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2016.08.10
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
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国道1号線藤澤橋からの大鋸橋(現遊行寺橋)。

この赤い欄干の橋が江戸時代の旧東海道で、下を流れる境川を渡る橋であったのだ。 

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そしてここにも江の島弁財天道標が。 

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旧東海道・藤沢宿 案内図。 

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東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ 説明版。

藤沢宿は慶長六年(1601)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され

五十三次の第6番目の宿場となったのだ。

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藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、

左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。

宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、賑わいが感じられる。

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境川にかかる朱塗りの大鋸橋(現遊行寺橋)の袂には、藤沢宿のイメージを残した

「排気ガス測定所」なる建物があり、その前で「昔話のある町」を謳っていた。 

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大鋸橋(現遊行寺橋)の前には高札場の跡があったと。

高札場とは幕府の法度、掟、犯罪人の罪状などを掲げた所。

屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m、縦幅1.8mの規模であったと。

現在は跡地はコンビニ、近くには各種の観光用案内板が掲げられていた。 

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そして再び朱塗りの大鋸橋(現遊行寺橋)が右側に。
橋を渡りしばらく行くと遊行寺の黒の惣門にたどり着くのだ。 

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朱塗りの大鋸橋(現遊行寺橋)を右に見ながら旧東海道を平塚方面に進むと

今度は昔の旧街道に面して建てられていた写真が紹介されていた。 

明治から昭和初期にかけての 大鋸橋(現遊行寺橋) 周りの建物。

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大鋸橋(現遊行寺橋)周りの藤沢宿地図。

遊行寺橋の手前は城にある桝形構造となっていたことが判る。

宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を桝形と。

藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られるが、

これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものと。

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江戸時代の旅籠・藤沢宿の様子が描かれていた。 

先ほどの夜の藤澤宿と同じ場所から描いた浮世絵。

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道路の反対側には歴史ある土蔵が今も残っている。

桔梗屋は、藤沢宿で江戸末期から紙・茶問屋を営んでいる店。

この店蔵は、明治44年(1911年)の竣工で、藤沢市に唯一残る店蔵とのこと。 

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日本橋から藤沢宿までの旧東海道の様子を一枚に描いた浮世絵。 

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宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で

構成されていた。

江戸時代の藤沢宿は、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」に、

宿内人口4,089人(男2,046人、女2,043人)で、総家数919軒、旅籠(はたご)45軒、

大名や公用の旅客の宿泊施設である本陣が1軒、脇本陣が1軒と記されていると。

坂戸町界隈図。 

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稲元屋本店跡、明治天皇行在所記念碑。 

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「弘化2年(1844)、初代寺田三郎兵衛(満弘)が創業。質素と誠実を家訓とし、

稲元屋呉服店の礎を築いた。明治24年亀井野の陸軍大演習のため行在所となった。

石碑は皇紀2600年(昭和15年)町民の意気高揚のため建てたものであると、

側面に平成14年6月、5代目当主と刻まれていた。

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トランスボックスに描かれた「東海道藤沢宿復元図」。

蒔田本陣跡、御殿跡(黄緑の四角)の場所が理解できたのであった。

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藤沢宿で一番その当時の雰囲気を残している建物の1つは内田商店本店。

旧東海道に面して重厚な造りの母屋の店舗が建ち、その裏手にはくの字に

曲がった石蔵と母屋の店舗横にも土蔵があるようだ。 

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「相中留恩記略」に見る蒔田本陣 墨絵図。

藤沢宿の本陣は大久保町名主・問屋を勤めた堀内家(元玉縄城北条氏家老の家柄)であったが、

延享 2 年( 1745 )に火災のため本陣職を坂戸町の蒔田(まいた)家に譲った。

蒔田本陣の規模は間口 13 間、奥行 19 間、建坪 210 坪、玄関・門構えのある建物で
明治 3 年まで約 120 年間続いたとのこと。

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東海道絵巻・藤沢御殿絵図 。

江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために

今の藤沢一丁目あたり(藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくったと。

絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると

「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを

最後に廃止となったと。

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Last updated  2020.06.15 17:03:14
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