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これまでのことを、半分だとしたら、あと「もう半分」を考えてみたら、どうかということを考えている。その「半分の話」が、半分にも達しないで終わっては、しゃれにならないので、もう少し続けたい。 売れないという。売れるものがつかめないという。さらには消費者の好みについていけないという。このように「売れる」、「売上げ」といった半分の側面でしか、ものを見ていない。これを「もう半分」の方で、考えてみようよ、と言いたいのである。 企業は、さまざまな意味で世間が狭い、世間とのズレがある。なぜか。それは業界自ら業「界」という垣根を作って、普遍性、日常性から乖離し、特殊性、非日常性に閉じこもっているからである。この場合の「界」は、狭い小さい界と広い世界。あるいは特殊性と普遍性という界、あるいは作り手・売り手と買い手・消費者、いろいろある。 狭いから広い世界を見るには、自分たちで作っているこの「界」という垣根を取りはずせばいいのだが、それはそれで、保護されるうまみがあるのか。それはやらない。 檻の虎は、上げ膳、据え膳に馴らされると、野に出ることを厭う、という。 最近になって行政が「規制緩和」と号令かけだしたが、なかなか囲いか垣根か知らないが、出ようとしない。 規制にしろ、檻にしろ、中にいるとそれなりの自分たちの居心地のいい「界」。その界の外に、広い世界があるのだが、それは自分の界という窓から見える範囲に限られる。 現実は、自分たちの界をどんなに大きな円でかこっても、その円の広さより、円の外が、それはもう比較にならないぐらい広いんだということが、実感で掴めない。 こうした人は、人との関わり、事物の関わりを通じて、その広大な円の外から、エネルギーを取り込んで、小さな円の中の小さな自分が生きているんだ、ということが理解できないようである。理解しているようでも、それは界の内からの、幻想に過ぎないようである。その典型的例を挙げると、「顧客第一主義」は、実態は自分を「ゼロ」位置に置いたままの、お客を第一であり、「顧客の立場に立って」といっても檻の中に立って、そういっているだけ。小売店売場の主流は、対面でセルフサービスのままだ。 マーケッティングでもそう。自分たちが殻や垣根に閉じこもっているせいか、消費者に対してまで「囲い込み」といった不遜なマーケット用語が依然として使われていることを誰もおかしく思わない。 先に結論から言うと、自分中心、こちらの岸から向こう岸をみるという、半分の思考、自体は、変わっていないのである。 これを「もう半分」の向こうの岸から、こちらの岸を見る。その見える景色はまったく異なることを確認したら、これまでの「相手の立場立場に立って」みえた景色が、いかに間違いだったか、気づくはずである。 人は見えるものしか見ない。だが自分が見える世界を、世界と見ては齟齬を噛む。
2006.01.31
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落語に、「もう半分」という暗い陰惨な噺がある。五代目 古今亭今輔の「もう半分」では、彼が「もう半分」と手を前に出すたびに前席のお客が身を後へのけぞらせたという。この話は、酒をお代わりするときの、言い訳のセリフ。「お代わりは、如何ですか」といわれて、「いやいや、ほんの少し、ちっとだけいただきますか」といって、この繰り返しで一升酒の類である。 半分には、この足す半分と、捨てる半分がある。 全部捨てたいとおもうのだが、なかなか捨てきれない。それで半分だけ捨てる、というわけだ。人間の(私のと言っていいのだが)浅ましさがでている。 ところが体験した方なら、賛同いただけるのだが、これまでのことを捨てると、結構気持ちいいのだ。今も部屋の半分、空間が出来たことを思って欲しい。とたんに、ここどうしようか、と考えおもしろいものイメージが湧いたしてなんだかたまらないぐらいわくわくしてくるのだ。最初は渋っていたのに、やがて、捨てるものを必死で探している自分に唖然としたりする。 それでも捨てることには、一抹も二抹も不安を感じるのは、もし捨てたものが必要になったとき、それをどこかあるかと探しまくっている自分が、頭によぎっているからではないか。現実そんなことはここ5年なかった。なかったから捨てようと決めたのだから。 こう考えると、問題は捨てることに対しての不安というより、未来に対する不安ではなかろうか、とそんな気がする。これは、これまでは発生しなかった。でも将来(さき)には、必要とすることが起きるかも知れない、といったまったくロジックにそぐわない妄想だ。ここまで書いて、古本屋に行った。何を買うということでなく、隅から隅までタイトルを目で追う。かって欲しくて見過ごしていた本が、褪せて23冊も並んでいたりすると、買いそびれたことが正解だった、と思う。捨てた本を、ひらう人などいないのだ、と思いながら、その中の一冊を手に取る。10年ぐらい前に私が、売った本だ。 ここを捨て場、と仮定したら、捨てないで取っておく本は、それぞれの人々の書棚にあるわけだ。100の内、50を捨てるというこは、50を選ぶというになる。50を選んだ場合と、50を捨てた場合と、残ったものは一致するのだろうか。 タノウエ式経営計画は、今から将来(さき)と、将来(さき)から今の双方から計画を練り上げ、前者、後者の乖離を解消することで、将来(さき)に発生する乖離を事前に戦略しておこう、という新しい手法である。 これは、前者、後者が明らかに一致しない。それも大きな乖離が出る現実に着眼、考案した。 これによると事実、、取っておこうと選択した半分と、半分すてて残った半分を取っておこうの半分とは、一致しない、ということになる。
2006.01.31
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こんにちは。福井○▲の森川です。大変ご無沙汰しております。 先生の書籍をじっくり読ませていただいた感想をお送りします!と張り切って いながら、メール不精ゆえ、お便りが遅くなってしまいました。 11月に購入させていただきました、羊たちのちんもく、羊たちの探しものです が、休み休みしながら数度読ませていただき、年末年始には購入してから約 2ヶ月後も経って・・・ですが2冊通して読ませていただきました。 ================================= 利用客数は見えるが、利用しない客数は見えない。後者の方が圧倒的に多いのに、その事実に気づいていない。 中途半端は経費のムダだ など ================================= 「お客が背を向ける本当の理由」というサブタイトル文字を目の当たりにするだけ でも、この本はアナタにぴったりの本なんだよという挨拶代わりの戒めになってい たので覚悟はできていましたが、学ばせていただく中で、自分もその一人ですと 納得し反省させられることがあまりにも多く、非常にショックでした。意識すらして いないことばかりでしたので。 自分はただ「こなす」だけの人間だ、お客様に背を向けられているなと。 うまく表現できないのですが、学んでからの自分は学んだ直後に感じたことを 実際活かせているか、行動に起こせているかというと、まだモタモタしていると いうか腰の重い部分も残っており、これじゃ絵に描いた餅じゃないかとすっきり しない面もあります。 自分がかわいい所、自分の都合を中心に置いている部分は、自分では隠して いるようでも見える人には見えてしまいます。(以下省略) * 上の文章は、○▲を除いて、先日頂いた、森川さんのメール、原文のまま。但し無断で、後半割愛させていただいた。 彼とは面識はない。だが同じ福井の嶋崎先生のブログの中で、お名前がでていたので、最初のメールいただいたおり、記憶があった。 嶋崎先生が素晴らしい方だと書いておれれたが、上のメールを拝見し、改めてほんとにそうだ、と感服した。 コトを見たり、聞いたりしたとき、それを自分のこととして考えるという才能があって初めて人は学べる、というのが、日常の風景を師としている私の持論である。 それにしても、こんなふうに自分の問題として受け取ってくださる方がいるということは、文章を書く者にとって、どんなに嬉しいことか。 このことは朴寅鎬さんから、読後感を頂いたときにも触れた。 ハウツー書として、読んでくださる人もいる 彼らのように、啓発書として、身を震わせる人もいる。 書き手として、読んでくださる人たちを、区別するといったことは不遜際回ることで、慎まなければならない、ことは知っている。 だが、たくさんの本の中から、こんなちっさな名もない著者の、本をえらんでくださったのだもの。ここだけでも叫ばして欲しい。「それだけで嬉しいのだ。有り難いのだ」と。 こんなお便りをいただくと、そんないいこぶった感激などちょいと、あっちいってホイしといてよ、という気持ちになってしまう。 ふるえる。責任感でだ。嬉しくなる。自意識が高まってだ。 反省もする。もっと良い書き方すべきだった、と。 忘れる。もううれるのうれないのってこと、実に些事だって。 こんなことが、ごちゃまぜの気持ちだ。 有り難いな。こうした人が、わずかでもいてくださるおかげで、私はとてつもない良い気持ちに浸れる。もっともっと、人様に喜んで頂ける仕事をしなくちゃ、と意欲が湧く。 そして、行き着く思いは、「俺の人生、悪くはないぞ。この生き方を選択したからこそと」と。 しばし至福の時間に浸っている。
2006.01.30
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今ほど、企業の論理(たとえば売るためのお客様第一主義)から、消費者の側に立って掛け値なしにお客様の願望なり利益を優先第一とする思考と行動への切り替えが求められるときはなかろう。それは企業の論理や行動の暴走を牽制する機能としての企業倫理や人間としての道徳的問題で論じてもだめである。 このことは同様の不祥事が繰り返されていることから容易に理解できるはずだ。古くは旧第一勧銀から始まる銀行群、朝日ソーラ、ミドリ十字、高島屋、味の素、麒麟麦酒、野村証券以下4大証券、雪印、伊藤ハム、丸大、最近の姉歯関連の諸会社、ライフドア、東横イン。 まさに懲りない面々で、学習効果機能など存在していないかのような頻発ぶりだ。 それら企業の不祥事が発生するたびに、問われるのは企業倫理の問題である。そのことに異議を唱えるわけではないが、これだけ繰り返されると本当に倫理の問題であろうか、企業論理に持つ付く確信犯ではないか、という疑問を持つのである。 そもそも疑似人格体である、人間ではない企業に倫理そのものが存在するはずがない。あるとすれば、そして問われるとすれば、企業の意思決定をなす経営者なのである。なにを言葉尻を、という声が聞こえそうだが、法人格の隠れ蓑をかぶることで、思決定者が、倫理にしろ犯罪性にしろ、免罪されている気がしてならないのである そこで私は、ずいぶん以前から彼らに倫理を問うことは期待せず、1、人に問え、それも経営者としての意思決定の是非の問題として問え、追求すべきだ、と腫脹している。 その上で、企業犯罪が多発する根本土壌に、"企業の論理"そのものがあるのでは、と問うてきた。すなわち企業の論理による思考と行動が、自ら結局は企業のこれまでの利益と将来の可能性までだめにしてしまい、企業生命を短くしている。企業指導に携わる者の一人として、どうして短期的利益や合理化によって、長期的には命取りとわかっている判断をしてしまうのか、その経営戦略、もしくはそれにもとづく経営判断、個々の案件にいたる意思決定に、幼児的、短絡的、齟齬性がある、と言いたいのである。 それは、「企業の論理」が、企業内外の、ステークホルダー(利害関係者)に与える負の要素を、情報非開示ないしは情報操作により、包み隠すといった、おおよそ長期戦略的には、あまりにもリスクの多い、近視眼的判断に求めることができる。 しかし現実問題として、「企業の論理」でもって個々の案件として、その都度その都度、「点」として判断するという意思決定のありかたがでは、短期的には業績が上がることを「是」とみて、長期的には「如何なりや」という両面思考が欠落してしまい、直接的ステークホルダーのみならず、消費者とその位置する社会から否定され、大きな問題となったのちに、「今になって考えると」といった、情けない抗弁と成っているのである。ここに、将来(さき)の卵より今の肉、といった経営者としての今の功名意識が加わり、負は先送りの意思決定になる。 だからここは少し乱暴の誹りを甘んじて受けて申し上げたいのいだが、企業が永続的繁栄を望むのであれば、「企業の論理」を捨て、「消費者の論理」というメルクマールにギャチェンジすることである。 具体的には、1に消費者、値域といった概念も含むステークホルダーからみて、是かという視点。2に、今という、この「点」の判断の将来(さき)は、是か。というメルクマールを徹底させること。規模的に、あるいはワンマン体制であれば、この監視役に社外取締役を設け、この点に厳重なチェックを制度的に入れること必要になろう。3に、社内と社外の温度差を詰めること。とりわけ情報。これは社内から社外への情報開示の不足(というより欺瞞)が取りざたされたが、もうひとつ社外のステークホルダーの情報、空気をひろく社内に取り込むという方の情報も欠かせないと思う。どうも企業犯罪を起こした経営者の言動は、社内だけに通用するものとしか、私には思えないからである。「消費者の論理」から、企業を再構築しない限り、この種の事件は後を絶たないし、こうしたことが続いては、この国の経済基盤を脆弱化し、国際的な信用すら失いかねない。もはやステークホルダーは、地球の裏側に至るまでグローバル化していることを、自らの意思決定時、忘れてはならないのである。
2006.01.29
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何度も同じことを書いている。 「今の良し」、「自社の良し」、「自分の良し」で判断しても、将来(さき)の良し、社外の良し、他者の良しになるかどうか、この両面思考が経営者の意思決定の必要条件である。 いうまでもないが、今は良くても将来(さき)に悪ければノウ。自社、自分にとっての良しでも、社会やユーザーにとってノウであれば、その大事な自社、可愛い自分の存続を許されないからだ。 日経ベンチャー誌やトップセミナーなどに頻繁に登場している、女将方式のビジネスホテル「東横イン」の西田憲正社長は、自社の法規違反を車のスピード違反を例にとり、笑いながら(苦笑?)釈明していた。 ばれなかったら、良しという意思決定は、片面思考。経営者の判断ではない。法規違反をすれば、ばれないだろうとかってに想定し、結果としてはその身勝手な意思決定でによる大きな損失を被る.思いこみで経営する。そのことにたいするリスクも考えない。そうした人が、まっとうな経営者かどうか。 倫理感がない、遵法精神に欠けるといったことはいわずもがなだが、私は経営者としての資質の面から、「問題有り」と説き続けている。 それは、経営とは?、戦略とは?、美しい商人とは、未来永劫的な発展とは、とか消費者中心主義、といったことを追い求めている仕事をライフワークとしている、私から見たら、優しく表現したら「あぶなっかしい経営者」であり、辛口でいえば、「アイデアはあっても経営者資質を欠いている」、極辛でいえば、「人間としてどうか」と思っている企業家、泡沫経営者のリストの一人に過ぎないと、見ているからでだ。 なぜこうしたことに関心を持ち、書き続けるかと言えば、このような挫折をする経営者達に共通する普遍的な要素をえぐり出し、それを研究、私のライフワークの1つである「美しい商人たち」のために役立てたい、その一念からである。 だから脳力開発の師であった城野先生が亡くなられた後の私の師は、こうした反面教師と、日常の風景のの中から、「おやっ?」と感じたものに仮説を立てる自学自習、それに友人、経営者たちなのである。 それにしても、反面教師の多いことよ。
2006.01.28
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売り込まない、売らない営業理論の構築を目指したとき、そして白圭塾を立ち上げ、「美しい商人をめざそうよ」と呼びかけたときもそうだった。 「そんなきれいごとで生きられるものか」、「そんなん理想論で商売が成り立つはずはない」、と私の貧乏性を知る親しい友人から注意を受けた。「若いからね、理想を持つのは良いが、現実は。やめなさいよ」、東京在住のこの道の大先生たちからも、好意あふれる忠告をいただいた。 だが人のマネや人を追うことを嫌いな私は、自分なりのものを目指したかった。だがそれはそれなりの能力と実績があればこその話で、そんなものない私は、自分でも無謀だと思った。でも自分のものをやりたかった。都会を捨てた。親を捨てた。大先生を捨てた。大企業を捨てた。経営の専門書を捨てた。 以降、なにか、答えがでそうで、そこまで出かかっているのに、といったことを繰り返すし、なんとかここまできた。朝が来たらもう夜、夜寝たら朝といった怠惰な感じで日々を過ごしながらも、まあ、こうして時を過ごしていれば薄皮が重なってくるかも、と半分以上はふてくされの思いだった。 しかし数は少ないかも知れないが、今の営業を続け、自分の心を荒ませることをいやだと思っている人はどこかにいる。大きくなることではなく、千金を求めるのではなく、一人一人のお客様に役立ち感謝されることを誇りとする美しい商人を目指している商人はいる。たったそれだけの根拠のない「希望」が、支えてくれた。 希望はのぞみの具現が稀有であることをいう。だが無望(無謀)ではない。そんな言葉遊びにすら、希望を懸けてきた。 その間、実に多くの名のある企業が消えていった。実に多くの著名経営者が挫折、中には犯罪者として有名になった。 一方、増収増益、私たちが知りもしない経営者が率いる世界的な会社も少なくないことを知った。名も知らない企業や、会社でもない商店で消費者から無くてはならない企業、商店として堂々存在している。そうした人にも出会った。 「見よ、見てご覧、企業はタレントではない。経営者は著名度を競うものではない。おおよそ商いにはそうしたことは関係ないのだ」、浮かれた思いで言ったり、書いたりしているのではない。 私が、泡沫的な理想にうつつを抜かしているここ20年の流れの中でLD社のホリエモンの会社は大きくなった。5年前には知らなかった会社が、莫大な富と知名度を得た。もちろん以前にも、たとえば高塚某氏、古くは坪内氏、その他数多くのタレント経営者が人気者になり、そして消えていっている。 それはなんだったかと、自らに問うているのだ。一方、名もなく貧しい郡部で小さな店が100年以上続いている。たとえば鹿児島県、旧吉田町に、名前は「池田百貨店」だが、40坪にも満たない萬屋が堂々生き抜いている。 こうした現実もあることをみれば、あながち私の目指した理想にも希望がもてる。無謀ではなかったと、自分自身を少しは褒めてやることが出来る、とそのことを言いたいのだ。 父や友人の不幸も続き、少し気が重くなっているとき、2月、また名古屋でも講演の話を、朴さんからいただいた。そして昨日、福井の嶋崎先生、これまた偶然福井だが、中小企業大学校の森川さんから、今のわたしにとっては命綱にも思える暖かいメールを頂いた。 おかげで、また勇気が出た。消えないうちに、私は叫んでおこう。 薄い皮でも積み重ねていけば強い厚みになる。このお思い込み(仮説)が、私の世界で実証できなかったら、私は美しい商人を目指す数少ない友人に向かってこう言おう。「私はまだ、積み重ねが足りないんだ。」。
2006.01.27
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フジTV社長が、LD買収の可能を示唆した。ホリエモンに次ぐ大株主だから、理由は単純だ。1に、下がったら損失が膨らむ。救済表明で下落を防ぐ思惑。2に、LDとの業務提携の経営判断に対して、損害賠償、場合によっては背信行為の責任を株主訴訟される懸念が強いからだ。だから傘下におさめれば、業績を見守る間留保される。その可能性が彼の胸の内と読む。 もちろんその間、株が上がり業績が上向くことが、絶対条件だが。 だが虚構により作られた業績を上回る業績確保は、まず悲観的だ。フジTVは虚構での事業はやれないし、やらないからだ。としたら、これは先延ばしだ。先延ばしだが、これにより株価が上昇すれば、ナンボか助かる。 これが彼の気持ちだとしても、それは何ら問題はない。問題はないが、1に、これを見て特に奇人株主が買いに走り、株を押し上げて、結果が出てまた乱気流、ということ。投資にはあることだから、それは良しとしょうか。 2に、LD株には、膨大な借入金が担保されている。放置されれば、ドミノが発生することは必至だ。その影響が軽減される。それらがの是非は、ここでは論議からはずす。ここでは、1に人の胸の内で、動くのではなく、己の判断で動くべし、という教訓、2に正義からの言動に見えても、打算があるかも知れない。無いかも知れない。それは自己責任。だから両面思考で、冷厳に見た上で、己の言動を決めるべしという教訓。 この2点が私が私のために、さきほどTVから得た教訓でのメモである。
2006.01.26
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ハードデスクの記録は、物理的には完全に消去するソフトがあるから、記録は完全に消せる。今回の事件でも捜査が入る前に、おびただしいメールを消去し証拠隠滅を図ったという。しかし馬鹿なこと、ムダなことだ。それは物理的に消えたに過ぎないからであり、消したことで犯意の認識を認めたという新たな証拠を作ったことになるからだ。 監査に反面監査というのがある。監査に入る前に、そこと関係ある(リクク)企業や人たちのの情報をあつめ、先にそちらを押さえておく。その上で本命に立ち入るやり方である。つまり捜査に入ったということは、そうした裏付け捜査が完了済み、ということだ。このように監査では、先に裏付け(反面監査)を済ましておく。 メールは自動コピー機なのだ。また発信するということは受信するものがいて、そこに控えが残るということだ。発信者もメーラーも受信者も同じ社内の人間であれば、確かに物理的には消すことは可能だ。だが企業のやり取りは社外との取引が中心だ(そうでなければ事業は成り立たない)。 外部に発信したメールは外部の人が管理する。「やがて捜査が入るかも知れないので、お宅にメールした当社関係のメールを完全消去してよ」とは、ちょいと言えない。言ったとしても言うことを聞くかどうか。言うことを聞いてくれたとしても、そのメールを転送していたり、その内容にかかわることで会議など開いて議事録を採っていたり、それを元に資料や決裁書を作ったりしていることも考えられるから、まず完全抹消は難しい。 売り掛けを自社でチァラにしても、相手先勘定には買い掛けとして残っている。こんなことは、ちょいと考えれば誰でもわかることだ。それを自社のメールを消すから、逆に墓穴を自ら掘ることになる。 以上は外部との繋がりでのアプローチ手法だが、基本的には会社内部のケースも同じだ。押さえる方法がある。メール全部を消すわけではない。だから都合が悪い事だけを消す。そうすると 1に、 全体システムAー都合の悪いものB=その他Cということになる。私ならこうやる。BとCをここに関連したものを並べ、相互をつきあわせる。消去した部分が、つじつまが合わない(繋がらない)。 これは 10-( )=6 といった小学2年生程度の算数だ。 ここでもわざわざ捜査に協力して、1,都合の悪いものを取り出している。その選択基準こそ、犯行のキーになる。そのキーを捜査員に渡したようなものだ。2,みずから犯行の状況証拠を作ってくれた。 2に、メールは時系列だ。時間軸で追っていくと、消されたものとの関連事項とつきあわせることで、消されたものの固有性が浮き彫りできる。 3は、発信者と受信者の、メールおよび関連データーとの突き合わせ。 後はユックリ、関係者を一人づつ呼んで、( )の回答を迫ればいい。同じ式では、( )の答えは誰に聞いても同じになる。それが違う。そうしたらシメタもの。それを突き詰めていけばいい。 今回も、3人は、(やった)と答え、ホリエモンは(やってない)と答える。もう( )の中が、3人は、( )は4,1人は0と答えている。 ここでホリエモンは、重大な誤りを犯している。解があるものに、「ない」と応じている。ないのであれば証拠隠滅は必要ないのに、だ。 もう1つは、集合論的あやまりだ。やったとやらないは、相矛盾することだ。やっているがやってない、などはあり得ないからである。これでも、「ならば、なんでメールを消しとね?」と突かれる。 まあ、バカみたいなことを書いているが、監査などおおよそこうした作業を進め、ことを突き詰めていくわけだ。そうすれば必ず事実にぶつかる。いかなる犯罪であろうと、事実という解は存在するのである。これは数学の「存在問題」である。 捜査については、推理小説で得たぐらいしか知識はないので、私が監査部時代やっていた方法と同じだというつもりはないが、集合論、解は1つ。その前提として存在問題、こうしたものは社会現象を分析する手法として、普遍性があることなので、捜査でも大きな違いはないものと、かってに思っている次第だ。
2006.01.25
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リンクとは繋がっている状態である。これはAの変化がBへ、Bの変化がCへ、Cが、Dへ、とドミノ現象が起きることを意味する。問題はBは、どこ、Cはどこ、ということだが、これはリンクが何で繋がっているか(共通項)を押さえれば容易にわかる。金で言えば貸借関係。手口(ノウハウなど)の場合もある。人脈であることもあろう。いろいろあるが絞り込みやすいので、そのうち3つもやればじぅうぶんであろう。 これは食中毒の発生源、病原菌を突き止めるやり方とおなじである。。つまり普遍性がある手法で、私は「MMAPで経営革新」で使っている。 いずれにしてもライブドアの今回の問題の本質は何か、その何かが共通するところはどこか、、、。それはたとえばビジネスフォーマットが同じということなら、L社が法律違反、同じやりかたをしているB社が、問題ない、ということはあり得ないから、とこういう見方をするのである。 映画、「地上最大のショウ」の中で、象が道路に散乱している紙を食べるシーンがある。それに気がついた築いた団員が、「紙を食べたらお腹を壊すじゃないの」と注意をする。これは素人。 象使いの女性団員はすかさず、紙を調べる。食べ物が付着していることを見つける。 これは、紙を食べるのがこの象だけの固有性ではない。それは食べ物がフチャクしていたから、どの象も食べる、という普遍性を見つけたわけである。この普遍性をL社で、きちんと押さえておけば、次の捜査がどこへドミノするかは、容易に読める。 「六本木ヒルズの住民に衝撃が走る」、といった報道があったが、これが単に野次馬的驚きなのか、「おれんちも危ないかも」と言う意味での衝撃なのか、私はその現場を見ていないのでわからないが、これはIT成金という共通性があるわけだから、確率の問題としては、大坂の西成と比べたら高いと言ったことは言える。 ここで次に入る前に、整理しておこう。1にリンク先をみる。金を貸したという事実は、その金を借りた人がいる、というこれがリンク。2に普遍性ある原因を押さえる。つまり同じノウハウを使っているところを探す。3に、共通項のある業種、共通性の高い地域。中学で学んだ数学の「共通項の同根のくくりつけをやる。こうしたことを時間軸に並べてやれば、「ははん、ここだ」、とだれでもわかる。以下、後ほど。
2006.01.24
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ゴールを描いてスタートする。あるべき姿を描いて、人は前に進む。起点があるということは終点があるということだ。 その終点を、起点より良きものにしょうと人は希望を抱き発ち、前に進む。そのために起点から終点までの間、おびただしい意思決定を行う。その意思決定の織りなすものがプロセス、そのプロセスを、外部の者が、仮に1月1日カットして見てみたら、その断面は「成功者」と判定できた。だが今朝切ってみたら一変。これは外から断面をみた人々の判定である。 だが断面は、当人の意思決定で織りなされたものである。つまりバラ色をおると目標を立てて、織りこんできたのであれば、バラ色の織り上がりが結果として出来る。それがどうして真っ赤などくろ模様に?とご当人が疑問に思ったとしたら、それは嘘だ。 彼が一昨日のブログに書いたことは、真っ赤な嘘だ、と言うことは真っ赤な色を選択し、どくろを編み上げた彼は、わかっいるのだ。 経営の意思決定には大きなプロフイットを見込むが、同様大きなリスクが伴う。だから「思い当たることがない」、「記憶にない」ような軽い意思決定であったはずがない。 人は、外部の人間はだませても自分はだませない。くしくも作家 宮城谷昌光氏は近著「三国史」の冒頭で、揚震の「四知」を掲げている。四知、すなわち「天知る 地知る 我知る 子知る」である。 この四知を知らない、あるいは忘れた者は、善を誇り悪を隠そうとする。その結果傲り、その傲りで外の人の疑心を生み、結果として自業自得で自滅する、という。 人は、どこまで行っても人。その意味で未熟なまま生まれ、未熟なまま終わるといえる。だからこそ人なのだ。人故に「たすけ」が不可欠なのだ。「たすけ」とは、「他を助け」、あるいは「田を鋤く」ことで得られるものである。この意味は深く思い。 人は、他の助けがなければ生きていけないし、成長もできないことを意味している。諫言すれば、人は助け助けられる関係のもとに生きている。 ネットの本質もここにある。こんな基本的なことすら知らない者が、ネットの世界で己の夢を描き、己の目標を立て、その具現のため、人の心まで金で買えるということそもそもが、浅ましいことだ。誤った基準で、意思決定を続ける、と誤ったことになることは自明の理、当然のの帰結である。 犯罪としては証券取引法違反だし、金もある。有能な弁護士を雇える身分だ。保釈金を積めば想定以上に早く出てこれるだろう。そして今の事業にも復帰できよう。 だがもう一度言うが、人は、死ぬまでは己の意思決定で人生を織りなす。経営者は意思決定で、企業は決まる。これは牢に入る前も牢の外に出たその後も同じ不変の原理だ。繕いで変わり、金で買えるものではない。 だからその意思決定の「基準」そのものを、彼自身の意思で変えない限り、また同じ織物が生成される。これまた自明の理である。 人は生まれ変われない。だが人生のメルクマールは、自分の意思によって、金では買えないだろうが、自分の意思で換えることが出来る。 このことが、彼の再起如何を100%握っている、とここに断言しておきたい。
2006.01.24
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たとえば「報・連・相」を徹底すればするほど以前にも増して、取引先などとの連絡ミスや手違いが発生した、というご経験はありませんか? このことは「内と外の論理」というテーマで話したり書いたりしていますが、社内体制をいくら固めても、否、固めるからこそ、社内の「内」が孤立化し、「社(会)」と遊離してしまうからです。 自分の家の配線に問題なくても、外の電柱との電圧が違うとパシァーといってうまくいきませんね。あるいは寒いからと言って部屋の温度を上げていると、外に出たとき余計寒い。温度差のせいです。当然でしょう。これと同じことです。 外部に合わせて内部を対応させること、これが企業の基本姿勢ですが、このように社内システムの充実を外部との繋がりを考えずにやる。 「社内体制の強化」、「内部固め」とか、スローガンが内向きの時には、とくに外部との接点部分への影響と言うことを忘れがちです。 つまり自社そのものが外部とのシステムに内包されている、といったことがわかっていない。あるいは忘れている。「外部に合わせる」のが事業の基本、普遍性のあるセオリーですから、これを無視、あるいは忘れた経営者が、挫折するのは当然。しないほうが以上です。 彼らだけではなく、私たちに大なり小なり天動説者。「世間は俺と我が社を中心に回っている」といった気持ちがどこかにある。日常の風景で、私自身が、この会社やばいな、と思い、事実それが当たった事例が、以前別のプログに書いた、携帯電話、それにドタキャンの話です。 応接間であなたと話をしているあいだ、何回も携帯電話がいり、その都度座を離れる。こうした経験ありませんか? 目の前の人をそっちのけで携帯電話。これはエチケットとかマナーの問題ではないのです。目の前の人への応接より、携帯電話への対応を優先している。 ドタキャンも同根です。 そもそも 携帯すら使いこなせない。携帯に振り回わされる。こんな人がまっとうな事業経営ができるわけない。人がついて行くはずはないじゃないですか。もちろんこうしたことは些事。ですがその些事をみて、外部の人は判断するわけです。「私は、軽んじられている」と。 心の中は見えないが、言動はみえる。その言動、ここでは携帯電話より軽んじられ、さげすめられたお客なり部下の心は傷つく。 口で「お客第一主義者です」、「あなたを大切に思っています」といっても、外から観る人は、まずみえるもので判断する。心底の「証」としてとらえる。 こうして人が離れていく。「人心が離れる」って言い方していますよね。分かり切ったことですが、ここでの「人」は、自分以外。内部的には部下。外部的には消費者や取引先、関係先の人々を言います。こうした「人」たちが企業、経営者を支え、押し上げているのですから、彼らが離れるということは、社会システムから分断され、ポジャルことです。 でも実のところ、ぽしゃった理由が、「こんなこと」にあるとは、つゆほども思っていないし、思ったにしても彼らにしたら、もっと高邁な、立派な理論に裏付けられた理由でもっての倒産でなければ、我が自尊心が許さず、いやかもしれません。表にはそうした理由がでることは稀有です。でも私から見たら、めになる企業の理由って、内実はこんなことです。 どんな企業も社会システムの中で有機的結合をもって存在しています。簡単に言えば、ネットで繋がっている。このつながりをワークするかが経営者としては第一義の仕事です。ですからその、「ネットでのワーク(=ネットワーク)」を、どのメディアでやるかは戦術問題にすぎません。 つまり、ITを使っているから最先端企業と思うのは間違いなわけで、戦略レベルの「外部との繋がり」をもっとも確立した企業こそが、最先端をいっているのです。 戦術におぼれてもしアウトローをなし、戦略を誤る、ということも、内部を固め外との疎漏を生むのも、実は主客転倒、ネットワークの意義がわかっていない人々に共通してみられる同根です。
2006.01.23
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彼のブログをみた。 インローでなければならない。もうひとつは、取り巻きや親衛隊ではなく一般の人たちの支え、押し上げ。この2つが人や企業の成長には必要である。 これなくして成功も事業発展は泡沫となる。前者は遵法ということももちろんだが、人々の大半は正義の味方を好むが、その正義の味方がうらでこそこそ、と知ったらとたんに敵に回る、といった意味をも含む。 「尊敬していたのに、裏切られた」という言う人たちのことである。 後者は、取り巻きや親衛隊に囲まれれば、囲まれるほど、市井の人々との距離が遠くなる。市井の人々にとっても衣が厚くなればなるほど、あんこがわからなくなる。といったことを知っているかどうか。 取り巻きや親衛隊に囲まれれ、彼らの激励やいたわりに酔っていたのでは、再起は出来ない。ほんとうに自分を、自分の企業を、支えてくれた人々は誰だったのか気がつかねばならない。そしてその彼らを、ほんとうに裏切っているようなことはないか、自分の胸に手を当て考えてみることである。 検察の嫌疑の問題は別にして、まず為さねばならないことは、このことである。市井の人々へも理解できる形での正直な情報開示。その上での謝罪すべきこと。この3点を抜きにしての問題解決はない。 繰り返すが、対応・対策は検察へではなく、裏切られた思いでいる市井の人々へである。
2006.01.22
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急斜面の壁が立ちふさがったら、まず大きく2つの選択肢がある。やるか、やめるかである。やるとなると、さらにまた、大きく二つの選択肢がある。よけるか、乗り越えるかである。これだけの選択肢があるにもかかわらず、「断固、困難乗り越えるべし」と、最初から他の選択肢を検討することなく決行する経営者は、戦略眼のない無謀な人、との謗りは免れまい。勇気とか行動力とかは、前提として戦略があってこそ成立するのである。 それ以外の方法がある。ルールを破って、すなわちアウトーローの選択である。 マラソンの42.195メートル走る場合の事例で、新聞のコラムに以前書いたことがあるが、この場合42.195メートルを走るということは絶対条件である。だから1キロでトップになっても優勝者でない。48キロを走って完走とはいわない。難しいから、しんどいから近道をして先頭に立ってもだめだ。アウトローだからだ。だが立ち止まることは一向に構わない。それは戦略をまっうするための一戦術である場合もある。 ホリエモンは、壁を乗り越えることには果敢で、特に若い人たちのヒーロになった。その彼が、マラソンで近道をした。絶対要件のルール、法律を乗り越えるのではなくルール違反、法律違反を犯した(アオトロー)という嫌疑がかけられているのが、今回の事件である。 フェアプレイであってこそ勝者は称えられる。アンフェア者は、勝者の名誉を与えられないばかりか、さげすまされ、場合によってはその世界から追放される。 だから、歴史と戦略を知っている賢明者は、こうしたアンフェアな肢を選択はしない。馬鹿らしいからである。自分たちの才能とこれまでの努力がもったいないからである。採算に合わないからである。選択の結果を想定内として予測、イメージをするのが戦略の本質だから、戦略眼があれば、アンフェアの選択は最愚策として選択するはずがない。 経営者の条件として必須の戦略眼が乏しかったと言わざるを得ない。 タオの思想にもあるが、戦略には、積極的な意味と意義で、「やらない」、「なさない」といった選択肢があることを忘れてはならない。 明智光秀の三日天下を、人はいまだ嘲い、だれも彼を成功者とは認めていない。なぜなのか。考えてみることだ。彼は土民に殺された。成功者の中には、窮地を土民に助けられた人も多い。この違いは何か、考えてみることだ。 33歳、やり直しができる年齢である。ゴールを急ぐのではなく、今一度スタート台に並び、経営戦略以前に人間としての正しい戦略を確立し、再度出直すこと。かっての朝日ソーラーの林さんが、採られた賢明な再生戦略戦略をトルかどうか、今後の推移とともに関心のあるところである。
2006.01.21
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福岡空港を飛び立った途端、激しく揺れ始めた。ほぼ満員の客席で、子供達の悲鳴が聞こえる。それでも予定通り、対馬空港へ着陸した。ゲートでは、青木さんがニコニコしながら待っていてくれた。定宿の金石館で、着替えを済ますと商工会へ向かう。車の中で分からなかったが、歩いてみると釜山から流れ込んでくる風は、想像以上に冷たく頬をうった。 浦田会長はに、1に商店街づくりについては、自分は何をやるか、2に個店の繁盛めに自分は何をやるか。の2つのテーマで、MMAPでやりたい旨を話すると、MMAPをご存じないもかかわらず、それでやりやりましょう、の即答。感服した。 「心配は、何人集まるか、だが」と言われていたが、あけてびっくり前回を上回る参加数である。 車の中で、青木さんが「みなさん、おとなしくて発言してくれない」と言われていたが、これまたあけてびっくり。自分カードもドンドン書き込み、グループ討議でも止めなければ逸yまで持つ付きそうという熱気で、意見交換が行われた。 MMAPつてすごいな、と改めて自画自賛。大成功だった。21時終了。昼は博多の駅内の吉野家で、豚丼食べたきりだったので、皆さんが帰られたとたんに空腹を感じた。 会長、青木さん、それに本所から今回も駆けつけてをくれた浦山さんの4人で、居酒屋へ。 おいしかった。焼酎もうまかった。特に会長が、壱岐酒造の新商品「2000年の眠りという麦焼酎は、麦とは思えない深みのある味、強い香りで、堪能した。話もあっちいったり、こっちいったり。楽しかった。0時ちょうど宿へ帰る。テレビをつけたまま寝入る。
2006.01.21
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人は成功した理由でもって失敗理由と為す。ホリエモンも例外ではなかったようだ。またITという最先端事業であっても、魚屋であろうと、建設業であろうと、法律は適用される。しかも逆粉飾して金を呼ぶという手口は建設業などの資格審査時によく使われるごく古い手口である。 扱っている商品が肉であろうと、アンテックであろうとITであろうと、経営のありかたが新しいとか古いとかとは別の問題。情報交換や会議がメールで行われようと書類で行われようと本質には変わりない。 これは新しいフッショングーズを身につけているから、その人の脳が新しいということにはならないのと同じこと。だが脳まで新しくなったという錯覚は起こりやすくなる。 「若いね」、と言われ続ければ、お腹が出ている私でも、(同年代の人と比べれば)若いかな、と思ったりする。こうして自分の許される範囲が少しずつ広がり、やがて法の境界線を越える。超えても警報機が鳴るわけではない。2センチ超えても大丈夫。では10センチはと踏み出したら、警報機ではなくパトカーが駆けつけた。こうしたことは、最先端のメディアで知的武装していようが、起こり得る。 誰が、パトカーを呼んだのか。 社内機密は、社内では守られても、外ではフリーだ。取引は、社内の人間とやるわけではないから、取引関係で不評を買うと、ホリの外でも風評は立つことは覚悟しておくことだ。風評を立て株価を上げたという嫌疑がかかっている立場としては、ホリの外で風評を立てられることには文句は言えないし、止めようがない。 ここでもうまくいった同じ手でやられる、という格言?が成り立つことになる。 どこの世界でも、一人勝ちはうらやましがられる。時として嫉妬が犯罪を呼ぶ。そうした俗世の教訓が、メールでもいい。書類でもいい。会話でも良い。語られたことがあるのだろうか。 自分のお城が広大、巨大であればあるほど、ホリの外の空気を掴み難くなる。ホリの内と外では温度が違うし広さも段違いだ。内の是が、外でも是と受け取ってもらっているという錯覚を起こさないためには、身を己を低くし、「外の空気を取り入れる」ことだ。 ホリの中の情報を開示をせず、情報産業はあるまい。経営以前の常識を怠ったツケは大きい。 自社グループで収まればまだしも、ことが株がらみだからホリの外への影響は、一昨日の原稿で書いているとが、ドミノ現象が起きることは避けられない。現に今日の株式市場をみよ。パニックだ。 パニックだから、外面的には、きに収まるだろうが、特にやっとの思いで育った個人投資家のおびえは収まるまい。後は、飛び火。さて、どうなるか、と案じている。 このことに関しは別の角度から、ここに も書いている。合わせてご一笑ください。
2006.01.18
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ヒューザーの小嶋さんは、有能な弁護士を雇用したものとつくづく感心した。国会での証人尋問の証言拒否は、訴追の恐れがある場合には認められている。この場合、問題は訴追の恐れがあるかどうかの判断は、裁判官が在籍していないわけだから、概ね証人側と追求する側との暗黙の了解の範囲になる。はっきり言えば小嶋さんが、その恐れがあると思ったら拒否が可能になる。法は人の心の中には及ばない。 「拒否はおかしい」と追求する側の国会議員がいくら文句を言ったとしても、その妥当性に関し提訴し、それが妥当かどうか争い、結論を得なければ判定できない。2.5時間の関門時間中にそんなことが出来るわけはない。 法の盲点というよりこの当たり前のことが、国会恐れ多くもということかどうかわからないが、これまでの証人関門では、ここまで行使する例はなくせいぜい「記憶にありません」の言葉が記憶にある程度だ。 理論的には、全ての尋問について答弁拒否が可能なのである。法治国家では、国民は倫理で裁かれるのではなく法律によって裁かれるのだから、文句をいってもしょうがない。 ここを突いた弁護士は、その職務として当然のことをしたわけで攻められる者ではない。むしろさすがはプロと言える。追求する側にも弁護士が居たが、力の差か、現役の強さか。それにしても、証言拒否をされないような質問のやり方があろうに、その点は尋問側の不勉強さが目立つ。 誤解して欲しくないのだが、だからといって小嶋さんが、これで有利にということではない。むしろ拒否を連発したことで、弁護士の黒子に操られ演じる主役の小嶋さんに負荷される心理的プレッシャは少なくなかったことがTVの画面でも明らかだし、今後の彼がわたらなければ道は、いっそう苦しいものになる、ということも言えるからだ。小心者が虚勢をはることで、生きてきたという感じの彼が、その苦しさに耐えられるかどうか。 人々は、法律ではなく倫理で裁く。むしろその方が冷たく厳しいこともある。だからこの道の選択が小嶋さんにとって良かったかどうか、先にならないとわからない。そのことに関してはあの有能な弁護士にとっては、あずかり知らないこと。小嶋さんの良心にかかかわることだ。
2006.01.17
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お金は変化しない.1万円札は1万円札以上でもないし以下でもない。対して株は変化する。相場ものだから額面がいくらであろうと、天井高にもなるし床下にもなる。 脳開を勉強している者にとっては、容易に想定できるやり口だ。すなわち変動しないお金で、まず企業買収をする。その後で新株発行する。天下のライフドアが買うのであるから、当然値上がりをする. 株の価格ー現金購入額=α このα部分がライフドアの丸儲けになる。 もちろん、これだけでは犯罪とはいえない。倫理では裁けないないことも想定内。 問題は1に、最初に新株を発行し、それでをもって買収代金を支払うとするという取引契約であったのを、恣意性をもってこれを変更。現金で購入した。ということなら証券法のみならず、商法上の問題も発生する。 さらにそこに買収先の人たちを騙す意図があり、それが立証できたならこれはもう立派な刑法上の犯罪である、 2に、、ライブドアの、株の価格ー現金購入額=α このアルファを出来るだけ多く持っていきたいが為に、報道されるような「風評の流布」が意図的に計画的に、恣意を持って行われているとしたら、証券法違反。ケースによっては詐欺罪。 さらにこうしたことを隠匿するためにさまざまな操作を行っていたとしたならば、これまた刑法上の証拠隠滅罪、証券法や税務上の問題もでてくる。 日経新聞の今朝の朝刊で、漫画家のU氏が「ホリエモンの想定内のことだろうから、ライフドアの態勢には大きな影響は及ぼさないだろう」とのコメントがあったが、私にはそう思われない。 株はインフレ的性格を持つ。人気が上がれば、株価は上がり、人気が下がれば下落する。下落により当然ライフドア関連の株は、下落する。ここまでは良しとしても、自社株を担保にして巨額の金を借りているわけだが、株の下落で担保力は落ちる。その後はどうなるかは、土地デフレで、承知の通りである。あれと同じことが起きれば、ドミノになる。 もう一つ。経営責任の問題だ。会社も追求されるが、ワンマン会社ゆえ、トップ関与の立証は容易に出来るから、そうなれば経営者退陣も想定される。まさか出世して、会長というわけにはいかない。 以下は傍証と憶測だが、そもそも鼠一匹捕らえるために、捜査に入り、官房長官までコメントすしているのに、「なにもありませんでした」があるわけはない。 デスクを消されたら証拠が消える、ということまで想定して、隠密に幅広い長時間の家宅捜査をしていることからみても、ことライフドアでおわるとは考えがたい。 このタイプの会社への捜査は初めて。まず口数の多いホリエモンのところで学習しておいて、次の本命狙う、ということは想定しておいてよい。 それはこれまで、政治家や官僚がらみでない私企業の事件、それも家宅捜査だけで、官房長官が発言した事例は稀有である。私企業の犯罪かそうでないかなどは、ヤジウマ的立場でかまわないが、昨日触れたように、これがドミノとなり日本経済がまたおかしくなる事態は、絶対防がねばならない。それが官房長官登場の背景にある、とみるのが自然ではないか。
2006.01.17
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株はやったことがない。やったことがないことには、私はまったく無知であるから、株と村上ファンド、ホリエモンについて、14日、徳島の川人先生に10分程度レクチャーを受けた。わずか10分で実にわかりやすく教えていただいた。 尋ねたのは、どうもわからないことがあったからである。それは、仮に500円の株が、5万円ということは資産デフレとどうちがうのか、という1点である。なぜそれが問題かというとホリイエモンたちが、会社の買収を仕掛ける金は、自社株を担保に金を借りている、と聞いたからである。 (もし)水ぶくれした資産を担保に、花絵を借りている(貸した)となると、その水ぶくれがしぼんだら、担保能力は500円に戻る。貸し手川から見たら、極めて危険な状況になる。これはかって土地で苦い経験したことなのだ。 営業面で、大もうけしている会社なら、もちろん心配ないのだが、自社株という紙の価値が膨大になった、ということに過ぎない。だから神が見放して、これらがただの紙蹴れに成ればどうなるか。缶コーラーを、2つの缶に移す。半々にだ。これに水を加えると外見は2つの缶。これを勘違いして買う人がいて、気づかないあいだは売った方は丸得だ。買った方も飲まない内は実害がない。しかしいつかは飲む。飲んだら実はコーラは半分だ、ということになれば、コーラ大変だ。かんかんに怒るだろう。それが先ほどのニュースかな、とおもって昨年暮れに書留めていた、疑問のメモをもとに、ここに大急ぎで書いてみた。 突然の強制捜査に、表にでない何かがある、とみてよいだろう。 先ほどTVに映し出されたほりえもん、コーラひどい顔だった。想定外であったことを物語っている。ほりえもんが、ということではなく、これがドミノを呼び、日本経済がおかしくなる、といった大事にならなければいいが。
2006.01.16
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徳島での脳力経営塾が始まる前、早く来た塾生数人と、メールやホームページ談義。 私の送った「原稿を紛失.再送願いたし」といったメールが入った。送り主は以前からそうしたことの常連者だから、さもありなんとおもって、「秘書のMさんへも送っているので、彼女のメールを見て欲しい」と返信した。 折り返し、「担当者が代わったので、前任者ではなく後任のSさんへへ再度送って欲しい」とのメール。こういう時の対応は、Xさんは早い。 こういう人なんだとわかっていても、両手を前に出し、開き、肩を上げ、あきれたポーズを取ってしまう。 交代したと言っても、総勢38人の社員が同じ部屋にいる。しかも前任者と後任は、2メートルと離れていない席だ。 そうでなくてもまず社内で調べてから、再送信を依頼するのが常識というのはこちらの常識。長年培われた、彼、X社長の天動説的思考からみたら、探し回るよりメールの再送が手軽で簡単だ、というのが常識。正解なのだ。 さらに続く、「最近当社は多忙で、自宅のパソコン見る間がないので、自分に送る時は会社の方のメールにして欲しい」。そうすると、GW、お盆、お正月には、こうくる。「4連休で会社のメールは開けなかったので、返事が遅れた。休みは自宅のメールに」。(わかっていて、意地悪したのだから私が悪い。念のため) これらはXとさんの固有の問題としてとやかく言っても普遍性はなく学ぶことはないから横に置いて、むしろこうしたことがメールの怖さではないか、そのことを考えてみた。 送った。見ていない。送った人には、見ていないのかみたということは、返事を書かない限りわからない。その返事を見ないとわからない。 こうしたことは手紙でもFAXでもえることなのだが、私にはメールの方が、コスト負荷がかからないから、潜在的なトラブルが多発している、と思っている。そしてその最大の問題は、そうしたトラブルが発生したことに双方とも気づかずに、事態が流れていくことだ。 届いたにしろ、中を読んでくれたどうかとは別なのだが、送信した方は読んでくれたと思っている。受けた方はそうしたことが書いてあるかどうかの認識すら知らない。 今回のわたしごと(賀状欠礼を、迂闊にも、というより考えた末メールでやったこと)でも、そのことを実感した。 これは相手をとやかくの問題ではない。メールの使い方のこちらの問題なのだ。対応、メールの使い方の改善を図ればいいのだ。 聞いていた大源の中谷さんが、「それでタイトルに中谷と、つねに自分の名前を入れるようにしている」という発言があった。 何気ないことだが、これはいい。中谷さんもメールに対して問題点を自覚していて、自分なりの工夫で対応を試みている。さすがと感服した。 それでも見逃す人がいたら、それはもうそんな人だ、と思えば、後々の魔よけになろう。 組織的な見方も触れておきたい。以前書いたが、映画「マイボデーガード」でのおもしろいセリフのこと。 「オレは、殺しのプロフェショナルだ。だから子供がコロされたかどうかはなどは知る立場にない。他のプロに聞いてくれ」、「オレは、運搬のプロフェショナルだから、荷物の中身が何なのかは、仕事の範疇外で知らない。その専門に聞いて欲しい」。 アメリカカ(だけではないのだが)のいきすぎたプロフェッショナル(縦割り)、分業化についての痛烈な皮肉である。 だがアメリカを笑えるか。 私たちは、マニアル以外のセリフには棒立ちする人種を多く知っているはず。だがその彼らが、自分の会社に居ることには気がついていない。これは真に笑えることのはずだが。 専門化とは、行き着くところ、縦に深掘りした穴底に入り、地上の幅を忘れることになることを、私たちは忘れてならない。 閉鎖系のあり方は、井の中の蛙になる。メールは個人の抽出や、手帳同様、専門、縦割り生む閉鎖系。ブログやBBSは形は開放系。 だがこれらすら、キーをつけているところが少なからずある。Xさんのもそうだ。情報には良いも悪いもない。だから活用のために分別はしても、遮断はしてはならない。これが情報の本来なのだ。 最終的には、引き算してプラスになるかどうかの採算感覚と多少のマイナスに動じない度胸の問題になるのかな、とも思う。 封鎖系では、今後上のようなトラブルが多発することになることは自明の理だ。それをわかってのよりよい使い方は、使う人の問題で、使われるツールの問題ではない。道具の進歩も重要だが、使う側の進歩も大切な課題と考えている。
2006.01.16
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事実上の初商、朝7時52分の新幹線で徳島へ。いつもは新神戸まで新幹線。新神戸から徳島まで高速バスのコースだが、今回は道を変え、岡山→高松→徳島とオール列車。たとへほんのわずかでも岡山と高松を見たかった。 岡山には12時08分到着。地下街で食事後、お客が並んでいる店だけを駆け足で見て回る。高松では、特急うずしおの待ち合わせが40分しかないので、駅ビルとそこからみえる駅周辺を眺めて過ごす。 高松駅は、周辺の開発プロジェクトに伴い、3年前に建て直され、その周辺は見違えるように変貌していた。増えていたのはホテル。 以前書いたことがあるが、この駅には階段がない。降りたら駅の敷地を抜け道路に出るまでフラットで段差無し。これまで各地の駅を利用しているが段差各務という駅を、私はここしか知らない。 徳島到着16時。駅からそのまま「そごう」へ。地下から6階までがらがら。7階は売場半分をつかって、「全国うまいもの大会」のイベントをやっていたが、ここはかなり賑わっていた。 8階は本屋の「紀伊国屋」。ここでお目当てしていた新書を見つけ、買う。 今回の会場&宿泊の剣山ホテル着17時。1時間ほど部屋で読書。18時にフロントへ。中谷さんと清水さんがすでに待機。皆が集まるまでホームページ談義。18時半開始だったが19時より開始。 「少子化対応型への経営革新の方向」といった話を2時間ぐらいする。 ずれ込んだため、懇親会が30分遅れ、ホテルに申し訳ないことだった。11時終了。
2006.01.15
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お便り、ありがとうございます。個別の指導と違って講演や本は、直接反応を,事後知ることが少ないだけに、このようにいつまでも覚えていてくださって、状況をお知らせくださること、ほんとうに嬉しい限りです。 試行錯誤のまっただ中とのこと、「試行錯誤」、実に良い言葉です。行動を起こした人だけに与えられる誇り高い言葉、だと私は思います。この言葉。私は大事にしています。 理想のあり方は完全。完全に至は実に難しい。難しいから、人は道そのものを歩むことを敬遠してやらない。何にもやらなくても未来は、この今に向かって来てくれる。これも選択です。 もう一つの選択肢は、まず道を歩むこと。まず歩む、そしてせめておおよそでもその方向へと意識を持っていく。試行錯誤しながら歩む道です。 人はこの2つを択一出来ます。 歩む道にもまた2つの選択肢があります。自ら道をつけること。獣道です。これは試行錯誤がつきものです。 もう一つは人が通った道を歩むことです。楽です。試行錯誤はほとんどないからです。 ですが、後者を選択した場合と、前者との差は、角度ですから最初の差が、1度でも30センチも伸ばすと、とんでもない開きが出ます。択一は、2つの相反するものの片方の選択ですから(集合論)、当然そうなります。多くの人たちは、このこと、択一の恐ろしさ、もしくは嬉しさを、考えたこともないのでは、と思います。 Oさんのメールを拝見し後者を選択されていることがしかとわかり、感激しています。 組織が大きくなって一番の問題は、この方向がそろわないということ。もしくはそろいすぎ金太郎飴が鉄の飴になった場合です。飴は柔らかいですが、鉄は固い。 前者が企業で、後者は軍隊の理想として例えられましょう。お客様に接するのに軍隊方式(マニアルがそうです)では、相手が逃げてしまう。 このことは、一般的には、理念の統一、戦略は共有、戦術は委ねる、ということです。教育や研修は、このことが前提として理解された上で為されないと、とんでもないことになります。 としたら、今、我が社の課題は、理念レベルの問題なのか。戦略上の問題なのか。戦術の問題なのか。わかっていないと、手を怪我したのに、その治療に神経科へ行き、脳を見てもらう、ということになるのです。企業研修は、実にこの類(タグイ)が多いのは、何でも聞く薬や注射を提供する医者たるコンサルにも大きな問題がある、と自分のことを棚にあげて、そう思います。。 そう考えて、MMAPという研修技法を作りました。ご参考までにMMAPのガイダンスを添付にて、お送りします。お役に立てたら、嬉しいです。 名古屋で、講演会やります。ご参加いただけたら、いいな、と思っています。 この真・商人カムサ経営塾 詳しくはttp://www.kamsa.cc/training.htmlでごらんください。 まだまだ、寒さ続きそうです。どうかくれぐれもご自愛第一で。 田上康朗
2006.01.13
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親友の永池から、昨日電話があった。父を知る数少ない友である。 父親の転勤で、中学を卒業するまで8回転校した。おかげでいろんなプラス面もあったが、その数の分マイナスもあった。大きなマイナスは3つある。1つは系統立てて学ばなければならない学科は、からっきしダメになった。数学、理科がそうだ。もうひとつは友が少ないこと。短いときは3月で転校ということだから、親しい友人が出来ようもない。3つめは、クラス会、同級会に縁がないということ。 でも何事でも例外があるもの。中学は3回転校したが最後の1年は、熊本市立白川中学校。永池とは、中学最後の一年、同じ教室だった。何事においてもライバルで、性格も全く違ったが、仲良かった。永池のご両親にも兄弟にもかわいがってもらった。高校は、二人とも熊本高校。一度も同じクラスにはならなかったが、付き合いは続く。高校を卒業後、私は東京、永池は一浪して九大へ。以来会うことは少なくはなったが。1昨年熊本県庁を退職、民間企業に勤務しているその彼から、父への悔やみの電話。嬉しかった。今年味会う初めてのお正月、といった気持ちになった。 もつべきものは友か、としみじみ思った。
2006.01.12
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妻は今日から仕事。 千葉への往復を除くと長く外出をしていない。天気も良いし、郵便物もあるから午前中、外出するつもりでいたが、千葉から自分で送った荷物を整理したり風呂や部屋の掃除をしている内に、タイムオーバー。 昼食後、外出。ゴミを捨て、灯油を買い、郵便を出せば用事は完了なのだが、内から15キロも離れている一番遠い明屋へ向かう。積ん読本は十分あるし特に買いたい本もなかったので、ぶらぶらとCDコーナーへ。年末出た、元 ちとせの2年ぶりの新曲を買いたかったが、お正月売れたのか切れていた。その代わり前から探していた、竹内まりやの「青春の門」が入っている古いアルバムが見つかった。おもわず飛びついたが、今は気分じゃないとおもい元に戻した。彼女の歌はどの曲も切ないのである。 だから次にコミック。新刊「聖書」を探したが、これも見つからない。見つからない本を、店員に探してもらうことはしない。店員に尋ねることで、なんだか楽しい夢が覚める気がするので、仕事で使う本以外尋ねないことにしている。 そもそも端から端まで自分で探すのが好きなのだ。同じ理由で、アマゾンなども使わない。 14時半、帰宅。、市内に、亡母の姪がいて、葬式の写真見せろ、と出かける前からうるさいので、写真のプリント。1枚出来たところでインク切れ。6色中、クロを除く5色。 これで明日の外出の口実としてとっておき、少し書き物と報告書づくりのまねごとをして、夕飯を待つ。 夕食後、千葉の妹に手紙。20時から、自治会の定例会だったが、無断欠席することにした。忌中を近所の人たちには臥せるよう妻から言われている。嘘をつくのは妻はうまいが、私は下手だ。ばれたら年寄りたちのこと。うるさく気を遣わせることになる。なにせ、イベントもない、話題にすることもない集落のこと。年数回のイベント、楽しみは自分以外のお葬式なのだ。 さて、ずいぶん怠けた。明日からは、報告書づくりに精力的に取り組まなければ。今、0時15分前。寝よう。
2006.01.10
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現在の状況を見る場合、(未来が押し寄せ今になり、即、過去になる流れを現実は生きている。だからその流れを止めることは出来ないのだが、止めたことにして)、その状況は、未来は関わっていない。今もか関係ない。未来は訪れておらず、今は過去の結果だから。 だから反省は常に過去のこと。動かしようのないこと。動かしようのないことの、点検、反省になる。 その動かしようのない過去のことの点検、反省をなぜやるかというと、流れてくる未来への対応がより上手になり、この今の状況をすでに過ぎ去った今(過去の今)より、より良くするためであろう。 おれは、大人だからそんなことは知っている。専門の経営革新はそのやり方のモデル化なんだから。おれはそのプロだもの。 過去に吹いている風に冷たいとか、心地よいとか反応しているのではない。未だ吹かない風(あるいは存在しない風)が冷たいも心地よいもないということを、多くの大人たちは、この当たり前のことを知らないか、あるいは思いもしない。 なっ、知っている俺は、立派だろ。 近所の赤ん坊の泣き声が聞こえる。その子は、2日前に母が忙しく乳を父を含ませるのを忘れていたときのことを思いだし泣いているのではなかろう。 また2年後、母が離乳を始めのしつけで、乳房を口に含ませなくなることを嘆いて泣いているのでもなかろう。 だが大人のおれは、どうだ。 過去の悲喜こもごもの中から、悲しむに価するものだけをいっぱい拾い集めたドンゴロスを、開け閉めしてこの1週間過ごしている。その間、未来から今に流れ込むものを無視したり無対応。そのやり過ごした過去が、この今だ。こんな今と同じ今が、続く。 暖かい風が吹いても、この今。冷たい風が吹いても変わらぬ、この今。 おとなだから、そうなのか。俺だから、そうなのか。前者なら、大人はやっかいなものよ。後者なら、このおれ、たいしたことないな。いずれにしても、赤ん坊に劣る。その俺が、このおれなのだ。
2006.01.09
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徳島の中谷さんから、昨日メールあって、徳島脳力経営塾のメンバーの一人、濱田さんが亡くなったと。驚愕している。 28日に、新潟・十日町小林さんの尊父は31日、私の父、明けて4日、私の塾生というより仲間の濱田さん。立て続けである。 以下中谷さんのメール。 * 大源 掲示板にも書きましたが、新年早々の訃報です。脳力経営塾にも 何度か出席された、ベースの 濱田好弘さんが急逝されました。事務所で1人仕事中のことだそうです。1月4日 昼過ぎに亡くなられた様子です。というのもいつになく 帰宅が遅いと思った奥様が 5日午前3時頃に事務所に見に行って、確認されたらしいです。 仕事に夢中になると、事務所で泊まることもあったそうです。満52歳、死因は 脳卒中とのことでした。 濱田さんも 奥様も 私と同じ 阿波踊り うきよ連に所属しておりました。濱田さん自身は 連長の弟さんということで、副連長の立場で我々を 引っ張ってくれておりました。 大変 仕事勉強熱心なかたで 良く気のつく いいかたでした。とても 残念で またショックを受けております。 彼の志に負けないよう、仕事も踊りも しっかりやって行かねばと思っています。 先生もどうか お大事に、本能のささやきに 注意しながら無理せず健康でありたいものです。 14日にお目にかかれることを楽しみにしています。 * なんで、なんで、と考えたら、たちどころに悪魔のささやきが聞こえそうなので、淡々と(これは下に述べるが嘘)沢山頂いた賀状への御礼メールとハガキを書いて一日過ごした。 高校を卒業してから44年。その間、年に数回、とりわけ私がユータンしてからはほとんど一緒に暮らしたことがないから、「居ない」という事であれば生前も死後も変わらぬ、というのが私の思いだったが全然違う。つっぱってでも認めたくないのだが、やはり全然違う。 どうして違うのだろう。どうして違うのだろう、と自分に問いかけながら、気の進まぬ作業を続けて一日続けた。生まれてから45年、ほとんど父と一緒に暮らしていた千葉の末妹は、今頃辛かろう、と思った。52歳の若さで逝った濱田さんおご家族はもっと辛かろう、と思った。 また、悪魔のささやきが入り込もうとする。「一週間の間に、しかも年末、年始の最中に3人もだぞ。酒でも飲んだらどうだ」。 事実、押し入れの歳暮の中に、酒がないか夜中にごそごそしたが、今度は天使のささやきが聞こえた。 「よしなよ。酒を飲めば余計、辛くなるよ」。 かろうじて、天使が克った。 冷たい布団に入って思った。一緒にいた妹より、ひょっとしたら別々に生活をして、会うことの少なかった私の方が辛さが引かないかもと。 母に悪いが、母の亡くなったときより尾を引く気がする。無口の父と息子、会話の少ない男同士。片方が口を開くときはたいてい一方(ほとんど私)が黙る。だから片方が居なくなって初めて父と子の会話が出来る。そんな気がしている。
2006.01.08
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千葉、八街から、昨夜、帰宅しました。 この度は、多くの皆様方から、大変なお心遣い、、心慰められるお手紙やメールを戴きました。ありがとうございます。 新年中であり、周囲の皆さん方の穏やかなお正月に水を差すことがないように、とは思いながら、申し訳なくおもっています。 親戚のほとんどは高齢、しかも鹿児島にいて、この時期の移動は大変と考え、家族だけのささやかな葬儀を、5日、千葉・八街市にて執り行いました。父が長く在職しておりました税務署、定年後の税理士関係でお世話になりました方々には、御連絡も行き届かなかったことと思いますが、意するところご理解賜り、お見逃し頂けたらと思います。 何かと、今後も不都合をおかけするかも知れませんが、今日から、後片付けなどと併行しながら、徐々にもとの生活にも戻していこうと思っています。 全国的に かってない大雪と寒さ。どうか皆様方に大変なきよう、心よりお祈りしております。 取り急ぎ、御礼とご挨拶まで。 田上康朗
2006.01.07
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父、辰夫(享年91歳)、31日死去に付き、年始のご挨拶は控えさせていただきます。皆様方におかれましては、つつがなく良き新年をお過ごしいただきますよう、お祈りいたしております。 亡父の居住地が、下記、千葉県八街市のため、5日、内輪にて葬儀をとり行います。つきましては、経営相談も含めて7日より仕事始めとなります。個人的なことで多大なご迷惑をおかけしてしまうこと、お詫びを申し上げます。 合掌 田上康朗
2006.01.01
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