2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全30件 (30件中 1-30件目)
1
多くの小売業・飲食業が不振に苦しんでいる。その主因は受注減、客数減である。客数はお客の支持の意志決定で決まる。だからその支持理由が減じ•1-今まで来ていたお客が来なくなった•2- 来店頻度が減少した、•3- 上の双方のいずれかで客数減少という「結果」を生じたということである。 だから売上を上げるには、1-新規顧客の獲得する2-常連客の来店頻度を高める3-同伴者数を上げるといった方法で、客数の増加を計ることになる。飲食業を例にとると、マクドナルド、牛丼戦争に見られるように、大手チェーンはこぞって低価格による客数回復策を選択している。 これは相対的に競合店より価格が高いか、提供する商品の相対的価値が減価した場合における、価格の下方修正ということであれば、対策としては理解できる。 問題は、必ずしもそうではないところにある。客数減少は、たとえば競合店にお客が移動した、あるいは前年まで来店したお客が来なくなった、といった相対的な概念である。 その減少理由が、価格以外の別のところにあるとしたら、上の対応はまったく的外れになる。それでも価格引き下げ分に見合う客数増が計られればいいが、それが果たせなかったらどうなるか。再度、下げるのか。競合が下げてきたらどうするか。再々度引き下げるのか。そうしたことを想定しての値下げ戦略の選択とは、とても思えないのである。
2012.01.31
コメント(0)
その具体的な習慣作りの方法、それは・・・・会社にとって良いアイデア、自分にとって「良いこと」といったことがあったら、すかさず 「それは、消費者(他の人々)にとってどうか?」と、問い返してみることです。 経営なら、「消費者にとってどうか?」を常に頭に置いて、 「自分にとって(会社にとって)」と「消費者にとって」この二つを「良し」とする物事の判断。 これこそまさに,進歩発展、繁盛を産む真の判断、本当の経営判断なのです。 つまり自分だけ良しの考えは、他者から押しつぶされる滅亡の判断。相手だけ良しの考えは、消滅の判断。 自分良し,相手の利益も計る判断は、利益を計りたい他者が協力して呉れる。消費者が支え、押し上げてくれる。 で、この判断で,従業員、取引先、消費者が協力、支え、購買という形で押し上げてくれる。 それでどうなる? 考えるだけでわくわく、実行すればさらにわくわく。なぜなら冒頭に記した「永い流れでみれば」が効果として出てくると消費者がこぞって押し上げてくれる。繁栄ですよ。進歩発展ですよ。しかも未来永劫の繁栄・・・ 自分は一人、他者は自分以外の全部。その他者の褌やブラジャーで、それが実現する。 と考えただけで、私はわくわくしてきます。 楽ちん経営のための魔法の言葉。お試しください。
2012.01.30
コメント(4)
桃太郎の鬼退治といいますが、鬼が人々に,退治される理由は何なのでしょうか。敵なんだ。人に災いを与えるものだ、といったように仮想敵を鬼に設定して、(生きていたとしたら)育ての親の爺ちゃんと婆ちゃんから吉備団子や幾ばくかの路線をもらって鬼退治に出かけた桃太郎。 ここから読めることは他に賛同者、同行者がいなかったという事実です。桃太郎は村で孤立、浮いていたという可能性があります。 結局、1人では鬼退治は無理と考えて吉備団子を与え犬、猿、雉を配下に加えます。そして鬼を退治してそこから財宝を持ち帰った。とすれば桃太郎は略奪者ですね。 この話は他の国や他の族を侵略することを正当化するために、大人達が子供に話し聴かせたのでは、と私はかってに想像しています。 この今だって、これに似たようなことをマスメディアや政治家達はやっている可能性は無いとは言えないでしょう。 いずれにしても、 1つの話も、様々な受け取り方出来るということ。で、要は、一方的に聞かされた話だけを信じるのではなく、このように様々な見方をする習慣づくりを楽しみながらやってみることです。 これを脳力開発では、「多角的見方の勧め」と云っています。
2012.01.29
コメント(0)
桃太郎の話などもそうです。なぜ彼は、わざわざ鬼を退治に鬼ヶ島に行ったのか。どうも人間は、自分に都合の悪いものを排除する考えが、昔から染みついているのではないでしょうか。 それで狼がいなくなった。それで狼を天敵としていた鹿がやたらに増えてきました。今度は、しかたなく鹿退治です。 「自分だけ良し」のこうしたあり方は、「部分良し」のため地球レベルを悪しきにすること。「短期的良し」のため、長期的をダメにすること。「今を良し」のため、マイナス面を先送りにすること。 つまり桃太郎のやり方では、本当の解決にならない。限界があると云うこと。 むしろこうした考え、いや考えずとも、日常でなにげなく営んでいることがよい方向へ進歩発展する流れをゆがめ,遅らせ、あるいは逆効果にしているのでないか、と私は考えています。 この例の一つが環境問題です。自国の発展のためには地球はどうなってもいい、といった考えは中国だけではありません。私たちの心の中にもある。そのことを自覚しておくことがとても大切なことと考えています。 上の例の中国は、自国対地球という対立見方をしている。だが私は地球の協力を得て自国の発展を考える方が楽ちんだ、自国の繁栄の早道だ、と言いたいのです。 置き換えれば、人智より天智を活用した方が楽じゃないか。良いじゃないか。上手い方法ではないか、ということです。 こう考えれば、あとはそれをどうしてなすか,ということになりますが、それは、明日。
2012.01.29
コメント(0)
世の中の変化を永い流れでみれば、まず必ず良い方向へ向かう。これは私の確信的な思いです。 でも、これは多分に人間にとってのこと。人間限定版ということだ、と思うのです。 人間にとっての良いこと、あるいは自分にとっての良いことが果たして人間以外にとって、良い方向なのかどうか。疑問だからです。 そして、その人間にとっても、その人間にとっての向こう将来(さき)に、どう影響が及ぶのか、それすら疑問があると言えなくもありません。 そうしたことに思いをはせる。それだけで随分と良い方向に向かうと思っています。 ところが、人は自己中心にものごとを考える習性があります。この自己欲求充足はいわば動物の持っている生存本能の1つ。 だから、本来これには良いも悪いもありません。 ですがこれが講じて自分だけ良し。他人のことは、どうでもいい。そこまで行かなくてもあるいは二の次、三の次、といったことになりますとやはり無視できない。問題ではないかと考えるのです。 そして結局は、そうしたことが自分の身に、戻り矢として,自分に刺さるということに至るからです。 この戻り矢現象は、日常生活の中で容易に見ることがでる。しかしそうしたことを、多くは当たり前のこと、大事を成すにとっての些事として見逃してしまっている。 その典型的例の1つが掃除です。部屋の掃除とは、部屋のゴミを他へ移していること。 もうすぐ節分です。節分で、昔から「鬼は外、福は内」といいます。この場合の外は、自分の家の外。内は自分の家。
2012.01.28
コメント(0)
それいけどんどん、やけくそだ、と勇ましくなったら要注意の、そうした企業はすぐ分かる。現場、従業員が、荒(すさ)んでいます。 荒みは必ずどこか言動、場に出るものです。そうした言動、場は、お客様は気がつくのです。 昔、この地域のHと云うスーパーが倒産すること。予言者でも予想屋でもありませんが、1年前からわかりました。 1は、やはり従業員、パートの人達の対応からです。もう一つは,これまでに増して、チラシの頻度が多くなったこと。それもすべて、激安、超激安。 倒産する1ヶ月前あたりから、それが100円均一に。 これなら誰でも予測つくというものです。 そもそも戦いは,皆いやです。ですから消費者が背を向けて逃げる。もういや、行きたくないって。 戦いの論理、勇ましさは、目に見えないところで消費者を遠ざける流れをつくってしまうのです。 対して、共感は、消費者の思いを,こちらが感じるわけです、その消費者の願い、思いを充足してあげる、と言うことですから、消費者は大歓迎。 みなそうした企業やお店の後押しするようになる。見えないところで、消費者が支持、応援してくださる。そうした流れが出来たら、もう盤石です。本来、商いはそうしたもの。 歴史をみたら、平和な時代に商いが栄えている。商人がいきいきしている時代は、平和な時代なのです。戦いの時には、まっとうな商人は消え、死の商人がうごめいている。 今はどう見ても平和。商人の時代だと思うのです。
2012.01.27
コメント(0)
商いで肝心なことは、消費者のおひとりおひとりが、それぞれの生活の中で、個々に感じておられる想いにどれだけ共感するか、できるか、ここに意識のフィールドと重きを置いて、考え、働くこと。 これができていない、またはここからはみ出ると、商いが狂う、売れない、経営がおかしくなる、といったことが起きる。私は、そんなふうに考えています。 よく「原点に戻れ」といいますが、その原点が、どこか、何か、といったことが長い間私には分からなかったのですが、今は、ここ、とはっきり言えます。 迷ったら、ここへ戻って考え、行動してみればいいのです。 「共感?そんなことわかっているよ。やっているよ」と、よく言われます。 でも。ほとんどの商人が、といったら叱られそうですが、たいていは、自分の「想い」を、消費者に共感させる、といったことに始終しています。 これを強い口調で言うとしたら、 「俺の思いがお客には分からないのか!」ということになり、「いやでも判らしてやる。それチラシだ。それ激安だ」。「なにくそ価格ではあいつらに負けてなるものか」、 ということで、平和で崇高な業が荒んできて、いけいけ、どんどんと冒頭に述べた戦いの世界になってしまうのではないでしょうか。 間違ったとおもったら引き返せばいいのに、「男(女)、前進あるのみ」、「敵に尻向けてなるものか」と、突き進んでしまう。その結果、自分が全然経営的ではない考えに陥っている、そのことにも気づかない。これ、やけくそ、というのですがね。 それいけどんどん、やけくそだ、と自分の考えが勇ましくなったら要注意です。
2012.01.25
コメント(0)
商売に勝つか負けるか、といったことをしきりに口にする人がいますが、何を考えておられるのでしょうか。 経営は戦いだ。販売合戦、人生これ戦いと、 勇ましい人もいます。 いったい誰と戦っているのでしょう。だれと戦いたいのでしょう。まさかそんな勇ましい争いごとの相手がお客様ではないでしょうね。 誤解して欲しくはないのですが、戦いという言葉尻にもの申しているのではないのです。そうしたやり方で、鼓舞することを云々言いたいのでもない。 現に、私は脳力開発講師、経営指導家として、「戦略」という言葉は、他の人より多用しているので、言葉の魔女狩りなら、男ながら魔女狩りされる立場にあるわけです。 そんな言葉の問題ではなく、「意識」の問題として、商いの本質はと戦いの本質は違う。否、相反するに近いものだ、 といいたくて取り上げているのです。念のため、申し添えておきます。 商いは戦いや争いや、権謀といったものとは別の世界です。ですから少なくとも、企業やお店を支えて支持される消費者を敵視し、戦いや争いの対象にすることは、できれば避けて,違う言い回しができないものか、と、申し上げたいのです。 商いは庶民の日常の生活を守る、ごく平和な、崇高な業だと,私は確信しています。 死の商人とか悪徳商人とか、御用商人という言葉があることが、商人そのものが、そうでない崇高な存在、イメージであることを裏付けていると思います。 ですから 商いで肝心なことは、そんな物騒なことではなくて、消費者のおひとりおひとりが、それぞれの生活の中で、個々に感じておられる想いにどれだけ共感するか、できるか、ここに戦いではない意識のフィールドと重きを置いて、考え、働くこと。こうしたことを提唱しているのです。
2012.01.24
コメント(0)
ふと考えたことだが、人は「ものを考える」といったとき、どういう姿勢をとっているのだろうか。 よく例にとっているロダンの「考える人」のように、顎に手を当て、額にしわを寄せて。あれが考えるポーズなのだろうか。 私は「そうじゃない」ように思える。人は、困ったとき「頭を抱える」といった言い方をするが、どうだろう。私自身ひとりで悩んでいるとき、顎に手や、頭を抱えた経験も記憶は全くないのだが。 私に限ってではなく、人は毎日、たくさんの処理しなければならない問題がある。意識しようがしまいが、生きている限り脳は「分別」を行っているから当然だ。 それはそれとして意識して真剣に考えるとき私はどういうポーズを取っているのか、少し振り返ってみた。 でそれを思い出してみると、やらなくてもいい部屋のレイアウトをいじった。急がなくていいホームページの工事もした。あまりたまっていないのにスクラップもした。眠たいのに夜更かししビデオもみた。 私の場合の癖であろうか。考えるときは、決まっていろんなくだらないことを次々やり、体を動かしている。 そう考えた、というかそのことに気づいた。 人は人に見せるポーズと、自分だけの時のポーズは違うのではなかろうか。だから映画や舞台の俳優さんたちみたいな言葉や動作、たとえば大きく首や手を動かし、顔の筋肉を振るわせて言動をする。これらは見せるポーズで、まず私たちの日常生活ではまず見られないものだ。こんなふうに考えが広がっている今、この瞬間は私は顎に手や、頭を抱えてはいない。 キーボードを叩いているのである。キーボードを叩きながら,書くことを考えているのです どうも、考えるのには、静止姿勢ではなく「動く姿勢」が本来であるように思える。彫刻は動かない。だからロダンは困って、ああいうあり得ないポーズの彫刻を作って、題名で補足説明することを「考えた」。「考える人」の方は何も考えていないのに。 あれを「考えていない人」、あるいは「怠け者」と命名していたらどうだっただろう。 事実、永田町、霞ヶ関の人達が、「検討中です」というのは、今も,これからも動かないことを意味しているというではないか。 それにしても考えることは、楽しい。(^_^)
2012.01.23
コメント(0)
最近、よく「競争から、共創、共感へ」といった声を聴く。ことをなすに際し、どちらに中心をおくか、といったことはあろうが,どちらを選択する、という戦略問題ではないからである。だから、競争の時代から、共創、共感へ、と言葉を置き換えたところで両者は,択一するものではないから、前者がなくなり、後者の時代になる、といったことにならない。だから,言葉の遊びで終わるか、自己満足の域をでない。 そもそも人々の生活に寄与する存在である営みである経営に戦の論理を持込みを、云々することそのものに疑問があるのであって競争の原理、論理そのものとはとやかく言われる筋のものはないのである。換言すればば、仮想敵を打ち立てて競争意識を煽る,といったことに争いを倦んでいる要因があるのであり,そのこと自体が「競争は悪い」と悪者扱いされることには、競争にとってはまったくのぬれ切れだ、と私は考えている。生きていることそのものが意志決定の連続で構成されている。この意志決定を「分別」と置き換えても良い。分別とは択一である。これを選ぶ、ということはあれを捨てる,選ばないということである。この取捨選択行為で生きているわけで、その流れの一つとして経営判断がある、ということではないか。選ばれる存在、捨て捨て去る存在があるのであるから、この両者の関係は,対立にある、と受け取れば,その通りであろう。この対立の「対」を「つい」と読み替えれば、「共創、共感」になる。今、テレビで被災地で行われた、マラソンの報道をしている。マラソンは、ひとりではできない。皆で創り上げるものだ。だから「共創」ということになる。共に走るわけだから「共走」であり、多くの人が共に走れば、人それぞれ性差、年齢差、体力差、それに,考え、思いも異なるから、ゴールの際には、順位がつく。だからといってその順位がすべてではない。繰り返すが、人それぞれ性差、年齢差、体力差、それに,考え、思いも異なる。すなわち価値観が異なるのである。価値観は異なる、というのが根本。そのことを無視し,価値観を画一化すると、そこに競走が競争、争いが生じるのである。
2012.01.22
コメント(0)
ほとんどの人が、これまで「効率を上げよ」とか「もっと要領よくやれ」といったセリフを言ったり言われたりの覚えあるに違いない。 このことを、試験勉強をする行動の大きさと量,カンニングする場合のそれとを比較して考えてみたい。 発見されるというリスク問題をなしとしたら、後者の方がいかにも効率的である。 私も学生の頃、カンニングのうまい彼ら、特に親友の中村君を、「要領のいいやつ」といいながらも、内心実はうらやましく思っていた。 そして、自分自身を「要領の悪い人」とか「不器用なやつ」と自他共に認めるようになった気がする。しかし、それは明らかに私の言い訳、あるいは誤解だったのある。 カンニングは合格するための有効手段の一つ(?)であろうが、勉強から得られる成果ゼロに等しい。能力、脳力、知恵も自ら行動し体験してこそ自分の血肉となる。 学ぶことはすべてがそうである。行動によってのみ学習効果が蓄積されるからである。ところで学習効果とは、やる(行動)し、その結果として「うまくいったこと」と「うまくいかなかったこと」の双方を体験することで得られる。 これは絶対要件である。 ところが商人に限らず人は、失敗体験や挫折を敬遠し厭い、うまくいったこと、成功だけをひたすら求める傾向にある。 フルマラソンの42.195キロメートルをバイパスし、1位でテープを切ってもルール違反として、賞賛どころか非難される。 しかし、商人たちが他人の成功体験なりノウハウを得ることは、その入手手段が法に触れない限り、何ら問題にされない。経営者の中には、さきに頭で分別するための知識なり、指標なりを仕入れ、いわば他者からの借り物で、物事を判断することを、自分の判断より重んじる人すらいる。 これではカンニング同様、行動、体験による自らの創造性、知恵といってもいい、がますます欠乏する。欠乏するからまた判断を他者に求める、といった悪魔のサイクルに陥ってしまう。 この21世紀がこれまでと違う点を経済に限って言えば、ほとんどの人々が経験のないデフレーが常態になっていることである。経験した人がいてこその経験者、過去のノウハウが活きてこそデーターベース、先進モデルがあってこその先進地視察である。それらが一切ない未知の状況では、只ひたすら自らの経験を積み重ね、その中から、試行錯誤を繰り返し、「今」に対応できるものを創造していく以外、術(すべ)がない。 このことが今後の企業のが生き残り得るかどうかの3つめのキーである。
2012.01.21
コメント(0)
店主が「君、仕事しているか」と販売員に言うときの仕事は、通常「命じた仕事、お店のための仕事」をさす。直接的には「お客様のための仕事」ではない。 「暇を見て、お客様に展示会へのお誘いの電話しよう」というときの「暇」は、自分の暇のことだ。 人はとかく自分の都合で動き、相手の都合、忙しさを忘れる。自分たちの仕事の段取りを主軸におくから、それはお客からみてどうか、という肝心な設問が2の次になる。 そもそもお客を主語にした論議、思考は私が知る限り、ほとんどの企業に存在していないのである。 マニュアルに忠実であればあるほど、現場での微妙な変化をとらえようという姿勢は希薄化する。 こうして、とりわけ消費者との接点で得られる定性情報が希薄化、あるいは疎んじられているために、最近話題の対話ロボットにも劣る販売員を生んでいるのだ。いや、そうしたロボット販売員を企業が作っているのである。 自分たちの都合や効率を押さえて、お客の都合や立場を優先する。これ事業の本質であり、それをなすことで事業は存続できるのである。 このことを経営者自身わかって実践できるかどうかが、事業存亡の第一のキーになる。 ときどき演繹的に、論理の裏打ちを重んじ、十分に準備を整え,納得しないと行動に移さない人がいる。当人は気づいていないかもしれないが、実はそうやって行動することを先延ばししているのだ。 先延ばしは「やる」か「やらない」かの二者択一ができないことを意味する。行動は、単に動き回ることではない。動きが目的的でなければならないのである。 そのために一定の方向性が伴うという条件が、付加されて「行動」になる。この「一定の方向性」がない、すなわち戦略がない人は、おじおじして決断できないのである。 この「戦略があるかどうか」が、今後の企業の盛衰を決める第2のキーである。続く
2012.01.20
コメント(0)
先週、駆け足で九州北部の道の駅と産直所などを視察してきた。そこにはスーパーの経営者がみたら驚愕する光景があった。1に、この今時、朝から驚くほど繁盛している。2に、チラシなどでの集客、売り込みは殆どない。3に、いわゆるチェーンストア理論などからはずれた店づくり4に、店舗、什器など設備には殆ど金をかけていない。「マッちゃん」の床は土間、暖房は古材を使った薪ストーブである。5に、売り込みPOPではなく産地、用途、他の商品との違いといった買い手の購買判断に関わる情報提供はしっかり行っている。 例えば、同じような大根を12人の生産者が出荷、陳列している。お客は、自分の感情と損得勘定で購買決定をしている。だから自分たちが気分が良くかつ自分を得させるお店を支え、そうではないお店を見捨てている、といった取捨選択と行為を日々の購買活動として行っているということだ。繰り返す。お客の支持がないお店が消えていくのは当たり前である。ところがこの「お客の支持」を得るという側面に着眼した対策は存外に少ない。そもそも売り手側の立場と方向性から論じられているのが経営学の特異性といっても過言にはなるまい。多くの場合、正しい有り様を理解し手を尽くして不振というのでなく、本来真っ先に手を尽くすべきことに着眼すらせずに、衰退していっているのである。だから、やるべきことをやったら驚くほど伸びるのは、自明の理であると考えている。 やるべきことをやる。やるべきことをやらない。この見極めは、売り手側から考えるか,買い手側から考えるかで、容易に判断がつくことなのである。先に触れたたが、売れる売り場作り、先入れ先出しを徹底、営業攻勢、売り出しといったこれまで当たり前に使っていた。用語、言い回しそのものが、売り手からの発想である。このことに、当たり前と感じていることに、おかしさを感じない自分の感覚こそが不振の根本にあり、ということを知るべきである。その上で,とりあえず、上に挙げたような買い手都合の用語、言い回しの置き換えてみる。たわいないことだがこうしたことから、まずはやってみること。そこから、驚くほどの起死回生の手だてがわき出てくることに気づくことであろう、と私は確信している。
2012.01.19
コメント(0)
虫の知らせのあとにくるものは、大きな潮流の変化である。それは変化に対応できるよう備えよという情報でもある。その意味で売上減少は、商店や街の存在意義を否定していることではないのである。こうした兆し、虫の知らせに気がつかず、あるいは無視してもはや救いの術なし、といった事態に陥ってから、これを人為的に延命策を講じるといったことはいかがなものか、ということを申しあげているのである。経済の大原則に照らせば、空き店舗が増えれば、当然土地価格や賃貸料も下がる。下がれば、この際ここに店を出してみようか、といった者が、今度は時流、環境に適応した業種で、より強い店舗として出店する。そして、その新しい出店の影響で、次に弱いところが退場、空き店舗になる。といったドミノが、商店街の衰退を加速させるといわれている。その結果、空き店舗には次の新店舗が出店し埋められるということは、まさに新陳代謝である。新陳代謝は資本主義国家あれば健全な動きであり、ダーウインの法則に照らしても当然のことである。 その新陳代謝が正しく機能しないのは、1つに保護策。2にそれにすがる経営者の甘えであろう。ここの2を、少しかみ砕いて述べてみると、商は「小」、「小」は「個」、商いの基本は小売り,個売、つまり個々お客との個別対応そのものが小の強みである。この自分の強みを放棄し、大型店かぶれや行政におんぶ抱っこのお店や商店街が淘汰されることは自業自得といっても過言ではない。私が、こうした断言的な物言いをしているのは、消費者にとってなくて困るお店を、消費者が支えないわけはない、といった信念と確信と、それを裏付ける夥しい実際事例をあちこちで、目の当たりに見ているからである。続く
2012.01.18
コメント(0)
商圏の拡大は、1に、交通網と手段等の便宜化2に、それに伴ない見込み客の購買行動範囲が広くなること3に、活動に費やされる自由時間の拡大、この3点に支えられてきたが、今や、この3つとも限度が来ている。いや、この3つともそれぞれ諸刃の剣だったのだ。その片刃、もう一つの面とは・・・・・・・・・。消費者から見たら、この3つの意味することは、より広範囲の中から、より多くのお店を選択できること。売り手から見ると、この3つの意味することは、見向きもされないお店が増えること。一店舗当たりの購買客が減じることに他ならない。その結果。環境に適応しない店や,順応できない店舗が淘汰され、空き店舗が増える。こうしたダーウインの自然淘汰説は、この世界においても有効である。むろんこのことは商店や商店街固有の問題ではない。スーパー、百貨店も例外ではない。寿屋、マイカル、ダイエーといった大手スーパー、いつの間にか消えていった百貨店・・・・。ずいぶん、以前から「商圏設定なんて、売り手の都合の論理」「先入れ後出し法なんて,売り手の身勝手」。「チラシの多発は,苦し紛れの証」「人工商店街(ハコ)は、時流には対応できない」「GMSは、人身を無視した理論で形成されたいる」「殿様の売り手論理では、商いは成り立たなくなった」、と。チラシをうっても以前みたいに売れない。従業員が自店で買物しなくなった。買物をしているお客様が楽しそうでない。天、神、仏、あるいは占い師のことなら、耳を傾ける人も何気ない変化の兆しには気がつかない。気がついても,頑張ろう!で乗り切る,といったことで様々な虫の知らせを、無視してしまう。虫の知らせのあとにくるものは、大きな潮流の変化である、といったことがしばしばである。
2012.01.17
コメント(0)
13日、カーニバルの藤山さんからもあの黒崎商店街も例が出ないことを伺った。例外ではないという意味は、日本の6割以上の商店街が推定しているということ。二本足で立っておられないほど不振、虫の息というところも少なくない、という。人口減少は商店にとって、購買客の減少である。このことは、次の2つを内包している。1に、商圏内における購買見込み客が少なくなったこと。2に、その商圏内での店のお客の争奪が熾烈化。では黒崎地区みたいに、過疎には縁遠い地域でどうしてこうしたことが起きるのか。答えは簡単である。その商店街で買物をしなくなった、と言うことだこれを消費者からみたら、どういうことか。もともと商圏内などと言った概念は,売り手の論理。消費者に地元で高にしなければならないとか商圏内で、といった考えかたなぞ皆無といってよい。加えて昨今インターネットを含めて、たくさんの選択肢の中から個々自由に買い場を選べる。こんな幸せなことはない。その選択肢に商店街が入っていないか、入っていてもその存在感が薄い、ということは商店街や商店にとっては、こんな不幸なことはない、ということである。だからどの商店街も大型店も、郊外店も専門店も、こぞって消費者を獲得するため頑張ろうとする。その頑張り、思いは、どのお店も同じである。つまり皆同じことを考え、同じ想いを抱き、そしてやることも大同小異である。そうなれば、必然的に商圏ごとの競合が、さらに激化。その結果、商圏がさらに縮小してくる。結果的に,墓穴掘りなのだ。ちなみに商圏の拡大は、1に、交通網と手段等の便宜化2に、それに伴ない見込み客の購買行動範囲が広くなること3に、活動に費やされる自由時間の拡大、この3点に支えられてきた。今や、この3つともに・・・・・・・。、続く
2012.01.16
コメント(0)
14日、原稿はかいた。でもまたもホテルが窓のない部屋。無線状況が最悪でアップで,久々昨日は休み。以下、遅れの本文。高齢者に、「年寄りは運動するな」では、さらに足は弱る。過保護が、ダメをダメ押しする。ダメは、保護ではなく、まずこれまでのだめなことを反故すること。その上で、新たな活力を創成させねばならない。それを、私は「新陳代謝」と呼ぶ。自然の摂理、資本主義、ダーウインの法則に共通しているもの。その本質こそ、「新陳代謝」と考える。繰り返す。新陳代謝ができない、それに逆らうと、どうなるか。自然も、人も、動物も、植物も、みな弱り、やがて死ぬ。だから、神や仏、天の声の加護であろうと、国や市町村の施策であろうと、この「新陳代謝」を妨げることを、やってはならない。国は、国民の血税を投じて、その血を腐らす施策を受け入れてはならない。断定的に書けば、いや断定的に書かずとも、私のこうした論には語弊があろう。なければ、うそだ。 「格差が生まれる」 「小店の切り捨てに結びつく」 「もはや保護なしでは、やっていけない」といった、さまざまな意見・異論が出て当然だ。そうした声から、新陳代謝の機運を創る。そして、様々なのそのための手段が生まれるのだから。ただ根本に新陳代謝の促進、この戦略だけはしかと踏まえておくこと。「現状のままではならない」の対策が「現状の塗り替え」ではいけない。元の木阿弥であっては、絶対にならない。ヘーゲルの弁証法でいう、螺旋状的進歩発展でなくてはならない。なにより長生きは、人も企業も、「血液さらさら、新陳代謝」。
2012.01.15
コメント(0)
主語を取り違えた的外れの対応、それも、それが国策で行われているのだから呆れる。しかも呆れているだけでは、済まされない。その誤った対策、誤診の誹りだけはない。逆効果、副作用すら起きているからである。延命策、先送りしていることになり、事態は深刻。不幸を拡大化し、深刻化させることになるからだ。米穀店のたとえて記したが、商店街、すべてのお店もほとんど大きくは変わりがない、というのが私の思いである。だでは対策は、ということだが、その前に。自然の摂理、ダーウインの法則を、商店街に照らしてみてみたいのだ。空き店舗が増えれば、当然土地価格や賃貸料も下がる。下がれば、ひとつここに店を出そうか、といった気になる人が現れる。そうした者が、今度はここに、時流、環境に適応した業種でより強い店舗が出店する。そのためにまた次に弱いところが空き店舗になる。これが輪廻だ、といえば生臭くなろうが、この繰り返しが、これを優勝劣敗、進化、新陳代謝、といったことに、なるのではないか。こうした新陳代謝が起きるのは、正常な商店街なのである。こうした新陳代謝が起きないのは、異常な商店街なのである。こうした新陳代謝が起きないようにしている、としたら、それは先送りだけではなく、次の新しい目の摘み取り、といったもう狂気、いや凶器といっても過言になるまい。なにせ、こうした新陳代謝はこれ是!、生き続けるために不可欠なことなのだから。それをこともあろうに、国が、いや国を司る連中が、店数稼ぎのために、新陳代謝を止める策を講じ続けてきた。自らを死に至らしめるかも知れない毒薬の類を、喜び、欲する人たちも多く存在した。だから商店街は衰退を加速した。
2012.01.13
コメント(0)
米穀店の例で話を進める。米が売れなくなった、としょう。その理由は、地域住民が米断ちや断食を始めたせいではない。他の店で米を買っているか、パン食が増えたといったことだ。それに、例えば地域の人たちが観光の旅などが増えれば、底の地域の米穀店の売上は落ちる。つまりは、消費者がA店ではなく、米ではなく、他の土地、他の店、他の商品を選択した。それで購買が落ちた。だからA店の売上げが落ちた。そういうことになる。としたら、対策は、「他の土地ではなくここの商店街」「他店」ではなくそれもウチの店で米を購入」して頂く。この2つの条件の充足を図る、ということになる。つまり米を購入するのは他者。だが対策を講じて、2つの条件を創るのは売り手、こちら。この2つは主語が違うのである.役割が異なるのである。購買の主語は、ウチでもなく、米でもなく、消費者ないしお客様。すなわち他人。他者。ここが重要である。念押しするが、私(米穀店お経営者やその家族、従業員など)ではない。何をわかりきったことを、といわれるであろうから念押ししているのである。わかっているのなら、「どうしたらウチのお米が売れるか」といった対策が講じられるはずがないではないか。まして対策が,国による保護策、救済施策といったことで、あるはずがない。このように、米穀店の対策は、主語を取り違えた、的外れの対応、といってよい。それも、それが国策で行われているのだから呆れる。しかも呆れるだけでは済まされないのである。続く
2012.01.12
コメント(0)
「それに、学生の万引きが増えてほんとに困っているです」売れない理由は、このお店の入り口をくぐる直前に、「ああ、これだ」とすぐ分かりました。昔々、その昔。A市のJR駅前のお店の実際の話です。ある店のおばあちゃんが、詐欺にあって亡くなった連れ合いの爺ちゃんの年金など結構まとまったお金をだましとられたそうな。それで息子夫婦に、お店の売上が減って資金繰りが大変なのになんとしたことかって、おばあちゃんはさんざん叱られたんだと。ついにおばあちゃんは、切れて言ったんのだとさ。「ワシが、ぼけて金取られたいうけどね。 あの人とても親切で優しかったよ。おまえたち、あの半分でも優しかったことあったかい。今だって取られたお金惜しくて ワシを責めているのじゃないか。 いっておくが、あの金はワシと爺ちゃんの稼いだ金、ボケがきて、お前たちにだまし取られるより、優しくしてくれた人に御礼の気持ちして何が悪いんじゃ。お前たちが、あれぐらいやさしかったら、誰が他人に金をやるもんか。このぼけ! この話の配役は、おばあちゃん=地元のお客さん、息子夫婦=地元のお店、詐欺師=新しく出店した専門店、と置き換えたら,なんとなくでもおわかり頂けますか。[学生さん!!、鞄は店内に持ち込まず外においてください]。私:「このお店の入口の張り紙、なんですか」「じぁっどんな、最近の学生は万引きばかいしもして油断がならんとごわんさぁ」と店主が理由(わけ)を縷々という。「だって、私達、お客を疑うような店には誰だって行きか。みないうとるとよ」コンビニは、立ち読み歓迎なのに、ここの親父は叱るとよ」尋ねてみた通りがかりの学生は、この店のことをこういう。学生達の,井戸端会議の広がりの影響は大きい。たちまち、学生不買。不御用達のお店に指定されたことであろう。いつの場合も双方に理由(言い分)があるのだが、さて、どちらを聞けばうまくいくとお思いでしょうか。 相手の行動の真の理由がわからないと対策(て)は打てないと思うのである。 * 「じゃれば、万引きをほっとけばよかど、とおまんさーは言いやしとな」と口を尖らせた声を背に、早々に店を出た。
2012.01.11
コメント(0)
自販機と自動ドアにご挨拶を任せてそれで何か良いことあるの?お世辞、お愛想、たらたら、口パクしていて虚しくはないか。欺瞞だとまでは言わないが、どうも口先だけではないか、お客様がその言葉の額面通り受け取っていないのではないか、そうしたことを言っている自分自身が、どこかに空しさを感じるのであれば、これはまだ救われる。大丈夫。目を閉じて、創業したとき、最初のお客様の姿が、店頭に見えたときのあの感激が浮かんでくるのであれば、大丈夫。こんなお店でも、幾ばくかお客様がきてくださる、そんな気持ちが少しでもあれば、大丈夫そこで提案です。お客様からの通信簿が、決算書なのだとおもって、最近の決算書をもいち度見直してみませんか。今期は、「儲かった、損した。伸びた、減った」。そらそら、そんな見方をやめて、お客様からもらった通信簿とおもって。一日終わり、売り上げの計算。「ああこの千円札はウメさんが大根買ってくれたときのもの」「これは、山田さんちの健太のおやつのパン代」ただひたすらお客のあれこれを思いながら、夫婦で帳簿を締める。毎年、その一里塚で決算書を読む。「俺、これだけお客様に喜ばれたか」って。こうした商人のお店であれば、やがてお客さまがいっぱいくる。商売が楽しくなる。毎日が楽しくなるそうしたお店は、繁盛店になるに決まっている。きっとなる。私は、請け負いますよ。
2012.01.10
コメント(0)
お正月3が日も終り、ここにきてやっと重い腰を持ち上げ年が明けて初めて、お店を開いたお店がある。商工会議所が配ったのであろう「初商」のビラがこのお店では白々しくみえる。ふと思ったこと。これだけ多くのお店ある。しかも、その殆どが当店より大きいお店、きれいなお店。、そんな中にあってもこんな小さな自分のお店にお客様がきてくださるっている。この不思議!ほんとに、そう思いませんか。しかも自らの時間を費やし、ガソリン代自己負担し、財布にお金とカードをいれて、この小さなお店に来る。こうしたことを、「有り難いなぁ」、「すごいことだな」、と感じ,感謝する商人が少なくなったのでないか。たくさんのお店、選択肢から自店が選ばれる。あふれるほどある商品の中から、「これ」が選ばれる。このすごいことに感動しなくなった商人が自らお店を駄目にしているのではないのか。自分のことばっかり考える。お客様は自分の儲けの手段と考える。そして、自分の売上ほしさに、「お客様、第一主義」、「飼わなきゃ損そん」、「真心を込めての感謝」などとと口ぱくしている。そうしたことが自分の本心からでないこい、口ぱくに過ぎないことにすら疑問を抱くことはない。そうだ。あれだ。百貨店や駅ビルのあれだ。「よい子の皆さん!エスカレータでは遊ばないで下さい」。「自販機でも感謝の言葉をいうのに、このお店の奥さんから感謝の言葉を聞いたことがない」。「いやそうではない。自分が言いたくないので、自販機と自動ドアに代行してもらっているのさ」。と店の外の人たちの声はかしましいが、当人に聞こえているのかどうか。続く
2012.01.09
コメント(0)
お客は自分が得したいから店に来る。だから事業づくりの要諦は、お客を喜ばすものが創造できるかどうかにある。売上はその「結果」と考えたい。需要と供給のバランスで後者が前者を上回るこの時代、すなわりお店がたくさんあって,買い手がどのお店で買うかの選択するこの時代に、どう考えても経営者の関心が、内実的には我が社が、あるいは自分がいかに儲かるか、といったことで人が支えてくれるはずはないのだ。あなたの企業を儲けさせようと思って購買に走るお客は一人だっていないからである。ところで「売買の成約」は、買いたいという意志と売りたいという意志、これを戦略といってもいいと思うのだが、この2つの戦略の協力関係というのが、私の立場である。とすれば,この協力関係へもっていくには、売って幸せ、買って幸せの「幸せの共感の作り」が最善手になる。このことこそ経営という仕事の本質ではないか、と考えているのである。こうした想いから、今の経営のあり方を見てみると、いかに自己中心で、それが故に危なかっしい状態にあるか、ということに気づかされる毎日である。もちろん売上の大きいこと、その拡大を目指す、といったことを全面否定しているわけではない。そうした企業を拡大、売上の大きさ、量は売り手と買い手の共感の結果だと申し上げたいのである人は一人では生きていけない。認めようが認めまいが、見える見えないに関わらず古今東西の人々の英知、支えのおかげで生きている。その支えを自ら少なくする人生戦略、企業戦略は間違いなく破滅の道。だから自分の事業を、この支えを大きくする一つの場ととらえ、事業発展への夢を育てて欲しいと念じている。
2012.01.08
コメント(0)
企業が本来目指すものは、「売れる体質づくり」なのだ。その「戦略を具現するための戦術」を画策し、組み合わせ、実践する。これが経営の正しい営みといってよい。だから、「これは戦略を具現するための戦術」であるかどうかが、戦術を講じる際に吟味され、今日明日のための一時的成果、一過性的な戦術は戦略に反する戦術として、選択から排除されなければならない。なぜなら一過性的な効果を求めて手を講じることは、体質づくりのための戦術行使の先延ばしになり、また折角育ち始めた体質が崩れてしまう契機にすらなりかねないと考えるからである。事実、そうしたことで挫折する事例がなんと多いことか。 そうしたリスクをさけるために経営者自身が、事業の本質を、あるいは存続の前提を人と人との出会い、人と人の関係づくり、人との交流の場として捉え、事業経営の営みの根幹に、縁ある人との信頼関係を積み重ねていくこと。このことに重きを置き、その思い(理念))を、ひとりひとりの従業員、組織の隅々まで浸透させ、組織風土化することである。ちなみに、そうした苦心の過程で生まれた様々な創造性的システムがいわゆる「我が社ならではのノウハウ」といえるものである、と私は考えている。ともあれ人は理念と戦略に共感し共有して、初めて他者、組織のために動く。消費者も然り。理念と戦略に共感、共有し、自らの意志で購買行動をなすのである。そして戦略を共有する「仲間」の数の多いほどそのパワーは大きくなる。これが購買力といわれるものである。事業戦略は、経営手法やテクニックをあれこれ考える以前に理念、戦略、戦術という一種の流れに、大きさと勢いを構築することを最優先の営みの課題、存続のための課題として優先、考え,構築することが重要である、と考えている。
2012.01.07
コメント(0)
きれい事で言っているのではない。倫理や道徳の話をしているのではない。人間の持つ本能、欲望からみれば、人は皆、自分が可愛いに決まっている。自分の利を欲する。だから利を与え続ける人を求め、見つけたら放したくない。こうした気持ちは当然のことだろう。これが逆に経営者が自分の儲けのため、自社のことだけを考える人であると、消費者が知ったとしたらどうであろう。。最近の消費者は実によく商人の姿勢と行動を見ていて、いつも自分にとって、いわゆる「正義の味方」を支持している。かりに2つの目では見逃すことがあったとしても、夥しい数の大衆の目をだまし続けることは不可能なのだ。だから一時的に儲けを得ることはできたとしても、その後、儲け続けることはまずできないのである。繰り返すが、消費者、取引先、従業員、この3者から、支えられることによってのみ、事業の永続的存続が許される。その関係は自分の利を主張した途端に崩れ、相手に利を与え続けると継続するからである。 こうした3者のが支えてくれる人問関係の構築こそ、私は、事業の本質と理解している。このことが理解はできたとしても、言うは易く行うは難し、勇気と根気がいる。相手の利は充足されても、分かっていたとしても、自分の利は満たされないことは、はっきりしているからだ。だからこそ、その苦しさに辛抱できない多くの経営者が、即効性を求め、売り込みを行う。もちろんその時はそれなりに効果がある。しかしそれは繰り返すが、あくまで一過性的であり、そうしたことをいくら繰り返し、積み重ねようと、「売れる体質づくり」には結びつかないのである。続く
2012.01.06
コメント(0)
「コーイングゴンサーン、生き残る、強い企業(家)」は、どんな条件を備えているのだろうか。私は次の3つを挙げたい。1-消費者の支えの上にのみ企業はその存続を許される。だから経営者のなすべきことは、何をさておいてどうしたら消費者に支持され続けるか、という命題を立て、それを前提にその範疇内で戦略を立案することになる。2-それを手と足と口を使い、消費者に伝達する行動力が不可欠だ。どんな高遭な'念や戦略が採用されようとも、具体的に見える形で表現されないのでは無意味になるからである。3-消費者を含め、仕入先、取引先、それに従業員の協力をいかに有機的に結合させ、いわゆる組織力として機能させ得るか、以下、上の3点に少し解説を付する。個々企業の業績は、好不況といったマクロ的あるいは外部要因にあるのではなく、正しい理念・戦略、そしてお客に支持される戦術を選択し、それを取引先や従業員の協力を結集し、具体的に示しえるかどうかの経営者の手腕にあることになる。こんなせち辛い世の中で、しかも競争激化の中で、そんな悠長な考えでやっていけるか、という反論もあろう。たしかに一時的に、そしてより簡単に増収増益を得る方法はいくらでもあるだろう。しかし、それらの方法では、繁栄し続けることは決してない。また急激な一過性の成功が、後に大きな不幸や悲劇を生務要因になっている、といった事実は、これまでの夥しい事例が証明しているところである。とくに消費者を結果的にだましたり、取引先をいじめたり、従業員の犠牲の上に得られた業績は、まさに砂上の楼閣に等しい。舞い上がった高さだけ落下することは必死で、会社や個々人に与える傷は往々にして致命傷になっている。真にその行動が、「消費者のために」であるなら、消費者が支えてくれる。仕入先も良い取引先として支えてくれる。従業員の幸せを考える事業であれば、従業員は一生懸命働く。このことを確信しているからだ。続く
2012.01.05
コメント(0)
信用、信頼は、人と人との関係。人と人との関係には信用、信頼が前提。 これが根本。ぜったいに永久不変の理。 となれば上に見てきたように、大きい企業は、人的関係という側面からみれば、そのままではハンディがあることは明白である。 だが殆どの企業では,そのことに無関心で放置されている、というのか実態といってよい。 ここだ!となれば、個々相互に顔が見えやすい,地場の中小企業が,これを強みとして認識し,活かせば断然有利になるのである。 もっともかせばの話だが,大企業願望志向の強い多くの中小企業はこれを強みなどといった認識は乏しい。これを宝の持ち腐れという。 強み、と行ったが、それは活かさないと意味がないし、逆にその経営や私生活のことでよからぬことがあると、身近なゆえに丸見えになり、不利になる、といった諸刃の剣になることを知っておかねばならない。 皮肉なことだが、この諸刃の剣が,マイナスに働いているのが地域型中小企業に多く見られる実態といえる。 信用、信頼の構築のための根本は、先に,簡単に触れたが、もうひとつある。 それは積み重ねだ。 10年でビッグになった企業と、100年続いている企業。どちらを信用するか、と問われたら、まず後者であろう。 時間的積み重ね、つまり歴史は、 ごまかせない。それに追い越せない、追いつかれないのである。 日経が採り上げている「二百年企業」には、企業はほとんどなく,大きくても中堅程度。多くが今なお、そしてこれからも中小企業のまま、しかも時間の積み重ねを強みとして,今日まで生き続けているのである。 畢竟、要約すれば、企業の普遍的あり方としては、1に、人と人との繋がりを重点とする。2に、未来永劫的な存続を目指し、信用・信頼の積み重ねをする。 この2点に,尽きる、といえるのではないか。
2012.01.04
コメント(0)
「ママより、君がいい」 せっかく大きくして多くの女の子を高給で雇用し,個々まで大菊発展させてきたのに、「ママより・・・」といわれ、言われるだけならまだしもその中のチーネーちゃんが次々、独立し、大切なお客様をごそっと持って行かれる。 世の中は,侭ならぬもの、とママが嘆いてももう取り返しがつかないこと。 大きくなるということ、人間関係が広がるということ、 そうしたことは、必然的にひとりひとりの関係が「疎」になる、ということを、やはり最初に心して、「如何せん」とそれをカバーする方法を考えておかねばならないのだ。 で、人的関係が疎になりやすい大企業は、どうしても人的要素以外で、信用、信頼を得ることに主眼が移りやすくなることもやむを得ない,ということか。 たとえば多店舗展開、あるいはお店の大きさをアピールする。立派な本社ビルをパンフやHPに掲載する。上場していることを。前面にだす。売上や資本金の大きさをアピールする、といったこと。 「立派なスーツを来ている人は,信用できる」「立派なセリフを吐く詐欺師は,信用できる」「映画の悪役は,悪い人。イケメンは嘘、つかない」 しかし、これらは信用・信頼とは関係がないこと。そしてこの錯覚を演出するのは企業PRも詐欺師も変わりない、 まったく関係のない組み合わせ、論理に合わない論理での言動、宣伝、それをおかしく思わなかったりする、といったことは,日常でもけして珍しくはないことである。 このことをアピールする方、見せられる方、双方とも承知しておかねばならない。 しかしこうしたことがあろうと、組織的に大であろうと小であろうと、念押ししておきたいが、信用、信頼は、人と人との関係。これが根本である。このことは,ぜったいに永久不変の理である。続く
2012.01.03
コメント(0)
その料理屋が、信頼できるかどうかは、そこの経営者、マスター、女将さんが信頼できる人かどうかで決まる、と昨日書いた。 その彼らが人間として信頼できる人かどうかはかねがね,日常の人間的付き合いに依る。だから付き合いがなかったら、消費者は、判断のしようがない、ということになる。 信頼は、私、売る人、私、買う人といった対峙関係ではなく、同じ人間、同じ地域の住民で、日常のつきあいのある仲間同士、といった日頃の関係、それに、爺さんの代からお互いを見知っている、といった付き合いの長さ、この2次元的人間関係の中で、培われてきたものである、と考える。 このことこそを、信用、信頼に値する、といった言い方になるのではなかろうか。 これは,最近よく目にする「絆(きずな)」と言い換えても良い。 再度、これを企業の方から見てみる。 買い手が購買行為を成さない限り、売上を上げることはできないし経営も成り立たない。 ならば、作り手、売り手側としては買い手が購買行為を成すという状態、条件を、実際面で行う、ということが命題となる。 すなわち、購買して貰うためには,購買に値する「もの」でなければならないし、購買するに値する「企業なりお店」である、といったように、消費者の信用、信頼の構築こそが経営の営みの中心になる。 だが、実際はどうか。 規模が大きくなると,小さなお店時代と違って親父や女将の信頼性だけでは,うまくいかない。組織が大きいと、経営者の顔が見えにくくなるからである。 ママの顔を見に来たのに、ママにお目にかかることが儘ならず、派遣ホステスの顔だけ見て,飲むといったことが続けば、そのうちママの存在など、お客からみたらどうでもいい、 「ママより、君がいい」といったことになる。 続く
2012.01.02
コメント(0)
もの不足時代は作り手・売り手が強い。で、売上=(売上は・・・) と売上を主語に持ってきた。 今は、もの余り時代は、消費者が強い。売上は10億に、と目論んでも売り手の願望通りにはならない。 だから、購買=売上、である。 購買の主体者は購買者、消費者であるから「消費者は・・・」とこちらを主語にして、経営を考えないと,うまくいかない。 ここから、次の3つのことが云える。 1に、消費者の協力なしでは作り手・売り手の取引関係は成り立たない。2に、左辺の「購買」という行動が先にあり、その結果として,右辺「売上」が,存在するということ。 3に、左辺なき右辺は存在しないし、右辺なくば左辺なし、 といったことで、この取引関係は、作り手・売り手側が、右辺側の主体、購買者の協力関係を取り付ける、ということになる。 そこで、まず、購買する方からみて、 購買者が、作り手・売り手に協力する関係に至るには何を重視しているのであろうか? といったことが、作り手・売り手の命題になる。 取引関係、協力関係、いずれにしても人間関係である。 消費者と企業の関係、消費者と商品の関係というのは、文字や言葉では存在するかも知れないが、企業やお店、物と人とが仲良く信頼しあって、ということはあり得ないから、そこの人たち、とりわけ経営者に対する人間的側面の関係ということになる。 つまり、小さい企業であればあるほど経営者が信頼できる人である、といったことが,購買するかどうかの、一次的な、判断の基本になる、ということである。 この料理が、おいしいか,安全であるかいちいち確認できない購買者としては、それを提供する料理屋が,信頼できるかどうかで決まる。 その料理屋が、信頼できるかどうかは、そこの経営者、マスター、女将さんが信頼できる人かどうかで決まる。
2012.01.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1