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Gママさん
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隠居人はせじぃさん
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大内宿のほぼ中央に位置する町並み展示館を訪ねる。
大内宿本陣跡に復元された宿駅時代の本陣。
大内宿のこの本陣は、会津若松と日光今市を結ぶ下野街道(南山通り・会津西街道)の
拠点のひとつとして江戸時代初期に建てられ、会津藩の初代藩主・保科正之、
二代藩主・正経が江戸参勤のためにこの街道を利用し、ここで昼食をとったという
記録が残っていると。この時の行列の総人数は約600人で、宿場内はたいへんな
賑わいであったと。
当時の風習を伝える写真や生活用具が展示されていた。

殿様専用の玄関(乗りこみ)。

入場料金250円を払って入館。

入ると右側の大きな部屋には囲炉裏が。

土間には農耕具のトウミや足踏み脱穀機が。
私が子供の頃、我が生家にもトウミや足踏み脱穀機があり、私もこれらの
農機具を実際に動かし農作業を手伝った記憶があるのです。
![DSC9964-2-1024x684[1]_R.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/2/68c001ddc4f60bfd6bf246880548bac3c18ea371.15.2.2.2.jpg?thum=53)
大きな土製の竈(かまど)その上に蒸篭(せいろ)。
この土竈も土と藁を混ぜ発酵させたもので造ったのであろうか?

縦格子からは、土間に射し込む陽光の帯が。

靴を脱いで部屋に上がり見学。
囲炉裏の火は本物。

次の間と一段上がった上段の間。

狭い急な階段を上ると屋根裏は蚕場。
屋根裏に桑籠や大きな竹笊など蚕を飼育する道具や古い織機が展示?されていた。

小さな窓から大内宿の瓦葺き屋根の民家を見下ろす。

藁葺き屋根は多くの太い孟宗竹で支えられていた。
そして囲炉裏の煙でいぶされ黒くなっていたのであった。

町並み展示館を出て再び旧街道に向かう。

瓦葺の小屋根は、囲炉裏の煙抜きになっている。そこには"水"と"寿"の飾り文字が。
"寿"は来福、繁栄そして"水"は防火の意味であろう。気にして見上げて見ると"龍、寿、雲"も。
龍は雲を呼びそして水を呼び、瓦葺の屋根の防火を図って、来福、繁栄を(寿)願って
いたのであろう。
しかし左右の文字は?、これも"寿"のくずし字? それとも龍の姿、模様?
![20070921_3[1]_R.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/2/b8026362966c50d2b653bb8028ddb95ad45e5b9d.15.2.2.2.jpg?thum=53)
こちらは"寿"、左右の字?は"水"のものと同じであるが。
何となく、中央の"寿"の字をさらに崩した字のようにも。
でも左は?
![large_6[1]_R.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/2/6d9411721ad966da6490c2ecf45b588f1c544592.15.2.2.2.jpg?thum=53)
女性ならだれもが心躍るかわいい小物やちりめん細工の店。

ほのぼのとした郵便ポスト。
明治4年郵便創業時に東京都内にせっちされていたものとのこと。

茶房のベンチで一休みしお茶を飲む観光客の姿。
この宿場には「珈琲」は似合わない?

多くの店でねぎそばが扱われていた。

干し柿。

様々なお面。

起上がり小法師。
会津地方に古くから伝わる縁起物・郷土玩具の一つ、
起姫(おきひめ)ともいう。
会津の人にとっては「赤べこ」の次に馴染みのある郷土玩具とのこと。
稚児をかたどった可愛らしさが。

招き猫とその後ろにリアルなお多福人形?
多くの福を招くお多福さん。いつも愛想良くお客様を迎え入れます。
おでこは広くおおらかで、包容力を表わす高い頬、口は小さく口紅つけて、
鼻は低く何事も天狗にならず、いつも笑顔で千客万来。

青空と紅葉そして藁葺き屋根。

様々な種類、大きさの蜂蜜も売られていた。

スズメバチを漬けた焼酎は高価。
スズメバチを生け捕りするリスク代が高い?

会津天神。
今より四百年余りの昔、時の会津藩主、蒲生氏郷公が京都より人形師を招き、
数々の郷土玩具を造らせ庶民の殖産振興を計りしことにより発祥したと。
中でも学問・書道の神として振興させる菅原道真公を祀った人形「会津天神」は
その顔つきの温和と上品さ、そして愛らしく素朴な感じは、各地の天神人形の中でも
屈指のものとして広く知られていると。

手作りの飾りぞうりも色彩豊か。

三澤屋は人気の店。

集合時間まで時間があったので記念に『ねぎそば』を。
会津初代藩主保科正之(徳川二代将軍「秀忠」の隠し子)は、信州高遠の城主「保科正光」の
養子となり、その後21歳の時に高遠藩主となった。その高遠の辛み大根の蕎麦を
会津へもたらしたのが由来だとか。
まるまる一本のネギを箸代わりに食べることで有名だが、これは、昔は祝いの席や
徳川将軍への献上品だったため「切る」というのは縁起が悪いとされ、
そのまま使ったのが始まりなのだと。
割り箸を頼む客もいたのであった。
![oouchi-20150511-9_mini[1]_R.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/2/44e2798a31c17d6e13f51d0919cc27acba2272ab.15.2.2.2.jpg?thum=53)
『しんごろう』も美味しかった。
五平餅みたいなものだが、五平餅よりも丸っこい。
うるち米を半つきにして竹串に刺し、味噌にすりつぶしたエゴマなどを混ぜ合わせた
「じゅうねん味噌」を塗って炭火で焼いたものであると。
しんごろうという名前は、この料理を生み出した「新五郎」という人名から付けられていると。
貧乏でもち米が買えない新五郎が、うるち米を丸めたものにじゅうねん味噌を塗って
焼いた。それが非常に美味しかった事から村中で評判となり、この地方の郷土料理となったと。
![c3673ad3e81b444e43305317c324a845[1]_R.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/2/c3487e01a59593fd181f5a03b27135a0560697f3.15.2.2.2.jpg?thum=53)
帰路の入口付近の広場。

紅葉した欅の木の根元には石の蛙の置き物が。
お出迎え蛙?私にとってはお見送り蛙?
そしてそこにはお賽銭が。

大内宿を振り返る。

ススキの姿が秋が深まっていることを感じさせてくれたのであった。

牛久大仏へ(その3) 2025.11.19
牛久大仏へ(その2) 2025.11.18
牛久大仏へ(その1) 2025.11.17