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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
松並木の残る街道をしばらく歩き続け、『森下南』交差点手前の交差点から国道と
分かれて旧東海道を左手に入って行った。
旧東海道『森下南』交差点を直進する。
天竜川に向かって旧東海道を進む。
豊田町の東海道には「東海道と歴史の道」という新しい道標『豊田町駅』が出来ていた。
この「東海道と歴史の道」の途中の一言坂は見付宿から池田渡船への近道で、
姫街道の一部であった。元亀3年10月、一言坂では上洛を目指す信玄と迎え撃つ家康が戦った。
多勢に無勢の家康は撤退を余儀なくされ、退却する本隊を助け、本田平八郎忠勝が獅子奮迅の
戦いをした。「一言坂の戦い」である。
武田の軍勢はこの働きを目の前にして、「家康に過ぎたるものがふたつあり唐の頭に本田平八」と
詠って、揶揄半分に称えた。「唐の頭」は「唐の頭の兜」のことである。国道一号線沿いに
「一言坂の戦跡」の石碑が出来ている。
先には『藤と香りの道』、戻ると先程立ち寄った『宮野一色一里塚』との表示。
「東海道と歴史の道ー森下起点案内
この道は昔の東海道です。ここから東の方を見ると、かつて この道沿いに
植えられていた松並木の名残りがおわかりになる でしょう。磐田市では、ここを起点に
現在の県道413号一言坂付 近までの約3キロの道を「東海道と歴史の道」と定め、
いくつか のサインを設置しました。途中には江戸時代に東海道を旅する 人たちの
休憩地となった「一里塚」もあります。
どうか、時間を 超えて歴史の空気の中をゆっくり歩いて下さい。 」
そして右手には大きな石鳥居が姿を表した。
『郷社 若宮八幡宮』。
『郷社 若宮八幡宮』と刻まれた社号標。
「若宮八幡宮
鎮座地:磐田市森下699
名 称:若宮八幡宮<通称:郷社(ごうしゃ)>
御祭神:大雀命(仁徳天皇)、誉田別命(応神天皇)、
息長足姫命(神宮皇后)
特 記:1873年(明治6年)に、近隣28ヶ所の神社を統合して
誕生した郷社で境内に遷宮し奉った神社が祀られていました。」
文字がかすれて解読不能であったが、上記の内容が書かれていたのであろう。
拝殿に向かって進む。
参道左手の広場の小さな丘には『西之島学校跡』と刻まれた石碑が。
「明治3年(1870年)西之島の豪農、熊谷三郎馬は静岡藩士大久保侗(おろか)を招いて
私塾を開いた。初めは自分の家で、次は近くの徳蔵寺、そして西之島学校へと発展した。
当時は授業料は受益者負担であった。「いい学校を作ろう」を合言葉にして「縄ない資金」を
奨励し、寄付を願って森本の大工斎藤源平衛を東京、大阪へ派遣して学ばせ、洋風三階建の
本館を建設した。」と。
『手水舎』。
『拝殿』。
明治七年一区一郷に村社設置の御達しにより当時浜松県第二大区第三小区内二十九ケ村の
神社を合祀して郷社若宮八幡宮と称した。
50年近く経ていますが色白な岡崎式狛犬、子狛犬もしっかり彫られていた。
『扁額』。
『拝殿内/本殿』。
横から『本殿』を。
境内社は本殿前両脇に整列して並んでいた。
立派な屋根付きの土俵があり、例祭での奉納相撲は有名だとか。
神輿舎であろうか。
『境内掲示板』。
掲示板内には『令和元年 御大礼』の案内が。
境内に、「藤と香りの道」として「郷社ポケットパーク」の碑があり、下記の話が
書かれていた。
『藤と香りの道 郷社ポケットパーク 第三場(出会いの場)』
「熊野が、あいさつにあらわれたのは、そのときでした。宗盛の顔にほほえみがうかびました。
熊野が天竜川の土手で、母のために蓮華の花をつんでいた夕ぐれ、そばを通った若い侍が
この宗盛だったのです。宗盛は、熊野の美しさに見とれてしまいました。
そして、できることならもういちどあいたいと思っていたのでした。」
『若宮八幡宮大鳥居造営記念』碑。平成二年の文字が。
東海道夢舞台道標『豊田町 長森立場』
「長森立場(たてば)
江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には、立場という旅人や人足、駕籠かき、
伝馬などの休憩所が設けられていました。
明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。
ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。
立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋をかね、旅人たちはお茶を飲んだり、
名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。
長森かうやく
「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で
作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、
近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として
大変な人気を博しました。
山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。
この看板は、高さ一・四メートル、幅七三センチメートル、厚さ三・五センチメートルという
立派なもので、これには「御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と
刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。
こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたと
つたえられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。
製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。
昔の歌に














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