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隠居人はせじぃさん
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兵馬俑坑の見学を終えて、次に「秦始皇帝陵」に向かう。
秦始皇帝陵は兵馬俑坑の西約1.5キロメートルにあった。
約2200年前、中国統一を果たした秦始皇帝は、その絶大な権力を永遠のものにするため、
すぐに陵墓の造営に着手。70万人もの囚人を動員し、36年もの歳月をかけて完成した陵墓は、
『史記』によると地下宮殿のようであったと記されているのだ。
長らく伝説と考えられていたこの記述も、近年の調査で痕跡が確認され、秦始皇帝陵の発掘が
待たれているのだ。
始皇帝陵に入口ゲートには「麗山園」の文字が。

始皇帝は紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の 皇帝 となり、紀元前210年に
49歳で死去するまで君臨。
中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。
歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者。
統一後、始皇帝は、 重臣 の 李斯 とともに主要経済活動や 政治改革 を実行した。
正面に見える山が始皇帝陵。

始皇帝陵 配置案内図。

大きさは東西350m、南北345m、高さ76m、体積は約300万m3。
盗掘を防ぐため、この墓に近づく者に矢を射る仕掛けまであったと。
兵馬俑坑は、この陵(墓)を取り巻くように配置され、そこから出土した等身大の俑は皆、
東を向いているのだ。
しかし兵馬俑の兵士たちが東を向いている謎に明確な答えはでていないのだと。
世界遺産のマークが刻まれた巨大な石碑は雨に濡れていた。

そして大きな赤い文字「秦始皇帝陵」と刻まれていた。

この日の見学はここまでであったが、更に奥に進むことが出来るのであったが・・・・。
近年、中国の調査隊の地質調査の結果、陵墓の地下に東西168m、南北141m、高さ15mの
巨大な空間が存在すること、中から平均値の40倍以上の水銀の反応が出たと明らかになって
いるのであった。

「水銀を使って始皇帝陵に河川や海を作った」という記録が『史記』と『漢書』にも見られるが、
真実かどうかは謎のままであったのだ。
大陸の地質学者、常勇氏と李同氏も始皇帝陵から土壌サンプルを採取して分析した結果、
土壌の水銀含有量が異常に高いことも判明したのだと。
陵墓周辺で採取した土壌サンプルからは水銀が殆ど検出されなかったため、
『史記』と『漢書』の記録は事実である可能性が高いと推測されている。」 のだと。
そして残念なことに、現在この巨大な空間を発掘する目途は全く立っていないのだと。

【http://takashi1016.com/mausoleum-of-the-first-qin-emperor-4420 】より
そして午前中の観光を終え昼食会場へ。
「絲綢之路展覧館(シルクロード展覧館)」

前庭にはシルクロードを移動する駱駝の像が並びシルクロードらしさを演出。

勇敢な騎馬兵の像も。

こちらにも。

漢武帝の像も。
漢武帝の治世の前期は漢の最盛期であり、中国史上において栄光の時代の一つでもあった。
しかし、文景の治による蓄積によっての繁栄であるという見方もあり、後半の悪政も含めて
考えれば武帝の評価は分かれる所。彼自身、外交や遠征などの派手な事業については
特筆すべき事柄が多いが、内政に関して見るべきものがない。むしろ、こうした地道な政治を
後手に回していたきらいがあり、盛んな造作もあいまって治世末には農民反乱が頻発した。
このため、後世は秦の始皇帝と並び「(英邁な資質ではあるが)大事業で民衆を疲弊させた君主」
の代表例として、しばしば引き合いに出されることとなると。

昼食は野菜料理が種類も多く、味もとても旨かった。

そして店の外にはこの文字が大きく。
看板のこの字は中国語で一番画数の多い漢字・58画なのだと。
「ビャン」という、太いきし麺みたいな麺を表す漢字だそうだ。

そして「ビャンビャン饼」が売られていた。

落花生をつぶして混ぜた餅のようだ。

これでもかと騎馬像が至る場所に。

何故か近くにはエジプトのファラオの石像も。

我がバスに戻る。
バスのサイドボディーに描かれているのは映画・「白鹿原影視城」のコマーシャル画面か?

途中、華清宮(かせいきゅう)の前を通過。
華清池とも呼ばれるこの場所は、中国四大美人であり世界三大美女の一人とも言われる
「楊貴妃」ゆかりの地。
歴代王朝の温泉保養地だったそうで、楊貴妃が湯浴みした場所として有名であると。
これは楊貴妃と玄宗皇帝らしく、ここは彼らのデート場所であったらしい。

城の如き建物はホテルであろうか。
ここ中国では我がカメラのGPS機能が正確ではないので、建物の詳細が不明。

兵馬俑で有名な臨潼の町の境界には「臨潼への再来を歓迎します」と書かれた
朱色の門がありその下を通過。

西安科技大学。
「西安科技大学は陝西省西安市にある工学系を主とした陝西省直轄の総合大学である。
1958年に西安交通大学の鉱山系学科を分離して西安砿業学院として創設され、
1999年に西安科技学院、2003年に西安科技大学に改称された。」 と。

西安工程大学。
「中国陝西省における重点大学の一つ。前身は1912年に創立した北京高等工業専門学校の
機械紡織学科であり、その後何度かの統合を経て2001(平成13)年2月に教育部を併合し
西安行程大学となった。現在、大学は15の学部と2つの教育部を設置しており、在学生は
約16,000人に及ぶ総合大学」 とのこと。

高層アパート群。
西安の人口は2015年で870.6万人と。
西安市は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった「長安」 。
「西安(西京)とは「西の首都」の意味であるが、一般的に東アジアの伝統では、首都の名前を
このようにつけることが多かった。例えば、日本の東京やベトナムのトンキン(東京)は、
「東の首都」を意味する。日本の東京は、首都を意味する京都からの方角をもとにしており、
「北京」、「南京」、「西京(長安、西安)」は、中国の内陸部にある洛陽からの方角を
もとにしている。」 と。洛陽は西周時代に都として建設され洛邑(らくゆう)とよばれ、
漢代に改称、北魏・晋・隋・後梁・後唐などの首都であったと。

西安の火力発電所。
経済成長により西安市民の自動車の保有台数も著しく増加しておりそれらの排気ガス、
そして気温が真冬は零下10度近くまで下がる為、暖房器具用の石炭の消費も増えたことが
西安の大気汚染をひどくしたのだと。
そして中国の各都市の大気汚染も自動車の保有台数の増加や規制が緩いディーゼルエンジン、
ここ火力発電所や重化学工業工場の有害な排気が重度の大気汚染を招いている要因であると。

ピンクの花は全て造花である事は後に解ったのであった。

陕西省国・・・・?。

陝西体育場。
収容人数は50,000人、総敷地面積は97,000m2。主にサッカーの試合に用いられ、
サッカー中国代表の試合が開催されることも。

そして「陝西省美術博物館」の建物に立ち寄る。
折しも「何柳生絵画芸術展」が開かれていた。

西安市の立派な図書館の隣にある円形の建物で地元の人の姿は皆無。
入館すると博物館の係員の人が日本語で案内してくれた。
下の円形ホールがオークションの会場になると。

ホールの天井も見事。

何柳生氏の版画作品が展示されていた。
この版画は「清華大学」 。
キャンバスの広さは中国一を誇っており、構内には職員アパートから銀行、郵便局、
スーパーマーケット、コンビニから屋台まである。
常住者は約14,000人、教育機関は幼稚園から大学まで総てそろっているのだと。
中国の北京市にある国立の総合大学。理工系に強く、中国国内で一、二を争う国家重点大学。

「清華古月堂」。
清の道光帝が建てたもので、清華園西院の一角にある。
総建築面積は 70m2で、建築当初は書斎専用であった。その後、住居として使っていた。
現在は大学の総務部門としているとのこと。

館内には素晴らしい作品があったがほとんど通過して玉器の販売スペースに案内された。
だいたいここで30分くらいの買い物時間。
係員の方はとても親切で今まで詳しく聞けなかった玉について説明してくれた。
旅友のSさんがターゲットにされたが何とか逃げ切ったのであった
しかし興味の無い方には苦痛のようであったがこれも低料金ツアーの理由。
何も購入しなくても最後まで親切に見送りまでしてくれたのであった。
この展示室はこの日は写真撮影禁止であったが下記の如き作品が販売されていた。

【http://tom.o.oo7.jp/tabi/si1/si1-7.html】 より
様々な掛け軸も。

そして色つき山水画か?

そして今回の旅行で気がついたのは、中国では「google検索 」 が使えないこと。
更に「googleマップ」も使用不可。旅行前に今回のツアーで訪ねる場所そして散策したい所を
事前にチェックマークを入れて置いたが、中国ではそのマークが全て消えており、GPS機能も
かなりズレた場所を表示する状況に。
そのほかYoutubeやWikipediaもアクセス出来ない模様。
いろいろと中国からの規制や検閲が多いため、google側から自ら撤退した様であるが。
数々の国を訪ねたが、今までこの様に「google検索」 や 「googleマップ」が使用出来ないのは
初めての事なのであった。
・・・ つづく ・・・