JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.03.19
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カテゴリ: 海外旅行

西安3日目の朝の我々のホテルの部屋のある7Fの中央通路。

エレベータホールには盆栽が飾られていた。

この日の朝食バイキング。キムチや豆腐餻(とうふよう)?が旨かった。

我が部屋の窓からの風景はホテル裏側。

1Fロビー売店の絵画。

楊貴妃の姿か?


バスにてこの日の最初の観光地に向かう。

この日の最初の観光は『興慶宮公園』。

大明宮、太極宮とともに唐代三大宮殿跡に建てられた広大な公園。

玄宗皇帝が楊貴妃と過ごしたと言われる、唐時代の宮殿跡・興慶宮(こうけいきゅう)。

公園内 案内図。

興慶殿、南熏殿、大同殿、勤政務本樓,花萼相輝樓、彩雲閣、沉香亭等の

建築物があると。

src_36224218_R.jpg

公園には様々な飾りが。

慶宮公園号遊図。 散策案内の石碑。

「紅軍林」と刻まれた石碑。

水曜の朝であったが、公園内には合唱をしている多くの人達が。

マイクも用意され、公園内に響き渡っていた。

指揮者の夫人も紅いコートを纏い張り切って本格的。

生演奏で。戦時中の「中国共産党軍」を称える歌も歌われていると添乗員から。

「まさに中国ならでは」という光景に出くわしたのであった。

楽譜。

牡丹の庭園と。この日は僅かに葉が芽生えていた。

芍薬のような気もしたが・・・。 


公園の中のあらゆるところで所狭しと太極拳、独楽回し、凧揚げ、合唱等々様々な

レクリエーションが行われていた。

老いも若き?も、公園内でダンスを踊ったり、バトミントンや音楽演奏に

興じていたのであった。

沈香亭  (じんこうてい ) 

玄宗皇帝と楊貴妃が過ごした建物であると。

この沈香亭はもともと沈香(じんこう)という香木を使って建てられたのだと。 

楊貴妃と玄宗皇帝の石版画。

楊貴妃の顔が描かれている場所を撫でると美人になれると、我がツアーの若き旅友も。

玄宗と楊貴妃の一族が宴を催したという彩雲閣。

興慶宮公園は、広大な敷地を持っており、中央に人工湖の興慶湖が。

多くの老々?男女が元気よく。

ここ 中国では、高齢者の定義は、60歳以上であると。「高齢者」の人口は2014年では

2億1200万人に達し、総人口の15.5%を占めるようになったと。

中国の定年年齢は、男性60歳、女性50歳、幹部クラスの女性は55歳と規定されているため、

多くの人々は50歳から60歳の間で定年となるのだと。

中国では、「颐养天年(イーヤンテェンニアン)」ということわざがあり、

「晩年を楽しむ、寿命が来るまで静養する」ことが一番理想的な老後生活だと

思われているのだと。

子供が定年後の親に仕事をさせる事は、周りに親不孝だと思われるのだと。

民族衣装を纏って踊るオバチャン達も。

正面に廻って。 

墨汁の代わりに水を使って書道に勤しむ老人。

有名な漢詩なのだろうか。水を使い大きな筆でコンクリートのタイルに書いていた。

漢字の故郷・中国へ来たと言う気持ちが心の中に湧いて来たのであった。

しかし我々を韓国人と勘違いし、急にハングル文字を書き始めたのであったが。

初春にもかかわらず真っ黄色に黄葉した銀杏の葉が。

これも全て造花。

この後も至る所で、桜、桃の造花そして銀杏の造花が。 

季節感がないのであろうか?不思議な光景なのであった。 

安部仲麻呂記念碑。スマホによる説明用音声案内板。

阿倍仲麻呂記念碑。

大理石作りの美しい記念碑の高さは6.1m、碑の正面には金文字で「阿倍仲麻呂記念碑」と

刻まれていた。

西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して、1979年7月日に建立されたと。

阿部仲麻呂は一度 日本に帰るチャンスがあり 船に乗っが、乗った船は途中で暴風雨に逢い

遭難し、ベトナムに漂着、陸路で再びここ唐・長安に戻ることになってしまったのだ。

長安に無事到着した仲麻呂は帰国を断念、結局その後日本の地を踏むことがかなわぬまま、

その後も 玄宗皇帝に支え72歳の生涯をこの地で閉じたのであった。

仲麻呂が難破して亡くなったと伝えられた時に李白が作った追悼の七言絶句が

哭晁卿衡(晁卿衡を哭す) 

「日本晁卿辞帝都 征帆一片遶蓬壷

 明月不帰沈碧海 白雲愁色満蒼梧」

訳は

「哭晁卿衡日本の晁卿は、長安の都を辞した。我が友が乗った船の帆影は、

仙人が住むという蓬壺の島をめぐって行ったのだ。しかし、明月のように輝いていた君は

帰らずして、碧海に沈んだという。ああ、白い雲とともに悲しみの色が、

蒼梧の空に満ちている。」 

「哭」とは慟哭(どうこく)を意味し晁卿(ちょうけい)は、阿倍仲麻呂の中国名であると。

17歳(または19歳)で唐土に渡り、その地で学問を修めて高官にまで昇った。

異説もあるが、仲麻呂は官吏登用試験である科挙に応じて、最難関の進士に

及第したとされると。  


「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」 

百人一首で有名なこの短歌を五言絶句の形にして詠ったものが隣の面に刻まれていた。

「翹首望長天 神馳奈良辺 三笠山頂上 想又皎月圓」

この歌を詠んだ経緯については、天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する

宴席において友人の前で日本語で詠ったとするのが通説だが、仲麻呂が唐に向かう

船上より日本を振り返ると月が見え、今で言う福岡県の春日市より眺めた

御笠山(宝満山)から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在するのだと。

日本から多くの英才が唐土に渡った。なかには、唐において相当名を知られた人物もいた。

『続日本紀』によれば、それは吉備真備とこの阿倍仲麻呂(698~770)の二人であると。 

しかし、この公園を訪ねる「現代」の中国人の中に、この阿倍仲麻呂について知る人は

どの程度いるのだろうか?そしてこの石碑を訪ねるのは日本人のみか? 


赤、ピンクの花が咲き乱れて。

いや、実はこれらは全て造花。

興慶宮の見学を終えバスにて青龍寺へ向かう。 

交通大学 正門が車窓から。

西安交通大学は、陝西省西安市にある理工系大学で、上海交通大学と並び国務院教育部直轄の

理工系重点大学の一つであり1921年に設置された。

学院(学部)数は19。3つの付属病院を有する。 学生数約3万人(うち大学院生1万2千人)、

専任教職員数は5600人であると。

つづく ​・・・





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Last updated  2019.11.01 22:29:33
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