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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
そして今日も『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』のブログアップを続けます。
県立大磯城山公園を後にし、国道1号線に戻り、『旧吉田茂邸』に向かう。
『県立大磯城山公園 旧吉田茂邸地区』
この場所も昨年の一月に訪ね ブログアップ
(☚リンク)しましたので、そちらもご笑覧ください。
『バラ園』。
色とりどりのバラが競うように花を咲かせていた。
吉田茂はバラの愛好家として知られ、存命時に植えられていた品種が今でも同邸内の
バラ園で栽培されている。皇后美智子様ゆかりの「プリンセスミチコ」を始め、
17品種約280本のバラが来場者を出迎えるように甘い香りを放っているのだ。
バラ園内を散策。
様々な種類の秋バラが香りを放っていた。
旧吉田邸内に入る『内門(兜門)』。
この日は12月1日でここ旧吉田茂邸も休館日であったが、庭園には入れたのであった。
『日本庭園』
『管理休憩棟』も人の数は少なく。
再びバラ園へ。
様々なポスターが。
前回訪ねた『明治記念 大磯庭園』のポスターも。
『旧吉田茂邸 駐車場』には休館にもかかわらず大型観光バスが2台も。
駐車場隅にも美しいバラが。
そして再び国道1号線を超え旧東海道に戻り進む。
ユニークな欄干の『本郷橋』を渡る。
昭和2年に建設されたアーチ状の道路橋。
構造は、鉄筋コンクリート変断面ラーメン橋で、高欄、親柱、橋側面のデザインが重厚。
橋長16.8m、幅員6.8mのこの小橋は、建設後、既に60年以上も経ているはずだが、
よく維持管理されていた。
不動川(ふどうがわ)に架かるかながわの橋100選の『本郷橋』。
昭和2年に建設されたアーチ状の道路橋。
構造は、鉄筋コンクリート変断面ラーメン橋で、高欄、親柱、橋側面のデザインが重厚である。
橋長16.8m、幅員6.8mのこの小橋は、建設後、既に60年以上も経ているが、 よく維持管理
されているのであった。
そして、この橋の親柱は常夜灯になっているようであった。
そして暫く歩くとカーブの左側にあったのが『宝前院』。
『本堂』。
「国府山 宝前院」は真言宗の寺。
更に旧東海道を進む。
この土盛りと並木のある直線の道路の雰囲気がかつての東海道だったという雰囲気を
残していたのであった。
そして進むと左手の樹木の下に柱と説明板が。
『国府本郷の一里塚』。
1604(慶長9)年に徳川家康の命で築かれた東海道の17番目の一里塚。
現在説明板のあるものは2002年に復原された一里塚で、実際は江戸方向に200mの位置に
あったとのこと。
『江戸から十七里』。
更に松並木を楽しみながら歩く。
国道1号線に合流すると、『六所神社』の案内柱が。
『六所神社』の大鳥居。
東海道線のガードを潜り本堂に向かう。
『本堂』。
718年に現鎮座地に遷座。 櫛稲田姫命が祖神。その時より一之宮寒川神社 ( 寒川 ) 、
二之宮川勾神社 ( 二宮 ) 、三之宮比々多神社 ( 伊勢原 ) 、四之宮前鳥神社 ( 平塚 ) 、
平塚八幡宮 ( 平塚 ) の分霊を合わせ祀り、相模国総社六所神社と称されるようになった。
毎年、5月5日には「相模国府祭」が行われる。
湯津爪櫛御守り(ゆつつまぐしおまもり)は、男性から女性に贈ると「かけがえのない女性の証」。
縁結びスポットとしても有名。



そして大磯町から二宮町に入る。
二宮町の汚水マンホール蓋。
MY TOWN NINOMIYA の文字と、中央に町の木・椿の花のデザイン。「おすい」の文字入り。
この後国道一号線沿いに歩いていたら、何度も何度も遭遇。
カラーマンホールの椿の花は真っ赤な色であると。
葛川(くずかわ)に架かる塩海橋が前方に。
道路脇の建物の壁一面に紅葉した蔦?の葉が。
『塩見の名残り』と書かれた標柱を見つける。
この付近で明治初期頃まで海で塩を作っていたのだと。
新編武蔵風土記稿にも塩海(しぼみ)について書いてあり、古くからこの海岸で塩を
作っていたと。
近世になってからも揚浜法を用いて川匂・山西の3箇所で塩を作って年貢も塩であったと。
現在の葛川では、その名残は全く見られなかった。
「二宮」交差点に架かる歩道橋の中央付近から、海岸にある西湘バイパス「西湘二宮IC」に
続く道路を見る。
二宮交差点の右前方に早咲きの名の花が咲く人気のスポット「吾妻山」が見えた。
更に進むと右手にあったのが『守宮神社』。
小さな社殿。
明治二十二年十月、神社を再建。「大地主命」(おおとこぬしのみこと)を祀っていると。
そしてJR二宮駅南口に到着。
カラーマンホールを発見。
南口ロータリーには少女の像が。
防空頭巾を纏ってウサギを抱きながら遠くを見つめる少女像。
『ガラスのうさぎ』像であると。
「太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここJR二宮駅(当時国鉄)周辺には艦載機P51の
機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。
この時、目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を
描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子さん著)は国民の心に深い感動を呼び起こし、
戦争の悲惨さを強く印象づけました。
この像は、私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました
人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。
少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。」
『ガラスのうさぎ』の裏には『伊達時彰徳碑 (だてときしょうとくのひ)』が建っていた。
伊達時は二宮駅の開設や秦野―二宮間の交通網の整備、郷土の子どもたちの教育に尽くした。
この碑は昭和26年に伊達の功績を永く後世に伝えるため、町民有志により建てられたと。
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・・・ つづく
・・・
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