全429件 (429件中 301-350件目)
夏目漱石は小説「草枕」でこう書いている。「山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」小説家というのはうまい表現をするものだ。これを森田理論で考えてみたい。「智」というのは、「智恵」に通じる。辞書を見ると、智恵とは、物事の道理がよく分かって、きちんとした判断ができて、いろいろなことをうまく処理できることとある。つまり今までの教育や経験によって得た知識を、大脳新皮質の判断力によって物事を適切に処理しようという態度のことである。これを相手に押し付けることを、森田理論では「かくあるべし」と言っている。どちらかというと相手の言うことを聞こうとしないで、自分の頭で考えた理屈で相手を打ち負かしてやろうという態度である。自分の「かくあるべし」を相手にぶっつけていこうとすると、最後には反発されて喧嘩になるだろう。森田が最も嫌うところである。「意地」とは自分の考え方を無理やりに押し通そうとすることである。「智」よりももっと深刻である。「意地悪をする」「意地をはる」「意地きたない」「意地っ張り」などの言葉がある。いずれも自己中心的で、陰湿ないじめや融通性のなさを連想させる。これも「かくあるべし」を相手に強力に押し付ける態度のことである。非難、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒りの言葉に近い態度をとることである。「情」とは、心に感じる働き、目に見えるさま、男女のいとなみ、おくゆかしいおもむきとある。感情、感性、情熱、人情、愛情、実情、表情、旅情等という言葉がある。森田では、喜怒哀楽などの感情、相手を思いやる人情ということがよく出てくる。森田では理知と感じの取り扱いは明確である。森田先生曰く。我々の日常生活は、実際において、まず第一に、時と場合における「感じ」から心が発動し、種々の欲望が起きる時に、それに対して、理知により、理想に従いて、自分の行動を調整していくのであって、すなわち第一が「感じ」で、次に理想が働くのである。それを反対に理想を第一にして、それから「感じ」を出そうとしてはいけない。(森田正馬全集第5巻405ページ)例えば、酒が好きか嫌いから出発する。嫌いな人は、酒をすすめるとき、「どうしてこんなものが飲めるのだろう」という気持ちでつぐと無理がゆかないで、酒好きもうまく飲まれるが、「あの人は酒が好きだから」と自分の嫌いということを離れて考えると、加減なしにやたら追いかけ追いかけ酒をつぐので、酒好きでもたまらなくなる。自分の好き嫌いという感じから出発すると、相手の立場に自分を置き換えて考えることができて思いやりということができる。相手と気持ちが通じる。同情心がでてくる。(森田正馬全集第5巻696ページ)ここではっきりしておきたいことは、理知がよいとか、人情がよいとかということではない。両方とも大切なのである。要はその活用方法が問題なのである。いつでも感じを第一におき、次に理知で調整しながら生活するというスタイルを踏襲するということが肝心なのである。喜怒哀楽などの感情はそれほど大事なのだ。すると苦しいことは多々あるが、胃潰瘍になるほど悩むということはなくなる。苦悩や葛藤でのたうちまわることはなくなるのである。
2015.01.25
コメント(0)
最近は家庭菜園をされている方が多いいようです。土づくりをしてミミズが住みつくような土になりますとヘビなどがやって来るようになります。ヘビというのは苦手な人が多いいようです。ヘビを見つけるとすぐに逃げだすという人が多いと思います。またヘビが恐ろしくない人を呼んできて追い払ってもらう人もいると思います。畑にヘビが入っていたというだけでもう畑には行きたくないと言って家庭菜園をやめたという人もいました。青大将のようなものは大きいですが人間には危害を加えません。ところが蝮のようなヘビは毒を持っています。とぐろを巻いていて一挙に飛びかかってきます。噛みつかれると血清を打たないと命にかかわります。沖縄や奄美大島に生息しているハブなどは猛毒を持っていると言われています。必要に応じてその都度駆除しないといつまでも居座ることになります。危険極まりない状態になります。イヤイヤでも自分で駆除するか、近所の手なれた人に依頼するかしないといけません。逃げて放置することはいけません。その時は一時楽になりますが、強迫観念で苦しむようになります。その際そのヘビをよく観察することです。頭が三角形をしているのが蝮です。これは必ず駆除しないといけません。それ以外のヘビは畑の虫などを食べてくるので放置しても害にはなりません。強迫観念を起こすような人はどうなるか。ヘビを見ただけで恐怖に耐えられないで、一時逃れの安心を得ようとして、顔をそむける。すると、その人の注意は、自分の不安な状態、すなわち自分の胸さわぎ、脱力の感とか、さむけやふるえるということだけに集中し、心を奪われて、現実の対象を忘れ、自分の恐怖、不安の結果がどうなるかということが恐ろしくなる。恐怖を恐怖する状態になる。ヘビを忘れて自己に執着しているのである。ヘビを駆除していれば、その事実が去れば、よかったという歓喜が起こり、大丈夫という自信もできる。ところが強迫観念を起こすような人は、自分の気分を目標にしていて、気分は事実とは無関係にいつまでも自分に内在しているから、日夜その恐怖に悩まされることになる。「煩悩のヘビは追えども去らず」というふうに、実際のヘビとは違って心の中に住み着いたヘビだから、絶えず悩まされることになる。その後、このヘビの気分に対する恐怖を中心にして、人間関係が恐ろしい、夜が恐ろしい、友人の訪問も不安である。寝ても覚めても悩みもだえるというふうに拡がっていくのである。このあたりのことを森田先生は明快に説明されております。気分本位になってすぐに逃げてはいけない。よく観察する。事態を把握する。是非善悪の価値判断をしないで事実を認めていく態度が大切です。さらに事実を受け入れて、事実に服従できると自然に対応策は思い浮かんでくると思われます。(神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 一部分180ページより引用。)
2015.01.08
コメント(0)
玄侑宗久氏は芥川賞作家であり、現役僧侶だそうだ。玄侑氏がこんなことを言っている。普通世間では「一途」な態度がほめられる。そのほうが本人も楽ですよね。一つに絞ったほうが。しかし玄侑氏は、小説を書いていこうか、僧侶でやろうか随分悩まれたことがあるそうです。師事していた星清先生という方が、ある時おっしゃったそうです。「そんなに悩むのなら両方やってみたら」それで視界が開けたそうです。二足のわらじを履くことにされたそうです。「二兎を追うものは、一兎も得ず」といいますが、たくさん追うのはエネルギーがいります。でも十兎を追うほうが精神衛生上よろしいのではないか。一兎を追うというのは、正しさ、美学をわき目も振らず追い求める姿です。そこから外れるのはよろしくないという少し窮屈な面があります。十兎を追うというのは好奇心に従って楽しみを追い求めているような気がする。どちらも一長一短あります。でも人生はけっこう長いですから、簡単に切り捨てることはない。いろいろと挑戦してみることをお勧めします。森田理論に「無所住心」という考え方がある。これは十兎を追いかける考えです。森田先生は、集中するというのはひとつだけのことにとらわれるのではない。たとえば、森田先生が講義をしている。森田先生は講義だけに集中しているのではない。机の上のコップの飲物にも気をとられる。外の騒音にも気をかける。聴いている人の態度にも気をとられる。その他いろいろなことにあまねく注意を振り向けている。つまり意識の持っていきどころが次々と変化流転していく。この態度が森田先生の言う集中ということです。そうなると一つのことにこだわっている時間が少なくなり、たくさんのことに短時間集中してこだわるという生活になります。神経症の人はこれができない。一つのことに異常にこだわり、それ以外のことは眼中になくなる。こだわりがとらわれとなり、にっちもさっちもゆかなくなり神経症になる。この「無所住心」が体得できるだけで、神経症を克服することができます。
2015.01.05
コメント(2)
相田みつをさんの言葉で好きなものがある。わたしは無駄にこの世に生まれてきたのではないまた人間として生まれてきたからには無駄にこの世を過ごしたくない私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだそれが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではないその仕事がなんであるかを見つけそのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに人間として生まれてきた意義と生きていくよろこびがあるのだ相田さんは、人間に生まれてきたということは、それだけで存在価値があるといっている。五体不満足に産まれても、生まれてきたことに価値がある。経済的価値、利用価値、比較価値よりも、存在価値の方が大切だ。我々人間は、不平や不満を言う前に、存在価値を自覚して、存在価値を活用して生きていけばよい。これはとかく忘れがちな言葉である。次に「仕事」という言葉は、「出来事に仕える」と書く。仕事をするということは、人に頼って人に依存することではない。どんなに経済的にゆとりがあっても、人任せにしてはならない。基本的には自分のことは自分でするということである。これが、人間が生きるということの原点である。まず自分の命を自分で守っていくこと。それを日々実践していくこと。自分の食べるものを自分で作り、料理していくこと。生活環境を整えていくこと。安全に気を配り、健康を維持していくこと。次に人間だれしもそれぞれに課題を与えられている。それから安易に逃げてはいけない。目の前に立ち現れた問題点や課題に対して、果敢に挑戦していくこと、真剣に取り組んでいくこと。相田さんは、人間にとって大切なことを2点にまとめて教えてくださっておられるように思う。
2015.01.02
コメント(0)
森田先生は「努力即幸福」「煩悩即解脱」「煩悩即菩提」「不安定即安心」等の言葉をしばしば使われている。ここで使われている「即」という言葉について考えてみたい。「即」というのは、一般的には、すぐに、すなわち、いいかえると、イコールという意味である。たとえば、「煩悩即解脱」であるが、悩みや苦悩を抱えているということ、欲望が叶えられないという問題をそのまま抱えている事が、すなわち、悩みや苦悩からの解放につながり、欲望への執着から逃れられることである。だいたいそういう意味であろう。でもこれでは、なんのことかよく分からない。そこで分かりやすくする鍵がある。「即」の前に、「なりきると」という森田の言葉を挿入する。なりきるという言葉は、「ものそのものになりきる」という意味でつかわれることが多い。つまり目の前のなすべきことに一心不乱になってくり組むということである。いわれた事をそのままやるのではなく、一歩踏み込んで一生懸命になることである。これも森田学習では大切なことである。感じを発生させ、高めていくという面では欠かすことができない。でも「なりきる」というのはもう一つ別の重要な意味がある。「なりきる」とは不安や恐怖、違和感、不快な感情をそのまま受け入れて、苦痛から逃れるための「はからい」をしないということです。それらに服従するということです。もう一度、煩悩になりきると、すなわち解脱できるという言葉を考えてみよう。不安や恐怖、違和感、不快な感情を取り去ろうというような「はからい」を止めて、不安や恐怖を抱えたまましておく。そしてなすべきことに手をつけていく。すると不安や恐怖はあっても無きがごときになる。一体になって問題にならなくなる。心安らかに生活できるようになるということである。ここが肝心なところだ。そうなるためには、森田理論でのたゆまぬ修養が大切だ。でもこれは「森田の達人」について学習、実践するだけで手に入れることができる。「努力即幸福」というのもそういうことである。生きとし生けるものは、アメーバ―から人間まで、営々刻々とその本能にそなわった最善の方法で機能を発揮している。アメーバ―が動き、白ネズミが篭のなかで車を回す。その機能の発揮を人間にたとえて、「努力」という。機能を発揮することそのものが「幸福」である。「努力」はすなわち「幸福」であり、同時に人生の目的でもある。人生の手段も努力であり、人生の実際も努力である。実際を離れた観念のやりくりでは幸福はつくれない。森田先生は、「相撲取りはその体力、学者はその智力、詩人芸術家はその感情、宗教家はその意思、みなそれぞれの個性のままに、その機能を発揮してゆくことが幸福である。欲の袋に底がないように、死ぬ間際までも、飽くことを知らない向上的努力、その努力なく幸福はない。」と言われています。苦しくても努力している限りは、幸福である。また、森田先生は、煩悩即解脱、煩悩即菩提についてこんなふうにいっている。「強迫観念の療法は、その精神の葛藤・煩悶を否定したり回避したりするのではない。そのまま苦悩煩悶を受忍しなければならぬ。これを受忍しきった時に、そのまま煩悶・苦悩が消滅する。すなわち煩悩即菩提であり、雑念即無想・不安即安心であるのである。煩悩・強迫観念、その苦痛をそのままでよし、徹底的に苦しめ、そうすればそのままに解脱して安楽になるぞ。火は熱い。水は冷たい、あるがままに見よ、当然のこととせよ、そうすれば火もまた涼しくなるであろうと、私の体験から、このように推察するのである。」ここでのキーワードは「なりきる」ということである。
2014.12.29
コメント(2)
宮本武蔵の「五輪書」には、剣の道の極意が書いてあります。その中に相手と対した時に、注意や目線はどこに向ければよいのかというのがある。相手の目をまっすぐに見るのがよいのか。それとも刀を持つ手元なのか、あるいは剣先なのか。それ以前に、どのような顔つきでいればよいのか。「五輪書」の水之巻で丁寧に述べています。これによると、目をむかず、眼球を動かさないようにして、まばたきをせず、少し目を細めます。顔は仰向けにも、うつむきにもせず、傾けもせず、もちろん額や眉間に皺など寄せません。鼻筋はまっすぐにし、わずかに顎を突き出して、のどかな感じのする表情を推賞します。肝心の心はどうするか。緊張もせず弛緩もせず、まっすぐにする。「心を静かに揺るがせて、その揺るぎの瞬間にも揺るぎやまないようにする」「静かなる時も、心は静かでないように」「いかに早いときでも、心は早くないようにする」ここまで来るとさすがに難しい。なんのことを言っているのか。これは注意をある一点に固定しないで、四方八方あらゆるところにアンテナを張って、注意を多方面に分散させている状態をいいます。いわゆる森田理論でいう「無所住心」のことです。風之巻でも、目のつけ方をとりあげ、相手の太刀、手、顔、足など、特定の部位に固定させないように注意します。一点に注意を集中させずに、まんべんなく相手の全体に注意を払っていく。さらに、心さえもゆったり揺るがせていながらも、全体としては穏やかな状態にしておきます。これを、どこか一点に注意を集中させていると、隙ができてしまう。相手はその隙をついてくる。すると相手の思わぬ攻めに、心も身体も慌ててしまい、とっさの動きができません。出来たとしても遅くなります。剣の道ではそれが勝敗の分かれ道となってしまうのです。我々の生活にもその心意気を応用すればよいと思います。神経症では症状一点に注意を集中させています。一点に注意を向けると感覚が敏感になり、感覚が敏感になるからますますそこに注意を向ける。そしてその悪循環が繰り返されて、どんどん増悪していく。それは蟻地獄の中に引きずり込まれたような状態です。地上に出ようともがけばもがくほど底に落ちて行ってしまうのです。これは森田理論でいう精神交互作用のことですね。注意は一点に集中させてはいけません。内向一辺倒でもいけません。注意は常に外向的に、しかも多方面に向いていないと問題が生じます。今現在の目の前に現れるものすべてにとらわれる。そして、とらわれる対象がどんどん変化流転していくというところでしょうか。(生きる力 森田正馬15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版より一部引用)尚、この本は森田理論学習を深耕するうえでとても役立つ本です。推薦いたします。
2014.12.26
コメント(0)
京都の銀閣寺の近くに「草喰なかひがし」という店があるそうだ。この字は「そうじき」とよむ。名前からして精進料理のような店である。お値段は少し高めのお店だが、今や京都で最も予約が取れにくいお店になっているそうです。それほど超有名な店なのだ。NHKのプロフェッショナルで紹介されていた。店主は中東久雄さんである。この方はその土地にあるものを使って、最高の素材のうまみを引き出すという料理の達人である。この方の料理の材料はその土地でとれた旬の野菜である。ネギなどは根も捨てずに、他のものと合わせて、上手に料理されていた。根菜類などは甘みののった旬の見極めが的確である。またその辺に生えている、のびる、つくし、ふきのとうのような野草や山菜も季節を感じさせる野菜として存分に使用されていた。魚は鯉などの川魚が中心である。琵琶湖の匂いの強い貝なども、辛子大根などと炊き合わせて絶品の料理にされていた。肉はシカやイノシシの肉である。冬に脂の乗った肉がよいそうだ。中東さんは食材を求めて毎日京都市内から大原に通っている。材料は自分の足で調達しておられるのである。普通は一流の料理人が、寒い雪の降る冬の大原などに行くことはない。また雪の中を掘って「つくし」などを掘って探すというようなことを、毎日続けておられるということが大変驚きである。毎日行っていると、今年は春の訪れが早いという感じがしたそうである。それは土が温かいと感じたからである。五感が研ぎ澄まされているのだろう。その感じは春を感じさせる創作料理にすぐに反映されている。中東さんのところは目の前のかまどでご飯を炊いている。3種類の食べ方を用意されていた。2番目はめざしと一緒に食べる。最後はお焦げをお茶漬けにして食べる。中東さんは高級食材を使うという考えは全くない。自然あるもの、旬の材料だけを食材として使うのだ。実に痛快である。それらを絶品の料理に仕上げてお客様に感動を与えるというのが正直な気持ちだ。京都の地の食材について、あるいは料理方法についてはことのほか詳しい。京都の食材の特徴をよくとらえておられる。その素材を活かすにはどうしたらよいか。どういう組み合わせにすると最高の味になるのか。この料理に対する考え方は森田理論の真髄を彷彿させます。多分中東さんは、経営者になっても人を指導して伸ばす力は抜群だろうと思います。それは森田でいう事実本位、物の性を尽くすという最高レベルの境地に達しておられるからです。私としては「名誉森田の達人」の称号を与えてあげたいくらいです。
2014.12.24
コメント(0)
町田宗鳳氏のお話です。人間は大なり小なり、八方塞がりの中で生きているのです。でもその現実はどうしようもありません。1センチたりとも動かせないのです。運命という警察官から手錠をはめられているようなものです。となれば、制約は制約のままで、どれだけ屈託なく、自由に気分晴れ晴れと生きていくか、それで人間の値打ちが定まります。自由を得るか得ないか、自分の心の持ち方次第ということになります。親が悪い、学校が悪い、社会が悪い、政治が悪いと、自分の自由を奪う制約を人のせいにしているうちは、子どもです。あれが悪い、これが悪いといっているうちに、自分自身から悪い余波がどんどん発信されることになり、今よりももっと悪い現象が起き始めます。法然聖人は75歳という高齢で四国に流罪となっています。それで法然聖人は少しも悲観していなかったのです。こんな歌を詠んでいます。露の身は ここかしこにて 消えぬとも 心は同じ 花のうてなぞ「肉体は草葉の露のようなものだから、どこで消えるか分かりません。だけども、心はいつも極楽浄土の蓮の台(うてな)にあるのですから、旅先で亡くなったとしても、またすぐに再会できますよ」流罪という深刻な事件にも、まったく制約されぬ自分を楽しんでいるところがすばらしいのです。職場で左遷されたといって悲観し、わが身を殺める人間がいますが、愚かなことをしようとする前に、この法然の歌を噛みしめてほしいものです。この世にいる限り、重い制約の中で、幸せを見つけるよりほかにないのですから。これは森田理論では、「境遇に柔順になり、運命を切り開いていく」という考えと同じことだと思います。(生きているだけでいいんだよ 町田宗鳳 集英社 54から56ページ引用)
2014.12.05
コメント(2)
海上保安官でヘリコプターのパイロットをされている森公博さんという人がいる。2004年台風で大型帆船が富山で座礁した。167人全員の救助に成功したのも森さんの操縦技術が活かされていた。ヘリコプターでの海難事故は悪天候の中で発生することが多い。視界も悪く、強風吹きすさぶ中で人命救助に当たっておられる。下手をすればヘリコプターが墜落して、自分だけではなくクルー全員の命が失われるという危険極まりない仕事である。ヘリコプターの操縦で一番難しいのはホバリングである。これは機体を一定の場所に静止させる技術である。荒海に出て、遭難した船の上でじっと停止できないと仕事にはならない。ところがこのホバリングはとても難しい。強風が四方八方、上から下へ、下から上へと吹き抜けている。強風に合わせて常に出力を上げたり下げたり、絶えず風の変化に合わせて機体を静止させるのである。基準となる目印を見つけて、五感をフルに研ぎ澄まし、ミリ単位の操縦である。手や足だけではなく全身を使って操縦されている。訓練では1時間30分もホバリングを続ける。つまり体力勝負である。緊張する時間が長いので強い精神力も要求される。そして何よりも高い操縦技術が必要である。体力、精神力、技術の3つのバランスが取れていて、しかも高度に訓練していないと仕事にならない。我々はここから何を学んでゆけばよいのか。森田では自然の変化に対応することが大切だという。自然の変化に対応するというのは口で言うのは簡単だ。しかし実際には強い意志、体力、森田理論の深耕などで自分を磨き続けるということが不可欠なのである。
2014.11.30
コメント(0)
人間関係の手法にティット・フォー・タット作戦というのがあるそうだ。ただしこれは夫婦関係や友達や同僚などに限られる。力関係のある上司や部下ではうまくいかないと思う。手法はこうだ。相手があなたにやさしく接してきたら、あなたも同じようにやさしく接する。逆に相手が高圧的な態度をとってきたり、批判的な行動をとってきたときは、あなたも高圧的な態度で臨み、また批判的に行動するのである。自然の流れにそって付き合うことである。相手の態度に合わせるのである。相手の変化に対応していくということである。実は森田理論の中にも柔道などで、こちらから積極的に技を仕掛けるのではなく、相手の動きに合わせていくというのがある。最後に相手の動きを利用して軽く技を仕掛けるのである。でもそんなことをすると、すぐに人間関係が破たんしてしまうじゃありませんか。いい加減なことを言わないでください。我慢したり耐えたりする方が正道です。などという反論が聞こえてきそうです。そういう人はよく思い出してみてください。相手が高圧的態度に出た時、自分がいつも下でに出たり、自分の気持ち抑圧したり、我慢したりすると相手は自分のことをなめてしまう。これが繰り返されると、相手はさらに強気な態度を見せるようになる。コントロールされたり、支配されてしまうようになる。相手の言いなりになることは、大きなストレスとなる。さらに自己嫌悪、自己否定の温床となる。最後には精神を病んだり、体の不調で悩むようになる。そして最終的に大噴火の可能性がある。すると人間関係は完全に破たんしてしまう。だから言葉は悪いが、「目には目を、歯には歯を」、「売り言葉には買い言葉」で応戦することが精神衛生上はとても大切なことだ。ため込まずに常に外に吐き出すことを実践したい。まずは言葉にして吐き出す。次には日記などに書いて吐き出す。それは食物を食べて、老廃物を体外に排出するのと同じことだ。便秘して体内にため込んでいると体中に毒素が蔓延してしまう。ただしやり方は工夫して考えなくてはならない。その際森田理論がとても役に立つはずだ。ずばり「純な心」の応用である。この見極めが大事である。コツを掴めば生活にすぐに応用できるようになる。さらに純な心を発展させていく。私メッセージの発信を心がけることだ。これで対等に渡り合えれば、精神的に穏やかとなると思う。
2014.11.27
コメント(0)
名古屋市立科学館では、水中で揺れ動く酸化チタンの微粒子を顕微鏡で見ることが出来るそうです。生物でないものが絶えず揺れ動いているのは不思議です。この微粒子の動きをブラウン運動というそうです。脳科学者の茂木健一郎氏は、人間の脳にもこのブラウン運動に似た働きがあるといわれています。たとえば野球でキャッチャーがピッチャーに対して球種のサインを出します。その際どんな球で相手を打ち取ろうかいろいろと考えます。試合の局面、バッターの仕草、過去の対戦、バッターの特徴などを考えていくとすぐには結論が出ません。ああでもない、こうでもないと考えがまとまらずに揺れ動いているのです。実はこの揺れ動くという心理状態が重要な意味を持っているといわれているのです。この揺れ動く心というのは、森田理論の中で精神拮抗作用と言われているものです。我々も日常生活の中で、どうしたらよいのか判断がつかないことがよくあります。たとえば酒好きな人が、宴会などで酒を浴びるほど飲みたいという気持ちになったとします。すると以前二日酔いになって一日中体の調子が悪かったことが思い出されます。飲みたいけど飲み過ぎるとしんどくなる。気持ちが二つの間を微妙に揺れ動いているのです。それを無理やりにどちらかに決めつけてしまうとうまくいかない。明日は休みだからと思って、本能のままに飲むと確実に二日酔いになります。また酒を飲みたいのに全く押さえつけてしまうと、宴会が苦痛に変わってきます。揺れ動く気持ちのままに、おいしい料理に舌鼓をうちながら、加減して飲むということが出来ると二日酔いにもならず、楽しい酒を飲むことが出来ます。二つの気持ちの間を揺れ動きながら、生活をしていくというのが生きるということです。「かくあるべし」でどちらかに決めつけないとすっきりしない、落ち着かないというのは、自然の流れを無視した自分勝手な生きた方だと思われます。
2014.11.18
コメント(0)
多くの人の心の中には、事故や災害の発生時に「自分は大丈夫」と思っている。「まさか自分が被害者になることはないだろう」という心理があります。これを「正常化の偏見」というそうです。事態が裏目に出ると、ビル火災や地震災害の時逃げ遅れたりします。韓国の列車火災事故やフェリーの沈没事故なども、危険を察知して早く避難していれば多くの人は助かっていただろうと思います。御嶽山の水蒸気爆発も噴煙を見て一目散に逃げていればと思うこともある。このように災害時には「正常化の偏見」がかえって裏目に出ることがある。防災行動や避難行動を怠らせるといった方向に作用するのです。この「自分は大丈夫」という心理には、客観的な根拠は何もない。不安や緊張を和らげ、安心をもたらそうという自己防衛システムが、危機的な状況を正常な方向にゆがめて認知させているのである。でもこうした心理状態が働かないと、不安や恐怖に翻弄されて手も足も出なくなる。特に神経質者の場合に問題となることがある。例えば飛行機に乗れなくなる。以前巨人の選手で広島遠征の時でも、飛行機に乗らず新幹線で移動という人がいた。事故に遭うことを恐れるあまり、飛行機に乗れないのである。これでは生活に影響が出てしまう。海外出張の多いビジネスマンでは飯の食い上げとなってしまう。毎日飛行機に乗っている人で、事故に遭う確率というのは438年に1回の確率だそうである。人生を5回やり直してやっと一回の確率である。「正常化の偏見」という心理が全く働いていないというのは、不安や恐怖に振り回されているのである。すぐに精神交互作用への道に突き進んでしまう。これは森田理論の精神拮抗作用と関係がある。普通人間には、こうしたいという希望や欲望がある。反面でもうまくいかなかったらどうしようという反対の考えも同時にわいてくる。そのどちらか一方に偏って決めつけてはいけないということである。その状況に応じてバランスをとりながら、臨機応変に行動するという態度にならないと、社会に適応して生きていくことはとても難しい。私はいつも「やじろべい」を見ながら、バランスや調和のことを思い出している。人生はサーカスの綱渡りのようなものだと思う。長い物干しざおのようなものでバランスをとりながら、注意して一歩一歩前を向いて進んでいくしかない。(病的に自分が好きな人 榎本博明 幻冬舎より一部引用181ページ)
2014.11.15
コメント(0)
指揮者の佐渡裕さんは時間の使い方が上手な人である。私は「ながら族」で欲張りだといわれる。楽譜を勉強し、練習に行き、本番をこなし、その間に芸能ニュースまで見、インターネットをチェックし、海外にいるのに、日本の番組をよく見る。自分のホームページもチェックして、原稿を書き、会議をし、音を作るだけではなく、演奏会の企画からお金集めのことまで考える。すごく複雑な思考体型になっていますといわれている。少し空き時間を見つけるとゴルフの練習にも行きます。これらはすべて遊び感覚です。そんな風に生きていると、世界を飛び回ろうが移動と演奏会でスケジュールがぎっしりになろうが、全然忙しくない。佐渡さんの音楽の感性は、普段のこうした生活意識によってさらに高められているのであろう。森田先生もよく言われていました。勉強に集中しようとして静かな田舎に行っても、精神が弛緩してしまってかえって集中できない。街中の騒音があるような環境のほうが勉強ははかどる。それは感情が一つのところに固定されずに動き回っているからである。四方八方へと意識が動いているときのほうが、ちょっとした発見、新しいアイデア、ひょっとした思い付きが泉のように湧いてくるのである。このことを森田では「無所住心」と言っている。その時は精神や意識が弛緩状態から緊張状態のモードになっていて、感情が常に変化流転しているのである。一つのことにとらわれて神経症に陥る暇もないといった状態である。だから仕事でもゲームでも、同じことをだらだらと長時間続けることはお勧めできない。細切れ時間をどんどん活用できるようになるというのが森田的な生活である。
2014.11.14
コメント(0)
森田理論は「事実に素直に従え」といいますがこんな例はどうでしょうか。高良武久先生のお話です。人間は正直であるべきだ。これは大切なことですね。しかし、いつも正直であるべきだということをう呑みにして、それを実践したら、変なことになりますよね。なるほど正直でなければ、人間はいちいち人を疑わなくちゃならない、用心ばかりしていては、取引も何もできないですね。人間関係が破壊されますよ。しかし、正直であるということにとらわれて、自分の心に思うことを、その通りに言うのが正直だということで、人に会ってですね、「あんた顔色がよくないですね、ガンでもできているんじゃないですか?」とか言うようなことを言うのは、これは変ですね。「もう長いことはないんじゃないかね」なんて言ったら、困るんだなあ、そういうことは。特に医者がそんなことを言ってね、「あなたはせいぜい、あと1か月ですね」とか何とか、あるがままを正直に言わなくちゃならんと思ったら、それは大変なことになるわけだね。「夕べあなたにいただいた団子はまずくてね、ようやく我慢して食べましたよ」なんて言ったら、それは事実であるから、言うのが正直だと、そういうことを言ったら、相手をただそこなうだけですねえ。反社会的だねえ、そういうことは。たとえまずくてもですね、「結構なものをいただきました。ありがとうございました」というのが礼儀だね。よく世の中には、そういう外界の事情に応じないで、一本調子にやるのが、正直な態度だと心得ている人があるんだな。そういうのは、まあ世間知らずとか、人を無視するような態度になりますね。森田先生も人情から出発しないといけないといわれる。事実を正直の言うというのは人情を全く無視しています。それは「かくあるべし」の世界の発想なんでしょうね。
2014.11.11
コメント(0)
人間の寿命は125歳だという人がいる。でも実際にはそこまで長生きをしている人はいない。生まれた時はみんな125歳まで天寿を全うする力は与えられているのかもしれない。ところがその後の生き方によってどんどん命が短くなっているのではなかろうか。体の健康、心の健康の度合いが寿命に影響を与えているのである。体の健康では、食事の内容、適度な運動、体を温めるなどのケアが大切である。食事について言えば、日本人の場合は食べ過ぎによって病気が作り出されている。食べ過ぎ、飲み過ぎを抑制していくことが基本である。私は現在、朝は人参リンゴジュースが一杯とヨーグルトだけである。昼は玄米ご飯とみそ汁だけである。夜は缶ビールと自由な食事である。これは石原結實医師の考えに賛同したからだ。運動というのは激しい運動は控えている。なぜなら哺乳類の心臓の拍動数は約20億回になっているそうです。(長生きしたい人は鏡を見なさい 南雲吉則 朝日新書)心拍数が150を超えるような激しい運動は、心臓に負担をかけすぎているというのです。心臓は痛んだところが自然治癒で再生されるということはありません。南雲さんは日常生活や仕事の中でゆっくりと体を使うことによって、体力維持を心がけることを提唱されています。特にふくらはぎは第2の心臓と呼ばれています。これを鍛えるためには簡単なことです。歩くことです。現代人は車や電車に乗ることが多く歩くことが少なくなっているのは問題です。その他風呂にゆっくり浸かったり、腹巻などを使って体を温めてやるというのはとても大切だと思います。体温が1度下がると免疫力はかなり低下するそうです。心の健康では悩みやストレスを溜めこまない生活が大切である。生きていると悩みやストレスが全くないということは考えられません。またそれらが、意欲ややる気の源となっています。ただそれらに振り回されるというのは心身に多大な悪影響を及ぼします。悩みや生きづらさに対して明確な指針を示してくれているのが森田理論です。森田理論は神経質者にとっては必ず履修しなければならない、必須科目です。心身の健康を維持することは、森田理論でいう「己の性をつくす」ということにつながります。自分自身の心身の持っている力や能力を信じて、大切にして最後まで活用しつくしたいものです。
2014.11.06
コメント(2)
現在はガンになっていてもほとんど告知されている。末期がんになると余命も告げられる。「あなたのガンは、ステージいくつですよとか、余命は長くて6か月ですよ」「手術をして抗がん剤治療をすれば3か月程度延びる可能性があります」山崎章郎医師は、まだ自分がガンという病気になったことを受け止める気持ちになっていない時は問題だといわれる。患者さんの方から病気についての質問があれば、少しずつ説明していく。それを病状について最初から伝えると、相談に来た患者さんの中には、絶望感で打ちのめされて、とても傷つく人もいるわけです。この問題を森田理論ではどう考えるのか。森田先生はこういう場合は人情から出発しないといけないといわれる。患者さんはなんとかガンを治したいと思っているだろうな。病状をそのまま伝えると相当落ち込むだろうな。ショックで再起不能になるかもしれない。家族にとってもそんな姿を見ることはつらいだろうな。これらは相手を思いやる暖かい感情です。人間にはミラーニューロンというものがあって、他人の苦しむ姿を見て、同情したり共感したりする感情が沸き起こるようになっています。そこから出発しないといけない。相手がどういう気持ちになるのかを無視して、真実の事実をそのまま機械的に伝えるというのはロボットのやることです。森田理論学習では感じから出発してその後で理知で調整するといいます。この例では理知から出発して、感じは全く無視してしまっているのです。順序が逆になっています。するといろんな葛藤が生まれて、自他ともに苦しむようになるのです。感じから出発して理知で調整するというのは、是非とも身につけたい重要項目です。
2014.10.29
コメント(0)
マンションの近隣トラブルは騒音問題が多い。上の階から大きな音がするとイライラしてくる。これこそ森田理論を活用して問題解決にあたりたいものである。まず騒音トラブルは当事者同士が解決するのが前提である。ここでこじれると管理組合の理事会の検討事項となるがほとんど決め手はない。有効な手はないと思ったほうがよい。管理会社は自分の仕事ではないと及び腰である。まして仲介業者は売ることが目的なので隠すことはあっても決して教えてはくれない。中古のマンションを買う場合は、粗品を持って上下、両隣に行って騒音トラブルが発生していないかよく確認するとよい。以前の住んでいた人がどういう理由で退去したのか教えてもらえればすぐに分かる。あるいは管理人に内緒で教えてもらえれば、分かる場合もある。ただし個人情報保護法があり、容易ではないことは確かだが。次に小さい子が何人もいる場合は要注意である。小さい子に部屋の中を走り回るなといっても無理というものである。その場合は周囲の人の騒音許容度をあらかじめ確認しないとまずい。普通はある程度はお互い様だと許容してもらえるが、これがずっと続くと大問題となる。隣近所も同じような子供がいるとよいがそんな好条件のところはあまりない。そこまで手を打って入居したとしても騒音問題は起きる。普通は被害者が加害者宅に怒鳴り込んでいく。投書等の嫌がらせをする。警察に通報する。玄関を蹴り上げる。周囲に協力者を作る。理事会や管理組合に丸投げをする。などであろう。これは関係悪化に火をつけてしまう。最終的には犬猿の仲となる。怒り狂って爆発すると人間関係は元に戻ることはあまりない。なかには殺人事件にまで発展する。こういう時こそ森田理論学習を応用するとよい。腹が立ってかっとなる前の初一念を思い出すことだ。居ても立っても居られないほどイライラしたその気持ちである。そこから出発すればよいのである。まずは相手に騒音の事実と自分の初一念を伝えるのである。イライラして頭がおかしくなりそうな状況をきちんと説明することだ。もし相手が認めてくれなければどうするか。相手に自分の家に来てもらい騒音実験に付き合ってもらうことである。親に自分の家にいてもらい、上で子供に自由に走り回ってもらう、椅子から飛び降りてもらう。普段どおり暴れてもらうのだ。すると相手にどれほどの苦痛を与えていたのかはすぐに分かる。そこで初めて相手は騒音について対策を打ってくれるのである。子供に言って聞かせたり、防音床にしたり、中には転居を考えてくれる人もいる。これは森田理論でいう初一念から出発しないとこういう展開には持ち込めない。森田理論の純な心のすごさを感じるのである。
2014.09.27
コメント(0)
「森田理論を生活に活かす」について考えてみたいと思います。1、 不安を抱えたまま、実践力、行動力をアップさせること。凡事徹底。日常茶飯事を丁寧にする。雑事に丁寧に取り組む。イヤイヤ、仕方なく、超低空飛行でもよいので体を動かす。迷ったときはなるべく引き受ける。不安は安心のための用心である。将来に展望が開けるもの、人のために役立つことは不安に学んで積極的に対応する。趣味を棚卸して、一人一芸に挑戦する。2、 「無所住心」の態度を身につけること。四方八方にアンテナを張る。マンネリ、退屈は禁物。緊張感を刺激して、張りのある生活を目指す。休息は仕事の中止ではなく転換にあり。時間切れになったら、次の課題、新しい目標に取り組んでいく。3、 生活にリズム感を作る。メリハリの効いた規則正しい生活を目指す。基本的に、起床、食事、仕事、勉強、家事、育児、休憩、運動、就寝などを毎日規則正しく繰り返す。4、 バランス感覚を磨く。調和、両面観を生活に取り入れる。人生はサーカスの綱渡り、平均台の上を歩くがごとし。心に「やじろべい」感覚を持つ。極端にどちらかに偏ってバランスを崩してはいけない。人間関係は、くっつきすぎず離れすぎずの「不即不離」を心がける。5、 変化対応力を磨く。他人や世の中の変化に対して、自らが素早く対応していく。不快な感情を無くしてすっきりするのではない。相手を自分の思い通りに変えるのではない。不安を抱えたまま、自分の方を相手に合わせたり、状況に応じて変えていく。6、 生の欲望の発揮。他人の思惑を気にするよりも、自分の意思を大切にする。目標、夢、課題を設定して、果敢に挑戦していく。不遇を嘆き悲しむのではなく、命尽きるまで、粘り強く自分の運命を切り開いていく。失敗やミスはそのための糧とする。途中であきらめることは、ロッククライミングでは死を意味する。これは森田理論の土台部分である。7、 自分、他人、物、時間、お金の能力を引き出して最大限活用する。自分にないものや不足しているものを追い求める前に、自分に備わっているもの、持っているものの存在価値を見出して活用していく。8、 「純な心」の体得。直感、初一念から出発する。初二念、初三念はできる限り無視するようにする。その見極めが大切です。たとえば腹が立つのが初一念か、初二念かよく見極めてみてください。「かくあるべし」から出発するのは少なくする。さらに、相手に対するメッセージの発信は、「私メッセージ」を学習して活用しましょう。9、 事実、現状、現実をよく観察する。そして正しく認める。最終的には受け入れて、事実に服従する。やりくりしたり、逃避したり、反抗したりしない。事実は次の4つに分けて考える。不安、恐怖、不快な感情。自分のおかれた状況や事実。ミスや失敗。他人の仕打ち。他人の犯したミスや失敗。他人のおかれた状況や事実。自然災害や経済変動などの事実。ポイントはこの中からこれだと思うものを一つか二つ選択することです。それ以上はやりすぎになると思います。中途半端になり成果が上がりにくくなります。次に選択したことは徹底することです。最低3か月。そして6か月。1年と続けられれば、後で振り返ってみた時、自分が大きく変化していることに気が付くでしょう。すると不思議なことに、森田理論の重要なポイントが、芋づる式に理解できるようになるのです。それは仮に、富士登山をするのに登山口が9つあるようなものです。どこから登り始めても、最終的には同じ富士山頂に登頂しているようなものです。学習するには仲間がいます。刺激し合って学習してゆきたいものです。これが体得への一番の近道です。そして森田理論を自分の人生に役立てていただきたいと思います。
2014.09.14
コメント(0)
セブンイレブンの「変化対応力」は、ぜひとも我々神経質者として学習して体得する必要があると思う。今日はその具体的変化対応例を見てみたい。まず仕入れ商品はすべて買い取りである。売れると予想してたくさん仕入れた場合メーカーに対して返品はできない。たとえば弁当をたくさん仕入れて売れずに残れば自分の店の負担となる。単品管理が行き届いているにもかかわらず、たくさん売れ残るというのは発注精度が悪すぎる。つまりお客様の立場に立っていないということだ。さらに売れ残るよりも、在庫切れを起こすことは売れ残るよりもさらに悪い。最もお客様に迷惑をかけているというふうにとらえている。これを販売の機会ロスという。同じ店であっても、平日と土日、祝日では並べる商品が違う。給料日の前と後でも品揃えを変えている。雨が降りそうならビニール傘、寒い夏ならおでんというふうに即座に対応している。セブンイレブンは1店として同じ品ぞろえをしている店舗はない。立地、商圏、客層特性、他店との競合状態によって当然違うものにならざるを得ない。セブイレブンは1988年8月に夏季の道路渋滞地区である三浦半島および南房総地区の米飯配達において、初めてヘリコプターを使ったという。配送コストは60倍であった。また2004年新潟を襲った中越地震の際、ヘリコプターで大量のおにぎりを運んだ。現在ではコストの安いバイク便部隊が専門業者への委託という形で作られ、威力を発揮している。これはいかに費用がかかろうと、状況の変化の中でお客の需要があるかぎり、セブンイレブンはそれに応える責任と義務があると認識しているからである。もしそれに妥協して楽な道を選択すれば、自らの存在理由はなくなる。セブンイレブンの発注システムのイノベーションは変化対応の歴史そのものであった。最初は手書きであった。その後ターミナルセブンというコンピューターによる発注システムになった。その後グラフィック・オーダー・ターミナルに変化してきているという。システムの更新には莫大な経費がかかる。償却期間内であっても新しいものに切り替えていくという。時代の変化が生み出す様々な環境与件の変化の前には、過去の強者、覇者といえども明日は保障されない。変化対応こそが生き残るすべてである。世の中は変化こそが常態である。であるならば、自己革新は我々人間の生き方として常態とならなければならないのである。(「創造的破壊」経営 緒方知行 小学館文庫参照)
2014.09.13
コメント(0)
日本には「シャッター通り」という商店街が多数ある。お客様が来ない。商売が成り立たない。店をたたんでしまうのである。たまに通るのは老人と猫や犬である。それはどこの家にも乗用車がある。5キロ以上でもすぐに移動できるようになった。また郊外型大型ショッピングモールがそこら中にできた。そこに行けば何でもそろう。旧商店街にしてみれば、お客を大型ショッピングセンターにとられた。大が小を駆逐した。我々の商売の邪魔をした。我々は被害者だという考え方である。この考えに真っ向から反対する人がいる。セブンイレブンの設立者、鈴木敏文氏である。鈴木氏はイトーヨーカ堂で、出店のために地域小売業者と渉外の仕事をしていた。出店の了解を取り付ける仕事であるが、地場商店街は死活問題だと感情で対応する。灰皿まで飛んでくる修羅場であったという。鈴木氏が「大規模小売店と中小小売店は機能や役割が違います。互いに競争関係を超えて共存が図れるはずだ」といくら建前で説得しても聞く耳を持たない。鈴木氏は「中小小売店は大規模店舗にはできない、地域に密着して人々の日常生活の利便性や便宜性を満たすという機能を持っているのだから、大規模と共存できるはずなのに、なぜそれが難しいのか。それは、世の中の変化に対応できずに、自らの本来の機能を十分に果たせていないのではないか。中小小売店が本来の機能を果たすようになれば、地域の人々の生活にとって便利な店が出現し、生活のニーズにも応えることになるはずだ。」これを証明するために、当時イトーヨーカ堂内部の反対にもかかわらずセブンイレブンを始められたのである。そのため当初は資金もなく、苦労も多かった。しかし現在のコンビニの盛況を見れば、大規模小売店と中小小売店とが、棲み分けができることを、鈴木氏は完璧に証明して見せたのである。成功の理由を考えてみると、中小小売店の役割、存在理由を明確にしたこと。これが何といっても大きい。つまりお客様の日常生活における、現時点において求められる利便性、便宜性のニーズの遂行にフォーカスしたことである。それ以外のことはいくら儲かりそうなことがあっても手を出さない。自らの役割をわき目もふらず愚直に追い求めていったことである。お客様の変化、社会の変化を見極め、予測して、自らの有様をお客様の立場に立って、常に変えてゆく姿勢を貫き通したのである。その努力の結果として、お客さんの絶大な支持を獲得したとみるべきであろう。森田理論の「変化への対応」についてとても参考になる話である。森田理論にアレンジし直してテキストにしたいぐらいである。
2014.09.12
コメント(0)
朝令暮改という言葉がある。あまり良い意味では使われない。命令や法律などが頻繁に変更されてあてにならないことを言う。友達でも会社でもこういう優柔不断な人は嫌われる。方針や目標が変更されると、今までの努力が水の泡になり一からやり直すことになりかねないからである。莫大な資金が無駄になることもある。だから念には念を入れて長期目標をしっかりと作る。それに向かってまっしぐらに突き進むことを好むのである。目標を持って日々努力することは大切である。これが生きがいにつながる。しかしこれにあまりにも固執すると、突発的な状況の変化に対しては全く対応できない。臨機応変な対応ができなくなる。このことを考えないといけない。森田理論では「変化への対応」を優先する。森田では、目標に向かって努力することは、生の欲望の発揮といってとても重視している。しかし、努力の過程では、常に周囲の変化を観察して、自分をその変化に対応させていくという考え方である。自然や相手を自分の意のままに変化させるのではない。自分の立場を相手に合わせて変化させていくという考えである。セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏は、「顧客は移ろいやすく、飽きやすい集団と化している。加えて、好況、不況、産業構造、人口動向などのマクロ的変化、天候、気温、地域性などのミクロ的な変化によって、顧客のニーズは日々刻々と変化している。こうしたいかなる変化にも素早く対応することが大切である。」といわれる。昔イノベーションしない会社の寿命は30年といわれた。一事の成功に浮かれて、変化対応を忘れて、現状に甘んじていると衰退の一途をたどっていく。カメレオンのように周囲の状況に合わせて、自らを変えていくことが生き延びる唯一の道となる。変化の激しい今の時代は、企業の寿命は5年程度に縮まっていることを認識すべきである。我々森田理論学習者としても、「変化への対応」を意識して体得するべきだと思う。森田を生活の中に取り入れるという意味では、避けて通れない項目である。
2014.09.05
コメント(0)
生活の発見誌2014年8月号の40ページより引用です。茸狩り名人の石黒文一さんの毒キノコの見分け方の話が紹介されている。いろいろ茸についての図鑑があっても実際にはアテにはならないそうです。結局何にも頼らないで、最後には自分自身で体験する。つまり食べてみなければわからないということです。しかし食べても毒キノコだったら、生命にかかわります。そこで石黒さんは、いい匂いだなと思えば持って帰るし、嫌な匂いだったら捨てるのだといわれます。生命にかかわることを、五感の一つである匂いを信頼して決められているわけです。普通の人だったら警戒して食べないキノコでも平気で食べることができるのです。多分匂いという感覚が鋭いのかもしれません。匂うという感覚を鍛え上げて鋭くされたのかもしれません。いわば麻薬犬並の嗅覚を身につけられたのでしょう。こういう例は障害者によく現れます。世界的ピアニストの辻井伸行さんは目が見えませんが、聴力は高度に発達しています。一度聴いた曲は正確に演奏できる能力があります。普通我々人間は見ることが中心で、聞く、匂う、味わう、触れる、直感力などは、ともすると軽視しがちです。そして人間の進化の過程で五感はどんどんと低下しているのかもしれません。この文章を書かれた近藤章久氏は次のように言われています。普通、五感を軽視して、頭の判断で決める場合はたいてい、そこに何らかの不安が残ったり、無理があったりするものです。それというのも、損得の計算があったりするからです。その点、内部感覚は生命と直結していますから、純粋で矛盾がなく、自然で統一されています。ですから、それに従って決めると安心して確信が持てますので、悔いが残りません。その結果、日常生活ものびのびと安心して、しかも生き生きと生きられるようになるのです。この話から学ぶことは、人間にとって大切なのは五感で感じた感じだと思います。五感を信頼する。五感を優先する。そこを出発点にして行動実践すれば間違いがないのです。しかし、ともすれば理性で判断したことを出発点にしてしまいます。理性というのは大脳の前頭前野です。価値判断、思考・思索の中枢です。人間にとって大切なものです。しかし、それがいつも前面に出ることはまずいいことです。森田理論では理知本位といいます。それは思想の矛盾を招いてしまいます。神経症などの葛藤を生み出す大きな原因となっている。まずは森田理論で学習して自覚を深めていくことが大切だと思います。
2014.08.31
コメント(0)
森田正馬全集5巻676ページより引用します。亀谷氏があるノンダクレの男に、いくら飲むなといっても聞かないので、やり方を変えて「少々飲んだっていいじゃないか。今日は思い切って飲んだらどうだ」と毎日勧めた。すると気がとがめると見えて、一週間ばかり一日も飲みませんでした。自分でも飲んではいけないと思いながら、飲まずにおれないので、飲むなというとなおさら飲みたくなるのですね。大変面白い話です。これに対して森田先生の言葉。酒を飲みたいと思えば、飲んでは悪いと考え、飲んではならないと考えると、ますます飲みたい、飲みたいという心が起きる。この欲望と抑制の反対の心は、我々の心に常に発動するものであって、私はこれを精神拮抗作用となづけている。これは引力と斥力とのようなもので、一方が強ければ、その反対の力も同じ強さで働くようになるものである。この自然の欲望に対して、ことさら反抗しようとするのが、強迫観念の性質であります。全くその通りですね、私はこの精神拮抗作用については、よく学習して生活面の指針として応用していくことは大変重要であると思っています。意識付けとして、机の上に「やじろべい」を置いておくことも提案してきました。しかし老婆心ながら申し上げると、これは基本であり、原則です。法律には原則というと必ず例外規定というものがあります。こういうことも学習しないといけないと思います。たとえばアルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存、性犯罪者の人を見てみてください。そんなことを繰り返してはいけないということは、みんな十分に分かっています。覚せい剤使用のASKA被告のように分かっていても手が出てしまう。自分の意志だけではどうにもならない人たちなのです。その人たちは、そういうことを繰り返すことによって、脳の快楽中枢のA10神経にその時の快感がすっかり刷り込まれているのです。つまり常習者ということです。それなしでは生きていけないのです。自分一人ではどうにもならない。自然に体が反応してしまう。だから、精神拮抗作用でバランスをとる、調整するといっても、自分が苦しんでいるその部分では、制御不能に落ち込んでいるのです。いわばブレーキが故障している状態にあります。アクセルとブレーキのバランスとるということがどだい不可能な状態です。だから、そういう人たちには、強制的にそういうものから遠ざけるということが必要です。あるいは回復のための専門医の治療が必要だと思います。そうした自助グループへの参加が効果的です。やみくもに森田の原則を応用すると、バランス感覚を失っている人にとっては、反発を招くだけになってしまいます。依存症に陥った人も適切な処置を経て回復していくことはできます。この点は是非充分に注意していただきたいと思います。そうでないと、その人たちに私たちの「かくあるべし」を押し付けてしまうのです。
2014.08.29
コメント(0)
東日本大震災後に「絆」(きずな)という言葉がよく聞かれた。「絆」という言葉は、親子の「絆」、地域の「絆」などといわれるように、人と人を離れがたくしている縁、結びつき、つながり、宿命などのことを指している。未曽有の自然災害に見舞われても、「絆」を活かして、みんなで協力して、助け合い、みんな一緒に以前のような生活を取り戻しましょうということです。一人ではたいしたことはできない。みんなの力、知恵を結集しましょうということです。ところがこの「絆」という言葉は、もともと別の意味でした。平安時代には、犬や馬などを通りがかりの木などにつないでおく綱のことを指していました。読み方は「ほだし」でした。その綱は犬や馬の自由を束縛し拘束しています。これを人間にあてはめてみると、親や家族、親せき、近所、国家権力が、自分の気持ち、意思、希望を抑圧して、自由な行動に制限を加えていく。たとえば自分は小説家になりたいと思っても、それをあきらめて家業を継がせていく。自分自身も自分の「絆」にとらわれて、不本意ながら運命に従って進路を決めていく。つまり自由に好き勝手に生きることができない。運命に翻弄されて生きづらいように思えます。これに関係ある話が、森田先生が書かれた「神経衰弱と強迫観念の根治法」に出てくる。212ページから241ページに記載がある。根岸君という20歳の学生である。赤面恐怖症であった。根岸君は房総半島の農家で日常生活(作業療法)しながら、森田先生から通信治療を受けられた。根岸君はもともと文学で身を立てたいと思っていた。これに対して森田先生は、「あなたは芸術品を鑑別する力はありますか」「文学をやったからとて、必ずしも真の詩人にはなれない」といわれている。根岸君は農作業をして、農家の人と付き合う中ではっと気づいた。私は芸術という仮面をかぶって、赤面恐怖の弱い自分をごまかしていたのだ。神経症から逃げることを考えていたのだ。それに気が付いて父親に手紙を書いた。「私の赤面恐怖はすっかり治りました。これからはお父さんの望む通り商業への道に進みます。」森田先生は根岸君を、なぜ芸術の方面に発展させる方向をとられなかったのか。森田先生は赤面恐怖症を治すという意味では、具体的、実際的でなくてはならないといわれています。現実、事実から離れて、観念の世界にどっぷりと浸かってはならないということを言われている。森田理論学習というのは逃避する、観念の世界に遊ぶということを嫌います。反対に境遇に従順になり、運命を切り開いていく。制限され、自由がきかない中で精一杯生きていく。具体的である、実際家であるということを重んじている考え方なのだと思います。
2014.08.23
コメント(0)
兄弟が2人以上いると、よく兄弟げんかをします。歳の離れていない男同士の兄弟の場合は、すぐに大声でわめいたり叫んだり、物を投げつけたり、殴り合いのけんかに発展しやすい。兄弟げんかは親が近くにいると、親の仲介を期待して激しくなりやすいものです。本来はその場から離れるのがよいかもしれません。でも時々観察していると、だいたいは自然に収まるパターンが多いのではないでしょうか。親が介入する場合はよほどの時です。今回はその時のことです。トマス・ゴードン氏の話を引用します。(親業 サイマル出版会 234ページ)ジミーとトミーはおもちゃのトラックの前と後ろを持って引っ張り合っています。ジミー トラックが欲しい。トラックをちょうだい。放してよ、放してよ。親 ジミー、本当にトラックがほしいのね。トミー 僕がはじめにもっていたんだ。ジミーがあとからきて取ったんだ。返してよ。親 トミーは、自分が最初に持っていたから、自分がトラックを使うべきだと思うの。ジミーが途中で取ったから怒っているのね。この問題を解くのになにかいい方法はない。考えてみて。トミー 僕に渡すべきだ。親 トミー、トミーはそう解決しようといってるわ。ジミー そうさ。そうしたら自分の思いどおりになるもん。親 トミー、ジミーはその解決策だと、あなたが勝ってジミーが負けるから嫌だって。トミー それだったら、僕がトラックで遊び終わるまで僕の自動車で遊んでてもいいよ。親 ジミー、トミーは他の案を出したわ。トミーがトラックで遊んでいる間、あなたはトミーの自動車で遊んでてもいいって。ジミー ねえママ。トミーがトラックで遊ぶのが終わったら、僕はトラックで遊べるの。親 トミー。ジミーはあなたがトラックで遊ぶのが終わったら、トラックをジミーに本当に渡すのか確かめたいって。トミー いいよ。すぐやめるから。親 ジミー。トミーはそれでいいって。ジミー じゃ。いいよ。親 それじゃ、これで解決したのね。ふつうは、こんなけんかを始めると、親が勝手に判断して、「お兄ちゃんだから我慢しなさい」「一緒に仲良く一緒に遊びなさい」「そんなにけんかをするのだったらトラックを取り上げますよ」などという対応に陥りがちです。ここで大切なのは、善悪の価値を判断することではありません。まず双方の言い分をよく聞くこと。次に双方が折り合える点を探っていくという視点を持つことが大切だと思います。親業ではこれを「勝負なし法」と言います。意見が対立するときは双方が歩み寄れる妥協点を探るという態度が欠かせません。これは人間関係でいくらでも応用がきくのです。「かくあるべし」を相手に押し付けることが少なくなりますので、是非生活に取り入れてみてください。
2014.08.19
コメント(0)
夏はめったに風邪などひかないものであるが、冷房で風邪をひく人がいる。私はクーラーを使うときはドライにする。それも2時間か3時間のタイマーをかけるようにしている。風邪をひくということを森田先生が説明している。風邪をひくというのは、必ず常に気のゆるんだときで、周囲の事情とこれに対する自分の反応が適応性を失った時に起きる。周囲と自分との釣り合いが取れていれば、そんなシクジリは起きない。暖かいところではゆったりし、寒いところでは気が引き締まっておればよいけれども、暖かいところから急に寒いところに入り、寒いところから暖かいところへ入る時に、これに対する心の変化が適応せず、気が緩んだところで風邪をひくのである。ゆえにうたたねのようなことがよくない。しかし精神が自然になれば、うたたねでも風邪をひかないようになる。(森田正馬全集5巻59ページ)ここで森田先生が言わんとしていることはなんであるか。これは周囲の状況に合わせて生活することを言われているのだと思う。寒いところから、こたつに入ると急に手足が暖かくなる。するとぶるぶる震えていた体が緩みほっとしてくる。収縮してきた血管が拡がり緊張状態が取れてくる。ふつうはここで心身ともにリラックスしてくる。ついうたたねもしなくなる。つまり心身の緊張状態が、急に弛緩状態に変化しているのである。こたつに入ったのだから、それでいいのではないかと思う人が多いのではないかと思う。それは自分のいるところはそうかもしれない。でも外は寒い。トイレに立つときも寒い。風呂に入る時も服を脱ぐと寒くてたまらないのである。そういう周囲の事情はお構いなしに、全くの弛緩状態に入り込み、リラックスしすぎてはいけないといっているのである。武士が轡の音にもすぐに目を覚ますのは、自分の置かれた周囲の状況に敏感になり対応しているからである。そんな時はうたたねをしても決して風邪をひくようなことはないといわれている。その状態は森田理論学習では「無所住心」という。「変化に対応する」ともいう。いずれも大切な考え方である。
2014.08.17
コメント(0)
セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏の「変化への対応」についての話である。「我々の競争する相手は同業、異業を含めて他者、他店などでは決してない。最大の競争相手は時代の変化であり、またその中で変化するお客さんのニーズやウォンツである。この変化についていけず、対応できなくなったときに企業はダメになる。大切なことは変化に合わせて自分を変えることができるかどうかである。世の中は常に変化しており、お客さんの求めるものもどんどん変わってきている。ということは、常に、変化対応に向けた自己革新の手を休めることも緩めることもできないということである。であるならば、ともすれば過去の経験にとらわれ、現状に安住しがちな自己自身こそが戦うべき競争相手だということになる。つまり、真の戦いは自己自身との間にある。」(「創造的破壊」経営 緒方知行 小学館文庫参照)森田先生は、「わしは、電車の中で立っているときには、体操のときの休めの姿勢をとっている。つまり両足を開き、片足に全身の重みをかけ、他の方の足は浮かして、その足先で軽く床に触れるようにしている。これは不安定の姿勢であるが、この姿勢でいるときは、浮かした方の足先で鋭敏に体の動揺を感ずることができ、周囲の変化にたいして最も迅速に、しかも適切に反応することができる。それは不安定の姿勢の上に立って、しかも自然の心にしたがい、どこにも固着することがないからだ。」と言われている。ディトレーダーという株の売り買いで儲けようとする人がいる。9割以上の人は自分の大切な財産をなくしている。それほど未来は予測することは難しい。鈴木氏は長期計画を立てないという。途中でお客さんの要求やニーズがすぐに変化するからである。また経済変動などの外部要因も刻々と変化している。我々にできることは変化を予測して変化に即座に対応できることだけである。これ以外のことはできないし、してはならない。常に変化に対応する態度を堅持すれば、一つのことにとらわれて悩むことはできない。これは森田理論学習をするうえで避けて通ることのできない大切な考え方である。
2014.08.10
コメント(0)
テレビや映画を見て感じることと現実の出来事に直接遭遇して感じることは大きく違います。皆さんもプロ野球やサッカーを球場やスタジアムから見たことがあるでしょう。そこではとてつもない球場の大きさ。緑鮮やかな芝生、あこがれの選手がすぐそこにいる。選手たちのプレー。ボールが飛び込んでくる。鉦や太鼓を使った応援。メガフォンを打ち鳴らす。球団の応援歌が高らかに流れる。電光掲示板の鮮やかさ。球団旗のはためき。チャンスでの盛り上がり。風船飛ばし。ビールのおいしさ。応援しているチームが活躍すればうれしい。打ち込まれれば悔しい。気持ちの良いことばかりではありません。時には雨が降ってくる。ぶるぶる震えるような寒い時もある。時には観客同士でけんかになることもある。見る、聞く、匂う、味わう、触れるなどの五感、自分の体を全身で使っていろいろと体感しています。テレビで見ているだけではこうはいきません。いくら3Dテレビで見ても、ボリームを上げても球場に足を運んで五感で体感する感情には遠く及びません。テレビでは自分の応援しているチームが勝ったからうれしい、負けたからクヤシイという感情は起きてきます。でもそれだけです。負ければすぐにチャンネルを切り替えたりします。いわばリセットしてしまうのです。つまりテレビを見て発生する感情は実に味気ないものです。実に薄っぺらなものです。でも私たちはこれこそがリアルな感情だと信じて疑いません。人間は見る、聞く、におい、味わう、触れるという五感、身体感覚が不足すると、脳はその不足分を補おうとします。その無意識の作用がありもしない心や感情の幻影を生み出します。感情移入を行いやすい心的状態に陥りやすくなります。愛情、憎しみ、不安、恐怖、幻想などの反応を覚えやすい。これがとても怖いことなのです。特に怒り、憎しみ、恨み、暴力などの感情は普段では考えられないほど異常に暴走してしまうのです。現在ネットやチャット、メールなどを使った犯罪が多発しています。フェイストウフェイスで対話すればたいしたことがなくても、相手の顔や表情が見えないと何でもありになってしまうのです。特に子どもの場合は要注意です。子どもの1日は、50歳の人間の10倍にあたるそうです。1時間ネットをするということは、大人でいうと10時間パソコンと向き合っていたことになります。子供たちが毎日ネットやテレビ漬け、メールやチャット漬けにすると大変なことになります。子供たちには自然に触れさせる。実際に体験させる。人と実際に合ってコミュニケーションをとることが必要です。特に小学生までは注意する必要があります。メール、プロフ、チャット、ネットの閲覧、ネットのゲームなどの子どもに対する悪影響はよく親がよく学習する。子供に十分に理解させる。使用にあたっては使用方法など放任にしない。出来れば小学生のうちはさせない、制限をする。実体験に基づいて発生する感情が本物なのだと自覚することが大切です。自ら足を運んで、五感で感じる、体を使って感じる感情こそが本物なのだという意識を持つことです。これらは森田理論の「感情の法則」「感じを発生させて、感じを高める」という体得のために心してかかることです。森田理論はそういう面で社会に警告を発していく役割があると思うのです。「コンピーターが連れてきた子供たち」 戸塚滝登 小学館を参照いたしました。
2014.08.09
コメント(0)
最近は学校でも会社でもいじめが多い。いじめは基本的には家庭での親の子どもへのかかわり方に関係がある。家庭で親が子供に対して、批難、叱責、脅迫、説教、拒否、無視、抑圧、否定する。馬鹿にする。など「かくあるべし」を押し付けていると、子供にはどんどんストレスが溜まっていく。ストレスはどこかで解放させてゆかないと、自己崩壊を起こす。いじめはそのはけ口なのである。自分より弱い相手。いつもドジなことをする人。やることが人より遅い人。体が弱かったり、障害のある人。自己主張の強い人。そんな人が格好の相手である。そういう人をいじめることによって、自分のストレスを軽減させようとしているのである。学校でいじめを止めさせようと思ってもいたちごっこである。いじめの原因をなくそうとしないからである。昨日紹介した田島隆宏さんは生まれながらの障害者である。口と舌しか動かすことができない。格好のいじめ対象者である。その田島さんがこんなことを言う。人と違ってどこが悪いのかな。その違いをどうして受け入れられないのかな。僕なんかまさにそうじゃない。外に出れば人と違って見える。でも僕はこれも一つの個性だと思うわけ。僕が写真を撮ろうと思っても、地上50センチの視点でしか撮れない。でも、だからこそ僕なりのスタイルが確立できたんだよね。自分の個性は何だろうなと考えた時、やはりこの視点しかないと思ったわけ。これが僕の世界なんだと。世の中のみんな、一人ひとりかけがいのない存在として生きている。たとえハンデを背負っていても、その人ならではのいいところ、他の人にはない個性というのが絶対あるんだよ。森田理論学習では、自分の個性を見つけ出して伸ばしていくことを「唯我独尊」と言います。そこに焦点を当てて生きていくことを目指しています。田島さんは自分の境遇に服従して、運命を切り開きながら生きています。森田理論のお手本になるような人です。
2014.08.06
コメント(0)
安保徹医師は湿布を貼るだけでも免疫力は低下する。腰痛、ひざ痛にはカイロを使えと言われる。痛みに対して鎮痛剤を使うことは、一時的にはよい。長期に使うと深刻な健康被害を招くといわれています。あらゆる体の痛みは、自律神経の交感神経の緊張が引き金となって起こります。交感神経が緊張すると血管の収縮から血流障害が引き起こされ、かつ顆粒球の増加によって活性酸素による組織破壊が進みます。痛みが起こってくるのは、自律神経が血流を増やして傷ついた組織を修復しようと、反射的に副交感神経の働きを高めた時です。副交感神経による組織の修復は、プロスタグランジンと呼ばれるホルモンを使って行われる。プロスタグランジンには血液を拡張させて血流を増やすと同時に、知覚神経を過敏にする作用があります。これが痛みの原因です。ですから痛みというのは、傷や痛みが治る過程で必ず発生するものなのです。決して悪者ではありません。これは只今道路工事をしていますので、車の通行はスピードを落とし注意して走行してくださいと警告しているようなものです。その指示に従ってスピードを緩めるか、場合によっては停止して係員の誘導に従えばよいのです。ところが現実には治療薬として消炎鎮痛剤が当然のように使われています。アスピリン、インドメタシン、ケトプロフェンなどです。これらは、このプロスタグランジンの産出の抑制を行います。痛みの物質が減少すれば、痛みは和らぎますが、それはせっかくの自然治癒力をストップさせることになります。薬を止めると痛みがぶり返します。痛みがあるたびに薬で痛みを取っていると、症状は慢性化してきます。そして悪化してきます。他の二次障害も出てきます。つまり活性酸素による組織破壊が進んでくるのです。するとまた薬で抑えようとする。症状が強くなる。さらに強力な薬を使って痛みを取ろうとする。いたちごっこが続く。(免疫道場 安保徹 幻冬舎 80ページ参照)これは森田理論学習をしている者にとってとても興味深い話です。この話は直接的には「感情の法則1」に該当します。どんな不快な感情でも一山登れば、自然に一山下がってついには消失するのであるという法則です。どんな不快な感情も薄まり、気にならなくなるというのです。ただし、一つ条件があります。不快な感情をそのままにしておくことです。取り去ろうとやりくりしないということです。やりくりすれば、その感情は刺激を受けてますます過敏になり増悪してきます。最後には神経症として固着してきます。神経症に陥る人はもともと欲望の強い人です。反面、強い不安や恐怖、耐えられないような不快な感情が自動的に発生します。自然の摂理です。神経症に陥る人はその原理を無視して、それらを取り除くことが最大の目的になってきます。生の欲望の発揮を忘れて、症状を取り除くことばかりに精力をつぎ込みます。観念と行動の悪循環の罠に陥ってしまいます。すると訳が分からなくなり、自分一人では抜け出すのが困難になります。自ら大きな苦の種を作り出しているのです。そうならないためには、基本的に不安、恐怖、不快感はやりくりしないで受け入れることです。自然に服従することです。そして生の欲望の発揮という目的を見失わないようにすることです。でも実際に我が身に降りかかってくるとパニックになって混乱してくるのです。森田理論学習を深め、自分の体で体得していくことが大切です。
2014.08.03
コメント(0)
生活の発見誌2014年7月号29ページより引用します。毛虫を見て、我々がそれを不快に感じ、嫌悪し恐れるのは感情の事実である。けれども、それが毒を吐くものでなく、人に飛びつくのではないということは、我々が知識によって知ることである。毛虫を見て、たちまち目を閉じて逃げ出すのは感情に支配されるものである。(これを気分本位という。気分本位は自己嫌悪、自己否定に陥る。気分本位は容易に神経症に陥る。)必要に応じてこれに近寄り、駆除することができるのは、理知の力である。即ち、不快なままに毛虫に近づくことができるのは感情と知識の両立であって、「あるがまま」の当然の行動であり、正しい精神的態度である。(これを事実本位の態度という。森田理論の自然に服従し境遇に従順ということである。)これに反し、もし毛虫に対し、まず嫌悪の感情を排除し、好感を起こしてその上で毛虫に近づこうと努力するものがいたら、それが「思想の矛盾」である。(これが理知本位という。理知本位は思想の矛盾に陥る。思想の矛盾とは「かくあるべし」であると考えることと、現実の事実がかい離していることを言う。「かくあるべし」に現実を近づけようとすると深刻な神経症を発症させる。逆に「かくあるべし」をできるだけ小さくしていくと、事実本位の生活に近づいていく。)
2014.08.01
コメント(0)
森田先生の言葉に「夢の内の有無は有無ともに無なり、迷いの内の是非は是非ともに非なり」という言葉がある。とても難しいように感じる。森田理論学習は言葉あそびをしてはならないと思う。私なりに考えてみた。森田先生は2つのことを言われていると思う。まず、「夢の内の有無は有無ともに無なり」ですが、これは事実から離れてはいけない。常に事実から出発しなさいということだと思う。事実から離れるということは、「かくあるべし」から発想すること。「かくあるべし」から出発することです。「かくあるべし」の態度は、どうにもならない現実とのギャップに苦しんで神経症を引き起こします。それを小さくしていく考え方、実践や体得をしていくのが森田理論学習です。この体得への道は行きつ戻りつしますが、避けて通ることは、森田理論をあきらめるということです。「迷いの内の是非は是非ともに非なり」は、手っ取り早く、ハウツー式に不安や恐怖、不快な感情を取り去ろうとする療法は邪道であるということだと思います。取ろうとすればするほど、自分を窮地に追い込んでいくのが関の山です。まずは不安と欲望についてよく学習すること。とりわけ不安の特徴や役割をよく学習すること。森田理論学習についても、手あたり次第学習するのでは芸がありません。森田理論の学習、習得の道は3年を目安にして、早期に一定レベルに到達することが大切です。大まかにいうと1年目は基礎的学習を積み重ねる。2年目は森田理論学習全体像の把握。その中の4本柱の深耕と相互の関係性の学習をする。そして3年目は実際に森田理論を生活に応用してみることです。なおこの言葉の原典に当たりたい人は、森田全集5巻の184ページ、544ページ、590ページ、641ページにその言葉が出てきますので確かめてみてください。大切なことは言葉の理解にとどまってはいけないということです。自分の生活に役に立つまで落とし込んでいかないと、絵に描いた餅になってしまいます。
2014.07.27
コメント(0)
安保徹先生のお話です。健康のためと思って始めたヨガにのめり込み、現在は教室を持って教えています。なのに私はガンにかかってしまいました。どうしてでしょうか。ヨガやダンスを習っている生徒さんはどんどん健康になっていく一方で、先生として教える立場にのぼりつめた人には、なぜか病気を抱える人が目につくのです。原因は明らかに体の動かしすぎ、つまり体によいことのやりすぎと考えられます。自律神経の働きで大切なのは交感神経と副交感神経のバランス、すなわち活動と休息のバランスです。ヨガもダンスも適度に行った場合は、心地よい疲れとともに副交感神経の働きが誘導されて、自律神経はバランスをとりやすくなります。ところが、生徒さんに教えるために朝から晩まで体を動かす世界に入ると、今度はそれが重労働になって徐々に交感神経が緊張していき、休息の神経である副交感神経の働きが抑制されます。こうして血流が低下して、免疫力も低下して、病気を呼び込む体調が作り出されていくのです。同様に、毎日ランニングやプールで泳ぐことを日課にしているという中高年にも、やつれ顔の人が少なくありません。中高年にとって走ること、泳ぐことはそもそもかなりの重労働で、睡眠時間を十分に確保してバランスをとっていかないと身体が持ちません。ここでも、森田理論のバランス、調和をとることの大切さが語られています。どちらに偏ってもいけない。片方に偏れば、反対の動きを意識する。サーカスの綱渡りの芸のように長い棒で微妙にバランスをとりながら生活を続けていく。これが最も無理のない自然な生き方だと思います。森田理論では精神拮抗作用と言います。欲望と不安の学習のなかでも出てきました。バランスのとれた考え方、食生活、バランスのとれた運動。両面観、調和と同じ意味です。森田理論学習では避けて通れない学習項目となります。(免疫道場 安保徹 鬼木豊 幻冬舎 56ページより引用)
2014.07.25
コメント(0)
「心の旅」「生きがいについて」という本を書かれた精神科医の神谷美恵子さんは「生きがい」について次のように語られている。1、 審美的観照(自然芸術その他)、あそび、スポーツ、趣味的活動、日常生活のささやかなよろこび。この中には、生きがいと本人すら意識しないものもあろう。毎日生活していることが楽しい。生きていること自体が生きがいである。これは森田的な考えだと思う。別に生きがいとか考えていなくても、ほんの小さな日常の生活の中に、気づきや感じが発生する。それをもとにして創意工夫が生まれて、次から次へと行動実践が拡がっていく。2、 学問、旅行、登山、冒険などに取り組んでいること。知識欲、経験拡張欲、征服欲、闘争欲などに従って行動していること。また所有物を増やすことや種々の物の収集などに一生懸命になっていること。3、 種々な生活目標、夢、野心を追い求めていること。その内容も卑近なものから社会的、政治的、宗教的、宗教的理想や実践運動の計画までいくらでもありうる。目標を持っていることは大切である。4、 人との暖かい共感、友情、愛の交流があること。人から尊敬や名誉や服従を受けること。人から必要とされること。マズローの社会的所属の欲求、人からの承認の欲求を満たすことである。5、 自由を謳歌していること。自由に自分の世界を拡げられる境遇にあること。6、 自己実現の欲求を持っていること。独自性の発揮は生きがいとなる。それまでになかったものを作り出すことは、とりもなおさず自分の生きている証である。7、 自分の存在意義が感じられるような仕事や使命を持っていること。生きがいというものは、人間が生きていくためには、空気と同じようになくてはならないものである。しかし、私たちの生きがいは損なわれやすく、うばい去られやすい。人間の根底そのものに、生きがいをおびやかすものが、まつわりついているためであろう。生きがいというものは、森田先生の生の欲望の発揮に邁進しているとき、あるいはマズローやグラッサーが欲求論で述べているように、欲求の実現に向かって努力しているときに感じられるものである。前進する努力を止めた時、生きがいはすぐに失われてゆく。森田理論では努力即幸福という。努力する中に生きがい自体はあるのかもしれない。
2014.07.19
コメント(0)
森田の学習をしている人の中にアナフィラキシー症候群の人がいた。小麦アレルギーで体に湿疹ができて炎症などの障害が出るそうだ。いつ発作が起きるか恐ろしくて遠出ができないで困っておられた。ひどい発作が起きた時、119番に電話して、救急車を呼ぶとともに、緊急の注射を打つ必要があるという。この病気の原因は詳しく解明されているという。小麦などが体に入ると本来は体にとって大切な栄養物なのに、それを異物とみなすのだそうです。つまり小麦を抗原と見なして過剰に抗体反応を引き起こすのです。抗原に対して適切な攻撃であれば「生体防御」の当然の働きです。ところが、体に入ったものすべてを攻撃してしまい、生体防御の働きを逸脱しているのが病気の原因だというのです。人間の体はとてもよくできているのにもかかわらず、どうしてそのようなことが起きるのか。安保徹医師の「免疫道場」「免疫革命」という本によってその仕組みが分かりました。血液の中の白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできているそうです。顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%の比率になっているときバランス的に安定しており、病気にならず健康に暮らしてゆけるそうです。これは血液検査によってすぐに分かるそうです。この微妙なバランスを支えているのは自律神経だそうです。自律神経にはご存知のように、交感神経と副交感神経があります。自律神経がどのように白血球の調整をしているのか。交感神経が優位になると、顆粒球が増えて働きが活発になります。副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて働きが活発になります。これは昼間と夜、夏と冬によっても常に変動しています。また大事なことは、自律神経は私たちの意志とは無関係にコントロールされているのですが、実はストレスの影響を受けやすいという特徴があります。人間関係や争い、気候変動、自然災害などのストレスなどにさらされると、顆粒球の割合が増えて、リンパ球の割合が減ってきます。するとガンなどの病気にかかりやすくなります。逆にそういうストレスがほとんどないということになるとリンパ球が優位になります。一般的にリンパ球優位になると病気にはかかりにくくなります。しかしリンパ球優位になると、花粉症などのアレルギー症状が発生するそうです。アナフィラキシー症候群のようにリンパ球が増えて本来攻撃しなくてもよいものを抗原と見なして、抗体をつくり無毛な闘争を繰り広げるということになるそうです。ですから、ストレスが大きくなるとそれを軽減する、また生活が単調になり退屈を感じるようになると刺激を与えて意欲を持たせる。つまり森田理論学習でいう精神拮抗作用と一緒でバランスを回復させる。調和を図るということが健康の維持という面から見てもとても大切であるということが分かります。
2014.07.17
コメント(0)
私は40代の頃十二指腸潰瘍になった。長い間緑のどろどろした飲み薬を飲んでいた。会社での人間関係のストレスが大きかったのだ。今考えると、ストレスで活性酸素が大量に発生して胃や腸を傷つけていたのだと思う。私たちは酸素を使ってエネルギーを作り出しています。その酸素が活性化したものは、元気になる源のように勘違いしています。それはとんでもない間違いです。活性酸素は老化やがんなどの原因になっています。活性酸素はいくつかありますが、代表的なものは「スーパーオキシド」と「過酸化水素」です。いかに活性酸素が恐ろしいものであるのか。知っておくと生活の仕方が変わると思います。「パラコート」という強力な除草剤があります。濃度の薄いものであっても植物に噴霧すれば枯れてしまいます。これはこの農薬が「スーパーオキシド」という活性酸素を発生させるからです。人間がもし微量でも飲んでしまうと、呼吸困難に陥り死んでしまいます。次に皆さんご存知の「オキシドール」という消毒液があります。この中には「過酸化水素」という活性酸素が3%含まれています。これだけの量なのに傷口の細菌は死に絶え、消毒されるのです。強い薬です。一般的に紫外線に当たるとこの活性酸素が作られます。また、放射線照射も活性酸素を作り出します。ところが我々神経質者が最も気を付けないといけないのは、過度の不安やストレスを与え続けるということの弊害です。過度の不安やストレスを受けると自律神経失調症になります。つまり交感神経が常に優位になります。副交感神経とのバランスが崩れてくるのです。交感神経の優位な状態は白血球の中の顆粒球を増やします。相対的にリンパ球は少なくなります。この顆粒球というのは、危険な細菌が体内に入った場合、その異物を飲み込んで殺してしまいます。その時、顆粒球が使うのがリゾチームなどの分解酵素と強力な殺菌力を持つ活性酸素なのです。顆粒球は細菌が多いときはとても役に立ちます。なくてはならないものです。ところが細菌が少ないにもかかわらず、不安やストレス過多で顆粒球がたくさんあり過ぎるという状態はとても危険なことなのです。なぜなら、その状態では、顆粒球は、普通の正常細胞を攻撃してしまうのです。活性酸素が胃や腸を痛めつけてしまうのです。胃潰瘍や十二指腸潰瘍、腸炎を引き起こします。適度のストレスは人間の活性化に欠かせません。しかし、大きなストレスを長期にわたって抱え込むということはとても危険なことです。ストレスは溜めこまないことが大切です。上手に吐き出すことが大切です。森田理論学習はまさにそこに切り込んでいく理論だと思うのです。森田理論の精神拮抗作用というは、人間の体の免疫のしくみにも貫徹されているのです。(免疫革命 安保徹 講談社インターナショナルを参照しました。)
2014.07.16
コメント(0)
元兵庫県県議の野々村氏の号泣会見が話題になっている。本来の高額報酬以外に、政務調査費、政務活動費としてそれぞれ600万円ずつを前受金で受け取っていたようだ。これは事後清算である。余ったら返すのものなのです。返すぐらいなら何が何でも全部使ったことにして消化しようと思ったのが野々村議員だ。案の定5万円以下は、領収書は不要であるという。大量の切手、文房具、図書券、乗車券、高額な家電を購入していた。金券ショップやリサイクルショップで売りさばいて換金していたのであろう。そして自分の懐に入れていたのであろう。そうしないと返還しなければならないからだ。せっかくもらえるものを返すのは、いかにもばかばかしいと考えたのだ。政務調査費、政務活動費を有効活用して、議員としての職務の質を高めてゆきたいという気持ちは毛頭存在しない。他の兵庫県の県議で、2011年、2012年に10人の議員が切手の大量購入をしていたという。野々村議員を追求すれば我が身の安全が脅かされる恐れがある。追求すれば被害が我が身に及ぶので、県議会としての調査を早々と切り上げた。本来なら議会で徹底的に膿を出すべきであろう。ところで、国会議員は月100万円の文書・交通費が支給されている。この場合領収書は不要である。不正処理の温床となりやすいのは当然のことである。これは地方議会でも同じことであり、限りなく返還訴訟が起こされて、議員が敗訴している。どうして事後清算しないのだろうか。会社では出張仮払い制度はあるが、ほとんどは領収書と引き換えに精算である。これは当たり前のことだ。議員だからといって特別扱いは許されるものではない。ばかばかしくて話にならない。制度が悪いのだが、条例は議員たちで作っているのである。お金の使い方について、森田先生は、「100円のものは1000円に、1000円のものは1万円に、というふうに、その額面金額よりもっと活かして使いなさい」とよく言われました。野々村議員は1000円のものは100円に、100円のものは10円に粗末に扱っている。兵庫県民は腹が立って仕方ないだろう。森田理論で「物の性を尽くす」という言葉がある。水の使い方が有名である。風呂の水は、洗濯に使い、掃除に使い、植木や盆栽に使い、庭の打ち水に使う。洗面器いっぱいの水でもとことん最後まで使い切るということである。これはそのものの持っている存在価値を見出して、最大限に評価して、活かしきるという考え方である。この考え方を身につけると、方々に応用できるようになる。自分の身の回りの物、自分自身、他人、時間、お金などに波及してくる。一事は万事に通じるのである。つまりこの考え方は連鎖しているのである。反対にお金を粗末に扱うものは、身の回りの物、自分自身、他人、時間など、すべてを粗末に扱うようになる。常に不平不満が多くなり、あくなき欲望のとりこになってしまうのである。そうして、どんどん森田的生き方から離れていってしまう。神経質性格の持ち主が、森田的思考、森田的生活から離れると、砂を噛むような虚しい人生しか待っていない。野々村議員は、「私は西宮市民のために頑張りたいと思っているのです。政務調査費の300万円は全額利子をつけて返還しますので、それで許してください。今後も県民のために誠心誠意頑張ります。」と公言していたのである。それは無茶というものである。
2014.07.15
コメント(0)
これから梅雨が明けると暑い夏が待っている。クーラーをつける人が多い。出歩くことを控えて一日中クーラーのお世話になっている人も多いことだろう。そうしないと熱中症にかかってしまう。救急車で病院に搬送されてしまう。なかには亡くなる人も出てくる時代である。この問題を森田理論で考えてみたい。森田理論は、自然の変化に対して人間のほうから、自然の変化に合わせていくという考え方である。自然は常に変化流動している。その変化に合わせていくのである。これを推し進めていくと、変化を予測して、仮説をたててあらかじめ準備を怠らない。もし仮説が間違っていたら、自分の行動を修正していく。これが自然と人間のかかわり方である。もっと言えばこれが人間と人間のかかわり方の基本でもある。間違っても、自然を自分たち人間の都合に合わせて変えていこうという考え方ではない。この考え方を森田理論で学習して、生活の中に応用して実践できるようになることは大切である。まず暑いときは涼しくなるように工夫することである。うちわや扇子。部屋では風の流れを作る。そのために扇風機を利用する手もある。打ち水をする。おしぼりを用意しておく。冷たいおしぼりは意外に役立つ。シャワーを浴びたり、たらいの水に足を入れてみる。食べ物はスイカやキューリ、トマト。ソーメンやざるそば、冷麺がおいしい。もちろんビールも最高だ。桃、ブドウ、ナシなども夏の食べ物である。水ようかん、かき氷やアイスクリームもよい。海やプールで泳ぐのもよい。夏は浴衣がよい。花火大会や夏祭りに出かけてみる。ビルの屋上から夜景を見るのもよいだろう。渓谷の水の流れを聞くだけでも癒される。蛍狩りなどもよい。変わったところではサウナで汗をかくとすっきりするという人もいる。まだまだあるだろう。自分なりに工夫してみてください。要するに、暑さに対して自分を適応させていくことである。完全な暑さ対策にはならないかもしれないが、ある程度の効果はある。かえってクーラーで完全な暑さ対策をしている人が夏風邪をひいたり、冷え性で体調が悪いという人もいる。過ぎたるは及ばざるがごとしである。また電気代もかさんでしまう。つまり、暑さ対策が自然を思いのままに変えてゆけばよいというのがあだとなっているのである。森田理論というのは実践のための理論である。言葉や観念で理解するのがまず第一歩である。自覚を深めるのである。その次にはそれを生活に応用する。いわゆる生活森田、応用森田のステップに進むことが不可欠である。理論研究でとどまっている人が実に多い。もったいないことだと思う。
2014.07.14
コメント(0)
森田理論でいう「生の欲望の発揮」は無制限に追い求めてゆけばよいというものではありません。不安というブレーキを効かせて調整しないといけない。例えばオレオレ詐欺でお年寄りをだますようなこと。薬物使用で危険な運転をすること。電車内で性欲を満たすために痴漢行為をすること。金儲けのために健康の害になるようなものを売りつけること。自分たちの欲望を満たすために自然破壊を繰り返すこと。などは決して許されないと思います。これらを制御しているのは、ずばり前頭葉の中にあります。前頭葉の中でも「前頭葉腹内側部皮質」という部分である。情動を抑え、道徳的な判断をつかさどっている部位である。仮にこの部分が損傷したり、脳卒中などで機能不全に陥ると、論理的、理性的判断はできても、道徳的な判断はできなくなる。深い愛情を伴った思考や、倫理的な判断はできなくなってしまう。私たちが感情を伴った意思を決定するときや、モラル判断するときに支障が出てくるのである。でもこれは特殊な例だ。心配はいらない。普通の生活をしていれば、自然に身についてくるものである。但し、1990年以降に生まれた「情報化社会」の子どもたちの場合は要注意である。元小学校教師の戸塚滝登氏の本にこんな話がある。ロンドン大学のメル・スレーター氏がバーチャル拷問実験をしました。教師役の人はパソコンの前に座り、バーチャル生徒と対話しながら、記憶力テストを行うというものです。バーチャル生徒は2種類います。これは3Dで作られた仮想人物です。一方は顔も姿も見えません。ちょうどあたかもネットでチャットやメールをしているかのように、文字だけで対話します。もう一方は顔も姿も見えます。バーチャル生徒が間違えると電気ショックを与えるようにしてあります。顔が見えるほうは、しだいに苦痛にゆがむバーチャル生徒を見て動揺が始まったそうです。つまり教師役の人がバーチャル生徒に電気ショックを与えるのをためらい始めたそうです。ついには途中棄権するものが現れたそうです。ところが、生徒の表情も見えず、ネット環境のように文字だけで対話していたほうは、最後の20回まできちんと電気ショックを与え続けたそうです。相手の顔が見えない。声が聞こえない、息遣いがない。対話がない。気配がない。まなざしがない。しぐさがない。つまり現実感覚がない、五感がないという状況では、平気で人を傷つけてしまうということが起きるのです。「だって、この生徒ってバーチャルでほんものではないんだろ」生徒が気絶して、もはや反応しなくなっても、彼らはゲーム感覚で電気ショックを与え続けたのでした。教師役の人は「ごくおとなしい普通の人」だったそうです。最近の子供は、まさにこのようなネットやゲーム、テレビや携帯端末に取り囲まれている。外に出かけて実際に自分の五感で感じとったり、体感する経験がないのである。家の中でパソコン、ゲームで仮想社会、バーチャル世界に愛着を持ち、リアルの体験は哀れなほど乏しいのである。そしてバーチャル世界を本物世界と見間違えてしまうのである。体制感覚、皮膚感覚、生理感覚などの身体感覚も同じく乏しいのである。悪いことに、小さいころからそういう生活を続けていると、同情し、共感し、感情移入し、道徳的な判断を行う「前頭葉腹内側部皮質」の神経細胞、シナプスのネットワークは形作られることがないのである。このきちんとした脳が形作られるのは10歳から12歳のごくわずかな期間であるという。それ以降は、いくら頑張っても手遅れとなる。つまり、人間らしい感情を持った人間に育つことがなくなるのである。いわばロボットのような人間が出来上がってしまうのである。考えてみるとそんな人間が大量に現れてくると恐ろしいことになる。詳しく知りたい人は戸塚滝登氏の次の本を勉強してみてください。「子どもの脳と仮想世界」 岩波書店「コンピーターが連れてきた子どもたち」 小学館
2014.07.09
コメント(0)
元小学校教師の戸塚滝登氏の「コンピーターが連れてきた子供たち」の290ページより転載です。赴任した小学校でウサギを飼っていました。放課後の飼育当番がうっかり柵の戸を閉め忘れ、ウサギたちが外へ逃げ出したことがあるそうです。幸い、ウサギたちはすぐに見つかりました。何しろ生まれた時から人間慣れしているウサギたちです。遊び疲れるとやがて小屋のほうに自分から戻ってきたのです。しかし、一羽だけは見つかりません。このウサギは野生の本能が強く残っているらしく、なかなか人間になつかず、すばっしこく走り回るので、子供たちは手を焼いていたのです。2日たち、3日経ってもポムと名付けられたウサギは帰ってきません。ところが4日目の夕方です。草むらから「カサッ、カサッ」という音がしたという情報がありました。翌日熱心にウサギの世話をしていたあゆちゃんという子が、ポムを探してみることにしました。すると草むらから「カサッ、カサッ」という音がしたそうです。あゆちゃんが歩くと、ポムがあゆちゃんの後を追いかけているのだそうです。やがてあゆちゃんは草むらにしゃがみ込みました。するとウサギがそっと少女の足下にすり寄るように近づいてくるのが見えました。それを見ていた先生は気が付きました。ウサギは何十メートルも離れた場所からでも、あゆちゃんの足音を聞き分けることができていたのです。自分を世話してくれているあゆちゃんの足跡を聞き分けていたのです。このウサギは、あゆちゃんをお母さんのように慕っていたのです。雨が降ろうと風が吹こうと、あゆちゃんは飼育小屋に通い詰めウサギの世話をし続けました。餌を与え、散歩をさせ、小屋内を清掃します。しかし1月の寒い日ポムは極寒に耐えられずに死んでしまいました。あゆちゃんはポムを抱きしめてポロポロ涙をこぼしました。そうして、卒業式の前日までウサギの世話をして中学校に巣立ってゆきました。先生は言います。あゆちゃんは同じ世代の子供たちがもはや知ることも、感じることもできない、秘密のような感覚、命のはかなさ、そして、いのちの足音のひそやかさを、体ごと理解していたに違いありません。あゆちゃんは、学校教育もさることながら、素晴らしい経験をすることができました。現代に生きる子供たちは、本来自然から受け取る知覚刺激は、薄まり、弱まり、現実感は希薄化しています。12歳ぐらいで完成されるという子供たちの幼い脳は、実際の五感や体感の機会が持てないうちに形作られてしまう。一旦人工の感覚に置き換えられてしまったら、恐ろしいことが起きる。脳はもはや本来の自然を感じたり、理解することができなくなってしまうのです。子供たちの脳は、人工の感覚を基準として作られてしまう。人工の五感こそ標準だと思ってしまう。人工の五感は、実に薄っぺらいものです。その辺の山とヒマラヤの山ぐらいな差があります。直接体験を避けて、五感をそぎ落とし、身体感覚をはぎとり、現実感覚を失ってしまう。すると薄っぺらい偽の感情が発生し、その一つの感情のみが増幅される。豊かな感受性の欠落した、ロボットのような人間の出現である。末恐ろしい時代が静かに進行している。我々森田理論学習をしたものは、人間らしい豊かな感情とは何か。身体感覚の体験が感情の発生にいかに大きな影響を与えているのか。こうした問題にも、考えを及ばさなくてはならない時代に突入してきていると思う。
2014.07.08
コメント(2)
先日バイクで走行中、目の前に犬が飛び出てきました。危うくぶつかりそうになりました。とっさにハンドルを右に切って難は逃れたのですが、そこに道路の窪みがあり、もう少しで転倒しそうになりました。それを見て犬の飼い主はドジな人と思ってか、笑っているのです。私はそれを見て腹が立ってきました。そこで飼い主に、犬を連れて道路に出たときはしっかり手綱を持っていてくれませかと言いました。飼い主は、この人何言っているのだろうという感じで無視して歩いて行きました。私はその態度に益々腹が立ちました。でも後で考えてみると、これは「純な心」ではありませんでした。いわゆる初二念だと思いました。犬が急に飛びでて来てびっくりした。肝を冷やした。でもぶつからなくてよかった。またバイクで転倒して怪我をしなくてほんとによかったこれですよね。初一念は。ここから出発して、初二念は無視しないといけませんね。反省して次に活かしていきたいと思いました。
2014.07.06
コメント(0)
フロイトは「理性によって本能、欲求、感情などを抑え、我慢して生きることによってストレスが蓄積され、それがノイローゼやヒステリーをつくる。さらに深く進行すると、精神分裂的な症状となって現れる」と言っています。フロイトは、感じの発生を意志の力で抑圧し、否定し、我慢して耐える生き方に警鐘を鳴らしています。これは森田理論で言っていることと同じです。間違っても大脳新皮質の理性から出発してはならない。常に大脳旧皮質の感情、五感の感覚、自分の気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意思、望みを優先させる。間違いのない自然な生き方をするためには欠かすことができません。まずこのことをしっかりと理解することが重要です。その次に理性を使って行き過ぎを制御していくのです。森田理論で言う精神拮抗作用の活用です。人間にはある欲望が起きると、反対の考えが沸き起こってくるようにできているのです。もともとすべての人間に備わった機能です。ところが、これが機能不全に陥っている人がいます。多かれ少なかれ、多くの人がそうかもしれません。一旦機能不全に陥ると、元に戻すことはとても困難です。そうなる原因としては、子どもの育て方、習慣、気質などいろいろあります。そういう人は、できることというと自覚を深めるしかありません。自覚を深めて、せめて社会生活に支障のない程度に手を打つのです。用心しながら生きていくのです。これはバランスはとれない自分を十分に自覚することによって、結果的にはバランスのとれた生き方をしていることになるのです。これで十分に社会に適応することができます。自己破滅、自己崩壊を防ぐことができます。ですから生の欲望の暴走が止まらない人。あるいは、反対に不安や恐怖に押しつぶされてしまっている人。森田理論の精神拮抗作用、バランス感覚、調和のとれた生き方、両面観の学習を深める必要があります。そして、さらに意識付けとして、「やじろべい」を目につくところにおいてみてください。きっと自覚が深まり、本来人間に備わっているバランス感覚が体で表現できるようになるでしょう。
2014.07.01
コメント(0)
私は森田理論を学習し始めたころ、「唯我独尊」というのは、かたくなで自己中心的な人のことかなと思っていました。後からそれとはまったく違う意味なのだということを知りました。我々が自分の本性を認めて、これを礼賛し、ますますこれを発揮し、どこまでもこれを向上させていこうとするのを「唯我独尊」といいます。人はそれぞれ強烈な個性を持っています。同じ親から生まれた兄弟姉妹さえも、容姿、性格、能力など共通点もありますが、微妙に違います。なかにはこれが同じ兄弟姉妹なのかと思われるような人もいます。そちらのほうが多いようです。不思議なものです。各々の持って生まれた容姿、性格、能力を活かして生きていく。課題や目標の達成に向かって努力精進してゆけばよい人生を送ることができます。これが唯我独尊という意味です。ところが成長するにつれて、そんなことを忘れて、人と自分を比較して是非善悪の価値判断をするようになります。人を見て優越感や劣等感を持つようになります。優越感を持って他人を否定し、劣等感を持って自分を否定するようになります。否定することからは、将来につながるものは何も生まれてはきません。将来につながる考え方は、現実、現状を肯定していくことです。しかしこれを実践することはとても難しいことです。でも森田理論学習を継続されている方は、常に原点に立ち戻るという姿勢は忘れないようにしてもらいたいと思います。それが神経症に陥らず、自分の人生を実りあるものにするためには欠かせない考え方だからです。具体的には、是非善悪の価値判断を止めること。どんなに不快な感情も受け入れていくことです。次に自分がどんな存在であっても、たとえどんな失敗やミスをしてもそのまま受け入れて、認めていくことです。また他人からどんな仕打ちをされても、まずその事実をしっかりと受け止めていくことです。さらに他人の存在、失敗やミスも許してあげられる包容力を持つ。最後に避けることのできない理不尽な事故や自然災害を受け入れていくことです。こうした生き方を身につけた人を「森田の達人」と呼ばせていただきたいと思います。
2014.06.28
コメント(0)
森田雄三氏の次の話は森田理論の「純な心」の説明としてよく理解できる。信じていた恋人から、別れ話を切り出された瞬間を想像してもらいたい。「裏切られたとか」「悲しかった」「腹が立った」などの感情は、実は後処理で、その瞬間は相手の「申し訳なさそうな表情」や「盗み見る目つき」がクローズアップされ、「意味のない音(喫茶店なら有線のポップスとか、外なら商店街のアナウンスや風の音)が飛び込んでくる。よく聞くではないか、別れ話を切り出されても「意外と自分は冷静だった」と。どうしていいかわからず、ただぼんやりしているわけだから。そして、後から「ああ言えばよかった」「その場を去るべきだった」と悩むのが「感情」なのだ。部屋に戻って、一人泣いたとはよく聞く。気持ちを麻痺させるブレーキをかけずに、その場で取り乱したほうが自然ではなかろうか。初一念という前に、想定外のことにあっけにとられた。開いた口が塞がらない瞬間。力が抜けて、頭が真っ白になる体験。これこそが一番大切なのかもしれない。そのあとで「悲しかった」「ショックだった」さらにそのあとで、「今まで私をもてあそんだのは何だったのよ。私は結婚を考えていたのに」という怒りの気持ちが出てくるのではなかろうか。こう考えると初一念というのはほんとに微妙なところをついている。そこを見極めることができるのかどうかは、その後の展開を大きく左右する。森田理論を学び、その微妙な頃合いを体得してゆくしかない。(間の取れる人間抜けな人 森田雄三 祥伝社新書 55ページより)
2014.06.22
コメント(0)
今年のプロ野球の交流戦。私の応援している広島カープは断トツの最下位である。現在4勝11敗である。始まる前はセリーグで2位に4.5ゲーム差つけて首位であった。当然解説者の予想もよかった。今年の交流戦は、14勝10敗ぐらいはいけるのではないか。ましてやファンは快進撃を続けることを信じて疑わなかった。それだけに、落胆は大きい。しかし、私は格好の森田理論学習の材料となったと思う。「純な心」を深めていく学習材料となった。交流戦でカープが負けるたびに、カープファンは落胆する。意気消沈する。不快な気分になる。ショックを受ける。憂鬱になる。肩の力が抜けてうなだれる。プロ野球のニュースなども見たくなくなる。思い入れが強ければ強いほどその気持ちは大きくなる。これが第一次的な感情です。この気持ちが湧き出たことを認識することは極めて大切である。これは肉親が亡くなった時などと一緒である。親兄弟、子供などが亡くなれば、憤懣やるかたない気持ちになって落ち込んでいく。どこにはけ口を求めてゆけばよいのかわからなくなる。森田先生も長男正一郎君、妻の久亥さんを亡くされたときは人目をはばからず嘆き悲しまれた。その限りでは、自然の流れであり何の問題も起きない。ここで肝心なことは、この第一次的な感情にひき続いて沸き起こってくる感情である。自分に不快な感情を与えた首脳陣や選手に対して、怒りが収まらなくなってくるのである。これを二次的感情という。監督やコーチの選手起用方法、ミスをした選手、打てない選手、打たれたピッチャーを非難する。以前は罵声を浴びせて、生卵を投げつける人もいた。かわいさ余って憎さ100倍なのである。この感情は無視しないといけない感情なのです。森田理論学習でいう通り、第一次的感情を重視して行動しないといけない。森田先生は長男正一郎君を20歳の若さで亡くされたとき、出棺の時慟哭されたが、しばらく経つと何事もなかったかのようにふるまわれていたという。それでも、何かの折に思い出すたびに悲しみが襲ってきたという。第一次的感情に浸っていると、どんどん不快感が増していって頭が混乱してパニックになるような気がする。だからそれをやりくりしようとするのだ。でもそれは認識の誤りです。感情の法則1が示している通り、感情は一山登って必ず下降してくる。ただし、刺激を与え続けるとその感情は、どんどん強化されてくるのである。二次的感情を相手にするということはまさにそういうことです。基本はつらい感情になりきってしまう。逃避したりやりくりしないことです。その上で目の前のなすべきことに、イヤイヤ仕方なしに手を出していくと感情は流れていくのである。森田先生は我慢して耐えているだけでは感情は流れない。感情が変化流転してゆかないとダメだといわれています。もうすぐブラジルでサッカーが始まります。日本が予選敗退ということは、考えられないと思っている人が多いと思います。もし仮にそんな事態に陥った時は、この話を思い出していただきたいと思います。
2014.06.09
コメント(0)
2003年は冷夏であった。7月のコンビニの売り上げは軒並み前年割れを起こした。しかし翌8月は明暗がはっきりと分かれた。同業他社が引き続いて苦戦する中で、セブンイレブンは早くも立ち直りを見せた。それはなぜか。セブンイレブンは8月の天候に対応できたのである。冷夏が続くという予報に、自分たちが変化して対応したのである。つまり猛暑によく売れる冷麺やアイスクリーム、清涼飲料水を控えて、おでんや温麺、パスタ類などを増やしたのである。先入観念で夏は夏向きの商材しか売れないという固定観念があると変化対応はできない。それどころか、売れないのは異常気象のせいだから仕方ないとあきらめてしまう。またここまでお客のことを考えて商品を提供しているのに、買わないのはけしからんとお客を非難するようになる。悪循環の連鎖が引き起こされてしまうのである。何度も言うように、森田理論学習では「変化対応力」を重視しています。自分が予測していたことと現実が違う。自分が考えていたことと事実が違うというときは、対象を変えようとするのではなく、常に自分をその事実に合わせる。事実そのものは受け入れる対象でしかない。事実を受け入れて、自分がその変化に対応していく。この世の中は「諸行無常」です。常に変化流動しています。その波に決して逆らってはならない。出来ることはその波をうまくとらえて乗っていくことだけです。サーフィンやハングライダーを見ていてそう思う。
2014.06.08
コメント(0)
セブンイレブンは変化対応企業である。変化対応力を磨くことは、森田理論の目指すところである。鈴木敏文氏は次のように言われる。「売れなければ値段を下げて安くするというのは物不足の時代の発想です。特にバブル期まではインフレ基調でしたから、安くすれば客ウケするという考え方が通用しました。そのころの成功体験を引きずっていて、安さで通すという問題解決法が今も通用すると錯覚している。物余りの買い手市場の時代には、新しくて価値のあるものを次々と提案しないと変化にとり残されていくことが自覚できていないのです。」例えば「おいしい」という価値も決して不変なものではない。時間がたてば、顧客にとっては、どんなにおいしくて珍しいものでも「飽きる」ようになる。おいしければおいしいほど飽きる。顧客が飽きないようにするためには、次から次へと新しい「おいしいもの」への開発にとりかかる。変化に対応するという気持ちが失われると「マンネリ化」に陥る。「マンネリ化」はイノベーションの意欲がなくなることである。周囲への関心がなくなり、現状に胡坐をかいて、変化対応力が失われてしまうことである。すると森田先生の言われるように、精神は弛緩状態となり、意欲が失われて、新しいアイデアは湧いてこなくなる。大脳が廃用性萎縮を起こしてくるのである。それは温められている鍋の中に飛び込んだカエルが、気持ちがよいなと思っているうちに、茹で上がって命を落とすというエピソードを思い出させる。コンビニのオーナーや従業員たちの仕事ぶりが、マンネリ化した途端客が離れ始める。それは即コンビニの死活問題となるのです。今日の顧客のニーズは、明日の顧客のニーズではない。そうかといって顧客に「あなたのニーズは何ですか」といっても教えてくれるわけでもない。だからオーナーや従業員たちが、次の天気予報、地域のイベント情報、雑誌の発売日などの情報をもとにして、顧客のニーズを予測して、商品として顧客に提案し、売れ行きの結果を分析して、次に活かすというサイクルを回し続けないといけないのである。森田理論学習でも無所住心で同じことを言っています。常に周囲にアンテナを張り、変化を予測して、変化の兆しがあれば即座に変化に合わせて動いていく。精神を緊張状態にしておくことが大切なのです。
2014.06.06
コメント(0)
腹が立ったときどうしたらよいかから出発してはならない。腹が立った時は具体的な出来事から出発しなければならない。例えば、自動車を運転しているときに、もう少しで事故を起こしそうになった経験は多くの人が持っている。交差点で自分が直進していた。すると急に対向車が目の前を右折してきた。もう少しで事故を起こすところだった。血の気が引くような怖いという思いをする。でも口をついて出る言葉は、「どこに目をつけてるんだ」という怒りの言葉である。ここで大切なことが分かる。普通は怒りの感情は「純な心」であるとだれもが思っている。最初に直感的に感じた感情だと思っているのである。でも実際に具体的事実にあたってみるとそれは違う。怒りの感情は、二次的感情なのです。この場合一次的感情は、血の気が引くようなぞっとした、怖ろしかったという感情なのである。これがまさに最初に沸き起こった感情なのです。ここから出発すれば間違いはない。怒りの感情はその次に出てきた感情です。ここを見誤ってはいけない。こんな例はいくらでもある。子どもが家に連絡もしないで帰宅が遅くなった。それで腹が立ったというけれども、最初の感情は何だろうか。変な事件に巻き込まれていないだろうか。どうか無事であってほしいという気持ちである。森田理論学習では初一念を大切にして、そこから出発しなさいと教えています。でも怒りの感情が初一念ではなく、初二念、初三念だとすると、そもそも最初から間違った行動をとっていることになります。集談会でも「私は腹が立ちやすいのですがどうしたらよいでしょうか」「腹が立ったのは純な心だからそのまま相手にぶっつけてもよいのではないか」という質問はよく聞く。普通はほとんどの人が、怒りを「純な心」だと勘違いしています。そんな時、腹が立つというのは「純な心」ではない。その前に見落としている初一念が必ずあるはずだ。それこそが宝の山であるという意識を持っていると、その後の展開はぜんぜん違ったものになる。交差点の話では、相手に対して「さっきはとても怖い思いをした」と言えば丸くおさまる。ところが「お前の運転はどうなっているのだ」と怒りをぶっつけると火に油を注ぐような結果となる。そのためには、抽象的、観念的に怒りについて議論するのではなく、具体的事実を詳細に検討していくことが不可欠です。
2014.06.04
コメント(0)
気分本位、理知本位、事実本位という説明は、高良武久先生のプールの飛び込み台の話が分かりやすい。初めてプールの高い飛び込み台から飛び込むとき、不安や恐怖は誰でも感じる。でもその後の対応は3つに分かれる。飛び込むのを止めてしまう人。恐怖心をなくしてから飛び込もうとする人。恐怖心を持ったまま飛び込む人。まず、不安や恐怖に振り回されて飛び込むのを止める人である。こういう人を気分本位の人という。諦めの態度である。気分に振り回される人は、自分の生の欲望に気づかないか無視している人である。逃避すると一時的には楽になる。しかし逃げたという後ろめたい気持ちはその後いつまでも消えずにくずぶりつづけるのである。悶々とした生活を余儀なくされる。また手段の自己目的化が起こり、精神交互作用で神経症へと突き進んでしまう。こういう人は「欲望と不安」の関係の学習に取り組んでもらいたい。次に、この不安や恐怖が邪魔だといって、それを取り除こうとやりくりを始める人である。頭の中でスッキリと整理でき、できると納得できる状態に持っていこうとする態度である。それまで決して行動しようとしない人である。こういう人を理知本位の人という。理知本位の人は不安や恐怖はあってはならないもの、この世の邪魔者、悪と考えている。こういう人は思想の矛盾に陥り、さらに強い神経症を引き起こす。本来、人間にとって不安や恐怖はなくてはならないものです。不安や恐怖があるおかげで慎重になり、準備を整えて前進することができるものです。不安や恐怖と共存する態度。常に不安や恐怖の感じから出発して、その次に理知で調整するという態度に変更しないといけません。最後に、当然沸き起こる不安や恐怖はそのまま受け入れて、びくびくハラハラしながら、本来の欲望に向かって飛び込んでいく態度が事実本位の態度です。あるがままの態度と言えます。不安や恐怖をその都度解決して、しかる後に行動するという態度ではありません。不安や恐怖を抱えたまま、その時々に与えられた課題に前向きに立ち向かっていく態度。これを森田理論は目指しています。
2014.06.03
コメント(0)
「あるがまま」を考えるとき、まず不安に学んで手を出したほうがよいものと手を出してはいけないものを分けるということが大事です。将来に希望がもてないものや自分の利益のためだけの行為は手を出さないほうがよいものがほとんどです。多分8割方は手を出さないで受け入れたほうがよいものになると思います。次に私がお勧めしたいのは、不安や恐怖を4つに分けて考えるということです。すると対応方法が明確になります。学習が深まってゆきます。1、 自然にわき起こってくる不安、恐怖、違和感、不快感などの感情の事実です。森田理論学習では主としてこれを扱っています。2、 元々備わっている自分の素質や性格、今現在の自分の容姿、弱み、また自分の犯したミスや失敗などの事実3、 他人の自分に対する理不尽な仕打ち、元々備わっている他人の素質や性格、容姿、弱み、他人の犯したミスや失敗などの事実4、 自然災害や伝染病、戦争、経済の変動、食料やエネルギー不足、世の中の出来事私は今の事実は何番の事実のことかなと考えるようにしています。1番については欲望があるので不安、恐怖などがでてくる。不安、恐怖は自分にとっては大事なものであるから排除してはいけないし、できないと考えています。「かくあるべし」があると、無限大に膨らむ性質がある。「かくあるべし」を小さくすることが大切だと思っています。不安と欲望の学習、感情の法則の学習が役立ちます。2番については言い訳、弁解、隠し事をしないでありのままの自分を素直に認めると、次へ進むことができる。これが一番楽な生き方になります。認めないといつまでも苦しむことになるのだと思っています。3番については、批判、指示、命令ではなく、第一に感じた感情から出発することと私メッセージの活用を常に意識しています。4番については、事前に不測の事態を察知したときは、可能な限り対策を立てて実行するようにしています。それでも災難がふりかかってきたときは、それは受け入れてゆくしかないと思っています。
2014.05.19
コメント(0)
全429件 (429件中 301-350件目)