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能楽の世阿弥は「風姿花伝」の中で森田に関連することを述べている。今日はこの中から「変化に対応する」ということを取り上げてみたい。「われは昔よりこの良き所を持ちてこそ名も得たれ」私たちは昔からこうしたやり方でやってきて能楽の世界で名声を得たのだ。自然にそう思ってしまう。そして現状に甘んじてしまう。実はそうしたやり方ではもうダメなのに、それに気づくこともなく、同じやり方を踏襲してしまう。この考え方、やり方は「よくよく用心すべし」と世阿弥は言う。これはつらいところである。ついつい過去の実績に頼る。それで現在の生活が安定していれば、それを捨てて新しいことを始めようとは思わない。その方が心を煩わせることがなく、精神的に安定している。現在問題がなければ、何もしなくてもいいのではないか。確かに現状を否定したら、自分の人生を否定するようにも考えられる。個人、自助組織、会社組織、国家の別なくこうしたことは起こる。今までの成功体験が、いつまでも右肩上がりで成長を続けるに違いないという願望なのだ。そこにあるのは現状維持、問題意識のなさ、問題意識があっても、新しいことに挑戦することをためらう心理である。これは変化することを拒み、今の状態に安住しようとする反自然の態度ではないのか。世阿弥はあくまでも自分と対象の「関係性」を考えている。対象は一時も停滞することがなく流動変化のうちにある。人間はその変化と常に関わり続ける宿命を持っているのではないか。能楽もそうである。能楽は娯楽であるので変化を無視すると命取りになる。常に変化を予測し、仮説を立てて変化をリードしていくしか生き残る道はない。現状に甘んじない精神が、停滞を打ち破り、未来を切り開いていく。自分自身を模倣し、自分自身をいつもコピーしつづけるのは、安心である。しかし、そこには停滞があり、衰退が待ち受けている。個人、自助組織、会社組織、国家であれ、その生命を維持していくためには、過去の成功体験にどっぷりとつかることではなく、状況の変化に合わせて、自分自身が変化していくことである。(処世術は世阿弥に学べ 土屋恵一郎 岩波書店より引用)森田先生も変化の流れに素直にのっていくことを盛んに言われている。変化といえばファイナンシャルプランナーの資格を持っているせいか、どうしたら自分の資産を大きく増やせるかという相談を受ける。普通株式投資等で短期に値上がりを期待できる銘柄を聞かれることが多い。これは分からないと答えている。上げ下げを繰返している短期相場を当てるという人がいれば詐欺師だと思う。でも確実に資産を増やす方法はありますと答えている。株式にはチャートがあります。過去の株価の変化をグラフにしたものです。これには短期のグラフとして日足、中期のグラフとして週足、長期のグラフとして月足があります。私が注目しているのは月足です。それを10年単位ぐらいで見てゆきます。すると波があります。しかもこれは短期の波ではありません。長期の波はある程度のトレンドがあります。2009年に日経平均が7056円をつけたことがありました。つい7年前のことです。このままずるずると行くという人もいましたが実際には反転しました。だいたい波は下がりきれば、間違いなく上がります。それが自然の流れです。我々はその波に乗りさえすればよいのです。現在は1万6000円台です。ということは2009年が最悪でそこから反転して右肩上がりの波を作ってきたのです。私は月足を見て最安値の時に信頼できる会社の株を仕込むことだと思います。これが最も高い確率で成功する唯一の道です。それを長期に持つスタンスを守ること。最低3年は寝かせておくことです。その間配当収入はあります。この長期の波に乗ることです。肝心なことは月足の波が底に来る時までじっと待つことです。底というのは過去の波を見て判断することです。値上がりしているからと欲をかいて、波が上がっている時、上がりきった時は投資してはいけません。静観することです。そういう人は欲に目がくらんでいるとしか思えない。でもいったん月足で株価が底に来た時を見きわめたら、思い切って勝負することだと思います。注意点として株式投資は何があるか分かりません。投資は自分の全資金の2割程度にとどめておくことです。そうしないと危険です。特に老後の資金をすべて元本保証のないものに投資することはやめるべきです。そういう意味では、今は投資対象の時期ではありません。日経平均が底に来る時期をここ数年は粘り強く待つ時期です。待てない人は株式投資からは完全撤退をお勧めします。
2016.09.16
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私はメンタルケア心理専門士の一発合格を目指してきたが、最終的に不合格だった。学科試験、論文試験は合格したが、第2次試験の面接試験が不合格だった。最終合格率は11%だったという。この時の心境を「純な心」で考えてみた。初一念はやっぱり駄目だったか。ショックだ。初二念では、腹が立ってきた。面接試験にあたっては、「メンタルケア心理専門士認定試験合格虎の巻」というものが、受験校から教材として配布されていた。それによるとたとえばこんな問題が出るとされている。1、 パワーハラスメントについて説明しなさい。2、 臨床動作法とはどういうものか説明しなさい。3、 インフォームド・コンセントについて説明しなさい。さらにQ&Aで、「面接試験では模擬カウンセリングなどをおこなうのでしょうか」という質問について、実技試験の面接では、模擬カウンセリングの実施はありませんとある。テキストの中から「○○について答えなさい」などの知識が問われますとある。ところが実際には3問出題され、そのうち2問はロジャーズの来談者中心療法の手法を使った模擬カウンセリングだった。想定外でそれに向けた準備は全くしていなかった。頭が真っ白になりうまく答えられなかった。今考えれば、模擬カウンセリングがあると分かっていれば、ロジャーズの受容、再陳述、反射、明確化に沿って対策を立てていたことは明白である。多額の学費、大阪までの2度にわたる交通費を使いながら、できる限りの準備をして望んでいるのに想定外の問題を出すというのはどういうことだ。腹が立ったのはそういう理由からだった。初二念というのは、一度湧き起ると次から次へと湧き起るものである。腹が立つ材料はどんどん拡がっていくのである。夜眠れなくなるほど次から次へと浮かんでくる。森田理論では、初二念は、初一念に続いて自然に湧き起こってくるものではあるが、これに基づいて行動を起こしてはならない。いくら腹立たしく思ってもそっとしておくことだ。そんなとき、効果があるのは、初一念の感情を思い出してみることだという。「あんなに準備をしたのに残念だ。ショックを受けた」この感情を思い出して、イライラする感情を抱えたまま、ほとぼりを冷まして、次にどうするかを考えてみよう。そこでイライラしながらその感情を2日ほど放置してみた。すると冷静になり、客観的視点で考えられるようになってきた。そう言えば受験校の講座を受けるにあたり、メンタルケア心理士、メンタルケア心理専門士の講座を申し込んだ。その時たしかカウンセリング技術の訓練の講座も付属してあった。だが私は、それは申し込まなかった。受講料が上がるし、無駄だと思ったのだ。それが今回命取りになったのだ。そんなことは面接試験を受けるまでは全く頭になかった。でも考えてみれば、この試験はカウンセラーになろうと思っている人が受ける試験である。それならカウンセリングの基礎技術の習得は必須の科目である。私のように心理療法一般について学習して知識を身につけたいと思っているのとはわけが違うのだ。片手落ちの考え方をしていたことに気づかされた。試験で問われているのは、私はカウンセラーになりたいという熱意があるのかどうか。ただとれるものなら資格だけでもとっておこうという気持ちで始めたのではなかったのか。そういう意味で、主催者の安易に合格者を排出しないという姿勢は共感が持てる。私の場合、対人関係で怯えながら生活や仕事をしている人たちに、私の身につけた森田理論を使って役に立ちたいという気持ちはある。でもカウンセリングルームを開設して相談業務を開始するには二の足を踏んでいる。それは経営にゆきずまったり、カウンセリングがうまくいかなかったり、医療過誤の訴訟を起こされた時の予期不安が膨らむからである。今考えているのはネットを使ったメール相談や日記指導、森田理論学習の系統的学習の主催である。これならホームページを開設するぐらいで、自宅できそうな気もする。十分な準備を整えて是非取り組んでみたいという気持ちは強い。問題は、将来そういう活動をするにあたって、カウンセリング技術の習得はどういう意味を持っているのか。取り組んでみる価値があるのかどうか。大いに役に立つものなのか。傾聴、共感、受容は生活の発見会の自助活動で30年間も取り組んできた。それ以上のものがあるのかどうか。その点を明確にする必要がある。早速カウンセリングの本を図書館で10冊ほど借りてきた。これから見極めをしてみたい。そんなことを考えていると不合格になったわだかまりは少なくなった。「純な心」の活かし方はこう言うことなのだなとしみじみと感じた。
2016.08.22
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ひろさちやさんは変化には4つあるといわれている。1、 不可逆的変化2、 可逆的変化3、 循環的変化4、 偶発的変化1の不可逆的変化とは、生まれて成長し、歳をとり老人になりやがては死んでいく。生老病死は意思の力でコントロールすることはできない。子ども時代に精神的、身体的虐待を受けて大人になってそのトラウマで苦しむ。トラウマは取り除くことができるかもしれないが、過去に遡って虐待そのものを消し去ることはできない。2の可逆的変化とは、小さい頃家が貧しかったのに、努力して経済的に豊かになる。反対に小さい頃は裕福だったのに、放蕩三昧で中年以降貧困に苦しむようになる。3の循環的変化とは、春から夏、夏から秋、秋から冬というように季節が移り変わるという変化のことである。4の偶発的変化とは、台風、豪雨、地震、津波、雷など自然災害などのことである。あるいは株価や円が上がったり下がったりするような変化である。3と4はほとんどだれでも素直である。夏は暑い、冬は寒い。つらいことではあるが、みんな受け入れて生活している。時々デイトレーダーなどで短時間で株売買で巨額の利益を上げようと挑戦することがある。予測は的中する時は少なく、失敗することの方が大きい。手を出さない方がよい。地震などでも耐震工事をおこなって対策をとるが、これも絶対ということはない。想定外の大きな地震や津波が来た時は早く逃げるしか手がない。2の場合はできるだけ積極的に手を出した方がよいと思う。その中でも将来が末広がりに展望が開けること。本当の意味で他人のためになることは特にそうである。でもこれも程度問題である。例えば野球の素質のない人が練習によって、プロ野球の選手を目指すということがある。また、勉強が苦手なのに、塾に行ったりして偏差値の高い学校を目指す。あるいは、ほとんど治らない病気にかかっているのに臓器移植をして延命を図ろうとする。可能性が少なかったり、精神的に自分を追い込むような目標に固執することはどうなのだろうか。そういう場合は選択肢を広げて、視点を変えてみる。自分の達成可能な目標に切り替えたほうがよい場合があるかもしれない。1は森田理論学習と関係がある。不安、恐怖、違和感、不快感などの感情などは、いったん発生すると取り消すことはできない。不可逆的変化である。自然現象でコントロールできないものであるにもかかわらず、人間の意志でなんとでもなると思っている。松下幸之助氏はなんとかなるものはたしかにある。でもその割合は約1割に過ぎない、他の9割は自然の摂理によって変化しているのであり、人間にできることは受け入れることだけであるといわれている。感情の法則1にあるように、「感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである」とある。われわれはあまりにもせっかちなのだろうか。そのことをころっと忘れて、あきもせず、不安や恐怖と格闘してしまう。そして神経症の泥沼へと突き進むのである。(諸行無常を生きる ひろさちや 角川書店参照)
2016.08.21
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最近は寝苦しい夜が続いている。クーラーを使っておられる人が大半だろうと思う。でも使い方を誤ると夏風邪をひいたり、のどの炎症をおこしたりする。要注意だ。一昨日の集談会ではクーラーの温度設定の話が出ていた。最低の人は21度、最高の人は28度だった。それから冷房をギンギンに効かせて布団をかぶって寝ている人もいた。冷房を使わずに除湿、ドライにしている人もいた。私も除湿にして27度に設定している。タイマーをかけて5時間ぐらいで切れるようにしてみたが、暑苦しくて目が覚めてしまう。クーラーのない昔の人は暑い夏をどう過ごしていたのだろうか。驚いたのは、小中学校、高校でクーラー設備のない学校が存在していることだった。今は夏休みだからよいが、暑い時は汗を拭きながら勉強しているのだろうか。集談会でもいろいろと工夫例が出ていたがこれといったものがない。昼間家にいる人は、日中は近くの図書館、大型ショッピングセンターに避難しているという人もいた。確かに夏の昼間、図書館は人であふれている。同じようなことを考える人はたくさんおられる。森田を勉強していると、ストレスを感じるほど寒くなったとき、暑くなった時、どうしたらその寒さ暑さから逃れられるのかという話がある。これについては中国の唐代の洞山良价という禅僧が次のように言っている。「寒さ・暑さのない処に行けばよい」これは軽井沢のような避暑地や南半球の涼しい気候の処へ行けばよいと言っているのか。そうではない。洞山良价禅師は、「寒いときは寒さで殺し、暑いときは暑さで殺してしまえばよい」すなわち、寒いときは寒さそのものになりきる、暑いときは暑さそのものになりきる。それが無寒暑の処だというわけです。こう言われると寒さ・暑さは我慢するしかないと言われているのであろうか。夏の暑いときに水分をとらずに太陽の光を浴びていると、紫外線の影響を受けるし、最悪熱射病で救急搬送されることにもなる。暑さに対して我慢大会のようなことは一害あって一利なしのようにも思える。命にかかわるような我慢は如何なものか。これは、言わんとしている真意が違うと思う。この真意を探ってみよう。暑いのは自然現象である。自然現象は基本的に人間の力ではどうすることもできないものである。それなのに我々は自分の都合に合わせて自然現象をコントロールしようと考えている。暴風雨、台風、地震、津波などはいくら制御しようと思ったところで限界があります。できる限りの備えをする必要はありますが、限界を超える自然現象は基本的には受け入れるしかなすすべはありません。「ものそのものになりきる」とは自然現象に対しては、逆らわないで受け入れてしまう。服従してしまうことを言われているのだ。これは基本的な生活態度としてしっかりとさせる必要があるのではないか。私たちは不安や不快なことがあるとすぐに、よいとか悪い、正しいとか間違いだとか価値の判定をおこないます。そして、悪いこと、間違いと判定したことに対してすぐに対策を立てて、実行に移そうとします。なんでもかんでもこのように対応することはまずいことです。どうにもできないことをコントロールしようとすると、最後にはエネルギーを使い果たして、苦悩を抱えて葛藤するようになります。また自己否定で苦しむことにもなります。コントロールできることと、できないことをしっかりと区別できる能力を身につけること。コントロールできないことに対しては、素直に受け入れて、服従していく態度を養成していくことが大切だと思います。
2016.08.09
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羽生善治さんは、将棋では「先を読む」ということは当然大事にされている。と同時に、「大局観」で、パッとその局面を見て、今の状況では、どうすべきかを直感で判断することも大切だといわれている。晩年の大山康晴15世名人と10局ほど対局された時に感じたことがあるそうだ。大山先生は「局面を読む」ということをされていない。我々は、100手、200手と膨大な量を読んで指している。大山先生は「おおよそこんなあたりだろう」と、すぐに指される。読んでいないのだが、手がいいところに行く。自然に手が伸びているのだ。それがピタッという感じで、まさに芸であった。大山先生はどちらかというと、「大局観」の視点に重きを置いて将棋を指しておられたように思う。サッカーの日本代表監督の岡田武さんもこれによく似たようなことを言われている。「感性というのは、ロジックではなく、全体の空気を感じたりすること、センスという意味もあるし、感性というとどちらかというと、理屈や戦術論、ロジックじゃなくて、全体視。全体を感じて、そこからくるフィーリングみたいなもの、僕の中ではそういうイメージ」サッカーの世界でも国際試合になると、決して技術や戦略だけでは勝てない。インスピレーションのようなものが国際試合では特に重要になってくる。志岐幸子さんは、このように「全体を感じる」ことができているときは、必死に思考を巡らせて物質界の状況をとらえようとしているのではないといわれる。むしろ、それまでこだわっていた技術や戦略などの「外側の知性」を思い切って捨てることが大事です。外側に向いていた意識のスイッチが、内側への世界へと切り替わり、「内なる知識」が入ってくる準備が完了したときに「全体を感じる」ことができるようになる。この無意識の世界との交信、ひらめきはとても貴重なものだといわれています。これを別の視点でいうと、普通「集中すること」は、たいていの場合、狭い一点に焦点を当てることのように思われます。しかし、本当の意味の集中とは、肉体よりもずっと広い範囲に当事者の意識が及ぶことで、広い範囲のことを感じられる状態の事です。そういう無意識の世界に入ると注意が広い範囲におよんで調和がとれてくるのです。(「ゾーン」の法則 志岐幸子 祥伝社 226ページより引用)ここで言われていることは、勝負というものは目の前のことだけに目を奪われていると抜け落ちてしまうことがたくさんある。感性とか無意識の世界というのは、一つのことだけに意識が向くのではなく、空の上から現場を俯瞰するような状態になるのだと思います。この考え方は森田理論学習でも全く同じことが言えます。つまり、森田理論において学習用語を細かく学習することも必要です。しかし、それは後回しにしてもかまわない。大事なことは「森田理論全体像」をまず学習することが大切だということです。初めての場所に行く時は地図が役立ちます。そういう大局観から森田理論をとらえるという学習がどうしても避けては通れないと思います。手あたりしだい学習すれば、何か得るものがあるだろうという学習方法では、労多くして実入りは少ないのではなかろうか。というよりも混乱を招くような気がしています。森田理論を早く身につけたいと思われるのでしたら、基礎編の学習を終わられたら、ぜひ「森田理論の全体像」の学習に着手されることをお勧めします。さて、次に「集中すること」の意味を語られている。これは森田先生の言われている事と合致している。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転していて、音楽を聴いたり、ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。森田先生は神経症というのは意識や注意が自分の気になる一点に固定された状態である。これが谷あいの小川を流れる水のように、たえず自然の流れに沿って動いていれば、神経症になることはない。その状態は意識や注意がひとところに留まらない「無所住心」の世界であるといわれている。森田理論では、集中というのは、「無所住心」のような心理状態に入っていることをいうのである。
2016.07.27
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形外先生言行録の御津磯夫さんのお話です。鐘が鳴るかや 撞木(しゅもく)が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る51年前の慈恵医大で私の精神科講義の森田教授の第一声がこれであった。あざやかに今日も私はその日の光景が目の前に彷彿としてくる。私は一瞬面喰って一瞬茫然としたが、この最初の一言が私の一生を支配したようで、なんとも忘れられず、意味もよくわからないまま、私の内的生活を育んできたごとくである。(形外先生言行録 御津磯夫 62ページより引用)これは古歌で、森田先生は「鐘が鳴るかや 撞木がなるか 撞木が当れば鐘が鳴る」と作り変えておられる。また森田先生は、ある時の懇話会で、座って話を始める前に、いきなりポン・ポンと拍手を打たれて、「いま鳴らした拍手の音は右か左かどちらの手からでたのか。「鐘が鳴るかや 撞木が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る」という文句があるが、いってみればそれは不即不離なのだ。思想的にいえば中庸ということであろう。鐘と撞木が単独で存在している限りでは音は鳴らない。音が鳴るということは双方がぶつかり合って鳴っている。相互に影響を与えて「ゴーン」という音が鳴る。今までそこにはなかった新しいものが生まれてきたのだ。強くたたけば大きな音がする。小さくたたけば小さな音しかしない。人間の行動や精神活動も同じである。自分と他者との相互関係の中で、自分も相手も相互に影響を受けて変化していく。生まれた赤ちゃんは母親がかいがいしく世話をしてくれるおかげで、愛着の形成ができ、言葉を覚えて、しだいに成長していく。インドで狼に育てられた女の子がいたが、その子は性格も行動やしぐさも狼そのものであったという。ここでの要点は、人間の行動様式や思想傾向は単独で生まれるものではなく、自然や他者との相互関係の中で育まれるものであるということである。そして次にその相互関係はどうあるべきなのか。森田先生は不即不離、中庸を目指すべきだといわれているのではなかろうか。これに関しては森田全集第7巻437ページを引用しておこう。宇宙の現象は、すべて唯、発動力と制止力とが、常に平行状態にある時にのみ、調和が保たれている。天体にも、物質にも、引力と斥力とがあって、その構造が保たれ、心臓や消化器にも、興奮神経と制止神経とが、相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われている。吾人の精神現象も、決してこの法則から離れることはできない。余は特にこれを精神拮抗作用と名づけてある。欲望の衝動に対しては、常にこれに対する恐戒・悪怖という抑制作用が相対している。欲望の衝動ばかりが強くて、抑制の力が乏しければ、無恥・悪徳者・ならず者となり、欲望が乏しくて、抑制ばかりが強ければ、無為無能・酔生夢死の人間として終わる。この衝動と抑制とが、よく調和を保つ時に、はじめてその人は、善良な人格者であり、その衝動が強烈で、その抑制の剛健な人が、益々大なる人格者である。
2016.06.24
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サボテンというのは、熱い砂漠のような、水分の非常に少ないところに生えています。ですから、極力外に水分を発散しないようになっています。サボテンの原木というものには、やはり葉やトゲが生えていますが、それがだんだん進化して、砂漠のような所に適応するようになっています。つまり、表面積をできるだけ少なくして水分の発散を防ぐために、あのような球体、あるいは棒状のようなものになったのです。そういう水をたくさん貯えている体は外敵にやられやすいから、そのためにトゲをたくさん生やしているのです。自分では意識しないけれども、適者生存でそういうふうに進化してしまったのでしょう。ラクダは砂漠で生活するためにコブがあります。そのコブの中には脂肪がたくさん入っており、エネルギー源ともなるし、分解して水分にもなります。また砂嵐のとき、鼻に砂が入らないように皮や肉が垂れ下がっていて、足は広がって砂にうずまらないようになっています。本来の人間というものも、自然の変化に従って、おのれ自身を変化させて適応していくのがよいのです。そこのところを間違う人間をよく見かけます。高良興生院には植木鉢がたくさんあります。患者がそれに水をやりますが、雨上がりの充分に水を含んでいる鉢に、ジョロでざあざあと水をやっている患者がいます。「雨上がりに水をやるのはどういうわけだ」と聞くと、「いや、先生、私は、毎月一回水をやるように決めておりますから」という答えが返ってきました。自分の主義で外界を律しようとする。そういう弾力のない、いわゆる教条主義といいますか、頑固に自分の主義を守って、少しも変化することができない人が神経質にとらわれている人に多いのです。外界の変化に応じて、我々がどんどん変化しなければ、順応していくことはできないのです。神経質の陶冶というものは、自分が「こうあるべきだ」ということではなく、自然は「こうである」という現実に従って、自分が変化して順応していくものです。もちろん、自分の「こうでありたい」という理想というものは、あってもさし支えないが、誤った理想主義、いわゆる完全主義、あるいは「こうであるべきだ」ということにいつもとらわれて、「こうである」現実に順応できないという態度では、神経質の陶冶はできないわけです。私たちはカメレオンのように周囲の状況に合わせて、素早く変身できるように心掛けるべきなのです。(どう生きるか 高良武久 白揚社 139、185ページより引用)
2016.06.23
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森田先生は、「努力即幸福」ということを言われている。「相撲取りはその体力、学者はその智力、詩人芸術家はその感情、宗教家はその意思、みなそれぞれの個性のままに、その機能を発揮してゆくことが幸福である。欲の袋に底がないように、死ぬ間際までも、飽くことを知らない向上的努力、その努力なく幸福はない。」これは経済的に恵まれているとか、身体的、精神的な悩みや痛みがないとか、生まれてきた環境や境遇がよいとかいうこととは関係ありません。人間はすべての人が問題や課題を抱えている。その問題解決や改善のために、目標や課題を持って向上発展を目指している状態が幸福であるといわれている。だから幸福な状態というのは、すべての人に目の前に平等に開かれているのである。また幸福な状態とは、結果論ではなく、現在進行形の状態をいう。つまりプロセスを重視する考え方なのである。努力する過程そのものに生きがいはある。結果論というのは、他人と自分、過去と現在、「かくあるべし」という観念と事実を比較して是非善悪の価値判断を下していることである。他人のよいところと自分の悪いところを比較して自分を否定する。決してタイムスリップすることのできない栄光の昔話をして懐かしむ。事実や現状を無視して、自分勝手で普遍性のない理想状態に引き上げようとする。いずれも現実、現状、事実を否定しているので、不幸の道をひた走っているようなものだ。幸福は、将来に明るい展望のあるもの、本当の意味で人の役に立つことには積極的に行動をとる。それ以外のどうにもならないものは現実、現状、事実を受け入れることである。対人関係でも結果重視ではなく、プロセス重視の姿勢、会話を心がけることが大切である。例1 仕事でミスをした。結果重視する人 多くの人から叱られた。いたたまれない。ミスは元通りにはならない。いまさら事後処理をしても名誉回復できるわけではない。自分は仕事をする能力がない。もう会社を辞めるしかない。等と投げやりに考える。プロセス重視の人 とりあえず、迷惑をかけた人に事情を話して謝る。事後処理について検討する。第3者に相談して最善の手を早急に打つ。その後、どうしてミスが発生したのかを客観的に分析する。今後ミスを防ぐための対策を立てる。改めて関係各所にお詫びと説明に回る。自分を責めるのではなく、今後ミスの発生を防ぐことに力を入れる。例2 子どものテストの成績が悪かった結果重視の人 成績が悪ければ何をやってもダメだ。勉強している意味がないよ。ゲームをして遊んでばかりいるからこんなことになるのよ。だいたいあんたは勉強しようという意欲が欠ける人間なのよ。プロセス重視の人 残念だったね。この問題があなたに合ってなかっただけなのよ。あなたには問題はなかった。だってあんなに頑張って勉強していたんだもの。この次はきっとうまくいくよ。大丈夫よ。例3 友達とけんかをして泣いて帰ってきた。結果重視の人 どうしてめそめそ泣いているのよ。弱い人間ね、あの子に負けてはダメじゃないの。けんかは勝たなければ意味ないよ。もう一回行って仕返しをしてきなさい。プロセス重視の人 負けて悔しいんだね。負けて悲しいよね。でもこの悔しい経験は大きくなっていつか役に立つんだよ。悲しい貴重な経験はたくさんあった方がいいのよ。例4 イソップ物語の狐とブドウの話 狐が木に生っているブドウをとって食べようとしたが、何回挑戦しても手が届かない。結果重視 自分は運動能力の劣るダメな狐だ。何をしてもうまくできない。劣等感に陥り、こんな自分に育てた親が悪いと親を恨んだ。さらにあのブドウはきっと酸っぱくておいしいブドウではない。だから手が届かなくてもいいのだと思おうとした。プロセス重視 どうしてもブドウが食べたい。でも今の自分の能力では手が届かない。その気持ちは変わらない。どうしたらよいか考えてみよう。親の智恵を借りてみようか。そうだ、脚立のような台があったら届くかもしれない。探してみよう。結果を重視して、それを批判することと、プロセスを重視して次につなげることは最初はたいした違いはないように思えますが、そのうち雲泥の差となって表面化してきます。
2016.06.12
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森田先生は1924年(大正13年)4月21日の日記にこう書いている。「女子体操音楽学校に15年勤続記念として(藤村トヨ校長より)100円を贈られる。余は明治41年3月以来無報酬にて講義し、盆暮れに5円の礼金ありたるのみ」森田先生はそれらのお金は全く手をつけないで郵便貯金されていた。学校が経営難に陥った時役立ててもらおうと思っておられたのである。藤村校長は昭和4年ドイツに体操教育の視察に行くことになりました。森田先生はそれまで貯めておいた2000円余りのお金を「これを持ってゆきなさい」と言って手渡されました。藤村校長は、「1年2年ならともかくも、10余年間、先生は私と私の学校の為に貯金しておいてくださったのです。私の生涯で、この時ほど感動したことはありません」と言われている。その他にも、森田先生は気前よく多額の寄付をしている。郷里の冨家村(高知県香南市野市町)の小学校には4000円を寄付して森田館という講堂を立てた。また小学校にブランコや滑り台、図書、講堂の時計なども寄付していた。また慈恵医大にも2万円という驚くほど多額の奨学資金を提供している。一方では、自分はせんべい布団に寝て、大学の医学部の先生とは思えない服装で通された事はよく知られている。贅沢とは無縁の人だった。熱海の森田旅館の開館も経営難に陥った人を救済することから始められたことである。けっして副業でひと儲けしようなどという浅はかな考えではなかった。利益を出さなくてもトントンの収支でよいと始められたのである。形外先生言行録の中に田原あやさんの原稿があります。(ちなみに、田原あやさんという名前がよく出てくるが、森田先生と田原あやさんは親せき筋にあたる。森田先生の異父姉弟に道さんという人がいた。その方が田原家に嫁いだのである。その兄妹の子供が田原あやさんだった。あやさんは東京にでて森田先生の世話をされていた。)森田先生から物の性を尽くし、100円のものは1000円に、1000円のものは1万円に、というふうに、その物よりもっと高く活かして使いなさい、とよく言われました。「綾子たちは、1000円のものは100円に、100円のものは10円にしてしまう。もったいなくてやる気にもならない。」といわれました。森田先生はお金もそのものの価値以上に活かして使うように工夫しなさいといわれているのです。時間も「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」と言われて、有効に活用することを自ら実践されていた。洗面器1杯の水の使い方、自分の活かし方、入院生等の活かし方もすべての面で潜在能力を見つけ出して最高の形で活かしきるということを実践されていたのである。森田を実践していくとなんでもとことん活かしてゆけるようになる。
2016.06.08
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森田先生と久亥夫人はよく夫婦げんかをしたようである。入院生がいる前でも平気で夫婦喧嘩をしていた。そして後でどちらに理があるか聞いていたようである。けんかの原因は、どうもたわいのないことが多かったようだ。たとえば、森田先生は豆腐が大好物だったが、奥さんは好きではなかった。森田先生が「この頃ちっとも食べさせない」という。それに対して、奥さんは「あれほどたびたびこしらえているのに」と反撃する。奥さんが温泉行きを前にけんかになり、すねた奥さんが旅行を取りやめたこともあった。また森田先生が根岸病院に行く前に、えんえんと4時間もけんかをして大幅に遅刻したこともあった。つまり二人とも、自分の意志が強く、簡単に引き下がるということはしなかったようである。普段からお互いに言いたいことを言い合って、大きなストレスをため込まないようにされていたのではなかろうか。二人のけんかを見ていると雨が降って地が固まるようなけんかであったようだ。お互いに相手を毛嫌いして、まったく寄りつかなくなり、無視しづけるというのとは異なる。協力しあったり、ともに楽しんだり自由自在であった。当時大学教授というのは、社会的には権威があり、とても尊敬される立場の人であった。普通なら雲の上のような立場を利用して、一方的に奥さんを抑圧して思うがままにコントロールすることだってあり得たと思う。しかし森田先生に限ってそんなことは全くしなかった。奥さんを一人の人間として、対等で平等な人格の持ち主として処遇していた。その証拠に森田先生は、奥さんに対して毎月の家事労働に対して給料を払い、盆暮れには賞与も出していた。給料は最初は20円。それがやがて30円。50円になっていった。その頃の1円は少なく見て5000円から1万円の価値があった。また森田先生は、金がなくなると奥さんに借金をして、年1割の利子をつけて返済していたという。今どき生活費の他に家事労働に対して給料を支払うという人がいるだろうか。ましてや夫婦間で借金をして利子を払うというのは聞いたことがない。森田先生は奥さんを対等で平等な人間と見ていたということでなかろうか。森田理論に「物の性を尽くす」というのがある。これは物だけではなく、自分も、他人も、時間も、お金についても言えることである。それもただもったいないからというのではない。そのものの持っている潜在能力や価値を見つけ出して、とことん活かし尽くすという考え方なのである。すべての物や人間に対する愛や信頼感がベースにあるのである。それが人間本来の生き方ではないのかと言われているのである。その一環として、奥さんの存在そのもの、潜在能力を高く評価されていたのだと思う。
2016.06.07
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森田先生はダンスの研究をされていた。藤村とよさんの女子体操音楽学校に講師としていかれた時、何回かダンスをされた事がある。また中野にあったダンス教室を訪ねて生徒さんたちの練習風景を観察されたこともある。「精神とリズム」というテーマで講話をされたこともある。森田先生は精神活動とリズムの関係性に注目して、相互の関係を見きわめて、神経症に役立たせようとしていたのである。森田先生は精神活動も、宇宙の法則通りの動きをしているというのが持論であった。その宇宙はたえず運動している。太陽系では地球等の惑星が太陽の周りをたえず回り続けている。その太陽系も銀河系の中心に向かって2億年かけて1周しているという。その結果、遠心力と求心力の釣り合いがとれて調和が保たれ、お互いに存在出来ているのである。これと同じように精神活動もたえずその時、その場に応じて速やかに変化している。不快な気分も、嬉しい気持ちも時間がたてば消失していくものである。一つの不快な感情にとらわれて格闘したり逃げたりすることは自然の法則に反している。我々はそのたゆまず続く変化の波に乗っていく時が安楽である。不安や快楽にいつまでも身をゆだねようとすることは、自然の法則に反して、自己の存在を消滅させようとするようなものである。独楽は回転しているときが一番安定しています。自転車は前に進んでいるときが、倒れないで安定しています。常に動いて変化しているということが、安定させるためには必要不可欠となります。不安、恐怖、不快な感情も流動変化を心がけて生活すれば、いちばん安楽な対応となります。鴨長明の方丈記の書き出しである。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。(現代語訳)川の流れは絶えないが、それは、もとの水とは違う。よどみに浮かぶ泡は、消えたり生まれたりして、長く残っているものはない。世の中にある人、家も、またこのようなものである。つぎは平家物語の書き出し部分である。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり沙羅双樹(らしゃそうじゅ)の花の色 盛者必衰の理をあらわすおごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとしたけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ(現代語訳)祇園精舎の鐘の音には、永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある。まんじゅしゃげの花の色は、栄えたものは必ず滅びるという法則を表している。権力を持ったものも長くその権力を持ち続けることはできない。それは春の夜の夢のようだ。 強い力を振るったものも結局は滅びる。それは風の前にあるちりと同じである。次に森田先生はもう一つ大切なことを言われている。その運動自体には、一定ではなく大小さまざまなうねりがあるということだ。一様ではなく多彩なのである。別の言葉でいえば、波がある。波は高くなったり低くなったりする。また強弱がある。変化がある。つまりリズムがあるということだ。精神状態でいえば、緊張と弛緩がある。ゆっくりになったり早くなったりする。肝心なことは、この波の動きに逆らってはいけないといわれている。自然の動きに合わせることが大切であるといわれている。自然を自分たちの都合に合わせて変えるのではない。人間の方が自然の変化に素早く対応するということが大事になってくる。たとえば船酔いをする人は船の動きに合わせることを勧められている。船が波で打ち上げられる時は自分の身体も持ちあげるような気持ちになり、次に船が沈む時には自分の身体も沈み込むようにすれば船酔いになるということはない。また同じことを長時間していると、慣れてきて、刺激がなくなり、疲れてくる。つまり緊張の波がひと山越えて弛緩状態に入っているのである。そこで上手に別の刺激を与えてやると、精神は再び緊張状態を取り戻す。緊張と弛緩はたえず繰返されている。人間の盛衰は6年周期で繰り返されているという人もいる。1日のうちでも、昼は緊張状態で夜は弛緩状態が繰り返されている。森田先生は、リズムを生活に取り入れることを勧められている。それによって我々の生活機能を引き立たせる効果があるとも言われている。またリズムは仕事の能率を高めることにもなる。たとえば「いい国作ろう鎌倉幕府」のような語呂合わせ。「わっしょい」とか、「エンヤコラセイ」などのかけ声などである。これらは是非とも生活の中に取り入れて活用したいものである。森田理論学習では「変化に対応した生き方」というのは、一つの大きな学習のテーマである。この学習テーマは外すことはできない重要なテーマなのである。
2016.05.20
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森田理論に「物の性を尽くす」という言葉があります。その物の持っている存在価値を見出して、その価値を高めていく。とことん活用し尽くすということです。そのために気をつけたいことを考えてみました。1、 壊れてもすぐに捨てないことです。出来れば自分で直す。たとえ修理代がかかってもなんとか修理して直すことを基本にする。ましてやすぐに買い替えないこと。2、 どうしても直らないものは、せめて使える部品だけでも再利用すること。3、 普段から自分の持ち物を大切にする。手入れを怠らないこと。手間暇をかけてピカピカに磨き上げること。買った時よりも価値が高まるように心配りをする。4、 欲しい商品にすぐに飛びつかないこと。物が欲しくなったら自分がその商品を持っていないか探してみる。あれば機能面で劣っていても買わないようにする。あれば便利なものでも、自分が似たようなものを持っていればそれを使う。5、 自分に不要なものは役立つ人にあげる。リサイクルショップ、バザー、フリーマーケットなどで引き取り手を探す。6、 自分の読んだ本は他の人に貸してあげる。あるいは欲しい人に差し上げる。7、 一つの物の利用価値を増やして使う。他に別の利用方法がないか考えてみる。捨てられるようなものでも、何かしら役に立つものである。8、 車は出来るだけ買わずに済ます。どうしても必要なときは中古車を買う。必要最低限の装備にする。いつも手入れを行い、ピカピカにしておくこと。レンターカー、カーシェアリング、公共交通機関を利用する。原付バイクを利用する。9、 衣類は必要なものだけにする。破れたりシミがついたら修復して使う。流行にこだわらず気に入ったものを出来るだけ長く使う。こまめにメンテナンスをする。着なくなったものはバザーなどに出す。10、 お金は1000円のものを10000円になるぐらいに価値のある使い方を心がける。家計簿をつけて予算管理を行う。ギャンブルなどにつぎ込まないこと。衝動買いをしないこと。自分の必要以外のお金を持たないように注意する。有り余っていれば役に立つ人のために寄付をしたり、貸してあげる。必要以上にお金を貯めこまないようにする。11、 自分が持っているものでたちまち使う予定のないものは役に立つ人に貸してあげる。12、 自分の持ち物でも出来るだけ多くの人に役立ててもらう。但し管理は自分で行う。物の活用が出来るようになった人は、自分や他人もとことん活用し尽くすようになると思う。
2016.05.11
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私は最近井形慶子さんの本をよく読んでいる。日本人の見失った本来の人間の目指すべき生活を、イギリス人の生活の中に見出して、いろいろと具体的に紹介してくださっているからである。とても参考になる。こんな話が目に留った。井形さんは、小雨の続く冬場、イギリスの北部やスコットランドを取材する。私にとっては、水をはじくけれども通気性を持つゴアテックス素材のジャンパーは高価だがなくてはならないものでした。ところが長年着続けたうえ、日本を発つ直前、間違えて洗濯機で洗ってしまったため、ジャンパーの防水性が薄れ、雨に服が浸透していることに気づきました。そんな折、アウトドアの店で一着200ポンド(約4万円)のジャンパーを見つけ、買おうかどうか悩んでいました。すると若い店員が、迷っている私に「あなたはすでにゴアテックを着ているのになぜ新しいものが必要なのか」と尋ねるのです。私が「このジャンパーは雨がしみるのでもう役目を果たさない」と言うと、彼は即座に「ゴアテックは安くない。メンテナンスすれば必ず元通りになりますよ」と2本の洗剤を持ってきました。その店員は、「買うか買わないかを決めるのはもちろんお客様です。でも私なら10ポンド(約2000円)の洗剤と保護材を買って、今持っているゴアテックをよみがえらせる道を選びますよ。もう1着買う必要はどこにもないですから」と言った。日本でしたら間違いなく新品を勧められることでしょう。少しでも付加価値の高い商品を売ってより多くの利潤を獲得しようと考えます。それが商売人として当然のことと考えます。みすみす売り上げを放棄する店員に対して、経営者としては決して見過ごすことはできないと考えることでしょう。また新品を売らないで、メンテナンス材料を勧めるのを他の同僚たちに見られたら、バカ者扱いされるか、極端な変わり者とみなされます。それは日本という国が過酷なまでの売上予算を押し付けられ、予算の達成を至上命題としているからです。日本社会では、経済至上主義、売上予算必達が会社で生き残るために骨の髄まで貫徹されているのです。テレビコマーシャルを何回も流し、別にその商品が必要ではない人にまで洗脳し欲望を高めて買わそうとしているのです。すべての日本人が経済の好循環、無限の経済成長を目指さないではおられない状況に追い込まれているのです。子どもたちの人間教育はすべてその路線上にあります。子供たちはその息苦しさを、さまざまな形で反社会的な行動として表面化させています。その結果、自分の身体と心の健康を害し、家族や人々との温かい交流を犠牲にしてまでお金にしがみつかざるを得ないような社会の仕組みを作り上げて、さらにそれを強化しようとしているのです。これから先、日本人はもっともっとお金に振り回される生活でがんじがらめになることでしょう。その道から外れることは、経済的弱者、アウトローとして生きていくしかありません。イギリス人の中には社会全体が、物を無駄にするな、今あるものを修理して大切に使い続けよう。少しぐらい不便であっても今持っているものを優先して使おう。そういう物やお金に振り回されないで生活を楽しむというまともな考え方、暮らし方が根底にあると思います。だから、物を売って生活を成り立たせている店員にまで「無駄な金を使うな」という一言が違和感なく出てくるのだと思います。生きるということは物質的に豊かになることだけではありませんよ。ゆとりある生活、日常生活を楽しめる人生、家族や人々との温かい交流を求める生活を優先しませんか。高価なジャンパーをうまく売り抜けたとしても、その人がお金に振り回される生活スタイルを踏襲している限り、心の安らぎ、心豊かな生活を築き上げることは決して訪れることはないということは断言できるでしょう。(イギリス式月収20万円で楽しく暮らす 井形慶子 講談社文庫 54ページより引用)
2016.05.08
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イギリスでは築100年、それ以上の古い家が多い。そういう家にホームステイした人は、水圧の低い、霧雨のようなシャワーには耐えられないようである。何しろ日本ではジェット噴射のようなシャワーを思う存分使っていたのだから。それだけではない。どこの家庭でも湯船にはあふれんばかりにお湯を張り入浴を楽しんでいたのだから。ところがイギリス人は今なおどんな家に泊まっても、霧雨のようなシャワーを使い続けている。もともとイギリスでは、天井裏にあるタンクにお湯を貯めてそれを家中で使う。お湯は何度かバスタブを満杯にすると簡単になくなってしまう。だからお湯を制限なしに使うことはできないのである。日本人の場合はこんな状態が続けば大きなストレスに見舞われる。日本人は、どんなにお金がかかってもすぐに修理を依頼する。そして便利で快適な最新設備に切り替えてしまう。それがまともな人間の生活だと思っている。イギリス人はそんな方向にはゆかない。頑固で、怠慢で投げやりという訳ではない。イギリス人にはちゃんとしたそれなりのポリシィを持っているのである。それはなにか。イギリス人は昔からの生活スタイルを守っていこうとする意思がある。便利で快適だからといって簡単に今までの生活スタイルを変えてはならないと信じている。家や家具にしても時間をかけて気に入ったものを慎重に選ぶ。そこには妥協はない。周囲と調和がとれているかどうか。自分の生活スタイルにマッチしているかどうか。でも選びぬいて一旦自分のものにするとそれらをとても大事にする。手間暇をかけて、どんどん修復しながらみがきあげていく。60年以上も経った家、アンティーク家具などに無上の心の安らぎを見出す。そういう生活を楽しんでいる。もともとイギリス人は何かにつけて不便だからといってすぐに改善しようとはしない。それは、便利さのみ追求していると、多額のお金が必要になり、人間がお金儲けに振り回されてしまうことをよく知っているからだ。あるイギリス人曰く。「これも個性ですよ。古いイギリスの家が持つ性格の一つなんです。この前、友達を訪ねてアメリカに行ったら、たしかにゴージャスでした。ジャグジーやサウナまでついているし、シャワーもいきおいよく出る。それは、まるで娯楽施設のようだったけど、1週間の滞在中、私たちはずっと落ち着かなかった。体を洗うのにイギリス式なら少しの水で事足りるけど、アメリカ人はあれだけジャージャーお湯をあふれさせて毎日使い続ける訳でしょう。なんだか罪悪感を感じたわ」私たちは森田理論学習で「物の性を尽くす」ということを学んだ。「物の性を尽くす」とは、物、自分、他人、お金、時間の持っている価値や能力を十分に発揮して活かし尽くすことだと学んできた。ところが今の日本では「使い捨て」「大量消費」「快適さ」「便利」「付加価値」のもとに、「物の性を尽くす」こととは反対の道を突っ走っている。日本人は新しい機能付きの新商品が出ると、今まで使っていたものは捨ててすぐに買い替える傾向がある。でも、それらを手にするために、拝金主義に陥り、お金に振り回されるようになってきた。物はあふれるほど持っているのに、心の底から充足感を得ることはない。お金を稼ぐためにとても窮屈な生活を余儀なくされている。心の中にポッカリと大きな空洞を抱えているようなものである。生活を楽しむゆとりがなく、あくせくと金儲けばかりに邁進する生活をずっと続けることが正解なのだろうか。日本人はお金儲けに振り回されて、生きる楽しみや充実感をどこかに置き忘れているような気がする。私にはイギリス人の考え方がまともなような気がしてならない。(古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家 井形慶子 大和書房参照)
2016.04.23
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篠田桃紅さんは自分の中に湧いてくるものを、目に見えるようにしているわけで、言葉に置き換えられないから、墨絵にして表現していると言われる。篠田さんの墨絵の抽象画というのは、想像力のない人は理解できないし、面白くない。最初は何も感じなくても、じっと見てこれはなんだろうなと思ってみる。でも、そういうふうにしているうちに、何となく感じることができるようになってくる。何も最初は感じてなかったけれども、一本の線、一つのちょっとした色からも、何かを感じるようなものなんです。自分自身が変わってくることもわかる。昨日はこういうふうに見えていたのに今日はこういうふうに見える。自分がそれだけ、進歩したんだか、後退したんだか、分からないけど、とにかく見えるものが変わってくる。それは当然ですよ。人は、毎日変わっているんですから。私の描く抽象画はあってもなくてもいいようなものです。でもそれが心に沁みるという人もいる。あるヨーロッパの銀行家が、「難しい交渉事をしなくてはならないときは、あなたの絵を見てから交渉に臨んでいます」と言ってくれたことがあった。さーっとした線の勢いを見て、「勇気をもらう」と。私の絵を見て気持ちがすっとした、何となく見るたびに自分が活き活きとしてくる、というような気持ちで見てくれる人もいるのでしょう。少しでも心動かされる人がいれば、描いた甲斐があると思います。でも、そういうことが一切なくても、自分はやりたいことをやった、という満足感が一番ですよといわれる。抽象画というのは、先入観を除外してじっと作品を見てみる。するとそのうち何らかの感じが湧きおこってくる。そこから連想していろいろと考えを巡らせていくというのが醍醐味なのかもしれない。気づきや発見の契機になるのがその作品の持つ力なのだろう。そういう気持ちで篠田さんの作品を見てみたい。(百歳の力 篠田桃紅 集英社新書引用)
2016.04.19
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先日プロテニス選手のマリア・シャラポアさんがドーピング検査にひっかかつた。彼女は「メルドニウム」を使用していたという。この薬は血流が増加し持久性が向上し、運動後の回復力が早くなるという。シャラボアさんに限らずスポーツ選手のドーピング問題はあとを絶たない。以前イギリスの「サンデー・ミラー」は、ソウル五輪を前に、東側諸国の女子陸上トップ選手の間では、メダル獲得のために人工授精で妊娠し、一定時期に人工流産する新しいドーピングがかなりの勢いで広がっていると報じていた。それによると、妊娠初期の数カ月は、ホルモンの分泌で母体に筋肉がついてパワーが増強される。選手たちは、禁止されているアナボリックスステロイド(筋肉増強剤)などの代わりに「合法的手段」としてこの方法をとっているという。薬物使用は選手達に健康被害をもたらす。なかには突然死する人もいる。薬物使用の選手達によると、「薬を飲むのは、本人よりも周囲の医師やコーチの勧めによることが多い」「薬を使わない一流選手は、ごく例外にすぎないともいう」(状況が人を動かす 藤田英夫 毎日新聞社 310ページより一部引用)薬が自分の健康を害し、最悪生命を奪われるような結果になろうとしても、メダルを獲得しなければならないという悲痛な結果至上主義のなせる業である。自分の評価を高めるため、国家の威信を高めるために、絶対にメダルを獲得しなければならないという強い「かくあるべし」が垣間見れる。まともなことをしていては、薬物使用で筋肉や持久力を増強している人に勝つことはできない。スポーツ選手は、結果がすべてであり、その間どんな非合法的、非人道的、非道義的な手段を用いてもかまわないという考え方である。結果が出せない選手は虫けらのようなものだという考えなのだ。そこには結果を出すに至るプロセスは完全に無視されている。プロセスよりも結果オンリーである。これに対して、森田理論は真っ向から反対している。その真意は「努力即幸福」という考え方である。つまり目標や夢に向かって努力しているその瞬間、瞬間に大きな意味があるという考え方である。時にはうまくいかなくてスランプに陥ったり停滞することもあるだろう。そんな時は、イライラしながらも、試行錯誤を繰り返し、新しい方法を見つけ出して自分の能力や技術を高めていく。前を向いて努力していくのだ。すると本番では余分なプレッシャーがかからないので、今までの自分の練習の成果を出しきることだけに集中することができる。結果はもちろん無視はできないが、満足できない結果であっても、また次に挑戦する意欲が湧いてくる。つまり、森田理論は日日の生活を丁寧に取り組んでいくと、感じが高まり、気づきや発見が生まれて、やる気や意欲が湧いてくる。それに従って生活を改善したり、生活を楽しむことができるようになると、幸せな生き方ができると言っているのです。
2016.03.31
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W・ミッチェルさんは過酷な運命に翻弄された人です。彼は、1971年にオートバイに乗っていた時にクリーニング屋のトラックと衝突事故を起こしてしまいました。肘は砕け、骨盤も折れた。しかも、燃料タンクのふたが開いてしまい、中のガソリンがまき散らされ、全身にガソリンを浴びた状態で、ガソリンに火がついてしまったのです。この事故で、ミッチェルさんは全身の65%に大やけどを負い、顔もやけただれ、手の指も黒焦げになってねじれ、足はむき出しの赤い肉だけになった。初めて見舞に来た客のなかには気を失う人もいた。意識は2週間後に何とか取り戻した。それから4カ月の間に、13回の輸血、16回の皮膚移植手術を受けた。数か月のリハビリを経て、この障害に慣れるのに何年もかかった。しかし、そんなミッチェルさんをまたも不幸な出来事が襲います。あれから4年後、今度は、ミッチェルさんが操縦していた飛行機が墜落し、その事故で腰から下が麻痺してしまったのだ。そんな過酷な運命に翻弄されたミッチェルさんはこんなことを言っている。『事故にあう前は、できることが1万あったのが、今では9000になったかもしれない。失った1000のことをくよくよ考えながら残りの人生を過ごすこともできるけれど、ぼくは残った9000に目を向けることにしたんだ。そして、残された9000のうち、100も達成したら素晴らしい人生になるだろう。』素晴らしい考え方だと思います。そして、ミッチェルさんは、その後、友人と事業を興し、成功をおさめます。さらに、やけどで変わってしまった顔、なくなってしまった指、動かなくなった下半身、そんなハンデをものともせず、ミッチェルさんは市長に立候補し当選したのです。こうしたミッチェルさんの人生は多くの人に勇気を与え、世界中から講演の依頼を受けています。(7つの習慣 ショーン・コヴィー キングベアー出版より引用)普通人間は、人の長所、恵まれているところと、自分の短所、欠点を比較して、他人をうらやみ自己否定します。ミッチェルさんはそんなことよりも、自分の存在そのもの、自分に与えられた能力、自分が獲得した能力、自分の性格を正しく認識してそれを活用していくことが大切だと言われています。生まれながら障害を抱えている人もいます。五体満足に生れても、不幸にして、身体的ハンディを負ってしまうこともあります。体の自由が効かず、不便です。自分の不幸を呪って嘆き悲しむばかりではつらいばかりです。そこを出発点として生きていく。残された機能を見つけて、活路を見出して、精一杯生きていくことは大変意味があります。これこそ森田でいう、己の性を活かす、唯我独尊の生き方だと思います。
2016.02.13
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(学習テーマ)リズムに乗る生き方(学習のねらい)この部分の内容は森田理論学習の応用編「生の欲望の発揮」にあたります。(内容説明)森田先生は後年感情にはリズムがあるということを研究されていました。自分でもダンスをされ、ダンス教室にも関心を持っておられました。リズムについては、音楽の二拍子、三拍子、四拍子のことを思い浮かばれる人が多いと思う。音楽では強弱である。またはそのバリエーションのことを言う。そしてそのリズムは繰り返えされている。さらにリズムは繰り返しながら、元へと戻っているということだ。心臓の動きなどはその通りである。あるいは血圧なども昼間は高く、夜は低いこともそうだ。体温も日中は高く、夜は低い。交感神経は昼間優位で、夜は副交感神経が優位になる。ホルモンも昼間はアドレナリン優位だが、夜になるとセロトニン優位となる。人生はよく波に例えられる。波はうねりである。森田先生は全集第5巻の131ページで、守田宝丹の「身家盛衰循環之図」を説明されている。森田先生は、家系にも自然の波の中に身を任せていると、浮き沈みが繰りかえされているといわれているのだ。時化の海でいうと、船が波の上に打ち上げられると、次には必ず波の下に打ち付けられる。荒れた海では、大きなしぶきが甲板をさらう。難破するのかと思うと、次には波の上に出てくる。船酔いをしないという人を見ていると、船が沈む時は自分の体も沈む。船が浮き上がる時は自分の身体を持ち上げるように持っていく。つまり船の揺れと自分の体の動きを一致させているのである。船のリズムと自分の体のリズムを調和させるようにすれば決して船に酔うようなことはない。隣近所のブリキに釘を打ちつけるようなやかましい音も、その打ちつける金槌の音に同化するようにすれば不快感はすぐに消えてしまう。変化があるということは、人間にそれに対応する精神の活動を促すのである。リズムというのは自然のゆらぎととらえてもよいものである。ゆらぎは人間の心に安心感をもたらしているといわれる。このリズムがないとどうなるか。実に味気ないものになる。蒸し暑いときの自然の風は気持ちがよいが、クーラーや扇風機の人工の風は嫌がる人が多い。これはリズムがなく、変化がない強制的な風だからだ。そもそも我々の注意作用には、緊張と弛緩のリズムがあって、一つのことに対して、いつまでも同じ強さの緊張で、注意を集中し続けることはできない。視覚でも聴覚でも、ある一定の物あるいは音に対して無理に注意を集中していると、初めはそれに注意が向いているけれども、いつとはなしに注意は散漫かつ、漠然となり、無意識の状態になってしまうのである。森田先生は、我々の精神機能もまたリズムであり、たとえば注意という機能も、しらずしらずの間に、緊張と弛緩とが交代してリズム運動になっているといわれる。ものごとをリズミカルにするときには、それによってわれわれの生活機能を引き立たせる効果があるものである。われわれの心身の機能は、変化がなく無刺激である時は、いつとはなく弛緩して倦怠感を生じる。また、たとえ刺激は相当に強くても同じような刺激が長くつづくときには、いつの間にかそれに慣れて刺激を感じないようになる。だから、われわれの心身は、その機能が緩んでいる時には適度の刺激をあたえてそれを活動させ、またあまりに過敏になっているときには刺激を緩和して平静にするなど、よく生活機能を調節していくことが必要である。我々が仕事の能率をあげるのには、複雑な事柄を分類、整理、統一してリズミカルにしておくことが必要である。これは生活を規則正しく次から次へとへとこなしていくことだろう。いわゆるルーティンである。意識を介在させずに無意識で体が自然に動いていく状態は、無駄がなく自然である。例えば車の運転などがそうである。無意識に外部の状況に応じて適切な行動がとれている。無意識に行う行動にはリズムがあるのである。ものを記憶するにも、不規則なものを調子のよいリズミカルなものに直して利用するとうまくいくことがある。例えば歴史の年代を覚えるなどに活用した覚えがある人も多いだろう。いい国作ろう(1192年)鎌倉幕府等である。その他にも、土地を突き固める人々が「エンヤコーラ」のかけ声で調子をとるとか、歩くときに両手を振るとか、字を書くときに口をまげるとか、音楽の伴奏で踊り、あるいは歌うとか、いろいろある。(生の欲望 森田正馬 白揚社 106ページより一部引用)神経症から回復することは、リズム感を取り戻すことです。生活のメリハリを取り戻すことです。そのためには日常生活を規則正しく回転させていくことです。特に家にばかりいる主婦、定年後の人は意識して取り組まないと、いつも弛緩した状態になりやすいと思います。ここで森田の「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という言葉を思い出してみてください。ある仕事に飽きた時、疲労がたまった時は弛緩状態にあります。意識してなすべき事を転換していけばまた緊張感を持った状態に転換できます。臨床心理士の岩田真理さんは30分ごとに家事や仕事を変えてみることを提唱されています。なかなかいいアイデアだと思います。緊張と弛緩のバランスを考えた生活態度をぜひ身につけてゆきましょう。例えばあと一カ月で大事なイベントを控えているとします。すると一ヶ月後には心身の状態、モチベーションを最大に持っていけばよいということが分かります。この弛緩と緊張のリズムを作り出してやればいいのです。例えば最初の20日ぐらいで徹底的に問題をつぶして準備をします。へとへとになるぐらい成功のためのシュミレーションを繰り返します。緊張感を保ち続けるのです。そして10日前ぐらいになると、急にそのことは一切忘れて他のことをするのです。そして3日ぐらいになってそろそろウォーミングアップを開始して本番を迎えるというものです。緊張状態をいったん落としてしまうということです。すると本番を迎えるころには、状態が自然にあがってくるというものです。これが反対に5日ぐらいまでに神経をピリピリさせて、ある程度成功のめどが立ってしまって、本番を迎えるころにモチベーションが下がってくるという局面を迎えるのは得策ではありません。とくにスポーツなどでは決してよい結果が得られません。ご自分でも生活の中で確かめて、取り入れてみたらいかがでしようか。私たちは緊張感を持って昼は活動している。夜はたいてい11時までには寝て心身ともに弛緩させて休んでいる。つまりバイオリズムを持って生活しているのである。ネットゲームが好きだからといって2時、3時まで起きているような生活。反対に朝寝をしたり、昼間に何時間も寝るような生活はリズムがくずれて、心身とも不健康になります。私たちはただ単に緊張感という波、弛緩状態という波にうまく乗って生活していけばよいのである。
2016.01.09
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怒り、恨み、憎しみという感情は自然に湧き起こったといいますが、これらは相手を自分の思うように操作するために利用されている。怒るとご主人が自分のいいなりになるだろう。叱ると子どもが自分に従うだろう。やさしく諭してもいうことを聞かないだろうが、目を吊り上げて、大きな声で怒ったり、叱れば効き目があるだろう。心はちゃんとその要望にこたえて怒りを作りだしてくれるようになっているのです。こう考えると怒りは自分の考えと違う行動をとる相手に対して、なんとか自分のコントロール下に置こうとしているのです。相手を自分の思うままに支配しようとしているのです。怒りはそのための手段になっているのです。強力な道具となっているのです。怒りという手段を最大限に使って、相手を自分に屈服させようとしているのです。怒りという道具を使わないと目的を果たすことが大変難しくなります。うそだと思われるのなら、相手を自分の支配下において、手なずけようという気持ちが全くない状態を想像してみてください。相手は自分と同じ意思を持った人間である。だから時には見解の違うことは起こりえるはずだ。相手と対等な人間関係を築き上げて、利害が一致しないときは、話し合いで分かりあおうと思っている状態を想像してみてください。相手を自分の思い通りに動かそうとしないで、相手の実際の行動や考え方を尊重し、それに寄り添って励ましたり、協力したりすることができます。そういう友愛、調和の気持ちのもとでは怒りは湧きおこらないのではないでしょうか。人はそれぞれ自由にのびのびと自分の生き方をする権利があると言いながら、もう一方で他人は自分の思い通りに動くべきだと考えていると、大きな矛盾を抱えていることになります。実はこのような人間関係を心理学者のアドラーは、タテの人間関係と言っています。タテの人間関係は相手と自分を競争関係に追い込み、どちらが勝ちでどちらが負けという人間不信に追いやるものなのです。お互いに支配するか、支配されるかでいつも戦闘状態にあるのです。そこには非難、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒り、拒否、無視、否定、抑圧などがつきまといます。タテの人間関係では、思いやりのある人間関係を築くことが難しくなります。いつも疑心暗鬼の状態です。また子どもは過保護、過干渉、放任等で健全な人格が育たなくなってしまいます。また他人を思い通りに動かそうとする人はそれだけには留まりません。自然現象である悲しみ、嫉妬、不安、違和感、恐怖、不快感などの感情も自由自在に操作しようとするのです。そうなると神経症に陥りやすくなります。また自分自身も思いのままに動かそうとします。「かくあるべし」という理想の状態にない自分を嫌悪し、自己否定するようになります。自分を認めることができず、苦悩や葛藤で苦しみ続けます。また自然災害なども受け入れることができません。自然現象も自分たちがコントロール可能だと考えているのです。今は不可能でもいずれ将来コントロールできると考えているのです。謙虚さを失って自然に対して闘いを挑もうとするのです。アドラーや森田先生は、そうした感情、自分、他人、自然を意のままにコントロールしようとする態度を厳しく糾弾されています。森田先生は、自然に服従する態度を求められております。自然に反した行動は悪循環のスパイラルに落ち込んでしまいます。アドラーはタテの人間関係ではなく、ヨコの人間関係を中心にして交流をはかることを提唱されています。ヨコの人間関係は、まず相手の存在価値を正しく認めていく。そして尊敬、信頼、協力、共感、平等、寛容、調整等を基本とした人間関係を提唱されています。(続アドラー心理学 トーキングセミナー 野田俊作 星雲社参照)
2015.11.21
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学習テーマ集は随時作ってゆきますが、その手始めに「純な心」について考えてみました。(学習テーマ) 「純な心」の理解と体験学習(学習のねらい)森田特殊用語である「純な心」の意味を理解して、「純な心」を生活に応用できるようにする。森田理論全体像での該当場所は、「事実本位・物事本位の生活態度を養う」です。(内容説明)「純な心」は、混じりけのない純粋な心のことではありません。物に接して最初に浮かんだ感情、直感などのことを言います。森田では初一念などと言います。普通は瞬間的に湧いてきた感情はすぐに消えてしまいます。そして「かくあるべし」を含んだ初二念、初三念といわれるものが沸き起こってきます。その時点で初一念は蚊帳の外になってしまいます。森田では初一念を大切に取り扱うことが大切であると教えてくれています。「形外先生言行録」から片岡武雄さんの話をご紹介します。ある方がウサギの世話をしておられた。ウサギに餌をやりに小屋に入ったとき、突然猛犬が飛び込み、一頭のウサギをくわえて逃げ出し、噛み殺してしまった事件があった。この方は、これは入口の作り方が悪いからこんなことになってしまったと弁解された。途端にそこに居合わせた私たちもびっくりするほどの森田先生のお叱りの言葉。なぜ森田先生はそんなに叱られたのでしようか。ウサギの世話をしていた人の気持ちになってみましょう。きっとウサギが噛み殺されて一瞬背筋がぞっとするような、目をそむけたくなるような気持ちになられたことでしょう。誰でもそんな気持ちになります。でもそんな気持ちは一瞬で消えて、次にこれはまずいいことになった。森田先生にこっぴどく叱られるかもしれない。そうなったら困る。その状況から逃れられたいと思われたのではないでしょうか。普通の人はそんな感情が自然に湧いてくるでしょう。そこでつい瞬間的に口をついて出た言葉が、「これは入口の作り方が悪い」と責任転嫁されたのです。これは森田の考えからみると見逃すことのできないゆゆしき問題です。森田先生のお叱りの意味は、責任回避の表面的なことではなく、なぜかわいそうなことをしたと思わないのかと。なぜその感情を無視したのかということです。ウサギが噛み殺されて一瞬背筋がぞっとするような、目をそむけたくなるような何ともいやな感情が湧き起ったという事実が一つ目。もうひとつは、これはまずいいことになった。森田先生にこっぴどく叱られるかもしれない。そうなったらイヤだ。これは予期不安ですが、そういう感情が湧き起ったというのはまぎれもない事実だったのです。ここで森田先生の言いたいのは、その2つの感情の事実をごまかさないでなぜ認めて受け入れないのだということなのです。これが核心部分なのです。この方は、事実を認めないで、人に責任転嫁した。言い訳をした。自己弁護した。このことを責めているのです。「純な心」とは、事実を無視して責任転嫁することではないのです。事実を正しく認識して受け入れることです。そして服従することなのです。森田先生は「純な心」ということについて次のように説明しておられます。「純なる心とは、我々の本来の感情であって、この感情の厳然たる事実をいたずらに否定したり、やりくりしないことである。我々はこの事実をもとにして、初めて成長発展するのである。まず是非善悪の標準を定めて、それから後にこれに従っていくというような観念的理想主義ではいけない。あるいはまた自分の気分を満足させればそれでよいという気分本位でもいけない。いま私どもが仕事をするときに、いやなこと、面倒なことがあっても、いやだなあ、面倒だなあというそのままの心から出発したときには、そこには必ず手軽に有効に迅速に、それをやり遂げたいという工夫が起こってます。そのままの気持ちでやったらいいじゃないかと。ところが観念的理想主義を立てて、我々は忍耐し、努力しなければならないとか、あるいはいやとか面倒とか思ってはならないとか、そうゆうことを考えるために、心の働きはいたずらにその本来の感情を否定しようとする。これは不可能な努力でありまして、この不可能な努力のために費やされて、自己本来の欲求に従って困難を切り開いて前進しようという方向には少しも発展しない。」次にチェックシートを配布し、例題をもとにして自分の「純な心」の体験例を記入してみましょう。10分ぐらいの時間をとる。(エクセルで作成した純な心の具体例を記入したシートを配布して自分の例を書いてもらう。)(話し合うテーマ、課題)・森田でいう「純な心」という意味はどういうことだと思われますか。・「純な心」は自分の生活の中でどういう風に役立つと思いましたか。また役立てたいと思われましたか。みんなで話し合ってみましょう
2015.11.16
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イチロー選手はオリックス時代、振り子打法の時があった。振り子打法はパワーが無いバッターが強い打球を打つために勢いをつけるためのものだそうだ。でも振り子打法はタイミングが取りづらくとても難しい技術だそうだ。イチローのバットコントロールがあって初めて可能であったのです。イチロー選手は入団3年目に、この振り子打法で210本のヒットを打った。普通の人ならその打撃フォームを完成形として、こだわりを持ってさらに磨きをかけていくのではなかろうか。ところが、そのイチロー選手があっさりと振り子打法をやめた。それは振り子打法ではメジャーでは通用しないことをイチロー自身がよくわかっていたことと、イチロー選手自身にパワーがついて振り子にする必要がなくなったためだといわれています。イチロー選手の考え方はこうだ。野球には心、技、体のバランスが大切です。それらは20代、30代、40代という年代に応じて少しずつ変化してきます。成長してくるといってもよいでしょう。その変化に応じて、それぞれを少しずつ変えていく必要があるのです。絶えずバランスを取りながら、変化させていくという姿勢が大事だと言っているのです。精神力を鍛える。平常心で打席に立てるようにする。バッティング技術をいろいろと試してみる。身体を鍛える。技術だけを偏って鍛えてもだめなのです。筋力だけを鍛えてもだめなのです。変化に対応して、3つのバランスを意識して鍛えるのです。この考え方は森田理論の「変化対応力を磨く」と同じ考え方です。田原綾さんの森田先生の思い出話より紹介します。先生は常に備えを忘れておられず、精神病の患者さんを診察なさるときはいつも、出口に近い方におられて、とびかかられた時は、いつでも逃げられるように用意しておられたということです。森田先生は、精神病の患者に殴られた事があったので、常に警戒されていたのです。また森田先生は、みんなにこう言われていたそうです。昔の侍の覚悟でおれ、サッと斬りかかられた時に、素早く応じられるように構えておけ。わしは、寝ていても、お前らが後で何をしているか、みんな分かっておる。神経を四方八方に張り巡らせて、いろんな危険を想定して、いつでも変化に対応できるような心構えで生活するようにという教えだと思います。自分の身の回りに注意を張りめぐらし、変化に素早く対応する習慣を身につけることは大切なことです。変化対応を意識して生活していると、気持は内向きから外向きに変わってきます。
2015.11.07
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森田に「物の性を尽くす」という言葉があります。物の価値を見出して、その価値を高めていく。最後まで活用していく。これは物だけに限りません。他にもいろいろとあります。自分自身の性を尽くす。他人の性を尽くす。お金の性を尽くす。時間の性を尽くす。等など。「物の性を尽くす」とどんなことが起きるのか。まずは物自体も自分が人のために役に立つことができてうれしいのです。活躍の場が与えられて活き活きとして目が輝いてきます。自分が役立たずとして無視されることほどみじめなことはありません。活用方法を見つけた人も、そのものの存在価値や潜在能力を発見できたわけですからうれしいのです。そういう価値を見つける能力を持った人間であるということがうれしいのです。人や物が喜んでくれる姿を見ることは、なによりも自分自身が元気になります。意外な発見に喜び、創意工夫できたことでうれしくなります。そのためには、そのものの持つ存在価値の活かし方を見つめていないといけませんが、それだけを見ていてはすぐには見つかりません。のほほんと生活をして、観念の世界で「存在価値とは何か」「潜在能力はないか」と考えることは、絵にかいた餅のようなものです。活躍の場は、問題だらけの自分の生活のなかに隠れています。常日頃、日常生活に一生懸命に取り組んでいないと、よいアイデアは浮かんでこないのです。例えば、森田先生のエピソードにこんなことがあります。机の足が畳や床の真にあたるところは傷がついたり、へこんだりします。森田先生はそれが気になっていました。なにか改善方法はないかなと常日頃考えおられました。ある時自転車やの前を通りかかりました。すると不要になったタイヤやチューブがたくさん置いてありました。森田先生はそこでピンときました。そうです。それを分けてもらい、加工して机や椅子の足につけることを思いつかれたのです。このようにして、廃タイヤや廃チューブの活躍の場を見つけて、実際に役立てられたのです。それからは机や椅子の足が畳や床を傷つけることがなくなりました。森田理論の奥深い理論は何も分からなくても、「物の性を尽くす」ことだけに愚直に取り組むことで、森田の鉄人、森田の達人になることはできます。つまり味わい深い人生を送ることができるのです。興味のある方は、まずは、マイ箸を持ち歩く。買い物袋を持ち歩く。コピー用紙は裏も利用する。服の棚卸をして、有効活用する。無駄なものはバザーに出す。本はリサイクルされたものを利用する。ボールペンやシャープペンシルは限られたものを大切に扱う。水を出しっぱなしにしない。洗面器一杯の水で顔を洗う。パソコンや電燈のスイッチをこまめに切る。テレビは録画したものを見る。生活の発見誌は切り抜きをして整理する。お金の活用のためこずかい帳をつける。こずかい帳の予算管理をする。時間の活用として細切れ時間の利用することなどから取り組んでみてください。そこから次のステップへと進んでいく足がかりができるでしょう。
2015.11.04
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2015年10月の生活の発見誌に高良武久先生の話がある。私のところに植木鉢がたくさんあります。患者さんが水をやりますが、雨上がりの鉢は一杯水を含んでいるところに、じょろで、ざあざあ水をやっている患者さんがあります。「君は、雨上がりに水をやるのはどういうわけだ」と聞くと、「いや、先生、私は毎日一回やることに決めていますから」という。その他高良先生のところに入院していた人でこんな人もいた。小さな苗木に大きな丸太のような添え木をしていた人。あるいはなすべき作業が見つからなくて、大きな木をゆすって葉が落ちてくるのをかき集めて仕事を作ろうとしている人。神経症の陶冶というものは、自分が「こうであるべきだ」ということではなくて、「こうである」という現実に従って、自分が変化して順応していく。もちろん、自分の「こうありたい」という理想というものは、あっても差し支えないが、誤った理想主義、いわゆる完全主義、あるいは「こうであるべきだ」ということにいつもとらわれて「こうである」という現実に順応できないという態度では、神経質の陶冶はできないのであります。これについては、森田先生も同様のことを言っておられます。人間の感情というものは、いつまでも同じ状態にとどまっているものではない。水の流れと同じで、絶えず流転している。またそれは、鏡に写る影のようなものである。明鏡止水というのは、鏡に影の写らないことではなく、写っては消え、写っては消え、止まらないさまをいう。悲しいときには悲しいままに悲しみ、苦しいときには苦しいままに苦しんでいれば、心は自然と転換されてゆくが、悲しむまい、苦しむまいと努力するから、何時までも悲しみや苦しみから抜け出せなくなるのである。宇宙の営みも絶えず流動変化しています。変化しないで固定していることが、安定しているように考える人がいますが、変化しないで固定するということは、存在すること自体不可能なことです。独楽は回転しているときが一番安定しています。自転車は前に進んでいるときが、倒れないで安定しています。常に動いて変化しているということが、安定するためには必要不可欠となります。不安、恐怖、不快な感情も流動変化を心がけて生活すれば、いちばん安楽な対応となります。そのためには物をよく見る。事実から目をそらしてはならないのである。
2015.10.15
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臨済宗は中国唐時代の禅僧である臨済義玄が開祖といわれている。その開祖の言葉を弟子たちが編纂したのが臨済録といわれるものである。その考え方の骨子は、人間の体はレンターカーを借りているようなものである。あるいは市民菜園を借りているようなものといってもよい。人さまのものを借りて使う時は細心の注意を払わないといけない。自分の存在を軽視していないか。自分のことを救いようのないつまらない人間だと思っていないか。この世のあらゆる不幸は、自分をお粗末に取り扱うことから始まっている。「かくあるべし」という理想から現実の自分を見て自己嫌悪、自己否定してはいないか。そういう考え方が葛藤を生み自分を苦しめている。事実を受け入れて、事実に服従していく中に本当の生き方があると教えてくれています。森田先生がよく臨済録から引用されている一文は次の言葉です。心は万境に随って転ず、転ずる処、実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば無喜亦無憂なり。とらわれのない心のままであるならば、万境にしたがって、心は刻々に流転してとどまるところがない。その流転していくありさまは、まことに不思議なくらいである。その流転していくままの姿が心の本来性であることを認得するならば、喜びも悲しみも超越することができる。不安、恐怖、違和感、不快感などにいちいち関わりあってはいけない。その時一瞬は関わりあっても、谷川を流れる水のように、絶えず流していくことが大切である。それが城のお堀の水のように淀んでしまうと、雑菌や藻が繁殖して、最後には魚の住めないような状態になってしまう。諸行無常、変化流転の世界観が森田の考え方なのである。さらに森田先生は、その変化流転は緊張と弛緩というリズム運動で成り立っているといわれている。
2015.10.14
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森田理論の中によい悪い、正しい間違いという価値判断をしてはならないというのがあります。森田全集第5巻の中で「善し悪しとか苦楽という事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越していく。・・・善悪不離、苦楽共存という態度のことである。」と述べられています。森田理論を突き詰めていくと、価値判断、評価をしなくなり、自然な感情をそのまま受け入れるような態度が身につくと言っておられるのです。この価値判断、評価の意味について考えてみたいと思います。私は対人恐怖症です。対人恐怖の人は人を恐れています。いつもビクビクオドオドしています。人の影に怯えながらひっそりと生きているのです。小さいころから、こうしなさい、ああしなさい、これをしてはいけませんと言われて育ってきました。自分の存在を否定されて、親の意向に沿った言動をとるようになりました。つまり今思えば、しつけと称して、よい悪いという人物評価を受け続けてきたのです。その結果どうなったか。他人は自分に対して評価を下す存在なのだ。自分はその評価を甘んじて受け入れるだけの人間であるという考え方が刷り込まれてしまっているのです。そして今や反対に他人をも厳しい価値判断、評価の対象としてしまっているのです。それだけではあのません。神経質性格を持ち自己内省性の強い私たちは、自分自身をもその厳しい評価の対象としているのです。つまり自分という一人の人間の中に、評価する人間と評価される人間を抱えてしまっているのです。それは、自分自身に「かくあるべし」を押し付けていることであり、葛藤や苦悩でのたうちまわっている状態です。私たちは、他人の評価が絶対的なものであると考えるようになりました。他人の評価に振り回されて、一喜一憂するようになりました。対人恐怖の人の会話は、そのほとんどが他人の評価に関することです。他人を理解したり、事実を確かめたり、他人の気持ちを思いやるよりも、自分の評価がよかったのか悪かったのかばかり考えているのです。あるいは反対に他人の是非善悪の評価をシビアにランク付けしているのです。評価というのはそもそもどういうものなのでしょうか。評価対象物は、自分の頭の中にある確固たる位置を獲得している常識的な考え、存在物とは異質なものです。未知との初めての遭遇なのです。つまり新たに自分の頭の中で整理して、消化をしないとならないものです。つまり評価とは異物を自分なりに消化しようとする試みではないでしょうか。未知のものをそのままに放置しておくことは不安や恐怖につながります。自分が知っていることの枠組みの中にきちんと位置付ける作業をしたくなるものです。価値判断、評価はきわめて主観的なものです。独りよがりなものです。他人は他人で同じものを見ても別の価値判断、評価をしているケースが多々あります。それぞれが違う目盛りの物差しを持って実測しているようなものですから、ずれが生じます。でも本人は自分の価値判断は間違いない。絶対的だと思って相手に押し付けているのです。一方的で脅迫的です。その決めつけ方は暴力と何ら変わりはありません。評価という名の暴力です。評価というのは自分の解釈を、あたかも事実であるかのように相手に押し付けているものなのです。このように考えると、相手が自分のことを悪く評価したという場合、その人の独自の考え方であって普遍性のあるものではないという事です。それを真に受けてオドオドビクビクすることはありません。そのように受け取ることのほうがおかしい。異論があればその価値判断に対して反論を加えてもよいのです。自分の価値判断、評価をぶつけていってもよいということになります。でも私たちのように、評価される以外の人間関係を経験したことがない人にとって反論することは考えもつかないことでしょう。圧倒的な力関係のもとで、一方的な評価を下され続けて、相手が自分に下した評価は絶対的なものであり、それが自分の価値を決めると思ってしまうのです。相手の評価が正しくない場合、それは評価される側が修正できるという事を知らないのです。評価の泥沼から這い出るためには、私たちはそういう状況の中で生活しているのだという自覚を深めることだと思います。そして、「価値判断の是非」は森田理論学習の中心テーマですのでさらに学習を深めていくことだと思います。(ダイエット依存症 水島広子 講談社より一部引用)
2015.09.01
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酒は言うまでもなく大きな効用があります。適度に飲めばこんなに人生を楽しくしてくれるものはありません。「酒の十得」にはこうある。1、 一人淋しいとき、酒は自分を励ましてくれる。2、 仕事で疲れた体を安らかにしてくれる。3、 イヤなことを忘れさせてくれる。4、 心の愁いを払ってくれる。5、 体に活気をみなぎらせる。6、 お祝いやお見舞、土産などに持っていくと喜ばれる。7、 健康を保ち、延命の効果がある。8、 人間関係を打ち解けさせる。人の心を開く。9、 素晴らしい人との出会いがある。10、 寒い時に体が温まる。しかし、酒は飲みすぎると害になる面もあります。1、 肝臓などの内臓を痛める。血管を痛める。脳細胞を破壊する。2、 早死にをする危険がある。3、 散財の危険性がある。すると経済的に苦しくなる。4、 二日酔いになると、次の日無駄に過ごすことになる。5、 酒の席での無礼講は、あとあと問題を起こす。6、 けんか騒ぎを起こすことがある。7、 家族の軋轢を生むことがある。8、 好色になって、人に迷惑をかけることがある。9、 飲酒運転で重大事故を起こす人がいる。10、 意識が無くなり、物を紛失したり、記憶喪失に陥ることがある。昔から、酒のことを「狂水」「地獄湯」「狂薬」「万病源」等ともいいます。ここでなにが言いたいかというと、よいところばかり挙げて褒めまくるのも、悪いところばかり並べ立ててけなすのもどちらも間違いだということです。大事なのは両方を過不足なく見て調和をとるということである。どちらかに大きく片寄るという事は厳に慎まないといけない。森田理論では両面観、精神拮抗作用に結びつく考え方である。
2015.07.13
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羽生善治さんの話です。イチロー選手は、目で判断するストライクと体が判断するストライクが違うことがあると言っていたという。つまり選球眼は「ボールだ、打つな」と判断しているのに、体は「打てる、ストライクだ」と反応しているような状態ですね。どちらを優先したらよいのでしょう。そういう時イチロー選手は、より直観的な反応である体の判断の方を優先するらしいんです。イチロー選手がワンバウンドするような低いボールをヒットにする場面が時々あるのは、その結果ではないでしょうか。つまり目よりも範囲の広い全身で選球している。イチロー選手は動物にもある大脳辺縁系の感覚をとても大事にしているということです。大脳辺縁系は本能的な欲望、直観、不安や不快などを感じるところです。それを、何はさておいても大切に取り扱っているということです。神経症に陥るような人は、その点思考方法が全く逆になっています。大脳新皮質で想起される理知、記憶、判断を常に重要視しているのです。本能的な欲望、直観、不安や不快などは暴れ馬のようなものだから、常に抑圧していかないとダメなのだと決めつけているのです。本能的な欲望等は扱いにくく困ったものとみなしているのです。この状態は、車は前に進みたがっているのにサイドブレーキをかけているようなものです。全然進まないことはないが、大きな力が要ります。無理をしているのでブレーキシューが摩擦熱で焼け切れてしまいます。人間でいえば欲望を無理やり押さえつけているのでストレスが蓄積されます。森田でいう思想の矛盾が引き起こされます。森田ではよく「感じから出発して理知で調整する」と言われます。つまりここでいう大脳辺縁系の本能的な欲望、直観、不安や不快などをまずは優先的に考えなさいということです。自分の感情、気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意志、希望、快か不快か、好きか嫌いかを優先していいのです。自分の気持ちに素直になることが第一です。理知で調整するというのはそのあとのことです。普通の人は精神拮抗作用が働いて、行き過ぎる欲望に対しては自然に制御がかかるようになっているのです。この点は依存症の人以外は安心していいのです。むしろバランスが崩れて抑圧、制御過多になってしまうことに要警戒する必要があるのです。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 76ページより一部引用)
2015.06.20
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桑田真澄氏は中学生の野球のチームを指導しているそうです。時々こういうやり方で紅白試合をしています。まず順番に番号を言わせて、奇数と偶数に分ける。そこから打順と守備位置を全部、自分たちで決めさせる。サインも自分たちで考えさせる。そこにある条件をつけます。同じポジションを続けて守ってはいけないとするんです。上手な子もいれば、下手な子もいますが、それは関係なく、2イニング続けてベンチにいるということをしちゃいけない。必ず1回出て1回休むか、2回出たら1回休むか、3回出たら1回休むか、いずれにしろみんなが出なきゃいけない。こうやって試合をさせると、みんな考えるんですよね。「おまえ、足が速いから1番打てよ」とか。「左だからファーストだけど、ファースト以外だったらどこを守れるかな」とか。中学の1年生や2年生になると、もう自分で考えられるんですよね。そうすると、子供たちは生き生きとプレーするんです。いままでは、監督やコーチが打順もサインも決めて全部やっていたのが、そういうところから徐々に試してやってみるんですけど、本当は子供たちだけでもできるんです。そうすると、大会に行ったときに、勝利に向かって何が必要か、みんなが考えるようになる。監督やコーチの指示、命令、脅迫で忠実に歯車のように動くだけの選手では、野球をやる意味がないんです。途中でイヤになります。基本を覚えたら後は自主的に工夫して動くことができないと野球自体が楽しめないのです。桑田氏は選手自らが考えないといけない環境作りをされている。素晴らしい指導です。逃げることのできない環境に放りこまれることによって、人間の生命力は活気づくのだと思います。課題や問題点が目の前に突きつけられると、いやがおうにも何らかの感情が湧いてきます。必死になって打開策を考える。そして実行してみる。ミスや失敗が起こる。変更を余儀なくされる。また新たな課題や問題点が発生したのである。さらに改善を続ける。こうすれば選手は意欲ややる気を持って野球に取り組みことができるようになる。これは森田理論でいっている考え方そのものです。森田では感じを高めるということをとても重視します。そして感じを高める。すると何らかの気づきや発見がある。しだいにやる気や意欲が出てくる。手足を出していくとさらに感じは高まって弾みがついてくる。すると進歩、発展してくる。生きがいを持って生きていくことにつながる。これは人間が活き活きと生きていくための方程式のようなものです。その土台に日常茶飯事、雑事を丁寧にすることを主張している。簡単にいえば森田理論とはそのようなことを理論化したものなのです。だれでもやろうとする意志と粘り強さがあればできることです。(野球を学問する 桑田真澄&平田竹男 新潮社 109ページより一部引用)
2015.06.06
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森田理論では第一に感じる感情、直感を大切にしています。「純な心」というものです。初一念とも言います。引き続いて湧き起ってくる初二念、初三念に振り回されてはいけませんと言います。「純な心」の体得は森田理論では必須となります。将棋の羽生善治さんは、直感は過失が少ない。この手がよいとひらめいた直感はたいてい正しいと言います。でもこの直感というものは、ヤマカンやただ単なる思いつきというものとは違う。将棋では、一つの手に対して80通りぐらいの指し手があると言われています。その中から3通りぐらいの候補手を直感で選び出して、それについて検討しているのです。将棋の長考はそのような検討作業です。ということは直感が選ばなかった77通りの可能性は、即座にその場で捨てているということになります。最近のカメラには自動焦点機能が付いていて、カメラが自動的にピントを合わせてくれますが、直観の作用はあれによく似ています。直感は経験的なもので、とても構築的なものです。数多くの選択肢の中から適当に選んでいるのではなく、今までに経験したいろいろなことや積み上げてきたさまざまなものが選択する時の物差しになっています。その物差しは目には見えないし、無意識の作用によるものですから、当然、言葉にはしにくいものです。でも、それはまったく偶然に、何もないところからパッと思い浮かぶものではなく、経験や蓄積の層を通して浮かび上がってくるものなのです。ですから、研鑽を積んだものしか「いい直感」は働かないはずです。カンを研ぎ澄ませるのは経験や蓄積で、その層が厚ければ厚いほど、生み出された直感の精度も上がるのではないでしょうか。将棋の世界はともかく、われわれの生活で直感力がどう働いているのか検討してみましょう。例えば仕事でミスをしたときのことです。「しまった。取り返しがつかないミスをしてしまった。」まさに直感です。その時、すぐにことの重大さを認識して、関係部署にことの顛末をすぐに報告して一緒になって対応策に走ったこともあります。逆に、上司や得意先に「どうしてくれるんだ。いい迷惑だ」と叱りつけられた経験がすぐによみがえってきます。そして報告を先延ばしにしたり、ミスを隠蔽したりしたこともあります。何日も針のむしろに座らされて苦しい日々を過ごしたこともあります。これらのなんとか早期に手を打って、被害を最小限にとどめて、かえって災い転じて福となした数多くの経験。収拾に手間取り自分の築いてきた信頼を一挙に失った数多くの経験。もろものの経験や蓄積が走馬灯のように頭の中を駆け巡ります。その数多い成功体験、失敗体験の中から、今度はなにを選択して、どう行動をするかここが大切です。この経験や蓄積が少ないと、すぐに気分本位となって楽な方に回避する道へと進んでしまうのではないでしょうか。一時は精神的に苦しいけれども、将来的にはこの道を選択した方がよいという方針を選びとるのは、実にこの雑多な経験と蓄積のたまものなのだと思われます。ミスや失敗しないという生活は、防衛的、受身であり、いろいろと気を使い苦しいと思います。それよりも早くミスや失敗の体験の数を増やして蓄積しておこうという態度の方がより精神的に安定するものと思われます。そしてミスや失敗の後の対応策を考えた方がよほど意味があります。その方が人間的にも一回り大きくなれると思われます。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 22ページより一部引用)
2015.05.27
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岡田武史さんの話です。以前、ライフル射撃の日本代表監督にうかがった話ですが、弾を的に当てるためには、銃の先端についている照準とずっと前方にある標的を一直線で結ばなくてはなりませんよね。そのとき、照準や標的だけを見ていると、銃の先をピタリと停止させることができないそうです。一点に集中しすぎると力が入って銃が停止しないんですね。どうするかというと、照準や標的の景色も視野に入れながら集中するんだそうです。つまり「全体に集中する」ことが大事なのです。普通頭の中で考えると、限りなく一点に注意を集中する方が、命中する確率が高いように思われますが実際は違うということです。この考え方は森田理論の「無所住心」の考え方です。神経症に陥った状態は「無所住心」の考え方から大きくかい離しています。森田先生曰く。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転していて、音楽を聴いたり、ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。森田先生が講義をしている時は、講義の内容にばかり注意を向けているのではない。演台の前におかれた水差しにも注意を払っている。時間も気にかけている。聴講している学生のしぐさにも注意を払っている。外でやかましい音がすればそれにも注意を払っている。つまり集中というのは目の前に現れる出来事に呼応して、次々に移りかわっていく感情に身を任せていくことである。そのほうが結果的によほど講義に集中できるのである。こういう考え方を「行雲流水」という。つまり雲や水のように、物事に執着せずに自然の流れに身を任せて、「あるがまま」に自然に行動・実践するということである。そこには一つのことにとらわれて停滞するということは考えられない。「無所住心」の生活態度の体得は森田理論実践編での課題となります。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 75ページより一部引用)
2015.05.20
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森田では自分の考え方に固執することなく、刻々と変化する周囲の状況に合わせて、自らが変化していくことを目指している。一つ一つの悩みだけにいつまでもいつまでも関わり合っていることはできない。目の前に現れては消えていく今現在の課題や問題にフォーカスしていくことである。変化という波に上手に乗っていくことが森田理論実践編の課題の一つとなります。さて今日は変化とか何か。変化の特徴とは何かについてみてゆきます。森田先生はその変化は「リズム」を持っているという。われわれの人間の生活機能は、心臓の鼓動、呼吸、消化器の活動、筋肉の運動など、みんなリズム運動である。これは音楽で考えると分かりやすい。いろんなパターンがあるが、基本的に音楽には強弱がある。つまりリズムをきざんでいる。人生でも石原加受子氏によると、人生は6年周期で隆盛期と浄化期を繰返しているという。運が向いてくるのは隆盛期であり、肉親の死や不運なことが起きるのは浄化期であるという。「意識の法則と6年周期リズム」という本を参考にして、自分の人生を振り返ってみたとき、ほぼ一致していることに驚いた。森田先生は、われわれの精神機能もまたリズムであり、たとえば注意という機能も、しらずしらずの間に、緊張と弛緩とが交代してリズム運動になっているといわれる。われわれの心身の機能は、変化がなく無刺激である時は、いつとはなく弛緩して倦怠感を生じる。また、たとえ刺激は相当に強くても同じような刺激が長くつづくときには、いつの間にかそれに慣れて刺激を感じないようになる。だから、われわれの心身は、その機能が緩んでいる時には適度の刺激をあたえてそれを活動させ、またあまりに過敏になっているときには刺激を緩和して平静にするなど、よく生活機能を調節していくことが必要である。これは是非生活に取り入れてゆきたいものである。緊張と弛緩は上手にバランスをとって生活するという態度のことである。例えば休息は仕事の中止ではなく仕事の転換にあるという。どんな仕事でも遊びでもずっと同じことをしていると注意力が散漫になり飽きがくる。そういう時は仕事を変え、遊びを変えていくのだ。家事などは30分おきにどんどん変えていけば意外に多くのことが片付く。風邪をひくというのはどういう時か。寒い野外にいて緊張した精神状態にある時は風邪などひかないものである。暖房のきいた室内に入り、こたつにもぐりこんで転寝をする時などに風邪をひきやすい。それは精神が緊張状態から急に弛緩状態になるからである。これは緊張状態から弛緩状態への変化が急激であり、体がその変化についてゆけないのかもしれない。これを知っておくと緊張感から弛緩状態に変化させる時は徐々に変化させることである。ソフトランディングさせることを心がけていれば風邪をひくことは少なくなる。馴れるというのは、外界の事物に自分の心が調和、順応するようになることである。はじめは少しも興味を感じないようなことでも、その内容をよく知るにつれて、しだいにそれをリズミカルに気持ちよく感じるようになるものである。隣近所のブリキに釘を打ちつけるようなやかましい音も、その打ちつける金槌の音に同化するようにすれば不快感はすぐに消えてしまう。船酔いをするというような人は、船が沈む時は自分の体も沈む。浮き上がる時は自分の身体を持ち上げるように持っていく。つまり船の揺れと自分の体の動きを一致させるのである。船のリズムと自分の体のリズムを調和させるようにすれば決して船に酔うようなことはない。ものごとをリズミカルにするときには、それによってわれわれの生活機能を引き立たせる効果があるものである。われわれが仕事の能率をあげるのには、複雑な事柄を分類、整理、統一してリズミカルにしておくことが必要である。これは生活を規則正しく次から次へとへとこなしていくことだろう。いわゆるルーティンである。意識を介在させずに無意識で体が自然に動いていく状態は、無駄がなく自然である。例えば車の運転などがそうである。無意識に外部の状況に応じて適切な行動がとれている。無意識に行う行動にはリズムがあるのである。ものを記憶するにも、不規則なものを調子のよいリズミカルなものに直して利用するとうまくいくことがある。例えば歴史の年代を覚えるなどに活用した覚えがある人も多いだろう。いい国作ろう(1192年)鎌倉幕府等である。その他にも、土地を突き固める人々が「エンヤコーラ」のかけ声で調子をとるとか、歩くときに両手を振るとか、字を書くときに口をまげるとか、音楽の伴奏で踊り、あるいは歌うとか、いろいろある。リズム感を養い、リズムある生活を送るということも森田理論実践編の一つの課題になると思う。(生の欲望 森田正馬 白揚社 106ページより一部引用)
2015.05.10
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以前森田理論学習をしていた時に、「人のために尽くす」ということが盛んに言われた。これは神経症で苦しんでいる人は、自己中心性が強く、自分の苦しみをなくすることばかりに神経を集中している。他人のことを思いやるといった気持ちはなく、常に自分の症状を治すことばかりに目が向けている。そういう態度では神経症は治りませんよ。だから人のことを思いやる気持ちを持たなければいけません。そうなってはじめて神経症は快方に向かうのですと教えられました。そのためには、いつも「人のために尽くす」ことを探してこつこつと実践すれば、自己中心性が打破できますよ。普通に考えるともっともらしい話である。これに対する私の見解はこうである。「人のために尽くす」ことを否定する気持ちはありません。神経症で行動・実践が滞っている人は、身近なことを探して人の役に立つことをすることはよいことだと思います。曲がりなりにも手や足が動きだすのですから。最初の取りかかりはそれでよろしいと思います。でもいつまでもそういう気持ちでは困ります。ここがポイントです。特に神経症の克服のために「人のために尽くす」をお勧めすることは考えものです。なぜなら、注意や意識を益々神経症の克服に向けてしまうからです。つまり、こんなに「人のために尽くす」実践をしたので、神経症は少しずつ治るはずだと思っている限り神経症は治りません。その気持ちとは反対に益々悪化してくると思います。そもそも「人のために尽くす」ということをよく考えてみますと、「相手が喜んでくれるのではないか」「相手が自分を評価してくれるのではないか」「あとで何かお返しをしてくれるのではないか」「いずれプラスになって跳ね返ってくるのではないか」という気持ちが多少見え隠れしています。人の為と書いて「偽」(いつわり)というのはそのことです。ではどうすればよいのか。結論から言うと、最初は「人のために尽くす」ことをあれこれ探して実践することはよいのです。でも途中からはそのことを忘れることが必要だと思います。つまり何らかの見返りを期待する気持ちが、そのうち無くなってくるということが重要です。気がつけば、一心不乱になって、目の前の課題に取り組んでいた。こういう状態が具現することが何よりも大切です。このことを森田理論では、「物事本位」の態度と言います。例えば集談会で世話係を引き受けるということを考えてみましょう。「世話係を引き受けると早く症状が無くなりますよ」といわれて引き受けることがあります。最初は症状が治るならと、イヤイヤ仕方なしに引き受けた世話役です。そのままの状態を継続している限り神経症は治りません。治らないから反発さえ湧き起ってきます。一方、参加者が喜んでくれるようにと、一生懸命に世話活動に取り組んでいる人もいます。すると一瞬自分の症状を忘れていたという瞬間が時々訪れます。これが希望の光です。継続すれば神経症の克服につながります。そんな瞬間が次第に増えていく。さらに自分に与えられた世話役以外のことにも気づきや発見が頭に浮かんでくる。そんなに違いはないではないかと思われるかもしれません。実際にはその後の展開が大きく違ってきます。神経症が治るというのは、ほとんどこの過程を通っているのです。これを森田理論的にいうと「感じが発生した」といいます。ここがポイントです。よく人から言われてイヤイヤする仕事は間違いが多くて危なっかしい。自分が納得して、やる気や意欲が高まらないといい仕事はできないなどという人がいいます。その気持ちを持ったまま、歳をとってもいつまでも「自分探しの旅」に出ている人もいます。私の意見としては、そんなのはどちらでもよいのではないか。とにかくまずは重い腰をあげて動き出すことが大切だと思います。でも一旦動き出したあとは「ものそのもの」になりきってみる。この態度が必要不可欠です。例えばキャッチボールをする時に、最初は自分の投げ方はこれでよいのか、人が自分の投げ方を見てひやかさないだろうかということに気が向いてもよい。でもそのうち、相手のミットをよく見て、目をそらさないで一心不乱に球を投げてみることが必要です。その時自分の身体や心にとらわれている余裕はないはずです。つまり一旦自己執着から離れることが重要です。すると森田理論の教え通りのことが起こります。つまり「感じが発生する」「感じか高まる」「課題や問題点を発見し、気づきが生まれる」「なんとかしたいという意欲ややる気がでてくる」「行動・実践する」「さらに改善点や課題が見えてくる」「しだいに行動は建設的、生産的、創造的、意欲的に発展してくる」ということです。ここが肝心なところだと思います。これは人間が活き活きと生きていくことの本質だと思います。
2015.04.24
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私たちは生まれ落ちてから五感を使って体感力を高めてきました。そして一部は大脳にしっかりと記憶として蓄積しています。それが歳をとって例えば認知症などにかかっても、突然によみがえってくることがあります。私の場合は次のような記憶がすぐに思い出されます。見るということでは、いちご畑で蝮に咬まれた人を見たこと。春になって山いっぱいにつつじが咲き乱れて、すべての動植物が動き始めたワクワクするような感覚。聞くことでは、県警の吹奏楽団が小学校にやってきてかっこいい演奏を聞かせてくれたこと。初めてオーケストラでモーッアルトの曲を聞いた時の衝撃。与論島のシュノーケリングで色鮮やかな熱帯魚とサンゴ礁と戯れたこと。味わうということでは、毎年木イチゴを食べた時のプチとした感覚。初めて川でとれたウナギのかば焼きを食べた時なんともいえないおいしさ。触覚としては、家で飼っていた牛のザラザラした舌触り。川釣りで魚が釣れた時の手ごたえの感触。祖父や母との心温まる交流。これはほんの一例です。このほかにもいろんな記憶があります。気持ちのよい思い出も思いだすだけでぞっとするような思い出もあります。嫌な思い出は絶えず自己嫌悪や罪悪感で苦しむことになります。懐かしいほっとする思い出は勇気が湧き、しばし一服の清涼飲料水のようなものです。こんな人がいます。その方は四国の四万十川の近くで育ち東京で暮らしている人です。仕事でつらいことがあると「四万十川の風が吹いてきた」とつぶやくのだそうです。四万十川というのは最後の清流といわれる川で、山下清画伯の「裸の大将」でロケ地になりました。この方はそうつぶやくと、四万十川に吹く風の匂い、水の感触、透き通った川に住む魚たちの泳ぎがよみがえりまたやっていけるという気持ちになるのだそうです。最初はふと風景がよぎっただけかもしれない。でも何度か連続すると、東京にいても感覚がよみがえり、困った時は四万十川の原風景を思い出せばなんとかなるのだという確固たる感覚が刷り込まれているのだと思います。我々は意識するしないにかかわらず、小さいときからの五感をフル活用して得た感覚というものを今現在に役立てていることではないでしょうか。私たちは気持ちのよいことは無意識に何度でも繰り返して行動・実践する特徴があります。これは五感の記憶が気持ちよいとして自然に体に刷り込まれているのです。五感で感じる体感力の経験が全くない状態で大人になったとしたらどうでしょうか。後悔や罪悪感で悩むことはないでしょう。でも心地よい感じ、気持ちのよい感じ、嬉しい感じ、懐かしい感じ、受容や共感する気持ちも同時に記憶からは抜け落ちているのです。この状態は苦しいときに立ち戻る「心のふるさと」を持たないようなものです。また経験がないので、目の前に立ち現れた現象に対してどう対応していけばよいのか手掛かりがないので右往左往することになります。だから実際に自分で体験して五感を使って体感をするということはとても大切なことです。ネットゲームでバーチャル世界で生活していると五感はどんどん衰えてきます。またテレビで行ったつもり、味わったつもりというのは五感を使った体感には程遠いものです。五感を使った生々しい体感にはなりません。気分一転して生きる力には結びついてはきません。今現在の出来事に対して適切に行動を選択する力にはなりません。そして大人になってさまざまな葛藤や苦しみがでてくるのです。そういうことを自覚して子供を育てること。大人になった我々は子供に戻って再教育はできません。でも今後は自分で実際に足を運んで五感を使って体感してみるという生活を取り戻すことはできます。森田を学習しているとここのところは無視できないところだと思います。(「五感力」を育てる 齊藤孝+山下柚実 中公新書を参照)
2015.04.18
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ありのままの自己を認める、自己を肯定して生きていくことはとても大切なことです。神経症で苦しんでいる人は自己嫌悪、自己否定は得意です。しかし自己肯定は最も苦手とするところです。これはいくら言葉で観念として自己肯定に向かおうとしても無理があります。そういう時は、観念ではなく身体感覚で自分を実感するといいのだという人がいます。どういうことか。例えば、スポーツをやっていると、力んではいないけれども、すごく集中していて、身体が自在に動くという状態がときおり感じられます。それを何度も繰り返すと、自分のベストの状態が分かってくる。自己のベストの状態を知っていると、帰る場所があるという肯定的な感じが持てます。これは自分自身に対する肯定感が持てるということと、自分の身体の中に中心感覚があるということは、深く結び付いているのではないか。腰や肚(はら)をある程度鍛えますと「自分の中心はここにある」という感覚が、ごく自然に感じられるようになる。体に芯のようなものができるのです。これが困難に出合った時に後ろ盾となる。反対に身体のどこにも中心感覚が感じられないと、ふわふわした透明な感じになってしまって、それは漠然とした不安感につながってきます。人が生きていく上で、すごいプレッシャーがかかる時があります。そのプレッシャーに飲みこまれるか、それともそれは自分への期待だと受け止めて背負うことができるのか。どちらに傾くかは当人たちの構え次第です。その時に身体のどこかに受け止めるポイントがないとつらくなります。これは不安の発生を考える時に考慮すべきことであろう。齊藤孝氏は身体の中心部分を鍛える方法を伝授されています。腰や肚(はら)を鍛える方法としての丹田呼吸法です。これは息を三秒吸って二秒そのままにする。そして15秒かけてはく。これを6回繰り返すというものです。簡単にできます。丹田呼吸法によって自分の確かな中心感覚を鍛え上げると、自己肯定感につながってくるということです。相撲でよく四股を踏むということを言われます。これは腰の据わったどっしりとした姿勢を作ることによって自己肯定感を作り上げているということかもしれません。(「五感力」を育てる 齊藤孝+山下柚実 中公新書より引用)
2015.04.17
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プロ野球を見ていて外野手がフライを上手に取るのに驚くことがあります。プロ野球の選手は小さいころからが多くの球を捕球して経験を積んでいます。するとバッターの素質、バットの振りとスピード、打球の角度、そして打球音などを聞いて総合的に判断して、直感で落下方向に向かって走り出しているのです。つまり我々と違うのは打球音で球の方向性や種類を判断しているのです。草野球で外野に球が飛んできて目測を誤るという事はよくあります。これは経験不足と打球音という五感を働かせて球を見ていないからです。実際に自分で見る、聞く、臭う、味わう、触れるという五感を鍛える訓練はとても大切です。これは本来小さいころからの親子や友達との遊びのなかで自然にはぐくまれます。でも最近は小さいころからのスキンシップが少なくなっています。五感で言うと触覚です。私たちの小さい頃は、弟や妹が生まれるとおんぶして子守りをしていました。また遊びとして、馬乗り、縄跳び、ゴム飛び、おしくらまんじゅう、相撲、こま回し、たこあげ、ベーゴマ、パッチン、チャンバラ、鬼ごっこ、かけっこ、水遊び、魚釣り、戦争ごっこなどで友達と遊んでいました。身体と触覚は自然に鍛えられていました。今の子どもたちはおんぶ抱っこがうまくできないそうです。おんぶされるときは、相手の腰骨にうまく乗っかってフワッと力を抜き、体をあずけますが、だからといって力を全部抜いてしまえば、液体のようにズルズルと崩れ落ちてしまう。固めるところと緩めるところが微妙にある。その加減ができないので、上の方で暴れてしまったり、硬直してしまうとか、あるいはすっかり身体を投げ出すようにあずけきってしまって相手をつぶしてしまう。人間が人間をおんぶする時は、両者の意思でいちばんバランスのいいところを見つける探り合いがあるはずですが、おんぶできない子どもたちは経験がない。他人の身体と自分の身体の一番いいポイントや角度を探り合うという体験が全くない。また最近の子どもは身体を他人に触られるという事をとても嫌がるそうです。爪切り、散髪、耳垢とりなどを嫌がるというのです。触れられるという事を嫌がる反応が、他人への乱暴な行動につながったり、近づいてくる子どもを叩いたりすることになる。触覚の発達につまずきがあるために、本人の意志以前の段階で、つまり生理的な反応として、「触覚防衛」という症状がでてしまい、結果的に乱暴な行動をとってしまう。これは脳のなかに、外から入ってくる皮膚への触覚刺激に、しっかりと注意や意識を向けていく働きが弱いのです。そのために本能的に対象に向かっていったり、逆に防衛行動や警戒行動がでたりするのです。私たちも五感を無視して言葉をうのみにして価値判断をすることがあります。他人から「彼は箸にも棒にもかからない営業マンだ」と聞くと、実際に確かめもしないで、言葉を真に受けてその人を評価してしまいます。加齢臭が若い女の子に嫌われると聞くと、自分が嗅いだこともないのに匂いに敏感に反応する。自分の舌で味わってもいないのに、「おいしい」「まずい」という言葉に反応してしまう。出来るだけ出向いていって、実際に自分の目で見る、聞く、臭ってみる、味わってみる、触れてみるという体験が必要なのではないでしょうか。百聞は一見に如かずという事です。強迫行為を伴う強迫神経症になる人も五感を信じられないことから症状化してきます。ドアが閉まったかどうか、電気やガスの栓を閉めたかどうか気になる人は五感が信じられない人です。小さいときからの五感が鍛えられていないのです。言葉に頼り切っているのです。言葉は便利なものでありますが、極めていい加減なものです。全面的に信用してよりかかってはいけないものです。そういう方は今からでも遅くはありません。言葉に全面的に頼らずに五感でいろんなものを味わってみる。そういう生活態度に切り替えていくことが大切だと思います。観念でやりくりするのではなく、自分の身体を動かして現地に足を運ぶ態度を持ち続けることが大切だと思います。少しでも五感を取り戻す方向で努力して、これ以上言葉に頼らないようにしたいものです。(「五感力」を育てる 斎藤孝+山下柚実 中公新書引用)
2015.04.16
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小泉武夫さんが痛快な話をされている。私は粗(あら)を食わせる小料理屋をやろうと考えている。お客さんがくると粗しか出さない。まず最初の品目は潮汁だ。いうまでもなく魚の頭を入れた吸い物である。「旦那、酒をくれ」ときたら、何も言わずに骨酒を出す。鯛でもヒラメでも鯒でも何でもよい。骨をぶつ切りにして、こんがりと焼く。あの焦げたきつね色というのがいい。骨がこんがりと焼きあがり、ジュージュー、プチプチなどという音をたててきたら、それをどんぶりに入れて、純米酒の熱燗を一気に上から注ぐ。すると、ピューという音がするので、ちょっとそのままにしておいて待つこと1分37秒。骨酒の出来上がりだ。「旦那、何かつまむものはないか」ときたら、小皿に「酒盗」をのせて出す。酒盗はカツオやマグロの腹腸の塩辛である。次にカツオかマグロの心臓の串焼きを出してやる。これは塩焼きで食べると、味が濃厚なうえにシコシコして実に美味しく、新鮮なものなら生臭みは全くない。さらに催促されれば、おもむろに魚の皮のうろこをはいで、真ん中のところにあるゼラチン質のぶよぶよした部分を刻む。これに胡瓜もみをあえて三杯酢で出す。これもまたシコシコして美味しい。「もう一品くれ」とくればニシンの白子を焼いて出す。その他にも、目玉、骨、ヒレ、皮、血合、胃袋、心臓、肝臓、腎臓、腸、砂ずり、中落ち、腹の下などといったところが粗屋の材料料理である。どれも新鮮さが自慢だ。材料代はすべてタダというところが素晴らしい。というのは、どこの魚屋でも今では粗の処分に困っていて、金を払ってでも引き取ってほしいほどなのだ。築地の魚市場では、粗を処分するために、生ゴミ処理業者に1トン当たり何万円も払っているのである。お客さんが最後に「おやじ、ご飯を出してくれ」とくれば、「粗の煮こごり丼」を出す。煮こごりをつくるには、粗をコトコトと煮込み、醤油と酒と味醂で味付けをして、冷蔵庫の中にその煮汁を入れておけばいい。あとは何日か待つ。注文が合った時に、冷蔵庫から煮こごりを取り出して、そのブヨブヨしたものを熱いご飯の上にぱっとかけるだけだ。客はそれはもう喜んで、あっという間に煮こごりを食べて、安い勘定を払って上機嫌で帰っていくだろう。森田先生が生きておられて、この小料理屋のことを話してあげると、泣いて喜ばれるだろう。森田先生の「物の性を尽くす」という実践編の例だからである。物の性を尽くしていけば、その物そのもの、その人自体が活き活きとしてくるだけではなく、自然循環が貫徹されて、ゴミ処理、環境汚染問題も同時に解決されるのである。(食の堕落と日本人 小泉武夫 東洋経済新報社 179ページより引用)
2015.04.13
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2015年4月号の「生活の発見誌」の37ページからの記事は永久保存版にしたいと思っています。コピーして自分独自のテキストに貼りつけたいと思っています。それほど的確な記事です。強迫行為を伴う強迫神経症の人は必見です。ガス栓が気になり何度も確認行為をしている人のメカニズムをこう説明されています。強迫行為をする人は五感に対する信頼が弱いため、ガス栓を見ただけでは安心できません。そこで一旦言葉で「閉まっている」ととらえ直して確認するというやり方をします。いわゆる「意識レベル」での確認です。そのため、意識作用に必然的にともなう「閉まっていないのでは」という反対観念が想起され、その葛藤のなかで身動きできなってしまうのです。健康な人は、わざわざ言葉でとらえ直すことはしませんので、反対観念の出る余地がないのです。この悪循環から抜け出るためにはどうしたらよいのか。1、 自分の確認の仕方が健康なときとは違い「意識レベルでの行為」であると自覚することがポイントである。意識レベルでの行為だから「反対観念」が生まれ、その葛藤で確認を繰り返すことになるという、からくりをよく学習すること。2、 「確認した」という事実にすがるという方法をとる。確かに、何度確認しても「閉まった」という実感が得られないというのが強迫神経症の特徴です。それでも「何度か確認を繰返した」という事実だけは確認できているのですから、「その事実」にすがることで、しだいに五感の持つ確かな手ごたえを感じられるようになってゆきます。強迫行為をする人の心の中では、「強迫行為をしない」という決意を強固に持てば持つほど、一方で「強迫行為をしたい」という反対観念が同時に立ちあがってくる。森田理論で言う精神拮抗作用がマイナスに作用しているのです。反対観念にとらわれて生活に支障をきたしているというのが実態です。この方はさらに森田の受容的側面を取り入れていくことの重要性を指摘されています。不安常住、あるがままの態度です。こういう具体的な手法も大事です。1、 例えば「質問しよう」とすると、それと拮抗する「大勢の前では恥をかきたくない」という気持ちが同時に立ちあがってきますが、すぐにスッキリせずにこの気持ちの揺れをそのままにしておくと、そのうち自然に落ち着くところで動けるようになります。2、 強迫神経症の人は悩みを一つに絞って悩んでおられる。一つに絞らずに同時にたくさんの悩みを抱えていたほうが思いのほか楽になります。以上概略を説明しました。強迫行為で悩んでおられる方は、この記事をよく読んでください。また生活の発見会の中に「生泉会」という学習グループがあります。克服した仲間がたくさんおられます。その「生泉会」から、「仲間とともに強迫神経症を生きる」という冊子も発行されていますのでご一読されてはいかがでしょうか。立ち直りのエッセンスの詰まったとてもよい本です。
2015.04.08
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「あるがまま」というのはどうにもならない自然な感情は事実を受け入れて、事実に服従していくこと。そして不安な感情を抱えたまま日常生活、仕事、勉強、家事、育児、夢や目的、目標に目を向けて行動・実践していくこと。つまり「あるがまま」にはこの2つの側面があるという事だと思います。どちらも大事なことです。今日は事実を受け入れて、事実に服従していくことを考えてみましょう。事実を受け入れずに、事実に反発しているとどうなるでしょう。イソップ物語に「ブドウと狐」の話があるそうです。この狐がブドウをとって食べようとしたが、何回挑戦しても手が届かない。この狐は負け惜しみで、あのブドウはきっと酸っぱくて食べられるようなものではないと自分の気持ちを欺こうとした。さらに、もともと自分はブドウなんか欲しくなかったのだと、欲しいという事実をごまかそうとした。またそのブドウをとる力のない自分に対して、劣等感を抱いたり、そのような自分を生み育てた親を恨んだりした。ブドウを欲しくない人間になろうとか、ブドウをすぐ手に入れられる超能力を得たいと考えました。これは迷いです。迷いのもとは、事実をあるがままにみないことです。「自分はブドウが欲しい」という事実と、「自分の力ではブドウをとることができない」という事実をあるがままに認めることができないのです。苦しい困難な状況に直面したとき、野生の動物でしたら、四方八方力を尽くして及ばなければ、そのまま事実に服従します。ところが人間は、事実をあるがままに認めようとせず、観念で事実を偽ったり、自分を欺こうとします。この態度が葛藤や苦悩を生み出しているのです。森田の学習で最も大事なことは、世の中の事実を如実にありのままに認めるということです。森田では事実を素直に受け入れるために、次のような学習をします。1、 実際に現地に足を運んで事実確認を行う。自分で実験してみる。マル、ながくろ、バック、クロ、くい、リキ、ちょこ、タロ、うろ、チビ、つる、いろ。これは小学校4年生の横山あやちゃんという子供が、自宅で飼っていた12匹の蚕につけた名前だそうです。一匹ずつ、わずかに違う顔の特徴をつかんでスケッチしているそうです。事実の観察の見本のような話ですね。我々大人には同じようにみえる蚕でも、よく観察していると違いが見えてくるということです。2、 事実はより具体的に話す。子どもが新聞に水滴が落ちた時のことを次のように書いています。「新聞に水が一滴たれたら、小さな水の小山ができて、そこに写った字が大きくなった。だんだん水の小山が小さくなってきたら、今度は横に拡がっちゃった。そしたら裏の字も見えてきた。」できれば、この子のように観察したことを事実に即してありありと表現したいものです。3、 事実は先入観で判断しない。一方的に決めつけをしない。国立国語研究所で話題となった実話があります。ある一人の女性の事をAさんが、「目がぱっちりして、スリムだ」と言いました。ところがBさんは「目がぎょろっとしていて、電信柱があるいているようだ」と言いました。実際に彼女を見ないでいる人は、Aさんから話を聞いたか、Bさんから話を聞いたかでその女性の印象が全く違ってしまう。仮に事実を確認しないで、その人のイメージを作り上げて対応しているととんでもない間違いにつながります。4、 事実は両面観でみる。たとえば、顔色の黒い人はよく見られません。場合によっては肝臓でも悪いのではないか。酒の飲み過ぎではないのか。遊んでばかりいるのではないか。勉強してないのではないか等です。森田先生はそんなことではその人を見たことにはならないはずだといっておられます。逆に色の黒い人は多くの利点があるといっておられます。汚れが目立たない。健康相に見える。女難、男難除けになる。力が強そうに見える。威厳があるように見える。夜逃げする時に人の目にかからない。などです。5、 事実を是非善悪で価値判断しない。存在価値から出発する。他人と比較して違いを認識するのはよいのですが、よい悪いと価値判断をすることは慎まないといけません。また森田ではその人やそのものの持っている「存在価値」というものを大事にします。普通は、自分、他人、物を勝手に価値判断しています。そして人間にとって役に立つ利用価値があるかどうか、経済的にお金が儲かるかどうか、人から高い評価が得られるものかどうか。「利用価値」、「経済的価値」、「評価価値」でもって身の回りのものすべてを選別しているのです。森田では物にはどんなものにも「存在価値」がある。生きとし生けるものは意味もなく生きているのではない。その「存在価値」を見つけ出して高めてゆく方向で考えてゆきます。6、現実を肯定する。赤塚不二夫の天才バカボンの口癖は「これでいいのだ」です。私たちも「かくあるべし」で現実、現状を否定したくなった時、「これでいいのだ」と口ずさんでみることです。この言葉を口ずさむと、現実を認めて受け入れることになります。そして次に「これでいい」という理由を考えるようになります。
2015.03.25
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最近は栄養補助食品のコマーシャルが多い。これに疑問を投げかける人がいる。新谷弘実氏である。日本人は、何かが「体によい」というと、それ一つを大量に摂りつづけることで健康を維持すると考える人が多いのですが、人間の体というのはそんな単純なものではありません。カテキンにしても乳酸菌にしてもポリフェノールにしても、たしかに「体によい」面はあります。しかし、カテキンを多く含む緑茶も大量に飲み続ければ萎縮性胃炎から胃がんになりやすくなり、乳酸菌を含むヨーグルトを多量に食べつづければ、腸相は悪くなってきます。一時期、赤ワインに含まれるポリフェノールが体にいいからといって赤ワインを毎日のようにがぶ飲みする人もいましたが、そんなことをしていると毎日アルコール分解に大量のエンザイム(酵素)が消化されてしまい、ポリフェノール摂取のメリットよりもエンザイム(酵素)消耗によるダメージの方がはるかに大きくなってしまいます。運動も、適度な運動は健康維持には欠かせないものですが、過激な運動はエンザイム(酵素)を消耗するので、かえって体には毒です。体を清潔に保つことは健康維持に必要ですが、ゴシゴシこすり過ぎて角層を損なえば、皮膚のバリア機能を壊し、免疫力を低下させることになってしまいます。何度も言うように、人間の体は、何か一つよいものを摂ればいいというような単純なものではありません。むしろ、どんなによいといわれるものでも、一つのものに固着しそればかりを摂りつづけることは、全体のバランスを崩す原因になりかねません。体を健康に保つうえでは、必要なものの不足と同じくらい、過剰摂取や偏りも害となるのです。いくら健康によいといわれるものでも、それ一つに偏るというのは「過ぎたるは及ばざるよりも猶悪し」という事だと思います。バランスや調和を無視すると存在自体が危ぶまれるという事だと思います。(病気にならない生き方 新谷弘実 サンマーク出版52ページ引用)免疫学の権威である安保徹医師は、免疫をつかさどる白血球のバランスが崩れることによって、ガンをはじめとするほとんどの病気は発生するのだといわれています。ガン細胞は健康な人でも毎日数千単位で作られているそうです。これを処理しているのは白血球の中のリンパ球です。白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできているそうです。顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%の比率になっているときバランス的に安定しており、病気にならず健康に暮らしてゆけるそうです。顆粒球過多になっても、リンパ球過多になってもよろしくない。これは血液検査で簡単に分かります。この微妙なバランスを支えているのは自律神経です。自律神経にはご存知のように、交感神経と副交感神経があります。自律神経がどのように白血球の調整をしているのか。交感神経が優位になると、顆粒球が増えて働きが活発になります。副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて働きが活発になります。自律神経は私たちの意志とは無関係にコントロールされているのですが、実はストレスの影響を受けやすいという特徴があります。人間関係や争い、気候変動、自然災害などのストレスなどにさらされると、顆粒球の割合が増えて、リンパ球の割合が減ってきます。するとバランスが崩れて病気になりやすくなります。だから病気にならないために過度のストレスのない生活を心がけることが大事になってくるのです。でもそうかといって、すべてが満たされて悩みやストレスがまったくない副交感神経優位の状態がよいのかというとそうではありません。花粉症やアトピーなどはリンパ球過多で、少しの刺激を敵とみなして攻撃するために症状化してしまうのです。また副交感神経優位によるがんもあるそうです。ですから健康面でも森田理論でいうバランス、調和が大いに関係しているという事です。
2015.03.18
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今日は「無所住心」を深めてみたい。30センチ目の前に人差し指を立ててみる。普通にその指を見てみる。指に焦点を合わせると当然指は1本に見える。次に、その指を含んだ景色全体を「うすらぼんやり」眺めてみる。しばらく「うすらぼんやり」眺めていると、指が2本に見えてくる。これはもともと左右の目に見えている2つの像が、「うすらぼんやり」することで統合されずに見えている状態なのである。焦点が合っていないのである。しかもその指の像は、よく見ると向こう側の物を透かして半透明になっていると気づく。精神がもしこのような状態の時、不安とか恐怖、不快な感情というのは、あっても強い感覚となって意識されることはないのである。それは、感情にともなった身体感覚が得られないから、感覚、感情は定着できないのである。しかもこの「うすらぼんやり」した状況で、なんとなく体がリラックスしている事にも気がつくだろう。一つのことにこだわりがないので精神的に満たされており、安定しているのである。注意や感覚が四方八方に分散して生命力にあふれている状態である。さらに「うすらぼんやり」した状態は、是非善悪の価値判断もなく、好き嫌いもない。元々とらわれた感情は、言葉によって確固たるものになり、さらに身体に変調をきたすのである。逆にいうと、迷いや苦しみが棲みにくい身体状況を「うすらぼんやり」と言っているのである。これは森田で言うところの「無所住心」の世界である。注意、感覚、意識が分散している状態である。分かりやすい例を出そう。意識が右の手1か所に集中すると我々はすぐに何かを考え始めることもできる。では次に意識を両手の手に均等に分散してみていただきたい。その状態では理性的な思考がストップしていることに気づくだろう。慣れてきたら両手両足の4か所に意識を分散させたままにしてみてもらいたい。これができるようになると、注意や感覚は一点に固定されるという事はなくなる。これは我々が森田理論で学習していることです。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態である。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転していて、音楽を楽しんだり、ナビを見たりしていても、車線変更も自由自在にでき、赤信号ではとまれる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。このコツを体得すれば、一つの不安、恐怖、不快感、違和感等に翻弄されることはないと思われる。森田先生が何回も説明されているとおりである。(禅的生活 玄侑宗久 ちくま新書より一部引用 48ページから53ページ)
2015.03.16
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五木寛之氏は仏教には「対治」と「同治」という考え方があるという。例えば高熱を出した時に、氷で冷やして熱を下げるようなやり方を「対治」という。これに対して、十分に温かくしてあげて汗をたっぷりかかせ、そうして熱を下げるようなやり方を「同治」という。また悲しんでいる人に、「いつまでもくよくよしていてはだめだよ。気を持ち直して頑張りなさい。さあ、元気を出していこう。」というふうに励まして、悲しみから立ち直らせるのが「対治」的な対応です。これに対して、黙っていっしょに涙を流すことによって、その人の心の重荷を少しでも自分のほうに引き受けようとする、その態度が「同治」なのです。つまり「対治」は、その状況を否定することから出発し、「同治」は、その状況を引き受けるところから出発する。西洋医学は、まさに「対治」の思想でした。病気と闘うというつよい意志をもつことで、がんや病気を克服できるという一面は確かににあるでしょう。それを認めたうえで、対立と抗争以外に医の思想はないと考えるのです。否定から出発するのではない。新しい肯定の思想、病とともに生きていくという「同治」の思想が、今必要なのではないでしょうか。(自力と他力 五木寛之 講談社 90ページより引用)この「対治」と「同治」の考え方は森田理論と極めて近い考え方だと思います。「対治」というのは、不安や恐怖、違和感、不快な感情を敵とみなしてなんとしても取り去ろうとする態度のことです。とれないどころか、どんどん泥沼化してくることはみなさんよくご存じのとおりです。これでは神経症から解放されることはない。さらに実りある人生を送ることもできない。出発点からして間違っているからである。「同治」というのは不安等を役に立つものとし認識し、その役割を生活の中で活用していこうという態度です。邪魔者として排斥しようとしていない。不安は腸の中に住む細菌のようなものです。人間には約1キロの細菌が住みついているそうです。気持ちが悪いように思うけれども、この細菌がないと人間は生きていくことができない。同じように不安等は生きていく上になくてはならない大切なものです。いわゆる不安常住、不安感謝の態度こそが大切なのです。また不安などは、欲望の存在を教えてくれています。自分の本当の欲望をさぐりあててその方向で努力することは大切です。努力即幸福、唯我独尊が森田の進むべき方向です。また行動は一本調子になって突っ張り過ぎてはいけない。不安などを活用して慎重に行う必要がある。五木氏は森田理論を仏教の立場から説明しておられるのだと思います。
2015.03.06
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森田理論を応用して仕事を楽しくする方法について考えてみたいと思います。仕事が苦痛であるというのは、人から指示された仕事を生活のためだから仕方がないと割り切って、イヤイヤしかたなく手をつけている時に湧きあがってきます。反対におもしろくて、楽しい。弾みがついて仕事三昧になると仕事を苦痛だと思う事は無くなります。どうせ仕事をするのだったらこちらの方がよいとは思いませんか。そのためにはどうしたらよいのか。最初は仕事はイヤイヤしかたなく手を出していくという事です。次に仕事をよく観察するという事です。確かめる。五感をフルに活用してみる。よく見る、聞く、味わう、臭う、触れてみることです。さらに人から依頼された事は、依頼された事だけやるという気持ちではなく、今一歩踏み込んでみることです。すると自然発生的に何らかの感情が起こります。簡単だと思っていたが以外に時間がかかる。とても自分の能力だけでは難しそうだ。難しいと思っていたが意外と簡単だった。いろんな気付きや発見が湧いてくるかもしれません。さらに問題点や課題が見つかるかもしれません。これを森田では見つめよ。すると感じが発生して、感じが高まると言います。仕事がおもしろいというのは、そのきっかけとなる外部の出来事がある。それに対してなんとかしたいという感情が湧いてきる。しだいにやる気や意欲、モチュベーションが高まる。最終的に自主的、積極的、生産的、創造的な行動へとつながります。例えば、1「腹が減った」という出来ごとに対して、2「ご飯をたべたい」という欲求が湧いてきます。それから3「食事を作るか食べに行く」という行動が発生します。このステップを確実に踏んでいけば仕事はおもしろいものになるのです。他人からいきなり行動を押し付けられるとそのステップを踏むことができません。つまり感情の高まりもない、意欲ややる気もない状態でいきなり行動することを求められているのです。これはこの意欲の高まる行動のステップを無視しているから苦しくなるのです。最初は他人から依頼された嫌な仕事でも、仕事そのものになりきることができれば、そこに自然に感じが湧いてきます。すると気づきや発見があります。するとやる気や意欲がでてくるのです。すると最初はイヤイヤ始めた仕事が楽しくなるのです。そうなると進歩発展があります。だいたい仕事というものは会社の方針が示され、目標必達のために努力することが求められます。つまり仕事は基本的に無理やりやらされることが多いものです。その状態で与えられた仕事だけをこなしていこうとすると苦痛になります。あたりさわりのない仕事をしていると、感じの高まりもない、意欲もやる気もわいてこない。成果も上がらない。よい評価も得られない。つまり負のスパイラルに陥ってしまうのだと思います。そんな状況でも仕事になりきって取り組み、問題や課題を自ら設定して行動している人は仕事が楽しくなります。上司からも、同僚からも評価される。十分な報酬も得ることができる。プラスの好循環が始まるのだと思います。会社の多くの構成員がそうなれば戦う集団へと変身します。どんどん変化して、成長企業になります。ここで注目していただきたいのは、人間が生きていく上において、「動機の発生」、「感情の高まり」はとても大切なのです。森田理論で学んでいるとおりです。自主的、積極的、創造的行動においては、必要不可欠なものといえます。ところが「かくあるべし」でこうしなさい、ああしなさいと他人からの指示を受けて行動するということは、「動機の発生」もない、「感情や意志の力もない状態」で、いきなり「行動を押し付けられる」ということになります。本来は感情を介在させることで自主性や積極性が生みだされるのです。それが抜け落ちてしまうのです。仕事をおもしろくして、ますますやる気にさせるにはこれを応用すればたちまち解決すると思います。
2015.03.05
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作家の五木寛之氏は「自力と他力」の本で次のように述べておられます。アメリカ人は徹底した自力の思想です。自分や自分の家族の安全を守るためには、女性であっても銃をとって戦うという思想です。家庭の主婦たちがピストルの実弾射撃場であっても別に驚くことではない。ガンやその他の病気に冒されれば、現代医学の水準を信じて、死の間際まで徹底的に病気と闘うというのが常識でしょう。テロの脅威にさらされれば、国民が一丸となって敵と対決します。そのためには、先制攻撃さえ辞さないのです。いわば徹底した自己責任、「自力」の社会なのです。とことん自力で頑張る。頑張りぬいた末に敗れたとしても、その英雄的な姿に惜しみない拍手を送るのがアメリカ社会なのです。こういう社会で五木さんの言う「他力」の思想を伝えていくという事は大変大きなハードルだと言われます。そもそも「他力」という考えは、日本でも十分に理解されていない。他力本願とは、自分では努力しないで、もっぱら他人の力をあてにすること。用例としては、「妹は何かにつけて他力本願だから、いつまでたっても子供のようだ」とあります。他力本願がいつのころから他人頼み、自己責任の放棄になったのか。五木さんは本来の「他力」はあなた任せの思想ではありません。他力というのは、自主努力を放棄した状態が本来の意味です。例えばヨットで海に出ます。無風状態ではヨットは動きません。それに対して腹を立てたり、イライラしてもどうにもなりません。大型扇風機で風を起こしてもらうと思う人がいるかもしれません。あるいは人に後ろから押してもらったり、前から引っ張ってもらう事を考える人がいるかもしれません。自力というのは、普通どうにもならないようなことに対して、なんとか突破口を見つけて挑戦していこうとする態度のことです。これに対して他力というのはそういう小細工をするということではない。そういう場合は、水平線の雲の気配をうかがい、いつかは必ず風が吹いてくると信じて、そのチャンスを逃さないように観察する。風が吹いてくるまでじっと待つということである。そしていったん風が吹いてくると素早く対応するということです。この考え方は森田理論と同じです。不快な感情をなんとかしてなくそうとするのではない。気に入らない自分の容姿、性格、素質等を変えようとするのではない。他人の許せない言動を改めさせるのではない。理不尽な自然災害を呪うのではない。それらは我慢できないことではあるが受け入れていく。事実に服従していく。いわゆる「あるがまま」の世界のことを言っているのだと思います。五木氏は人間は誰でも宿命を背負って生まれてくる。生まれてくる時代、国、両親、環境、素質、性格、容姿はおいそれと変えることはできない。でも運命は変えることができる。変えることのできるものと変えることのできないものをしっかりと区別していくこと。変えることのできないものは潔く受け入れていく。そして変えることのできるものは積極的に手を出していく。親鸞は「運命が自分を育ててくれている」と言いました。どんなにつらくても、運命を切り開いていくこと、生き続けていくことが大切なのです。五木寛之氏の思想は、森田理論を深めるためにさらに学習してみる価値があると思います。(自力と他力 五木寛之 講談社参照)
2015.02.28
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何年か前に妻の父親が入院している病院に見舞いに行った時のことです。余命があまり残ってはいないと聞かされています。病室に入ると何人もの人が見舞に来ておられました。当の本人は痩せこけて、酸素マスクをつけられています。意識は全くありません。苦しいのか首を左右に振っています。近くには血圧計があります。時折最低血圧が下がってきます。最低血圧が50を切ると危ないと聞かされました。手には点滴を打たれていました。ビニールの管が何本も身体の中に入っています。私はあんなに元気だった人がこんなになるのかと驚きました。悲しみでみんな無言です。ところがしばらくすると、妻の姉さんや弟たちが葬儀の段取りの話を始めました。驚きました。その時私の頭の中には、こんな時の「純な心」はなんだろうと思いました。「かわいそうに」「しきりに首を振って苦しんでいるのではないか」「なんとか回復してほしい。」「それにしてもたくさんの生命維持装置だなあ」私の最初の感じです。森田ではそこから出発しなさいと教えてくれている。これは初一念ですね。その時の意識は注意がお父さんの容態に向いています。ところがしばらくすると、初二念や初三念がでてきます。もしお葬式を出すようになったらどうしよう。どんな段取りを組めばいいのだろう。経費はどれぐらいかかるのだろう。心配なことが次から次へと湧いてきます。その時の注意はもはやお父さんに向けられてはいません。意識がないとはいえ苦しんでいるお父さんを前にして葬式の話に加わっている自分がいます。この点について集談会で他の人に聞いてみました。そこで出た話です。普通こんな状態のときは「葬式を出すことを考えておかないといけない」「経費はどれくらいかかるのだろう」「お寺さんの手配は」「親戚はどこまで連絡しようか」等という心配が当然湧いてきます。これは自然な感情だと言われます。もう直に死んでしまうのだから、悲しんでばかりいても仕方がない。次にしなければならない事態を想定して段取りを組むようにした方がよい。そういう心の準備をしておかないと後で大慌てることになります。安易に葬儀社を決めて多額の費用を支払うことになった人もいました。そう言われてみればそういう気がしないわけではありません。でもその時、お父さんが「かわいそうだ」「苦しそうだ」「苦しみを取り除いてあげたい」「持ち直してほしい」という「純な心」はどうなっているのでしょうか。どこかに飛んでいっています。それでいいのでしょうか。森田では初一念を感じるという事は大切なことだといいます。それを味わうことをしないで、初二念に翻弄されてしまうというのはこれでいいのでしょうか。その場ではよく分かりませんでした。私は後で考えてみました。ここで一番肝心なことは、やはり初一念を十分に味わうということだと思います。これをまずよく思い出して、十分味わうということ。まずはそこを出発点にすること。これは絶対にはずしてはいけないと思います。というのは、初二念や初三念の感情は、理性的な感情です。とっさにでてくる感情ではありません。ともすると言い訳や弁解、相手への批判等を含んだ感情だと思います。だから初二念や初三念は「純な心」とはずいぶんかけ離れた感情です。つまり私たちがよく学習している「かくあるべし」を含んでいると思うのです。私たちは初一念を無視して、そういうものに頼っている事の弊害は嫌になるほど学習しています。まずは初一念をしっかりと感じとる。そしてその次に湧き起ってきた初二念も否定しないで感じとる。この二つの狭間で感情が揺れ動いているという状態を維持していくこと、これこそが大切なのではないでしょうか。この二つの狭間で揺れ動くなんとも不安定な精神状態の中に身を置くこと、これに尽きるような気がします。普通は初一念を感じてはいますが、すぐにどこかに飛んで行ってしまいます。つまり無視しています。そして続いて湧き起ってきた感情の初二念や初三念にばかり振り回されているのです。また一方的に初二念に振り回されるようになると、初一念と初二念の二つの感情の間を揺れ動くという体験はできなくなってしまいます。初二念に偏ってしまうからです。するとバランスを欠いた極端な言動へと発展してしまいます。森田でよく話される、皿を落として割った時の話、ウサギが野犬にかみ殺された話を思い出せばすぐに分かります。私の体験ではもはや自分の注意は目の前で苦しんでいる父親から離れて、自分の次にとるべき対応に意識が向いてしまっているのだと思われます。この態度は森田を生活に応用している態度とはいえません。こんな状態では何のために森田で「純な心」を学習しているのだろうと感じた次第です。
2015.02.17
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人間が味わい深い人生を送るためにはどうしたらよいか。そのためには、いつも自分のなすべき課題、夢、目標を持って挑戦することである。前向きに活動している状態を維持していくこと。森田で言う「努力即幸福」の状態を生涯持ち続けることである。そのプロセスについては森田理論が明快に教えてくれている。まず目の前の出来事、現実、事実をよく見る。徹底して観察する。すると自然に感じがでてくる。しだいに感じが高まっていく。つぎに「こうしたいな」という気付きや思いつき、おもわぬ発見、アイデアが湧いてくる。するとしだいに意欲が高まり、やる気に火がついてくる。エネルギーが補充されて、モチュベーションが高まってくる。それに基づいて着実に行動実践を積み重ねていく。その際すべて思い通りにいくとは限らない。行動実践すればするほど、数多くのミスや失敗が起こってくる。そのミスや失敗を糧にして、さらに工夫創意を重ねて前進していく。そういうサイクルで生活を紡いでいくことが一番幸せな生き方となる。まずはこの考え方を整理して頭の中に入れておくこと。ここで一番問題になるのは、目の前の出来事、現実、事実をありのままによく見るということである。ここが一番肝心なことである。またここは心を鬼にしてとり組む必要がある。よくありがちなことは、自分で事実を確かめもしないで、人が言っていたことを真に受けて先入観や思い込みで事実を見てしまう。事実を観察しないですぐに分かったつもりになって、性急に価値判断をしてしまう。そして論理的に飛躍して、マイナス思考、ネガティブ思考に陥ってしまう。そして極めつけは事実を認めないで「かくあるべし」を優先させてしまう。理想や完全主義に陥ってしまうのである。これらは事実をあまりにも安易な態度で取り扱っているのである。出発点からしてすでに大いに間違っているのである。そういう事実軽視の生活態度が神経症に陥る原因となっているのである。神経症に陥らなくても、葛藤や苦悩を産み、他人との軋轢を生じさせている。事実にこだわる。事実こそが神様であるという視点立たないと、その先どんどん間違った方向に進んでしまう。最後には迷路にはまり取り返しのつかないことになる。自分の目の前に現れる不安、恐怖、不快な感情から目をそむけてはならない。よく観察しないといけない。問題になる事態をよく把握する。事実をありのままに認める。事実を受け入れる。決して安易に事実を捻じ曲げてはいけない。自分の都合のよいように捻じ曲げて解釈してもいけない。事実はお金を扱うのと同じように丁寧に取り扱わないといけない。事実をありのままに見ることである。すると葛藤や苦悩のない生活ができるようになります。これは自分だけでなく他人もそういう傾向がある。他人は自分自身ではなかなか真実の事実に気がつかないこともある。認めようとしないこともある。そういう時は正確な事実を教えてあげよう。「私メッセージ」や「純な心」で真実の事実を教えてあげよう。事実から湧きあがった感じから出発できるように援助しよう。その後の相手がどう行動するのかはもう相手に任せるしかない。我々のできることは相手の感じを発生させるためにちょっとした刺激を与えることである。その際自分の是非善悪の価値判断等は全く役に立たないばかりか、相手に多大な迷惑をかけることになる。事実を伝えるだけでいい。森田を学習してその認識を持ってほしいものである。子どもを育てる。部下を指導するという時にこのことは決して避けて通れない考え方であると思う。
2015.02.14
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森田は感じを発生させて、感じを高めていくということを重視しています。そのためには目の前の出来事や事実をよく見つめなさいと言われます。すると自然に感じがでてくると言われます。これが基本です。この点を強化するために、私はさらに次のように考えています。四字熟語に「少欲知足」「吾唯足知」という言葉があります。これは完璧、完全であってはいけない。あまりにも欲をかき過ぎてはいけないということです。欲望はある程度抑制して生活しないといけないということです。食べ物も腹いっぱい食べてはいけない。欲しいものも多少我慢する方がよい。お金も多少不足するくらいがよい。仕事も不満がある方がよい。住むところも冷暖房完備の至れり尽くせりの家でなくてもよい。容姿も二枚目でなくてもよい。少し心配事がある。少し不安がある。少し腹が立つ。もう少し眠たい。少し病気がある。テストでもっとよい点数をとりたい。もう少し楽しみたい。もう少し飲みたい。もう少しゲームをしたい。そういう気持ちを持っていてもよいが、少し抑制して我慢することである。つまり少し不満がある状態がよい。ほどほどがよいと言っているのである。普通は耐えたり我慢できずに欲望を追い求めますので、そういうことができる人は一つの能力を獲得している人です。するとどんなことが起きるか。まず感性や感受性が発生してきて強まります。満ち足りた人が感じないような微妙なことを鋭くキャッチできるようになります。そして課題や目標を持てるようになります。さらに意欲、気力がでてきます。そして困っている人のことを思いやる気持ちも自然に湧いてきます。おいしいものを飽食三昧しているとどんなことが起きるか。血液中に栄養分が充満してきます。すると細菌やウィルスやその他異物を処理する白血球の働きが悪くなるそうです。別にそんなものと闘わなくても、そこら中に食べ物があるので本来の役割を果たそうとしなくなるというのです。このほどほど道という考え方はとても大切だと思います。欲望というのは暴走する特徴がありますので、制御するほうに注意を向けておくことが重要です。行動・実践できるようになると感性・感受性はしだいに高まってきます。
2015.02.11
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日本人は外国人に比べるともともと感受性が豊かである。それは芭蕉等の俳句を口ずさめばすぐに分かる。「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にうねる緑の大地を見わたした。頭上には梅雨明けの大空がはてしなくつづいています。そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑さ」を感じとった。このように「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地の、いいかえると宇宙の「閑さ」なのです。梅雨の雲が吹きはらわれて夏の青空が広がるように、突然、蝉の鳴きしきる現実の向こうから深閑と静まりかえる宇宙が姿を現わしたというわけです。この句に触発されて、私たちも淡々と変化流転している宇宙を感じとっている。さらに人間と自然との関わり方にまで連想させるのである。このように日本人は、わずかな自然の動きに感動します。秋の虫の音色、春の蛙の合唱、さわやかな風、しんしんと降る雪、草花の芽吹き、むせかえるの夏等からどんどん感じを膨らませていく能力を持っています。これは一事が万事そうなのです。例えば木こりの人は、木にさわっただけでその木が健康なのか病気かが分かったと言います。陶芸をやる人は土に命があると言います。漆喰塗の職人さんは、漆は呼吸をしていると言います。鍛治屋さんは、鉄は生きていると言われます。その自然感応力には驚かされます。こうした豊かな感受性を多かれ少なかれ日本人は持っています。基本的に欧米人、中国や韓国の人はそういう感受性はあまりないようです。秋の虫の音を聞くとあのノイズはなんとかならないのかというそうです。田舎で春になって蛙が鳴き出すと気味悪がるというのです。外国人は風流とかもののあわれを感じる力がもともと備わっていないのです。持っていても希薄なのです。この感性や感受性が強いということは、もう一面では過度な心配性ということでもあります。心配性にとらわれて、不安をなくそうとすると神経症に陥ります。日本人は対人緊張が強い人が多いというのは、この感受性がマイナスに作用しているのだと思います。でもこれは日本人のすぐれた特徴として、しっかりと認識する必要があるのではないでしょうか。これを活かしていくより我々を活かす道はない。感受性が強いと人の気持ちもよく分かります。また仕事、家事、子育て、学習の課題や問題点にもよく気がつきます。気付くというのは一つの能力です。気づきは感じを高めてやる気や意欲を産みます。それらを行動や実践に結びつけてゆくと、さらに感じが高まり成長発展することができます。ですから、自分たちが生活していく上において、存分に活かしていく必要があるのではないでしょうか。
2015.02.07
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昭和39年の東京オリンピックで日本女子バレーチームが優勝した。その陰には大松博文監督がいた。強力なリーダーシップで選手を引っ張っていった。「俺についてこい」が口癖であった。これは社会の象徴であった。当時日本は経済成長の真っただ中にあり、強力に社員たちを鼓舞していく経営者が多かった。強いリーダーシップを持ったカリスマ経営者が数多くいた。社員に求められたのは誠実で口答えをしないで努力する人である。そういう社員を終身雇用で守っていったのである。管理職の仕事は、部下を管理することでした。命令や指示を下して、部下がそれに忠実に従って会社のために尽くすことが求められていたのです。しかし現在こういうやり方では、会社が立ちゆかなくなってきた。変化のスピードが速く、一人ひとりの欲望が多様化してきたからである。このやり方は森田でいえば、管理者が部下に対して「かくあるべし」を押し付けるやり方です。現在うまくいっている会社は、社員一人一人が仕事を通じて問題点や課題を見つけて、自ら意欲を燃やして仕事に取り組んでいる会社である。仕事を生活の糧を得るだけではなく、仕事に生きがいを持てている社員を数多く作り出している会社である。そういう会社は社会の変化を感じとる力がある。今や顧客の要望、好み、ライフスタイルは多方面に変化してきた。その変化に対応できないと会社は生き残ることは難しい。会社は生き物である。変化を嫌い旧態依然した経営を続ける会社の寿命は30年といわれる。5年ごとに仕事の内容、仕事のやり方、仕事に携わっている人の3分の1が変わっていなければ、企業は衰退していくという人もいます。そういう意味では、管理者のマネージメントの仕事は依然として大切ではあるが、それだけではダメということである。指示、命令、叱責、非難で部下を鼓舞するやり方は古いやり方である。今は、社員一人一人をよく観察して、その能力を見極めて、その能力に応じて課題や問題点を目の前に提示していく。社員一人一人が自ら気付き、発見、アイデアを持てるような指導をすることである。つまり意欲ややる気を引き出していくことである。今や指導方法はオーダーメイドなのである。大勢の社員がモチュベーションを高めている「情熱企業」といわれる会社は強い。今のスポーツにおけるコーチの役割というのは、こういう方法がとられている。テニスの杉山愛さんのコーチだったお母さん曰く。「選手の資質、才能の全部、もしくはそれ以上に引き出すことができたコーチが一流なコーチです」つまり刺激を与えて、自分で自己変革できる選手を育てることなのだ。選手は一人ひとり、資質、才能、能力は違うので画一的な指導はできない。また自分の成功体験を押し付けても選手は伸びてこない。コーチの役割は、選手個人、個人の技術力、身体体力、精神体力、人間力をあげることである。これらすべてにわたってサポートできるコーチはなかなかいない。一人でできない場合はテクニカルコーチ、トレーニングコーチ、メンタルコーチ、生活や人間関係の基本を教えるコーチを組み合わせる必要がある。偏るといつか行き詰まりを起こす。総合的にコーチできないと選手は成長してこないのである。スポーツではよく心、技、体といわれる。それに思いやりを加えて4つをバランスよく成長させることだ。この考え方は部下を持っている上司、子どもを育てている親は是非とも考慮して欲しいことである。
2015.02.05
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日本語に「もったいない」という言葉があります。英語にはこれにあたる言葉はありません。平成2005年3月、ノーベル平和賞の受賞者であるケニアのワンガリ・マータイさんが環境保全の合言葉として紹介して有名になりました。マータイさんは、消費の削減、リサイクル、物を丸ごとすべてを利用する、使い捨ての見直しなどを提唱されています。物を粗末に扱ってはいけない。有効に活かして使いましょうということです。人間が自然破壊や環境破壊を繰り返している。このままでは地球全体が破滅してしまうので警鐘を鳴らされているのです。現代社会では「消費は美徳」といわれます。そうしないと経済が成り立たない。経済が成り立たないと食べていくことができない。今や全人類は経済を維持し拡大するのが善だという亡霊に取りつかれています。その現れとして、大量消費、消費の拡大、使い捨て、短いサイクルでの買い変えが進められています。その方向は当然自然破壊、環境破壊、大量のゴミの投棄が加速度を増して問題となっています。その方向は人類を破滅させかねないので、「もったいない」という考え方を持ちだしてきているものと思われます。これは森田の「物の性を尽くす」ということとよく似ています。でも森田の言っている事はもっと深い意味があると思います。森田では、物にはそれぞれ存在価値がある。その存在価値を評価して、存在価値をどんどん高めて活用し尽くすことを言っています。そして、他人や世の中に役立たせることを言っています。大切なのは、資源や物だけではなく、自分自身、他人、時間、お金等すべてに及んでいます。森田に「唯我独尊」という言葉があります。我々が自分の本性を認めて、これを礼賛し、ますますこれを発揮し、どこまでもこれを向上させていこうとする態度のことを言います。これは「物の性を尽くす」ことと同じ意味です。究極のところ、森田では人間の本来の生き方を問うているのだと思います。「もったいない」から資源を大切に、環境が破壊されるから消費を抑えましょうと言っているのではありません。人間の生き方そのものに迫っているのです。森田理論の土台は「生の欲望の発揮」です。自分の置かれた境遇のもとで、自分に元々備わっている能力と存在価値を活用して精一杯に努力していく。その努力の過程に幸せがある。それが、人間が生きるということだ。そのためには、なんとしても自分の存在価値に磨きをかけて、成長させて、活かしきるという生活態度が欠かせない。この視点から出てきた言葉だと思います。欧米には「神は大自然の管理者として人間を選んだ」という思い上がった考え方が根底にあります。もともと自然との調和という考え方はありません。自然は対立する相手であり、征服すべき存在なのです。だから欧米人はこの点ではあまりあてにはなりません。日本人はもともと自然と調和する考え方を持っていましたが、残念なことに欧米の考え方が徐々に浸食してきました。森田を学習している人は、この点警鐘を鳴らしていく役割を果たしてゆかなければならないのではないでしょうか。
2015.02.03
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鴨長明の方丈記の書き出しである。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。(現代語訳)川の流れは絶えないが、それは、もとの水とは違う。よどみに浮かぶ泡は、消えたり生まれたりして、長く残っているものはない。世の中にある人、家も、またこのようなものである。つぎは平家物語の書き出し部分である。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり沙羅双樹(らしゃそうじゅ)の花の色 盛者必衰の理をあらわすおごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとしたけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ(現代語訳)祇園精舎の鐘の音には、永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある。まんじゅしゃげの花の色は、栄えたものは必ず滅びるという法則を表している。権力を持ったものも長くその権力を持ち続けることはできない。それは春の夜の夢のようだ。 強い力を振るったものも結局は滅びる。それは風の前にあるちりと同じである。この二つは森田理論の「変化流転」「流れにのる生き方」を分かりやすく説明してくれている。世の中のものは絶えず変化している。変化を嫌がり、同じところにとどまる、固定して動かないということはできない。それはすなわち死を意味する。自然の流れにのって生活することが一番安楽な生き方となる。変化を読み変化を先取りする気持ちで生活することが肝心である。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは変化に対応できる生き物だ」という考えを示したといわれています。森田先生は変化に対応するには、体操の時の休めの姿勢の重要性を説いている。つまり、片足で全身の体重を支え、他の方の足を浮かして、つま先を軽く地に触れている態度をとると周囲の変化に対して、迅速に適切に反応することができる。電車の中でも、休めの姿勢で立っていると、吊皮などを掴む必要はなく、読書ができる。電車の動揺にも、決してじたばたすることはない。そのうえ、降りる駅や乗り換え場所を間違うこともない。スリに遭うこともない。手荷物を忘れたりすることもない。変化に対応するということにフォーカスするだけで神経症は克服できると思う。症状は気になるが、いつも横においておくという態度で生活するのだ。そして目の前に起きる変化を読み、変化に即座に対応する態度で生活するのだ。神経症の症状は、いちいちその場で解決して、気分をすっきりとさせて、初めて次に進むというのは間違いだ。不安を抱えたままで、その時その時のなすべき課題に取り組むのである。これは多少難しいが、これができれば症状と縁が切れる。
2015.01.29
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