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人間の「存在価値」について考えてみたい。その前に存在価値以外の価値についてみてみよう。「貨幣価値」というのは、物の価格を他の物や以前と比べて、お金の価値が上がったか下がったかを比較している。例えばマンションを買って、10年後にそのマンションの販売価値が上がっていれば、そのマンションの貨幣価値は上昇している。値下がりしていれば、貨幣価値は下落しているとみる。「歴史的価値」というのは、今日の文明や文化の発達を考えるにあたって、見逃すことのできない遺産や出来事である。象徴的な遺産や出来事をいう。「なんでも鑑定団」でいう「希少価値」というものは、極めて珍しいもので、欲しい人がたくさんいるものである。それらは高値で取引されるものである。「経済的価値」というものは、利潤を沢山生むことができるものである。例えばIPS細胞などは今後の経済的価値は高まるであろう。あるいは、ガソリンを使わない電気自動車なども経済的価値が高まるものと思われる。「利用価値」があるというのは、そのものが使用用途がある、人間の役に立つということである。「潜在価値」というのは、その中に他では代替できない貴重なものがある。秘めた力があるということである。潜在能力といってもよい価値である。今は顕在化していないがいずれ役に立つに違いない価値の事です。こうしてみると価値の特徴が浮かび上がってくる。まず、価値というものは、その物だけを見ていては判断できない。つまり2つを相対的に比較してみた結果、始めて価値があるとかないとかいっているのである。比較した結果、優れたところがある。値打ちがある。役に立つ。使い物になる。利点がある。珍しいものである。価格が高いものを価値が高いと言っているのである。そうでない片方のものは、相対的に価値がないと言っているのだ。2番目の特徴としては、時代と状況によって価値は高くなったり、低くなったりすることがある。一定で永遠に普遍的な高い価値が続くというのは現実ではあり得ない。例えば野球ではホームランの数や盗塁数、打点等は減ることはない。ところが打率は打てなくなってくるとすぐに低下してくる。反対にヒットを量産するようになると打率がアップしてくる。物の価値は打率のようなものである。このように価値は変化流動性があるのである。その点をふまえて、人間の「存在価値」を見てみよう。生きとし生けるものはすべて存在価値がある。特に、私たち神経質者は他の性格には見られない優れた特徴がある。主だったものをあげてみよう。よく気がつく。感受性が豊かである。好奇心がいっぱいである。生の欲望が旺盛である。真面目でよく努力する。粘り強い。責任感が強い。自己内省力があり人に迷惑をかけない。分析力がある。堅実で計画的。しっかりとした人生観を持っている。これらは森田理論学習の「神経質の性格特徴」を学習した人は、十分に自覚されていることと思う。大事なことは、それらを自覚して磨きをかける以外に自分を活かす道なし。そのように覚悟を決めることだ。それが神経質性格を持って生まれた我々の進むべき道だと思う。次に、それらを実際の生活の場面に当てはめて活用していくことが大切である。いいなと思っても活用していかないと絵にかいた餅である。そうしないと、感受性の鋭さ、生の欲望の強さ、自己内省がマイナスに作用して、自己嫌悪、自己否定、他人攻撃に陥ってしまう。そして神経症で苦しむようになってしまう。2歩前進1歩後退の連続であってもかまわない。楽しみ、便利さばかりを追い求めて、面倒なこと、努力して苦労することを放棄する道に進むことは避けなければならない。人の役に立たない人。消費一辺倒で、精神的、経済的に他人に依存するばかりの人は、「人間としての存在価値」がどんどん下がり、みじめで、人からも見向きもされないようになる可能性が高くなる。幾多の生存競争を潜り抜けて、この世に生を受けてきた人すべてに「存在価値」はある。その「存在価値」を多少なりとも磨きをかけて、自分の器を大きくしてきた人は、この世に生まれてきた意味があったということではなかろうか。
2017.08.21
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森田先生の物事に集中するという考え方は、世間の常識とは少し違います。机上論で腹式呼吸でもやり、周囲のことも何も忘れて、心が一つになった時が、仕事が最もできるというふうに考えるのは、思想の間違いである。精神は四方八方全般に働いて、しかも現在の仕事が最も適切にできる状態を、 「無所住心」と言うかと思います。森田先生はひとつのことに心が奪われている状態は物事に集中しているとは言えないと言われている。そうなってしまうと決して仕事はうまくはできない。その仕事だけではなく、周囲のことに色々と気を配り、精神状態が四方八方に働いているときにこそ、仕事がうまくいくのだと言われている。普通、一般的には物事に集中している状態は、一心不乱になって無我夢中で取り組んでいる時である。しかし欲望が強いときは必ず強い不安が出てくる。オリンピックの競技に出場したときや、大きなコンサートホールで、ソロ演奏をするような時、大きなプレッシャーがかかってくる。それまで十分な練習を積み重ね、練習の時は問題なくこなせるようになっていても、本番の時にはその不安は大きなプレッシャーとなって、時としてパフォーマンスの低下を招く。イチロー選手は、その大きなプレッシャーに押しつぶされないように、あらかじめ決められたルーティーンを大切にしている。目の前の打撃に集中するためには、余計なあらゆる邪念や雑念は振り払わないといけないのである。これは森田先生の言われている集中という考え方とは相反する考え方である。私も集中ということについては、不安や恐怖のない状態で、目の前の取り組んでいる課題に対して、一心不乱に取り組んでいくことが重要であると思う。神経質性格の人の場合、最初は欲望の達成に向かって努力しているが、そのうち欲望に付随して出てくる不安や恐怖に注意や意識を向けてそちらの方と格闘するようになる。手段の自己目的化という現象である。その時欲望の達成は忘れ去られる。あるいはどうでもいいというような投げやりな考え方になる。森田先生は森田理論で土台となる考え方は、 「生の欲望の発揮である」と言われている。そう考えれば、目の前の課題や問題点に対して、ものそのものになりきって、一心不乱に取り組んでいく事は絶対に必要である。お使い根性では、新しい感情、気づき、発見は出てこない。ものそのものになりきっている状態は、まさしく雑念もなく、一心不乱の状態である。それは別の言葉で言えば集中しているということである。どう考えても、雑念に煩わされることなく、目の前の事に集中するということは、大切であると思う。言葉にとらわれていると、森田先生の集中という言葉の意味を取り違えることがある。森田先生の言いたい事は、不安、恐怖、不快感、違和感など自分の気になる感情に対して、それらにのめり込んで(つまり集中して)格闘するような事はダメだと言いたいのではないだろうか。そういう嫌な感情は欲望が強ければ強いほど大きくなるという特徴がある。神経質性格の人はどうしてもそちらのほうの感情にとらわれやすい。そして精神交互作用によって神経症として固着させてしまう。そのような集中の仕方は一害あって一利なしである。森田理論で勉強しているように欲望と不安は両方のバランスを取りながら生活をしていくという態度が大事なのである。物事に取り組む時はものそのものになりきる。つまり取り組んでいるそのものに集中していく態度が必要である。しかし、さらに大事な事はバランスという考え方である。物事にはプラスがあれば必ずマイナスがある。欲望があれば不安がある。長所があれば欠点がある。森田先生が言いたい事は、両面観でものを見るということである。一つのことだけにとらわれて、周りが見えなくなってしまうことは問題だ。片寄った見方は必ず問題を生じる。自分の一方的な考え方ではなく、第三者から見た客観的な見方、考え方も加味して総合的に物事を見ていかないとものを見たということにはならない。集中するという森田先生の言葉をそのまま受け取っていると、前に言われたことと、今言われていることが違うように感じられることがある。それは言葉尻をとらえて理解しようとしているからである。森田先生は手を変え品を変え、様々な具体例を示しながら、森田理論そのもの本質を伝えようとされている。われわれは森田理論を理解しようとするとき、そこに思いを馳せて、森田先生の真意を理解しようとすることが大切であると思う。
2017.07.25
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森田先生は「不即不離」について次のように説明されている。神経質者の考え方、あるいは精神修養の誤ったものは、その恐ろしいという心を否定・圧迫し、一方には近づきたいという心に、いたずらに鞭打ち、勇気をつけようとして、無理な努力を工夫し、その結果は、かえって精神の働きが萎縮し、片寄ったものになってしまう。恐ろしくないように思おうするから、いたずらに虚勢を張ってかたくなになり、強いて近づこうとするから、相手の迷惑などにも、少しも気がつかず、図々しくなってしまうのである。これに反して、両方の心が相対立しているときには、相手に接近してもくっつききりに即しない、すなわち不即の状態で、相手の喜ぶときには、近づき、相手の迷惑のときには、ちょっとその場をはずすなどである。また、一方には、恐ろしいために、離れていても、離れきりにはならないで、ちょっと相手の話し声がするとか、暇な時があるとかいうことを、極めて微妙に見つけて、直ちにその近辺に近づいていくというふうに、不離の状態になる。つまり即するでもなく、離れるでもなく、常にその駆け引きが、自由自在で、極めて適切な働きができるのである。「親しんで狎れず、敬して遠ざからず」というふうになるのである。 (森田全集第5巻 243ページより引用)私が以前勤めていた会社にはとても気難しい部長がいた。前日自分の贔屓のプロ野球のチームが負けただけでイライラして、その気持ちを周りの人に吐き出していた。その状況をわきまえないで、その部長に近づいて仕事の進行状況や問題点の相談などに行くと、いつも怒りが爆発していた。私はその部長の直属の部下としてサポートしていた。機嫌が悪い時は、なるべく近づかないようにしていた。他の営業所の所長からは、部長に電話をする前に、まず私宛に電話がかかってきて、今の部長の精神状態は安定しているかどうか確認してから、改めて部長に電話をするという方法をとっていた。これは状況をよく観察して、状況に合わせて行動を選択するということだと思う。森田先生は、 犬を連れて散歩に行くと、犬は主人のそばばかりにくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、また、どこからともなく帰ってきて、主人の足元へ絡みついてくる。これが犬の自然な心で、いわゆる「不即不離」の状態である。すなわち、犬は退屈のために主人を離れるが、そうかといって、絶えず主人を見失いはしないかということが気にかかるから、決して離れてしまう事はない。それでは、どうすれば「不即不離」が体得できるのか。欲望と不安のバランスをとる事を心がけて生活すればよいのである。欲望の充足のために努力するのはいい。ただし欲望の追求が無制限に放置されてはならない。もともと欲望が強いときには、必ずその反対に不安がつきものである。要するに欲望の追求だけに偏ってもいけないし、不安との格闘だけに偏ってもいけない。不安と欲望を目の前の状況をよく見て、状況に合わせてバランスを取るということが大切なのである。神経症を発症するというのは、欲望と不安のバランスが崩れているから起こることである。神経症で苦しい時は、生の欲望の発揮は蚊帳の外になり、注意や意識を不安を取り去ることばかりに集中している。神経症から解放されようと思うなら、まずは不安と欲望のバランスを回復させることである。「不即不離」を人間関係に応用していくと、幅広い人間関係を構築していくことになる。神経症の人は対人関係が苦手で、親友と言われるような友人は2 、 3人いればそれで充分だというふうに考える人もいる。その考え方はコップ一杯に水が満たされた人間関係が2、3個しかないということである。そうなると、その友人と対立したときはどうなるのか。あるいはその友人が理不尽な態度をとるようになった時はどうなるのか。考えてみれば恐ろしいことである。自分がよりどころとしていた人間関係が崩れやすいということである。その先に待っているのは孤立である。「不即不離」を中心とした人間関係は、コップに少しだけ水が満たされた人間関係をたくさん構築することだ。そして、その時その場に応じて付き合う人変えていくことだ。必ずしも親密な付き合いをする必要はない。無理のない範囲で、付き合ったり離れたりするような人間関係を築きあげることだ。仕事仲間、家族関係、親族関係、同級生、OB会、趣味の会、自治会、集談会の仲間など幅広く薄い人間関係をたくさん作っておくことである。つながりがあれば、あとは必要に応じて引っ付いたり離れたりする。憑かず離れずの「不即不離」の人間関係を築きやすい。年賀状1枚を出すだけの人間関係も立派な人間関係だ。そんな関係の人を、仮に300人作ったとすると、人間関係で問題を抱えたり、孤立してしまうということは考えにくい。
2017.07.23
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暑さの苦痛の回避につき、洞山禅師の有名な問答がある。ある時、ある僧が洞山禅師に、寒暑の時に、どうすればこれを逃れることができるか」と問うたところが、師曰く、 「無寒暑のところへ行けばよい」 、僧 「いかなるか是れ無寒暑のところ」 、師 「寒のときは自分を寒殺し熱のときは、自分を熱殺せよ」といった問答である。寒殺、熱殺とは寒さになりきる、暑さになりきると言う事である。冬は寒く夏は暑い。動かすことのできない、やりくりのつかない事実である。その事実に、あるがままに服従・忍受して、暑さを感じないように気を張るとか、ことさらほかのことを考えて気を紛らわせるとかはからわないことをいうのである。このときには自分は既に暑さのうちにあり、暑さのままにあるから、あたかも山に入れば山は見えず、水の中におればかえって寒さを感じないように、自分自身に暑さを感じないようになる。それは自己観察、自己批判がなくなるからである。これに反して、もし暑さの時、自分の気持ちのみ注意して、汗が出るとか、体がだるいとか、気分がムカムカするとかいうふうにこまごまと気をつけるならば、自己批判のために苦しくて仕方がない。これでは身体が耐えられないかもしれない。神経衰弱になるかもしれないなどと考えるようになり、したがってこれから逃れよう、あるいはこれに勝とうとして苦痛と回避との間に心の葛藤が起こり、仕事や周囲の事は少しも気が向かず、いたずらに苦悩を増すばかりになるのである。だが、夏の暑さの苦痛は当然の苦痛としてそのままに苦痛を忍受していれば、心は単一にそのままであるから、心の葛藤はなくなり、したがって、心はおのずから周囲の事情に反応し、適用するようになり、自分の仕事や遊びことの欲望に刺激されて、自らその方に調子に乗って行くようになって、ますます暑さも疲労も自覚しないようになるのである。ものそのものになりきるとは、不安や恐怖などに対して、対立的な態度を取らないということである。あるがままに受け入れるということである。しかし、ここで、あるがままに受け入れれば、不安や恐怖は無くなるのなら、そうしようという態度ではまずいのである。そういう手段をとるということは、そうすることによって、自分の不安や恐怖を回避したいという気持ちが心の奥底にあるので、かえって不安や恐怖は強くなっていく。だから不安や恐怖でパニックになったときは、一時的にその事にとらわれる必要があるのだ。対人恐怖の人で言えば、他人から非難されたり、無視されたり、からかわれたしたときはイライラむしゃくしゃする。その憤懣やるかたない気持ちをいったんは行き着くところまで行かせることが必要なのだ。極端な話だが、相手を殺してやりたいほど憎んでもよい。その気持ちが高ぶれば高ぶるほどよいのだ。この態度は台風が来た時の柳の木の対応である。台風が来たとき柳の木は枝を振り乱して錯乱状態にある。それが苦しさになりきっている姿である。ところが台風一過、次の日、何事もなかったように枝を垂れている。これに対して大きな松の大木は、台風の風をまともに受けながら、台風と死闘を繰り返しているように見える。しかし、大きな台風に対しては、力尽きて倒木してしまうことがある。台風一過、次の日に無残な姿をさらしている。ここで大切な事は、不安や恐怖などに対して、最初から耐えたり我慢するやりかたは、不安や恐怖をやりくりしたり逃避したりする方法となんら変わりのない結果をもたらすということである。自然現象である不安や恐怖などについては、行き着くところまで行かせて、よく味わってみることが重要なのである。味わい尽くすことで、その不安や恐怖から速やかに離れることができる。大事なところなので、もう一度繰り返す。不快な感情はすぐに安易に抑圧してはならない。自然の流れに任せて行き着くところまで、行き着かせることで、速やかに不快感は過ぎ去っていくようになっているのだ。高まってきた不安や恐怖に耐え切れなくなって、周囲の人にグチをこぼしたり、喧嘩をふっかけたりすることがある。これは不快な感情に対してすぐにでも取り除こうとしているのである。このような行動をとると、不安や恐怖から解放されるのではなく、不安や恐怖を増悪させてしまうことだけは肝に銘じておく必要がある。このことを体得すれば、人間関係はかなり改善できる。
2017.07.16
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達磨大師の仏性論に次のような文章があるという。「至人は、その前を謀らず、その後ろを慮(おもんばか)らず、念念道に帰す」今日はここで言われている、「念念道に帰す」ということについて考えてみたい。森田先生の説明によると、以前にしでかしたミスや失敗などにいつまでも拘泥しない。また、これから先のことについても悲観的になっていつまでも思い悩む事をしない。その時々の現在に対して、「現在になりきり」全力を尽くしていくことが「念念道に帰す」と言う事だと言われている。過去や未来のことにいたずらに多くの時間を費やすのではなく、そのエネルギーの大半を今現在にフォーカスさせていくということである。神経症で苦しんでいる人は、これが反対になっている。つまり、過去のことを後悔したり、未来のことに取り越し苦労ばかりしている。そして日常生活や目の前のやるべき仕事がおろそかになっている。本末転倒というのはこのことである。「念念道に帰す」とは、僕は高い診察料を取る患者の診察をしても、ゴミやわらなどまでも捨てずに整理して、風呂焚きをする時も、この無報酬の原稿を書いても、常に最善・全力を尽くしてやっている。仕事も遊びごとも、僕には同じ熱心さである。特に自分ながら、おかしいのは、将棋を指すときに、負けたら悔しがり勝ったら喜ぶ。 4 、 5番もやって後には、幾番やって、何度勝ったかとかいうことは、少しも覚えていられないことである。ただ、「現在になる」ばかりである。勝ちの誇りも、負けの恨みも、少しもその後に残らないのである。「現在になる」ということを、車に酔うということに応用すると次のようになる。車に酔うと気分が悪い。ムカムカして今にも吐きそうになる。この時、決して心を他に紛らせないで、一心不乱に、その方ばかりを見つめていることが大切だ。息をつめて、吐かないように耐えている。吐けば楽になるとか考えて、決して気を許してはなりません。断然耐えなければならない。この時、ちょっと思いちがいしやすい事は、自分の苦痛を見つめていると、ますます苦しくなるような気がして、ついつい気を紛らせて、他のことを考えたりしようとすることである。早く行き着いて寝ようとか、ここまで来たから、もう十分だとか、都合の良い楽なことを考えようとするからいけない。こんなとき、後2 、3分というところで、安心し、気が緩んで急に吐き出すようなこともある。過去や将来のことについて思い悩むのが我々人間の特徴である。それは人間が動物と違って言葉を使うからである。言葉を使って抽象的、論理的にに推論できる能力を持っているからである。ミスや失敗をすると後悔や懺悔をする。あるいは将来を取越し苦労して、予期不安で手も足も出なくなる。これらに思い悩むことをなくすることはできない。これこそが人間の人間たるゆえんである。後悔や取越し苦労は、将来のリスクを軽減できる面もあるので、役に立つ面は役に立てる必要がある。しかし、神経質な人はその程度が度が過ぎているという面がある。ここが問題なのである。度が過ぎていると、行動が停滞して、生活がしりすぼみになってくる。いかにもバランスが悪い状態になっている。その場合、バランスを回復させるためには、この際、後悔や取越し苦労には時間切れを宣言して「現在になりきる」方面に100%のエネルギーを注ぎこむことで、やっとバランスがとれてくるようになる。私たちは誰でも、何かに無我夢中で取り組んでいるとき、時間が早く経過しているのを後から気づくことがある。この状態はまさに「現在になりきっていた」状態である。そのためには、森田では日常茶飯事に丁寧に取り組むことを勧めている。今まで機械的に取り組んでいたのならば、少しだけ丁寧に取り組んでみる。あるいはもっと効率的になるように少しだけ工夫・改善をしてみる。新しい気づきや発見が見つかるようになれば、もう「現在になりきる」状態になっている。今やっている日常茶飯事に今一歩のめりこんでみるだけで十分に目的は達成できるはずだ。
2017.07.15
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「花のように、鳥のように」という歌がある。歌詞の中に、 「 花のように、鳥のように、世の中に生まれたら一途に、あるがままの生き方が幸せに近い」とある。森田理論学習をした人がよく耳にする「あるがまま」という言葉が使われているので、なんとなく親しみを感じる歌である。森田で言われている「あるがまま」を十分に理解して使われているのかどうかは疑問である。今日はこの「あるがまま」について考えてみたい。森田先生曰く。自分は5尺何寸であるとか、体重幾貫目とか、貧乏に生まれたものとか、人前では、ぎこちなくなるもの、自分は小人であって、飾り、言い訳し、とりつくろいたくなるものとか、利害特筆に迷い惑うものなど、素直にそのまま、正直に認めておくことです。しかし、 5尺1寸と正直に自認しようとすれば、それではなんだか心細い、少なくとも5尺3寸くらいには思いたい。人前で固くなる、気が小さい、小人だ、試合の時は足の震えるものなど、そのまま、あるがままに考える事は、なんだか浮かぶ瀬のないような気がして苦しい。もっと気を大きく、朗らかにすれば、 1寸のものも、3寸に伸びあがり、小人でもいくらか、君子らしくなるかもしれない、というはかないい考えが頭に浮かんでくる。そこで色々な小細工を工夫して、臭いものに蓋をし、我と我が心を欺いて「自欺」と言うことにもなる。しかし、このようなから威張りの考え方は、そのためにかえってますます小胆・無能になり、浮かぶ瀬はなくなるのである。この話は「あるがまま」の説明がよくわかる話である。つまり森田先生は持って生まれた自分の容姿や性格などは、その事実を素直に受け入れることが大切だと言われている。嫌な感情などがわき起こった時もその事実を素直に認める。しかるに、多くの人は思い違いをして、自分にとって都合の悪い事実を絶対に受け入れようとしない。それどころか、その事実をいつわったり、ごまかしたり、隠したりする。そしてついには徹底交戦で反抗するようになる。このような態度は、「あるがまま」とは言えない。現実に起こった出来事や不快な感情を認めないと、自分の中で葛藤や苦しみが生まれてくる。これが不幸の始まりである。花や鳥や動物は、 「かくあるべし」を持たない。言葉を用いて考えることをしないからだ。人間は言葉を駆使して、「かくあるべし」でがんじがらめになっているようだ。 「花のように鳥のように」という歌では、人間も鳥や花や動物のように、自然に服従して生きて行けたらよいのにという気持ちを歌ったものだろう。でも、人間はもはや後戻りはできない。言葉や頭を使って、様々に抽象的に論理的にも考えることができるのが人間だ。そして考え違いをするようになった。頭で考えたことを、事実よりもっと価値のあるものとみなすようになったのだ。森田理論では、頭で考える事は大切ではあるが、それよりも事実、現実、実際の方がもっと大切ですよ。その点を無視した考え方や思想は、全くもって意味をなさないのですよと声を大にして言っているわけです。森田先生の有名な句に、 「かくあるべしという、なお虚偽たり。あるがままにある、すなわち真実なり」というのがある。あるがままの反対語を上げるとすると、 「かくあるべし」である。森田先生は、 「何々でなくてはならぬ」という「べし」、すなわち当為を持ち出すのが、当世の教育の弊害であって、教育が高いほど、ますますこの「べし」で鍛えあげて、融通の利かぬものになってしまうのであると言われている。さて、森田先生はこの「あるがまま」については、重要な点が2つあると言われている。1つは、苦痛はそのまま苦痛になりきると言うことで、頭痛でも不眠でも、苦痛不安のままに、そのまま我慢して働いていさえすれば、いつしかその苦痛も意識から離れて忘れてしまうのである。これを森田理論学習ではあるがままの受動的側面であるという。2つ目は、生の欲望になりきることが大切であるといわれる。エジソンや野口英世などは、一心不乱に研究に没頭してしまうから、苦痛も寝食も忘れてしまうようになる。これを森田理論学習では、あるがままの能動的な側面であるといっていた。課長に頼みたいけれども、恥ずかしい。旅行したいけれども、心悸亢進が恐ろしい。このような場合にも、いたずらに欲望と恐怖をとの二途に迷うことをやめて、恐怖は恐怖のままに受け入れて、生の欲望に向かって突進するときに、 、初めて生滅が尽きて、安楽の境地が得られるのである。このことを一言で言うと、 「苦しいまま素直に、現在の境遇に服従すればよい」ということである。
2017.07.11
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今日は「宿命」と「運命」について考えてみたい。私は宿命と言われると、すぐに「砂の器」という映画の中で演奏された交響曲「宿命」を思い出す。父親がライ病に罹り、村に居ることができず、一人息子を連れて、日本中を放浪する人の話だった。理不尽でやるせない宿命に翻弄されて生きていかざるを得ないこの親子に対して、交響曲「宿命」の旋律が胸を打った。宿命というのは、人間が自由自在に改良することができないものである。地球という惑星に人間として誕生した。日本人として生まれた。戦国時代に生まれた。あるいは過酷な戦争中に青年時代を過ごした。マネー資本主義が世界を席巻し、生存競争の激しい時代に生を受けた。養育能力のない両親のもとで生を受けた。神経質性格、容姿、精神的および肉体的能力、生育環境、境遇などは宿命というべきもので、人それぞれ異なっており後から容易に修正することは不可能である。それなのになにか勘違いして、宿命に歯向かい、修正しようと企てる人は多い。しかし、なかなか思った通りには変更できないので、苦悩や葛藤が生まれる。森田先生は、沸き起こってくる感情に対してもそうですが、宿命に対しては、素直にその事実を受け入れて、むしろそこを土台としてしっかりと認識することを強調しておられる。そして覚悟を決めて生きていく。そのことを「運命を切り開いていく」と言われている。運命は堪え忍ぶには及ばない。耐え忍んでも、忍ばなくても結果は同じである。重要なことは、我々はただ運命を切り開いていくべきであると言われる。その例として、正岡子規の話をされている。正岡子規は、 7年にわたる肺結核と脊椎カリエスによる抑臥に、堪え忍ぶことのやりくりや心構えを求めることをしなかった。病苦に泣くのみであった。極貧の中にあって看護人もなく、寝返りも打つには柱につないだ紐を引っ張ってこれをやるという仕儀であった。子規は痛みと喀血の耐えがたきことを、はからうことなく、ただ慟哭していた。痛みに常に襲われながらも、俳句と随想の創作活動は続けていた。正岡子規の優れた作品はこのような状況の中で生み出されていった。これが人間がどう生きて行けばよいのかという一つの答えである。形外会で佐野さんという方が森田先生に次のように質問した。「私は本年、医大の本科生になりましたが、どうも医科に入ったのは間違っていたのではないかと思います。私の頭が向かないためか、難しくてわからない。いっそやめて郷里に帰り、家の商売でもしたほうが、自分に向いていると思いますが、どうでしょう」これに対して森田先生は次のように答えている。こんな考えが起こるのは、誰でもありがちのことで、そのままでよい。ただ、迷いながら、かじりついていればよい。これは正しい人生観のできない幼稚な思想から起こることで、この形外会でも今まで時々説明したことであります。 「自分の頭に向くか向かないか」とか考えるのが、そもそもの考え違いであって、それは例えば、自分には暑さ寒さが向かないとか、苦労することが不適任であるとかいうようなものである。ともかくもわれわれは、各々その境遇に応じて、従順にこれに適応し、あるいはその運命を切り開いていくということが、第一の着眼点でなくてはならない。(森田正馬全集第5巻 765ページより引用)ここで大切なことは宿命に対しては素直に服従して、生の欲望にのっとり前向きに生き抜いていく覚悟を決めるということだと思う。
2017.07.07
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形外先生言行録に河原宗次郎さんの話がある。川原さんが入院中のことです。森田先生が、 「河原君、その植木鉢をのけなさい」と言われた。私はハイと言って、すぐ大きなシュロ竹の植木鉢を抱えて、少し離れたところで置き換えた。「河原君そこはいけない」と言われたので、その思い植木鉢を持って反対の側に置き換えた。そこでよいと言われるかと思ったら、叱るように、「そこはダメだ」と指摘されてしまった。私は植木鉢をどこに置いてよいかわからず、そのまま立ち往生し、頭の中が混乱してしまった。戸惑う私を放っておいて、森田先生はそのまま奥へ行ってしまわれた。私はこの時、はっきり指導や指示してくださらない先生を恨めしく思った。今にして思えば、シュロ竹は日陰で強く青々とした葉を鑑賞するものであるから、玄関先とか、事務所とか、喫茶室などの片隅などに置くのにふさわしいと分かっている。それを日本式の庭園の真ん中であっちこっちに移動してみても、森田先生の気にいるはずもなかった。でもその時は、親切丁寧に指示や指導してくださらない先生に腹が立ったのである。森田先生は、河原さんがシュロ鉢の置き場所は当然知っているだろうと思っておられたのだろうか。でも河原さんは知らなかった。そうした場合、普通の人は親切丁寧に設置場所を説明するのではないだろうか。森田先生はそうはされなかった。すぐに奥のほうへ行ってしまわれた。これは河原さんに、「そんな事は自分で考えろ」と突き放されたように見える。森田先生は、多分河原さんに教えてしまえばすぐに問題が解消することは重々分かっておられたのでしょう。そのほうが自分もイライラして気をもむことがなくすっきりすることができる。でも、答えをすぐに教えるということは、その人が問題の糸口を発見したり解決するという楽しみを最初から奪ってしまうことだということを考えておられたのではなかろうか。森田理論では、その人が意欲的になったりやる気が高まってくるのは、決して他人から指示や命令などでは起こらない。対象物をよく観察していると、様々な感じが発生して、次第に高まってくる。するとそこに気付きや発見が出てくる。気付きや発見が見つかると、人間は行動や活動をしたくなってうずうずしてくる。一般的に建設的で生産的な行動はこのようにして生まれてくる。ここで重要なことは、自主的な行動には、その人に「気付きや発見が生まれる」ということである。問題を抱えていたり、壁にぶち当たっているときに、すぐに解決策や答えを教えるという事は、その人が自ら乗り越えるという本来のプロセスを軽視していることである。問題を乗り越えていくという楽しみを奪ってしまう。さらに、やればできるという自信をつけたり、さらに大きな目標にチャレンジするという芽をことごとく摘み取ってしまうことになる。森田理論学習に参加していると、学習を始めたばかりの人にいろいろとアドバイスをしたくなることがある。しかしこれは厳に慎まなければならない。初心者は学習の中で森田のエッセンスを学び、それを日常生活の中に応用してみる。それでもなかなかうまくいかなくて、出口が見えなくなって、藁をも掴むような気持ちでアドバイスを求めてくる。その時にするアドバイスは有効である。重要な事は、なんでもかんでも「森田理論ではこうなっています」と最初からアドバイスをするのではなく、相手の変化や成長をじっと待つという姿勢である。しんどいことだが相手のためになるのはこの姿勢をとり続けることである。すぐにしょっちゅうアドバイスをする人は、相手が問題を解決したり成長するのを共に喜ぶのではなく、自分の知識や経験を自慢して吹聴しているのかもしれない。つまり自己満足にすぎないということだ。
2017.07.04
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赤道付近では地球の自転速度は時速1,669 kmであるという。地球が太陽の周りを回る公転速度は時速1万400 kmである。太陽系は天の川銀河の中心部から2万6,100光年離れたところに位置している。太陽系は天の川銀河の周りを時速86万4,000 kmのスピードで回っている。それでも太陽系が天の川銀河を1周するのに約2億年かかるそうです。天の川銀河は宇宙空間を時速216万km (秒速6,000 km)のスピードで移動している。天の川銀河の隣にはアンドロメダ星雲があり、お互いの重力によって毎秒279 kmのスピードで接近している。今から200万年後には、この2つの銀河は完全に合体してしまうという。これを基にして計算すると、我々は1時間当たり5,184万kmほど移動している。1年では189億km移動していることになる。このことから何がわかるのか。少なくとも次の2つのことが言える。宇宙の現象を見ると、絶えず猛スピードで変化流動しているということだ。地球が太陽の周りを回って1年たつとまた元に戻るといっても、実際には1年前の場所に戻っているわけではない。今まで来たことのないような場所に到達していることになる。次に宇宙は自由気ままに動き回っている訳ではない。太陽は巨大な引力を持っているが、我々の住んでいる地球を始めとする多くの惑星が、太陽に飲み込まれないだけの遠心力を持っている。引力と遠心力が釣り合ったときに初めてその存在が許されているのである。少しでもお互いのバランスが崩れれば、太陽に飲み込まれてしまうか、太陽系の外に飛び出してしまう。そうなれば私達人間を始めとする生物がこの地球上で生存できる事は出来ない。これは物事を見るときに片方だけを固定的に見ては間違いが発生するということである。物事は流動変化を前提とし、自分と他人との相互関係のバランスをいかに維持していくのかという視点が欠かせないということである。この宇宙の現象から我々の精神生活も離れる事は出来ない。私たちも不安、恐怖、不快感などで一時的に苦しんだりとらわれたたりすることがしょっちゅうある。しかし、いつまでもそれらに関わりあうことはできない。1つのことにとらわれて留まっているということは、宇宙で言えば、存在そのものが許されないということになる。不安や恐怖などは、対処できるものはすぐに手をつける。考えてもどうしようもない事は、苦しいけれどもそれらを抱えたまま次の行動に移ることが基本になる。ぐるぐる回るコマは廻っている時が安定している。前に進んでいる自転車は動いているからこそ安定している。動きを止めた途端にすぐに倒れてしまう。われわれの精神生活もこの法則から逃れることはできないのである。次に、人間は1人で生きていくことはできない。人との関わり合いの中で初めて生き長らえることができる。相互関係の中で利害が対立することは日常茶飯事である。自分の欲望を満たすために他人を支配したり従属してしまうことは、宇宙の法則から見ると、人間関係のバランスを崩してしまうことである。その方向では一時的に上手くいく事はあっても、長期にわたって成功することはない。なぜなら自然はバランスが崩れると必ずそのバランスを取り戻そうとするからである。マグマの移動により、プレートの歪みが溜まると必ずその歪みを解放する力が加わるのと同じことである。他人と意見や利害が対立するときは、話し合いや交渉が必要になる。お互いが支配したり支配されたりする関係になると、後々まで遺恨を残してしまう。主張するところは主張し、譲るところは譲るという人間関係を保ち続けるという強い意志が必要となる。森田理論は人間はその自然の一部であるという。自然の動きに合わせて一緒になって変化し続けていく生き方を目指している。時として自然に反発して傲慢になっても、最後には反省して謙虚になって自然を敬う態度に立ち返ることが重要である。
2017.07.03
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岡山県真庭市は、県の北部に位置し、岡山県内でも屈指の広さを持つ。しかし、人口は5万人に過ぎず、その面積の8割を山林が占める。典型的な過疎の地域である。市内には大小合わせて30ほどの製材業者がいる。この10数年来の出口の見えない住宅着工の低迷に喘ぎながら、厳しい経営を続けている。それほど厳しい製材業界にあって、 「発想を180度転換すれば、斜陽産業も世界の最先端に生まれ変わる」と息巻く人がいる。中島浩一郎さんである。中島さんは従業員を200名ほど抱える製材会社の代表取締役社長だ。この会社では「木質バイオマス発電」を行っている。製材所では樹皮や木片、カンナクズといった木のクズがたくさん出る。その量は実に年間4万トンであると言う。今まではこれを産業廃棄物として産廃業者に処理してもらっていた。その費用は実に年間2億4,000万円かかっていた。現在は木のクズを利用した発電を行っているので、処理費用はゼロである。さらに、自分の工場で使用する電気のほぼ100%をバイオマス発電でまかなっている。その金額は年間1億円であるという。また、余った電力を電力会社に売っている。販売する電力が年間5,000万円の収入になる。そのための設備投資が10億円かかったが、すでに完済しているという。製材工場から出る木のクズは発電事業だけでは使い切れない。そこで思いついた使い道が、それらを2センチほどのペレットにして燃料として販売することだった。このペレットを1キロ20円ちょっとで販売している。顧客は全国に広がり、 1部は韓国に輸出されている。特に、お膝元の真庭市内では、一般家庭の暖房や農業用ハウスのボイラー燃料として急速な広がりを見せている。これを行政が「バイオマス政策課」を作って強力に後押ししている。ペレット専用のボイラーやストーブを農家や家庭が買うとき、補助金を出しているのである。市の調査によると、真庭市で使用するエネルギーのうち、実に11%をこのペレットでまかなっているという。 11%と聞くとそれほど大きくないと感じるかもしれないが、日本全体における太陽光や風力も含めた自然エネルギーの割合はわずか1%である。それと比べると驚くべき数字だ。しかもその割合は年々増え続けている。(里山資本主義 藻谷浩介 NHK広島取材班 角川書店 28ページより引用)本来ゴミとして捨てられるものの利用価値を見つけて、最後まで活かしていくという考え方は森田理論に通じる。「物の性を尽くす」という考え方だ。森田先生のエピソードに古下駄の話がある。ある入院性が鼻緒の切れた古い下駄をゴミ溜めに捨てた。それを見ていた森田先生は、それはまだ燃料としての使い道がある。そのものの持っている利用価値を最後まで活かしていくという考え方が大変重要であると説明された。1960年代までは、家で使う燃料は全部山から調達していた。裏山から薪を切り出し、ご飯を炊いたり風呂を沸かしていた。炭焼き小屋があって木炭も作っていた。そのため、山はとても手入れされて綺麗であった。今は山は荒れ放題である。足を踏み入れることは大変危険である。蛇やスズメバチなどの危険生物がいる。イノシシ、鹿、熊などが増えてわがもの顔で動き回っている。そこで私のふるさとの山はヒノキの木を植えることになった。これはかって受けてきた山の恵みを放棄することだ。今や農家の冷暖房、風呂、調理のエネルギー源は、完全に「電気、石油、ガス」にとって変わった。身近にある自然の燃料源は見向きもされず放置されるようになった。「石油やガス」は取り扱いが煩わしいということがない。手を汚すことがなく、都会と何ら変わりがない。しかし、その方向は農家が貨幣経済に完全に呑み込まれる事を意味していた。その方向は、お金に振り回される生活を受け入れざるを得なくなった。それと並行して農家の人たちが元気をなくし、生きがいを失ってきたということが1番の問題である。今や農家でも自分たちが食べる物を自分たちで作るということをしなくなった。自給自足の生活よりは、お金を払って魚や肉、野菜までも買って生活するという仕組みが完全に定着した。農家にはそれ以外にも高額な農機具、自家用車や軽トラックなどが必需品となっている。それなりの費用を賄うために、単一作物の大量生産や労働の切り売りによる現金収入の増大が不可欠となった。そうした生活スタイルは、労働の喜びをなくし、地域の人間関係を希薄にしてきた。田舎暮らしは刺激がなく、楽しいことがなく、若者は村から都会に移り住み、お年寄りだけになってしまった。空き家や耕作放棄地が増大し、過疎や限界集落がどんどん拡がっている。これらの問題を解消するには、田舎の持っているものの潜在価値見つけ出して、とことん活用していくことだと思う。そう考えれば、田舎には田畑がある。山がある。竹がある。山菜が生えている。カキやクリなどの果実がなっている。四季折々の花が咲き乱れている。魚が住んでいる池や川がある。山にはイノシシなどがいっぱい住んでいる。野菜つくりや米作り等に精通したお年寄りがたくさん住んでいる。生活の知恵を数多く持った貴重な財産である。また耕作放棄地や空き家はタダ同然で使用できる。空き家など住んでくれれば補助金を出すところもある。これらを昔のようにとことん活用するようになれば、田舎暮らしは張り合いも出てきて、むしろ都会よりはストレスのない人間らしい生き方をすることができるようになると思う。そのためには森田でいうところの、自分たちが元々持っていたものに焦点を当てて、とことん活用するというところに考え方を転換する必要がある。
2017.07.01
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広島県庄原市で高齢者や障害者の施設を運営する熊原保さんの話です。熊原さんは、「過疎を逆手にとる会」の活動もされている。多くの人が、「こんな田舎に未来はない」というのを尻目に、人がまばらで空き家や耕作放棄地が増えてきていることをメリットとしてとらえそれを存分に活用して生活を楽しむ提案を数多くされている。空き家を利用して地域のお年寄りが集まるデイサービスやレストランも作られた。これまで、それらの施設で使う食材はすべて市場で買う県外産のものばかりだった。職員たちは、少しでも仕入れ値が安いところ選ぼう、食材費のかさまない献立を考えようと努力はしていた。そうまでしても食材費は年間1億2,000万円ほどかかっていた。この食材費は庄原市から外に出て行くお金であった。ある日デイサービスを利用しにやってきたお婆さんと会話をしていた。そのお婆さんはこういった。「うちの菜園で作っている野菜は、到底食べきれない。いつも腐らせて、もったいないことをしているんです」庄原市ではお年寄りの家ではどこでも沢山の自家用野菜を作っている。ところが、せっかく作っても食べる人はいない。仕方なく腐らせて処分をしていた。熊原さんはその野菜を施設で使うことを思いついた。毎日300人を賄う食材をお年寄りたちの自給野菜から賄うのだ。声をかけてみると、ぜひ、提供したいと言って 100人ほどの応募者があった。今ではワゴン車で野菜を集めてまわっている。これで年間1,200万の食材費が浮くことになった。約1割のお金が庄原市の外へ出ていかなくて、地域の中で循環を始めたのである。買い取った野菜は、地域の中のレストランやデイサービスで使えるニコニコデザインの地域通貨で支払われる。これはお年寄りたちがお金を受け取らないために考えられたことだ。この地域通貨を使ってデイサービスが利用できる。また、レストランで使うことができる。今までお年寄りたちは、畑仕事に出たついでに、あちこちあてもなく散歩をしていたという。道で誰かに出会わないか、立ち話でもできないか、そのための散歩だったという。そうして話すことがなければ1日ほとんど誰とも話さない。寂しくて仕方がなかったのだ。地域通貨があることで、それを活用するためにデイサービスやレストランに出かける機会が増えたという。また、今まで食べきれなくて腐らせていた野菜を、喜んで引き取ってくれる人が出来てお年寄りたちも張り合いが出てきた。これを森田理論で考えてみると、 「物の性を尽く」すということになる。安易に県外で作られた野菜に依存することなく、自分たちの地元で作られた野菜を見直して余すことなく有効活用する。そうすれば庄原市から外へ出て行くお金が少なくなり、庄原市の中で循環していく。これは、資本主義社会という経済の循環から見ると、停滞しているようにも思えるが、森田理論から見てとても魅力的な試みのように思える。これにより、お年寄りたちに野菜作りに張り合いが出てきた。たとえお金にならなくても自分の作った野菜を捨てることがなくなり、よろこんで利用してくれる人がいることが嬉しいのである。また、野菜作りを通じて、それを収集する人とのつながりも生まれてきた。さらに地域通貨を使って地域のつながりも強くなってきた。一石二鳥どころか、一石三鳥、四鳥にもなったのだ。現在、田舎では、若者が少なくなり、空き家も目立つようになった。また体の自由がきかない老人が多くなり、地域の共同作業も支障が出るようになった。しだいにどんどん田舎がさびれてゆき、地域全体が暗い雲に覆われたような暗い気持ちになってくる。熊原さんは、空き家があると言うのはタダで使える家がたくさんあるということ。耕作放棄地がたくさんあるということは、それをタダで存分に活用できるという風にプラス思考で考えておられる。田舎暮らしでは、身近にすぐに行けるような大型ショッピングセンターや娯楽施設があるわけではない。毎日の生活に刺激がなく面白くないと嘆く人が多い。お金を使うことばかり考えているのだ。そんなことを嘆くよりも、田舎にあって都会にないものを探して、田舎にあるものの価値を高めて、徹底的に活かしていく方向に発想の転換を図る必要がある。そうすれば、地域の人のつながりを取り戻すことができ、田舎は宝の山の宝庫だということに気がつくようになるのだ。田舎を元気にするのも、森田理論の考え方が大いに役に立つ。(里山資本主義 藻谷浩介 NHK広島取材班 角川書店 207頁より引用 )
2017.06.29
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宮大工の棟梁の西岡常一さんの話の中から森田理論を考えてみたい。・正しいということは1つしかない。正しいという字を見ると1つに止まると書く。頭脳と知識と思想も含めて核心を、誰が何と言おうと、これ以外にまさる論理はないんだというものをちゃんと押さえてから発言しなさい。「あれもいい」 「これもいい」と言うような中途半端なことではなく、これだという信念のようなものを作り上げて生活していくことが大切だ。・職人と言うのは、頭と体を同時に動かさないといけない。頭で考えていることが同時にそのまま手に出てこないといけない。お前は(長男の太郎さんのこと)頭で考えているけれども、手がなかなか動かない。それではアカンのや。それでは仕事の出来栄えに勢と力が出ない。頭と手を同時に動かさないといけない。いくらよい作戦を立てても、自分が仕掛ける前に相手にたかれたら負けてしまう。拙速を尊ぶという言葉があるが、何事も早くやらなければならない。 (宮大工棟梁・西岡常一 「 口伝」の重み 日本経済新聞社 230頁より引用)まず1点目。森田理論はどんな時代でも、何処の国に住んでいようが、未来永劫普遍的に通用する素晴らしい考え方であると思う。それは地球上に生まれた1つの生物として、自然と共存共栄し、いかに人生を全うするべきなのかという根源的な視点から展開されている理論だからである。生の欲望の発揮、事実唯真、自分たちの欲望の追求よりは調和やバランスを意識した生き方などの提唱は、どんな時代にも受け入れられる考え方である。利潤追求や効率や合理化を追求する資本主義社会の問題点も、森田理論をベースにして、改善を図るべき時代に差し掛かっている。そういう意味では、森田理論は真理と言っても良い。森田理論は、すべての人が必須科目として学習していく必要がある時代に差し掛かっている。二番目に指摘されていることであるが、神経質性格の持ち主は、どちらかと言うと理知的で観念的である。目の前のやるべきことも、頭の中で納得しない限り、なかなか手を出すことができない。本来は熟慮に熟慮を重ねたことは、思い切って行動実践に踏み込むことが大切である。神経質者の場合は、この2つのバランスが大きく崩れているのだと思う。サーカスで綱渡りの芸があるが、長い物干し竿のようなものを持ち、右に大きく傾けば棒を左に大きく下げている。そしてバランスのズレを修正している。これをイメージしながら生活することが大切だ。これを神経質者の場合で言えば、頭の中でいろいろと試行錯誤している場合が大半である。つまり抑制力が強く働いて、行動・実践が伴っていない。そうした場合、どのようにしてバランスの崩れを修正していくかということになると、頭の中でいろいろと試行錯誤することはこの際無視するのである。そして意識を100%近く行動・実践のほうに振り向けるのである。身体を動かすことに力を入れる。そのように意識することで、次第に観念と行動のバランスが取れてくるものと思われる。多少のバランスの崩れの場合は、そこまでする必要はないかもしれないが、我々の場合は極端にバランスが崩れているので、大胆な対処法を取る必要があるのである。「生の欲望の発揮」とともに、調和、バランスのとれた生き方はとても大事である。
2017.06.27
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リンゴ農家の木村秋則さんは9年かかって、無農薬・無肥料のリンゴ栽培に成功した。木村さんは行っていることは次のようなことである。・リンゴの根を痛める原因となる農業機械は一切畑には入れない。重い農業機械が土を踏み固め、根の生育を阻害するからである。一般的なリンゴの木の根が6メートル位と言われているが、木村さんのリンゴの木の根は20メートルぐらい伸びているという。・畑に雑草を生やして、土を自然の状態に近づける。一般的なリンゴ栽培では、雑草は綺麗に刈り取る。雑草を生やしていると、雑草にリンゴになるための養分を奪われてリンゴの木が弱ってしまうと思われている。しかし、夏の暑さで地表面の温度が極端に上がり、リンゴの根が悲鳴を上げる。弊害のほうが実際には多い。しかも10センチ以上の地下は急激に温度が下がっている。雑草を生やしておくと地表面の温度は極端に上がることはない。また、雑草がリンゴ畑を掘り返して地を団粒構造にしてくれる。それが微生物の繁殖を高めて、水や酸素を地中深くまで届けてくれる。・土壌に窒素が不足していれば、大豆を撒く。大豆には根粒菌が住みつき、肥沃な土地に変えてくれる。何年か大豆を作っていると、根粒菌の量が減ってくる。そうなるとリンゴの木は元気になり、毎年大豆を植えなくて済むようになる。・秋には1回だけ草刈りをする。そうすることでリンゴの木に秋が来たことを教えるのだ。そうしないとリンゴの木は赤く色づかないという。・病気の発生の兆候を見極めて、その時には酢を散布する。・害虫が増え始めたら、発酵リンゴの汁を入れたバケツを木にぶら下げる。害虫の駆除はこれだけである。・葉脈を見ながら、リンゴの木を剪定する。この剪定作業はとても大事であると言われている。そうしてできたリンゴは、外見はごく普通のリンゴだ。それほど大きい訳ではない。形は少しばかり歪んでいるし、小さな傷もある。少なくとも外見は、デパートの地下食品売り場に並ぶような一級品ではない。しかし、そのリンゴは信じられない位の味のするおいしいリンゴだという。これは自然の中でリンゴの木がその持てる力を存分に発揮して実をつけた結果ではなかろうか。私も以前弘前のリンゴ農家を回っていたとき、蜜の入ったリンゴというものを初めていただいた。そのリンゴはこの世の食べ物とは思えないほど美味かった。木村さんのリンゴは今や引っ張りだことなっているが、言葉では言い表せないほどの味がするのだと思う。これは私が平飼いのニワトリの卵を食べた時にも感じたことであった。黄身回りに白身がまとわりついて一段と盛り上がっているのである。ゲージの中に身動きできないように監禁されて、エサと水をふんだんに与えられ、卵を生む機械として取り扱われているニワトリと、太陽の光をふんだんに浴びて動き回り、そこらじゅうの土を掘り返しながら有精卵を生み落としているニワトリの違いではないのか。私たちは森田理論学習の中で、「物の性を尽くす」を学んでいるが、私たちが自らの命の再生産をしている食べ物について、本当に、米や野菜や動物たちの性を尽くしているのだろうか、大いに疑問である。(奇跡のリンゴ 石川拓治 幻冬舎参照)
2017.06.23
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森田先生は空に漂っている風船は、風の吹くまま気の向くままに移動しているので、決して破裂することはない。ところが、これがあるところに固定されてしまうと急に風が吹いたりして破裂してしまうことがあると言われている。また海ではイソギンチャクはある場所に固定して近づいてくるエサを取って食べている。これに対してクラゲは波のおもむくままに漂っている。クラゲのように周囲の状況に合わせて、生きていく方が良いと言われている。相撲や柔道なども相手が押したら自分は引く。相手が引いたら自分が押していく。つまり、相手の動きに合わせて動いていると、そのうち相手の方が根負けして勝つことができると言われている。また大波の時船酔いをしないコツは、船が波によって持ち上げられる時は自分の体も持ち上げる。船が波によって沈み込む時は自分の体も沈み込ませる。意識を船の動きに合わせて調和させていけば船酔いになることはないと言われている。ジャイアント馬場さんは60歳まで現役のプロレスラーとして活躍されていた。ジャイアント馬場さんは60歳になったときは、自分には力なんてほとんどないですよと言われていた。相手が力任せに自分を倒しにかかると、その力を利用して抑え込むことぐらいしかできないと言われていた。これらの話は、「かくあるべし」をもとにして、自分の意思や意見を前面に出して行動するのではなく、周囲の状況や変化をよく観察して、臨機応変に周囲に調和していくいくことが大切であるといわれていると思う。しかしここで1つ疑問がある。これでは、自分の意志を抑圧して、他人に無条件に追随することではないのか。自分の抱えた問題、夢や目標、課題などに向かって誠心誠意努力するということには、関心を払わなくてもよいのか。ただ周囲に合わせているだけでもよいのか。これでは自分のこうしたいという意志や意欲は微塵も感じられない。自分のアイデンティティの発揮はどうなっているのか。ただ、他人に追随して、優柔不断で周囲に合わせているだけではないのかという疑問である。私はこれに対して次のように考える。森田先生が言いたいのは、自分の頭の中で考えた観念によって、自分の行動を決定してしまうという考え方を戒めるためのたとえ話であると思う。 森田先生は、「かくあるべし」から出発して、事実、現実、現状を否定したり批判することを最も警戒されていたのだと思う。それよりは、自分の周囲の状況、自分の置かれた境遇、自分の持って生まれた性格等をよく自覚し、そこを土台にして物事を考えていくようにしなさい、と言われているのだと思う。現実や現状を土台にしていけば、当然周囲のの変化に臨機応変に対応していかざるを得なくなる。それが人間本来の正しい生き方であると言いたいのだと思う。現実や現状を土台にして生活している人は、事実として、そこから目線を上にあげて、日々行動・実践されていると思う。下を見下ろしているのではなく、目線を上にあげて行動・実践しているということが肝心である。ところが「かくあるべし」を持っている人は、現実や現状を受け入れることができない。上から下目線で現実や現状を否定したり批判している。頭の中では常に理想的な自分や他人の姿があり、現実や現状の問題だらけの自分や他人は決して容認することはできない。こういう生き方は、夢や目標に向かって一歩一歩努力していくと言うよりは、そのエネルギーを自己否定や他人否定に向けられてしまうのである。つまり、この問題は自分の生き方として、どんなに不満足な事実、現実、現状であっても、そこを土台にして生きていく覚悟を決めなくてはならないという事を言われているのだと思う。「かくあるべし」で自分や他人を追い詰めるのではなく、事実を直視して、周囲の状況や変化に合わせることを優先して生きていくことが大切であると言いたいのだろう。
2017.06.15
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京セラの創業者の稲盛和夫氏は、理念に反することをしてはいけないと言われている。理念と言うものは、 「私はこういう経営をしていきたい」 「会社経営は、こうあるべきだ」と、考え、行動するもとになるものです。それを守って実践してこそ理念なわけです。経営者の人生観といってもいいでしょう。それを競争が激しいからといって、 「守っていては、やっていけない」と理念を曲げたとしたら、それはもはや理念ではありません。理念を曲げるぐらいなら、従業員ごと会社が潰れなければいけませんね。会社が理念を曲げてまで生き延びても意味がないんです。理念という基準がありながら、それほど切羽詰まっていないときに、 「少しこっちにずれてもいいだろう」とやってしまう。そこに自分では悪いことをしている意識はないのだと思います。だから、 「少し理念から逸脱するけれども、このくらいなら許されるだろう」とやるわけです。そんなことが日常的になると、基準がどんどんずれていきます。いちど理念をずらすと、今度はそれが基準になって、また少しぐらいならずれてもいいだろうとなる。そうして、どんどん最初の理念から離れていくのですが、本人は理念を守っていると思っているのですね。(ど真剣に生きる 稲盛和夫 NHK出版より引用)この話を聞いて私の感想を書いてみます。アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、ネットゲーム依存症の人たちは、依存症から抜け出すために、 「もう二度と手を出しません」という固い決意の下で新たな生活を始めます。最初のうちは手が出そうになってもなんとか我慢して耐えています。ところが、その固い決意がふと緩む時があるんですね。仕事などで思い通りにいかない状況や人間関係で問題を抱えた時です。気晴らしで少しならいいだろうと思ってやり始めると、少しだけでは済まなくなるのです。簡単にまた元の木阿弥になってしまうと言われています。考えてみれば恐ろしいことです。それは脳の中の快楽神経にそのときの快感が強く刻み込まれているのです。ですから、依存症で苦しんだ人は、立ち直ろうと思えば、以後一切の誘惑を撥ね退けって、決して手を出さないということが大切なのです。固い信念を持って近づかないことが決め手となります。自分1人の力で耐えられなければ、他人の力を借りてでも手を出さないという固い決意が必要なのです。さて稲盛さんの言われていることを、森田実践に当てはめてみるとどういうことでしょうか。森田先生のところに入院していた人たちは、退院する頃には、自分の症状のことよりは、自分の周囲のことや他人のことに色々とよく気がつくようになります。注意や意識が内向きから外向きに変わっているのです。次第に神経質性格のプラス面が現れてくるようになります。気づきや発見が多くなり、それに基づいて積極的、建設的、創造的な行動が多くなってきます。別人のような人間に生まれ変わるのです。そして周囲の人々を驚かすことになるのです。それを発展させていくと、森田的な生活が定着してくるようになります。森田先生が言われているように、感じを高める、無所住心、なりきる、物の性を尽くす、自然に服従する、生の欲望の発揮などにまい進できるようになります。ところが、これは少し気を抜くとすぐに森田的な実践から離れていくことになります。例えば、森田的な生活をしていると日常茶飯事を大切にし、規則正しい生活をするようになります。少し気を抜くと、毎日の生活が不規則になり、日常茶飯事も丁寧に取り組まなくなります。そういう生活習慣が身についてくると、なかなか元に戻すのは難しくなります。森田理論の理念は頭では分かっていても、実際には行動実践が伴わないということになります。せっかく森田理論で人生の方向性を見出したにもかかわらず、 「少しぐらいなら反森田的なことをしても構わないだろう」と安易な方向に向かい出すと、何のために森田理論を学習したのだろうということになってしまいます。森田先生はそれを食い止めるために、退院した人に1か月に1回ぐらい集まってもらい、形外会という会合を主催されて原点に戻るための話をされていました。稲盛さんの言われるように、いったん森田理論で生きていく方向性を見出したのならば、それを愚直に実践していくという固い決意が大切なのではないでしょうか。理論と行動のバランスがとれていない人は、人生が空回りしてきて、葛藤や苦しみを克服するどころか、反対に深める方向に向かっていくことが想像されます。
2017.06.10
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野菜はそれぞれ際立った個性を持っている。それを無視して、人間の都合で野菜作りをしてはならないのである。まず野菜は生育する時期というものがある。トマト、ナス、ピーマン、キュウリ、スイカ、メロン、カボチャ、トウモロコシなどは夏野菜である。冬に作っても育つことはない。反対に、キャベツ、白菜、大根、玉ねぎ、ほうれん草、いちごなどは冬から春にかけての野菜である。時期を無視して作ろうと思えば、ビニールハウスのようなものが必要になる。それよりは自然の摂理に合わせて野菜作りをした方が、自然の理にかなっているのではなかろうか。次に野菜はそれぞれ性質の似通ったもの同士で区分されている。アブラナ科、アカザ科、セリ科、ユリ科、キク科、ナス科、ウリ科、マメ科、シソ科、イネ科、バラ科、アオイ科、タデ科、ウコギ科などがある。アブラナ科には白菜やキャベツなどがある。ナス科にはナス、トマト、ピーマン、ジャガイモなどがある。それぞれの科に属する野菜たちは性格や気性が比較的よく似ている。同じ科のものを続けて作ると、病気や収量が減るという連作障害に陥る。これは磁石でプラスとプラス、マイナスとマイナスを無理やりくっつけようとするようなものだ。だから野菜は特徴の違ったものうまく組み合わせていくということが常識なのである。次に野菜には吸肥性の強いものと弱いものがある。トマト、ナス、ピーマンなどは肥料をよく食う。反対に、カボチャ、エンドウ、ジャガイモ、サツマイモなどは痩せた土地でもよく育つ。むしろジャガイモなどはその方が良く育つし味のほうも良くなる。多肥栽培の後はイネ科の作物等を栽培すると残った肥料を吸い取ってくれる。そういう野菜を上手に組み合わせて、土の状態を改善することができる。野菜は地中深くに根を伸ばすものと、地上の表面にのみ根を伸ばすものがある。トマト、ナス、ピーマン、大根、ゴボウなどは深く根を伸ばす。反対にキュウリやイチゴなどは地上の表面に手を伸ばす。根の浅い作物ばかりを植えていると、地中深くの土地が固くなり、酸素や水が届かなくなる。トラクターなどで反転する手もあるが、作物を組み合わせることによって容易に問題は解決するのである。トマトの原産地は南米のアンデスの乾燥地帯である。そのトマトを日本で栽培するためには、梅雨の時期ビニールの雨よけが欠かせない。それを怠るとシリグサレ病や炭素病などにかかる。キュウリの原産地はヒマラヤである。そこは湿気があり、温度は一定している。キュウリにとっては日本の猛暑はとても苦手なのである。キュウリにとって育苗の時期はとても温度に敏感である。それらの特徴をわきまえて、育苗時期には付きっ切りで世話をしないとまともな苗にはならない。野菜同士は、人間関係と同じように、よい相性と悪い相性がある。相性を無視して野菜を作り続けると、病気にかかりやすく、肥料や農薬が余計にかかり、しかも収量が少なくなる。相性を考慮して組み合わせることが大切である。例えば、ナス科の野菜の後には、ネギやユリ科の野菜を植える。アブラナ科の野菜の後には、イネ科やマメ科の野菜を植える。つまり輪作が重要なのである。相性を考えて栽培をすれば、省力化につながり、品質の良いものが収穫できる様になるのである。だから単一作物の大量生産は無理があり自然の摂理には合わないのである。自分たちが食べるために多品種少量生産が野菜つくりの基本中の基本となるのだ。野菜作りにあたっては、旬の時期を見誤らない。そして個性豊かな野菜の特徴をつかんで、それぞれの野菜たちが十分にその特徴を発揮できるようにすること。人間の都合によって、同じ野菜を作り続けることなく、違う特徴の野菜をうまく組み合わせていくことが重要だ。そのような心掛けで野菜つくりに取り組んでいくと、野菜たちは人間の要望によく答えてくれる。今、政府が進めている野菜の産地化という政策は、同じ作物を同じ場所で何年にもわたって作り続けるという政策である。この政策がいかに自然の摂理と人間の幸せに背いていることか明らかである。森田理論で言うところの、自然に服従するというのは、野菜作りで言えばこのような事なのである。「医は農に聴け、農は土に聴け」といわれるが、「人間の生き方は、野菜をよく観察して、野菜たちに聴け」ということでもある。
2017.06.06
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森田先生は人間関係は「不即不離」の態度で接するようにするとよいと言われている。相手の喜ぶときには近付き、相手の迷惑のときにはちょっとその場を外す。また一方には、恐ろしいために、離れていても、離れきりにはならないで、ちょっと相手の話し声がするとか、暇な時があるとかいうことを、極めて微妙に見つけて、直ちにその近辺に近づいていくという風に行動する。つまりひっつきすぎるのでもなく、離れるのでもなく、常にその駆け引きが、自由自在で、極めて適切な働きができる。「親しんでなれず、敬して遠ざからず」という風になるのである。犬を連れて散歩するときに、犬は主人の側ばかりにくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはさっさと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、また、どこからともなく帰ってきて、飼い主の足元へ絡みついてくる。これが犬の自然の心で、いわゆる「不即不離」の働きである。すなわち犬は退屈のために主人から離れるが、そうかといって、絶えず主人を見失いはしないかと言うことが気に掛かるから、決して離れてしまう事はない。これは子育てで言うと、過保護でもいけないし、放任でもいけないし、その中間どころが子育てのコツというところだろう。面白い実験がある。初めて注射に連れてこられた赤ん坊とその母親を観察して、赤ん坊が早く泣き止むのは、母親がどういう対応をした場合であるのかを調べた実験だ。すると、最も早く泣き止むのは、赤ん坊を慰める時間が短くても長くてもダメで、ほどよく慰めた後に、気持ちをそらせるように働きかけた時であった。慰めるのを早く止めて、気をまぎらわせようとしても、また逆にいつまでもなぐさめつづけても、赤ん坊はなかなか泣き止まなかったのである。赤ん坊を落ち着かせると言うこと1つをとっても、程よい塩梅が必要だということがわかる。どちらかに偏るということは、大抵のことで、よい結果になるよりも有害な結果になることが多い。子供に過保護で過干渉な親は、子供にとっては侵略的で、支配的になりやすく、子供のペースで主体的な関わりを楽しむのではなく、母親が一方的に関わりを押し付けるという状況が起きる。こうした強制された関係は、共感的な心を育てるというよりも、親は自分を支配して、親の思い通りにコントロールするものだという、本来の相互性とは正反対なものを子供に植え付けてしまう。そうした養育を受けた子供は、自分の要求や苦痛といった感覚を認識したり、それを他人に伝えたり、それによって相互性の中で自分をコントロールする能力が育たず、相手の顔色や反応ばかりに過敏になり、支配-被支配の関係になりやすくなる。次に乳幼児の時期に構ってもらうことがなく、放任状態におかれると、最初は母親を求めて泣き叫ぶ。ところが、いつも構ってもらえないと、そのうち子供は泣きやみ、かまってもらうことを諦めてしまう。そういう子供が大人になると、他人への信頼感が持てなくなり、他者との関わりを持とうとしなくなる。他人が近づいてきても拒否したり、他人の言動を悪意として受け取るようになる。子供が産まれてから1年6カ月の間に、母子密着の期間を過ごすことによって、その後の人間関係の信頼感が形成されるという。ただし、その間、完全な母子密着がよいかというと、必ずしもそうではないようだ。もっとも、うまくいっている母子の場合でも、密着状態の割合は、生後3ヶ月で28% 、生後9カ月で34%だった。気持ちを読み取り損なったり、子供の望んでいることとズレていたり、注意や関心が他にそれていたりということが結構起きているのである。完璧を求めるよりも、ほどほどが大事なのである。むしろズレが起きてしまっても、更にコミュニケーションをとることで、それを埋めることを学ぶことが大切だと言える。(愛着崩壊 岡田尊司 角川選書参照)
2017.05.28
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高良武久先生のお話です。人間は正直であるべきだ。これは大切なことですね。しかし、いつも正直であるべきだ、ということを鵜呑みにして、それを実践したら、変なことになりますよね。なるほど、正直でなければ、人間はいちいちを疑わなくちゃならない、用心ばかりしていては、取引も何もできないですね。人間関係が破壊されますよ。しかし、正直であるということにとらわれて、自分の心に思うこと、そのとおりいうのが正直だというようなことで、人に会ってですね、 「あんた、顔色が良くないですね、ガンでも出来ているんじゃないですか」とか言うようなことを言うのは、これは変ですね。「もう、長いことないんじゃないかね」なんて言ったら、困るんだな、そういう事は。特に医者がそんなこと言ってね、 「あなたはせいぜい、あと1ヶ月ですね」とかなんとか言って、あるがままを正直に言わなくちゃならんと思ったら、それは大変なことになるわけだね。「夕べあなたにいただいたダンゴはまずくてね。ようやく我慢して食べましたよ」なんて言ったら、それは事実であるから、言うのが正直だと、そういう事を言ったら、相手をただそこなうだけですね 。反社会的だね。そういう事は。たとえまずくてもですね、 「結構なものをいただきました。ありがとうございました」と言うのが礼儀だねえ。よく、世の中には、そういう外界の事情に応じないで、一本調子にやるのが、正直な態度だと心得ている人があるんだな。そうゆうのは、まあ世間知らずとか、人を無視するような態度になりますね。(生活の発見誌 1997年1月号より引用)これは森田理論の中の、精神拮抗作用について説明されていると思う。高良先生が言われている自分の正直な気持ちは、自然現象でありどんなことを思ってもいいのだと思う。自分の気に食わない人を殺したいほど憎んでもいい。また、どんなに卑猥で下品なこと思ってもいい。これらは自分の意志の力ではコントロールできない。台風や地震などの自然災害と同じことであり、好むと好まざるとにかかわらず、受け入れていくしかない。しかし、その自分の正直な気持ちをそのまま言動として外に吐き出すことは問題である。もともと人間にはある感じやある感じ欲望が起これば、同時にこれに相当して、必ずこれと反対の心が起こって、我々の行動を生活に適応させるようになっている。森田先生曰く、 「精神の拮抗作用が欠乏するときには、子供や白痴のように欲望が起これば、抑制の心のない衝動行動となり、またこれが麻痺弛緩するときには、酔っ払いや精神病者におけるような軽率、無謀の言動となり、またこの抑制の心が強くなると、抑うつ症のように話すことすることも全くその自由を失うのである。また緊張型分裂病のようにてん、あるいは錯乱興奮して、あるいは混迷になるなどの事は、これを筋肉の間代性または強直性のケイレンに比較することができる。あるいは神経質の種々の苦悩や精神活動の自由を失う事は、欲望と抑制との間における拮抗作用の増進することから起こるものである」 (神経質の本態と療法 白揚社より引用)自分の正直な気持ちと、それを言動として吐き出した場合、相手がどのような気持ちになるかという2つのことが心の中で自然に湧き上がってくるのが大人としての人間である。自分の正直な気持ちばかりが前面に出て、相手の立場に立って考えることができないという事はバランスが崩れているということだ。それはいわばロボットと同じである。人間に備わった精神拮抗作用という素晴らしい仕組みを活かして、時と場合に応じて、自分の正直な気持ちを打ち出してみたり、相手の気持ちを押し図かり、バランスをとりながら臨機応変に生活していけば間違いがない。バランス・調和の考え方を考慮しない森田理論学習はありえないと思う。
2017.05.24
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5月6日のプロ野球、阪神対広島の8回戦は阪神の逆転勝ちで大いに盛り上がった。この試合、広島は5回までに9点を取った。しかし、その後阪神に12点をとられて負けた。広島のピッチャーは、広島の勝ち頭の岡田だった。4回までは、速球も冴え、変化球もキレがあった。ところが、5回に入ると、別人のような投球に変わっていた。次の回、満塁になり、とたんに広島は完投予定だった岡田をあきらめ中田にスイッチした。中田はこれまで首脳陣の信頼を勝ち得ていたが、勢いづいた阪神の勢いを止めることはできなかった。6回に一挙7点をとられてしまった。地の利を得て勢いにのった阪神は、その後も着々と点を積み重ね、逆転勝ちをした。甲子園はお祭り騒ぎとなった。その時の球は記念として博物館に展示されるという。これを見て私の感想である。岡田投手は、広島が9点を取ってくれた時点で勝ちを確信したのだと思う。プロ野球の試合で9点をとりながら、その後逆転負けをしたケースはほとんどないわけだから、そう思うのも無理はない。気持ちの面で戦闘能力がなえていた。緊張の糸が緩んで、弛緩状態に陥ったのだと思う。それでもノラリクラリ投げていれば、よもや負けることはないだろうと信じて疑わなかった。今日勝てば4勝目だ。セリーグ最多勝だ。あとは試合を楽しんで投げていこう。そう思ったのではないだろうか。これは岡田投手のみならず、広島の首脳陣、広島のファンのみんなが思っていたことだろう。しかし6回を終わった時点で、阪神に1点差にまで追い上げられ、これは、とんでもないことになった。再度気を引き締めて、再び緊張感をよみがえらせた戦おう。まだ負けたわけではないのだから。そのように思って、改めて気持ちを奮い立たせて試合を組みたてなおそうとした。ところが、一旦弛緩状態に陥った精神状態を急いで緊張状態に切り替えることはできなかった。阪神は地元のファンが多い甲子園球場ということもあり、ずっと緊張状態を継続していたため、両者の精神状態の差は大きく水を開けられた状態となった。勝利の女神が阪神に味方したと言うのは、考えてみれば当然の結果であった。その後、阪神は勢いに乗り、今やセリーグのトップにまで躍り出た。阪神ファンは今年は優勝間違いなしという人までいる。その原点はこの試合から始まったと言っても過言ではない。私はこの試合を見て、森田理論のことが頭の中にひらめいた。森田先生は、冬寒いときに風邪をひくと言うのは、寒い中野外で活動し、急に暖房の効いた部屋の中に入って、緊張状態が急に弛緩状態に変わった時に起きやすいと言われている。特にコタツの中に潜り込んで、 うたた寝のようなことをするとすぐに風邪をひくと言われている。緊張と弛緩状態の落差に身体がついていけないのである。だから緊張状態から弛緩状態に移り変わる時は、徐々に移行させていく必要があるのだ。スポーツ選手でも激しい運動した後はクールダウンと言って、すぐに運動を休んでしまうのではなく、徐々に運動量を減らしていって、最終的に弛緩状態に切り替えていく。そのほうが病気や障害を防げるのである。毎日の生活は緊張と弛緩状態が波のようにうねっている。それが急に切り替わっているのではなく、山形の曲線をなして徐々に変化しているのである。気が付いてみればいつの間にか切り替わっていたというのが普通である。われわれは、その変化の波にうまく乗って、生活していくということが肝心なのである。決して緊張状態を弛緩状態に乱暴に切り替えてはならないのである。
2017.05.16
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青木薫久先生は、森田理論を発展させてグリーン森田(緑森田)という考えを提唱されている。森田理論を神経症克服のためにだけ活用するのではなく、人類が将来にわたって繁栄するために活用すべきであるという提案である。持続可能な社会を作っていくことを第一の目標にする。日常生活管理を良くすると森田療法では言っていますが、それを発展させて、「環境」を視野に入れて浪費を抑えて簡素な生活をしようということです。森田理論では奉仕と言っていますが、人のために尽くすだけではなく、生きとし生きる者との共存共生を図る、それがグリーン森田理論です。今、生物多様性がだんだんなくなっていています。今日の環境破壊による生物種の絶滅速度は猛スピードで進行しています。多くの生物がいなくなれば、人類の生存も不可能となります。もう一つ、限界を超えているのは、窒素化合物の増加だと言われています。これも限界を超え、地球の空気・大地・水を汚染している。地球の温暖化、砂漠化、酸性雨、オゾン層の破壊、森林破壊、資源の枯渇は猛スピードで進行している。人間が欲望のままに自然をコントロールするやり方は、近い将来必ず行き詰まってくる。森田先生は自然服従と言われていますが、グリーン森田理論になりますと、無為自然になってきます。余計な事はなるべくしない、行動しないことが大事である。暇とお金があれば外国旅行しようとか、そういうエネルギーの浪費は控えるようにするということです。尾瀬の自然を満喫しようと多くの人が訪れると尾瀬の自然も壊れる。できるだけ余計なことをしない方がよいのだ、ということになります。自然に従ってなるべく動かないようにした方がいいということです。グリーン森田では、人間という存在も、結局は大自然の一部でしかないわけですから、大自然の深い流れの中に身をゆだねて、欲望の暴走を抑制しながら生きてゆくことを目指していく。物質生活は簡素になればなるほど、心に余裕が出てくる。「あれも欲しい、これも欲しい」となると忙しくなる。テレビを見ていれば刺激を受けて、「あれ便利だな、俺も欲しい」となると忙しくなるし、地球はますます壊れていく。だから、価値観の変革が必須になります。グリーン森田の原則とは、目先の欲にとらわれて、欲望のままに生活する態度を改める。絶えず人と比較し、競争して勝つことを目的とした生活を改める。自然に闘いを挑み、自然を人間の都合のよいように作り替えていく態度を改める。物事を是非善悪で価値判断する態度を改める。物質的に豊かな生活を無制限に目指していく生活から、心豊かな生活を目指していく方向に切り替える。森田でいう、人の性を尽くし、物の性を尽くし、自然との共存共栄を図るようにする。森田理論は症状克服だけでなく、人間の生き方にかかわる内容を含んでいると思われます。(森田療法のいま 進化する森田療法の理論と臨床 青木薫久 批評社参照)
2017.04.20
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森田先生は人の気質を7種類に分けている。(森田正馬全集第五巻364ページ)それによると、我々神経質のほかに、ヒステリー性、意志薄弱性、発揚性気質、抑鬱性気質、偏執性気質、解離性気質などがある。世の中は、いろいろな気質の人が入り交じって、助けたり助けられたりしながら生活している。さまざまな対立はあるが、異種混合の方が全体としてはうまくいっている。同じ種類ばかりの烏合の衆は種の絶滅を招くことがある。神経質性格者同士の結婚よりは、他の気質の人と結婚する方がバランスがよい。同じ神経質同士は、磁石でいえば、プラスとプラス、マイナスとマイナスを無理矢理ひっつけようとするようなもので反発することが多い。会社などでも積極的で営業力のある人ばかりでは、ザルで水をすくうようなもので決して健全な会社経営はできない。また反対に事務処理能力に長けている人ばかり採用しても、売上が上がらない。つまりバランス・調和を意識しない取り組みはいずれ先細りとなって破綻する。ところで野菜はたくさんの科に分かれている。アブラナ科、アカザ科、セリ科、ユリ科、キク科、ナス科、ウリ科、マメ科、シソ科、イネ科、バラ科、アオイ科、タデ科、ウコギ科などである。それぞれに人間以上に個性豊かな野菜たちが揃っている。野菜たちは個性が強いので同じ野菜を作り続けると連作障害を招く。収穫量が減収して、土壌の微生物のバランスが悪くなる。しかし、個性の強い野菜たちをうまく組み合わせて作付すれば、病気も少なくなり、収量も軽減することはない。むしろバランスが良くなって、土壌環境がよくなり、かえって収穫量は増えてくる。自然の摂理を利用すれば万事うまくいくようになっているのです。しかし現状の日本の野菜作りのやり方は全く違う。日本には嬬恋のキャベツ、信州の白菜、岡山県の蒜山や三浦半島の大根、千葉の落花生、十勝のジャガイモ、高知のナス、宮崎のトマト、鳥取や熊本のスイカ、静岡や夕張のメロンというように産地化されている。規格も厳重に管理されている。これは政府が進めている産地化という政策である。私はこの政策は大いに疑問であると思っている。産地化されると、それ以外の作物は作らない。単一作物の連作となる。すると連作障害が起きてくる。さらに困ったことに次第に収量が低減してくる。その結果、化学肥料を目一杯使い、病害虫防除のために多農薬栽培となっている。なかには土壌消毒をしていったん無菌状態にしているところもある。そのやり方は自然を人間の意のままにコントロールしようとする態度である。自然を人間の都合に合わせてコントロールしようとすると、いつか自然から大きなしっぺ返しを食らうということが分からないのであろうか。そうした野菜作りは野菜にとっても、それを食べている人間にとっても不幸な状態ではないだろうか。そういう意味では、土地を持っている人は、少量多品種で輪作を基本にした自給野菜作りをした方がよいのではないか。そして、食べ切れない野菜を集めて、農地を持たない都会の人に安く分けてあげる仕組みを作った方がよいと思う。これが本当の意味の地産地消の考え方である。有機物の堆肥を使った新鮮な野菜作りは、少農薬ですみ、しかも安全でもある。そうすれば自然循環を基本に据えて、自然と人間の共存できる社会になるのではなかろうか。森田でいう「自然に服従する」ということは、そういう方向に向かうべきであると考える。
2017.04.03
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神経症で苦しんでいるときはマイナス思考、ネガティブ思考に陥っている人が多いと思います。今日はこのことについて、脳との関係で考えてみたいと思います。悲観的な言葉を心の中で何度も繰り返していると、不安や恐怖の対応を司っている「扁桃体」が機能不全に陥ります。さらに客観的な見方に影響力を及ぼしている「前帯状回」が機能しなくなります。その結果、思考が停止して、もはや自分はダメな人間としか思えなくなってくる。それらを打ち消すような客観的で多面的な思考ができなくなるのです。例えば、自分は何をやってもダメだ。何をやっても失敗をする。頑張っても無駄だ。いつも人に馬鹿にされている。いつも人に嫌われている。自分は醜い。自分は何の取り柄もない。自分には能力がない。どうせ自分が必要とされていない。自分には明るい未来はやってこない。消えてしまったほうがいい。などというような考え方を常日頃しているとそうなります。いつでも、きっと、どうせ、などという言葉を日常的に使っている人は注意する必要があります。ネガティブ思考、マイナス思考、自己否定が脳の中で固着してしまっている状態だと思われます。そのようなことを繰り返していると、自己評価が自己嫌悪、自己否定のほうに片寄ってきます。事実を無視し、先入観や決め付けで自分を否定して、それがやがて確信に変わり、信念となってきます。この状態は、自分が自分自身をマインドコントロールしているようなものです。つまり、マイナス思考やネガティブ思考ばかりしていると、脳の中で扁桃体や前帯状回が正常に機能しなくなり、脳が萎縮してくる。その結果、ますますマイナス思考やネガティブ思考は増悪してくる。もはや誤った認識、つまり主観的な自分が優位に立ち、客観的な立場から自分を見ることができなくなっている。悪循環のスパイラルに陥り、容易に脱出できなくなります。このように「俺はダメな人間だ」と思ったときに、客観的な自分が優位に立ち、 「どうダメなのか」 「ダメだと言う確たる証拠はあるのか」と、そのネガティブ思考を否定することができれば、それ以上自分を否定することはなくなります。そのためにどうしたらよいのか。森田理論学習では「精神拮抗作用」のところでこの学習をします。この精神作用は、もともとすべての人間に備わっている機能である。つまり、ある1つの考えが起きると、それを打ち消すような考えが同時に沸き起こってくる。この機能があるおかげで、バランスが取れた行動ができる。また欲望の暴走を防ぐことができる。欲望と不安の調和がとれて生活が破綻することを防いでいる。神経症に陥ると、考えることが無茶で大げさになる。マイナス思考ネガティブ思考一辺倒になる。自己嫌悪や自己否定に陥っている。事実を無視して、ネガティブな先入観や決め付けをしている。森田理論学習の中では、これらの誤った思考パターンは「両面観や多面的な見方」に修正していく必要があるといいます。そのための手法として、認知療法や論理療法があります。これらは、一面的な見方を別な見方を意識してすることで調和のとれた客観的な見方に変えていくことである。実際にはコラム法などを用いて行う。認知の修正はもちろん1人でもできるが、カウンセラーの人等の力を借りて行うことが効果的である。また集談会では、具体的な出来事に対して、自分にどのような考えが沸き起こってきたのかを発表する。そして他の参加者からそれ以外の別の見方・考え方はできないのかどうかを聞いてみる。このようにして、絶えずネガティブに片寄った考え方を「両面観や多面的な見方」に切り替えていく癖をつけるようにするとよいと思われます。
2017.04.01
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2017年2月号の生活の発見誌に面白い記事があった。「事実思考」 「現在思考」 「感覚的思考」の考え方である。「事実思考」は、コップにまだ水が半分も入っていると思うのはポジティブ思考である。コップに水がもう半分しか入っていないと思うのはネガティブ思考です。一方、コップに実際水が半分入っているというのが「事実思考」です。「事実思考」は、 「 ~も」とか「 ~しか」という判断をしません。ただ見た事実を認めるだけです。就職試験を受けたが落ちた場合、 「試験に落ちた」と思うのは事実思考です。「ああ、俺はダメだ」と思うのはネガティブ思考、 「よし、反省点を次の試験に活かそう」と思うのがポジティブ思考です。ポジティブ思考にならなくてはと頭では分かっていてもネガティブな感情が湧いてくるのはどうしようもありません。受け入れやすいのは、事実だから仕方がないと思う事実思考です。森田先生は、 「感情は自然現象で事実であり従うしかない」と言われています。つまり感情に良い悪いはなく、どんな感情も沸き起こるままに認めるしかない。これが事実思考です。さて、思考には「未来思考」 「過去思考」 「現在思考」の3つがあります。人間は無意識のうちにこの3つの思考のタイプを独自のバランスで使用しています。つまり、自分は将来どうなりたいかを模索し、行動の結果を過去の経験に学び、そして計画を練り、行動します。この3つの思考をどのような比率でどのように使っているかは人によって違います森田先生は、 「前を謀らず、後ろを慮らず」 「努力即幸福」 「なりきる」などの言葉で、 「今ここを生きよ」と言われています。思考には、 「感覚的思考」と「概念的思考」があります。感覚的思考とは事象を、自分の五感で感じることです。概念的思考とは事象を頭で思考することです。感覚は人それぞれ違っています。一方、概念は1つしかありません。例えば、今ここに、腕時計が2つあるとします。感覚的思考をする人は、それぞれ、デザインが違う、色が違う、触った感触が違うといいます。概念的思考をする人は、 2つとも、時間を計る機械、時刻を知るのに用いる器具であり、同じだといいます。感覚的思考をする人は、人それぞれの違いを認めることができます。しかし、概念的思考をする人は、正しいのは1つ、それは自分であり、異なった考えをする人を認めることができません。したがって、相手に説教したり、アドバイスをしたくなります。森田先生は、 「人がある出来事に遭遇した時、純な心をもつと、価値観や観念的な判断によるものではない瞬間的な感情が自分の心に湧いてくる。これに従いなさい」と言われております。森田先生が言われる初一念とは、自分の心に瞬間的に湧いた感情・行動であり、初二念とは思考による判断によって生じた感情・行動であると思います。自分の意識は、純な心の場合には出来事になり、認知の場合には思考にあります。(以上、生活の発見誌 2017年2月号 36ページより引用)この3つの考え方は森田理論の大事なポイントを普通とは違う手法で説明されていると思います。すこし難しいかもしれませんが、いづれも森田理論学習の核となる考え方です。これらをまずは、自分の言葉で理解し、 「事実思考」 「現在思考」 「感覚的思考」の生活態度を体得することが大切だと思います。
2017.03.07
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以前、生活の発見会の理事長を務められた斎藤光人先生は次のように述べられている。人間は欠けるところの多い生き物である。どんな人にでも、人格者だと言われるような人も、内面には猥雑なもの・醜いもの・汚いもの・好色なもの・意外と稚拙なもの・狡猾なものなどを仕舞いこんでいる。物には影となる部分があるように、表があれば裏の面があるように、だれでも、人に知られたくない嫌な部分がある。そして、それが時々存在を主張する。困ったことだが、だれでも完全ではありえないし、それこそが人間の人間たるゆえんだとも言える。しかし、どうにもこうにも仕方がない部分なのである。それは原罪とも業とも言ってよく、人間存在そのものと深いところでかかわり合っている。神経質者は完全に欲が強い。完全に欲が強いという事は、一面、要求水準が高いという事であり、決して真の劣等者には起こりえないことである。だが、神経質者においては、これがしばしば幼弱性と結合すると完全欲は正しい機能を果たさなくなる。例えば、人に対して不用意な言葉を口にしてしまった。仕事の上で1つ失敗をする。すると「もう自分はダメだ」という風に自分の全てを否定してしまうのである。私たち神経質者は、内面には猥雑なもの・醜いもの・汚いもの・好色なもの・意外と稚拙なもの・狡猾なものなどを抱えたままにしておくことができない。そういう面を攻撃したり、隠してしまう。そうしないと、人間関係がうまくいかないと思っているようだ。別にとりたててあからさまにする必要はないが、それらを取り繕うとすると、無駄な神経を使うことになり、かえって人間関係はギクシャクしてくる。自分が考えていることと反対になるのだ。私達は皆、人格者ではないし、プラス面もマイナス面も含めて1個の人間であると認めることが大切である。どんなに悪人と言われるような人であっても、その人の考えることのすべて、あるいはやることなすことの全てが悪で塗り固められているということではない。それは先入観が決め付けでその人を見ているからそうなるのである。片面しか見ていないということだ。そのような見方や考え方は自分のみならず、相手も不幸にしていく。メンタルヘルス岡本記念財団の岡本常男さんは、 「人間には10の欠点があれば、10の長所がある」と言われていた。そして出来る限り長所で勝負しなさいと言われていました。私たちは注意や意識が短所に向けられて、長所と短所のバランスが崩れています。バランスを取るためには、自分の長所を活かすことばかり考えていくことが大切です。調和、バランスをとることが一番大切です。スーパーニチイの副社長だった岡本さんは、くそ真面目で融通がきかない。だが、責任感は人一倍強く、あいつに任せておけば間違いないと言われていたそうです。その性格は、外交的で行動力のある人、リーダーシップがあり包容力のある人、ユーモアのある人達とうまく絡み合い、会社の中で存在感を示していたと言われています。自分の長所を評価しないで欠点を修正することにばかり注意を向けている人は、自分の長所にヤスリをかけて削っている様なものだと思われます。その結果、思うように欠点が修正できないばかりか、自分の長所は目立たなくなってくる。それでは元もこうもありません。方向性は間違っているとしか言いようがありません。また、岡本さんは、管理者は部下の長所をみつけ、適材適所に人員を配置して、長所を伸ばし、部下を育てあげることが最大の義務であると言われています。部下の欠点ばかりを責め立て罵倒するのは最も下品で品性に欠ける行為であると言われています。これは夫婦や友人たちとの人間関係にも言えることです。
2017.02.18
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フランスのクロード・ショーシャ博士は次のように言われている。臓器は24時間 、休みなく働いているわけではなく、それぞれに活動している時間帯と休んでいる時間帯がある。消化に関わっている肝臓、膵臓、腎臓、胃は代謝のリズムが大きく異なっている。だから臓器の活動時間にあわせて、最適な食事をすれば、内臓の負担が少なく、細胞の炎症も少なくてすむ。例えば、朝は肝臓が活発になっていく時間帯だ。肝臓は午前11時ごろのピークに向かって高まっていく。だから、朝食ではエネルギーの元になる脂肪と、新しい細胞の材料となるたんぱく質を取るのが良い。卵、魚、鶏肉などが勧められる。朝食を甘い菓子パンとコーヒーで済ませる人もいるかもしれないが、実はこれは最も内臓に負担をかける。朝は膵臓が不活発のために、糖分を分解するインスリンの分泌が十分ではない。そんなところに、吸収の早い糖が入ると、膵臓の負担が大きくなって細胞に炎症が起きる原因となる。昼食は、肝臓の代謝機能が高まっている時期だから、やはりたんぱく質をメインに摂ることが好ましい。3時か4時ごろ間食は、膵臓の代謝が活発になって、インスリンの分泌がピークになる。甘いもの食べてもいい時間帯だ。甘いものを食べても太りにくい。夕食は、肝臓の代謝機能が下がっている時間帯なので、動物性脂肪は控えたい。また、膵臓も不活発になっているため、砂糖や炭水化物、果物を控えることが望ましい。逆に夜、代謝活動が上がってくるのが腎臓だ。日中、肝臓や膵臓の代謝で作られた老廃物を排泄のために処理する時間帯である。水分を多めに取って、うまく処理を進められるようにするのが理に適っている。次に、食べる順序も大切だ。というのは、食べ始めに炭水化物をとると血糖値がドーンとあがる。インスリンが大量に分泌されて血糖値を下げると、今度は食事の間ずっと血糖値が上がりにくくなる。こうした血糖値の激しい上下は、内臓に大きな負担となって細胞の炎症を引き起こす。だから「食事ではまずたんぱく質から」と覚えておくと簡単だ。その点、日本食は理にかなっているといる。日本の会席風の料理なら、まず先づけが出て、刺身、焼き物と続く。油を使った揚げ物がだされるとしたらその後だ。たんぱく質からとることになるので、血糖値は緩やかに上昇する。(「がまん」するから老化する 和田秀樹 PHP新書 116頁より引用)ここで注目すべき事は、内臓の働きにもリズムがあるということです。このような事は考えたこともありませんでした。つまり、内臓のリズムを無視した食生活をしていたのです。例えば、朝から炭水化物を大量に取る。あるいは、甘いものもたくさん食べるなどです。森田先生もリズムの研究をされておられました。我々の人間の生活機能は、心臓の鼓動、呼吸、消化器の活動、筋肉の運動など、みんなリズム運動であると言われています。また、われわれの精神機能もリズムがあります。例えば注意という機能も、知らず知らずの間に、緊張と弛緩とが交代してリズム運動になっている。リズムというのは波があるということだと思います。我々の生活態度としては、そのリズムの波にうまく乗って生活をしていくことが重要になると思います。リズムに反する活動は心や体に変調をもたらすものであると思われます。
2017.01.22
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29年1月号の生活の発見誌に近藤章久先生が次のように語っておられる。我々神経質者は部分にとらわれて全体を見ることをしない。不安感に悩んでいるという人を見ていると、その方の全部が不安ではない。全部不安だったら、私の話は聞いておれないはずだ。またさっき不安であったとしても、今真剣に聞いておられるこの瞬間には、不安ではないはずです。こうしてみると、自分の生きている全時間が、全部不安であるということはないのが現実です。ところが神経質な人は、自分は絶対にいつも不安であってはならない。ちょっとした部分でも、ちょっとした瞬間でも、不安であったら大変だという理想的な自分の状態についての標準で、自分の状態を気にしてみる。そうすれば、当然現実には完全に人間が不安でない状態があるはずがないのですから、わずかの不安にも気づく。そうすると、途端にそのわずかな不安を大変だと過大に感じてそれに圧倒されてしまうのです。これは完全主義、完璧主義の人だと思う。神経質性格の人は「かくあるべし」が強く、観念や理想に振り回される。たとえば車のガソリンが減ってきて気になって仕方がない。いつも満タンでないと気になってイライラしてくるような人だ。車に乗れば当然ガソリンが少なくなってくるのに、メーターが下がってくると気になってしい、その不快感を取り除こうと格闘をしてしまうのだ。やることに対して、60%のホドホドのところで折り合いをつけることができない人だ。そういう人は行動すること自体が苦しくなり、最後には手も足も出なくなる。どうすればよいのか。そういう意味では完璧からズボラ人生に転換することが大切である。そういう人は感情面ではどうしても気になってしまうだろう。目に見えないグレートサムシングが、不安、不快感を取り除くことを専念しなさいと誘惑しているようなものだろう。森田理論学習をした人は、これが神経症に引き込まれる原因になることはよく分かっている。したがって感情と行動は別であるということをしっかりと肝に銘じておく必要があると思う。次に森田では、物を見る場合に一方向に偏ってはならないという。決めつけや先入観で見てしまうと、現実、事実との間にギャップが生じる。それをもとにして行動を決断すると、どんどんと横道にそれてしまう。これはまずいことである。本来両面観、多面的な見方をしないと、物を正しく見たことにはならない。また下から上を見るのと、上から下を見る感じも全然違って見える。見る視点が違うと感じ方も違ってくるのだ。我々神経質者は物事を悲観的にマイナス思考で見る傾向がある。よく観察しないで安易に決めつける。先入観で物を見る。いかにそれが一面的で、無茶で、おおげさで、飛躍しているかには気づいていない。考えたことが事実そのものであると信じて疑わない。それらは大いなる認識の誤りである。認識の誤りは反対の見方考え方を紙に書き出してみる認知療法がある。論理療法も同じ手法である。コラム法等を身につけて偏った一面的な見方を修正していく方法がある。一人でやる方法もあるが、集談会等の体験交流の場等で他の人の協力を得ながら身につけることが有効であると思う。
2017.01.11
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「生活の発見」という機関紙(自助グループ「生活の発見会」の会員登録をすれば送られてくる)がある。神経症の人には大変役に立つ本である。これだけで神経症を克服していく人もいる。神経症の人で苦しんでいる人には是非読んでみることをお勧めしたい。さて今月号に神経症の悩み相談が載っていた。こういう相談があった。嫌いというわけではないが、ある特定の人と二人きりになると、何を話してよいのか混乱して、頭が真っ白になりパニックになる。どうしたらよいでしょうかという相談です。その方はああでもない、こうでもないと話題を探す。でもお天気ぐらいのことしか思い浮かばない。話題が思い浮かばず沈黙するようになる。その時なんともいえない重苦しい気持ちになる。身の置き所のない居心地の悪さ、不快感が襲ってくる。そこでその場を取り繕うとする。あるいはその場から逃げる。最終的にはそういう人を避けるようになる。それではいけないと思うので何か改善策があればアドバイスしてほしいと言われていた。私も体験がある。ここで嫌いではないがある特定の人というのはどういう人だろうか。それをまずはっきりさせよう。職場の同僚、学校の友だち、異性、上司や部下、父親等ではなかろうか。これらの人と二人きりになったとき話が続かずに気まずい気持ちになる。ではどうすればよいのか。私の経験から2つのことを話してみたい。まず、話すことが見つからないというのは、相手のことが見えていない状態だと思うのです。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という話があります。相手が見えてないと疑心暗鬼になります。相手の情報がいろいろと分かっていれば話の糸口は容易に見つかります。相手が今抱えている問題は見えていますか。仕事、家庭、人間関係、家計、趣味など関心を持って観察していますか。神経症に陥ると自分の症状ばかりにとらわれています。頭の中は自分の症状のことばかり。相手のことが見えていないので、話題が見つからないのではないですか。その人がどんなことに悩み、どんなことに苦しんでいるのか。どんな生活をしているのか。どんな目標を持っているのか。どんな欲望を持っているのか。あるいは最近テレビニュースではどんなことが話題になっているか関心を持って見ていますか。事件、政治、経済、スポーツなどなど。外に目を向けていればいくらでも話題は見つかるのではありませんか。新聞を見る。ニュースをみる。相手のことが分からなければ人から情報を得る。外に目を向けずに、自分が相手にどう思われているのか。相手が自分をどう取り扱ったかばかりに注意を向けていると話題は自分の悩みしかなくなります。それを話題にするわけにはゆきません。つまり目の付け所が違うのではないでしょうか。そして気持ちが内向きになり、相手との間に身の置き所のない不安感がある。その不快感を取り去っていつもスッキリとしていたい。不安は自然現象でどうすることもできないのに、できないことをしようとしているのではありませんか。その不安を持ちこたえ、そのエネルギーを相手の観察などに振り替えていく必要があるのではないでしょうか。次にその人といるとバカ話ができない。一緒にいるといつも緊張してしまう。リラックスできない。身構えて固まってしまって、ありのままの自分を出せないという場合があります。無言の圧力を感じて、萎縮して、親しく話をする状態にはないということです。そういう関係は対等な人間関係にはなっていないと思います。たとえばその人が親分で自分は子分か手下のような関係にある。人間関係に上下があるのです。しかも自分がいつも下にいる。いつも相手のいいなりになっている。また相手が自分に対して敵対関係にある。自分の存在を軽く見たり、無視したりしている。そのような人に対してフレンドリーな人間関係を築くことはできません。敵対関係になるか、その人を避けるようになると思います。そういう人とは誰でも心を開いて話はできないと思います。もともとソリが合わない人です。そういう人とは森田理論学習で言う不即不離を応用するとよいと思います。この場合は強いて親しく話しかけなくてもよい。むしろ離れることを選ぶ。でも挨拶だけはきちんとする。愛想笑いをする。仕事上の最低限の会話だけにする。これだけを心掛ける。人間関係というのは、必要な人と、必要なときに、必要なだけ付き合っていくのが基本だと思います。またコップにいっぱいの人間関係よりも、コップに少しだけ飲物が入っているような人間関係をたくさん作っておく。そういう気持ちでいるとある特定の人に振り回されることは少なくなると思います。自分を叱咤激励して無理矢理、親しそうに会話しようとすると、苦しくなります。苦手意識のある人の前でも、堂々として、うまく立ち回れる人間にならなくてはいけない。どんな相手でも、相手の気をひく話ができなければならない。等と考えていると「かくあるべし」で葛藤と苦悩が出てきて対人恐怖症にまで増悪してしまいます。
2016.12.03
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隕石の落下、地震、火山の噴火、台風、暴風雨、雷、竜巻、大雪、大雨、土砂災害などの自然災害が毎年のようにやってきます。人間は耐震構造の建物、頑丈な防波堤、砂防ダムなどを作って備えています。しかしながら、残念なことに自然の脅威の前に人間は無力です。自然の猛威の前になすすべがなくたたずんでいることが圧倒的に多いのです。できる限りの防災施設の備えは必要です。でも100年に一度の災害に備えるような防災設備は難しいのが現状です。ある程度のところで妥協せざるを得ないのが現状です。つまり自然の一部である人間には、自然を意のままにコントロールする力はないのです。そういう災害に対しては、できうる限りの予防をした後は、苦しいことではあるが、受け入れて、服従するしかないのです。というよりも、好むと好まざるにかかわらず人間にはそれしかできないのです。結局、自然の流れ、自然の動きや変化に合わせて、もっと謙虚に向き合うことのほうがより大切なのではないでしょうか。森田理論では感情も自然現象であるといわれています。不安、恐怖、違和感、不快感、怒り、嫌悪感、罪悪感、嫉妬心、恥ずかしさ、悔しさ、悲しさ、嬉しさなどの感情はすべて自然に湧きあがってくるものです。風水害などの自然現象と同じですから同じように取り扱うことが必要なのではないでしょうか。具体的にはどう対応してゆけばよいのか。その前に感情の特徴を簡単に見てみましょう。湧きあがってくる感情は人類の進化の過程で、捨て去られないで残されてきたものです。感情はどんなものであっても大切なものです。それは生命体としての人間が生き延びていくために必要なものであった。たとえば近くに肉食獣が近づいていないかどうか五感をフル活用して感性を高めていると、すぐに危険を察知することができた。危険なことに気づかない動物はすぐに餌食とされて、その種は絶滅してきた。また豊かな感性はより深く自然や芸術、他人の気持ちを察することができて、潤いのある人生づくりに役立っている。次の特徴は、感情にはもともと行動を誘発するエネルギーをもっているということである。感情が発生して、高まってくると、次第にやる気や意欲が出てくる。欲望が出てくる。不安や恐怖等も出てくる。つまり感情の発生は、その次には、そのはけ口を求めてさまよう存在なのである。ここでは感情をどのように吐き出していくのかは大変に重要な問題である。以上を踏まえて感情という自然現象にどう対応してゆけばよいのかを考えてみよう。第一に感情の発生を生活の中に活かすということです。不安は安心のための用心であるといわれます。不安や恐怖を感じたらすみやかに対応することです。台風に備えて家の補強をする。地震の恐怖を感じたら家の耐震化工事をする。津波に備えて高台に避難する。土砂災害の危険があれば砂防ダムを作る。雷被害を防ぐために避雷針を立てておく。でもこの割合は感情の対処方法全体から見ると比較的小さな割合になると思います。多くても二割から三割ぐらいでしょう。これらの不安に対して、考えるだけで行動しないという人が多いのは残念なことです。では残り七割から八割はどのように対処すればよいのか。それは感情の発生に対して謙虚な気持ちになって、受け入れる、服従していくということです。じたばたと安易に楽になる道をとらないということです。はからいや逃避という手段をとらないということです。これが第二の対応方法です。神経症の人はこれらが反対になっている。手を出してはいけないのに、いろいろと手を出してスッキリとしようとする。いい悪いとかの価値評価をしないでそのまま受け取って味わう。苦しい時は台風の時の柳の枝のようにとりみだして味わうことです。松の木のように抵抗してはいけません。一定のところまでは耐えられますが、限界点を超えるともろくも折れてしまいます。台風一過、無残にも倒された松の横で、あの弱弱しいかった柳の木が何事もなかったかのようにたたずんでいます。実に痛快です。それが神経症に陥らない、もっとも安楽な対処方法です。不安や恐怖などは苦しいことではあるが、謙虚になって受け入れて、服従するという態度が必要なのではないだろうか。好むと好まざるにかかわらず人間にはそれしかできないのです。第一と第二の対応方法は全く違います。その区別をはっきりさせることは大変重要です。第一の対応は、生命の安全を確保するため、将来の状況の悪化を防ぐため、真の意味で人のためになることなどは勇気を持って行動することです。一刻の猶予もないのです。第二の腹立ち、怒り、不安、恐怖、不快感、本能的な欲望などに安易に手を出すことは、人に迷惑をかけて、人間関係を悪化させ、将来にさらなる大きな問題を先送りすることになると思われます。2つを区別できる知恵。積極的に勇気を持って対処する行動力。自然を受け入れて服従していく態度。臨機応変な対処が求められます。対応方法を誤らないことが大切です。
2016.12.01
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私の身体は神様からの預かりものではないのか。私は時々そう考えることがあります。一定期間、課題や目標達成のために必要があって借りているものではないか。そう考えると生き方そのものが変わってくると思うのです。そう考えると、借りているものの器量がよくないとか、境遇が悪いとは言っておられません。生まれる前に自分が交渉して納得して借りているものなのですから。それを受け入れて活用して生きていくほかありません。男に生まれるか、女に生まれるか、イケメンや美人に生まれるか否か、障害を抱えて生まれるか否か、裕福な家に生まれるか否か、どんな職業につくか、どんな能力を持って生まれるか、内戦の絶えないところに生まれるかどうか、戦争中に生まれるか平和な時代に生まれるか、日本に生まれるか、アマゾンのジャングルの中で生まれるか。それらはあらかじめ交渉して納得したうえで生まれてきているのではないだろうか。あらかじめ借りている期間も決めているのではないか。人ぞれぞれ違う契約をしてこの世に生まれているとすると、人間はそれを受け入れていくしかありません。それ以上もそれ以下の契約もしていないのですから。一般的に借りているといえば、賃貸住宅、レンターカー、市民菜園などがあります。これらも最初にどんなものがよいのか、自分の希望を出して納得して借りています。納得して借りているものは、不具合が無い限りケチをつける人はあまりいません。私たちがこうして生きているということは、それと似通ったところがあるのではないか。しかし自分の身体や境遇については不平不満を持つ人が多いのが現実です。人と比べて劣っている。生まれた境遇や環境が悪ければすぐにクレームをつけています。元々納得して借りているのだとするとお門違いなことです。さらに借りているものが気にくわないからといって、改造を加えるという人がいます。一旦納得して契約したとすると、それは契約違反にあたります。自己改造に取り組むということは方向性が間違っています。いずれ返さなければならないものは、借りた時の状態で返すのが原則です。また複雑に改造をしていると、元の状態に復元するのに多額の費用がかかります。あるがままの状態を受け入れて、そこを起点にして出発することが大切です。また借りているものは乱暴な使い方をしてはいけないと思います。大切に使わせてもらうことがマナーです。傷つけたり、壊したりすることは論外です。傷んだりするとすぐに修復する。汚れればきれいに洗う。つまりいつも気にかけて、磨きをかけて、ピカピカにして使わせてもらえばよいのです。貸した人があの人に貸してよかったと思うのはどんな時でしょうか。家でいえば傷をつけないで大事に使ってくれた。修復しながら使ってくれたので、経年劣化が抑えられた。レンターカーでいえば無事故できれいに掃除して返してくれた。市民菜園でいえば、貸したときよりも土壌環境がよくなっていた。肥沃な土地に変えてくれた。こうなれば望外の喜びを感じることになります。こうしてみると、自分に貸してくれたことに対して感謝の気持ちを持っている人。借りたものを他と比較してクレームをつけない人。借りたものを大事にして、大切に扱ってくれる人。借りたものに磨きをかけて、貸した時よりも存在価値を高めてくれている人。借りたものを最大限に工夫して存分に活かして使ってくれた人。貸手としてはそういう人には好感を持つのではないか。かえって感動を受けるかもしれない。そしてまた機会があれば、ぜひ貸してあげたいと思うのではないか。反対に貸してあげたものにクレームをつける。乱暴に取り扱い、壊す。傷をつける。貸してあげたものをボロボロにする。資産価値を大幅に減らして戻される。こういう人にはもう二度と貸してあげようと思わなくなる。私が神さまの立場に立てば、もうこの人には人間は任せられない。地球のような惑星に生を授けるとすれば、人間以外のもので認めるしかないということになるのではないか。自分は神様からの預かり物という考え方は、安易に自己否定に陥らず、今現在の自分を最大限に活用する方向に向かうものと心得ている。
2016.11.29
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私の知り合いに生活習慣病の検診は受けたことがないという人がいる。その人の言い分は、肺のレントゲン検査や胃のバリューム検査は放射線を浴びていることだ。こんなことを毎年繰り返していると体に負担がかかり、ガンのリスクが高まる。健康診断を受けて正常範囲と判断された人が、膵臓癌で6カ月後に亡くなった人がいるという。人間死ぬ時節がくると死ぬのが自然だともいわれる。また、その方は体にはいろんな常在菌が住みついていて、体を守ってくれている。だから体をごしごしこする。頭を毎日洗髪することは不要だという。湯船に入り体をさするだけで汚れは落ちる。洗髪は1週間に1回で十分だといわれる。話を聞いていると、健康診断のデメリットはいろいろとあることに気づく。納得できることばかりであった。しかし、健康診断のメリットを全く考慮していないというのが気にかかった。健康診断で自分の体の状態がすべて分かるかといえば、残念ながらNOと言わざるを得ない。でも、血糖値、血圧、尿酸値、コレステロール値、中性脂肪値等は分かる。肝臓、腎臓、肺、胃腸、心臓、血管などの状態は大まかには分かる。完全ではないが大まかに自分の健康状態が分かる。そのメリットについては無視されているのだ。本来はデメリットとメリットを書きだす。比較検討してほどほどの所に落ち着くというのがまともな考え方ではなかろうか。そうなれば必要に応じて定期的に健康診断をすることになるのではなかろうか。60歳を過ぎると不具合箇所がだんだんと増えてくる。経年劣化と言われるものである。それを自分一人で見つけ出すことは難しい。その方は自分のことは自分が一番よく知っているといわれるが、果たしてそうか。目に見えない部分、神経の痛みがない臓器のことまでどうして把握できるというのだろうか。そういう考え方をされていないというのが気にかかった。これを詳しい第3者に調べてもらえば容易に解決する。こんな時は意地を張らずに相手に甘えたほうがよいと思う。考えてみれば、自分の考え方、将来の見通し、主義主張は絶対に正しいと思っている人がいる。「かくあるべし」で何でも押し切ろうとする人である。でも他人から見ると、偏っていて、常識外れに見えることもある。いろんな人の意見を取り入れて吟味していないので、間違いが多い。第三者の目を通して自分のことを理解していくことも必要ではないのか。それは日本人が海外旅行によって、日本の強みや長所、弱点や短所に気がつくようなものである。第三者に客観的に見てもらうことで自分の状態はよく分かる。使用し始めて10年を過ぎた自動車は、経年劣化であちこちに不具合が出てくる。1年に一回は検査をして不具合箇所を探して、修復しながら大切に使用しないと道路上でトラブルを起こすことにもなりかねない。そうなったときは手遅れなのだ。体も同じで、第三者の客観的な視点からの助言を受け入れることは、自分の将来の健康につながる。自分のことは自分で何でも分かっているというのは思いあがりである。できるだけ第三者の意見を取り入れて、多面的に判断することが必要である。ものごとに対して臨機応変に対応することが重要であると思う。
2016.11.28
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今年広島カープで不動の3番打者としてリーグ最強打線を支えた丸選手が、秋季キャンプで打撃スタイルの改造に取り組んでいた。今季は打率2割9分1厘、20本塁打をマークした。立派な成績だ。その打撃スタイルを今後も続けていくのかと思っていた。それだけで今後10年はプロの世界でレギラーを約束されているようなものだ。実は丸選手は昨年大不振に陥った。どうにか打棒を取り戻せないかと、打撃改造を試みたのがつい昨秋のことだ。そこで身につけたのが今年のスタイルだったのだ。グリップの位置を高く、バットを肩に担ぐようなスタイルで右足を高く上げる新スタイルだった。新たな打法を引っ提げて、今シーズンきっちりと成績を残してきたのだった。普通ならこんなによい成績を叩き出したのになぜ変える必要があるのか。誰でも疑問に思う。いま取り組んでいるスタイルは、バットを立て、「ヒッチ」と呼ばれるグリップを下げる動作をなくし、右足はあまり上げない。簡単に言えば、あの苦しんだ昨年の打撃スタイルに限りなく近いのだ。大丈夫なのか。問題はないのか。私はせっかく苦労してものにしてきたのになぜ変えるのかと思っていた。丸選手はこう考えたようだ。「今季は動きが大きいスタイルでやったけど、大きい分だけズレが出た。それが3割を打てなかった原因かもしれない。もう少しシンプルにしようと思う」今年は素人が見ると素晴らしい成績だったのに、それに満足していないのである。本人はきっと打率3割を下回ったのが納得できないのだろうと思う。だからリスクを負ってでも果敢に記録に挑戦してみようというチャレンジ精神が湧いてきたのだろう。そう言えばイチロー選手はオリックス時代「振り子打法」で入団3年目に210本のヒットを打って日本記録を作った。ところが数年後には「振り子打法」を止めてしまった。なぜか。普通に考えると、自分の編み出した素晴らしい打撃スタイルにしがみついてもよさそうな気がする。これについて、専門家の見立てとしては、入団当時は、線が細く、筋力がまだまだ付いておらず、体重移動を大きくしないと強い打球が打てなかったので、振り子打法を選択していたのだという。ああいう打法では、打球は強くなるが、ミートは難しくなります。イチローの天性のミート力があってこその打法です。それに、相手投手も様々な工夫を凝らし、タイミングを外そうとします。それに対応するためには、出来るだけアクションを小さくし、相手投手・投法・球種に対応できる様に、イチロー選手自身も進化しなければなりません。内野安打の多いイチローならば、強い打球を打つ必要が無いと思うかもしれませんが、強い打球を打てるからこそ、守る野手の守備位置が下がり、ヒットゾーンが増えるのです。そういうことを考えて、イチロー選手は過去の栄光を思い切って捨てたのです。そうでないと将来成績が伸びないと踏んだのでしょう。成功体験にこだわりを持っていると、なかなかできることではありません。これは森田理論で言うと、いかに過去に大きな成功体験を持っていようとも、めまぐるしく変化する状況に常に目を光らせ、自らを対応させていくということがいかに大切であるかを物語っていると思う。変化に対応したからといって必ずしも成功するとは限らない。しかし変化に対応していかなければ成功への道は閉ざされてしまう。森田理論は周囲の変化に自らをカメレオンのように素早く対応させていくことを勧めている。それは努力即幸福の世界でもある。
2016.11.24
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行事などへの参加を一旦約束をしておいてドタキャンすることがある。先日友達とこのドタキャンの話題で盛り上がった。その時実際にドタキャンしなければならない場合は確かにあるということで一致した。しかし全部が全部そうとは思えない。友だちとの話では、そういうのは2割から3割程度ではないだろうかという。私もそう思っている。それならどうしてドタキャンするのか。それは一旦約束をしてみたものの、その日が近づいてくると気が重くなるのである。たとえば親しくない人と同じ部屋で寝ることが嫌になる。イビキが気になる。温泉にみんなと一緒に入ることに耐えられない。懇親会で大騒ぎするのがイヤ。その他経費のことなどマイナスのことが次から次へと頭に浮かんでイヤになってしまうのだ。その気持ちがどんどん強くなってくる。そしてついにどんな理由にして断ろうかと思案する。急にぎっくり腰になったとか、急に風邪をひいたとか、入院することになりそうだ、親戚や隣組の人が亡くなったとか、家族の者が急に入院することになったとか。だいたいみんな同じようなことを考えつくものだ。私も以前同様の理由でドタキャンしていた。自分がドタキャンのメールや電話を受けると、「ああそうですか」といったんは答えてみるものの、自分が責任者をしているイベントの場合は腹の中が煮えくりかえるほど腹が立つものである。それは宿泊を伴うイベントやバスなどを手配しての旅行などの場合、予算計画、宿泊のキャンセル、部屋割、食事のキャンセル、参加者名簿の手直し、資料等の準備などいろいろと修正を余儀なくされる。なかには交渉してもうまくいかないことがあるからだ。でも、この心理はよく考えると初二念だと思う。ここに軸足をおいて相手と対話してもよい結果にはならない。仮にここで感情を爆発させてしまえば、今後の人間関係は必ず悪化する。森田理論では、こんな時はいくら腹が煮えくりかえるほど恨んでもよいという。「あの人は以前もドタキャンしたことがある」「あの人は自分勝手で、協力して助けてくれることはない」「今度何か依頼してきた時は、反対にドタキャンしてせいぜい困らせてやろう」「ほんとに腹の立つ奴だ」「もうあいつに声をかけるのは止めてしまおう」等など。腹立ちの感情は抑え込まずによく味わってみることだ。でもその人に暴言を吐いてはいけない。腹の中がどんなに煮えくりかえっていても、役者のように上手に演技をすることだ。できるだけ迫真の演技をしてみることだ。ぎっくり腰になったと言われれば、「それは大変でしたね。安静にして早く治してくださいね。すぐにお見舞いに行けなくてごめんなさいね。キャンセルは気にしないでもいいですよ」本当は気になるのだがそういうことを口にしてはいけない。葬式に出席するという人には、「それはご愁傷さまでしたね。さぞかしお力を落としのことと思います。しっかり供養してあげてくださいね。ご家族の方によろしくお伝えください」そして自分は急いで、計画の見直し、キャンセル等の交渉等に取り組むのである。キャンセル料が発生すればなんとかギリギリのところで抑え込む。そうすれば相手の負担が少なくなって喜ばれる。また、あらかじめ実施の1週間前までに何人かはドタキャンする人がいると思っているとショックが少なくなると思う。トラブルがなく計画通りに事が運ぶことはまれなケースなのだ。ところで、ここでの初一念はなんだろうか。「あなたが参加してくれないのはショックだ」「せっかく会って話ができると楽しみにしていたのに、残念だなあ」森田ではここから出発して、その気持ちを「私」を主語にして相手に伝えることを勧めている。「私はあなたが参加できないと聞いてガクッときました」「私は今回あなたに会えなくて寂しい」「私はあなたに会えなくてとても残念だ」私メッセージは、初一念の素直な自分の感情を伝えていくので、相手にイヤな感情を与えない。ドタキャンのパターンは予測できるので、パターンごとに役者になりきって迫真の演技をあらかじめ考えておくこと。うまく演技できればそれ自体を楽しめるかもしれない。また初一念の感情をよく思い出してみることも必要だ。初一念からの行動を心がけていると不快な感情は速やかに小さくなっていく。
2016.11.08
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私の経験です。私はその当時中間管理職で部下として男性2人と女性の社員が6名いました。ある時、私が知らない間に主力メーカーの営業マンが、私を除く全員を飲食接待していたということがありました。あとからそのことを部下から聞いてとても腹立たしく思いました。普通メーカーの接待と言うのは、その組織の責任者に声をかけることが多いものです。それを差し置いて内緒で部下全員に声をかけて、自分だけが仲間外れにされていることに無性に腹が立ってきたのです。そこでメーカーの営業マンに電話して散々嫌味を言ってしまいました。そういう態度ならお前のところからの仕入れは一旦外させてもらうというようなことを言ったと思います。すると支店長と営業マンが飛んできていろいろと言い訳をしていましたが、それは火に油を注ぐようなもので、私のイライラはどんどん膨れ上がり仕事が手に付かなくなりました。この問題を森田理論の「純な心」で整理してみたいと思います。腹が立って憤懣やるかたないというのは、「純な心」でいうと初二念だと思います。では初一念は何だったのか。「ショックだ。自分には人望がないのか。自分もみんなと一緒に誘ってもらいたかった」です。よりによって自分だけが無視されたことでつらく悲しい気持ちになった。でも私はその悲しいという感情をしみじみと味わうことはしなかった。私は「純な心」について学習していなかったので、初一念の感情を味わうこともなく、無視してしまったのだ。普通「純な心」を学習していない人はほとんどそうなってしまう。それは腹が立ったという初二念の感情が間髪を置かずにすぐに出てきたからである。そちらの方に気をとられてしまうからである。そしてうかつにも、これをもとにして行動を起こしたのである。と言うよりも当然にといった方がよいかもしれない。無意識的に怒りを爆発させて、精神的にスッキリしようとしていたのである。怒りを爆発すると少しは気分がせいせいとした。ところがその後のメーカーとの付き合いはぎくしゃくとして、長らく以前の関係のようにはゆかなかった。益々敬遠されてしまうようになった。そして他の部署の課長と仲よくするようになったので、対人恐怖症の私としては益々分が悪くなった。それをきっかけにして部下との関係も悪くなっていった。「純な心」を学習している今だったら対応を間違えない自信はある程度ある。まず、「ショックだ。自分もみんなと一緒に誘ってもらいたかった」という初一念を大事にする。ここを出発点にすると間違いないのだ。その感情を十分に味わう。そして自分の気持ちを「私メッセージ」として相手に伝える。初一念は積極的に言動に反映させた方がよいのだ。次に湧き起ってくる、無性に腹が立ったという初二念も十分に味わってみる。憤懣やるかたない感情を味わってみるのである。心の中で殺してやりたいほど相手のことを憎んでもよいのだ。この感情も十分に感じることが大切です。でも初二念は味わうだけにする。ここが肝心なところだ。初二念は決して言動には反映してはならない。ここを間違っている人が非常に多い。以前の私もそうだったのだ。その結果人間関係が悪化し孤立していった。仕事がやりづらくなり、生きることがつらくなっていたのだ。初二念からの言動はうまくいったためしがない。さて、森田理論の感情の法則では、どんなに激しい怒りの感情でも、ひと山越えるとしだいにおさまってくるという。永遠に続く怒りというものはない。だからおとなしくじっと持ちこたえていればよいのだ。それなのにその怒りを言動として吐き出すと、一山下るのではなく、まだまだ上り続けるということになる。火に油を注ぐことになるので簡単には収まらなくなる。だから初二念はどんなに激しいものであっても一旦持ちこたえるというのが正解である。さらに森田先生は、持ちこたえるというだけではなく、心を流転させる方法を勧めておられる。つまり目の前のなすべきことに取り組んでいけば、意識がその怒りから離れていく。新しい行動によって新しい感情が生まれてくる。するとその怒りの感情は速やかに終息に向かうと言われている。そういう意味では、ここでとるべき新しい行動は、初一念に基づく「純な心」を使った私メッセージの発信をお勧めしたいのである。まとめて見ると、初一念の感情はともすると見落としてしまう。でも必ず初一念の感情はあるはずなので、見落としても遡って思い出してみることが大切である。次に初一念も初二念の感情も両方ともよく味わってみる。それから、初一念の感情はそのまま相手に言動として吐き出してみる。「純な心」からの言動は相手とけんかにならない。かえって同情されることの方が多い。初二念の感情は絶対に言動に表してはならない。心の中ではどんなに相手のことを恨んでもよい。感情の法則を応用して嵐が過ぎるのを待つという気持ちを持ち続けなければならない。それを促進する方法がある。つらい気持ちを持ちこたえながら目の前のなすべきことに取り組んでいくのである。これらをすぐに習得するのは難しいと思う。うまくいかないと言って嘆くことはない。最初からうまくいくことは難しい。10回のうち2回か3回うまくいけばきっと物にすることができると思う。是非とも身につけてもらいたいものである。
2016.11.05
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私が現役のころ「勝ち組」「負け組」ということがよく言われた。私の勤めていた会社は、バブルのころは株価が1500円以上になり、とても居心地のよい会社であった。1990年代に入りしだいに業績が悪化して、給料のカット、賞与も実質なし、人員整理が始まった。ノルマがきつくなり、人間関係もぎすぎすしていた。株価は100円を切るようになり、いつ倒産してもおかしくない状況となった。つまり世間からはどうしようもない「負け組企業」とみなされていた。株式市場から退室を要請されていたのである。取引銀行からも半ば匙を投げられていた。そんな中で、同業他社で一躍急成長して「勝ち組企業」として脚光を浴びる会社があった。最初は年商がせいぜい30億程度の小さな会社だった。しかしその後、2、3社生き残った同業企業の中心的な会社に成長した。今でも東証1部上場で株価は2000円を超えている。その当時は誰もこんな事態を予想できなかった。あっという間にデーィプインパクトなみの脚力で同業他社を抜き去り、一人勝ちを収めたのだ。年商は1000億をはるかに超えているという。負け組企業は指をくわえて見ているしかなかった。どこが違ったのか。私が思うには、変化を読んで、変化に対応して、自分の会社を変えていったかどうかであると思う。私の会社は、創業は江戸時代、宮内庁御用達という自負心が強く、変革していこうという気持ちはなかった。旧態依然として、過去の栄光に胡坐をかいていた。片や独り勝ち企業は、商材はそれほどでもなかったが、フットワークが良かった。お客様の要望をくみ取り、地道に改善を繰返していったのだ。特にデリバリーは画期的だった。同業他社が全く考えもしなかったことを実施した。日本全国に物流拠点を作り、そこから日本全国1日2回配送を実施した。午前中の注文はその日の5時までに配送をする。午後からの注文はその日の夜のうちに配送場所に持っていく。それも自社便である。包装もあまり丁寧にしなくてもよい。物流経費も少なくて済む。これに対して、私の会社はその日の3時ぐらいまでの注文は、翌日運送会社に委託しての配達である。3時以降は出荷準備の関係でよく翌日以降の配達となる。運送会社の配達は朝一番の仕事に間に合わないことが多かった。まだ商品がつかないというクレームの電話が多かった。サービスの質としては雲泥の差である。また私の会社は商材が多く、在庫切れが日常茶飯事だった。お得意様が見本帳を持って行ってお客様から注文をもらい、いざうちの会社に注文をする。「すみません。現在その商品は在庫切れとなっております。色違いならありますが如何でしょう」等と言われていたのである。このような欠品は日常茶飯事であった。でもだれもそんなことを問題視する人はいなかった。在庫切れは仕方のないことだと思っていたのである。つまり殿様商売をしていたのである。そんな会社を信頼して、注文を出す会社はよほどの変わりものである。ところがその会社はまず在庫切れがない。商材は少なくても見本帳に載せた商品は責任を持って物流拠点に用意していたのである。この戦略は得意先に絶大なる支持を得た。それは結果として誰の目にも明らかになるのに時間はかからなくなった。5年ぐらいで同業他社と肩を並べ、そのまま抜き去って行った。この会社の勝因は、最初は自分の会社は泡沫企業の一つだったが、あきらめや自己否定に目が向くのではなく、未来志向に目が向いていた。お客様の目線でお客様の利益になることを見つけて、計画を立てて実際に動いてきた。つまり変化を先取りしてきたことが生き残るどころか、業界NO1の企業へと押し上げていった。この事例から神経症の私たちが学ぶことがある。自分の症状をやりくりしていても、症状はとれないので、自分自身を窮地に追い込んでいく。そして自己嫌悪で自分自身が嫌になってくる。これはやり方が違うのだと思う。視線を内向きではなく、外向きに変えていく。仕事や家事等の生活面においていく。その時に周囲をよく観察して、その変化に自分を合わせていく。さらに変化を先取りして、仮説を立てて行動してみる。うまくゆかなければ、修正を加えて、また挑戦してみる。そういう生き方を続けてゆけば自他ともに大きく花開くのだということを教えてくれている。
2016.10.28
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昔もらった資料の中に「森田の6原則」という毛筆の書があった。1、 健康な生活をする2、 他のために尽くす3、 事実唯真の立場4、 実践の立場5、 運動観6、 両面観これに当てはめて現在の私の取り組みを振り返ってみた。1、 規則正しい生活をすること。日常茶飯事を丁寧にこなしていくこと。マンションの管理人の仕事をしているので、毎日の生活は規則正しくなっている。土日、祝日以外は同じ時間に同じことをしている。そんな生活の中でささやかな楽しみを見つけられている。日常生活の雑事、雑仕事をこなしていくことに人生の価値を見出している。2、 生活の発見会でできる範囲で世話活動を行っている。このブログで森田の魅力を発信し続けている。また老人ホームの慰問活動を年間30回程度はこなしている。それは今ややりがいになっている。3、 私の心がけているのは、事実をよく観察すること。観察だけにとどめて、いい悪いと価値判断をしないこと。事実は具体的に包み隠さずに話すこと。先入観や決めつけをしないこと。「純な心」や「私メッセージ」の発信を心がける。ここは奥が深いが、ものにすれば「人生の達人」になれると思って取り組んでいる。4、 実践や実行によって、不安や恐怖等の感情は速やかに変化して流れていく体験を積み重ねてきた。対人緊張する場面は数多くあるが、逃げる回数が少なくなり、臨機応変に最低限の人付き合いはできるようになってきた。また馬の合わない人は必ずいる。すべての人に好かれようとは思わなくなった。時と場合に応じて、さまざまな人と付き合ったり離れたりしているのが普通の人間関係だと思うようになった。だから2、3人の親友よりも、薄い人間関係を数多く作ることに力を入れている。5、 以前は変化しないで、同じところにとどまって固まっているのが安定していることだと思っていた。今は周囲の状況や環境に合わせて変化していかないと取り残されてしまうと思うようになった。自分の存在自体が危うくなってしまう。だから将来の変化を予測して、仮に実行してみる。ダメだったら修正して新たな仮説を立てて実行してみる。変化を先取りすることで、自分自身が活性化するし、存在することが許されるのだなと感じるようになってきた。またその変化には波があるということも学んだ。私はいつもその波に逆らわないで、素直に波に身を任せて生きていくことを生活信条にしている。6、 森田はバランス、調和を重んじている。神経症は不安と生の欲望のバランスを回復させることで真の意味で乗り越えることができるのだと思っている。神経症で悩んでいたころは、あまりにもバランスが悪かった。目の前にはヤジロベイをおいている。サーカスの綱渡りを常にイメージしている。
2016.10.18
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森田先生はことさら「純な心」の重要性を説かれています。「純な心」は森田先生の造語で大変難解な言葉です。「形外先生言行録」の片岡武雄さんの話から考えてみましょう。田代さんがウサギの世話をしておられた。ウサギに餌をやりに小屋に入ったとき、突然猛犬が飛び込み、一頭のウサギをくわえて逃げ出し、噛み殺してしまった事件があった。田代さんは、「これはまずい。先生にひどく叱られる。なんとか叱られないようにしたい」と思われた。とっさに「これは入口の作り方が悪いからこんなことになってしまった」と弁解された。森田先生は途端にそこに居合わせた私たちもびっくりするほどのお叱りになった。森田先生は謝りに来た田代さんに次のように説明されている。「君はウサギが噛み殺された瞬間、何を感じたのかね。一瞬、身震いするような、目を覆いたくなるような、そして可哀想なことをしてしまった、という気持ちになったのではないかね。それが「純な心」なんだよ」森田先生は、最初に瞬間的に起こった、「可哀想なことをした」という感情を重視しておられるのです。この感情は最初に起こった感情、直感、初一念とも言います。初一念には、イライラする、腹が立つ、絶望的な気持ちになる、悲しい、つらい、苦しい、怒り、恨み、憎しみ、不安、心配する、落ち込み、欲望、うれしい、楽しい、幸せ、気持ちいい、楽な気分、すがすがしい、さわやか、安心する、ほっとするなど様々あります。森田先生はここから出発して行動しないと、思想の矛盾で苦しむようになるといわれているのです。心地よい行動は積極的に表に出して相手に伝える。特に問題にはならない。ネガティブなマイナス感情は、しばらく持ちこたえて、目の前のことに取り組んでいると速やかに流れていく。安易に口に出さない。行動しない方がよい。さらに肝心なことは、初一念に続いて湧き起ってくる、初二念、初三念に基づいての行動は決してしてはならないということだ。基本的には無視することである。森田先生はここを強調したいのだ。初二念、初三念は心ここにあらずという状態を招く。ウサギの話では噛み殺されたウサギの気持ちを思いやる等という考えは頭から消えてしまっている。その時の意識や注意は自己弁護、自己保身、他者攻撃、他者への責任転嫁に向いている。ここから出発すると、意識や注意が目の前に起こった出来事から離れて、自分の頭の中でいかようにもやりくりするようになる。その結果次から次へと問題が出てきます。初二念、初三念というのは動物にはあり得ません。人間だけに発生するものです。動物は目の前の出来ごとだけに対処して、どうにもならなければ素直に事実を受け入れています。だから心の葛藤はありません。人間は言葉を使って思索します。これが人間の人間たるゆえんです。ところがそちらを優先して、事実、現実、現状を自分の都合のよいようにねじ曲げようとすると、なかなか思うようにはまいりません。大変なことになります。つまり思想の矛盾で苦しむようになります。人間は生まれてこの方、教育、知識、智恵、常識、経験、体験、道徳、規範、「かくあるべし」などが大量に蓄積されています。これらはある程度は役に立っています。しかし、それらを過信して、モノサシとして利用して、現状を否定しているとたちまち神経症の苦しみが出てきます。森田先生はそれらを抑えて、基本的には事実に素直に従っていくのが、本来の人間の生き方ですよと教えてくれているのではないでしょうか。森田理論学習では、あなたは「かくあるべし」に力を入れて現実を変革する道を選んでいくのですか。それとも基本の生活スタイルとして、事実を受け入れて、事実に素直に従う道に転換していく道に踏み出してゆきますか。人生へ立ち向かう態度として、この2つの道の選択を迫られているような気がします。
2016.10.07
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能楽の世阿弥は「風姿花伝」の中で森田に関連することを述べている。今日はこの中から「変化に対応する」ということを取り上げてみたい。「われは昔よりこの良き所を持ちてこそ名も得たれ」私たちは昔からこうしたやり方でやってきて能楽の世界で名声を得たのだ。自然にそう思ってしまう。そして現状に甘んじてしまう。実はそうしたやり方ではもうダメなのに、それに気づくこともなく、同じやり方を踏襲してしまう。この考え方、やり方は「よくよく用心すべし」と世阿弥は言う。これはつらいところである。ついつい過去の実績に頼る。それで現在の生活が安定していれば、それを捨てて新しいことを始めようとは思わない。その方が心を煩わせることがなく、精神的に安定している。現在問題がなければ、何もしなくてもいいのではないか。確かに現状を否定したら、自分の人生を否定するようにも考えられる。個人、自助組織、会社組織、国家の別なくこうしたことは起こる。今までの成功体験が、いつまでも右肩上がりで成長を続けるに違いないという願望なのだ。そこにあるのは現状維持、問題意識のなさ、問題意識があっても、新しいことに挑戦することをためらう心理である。これは変化することを拒み、今の状態に安住しようとする反自然の態度ではないのか。世阿弥はあくまでも自分と対象の「関係性」を考えている。対象は一時も停滞することがなく流動変化のうちにある。人間はその変化と常に関わり続ける宿命を持っているのではないか。能楽もそうである。能楽は娯楽であるので変化を無視すると命取りになる。常に変化を予測し、仮説を立てて変化をリードしていくしか生き残る道はない。現状に甘んじない精神が、停滞を打ち破り、未来を切り開いていく。自分自身を模倣し、自分自身をいつもコピーしつづけるのは、安心である。しかし、そこには停滞があり、衰退が待ち受けている。個人、自助組織、会社組織、国家であれ、その生命を維持していくためには、過去の成功体験にどっぷりとつかることではなく、状況の変化に合わせて、自分自身が変化していくことである。(処世術は世阿弥に学べ 土屋恵一郎 岩波書店より引用)森田先生も変化の流れに素直にのっていくことを盛んに言われている。変化といえばファイナンシャルプランナーの資格を持っているせいか、どうしたら自分の資産を大きく増やせるかという相談を受ける。普通株式投資等で短期に値上がりを期待できる銘柄を聞かれることが多い。これは分からないと答えている。上げ下げを繰返している短期相場を当てるという人がいれば詐欺師だと思う。でも確実に資産を増やす方法はありますと答えている。株式にはチャートがあります。過去の株価の変化をグラフにしたものです。これには短期のグラフとして日足、中期のグラフとして週足、長期のグラフとして月足があります。私が注目しているのは月足です。それを10年単位ぐらいで見てゆきます。すると波があります。しかもこれは短期の波ではありません。長期の波はある程度のトレンドがあります。2009年に日経平均が7056円をつけたことがありました。つい7年前のことです。このままずるずると行くという人もいましたが実際には反転しました。だいたい波は下がりきれば、間違いなく上がります。それが自然の流れです。我々はその波に乗りさえすればよいのです。現在は1万6000円台です。ということは2009年が最悪でそこから反転して右肩上がりの波を作ってきたのです。私は月足を見て最安値の時に信頼できる会社の株を仕込むことだと思います。これが最も高い確率で成功する唯一の道です。それを長期に持つスタンスを守ること。最低3年は寝かせておくことです。その間配当収入はあります。この長期の波に乗ることです。肝心なことは月足の波が底に来る時までじっと待つことです。底というのは過去の波を見て判断することです。値上がりしているからと欲をかいて、波が上がっている時、上がりきった時は投資してはいけません。静観することです。そういう人は欲に目がくらんでいるとしか思えない。でもいったん月足で株価が底に来た時を見きわめたら、思い切って勝負することだと思います。注意点として株式投資は何があるか分かりません。投資は自分の全資金の2割程度にとどめておくことです。そうしないと危険です。特に老後の資金をすべて元本保証のないものに投資することはやめるべきです。そういう意味では、今は投資対象の時期ではありません。日経平均が底に来る時期をここ数年は粘り強く待つ時期です。待てない人は株式投資からは完全撤退をお勧めします。
2016.09.16
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私はメンタルケア心理専門士の一発合格を目指してきたが、最終的に不合格だった。学科試験、論文試験は合格したが、第2次試験の面接試験が不合格だった。最終合格率は11%だったという。この時の心境を「純な心」で考えてみた。初一念はやっぱり駄目だったか。ショックだ。初二念では、腹が立ってきた。面接試験にあたっては、「メンタルケア心理専門士認定試験合格虎の巻」というものが、受験校から教材として配布されていた。それによるとたとえばこんな問題が出るとされている。1、 パワーハラスメントについて説明しなさい。2、 臨床動作法とはどういうものか説明しなさい。3、 インフォームド・コンセントについて説明しなさい。さらにQ&Aで、「面接試験では模擬カウンセリングなどをおこなうのでしょうか」という質問について、実技試験の面接では、模擬カウンセリングの実施はありませんとある。テキストの中から「○○について答えなさい」などの知識が問われますとある。ところが実際には3問出題され、そのうち2問はロジャーズの来談者中心療法の手法を使った模擬カウンセリングだった。想定外でそれに向けた準備は全くしていなかった。頭が真っ白になりうまく答えられなかった。今考えれば、模擬カウンセリングがあると分かっていれば、ロジャーズの受容、再陳述、反射、明確化に沿って対策を立てていたことは明白である。多額の学費、大阪までの2度にわたる交通費を使いながら、できる限りの準備をして望んでいるのに想定外の問題を出すというのはどういうことだ。腹が立ったのはそういう理由からだった。初二念というのは、一度湧き起ると次から次へと湧き起るものである。腹が立つ材料はどんどん拡がっていくのである。夜眠れなくなるほど次から次へと浮かんでくる。森田理論では、初二念は、初一念に続いて自然に湧き起こってくるものではあるが、これに基づいて行動を起こしてはならない。いくら腹立たしく思ってもそっとしておくことだ。そんなとき、効果があるのは、初一念の感情を思い出してみることだという。「あんなに準備をしたのに残念だ。ショックを受けた」この感情を思い出して、イライラする感情を抱えたまま、ほとぼりを冷まして、次にどうするかを考えてみよう。そこでイライラしながらその感情を2日ほど放置してみた。すると冷静になり、客観的視点で考えられるようになってきた。そう言えば受験校の講座を受けるにあたり、メンタルケア心理士、メンタルケア心理専門士の講座を申し込んだ。その時たしかカウンセリング技術の訓練の講座も付属してあった。だが私は、それは申し込まなかった。受講料が上がるし、無駄だと思ったのだ。それが今回命取りになったのだ。そんなことは面接試験を受けるまでは全く頭になかった。でも考えてみれば、この試験はカウンセラーになろうと思っている人が受ける試験である。それならカウンセリングの基礎技術の習得は必須の科目である。私のように心理療法一般について学習して知識を身につけたいと思っているのとはわけが違うのだ。片手落ちの考え方をしていたことに気づかされた。試験で問われているのは、私はカウンセラーになりたいという熱意があるのかどうか。ただとれるものなら資格だけでもとっておこうという気持ちで始めたのではなかったのか。そういう意味で、主催者の安易に合格者を排出しないという姿勢は共感が持てる。私の場合、対人関係で怯えながら生活や仕事をしている人たちに、私の身につけた森田理論を使って役に立ちたいという気持ちはある。でもカウンセリングルームを開設して相談業務を開始するには二の足を踏んでいる。それは経営にゆきずまったり、カウンセリングがうまくいかなかったり、医療過誤の訴訟を起こされた時の予期不安が膨らむからである。今考えているのはネットを使ったメール相談や日記指導、森田理論学習の系統的学習の主催である。これならホームページを開設するぐらいで、自宅できそうな気もする。十分な準備を整えて是非取り組んでみたいという気持ちは強い。問題は、将来そういう活動をするにあたって、カウンセリング技術の習得はどういう意味を持っているのか。取り組んでみる価値があるのかどうか。大いに役に立つものなのか。傾聴、共感、受容は生活の発見会の自助活動で30年間も取り組んできた。それ以上のものがあるのかどうか。その点を明確にする必要がある。早速カウンセリングの本を図書館で10冊ほど借りてきた。これから見極めをしてみたい。そんなことを考えていると不合格になったわだかまりは少なくなった。「純な心」の活かし方はこう言うことなのだなとしみじみと感じた。
2016.08.22
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ひろさちやさんは変化には4つあるといわれている。1、 不可逆的変化2、 可逆的変化3、 循環的変化4、 偶発的変化1の不可逆的変化とは、生まれて成長し、歳をとり老人になりやがては死んでいく。生老病死は意思の力でコントロールすることはできない。子ども時代に精神的、身体的虐待を受けて大人になってそのトラウマで苦しむ。トラウマは取り除くことができるかもしれないが、過去に遡って虐待そのものを消し去ることはできない。2の可逆的変化とは、小さい頃家が貧しかったのに、努力して経済的に豊かになる。反対に小さい頃は裕福だったのに、放蕩三昧で中年以降貧困に苦しむようになる。3の循環的変化とは、春から夏、夏から秋、秋から冬というように季節が移り変わるという変化のことである。4の偶発的変化とは、台風、豪雨、地震、津波、雷など自然災害などのことである。あるいは株価や円が上がったり下がったりするような変化である。3と4はほとんどだれでも素直である。夏は暑い、冬は寒い。つらいことではあるが、みんな受け入れて生活している。時々デイトレーダーなどで短時間で株売買で巨額の利益を上げようと挑戦することがある。予測は的中する時は少なく、失敗することの方が大きい。手を出さない方がよい。地震などでも耐震工事をおこなって対策をとるが、これも絶対ということはない。想定外の大きな地震や津波が来た時は早く逃げるしか手がない。2の場合はできるだけ積極的に手を出した方がよいと思う。その中でも将来が末広がりに展望が開けること。本当の意味で他人のためになることは特にそうである。でもこれも程度問題である。例えば野球の素質のない人が練習によって、プロ野球の選手を目指すということがある。また、勉強が苦手なのに、塾に行ったりして偏差値の高い学校を目指す。あるいは、ほとんど治らない病気にかかっているのに臓器移植をして延命を図ろうとする。可能性が少なかったり、精神的に自分を追い込むような目標に固執することはどうなのだろうか。そういう場合は選択肢を広げて、視点を変えてみる。自分の達成可能な目標に切り替えたほうがよい場合があるかもしれない。1は森田理論学習と関係がある。不安、恐怖、違和感、不快感などの感情などは、いったん発生すると取り消すことはできない。不可逆的変化である。自然現象でコントロールできないものであるにもかかわらず、人間の意志でなんとでもなると思っている。松下幸之助氏はなんとかなるものはたしかにある。でもその割合は約1割に過ぎない、他の9割は自然の摂理によって変化しているのであり、人間にできることは受け入れることだけであるといわれている。感情の法則1にあるように、「感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである」とある。われわれはあまりにもせっかちなのだろうか。そのことをころっと忘れて、あきもせず、不安や恐怖と格闘してしまう。そして神経症の泥沼へと突き進むのである。(諸行無常を生きる ひろさちや 角川書店参照)
2016.08.21
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最近は寝苦しい夜が続いている。クーラーを使っておられる人が大半だろうと思う。でも使い方を誤ると夏風邪をひいたり、のどの炎症をおこしたりする。要注意だ。一昨日の集談会ではクーラーの温度設定の話が出ていた。最低の人は21度、最高の人は28度だった。それから冷房をギンギンに効かせて布団をかぶって寝ている人もいた。冷房を使わずに除湿、ドライにしている人もいた。私も除湿にして27度に設定している。タイマーをかけて5時間ぐらいで切れるようにしてみたが、暑苦しくて目が覚めてしまう。クーラーのない昔の人は暑い夏をどう過ごしていたのだろうか。驚いたのは、小中学校、高校でクーラー設備のない学校が存在していることだった。今は夏休みだからよいが、暑い時は汗を拭きながら勉強しているのだろうか。集談会でもいろいろと工夫例が出ていたがこれといったものがない。昼間家にいる人は、日中は近くの図書館、大型ショッピングセンターに避難しているという人もいた。確かに夏の昼間、図書館は人であふれている。同じようなことを考える人はたくさんおられる。森田を勉強していると、ストレスを感じるほど寒くなったとき、暑くなった時、どうしたらその寒さ暑さから逃れられるのかという話がある。これについては中国の唐代の洞山良价という禅僧が次のように言っている。「寒さ・暑さのない処に行けばよい」これは軽井沢のような避暑地や南半球の涼しい気候の処へ行けばよいと言っているのか。そうではない。洞山良价禅師は、「寒いときは寒さで殺し、暑いときは暑さで殺してしまえばよい」すなわち、寒いときは寒さそのものになりきる、暑いときは暑さそのものになりきる。それが無寒暑の処だというわけです。こう言われると寒さ・暑さは我慢するしかないと言われているのであろうか。夏の暑いときに水分をとらずに太陽の光を浴びていると、紫外線の影響を受けるし、最悪熱射病で救急搬送されることにもなる。暑さに対して我慢大会のようなことは一害あって一利なしのようにも思える。命にかかわるような我慢は如何なものか。これは、言わんとしている真意が違うと思う。この真意を探ってみよう。暑いのは自然現象である。自然現象は基本的に人間の力ではどうすることもできないものである。それなのに我々は自分の都合に合わせて自然現象をコントロールしようと考えている。暴風雨、台風、地震、津波などはいくら制御しようと思ったところで限界があります。できる限りの備えをする必要はありますが、限界を超える自然現象は基本的には受け入れるしかなすすべはありません。「ものそのものになりきる」とは自然現象に対しては、逆らわないで受け入れてしまう。服従してしまうことを言われているのだ。これは基本的な生活態度としてしっかりとさせる必要があるのではないか。私たちは不安や不快なことがあるとすぐに、よいとか悪い、正しいとか間違いだとか価値の判定をおこないます。そして、悪いこと、間違いと判定したことに対してすぐに対策を立てて、実行に移そうとします。なんでもかんでもこのように対応することはまずいことです。どうにもできないことをコントロールしようとすると、最後にはエネルギーを使い果たして、苦悩を抱えて葛藤するようになります。また自己否定で苦しむことにもなります。コントロールできることと、できないことをしっかりと区別できる能力を身につけること。コントロールできないことに対しては、素直に受け入れて、服従していく態度を養成していくことが大切だと思います。
2016.08.09
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羽生善治さんは、将棋では「先を読む」ということは当然大事にされている。と同時に、「大局観」で、パッとその局面を見て、今の状況では、どうすべきかを直感で判断することも大切だといわれている。晩年の大山康晴15世名人と10局ほど対局された時に感じたことがあるそうだ。大山先生は「局面を読む」ということをされていない。我々は、100手、200手と膨大な量を読んで指している。大山先生は「おおよそこんなあたりだろう」と、すぐに指される。読んでいないのだが、手がいいところに行く。自然に手が伸びているのだ。それがピタッという感じで、まさに芸であった。大山先生はどちらかというと、「大局観」の視点に重きを置いて将棋を指しておられたように思う。サッカーの日本代表監督の岡田武さんもこれによく似たようなことを言われている。「感性というのは、ロジックではなく、全体の空気を感じたりすること、センスという意味もあるし、感性というとどちらかというと、理屈や戦術論、ロジックじゃなくて、全体視。全体を感じて、そこからくるフィーリングみたいなもの、僕の中ではそういうイメージ」サッカーの世界でも国際試合になると、決して技術や戦略だけでは勝てない。インスピレーションのようなものが国際試合では特に重要になってくる。志岐幸子さんは、このように「全体を感じる」ことができているときは、必死に思考を巡らせて物質界の状況をとらえようとしているのではないといわれる。むしろ、それまでこだわっていた技術や戦略などの「外側の知性」を思い切って捨てることが大事です。外側に向いていた意識のスイッチが、内側への世界へと切り替わり、「内なる知識」が入ってくる準備が完了したときに「全体を感じる」ことができるようになる。この無意識の世界との交信、ひらめきはとても貴重なものだといわれています。これを別の視点でいうと、普通「集中すること」は、たいていの場合、狭い一点に焦点を当てることのように思われます。しかし、本当の意味の集中とは、肉体よりもずっと広い範囲に当事者の意識が及ぶことで、広い範囲のことを感じられる状態の事です。そういう無意識の世界に入ると注意が広い範囲におよんで調和がとれてくるのです。(「ゾーン」の法則 志岐幸子 祥伝社 226ページより引用)ここで言われていることは、勝負というものは目の前のことだけに目を奪われていると抜け落ちてしまうことがたくさんある。感性とか無意識の世界というのは、一つのことだけに意識が向くのではなく、空の上から現場を俯瞰するような状態になるのだと思います。この考え方は森田理論学習でも全く同じことが言えます。つまり、森田理論において学習用語を細かく学習することも必要です。しかし、それは後回しにしてもかまわない。大事なことは「森田理論全体像」をまず学習することが大切だということです。初めての場所に行く時は地図が役立ちます。そういう大局観から森田理論をとらえるという学習がどうしても避けては通れないと思います。手あたりしだい学習すれば、何か得るものがあるだろうという学習方法では、労多くして実入りは少ないのではなかろうか。というよりも混乱を招くような気がしています。森田理論を早く身につけたいと思われるのでしたら、基礎編の学習を終わられたら、ぜひ「森田理論の全体像」の学習に着手されることをお勧めします。さて、次に「集中すること」の意味を語られている。これは森田先生の言われている事と合致している。我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転していて、音楽を聴いたり、ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。森田先生は神経症というのは意識や注意が自分の気になる一点に固定された状態である。これが谷あいの小川を流れる水のように、たえず自然の流れに沿って動いていれば、神経症になることはない。その状態は意識や注意がひとところに留まらない「無所住心」の世界であるといわれている。森田理論では、集中というのは、「無所住心」のような心理状態に入っていることをいうのである。
2016.07.27
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形外先生言行録の御津磯夫さんのお話です。鐘が鳴るかや 撞木(しゅもく)が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る51年前の慈恵医大で私の精神科講義の森田教授の第一声がこれであった。あざやかに今日も私はその日の光景が目の前に彷彿としてくる。私は一瞬面喰って一瞬茫然としたが、この最初の一言が私の一生を支配したようで、なんとも忘れられず、意味もよくわからないまま、私の内的生活を育んできたごとくである。(形外先生言行録 御津磯夫 62ページより引用)これは古歌で、森田先生は「鐘が鳴るかや 撞木がなるか 撞木が当れば鐘が鳴る」と作り変えておられる。また森田先生は、ある時の懇話会で、座って話を始める前に、いきなりポン・ポンと拍手を打たれて、「いま鳴らした拍手の音は右か左かどちらの手からでたのか。「鐘が鳴るかや 撞木が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る」という文句があるが、いってみればそれは不即不離なのだ。思想的にいえば中庸ということであろう。鐘と撞木が単独で存在している限りでは音は鳴らない。音が鳴るということは双方がぶつかり合って鳴っている。相互に影響を与えて「ゴーン」という音が鳴る。今までそこにはなかった新しいものが生まれてきたのだ。強くたたけば大きな音がする。小さくたたけば小さな音しかしない。人間の行動や精神活動も同じである。自分と他者との相互関係の中で、自分も相手も相互に影響を受けて変化していく。生まれた赤ちゃんは母親がかいがいしく世話をしてくれるおかげで、愛着の形成ができ、言葉を覚えて、しだいに成長していく。インドで狼に育てられた女の子がいたが、その子は性格も行動やしぐさも狼そのものであったという。ここでの要点は、人間の行動様式や思想傾向は単独で生まれるものではなく、自然や他者との相互関係の中で育まれるものであるということである。そして次にその相互関係はどうあるべきなのか。森田先生は不即不離、中庸を目指すべきだといわれているのではなかろうか。これに関しては森田全集第7巻437ページを引用しておこう。宇宙の現象は、すべて唯、発動力と制止力とが、常に平行状態にある時にのみ、調和が保たれている。天体にも、物質にも、引力と斥力とがあって、その構造が保たれ、心臓や消化器にも、興奮神経と制止神経とが、相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われている。吾人の精神現象も、決してこの法則から離れることはできない。余は特にこれを精神拮抗作用と名づけてある。欲望の衝動に対しては、常にこれに対する恐戒・悪怖という抑制作用が相対している。欲望の衝動ばかりが強くて、抑制の力が乏しければ、無恥・悪徳者・ならず者となり、欲望が乏しくて、抑制ばかりが強ければ、無為無能・酔生夢死の人間として終わる。この衝動と抑制とが、よく調和を保つ時に、はじめてその人は、善良な人格者であり、その衝動が強烈で、その抑制の剛健な人が、益々大なる人格者である。
2016.06.24
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サボテンというのは、熱い砂漠のような、水分の非常に少ないところに生えています。ですから、極力外に水分を発散しないようになっています。サボテンの原木というものには、やはり葉やトゲが生えていますが、それがだんだん進化して、砂漠のような所に適応するようになっています。つまり、表面積をできるだけ少なくして水分の発散を防ぐために、あのような球体、あるいは棒状のようなものになったのです。そういう水をたくさん貯えている体は外敵にやられやすいから、そのためにトゲをたくさん生やしているのです。自分では意識しないけれども、適者生存でそういうふうに進化してしまったのでしょう。ラクダは砂漠で生活するためにコブがあります。そのコブの中には脂肪がたくさん入っており、エネルギー源ともなるし、分解して水分にもなります。また砂嵐のとき、鼻に砂が入らないように皮や肉が垂れ下がっていて、足は広がって砂にうずまらないようになっています。本来の人間というものも、自然の変化に従って、おのれ自身を変化させて適応していくのがよいのです。そこのところを間違う人間をよく見かけます。高良興生院には植木鉢がたくさんあります。患者がそれに水をやりますが、雨上がりの充分に水を含んでいる鉢に、ジョロでざあざあと水をやっている患者がいます。「雨上がりに水をやるのはどういうわけだ」と聞くと、「いや、先生、私は、毎月一回水をやるように決めておりますから」という答えが返ってきました。自分の主義で外界を律しようとする。そういう弾力のない、いわゆる教条主義といいますか、頑固に自分の主義を守って、少しも変化することができない人が神経質にとらわれている人に多いのです。外界の変化に応じて、我々がどんどん変化しなければ、順応していくことはできないのです。神経質の陶冶というものは、自分が「こうあるべきだ」ということではなく、自然は「こうである」という現実に従って、自分が変化して順応していくものです。もちろん、自分の「こうでありたい」という理想というものは、あってもさし支えないが、誤った理想主義、いわゆる完全主義、あるいは「こうであるべきだ」ということにいつもとらわれて、「こうである」現実に順応できないという態度では、神経質の陶冶はできないわけです。私たちはカメレオンのように周囲の状況に合わせて、素早く変身できるように心掛けるべきなのです。(どう生きるか 高良武久 白揚社 139、185ページより引用)
2016.06.23
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森田先生は、「努力即幸福」ということを言われている。「相撲取りはその体力、学者はその智力、詩人芸術家はその感情、宗教家はその意思、みなそれぞれの個性のままに、その機能を発揮してゆくことが幸福である。欲の袋に底がないように、死ぬ間際までも、飽くことを知らない向上的努力、その努力なく幸福はない。」これは経済的に恵まれているとか、身体的、精神的な悩みや痛みがないとか、生まれてきた環境や境遇がよいとかいうこととは関係ありません。人間はすべての人が問題や課題を抱えている。その問題解決や改善のために、目標や課題を持って向上発展を目指している状態が幸福であるといわれている。だから幸福な状態というのは、すべての人に目の前に平等に開かれているのである。また幸福な状態とは、結果論ではなく、現在進行形の状態をいう。つまりプロセスを重視する考え方なのである。努力する過程そのものに生きがいはある。結果論というのは、他人と自分、過去と現在、「かくあるべし」という観念と事実を比較して是非善悪の価値判断を下していることである。他人のよいところと自分の悪いところを比較して自分を否定する。決してタイムスリップすることのできない栄光の昔話をして懐かしむ。事実や現状を無視して、自分勝手で普遍性のない理想状態に引き上げようとする。いずれも現実、現状、事実を否定しているので、不幸の道をひた走っているようなものだ。幸福は、将来に明るい展望のあるもの、本当の意味で人の役に立つことには積極的に行動をとる。それ以外のどうにもならないものは現実、現状、事実を受け入れることである。対人関係でも結果重視ではなく、プロセス重視の姿勢、会話を心がけることが大切である。例1 仕事でミスをした。結果重視する人 多くの人から叱られた。いたたまれない。ミスは元通りにはならない。いまさら事後処理をしても名誉回復できるわけではない。自分は仕事をする能力がない。もう会社を辞めるしかない。等と投げやりに考える。プロセス重視の人 とりあえず、迷惑をかけた人に事情を話して謝る。事後処理について検討する。第3者に相談して最善の手を早急に打つ。その後、どうしてミスが発生したのかを客観的に分析する。今後ミスを防ぐための対策を立てる。改めて関係各所にお詫びと説明に回る。自分を責めるのではなく、今後ミスの発生を防ぐことに力を入れる。例2 子どものテストの成績が悪かった結果重視の人 成績が悪ければ何をやってもダメだ。勉強している意味がないよ。ゲームをして遊んでばかりいるからこんなことになるのよ。だいたいあんたは勉強しようという意欲が欠ける人間なのよ。プロセス重視の人 残念だったね。この問題があなたに合ってなかっただけなのよ。あなたには問題はなかった。だってあんなに頑張って勉強していたんだもの。この次はきっとうまくいくよ。大丈夫よ。例3 友達とけんかをして泣いて帰ってきた。結果重視の人 どうしてめそめそ泣いているのよ。弱い人間ね、あの子に負けてはダメじゃないの。けんかは勝たなければ意味ないよ。もう一回行って仕返しをしてきなさい。プロセス重視の人 負けて悔しいんだね。負けて悲しいよね。でもこの悔しい経験は大きくなっていつか役に立つんだよ。悲しい貴重な経験はたくさんあった方がいいのよ。例4 イソップ物語の狐とブドウの話 狐が木に生っているブドウをとって食べようとしたが、何回挑戦しても手が届かない。結果重視 自分は運動能力の劣るダメな狐だ。何をしてもうまくできない。劣等感に陥り、こんな自分に育てた親が悪いと親を恨んだ。さらにあのブドウはきっと酸っぱくておいしいブドウではない。だから手が届かなくてもいいのだと思おうとした。プロセス重視 どうしてもブドウが食べたい。でも今の自分の能力では手が届かない。その気持ちは変わらない。どうしたらよいか考えてみよう。親の智恵を借りてみようか。そうだ、脚立のような台があったら届くかもしれない。探してみよう。結果を重視して、それを批判することと、プロセスを重視して次につなげることは最初はたいした違いはないように思えますが、そのうち雲泥の差となって表面化してきます。
2016.06.12
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森田先生は1924年(大正13年)4月21日の日記にこう書いている。「女子体操音楽学校に15年勤続記念として(藤村トヨ校長より)100円を贈られる。余は明治41年3月以来無報酬にて講義し、盆暮れに5円の礼金ありたるのみ」森田先生はそれらのお金は全く手をつけないで郵便貯金されていた。学校が経営難に陥った時役立ててもらおうと思っておられたのである。藤村校長は昭和4年ドイツに体操教育の視察に行くことになりました。森田先生はそれまで貯めておいた2000円余りのお金を「これを持ってゆきなさい」と言って手渡されました。藤村校長は、「1年2年ならともかくも、10余年間、先生は私と私の学校の為に貯金しておいてくださったのです。私の生涯で、この時ほど感動したことはありません」と言われている。その他にも、森田先生は気前よく多額の寄付をしている。郷里の冨家村(高知県香南市野市町)の小学校には4000円を寄付して森田館という講堂を立てた。また小学校にブランコや滑り台、図書、講堂の時計なども寄付していた。また慈恵医大にも2万円という驚くほど多額の奨学資金を提供している。一方では、自分はせんべい布団に寝て、大学の医学部の先生とは思えない服装で通された事はよく知られている。贅沢とは無縁の人だった。熱海の森田旅館の開館も経営難に陥った人を救済することから始められたことである。けっして副業でひと儲けしようなどという浅はかな考えではなかった。利益を出さなくてもトントンの収支でよいと始められたのである。形外先生言行録の中に田原あやさんの原稿があります。(ちなみに、田原あやさんという名前がよく出てくるが、森田先生と田原あやさんは親せき筋にあたる。森田先生の異父姉弟に道さんという人がいた。その方が田原家に嫁いだのである。その兄妹の子供が田原あやさんだった。あやさんは東京にでて森田先生の世話をされていた。)森田先生から物の性を尽くし、100円のものは1000円に、1000円のものは1万円に、というふうに、その物よりもっと高く活かして使いなさい、とよく言われました。「綾子たちは、1000円のものは100円に、100円のものは10円にしてしまう。もったいなくてやる気にもならない。」といわれました。森田先生はお金もそのものの価値以上に活かして使うように工夫しなさいといわれているのです。時間も「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」と言われて、有効に活用することを自ら実践されていた。洗面器1杯の水の使い方、自分の活かし方、入院生等の活かし方もすべての面で潜在能力を見つけ出して最高の形で活かしきるということを実践されていたのである。森田を実践していくとなんでもとことん活かしてゆけるようになる。
2016.06.08
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森田先生と久亥夫人はよく夫婦げんかをしたようである。入院生がいる前でも平気で夫婦喧嘩をしていた。そして後でどちらに理があるか聞いていたようである。けんかの原因は、どうもたわいのないことが多かったようだ。たとえば、森田先生は豆腐が大好物だったが、奥さんは好きではなかった。森田先生が「この頃ちっとも食べさせない」という。それに対して、奥さんは「あれほどたびたびこしらえているのに」と反撃する。奥さんが温泉行きを前にけんかになり、すねた奥さんが旅行を取りやめたこともあった。また森田先生が根岸病院に行く前に、えんえんと4時間もけんかをして大幅に遅刻したこともあった。つまり二人とも、自分の意志が強く、簡単に引き下がるということはしなかったようである。普段からお互いに言いたいことを言い合って、大きなストレスをため込まないようにされていたのではなかろうか。二人のけんかを見ていると雨が降って地が固まるようなけんかであったようだ。お互いに相手を毛嫌いして、まったく寄りつかなくなり、無視しづけるというのとは異なる。協力しあったり、ともに楽しんだり自由自在であった。当時大学教授というのは、社会的には権威があり、とても尊敬される立場の人であった。普通なら雲の上のような立場を利用して、一方的に奥さんを抑圧して思うがままにコントロールすることだってあり得たと思う。しかし森田先生に限ってそんなことは全くしなかった。奥さんを一人の人間として、対等で平等な人格の持ち主として処遇していた。その証拠に森田先生は、奥さんに対して毎月の家事労働に対して給料を払い、盆暮れには賞与も出していた。給料は最初は20円。それがやがて30円。50円になっていった。その頃の1円は少なく見て5000円から1万円の価値があった。また森田先生は、金がなくなると奥さんに借金をして、年1割の利子をつけて返済していたという。今どき生活費の他に家事労働に対して給料を支払うという人がいるだろうか。ましてや夫婦間で借金をして利子を払うというのは聞いたことがない。森田先生は奥さんを対等で平等な人間と見ていたということでなかろうか。森田理論に「物の性を尽くす」というのがある。これは物だけではなく、自分も、他人も、時間も、お金についても言えることである。それもただもったいないからというのではない。そのものの持っている潜在能力や価値を見つけ出して、とことん活かし尽くすという考え方なのである。すべての物や人間に対する愛や信頼感がベースにあるのである。それが人間本来の生き方ではないのかと言われているのである。その一環として、奥さんの存在そのもの、潜在能力を高く評価されていたのだと思う。
2016.06.07
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森田先生はダンスの研究をされていた。藤村とよさんの女子体操音楽学校に講師としていかれた時、何回かダンスをされた事がある。また中野にあったダンス教室を訪ねて生徒さんたちの練習風景を観察されたこともある。「精神とリズム」というテーマで講話をされたこともある。森田先生は精神活動とリズムの関係性に注目して、相互の関係を見きわめて、神経症に役立たせようとしていたのである。森田先生は精神活動も、宇宙の法則通りの動きをしているというのが持論であった。その宇宙はたえず運動している。太陽系では地球等の惑星が太陽の周りをたえず回り続けている。その太陽系も銀河系の中心に向かって2億年かけて1周しているという。その結果、遠心力と求心力の釣り合いがとれて調和が保たれ、お互いに存在出来ているのである。これと同じように精神活動もたえずその時、その場に応じて速やかに変化している。不快な気分も、嬉しい気持ちも時間がたてば消失していくものである。一つの不快な感情にとらわれて格闘したり逃げたりすることは自然の法則に反している。我々はそのたゆまず続く変化の波に乗っていく時が安楽である。不安や快楽にいつまでも身をゆだねようとすることは、自然の法則に反して、自己の存在を消滅させようとするようなものである。独楽は回転しているときが一番安定しています。自転車は前に進んでいるときが、倒れないで安定しています。常に動いて変化しているということが、安定させるためには必要不可欠となります。不安、恐怖、不快な感情も流動変化を心がけて生活すれば、いちばん安楽な対応となります。鴨長明の方丈記の書き出しである。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。(現代語訳)川の流れは絶えないが、それは、もとの水とは違う。よどみに浮かぶ泡は、消えたり生まれたりして、長く残っているものはない。世の中にある人、家も、またこのようなものである。つぎは平家物語の書き出し部分である。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり沙羅双樹(らしゃそうじゅ)の花の色 盛者必衰の理をあらわすおごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとしたけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ(現代語訳)祇園精舎の鐘の音には、永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある。まんじゅしゃげの花の色は、栄えたものは必ず滅びるという法則を表している。権力を持ったものも長くその権力を持ち続けることはできない。それは春の夜の夢のようだ。 強い力を振るったものも結局は滅びる。それは風の前にあるちりと同じである。次に森田先生はもう一つ大切なことを言われている。その運動自体には、一定ではなく大小さまざまなうねりがあるということだ。一様ではなく多彩なのである。別の言葉でいえば、波がある。波は高くなったり低くなったりする。また強弱がある。変化がある。つまりリズムがあるということだ。精神状態でいえば、緊張と弛緩がある。ゆっくりになったり早くなったりする。肝心なことは、この波の動きに逆らってはいけないといわれている。自然の動きに合わせることが大切であるといわれている。自然を自分たちの都合に合わせて変えるのではない。人間の方が自然の変化に素早く対応するということが大事になってくる。たとえば船酔いをする人は船の動きに合わせることを勧められている。船が波で打ち上げられる時は自分の身体も持ちあげるような気持ちになり、次に船が沈む時には自分の身体も沈み込むようにすれば船酔いになるということはない。また同じことを長時間していると、慣れてきて、刺激がなくなり、疲れてくる。つまり緊張の波がひと山越えて弛緩状態に入っているのである。そこで上手に別の刺激を与えてやると、精神は再び緊張状態を取り戻す。緊張と弛緩はたえず繰返されている。人間の盛衰は6年周期で繰り返されているという人もいる。1日のうちでも、昼は緊張状態で夜は弛緩状態が繰り返されている。森田先生は、リズムを生活に取り入れることを勧められている。それによって我々の生活機能を引き立たせる効果があるとも言われている。またリズムは仕事の能率を高めることにもなる。たとえば「いい国作ろう鎌倉幕府」のような語呂合わせ。「わっしょい」とか、「エンヤコラセイ」などのかけ声などである。これらは是非とも生活の中に取り入れて活用したいものである。森田理論学習では「変化に対応した生き方」というのは、一つの大きな学習のテーマである。この学習テーマは外すことはできない重要なテーマなのである。
2016.05.20
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森田理論に「物の性を尽くす」という言葉があります。その物の持っている存在価値を見出して、その価値を高めていく。とことん活用し尽くすということです。そのために気をつけたいことを考えてみました。1、 壊れてもすぐに捨てないことです。出来れば自分で直す。たとえ修理代がかかってもなんとか修理して直すことを基本にする。ましてやすぐに買い替えないこと。2、 どうしても直らないものは、せめて使える部品だけでも再利用すること。3、 普段から自分の持ち物を大切にする。手入れを怠らないこと。手間暇をかけてピカピカに磨き上げること。買った時よりも価値が高まるように心配りをする。4、 欲しい商品にすぐに飛びつかないこと。物が欲しくなったら自分がその商品を持っていないか探してみる。あれば機能面で劣っていても買わないようにする。あれば便利なものでも、自分が似たようなものを持っていればそれを使う。5、 自分に不要なものは役立つ人にあげる。リサイクルショップ、バザー、フリーマーケットなどで引き取り手を探す。6、 自分の読んだ本は他の人に貸してあげる。あるいは欲しい人に差し上げる。7、 一つの物の利用価値を増やして使う。他に別の利用方法がないか考えてみる。捨てられるようなものでも、何かしら役に立つものである。8、 車は出来るだけ買わずに済ます。どうしても必要なときは中古車を買う。必要最低限の装備にする。いつも手入れを行い、ピカピカにしておくこと。レンターカー、カーシェアリング、公共交通機関を利用する。原付バイクを利用する。9、 衣類は必要なものだけにする。破れたりシミがついたら修復して使う。流行にこだわらず気に入ったものを出来るだけ長く使う。こまめにメンテナンスをする。着なくなったものはバザーなどに出す。10、 お金は1000円のものを10000円になるぐらいに価値のある使い方を心がける。家計簿をつけて予算管理を行う。ギャンブルなどにつぎ込まないこと。衝動買いをしないこと。自分の必要以外のお金を持たないように注意する。有り余っていれば役に立つ人のために寄付をしたり、貸してあげる。必要以上にお金を貯めこまないようにする。11、 自分が持っているものでたちまち使う予定のないものは役に立つ人に貸してあげる。12、 自分の持ち物でも出来るだけ多くの人に役立ててもらう。但し管理は自分で行う。物の活用が出来るようになった人は、自分や他人もとことん活用し尽くすようになると思う。
2016.05.11
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私は最近井形慶子さんの本をよく読んでいる。日本人の見失った本来の人間の目指すべき生活を、イギリス人の生活の中に見出して、いろいろと具体的に紹介してくださっているからである。とても参考になる。こんな話が目に留った。井形さんは、小雨の続く冬場、イギリスの北部やスコットランドを取材する。私にとっては、水をはじくけれども通気性を持つゴアテックス素材のジャンパーは高価だがなくてはならないものでした。ところが長年着続けたうえ、日本を発つ直前、間違えて洗濯機で洗ってしまったため、ジャンパーの防水性が薄れ、雨に服が浸透していることに気づきました。そんな折、アウトドアの店で一着200ポンド(約4万円)のジャンパーを見つけ、買おうかどうか悩んでいました。すると若い店員が、迷っている私に「あなたはすでにゴアテックを着ているのになぜ新しいものが必要なのか」と尋ねるのです。私が「このジャンパーは雨がしみるのでもう役目を果たさない」と言うと、彼は即座に「ゴアテックは安くない。メンテナンスすれば必ず元通りになりますよ」と2本の洗剤を持ってきました。その店員は、「買うか買わないかを決めるのはもちろんお客様です。でも私なら10ポンド(約2000円)の洗剤と保護材を買って、今持っているゴアテックをよみがえらせる道を選びますよ。もう1着買う必要はどこにもないですから」と言った。日本でしたら間違いなく新品を勧められることでしょう。少しでも付加価値の高い商品を売ってより多くの利潤を獲得しようと考えます。それが商売人として当然のことと考えます。みすみす売り上げを放棄する店員に対して、経営者としては決して見過ごすことはできないと考えることでしょう。また新品を売らないで、メンテナンス材料を勧めるのを他の同僚たちに見られたら、バカ者扱いされるか、極端な変わり者とみなされます。それは日本という国が過酷なまでの売上予算を押し付けられ、予算の達成を至上命題としているからです。日本社会では、経済至上主義、売上予算必達が会社で生き残るために骨の髄まで貫徹されているのです。テレビコマーシャルを何回も流し、別にその商品が必要ではない人にまで洗脳し欲望を高めて買わそうとしているのです。すべての日本人が経済の好循環、無限の経済成長を目指さないではおられない状況に追い込まれているのです。子どもたちの人間教育はすべてその路線上にあります。子供たちはその息苦しさを、さまざまな形で反社会的な行動として表面化させています。その結果、自分の身体と心の健康を害し、家族や人々との温かい交流を犠牲にしてまでお金にしがみつかざるを得ないような社会の仕組みを作り上げて、さらにそれを強化しようとしているのです。これから先、日本人はもっともっとお金に振り回される生活でがんじがらめになることでしょう。その道から外れることは、経済的弱者、アウトローとして生きていくしかありません。イギリス人の中には社会全体が、物を無駄にするな、今あるものを修理して大切に使い続けよう。少しぐらい不便であっても今持っているものを優先して使おう。そういう物やお金に振り回されないで生活を楽しむというまともな考え方、暮らし方が根底にあると思います。だから、物を売って生活を成り立たせている店員にまで「無駄な金を使うな」という一言が違和感なく出てくるのだと思います。生きるということは物質的に豊かになることだけではありませんよ。ゆとりある生活、日常生活を楽しめる人生、家族や人々との温かい交流を求める生活を優先しませんか。高価なジャンパーをうまく売り抜けたとしても、その人がお金に振り回される生活スタイルを踏襲している限り、心の安らぎ、心豊かな生活を築き上げることは決して訪れることはないということは断言できるでしょう。(イギリス式月収20万円で楽しく暮らす 井形慶子 講談社文庫 54ページより引用)
2016.05.08
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イギリスでは築100年、それ以上の古い家が多い。そういう家にホームステイした人は、水圧の低い、霧雨のようなシャワーには耐えられないようである。何しろ日本ではジェット噴射のようなシャワーを思う存分使っていたのだから。それだけではない。どこの家庭でも湯船にはあふれんばかりにお湯を張り入浴を楽しんでいたのだから。ところがイギリス人は今なおどんな家に泊まっても、霧雨のようなシャワーを使い続けている。もともとイギリスでは、天井裏にあるタンクにお湯を貯めてそれを家中で使う。お湯は何度かバスタブを満杯にすると簡単になくなってしまう。だからお湯を制限なしに使うことはできないのである。日本人の場合はこんな状態が続けば大きなストレスに見舞われる。日本人は、どんなにお金がかかってもすぐに修理を依頼する。そして便利で快適な最新設備に切り替えてしまう。それがまともな人間の生活だと思っている。イギリス人はそんな方向にはゆかない。頑固で、怠慢で投げやりという訳ではない。イギリス人にはちゃんとしたそれなりのポリシィを持っているのである。それはなにか。イギリス人は昔からの生活スタイルを守っていこうとする意思がある。便利で快適だからといって簡単に今までの生活スタイルを変えてはならないと信じている。家や家具にしても時間をかけて気に入ったものを慎重に選ぶ。そこには妥協はない。周囲と調和がとれているかどうか。自分の生活スタイルにマッチしているかどうか。でも選びぬいて一旦自分のものにするとそれらをとても大事にする。手間暇をかけて、どんどん修復しながらみがきあげていく。60年以上も経った家、アンティーク家具などに無上の心の安らぎを見出す。そういう生活を楽しんでいる。もともとイギリス人は何かにつけて不便だからといってすぐに改善しようとはしない。それは、便利さのみ追求していると、多額のお金が必要になり、人間がお金儲けに振り回されてしまうことをよく知っているからだ。あるイギリス人曰く。「これも個性ですよ。古いイギリスの家が持つ性格の一つなんです。この前、友達を訪ねてアメリカに行ったら、たしかにゴージャスでした。ジャグジーやサウナまでついているし、シャワーもいきおいよく出る。それは、まるで娯楽施設のようだったけど、1週間の滞在中、私たちはずっと落ち着かなかった。体を洗うのにイギリス式なら少しの水で事足りるけど、アメリカ人はあれだけジャージャーお湯をあふれさせて毎日使い続ける訳でしょう。なんだか罪悪感を感じたわ」私たちは森田理論学習で「物の性を尽くす」ということを学んだ。「物の性を尽くす」とは、物、自分、他人、お金、時間の持っている価値や能力を十分に発揮して活かし尽くすことだと学んできた。ところが今の日本では「使い捨て」「大量消費」「快適さ」「便利」「付加価値」のもとに、「物の性を尽くす」こととは反対の道を突っ走っている。日本人は新しい機能付きの新商品が出ると、今まで使っていたものは捨ててすぐに買い替える傾向がある。でも、それらを手にするために、拝金主義に陥り、お金に振り回されるようになってきた。物はあふれるほど持っているのに、心の底から充足感を得ることはない。お金を稼ぐためにとても窮屈な生活を余儀なくされている。心の中にポッカリと大きな空洞を抱えているようなものである。生活を楽しむゆとりがなく、あくせくと金儲けばかりに邁進する生活をずっと続けることが正解なのだろうか。日本人はお金儲けに振り回されて、生きる楽しみや充実感をどこかに置き忘れているような気がする。私にはイギリス人の考え方がまともなような気がしてならない。(古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家 井形慶子 大和書房参照)
2016.04.23
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