れるので、ホームセンターに行って畑仕事に適した靴を買ってあげる。お互いがwin winの関係になれる。グチや批判ばかりに集中するのではなく、相手に何か役立つことはないかと考えて見つける。そして即実行することで人間関係はまるっきり変わった方向に進むと思いますが如何でしょうか。
2019.12.06
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ジョン・グレイの著書「ベスト・パートナーになるために」(三笠書房)にこんな寓話があります。男性は火星人、女性は金星人でした。ある日、男性が望遠鏡を覗いていたら美しい女性の姿が目にとまります。彼は思い切って声をかけました。思いがけずデートに応じた彼女とその後もデートを繰り返すようになります。この頃、二人はお互いの考え方、感じ方に自分とは異なるものがあるのに気づきます。それはすぐには受け入れることのできないものですが、それでも二人は相手は異邦人なのだから、そんなことがあって当然、と許し合ことができました。やがて惑星空間でのデートにも飽き、そろそろ落ち着きたいと考えた男性は女性にプロポーズし、めでたく結婚して地球に新居を構えます。子供が生まれます。実はこの頃から二人のコミュニケーションはギクシャクし始めます。生まれた子供は地球人です。そして自分たちも地球人だと思い始めるようになりました。するとそれまで相手の考え方、感じ方に違和感があっても、相手は自分と違う異邦人だからと許せていたのに、同じ地球人なのになぜ同じように考えないのだろう、感じないのだろう、許せない、ということになるのです。始めは分からなくて当然と思っていて、分からないことを前提に逆にわかろうとする努力をしていたはずなのに・・・。(アドラー心理学入門 岸見一郎 ベスト新書 170ページより引用)人間は百人百様で、生育環境、性格、ものの考え方、欲望、経験、行動様式が違います。そういう人間が自分の気持ちや考え方を述べ合えば、一致しないのは容易に想像できます。そういう前提に立って、相手と付き合っているかというとはなはだ疑問です。最初から相手の話を聞くという謙虚な気持ちになりません。暴力に訴えてでも、自分の考え方に同調させたいと考えがちになります。相手は戦う相手であり、一旦その戦いに負けてしまえば、以後すべて相手の言いなりにならなければならないという恐怖心から来るものと思います。相手に思うがままにコントロールされることは、心身共に地獄の苦しみを味わうことにことになります。自由を奪われて、服従させられることはなんとしても避けたいという気持ちがとても強いのです。こうなりますと人間関係は対立的、防衛的、逃避的になります。本当は仲間として受け入れてもらいたい、他人から評価してもらいたいと渇望しているにもかかわらず、実際にはそれと反対のことをしているのです。これを解消するためには、相手とは生育環境、性格、ものの考え方、欲望、経験、行動様式が違うのが当たり前という前提に立って付き合うことが大切になります。その立場に立つことは、森田理論学習では「事実本位」の生活態度というのです。そういう立場に立つと、まず相手の気持ちや意見、考え方をよく聞くようになります。そして自分の気持ちや考え方との違いをはっきりさせて、その間に横たわる溝を理解しようとします。ここが人間関係ではポイントとなります。その次には自分の気持ちや考え方を相手に説明することになります。その気持ちや考え方を抑圧してはなりません。そうすれば相手の言いなりになるばかりです。またそれらを相手に押し付けることでもありません。相手とのギャップを相手に分かってもらうことに力を入れることです。相手とあくまでも対等な人間関係作りを目指すことです。あとは双方による話し合いです。譲ったり譲られたいという駆け引きに持ち込むことです。貸しを作ったり、借りを作ったりする付き合いが普通の人間関係と心得ておくことです。これが、ストレスの少ない人間関係作りのコツとなります。
2019.11.27
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普段の生活でこんなケースはないでしょうか。朝、職場で親しい先輩とすれ違って挨拶をした時、相手の表情がいつもより硬かったり、冷たい態度をとられたと感じるようなことです。挨拶を返してくれない。あるいは、返してくれても、いつもと違ってそっけない態度をとった。そんな時、次のように考えてしまうことはないでしょうか。「私何か気にさわることをしただろうか。きっと何かあったんだ。そういえば、昨日先輩の意見に反論したけど、それを根に持って嫌がらせをしているに違いない」「先日仕事でミスや失敗した自分を許せないと思っているに違いない」「自分は間違いなく嫌われている。どうしよう」とすぐに不安になる。仕事には身が入らなくなり、相手の態度ばかりが頭の中を駆け巡る。相手にしてみれば、そのとき考え事をしていて気がつかなかった。他のことに気をとられていた。急いでいてそれどころではなかった。心配事があり、気分的に落ち込んでいた。こういうことだって十分にあり得ることです。普段からいがみ合っている先輩ならば、嫌がらせをされている可能性は大です。ところがそれが一過性の現象ならば、事実誤認の可能性がとても高いと思います。その割合は50%~80%ぐらいは十分にあり得ることでしょう。ところが、その事実を考慮することもなく、自分にとって不利でネガティブな事実をねつ造しているのです。そこから不安、恐怖、不快な感情が生まれて、次第に増悪しているのです。もし相手の本当の事実が分かっていたならば、イヤな感情は生まれてこなかったはずです。損な性格ですねといってしまえば、それまでのことですが、森田理論では事実にきちんと向き合っていない態度とみなします。こんな時、とっさに先輩に向かって、「今日何かありました?」「私何かとんでもないことをやらかしましたか?」と聞くことができれば、すぐに解決するような出来事です。でもそんなことをすぐいちいち先輩に聞くことなんかできませんよ。そう反発する人がいるかもしれません。そういう人は、せめて事の真相は分かりませんと白旗を上げることです。自分は事実確認をしておりません。また確かめようとも、分かろうともしていません。憶測、決めつけ、先入観の多くは間違っているので、今はこの件にはかかわりません。昼ごはんの時まで待ってから、それとなく先輩に聞いてみたいと思います。私は事実をねつ造する名人です。それで今までどんなに苦しんできたか。事実誤認で、不安に苦しむことほど情けないことはありません。だからこの件では、「まいりました」と白旗を上げて、一旦降参します。時と場所を変えたときに、改めて確認作業を行えばよいと考えるのです。今すぐにすっきりしたいと慌てふためくのは、事態をさらに悪化させます。
2019.11.19
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森田正馬と妻久亥は1924年(大正13年)協議離婚している。二人は高知でいう「いごっそう」と「はちきん」で夫婦喧嘩は絶えなかったようである。日記を見ると、「朝、久亥と論争し、後久亥が離縁せんと云い出すに至る。夕方に至り更に久亥の陳謝するありておさまる」と書いている。時には激しいこともあった。「久亥と争ひ怒に乗じて膳をひっくりかえす」という記述もある。まるでテレビドラマの寺内貫太郎一家を思わせる。二人は母親同士が姉妹のいとこであったから性格的にはよく似たところがあったのかもしれない。共に自分のいい分を表に出して、一歩も引くということはなかった。対等の立場で自己主張を繰り返した。正馬は久亥に英語を教えていたが、その教え方で、しばしば口論になった。習う時間よりも口論の時間が多かったと書いている。それでもこりずに、算術と日本外史なども教えている。その上、妻の久亥は夫に内緒で他人名義の口座を作って金を貯めて、無断で家を購入することもあった。また正馬の母亀との確執もあったようである。だから正馬夫婦が離婚に至ったのは自然の流れと見る人もいたのである。しかし実際は違っていた面も多かった。正馬はしばしば自宅に友人を呼んで酒盛りをすることがあったが、妻の久亥はいやな顔をしないで接待していたという。少ない家計費の中から、酒のつまみをつくり、酒が不足すれば1合ずつ買いに出たという。家計が火の車の妻がこのようなかいがいしい世話をするとは思えない。久亥はこの新婚当時が一番人生の中で楽しかったといっている。正馬は、久亥が音楽学校の入学試験を受けたときは、妻を気づかい、全く勉強する気にならなかったと書いている。つまりいろんな問題が起きれば起きるほど、それを糧にして益々夫婦の絆が強固になっているのである。我々のように小さな問題が起きると、益々無関心になっていくのとはえらい違いなのである。だが傍で表面だけ見ている人は、喧嘩の絶えない仲の悪い夫婦に見えたのであろう。離婚の真相としては、相続の問題が絡んでいたようである。久亥は二人姉妹の長女で、父親がなくなったとき、旧姓田村家の家督を相続することになった。そのためには正馬と離婚して田村家の戸主になる必要があったのだ。実際には離婚する気持ちはなかったのだが、経済上の理由から離婚したということだ。1924年というのは1919年に確立した神経症の特殊療法(のちの森田療法)が爛熟期を迎えて、多くの入院生を受けいれていた。その中で久亥の役割もとても大きな力となっていたのである。かくして、正馬・久亥夫婦は、1931年(昭和6年)再び入籍を果たしている。森田正馬・久亥は一つの夫婦の人間関係の在り方を教えてくれている。(森田療法の誕生 畑野文夫 三恵社参照)
2019.11.13
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森田正馬は、実に面倒見のよい人であった。群を抜いている。そのエピソードを紹介したい。1901年の暮れ、正馬と同郷の藤次という男が親に無断で正馬を頼って上京する。明治法律学校入学を目指しているというので家に同居させた。彼の生活のため書生の口を探してやるが見つからず、車夫になることに決まる。警察へ同行して車夫の鑑札を取得させる。正馬自身、中学生のとき親に無断で上京し辛苦をなめた経験がそうさせたのであろうか。まことに面倒見がよい。初日は正馬がまず客になる。日記に次のように書いている。「車夫の稽古にとて先づ余を載せて上野に遊び、帰途藤次は客を得て乗せて走り行きたり」その3日後、「夜、余はハッピを被り車夫の出で立ちにて藤次を乗せて上野に行き、後余は車を曳き藤次は後より従ひて客を求めたれども得ず。上野に藤次と共に牛飯を食ひ少しく酒を傾け更に出て客を求めたれども得ず。再び大学赤門辺より藤次を乗せ他の車夫に劣らず走りて藤次を驚かせたり」当時の超エリート、東京帝国大学の学生で車引きをした者がはたして他にいただろうか。親切心を超えた正馬の飾らない性格を見る思いがする。変人の奇行ともいえるが、正馬持ち前の瓢軽さと好奇心に藤次への思いやりが加わった振る舞いであろう。藤次は2か月足らずで下宿先をみつけて正馬の家を出ていくが、転居後も勉強の面倒を見ている。論理学、心理学などを教え、明治法律学校入学の目的を果たすよう藤次に援助を惜しまなかった。しかし、半年後には藤次が女をつくり身を持ち崩しているところを発見する。借金の返済を肩代わりして面倒を見るが立ち直る様子は見られず、やがて絶交するに至る。正馬にとって親切を尽くして裏切られる最初の体験となった。(森田療法の誕生 畑野文夫 三恵社 144ページより引用)
2019.11.12
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1964年、東京オリンピックで大松博文監督が率いる日本女子バレーチームが世界一になりました。彼の代名詞は「俺についてこい」です。ついてこれない人は、「もういい」仕方ないと見放されました。指導は監督やコーチの意向を前面に出したスパルタ教育です。いわゆる「しごき」です。我慢、忍耐、根性が求められ、言われた通りにしないと、鉄拳制裁もありました。このやり方は、日本では、野球やサッカーなどの競技の監督やコーチの指導方針として、長らく受け継がれてきた経緯があります。当時の日本は、近代国家の仲間入りを果たし、高度成長の入り口で国中が大きな期待にあふれていました。企業がより大きな成果を求め、すべての社員を叱咤激励したのと同じように、世界一を目指し、その夢の実現と力でチームを引っ張っていったに違いありません。「根性」や「忍耐」が美徳とされた時代です。こうした上位下達の教育や指導方法は、時代の要請でもあったのです。そうすれば、国民全体の生活水準が向上して、豊かな生活を享受できるという暗黙の了解がありました。実際にその通りになったのです。しかしその後時代は動きました。すべての人が中流意識を持つようになりました。生活物資が家に入りきれないぐらいにあふれ、飽食三昧の生活に変わっていきました。こうなると、現状に胡坐をかいて、誰も好き好んで苦労を背負うことはしなくなったのです。指導者が上でいくら叱咤激励してもついてこなくなったのです。指導者が先頭に立って、「おれについてこい」と言っても、しばらくして後を振り返ってみると誰もついてこないという状況が生まれたのです。なにしろ、無気力、無関心、さぼりたい、楽したいという気持ちが強いのでどうにもなりません。つまり現在大松氏のような指導は死語になっているのです。今は高橋尚子さんや有森裕子さんを育てた小出義雄さんの指導が脚光を浴びるようになりました。小出氏は選手に夢を持つことの大切さ、走ることの楽しさを教えることで、苦しい練習に耐えうる精神を養っています。小出氏は「どうしたらそんなに強くなれるのかと聞かれるけれども、別に特別なことをしているわけやないんです。少なくとも怒ったり、怒鳴ったりすることは一度もありません」と答えている。これは小出氏の心の中に次のような信念があるのだと思います。「人は誰でも潜在能力を備えた存在であり、できる存在である」「人は誰でも問題や課題を解決し、夢や希望を実現したいと思っている」人間の存在、現状、問題や課題をそのままに認めて、生の欲望を見つけ出して、刺激を与え続ける。そして意欲ややる気、情熱にあふれた人間に生まれ変わらせる。私は集談会の中でそういう役割を果たすことができたら、素晴らしいなと考えています。あの人にはオーラがある。あの人のコーチを受けたい。そういう援助ができるようになると集談会はどんどん変わっていくだろうと思います。(コーチングの技術 菅原裕子 講談社現代新書 参照 一部引用)
2019.10.31
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ほとんどのスポーツにはコーチがついています。野球、テニス、陸上、サッカーなどを見ているとコーチが選手に寄り添って指導しています。ではコーチはどんな指導をしているのか。あるいはどんなコーチが優れたコーチと云われているのか。とても興味があります。コーチングとは、ある人間が最大限の成績を上げるために、その人の潜在能力を開放することを云うそうです。これを具体的に説明してみましょう。私たち一人一人は、まるで一粒種のようなものです。種の中には、発芽、成長、開花、結実のすべての可能性がプログラムされています。たった一粒の種から、何年もかけて大木へと育ち、そのプロセスで多くの実を生み出す驚異の能力を秘めています。ただし、大木へと育つためには、そのための環境が必要です。種がどんなに可能性を秘めていても、水が一滴もない砂漠のような環境では発芽することができません。まったく光が当たらないところでは、発芽しても大きく育つことは無理でしょう。可能性を秘めたすべての人間には、能力を開花させ、結実に至らせる「環境」が必要なのです。その環境を整えて提供するのがコーチの仕事です。コーチの仕事をする人は、前提として次のような認識を持っているかどうかが肝心です。次の2つの考え方を持っていないと、信頼され、成果を上げられるコーチにはなれないそうです。1、相手は「素晴らしい能力を有する存在である」と認めることです。2、人はだれでもよりよく生きること、よりよい仕事をすることを望んでいる存在であると認めることです。(コーチングの技術 菅原裕子 講談社現代新書 29ページより要旨引用)2は誰でも向上発展したいという欲望を持っているということです。森田でいう「生の欲望」のことです。これはすぐに納得できると思います。勘違いしやすいのは1です。今日はこの問題に絞って考えてみたいと思います。相手はこのスポーツには向いていないのではないか。ほかに能力を発揮できるスポーツや仕事があるのではないか。相手に情熱や意欲が感じられないと、相手には能力がないと見放してしまうのです。それでも指導するということになると、その人の気持ちを無視して、叱責し、スパルタ指導に陥ってしまいます。指導者の思い通りに選手をコントロールしようとしてしまうのです。選手は指導者の言動に振り回されて、続けることが苦痛になってきます。私たちは人間として生まれてきただけでも様々な可能性を秘めています。私たち人間は、もともと優れた能力を持っています。今は理想型からみると、不十分であっても、訓練、練習、学習、努力によって大きく花開く可能性を秘めているのです。そのことを十分に認識して選手に寄り添っているかどうかが、優れたコーチとダメなコーチの分岐点です。優れたコーチは、相手の練習、態度、普段の言動や生活ぶりを注意して観察するようになります。その結果、相手の優れた点や問題点もとても詳しく分かっています。そしてその人に合わせた指導の引き出しをいくつも持っています。でも、相手が求めない限りは安易な指導はしません。じっと寄り添いながら観察を続けています。相手が窮地に陥ってどうしても援助を必要とした時には、真っ先に飛んでいって初めて指導を行います。相手の現状を踏まえて、的確な指導をします。指導というよりも、ヒントを与えるといったほうがよいかもしれません。相手が少しでも興味や関心を持てるように刺激を与える。夢や目標が持てるように一緒に考えてみる。それに答えて、相手も気づき、工夫を思いついて、ますます熱中するようになります。これが菅原さんの言われる「環境」を整えてあげるということではないでしょうか。こういう気持ちを持っているコーチは、安易に相手を批判、叱責、否定することはなくなると思います。私たちも、目の前の問題点や課題に対して投げやりな人を見て、「この人はダメな人だ」とレッテルを貼ってしまうことがあります。相手のことを早々と見限っているのですね。そのうち、いつの間にか相手の存在や人間性までも否定してしまっています。すると相手も敏感にそれを察知して、お互いの人間関係はどんどん悪化してきます。これは森田でいえば、先入観と決めつけで、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けていることになるのです。こんなことがあると、一生涯相手のことを恨むかもしれませんね。森田理論を学習した人は、相手が苦しんでいるときに、決して相手を見捨てないで、寄り添ってあげられる人間になりたいものです。そういう包容力を身に着けたいものです。相手がもがき苦しんでいるとき、今は彼や彼女は波の底にいるのだ。落ち込んだ波は、そのうち必ず持ち上がってくるはずだ。それを信じて、黙ってじっと待ってあげる。いつまでも寄り添ってあげる。森田理論学習にコーチングを活用するとするとこういうことになるのではないでしょうか。私の経験では、自分が神経症のどん底であえいでいた時に、親身になって話を聞いてくれた人のことは決して忘れません。側にいて見守っていてくれたことで救われたのです。温かくて居心地のよい包容力のようなものに救われたのです。いつまでも見捨てないで見守っていてくれてありがとうという気持ちです。苦しいときは、そういう人の存在がとてもありがたいのです。今度は私がその役割を果たすべき時が来ているのだと思っています。
2019.10.25
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あなたは他人が簡単なミスや失敗をした時に、「こんなところで間違うなんて、ありえないでしょう」という言葉を聞いたことはありませんか。しかし考えてみれば、「ありえない」と思われている事故や災害は毎日のように発生しています。交通事故、あおり運転、大雨による土砂災害、浸水被害、オレオレ詐欺などです。自分の身の周りでは滅多に起きないけれども、新聞やテレビなどでは日常茶飯事のことです。毎日「ありえない」と思っていることが、実際には現実として目の前で起きているということです。この事実をどう理解したらよいのでしょうか。対人関係でこの言葉を使う心理について考えてみましょう。「そんなことはありえないでしょう」という言葉は相手を否定している言葉ですね。しかもミスや失敗を批判する以上に、相手の人格否定をしている言葉です。暗に「あなたが存在していること自体がありえないことだ」というように。そこから生まれるものは憎しみあいでしかありません。もっと言えば、絶対に間違ってはいけない。間違うはずがない。自分たちに迷惑をかけるようなミスや失敗は絶対に見逃すことはできない。徹底的に責任を追及させてもらいますよという態度です。自分の頭で考えたとき、「もしかしたら起こりうるかもしれない」という選択肢は全く存在していなかったということです。こういう人は、自分が「ありえない」ミスや失敗をした時、いいわけをする。ごまかす。隠そうとする。責任を放棄して逃げる。反対の立場に置かれると借りてきた猫のように見る影もない行動をとる。それは自分が叱責、非難、否定、軽蔑、無視、拒否されることに耐えられなくなるからです。だから「ありえない」という言葉を使う人は、人間関係も悪化し、さらに自己否定にも陥ってしまうのです。これは森田理論でいえば「かくあるべし」で、自分の考えや理想を相手や自分に押し付けている態度ですね。「かくあるべし」は理想と現実のギャップで葛藤や苦悩を作りだしてしまいます。ギャップを解消して完全・完璧を押し付けたり、理想通りにしようとすると神経症に陥ってしまうのです。どんな理不尽なことでも、「もしかしたらありえるかもしれない」と柔軟に考える態度を養成していくことは大切です。事実を素直な態度で認めて、受け入れなれるようになると、精神的には楽に生きられるようになります。森田では事実本位の人生観を理解して、実践できるような人間になることを目指しています。なかなかそういう人を、すぐには思い浮かぶことは難しいですが、その方向で努力している人はたくさんおられます。そこが大切なところだと思います。
2019.10.17
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昨日の続きです。他人に合わせることばかりに注意が向いて、自分の素直な気持ちや意見を前面に押し出すことができなかった。それは自己中心的な行動をとっていると、仲間はずれにされてしまうという不安からきているものと思います。当然一人では生きていくことはできません。仲間とざっくばらんに付き合い、譲ったり譲られたりしながら、楽しい人間関係を作り上げたいものです。森田ではどんな人間関係をお勧めしているのか。一口に言うと「不即不離」の人間関係です。ついたり離れたりする人間関係です。人間は親しくなることを目的として付き合うのではなく、活動の場を通じて、ついたり離れたりしています。これが現実です。あの人は嫌いだ、いやだなと思っても必要ならば軽い挨拶をして、必要な話はしなければなりません。ただしそれ以上の親密な付き合いはする必要はありません。ここを間違えて深入りする人が多い。対人恐怖症の人は、嫌いな人でもなんとか好きになりたい。嫌いな人からも好感を得たい。そして、元々気の合う人や好感を持っている人より嫌いな人のことばかりに注意や意識が向いています。これはやり方が間違っているのです。元々気の合う人に益々好かれるように考えて行動するほうが得策です。嫌いな人はある程度の距離を置いてあたらずさわらず過度に刺激しないことです。あの人は好感が持てるという人は、磁石のプラスとマイナスがくっつき合うようにすぐに意気投合するでしょう。しかしこれもあまりにも親しくすることは考えものです。あの人がいないと生きていけないと思うようになると、お互いが共依存関係に陥って行動の自由が効かなくなります。コップ一杯の親しい人間関係を5個程度持ちたいと望む人が多いのですが、この考え方は問題です。こういう考え方をして付き合いをしていると、窮屈でしんどくなります。例えば自分の隠し事はなくして、自分のことはすべて相手に知っておいてもらいたい。反対に相手のことは1から10まで何でも知りたい。相手と自分は一心同体というような考え方です。これが目指すべき究極の人間関係だと信じて疑わない人です。すると相手のことを詮索したり、世話を焼きすぎてしまいます。新婚夫婦の一時期はこれでよいかもしれません。でも、いつまでも特定の人と親密な付き合いを継続しずぎることは大変危険です。仮にそうするとどんなことが起きるか。ちょっとしたことをきっかけにして、相手を許すことができなくなる。相手を自分の思い通りに自由にコントロールしたいという気持ちが強くなってくるのです。そこからほころびが拡がって、ついには顔も見たくないような犬猿の仲になる場合があります。境界性人格障害の様相を呈してきます。昔はあんなに親しく付き合っていたのに、今は考えただけで不快な気持ちになる。私の周りにも、そういう人がいます。何かにつけて相手の悪評ばかり話す人です。でも昔は人もうらやむような人間関係を築いていたのです。一方、コップに1割程度しか飲み物が入っていないような人間関係をできるだけ多く持ちたいと思っている人もいます。職場でも昼間はあんなに喧々諤々言い争っていたのに、仕事が終わると連れ立って赤ちょうちんに行くような人です。あるいはいつも口喧嘩ばかりしていた男女がどうしたことか結婚することになった。この人たちはあまりにも親密な人間関係ではなかったのだと思います。自分の意見や気持ちはしっかりという。相手が違う意見を持っていれば当然言い合いになる。2人の人間が集まれば、元々違う考え方をしているのが当然だ。それを素直に相手にぶっつけて、譲ったり譲られたりするのが普通の人間関係だ。そういう人は相手の気持ちや意見には反対しても、相手の人格まで否定しているわけではありません。今は犬猿の仲のように見えるが、ちょっと時間と距離おくとまた元通りの付き合いを始めることができるのです。意気投合できる部分ではある程度の付き合いはする。そりが合わない部分はそっとしておく。それよりはその他大勢の人の中から自分に合う人をを見つけて付き合うほうがよほど楽しい。そういう人間関係を10人、20人、30人・・・と増やしていったらどうなると思われますか。一人の友人との付き合いは浅いかもしれません。しかし人間関係の全体で見たときはとても中身の濃い人間関係を構築しているということになります。私は以前年賀状を500人に出すという挑戦をしたことがありますが、それだけの知り合いを作るという考え方はよかったのではないかと思っています。そういう考えだと、時と場合に応じて、適切に付き合う人が変化していくということになります。人間関係のストレスは随分少なくなりますし、たとえストレスを感じても早く流すことができるようになります。
2019.10.12
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昨日に続いて、「共感的な応答」について考えてみたい。人間の場合は、「応答的な対応」だけでは心もとない。「応答的な対応」をレベルアップした、「共感的な応答」が欠かせない。「共感的応答」とは、その子の気持ちをくみ取った反応をすることである。例えば、悲しいと感じた子供には、「悔しかったんだね。でも頑張ったね」とその気持ちを受けとめる必要がある。まだ自分の気持ちをうまく言葉にできないその子の気持ちを的確に受け取る。そして言葉にして、慰めや励ましを与えることで、子供は自分の気持ちを分かってもらえたと感じ、安心感を覚える。ところが、子供の気持ちがうまくくみ取れない親が少なからずいる。そのなかでも何の反応もしないというのは最悪だ。また反応しても、見当はずれなことを言われれば、子供としては、不充足感や違和感を覚える。その気持ちの悪い違和感を抱えたまま、ズレたコミュニケションの中で育っていくケースも珍しくない。そうした子供は、自分の気持ちを分かってもらうという経験をしないままに育つことになる。やがて、人に対して自分の気持ちを分かってもらうことを期待しなくなっていく。こうした人にとって、他者とのかかわりは、絶えず違和感やズレが伴うものであるから、あまり心地よいものではない。そのうち心地よくないものは避けるようになる。人との交わりが、面倒くさいと感じる人は、自分の気持ちを分かってもらうような、心地よい体験を他人からあまり与えてもらえなかったのだ。その源は、親といった重要な養育者から、気持ちを受けとめてもらう体験をあまりもらえなかったことに遡れるだろう。(生きるのが面倒くさいひと 岡田尊司 朝日新書 117ページより引用)これは私の場合ぴったりと当てはまる。大人になると、基本的には人は信頼できなくなる。いつ何時、危害を加えられたり、罵詈雑言を浴びることになるかもしれないと身構えるようになる。絶えず対人関係でピリピリして自分を防衛しているようなものだ。大半のエネルギーを自己防衛のために投入するので大変疲れる。まだ、人を避けて、一人で過ごすことが精神的に楽だと思うようになる。悪循環が繰り返されるようになる。でも食べ行くために、仕事をしなければならない。職場の人間関係は、針のむしろに座らされているような状態となる。それは、露骨に利害関係が絡むので、ずけずけと土足で自分の心の中に人が入り込んで、暴れまわるように感じるからである。そういう人はもう救いがないのであろうか。私の場合は、集談会の仲間がいた。中にはとっつきにくい人もいたが、ほとんどの人は自分の悩みに対して、共感的態度を示してくれた。また苦しいときに、辛抱強く話を聞いてくれた。相談にものってくれた。集談会だけではなく、支部や全国のイベントなどに参加していると、人脈は全国へと拡がっていった。実際に相談しなくても、いざとなったらそういう人が相談に乗ってくれる。力になってくれるはずだという信念のようなものが、自分を強力に支えてくれる。私にはそれ以外に「一人一芸」の活動、趣味活動、資格試験の挑戦で出合った仲間たちもいた。仕事の人間関係はとてもつらかったが、それらの仲間たちとの付き合いで、なんとかしのいでこれたのだ。自分は人との接触を避けて、一人で生きていくのだ。ほっといてくれと思っている人がいるかもしれない。でも、それは本音ではないと思う。できれば、和気あいあいと冗談を言い合い、人と温かいふれあいや付き合いを求めているのが普通の人間だと思う。ぜひ集談会の人間関係、趣味を通じた人間関係を大事にしてほしい。そういう人間関係があれば、職場の人間関係で苦しくても、なんとか生きていくことができる。
2019.09.26
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岡田尊司さんによると、生まれて間もない赤ちゃん、乳幼児にお母さんがどのように接したかによって、その後のその人の人生は大きく変わってくるという。特に大切なのは、「応答的な反応」「共感的な応答」だといわれている。「応答的な反応」というのは、スキンシップや抱っこと並んでとても重要だといわれる。「応答的な反応」とは、子供が泣けば、すかさず注意を向けて、何か異変が起きていなてか、何を欲しがっているかと、対応することである。子供が笑えば笑い返し、気持ちや関心を共有することである。逆に、「応答的でない反応」とは、求めているのに無視する。求めてもいないのに、親の都合で押し付けることである。ミルク一つを与えるのでも、時間が来たのでそろそろ与えなければというのは、この応答性を無視したやり方である。赤ちゃんが、おなかが空いたと泣いたときだけに与えるというのが、子供の主体性を尊重した、応答的な方法だといえる。こうした些細な違いが、決定的な違いを生んでいく。求めていないものが、いつも周囲の都合で与えられるということと、欲しいと思ったときに必要なものが必要なだけ与えられるのでは、まったく違う体験になってしまうのだ。求められたら与えてくれる存在に対して、子供は安心感を持ち、安定した愛着を形成するようになる。求めても与えてくれなかったり、求めていないのに勝手に押し付けたりする存在に対して、子供は違和感や不安を持ち、心からの信頼を育めない。親のほうは、一生懸命世話しているつもりでも、子供は絶えず苦痛と違和感を強いられ、愛着は不安定なものとなる。(生きるのが面倒くさい人 岡田尊司 朝日新書 115ページより要旨引用)全く違うというよりは、依存的で自立心のない子供に成長していくのか、好奇心旺盛で活動的な子供に成長していくのか。その後の人生に大きな影響を与えてしまう。「応答的な対応」をするためには、子供のそばを長時間離れてはいけない。これはイスラエルのキブツの実験で、その弊害が証明されている。次に、赤ちゃんをよく観察しなければいけない。観察して、おなかが空いたのか、オシメを替えてほしいのか、抱っこしてほしいのか、近くにいてほしいのか見極めなければいけない。赤ちゃんの欲しいものを適切に見極めて、適度に焦点の合った応答をしていくことが親の役目となる。子どもがかわいいからと、ペットのように甘えさせるのは問題がある。「ダメ」「もたもたしないで早くしなさい」「お母さんの言うことがどうして聞けないの」などと子供に指示命令するやり方も問題がある。私はこの考え方は、森田理論学習の場にも応用できると思う。自分がいくら森田理論に精通していても、相手を無視して理論を説明していても何の効果もない。これでは相手に伝わらない。むしろ反発されることになる。アドバイスする人の自己満足で終わってしまう。まず相手のそばにいて、相手の話にじっくりと耳を傾ける。傾聴、受容、共感の態度が大切となる。そして、基本的には相手が質問してきた時に、質問内容にだけ答える。もがいて苦しんでいるときに、適切なアドバイスを行う。藁をもすがる窮地にいるとき、先の見通しが立たないときこそ、相手に響いてくるのである。「応答的な対応」は常に相手がよく見えているということだと思う。「応答的でない対応」とは、相手のことは眼中にはなく、自己満足の世界のことだ。「かくあるべし」を相手に押し付けることになり、両者の溝はどんどん開いていく。したがって人間関係はどんどん悪化していくことになる。明日は「共感的応答」について投稿したい。
2019.09.25
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今日はネガティブな信念について考えてみたい。信念は分かりやすく言うと、自分が今までの経験の中でつかんだゆるぎない考え方のことである。こだわった考え方、凝り固まった考え方のことである。無意識の部分に居座っている。これが自分の人生に大きな影響を与えているのである。例えば、対人恐怖症の人は、他人は自己中心的な人ばかりである。自分のことを否定、非難、拒否、無視、脅迫、抑圧するという信念を無意識の部分に強く持っている。ネガティブな多くの体験が言葉と結びついてネガティブな信念が形成される。次に同じような体験をすると、ネガティブな信念で考えて行動するようになる。反復繰り返しによって、益々ネガティブな信念は強化される。このネガティブな強い信念を持っている人は、大変つらい人生が待っている。基本的な人間関係としては、自己防御的、苦痛・危険回避の行動をとるようになる。相手は自分に危害を加えるかもしれないという気持ちで、対立関係になり身構えてしまう。精神的につらいので、人を避けて逃避的な生活に陥りやすい。また何か問題が生じると、自己弁護、言い訳、ごまかし、隠蔽、責任転嫁などが起こりやすい。そうしないと社会から排除されれてしまうという危機感が根底にあるのだ。そして、対人関係で激しい苦痛を感じるようになると、その苦痛を避けるために、視野の狭小化が起こる。すぐにパニックになり、ちょっとしたことが自分の人生全体をダメにしてしまうように感じるようになる。友達が場を盛り上げるような冗談も、冗談とは受け取ることができなくなる。物事を歪曲して、自分の不利になる情報だけを集めるようになる。客観的、中立的な見方や考え方はできなくなってしまう。これに対してポジティブな信念を持っている人はどうか。友達は自分の一番の財産だと思えるような人だ。自分一人で過ごすことよりも、他の人と一緒に行動することが断然楽しい。これからも、多くの人との付き合いの範囲を広げて、人生を楽しみたいと考えている。これは両親とのかかわり方が大きく影響している。両親が子供に対して、基本的には自由にやりたいことをやりたいだけやらせてくれた。叱るかわりに、子供の存在を認めて、褒めたり、励ましたりしてくれた。いつも、家族で行動していた。他の家族との交流も活発であった。他人に対して、防衛的に行動することがない。苦痛・危険回避行動をとる必要がない。こういう人は、基本的に他人を信頼して、好意的につきあっているのだ。でも世の中には、実際に自分に危害を加える人もいる。危険な人も相当数存在している。ネガティブな誘惑行為を押し付けてくる人もいる。ポジティブな信念を持つ人たちも、この人たちの存在はよく知っている。知ってはいても、そういう人とは、できるだけ接点を持たないようにしている。まとめてみると、基本的には他人は自分の人生を豊かに彩ってくれる貴重な存在である。だから、これからもより広く、より深く人間関係を膨らませていこうとしている。その一方で、自分に合わない人や危険な人に対しては、近づかないように注意している。この2つの行動が臨機応変にとれる人である。ネガティブな信念を持っている人は、そのような見方や考え方は全くできない。その結果、自分で自分を追い詰めてしまっているのである。一般的に一旦出来上がったネガティブな信念は、ポジティブな信念に取り換えることはできない。無意識の部分に頑固に張り付いてしまっているのである。そうすると、ネガティブな信念を持っている人は救いの道はないのか。そうではない。安心してほしい。ネガティブな信念は、なくすることはできないが、その信念を骨抜きにする方法があるのである。それを明日の投稿テーマとしたい。
2019.09.17
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森田理論の学習会で、卒業ならぬ「卒婚」ということを聞いた。夫婦が犬猿の仲になって、一切口を聞かない、別行動をしていることらしい。配偶者がいることがうっとうしくてたまらない。もちろん寝室も別。食事も別。洗濯も別。テレビもいっしょには見ない。外出も別。相手が何を考え、どんな人と付き合っているのか、どこに行っているのか全く無干渉である。尚、食事、洗濯、掃除など配偶者の世話になっている場合は、卒婚とは言わない。それは依存というのだそうだ。それでも一緒にいる意味があるという。まず年金が二人分ある。共益費などを除いたものを折半する。それから住む場所が確保できている。新たに家を借りると莫大お金がかかる。いわゆる親子二世帯住宅に住んでいるようなものだ。ときどき顔を合わせるが、基本的には生活は別々である。こういう人が知り合いの中にもおられるという。そういう目で他人を見ているので、見つかるのだろう。私は卒婚は知らないが、実際に離婚した夫婦は周囲に数えきれないくらいいる。こういう夫婦でも結婚するときは、この人から助け合いながら、子供を育て、生涯寄り添いながら生活できるはずだと思ったに違いない。おしどり夫婦を目指していたのである。どこでボタンの掛け違いが起きたのか。いつから歯車に潤滑油がいきわたらなくなったのだろうか。その手がかりとなるある一組の夫婦がいる。その夫婦は高齢のため朝から晩まで一日中一緒の行動をとっている。その夫婦と一緒にいると、四六時中口喧嘩をしていることに気づく。たとえば、主人が車を運転していると、奥さんが注意や指示を出す。「信号が黄色になった」「信号が青になったよ」「もたもたしないで早く動かしなさい」すると主人は、「そんなことは分かっている。黙っていてくれ。イライラする」とちょっとした口喧嘩が始まる。またこの夫婦は一緒に楽器をされているが、間違うとすぐに奥さんが指摘する。すると主人が向きになって反論する。なにかあると奥さんがすぐにチャチャを入れるのである。普通なら一緒にいることが嫌になると思う。横で見ていると、すぐに大きな喧嘩に発展しそうに思えるが、不思議なことに、瞬間湯沸かし器のようにパッと燃え上がって、しばらく経つとすぐに収まっている。私たちのようにいつまでも根に持たないのだ。これが不思議だ。この夫婦にとっては、ちょっとした口喧嘩は、単調な生活に適度な緊張感をもたらし、生活を活性化することに役立っているようだ。これがないと夫婦関係が弛緩状態に陥ってしまう。この奥さんは行動的でたくさんの習い事をし、女性同士の旅行にもよく出かけられる。ご主人はそれに対して、若い頃大変苦労かけた。今は好きなことをさせても罰は当たらないだろうと、きわめて寛容である。思うに、無意識の部分では相手に感謝し、相手を思いやる気持ちでいっぱいなのだろうと思う。相手の存在、やることなすことを尊重しているようだ。そして何かあると援助し助けようと思っている。それは海の表面ではいつも波が立っているが、海の中は波もなく穏やかなようなものだ。その夫は相手が自分の前で思わずオナラをした時に、笑って許せるようにならないと、夫婦は長続きしないだろうといわれる。その人も人前でよくオナラをされる。ひょっとしたらそれで相手の人間性を一瞬で見極めておられるのかもしれないと思うようになった。相手が大笑いで反応してくれれば、この人とは付き合っても大丈夫だと判断されているのではないか。人間性を見分けるすごい技術を身に着けておられるのに感服した。これは簡単なことだが、私は人前でオナラをすることは今だできない。
2019.09.12
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盲目のランナーと一緒に走る伴走者は、お互いに綱の端を握って一緒に走ります。この時コツがあるそうです。伴奏者は盲目のランナーより前に行ってもいけないし、後でもいけない。くっつきすぎてもいけないし、離れすぎてもいけない。二人の間に適度な距離をとって、同じペースで走る必要があります。引っ付きすぎず、離れすぎず適度な関係を維持している状態です。この関係は変に気を使うことがありません。安心感があるので走りに集中することができます。この関係は、森田理論でいう「不即不離」の人間関係だと思います。森田先生は次のようら説明されています。患者とともに4、5人で町を歩いていると、私は息切れがするので、きわめてノロノロと歩いているのに、患者はいつまでも、ピッタリ後ろからついてくる。私はじれったくて「いつまでも、僕のあとへついてくる人の気がしれない」といったら今度は私の方からすっかり離れてしまって5、6間の間隔をおいてソロリソロリと歩いている。私はまた私の付き添いの娘をやって「離れてしまうような気のきかないものは、なんとも仕様がない」と言わしてやった。患者はどうしてよいかまごついてしまう。私の話が始まる。犬を連れて散歩するとき、犬は主人のそばにばかりくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、またどこからともなく帰ってきて、主人の足元に絡みついてくる。これが犬の自然な心で、いわゆる不即不離の働きである。すなわち犬は退屈のために主人を離れるが決して離れてしまうしまうことはない。しかるに君たちは先生の先に追いこしてしまうと無礼になるという理屈にとらわれ、反対に離れてしまえばまったく寄り付かない。これは子供、夫婦、両親、上司と部下、友だちとの人間関係に応用できます。引っ付きすぎず離れずの人間関係を心がけることです。時と場合に応じて適度な関係性を維持する。それ以外の時は過度に引っ付きすぎないようにする。そうかといって全く離れるのではなく、遠巻きに見ている。またそんな時は自分の興味や関心のあることに取り組んでいる。これだと過保護、過干渉、放任による育児放棄、介護放棄に陥りません。また共依存で双方が泥沼の人間関係に陥ることを防止してくれます。自分も相手も束縛がないので自由が効き、見守ってくれるので安心感を持つことができるのです。
2019.07.25
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誰でも気の合わない人やイヤな人はいます。自分のことを批判、否定、拒否、無視、からかう、自在にコントロールしようとする人です。森田でいえば「かくあるべし」を押し付けている人です。こういう人と良好な人間関係を作る努力はしなければならないのでしょうか。「さしみ」の法則を理解して応用すればよいと思います。3、4、3の法則のことです。これは元々会社の中で仕事に積極的に取り組む人が3割ぐらいいる。積極的になったり消極的になったりする人が4割ぐらいいる。消極的で仕事に対する熱意がない人が3割ぐらいいるというものです。そこで、消極的な人を排除してしまえば、会社の業績が上がるはずだと思ってリストラする。これで万事うまくいくようですが、実際には残った人がまた3割、4割、3割に分かれてしまう。つまりいつまでも「さしみ」の法則は生き続けるというものです。これは人間関係の場合にも同じようなことが言える。3割の人は自分に好意的に接してくれる。4割の人はどちらでもない。残り3割の人は自分を、非難、否定、粗末に扱う。この割合が、2割、6割、2割という説もあります。この法則が言いたいことは、すべての人から好かれることはないということです。猛烈に支持してくれる人がいる場合は、その反対に猛烈に毛嫌いしている人が同じ割合で存在しているということです。「さしみ」の法則がどこまでもついて回るのです。この法則が分かっていれば、どう活かしていくかということになります。私は2つの会社に在籍しましたが、OB会のお誘いは基本的にお断りしています。会社では利害関係の対立で人間関係が悪かったのです。また自分は対人恐怖で自己中心的な面が強く、みんなに迷惑をかけることが多かったのです。そんな場で、昔を思い出して楽しめるとは到底思えません。ただ気の合う仲間とは、数名ですが今でも親しく個人的な付き合いをしています。その他多くの人とは現在生活上の付き合いはないわけですから、自分の気持ちを優先しているのです。またこのブログを7年間もやっていますと、批判的なコメントやプライベイトメールがときどきあります。これは、熱烈な読者がいる反面だと思っています。毎朝早くから投稿したとたんにアクセスしてくださる方がいます。その反対に何らかの不快感を持っている人も同じ数だけいるのでしょう。それは「さしみ」の法則が働いているからだと思います。臨床心理士さんにこの話をしましたら、「それはしかたないことなんです。無視していればよいのです」「仮に誤解を解こうとして対応していると、身が持たなくなりますよ。続かなくなります。」「あなたがやるべきことは、このブログがよいとも悪いとも思っていない人に対して、このブログのよさを分かってもらう努力をすることです。それだけの内容があるので支持しています」といわれました。私たちはすべての人に好かれたいという気持ちを持っています。この「さしみ」の法則は、そんなことは観念や理想の世界ならあり得るかもしれない。実際の泥臭い現実の世界ではなりえない。その中では、自分に好意を持ってくれている人とどちらでもない人と交流を深める。自分に批判的な人には距離をとって様子をみる。強いて近づかないようにする。会社などでは、定年退職、リストラ、転勤、移動、結婚、家庭の都合などでどんどん入れ替わっているのです。イヤな人との人間関係が永遠に続くかのように感じているのは、錯覚です。それなのに、そんな人に嫌われては会社に居場所がなくなるといってしまうとのたうち回っているのは、お門違いだと思います。必要最低限の付き合いだけにとどめておくことです。その分、家族との団欒、趣味、地域社会とのつながり、親しい友人との交流などを充実させたいものです。
2019.07.19
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森田理論に「努力即幸福」という言葉がある。日常茶飯事、勉強や仕事、課題や問題点、興味や関心のあるもの、夢や目標に向かって、努力精進しているその実践・行動そのものが幸福な状態であるということだ。生の欲望が発揮されている状態は、生きがいを感じて、その人は光輝いている。森田理論はその態度をお勧めしていると思います。そのプロセスを軽視して、是が非でも成功しなければならない。目標を達成することにとらわれていては、そのプロセスを楽しむことはできない。思想の矛盾に陥って葛藤や苦しみが出てくるのです。この言葉と並行してよくつかわれる「感謝即幸福」という言葉もある。今日はこの言葉に焦点を当ててみたい。長谷川洋三氏は、入院して2度の手術をした時にそのことを感じたそうです。手術後は無力です。のどがカラカラになっても水が飲めない。食事もできない。一人でトイレにも行けない。看護婦さんが親切にやってくれるわけです。その時、なんといいますか、救われた思いがするんですね。同時に有難いと思うのです。それから背中が痒くなります。そうすると熱いタオルで拭いてくれるのです。これが何ともいえないいい気持ちなんですね。「ありがとう」と心から看護師さんにお礼を言いました。そういう経験をすると、こういうことも幸せなんだと思いました。元気な時にはそんなことは全く思わないのですね。家内は三度三度の食事を作ってくれます。それが当たり前になってしまうと、感謝しませんね。手伝おうともしませんね。ところが、これは考えてみると大変なことですよ。家内にいつも「ありがとう」「美味しいね」と感謝したいですね。私たちは人様からいろいろな恩恵を常に受けているのですね。そういうことは当たり前のこととして、普段は考えもしないのではないかと思うのです。「感謝即幸福」を実践していくと、幸せは自分の身辺にいくらでも転がっていることがよく分かります。(あるがままに生き心豊かに老いる 長谷川洋三 ビジネス社より要旨引用)これを「かくあるべし」を自分や他人に押し付けて、葛藤や苦悩で苦しんでいる人は、生活の中に取り入れてみてはどうだろうか。日ごろから感謝探しをするのだ。病気の人を見ると自分が健康で毎日過ごせているのは感謝そのものです。人から困っていた時助けていただいた。それも感謝です。挨拶や温かい言葉をかけてもらった。これも感謝です。飲み会やカラオケに誘っていただいた。自分で作った余りものの野菜をいただいた。可憐な花がベランダいっぱいに咲いて自分と家族の目を楽しませてくれている。などなどきりがないほど「感謝」の元はいくらでもありますね。意識して自分の身の周りを見渡せば、感謝することばかりです。それをしっかりとキャッチして日記に書いていくのです。日記に書かないとすぐに忘却の彼方に飛んで行ってしまいます。そしていつものように、自己嫌悪、自己否定、他人否定の「かくあるべし」の世界に戻っていってしまいます。たとえ1つでも日記に書いていけば1年で365個になります。そのうちに「ありがとうね」「ありがとうございます」が口癖になります。すると不思議なことに、いつのまにか有難いと感謝する人間に変身することができるのです。それは、これを実践していると脳の無意識の部分に感謝探しが刷り込まれてしまうのです。これは「かくあるべし」を減らして、事実本位の生活態度を身につけるための一つの方法だと思います。この言葉を、自分にも相手にもできるだけ多く使うように心がけましょう。そうすると、自分から見ても、他人から見てもとても魅力のある人間になれると思いますよ。
2019.07.12
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自分の周りに、すごい資格を持って事務所を構えて、人がうらやむ人がいる。あるいは、名前の通った会社や役所に勤めている人もいる。しかし人望がないのか、周りの人が近づこうとしない。あるいは配偶者や子供が寄り付かなくなっている人もいる。こんな人間関係はできれば避けたいと思う。一度きりの人生、みんなと和気あいあいで楽しく交流していきたいものです。他人や家族から煙たがられて、敬遠されている人は次のような特徴があるという。(感性がもっと鋭くなる本 福島哲史 三笠書房 116ページから118ページょリ要旨引用)1、自分のためだけを考えて、保身に走る。2、やるべきことがあっても手を抜く、要領よく逃げる。3、隠しごとをする。4、他人を裏切る。5、自己顕示欲を出す、見栄をはる。6、すぐにあきらめる。7、他人の悪口をいう、けなす。8、いいわけをする。9、いうばかりで実行しない。10、その場逃れの弁解をする。これを見ると、森田理論学習をしている人はピンとくるのではなかろうか。他人を上から下目線で見下して、「かくあるべし」押し付けている人である。批判、説教、命令、指示、禁止、叱責、拒否、無視、抑圧している人です。前頭前野が高度に発達した人間は「かくあるべし」をなくすることはできないと思います。その流れで自分の考えと反対のことをしている人を見るとつい否定してしまうのだと思います。しかし否定するばかりでは人間関係は悪化するばかりです。もう一つ問題なのは、自分自身に対しても「かくあるべし」を押し付けて、葛藤や生きづらさを抱えているということです。最大の理解者であるべき自分が自分のことを否定しているのですから苦しいはずです。そういう人は、事実や現状を受け入れることができません。事実を認めて受け入れて、そこを起点にして行動するという気持ちが持てず、否定しているのです。言い訳ばかりをする、行動しないですぐに逃避する、隠しごとをする、事実をごまかすようなことになってしまうのです。他人との関係も自分自身との関係も負のスパイラルにはまっているのです。ここで反対に自分の周りに人だかりができている人を見てみましょう。1、自分は苦しくても、他人のために頑張る自己犠牲的な行動をとる。2、結果を問わず、一生懸命同じことを繰り返す、必死にやる。3、他の人の欲しいもの、知りたいことを苦労して手に入れ、笑って差し出す。4、他人のできないことをやる。5、難しいことにチャレンジする。6、時間をかけてやる。7、手間をかけてやる。8、言ったことを守り抜く。9、堂々とふるまう。正義感にあふれる。10、人を立てる。認める。こういう人はどんな理不尽な出来事が発生しても、事実を認めて受け入れることができる人だと思います。一旦事実を受け入れるとその状況を少しでも改善しようと立ち上がることができます。すぐに事実を否定して、自己嫌悪、他人批判を開始するのとえらい違いです。森田理論は事実に寄り添う態度を身につけて、精神的に安定した生き方を目指しているのだ思います。そういう覚悟を決めて、少しでも近づくために努力するようになれば、味わい深い人生に変化していきます。
2019.07.06
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樹木希林さんの「一切なりゆき」いう本がある。この本は樹木さんの、語録を集めた本である。文藝春秋から出版されている。昨年12月20日発売されてすでに100万部を超えている。この本には森田療法理論に通じるところがたくさんあった。この本の中に「われわれは、互いが互いにとって堤婆達多(だいばだつた)なんです」という話がある。堤婆達多は、お釈迦様の従兄弟で、最初は同じ教団内で活躍していたものの、やがて反逆し、お釈迦様を殺害しようとまでした人物です。しかしお釈迦様は、堤婆達多がいたからこそ、見えてきたものがあるとおっしゃっています。自分にとって不都合なもの、邪魔になる物を全て悪としてしまったら、病気を悪と決めつけるのと同じで、そこに何も生まれてこなくなる。物事の良い面と悪い面は表裏一体、それをすべて認めることによって、生き方がすごく柔らかくなるんじゃないか。つまり私は夫という堤婆達多がいたからこそ、今、こうして穏やかに生きていられるのかもしれません。皆様もご存じの通り、夫は、俺の神はロックだと言うような人で思い込んだら一筋。そのため、何かと騒ぎを起こしてきました。傍からは、私がちゃんとしていて、あの人はめちゃくちゃというふうに見られるかも知れませんし、まあ、実際その通りでもあるのですが、私の方にも、あの人と一緒になってから、自分が、どれほどいさかい好きな女であることが分かったという面もあります。肋骨が折れるほどの大喧嘩をした日さえありました。よくもまあ、あれほど激しくやり合えたものですが、自分の中にも、何かどうにもならない混沌とした部分があって、それが、内田さんという常にカッカしている人とぶつかり合うことで浄化される。そういう部分もあったのではないかと、今は思うのです。誰もが自分にとっての堤婆達多を持っているし、それと同時に、自分も誰かにとっての堤婆達多になりうる。われわれは、違いは互いにとっての堤婆達多なんです。だから、人に何を言われても別れないんでしょうね。(「全身がん、自分を使い切って死にたい」 2014年5月)夫の内田裕也さんは、皆さんご存知のようにとても破天荒な人です。別居しながらも生涯夫婦として生きてこられたのは、お互いに言いたいことをいうという自己主張をつらぬいてこられたからだと思います。二人とも、不平や不満を無理に押さえつけないで、ストレートに相手にぶつけ合うという態度であったのだろうと思います。でもこれだけだと、すぐに性格不一致で離婚してしまいます。離婚に至らなかったのは、樹木希林さんの方に、どんなに激しく論争をしても、心の底では和解を目指す気持ちを持ち合せておられたということだと思います。和解や調和を目指すという気持ちが、引用した文章によく現れていると思います。そうでなかったら、内田裕也さんが勝手に離婚届を出していたにもかかわらず、裁判に持ち込んで、無効を勝ち取ることもなかったと思います。それがのちに、内田裕也さんに「あの時離婚しないでよかった」と言わせたのだと思います。夫婦の人間関係は、いざこざが絶えない状況の中で、いかに歩み寄りを見せて妥協を目指す道を探っていくかにあるような気がします。その能力は森田理論の「かくあるべし」を減らして、事実本位の生活に立脚することで獲得できるものと考えています。
2019.06.04
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生活の発見誌で人間関係の在り方について、次のような記事を見つけた。1、人間関係は努力してもすべての人とうまくいくわけではない。2、人間関係の成り立ちというのは、片方の人が一方的に妥協するのではなく、お互いにどこかで譲り合って折り合いをつけて初めてよい人間関係は成り立つ。今日は1番目について考えてみたい。私はどうもすべての人に好かれたいという気持ちが強いようだ。人から自分のことを非難、否定されることを極端に恐れている。私の「かくあるべし」は、人から一目置かれて尊敬されるような人間にならなくてはならない。反対に、無視され、からかわれ、仲間はずれにされることはあってはならないと考えていた。そんなことはどうでもよいではないかという気持ちにはなれないのである。そのために、自分の気持ちや意志を抑圧して、他人に同調してしまう。他人のお願い事は気が進まないことでも、引き受けてしまう。反対に、自分から他人に対してお願い事をして断られるのが怖い。そんないやな思いをするくらいなら、自分一人でやってしまおうとする。そうかといって、他人に評価されるような努力はほとんどしていない。注意や意識は、他人が自分をどう取り扱ったか、どう取り扱おうしているかに向けられていた。自分の気持ちや意志を主張することがなく、いつも自己防衛ばかりしていたので精神的には苦しいばかりであったのだ。そんな私に転機が訪れた。森田理論学習の中で、「不即不離」の人間関係作りについて学んだことだ。これは引っ付きすぎず、離れすぎずの人間関係のことだ。目から鱗の人間関係とはこのことだ。いつでもどこでもすべての人に好かれるということはあり得ないことだ。人間関係は必要に応じて、必要なだけ付き合うというのが基本である。四六時中べったりとくっついた人間関係では融通が利かなくなる。そんな関係では、対立すると、いつまでも根に持って相手を憎み続けることになる。コップ一杯に満たされた人間関係を2つから5つぐらい持とうとするよりも、コップに5分の1しかない人間関係を15個ぐらい持っているほうがはるかに楽に生きることができる。引っ付きすぎず、離れずの人間関係だ。愛犬と飼い主のような関係だ。これは夫婦でも、恋人同士でもでもそうだ。普段は自分の好きなように行動しているが、そうかといって相手のことを全く無視しているわけではない。たえず気にかけていて、何か困っているときはすぐに助けに入る。それが終われば、また自分のやるべきことややりたいことに戻る。これが四六時中まとわりつかれては煩わしいばかりだ。共依存の関係で閉塞的な人間関係になってしまう。すべての人に好かれたいというのは、観念の世界でのみ可能なのだ。現実の世界ではありえない。2人の人に評価され、2人の人から毛嫌いされ、6人の人からは普段はなんとも思われていない。そんな状況で、必要に応じて必要なだけの人間関係を築いているというのが現実なのだ。すべての人に好かれなければならないという「かくあるべし」が、自分を苦しめていることに気づかないといけない。そして森田理論の「不即不離」に実際に取り組んでみることをお勧めしたい。
2019.05.27
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岡田尊司さんは、東京大学哲学科、京都大学医学部を卒業された秀才である。その岡田さんが、勉強することが好きになったエピソードがあるという。今日はその話をご紹介したい。もともとは、あまり勉強ができず、授業中もぼんやりして、ノートに落書きばかりをしている子供だった。ところがある日、職員室に入っていた時のことだ。入ってきた私に気付かずに教師たちが話をしていた。その話というのは、どの子が将来有望かと言うようなもののようだった。私は聞くともなく話の内容を聞いてしまった。驚いたことに、 1人の教師は私の名前を挙げて、 「あの子は伸びるような気がする」と言った。よく怒られていた教師だったので、私は二重に驚いた。その些細な出来事が、なんとなく楽観的な希望と自信を生んだように思う。私はその「予言」を実現すべく、前よりも教師や黒板の方を見るようになった。だが、もし私がまったく正反対の「予言」を耳にしていたら、どうだったであろう。肯定的なものであれ否定的なものであれ、評価というものは一生を左右するほどの影響力を及ぼすということを、私はその後の経験の中で嫌というほど見てきた。ひどい状態から見違えるように立ち直る大きな変化を引き起こす原動力として、肯定的に接するという姿勢は不可欠な要素だと言えるだろう。概して言える事は、否定されて育った人は伸びず、能力を半分も生かすことができないケースが多い。肯定されて育った人は、持てる力よりも大きな結果を残しやすいということである。(人を動かす対話術 岡田尊師 PHP新書 67頁より引用)他人との付き合いの中で、相手を肯定的に見ることができる人がいる。そういう人は、川下に向かって泳いでいるようなもので、自分の力以上に楽にしかも早く泳ぐことができる。反対に、肯定的に見ることがほんのわずかしかなく、基本的に批判的、否定的に見ることが習慣になっている人がいる。いつも何かに腹を立てているような人だ。他人とはいつも対立的で、戦闘態勢にあるような人だ。そういう人はしかめっ面をして、笑うことが少ない。川上に向かって泳いでいるような人だ。持てるエネルギーをいっぱいに使っているが、ほとんど前進できない。いつも緊張状態にあり、心が休まるときがない。そのうち精根尽き果てて、泳ぐことをあきらめてしまう人もいる。森田理論でいえば、強固な「かくあるべし」を持っていて、相手に押し付けることが習慣になっている人である。相手の現実、現状を否定するばかりなので、相手も自分を否定してくるのである。このような人間関係は、将来に明るい展望を抱くことはできない。対立、孤立、孤独、喜びや楽しみのない人生を自ら招いてしまう。何とかして相手を肯定的に見れるような習慣を身に着けたいものだ。そうはいっても、直ちに転換することはできない。まずそういう自覚を持って生活することが大切だと思う。その上で、批判、否定、悲観的な気持ちになったら、「ちょっとまて」と自分にセーブをかけることができるようになるとよいと思う。私の経験では、相手を否定的に見てしまうことはどうしても避けることができない。「かくあるべし」がどうしてもでてくるのである。それは前頭前野が発達している人間の宿命かもしれない。しかし、「ちょっと待て」といって、それが暴走することを防止することはできる。本当は、相手の立場に立って、肯定的にも考えられることができるようになるとよいと思う。でも、いきなりその段階を目指すことはハードルが高すぎると思う。そういう場合は、森田でいう事実に焦点を当てて、事実を認めて受け入れるという方法がある。腹が立つとき、理不尽な出来事に遭遇したとき、すぐに対抗措置をとるのではなく、その事実を一旦価値批判しないで認めることだ。そしてその事実を受け入れるようにするのだ。これができると、次に事実を起点にして、どう行動するとよいのかと考えるようになる。すぐに相手を批判、否定する対応方法とは雲泥の差になる。こういうやり方を身につけると、楽な生き方ができるようになる。
2019.05.26
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有名なアメリカの小説「風と共に去りぬ」の中で、ヒロインのスカーレット・オハラは、魅力的で危なっかしいプレイボーイのレット・バトラーか、物静かで誠実な男性アシュレー・アィルクスのどちらかと結婚したらよいのか悩んだ。最終的にはレットと結婚することを選んだが、間もなく彼女は自分の選択を後悔するようになる。なぜ、スカーレットは正しい結論にたどりつけなかったのだろうか。その訳は彼女がある点ではレットを愛していたが、同時に別の点ではアシュレーを愛していたからだ。彼女はレットの勇敢さや行動には魅力を感じたが、レットの傲慢で自分勝手なところは嫌っていた。その一方で、アシュレーの親切で献身的なところは好きだったが、彼の臆病で女のように弱々しいところは嫌いだった。どちらの相手にも長所と短所があったからだ。この男を愛すべきか、あの男を愛すべきかというのは、多くの女性にとって重大な問題であるか、これもまた「両価的葛藤」の一例である。 (人を動かす会話術 岡田尊司 PHP新書 114ページより引用)ここで「両価的葛藤」とあるが、これは森田理論でいう「精神拮抗作用」に当てはめて考えると分かりやすい。これは、例をあげると、今日は酒を浴びるほど飲みたいと思っても、「ちょっと待て」二日酔いになると明日がしんどいのでセーブしながら飲もうという気持ちになるのである。ある欲望や考えが湧き起こったとき、付随して不安や反対の考え方も同時に湧き上がるというものだ。これは森田理論の欲望と不安の関係の学習の中にでてくる。森田理論では、精神拮抗作用は人間には多かれ少なかれ誰でにでも備わっているという。欲望と不安のバランスを整えて生活することは、森田理論の大きなテーマとなっている。さて、この結婚話を聞いて感じたことは、すべての面において完璧な人間はいないということである。一長一短がある。ある面では優れた能力があるが、他の面では見劣りがするのが普通だ。人間観察をしてみると、プラス面とマイナス面が相殺されて、程よい調整がなされれているように感じる。見知らぬ男女が結婚して、子供を産み育てていくということは、そういう不完全な面を持っている者同士が一緒になって助け合いながら共同作業をするということだ。だから自分も相手もプラスとマイナスを同時に兼ね備えた存在であるという自覚を持って結婚することが大切だと思う。結婚したら、上から下目線で自分の考え方と合わない伴侶を非難、否定することは控えることだ。自分の意に沿わない伴侶を、包容力を持って受け入れたり許してあげることが欠かせない。そういう関係性を築くことができれば、相手の足りないところは自分でカバーしてあげようという気持ちが芽生えてくる。スカーレットの場合、レットとアシュレーのどちらと結婚するかについては、自分と相手の性格特徴を十分に比較検討したほうがよいと思う。その際、自分と相手の性格特徴がよく似通っているというのは考えものだ。私の経験上、自分と相手の特徴は別々の組み合わせのほうがよいと感じている。例えば、相手が豪放磊落であれば、自分は繊細緻密である。相手が発揚性気質の人であれば、自分は神経質気質であるというような関係である。お互いがお互いの不足分を補うという関係である。磁石はプラスとプラス、あるいはマイナスとマイナスを近づけると反発して離れようとする。反対にプラスとマイナスを近づけようとすると固く結びついてなかなか離れようとしない。二人を一つにしてみれば実にバランスがとれているという関係である。性格特徴が違っているので時には激しくやり合うこともあるが、相手のよさを自覚していると、雨降って地固まるように夫婦の人間関係は時を経るにしたがって相思相愛となるように思う。これは夫婦関係だけではなく、会社でもいえることだ。私はある時期、社員の採用担当をしていたこともあったが、同じような性格特徴の人ばかりを採用してしまうという傾向があることに気がついた。自分の性格と似通った人を採用してしまうのだ。本来人間は企画力、行動力、営業力、調整能力、マネージメント、事務処理などそれぞれの能力に特徴がある。それなのに同じようなタイプの人ばかりを採用していたのでは、バランスが悪くなり、会社の業績にまで影響が出るのである。自分とは異質な人も必要なのである。多才な能力を持った人間が、それぞれの持ち場で最大限に能力を発揮してくれてこそ、会社は発展していくものだと思う。
2019.05.22
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私たち人間は社会的動物ですから、群れから孤立して一人で生きていくことはできません。自己中心的な行動を抑圧して、ルールを守り、社会的義務や責任を果たしていかなと社会に受け入れてもらえません。しかし人が生きていくということを考えてみた場合、それは必要条件ではありますが、十分条件ではありません。「仲間はずれにされてはならない」「人に受け入れられなければいけない」という承認欲求が肥大化してくると途端に生きづらさがでてきます。それは自分の感情、気持ち、意志などを抑圧して生きていくようになるからです。自分中心の生き方をつらぬいていく姿勢が、より大切になります。日本人は、この強い承認欲求の呪縛から少し解放される必要があるのではないでしょうか。他人中心の生き方考え方から、自分中心の生き方考え方に転換していくための糸口を考えてみました。1、プロフェッショナルを目指すということ。専門的な知識、技術、あるいは経験を獲得して、社会に役立つ人間になること。高良先生は10年間一つのことに打ち込んでいくと、それが可能になるといわれています。そうなると、自信がつき、生きる勇気が湧いてくると思います。私はこのブログはとりあえず、10年は続けてゆきたいと思っています。あと3年と9か月です。今でも大きく成長できたと思いますが、10年経ったときにどんな人間になっているか楽しみです。2、一つの世界に偏らない。職場、学校だけの人間関係、かかわり方をしないということです。家庭生活、集談会、趣味、夢や目標、友人との交流、ボランティア、町内会、習い事などを通じた行動や人間関係作りを心がける。これは森田理論でいうと、「不即不離」を応用した考え方です。このようなかかわりを持つと、職場や学校では借りてきた猫のようでも、他の場所では利害関係が少ないので自分の意見や意志を表明することができます。仕事を続けながら、社会人枠で大学院で勉強している人もいます。二足の草鞋を履いているのです。その人たちは、明確な目標を持っているので、意気込みが違います。3、大きな目標を持つ。大学に入ること、公務員になること、一部上場企業に就職することがゴールと考えている人がいます。それを目標にしてしまうと、燃え尽き症候群に陥ってしまいます。また運悪く不合格だった場合、他人の目が気になり、自己嫌悪に陥ってしまいます。自分は将来こんな仕事をしてみたいという大きな目標を持っていると、大学に合格するということは一つの通過点に過ぎません。目標が達成できる見通しが立つと、もう次の目標を立てておくことが有効だと思います。4、自己開示を心がける。自分の弱みや欠点、ミスや失敗を隠す、ごまかす、人のせいにする人がいます。それらは、すぐに、正直に、包み隠さず、赤裸々に公表する。事実本位の生活は難しいようですが、まずはこのことでできるようになることが大切だと思います。5、失敗の経験を数多く持っておく。人間は3000回の失敗をして一人前の人間に成長すると聞いたことがあります。私たちは、1回の失敗も許せなくて逃げ回っているのではないでしょうか。失敗を数多く受け入れた人は味がある。成功へのコツを掴んでいる。失敗した人の気持ちも手に取るように分かる。共感や受容の気持ちが持てる。
2019.04.30
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ある50代の専業主婦のお話です。この方は結婚前は働いていたのですが、主人から「結婚したら仕事をやめてくれ」と言われたので、仕事を辞めました。主人が、家にいて、家事と子育てをちゃんとやってほしいと望んだからです。 当時は、その方もそれが当たり前だと思っていたので、抵抗はありませんでした。ですが、結婚してから、主人の束縛が徐々にきつくなりました。学生時代の友人や会社の元同僚に私が会うことも嫌がるのです。みんな、女友達なのに。たいてい悪く言うので、なんとなく会いづらくなったのです。それだけではなく、私が外出することにも、嫌な顔をするようになりました。夫と子どものために尽くす女が最高という理由で、毎日出かけているような近所の奥さんをけなすのです。私が時々実家に帰ることもいやがりました。私の実家は田舎にあり、両親が兄夫婦と同居しているのですが、そこに子供を連れていくことにも、渋い顔するのです。そういうわけで私は実家とも友人とも疎遠になりました。子育てが一段落して時間ができたので、太らないようにするためジムに通いたかったのですが、それも反対されました。いろんな人が来ていて、どんな人が来ているか分からないから、そんな危ないところは避けた方がいいと言う理由でした。とにかく、私が自分の時間をもって、自分だけの楽しみを見つけることに、我慢がならないようです。主人がそういう人だということは 、一緒に暮らしているうちに、少しずつわかってきたのですが、私は何も言えませんでした。主人を怒らせるのが怖かったからです。第一、今の私は、仕事もお金もなく、親兄弟や友人とも離れているので、夫から捨てられたら、生きていけませんから。この女性は、結婚当初は夫の愛情ゆえに、そして後には夫に対する恐怖ゆえに、価値観の押し付けに対して従順に受け入れてきた。その結果、攻撃力の強い夫に対して怒りや敵意を抱きながらも、依存せざるをえない「敵対的依存関係」に陥ってしまったのです。(他人を攻撃せずにはいられない人 片田珠美 PHP新書 133ページより要旨引用)こういう主婦の人は集談会にもおられます。「集談会に参加すると心が楽になる」といわれるので、「続けて参加してください」というと、主人が出かけるのを嫌がるので、続けて参加することはできないといわれる。主人の顔色ばかり気にしているのだ。主人が自分のことを、非難したり否定することにびくびくしながら生活しているのだ。こういう人は、他人との関係でも、常に受け身で振り回されている。自分の気持ちや意志を打ち出すことがなく、相手の言動に従うことが多くなる。対等な人間関係ではなく、支配、被支配の関係である。支配されるばかりだと、自分の気持ちや意志を抑圧するので精神的には苦しくなる。抑圧するのが習慣化してくると、最後には自分の欲望や意志が分からなくなってくる。生の欲望の発揮が大切だといっても、自分にはたして欲望があるのかどうかさえ分からなくなってくる。この悪循環から抜け出るためには、自分の感情、気持ち、欲望、意志、五感、身体感覚を前面に押し出して、大切にしていくようにしないといけない。自分中心の生き方をすることだ。森田理論でいう、「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生活態度に立ち戻ることである。とはいっても、急に考え方や生き方を変えることはとても難しい。そういう人はまず「かくあるべし」がどれほど自分を苦しめているのかを自覚することだ。森田理論学習で自分の「かくあるべし」どんなものかをはっきりさせることだ。私の場合は、「人から批判、否定されるようなことはあってはならない」「いつも他人から一目置かれて評価されるような人間にならなければいけない」というものでした。こういう強固な考え方で、現実の自分を否定的に見ていたのです。容姿、性格、能力、境遇、存在をことごとく否定していたのです。本来どんなことがあっても守ってあげなければならない自分を徹底して否定しているわけですから、精神的に苦しいのは当然の結果だったわけです。このことがしっかりと自覚できてから、「自分がどんな事態に陥っても、絶対に見捨てないぞ」「いつも自分に寄り添って、守り抜いてみせるぞ」と決意を固めることができたようです。そのための手法は、森田理論によって幾つも見つけました。このブログで書いている通りです。そうして、精神的に楽になることができたのです。
2019.04.27
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自己表現、自己主張するときに、心がけたいことを書いてみました。1、「純な心」で感じたことを表現していく。例えば交差点で接触事故をしそうになった。車から降りて「なんて乱暴な運転をするんだ」といえばけんかに発展するでしょう。その時の初一念は、「間一髪助かった。よかった。ほっとした」です。初二念が出そうになったら、すぐに初一念を思い出すようにすることです。2、「私メッセージ」で発信する。「あなた」ではなく「私」を主語にして話す。あなたのせいでムカついている。→私はいまとてもイライラしている。あなたはどうして常識外れのことをいうの。→私はその考え方は少し違うような気がする。あなたはどうしてそんなことをしたの。→私はこんなやり方を選ぶと思う。3、「すべて、みんな、絶対、必ず、いつも」という言葉を使わないようにする。安易に一般化しない。すべて→今回の場合、この件に関してはみんな→誰と誰が(固有名詞をあげる)絶対→今回のケースに限っては必ず→できるだけいつも→今は、今回は4、相手に対して上から下目線で「かくあるべし」を押し付けない。もたもたしないで、早くしなさい。○○すべきだ。○○してはいけない。など。「しかし」「でも」「だって」「どうせ」「そうはおっしゃいますが」という言葉を発する前に、相手の気持ちや要望をしっかりと聞くようにする。5、相手の人格否定をしない。自分否定もしない。お前は本当に馬鹿だな。どうしようもない人だね。性格が悪いね。友達なんてできるわけがない。どうせ私は馬鹿だから。頭悪いし、おっちょこちょいだし。家柄も悪いし。6、次々に過去の不祥事を持ち出して相手を責めない。聞かされる相手は立つ瀬がない。うんざりしてくる。今回の問題に絞って話す。
2019.04.03
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私たちは他人を自分の価値観でさばいていることはないだろうか。一旦、自分の価値観に合わないと判断すると、以後毛嫌いして相手のやることなすこと先入観で否定したり軽蔑するようになる。決して相手との関係性を元に戻したり、見直そうとしない。例えば、自分に対して気に障るようなことを言った。馬鹿にするようなことを言った。みんなの前で自分のミスや失敗を笑いものにした。からかった。叱責や非難をした。存在を否定した。無視した。自分に暴言を吐いた。暴力を振るった。相手は悪気がなくても、自分はとても腹立たしい。それが精神交互作用で、どんどん増悪して、アリ地獄に落ちた状態になる。仕返しにもう一切口を聞かない。没交渉をつらぬこうと決心してしまうのだ。そうなると注意や意識は、目の前の仕事や日常茶飯事の方には向かなくなる。寝ても覚めても、相手の一挙手一投足に注意が向いてしまう。一発触発状態になると、神経が過敏になり、とてもしんどい。意地を張っているというか、融通が利かないというか傍から見ているとどうしてそこまでという感じに発展することもある。周りのものも腫れ物に触るようにとても気を使うようになる。しばらくは意地の張り合いが続くが、最後には、どちらかが退職して決着するということになりがちだ。そんな二人も最初から犬猿の仲だったわけではない。ちょっとしたことをきっかけにして、双方が自分の「かくあるべし」を相手にぶっつけた結果生じたことである。そこには、お互いに相手をののしり合い、否定し合うことしかない。人間は本来長所と短所は同じ数だけ持っているものだが、一旦いがみ合うようになると、相手の短所、弱み、存在自体にばかり目が奪われて、相手と張り合って勝つことが目的になってしまう。どうしてこんなことになるのか。腹が立つけれども、とりあえず相手の言動を受け入れるという態度を全く持ち合わせていないことに原因があると思う。理不尽な事実を受け入れるという包容力が欠けているのが問題だ。森田でいう事実を受け入れるという能力を身に着けていると対応方法は全く異なってくる。その時はとても憤慨する。なんとか仕返しをしてすっきりしたいと思うだろう。その感情を否定しないが、そうかといって軽率な態度に出ることもない。
2019.03.31
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鳥取大学の准教授の大谷直史さんの専門は教育学です。鳥取市内の自宅1階を開放して、不登校やひきこもりの若者が集まれる「みんなの居場所ぽっと」を主宰されている。そこで積極的に取り入れられているのが「ボードゲーム」といわれるものです。ボードゲームとはどんなものか。これは将棋、囲碁、オセロ、トランプ、人生ゲームのようなものだそうだ。デジタルではなく、カードや駒などを使って、相手と一緒に遊ぶゲーム全般のことを言います。オンラインゲームではなく、どこかに集まり、相手と一緒に楽しむゲームなのです。中でも今人気があるものは、相手の手を読み、戦略を考える心理戦の要素を持ったものです。「カタン」「ドミニオン」といった世界中で広まっているゲームがあるそうです。ボードゲームの利点は、コミュニケーションへの欲望を満たしてくれるツールだということです。不登校やひきこもりの子供たちの場合、誰かとコミュニケーションをとりたいけれども難しい。しかし、直接相手と向かって話することはとてもハードルが高くてできない。そんな人にボードゲームはうってつけだといわれています。デジタルゲームでは目の前に相手がいるわけではないので、コミュニケーションは取れません。ボードゲームはゲーム中のほか、終了後も結果を巡って話します。コミュニケーションが弾むのです。ゲームとは一つの仮想世界を作って遊ぶものです。相手につっこんだり、攻撃したり、現実社会ではできない人も、仮想世界なら気楽できます。その上、ボードゲームなら相手のリアクションが分かります。これはネットゲームでは分かりません。ゲームの中では自己実現も可能です。努力すれば実り、仲間から認められて報われもします。不登校やひきこもりの若者も、人それぞれですが、最初は話せなかった子が次第につっこみ合うようになり、表情も和らぎます。「友達関係がしんどい」という子にもコミュニケーション力が育まれるようです。これは勝ち負けは実はどうでもよいのです。ボードゲームは、相手の考えや意外な一面を知ることを楽しむのです。大谷さんが考案されたゲームにこんなものがあります。このゲームは数名で行います。お題からイメージする色を一人一人が決めます。色が全員一致すると成功でうれしい。一人でも違う色だと失敗ですが、なぜ違う色を思ったのか、ゲーム後に語り合う。自分と違う考えや視点が分かり面白いです。(中国新聞 2019年1月23日朝刊より引用)これは大変ユニークな活動だと思います。不登校やひきこもりの若者に気楽に集まることのできる場所を提供されています。コミュニケーション力をつけるために、理論学習や、説得療法ではなく、「ボードゲーム」を取り入れている。ゲームに興じるうちに自然とコミュニケーション能力がついてくるというものです。私の場合でも、カラオケ、テニス、スキー、釣り、トライアスロン、資格試験などにみんなと一緒に取り組んでいくうちに、気の合う友達もできて、コミュニケ―ション能力がついてきたという経験があります。集談会などでも、一部取り入れると有効かもしれません。実際に、「生き生きワークショップ」などでは積極的にゲームは取り入れられています。また以前は、一泊学習会、一日学習会、野外学習会、テニスやスキー、カラオケ、懇親会などでの交流も多かったのです。このような付き合い方の中で、助け合いながら人間関係の在り方を再学習してきたのです。
2019.03.30
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今日は私メッセージについて考えてみたいと思います。私メッセージは、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けることを回避できます。「 〇〇さん。タバコは(あなたの)体に良くないよ。(あなたは)やめた方がいいよ。心臓にも悪いし、ガンになる確率も上がるらしいよ。(あなたは)すぐやめた方がいいよ」と言ったとしたら、相手はどんな気持ちになるでしょう。おそらく「(そんなこと100も承知だよ)ほっといてくれよ」と思って気分を害するでしょう。これが「あなたメッセージ」です。今度はこういう言い方をしたらどうでしょう。「 〇〇さん。実は私ね、タバコの煙は苦手なんですよ。できれば外で吸ってもらうと、(私は)ありがたいのですが」「 〇〇さん、私、煙草苦手なんです。外で吸ってもらえると(私は)嬉しい」伝えたい結論は「タバコやめてください」ということなのですが、言い方1つで受けとられ方が全く違います。母親が子供に、 「こんな寒い部屋にいたら体に毒ですよ。エアコンの温度を上げなさい」と話すとします。反抗期の子供は「あなた、寒いでしょう」と言われると「いや、僕は寒くないよ」と言いたくなります。さらに「あなたのためを思って言っているのよ」とほのめかされると、余計にカチンときます。これがあなたメッセージです。その代わり、 「 〇〇くん。お母さん、ちょっと寒いわ 」と言われたら「いや、お母さん、寒くないでしょう」とは言えません。これが、 「私メッセージ」です。「私メッセージ」とするには、目の前の出来事、私の気持ち、その理由の3つを言うことがコツです。理由というのは、私がどうしてそのように感じたのかを説明することです。 「なぜなら」 「だから」という言葉が続きます。「 〇〇くんは納期を守ってくれると、私は非常に助かる。なぜなら、お客様の信頼も高まるしね」「私はタバコは苦手なんです。煙を吸うと、ちょっと辛くて・ ・ ・ 。だから外で吸ってもらうと助かる」(五感で磨くコミュニケーション 平本相武 日本経済新聞出版社 165頁より要旨引用)私メッセージの伝え方は、訓練次第で誰でも身に着けることができます。これが身につくと、事実本位の生き方に近づいているのです。
2019.03.28
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アメリカでは、結婚する前に「プリナップ」と呼ばれる婚前契約を交わしてはじめて結婚するのが普通だそうだ。2019年2月16日の中国新聞によると、歌手のSILVAさん(43)は、 2015年に現在の夫である男性会社員と結婚した。そのときに34項目の婚前契約書を作成し、公正証書にしたという。 2人ともいちど離婚した経験がある。「しっかりと決め事をせず、前の離婚のときにはもめてしまった。せっかく再婚するなら、失敗したくないという思いが強かった」そうだ。これによると、仕事、家事・育児の分担から、ギャンブルや浮気・借金の禁止、離婚時の親権や養育費まで多岐にわたる。その一部を見てみると、次のようなものがある。子供の学校行事は2人で出席する。趣味に2万円以上の支出をする場合は事前に相談する。外での飲酒は週2回までとする。暴力、不貞行為での離婚は、慰謝料を支払う。その場合親権は放棄する。毎年元日には契約内容をお互いに確認する。「帰宅時間を毎日連絡し、速やかに返信する」という項目は、災害時のことを考えた相手の要望で盛り込んだ。共働きであることを考慮し、義理の親の介護は「自発的に行い、強要はしない」ことにした。この契約書は一緒に作ったので、 「言った、言わない」の喧嘩にはならない。お互いに責任を持ち、尊重しあえる夫婦になれたそうだ。このように、事前に2人で結婚前に、納得が行くまで話し合い、それを文章にして残しておく事は、とても意味があることだと思う。結婚するまではお互いに見ず知らずの他人である。育ってきた環境や境遇も違う。性別も違うし、性格も異なる。その2人が結婚して、 1つ屋根の下で協力し合いながら一生涯生活を共にするのだ。考え方や行動様式が全く異なる。そんな2人が子供を設けて、自立するまで育て上げるという共同作業も待っている。事前にお互いの違いをすり合わせることなく、いきなり結婚するというのは無謀というほかない。私の経験からすると、最も重要なことは、お互いの考え方が衝突したときにどのように対応するのかはしっかりと取り決めをしておく必要があると思う。お互い違う人格を持った人間であるから、毎日のように衝突するきっかけは無数にある。その時に、お互いに自分の気持ちや意志をしっかりと伝え合う。そして、 2人の間にあい埋められない溝があった場合は、どのような対応をとるのか、 2人で取り決めをしておくことが大切である。そのやり取りを子供たちもしっかりと見ているのだ。それが子供たちの将来につながっていることを忘れないことだ。一方が相手を無理矢理コントロールするようなことがあってはならない。どんな些細な事でも、お互いの関係は平等であるべきだ。ののしり合いや暴力で解決するのではなく、話し合いによって妥協案を探るという約束をとり交わしておく必要がある。夫婦の関係は毎日ぎりぎりの攻防の連続だと覚悟したほうがよい。
2019.03.21
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片田珠美さんによると、他人の思惑に振り回される人は次のような特徴がある。1 、愛情欲求が強く、相手を喜ばせたい、気にいられたいという願望が強い。2 、承認欲求が強く、常に周囲から認められたいと望んでいる。3 、依存欲求が強く、事実上の不安を抱いている。4 、不和や葛藤への恐怖が強く、対決や、直面をできるだけ避けようとする。5 、自分に自信がなく、なかなか断われない。6 、いつも他人に合わせてしまうので、自分の意見を言うのは苦手である。7 、自分が決めて責任を負うようなことになるよりも、他の誰かに決めてほしい。この7つのなかで、もし4つ以上が当てはまるなら、その傾向はかなり強い。3つ以上当てはまれば、要注意である。2つあれば、もっと自分をしっかり持つよう、自分自身に言い聞かせたほうがいいだろう。(他人を攻撃せずにはいられない人 片田珠美 PHP新書 161頁より引用 ) こういう傾向のある人は、次のような悪循環に陥っているという。1 、他の人が自分についてどういっているかを気にすればするほど、自分自身の判断に自信を持てなくなる。2 、自分自身の判断に自信がなくなればなくなるほど、自分自身の価値について不安になるので、他人から愛されたいとか、認められたいという欲求が強くなる。3 、他の人に愛されたい、認められたいという欲求が強くなればなるほど、気に入られるようにしようとするので、他人の評価をますます気にするようになる。その結果、他人の評価に依存してしまう事態になることさえある。(同書 101ページ )他人から押し付けられる「かくあるべし」をまともに受け止めて対応している人は、苦しいことばかりが次から次へと繰り返される。自分の人生を生きていると言うよりは、他人に奉仕するばかりの人生を送っているので、そのような結果になるのである。他人から「かくあるべし」を押し付けられる事は日常茶飯事である。それに対して、自分も相手に対して「かくあるべし」を押し付けていては、問題が解決することはない。どんどん対立関係に陥っていく。そのような悪循環に陥りらないために、 2つのことを指摘しておきたい。1つは、経済的にも精神的にも依存体質から抜けだして、人間的に自立していくことである。まず衣食住に関しては、親に頼らず自分でまかなっていくことだ。日々の基本的生活を大切にして、自立して生きていくという姿勢が大切である。平凡で淡々とした日常生活は、時にはしんどいこともあるが、生きるという面では絶対に外すことができないことである。2つ目は、自分中心の生き方を目指していくことである。自分の容姿、性格、境遇、運命などはあるがままに受け入れていく。沸き起こってくるどんな感情でもそのまま受け入れる。五感や身体感覚もよく味わうようにする。自分の気持ちや意志を尊重して、自己表現していく。その能力を獲得するために、森田療法理論の事実本位、あるがままの考え方をよく学習する。
2019.03.19
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職場で上司や同僚の言動に振り回されてつらい。こんなにつらい思いをするのなら、いっそのこと退職したい。どうすれば楽になるのか、アドバイスをしてほしいという人がいます。こういう方は頭の中で考えることの大半は、他人が自分のことをどのように取り扱ったのかということだと思います。80%から90%は寝ても覚めてもそのことばかり考えているのです。自分ではアリ地獄の底に落ちたような状態で、他人に救いを求めているのです。しかし他人にもおいそれと右から左へと対症療法的な妙案があるわけではありません。私は、まず10%でも頭の中を軽くする方法をとったほうがよいと思います。それだけで気持ちの上では随分楽になります。そうなれば、生きづらさ、苦しさが減ってきて、生きがいや楽しさが増えてくるはずです。最終的には、20%、30%・・・と減らして50%ぐらいになればもう大丈夫だと考えています。最終的には対人不安というコアの部分はなくなりませんし、なくしてはならないという立場です。完全になくなると、神経質の良さが失われて、人格崩壊を起こしてしまうのです。そんな方法があるのかと疑心暗鬼になっておられる方も多いでしょう。森田療法理論が教えてくれたことを実行に移すだけで、目的は達成されます。森田療法理論は4つの方法を生活の中に取り入れることを教えてくれています。一つだけでは不十分です。4つの方法を駆使して、頭の中を軽くしていくのです。1、生の欲望の発揮に注意を向けていくこと。2、不安と欲望の関係をよく理解していくこと。3、自分の持っている「かくあるべし」とその弊害に気づいていくこと。認識や認知の誤りを学習していくこと。4、事実を無条件に受け入れていくこと。他人中心の生き方から自分中心の生き方を目指していくこと。1は森田学習をしている人は誰でも知っています。しかし真剣に実行しているのかと問われれば、疑問な人が多いのが現実です。基本は日常生活や仕事に丁寧に取り組んでいくことです。高良武久先生は、一つのことに10年ぐらいまじめに取り組んでいくと、対人恐怖症は問題にならなくなるといわれています。2ですが、不安は欲望とコインの裏と表の関係にあると学びました。私たちは欲望を忘れて、不安ばかりにとりつかれて神経症になったのです。人生は不安と欲望のバランスを維持していくところにあります。これを身に染みて理解した人は、不安ばかりにとりつかれることがあるでしょうか。少なくとも不安を排斥することはなくなります。欲望の暴走を制御する不安の役割を認識して、不安を活用するようになるでしょう。そして、いかにバランスをとっていくかという点に、エネルギーを投入していくことになると思われます。3ですが、自分はすべての人に受け入れられて、一目置かれるような人間にならなくてはいけないという「かくあるべし」が強すぎるのではないでしょうか。そのような揺るがない信念が、現実との間で葛藤を起こしているのです。そういう目標を打ち立てて、努力精進する生き方は尊いことですが、観念や理想の立場から現実を否定しているから墓穴を掘っているのです。4は3の弊害が理解できた人が、取り組んでいくべき課題となります。相手は自分が自由にコントロールできる存在ではありません。自分のことは、自分でコントロールできます。湧き上がってきた感情を受け入れていくこと、自分の気持ちや意志を尊重していくこと、五感や身体感覚を味わっていくこと。などです。現実、現状を受け入れて、そこに根を張って一歩目線を上げて前進していく態度を維持していくことです。それは見方を変えれば、自分中心の生き方を目指していくことにつながるのです。以上の4つの課題に取り組んでいくと、頭の中で人の思惑のことを考える割合が少なくなっていくとは思われませんか。対人関係を改善していく方法は身近な森田理論の中にあったのです。いっぺんに改善しようとするのではなく、まず10%の改善を目指すとよいでしょう。要はそれを生活の中に取り入れて活用しているかどうかという問題なのです。
2019.03.03
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本来他人と交流することは、人生の楽しみの1つだと思います。自分ひとりで生きていく事は出来ませんし、多くの人と助け合いながら毎日楽しく過ごしていきたいものです。ところが、現実には人間関係で葛藤や苦悩を抱えてのたうちまわっている人が後をたちません。その大きな原因は、他人が自分に対して「かくあるべし」を押し付けてきたとき、自分も相手に対して「かくあるべし」で対応しているために、いつも2人の関係性が戦闘モードに入っているためではないかと思います。相手の仕草や言動、自分に対する仕打ち、他人の思惑や意志などに振り回されて、相手のペースに巻き込まれているために、自ら苦しい人生を選択していると言わざるをえません。これを解決するヒントは森田療法理論の中にあります。森田理論は「かくあるべし」を少なくして、現実、現状、事実に基づいて生きていく態度を養成することをお勧めしています。これを人間関係に応用していけばよいのです。もう少し詳しく見ていきましょう。森田理論では、自然に湧き上がってきた感情や気持は全て素直に受け入れましょうと言っています。不安や恐怖などの感情もやりくりしないでそのまま自然の流れに任せましょうと言っています。腹が立つことや怒りや恨みの感情も同様です。対人関係で苦しんでいる人は、腹が立つような感情は、表面に現れないように抑圧しています。我慢し耐えていることが多いのです。しかし、心の中では憎み続けているのです。心の中と外面が大きくかい離しているのです。それらが積み重なると、無意識の心の中では恨みの感情はどんどん増悪していきます。最初は小さな怒りだったものが、とてつもなく大きくなり、最後には自分の力ではどうすることもできなくなってしまいます。それが親子関係、夫婦関係、学校や職場での人間関係でも同様の対応をしているために、すべての人間関係が油の切れた歯車を回すようにギクシャクしているのです。森田理論では、まず自分の素直な感情に気づくことが大切であると言います。これは森田でいうと「純な心」に当ります。第一に起こってきた感情、最初に起こってきた感情のことです。それに引き続いて沸き起こってくる「かくあるべし」を含んだ感情のことではありません。これに気づくことはとても大事です。最初のうちは意識しないとすぐに逃げてしまいます。他人の言動に接すると、好き嫌い、快不快といった感情が湧き起こってきます。どんな感情が自分の中で沸き起こり、今自分がどんな気持ちになっているのかに気付きましょう。そこに意識を持っていかないと、すぐに売り言葉に買い言葉で相手のペースに巻き込まれて、 「かくあるべし」の対応になってしまうのです。自分の中でわき起こった感情に気づくと、次に自分の気持ちや意志を明確にする必要があります。自分は何がしたいのか、何をしたくないのかという欲求に気づく必要があります。次に、そんな気持ちや意志を相手にしっかりと伝えていくという作業に入ります。自分の欲求に基づいて、断りたいのなら、しっかりと断る。やってみたいのならば、勇気を出して取り組んでみる。伝え方の技術というものはあります。例えば「私メッセージ」の方法があります。それはおいおい身につけていけばよいものです。自分の気持ちや意志を大事にする人は、相手の思惑に振り回されることはかなり少なくなるでしょう。そういう人は自分が楽になる方法を見つけようとします。自分が自分の最大の味方であると思っています。自分は愛しい存在であり、自分こそ真っ先に大事にしなければならない存在だと思っています。そうしなければ、結局相手の存在も大事にすることはできないと思っています。考えてみれば、自分という存在は神様からレンタルしているようなものです。粗末に扱うことは許されません。「かくあるべし」を少なくして、自分の素直な感情に気づき、自分の気持ちや意志を前面に押し出していく。その方向が、人間関係の葛藤や苦悩から抜け出す唯一の道だと考えます。よく森田の学習会などで、「自分の症状は人の思惑にとらわれることです」という自己紹介をされる方がいますが、自分を感情、気持ちや意志を大切にする生き方を目指してほしいものだと思います。
2019.03.01
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北朝鮮の金正恩委員長とトランプ大統領の交渉がベトナムのハノイで行われる。小国にもかかわらず、交渉や話し合いに持ち込んでいるところがすごいと思う。普通はアメリカの要求を一方的に押し付けられて、アメリカに服従するといった形で決着を見ることが多い。それなのに、対等の立場で話し合いに持ち込んでいるように思える。核開発を行い、それによって対抗手段を得て、最後には経済協力を引き出して、国を立て直したいと思っているのだろうと思う。綱渡りのような交渉だが、自分の立場や意見を堂々と述べている点は評価できる。国と国との紛争の場合、交渉が決裂すると、破れかぶれになって、国際条約から脱退するケースが多い。そして、武力衝突へと突き進むのは今までの歴史が証明している。その結果、戦いに敗れた国は多くの国民が犠牲になる。領土も奪われる。後で振り返ってみれば、何のための戦争だったのかということになる。戦勝国は、一時的には、軍事産業をはじめとして、国内の経済が活性化する。だが敗戦国は経済的にも精神的にも、戦勝国に思うがままに支配されるようになる。愚かなことだが、人間には、元々強いものが弱い者に闘いを仕掛けて、征服したいという欲望が存在しているのかもしれない。最初は自己保存欲求から始めた戦いであったものが、相手を征服して、相手や相手の所有物を自分のものにしたいという欲望が暴走してしまうのだ。だから理不尽な戦いを強いられた時は、それに対抗する力を普段からつけておくことが大切だと思う。そうしないと、なすすべがなく相手に征服されてしまう。ある程度の経済力や武力を背景にして、相手と対等な立場で話し合いに臨むという姿勢が大切なのだ。今は、武力衝突をしてしまうと、核による人類滅亡の危機に直面しているわけだから、手段としては話し合いしかない。譲ったり、譲られたりする中で、なんとか最悪の状態を回避しながら、お互いが生き延びていく道を探っていくしかないと思う。これは2人から3人に一人がなるといわれるガンに対する対応方法も同じだ。体の中ではがん細胞が毎日3000個ぐらいはできているという。免疫力という対抗手段が弱まると、がん細胞はどんどん増殖していく。実際には、ナチュラルキラー細胞が、日夜がん細胞に立ち向かって闘いを挑んでいる。ここで重要なことは、がん細胞に対して、私たちの身体は常に立ち向かっているということだ。何もしないでがん細胞を放置して眺めているだけではないのだ。私たちの身体は、白血球という軍隊を持っているようなものだ。緊張感を持って、明確な自分の意志をがん細胞にぶっつけているということだ。ここでは話し合いによって解決することは考えられない。やっつけるかやっつけられるかしかない。見方を変えると、客観的に見れば、がん細胞と免疫細胞がバランスを維持しているとみたほうがよい。免疫力がなくなると、ガンとの戦いは一方的となってしまう。ここで大切なことは、絶えず緊張感を持って、自分の気持ちや意志を相手にしっかりと伝えるということだ。そして闘いを仕掛けたり、話し合いに持ち込んでいるということだ。そのような考えがなくて、平和主義者、永世中立国などと言うことは大変に危険な考え方だと思う。周到な準備をして、緊張感を持って、相手との力の均衡を目指していくことが欠かせないと考えている。良好な人間関係を気づくコツはここにあると思う。自分中心の生き方をしているかどうかが、両者の調和を考えた場合はとても重要になってくる。
2019.02.26
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相手に頼みごとをすることができない人がいる。例えば、集談会に続けて来ている人に、「世話役になってもらえませんか」とお願いすることができない。会員になってくださいとお願いできない。心の健康セミナーに参加してくださいとお願いできない。お願いしても、相手が断ってきて自分が傷つくことを恐れているのである。自分が拒否、否定されることに耐えられないのである。頼みごとに抵抗がない人は、「うまくいけば儲けもの、だめでもともと」という気持ちがあるので、ずうずうしいと思うほど頼みごとをしてくる。そういう人をうらやましいと思いながらも、自分にはできないと思っているのだ。他人に頼みごとができない人は、頼みごとの内容よりは、相手の反応に意識や注意を傾けている。ネガティブで悲観的な取越し苦労ばかりしているのだ。人に頼みごとができない人は、人から頼みごとをされたときに、はっきりと断り切れないという面もある。これを買ってほしい。飲み会に参加してほしい。世話役になってほしい。この仕事をやってほしい。イベントに参加してほしい。一緒に旅行しよう。カラオケに行こう。自分はその気がなくても、相手の頼み事や提案に対して、自分の意志を明確に伝えることができない。とってつけたような言い訳をする。強引な相手には、自分の気持ちや意志をまげて、渋々引き受けてしまうような人だ。あとからどうしてはっきり断らなかったのだろうと、自己嫌悪するようになる。人に頼みごとができない人は、他人からの頼み事は断り切れないという両面を持っている。このようなことは、常日頃自分の気持ちや意志を抑圧し、他人の言動ばかりに注意や意識を振り向けているから起きるのである。自分を大切にして自分の人生を生きていくという気持ちが希薄である。他人を思いやる気持ちは大切であるが、その前に最大限自分を大切にする気持ちが大切である。とことん自分を大切にできるようになることで、逆に人への思いやりも出てくるのだと思う。そういう人への思いやりは本物であると思う。どんなにネガティブでマイナス感情であっても、自分の身に起こったことは正しいことだと認める。マイナス感情だけではなく、ポジティブでプラス感情も十分に味わう。自分の気持ちや意志を最大限に尊重する。そこを出発点として考える。ここで「純な心」から出発していくという森田理論が役に立つ。自分の気持ちや意志は、「私メッセージ」の手法を使って相手に伝えるようにする。相手が自分の言動によって、どのような態度をとるのかは分からない。自分に対していやみを言うかもしれない。それは相手の自由だから仕方がない。それよりも自分の気持ちや意志を相手にはっきりと伝えることができたという面を評価したい。これが森田でいう「事実本位」の考え方、生活なのだ。ぜひとも身に着けてほしい。
2019.02.25
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石原加受子さんのお話です。ある女性の理想の男性像は、 「甘えられて、黙っていても自分をぐいぐいと引っ張ってくれる男性」でした。一方、男性は「自分に逆らわないで、黙って尽くしてくれるような女性」を求めていました。この2人の関係は、支配・被支配の関係と言えるでしょう。依存的な彼女の目には、彼のそんな支配的な態度が、とても頼りがいのある男性だと映ったのです。しかし、実際には彼は「相手を思い通りにしよう」としているだけでした。彼のほうも、自分に尽くしてくれる彼女を可愛いと感じて優しくします。ただしそれは、彼女は彼に従順である場合に限るのです。(気持ちを伝えるレッスン 石原加受子 大和出版 157ページより引用)このような男女の人間関係、夫婦の人間関係について、皆さんはどのように思われますか。相思相愛で羨ましい人間関係だと思われるでしょうか。これが夫婦の人間関係のコツでしょうか。私はそのようには思いません。恋人関係にあるとき、あるいは新婚当初はそのやり方でうまくいくかもしれませんが、そのうち破綻してくると思います。夫婦といえども、別々の感情、人格、意志を持った人間です。そんな人間同士が、支配・被支配の人間関係でうまくいくはずはないと思うのです。お互いに自分の気持ちや意志を前面に押し出しながら、自分らしく生きていくことが1番大切なことです。一見相手に経済的にも精神的にも依存していく生き方は、何も考えなくてもよいので楽が出来るように見えます。しかし、実際には暇を持て余し、いつも相手の言動に注意や意識が向いてしまいます。積極的に相手に働きかけるということがなくなり、守り一辺倒の生活になります。自分の気持ちや意志を抑圧して、相手に振り回されるようになります。反対に、自分の感情、気持ち、自分の意志をきちんと相手に伝えるという人間関係はどうでしょうか。相手の態度を気にして、我慢するのではなく、素直な自分の気持ちを言葉にして相手に伝えるのです。そこでは相手とぴたっと一致することは少ないわけですから、常に意見の相違が生まれることになります。どちらかというと緊張関係にあります。相手を自分の思い通りにコントロールしようと思っていると、すぐに喧嘩になります。相手は自分の思い通りにコントロールできるものではないと認識することが大切です。まずは相手の話をよく聞くことが大切です。そして自分の意見もしっかりと伝えることが大事です。そして双方の意見の違いを明確にさせてお互いに認め合う。あとは、話し合いによって妥協点を見つけていく作業に取り組む。つまり、譲ったり、譲られたりしながら人間関係を持続していく。そのような夫婦は、言い合いを繰り返しながらも、お互いを尊重し合っていることだと思います。これが普通です。喧嘩も争い事もない夫婦はとても不気味です。それは相手に無関心で、無視しているからこそ可能なのです。愛情のかけらもありません。こういうのを仮面夫婦という人もいます。これは夫婦の人間関係に限らず、職場での人間関係にも応用できることです。小さな問題が発生したときにこそ、こういう気持ちで対応することが大切だと思います。いきなり大きな問題が発生したときに、このような態度をとろうと思っても無理があるのではないでしょうか。小さいときにきちんと自己表現をしていきたいものです。また森田理論では、人間関係は「不即不離」をお勧めしています。一心同体で親密な人間関係を目指すのではありません。薄く広い人間関係を、必要に応じて必要なだけ幅広く築いていくということです。この2つを信条として、人間関係作りに応用していくことが大切だと思います。行きづまることがありません。楽な生き方に変わっていくような気がします。
2019.02.24
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私は以前大阪でインテリアの卸会社に勤めていました。その時の仕事の1つに、西日本地区の売り上げ計上の仕事をしていました。お得意様から注文をもらう。仕入先から直接お得意様に商品を届けてもらう。私の会社に仕入先から納品伝票が届く。私の仕事は、注文内容と納品伝票を見てお得意様に売り上げを立てることでした。これらの過程では、 1人で全て行っているわけではなく、多くの人が絡んでいます。お得意様、営業マン、発注担当者、仕入先、運送会社などです。その他、複雑なやりとりがあり、イレギュラーなケースが多発します。ですから、売り上げ計上の仕事は右から左へと簡単にできる仕事ではありません。通常の仕入れ値に対して、通常の売上価格で売り上げ計上ができるのは3割から4割くらいしかないのです。その他の売り上げ処理は、臨機応変に他の人と相談しながら適切に処理しないと、後で訂正するはめになるのです。その原因として考えられるのは、次のようなことです。例えばお得意様は、少しでも安くしてもらおうと値切ってきます。大口注文の場合はほとんどそうです。営業マンは、できるだけ多く売り上げを伸ばそうとして容易に値引き販売に応じています。発注担当者は、数多くの発注を手掛けているうちに、誤発注も発生します。さらに発注するのに精いっぱいで、仕入れ先への値引き交渉は営業マンに任せています。仕入先に値引き交渉をしても、仕入先が受け入れてくれないことも発生します。あるいは、仕入先が値引き交渉に応じて、後日突然値引き伝票が別途届くこともあります。またお得意様に届けても、クレーム商品もあります。あるいは返品交換も発生します。運送途中の破損も発生します。ですからこの仕事は、疑問に思ったときは、事情の分かっている営業マンと常にコンタクト取りながら進めていくしかありません。私は問題のある売上伝票は、自分勝手に処理しないで、一旦営業マンに渡して指示を仰ぐようにしていました。ほとんどの営業マンは、適切に売り上げ指示をしてくれました。ところがある課のリーダーの一人がいつまで経っても指示をしないで放置したままなのです。私は事務処理ができないでストレスが溜まってきました。でも売上最終日になると強制的に売り上げしないと私の仕事は終わりません。その人はいつも部下とトラブルを起こしてみんなから敬遠されている人でした。私はその人に直接出向いて聞けばよいのは分かっていましたが、「売り上げ計上はお前の仕事だ。自分に聞かなくても問題なくやるのが当たり前だろう」といわれるのが予想されたので、相手を無視して通常売り上げで対応しました。その後得意先からのクレームが入り、そのリーダーと口げんかに発展しました。私の気持ちは、私が困っているのは分かっているはずだ。そんな気持ちを察して、協力してくれてもよさそうなものだという傲慢な気持ちがありました。そんな態度は、そのリーダーにとっては、私の表情も硬く、体が硬直して、常に反発しているような態度に見えていたそうです。私はそのリーダーに怯えて、逃げてばかりだったのですが、相手はそんな態度に益々意地悪をしてやろうという気持ちになったというのです。わざと放置していたというのです。目の前の仕事に注意が向かなくなり、意地と意地の張り合いになっていたのです。私はこの件でいろんなことを学びました。相手のことが嫌いだと言って、安易に逃げてばかりいては、自分も精神的に苦しくなるばかりだ。気のすすまない行動をとる事は、注射針を打たれるような痛みがある。でもそれに耐えて行動すれば万事うまくいく。気分本位になって逃げてしまうと、そのストレスはどんどんと増悪してしまうばかりだ。それらを幾つも抱えることになると、イライラして精神状態が不安定になる。だから何とかして相手に自分の気持ちを伝えることが大切だ。自分1人でできないと思えば、上司に相談する。あるいはその人の部下に相談してみる。いろんな方法はあったはずだ。自分一人で問題を抱えて苦しんでいるばかりではダメだったのだ。相手の理不尽な行動に振り回されるのではなく、自分のストレスを減少させるためにどんな方法があるのかと考え方を改めた方がよかったのである。自分を大切にすることが大切だと感じた。
2019.02.22
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森田療法理論の学習の中で、「人のために尽くす」というのがある。森田先生は直接「人のために尽くせ」とは言っていませんが、後の人が言いだした言葉です。「森田理論学習の実際」には次のようにあります。「人のために尽くす」というと、非常に大げさに考えて、「何か人のために役に立つことをしないといけない」と考えがちですが、このように大きく構えると、それがまたとらわれになります。したがって大げさに考えず、人の立場、気持ちを考えながら行動する。つまり、人に迷惑を考えないで行動する、というように考えればよいと思います。家庭の主婦であれば、気分はどうであれ、ご主人の出勤、子供の学校に間に合うように起き、食事の支度をする。出かけには「行ってらっしゃい」と言葉をかけて送り出す、ということです。また例えば夫であれば、家庭の仕事はすべて奥さんの仕事と考えずに、布団の上げ下げ、風呂の掃除は自分でする、といった具合に。このようなことを心がけて行動すれば、自分にばかり向いていた注意が次第に外へ向かうようになります。また主観的なものの考え方、見方から、客観的な見方考え方ができるようになります。これによると、私たち神経質者は感性が鋭いので、他人に対して「こんなことをしてあげたら、役に立つかも」と気づくことは多々あります。その小さな気づきを膨らませて、他人に対して、社会に対して実際に行動することが大切だということになります。そうすれば次第に自分ばかりに向いていた注意や意識が外向きに変わってきます。自己中心の傾向が修正されるということだと思います。森田理論から開発された「生きがい療法」の5つの指針の中にも、「人のために尽くす」行動が大切だとあります。それによると、人に言葉をかける。ちょっとしたものをプレゼントする。物を貸してあげる。労力を提供する。自分の持っている知恵、情報を提供してあげる。人の話を聞いてあげる。温かいプレゼントをする。こういうごく小さいことをいつも探していて、実行することが大切だといわれている。例えば、スーパーで買い物をした時は、買い物かごの商品をレジの人がとりやすいようにしておく。待っている間に100円玉、10円玉、1円玉を整理してすぐに取り出せるようにする。スーパーに行っても、人の役に立つことが幾つかあるのである。アドラーも「共同体感覚」の中で、この人間社会は分業制で成り立っている。人のため、社会のために役立つように、自分の得意分野を磨いて、具体的に社会に貢献することが人間の宿命であると言っている。人間は誰でもこれまで生きてきた中で、知恵や能力などを磨いてきたと思う。仕事や趣味の分野では自然に身に着けたものが多い。自分が身に着けたものを積極的に披露して教えてあげる。人からもいろんなことを教えてもらう。そのためには、みんなそれらを棚卸して一覧表にまとめてみる。この中で他人に役立つものや興味があるものがないか周りの人に聞いてみる。興味があれば1人でも、2人でも教えてあげる。例えば私では、アルトサックスの演奏の指導、楽譜の提供ができる。獅子舞、腹話術、どじょう掬い、浪曲奇術などは教えてあげることができる。こういうのは、公民館活動の中でいくらでもやっている。人の役に立つし、豊かな人間関係が拡がるし、毎日の生活が楽しくなると思う。
2019.02.17
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最近の学校ではいじめが後を絶たない。職場でも陰湿ないじめが横行しているという。弱々しくて反発してこない人は、すぐにターゲットにされてしまう。そして孤立して居場所をなくしてしまう。仲間内から排除され、危害を加えられる事は生死にかかわる問題である。普通は理不尽なことをされたり、攻撃されると反撃をするものです。いじめられる人はいじめられるだけでなすすべがない。そんな人でも幼稚園児のところは、泣き叫んでも抵抗していた。対等に渡りやって喧嘩をしていたのである。ところが、いつの頃からか反撃を止めて相手のなすがままに身をゆだねるようになった。これは幼い頃から子供の周りにはいつも大人がいて、喧嘩をするような場面は、親が仲裁に入っていたのではないでしょうか。その場は何とか収まっても、お互いに傷つくような喧嘩の経験不足は、大人になってそのツケが、子ども達にのしかかってきた。当然経験しなければならない人間関係の持ち方を学ぶ機会がスポイルされてきたのである。幼い頃に喧嘩をする経験は貴重なものです。まず自分の気持ちや意志を相手にぶつけるという意志や積極性を育む。相手に徹底的にやり込められてしまえば、自分が大いに傷つくという経験も持てる。相手を徹底的に痛めつけてしまえば、罪悪感も味わうことができる。そして数多くの喧嘩の経験を積んでいると、お互いに喧嘩の頃合いがわかってくる。これ以上暴力をふるっては相手に怪我を思わせてしまう。これ以上の暴言を吐くと相手にダメージを与えすぎてしまう。それなのに、周囲の大人達はどうして幼児の喧嘩に対して止めに入るのだろうか。このような経験を幼児期に数多く体験しておく事は大人になって役に立つ。他人を自分の思い通りにコントロールすることはできない。相手には相手の意志がある。自分には自分の意志がある。そこには当然深い溝が横たわっている。自分の一方的な気持ちを相手に押し付けるのではなく、話し合いによって歩み寄っていく努力をするというやり方が自然に身についてくるのだ。幼児期に喧嘩を経験していないと、いじめに発展しやすい。支配と被支配の人間関係に陥りやすいのだ。支配する人は自分の思い通りに相手をコントロールしようとする。自分より弱い人を見つけては、いじめに走るのである。そういう人は自分より強い人からはいじめられるようになる。支配される人は、自分の気持ちや意志を封印して防戦一方である。肉体も精神もむしばまれて、生きていくことが苦痛になる。子供の頃の経験不足は大人になって大きな問題となって表面化してくるのだ。自然や相手を自分の思い通りにコントロールしようとする「かくあるべし」は結局自分に降りかかってくる。理想と現実とのギャップに苦しむようになる。その苦しみから逃れるためには、森田でいう思想の矛盾を解決することである。つまり「かくあるべし」ではなく事実に根を張った生き方をすることである。「事実本位」の生き方に切り替えていくことが大切になる。そして、次に大切なことは、少しでも自分の気持ちや意志を大切にすることだ。「純な心」を大切にして、自分の感情、気持ち、 意志を前面に打ち出していくことである。私メッセージで、少しでも相手に自分の気持ちを伝えていくことだ。他人の言動に振り回されるだけでは生きていくことが辛いばかりである。自分の気持ちや意志を前面に押し出す、自分中心の生き方が事態を変えていくと思う。
2019.01.23
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人間は猿から分化した原始社会では、脳幹の働きがとても重要でした。他の肉食獣が近くにいれば、戦うか逃げるか、とっさの判断を迫られました。もたもたしていると、すぐに肉食獣に食べられてしまいます。自分と家族の安全を確保するためには、戦うか逃げるかしかなかったのです。特に男性は、食料を確保して生き延びるために、日夜他の動植物と戦っていました。その痕跡は、現代に生きる私たちの中にも、依然として生き続けています。国同士は、覇権と資源の確保を狙って、常に臨戦状態にあります。多国籍企業は、世界中のライバル会社と熾烈な生き残りをかけて戦い続けています。会社内では、自分の居場所や地位の向上を目指して、仲間同士がライバル競争を繰り広げています。現代でも人間は常に他人の動向を意識して神経が緊張状態にあるのです。勝つか負けるか、征服するか従属されるか、相手より強いのか弱いのか、相手より優れているのか劣っているのかということに神経が過敏になっています。そこには二者択一しかなく、相手と調和して助け合って生きていくという中庸の考えはないのです。社会を戦場のように捉え、自律神経の交感神経をピリピリと緊張させながら、脱落しないように厳しい社会を勝ち抜くという考え方にあまりにもとらわれているのではないでしょうか。相手をライバルとして見なして、自分を鼓舞して目標に向かって努力するという姿勢は立派なものです。スポーツの世界を見ても、ライバルと競争して、切磋琢磨して技術を磨き、頂点を目指す事は素晴らしい事です。ところが、何が何でもライバルには勝たなくてはならない。どんな手段をとっても相手を蹴落として勝利を掴むという考え方は、自分たちの生き方をゆがめているのではないでしょうか。何が何でも相手を倒さなければならないということになると、自分を高めるものではなく、逆に自分を苦しめる道具となってしまうのです。そうなりますと、自分の感情や気持ち、考えや意志などは蚊帳の外になってしまいます。寝ても覚めても他人の言動に注意や意識が向いていきます。そして、他人に批判、否定、軽蔑、無視されることに異常なまでにこだわるようになります。相手に負ければ自己嫌悪、自己否定することになります。そして心の中ではいつまでも相手を恨み、反発するようになります。これでは自分の人生を生きているのではなく、周囲の人に振り回され、他人の人生を生きているような状態になります。人生の意義を見失い、生きる事は葛藤と苦痛以外の何物でもないと考えるようになります。このような「かくあるべし」は極力少なくしていかなくてはなりません。本来は人間同士を互いに助け合いながら、仲良く暮らしていくのが一番だと思います。そのためには、何が何でも相手に勝ち続けるという人生観は修正しなくてはなりません。人間は意識しないと、つい人間関係が対立して生きずらさを抱えてしまうことに思いを馳せる必要があるのではないでしょうか。
2019.01.19
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学校や会社の人間関係の中で、相手から自分のこと非難、説教、叱責、罵倒、指示、命令、脅迫、軽蔑、無視、からかう、責任転嫁などの仕打ちを受けることは多々あります。これに対して、反発心やエネルギーのある人は即座に応戦します。売り言葉に買い言葉です。これは幼い子供と同じ対応方法です。すると、たちまち人間関係が崩壊して犬猿の仲になります。一般的には、人間関係が壊れることを恐れて、言い返したい事を抑圧して、我慢して耐えています。しかし、心の中では言い返したい気持ちでいっぱいです。するとイライラや怒りの気持ちは精神交互作用てどんどん増悪してきます。それが一定の限度を超えると、我慢の限界を超えて大爆発を引き起こすこともあります。また、扁桃体や海馬などの脳神経がダメージを受けて、うつ病などの精神疾患を発症します。さらに、胃潰瘍などの身体疾患を招いてしまうこともあります。この場合、相手は「かくあるべし」を自分に押し付けているわけですが、自分もまた、相手に対して「かくあるべし」で対応しようとしているのではないでしょうか。相方がお互いに相容れない自己主張を繰り返しているわけです。力でもって相手をコントロールしようとしているのです。言いたいことを我慢するというのも、表面的には喧嘩にはなっていませんが、心の中では相手に対して反発を繰り返しているのですから、同じようなことです。人間関係がいつもこのようなパターンで対立していると、生きていくことが辛くなるばかりです。この解決策は森田療法理論が明確に教えてくれています。相手が「かくあるべし」を自分に押し付けてくる事は、理不尽なことですが、どうすることもできない事実です。これに対して、自分が「かくあるべし」で応戦すると、自分が傷つくばかりで何のメリットもありません。自分を楽にして、自分を救うためには、自分の感情や身体感覚に注意を向けていくという方法があります。森田理論で言うと、事実本位、自分中心の立場から相手と接触することです。この方法ですと、相手と云い争いにはありません。そして、自分のイライラや怒りを癒してくれる効果があります。まずは、相手の言動を五感を使って十分に把握することに努める。見たり聞いたりして事実関係を正確につかむ。次に、相手の言動に対して、第一に沸き起こってきた感情、つまり「純な心」をしっかりと認識することです。初一念を思い出して対応するのです。 その際「かくあるべし」を含む初二念、初三念は横に置いておくのです。相手の言動に対して、自分はどのように感じたのか、どのような気持ちになったのかを「純な心」で掴んでいくのです。そこから出発して、自分はどう考えているのか、どう主張したいのか、どう行動したいのかを考えてみるのです。相手をどうやってやり込めるのかというよりは、自分自身に立ち戻って、その時の第一の感情を見つめて、否定しないで受け入れていくのです。そのことに専念することです。また、相手の言動に対して、すぐに対抗意識を燃やすのではなく、その時の自分の身体感覚はどうなっているのかに注意を向けていくのです。できれば、つぎに「純な心」でつかんだ自分の感情や気持ちを、私メッセージを使って相手に伝えていくとよいと思います。これは相手を言い負かすことではありません。相手の言い分に対して、自分の感情や気持ちを伝えて、自分を解放して癒してあげることにつながっているのです。
2019.01.12
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学校や会社などで休憩時間や雑談の場が恐ろしいという人がいる。そういう時間帯に、仲間とどのような付き合い方をしたらよいのかわからない。他人は自分が少しでも隙を見せると、自分して攻撃してくるはずだ。それを放置すると自分が大きく傷つくはずだ。それだけはなんとか避けたい。自分の気持ちや意志を伝えることを抑圧して、巨大な要塞を作り、一途に他人から責められることを防ごうとしているのだ。その不意の攻撃から我が身を守るのは、雑談の場から離れておくことだ。一人で勉強や仕事をするフリをしてごまかしているのだ。確かに仲間外れにされて孤立することはとても辛いことだ。でもこてんぱんにやっつけられて再起不能に陥ることは絶対に避けたい。そういう態度でいると、他人の言葉はいつも自分を責めているように思える。相手の一言一言は自分に喧嘩を売っているようなものだ。相手の話を相談を持ちかけられているようには思わない。自分を相手が思うようにコントロールしようとしているのだと決めつけているのである。相手の話を聞き、自分の意見を言って、双方の主張のズレを確認する。そしてそのズレを埋めるために協議をする。譲ったり譲られたにしながら、妥協点を見つけるという方向にはいかない。勝つか負けるかしかない。負けると自分が惨めになるので、絶対に勝たねばならないと考えているのだ。人間関係が敵対関係になってしまうと生きていても、辛いことばかりだ。そのうち生きる事はひとりで孤独に耐えることなのだと思ってしまう。そういう態度は、相手からしてみると、自分たちを拒否しているように見える。顔色が殺気だっている。体がガチガチで固まっている。今にも暴走して殴りかかりそうだあの人はどうしていつも目を吊り上げて、怒ったような顔をしているのだろう。何を恐れているのかさっぱりわからない。またいつ暴言を吐くのかとても心配だ。何をしでかすか分からない要注意人物とみなしているのだ。相手の態度を見て、自分たちも油断しないで対決するという態度でいる必要がある。さらに「触らぬ神にたたりなし」の方向で、接触を避けよう。このようにしてますます人間関係はどんどん悪循環を繰り返していく。このような人間関係を改善する方法を森田療法理論が教えてくれている。この態度は、常に相手の言動に注意を払い、一喜一憂している態度である。それが予期不安となって、精神交互作用により、泥沼に落ち込んでいくのである。石原加受子さんがよく言われている、 「他人中心の生き方」になっているのである。それを、 「自分中心の生き方」に戻すことがとても大切になってくる。他人の言動に振り回されて、その対応に振り回されるのではなく、自分の素直な感情、自分の素直な気持ち、自分の意志、五感、自分の身体感覚に注意や意識を振り向けるのである。森田理論では、感情の事実、自分の状態、相手の仕打ち、自然の出来事をそのまま受け入れて、「事実本位」に生きていく方向に転換することである。どんなに横道にそれても、そのたびごとに「事実本位」の態度に立ち戻ることが肝心なのである。そのための方法としては、事実をあらゆる角度からよく観察する。事実に基づいて具体的に話す。安易に価値判断を持ち込まない。「純な心」の体得。「私メッセージ」の活用などをお勧めしている。森田療法理論の学習と実践により、少しでもその方向転換ができれば、人間に生まれてきて本当によかったと思えるようになる。
2019.01.09
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