JINさんの陽蜂農遠日記

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2016.06.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧街道の脇のお玉観音堂に立ち寄る。

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ミツバツツジのピンクの花が迎えてくれた。 

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箱根関所の関所破りをして処刑された少女、お玉を祀った観音堂。

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お玉観音像。 

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そのお玉観音堂から見ると、二子山の山容がよく見渡せた。

これまで「上二子山」と「下二子山」の2つで「二子山」だと思っていた。

よく見てみると、上二子山と下二子山がそれぞれが二子山になっていて、

全部で「四子山」になっていたのであった。

こちらが上二子山 (1090m) 。 

「上二子山」頂上にある電波塔の先端部分を見ることができた。

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こちらが下二子山 (1064m)

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そして再び旧街道を下る。

右手には神社の鳥居が二つ。

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『権現坂(ごんげんざか)』

お玉観音堂を過ぎると権現坂の緩やかな登りとなり、いよいよ元箱根も近くなって来た。

小田原から箱根路をのぼる旅人が、いくつかの急所難所をあえいでたどりつき、

ここから芦ノ湖を眺めて一息つくのがこの場所。

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細い坂路を下って行くと、旧街道は旧国道1号線を跨ぐ木製の杉並木歩道橋に。 

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歩道橋を渡ると杉並木がつづく道へと変わった。この辺りを「ドンキン地区」と呼んでいると。

ドンキンの意味は、一説によると「鉄砲を撃ってはならない!」ということで「ドン」は

「禁止」のことではないかと?

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箱根旧街道と書かれた札。 

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杉並木の道を進むと右側に置かれているのが「ケンペル・バーニーの碑」。

このケンペルという人はドイツ人博物学者で当寺唯一入国できるオランダ人と偽り入国し

長崎のオランダ商館の総領事とともに箱根を越えた人物。

ケンペルがヨーロッパに戻ってから執筆した有名な著作に『日本誌』が。

この日本誌の中に箱根の美しさが記述されていることから、ケンペルの記念碑が

ここに置かれたとのこと。一方、バーニーはオーストラリア人貿易商で大正の頃、

この近くに別荘をもつ親日家。この地の人たちとの友情を記念して建てられたのがこの碑。

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興福院。

現在は曹洞宗寺院だが、もとは箱根権現(現・箱根神社)の別当寺・金剛王院東福寺の

子院として室町時代に創建された真言宗寺院だったと。

箱根七福神の布袋尊の寺。

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鐘楼。 

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いよいよ元箱根の商店街エリアへと。

突然カラフルな店・ギャラリー陶里。 

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カラフルなキノコ。 

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元箱根・箱根神社の一の鳥居が目の前に姿を現す。 

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賽の河原。

箱根は、地蔵信仰の聖地として信仰を集めた場所。かつての芦ノ湖畔には

多数の石仏や石塔が並んでいたという。

明治の神仏分離によって多くの石仏・石塔が失われ、その後の観光開発によっても

規模が縮小され現在のようになったという。

残されている石仏・石塔の中には、鎌倉時代後期のものもある。 

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身代わり地蔵
箱根神社の一の鳥居の傍らにある石造の地蔵菩薩像。

宇治川の先陣争いで佐々木高綱と先陣争いをした梶原景季の身代わりとなった地蔵と
伝えられている。

ある年、景季が箱根を通りかかると、何者かに襲われた。

度々の讒言で多くの御家人を陥れた父景時に間違われたらしい。

しかし、その時、傍らにいた地蔵尊が身替わりとなったことで、命を助けられたのだという

「箱根 身代わり地蔵」の画像検索結果

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芦ノ湖遊覧船。 

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そして1号線に沿った杉並木を関所に向かって歩く。

葭原久保の一里塚。 

箱根旧街道一里塚 江戸から二十四里(石碑)。

江戸幕府は慶長九年〈1604)大久保長安に命じ、江戸・京都間に一里ごとに

旅人の目印として街道の西側に盛土をした。

そして、ここではその上に檀(まゆみ)を植えたと。

この塚は、日本橋より二十四番目。

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杉並木と刻まれた石碑。 

元箱根から箱根関所跡まで約500mの杉並木は、江戸時代に参勤交代で往来していた

旧街道で昼なお暗き樹齢400年の杉の大木が連なっていた。

川越城主・松平正綱が植林し、400本以上並んでおり、夏の強い日差しや冬の寒風か

ら旅人を守って来た。なかには幹回り4メートルの大木もある。

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旧街道の両側には杉の古木が連なっていた。 

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箱根旧街道 杉並木 説明板。 

この美しい杉並木も、戦時中には危うく伐られるところだったと。

昭和19年秋、軍用の船の材料として供出要請があったが、当時の担当職員であった、

興禅院の住職が関係書類を焼き捨てたあと、従軍僧を志願して中国に渡ってしまった。

この捨て身の行動で、箱根旧街道の杉並木は1本も伐られることなく残されたと。

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更に杉並木を進む。 

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杉並木の隙間から芦ノ湖、そして未だ頂に雪の残る富士山の姿。

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下部が1本から2本に分かれた古木。 

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仲良く天に向かって真っ直ぐに。 

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「旧東海道 箱根杉並木」 の石碑が元箱根方面に向かう旅人用に。

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旧街道を離れ恩賜箱根公園駐車場へ。

「箱根八里」の歌碑。 

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箱根関所資料館。 

資料館の中には、当時の関所手形や、関所破りの記録、関所破りを防ぐための

武具類等が展示されている。

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芦ノ湖の先には再び富士山の姿も見えた。 

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そして箱根関所・江戸口御門に遂に辿り着いたのであった。

昭和58年、江戸時代末期に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書が

発見されたことにより、当時の箱根関所の建物や構造物などの全貌が明らかになった。

この資料の解析と跡地の発掘調査を経て、建物だけでなく、調度品なども復元されている。

到着時間は13:50。箱根湯本・三枚橋を8:15に歩き出し5時間半の箱根石畳挑戦。 

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箱根関所の山側にある遠見番所。

屏風山の斜面の柵列沿いを70段近い階段を登った先のこの建物は2階建てで、

平面積は約6m2と小さいが高さは約4.5m。

当時、ここには足軽が詰めており、四方の大きな窓から街道や芦ノ湖を見張っていた。

ここで拍子木を打って、下の大番所や足軽番所に急を知らせたとのこと。

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そして箱根関所に向かう旧街道を元箱根に向かって戻ったのであった。 

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箱根湯本から箱根関所までの箱根東坂をひたすら上って来たのであった。

確かに息の切れる厳しい道程であったが自然が豊かに残っていたのであった。

旧街道、そして石畳は整備されていたが街道脇の新たな植栽等はほとんど無く、

樹木の太さは異なるものの当時のままなのであった。

江戸時代を通じて多くの旅人が辿ったこの箱根旧街道は時代の変遷を経ても今なお健在。

先人たちが苦労して、苦労して築いたこの石畳の道は今生きる者の責任で後世に

長く伝え残していかなければならない大切な日本の遺産である事を実感した1日なのであった。 

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http://www.bestweb-link.net/PD-Museum-of-Art/ukiyoe/ukiyoe/toukaido53/No.005.jpg より転載






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Last updated  2020.04.26 14:19:34
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