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秋田・久保田城を訪ねる。
まずは佐竹史料館に立ち寄る。

秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門であり、全国でも古い歴史を持つ大名。
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を
祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族なのである。
関ヶ原の合戦のあと、秋田に転封された佐竹義宣(よしのぶ)はここ久保田の地、
神明山(現在の千秋公園)に新たに城を築き、城下町を建設。
以来、秋田市はここ久保田城下町を中心として近世・近代都市として発展したと。

入り口には、前日まで行われていた竿灯祭りの竿灯のミニチュアが飾られていた。

佐竹氏の家紋「扇に月」。
『五本骨に月丸』の扇が3枚ずつ、3段にわたって計九枚縫い付けられていた。

しかも皮革でこのような扇形を作製し、そこに金箔を貼ったものであると。
この金が慶長の金を使ったというから純金による金彩。
旗に竿を通すための輪になった部分を乳というが、通常綿布などでつくるが、
佐竹氏ではこれも皮革に金箔で仕上げた金皮となっていた。

二代藩主の佐竹義隆。
1626年、久保田初代藩主・佐竹義宣の養子となったとのこと。

歴代藩主の絵の前には見事な鎧が。

入り口受付の対面の壁には「秋田美人」のポスターが貼られていた。
これは「解答編」ポスターとのこと。
文字の部分が隠れていて、サイレントメッセージになっていたと。
女性の口の形から何と言っているか文字を当てるのだと。
そして秋田に美人が多いかについては諸説あるとのこと。
例えば、秋田は日照時間が短いので色白、冬に乾燥しないので肌がしっとり、
県内を流れる雄物川の水に漂白作用がある、白系ロシア人の血が混じっている、
久保田藩(秋田藩)に移封された佐竹氏が常陸の国(今の茨城県)から
美人ばかりを連れてきた……。とにかくいろいろな説があると。

旧秋田藩佐竹宗家の十四代当主で侯爵・佐竹義栄(さたけよしなが)氏の像。

史料館前庭に建つ男性彫刻。

若山牧水・旅人父子の歌碑
牧水の歌は、大正5年(1916) 3月から4月にかけて東北地方を回った「残雪行」の
旅の途中、 秋田に立ち寄って千秋公園を散策した時の即興の作と。
鶸(ひわ)めじろ山雀(やまがら)つばめなきしきり
さくらはいまだひらかざるなり 牧水(右)
旅さなか秋田にやどりし父のうた
ふかきゑにしに今日きざまれぬ 旅人(左)

久保田城は矢留城、葛根城とも呼ばれていると。
土地の関係上「秋田城」と呼ばれることもあったが、古代に出羽国府が置かれた
秋田城とは別物であり場所も異なると。
千秋公園内にある二の丸跡より階段を登る。

形式は平山城。
久保田城は天守を持たず、かわりに櫓を設置したと。

木の裏には番所が。
久保田城内で唯一の現存建築とのこと。
パンフレットによると、長坂門の開閉と警備、火災の消火を担当していた部署と。

久保田城復元本丸表門。
久保田城本丸の厳重な守りを固めていた正門で、木造2階建て瓦葺きの櫓門。

公園内は見事に整備されていた。
「佐竹 義堯」(さたけ よしたか)の像。

久保田藩12代藩主であり、久保田藩の最後の藩主とのこと。
大正時代に旧家臣たちによって像が建立されたのだが、太平洋戦争で金属供出のため
なくなってしまい、秋田市政100周年記念事業としてようやく復元されたものとのこと。

表門の位置から見る本丸付近全景。
左寄り奧に八幡神社、右寄り奧に佐竹氏銅像が。

御隅櫓。
本丸の北西の角にある3階建ての櫓。これも秋田市政100周年記念事業で復元された物。
それほど大きくはないが、中は博物館になっていた。

八幡秋田神社。
本殿は天保三年(1830年)建立の文化財だったが、平成17年(2005年)1月に、
放火により焼失そして再建されたと。

再び城内より本丸表門。 木々の緑が雨に洗われて美しかった。

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