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Gママさん
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隠居人はせじぃさん
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丹波・篠山城跡へ立ち寄りました。
徳川家康が大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的で、
この地に松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を
命じたのだ。篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を
担当。6か月の短期間でで完成した城とのこと。


ありし日の篠山城の姿が紹介されていました。


篠山城入り口。


両脇を高い石垣に囲まれていた。


鉄門(くろがねもん)跡。二の丸へ至る最後の門。


大書院手前の井戸。


大書院裏。
この大書院は1609年の篠山城築城と同時にたてられたとのこと。
1944年1月6日夜焼失しましたが、篠山市民の熱い願いと尊い寄付によって2000年
4月ついに再建。大書院は木造住宅建築としては非常に規模が大きく、現存する同様
の建物の中では京都二条城の二の丸御殿に匹敵する建物。
屋根は当時のままの柿葺(こけらぶき)というもの。


二の丸御殿跡。大書院の如き立体的に復元できる資料が残っていないため
現存する6種類の間取り図を下に平面表示の工法での整備したと。


篠山城二の丸跡の横にある青山神社。
藩祖青山忠俊と青山家中興の藩主と称された青山忠裕を祀る神社。


紅葉の紅葉の真っ盛り。


しかし既に屋根には紅葉の葉が。


この地は秋も終わりつつあるのでした。


天守台跡の石垣。
しかし丹波篠山城には城のシンボルたる「天守閣」が、この天守台上に作られることは
なかったと。それは徳川家康の側近・本多正信の、「隅櫓や多聞櫓は造る必要はない。
榧塀で十分である。天守も必要はない。」という強い指示によるものと言われていると。
その理由は、大阪方との決戦近しと睨み、装飾的な天守閣の建設よりも、実戦的な備えを
重視したためとされていると。


天守台に立つと、東南の方角に美しい稜線の山が見えました。
その美しい姿から「丹波富士」とも呼ばれる「高城山」、標高462メートルとのこと。


二の丸跡の井戸から見た大書院。


大書院に入場。


篠山城の歴史がパネルで紹介されていました。


在りし日の篠山城の姿が。


火事装束。
火災のときに限って用いられる非常用の服装とのこと。


対面や儀式のときに城主が座る、この大書院の中で最も格式の高い場所が上段の間。
床・付書院・違い棚・帳台構の完備した、本格的な書院造り。
江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵が障壁画として転用されていた。


上段の間と一続きになった、広さ21畳の部屋が次の間。
襖を外せば隣にある21畳の葡萄の間と一続きになり、上段の間と合わせて
63畳敷の広々とした空間 。


石垣もよく見るとなんとも技巧的で芸術的。篠山城の石垣は現在の真南条などの
石切り場から運んできた自然の石で出来ていて、石垣の角は算木積みと言われ
加工した石を綺麗で且つ崩れにくくする手法が用いられているとのこと。


石垣にはこの石垣を積んだ諸国大名の証が刻印されていた。


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