JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.04.16
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カテゴリ: 国内旅行
​萩城下町散策の途中で「萩博物館」に立ち寄りました。
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萩開府400年の記念日である平成16年11月11日に開館しました。建物や外観は、敷地が旧萩城
三の丸にあたる堀内伝統的建造物群保存地区内にあることから、かつてこの地区内にあった
規模の大きい武家屋敷の特徴にならっています。

萩の歴史・文化発信拠点として、吉田松陰、高杉晋作をはじめ幕末維新関連の実物資料を
展示するほか、萩の文化、自然を模型映像を駆使して紹介しています。
館内には、萩の素材を使った料理が食べられるレストランやお土産ショップもあります。
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博物館の入口に向かう途中の砂利の敷き詰められた庭の左手に展示されていたのが
消防車「レオ」。
昭和7年、萩公設消防組の代表者、田中虎熊氏の努力により町民から、10000円の寄付を集めて
購入されたと。
レオ消防ポンプ自動車付属品一式で、8600円、残金でフォード・トラック(運搬車)と
格納庫を作り8月萩市へ寄付された。
萩市では、自動車ポンプ時代のはじまりであった。当時の市の財政は、約44万円でしたから
約2%にあたるという実に高価なもの。この消防車は米国よりレオのシャーシをヤナセが輸入し、
市原ポンプ諸機械製作所がポンプ車に仕立てた。

持っていた。
昭和38年まで実に30年間活躍したのだと。
一世を風靡した名車で、現在は全国に2~3台残っているだけと。
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そして博物館内へ。
歴史展示室・高杉晋作資料室・萩の人物コーナー等に分かれていた。
萩城・長州藩・長州戦争・明治維新など萩の歴史、高杉晋作に関する収蔵品、
萩市にゆかりのある 100 人以上の歴史的人物の顔写真などを展示。大型スクリーンにより
吉田松陰や長州ファイブも紹介されていた。
萩の絵図。
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ジオラマの中央に明倫館が。
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藤沢、江の島も描かれていた。
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日本鳥瞰四国中国大絵図に描かれた萩周辺の街。
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説明文。
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旅姿をした吉田松陰像。
20代の若き松陰をイメージして作られたと。

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吉田松陰の名言。
「地を離れて人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ずずれんと欲せば、 先ず地理を観よ」。
土地を離れて人々の生活は成り立たない、また、人を離れて物事が行われることもない。
だから、人間社会の生活や物事を論じようと思えば、まずその地域の自然の状態を念入りに
見なければならないと。
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絵でたどる松陰の生涯(「吉田松陰先生絵伝」)
吉田松陰の一生を絵でつづった珍しい資料。
松陰門下最後の生存者として知られる渡辺蒿蔵〈こうぞう〉の実兄(号は奇陳、渡辺小五郎か)が
描いた。松陰の誕生から刑死後まで、15の場面からなるが、うち13枚を蒿蔵の兄が描き、
最後の2枚を蒿蔵の娘八百〈やお〉が描き足した。
蒿蔵が大正15年(昭和元年、1926)に寄せた序文には「家兄奇陳居士、嘗て松陰伝を読みて感激し、
其の状態を描写するを措く能ず」(原漢文)とある。
絵心のあった兄が、塾に学んだ弟の蒿蔵から様子を聞きつつ、描いていったものと考えられると。
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第一、誕生(是は山家の景)【生家】
第二、幼年素読を受る所【音読稽古】
第三、撃剣【剣術稽古】
第四、御前講【御前講義】
第五、硯を買ふ所【赤間硯】
第六、平戸葉山・山鹿を訪ふ
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第七、江戸脱邸【脱藩して東北遊歴】
第八、下田【米国密航計画】
第九、獄【野山獄中で読書】
第十、松下塾【松下村塾の講義風景】
第十一、江戸へ出発【東送の幕命】
第十二、江戸白州【評定所で死罪宣告】
第十三、骨ヶ原【小塚原回向院墓所】
第十四、若林【遺骨を改葬】
第十五、村塾書庫・県社【萩の松陰神社】
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「松下村塾」で松陰は「長門(長州)の国たる艦して山陽の西順に在り」と、松下村塾のある萩の
松本村の地理から説き起こす。
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吉田松陰の諸国遊歴の足跡。
短い生涯の中で広く全国を歩いた松陰は、21歳の時の九州遊歴出発を最初に、西は熊本・長崎、
北は青森・津軽の竜飛岬、四国、佐渡ヶ島へも旅しています。
22歳の時に関所手形を持たず東北遊歴に出発、翌年脱藩の罪で士籍を奪われますが、
藩主の温情により父杉百合之助の育みとなり、10年の諸国修行を許されます。
ほどなく萩を発った松陰が再び江戸へたどり着いたのは、ペリー艦隊が浦賀沖に
姿を現す2週間前であったと。
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萩ゆかりの人々。
萩の人物コーナーでは、江戸時代末期から現代までの萩ゆかりの人々100人をパネルで紹介。
それにしても、同じ萩からこの様に多くの人物が出たとは信じがたいの一言。
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博物館中庭には竹林が。
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高杉晋作立志像と久坂玄瑞進撃像原型。
高杉晋作立志像は「高杉晋作誕生地」の近くにある「晋作広場」に、平成22年10月に建立された。
銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、
両刀を差した羽織、袴の立ち姿。銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。
久坂玄瑞進撃像は城下町の近くにある「中央公園」の一角に、平成27年1月に建立された。
松下村塾の双璧と称され、尊皇攘夷派を牽引して国事に奔走し、いまから151年前の
元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)にて25歳の生涯を閉じた久坂玄瑞。
吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛され、松陰先生の妹・文
(大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロイン)と結婚した。
銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。尊皇攘夷の先頭に立つ若き玄瑞の立像となっており、
右手を上げて力強く東を指す、勇ましく凛々しい姿。
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高杉晋作関係資料は専用資料室で展示を行っていた。
高杉晋作の甲、愛用の道中三味線や瓢箪、奇兵隊軍旗などが展示されていた。
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高杉晋作の生涯。
萩に生まれた高杉晋作は、吉田松陰に師事し、欧米列強の支配下に置かれた上海を視察したことで、
日本の危機を救わねばという使命感を燃やす。そして「志」ある武士から庶民までを動員して
奇兵隊を結成し、外国や幕府を相手に戦うが、新時代を前に病のため亡くなる。
享年29(数え年)という短くも激しい人生であった。
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高杉晋作直筆の書。
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「松下村塾で松陰に学ぶ」。
長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・ 200 石)・みちの
長男として生まれる
高杉晋作は19歳のとき、幼なじみの久坂玄瑞に誘われ、松下村塾の門をたたいた。
入塾時、自信のあった自作の詩を見せると、吉田松陰は
「才能はあるが、久坂玄瑞よりは劣っている。」と指摘したと。
吉田松陰のこの一言が、負けず嫌いだった晋作を奮い立たせ、
それ以来、勉学に没頭するようになったのだと。
松下村塾での勉強は、学んだ知識をどのように実行にし、
将来の日本にどう活かすか、ということを中心に進められた。
この吉田松陰の思いを忠実に受け継いだ塾生の中からは、
明治維新、明治新政府で活躍した、多くの逸材が育っているのだと。
その中でも高杉晋作は、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに、
「松下村塾 四天王」と呼ばれ、他の塾生たちからも一目置かれる存在であったと。
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坂本龍馬肖像画。
幕末に亀山社中・海援隊などを率いた土佐出身の坂本龍馬を描いたもの。
坂本龍馬(1835~1867)は剣術修行のため江戸へ遊学し、佐久間象山にも学ぶ。
脱藩後は勝海舟に師事し、薩長同盟締結を仲介。後藤象二郎を通じ、前土佐藩主山内容堂の
大政奉還建白にも関与した。作者の公文菊僊は土佐出身の日本画家で、龍馬肖像を得意として
多数作品を残している。賛も公文が揮毫したもので、明治37年(1904)2月、日露開戦前、
昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の夢枕に龍馬が立ち、日本の勝利を告げたという逸話にちなむ。
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騎兵隊。
高杉晋作が創設した騎兵隊は、武士から庶民までが一丸となり
戦った幕末長州のシンボル。
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萩博物館の外庭。
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在りし日の萩城天守閣の写真とジオラマ。
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甲冑や掛け軸も。
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10万石以上の大名配置図(寛文4年(1664年)当時)。
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参勤交代用の籠。
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萩城下に置かれた火消し組の提灯(右)。
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江戸時代終わり頃の萩城下町絵図。
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再び在りし日の萩城天守閣。
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萩城下町の成り立ち。
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ここにも天守の写真が。
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旧萩藩明倫館之図。
萩城下町の中央部に設置されていた長州藩(萩藩)の藩校明倫館の鳥瞰図。
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木主。孔子の木主は高さ157.3cm、幅65cmとかなりの大きさ。
他の四つは高さ90.6cm、幅33.1cm。
厚さはいずれも3cm程と薄いもの。この五つの木主は当時明倫館の聖廟内にあったと。
木主とは神や人の霊魂にかえてまつる木製のもの。みたましろ、位牌。
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「ペリー来航と長州藩」。
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萩藩が初めて建造した洋式軍艦 丙辰丸
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萩藩が建造した2隻目の洋式軍艦 庚申丸 (模型縮尺約65分の1)。
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時代の流れの中での萩出身の人物の活躍。
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「吉田松陰と松下村塾」。
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幕末期の銃。
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動乱の時代と長州藩。
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博物館内の庭には夏ミカンが撓わに。
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そしてレストランで一休み。
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                ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2018.04.17 06:13:20
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