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車の運転は森田理論の「無所住心」を学習する時に参考になります。誰でも最初自動車教習所に通い始めて、初めてハンドルを握った時はとても緊張したと思います。その緊張するのがイヤだからといって、決して車の免許をとらないという人もいないわけではありません。これは気分本位だと思います。またこわいという気持ちを無くしてから教習所に通う人は理知本位です。でも多くの人は車の免許をとりたいという強い欲望のおかげで、自動車学校に通ったのです。初心者のうちはウインカーやバックミラー、シフトレバー、ブレーキ、アクセルなどが気になり、あちこちに注意が向きます。車を操作するということが精一杯で、安全に車を動かすための注意の気配りはできていません。パックをしていてぶっかったりして、不安定な走行になります。これは森田でいうと注意が自分の心や体に向いている状態です。森田でいう自己中心的になっているのです。注意の大半が内向している時は決して良い結果は出ません。でもその段階を乗り越えると、自分の不安や動作にばかり向いていた注意は外向きに変わってきます。ウインカーやバックミラー、シフトレバー、ブレーキ、アクセルに気をとられることはなくなってきます。それらは有意識の状態から、無意識の状態になり自然に適切な動きが出来るようになります。注意は常に外向きになり、他の車の動き、歩行者の動き、道路の状態、天気、交通検問、スピードの監視などに向くようになります。また目の動きも適切になり、危険を回避しながらスムーズに車線変更も出来るようになります。いくら不安な問題を抱えていても、注意の大半は安全走行のために外向きになっているのです。緊張感がなく弛緩状態で車を運転していると危ないことこの上もありません。「無所住心」という森田の考え方は、症状のみに注意を向けるのではなく、このように注意の外向化が起こり、あらゆるところに注意が向いてくるような生活のことをいいます。森田先生はすべてのものは常に変化し流動している。我々の感情もこの自然の事実から逃れることはできない。変化に身を任せて、心を悩み一点に集中させない生き方を教えてくれています。
2013.05.22
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「武士の家計簿」という本がある。映画にもなりました。これには加賀100万石の武士の生活ぶりが紹介されている。ほとんどの武士の家計は借金だらけで、多額の借金を抱えた日本国のような状態であった。それでも体裁を保ち、面子を重んじる生活から脱出することはできなかった。さらに明治6年12月、明治新政府は「家禄奉還」の制度を布告した。これはいままで藩に属していた武士は給料をもらっていたわけであるが、一時金を払って以後従前の給料は支払わないというお達しであった。つまり今でいうリストラである。これにより多くの武士は職を失うことになる。このリストラは日本全国の武士に及び大変な社会問題となった。これによって急速に武士は二極分解していったという。最も多かったのは、かつて家柄を誇った士族の多くは、栄光の過去を懐かしみ、現状に不満をいい、そして将来を不安がった。当然ながら、そうした彼らには明るい未来はやってこなかった。よい仕事はなく、その日の飢えをいやすのが精一杯という生活に甘んじる人が多かったのである。家族を道連れにして、栄光の加賀藩とともに美しく沈んでいったのである。その一方で少数ではあったがその変化を認めて受け入れた人がいた。受け入れがたい現実を発奮材料として、社会に役立つ技術を身につけようと過去の栄光を捨て去ったのである。そういう士族には未来がきた。ごく一部の人たちだが、時代の変化を読んで、今までの生活を捨てて、仕事を転換して変化に対応したものが、明治新政府の仕事にありついたのである。カメレオンのように素早く変化に対応してゆく。状況は変化させることは難しいのだから、自分を状況に合わせて変えていく。変化に対応する生き方を岩田真理さんは、サーフィンにたとえて説明されています。サーフィンでは、サーファーは「波」という、動いているものにのっているのです。常に波の様子を読まなくてはいけません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力だけではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。人生の波に乗るとは、一瞬一瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察して、その時その時で適切な判断がとれるように努め、自分の生を前に進めていくことです。人生の波はあがったり下がったりします。無理に反発しないで、動きに合わせて、その波に乗ってゆくことが、自然に服従するということです。その生き方がいちばん安楽な生き方となります。
2013.05.15
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森田先生は風邪をひくという説明を何回もしておられます。風邪をひくというのは、冷水浴をやって、急にコタツに入るとか、寒いときに駆け足をやって、暖かい部屋で休むとかいうときに起こることである。それはなぜか。寒い中で精神が緊張状態にあったものが、急に全くの弛緩状態に変化してしまうからである。特にコタツにもぐりこんでのうたたねのようなことが最も悪い。これは緊張と弛緩のバランスが崩れて、弛緩状態の方向に偏り過ぎになっている事をいっています。つまり森田先生は風邪をひくというたとえ話をしながら、精神の拮抗作用の説明をしているのである。生活する上でいつも緊張と弛緩の調和を維持することを心掛けないといけない。私のところで修養したものは、自然に生活に対する欲望や緊張感が養成されて、弛緩との調和を保つことができるようになって、その結果、風邪をひかなくなるのである。森田先生のところを退院した人は、実によくいろんなことに気付くようになります。家の修理個所、家族や身の回りの人たちへの配慮などどんどん目の中に入り、それにともなって体が自然に動いてゆくようになるのです。今まで注意が自分のこと、症状にばかり向いて内向していたエネルギーの行き場が、外向きに、前向きに、建設的に変化してゆくようになったのです。それは緊張と弛緩のバランスがとれるようになって、正常の状態になっただけのことですが、自分としては体重が増えて体調がよくなり、家族は人が変わったようになったと言ってびっくりしてしまうのです。これは森田の「生の欲望の発揮」とのバランスがとれるようになったことでもあります。森田先生はこの「生の欲望の発揮」を森田理論の中心に据えていますが、これを制御する不安との調和を図るという事も同時に指摘されている事を付け加えておきたいと思います。
2013.05.12
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水谷啓二先生の思い出話より。ある日のこと。先生は庭石に腰掛けて、それを取り巻くように立っている7,8名の若いものを相手に、何か話をしておられました。すると森田先生が、「どうだ水谷君、わしの話が分かるか」と聞かれました。私は心の中で「分からないことは分からないと答えるべきだ」と思い、「わかりません」と答えました。話はさらに続きましたが、しばらくしてまた私に、「どうだ、わかるか」と聞かれました。それに対して私はやはり、「わかりません」と答えました。先生は話をつづけられましたが、さらに三度目に、「少しは分かるか」と聞かれました。それに対して私は、「少しも分かりません」と答えました。すると、森田先生は激しい見幕で、「君一人が分からないと言って頑張るものだから、わしはもう話をする気がなくなった。そのために君は、わしの話を聞きたくて集まっているほかの人たちに、少なからず迷惑をかけたという事実が分からないのか。」といわれたそうです。水谷先生は怒られた事で悲しくて涙がでてきたそうです。それに関連したことで、全集5巻にこんな話があります。お父さんが博打をしていて、それを見つけた子供が博打は悪いことだと思って警察に届けました。それでお父さんは逮捕されました。この新聞記事を見てある人は悪を憎む素晴らしい子だといいました。ある人はお父さんがかわいそうだといいました。森田先生の答えはこうです。父親をかばうという人情から出発しなければならない。この子は低能者か意志薄弱である。この話で森田先生が伝えたいのは、理屈や理性で持って正直に返答や行動をしているつもりだろうけれども、理屈や理性を第一に押し出すのではない。その時に自然に湧いてきた感情をまずもって優先させなければいけない。感じが先で理屈や理性はその次にでてくるのである。感情を理性で抑えつけるからダメなのである。もっと降って湧いてきた感情を無視したりやり込めたりしないで、信頼できないものか。水谷先生の話も、話の内容はよく分からないけれども、先生が一生懸命話してくれているのだから、少々分からなくても先生に気を使って分かりましたというように答えたほうがよいのです。どんな場合も感情を信頼して、感情から出発して、理知で調整していく。この順番でバランスをとっていく。この順番を反対にすると神経症を招くのです。これは森田理論の大事な考え方です。
2013.05.10
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(続き) 怒りに対して理知の調整という事はどのようなことをいうのでしょうか。「怒り」を上手に消す技術 吉田たかよし著 ソフトバンク文庫から一部ご紹介します。1、作り笑いをする。これは形から入るという事です。森田理論では「外装整えば内装自ずから熟す」といいます。効果があります。実験してみてください。2、苦手な相手、相手がとても感情的になっている時は無理に接触しない。ゴキブリが嫌いな人にゴキブリを好きになりましょうと言っても無理な話です。嫌いは嫌いという気持ちを大事にしましょう。嫌いを無理して好きになろうなどと考えてはいけません。3、ゲームをする。私はネット麻雀を楽しんでいます。怒りのホルモンであるノルアドレナリンがでている時にゲームをすると、ノルアドレナリンはどんどん消費されることが分かっています。野菜のみじん切り等も効果があります。4、その怒りを紙に書く。怒りは自然現象ですからどうしようもありません。それはそのままにしておいて、理性を働かせるようにするのです。なぜ腹が立ったのか、相手の言い分は何か。対応策はないのか。等を整理するのです。文章にすれば、冷静な理性の世界にスイッチすることができます。5、未来に目を向ける。人間の脳の機能としては過去を忘れることはできないように仕組まれています。イヤなことを早く忘れようとすることは却ってさらに記憶を強化して苦しくなります。なすべきことややりたいことに手を出して新しい感情を作り出してやればよいのです。6、感謝する。脳の機能として、感謝することは忘れてしまっても、何かに困るわけではありません。感謝することは忘れるように出来ているのです。反対に覚えておかないと損をする事、相手から怒られるようなことは、自分の生存を危うくすることがあります。だからいつまでも覚えておくようになっているのです。でもこれではバランスがとれません。バランスをとるためには感謝することを無理にでも思いだしてみるのです。この気持ちが怒りを減少させる効果を生み出します。7、相手の怒りは最後まで吐き出させる。そのあとからこちらの言い分を言う。改善策を出す。怒りは3分ぐらいで山を迎えてしだいにおさまるようにできています。だからその間相手に怒りを吐き出させることが大切です。ここのところのタイミングを外しては、火に油を注ぐことになります。注意しましょう。そのあと、おもむろに対策や改善策の案を話すのです。これがポイントです。怒りはしだいに自然に流れて善後策の話で盛り上がります。8、家族のイライラは過剰な依存体質に原因があります。それぞれ別々の時間を持つ。家族といえども、一人一人が別々の心と身体を持った他人であるという気持ちを持つことが大切です。夕食後血糖値が上昇してリラックスしたときなどに普段から思っていることなどを話してみるのはいかがでしょうか。喧嘩しやすい家族は、物理的に接触を減らして、それぞれ自分だけで過ごす時間を持つことが有効です。9、自分自身に対するイライラは、紙に書いて工夫改善で乗り切る。友人との約束を忘れたり、やるべきことがたまってイライラすることがあります。森田先生は整理したりしないで、よく目につくところにほったらかしにしておくと、忘れることがないといいます。朝寝坊で困るという人は、朝寝坊のメリット、デメリットを紙に書いてみるとよいでしょう。すると自分への怒りが収まり、意識が対策に移ってゆくでしょう。
2013.05.06
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怒りの感情が湧いてきた時は、その感情を押さえつけてはいけないと森田理論では学習します。腹が立つという感情をそのままにして、腹をたてておくしか方法はない。それがいちばん安楽な道である。でも腹をたてると、その感情が暴れ馬のように暴走して、暴言を吐いたり、暴力をふるったりすると困るので、怒りの感情が発生するのをイヤがるのである。しかしもともと怒りがでてくるという事は、人間が生き延びていく上に無くてはならなかったものである。太古の昔、自分に危険が及びそうになった時は、ノルアドレナリンという怒りのホルモンを分泌させて血管を収縮させて戦闘態勢に入っていた。闘うか逃げるか瞬時に判断して素早い行動に駆り立てていたのである。もしそうした対応がとれなかったとしたら、人間の生存は極めて危ういものになっていただろう。つまり怒りという感情はときによっては必要なものであって、これを無視したり、ごまかそうとしてはいけない。むしろ上手に活用し、有効に利用する態度が大切だという事です。森田理論では怒りという感情は自然現象であり、やりくりしてはいけないと言っています。この基本を押さえてさらに話を進めてみましょう。人間は進化の過程で、前頭葉皮質を発達させてきた。つまり理性を発達させて、怒りという感情を制御できるようになりました。理性が働かないと大変です。それはわがままし放題の幼児を見ればすぐ分かります。幼児はまだ脳が発達していません。だから葬式の真最中に大暴れすることができるのです。また酔っ払いがやりたい放題の暴言を吐いたりするのは、アルコールによって理性の働きが麻痺しているからです。つまり怒りに対して暴走や暴発が気になるという人は、理性の制御、調整がうまく機能していないということになります。ここでも感情と理性の調和はとても大切になります。ポイントはいつも感情を優先させて、後で理性でもってバランスを整えていくというのが森田理論の考え方です。理性の調整はノウハウがあります。これを次の投稿でご紹介しましょう。(続く)
2013.05.05
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日本人の生活を見ていると、昔から一つのものをいろんな使い方をしてきた。そうゆう工夫ができる民族であると思う。たとえば畳の部屋である。夜は布団を敷いて寝る場所となる。朝はテーブルを出して食卓にもなる。マット出せばヨガもできる。ちょっとした趣味や娯楽の部屋にもなる。べッドをおいてしまうと、寝ること以外は利用法がない。外国人はびっくりするのである。大根という野菜は実に多彩な食べ方ができる野菜である。大根おろし、おでん、ふろふき大根、大根サラダ、たくあんなどである。工夫すればまだまだ料理法はあるだろう。森田先生は風呂の残り湯はすぐに捨てることはなかった。洗濯水、部屋の掃除、庭のうちみず、植物の水やりなどである。徹底して活用していった。新聞に挟み込まれるチラシでもメモ用紙やカルテとして使われている。これはケチでそうされたのではない。物にはそれぞれに価値がある。その価値を工夫して最後まで活かしてあげたいという森田先生の考えの表れなのである。その考えは、入院生にも、自分自身にも貫徹されていた。つまり自分の持って生まれた特徴で利用できるものはどこまでも、最後まで利用し尽くすという考え方なのであった。物の性を尽くし、人の性を尽くし、自分の性を尽くす。自分の持っているものを見つけてどこまでも活かしていくという「唯我独尊」という思想は、自分の生活の中にぜひすぐにでも取り入れてみたい。この考え方を推し進めて、生の欲望にのっとった生き方ができるようになれば、素晴らしい人生が待っていると思う。
2013.04.24
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みなさんは腹が立った時どんな対応をとられていますか。1、 ふくれっ面をして、その腹立たしさを爆発させて喧嘩をする。2、 じっと我慢する。ひたすら耐える。3、 その場は耐えしのぶが、以後その人には近づかない。4、 他人にグチをいう。同情を求める。5、 腹の立たないような包容力のある人間になろうとする。6、 食べたり飲んだり、ギャンブルなどで発散する。7、 反論の材料をよく整えて、整然と闘いを挑む。腹がたった時こそ森田理論を応用したいものです。精神拮抗作用と感情の法則が役に立ちます。まず感情の法則1。どんなに腹立たしい感情でも、放っておけばひと山越えておさまってきます。この法則を知っておけば、何もしないでじっとしておくことです。さらに早くしようと思えば、その腹立たしさは横に置いておいて、その時のなすべきことに手をつけることです。その時にいくら腹が立っても、後で考えるとたいしたことではなかったという体験は誰でもしていると思います。これは実際に生活の中で実験してみることが大切です。次に精神拮抗作用。森田先生は腹が立つときは殴ってやろうか、それとも嫌味の一つでも言ってやろうかとか、その感情をそのままにしておけばよいと言っています。そのままにしておけば、人間には反対の考えが自然と湧き出てくるようになっている。人間の心の仕組みはそのようにできている。殴りかかったり、腹立ちのまま相手を攻撃したりすれば、その後の付き合いが難しくなってしまう。腹が立つけれどもここはひとつ我慢しようということに落ち着く。どちらかに態度を決めてしまうと、とても融通はきかなくなります。臨機応変に動くことができなくなるのです。それともう一つは、3日たってもまだ怒りが収まらないようだと、それは腹が立つだけの理由がある。そういう時はたまには準備周到にして闘いを挑むことも必要だと言っている。そうしないとストレスを抱えたままになる。また相手は自分を見限って、以後家来のように軽くあしらうようになるといっておられます。でもここでも慎重に精神拮抗作用を応用しないと、取り返しがつかないことになることもあると思う。
2013.04.10
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南アフリカのバベンバ族では、部族の誰かが不正をはたらいたり無責任な行動をとった時に、村の真ん中で一人で座らなければいけません。逃げられないようにしてあります。村人はみんな仕事を止めて、集まって輪になり、その人を囲みます。普通はみんなでその人の悪事を白日のものにさらして、その罪に応じて罰を決めるのかと思いますが、その部族は違います。子どもも含めた全員が一人一人、その人が過去にしたよいことについて話し始めるそうです。その人について思い出せることすべてが詳しく語られます。その人の長所、善行、親切な行為などのすべてを、輪になった一人一人が詳しく語るのです。村人はこれ以上ない誠実さと愛を込めて話します。誇張もでっち上げは許されません。不誠実な態度や、皮肉な態度をとる人もいません。その人を共同体のメンバーとしていかに尊敬しているか村人全員が話し終えるまでこの儀式は続きます。それは数日間に及ぶことがあります。最後に輪が崩されると、その人を部族に再び迎え入れるお祝いが始まります。生活の発見会の前理事長の斎藤光人さんは、どんなに人格者といわれるような人でも内面には卑猥なもの、醜いもの、汚いもの、好色なもの、幼稚なもの、狡猾なもの、自己中心的なものを持っているといわれています。反対に殺人事件を起こすような人にも、よい面はある。善行をしたことはある、人に親切をしたことはあります。悲しいかな人間はその両面を持っているのが人間の事実である。森田先生も片方の悪い面ばかりを見て、相手を価値判断してはその人を本当に見たことにはならない。よい面を見てバランスをとって初めて見たことになるといわれています。日本では悪いことをした人は裁判で罰を与えられ刑務所に入れられます。でも出所した人の再犯の可能性がとても高くなっています。それは罰を受けることによって罪は償われて無かったことにされるからだと思います。バベンバ族の罪に対する対応はとても森田理論に近いものがあると思います。
2013.04.05
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野村元監督はプロ野球は「プロセス 過程」が大切だという。これはバッターボックスに入る前に周到な準備を欠かさないことだという。「一に準備、二に準備、三に準備」を徹底することだという。97年に広島からヤクルトに小早川毅彦がやってきた。彼は野球のエリートコースを歩んできた。持って生まれた天性だけで勝負してきた。野村監督は小早川に、「おまえはバッターボックスに入っても何も考えていないだろう」「ヤクルトのベンチからみていると、ただ来た球を打っているとしか思えない」といっている。そのうえで、巨人の開幕投手の斎藤雅樹の攻略方法を解説した。斎藤のとりわけ目立った特徴は、左バッターに対しては、インコース高めに見せ球をはなってから、外角から入ってくるカーブで攻めてくることだった。特にワンスリーになるとカウントを稼ぐために、ほぼ100パーセントの確率で投げてきた。「いいか、インハイに来たら、次に外からのカープがくるという前触れだ。だから外からのカーブを踏みこんで打て。」と指示した。その試合で小早川は3打席連続ホームランを打って、「監督、バッチリでした」といったという。勝負する前の準備で勝敗が決まっていたということです。森田理論ではこの準備をするということを努力するといいます。そして努力する過程そのものが幸福なのだといいます。「努力即幸福」は森田先生がこのんだ言葉です。
2013.04.02
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森田でいう「唯我独尊」を後押ししてくれているような歌があります。「世界に一つだけの花」です。森田の応援歌といってもいいのではないでしょうか。「オンリーワン」「悩むあなたのままでよい」大変共感できます。花屋の店先に並んだいろんな花を見ていた人それぞれ 好みはあるけどどれもみんな きれいだねこの中で誰が一番だなんて争うこともしないでバケツの中 誇らしげにしゃんと胸を張っているそれなのに 僕ら人間はどうしてこうも比べたがる一人ひとり違うのに その中で一番になりたがるそうさ 僕らは 世界に一つだけの花一人一人違う種を持つその花を咲かせることだけに一生懸命になればいい
2013.03.04
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本来の欲望を達成するという目的が、その障害物となって現れた不安、恐怖などを取り去ることに目的が転化することはどうして起きるのだろう。いくつも原因が考えられる。1、欲望の達成は努力をともなう。場合によっては苦しい。安易に欲望を達成することなどできないのに、楽をして目的を達成しようと考える。不安を感じないで欲求を実現しようと考える。生き方が積極的ではなく、消極的なのである。2、不快感は感情の法則で学習したように、放置しておけば自然に消えてなくなるものである。消えてなくなるまで待つことができないのである。また感情は自然現象でありコントロールできないものであるのに、意志のままにコントロールできるという認識の誤りがある。できないのは自分の努力が足りないと考えるのである。3、人間には危険を察知したときにすぐに逃げるという逃避欲求がある。時には逃げることも必要だが、我慢するということが全くないのは、気分本位の生活態度である。4、根底には、自分が幸せになるには、不快感をなくする方向で努力している。たとえば欠点をなくしていけば人から好かれる。ミスや失敗をしないようにすれば人の評価がよくなる。と考える。人に好かれるために人の役に立つことをするとか、人が嫌がっている仕事を引き受けるとかは考えないのである。つまり幸せになるために自分から積極的に働きかけるということがないのである。受身の生活態度になっている。
2013.03.04
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中島みゆきの「時代」という歌は、森田理論の諸行無常、すべては変化流転しており、流れに身をゆだねていれば、どんな苦しいことも必ず次の展開が待っているという意味ではないでしょうか。神経症で苦しい時、この歌詞に癒された人もおられることと思います。私もそうでした。今はこんなに悲しくて 涙も涸れ果てて もう二度と笑顔にはなれそうもないけどそんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょうまわる まわるよ 時代はまわる 喜び悲しみ 繰り返し 今日は別れた恋人たちも 生まれ変わって巡り会うよ 旅を続ける人々は いつか故郷に出逢う日をたとえ今夜は倒れても きっと信じてドアを出る たとえ今日は果てしもなく 冷たい雨が降っていても めぐる めぐるよ 時代はめぐる 別れと出逢いを繰り返し今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ まわる まわるよ 時代はまわる 別れと出逢いを繰り返し 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ
2013.03.03
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2000年に史上7人目の3割30本30盗塁を達成。タイガースでは打点王、MVPなど数々の記録を達成したアニキこと金本選手は故障とケガは違うという。ケガとは不可抗力の「アクシデント」のことをいう。たとえばデッドボールによる負傷がそうである。デッドボールにはどうしても避けられないケースがあり、これは自分の責任だとはいえない。けれどもねんざや肉離れは自己管理の甘さが引き起こすものだ。私の解釈ではそういうものを負傷というのである。自分の油断や甘えなどのせいで避けられなかった結果おったのはケガではなく故障だと考えるのである。フライを追って選手同士がぶつかり合うのはアクシデントだが、野手が目測を誤ってフェンスに激突するのは、自分の責任なのだ。私は年に一、二度は風邪をひくことがある。これも故障の一つかもしれない。金本選手はケガはそれに備えて準備はできないが、故障はそうならないためにできる準備があるというのである。そういう不安に対しては積極的に普段から準備をして手を打たなければならないといっているのです。森田理論学習では、コントロールしてはいけないことと、不安に学んでコントロールしなければいけないことがあるといいます。コントロールしてはいけないことは、不安、恐怖など自然現象を取り除こうとやりくりすることです。コントロールしなければいけないことは、行動したらよいと気がついているのに手をつけないで、将来さらに大きな問題を発生させることです。そんなときはできるだけ早く積極的に行動しなければなりません。この区別をして対応することが大切です。
2013.03.02
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時間を最大限に工夫して活かすことについて考えてみたいと思います。一番気をつけているのはテレビをだらだら見ないということです。私はよい番組は朝新聞でチェックしてハードディスクに録画しています。あとで再生して見るようにしています。するとコマーシャルは飛ばして必要なところだけ見ることができます。ゆったりした時間帯に見ることができるのでよいです。また特にこれはと思うものはDVDに移して保存しています。定番の番組は、題名のない音楽会、情熱大陸、人生の楽園、なんでも鑑定団、ためしてがってんなどです。その他NHKスペシャル、クラッシック番組、報道ステーションなどです。以前は人に歴史あり、プロジェクトXはよく見ていました。反対にほとんど見ないのはクイズ番組、グルメ番組、バラエティ番組です。集談会でお勧めのテレビ番組というのをやりましたが、人それぞれいろんな好みがあるものだなと思いました。
2013.02.22
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会社でイヤな上司、無理難題を押し付けてくる上司はどこにでもいます。部下たちは連れだって居酒屋などで上司の悪口を散々言い合ってストレスを発散させます。また仲の悪い夫婦は相手の欠点や行動の問題点をあげて、お互いにやりあいます。喧嘩をしていいたいことをいうと、その場は少し気分がよくなるような気がするのですが、その後はなんとも気まずい雰囲気が何日も続くことがあります。これを森田理論学習ではどのように考えたらよいのでしようか。私は一つのヒントとして次のように提案いたします。悪口をいう、相手を批判する、バカにする、相手を否定するなどはいうまでもなく、自分の「かくあるべし」を押し付けていることになります。よくないのはみんなよく知っているのです。とはいっても話の流れで、ついついそうした言動はでてくるものです。100歩譲ってそれは仕方ないとしても、ちょっと考えてみたいのです。そのやり方はバランスがとれていますかということです。相手もそういった一面を持っているからこそ、自分がそうした態度をとるのですが、せっかく森田理論の学習をしているのですから、バランスを意識してみましょう。森田では10の欠点や問題点があると、10の長所や賞賛するところがあるといいます。欠点や問題点はすぐに出てきました。長所ははたしてあるのだろうかと思うのが普通でしよう。そこを最初は無理やりにでも結構ですから考えてみましょう。無理にでもバランスをとるようにしてみましょう。悪口や欠点、行動の問題点は次から次へと連鎖してどんどん膨らんでゆきます。それを断ち切って反対のことを考えるのです。1つではなく2つをめどに考えてみてください。2対1ぐらいで何とか調和がとれるぐらいになります。頭にはバランスを整えるということを念頭に置いてください。今までと違う世界が広がってくると思います。
2013.02.19
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無所住心が身についたら、次の段階として変化に対応するということを身につけたいものです。小泉元首相は平成13年の所信表明演説の中で次のように述べています。私は変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは変化に対応できる生き物だ」という考えを示したといわれています。森田先生は、「わしは、電車の中で立っているときには、体操のときの休めの姿勢をとっている。つまり両足を開き、片足に全身の重みをかけ、他の方の足は浮かして、その足先で軽く床に触れるようにしている。これは不安定の姿勢であるが、この姿勢でいるときは、浮かした方の足先で鋭敏に体の動揺を感ずることができ、周囲の変化にたいして最も迅速に、しかも適切に反応することができる。それは不安定の姿勢の上に立って、しかも自然の心にしたがい、どこにも固着することがないからだ。」
2013.02.11
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今日NHKである番組です。お勧めします。3回に分けて放送されましたが、今日2回目の再放送と3回目が放送されます。これはかって一世を風靡した日本の大手家電メーカーが、中国などに押されて倒産してゆく過程を描いたフィクションの物語です。しかしソニーやパナソニックなどの現実を知っているものからすると決してフィクションではなく、ドキュメント物語のように思います。森田との関連では、世界経済が変化流動しているときに、自ら変化対応しないで、旧態依然として過去の栄光にしがみついていることは、破滅を意味するということです。一つのことにとらわれると、身の回りに起きる変化にはとても対応できません。それがいかに神経症という悲劇を生みだしているのかを考えてみてください。話は変わりますが、ノキアという携帯端末の会社があります。今の業績は知りませんが、この会社はもとは木材業の会社だったということです。変化に応じて業態転換したのです。そして一国の経済を左右するほどの会社になったということです。
2013.02.09
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柔順と盲従は大違いです。20歳の水谷先生が入院中の時、森田先生が、「今ここで三べん回って、わしにおじぎをして見給え」といわれた。女中さんなどみんなが見ている前で、犬のような真似をするのは、いくらなんでも恥ずかしい。しばらくためらったが、私は思い切って、不格好にもぐるぐると三べん回って、先生の前に頭を下げた。森田先生は苦笑いしていわれた。「それは柔順ではなくて、盲従というものだ。君は、わしが言ったことを取り違えている。柔順な人は、自分の心に対しても柔順なものだ。君はいま、こんなことをするのは恥ずかしい、という気持ちが起こっただろう。それが君の正直な気持ちだ。そして、その正直な気持ちを押しつぶすようにして、ええい、やっつけろ、という気でぐるぐるまわりをしただろう。」まったく図星で、返す言葉もない。「こんな場合、ほんとうに柔順な人であったら、困ってもじもじするか、あるいはそいつはどうもとかいって、頭をかくだろう。いくら柔順に実行するといっても、ばかげきったことで、先生の言葉に従う必要はない。」森田先生は意に沿わないながらも、運命に従って力を尽くすことを境遇に柔順といっておられます。盲従というのは意に沿わないのを押し殺してしまうことです。押し殺す必要はないのです。むしろ反発して心の中は煮えかえるような気持を持ったまま、運命に従う。これが大事なのです。これは精神拮抗作用のことを説明しておられます。精神拮抗作用は真ん中ということではありません。どちらか一方に偏ってしまうことがまずいいのです。状況に応じて右へ行ったり左へ行ったりすることがよいのです。
2013.02.09
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外国人は人と同じだということに悩む。人と違うことを喜ぶという。それに対して日本人は、人と違うことを恐れる。人と同じか、人より少し上ということで安心する。この違いはどう理解したらよいのだろう。外国人は、人と違うのは個性と捉える。長所を持っているととらえている。そして自分にあって他の人にはないものを活かして勝負してゆく。長所をアピールして生きていく。それこそが競争社会で生き延びる道であるという気持ちがある。日本人は、人と比べて劣るところがあると、人からダメ人間扱いされ、社会から見捨てられてしまう。社会から落ちこぼれてしまうと、孤立してしまう。孤立してしまうと人間は生き抜いてゆくことはできない。だから社会から受け入れられることが、人生では一番大事だと思っている。だから人と比べて劣っている、欠点がある、ミスをするなどということは決してあってはならないのである。だからミスは隠す。失敗をするとごまかす。欠点は取り繕うのだが、そういうことをすればするほど、他人に胡散臭がられ、敬遠されるのだが、本人は全く気がついていない。この悪循環を断ち切る道が森田理論の中にあります。そもそも我々は人と比較する時、他人の長所と自分の短所を比べています。これは森田でいう調和、バランスをとるということから考えると片手落ちです。人と比べるのは人間としての宿命のようなものだから、これはどうしようもない。しかし他人の長所と自分の短所を比較するのだったら、反対の面である自分の長所と他人の短所も比較検討すべきだと思います。思考のバランスをとるということです。自分には長所はないと思っておられるかもしれません。森田では10の短所がある人は、必ず10の長所があるといいます。世の中の出来事はすべてバランスがとれているというのです。自分のすぐれた特徴や他人にはなくて自分にはあるものをはっきりとみつけることが大切です。それがはっきりすれば、次には欠点やミスや失敗は大変気になるでしょうが、それにはできるだけ手をつけないで、自分の持っているものや長所をいかに活かしていくかということに全精力を傾けていくこと。一つには神経質の性格特徴で学習しますが、一見ダメなようにみえるこの性格は実は宝の山を持っているようなものです。この性格特徴を活かしていくことです。こうゆう態度を森田理論学習で学んでいってほしいものです。
2013.02.05
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神経質同士は、お互いその心持が分かり、心の底まで見通しているから、お互いその欠点を挙げあって、相手にばかりそれを改良させようとする。グジグジといつまでも、しつこく言い争いをする。神経質の人は気の軽い大まかな人と結婚するのがよい。すると気の軽い人は、あの人はどうせ気難しがり屋だからといって大目に許し、また神経質の方では、どうせあれには、難しいことを言っても分からないといって、あまりやかましくいわなくなる。お互いに許しあうから円満になる。私の知り合いに浪費癖のある人がいた。ほしいものがあれば後先考えずすぐにローンをくむ。妻はそんなことばかり繰り返す夫に対して、反対して止めに入るといいのだが、そこの奥さんはすぐに夫に同調して「買おう買おう」というのである。これでは家計が破たんするのは目に見えている。にらみをきかす妻と結婚しておくべきだった。終にこの夫婦は家も手放し自己破産した。森田先生は「結婚についても、最も大切なことは調和ということである。」といっている。調和というのはバランス、精神拮抗作用のことだが、森田先生は宇宙から説き起こして調和ということを大切にしていた。私も調和というのは森田理論学習中の大事なポイントであると思う。不安と欲望の単元は調和がメインテーマである。森田では生の欲望が強ければ不安が大きいという。神経症で苦しむ人は不安の虜となって苦しむ。生の欲望はほったらかしになる。反対に生の欲望が突っ走るとこれはこれで始末に負えない。人間にはもともと欲望がでてくれば、不安がでてきて、欲望がかってに暴走しないように制御機能としてうまい具合に働くようにできているのである。そういう仕組みが森田理論学習によって分かれば、不安に振り回されることはなくなると思う。ただしこれはかくあるべしに振り回されないときのことであって、強力なかくあるべしに振り回されている時は、そんな悠長なことは言っておれないのである。この関係もおいおい学習して理解してゆきましょう。
2013.02.02
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自分の症状がまだよくならないとき、森田先生から「少しはよくなったか」と聞かれたら、どう答えるか。まだ実際によくならないから、正直に「まだまだです。」というか。あるいは、「おかげでだいぶよくなりました」というか。谷口さんという人は、「先生がせっかく今まで治そうと骨を折られているので、全く治らないというのは気の毒だと思いますから、おかげでよくなりましたという」と答えた。森田先生は、「それでよい。それが人情である。その人情の自然から出発すれば、万事がすらすらと流れるようになる。」といわれています。ここでは森田先生は感じから出発するということを言おうとしておられます。私はもう一つ別な面があると思います。もし私に聞かれたら、一方にはまた治らないという気持ちもある。また他方そう言っては森田先生に気の毒だという気持ちもある。そこでついつい会釈笑いして、もじもじしながら、頭を掻いて口ごもるだろうと思います。要はどちらか迷うときは、無理に態度をどちらかに無理やりに決めようとするのではなく、どっちつかずの態度がよいと思います。精神拮抗作用の応用です。事実森田先生も次のように言っておられます。森田施設から退院したO君、学資の援助をしてくれた人のところへ、就職のことで、依頼に行きたいのだが、就職が遅れた理由を聞かれると困るので、なかなか行けなかった。しかしやっと正直に答えようと決心がついた。それに対して森田先生は、「答えにくいことを聞かれたら、頭を掻いて口ごもればよい」といわれています。森田先生の言葉は、何を分からせようとしての発言なのだろうと考えながら読み解くことが大事だと思います。
2013.01.26
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森田先生は精神拮抗作用とバランスについてしばしばコメントされています。免疫学の権威である安保徹医師が、免疫をつかさどる白血球のバランスが崩れることによって、ガンをはじめとするほとんどの病気は発生するのだといわれています。白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできているそうです。そして顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%の比率になっているときバランス的に安定しており、病気にならず健康に暮らしてゆけるそうです。ガン細胞は健康な人でも毎日数千単位で作られているそうです。これを処理しているのはリンパ球です。この微妙なバランスを支えているのは自律神経ということです。自律神経にはご存知のように、交感神経と副交感神経があります。自律神経がどのように白血球の調整をしているのか。交感神経が優位になると、顆粒球が増えて働きが活発になります。副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて働きが活発になります。自律神経は私たちの意志とは無関係にコントロールされているのですが、実はストレスの影響を受けやすいという特徴があります。ストレスが多いと交感神経優位になります。人間関係や争い、気候変動、自然災害などのストレスなどにさらされると、顆粒球の割合が増えて、リンパ球の割合が減ってきます。ガンで外科的手術を受けると、途端にリンパ球が減少してきます。がんが再発した後亡くなる人が多いというのは、ガンを攻撃するリンパ球が少なくなっているということが原因の一つです。だから病気にならないために過度のストレスのないバランスのとれた生活を心がけることです。人間の寿命は125歳といわれていますから、それに向かうためには自然に沿った生き方が大事になります。安保徹先生は一般人分かりやすく免疫の話を本にされています。森田先生は筋肉の動きや宇宙の営みから調和とかバランスを論じられていますが、世の中の出来事を見てるとよくバランスの取れているものだなと思います。
2013.01.13
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森田先生曰く、「短い一生は面白く、気持よく、自分の好きなようにくらすのでなければ生きる甲斐がない。生きている価値がない」というふうに考えるのを、私は「気分本位」と名づけている。それは人生の事実や実際を無視して、ただ自分の気分を標準にして人生を判断しようとするものである。享楽主義とか耽溺主義とかいうものはそれから起こるのである。理知本位で、理想主義におちいるものがいる。この傾向の人は、人生を是非、善悪、正邪など価値的に批判し、自分の小知や小理くつできめた基準に適合しないことは一切それをやらないというふうである。理知本位は学生が時間割ばかり作り、明日から勉強しよう、明後日からしようと考えてとうとう勉強ができないでしまうようなものである。私はかねてから「自然に服従し、境遇に柔順なれ」と教えているが、自分の身分や境遇に順応して、それに素直に服従し努力するのが、私のいうところの「事実本位」の生活であり、実際主義、力行主義、本当の意味での自然主義である。二宮金次郎や中江藤樹などがそうであったように各人がそれぞれの境遇に応じて働き、不平も言わず、自分のしたい勉強をする。それは「事実本位」の心がけによってはじめてできることである。」対人恐怖の私でしたら、人に会うのがこわい。怖いから逃げてしまうのが気分本位。そんな自分を自己否定して、怖くないようにいろんな手を使ってやりくりする。これは思想の矛盾に陥り神経症になる道でした。事実本位とは、人に会うのは怖いが、必要最低限の仕事をしないと生きてゆけないので、しぶしぶ仕事に出かけてゆく。これが事実本位だと思います。
2013.01.11
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寺田和子さんは「気骨の女」という著書の中に次のように書いておられます。これは藤村トヨさんの一生を紹介したものです。森田先生は日本女子音楽体操学校の校長である藤村トヨさんに頼まれて34歳から講師をされています。無償で引き受けられました。性格は森田先生そっくりです。森田先生は陰ながら応援しておられました。森田正馬は「努力即幸福」という。生きとし生けるものは、アメーバ―から人間まで、営々刻々とその本能にそなわった最善の方法で機能を発揮している。アメーバ―が動き、白ネズミが篭のなかで車を回す。その機能の発揮を人間にたとえて、「努力」という。機能を発揮することそのものが[幸福]である。努力はすなわち幸福であり、同時に人生の目的でもある。人生の手段も努力であり、人生の実際も努力である。実際を離れた観念のやりくりでは幸福はつくれない。森田先生は、「相撲取りはその体力、学者はその智力、詩人芸術家はその感情、宗教家はその意思、みなそれぞれの個性のままに、その機能を発揮してゆくことが幸福である。欲の袋に底がないように、死ぬいまわの際までも、飽くことを知らない向上的努力、その努力なく幸福はない。」正馬は、努力しなければならない、と説くのではない。「ねばならない」とすると、努力はたちまち労苦に変わる。無邪気に遊び事と思えば、努力は感興となる。今努力しているんだという自覚もなく、せっせとなにかに取り組んでいるとき、人は幸せなのである。こうゆう話をどんどんしてゆきたいと思いますが、これらをつなぎ合わせると神経質性格を持って生まれた人の生き方がはっきりと見えてきます。でも大事なことは、頭で理解するだけではなく、それらを自分の日常生活の中に具体的に落とし込んでいくということです。そのことを、グループで学習していくことが体得の早道です。
2013.01.11
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この言葉は、「生の欲望」の発揮には、必ず「不安、恐怖」が付きまといますが、どちらに偏ってもいけない。二つの間で時と場合に合わせてバランスを取りながら前進していくという事の説明になります。森田先生のお話から説明しましょう。精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。対立する純な心を、理知でもって調整することが大事である。例えば、時間がたてば腹がへり、ご馳走を見れば食べたくなる。これが純な心である。その時、今日は下痢をしているから人前で行儀を悪くすると笑われると考えるのが理知である。この純な心と理知の調整によって人はその行いが正されて、初めて理想にもかなうようになる。 今日誰かの日記に「先生に叱られて、非常に恐ろしかった」と書いてある。ちょっと見ればなんでもないが先生に対する反抗気分と不従順を表している。先生に叱られて恐ろしいのは、当然であり、人情である。この純なる心そのままであると同時に、一方には、森田先生に接近し、話を聞き、指導を受けたいという心が対立している。この恐ろしくて逃げたいと、近づいて幸福をえたいという二つの心が相対立するときに、我々の心は、微妙になり、臨機応変、最も適切になり、いわゆる不即不離の状態となるのである。神経質者の考え方というものは、先生は恐ろしいという心を否定、圧迫し、一方には近づきたいという心に、いたずらにむち打ち、勇気をつけようとして、無理な努力を工夫し、その結果は、かえって神経の働きが萎縮し、偏りたるものになる。私の場合でゆうと、呉先生は私の恩師であるから当然最も恐ろしい人であった。もちろん取り入って先生に一目置かれたいと思うことはあったが、私から積極的に働きかけるというようなことはなかった。先生がお出かけのとき、車へ同乗を頼むことはなかったが、先生の方から「誰か一緒に乗らないか」といわれるときには、蜘蛛の糸にかかった昆虫に蜘蛛が飛びつくように、決してその機会を逃すようなことはなかった。患者とともに4、5人で町を歩いていると、私は息切れがするので、きわめてノロノロと歩いているのに、患者はいつまでも、ぴったり後ろからくっついてくる。私はじれったくて「いつまでも、僕のあとへくっついて来る人の気が知れない。」といったら今度は私の方からすっかり離れてしまって5、6間の間隔をおいてソロリソロリと歩いている。私はまた私の付き添いの娘をやって「離れてしまうような気のきかないものは、なんとも仕様がない。」と言わしてやった。患者はどうしてよいかまごついてしまう。私の話が始まる。犬を連れて散歩するときに、犬は主人のそばにばかりくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、またどこからともなく帰ってきて、主人の足元に絡みついてくる。これが犬の自然な心で、いわゆる不即不離の働きである。すなわち犬は退屈のために主人を離れるが、それかといって、絶えず主人を見失ないはしないかという事が気にかかるから決して離れてしまうことはない。しかるに君たちは先生の先に追い越してしまうと無礼になるという理屈にとらわれ、反対に離れてしまえばまったくよりつかない。
2013.01.10
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森田的な生き方を一言でいうと、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」ということになります。別の言葉に言い直すと「事実唯真」「あるがまま」です。同じことです。森田では核心的な大事な考え方です。暑いときは暑い。寒いときは寒い。勉強できないときは勉強できない。負ければ悔しい。貧乏は心細い。人に軽蔑されるのは恨めしい。それがそのままの動かすべからざる事実であってなんとも仕方のないことである。どうすることもできないからそのまま我慢する。これを「自然に服従する」という。イヤなこと、苦しいことも、ことさらこれをイヤと思わず、苦しいと感じないようにしようと我情をはるのを「自然に反抗する」といいます。すると心の葛藤が起こり、思想の矛盾が起こり、強迫観念が起こり、不安心が起こる。我々は世の中の感情の事実に勝つことはできない。事実に服従するよりほかに道はない。このことを考えないで、いたずらに拙なる知識を持って、観念で都合のよいように説明し、満足を得ようとするから、迷いのうちにさまようことになる。感情の事実を受け入れ、自然に服従して生きていくことを岩田真理さんは、サーフィンにたとえて説明されています。サーフィンでは、サーファーは「波」という、動いているものにのっているのです。常に波の様子を読まなくてはいけません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力だけではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。人生の波に乗るとは、一瞬一瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察して、その時その時で適切な判断がとれるように努め、自分の生を前に進めていくことです。感情の波はあがったり下がったりします。無理に反発しないで、動きに合わせて、その波に乗ってゆくことが、自然に服従するということです。その生き方がいちばん安楽な生き方となります。
2013.01.10
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我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転していて、音楽を聴いたり、ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。普通の人が机上論的に考えて、読書するには閑静な場所を選び、精神を集中しなければならないというのは、実際は精神がぼんやりして無意識になるのに一番都合のよい場所をわざわざ選ぶようなものである。だから、同時に多くの事物に触れて、注意が多角的に働いている時に精神は最も緊張し、したがって本もよく読めるのである。「無所住心」が体得できると、一つのことだけにこだわることがなくなり、次から次へと感情が現れては消えてゆくようになります。それは常に流動変化している自然と同調してゆくことにつながります。
2013.01.10
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感じを生みだし、育て、高めていくということです。森田先生は言います。ここでの修養の出発点は、物事に対する「感じ」を高めてゆくことである。我々は、見るもの・聞くものなにかにつけて、ちょっと心をとめていれば、必ずなにかの「感じ」がおこる。かりそめにも、これにちょっと手を出しさえすれば、そこに感じが高まり、疑問や工夫が起こって、興味がわく。これを推し進めてゆけば、そこにいくらでも進歩がある。手をだすことが億劫だと思っても、イヤイヤながら仕方なく手をだしてみる。目の前のことに手をだしてみる。部屋の掃除、風呂の掃除、靴磨きなど。そこに何かの感情が生まれる。しばらく経つとどんな感情も流れてゆく。我々はすでに起きてしまった感情はやりくりすることはできませんが、手をつけることによって新しい感情を作り出すことができます。新しい感情が次から次へと生まれてくるようになれば、新しい感情は精神活動を活発にして、一つのことにだけこだわってはおられなくなります。日常茶飯事のことに手をだすのが基本ですが、仕事や勉強、自分のやってみたと思っていること、趣味やスポーツ、芸事などに拡がってくるとよいでしょう。その際、森田先生は「ものそのものになりきる」と言います。この態度が大切です。わしは風呂を焚くときには風呂焚きになりきり、診察する時は医者になりきり、将棋をさすときには将棋さしになりきる。つまりなにをやっても全力をつくすのだ。この心構えが大切です。私の参加している集談会で、これを徹底的に生活の中に取り入れている方がおられます。普通の人が見逃すようなちょっとしたことでいろいろと工夫が生まれ、生活の喜びが感じられています。それを聞く我々もたいへん刺激を受けています。
2013.01.10
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