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泉岳寺での赤穂義士の墓への参拝を終え、第1京浜の泉岳寺交差点に向けて歩を進める。
この交差点を右に曲がると、直ぐ右に「稲荷神社」と刻まれた石碑が。
ここが神社入り口なのであった。境内はこの真上。石碑の右の階段をぐるぐるっと回って
上がっていくと境内となるようです。

建物の左の壁には石灯籠や石碑が並んでいた。ここも境内の一部。

離れた場所からはこの様に稲荷神社が屋上にあることが解るのでした。

【https://4travel.jp/travelogue/11244434】より。
更に品川方面に進むと、同じく右手に「高輪神社」が。
高輪一帯の総鎮守。
創建時は稲荷信仰の神社であり「稲荷社」と称された。
境内社には聖徳太子を祀る「太子堂」が鎮座。大永四年(1524)、北条氏綱と上杉朝興の両軍が
当地で衝突した結果、氏綱が江戸城を勝ち取り城主となる。
これが「高縄原の戦い」として当時の軍記物語に伝わる戦い。
この高縄原が転じて高輪原となり、現在の「高輪(たかなわ)」の由来となる。
高縄原とは高縄手道(高台のまっすぐな道の意)の略とされる。

御朱印を頂きました。

高輪海岸の石垣石。
「ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。
平成7年(1995)、高輪2丁目20番地の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。
石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。
発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされた
ものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地で
そのまま保存されています。」と。

桂坂(かつらざか)。
桂坂は、 東京都港区高輪 二丁目12番と三丁目19番の境界に存在する坂。
由来は、かつて 蔦葛 (つたかずら)がはびこっていたから、また、鬘(かずら)をかぶった
僧侶 が 品川 からの帰途、急死したことによるともいわれると。

AP品川アネックスの角を右折し坂道を上ったところにあるのが
「旧竹田宮邸洋館」

1911年(明治44年)完成。 旧竹田宮邸。 煉瓦造2階建て。
近代日本の黎明期に宮廷建築家として活躍した、片山東熊により設計された。
室内は17〜18世紀初頭の様式で装飾され、 細部にわたって優雅な意匠が散りばめられた
格式のある建築。
現在は「貴賓館」という名称でグランドプリンスホテル高輪の結婚式場などに利用されていると。

品川駅に向かって歩くと右手に美しい夕日&夕焼けが。

「カトリック東京大司教区高輪教会」が右手に。
一般的な教会のイメージと異なる明るい感じの建物。
教会入口前に江戸の「大殉教顕彰碑」が立っていた。
三代将軍徳川家光によるキリシタン迫害政策で処刑された人々は江戸全体で2000人であった。
三田の刑場跡地に1956年立てられた顕彰碑はその後現地に移されたと。

キリスト像。

「柘榴坂(ざくろざか)」を下る。

TKPガーデンシティ品川の庭の植栽のイルミネーションも始まっていた。

大きな白い雪の結晶が輝き始めていた。

そして品川駅前から、品川駅を見る。
品川駅港南口の高層ビル群も。

第1京浜横浜方面。
この日の仕事を終えた多くの帰宅者が横断歩道を渡っていた。

第1京浜東京方面。
車の数も増えてきた。

最後に品川神社まで行きたかったが、時間切れ。次回のスタート地点とすることに。
そして18時から現役時代お世話になった方々、旅友と品川駅前で宴を楽しむ。
そして20:30過ぎにJR東海道線で帰途についたのであった。

帰宅してこの日の散策ルートを地図に。歩いた歩数を我がIPHONESのソフト表示は
約23000歩⇒約17km程になるのであった。
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
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