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満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇3/13(水) ソ連軍が侵攻した旧満州国での体験を日本人女性が告白した。女性たちに一体何があったのか。12日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、当事者の証言などを基に紐解いた。1932年、現在の中国東北部に建国された満州国。日本政府は補助金を渡すなどして移民を奨励し、およそ800もの満蒙開拓団が海を渡った。 そして太平洋戦争末期。ソ連軍157万人の勢力が国境を越えて侵攻、関東軍が南満州方面に後退したことで、開拓団も人々が置き去りの状態になり、現地民やソ連軍による略奪などの被害に遭い、村ぐるみの集団自決も相次いだという。元黒川開拓団の安江菊美さん(85)は、語り部として地元の小学校を回り、子どもたちに体験を伝える活動をしている。「国境に配置されて、私たちは日本の兵器に使われたと言っても過言じゃない気がする。ソ連兵が入ってきていつ死ぬか分からなかった。隣の開拓団が集団自決して、私の母親も日本刀を枕元に置き、“小さい子を殺すから、お前は自分で死になさい“と、長女の私の枕元には短刀を置いた」。 しかし、菊美さんには子どもたち語っていない記憶がある。それが“接待所“についてだ。 極限状態の中、開拓団は生きて日本に戻るため、ソ連の将校らに守ってもらうことを願い出た。その見返りが、18歳以上の未婚女性15人をソ連兵に差し出すことだった。満蒙開拓平和記念館館長の寺沢秀文さんは「他の開拓団も含め、当時、“根こそぎ動員“といって、18~45歳の男性は兵隊に取られてしまっていて、高齢者、女性、子どもしかいない状況だった。周辺住民などからの暴力から団を守るためにはソ連軍に守ってもらうしかないという極限状態だった。その中で、幹部の皆さんは辛い決断をしていた」と説明する。
2019年03月14日
シベリア抑留の女性名簿 邦人121人、初の公的資料2019年2月24日ロシア国立軍事公文書館に残されていた女性のシベリア抑留者の名簿=生田美智子・大阪大名誉教授提供 旧ソ連によるシベリア抑留で、詳しい実態がつかめていない女性の抑留者について、日本人百二十一人とドイツ人三人の名前などを記した名簿が、モスクワのロシア国立軍事公文書館に残されていることが分かった。シベリア抑留問題に詳しい大阪大の生田美智子名誉教授が発見した。女性抑留者を巡っては、帰国後の証言や手記などが残されているが、女性の名前が列挙された公的資料の存在が確認されたのは初めてとみられる。女性抑留者は大まかな総数すら判明しておらず、全体像を解明する端緒となる可能性がある。 生田名誉教授によると、名簿は収容所を移動する際に作成されたもので、A4判程度の紙に名前や生年、国籍、身分、移動日などが、行き先の収容地区別にロシア語で手書きされている。名前から旧満州の佳木斯(ジャムス)にあった第一陸軍病院に配置された第七九一部隊の看護師らとみられ、一九四五年九月末ごろにハバロフスクへ集められた後、翌年春にシベリア各地の収容所へ移動させられたときの記録の可能性がある。ドイツ人は、旧満州に赴任していた公使の妻と随員らとみられる。 第七九一部隊は旧ソ連軍の侵攻が始まった四五年八月九日、佳木斯から西のハルビンへ移動しようと船で松花江を進んだが、たどり着けず、途中で下りた方正で拘束され、武装解除された。男性の軍医らに加え、約百五十人の女性が所属。内訳は日赤派遣の看護師が約二十人、陸軍雇用の看護師と事務員が約五十人、現地徴用で看護補助などを担った女子挺身(ていしん)隊で「菊水隊」と呼ばれた約八十人がいた。全体の半数以上が十~二十代前半だった。 女性らは、再び佳木斯に戻された後、ハバロフスクへ移送された。当初はまき集めや食糧運搬、トイレ清掃などの作業をしていたが、重労働を課せられた男性抑留者が最初の冬の極寒や飢えによって多く死亡したことから、看護や衛生対策を担うため、シベリア各地の収容所医務室や特別病院に分散させられた。 抑留の根拠となった旧ソ連指導者スターリンの極秘指令は、対象を「日本人」とし、男女の区別はなかったとされる。第七九一部隊のほかにも多くの女性が抑留されたと考えられるが、日本側の女性の証言や手記などの文献では「総勢二千人前後」や「二百数十人」という指摘があるほか、ロシア側でも「四百五十人の日本女性を抑留」とする資料があるなど、全体像は把握できていない。<シベリア抑留> 1945年8月9日に旧満州へ侵攻した旧ソ連は、日本が無条件降伏のポツダム宣言を受諾後に拘束した日本兵や民間人をシベリアなど国内各地やモンゴルの強制労働収容所へ移送。鉄道や道路建設、森林伐採、農作業、工場作業などさまざまな労働を課した。厚生労働省によると、抑留者約57万5000人のうち約5万5000人が飢えや寒さなどで死亡したとされる。56年の日ソ国交回復まで帰国事業が続き、抑留期間が10年以上の人もいた。2015年に、抑留者が当時の生活を記した手記など、京都の舞鶴引揚記念館が所蔵する関連資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」に登録された。
2019年02月25日
「ソ連軍の要求するものは抵抗せずに」…シベリア女性抑留者、過酷な対応迫られ毎日新聞2019年2月23日「ソ連軍の要求するものは抵抗せずに渡すこと。その第一は酒、第二は女」。モスクワのロシア国立軍事公文書館で見つかった女性抑留者の名簿に隊員とみられる名前が含まれていた旧満州の陸軍第791部隊は、旧ソ連によるシベリア抑留で強制労働を課せられただけでなく、上官から性接待を受け入れるように指示されたとも理解できる通達があったとの証言が残されている。組織を守るため、同じ日本人からも過酷な対応を迫られていた可能性がある。女性シベリア抑留者の名簿発見2019年2月23日ロシア国立軍事公文書館に残されていた女性のシベリア抑留者の名簿。日本人121人とドイツ人3人の名前などが記されていた(生田美智子・大阪大名誉教授提供)旧ソ連によるシベリア抑留で、詳しい実態がつかめていない女性の抑留者について、日本人121人とドイツ人3人の名前などを記した名簿が、モスクワのロシア国立軍事公文書館に残されていることが23日、分かった。大阪大の生田美智子名誉教授が発見した。女性抑留者を巡っては、帰国後の証言や手記などが残されているが、女性の名前が列挙された公的資料の存在が確認されたのは初めてとみられる。ロシア国立軍事公文書館に残されていた女性のシベリア抑留者の名簿=生田美智子・大阪大名誉教授提供、共同生田名誉教授によると、名簿は収容所を移動する際に作成されたもので、A4判程度の紙に名前や生年、国籍、身分、移動日などが、行き先の収容地区別にロシア語で手書きされている。名前から旧満州の佳木斯(ジャムス)にあった第1陸軍病院に配置された第791部隊の看護師らとみられ、1945年9月末ごろにハバロフスクへ集められた後、翌年春にシベリア各地の収容所へ移動させられたときの記録の可能性がある。ドイツ人は、旧満州に赴任していた公使の妻と随員らとみられる。第791部隊は旧ソ連軍の侵攻が始まった45年8月9日、佳木斯から西のハルビンへ移動しようと船で松花江を進んだが、たどり着けず、途中で下りた方正で拘束され、武装解除された。男性の軍医らに加え、約150人の女性が所属。内訳は日赤派遣の看護師が約20人、陸軍雇用の看護師と事務員が約50人、現地徴用で看護補助などを担った女子挺身(ていしん)隊で「菊水隊」と呼ばれた約80人がいた。全体の半数以上が10~20代前半だった。女性らは、再び佳木斯に戻された後、ハバロフスクへ移送された。当初はまき集めや食糧運搬、トイレ清掃などの作業をしていたが、重労働を課せられた男性抑留者が最初の冬の極寒や飢えによって多く死亡したことから、看護や衛生対策を担うため、シベリア各地の収容所医務室や特別病院に分散させられた。抑留の根拠となった旧ソ連指導者スターリンの極秘指令は、対象を「日本人」とし、男女の区別はなかったとされる。第791部隊のほかにも多くの女性が抑留されたと考えられるが、日本側の女性の証言や手記などの文献では「総勢二千人前後」や「二百数十人」という指摘があるほか、ロシア側でも「450人の日本女性を抑留」とする資料があるなど、戦後74年を経てもなお、全体像は把握できていない。〔共同〕
2019年02月24日
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