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Gママさん
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隠居人はせじぃさん
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赤穂城の後は赤穂民俗資料館を訪ねた。
1908年に建設された日本最古の旧大蔵省赤穂塩務局庁舎および塩倉庫、文書庫の
保存と再生利用を主たる目的として設立されたと。

館内では江戸時代から戦前までの生活雑貨や祭事用具、美術工芸品、鉄兜などの
戦時資料にいたるまで、多種多数の民俗資料が展示 されていた。

太平洋戦争の始まりである日本軍の真珠湾攻撃成功を伝えた電信コピーが
展示されていた。
大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の
暗号電文 。戦艦長門に座乗していた山本五十六大将から打電された物。

『皇国ノ興廃繋リテ此ノ征戦ニ在リ 粉骨砕身各員其ノ任ヲ 完ウセヨ』 。

旗艦赤城より発信されたもの。電文は「奇襲成功セリ 0322」。

戦果報告電文。

太平洋戦争時、出兵の時に家族や友達、近所の方々から兵士へ送られていた日の丸に
書か
日の丸の寄せ書きを胸のポケ

昭和初期から戦前までの物価の推移が纏められていた。
私が生まれた昭和25年の大瓶ビールは123円、理髪は60円と。


赤穂海浜公園へ。

赤穂市立海洋科学館・塩の国へ。

昭和(1950年代)に開発された製塩法。立体的な枝状の装置である枝条架(しじょうか)を
利用して、かん水を作る流下式方式。砂を使わないので、塩砂をかき混ぜる作業が
なくなり、労力が大幅に軽減されたのです。流下盤は、夏場に強い太陽で蒸発を進め、枝条架は、冬場に乾燥した風で蒸発を早める。

日照時間の短い季節や地域においても、塩の生産が可能になり、大量生産できるように
なったのです。この日も海水が流れ、流下式製塩が行われていた。。

吉良上野介が松の廊下で浅野内匠頭に切りつけられた原因の一つが怨恨説。
赤穂藩は瀬戸内海に面し塩の生産が藩の財政を支えていた。
赤穂藩は表石高五万三千五百石という比較的小藩でありながら 300余人もの家臣を
抱えているが、それを支えていたのは塩の販売であり、実質は七万石に近かったとも
言われていたのです。その塩は赤穂塩と呼ばれて販路は主に江戸、大阪であり、品質が
良いところから評判が高かったと。
一方、吉良の領地は三州三河(愛知県)であるが、ここでも製塩をしていたのです。
その塩は饗庭塩と呼ばれていましたが、製法に問題があり必ずしも評判がよくなかったと。
ここまでは事実のようであり、これに絡めて刃傷の原因として次のように言われて
いるのです。塩の品質が違うため、吉良としては赤穂に製塩技法を教えてもらうべく使者を
送りましたが、赤穂としては企業秘密であるとして教えてくれない。吉良は産業スパイを
放って技術を盗もうとするが捕らわれて殺されるなど失敗に終わることが数回。
こうした確執が次第に赤穂と吉良の対立を生むようになってきたとする説なのです。
最後はこの鎌で塩を煮詰めるのです。

製塩の体験教室も行われていましたが、この部屋内部の見学は不可。

遠く赤穂御崎灯台が。

赤穂東御崎公園内の大石内蔵助良雄之の旅立ちの像。

赤穂御崎からは静かな瀬戸内海の島々が見えたのです。

そして午後一に同僚との待ち合わせの場所へ。
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