JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.02.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

義士墓入口の門。

この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したもの。

赤穂義士墓地へのお参りのために100円を奉納し、お線香を頂きました。

赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されたとのこと。 

浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の墓。

浅野内匠頭夫人(阿久里(落飾後瑤泉院))の墓。

大石内蔵助の墓

大石主税の墓。

左が主税の墓で右の大きいのは十三回忌碑。

浅野長友・大学の墓。

浅野内匠頭と瑤泉院のお墓の間に、内匠頭の父の浅野長友のお墓と弟浅野大学長広のお墓が。

浅野長友は初代藩主・浅野長直の長男として生まれ、寛文11年(1671)、父の隠居により跡を

継ぎましたが、延宝3年(1675)、33歳で亡くなりました。(左が浅野長友の墓)

浅野大学は、刃傷事件のため、3000石の所領も召し上げられ、広島浅野宗家にお預けとなった。 

そして、宝永6年(1709)将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710)安房国に知行

500石を持つ旗本に戻り御家再興を果たした。 

享保19年(1734)に65歳で死去し、泉岳寺に埋葬された。

戒名は亮監院殿月清涼山大居士。(右が浅野大学の墓)

なお、泉岳寺には、浅野大学家の泉岳寺には、浅野大学家の昭和まで累代の当主の墓もあるが、

浅野大学家は昭和61年に断絶したのだと。

墓地配置図。

【水野家お預け浪士の墓】 水野家お預け浪士は9名。右から次の通り。

   神崎与五郎 則休

   三村次郎左衛門包常

   横川勘平宗利

   茅野和助 常成

   間瀬孫九郎正辰

   村松三太夫高直 

   矢頭右衛門七教兼

   奥田貞右衛門行高

   間十次郎光興

   そして左奥が寺坂吉右衛門

大石良雄以下、46名には法名の最上部に「刃」の一字が入っているのは切腹を表していると。

jin_R.jpg

 ただ一人、寺坂吉右衛門は、討入の後、大石の命を受け瑶泉院(長矩公夫人)及び一党の遺族等

復讐の顛末を報告して廻り、後江戸に帰って自首したが、時効を以って赦され、83才の天寿を

全うしたので、「刃」の文字が入っていないのだと。

墓石の色も赤く他の義士のものとは違っていた。 

そして「寺坂吉右衛門」 の名の位置も左に。

111_R.jpg

【毛利家お預け浪士の墓(1)】

 毛利家お預け浪士は10名。そのうち5名の墓。左から次の通り。

 間新六光風

 倉橋伝助武幸

 武林唯七隆重

 吉田沢右衛門兼貞

 岡島八十右衛門

その後ろの列に

【毛利家お預け浪士の墓(2)】

   毛利家お預け浪士10名のうちの5名の墓。左から次の通り。

 小野寺幸右衛門秀富 

   前原伊助宗房

   勝田新左衛門武堯

   杉野十平次次房

   村松喜兵衛 秀直

【細川家お預け浪士の墓(1)】

   細川家お預けの浪士は17名。そのうち9名の墓。右から次の通り。

   吉田忠左衛門兼亮

   原惣右衛門元辰

   片岡源五右衛門高房

   間瀬久太夫 正明

   小野寺十内秀和

   間喜兵衛光延

   磯貝十郎左衛門正久

   堀部弥兵衛金丸 

【細川家お預け浪士の墓(2)】

   細川家お預けの浪士は17名。そのうち6名の墓。右から次の通り。

 大石瀬左衛門 信清

 矢田五郎右衛門 助武

 奥田孫太夫 重盛 

 赤埴源蔵 重賢 

 早水藤左衛門 満堯

 潮田又之丞 高教

3回忌地蔵尊。

【松平家お預け浪士の墓】

  松平家お預け浪士は10名。そのうちの大石主税を除いた9名の墓。右から次の通り。

 堀部安兵衛武傭  

   中村勘助正辰

   菅谷半之丞 政利

   不破数右衛門正種

   木村岡右衛門貞行

   千馬三郎兵衛光忠

   岡野金右衛門包秀

   貝賀弥左衛門友信

   大高源五忠雄

   そして左奥が萱野三平の墓

墓所の近くに、赤穂浪士のほかに、赤穂浪士関係者のお墓もあった。

「妙海尼の墓」

赤穂浪士の墓所に手前にあるのは、堀部安兵衛の妻を自称した妙海尼のお墓。

妙海尼は、堀部安兵衛の妻を自称し、1774年(安永3)、高輪泉岳寺に清浄庵を結んで

赤穂浪士の菩提を弔うと共に浪士の昔語りを始めたと。泉岳寺内で94歳の高齢で死去したと。

赤穂分家(若狭野領主)浅野長恒・赤穂分家(家原領主)浅野左兵衛長武(旗本) 生母永壽院の墓か?

「永壽院殿月岑貞松大姉」と刻まれていた。

浅野家一族の墓。

右に浅野長年・夫人の墓。隣に浅野長邦の墓・・・・・。

墓半分を?再び。

表忠碑。

戊辰戦争で泉岳寺に来た広島藩士らが、朽ちた赤穂義士の墓碑を見て、可哀そうだからと言い、

この表忠碑を建てたと。

赤穂義士墓所入口の建物に線香の受け皿を返却。

泉岳寺に関する写真等が販売されていた。

「講堂」。

講堂(2階は義士木像館)は赤穂義士記念館ができるまでは、義士館として使用。

関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられたものを平成16年に改装。

現在一階は講堂として使用しており、毎週土曜日に学寮講座開講中。

2階は義士木像館として赤穂義士記念館と併せて公開されている。

講堂の左前にある主税梅の枝が写真に。

大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅。

「赤穂義士記念館」。

討ち入り300年に当たり次の時代引き継ぐべく、新たに建てられた義士に関する資料館。

中には義士の貴重な遺品などが、忠臣蔵についてのビデオも上映している。

内容は松之廊下3分、泉岳寺と赤穂義士5分、いざ討ち入り7分、義士祭6分計21分間。 

「澤木興道老師像」。

仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人。

三重県津市に生まれ、1897年に永平寺に入り、1899年に出家するも、兵役に取られ、

日露戦争で負傷する。退役後、旧制第五高等学校の生徒に坐禅を指導する。

各地の道場を転々とし、「移動僧堂」、「宿無し興道」と称された。1935年に總持寺後堂職と

なり、駒澤大学特任教授も兼任して、それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせ、

徹底した坐禅教育を行った。 「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、

その一生を通じて実践して見せた。その思想指導方法はアメリカのスタンフォード大学にある

曹洞禅センターにも受け継がれていると。

鐘楼堂

大正2年・41世普天霊明和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞かれている。

江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館が所蔵。

何故ウィーンに?

寺務所。

御朱印受所。

墓所お参り後受処にてお願いしていた御朱印を頂きました。 

DSC03743_R.JPG

御朱印受所から山門を見る。

再び本堂を。

門前の土産物屋の屋根には陣太鼓が。

土産物屋には赤穂義士や忠臣蔵にちなんだグッズや和菓子など様々な土産が置かれていた。



                                                  
                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.04.26 14:50:05
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