inti-solのブログ

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2016.10.29
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カテゴリ: 戦争と平和
三笠宮崇仁さま逝去 100歳、天皇陛下の叔父


5月16日に急性肺炎で入院して以降、6月中旬に心機能が低下。最近は血圧も安定し、ベッド上で手足を動かすなどのリハビリをしていた。関係者によると、肺に水がたまるなどして、何度か危機的な状況もあったという。
三笠宮さまは15年12月に100歳の百寿を迎えた。宮内庁によると、記録上、皇族方で100歳は初めてだった。
三笠宮さまは1915年12月2日、大正天皇の四男として誕生。幼少時の称号は澄宮。学習院初、中等科を経て、陸軍士官学校、陸軍大学を卒業。
戦時中は、支那派遣軍参謀、大本営陸軍参謀などを歴任。中国での日本軍の規律の乱れや残虐行為への反省を促す声を軍内部であげるなど、毅然とした姿勢を貫いていたことが戦後に明らかになっている。
「軍は歴史の研究が不十分だったのではないか」との思いから、戦後は西欧史、そして古代オリエント史へと歴史研究を志し、47年から3年間、東京帝国大学文学部研究生としてヘブライ史を学んだ。54年に日本オリエント学会設立に参加し会長に。75年には中近東文化センター設立に加わり総裁を務めた。東京女子大、青山学院大などの講師、東京芸術大美術学部客員教授として教壇に立った。(要旨・以下略)

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三笠宮が亡くなったそうです。何と100歳の大往生でした。
引用記事にあるように、陸軍参謀として各地に赴任しています。旧軍の皇族軍人は、たいていの場合はお飾り的な立場でしたが、三笠宮は「若杉参謀」という偽名で、皇族の身分を偽って従軍していました。(それだって、もちろん知っている人は知っていたでしょうけど)
その間に、日本軍の軍規の乱れ、占領地での不行跡について、かなり見聞したようです。1943年から44年にかけて南京に赴任していました。そのため、南京事件についても(1937年12月から38年にかけての事件ですから、直接の経験はありませんが)、経験者の話を聞くところもあったのでしょう。戦時中は、東条内閣打倒のクーデター計画に加担しています。更に、戦後は歴史認識や、旧軍に対する批判を公言しています。
南京事件については、
「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」(読売新聞社「This is 読売」94年8月号)
とインタビューに答えています。
また、紀元節※復活に反対の論陣を張ったため、かつては「赤い宮様」などと右翼に攻撃されたこともあります。

※「神武天皇」が紀元前660年(皇紀元年)2月11日に即位した、として、戦前は2月11日が「紀元節」として祝日になっていました。敗戦後紀元節はいったん廃止されたものの、自民党政権はその復活を図り、野党の反対を押し切って、1966年に「建国記念の日」として2月11日が祝日化して現在に至っています。

ところで、紀元節で気が付いたのですが、「宮内庁によると、記録上、皇族方で100歳は初めてだった。」という記述、さすがの宮内庁も、現在はそのように認識しているのですね。

当然、歴史的事実として今から2000年も前の時代に、そんな超高齢者がぞろぞろいたはずがありません。「皇紀2600年」というのは、そのようなまったく架空の年号であり、歴史学者としてそのような架空の年号に基づく紀元節を受け入れがたかったというのもも当然のことでしょう。

ただ、三笠宮の学歴を見ると、学習院を経て陸士・陸大ですから、およそ国粋主義の塊のような教育を受けてきたはずです。そのような教育に染め上げられてしまう人と、染め上げられない人がいる、ということなんでしょうね。三笠宮は後者だったのでしょう。

それにしても、子どもが3人先に亡くなるとは、親としては辛かったでしょうね。それも、3人とも長生きではなかったですから。100歳まで生きる、ということは、そういうことが起こりやすい、ということです。長生きが幸せとは限りませんね。
ご冥福をお祈りします。





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最終更新日  2016.10.29 19:23:44
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Re:三笠宮死去(10/29)  
Bill McCreary さん
>ところで、紀元節で気が付いたのですが、「宮内庁によると、記録上、皇族方で100歳は初めてだった。」という記述、さすがの宮内庁も、現在はそのように認識しているのですね。

このような記述をしているところもありますね。

> 昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。

//www.sankeibiz.jp/compliance/news/161028/cpd1610280500001-n1.htm

さすがに本気じゃなくて政治的建前でしょうが、これ読んで私本気で、お前らまだ神武×歳なんてことにこだわっているのかと本気で呆れました。といいつつ予想通りというところもあります。

>また、紀元節※復活に反対の論陣を張ったため、かつては「赤い宮様」などと右翼に攻撃されたこともあります。

そういう点は産経からすれば、批判はできないが、しかし「困ったものだ」というところなのかもです。

>それにしても、子どもが3人先に亡くなるとは、親としては辛かったでしょうね。それも、3人とも長生きではなかったですから。100歳まで生きる、ということは、そういうことが起こりやすい、ということです。長生きが幸せとは限りませんね。

複数の子どもが親より先に逝くというのは、親からすればたまらない悲しみでしょうね。 (2016.10.30 10:06:56)

Re[1]:三笠宮死去(10/29)  
Bill McCrearyさん

>このような記述をしているところもありますね。

>> 昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。

>//www.sankeibiz.jp/compliance/news/161028/cpd1610280500001-n1.htm

いやあ、さすが産経です。「では、明治以前はいたのですか?」と聞いてみたいですね。どういう答えが返ってくるんでしょうね。怖いもの見たさ(笑)で知りたいです。

>>また、紀元節※復活に反対の論陣を張ったため、かつては「赤い宮様」などと右翼に攻撃されたこともあります。

>そういう点は産経からすれば、批判はできないが、しかし「困ったものだ」というところなのかもです。

そうでしょうね。今後は、三笠宮の生前の主張には一切言及しないことで、「存在しなかったことにする」のでしょう。 (2016.10.31 20:09:58)

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