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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
国道257号線の高塚駅入口交差点を通過。
高塚駅は浜松市南区内に設置されている唯一の駅。
高塚駅とは反対に写真の方向・南方向に2kmほど進むと海岸に出る。
そして国道257号線は分岐し、右側の分岐を進むと旧東海道・県道316号線。
分岐の中央にあったのが、『東海道夢舞台道標・浜松市『篠原』』。
浜松宿 宿境まで一里十三町
舞阪宿 宿境まで一里十五町
国道257号線と別れて旧東海道を進む。
『立場跡』。
真新しい『立場跡』案内板。
「立場は、慶長六年(1601)東海道に宿駅伝馬制度ができた時に、宿場と宿場の中間の休憩の
施設として設けられました。
ここは立場本陣とも言われ、大名等身分の高い人達が多く休憩しました。明治元年(1868)に
明治天皇が御小休されたという記録ん「御東幸御小休帳」や文化年間の「御大名様御小休帳」が
残されています。筋違いには、道中案内記にも載っている茶屋「浅田屋」がありました。
現在この辺りの字名は立場といいます。」
次に右手の『神明宮』を訪ねた。
入口で境内樹木の消毒を行っていた神主の方が、説明して下さいました。
格式ある「神明造り」の『拝殿』。
『本殿』。
「祭神 天照大神 豊受姫大神
由緒 当神社は、「伊勢神鳳抄」に記される。「篠原村神戸九町三反」に当たり
建暦二年(1212)浜名湖中ノ島の小島神明島に鎮祀せられたが、
地震津波等により永正年間(1504~12)に当地に遷座された。
徳川幕府により御朱印五石を拝受、村民の崇敬を得て今日に至る。
天正八年(1580)の棟札が現存。
社殿 昭和7年に建立。神明造り。伊勢神宮正殿を根本とする様式。
柱は丸柱で両妻に棟持柱が独立。破風枝は長く突き出して左右に交わり
先端は千木となる。
棟の上に竪魚木が六本。屋敷の勾配は四十五度、床は高欄。
灯籠 五対一基ある。そのうち一対は江戸の伊丹屋善助又三山の鈴木十四郎の
寄付。他に明治三十五年、三十九年、征露軍人三十四名の名前が刻まれている。
拝殿扁額 「神明宮正二位勲一等公爵九条道實勤書」とある。」

『篠原の一里塚跡』(日本橋より六十七里)前。
「徳川幕府は、慶長九年(1604)東海・東山・北陸の三街道に方五間(約9m四方)の
一里塚を築くことを命じました。江戸日本橋を基点とし、一里(三十六町=約四キロ)毎に
街道の両側に一里塚が築かれました。
東海道宿村大概帳に「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原地内」と記されています。
(左側とは南・右側とは北を指す)当時の旅人は、一日十里(約40キロ)を歩くのが
普通であったといわれていました。」
両側に住宅街が続く旧東海道。
『高札場跡』。
「藩は一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるため、村の中心または目立つ場所に高札場を設けた。
高札には親孝行・忠孝の奨励や賭博の禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の
禁止などがあった。
高札の文面は簡易な仮名交じり文が用いられていた。
明治政府も高札を使ったが、明治六年(1873)太政官布告をもって廃止された。
高札のあったこの辺りは、札木という地名になっている。」
道路脇に小さな社が。(この後も同じような社をいくつか見掛けた)。
古い建物の『柳本診療院』。
浜松市西区篠原町の旧東海道沿いに建つ柳本診療院は、昭和2年(1927年)に建てられたと
される木造二階建ての擬洋風(洋風を真似した様式)の建物。

































藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.13
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.12