全62件 (62件中 1-50件目)
北条時連「頼時(泰時)は鎌倉殿のそばにいない方がいい」義時「そういうお前こそ大丈夫か?」時連「私は大丈夫です。鎌倉殿に蹴鞠の才能を引き出してもらいました。」義時「単なる遊びではないか?」時連「都で公家と渡り合えるように励んでいるのです。」「鎌倉殿を諌めるだけでなく、わかってさしあげることも大事だと私は思います。」*北条時房(ほうじょうときふさ)は、1175年( 安元元年)、北条時政の三男として誕生。 北条政子・北条義時の異母弟。 1189年(文治5年)4月18日、元服。 源頼朝の命により三浦義連が烏帽子親となり、時連(ときつら)と名乗る(1202年(建仁2年)に時房と改名。)。1203年(建仁3年)9月2日、頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が北条時政の謀略によって滅ぼされ、9月29日には頼家が修禅寺に幽閉されたが、時房は処罰されずに済んでいる。 1205年(元久2年)の畠山重忠の乱に従軍。 乱後、北条時政とその後妻・牧の方による平賀朝雅を将軍に据えようとする企てが発覚。 時政は伊豆国に追放され、京都にいた平賀朝雅は、閏7月26日、追討軍によって討たれた(牧の方の陰謀)。 1213年(建暦3年)の和田合戦に従軍。 1215年(建保3年)1月6日、伊豆国で父時政死去。 1218年(建保6年)、北条政子に随って上洛。 政子の上洛は、子ができない将軍源実朝の跡継ぎについて、朝廷に親王将軍の斡旋を相談するためだった。 この時の上洛で、時房は子の時村とともに後鳥羽上皇の蹴鞠の会に列している 1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発すると、5月22日、北条泰時・北条時氏・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱らとともに東海道の大将軍として出陣。 6月15日、時房が瀬田、泰時が宇治を守る朝廷軍を破って入京。 乱後、新たに設置された六波羅探題の南方に就任し、京都に留まった(北方は泰時)。 1224年(貞応3年)6月13日、北条義時が死去すると、6月23日、北条泰時が執権に就任。 6月28日、北条政子は時房を後見役に任命した(連署)。
2022年08月04日
「鎌倉殿」三浦義澄「一緒に逝こう!」天寿目前で悪友時政とモメる「道連れw」退場惜しむ声8/2(火) NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は7月31日に第29回「ままならぬ玉」が放送され、ドラマ初回から登場していた有力御家人の三浦義澄が退場した。体調がすぐれず床に伏し、息子義村の言葉にも「死んだ後のことは、正直どうでもいいや…」と静かに息を引き取ろうとしていたが、若い頃からの悪友で命運を共にしてきた北条時政が駆けつけてきて「次郎!死ぬんじゃねえぞ!」と呼びかけると、義澄は突然ガバッと起き上がって時政に「待っておったぞ。一緒に逝こう!」「一緒に逝こう!」とすがりついた。 ジイ2人のもみ合いがはじまり、時政が「ばか言え!」と叫んで突き放すと、そのまま床にバタン!とぶつかって事切れた。 御家人たちが権力を争って裏切ったり、命を奪い合う中で、対照的なまさかの臨終場面にネット上では「悪友を道連れにしようとする義澄」「時政のトドメw」「泣く準備してたんだけど!?」「つらい。しかし笑った」「すごいものを見せられてしまって後の話が入ってこん」「まさかの『一緒に行こう死』」「言われたらヤダなぁw」「一緒に行こうはあかんw」「畳の上で友人に見送られて退場とは。幸せな最期なんでしょうね」と話題に。 「ずっと一緒にいたからねぇ」「三浦のじいさんと時政ぱっぱの友情、最期まで良かったなあ」「時政の信頼できる人がまた一人いなくなってしまったよ…」「この関係最高だったな」と退場を惜しむ投稿が相次いだ。 三浦館の騒動とは対照的に、源頼朝(大泉洋)に流人時代から仕えた安達盛長(野添義弘)は館の縁側で、陽光を浴びながら静かに眠りについた。💛歴史に「もし」はないが、三浦義澄が北条時政を道ずれにして逝っていたら、歴史は変わっていたであろう。 おそらくは二代将軍はそのままいすわり、壮絶な御家人同士の争いのまま鎌倉幕府はついえ、京都に権力が移譲していたかも。それくらい時宗とりくの暗躍による二代将軍の失墜、暗殺、有力御家人の実力排除が続いていく。・樹木希林「お父さん(内田裕也)を残していったら大変よ!」「イギリスの占い師には、『死ぬときは(内田も)一緒に連れて行くから大丈夫』と言われた」・あるとき、一人娘の也哉子さんがタロット占いをしてもらったら、占い師から「大丈夫ですよ。お父さんはお母さんが死ぬときに首根っこを掴まえて一緒に連れて行きますから」といわれたらしく、希林さんは占いを信じる人ではないけど、ホッとしたんだとか。そして、その話を裕也さんにしたら「頼むからおまえ1人で逝ってくれ」とため息をついたそうです。結局、希林さんが亡くなって半年後に裕也さんも後を追うように逝きました。
2022年08月02日
時政「次郎!死ぬんじゃねぇぞ!」義澄「待っておったぞ、四郎。一緒に行(逝)こう!」抱きつく義澄を時政が「馬鹿言え!」と振り払うと、義澄はコテンと倒れ込む。脈を確かめた息子・義村は首を横に振る。時政は「次郎ー!」と泣き叫んだ。・見事に三谷さんの術にはまって、ふきだしてしまった。第9話(3月6日)の「富士川の戦い」。源頼朝と武田信義は黄瀬川の陣で対面。出陣は翌々日と合意したものの、頼朝軍が寝静まった深夜、信義軍が出陣。頼朝を出し抜いた。時政と義澄は川辺。平維盛率いる対岸の追討軍を前に話をしている。義澄「四郎、頼むから、もう少し、ちゃんとしてくれ。もう前とは違うのだ。わしらの肩には、大勢の坂東武者の命が懸かっておる。己が何をすべきか、よく考えろ!しっかりしてくれ、四郎時政。この世で一番みすぼらしいのは何か知っているか。しょげている、じじいだ」時政は頬を思い切り殴ってくれと懇願。いざ義澄が頬を張ると、時政は「やりやがったな」と突き返し、義澄が川の中に転んでしまう。「その時、辺りの水辺で休んでいた無数の水鳥たちが、一斉に羽ばたいた。数万羽の羽音が夜空に響き渡る」。追討軍は羽音を敵の襲来と勘違い。総崩れとなった。佐藤「脚本家の三谷(幸喜)くんから連絡をいただいたときは、『個性の強い侍がどんどん出てくるんですけど、三浦義澄についてはその中であまり個性がなくて、商店街の気のいいおやじだと思ってやってください』というふうに言われました」「それでも三浦を調べていろいろ分かってくると、三浦一族がすごい一族なんだということが見えてきた。三浦半島のトップですからね」彌十郎について「すごい気のいい方で、時政のあの役のように人のいい感じ、本当にあのとおりなんです。お酒も大好きで、昔はよく一緒に飲みましたね」「最初はすごく緊張していましたので、『俺を頼りに頑張れ』と声をかけました(笑い)。だからこの2人で喜ぶ第1回のシーンを、まさにドラマのクランクイン当日に収録したんですけども、けっこううまく撮れたのでよかったなと思いました」雨により三浦党が酒匂川を渡ることができなかったシーン(第5話)「現場に着いたときに大型の散水車が2台止まってました。『2台分も降らせるのかよ? 俺歳いくつだと思ってんだよ』みたいなね」源氏側についた義澄に「やっぱり人間にとって、新しく何かをしようということはすごい魅力だと思うんですよね。若者だったらその新しい方につくんじゃないのかな、人生をかけるんじゃないかな、と思いますね」
2022年08月01日
昨日(7月31日)の鎌倉殿の十三人で江間太郎(北条泰時)が伊豆で行った証文を百性の目前で破り捨て、別に1斗ずつ米を給付した場面があった。これは吾妻鏡の記事に由来する。・義時は頼時へ伊豆の領地へ赴くよう指示を出す。 凶作にあえぐ百姓が借りた米を返さず逃亡しているのを収めてこい。義時「なんとかしろ!」泰時「どうすれば?」時連「なんとかしろ!と言われたらなんとかする。お前の父上もそうやってずっとなんとかしてきた」泰時「なんとかします」の掛け合いが面白かった。
2022年08月01日
「鎌倉殿の13人」承久の乱「義時を討て」後鳥羽上皇の誤断7/31(日)・承久3(1221)年5月15日、承久の乱は後鳥羽上皇が諸国の守護・地頭に対して発した執権・北条義時の追討命令から始まります。・後鳥羽上皇が幕府に、摂津国(大阪府)のふたつの荘園の地頭の罷免を要求した。どちらも、後鳥羽上皇が愛妾の亀菊*にあたえていた荘園で、上皇は意のままにならぬハエのような地頭を追い払おうとしたのです。*亀菊(かめぎく、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の白拍子。後鳥羽上皇の愛妾。伊賀局とも。江口の遊女であったと見られ、この地域と関連のある摂津国長江・椋橋(大阪府豊中市)の荘園を上皇より与えられる。鎌倉で上皇と良好な関係を持っていた鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺されると、幕府は上皇の親王を新たな将軍として鎌倉へ迎えることを要請した。上皇は亀菊の所領である両荘の地頭が領主の命令を聞かないので免職にして地頭を廃止せよと要求して、幕府に譲歩を迫る。幕府は上皇の要求を拒否して両者の交渉は決裂、この亀菊の所領問題を絡めた将軍東下問題は、上皇と幕府の関係を悪化させ、2年後の承久の乱の一因となる。・後鳥羽上皇は幕府軍との戦いに備え、着々と軍備拡張政策をすすめた。院の警護を強化するため、北面の武士に加えて、新たに西面の武士を新設していました。自衛部隊の増強です。また、有能な軍人の“徴兵”にも乗り出していました。眼を付けたのが、平賀朝雅の兄・大内(平賀)惟義*です。平賀朝雅は、北条時政と牧の方が次期将軍に立てようとしたものの、義時・政子にはばまれ、誅殺された元京都守護です。その兄を“徴兵”し、直属の部下に引き込んだのです。*元久2年(1205年)の牧氏事件では北条時政により新将軍に担がれた異母弟の平賀朝雅が北条義時の命により誅殺されているが、惟義は事件に連座せず朝雅が有していた伊勢・伊賀守護を引き継いだ。建保元年(1213年)8月の3代将軍・源実朝の移徙では、執権・北条義時の次位として随行している。惟義は幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津など近畿6ヶ国の守護に任命される一方、在京御家人の代表として後鳥羽院に近侍して朝廷との接触を深めていった。承久3年(1221年)、承久の乱が勃発。後鳥羽院ら京方の挙兵に対し、惟義の死後に近畿6国守護職を受け継いでいた子の惟信は、後鳥羽院の下へはせ参じ、京方として鎌倉幕府軍と戦う。しかし、あえなく敗戦して消息を絶ち、ここに源氏御門葉平賀・大内氏は滅亡する。・幕府の重鎮三浦義村の弟・三浦胤義*は、左衛門尉・検非違使という高位を授かって上皇に付き従っていた。それどころか、胤義は鎌倉の兄・義村に向けて、〈幕府を捨てて朝廷に従おう。上皇からの恩賞も確実だぜ!〉という手紙まで送ったのでした。*三浦胤義は元久2年(1205年)の畠山重忠の乱、牧氏事件に兄の三浦義村とともに出陣。建暦3年(1213年)の和田合戦でも功を立て、建保6年(1218年)6月27日の源実朝の左大将拝賀には衛府の一人として参列していたことが『吾妻鏡』で裏付けられる『承久記』慈光寺本によれば、後鳥羽上皇の近臣の藤原秀康から挙兵計画への参加を説得された際、秀康から本拠地である三浦や鎌倉を振り捨て都で宮仕えしているのには何か訳があるのだろうと訊ねられた胤義は、自分の妻は二代将軍・源頼家の愛妾で若君(禅暁)を生んだが、頼家は北条時政に殺されてしまった。さらに若君もその子の義時に殺されてしまった。自分は先夫(頼家)と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、鎌倉に謀叛を起こそうと京に上ったと述べている。挙兵計画に参加した胤義は軍議で「朝敵となった以上、義時に味方する者は千人もいまい」と楽観的な見通しを述べている。また秀康から挙兵計画への参加を説得された際も兄の義村はきわめて「嗚呼ノ者」なので日本国総追捕使に任じられるなら必ず味方すると確約しており、終始、楽観的な見通しを持っていたことが裏付けられる。しかし、期待の義村は胤義から遣わされた使者を追い返した上に托された密書を幕府に届けてしまい、胤義の目算は崩れ去った。鎌倉では上皇挙兵の報が伝わるや、北条政子が幕府創設以来の頼朝の恩顧を訴える史上名高い演説で御家人らの志気を鼓舞。『吾妻鏡』によれば、この際、政子は秀康と胤義の名を逆臣として挙げており、胤義は京方の中心人物という位置づけだった。合戦が始まるや、京方の大将軍として美濃国と宇治川で幕府軍と戦うが敗北。幕府軍が京に乱入した6月15日には院の御所で最後の一戦を図るが、御所の門を閉じられ追い返されてしまい、逆に乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出されてしまう。胤義は子息の胤連、兼義とともに西山の木嶋(現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社)で自害した。東国に残していた幼い子たちも長子を残して処刑された。『承久記』古活字本には「胤義其罪重シ」とあり、胤義を京方の中心人物と見なした上での厳罰だった。・大江広元の子・大江親広*も朝廷側についたのです。親広は義時の娘を妻に娶っている、にもかかわらずです。*鎌倉幕府政所初代別当大江広元の長男。母は多田仁綱の娘。妻は北条義時の娘竹殿。承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与し、近江国食渡にて幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻った。この戦いでは父広元は大軍による上京策を献策し鎌倉軍の士気を高め、嫡男佐房は鎌倉側東海道方面軍に加わり幕府軍の勝利に貢献した。佐房は戦後上田荘を与えられ幕府要職に就いた。
2022年07月31日
平城宮跡出土の木球、「打毬」か 奈文研が分析、貴族に流行7/30(土)奈良市の平城宮跡で約35年前に出土した木球が、西洋の馬術競技ポロに似た日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性があることが30日、分かった。奈良文化財研究所が成果を紀要に掲載した。分析した小田裕樹主任研究員は「当時の貴族に流行した遊びを復元する貴重な資料になる」と話した。 木球は直径4.8~5.3センチで、直径約3センチの平らな面もあった。天皇に仕える貴族らが多くいたとされる「内裏東方東大溝地区」の溝から約35年前の調査で見つかっていた。出土品の見直しをしているうちに、球に近づけるため側面などが丁寧に整えられており、打毬用の木球とみられることが分かった。打毬(だきゅう)は日本の競技・遊戯。馬に騎った者らが2組に分かれ、打毬杖(だきゅうづえ。毬杖)をふるって庭にある毬を自分の組の毬門に早く入れることを競う。現在は、宮内庁と青森県八戸市の長者山新羅神社、山形県山形市の豊烈神社にのみ伝承され、長者山新羅神社と豊烈神社では騎馬ではない「徒打毬(かちだきゅう)」も行われる。紀元前6世紀のペルシャ(現在のイラン)を起源とし、古代中国を経て伝来したもので、ペルシャからヨーロッパに伝播し、イギリスで近代化されたポロとは同源とされる。
2022年07月30日
『鎌倉殿の13人』中村獅童、梶原景時として最後に見せた感情の揺れ “名刀”としての最期7/25(月) 義時「行けば鎌倉殿は決してあなたを許さない。必ず討ち取ろうとされる。それは朝廷との争いの火種となる。鎌倉を守るのが私の役目」景時「そなたは広常の前でこう申した。われらは坂東武者のために立ち上がったのだと。源氏は飾りにすぎぬと。忘れてはおらぬな」義時うなずく景時「ならばおのれの道を突き進め」7月27日テレビで『フィールド・オブ・ドリームス』をやっていて、久しぶりに見た。レイとテレンスは野球を観戦していると、またしても新たな声が聞こえスコアボードに元野球選手ムーンライト・グラハム の名前とミネソタ州チザムという場所が表示される。そして「Go The Distance」という声が聞こえる。字幕では「最後までやり通せ」とある。「If you build it, he will come. それを作れば、彼はやってくる。」の声でトウモロコシ畑に野球場を作ったのだった。ジョー・ジャクソン(he)にレイ「あの声はあなたが言ったのか?」ジョー「It was you. それは君だよ。」そしてジョーはピッチャーをしていたまた独身の頃の自分の父とキャッチボールする。「“Ease his pain.”「彼の痛みを取りのぞけ」」は実はジョー自身の痛みをのぞけ ということでもあったのである。義時も「Go The Distance 最後までやり通せ」の「It was you. 」の声にしたがって運命を切り開くことになる。「おのれの道を突き進め」
2022年07月27日
北条義時は、弟・北条時連(のちの時房)と頼時(のちの泰時)を頼家の元へ送り出す。北条時連「えっ。年かさの私がそこに加わるのは、いささか無理が。これでも太郎の叔父です」義時「年長者として、鎌倉殿がおかしな方に行ってしまわないように目を光らせよ。動きを逐一知らせてほしい」時連は「悪目立ちしませんか」政子「顔立ちが幼いから大丈夫よ」時連「おさ…やらせていただきます」三善康信による政(まつりごと)の講義の後、蹴鞠の練習。後白河法皇の側近だった平知康が鎌倉に流れ着き、蹴鞠を教えていた。時連だけ蹴鞠を落とさず、頼家は「やるではないか」と砂金の入った袋を与えた。瀬戸康史▼蹴鞠「もらうボールによって、ちょっと弾みが違ったりとか、弾力が違ったりするんですけど、たまたまいいボールを頂いて、できましたね!いろんな決まりがあって、袖のところを両手の小指で挟んでなきゃいけないのと、姿勢は正しくピンと伸びた感じにしなきゃいけないのと、右足しか使っちゃいけないのと、1回蹴る度に足を着かなければいけないという、結構なルールがあって。僕、サッカー部だったんですけど、ちょっとリフティングとは違って、そこも気にしなきゃいけないので、難しかったですね」▼蹴鞠の才能「やっぱりうれしいですよね。自分に置き換えた時、まだまだ見いだされていないだけで、もしかしたら何かの才能があるのかもしれないという、希望みたいなものが見えたシーンだったかな。凄くハッピーな気持ちになりましたね」▼時連の才能について「彼にもあるかもしれないし、自分にも瀬戸康史にも、もしかしたら、例えばお茶を立てるセンスがあったりするかもしれないですね、やってみると。だから、自分が興味を持ったものとか、興味を持たなくても誰かに誘われてやってみようとか。そういうのは、どんどん挑戦していった方が、凄く自分の可能性みたいなものが広がる気がしますね」*北条義時の異母弟。末っ子ながら、やがて義時も政子も頼る大政治家に。のちの北条時房。文治5年(1189年)、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連(ときつら)と名乗る。同年、奥州合戦に従軍。建久10年(1199年)に源頼朝が死去し、頼家が第二代鎌倉殿になると、蹴鞠に堪能なことから側近として随従する。頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、北条氏一門のための間諜の役割を果たしていたとも考えられる。建仁2年(1202年)に時房と改名。時連から時房に改名した経緯について、平知康から「時連」の「連」は銭の単位を意味する「貫」を連想し印象が悪いと指摘され、この知康の発言を耳にした頼家から改名を提言されたという逸話がある。建仁3年(1203年)の比企能員の変により頼家が追放されるが、時房はこれに連座せず北条氏一門として次第に重きをなすようになる。元久2年(1205年)、畠山重忠の乱では兄の義時と共に重忠討伐に反対したが、時政の命により関戸の大将軍として出陣する。牧氏事件で時政が失脚すると、8月9日の臨時除目で叙爵し、遠江守に任じられる。同年9月21日に駿河守に遷任し、承元4年(1210年)正月14日、武蔵守となる。兄の義時は相模守であり、北条氏は兄弟で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。建暦3年(1213年)、和田義盛が討伐された和田合戦にも従軍し、若宮大路で奮戦し武功を挙げ、戦後、その功績を賞され上総国飯富の荘園を拝領。建保7年(1219年)、源実朝が暗殺されると上洛し、朝廷と交渉を行った末、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還した。承久3年(1221年)、承久の乱では、泰時とともに東海道を進軍して上洛。泰時同様京に留まり、初代六波羅探題南方となる。元仁元年(1224年)に兄義時が死去すると先に鎌倉へ帰還した執権泰時の招聘で鎌倉に戻り、泰時を補佐するため請われて同年初代連署に就任する。なお、『吾妻鏡』では伊賀氏の乱最中の6月28日に北条政子邸で大江広元の同席の下に泰時と時房が「軍営御後見」に任じられ、それが事実上の執権就任ともされる。当初は、北条氏の嫡男である泰時と一門の長老である時房の間で主導権を巡る争いがあったらしく、翌元仁2年(1225年)の元旦の垸飯の沙汰を行った後に一旦上洛している。しかし、同年に大江広元・北条政子が相次いで死去すると再び鎌倉に戻り、以後は泰時と共に鎌倉で政務を執った。貞永元年(1232年)に将軍・藤原頼経が従三位に叙位されて政所を設置できるようになると、泰時と共に政所別当に就任したが、泰時は筆頭の別当を時房に譲った。延応2年(1240年)死去。享年66。時房死去後の連署は1247年に甥北条重時が就任するまで空席となった。
2022年07月23日
鎌倉殿の十三人で、急に結城朝光登場で頭が追いつかない。実衣が急に琵琶を持出し、結城が弾いてうっとり。「絶世の美女にこそ 琵琶は似合います」って?実衣ちゃんは、「絶世の美女」にはあたらないといったら失礼?これは今後の展開の伏線であろう。懇意になった結城はつい実衣に「昔はよかった」と漏らし、時政はそれにつけ込み、梶原が2代将軍に讒訴したと結城に恐怖を植え付けさせる。そこで結城は畠山や和田らに相談する。先に結城は「重忠殿は道理をわきまえた天性の正直者」と畠山を梶原の讒訴から救っていた。畠山らは、先手を売って梶原排斥のグループ訴訟を行い、梶原は弁明せず、2代将軍は梶原を追放する。このグループ訴訟に時政は名前をのせていない。フィクサー、影の実力者として暗躍する。愚管抄には梶原追放は2代将軍の落度と。自分を守ってくれるべき人を一人ずつ失っていく。・今後の展開結城朝光は平安末期の仁安3年(1168年)、下野国(現:栃木県)の大豪族である小山政光(おやま まさみつ)と寒河尼(さむかわのあま。)の間に誕生した。この寒河尼は頼朝の乳母を務めているため、朝光は頼朝と乳兄弟の間柄。幼名は一万丸(いちまんまる)、頼朝が挙兵した治承4年(1180年)の10月2日に元服。頼朝と政光のから一文字ずつもらって朝光と改名した。また元服に際して頼朝から成人の証である烏帽子をかぶせてもらい、これで頼朝が烏帽子親、朝光が烏帽子子とさらに絆を深める。『吾妻鏡』正治元年(1199年)10月25日条昔から「忠臣は二人の主君に仕えない」という。私は頼朝公から厚く御恩を受けているから、亡くなった時に菩提を弔うため出家したかった。ご遺言によって思い留まったが、今の世を見ると薄氷の上を歩くようだ……。景時は朝光を讒訴する。朝光は阿波局(あわのつぼね)に相談する。三浦義村に相談した朝光は、和田義盛や安達盛長の協力を得て景時に対する弾劾状を書く。「梶原の讒訴によって命を落とした御家人は数知れない。彼らの無念を今こそ晴らす!」連ねた署名は66名。頼家は景時を見捨る。結城朝光は、その後も鎌倉幕府の重鎮として活躍し、承久の乱でも武功を立てるなど、存在感を発揮し。そして建長6年(1254年)2月24日に87歳の生涯に幕を下ろす。実に「お前たちは狂っている」と言われた鎌倉幕府を生き残る一人である。
2022年07月18日
大泉洋「なぜ三谷さんはここまで頼朝をダメに描くんだろう」も、三谷https://thetv.jp/news/detail/1091499/幸喜への感謝「感謝しかない」<鎌倉殿の13人>――今作にご出演されて、改めて三谷作品の面白さをどういうところに感じていますか。「鎌倉殿の13人」は、「日本にもこんなにすごいドラマがあるんだ!」と初めて自慢したくなるようなドラマです。三谷さんが書いているので、単純な面白さ、笑いの要素もありつつ、笑いから“どシリアス”への振り幅もすごくて。よくファンの皆さんが「風邪引きそうだ」と言っていますが、本当にそんな感じです。僕は、(が演じた上総広常が亡くなる)第15回で日本中から嫌われましたけれども(笑)、やっぱりあんなに面白い回はないなと思いました。あのときも三谷さんから「案の定、日本中を敵に回しましたね」「でも僕は大好きです」と書かれたメールが来ました(笑)。あきらかに面白がってますよね(笑)。――孤独な頼朝が義時については、どうして信頼に値すると思っていたのでしょうか。頼朝は、直感的な判断で人を見ていたと思います。義時についてはもう会った途端から好きというか。小栗くんが演じている義時という人は、真面目だし、野心がない。そういうところを見ていたのだと思います。結局、義時は頼朝についていき、頼朝を見てどんどん変わっていってしまうので、そこもまた「大泉のせい」と言われてしまうんだろうなと思っています(笑)。――頼朝から見ても、義時は「自分に似てきたな」と思うことはあったのでしょうか。顕著になるのは頼朝が亡くなってからだと思います。曽我兄弟の仇討ちの収め方とかも、義時ならではというか。義時が、とても賢い人だということを頼朝は見抜いていたんだと思います。でも「自分に似てきてるな」と思っていたかと言われると、僕はそう思って演じてはいなかったです。今回の『鎌倉殿の13人』は頼朝が死んでからが大事なお話だと思います。だから当初、小栗くんとはLINEで「早く大泉死んでくれないと困る」とか「三谷さん頼朝を描きすぎた」などと話していました。でも、僕が死んでからは「いやぁ、頼朝さんは死ぬのが早すぎた」と手のひらを返されました(笑)。頼朝がやっていた厳しい決断を、今度は義時が下しているんだろうなと思っています。――第25回では頼家も妻と子がいながら別の女性を妻にしようとするシーンがありました。女好きは思いきり継いでいますよね。それを「女好きは我が嫡男の証だ」「頼もしいぞ」とか言って、おかしなシーンだなと思いました(笑)。(第21回の)頼朝が、本当に幸せそうな八重に向かって昔の話をするシーンで、こんなところまで(器の)小ささを表現するのかと、なぜ三谷さんはここまで頼朝をダメに描くんだろうと思いました。――頼朝が死に向かっていく部分の台本を見た感想を教えてください。権力の頂点に上り詰めた人がどんどんダメになっていく。巻狩りの最後でも口にしていましたが、どこか天にも見放された気持ちになってきて、たくさんの人を排除してきた男が、その亡霊に苦しめられていくというのが面白いなと感じました。第25回の頼朝は、精神分裂気味の人になってしまったのかなと思っています。突然、巴御前の元へ行って、義仲を討ったことを謝るなど、死ぬ直前に今まで自分がやって来たことを謝りたくなるような気持ちでした。第25回で馬から落ちて、その後の第26回も頼朝がただ寝ているだけというのは、三谷さんらしいなと思いましたし、非常に面白いなと感じました。寝ている頼朝の周りでどんどん物事が動いていく、まさに劇作家・の真骨頂だと思います。頼朝の最期は、政子と2人で迎えましたけど、演出の保坂慶太さんが非常によく撮ってくれて美しいカットになりました。小池栄子さんの熱演も素晴らしくて、とても印象に残っています。このようなドラマ、そしてこのような役に巡り会えて幸せだなと感じましたし、源頼朝役をいただけて三谷さんには感謝しかないです。大泉洋“頼朝”、常に側にいた小池栄子“政子”への最期の言葉「これはなんですか?」<鎌倉殿の13人>2人の間に流れる強いきずなと、最後に政子へかけた頼朝のセリフに注目が集まった。政子が一瞬うたた寝をして目が覚めた時、まげを切り、臨終出家を済ませた頼朝が、政子の差し出したお菜を手に縁側に座っていた。そして夫妻が初めて出会ったとき手にとった果物を見て「これは、なんですか?」と政子の方をじっと見たのだ。初対面のときの会話そのものが、頼朝の最期となった。💛「これは、なんですか?」の頼朝最後のシーンはとても不思議なシーンで、おそらくは脳梗塞でたおれ、何日も食事をしていない人が、最後にあんなふうに庭先に出て、食べ物を手にとることは医学的にもありえないことであろう。 政子だけが見た幻影(政子にとっては二人だけの現実)というしかほかにない。 しかしその心象的な風景が心にしみるとともに 頼朝暗殺説を全部否定して、頼朝と政子のきずなの深さを印象付けられる。 だからこそ、義時に説得されて、政子は二代目鎌倉殿を決める役を腹をくくってやったのだ。 そして承久の変では、頼朝にかわって檄をとんばすのである。「頼朝卿に伝えよ。武力をかさに着て、何もかも押し通せると思われぬようにと」「頼朝卿はともかく、あなたはただの東夷(あずまえびす)!」といった丹後の局と京都の公家集団に、東夷が武力をかさに着て押しとおす時代が、政子と義時によって幕をきっておとされるのである。「鎌倉殿の13人」は、「日本にもこんなにすごいドラマがあるんだ!」と初めて自慢したくなるようなドラマです。これから、シェークスピアのマクベスの妻ばりに、りくが時政パパをそそのかして、次から次へと悲劇を生み出していく。運命にいざなわれるように。
2022年07月05日
「鎌倉殿の13人」草笛光子 三谷幸喜氏は「魔法おじさん」比企尼「あぁ?」は「真田丸」おばばオマージュ草笛光子(88)は脚本の三谷幸喜氏(60)を「魔法おじさん」と称えた。第24話は「変わらぬ人」。源頼朝と万寿が「富士の巻狩り」を終えて無事に戻り、喜ぶ政子。しかし、頼朝は自身に代わって鎌倉殿の座に就こうとした弟・範頼を許さず、余波が鎌倉を揺るがしていた…という展開。 範頼は起請文を書き、身の潔白を訴えたが、頼朝は厳しく詮議。さらに大江広元が起請文の文面に難癖をつけ、範頼は「もう結構にございます」と自ら身を引いた。そこへ比企尼が現れ、頼朝を叱責。範頼は死罪を免れ、伊豆・修善寺に幽閉、謹慎となった。 比企尼「お久しゅうございます。蒲殿のこと、どうなさるおつもりですか。一門だと情をかけたら、誰も付いてきませんよ。見せしめに、顔に焼き印を付け、目玉をくり抜くんです!」 頼朝「そこまでせずとも」 比企尼「あぁ?(と聞き直す)」 頼朝「血を分けた弟でございます」 比企尼「そう、あなたの弟でした。忘れてるのかと思いました」 政子「蒲殿は謀反を起こすような方ではありません」 頼朝「疑われるようなことをした。それだけで罪なのじゃ!」 比企尼「お立場は人間を変えますね。優しい子でした。私が差し上げたかわいらしい観音様を、あなたはご自分の髪の中にしまわれて。尼の思いは片時も忘れませぬと。あの時のあなたは、どこ行ってしまわれた」 頼朝「観音様は捨て申した。挙兵の時、源氏の棟梁として、甘く見られてはならぬと。こうやって私は命をつないできたのです!」 比企尼「(頼朝の頬を叩く)」 頼朝「お見送りを」▼源頼朝とのシーン「それはもう愛情はたっぷり。『真田丸』からやっていますから、気心が知れているから。これが逆に馴染みすぎるといけないなという気持ちもあってやりました」▼比企尼を演じて「引っ叩くのと“あぁ?”と言ったりするのは、あれ、みんな『真田丸』のおばばなんですよ。『これ、やっていいのかな?』と言ったら、そういうことは三谷さんはちゃんとお客さまのことを考えて書いていらっしゃるわけ。私は『真田丸』の(信幸の話が聞こえず)“あぁ?”というのを使っていんですかと言ったら、お客さんへのサービスだっておっしゃって。そこが凄いですよね、あのお方。そういうことをやっても嫌味とか、しつこいなとか、そんなふうに全然思わない。それと、あり得ないことをさせられる。『真田丸』も死ぬ時、あんな死に方…死んだかと思ったら、死ななかったり(笑)。今度もおっかないんですよ、どういう死に方をさせてくださるか。でも、こんなあり得ないということを三谷さんってお書きになる。私はやっぱり演じる方としては“こんなこと、あり得ない”“この世では、あり得ない”と思いながらやっちゃうと、それが通るんですよね。お客さんはそれが面白く思ってくださったり、“ハハッ(笑)”と思ってくださる。これが三谷さんの凄いところだと思う。あり得ないことを役者が苦心して、それを通り越す。それを見ていらっしゃるお客さんが心地よくなるとか、楽しいとか、そこへ持っていけちゃう魔法にかかっているんですよ。やっている方も。“こんなこと、あり得ないわ”と思ってやっているんだけど、いざやってみて、それが出ると“そういうことがあり得るんだな”って。ここがやっぱりあの方の凄いところですね。魔法、魔法おじさん。私、魔法おばば(笑)。第25話「天が望んだ男」で頼朝を前に比企尼が無表情でねむるシーンがすごかった。「まだお怒りですか……お怒りのようだ。なんです? そのまるで永遠(とわ)のお別れのようなお顔は」しかもそれが本当の「永遠(とわ)の別れ」になるのも悲しい。
2022年06月28日
「鎌倉殿」“盛長”野添義弘 頼朝落馬にしんみり 大泉洋と「打ち合わせなし」で見事シンクロした場面とは6/28(火)俳優・野添義弘 自身のツイッターを更新。「頼朝落馬」についてコメント俳優・野添義弘(63)が28日までに自身のツイッターを更新。「頼朝落馬」についてコメント「あの撮影の時も辛い思いでした」「ホントに大泉さんとコンビになれて良かったです。あの方は天才ですね」和田義盛の別邸に立ち寄り、巴御前と面会して木曽義仲討ちを詫びたシーンで、首の傾げ方が見事にシンクロする場面については「合わせましょうかと言う話はなかったですから。でもピッタリ!!」「安達殿が『佐殿』と呼んだとこに、昨日の北海道スペシャルトークショーで大泉さんがしみじみ感動されていました それと大好きな野添さんとの二人きりでのシーンが凄く嬉しかったともおっしゃってましたよ」「僕も大好きなシーンです。そうですか!それは本当に嬉しいなぁ。ありがたいですね。僕も大泉さんは大好きですし、また共演出来るよう精進したいと思います」
2022年06月28日
<鎌倉殿の13人>小池栄子「汗びっしょり」 政子と丹後局の面会シーン 鈴木京香には「さすが」と“最敬礼”6/22(水)第24回、頼朝が2度目の上洛を果たす。政子は、帝の后になることを決意した娘の大姫(南沙良さん)と共に同行。丹後局と対面するも、その場で丹後局は、政子と大姫を「田舎者」呼ばわりし、政子に対しては、「あなたはただの東夷。その娘がたやすく入内(じゅだい)などできるとお思いか」「そなたの娘など、帝からすればあまたいる女子(おなご)の一人にすぎぬのじゃ、それを忘れるな」 丹後局は、大姫にも、高貴な生まれのほかの姫たちとの“生存競争”に勝たなくてはいけないという厳しい現実を突きつけ、その覚悟があるのかを、すごみを利かせて問うと、「頼朝卿に伝えよ。武力をかさに着て何事も押し通せるとは思われぬようにと」と ドラマの公式ツイッターでは、政子役の小池さんの音声コメントが公開。「苦しかったです。汗びっしょりになりました」「何をしゃべっても空回りしそうな雰囲気に追い込まれて(笑い)。丹後局が四方八方にいて、私たちを囲んでいるみたいな雰囲気がありましたね。『さすが』と思いました」と丹後局役の鈴木さんに深い敬意を払う。 脚本の三谷幸喜さんも「すごく楽しみにしていた」といい、政子としては「『これを乗り越えていかなきゃいけないんだな』『もう戻れないんだな』という恐怖みたいなものを感じましたね」としつつ、「自分でモニターを見ながら『政子のし上がったな』と思いましたね(笑い)」とも語った。💛丹後局のものいいは、のちに承久の変をひきおこす後鳥羽上皇のものいいをよびおこす。そして東胡(あずまえびす)は「武力をかさに着て何事も押し通す」ことになる。
2022年06月23日
なるほど、この震撼の演技をさせるために 鈴木京香さん を「丹後局」に配したのか。鈴木京香「丹後局」の迫力、大姫&範頼ロスの声も【鎌倉殿】全視聴者を震え上がらせた丹後局後白河法皇(西田敏行)の愛妾という立場から、入内の手引をしてもらおうとした大姫と政子に対して、「田舎の人はよいものですね。どんな言葉も素直に受け止める」「頼朝はともかく、あなたはただの東夷(あずまえびす)!」「そなたの娘など数多いる女の一人に過ぎぬのじゃ!」「帝の元に嫁ぎ男子を産むのに、一門を威信をかけているのじゃ!」「武力を傘に何事も押し通せると思うなと頼朝に伝えよ」など、嫌味と叱責の千本ノック状態で、大姫は完全にノックアウトされる!承久の変での 政子の檄(げき)は、実にこの時の私怨をはらすものかもと思わせるくらい政子は耐える。「さて世間話はこれまで」と、落語のまくらのさわりのように話をきりかえる。SNSでは「ここ数年の大河で1番怖いシーンだった。本当に怖かった」「魑魅魍魎と百鬼夜行とThe都を全部盛りしたくらい怖かった(誉めてます)」鈴木京香さん「『生半可な気持ちでは無理ですよ』という気持ちで、同じ女性として『しっかりやりなさい』という気持ちを込めた」SNSでは「言い方がめちゃめちゃ嫌みだけど、京の状況と論理を丁寧に教えてくれてる」「本当にひどかったら取るものとって陰で嘲笑って肝心なことは何も教えてくれないだろう」
2022年06月20日
「鎌倉殿の13人」“頼朝・大泉洋劇場”全開「あっ、そう!無用である」→再び強運→義時に弱音6/12(日) 巻狩り3日目、5月28日、夜。工藤祐経が比奈の居場所を義時から聞き出し、頼朝は「これを最後にする」と安達盛長の制止に耳を貸さない。盛長は頼朝が眠ったのを確認し、安心した。しかし、これは工藤祐経が頼朝の身代わりに横になっていたのだった。 頼朝が比奈の宿所に入ると、義時の姿。 義時「本当に来られるとは」 頼朝「わしは征夷大将軍じゃ!そばめを持つのがそんなにいけないことか」 義時「あなたというお人が分かりません。比奈殿と私を結び付けようとされたのは、ご自身ではないですか」 頼朝「政子じゃ!あれが勝手に言いだしたこと。 それにおまえ…比奈にはその気はないんだろう?」 義時「そのようなことは申しておりません! 良い方をお引き合わせくださったと思っております」 頼朝「あっ、そう!おまえとおなごを取り合うのは、もう御免じゃ!帰る!」 義時「お送りいたします」 頼朝「無用である!」 義時「お待ちください」 頼朝は比奈の宿所を飛び出したが、雨が降り始める。 しかし、これが幸いして曽我兄弟による襲撃を逃れ、代わりに工藤祐経が殺された。 頼朝は第7話でも、亀を見初めたため、亀の夫・権三と頼朝の命を狙う長狭常伴が争うことになり、命拾いしている。 頼朝は自分の身代わりとなった祐経を討った五郎を処罰。 義時「やはり、鎌倉殿は天に守られております」 頼朝「そうだろうか。確かに、こたびも命は助かった。だが、これまでとは違った。今までははっきりと、天の導きを感じた。声が聞こえた。だが昨日は、何も聞こえなかった。たまたま助かっただけじゃ。次はもうない。小四郎、わしがなすべきことは、もうこの世に残っていないのか…」
2022年06月13日
「鎌倉殿の13人」“動かぬ鹿”こうして倒れた!巻狩り再現 雪と格闘の静岡ロケ「100カメ」大河初潜入2022年6月12日「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)は12日、第23回「狩りと獲物」が放送され、富士の裾野を舞台にした「巻狩り」が描かれた。巻狩りとは、鹿や猪などが生息する狩場を大勢の勢子や追出犬により取り囲み、徐々に獲物を巻き込んで射取る狩猟。軍事演習も兼ね、第23回は源頼朝(大泉洋)の嫡男・万寿(金子大地)の披露目の場となった。弓が苦手な万寿のために比企能員(佐藤二朗)らが依頼し、八田知家(市原隼人)が用意した“動かぬ鹿”。視聴者の爆笑を誘ったが、小鹿の模型は美術部と特殊メークチームが1カ月かけて製作した。“動かぬ鹿”の絶妙な倒れ方は3テイク目に大成功。「鎌倉殿の13人」“動かぬ鹿”→比企能員・佐藤二朗命中「接待ゴルフ感満載w」巻狩りコントにネット爆笑2022年6月12日巻狩り初日。初陣の万寿は弓が苦手。獲物を仕留めらない。三浦義村「万寿様は矢の勢いが足りねぇんだよ」一方、金剛は一矢で鹿をしとめる。 夜、酒宴。万寿が獲物を射止められるよう、義時は翌日の陣形を思案。そこへ現れた比奈は父がいた北陸道の暮らしが長く、鹿の生態に詳しい。義時と比奈が草むらに入ると、猪と遭遇。間一髪、猪の突進から逃れた。2人は倒れ込み、急接近した。 2日目も、万寿の矢は当たらない。義村「足の踏み込みが足りないんです」和田義盛「丹田に力を入れるんだ」畠山重忠「腕で引くのではなく、肩を使って」💛SNSには「万寿くんの弓術にあれこれ言うおじさんたち、ゴルフの打ちっぱなしでよく見る教えたがりゴルファーにそっくり」金剛が空に弓矢を放つといとも簡単に鳥を仕留めてしまう。 景時「矢を射るばかりが、巻狩りではござりませぬ。戦に、作法というものはごさらぬ。それを九郎義経殿に教わり申した。この毒餌を獣道のあちこちに仕掛けておけば、明日の朝には死屍累々」万寿「矢で射止めなければ、意味がない」 万寿の乳母夫・比企能員「動かぬ鹿を、1匹用意してほしい。何とか1匹、明日の昼までに」義時「それでよろしいのですか」安達盛長「この件、鎌倉殿のお耳に入ってはおらぬ」3日目。八田知家が車輪の付いた“動かぬ鹿”を用意。それは金剛が仕留めた子鹿だった。万寿の前を“動かぬ鹿”がゆっくり横切る。万寿の矢は外れるが、知家が陰から矢を放ち、鶴丸が紐を引っ張り“動かぬ鹿”はパタッと倒れる。頼朝「山の神もお認めになられた。万寿こそ我が跡継ぎにふさわしい」万寿が鹿を確かめようとすると、能員と盛長が「あとは我らが」と急いで引き留めた。万寿「父上が手を回して、細工をしたんだ。私はいつか、弓の達人になってみせる」万寿が金剛に言って、空に向かって矢を放つとその矢は“動かぬ鹿”の後処理をしていた能員の足に命中。「誰じゃー!やみくもに矢を放ったのは!」💛SNSには「接待ゴルフ感満載w」なるほどなぜおかしみを感じるのかというと弓矢の腕(坂東武者として認められるために必須)での万寿と金剛の極端な対比とともに「ゴルフの教えたがり」や「接待ゴルフ」を連想されるからか?接待側の取り巻きがご機嫌を損じないないように一生懸命細工する、のが、お父さんたちの悲哀と笑いをかもしだすのか。「やったな!鹿よりデカい獲物(比企能員)を仕留めたぞ!」「万寿くんの矢が比企さんに当たるの、自業自得の極み感あって良い」「万寿様の矢を受けた時の芝居をするために佐藤二朗さんをキャスティングしたんじゃないかと思うぐらい自然すぎる(笑)」
2022年06月13日
<英雄たちの選択>「鎌倉殿の13人」にも登場 曽我兄弟敵討ち事件 美談に隠された深層に迫る6/8(水)「鎌倉殿の13人」で成人した曾我十郎、五郎の兄弟が登場する。特に十郎は精悍な顔立ちをしている。ドラマでは、北条時政が五郎の烏帽子親になっているということで、鎌倉殿に御家人に取り立ててもらいにいく。そしてその結末はドラマではでず、父親の河津三郎を最近頼朝にとりいって取り立てられている工藤祐経の敵討ちと、さらには驚きべきことに頼朝暗殺計画が謀議される。 しかも頼朝暗殺計画は時政は知らず、比企能員は知ってどっちに転んでも自分たちに利があるとほくそ笑むストーリー。・曽我十郎と五郎は伊東祐親の孫。かつて、工藤祐経に祐親と間違って父・河津祐泰を殺された恨みがあった。義時の父・時政は五郎が元服した際の烏帽子親(義理の親ともいえる結びつきがある)であり、父の仇を討とうとする兄弟を擁護。しかし、兄弟にはさらなる目的があり、北条は知らぬ間に危機に立たされることとなる。実際の曾我事件とはどのようなものだったのか?<英雄たちの選択>曽我兄弟敵討ち事件・舞台となったのは、頼朝が我が子・頼家を後継者として御家人たちに認めさせるべく行った富士野の巻狩り。そして、戦争の時代が終わり平時に向かう中で、鎌倉殿(頼朝)と御家人の関係も曲がり角にあった。*曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士野にて討った事件。曽我兄弟の仇討ちは、駿河国富士野(現在の静岡県富士宮市、『吾妻鏡』は更に子細に富士野神野と記す)で発生した。兄の曽我十郎祐成(一万)が22歳、弟の曽我五郎時致(箱(筥)王)が20歳の時のことであった。真名本『曽我物語』によると、仇討ちの発端は安元2年(1176年)10月に兄弟の父である河津祐泰が伊豆国奥野の狩庭で工藤祐経の郎従に暗殺されたことによる。祐泰が31歳、一万が5歳、箱王が3歳の時のことであった。工藤祐経は「心を懸けて一矢射てむや(真名本『巻第一』)」と伊東荘を中心とする所領相論の相手であり妻(万劫)を離縁させた人物でもある伊東祐親の暗殺を郎従に命じていたが、実際は矢は祐親ではなく祐泰に命中し非業の死を遂げた。その敵にあたる工藤を曽我兄弟が討った事件である(兄弟の母が曽我祐信と再婚したため兄弟は曽我姓を名乗る)。『吾妻鏡』によると、源頼朝は建久4年(1193年)5月15日に富士野の御旅館に入り、同16日には富士野で狩りを催している。事件は同28日に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた[18]。傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大混乱となり、宿侍が走り出す。曾我兄弟と頼朝の御家人の間で戦闘が始まり、平子有長・愛甲季隆・吉川友兼・加藤光員・海野幸氏・岡辺弥三郎・岡部清益・堀藤太・臼杵八郎といった武将らは傷を負った。また宇田五郎も兄弟に討たれ、十郎(兄、祐成)は新田四郎忠常と対峙した際に討たれた。五郎は将軍頼朝を目掛けて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったが、大友能直がこれを押し留めた。この間に時致は御所五郎丸に取り押さえられ、大見小平次が預かることで事態が落ち着くこととなった。その後、和田義盛と梶原景時が検死を行った。仇討ちの翌日である29日に頼朝は五郎(弟)の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は五郎の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された。*鎌倉殿この由を聞き食されて、「これ聞き候へや、各々。哀れ(あっぱれ)男子の手本や。これ程の男子は末代にもあるべしとも覚えず。(中略)助けばや」*梶原これを承て(中略)「彼ら成人仕り候ひなば、自今以後も狼藉出来し候ひなん(中略)」と申されければ、さてこそ五郎時宗は切られべきに定まりけれ30日には同事件が北条政子に飛脚で知らされ、また兄弟が母へ送った手紙が召し出され、頼朝が目を通している。頼朝は手紙の内容に感涙し、手紙類の保存を命じた。6月1日には祐成の妾の虎を始めとする多くの人物に対して聴取が行われた。6月7日に頼朝は鎌倉に向けて出発し、富士野を後にした。このとき頼朝は曽我荘の年貢を免除することを決定し、また曽我兄弟の菩提を弔うよう命じた。*鎌倉殿は富士野を出で御在して…(中略)鎌倉殿打低樋かせ給ひつつ、「母の悲しみこそあるらめ。自今以後曾我の荘の年貢弁済においては、二人の者共が供養のために母に取らするなり(中略)公役御免の御教書を賜りて、曾我の里とぞ返りける**事件に関する解釈北条時政黒幕説・・・歴史学者の三浦周行が大正期に北条時政黒幕説を唱えた。工藤祐経を討った後に五郎は源頼朝をも襲っており、これが時政の暗躍によるものとする解釈である。一方で、頼朝と時政は頼家の擁立で利害が一致しており、時政に頼朝を襲うほどの動機はないし、事件後も頼朝と時政の間に懸隔は見られない。頼家の晴れの舞台で時政が殺人を仕組むとは考え難く、また祐成を討ったのは時政の側近の仁田忠常であり時政黒幕説を疑問視する見方もある。伊東父子襲撃における源頼朝関与説歴史学者の保立道久は伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に頼朝の長男・千鶴丸を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとしている。この説では、曾我兄弟は初めから頼朝を父を殺害した仇として認識していたことになる。事件後富士の巻狩りの後粛清が相次いでおり、巻狩りが契機となった可能性が指摘されている。巻狩りには源頼朝の異母弟である源範頼が参加しておらず、後の流罪に関係する。この事件の際に常陸国の者が頼朝を守らずに逃げ出した問題や、事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが『吾妻鏡』に記されており、同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする。💛「鎌倉殿の13人」は、三谷さんの「予測不能のエンターテイメント」を視聴者が伏線から展開を予測するという知恵比べ的なところがある。ちょっとした脳トレーニングでもある。6月5日(日)の回で、伏線と思われるもののいくつかは義時の子、金剛が情け深く、思慮深い資質を示す→北条の執権を盤石にする比奈が辛辣に義時を評する→義時の正妻として朝時、重時を生み、二人の兄弟は共に承久の変を義時、泰時とともに乗り越え、時に重時は泰時の片腕として活躍する。・もっとも注目すべきは、善児が曽我十郎祐成22歳と五郎時致20歳の工藤左衛門尉祐経かたき討ちさらには源頼朝暗殺計画をひそかに聞き、梶原景時に伝える。梶原はひそかに義時を招き、この計画を伝える という展開である。 富士の巻き狩りの責任者は義時の父、時政である。そして曾我兄弟のかたき討ちに賛成する。(頼朝暗殺計画は知らない) かたき討ちと頼朝暗殺が成功しても失敗しても、その責任は時政が負うことになる。 そして頼朝が時政を誅殺することは確実である。 おしらくそれを防止するためには、少なくとも頼朝暗殺を阻止し、さらに曾我兄弟を生かしていかない(生きていれば時政に不利な供述をする可能性がある) さらに背後で裏をひく人物をでっちあげて頼朝の疑いを時政からそらす必要がある。 そこで政子と義時は父を守るために、手を組んで、罪を源範頼になすりつける。義時は時政の配下の者に、曾我兄弟をうたせるようにし、五郎を赦免するようにとの頼朝に対し、梶原から死罪にふすべきだと諫言してもらい、政子は、範頼が「私がいるから鎌倉殿に何があっても大丈夫」と言っていましたと頼朝に告げて、範頼への疑いを燃え上がらせる。 そしてこれらの一連の事態がのちに頼朝死後に、次の鎌倉殿をめぐって、関東武士団をまきこむ壮大な内輪もめへとつながっていく。 その後の歴史と照らし合わせると、善児と梶原景時の動きをそう読み解くが、いかがあいなるであろうか?
2022年06月09日
運慶とその後「鎌倉殿の13人」で相島一之が熱演 東大寺南大門の金剛力士像・仁王像を造像した大仏師運慶は1150年ごろ、奈良仏師の康慶の嫡男として生まれた。当時の仏師は11世紀に和様彫刻を大成した定朝の流れをくむ院派、円派と奈良仏師の3系統に別れていた。主流の院派と円派は京都に住み、院や朝廷の仏像作成にたずさわり、一方どちらかといえばマイナーな奈良仏師は奈良に住んで興福寺の仕事に携わっていた。しかし父の康慶は優れた技術を持っていたため、京都の三十三間堂で有名な蓮華王院五重塔の仏像作成を任され見事に完成させ、法橋という高い地位を得ることになった。運慶は優れた技術を持つ父に師事して修行を重ね、1176年安元2年には奈良円成寺の「大日如来座像」を作成し、その非凡な才能の片鱗をすでにうかがわせている。1180年治承4年、源頼朝が伊豆で挙兵、源平の戦いが始まり平清盛が東大寺と興福寺を焼き討ちしたため、大仏殿など奈良時代からの貴重な仏像の多くが焼失するが、この争乱が奈良仏師の運慶たちに活躍の場を与えることになる。康慶は工房を構え運慶や快慶をはじめ実慶、宗慶、源慶など優秀な数十人の弟子を抱えていたが、奈良仏師のなかでも「慶派」と呼ばれ興福寺の仏像の作成や修復に携わり、南都復興に尽力している。1185年文治元年、鎌倉に幕府を開いた源頼朝は寺院の建設にともない、朝廷に関係する院派と円派を嫌い、慶派の運慶らを鎌倉に招いて仏像の製作にあたらせた。運慶の作品の特徴は「写実」で、従来の静観的な仏像とは対照的に、肉感的でそれまでにない躍動感溢れる姿をしている。目には水晶の玉眼がはめられ、顔の表情もはっきりとしているため、鎌倉武士の気風にぴったりとマッチしたことから北条時政をはじめ和田義盛などからも多くの依頼を受けたという。東大寺の復興に大勧進の重源上人が就任すると頼朝は大仏殿の再興を命じ、運慶らは脇侍と四天王像を造像している。さらに頼朝との関係から文覚上人の依頼で京都の東寺と神護寺の仏像修復もおこなっている。そのため彫刻の世界では院派や円派を押さえて慶派の仏師が主流となって活躍する道筋を開いた。運慶は京都に移り住むが、東寺講堂の諸仏修復では、仏像の頭部から次々に仏舎利が発見され、運慶の高名はさらに高まり、名実ともに造像界の第一人者となっている。1200年正治2年に父の康慶が亡くなると、慶派の工房を引き継いだ運慶は嫡男・湛慶をはじめ多くの弟子を育てながら各地の仏像修復に取り組んでいる。1203年建仁3年には東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)の製作に取りかかった。運慶は数十センチの角材を組み合わせた寄せ木工法でたった69日間で力士像を完成させている。さらに北条時政は1189年文治5年、伊豆北条の願成就院の仏像を運慶に依頼、運慶は鎌倉に滞在して、現在は国宝に指定されている阿弥陀如来座像をはじめ毘沙門天立像や不動明王を完成させている。相島「日本を代表する仏師運慶。誰もが名前は知っているのに実はどんな人だったのか誰も答えられない。そんな謎の人物を『鎌倉殿の13人』で演じられることに感動し、とても光栄に思っています。武士たちが熾烈な権力闘争を繰り広げた時代の中で芸術家はどう生きたのだろう。きっと美と向き合いながらもしたたかに逞しく武士の時代を生き抜いたに違いない。運慶と言う『芸術』の人が北条を筆頭とする鎌倉殿を取り巻く人たちと相まみえるのが楽しみで仕方がありません」
2022年06月04日
暗殺された感想は NHK大河「鎌倉殿の13人」でトークショー6/4(土)伊東祐清役の竹財輝之助さん、江間次郎役の芹沢興人さん、工藤茂光役の米本学仁さん。3人とも、暗殺者善児に殺される役柄竹財さん「ドラマから退場させられて寂しかった」、米本さん「大河出演を喜んでいた義母に残念な思いをさせてしまった」などとその“被害”について語った。💛「鎌倉殿の13人」は史実をベースとするため、毎週のようにドラマからの退場者、しかも暗殺、斬殺、水難、病死などが続く。 史実で鎌倉幕府の権力のなかで承久の変後まで生き残り、天寿を全うするのは北条政子・義時泰時父子、大江広元など数少ない。三浦義村がしっかり生き残り、天寿を全うするのが、ドラマの役どころながら面白い。さてどう老け役を演じるのであろうか? おそらくは回想シーンで義経や八重など、人気の高い俳優は登場するのであろう。 後白河法皇は1190年に頼朝と会談ののち、 1192年4月26日没する。後白河は征夷大将軍を頼朝に生前は与えなかった。 ということは予告で征夷大将軍に任ぜられたのを頼朝政子夫婦が喜び合うのが出たということは後白河法皇の死(3週連続、主役級の退場)が描かれるということであり、後白河法皇の西田さんも退場とあいなるはずである。ナレ死になのか、あるいは頼朝の死に向けて(亡霊として出現するため)伏線をはるために、出場相願うのか、後白河法皇の死の描かれ方が注目?没年(承久の変1221年6月)北条義時 1224年7月1日大江広元 1225年7月16日北条政子 1225年8月16日三浦義村 1239年12月31日北条泰時 1242年7月14日
2022年06月04日
大泉洋 朝ドラ父親役に頼朝に…道で注意された過去「NHKのせいでどんどん評判下がってきてる」6/3(金)2015年前期放送の「まれ」でヒロインの父を演じた大泉。「私が出た『まれ』も今(映像で)出させてもらいましたけど、役がすごくダメがお父さん役だったんですけど、あれで怒られましてね」「“お前のせいでまれが大変なんだ”とかって。道を歩いていても“ちゃんと働け!”って言われて…“お前より働いているよ”って」「鎌倉殿の13人」「今は頼朝がどんどん悪い奴に」「NHKのせいでどんどん評判下がってきてるんですよ」
2022年06月03日
「鎌倉殿の13人」謎多き八田知家とは 演じる市原隼人さんの思い急に八田知家という人物がドラマに登場した。しかも、頼朝に道普請を命じられたという。土木巧者なのであろうか?そして八田は鶴丸という孤児を義時に預ける。八重は早逝した千鶴丸に名前のよく似たこの子に心を注ぎ川で助けを求める鶴丸を助けにいって、自らおぼれてなくなってしまう。八田知家とは八田知家は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱の四男。 系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家と名乗ったという記述もある。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。「吾妻鏡」によると、1183年、頼朝の叔父である志田義広が常陸国で反乱を起こした。八田知家は頼朝方として戦い、功績をたたえられた。1189年には頼朝の奥州藤原氏追討に際し、常陸国内の武士を動員して、太平洋側を通って北に向かう指揮官を任されている。このときには、常陸国の守護を務めていたとみられる。 13人の御家人に常陸の武人としては八田知家(はった・ともいえ=市原隼人)が最後に加わった。 知家は北関東を治める御家人。伊豆・相模・武蔵の勢力と一線を画す。北条の敵か味方か。・なぜ頼朝に道普請を命じられたのか?文治四年(1188年)5月にはちょっとしたトラブルでお叱りを受けた。八田知家の家来に庄司太郎という者がいて、京都御所の夜警担当として派遣されていた。しかし職務を怠けているという噂が立ったため、頼朝は検非違使庁に身柄を引き渡すように命じ、知家にも罰として、鎌倉中の道路整備が命じられた。・その2ヶ月後、文治四年7月には頼朝の子息・源頼家の鎧着初めに際し、知家は馬を献上。息子の知重がこの馬を引いて披露した。・文治四年(1188年)12月には、朝廷の使者が源義経の追討に関する院宣を奥州藤原氏へ届ける途中で鎌倉に寄り、その接待を知家が命じられている。この使者の復路でも知家が接待した。平頼盛「餞別の宴」にも出席していることから、八田知家が京都や都人の饗応について一定以上の知識や経験を有していたことがうかがえる。・文治五年(1189年)6月には、鶴岡八幡宮・三重塔完成供養のため、京都から観性という僧侶がやって来て、知家の屋敷が宿所に指定されている。・文治五年(1189年)7月17日、奥州藤原氏を討つための編制が発表。東海道・北陸道・頼朝本隊の三手に分かれて奥州へ向かうことになり、八田知家は千葉常胤とともに東海道方面の軍を任された。発表から2日後の19日には奥州へ出発。知家について捕虜に関する逸話がある。文治五年9月15日、奥州藤原氏の縁者ともいわれる樋爪俊衡が、三人の息子を連れて頼朝の陣へやってきた。彼は既に還暦を超えるような歳で、真っ白な頭の弱った老人だった。頼朝は哀れに思い、樋爪家の四人を知家に預けた。知家が自分の陣へ四人を連れて戻ると、俊衡は法華経を読む以外には何も言わなかった。それを見た知家は、日頃から仏教への信仰が厚いため喜んだ。翌日、知家がこのことを頼朝に報告すると、「ならば、法華経と十羅刹女に免じて本領を安堵しよう」。十羅刹女というのは、法華経の守護神のひとり。法華経そのものだけでなく、このお経を伝える者も守護する。・建久元年9月、翌月の頼朝上洛に備えて、様々な手配をするよう御家人たちに命がくだった。知家は、道中の厩の手配を大須賀胤信とともに任される。胤信は千葉常胤の四男で、奥州合戦のとき同様、ここでも知家と千葉氏との接点がみられる。同年10月3日、いよいよ京都へ出発する日が来ました。しかし。この大事な日に知家は大遅刻してしまう。頼朝は怒り心頭。昼頃になってやっと八田知家が出てきても、機嫌が悪いまま。しかし知家は物怖じしない。まず「体調が悪かったので遅れてしまいました」と理由を説明した後、こう言葉を続けました。「先頭と殿(しんがり)はどなたですか? 頼朝様はどの馬に乗られるのでしょう?」頼朝は機嫌が多少良くなっていたのか、答えます。「先頭は畠山重忠に任せた。殿はまだ決めていない。私は梶原景時の黒斑を使う」これを聞いた知家は続けます。「先頭はもっともだと思います。殿には千葉常胤殿がふさわしいでしょう。あの斑も良い馬ですが、鎧の色と合いません。私の用意した馬を是非お使いください」そして体高四尺八寸(約144cm)の黒い馬を引いてきたといいます。頼朝はこの馬を気に入り、早速乗ろうとしたようです。知家は「これは都入りのときにお使いください。道中はあの斑が良いでしょう」と勧めている。つまり「都の人々へのアピールとして、鎧の色と合わせた黒い馬を使ってください」ということです。・建仁3年(1203年)6月23日に頼朝の異母弟・阿野全成(あの ぜんじょう )を知家が源頼家の命で処刑。さらに阿波局を逮捕しようとしたが、頼家の母であり阿波局の姉でもある政子が引き渡しを拒否する。・9月2日、鎌倉では頼家の乳母父で長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされた。・頼家は全成処刑後、病に伏していたが多少病状が回復して事件を知り激怒し、時政討伐を命じるが従う者はなく、9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、千幡がこれに替わった。これによって時政は幕府の実権を握ることになる。「病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は自邸に能員を呼び出して殺害、一幡の屋敷を攻め、比企一族を滅ぼし一幡も焼死した」(吾妻鏡9月2日条)・『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。11月になって一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に刺し殺された。・頼朝が亡くなったのは、1199年2月9日、阿野全成が討たれる4年前である。頼家は阿野全成を殺害したことで、政子と阿波局の怒りを買ったのかもしれない。・頼家は伊豆国修禅寺に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵によって殺害された。享年23(満21歳没)。『吾妻鏡』はその死について、ただ飛脚から頼家死去の報があったことを短く記すのみである(7月19日条)。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、入浴中を襲撃され抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえてようやく刺し殺したという。あるいはまたここで、善児が仕置き人として義時から命を受けて登場するのではなかろうか。平泉で善児が登場し、義時を守る働きをするのもその伏線で、おそらくは梶原景時が鎌倉から追放されるときに、善児をよしなにと譲りうけるのではあるまいか?脳の体操は三谷さんの予測不能のエンターテイメントを予測しようとする(^^)
2022年06月01日
「鎌倉殿の13人」はシナリオライターの伏線をドラマ視聴者が、SMS上で読みあう場と化している。なぜ 大姫は 突然「私、今日から葵になりました」といったのか?「源氏物語の葵の上からとったようですよ」源氏物語の葵の上とは葵の上(あおいのうえ)は紫式部の物語『源氏物語』に登場する 光源氏の最初の正妻。 源氏との間に一粒種(夕霧)をもうける。 この名は後世の読者がつけた便宜上の名前で、彼女が主役級の扱いを受ける「葵」帖から取られている。賀茂祭のとき、賀茂斎院の御禊の見物に行ったところ、家来が源氏の愛人の六条御息所の家来と車争いをして、御息所の牛車を壊して恥をかかせてしまう。この頃から葵の上は物の怪に悩まされて臥せるようになる。見舞った源氏の前で彼女に取りついた御息所の生霊が姿を見せるという事件が起きる。葵の上は8月の中ごろに難産の末夕霧を産んで、急に苦しんで他界する。・第21話では、大姫のイワシを切るのを手伝った義時の妻八重(新垣結衣)が水難で悲劇に。 「大姫に呪いかけられてるようにしか見えない」 「大姫改名葵のおまじない、本当は呪いなのではと思えてきてしまった…」 「大姫の呪いなのか」 「八重さんが手つだったのもその…呪いや不運が降りかかるフラグだった…?」 「手伝った八重に直撃みたいな感じか」と反応する投稿が相次いだ。「鎌倉殿の13人」では、最初から法王の生霊が頼朝に平家討伐の兵を起こすように繰り返し現れた。その時はコミカルに描かれていたが、 おそらくは、頼朝の死にまつわる謎の一つに「怨霊説」があることにちなんで、伏線をひいていたのではなかろうか? 頼朝の死の直前、シリアスな法王の生霊と木曾義仲・義高・大姫と義経の死霊が生き生きと現れ、それに馬が恐れていななき、頼朝が怖れて落馬するという壮大な伏線回収が行われるのではなかろうか? 予想不能のエンターテイメントをあえて予想するのも 頭の体操?、老化防止?
2022年06月01日
「鎌倉殿の義経の最後で 死んだ藤原秀衡が現れて舞を踊っていたでしょう」「踊っていた? たんに幽霊が出たんじゃないの?」「演じた田中みんさんは世界的なダンサーだって」「そうなの?ドラマによく出ているけど」「田中みんさんを秀衡に抜擢したのは、あそこの最後で 舞 を見せるためだったんだね」「なんで?」「日本人の国民的英雄 源義経 の レクイエム 鎮魂のために」💛日本人には源義経像が いろいろな意味で刷り込まれていて また繰り返し演じられていることで それが歴史を動かすことがあるのかもしれない。 判官びいき や 奇襲 を評価する文化として菅田将暉“義経”、最後のシーンは「『これで兄上(頼朝)とのいざこざが終わるな』という気持ちでした」<鎌倉殿の13人>5/23(月)源義経役・菅田将暉コメント――義経の最期のシーンを演じた気持ちを教えてください。壇ノ浦で平家を滅ぼしてからの義経は、生きてはいるんだけど、亡霊のように、のめりこむもの、目標みたいなものがなく生きていたようでした。いろんな思いがありますが、何かほっとしているような部分もあると思います。最後に思ったのが「これで兄上(頼朝)とのいざこざが終わるな」という気持ちでした。――兄・頼朝との関係について。第14回ぐらいから、義経は頼朝に会っていなくて、そこがやっぱり一番楽しみな部分だと思います。「悲しい話だけど、頼朝・義経をどう描くんだろう」と視聴者目線で見たときに、この2人の“仲たがい感”の描かれ方は千差万別でいろんな見せ方があると思います。でも、どんな描かれ方でも、義経はただ純粋に兄上のことが好きなんだな、という思いだけは共通していると思いました。ただ悲しさだけじゃなくていろいろな笑いも入ってくるし、「なんでこんなことになっちゃうかなぁ」というのを最初に持ってきて、ちゃんと最後の里(三浦透子)とのシーンまで繋げてくる三谷幸喜さんはすごいなと思いました。
2022年05月24日
【鎌倉殿の13人 第20話トレンド】義経ロス一色 藤原秀衡“大地の舞”「田中泯さん」もネット絶賛続々[ 2022年5月23日第20話は「帰ってきた義経」。京を離れ、奥州へ逃れた源義経(菅田将暉)。しかし、温かく迎え入れてくれた奥州の覇者・藤原秀衡(田中泯)が程なく天へ旅立つ。これを知った北条義時(小栗)は状況を探るため平泉行きを志願するが、義経の才を恐れる源頼朝(大泉洋)は藤原国衡(平山祐介)泰衡(山本浩司)兄弟の仲の悪さにつけ込み、義経を討つように冷たく命じる。八重(新垣結衣)に見送られ、平泉へと発つ義時。一方、捕らわれた静御前(石橋静河)は…という展開。 義経の最期が描かれ「義経ロス」一色の中、秀衡役の「田中泯さん」もランクイン。出番こそ多くはなかったものの、圧倒的な存在感を示した。 中盤、義経が秀衡の“幻”を見るシーン。秀衡は畑の土を両手に取った後、右手を天に掲げた。ダンサー・田中の本領発揮。SNS上には「あの大地の舞を演じてもらうための配役だったんだろうなぁ」「これが奥州の御館を田中泯さんが演じる意味ね。大地に足をつけた舞踏で九郎を祝福する。静の都一の白拍子とまた違う、伝わる力強さ」「今回の鎌倉殿は稀代のダンサー・田中泯と石橋静河を配して身体性の演技を映像作品で見せたのが凄みある。舞台芸術かよ」などと絶賛の声が相次いだ。大泉洋×田中泯 ドキュメンタリー映画『名付けようのない踊り』公開記念対談「その人っていつのがどういう気配を放っているのか という事とかに関心がいっちゃって」「その人の背中はどうなっているのか 肩はどうなっているのか」1966年より独自の舞踊スタイルを展開しはじめ、既成概念にあてはまらないダンスを継続。78年のパリデビュー以来、世界的なダンサーとして活躍する田中泯(たなか みん)
2022年05月23日
義経死す「#鎌倉殿の13人」がトレンド1位に 「菅田将暉に泣けた」「涙止まらない」5/22(日) NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が22日、放送され、菅田将暉演じる源義経の最期が描かれた。放送終了後には「#鎌倉殿の13人」がトレンド1位になるなど、ネット上では、“義経ロス”の悲鳴とともに、“菅田将暉版義経”への称賛の声が広がっている。源頼朝に憎しみや非難が集中しないように三谷脚本では、土佐坊昌俊の襲撃は 正妻さとのたくらみという設定。また義経を慕う静御前に激怒するシーンもなくさらに「かえってきた義経」で、義経の首に頼朝に語りかけ、かきいだき号泣させる。・・・・・・「全部大泉(頼朝)のせい」から「義時のせい」で奥州藤原氏が義経を討つようにしむけ、自らの手を汚さず、にちに藤原氏討伐の口実にしようという魂胆。義経の「平泉が守れるなら、本望だ」の声も踏みにじる。義時「(義経の)鎌倉への憎しみが、抑え切れぬところまで膨らんでおられます。国衡殿と図って、挙兵を。手は一つ。九郎殿の首を取り、鎌倉殿に送り届ける。それより道はありません。鎌倉勢が攻めてくれば、平泉は火の海。たとえ九郎殿がいたとしても、守り切れるものではござらぬ。四代にわたって栄えてきたご一門を、ご自分の代で途絶えさせてしまってもよろしいのですか」義経「どうしておまえが静の話をしたのか、不思議だった。つい口にしてしまった様子だったが、あれは芝居だ。敢えて私にそれを伝え、兄上に対する憎しみを募らせる。私に鎌倉憎しの思いがなければ、泰衡も兵を出すわけにはいかないからな。自分の手は汚さず、泰衡に私を討たせる。兄上の考えそうなことだ」「そこまで兄上にとって私は邪魔なのか。そう思うと、どうでもよくなった。この首で、平泉が守れるなら、本望だ」頼朝は結局自らにつながる源氏一門をすべてつぶし、自らの血統のみを残そうとしたがのこったのは、義時の血統の北条一門であった。そして800年もの間、つづく日本の武家政権の仕組みが子・泰時に代に完成する。ある意味、スターウォーズの世界に似ている。アナキン・スカイウォーカーは、シスの暗黒卿に誘われ、ダークサイドに転落し、ダース・ベーダーとなる。子のルークは、フォースの力によって、銀河に平和を取り戻そうと努力する。ルークはダースベーダーとの最後の決闘で父に勝利するが、とどめをさすことは拒否する。皇帝は容赦ない攻撃でルークを葬り去ろうとする。ダースベーダーは息子への愛情に突き動かされて、ダークサイドを放棄し皇帝を倒し、アナキン・スカイウォーカーに戻り、「選ばれしもの」としてフォースと一つになる。義時とその父及び牧の方は、頼朝の暗黒面につきうごかされて、ダークサイドに落ち、次から次へと政敵を葬りさる。泰時は母の愛によってフォースの力を取り戻し、貞永式目を制定し、専制主義から法治主義(フォースの世界)に日本を導く ってね(^^)。
2022年05月23日
「鎌倉殿」アサシン善児にネット緊張 不穏過ぎるセリフに「何をするのか」5/22(日ネットでは善児の今回のターゲットは、静御前の生まれてくる男児でほぼ一致していた。三谷さんは、その上をいく「予測不能」の展開を用意していた。梶原から義時の平泉行きに同道せよとの命を受けたとのこと。ネットの「義経暗殺説」を「やっちまいましょうか?」とにおわせ、「やめろ」と義時に制止されると、平泉三兄弟の一人で義経びいきの忠衡(ただひら)が「なにしにきた」と剣をふりかぶって迫るところを、地面からその背後に跳んで抹殺。「もう殺(や)るしかないでしょう」と義時は泰衡に迫る。「(義経)やっちまいましょうか。寝込みを襲えば簡単です」という善児の物騒な言葉に、ネットからは「すぐやっちまおうとするー!」これは脚本の三谷さんが「すぐやっちまおうとするー!」というべきか。「おまえは鎌倉殿に似てきた」と三浦義村とかつて上総介誅殺のときに評された義時はなにやら善児にも似てきて、「何かとお役に立ちますよ」善児、「もうあとにはひけません」義時と会話が成立する意識のレベルになってきた。三谷さんも義時もダークサイドに転落したような(^^)義経の鎌倉攻め構想でカギとなるのが「三浦の息子(義村)のほう。奴は利に聡い」と評されたのも伏線か?「なるほど」と義経の言葉に同意する義時。*中尊寺藤原氏四代のミイラ2013年12月23日
2022年05月22日
鎌倉殿の13人:次回予告にアサシン善児 視聴者ターゲット予想合戦鎌倉殿の13人 は シナリオライター三谷幸喜さんの「予測不能のエイターテーメント」のしく伏線から、SNSでは、ドラマを読み解く知恵比べの様相を呈している。「鎌倉殿サスペンス劇場、善児の次なるターゲットは?」「来週の善児のターゲットは義経か、それとも静が産んだその子か」「善児のターゲットが義経とは限らないんじゃない? 例えば藤原秀衡とか?」「ターゲットは誰? 行家叔父なら許す」「アサシン善児の次のターゲット、義経か静御前のおなかの子か…どっちにしても鬱回確定」「善児、誰をターゲットにするんだ。おなかの子は勘弁してあげて…」最初、頼朝が女装して逃げる場面で、頼朝が「アイ」と返事をして爆笑を誘う場面があった。ところが、まだテレビ放送が始まる前、去年の紅白歌合戦で三谷さんが司会の大泉洋さんにクレームをつけた。【紅白】三谷幸喜氏 大泉洋に“公開ダメ出し”「鎌倉殿の13人」初回の台詞が…「今しないでください」 2021年12月31日初出場となったKAT―TUNが「Real Face #2」を歌ったの後に感想を聞かれた三谷さん「いや、もうね、圧倒されました」「でも、大泉さんもね、意外にいいですよ」大泉さん「僕、歌っていませんから」三谷さん「いやいや、司会、うまい」「ただ、あの『鎌倉殿の13人』の第1話の最後の台詞が、ちょっと僕のイメージと…」大泉さん「いいんです。そんなダメ出し、今しないでください」・「第72回NHK紅白歌合戦」前のリハーサルで大泉さんはこう語っている。「三谷さんは、若干爪痕を残そうとされる方。怖いなと思います」「三谷さんいかがですか? と振った時に彼が何秒しゃべるか」紅白でのあのダメ出しの意味は、木曾義高が女装して逃走し、ついには殺害される悲惨な結末の伏線で、陰(義高の失敗)と陽(頼朝の成功)を対比させるねらいが、大泉さんの女装が「笑い」にもっていったことで、三谷さんのイメージと違った、まあ、それはそれでもいいか「でも爪痕は残そう」ということかもしれない。SNSでは「静御前のおなかの子」が善児の標的との予想が多いようだ、善児はもとは伊東祐親に仕える下人で、八重の子を最初に水に沈めて殺害して以来、義時の兄宗時を殺害し、梶原景時の配下となるや、元の主人、祐親父子を殺害し、上野介の殺害の補助をするなど重要な役どころを抹殺する役どころから、視聴者から「アサシン(暗殺者)善児」と呼ばれ、恐れられ、次回タイトルに名前が出るだけで注目されてきた。三谷さんの伏線のはりかたの癖(二重三重と伏線をたたみかけて視聴者に重要なシーンを思い出させる)からいうと、静御前のおなかの子かな、陰(八重の頼朝との最初の子)と陽(義時との最初の子・泰時)を対比させるために。
2022年05月19日
鎌倉殿、ココリコ田中の「もう一度」リピートにネット「笑ってはいけない鎌倉殿か」5/16(月)5月15日に放送されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、九条兼実が、後白河法皇の驚きの発言に「もう一度」を繰り返したことに、ネットでは爆笑ツッコミがあがった。義経は頼朝と戦うための兵が集まらず、京を去る。後白河法皇「なんで九郎義経は姿を消してしまったんかのう」九条兼実「頼朝は京に向け、軍を進めておるようです」後白河法皇「頼朝追討の宣旨は取り消しじゃ。改めて頼朝に、義経追討の宣旨を与えなさい」九条兼実「もう一度、お願いいたします」後白河法皇「だ、か、ら。義経追討の宣旨を頼朝に与えよと」九条兼実「もう一度」後白河法皇「だ~か~ら~。頼朝に、義経追討の宣旨を与えよと言ってるんじゃ!」「鎌倉殿」時政パパにネット「かっけぇ」【ネタバレ】義時とのコンビ芸で法皇に圧5/15(日) 北条時政と義時は源頼朝から、姿を消した源義経を捕らえるよう命じられる。さらに、鎌倉と後白河法皇との橋渡し役を任じられた。時政「無理でございます」義時「同感でございます」頼朝「いざという時の胆力がある」時政「わしでないとだめかなぁ」りく「情けない!」義時「ここはわれらの正念場でござる」時政「おっかねぇよ」京の院御所で対面した後白河法皇は「頼朝追討の宣旨」は義経に脅されて出したとのらりくらり。義時「わが主は疑うております。法皇さまは日の本一の大天狗、信じてよいものかと」時政「少々お力添えを」義時「法皇さまをお支えするために」と西日本も武士が治めることを求める。時政「わが主の願い、お聞き届けくださいますよう、なにとぞお願い申し上げます」💛これが、鎌倉幕府が日本全国で成立することとなった要因、守護・地頭の設置である。これまで「いいくに作ろう鎌倉幕府」と征夷大将軍任命の1192年とされてきた鎌倉幕府成立の時期は、最近では「いいはこ作ろう鎌倉幕府」*と守護・地頭の設置の1185年と学会では主張されているようである。*「弊社では鎌倉幕府が開かれたのは1185年としています。源頼朝は、征夷大将軍になった1192年より以前の1185年に守護・地頭を置き権力基盤を築いていました。よって実質的な開幕として1185年としているのです」(教科書出版社・東京書籍の社会編集部の編集者)SAPIO2014年12月号源頼朝という人は実にその人間の真の実力をみぬく力があった。そして義経追討という名目のために全国に守護をおくからには、源頼朝としては簡単に義経が捕縛、殺害されては困るのだ。なにやらこの構図は、木曾義高を誅殺する命令を出しながら、命令にしたがって殺害した堀親家の党・藤内光澄がさらし首にされたのにも似ている。義経をかくまった奥州藤原氏はそのかどで滅ぼされている。なお、堀親家はその後も、源頼朝の上洛にも従い、また奥州征伐にも出陣している。源頼朝が死去したあとは、鎌倉幕府2代将軍・源頼家に引き続き仕えた。しかし、1203年9月、源頼家が病床に伏せると、北条時政のはかりごとで、比企能員ら比企氏が滅ぼされる。これを知った源頼家は、堀親家を使者にして、和田義盛・仁田忠常に書状を出し、北条時政を討つように命じた。和田義盛は、その書状を、そのまま北条時政に渡す。そのため、堀親家は、捕らえられ、狩野茂光の3男・工藤行光によって殺害される。武田信義「お前たちはおかしい。狂うておる」権力をめぐっての凄惨な殺戮が鎌倉では続く・・・義経「平家を滅ぼしたのはついこないだではないか。私の何がいけなかった…」義時「九郎殿は人をお信じになりすぎるのです」時政「自信をつけるには、何がいるか。経験でござるよ。まだまだこれからじゃ」
2022年05月17日
未曾有の検非違使と受領・伊予守の兼任を命じられた義経は、父・義朝の供養に参列し、頼朝に会いたいと後白河法皇にこい、法皇はしぶしぶ許しを与える。 その後直後、白河法皇は鎌倉行きを認めたものの、めまいを覚え、倒れる。丹後局は「お脈が…。お脈が…」。義経が脈を計ると「脈がない」。平知康は「行かないで、と仰っています」、丹後局は「お側にいてあげてください」。義経は後白河法皇の手を握り締める。 すべては、義経を京に留めるための芝居だった。 後白河法皇「真に迫っておったであろう。(脇から手鞠を取り出し)これをの、脇でギュッと挟んでおくと、しばし脈は止まるのだ」 語り(長澤まさみ)「真似をしてはいけない」 後白河法皇「頼朝は清盛になられては困るからの。そのための九郎よ」 堀川夜討ちにあって、義経は挙兵したものの、思うように兵が集まらず。 いったん九州へ逃げ、再起を図ることに。 後白河法皇「頼朝と義経、どちらかが力を持ってしまってはいかんのだ。わしが望んでいるのは、つばぜり合い。なんで九郎義経、姿を消してしまったのかの。頼朝追討の宣旨は取り消しじゃ。あらためて頼朝に、義経追討の宣旨を与えなさい」。九条兼実「もう一度お願いいたします」後白河法皇は「だから、義経追討の宣旨を、頼朝に与えよと言うておる」。兼実「もう一度」「だから~!より、頼朝に、よ、義経追討の宣旨を与えろと言うておるんじゃ!」と扇子を投げつける。
2022年05月16日
<鎌倉殿の13人>“元興福寺の僧兵”土佐坊昌俊登場 プロレスラー・村上和成、菅田将暉“義経”の宿所襲撃5/15(日) 第19回「果たせぬ凱旋」5月15日に、プロレスラーの村上和成さん演じる土佐坊昌俊(とさのぼう・しょうしゅん)が登場。土佐坊昌俊は、元興福寺の僧兵。とある依頼を受け、源義経宿所を襲撃する。*「とある依頼」とあるのが、義経をめぐって里と静の対立が発端で、里が京、義経の宿所。 里「だから、もうこの人の前に現れないでください。私の前から姿を消して」 静御前「あんたが消したら。鎌倉へ帰りなはれ」 里「もちろん帰ります。この人と一緒に」 義経「だから私は帰れないんだ」 静御前「お一人でお戻りになったらええやん」 里「帰る時は2人で帰ります」 静御前「(里と義経を挟み)3人」 里「あんたなんか連れていくもんですか。どこまで図々しいんでしょう」 静御前「おなかにはややこもいてるんや」 義経「そういうことなんだ」 里「聞こえない。何も聞こえない」 義経「あとは2人で話し合ってくれ。程々にな。夜も遅いから」と土佐坊昌俊に頼み込むという設定は「予測不能のエンターテインメント」(^^) 前回、義経と静の水辺でのいちゃいちゃを木のかげから恨めしそうに眺める里の姿が異様であったが、あれが伏線で、そう来たか・・・ 里が正妻を主張すれば、静は子を宿していると主張する強い母に変貌。 「許せぬ、生かしてはおけぬ」という、政子のうわなり討ちを繰り返す流れ。 京、義経の宿所にて。 里「だから、もうこの人の前に現れないでください。私の前から姿を消して」 静御前「あんたが消したら。鎌倉へ帰りなはれ」 里「もちろん帰ります。この人と一緒に」 義経「だから私は帰れないんだ」 静御前「お一人でお戻りになったらええやん」 里「帰る時は2人で帰ります」 静御前「3人」 里「あんたなんか連れていくもんですか。どこまで図々しいんでしょう」 静御前「おなかにはややこもいてるんや」 義経「そういうことなんだ」 里「聞こえない。何も聞こえない」 義経「あとは2人で話し合ってくれ。程々にな。夜も遅いから」プロレスラー・村上和成さんが演じた土佐坊昌俊って誰?土佐坊 昌俊(とさのぼう しょうしゅん)は、平安時代末期の僧・武将。大和国興福寺金剛堂の堂衆で、年貢問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにしたことから、大番役として上洛していた土肥実平に預けられる。実平に伴われて関東に下向した後、源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加した。頼朝と弟の源義経が対立した文治元年(1185年)、頼朝は京にいる義経を誅するべく御家人達を召集したが、名乗り出る者がいなかった。その折、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えている。昌俊は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢で10月9日に鎌倉を出発し、17日に京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄であったが、義経は佐藤忠信らを伴い自ら討って出て応戦した。後に源行家の軍勢も義経に加わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが義経の郎党に捕らえられ、26日、家人と共に六条河原で梟首された(『吾妻鏡』)。義経は襲撃翌日の18日に、頼朝追討の宣旨を後白河法皇から受け取ると、直ちに挙兵の準備を開始した。なお『吾妻鏡』によれば、頼朝は昌俊に対し9日間で上洛するように命じているが、義経の元には13日に暗殺計画が伝えられており、同日(『玉葉』では16日)に義経は後白河法皇に頼朝追討令宣旨の勅許を求めている。従って義経らは、昌俊の襲撃を予め知って待ち構えていた可能性が高い。また、昌俊の出発と入れ替わるように源範頼・佐々木定綱らが、治承・寿永の乱に従軍していた御家人を連れて京都を出発、関東に帰還しており、義経とその配下の従軍者との引き離しを終えていた。さらに頼朝追討の宣旨が出された事を報じる使者が鎌倉に着いた22日には、勝長寿院にて24日に開かれる予定の源義朝の法要のために、各地の御家人やその郎党が鎌倉に集結しつつあった(頼朝は法要終了後、直ちに彼らを義経討伐に派遣している)。これらの状況から、頼朝による昌俊派遣の目的は義経暗殺そのものよりも、義経を挑発して頼朝に叛旗を翻す口実を与えることであったとの見方もある。
2022年05月16日
「鎌倉殿の13人」の新キャストが、公式ツイッターで2月17日に発表され、歌舞伎俳優の尾上松也さんが後鳥羽上皇役で出演することが明らかになった。尾上松也「後鳥羽上皇(*)は義時に対しての最後のボス、“ラスボス”と言っても過言ではないと思っております。義時に対して挙兵しまして、最終的には敗北してしまうわけですけれども、最後の大きな壁として義時に立ちふさがり、そして後鳥羽上皇を超えて義時が君主として世を治めていくということになります。物語の中ではとても重要な役どころと思っておりますので、これからどんどん役を掘り下げて深めていきたいと思っております」「小栗さんが大河ドラマに主演されると聞いたとき、普段から仲良くさせていただいている身として非常にうれしくて、ドラマを楽しみにしていたところもあります。ちょうど小栗さんがこのドラマの出演が決まったときに、たまたま電話でお話しさせていただく機会があり『鎌倉殿の13人で何か一緒にやりたいね』なんて話も実はしていました。でも13人の中に私の名前はなく、正直憤りを感じていたわけですが(笑い)。まさか最後の最後に後鳥羽上皇としてお話をいただけるとは思ってもいなかったので、非常にうれしかったです」*『承久記』(流布本)1221年(承久3年)5月15日に発せられた後鳥羽上皇の北条義時追討の宣旨 五畿内(大和・山城・和泉・河内・摂津の五箇国)諸国はすみやかに北条義時を追討して、院庁に参上して裁断を仰ぐように。 諸国の荘園守護・地頭らの事は、右内大臣(久我通光)が広く公に告げ知らせよ。 近頃、北条義時は勅を下しても「関東の裁断」として偉そうに天下の政務を乱している。 好き勝手な裁断を京都と鎌倉に下し、天皇・朝廷の支配下にある者が従うべき法を軽んじている。 北条義時の政治は謀反である。 すみやかに五畿(大和・山城・和泉・河内・摂津の五箇国)・七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)の諸国に命じ、北条義時を追討せよ。 また、諸国荘園の守護・地頭らで言上すべき事のある者は、院庁に参って申し述べ、是非を判断せよ。 そもそも国司や荘園領主は、事を天皇の命令に任せて、乱行や干渉をすべきではない。 これを固く守り、違反する者がいるならば、この命により通知せよ。 承久三年五月十五日被院宣偁、故右大臣薨去後、家人等偏可仰聖断之由令申。仍義時朝臣可為奉行仁歟之由、思食之処、三代将軍之遺跡、称無人于管領、種々有申旨之間、依被優勲功職、被迭摂政子息畢。然而幼齢未識之間、彼朝臣稟性於野心、借権於朝威、論之政道豈可然乎。仍自今以後、停止義時朝臣奉行、併可決叡襟若不拘此御定、猶有反逆之企者、早可殞其命。於殊功之輩者、可被加褒美也。宜令存此旨者、院宣如此。悉之以状。承久三年五月十五日 按察使光親奉慈光寺本『承久記』によると、 北条義時追討の院宣は、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村に下され、5月16日寅刻(午前4時頃)、押松(使者・院の下部)が京を出発。 鎌倉に到着したのは19日の申刻(午後4時頃)。 酉刻(午後6時頃)には、伊賀光季の使者も鎌倉に到着して、北条政子のもとへ参じている。 鎌倉中に触れを出した政子のもとへは、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏が参集。 政子が「鎌倉を攻めることは、大将殿(源頼朝)と大臣殿(源実朝)の二人の墓所を馬の蹄に蹴らせるようなもの・・・」 と説くと、武田信光が鎌倉に味方することを約束し、皆それに賛同した。『吾妻鏡』によると・・・ 1221(承久3年)5月27日、北条義時は5月15日に発せられた「義時追討の宣旨」を持って鎌倉に潜入し捕らえられていた院の使い(押松丸)を京都へ返すことにした。 押松丸には、宣旨に対する返書を持たせている。 『北条九代記』によると、その内容は・・・ 「義時は、院に忠義を尽くしてまいりましたのに、讒言をお信じになられたことで、違勅の者とされました。 そのため、弟の時房、子の泰時・朝時をはじめとする十九万騎の軍勢を上洛させます。 それでもお考え違いなさっているときは、子の重時・政村をはじめとする二十万騎を率いて、義時自身が参上いたしましょう」💛この承久の乱による鎌倉方の一方的勝利によって武家による政治が確立する。それとともに北条泰時の定めた貞永式目が、頼朝以来の専制的権力がそれまでの武家の慣習法としての道理が「法の支配」として確立する、転轍機的役割を果たすことになる。「さてこの御成敗式目を作られたことは、何をよりどころにして書いたのかと、きっとそしり非難する人もあろうかと思う。たしかにこれというベきほどの典拠によったことはないが、ただ道理(武士社会での慣習・道徳)のさし示すことをしるしたのである。...」ここに我々は、日本史上初の「法の支配」の完成をみることができる。「このようにあらかじめ定めておかないと、あるいはことの正しいか誤っているかを次にして、その人の強いか弱いかによって判決を下したり、あるいは前に裁決したことを忘れて改めて問題にしたりすることがおこったりしよう。こんなわけだから、あらかじめ訴訟の裁決のあり方を定めて、人の身分の高い低いを問題にすることなく、公平に裁判することのできるように、こまかいことを記録しておくのである。この式目は、律令の説くところと違っている点が少しあるが、例えば、律令格式は、漢字を知っている者のために書かれているので、ほかならぬ漢字を見ているようなものである。かなばかりを知っている者の為には、漢字に向った時は、目が見えなくなったようになるので、この式目は、ただかなを知っている者が世の中に多いこともあって、ひろく人の納得しやすいように定めたもので、武家の人々の便宜になるように定めただけのことである。」ここにおいて、上総の介の書道とかなばかりの書が成就(成仏)することになる。
2022年05月04日
「一ノ谷の戦い」での「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」について、実際に行ったのは義経ではなかった。一ノ谷の戦いにおける多田行綱の活躍4/25(月)勝利の立役者は義経ではなく多田行綱(ただゆきつな) 寿永2年(1183)6月の篠原の戦いで大敗した平家軍は、同7月に都落ちする。政権交代を成し遂げた義仲も、平家追討の停滞、後白河上皇との対立など悪手が重なり、翌元暦元年正月、源頼朝の弟範頼・義経を大将軍とする上洛軍に近江粟津(あわつ)で討たれた。こうした源氏方の混乱に乗じて、平家は勢力を盛り返し福原に布陣していた。寿永3年2月1日、源氏軍は大手範頼軍が山陽道を南下し生田口を、搦手義経軍は丹波道を西に進み一ノ谷口を目指し出陣した。 平家が一ノ谷に構えた城郭について『平家物語』では、東の木戸口を生田、西の木戸口を一ノ谷とし、堀・逆茂木(さかもぎ)・乱杭(らんぐい)を設け、櫓(やぐら)を構えた強固なものとする。ただし現実には、一ノ谷と生田は東西に10㎞以上も離れており、とてもひとつの城郭とはいえない。東西の両木戸により山陽道を遮断し、その中央に位置する福原・大輪田泊(おおわだのとまり)を防御するための備えであろう。『平家物語』では、一ノ谷に安徳天皇の御所があり、そこに義経の逆落としが仕掛けられ、この奇襲攻撃により勝利したかのように描くが、これは合戦をより劇的に描くためのフィクションである。 上皇への範頼・義経らの報告によると、合戦は7日朝より開始され、わずか2時間ほどで勝敗は決した。多田行綱が山方から攻め寄せて、真っ先に山手を陥落させ、平家の城郭を完全に制圧した。一ノ谷の戦いにおいて際立った活躍をみせたのが、「山方」より「山手」の守備を突破した多田行綱である。この山方・山手はおそらく、福原の北側、つまり鵯越(ひよどりごえ)の道を通じて平地へ抜けた辺りで、平家はこの本陣背後の守備を突破される。多田行綱は摂津多田院を所領とし、地の利があった。(『歴史人』2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」より)
2022年04月29日
映画アマデウスで描かれたモーツアルトと「鎌倉殿」の義経に与えられた性格は似ている。というよりも三谷さんが近づけて描いているのであろう。アマデウスのモーツアルトは、このうえない天才であるが、性格的には下劣である。そしてサリエリはその天才に感嘆し称賛するとともに、なぜに神はこんな下劣な若造に、天才を授けたもうたのかと懊悩する。「私は神の栄光を歌い上げたかった。しかし才能はくださらなかった。」梶原景時も同じで、誰よりも義経の軍略的天才を理解する。そして「なぜにこんな若者に軍略の天才を与えて私にはないのか」と嘆く。景時「鵯越なら馬に乗って駆け下りることも可能でしょう」義経「なだらかなところを駆け下りても、出し抜くことにはならぬ」「鉢伏山の一際そびえ立った崖から一ノ谷へ下りる。私ならできる!」景時は「いい加減になされよ!貴殿にできたとしても、兵たちにできなければ、意味のないこと。下りれば、多くの兵たちが無駄死にしよう。大将なら、そこまで考えていただきたい。」義経「誰が馬に乗ってと言った。まず馬を行かせる。馬は後戻りできないから、前に進むしかない。勝手に下りてくれたところで、次は人だ。(攻めかかる時に下馬は無様)戦に見栄えなど関わりない!そんなことのために、大事な兵を無駄死にさせてたまるか。もういい。おまえたちは付いてくるな。私の兵だけで行く重忠「馬を背負ってでも下りてみせまする。末代までの語り草になりそうです」景時「何ゆえ、何ゆえ、あの男にだけ思いつくことができるのか…」サリエリは策略を用いて、モーツアルトを栄光の座からひきずりおろす。同様に梶原も義経が破滅するように頼朝に報告し、義経を破滅においこむ。しかし、歴史はモーツアルトの音楽の天才とそして義経の軍略の天才を世に伝えていく。「鎌倉殿の13人」“菅田義経”ついに覚醒「八幡大菩薩の化身」梶原景時はサリエリ?ネット反響「斬新」4/24(日)
2022年04月26日
千葉市史 第1巻 原始古代中世編第3章 中世 第一節 鎌倉時代の千葉 第四項 千葉氏と鎌倉幕府との関係 より石橋山の緒戦に敗れた頼朝は、二十八日に真名鶴崎から安房国平北郡猟島に逃げて来た。ここにのがれたのは、海上に脱出する以外に途はなかったことや、三浦氏と関係のある上総介平広常がいたことや、また安房の丸御厨は頼義以来源氏の所領で、丸氏や安西氏が以前から源氏と深い関係があったからであろう。頼朝は安房国にあって源氏累代の家人を招集した。そして、安西三郎景益に書状を送って「国府に居る役人等を引きつれて参上せよ、また安房国内に京から下って来た者が居ったら皆とらえて進上せよ。」(『吾妻鏡』巻一、九月一日の条)と命じている。つまり、役人でも地方領主となっている者は家来にし、平家の中央政府から派遣された役人は皆殺しにしようとしたのである。長狭六郎は頼朝が広常の居館に赴く途中の宿舎を襲って敗北した。安西三郎景益は上総介平広常を直接訪れることは危険であると進言したので、頼朝は景益の館に落着いた。時に頼朝の手兵は約三百人、上総には平広常、下総には千葉常胤の大豪族がひかえている。両雄の態度いかんによって頼朝の運命は決定するといってもよい情勢であった。頼朝は風前のともしびに等しかったが、景益の居館から両雄に救援を求める使者を派遣した。 治承四年(一一八〇)九月四日和田義盛を長柄郡一宮大柳城の平広常のもとに、(広常の居城は大柳城(現在一宮町大谷木)(『吾妻鏡』)とする説と、布施(現在大原町とする説がある。いずれとも決しがたい。)藤九郎盛長を千葉猪鼻城の千葉常胤のもとに遣わして参上を促した。六日の晩、義盛は帰って頼朝に「広常は千葉常胤と相談した上で参上する。」と、答えたと報告している。九日には盛長が千葉から帰って次のように報告している。「常胤の門前に案内を請うたところ、幾程もたたないうちに客亭に招かれた。常胤は既に座にあって彼を待ち、側らには子息胤正、胤頼らが坐していた。常胤は盛長の言を聞いても一言も発せず眠っているようであった。長男と六男の二人は同音に、武衛(頼朝)は源氏再興をはかり、我らは最初の御召に預ったのであるから、直ちに応すべきである、と父にすすめた。すると、常胤は援助することに何ら異議はない。『源氏再興の挙』は感涙の極みであり、言葉では現わせない程よろこばしい、といった。その後で酒宴に入ったが、その時常胤は、いまの居所は要害の地でも、先祖ゆかりの地でもない。早く鎌倉に出た方がよい、常胤、一族郎党を率いてお迎えに参向する決意である、と語られた。」と(『吾妻鏡』巻一、治承四年九月の条)*このときから頼朝は「武衛」と呼ばれていたのであろうか? 常胤は、三九歳のとき源義朝に従って、保元の合戦に参加しているし(『保元物語』)、六男胤頼は京都にあって中央の情勢をみているし、頼朝の挙兵以前に伊豆で対面して挙兵をすすめたようであるから、父子ともにこのように回答したのは当然かと肯(うな)ずける(鎌倉は頼義が前九年の役出陣に当たって八幡神を鶴ケ岳に祀って戦勝を祈願した地である。)。 鎌倉幕府の日記ともいうべき『吾妻鏡』の記事は以上のようであるが、十三世紀中ごろの作である『源平盛衰記第二〇』には次のように書いてある。 源頼朝が御家人を招集するために藤九郎盛長を下総の千葉介のもとに使いさせた。その時常胤は手紙をひらいてみて、「此事は上総介(広常)に申し合せて、それから御返事する」といって、盛長を返した。ところが、千葉介の嫡子小太郎(胤正)は一七歳であったが、ちょうど鷹狩の帰り道で盛長に行き会った。父の返事はどうであったかと胤正が問うと、盛長はしかじかであった、と答えた。そこで胤正は盛長と一緒に父の館(たち)に引返し、父に向って、援助の催促をうけても参上すると御返事しない、その上上総介に相談した上でとのことだが、「我らは上総介に随たる身分でもない。広常が参上するならば参上する、しないならばしない、というのですか、広常の下知(さしず)によることはない、きっと参上すると御返事なさるべきである」と進言した。父は賢い計らいだと思って、参上すると確答した。 広常の方は全く逆で「生きてこの事を承まるのは身の幸いである。忠を表わし、名をあげるのはこの時である。」といった。 『吾妻鏡』と『源平盛衰記』では、記事が全然反対である。『吾妻鏡』の方を信じたい。 ただ、胤正の進言の中に、我らは広常の指示に従う必要はない、自主的に態度を決定すべきだ、といった言葉は重要である。というのは、常胤と広常とは祖先は同じである。しかし、このときには血縁的、同族的意識は薄い。千葉介も上総介も、それぞれ強勢な地方豪族に成長して、自主独立の精神が強くなっていたことを語っている。こうした独立意識が新しい統治組織を希望したと同時に、将来幕府が御家人統制に苦慮する点であろう。 頼朝は常胤援助の報を聞いて勇気百倍し、広常の参入を待たないで下総の国に向って安房の館を出発した。広常の勢力や動向を案じて、おそらく道は西寄りにとって木更津、五井あたりから千葉に入ったのではないだろうか。 『吾妻鏡』によれば、常胤は盛長に返答した後、早速頼朝の出迎えに馳せ参じようとしたが、東六郎胤頼の言に従って、下総国の目代(もくだい)を胤頼と孫の成胤に攻め殺させている(場所はおそらく現在の市川市国府台であろう)。更に、常胤は千田(せんだ)庄の領家判官代親政(ちかまさ)(平忠盛の聟)と戦っていけどりにした。この合戦がさきの「三千余騎にて急ぎ杉浦と云所に」とも考えられない。 常胤は太郎胤正、次郎師常、三郎胤盛、四郎胤信、五郎胤道、六郎胤頼、嫡孫小太郎成胤ら三百余騎を従えて、頼朝と下総の国府で参会した。九月十七日のことである。もし、頼朝が安西景益の館を十日に出発したとすれば、少くとも七日目には国府台(市川市)に到着していたのである。かなりの短時日である。この間の千葉氏のあわただしい奮戦ぶりが目に浮かぶ。常胤はまさに一族郎党を率いて頼朝と主従の契を堅く結んだ。 『源平盛衰記巻第二二』では、「常胤が頼朝にいうのには、此処(下総国府 市川市)に大幕を百帖(じょう)ばかり張って、白旗を六、七十旒立てなさい。これを見聞した武士たちは大勢参集したと思うでしょう。葛西御厨の武士も皆来るでしょう」、と。そこで頼朝はその計画のとおりにしたところが、案の定われもわれもと馳せ参じて来た。その一人に上総介弘経(広常)も入っている。これは文学的物語と思えるが、それにしても常胤の提案はなかなかの奇策である。 『吾妻鏡』によれば、回答を保留していた平広常は頼朝北上の後を追って、上総の周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北の兵二万騎を率いて隅田河辺で頼朝に追いついた。広常が頼朝に会ったのは十九日で常胤におくれること二日である。その二日の間に武蔵、相模方面から相当の兵力が参集したかもしれないし、それだけに頼朝の自信も高まっていたとも思える。だから僅か半月前には広常の救援をたのみとしていながら、この時には広常の遅参を容赦なく責めている。 広常が二万の大軍を擁して行ったのは、二つの考えがあったからである。一つは場合によっては敗残の頼朝と一挙に雌雄を決して、これを打倒してしまおうという考え、二つには情勢によっては家来になってもよいという心づもりである。広常が生涯、上総介としての見識と威力とをもって自らを恃したがために頼朝に殺害されてしまった。広常は自分の参向を頼朝が感謝するかと予想したのに、逆に、来ること遅しと厳しくとがめられた。広常は、その気魄に圧倒されてか、機を見るに敏なのか、それとも人物評価の眼識あってか、頼朝を主君の器量ありとみて、殺害する心を変えて家来として従うことを約束した。 広常に限らず、当時の地方の豪雄は必ずしも最初から頼朝を総大将と仰ごうとする真意は無かったのではないだろうか。源氏累代の家人にしてもその埒外(らちがい)ではあるまい。しかし、時とともに頼朝援助の勢力が増強されるにつれて彼に加担するようになってくるのである。それは地方豪族が早くから独自の政治体制を要望していたこと、頼朝の政治的才能、それに鎌倉進出をすすめて援助に先鞭をつけた千葉常胤の功績などによるものであろう。 事実、猪鼻山の常胤の援助の一言は万金の重みをもっていた。関東各地から馳せ参じた兵約五万を従えて頼朝は鎌倉入りをした。一カ月前には敵側にあった畠山重忠が先陣を承まわり、千葉常胤を後陣として、頼朝は十月六日鎌倉入りして居館を定めた。 頼朝は十月二十一日、富士川の合戦で敗走する平家を追撃しようとしたが、千葉常胤は三浦義澄、平広常らとともに、常陸の佐竹氏など反抗の武将がおるので、これらを平定した後に上洛するのが良策であると、鎌倉に在居することを献言している。 十二月十二日、晴天の日、頼朝は新営の館に移ったが、常胤は胤正、胤頼らを伴って移居の儀式に供奉している。このとき参加の武将たちは中央に着座した和田義盛(侍所別当)とともに皆頼朝を推して「鎌倉の主」とした。これで頼朝は名実ともに御家人統制の主君と決定したのである。頼朝は鎌倉を離れず、弟範頼と義経を京都に遣わして、まず木曽義仲を破り、ついで平家を討たしめた。千葉常胤は陸路を進撃する範頼の輩下にあった。海路の大将義経もさることながら範頼の軍は悪戦苦闘している。範頼は常胤、胤頼など千葉一族を頼りとしていた。元暦二年(一一八五)範頼が頼朝にあてた手紙には、「兵糧欠乏して軍士らは団結せず、皆本国を恋しがって逃げ帰ろうとしている」と苦衷を訴えている。頼朝はこれに対する返書の最後に「千葉介はことに、軍功を立ている、大事にせよ」と書き添えている(正月六日)。 また、同年三月範頼にあてて「諸将の中でも千葉介常胤は老骨を顧みないで戦陣で苦労を堪え忍んでいる。同輩中最も賞賛すべきである。常胤の大功は生涯忘れないで報謝しなければいけない。」と、したためた書面を送っている。時に常胤は数え年で六八歳である。常胤への愛情がよく現れている。平家滅亡後、後白河法皇は頼朝と義経の不和を好機として、義経に頼朝追討の院宣を下した。頼朝はまたこれを口実に朝廷に守護、地頭の設置を奏請して許可をえた。この時、常胤は下総国の守護職に任じられ、一族で地頭職になった者も多かった。 文治三年(一一八七)八月、京都に群盗蜂起し、武士の狼藉も多かったので、この鎮圧のため常胤は下河辺行平とともに、頼朝から上洛を命ぜられた。その後、太宰権帥藤原経房の消息によれば、「両人上洛以後、洛中ことの外静謐(せいひつ)」とある。常胤の武勇と責任感の強さがうかがえる(『吾妻鏡』巻第七)。寿永二年(一一八三)に上総介広常が謀叛(むほん)の心があるとの疑いから頼朝に誅殺された。大豪族として独立心が強く、武士中心の封建体制の確立を主張してやまなかった人物である。新政権確立の犠牲者である。後に頼朝は、功臣広常の謀殺を自ら悔いている。広常の死後、千葉氏は下総はいうまでもなく、上総にも勢力を浸透させた。それは『千葉大系図』常秀(常胤の孫)の条に「上総介広常の領地を常胤と和田義盛に賜う。」と註記してあることからも明らかである。💛上総介が誅殺されてどうして上総介の子飼いの者たちは黙っていたのか?親分を殺されて、復讐しようとならなかったのか?その理由の一つは、おそらくはその所領が千葉常胤と和田義盛に与えられたことにあろう。同族の千葉常胤が親分におさまったことで、上総介配下の子分はそのまま千葉常胤を親分とした。頼朝にとっても、何かにつけて無礼で並び立とうとする上総介よりも、千葉常胤のほうが「生涯忘れないで報謝しなければいけない」信頼のおける存在であったのである。
2022年04月23日
2022年4月17日放送 第15回三浦義村「お前は止めて欲しかったんだ...。上総介を救いに行かなくて済む口実が欲しかったんだ...。気付いてねえ様だが...お前は少しずつ、頼朝に似て来ているぜ...。これは褒め言葉だ。』」小栗「今後、義時はかなり変わっていくと思います。とうとう自分で考えて行動を起こす瞬間が増えていきますし、三浦義村に言われたせりふの『お前は少しずつ頼朝に似てきているぜ』という言葉もたってくるのかなと思っています」。「これから年齢がぐっと上がり、元々彼の持っている青年らしさが無くなって大人になっていくんですよね。僕自身、その変化も段階を踏んで丁寧に演じていられているかなと思っています。同時に、息子も大きくなっていくので“親としての義時”という見方も出てきますし、そこが違った要素になっていくのかなと思います」・史実はおそらくは北条義時はこの首脳部の企てに加担していたのであろう。この上総介の坂東武者の面前での公開処刑から、坂東武者の権力争奪をめぐっての仲間内での血なまぐさい殺し合いが始まる。・同じ仲間の坂東武者・上総の介を誅殺された坂東武者たちの鎌倉殿(源頼朝)への臣従は表面的なものとなっていき、一方鎌倉殿の妻・政子へ真の権力の比重が動き出し、承久の変における政子の扇動的なアピールに坂東武者が一丸となって当たることになる。
2022年04月23日
大泉洋「鎌倉殿の13人」佐藤浩市との共演は「やっぱりピリッと…一番良いお芝居を引き出してもらえる」2022年4月16日大泉洋「(頼朝は)上総介にどこか頭が上がらないというか、上総介の力がないと頼朝は自分のやりたいことがやれない。ものすごく大きな力を持った人なんですよね」「(佐藤浩市とは)何度会っても緊張する。実際ご本人はものすごくフレンドリーな方で、楽しくお話しはしてくれるんですけど、共演するときはやっぱりピリッとするし、その時の自分のレベルというか…本当に全身全霊で挑んでいかなきゃいけないと思う」「(芝居のかけ合いを)『こんな風にやろうぜ』みたいな打ち合わせっていうのはまずないんですよ」「浩市さんと(芝居を)するっていうのは、自分も一番良いお芝居を引き出してもらえる」小栗旬 NHK大河「鎌倉殿の13人」上総広常最期の現場明かす「この撮影で数本の指に入るくらいピリッとした」4/22(金)広常の最期は、佐藤が壮絶な斬られっぷりを演じ、SNSなどで大反響に。小栗「あの日は、この撮影で数本の指に入るくらいピリッとしていた」「最期にこっち向いて少し笑顔だったのは、どういうメッセージだったのかな」“次は誰をハメようか”…小栗旬 現場は和気あいあいも「正直結構しんどい」4/23(土)小栗「最初の頃のような明るく楽しい北条一家がなくなってきて、“次は誰をハメようか”という選択肢が増えてくる。現場は和気あいあいとしていますが、正直結構しんどい」「ダークという表現をされることもあるが、むしろシビアな人物。北条家が生き残るために下したチョイスが結果として残忍なんだと思う」いよいよ源氏と平家の最終決戦が迫る。作中では菅田将暉(29)が演じる天才軍略家・源義経の活躍も見どころの一つ。小栗にとっては6度目の共演で「初めて菅田将暉の方が僕より年上の役を演じている。今まで見てきた菅田将暉とは、また違う存在感。本当に底の知れない人」とその芝居を称えた。「いろいろな人がいろいろな役をやって成り立つ大河ドラマはやっぱり面白い」小栗義時5・8平家滅亡「注目して」 6度目共演の菅田義経を絶賛「底の知れない人」4/23(土)5月8日放送の第18話「壇ノ浦で舞った男」小栗「もともとこれ(平家滅亡)を目標に動いてきた物語。これを経た後にいったい何が残っているのか、注目して見ていただきたい」「義時は、こういう形で平家が滅亡し、本当に正解だったのだろうかと悩んでいる」「(菅田義経は)今までとはまた違うアプローチだなと思って見ていた。底の知れない人」「現場で悩むそぶりを見せない。いつどのタイミングでお芝居のことを考えているのか」「シビアな決断を毎回迫られるようになっていく」「正直なところ、しんどいときもある。明るく楽しい北条一家がだんだんなくなってきて、だんだん、誰かを落とさないといけない選択肢になっていく」
2022年04月23日
鎌倉殿の13人:佐藤浩市明かす、上総介“手習い”シーン秘話 頼朝の大願成就も「無残に壊されてしまう悲しさ」2022年04月17日佐藤浩市さん「最初に、本筋とは何か全然関係のないところで、広常のキャラクターが見えるようなシーンがあったらいいね、なんてことを演出陣と話していました。それを三谷幸喜さんが聞いて、できたシーンだったんです」「どこか粗野な上総介が、まったく童心のように、未来に対する希望として、それを書いている姿、やっている姿、そういう希望を無残に壊されてしまう悲しさがあると思います」「実際のところ僕らは武士、もののふの生活というのは伝聞や歴史に残ったものでしか分からないので、正しいか正しくないかは別にして、僕らの世界にも常に通じるものという、そういうふうな思いとして映ればいいかなと。それがとてもうまくできたから、逆に言えば、広常のたどった運命とつながってみると、ものすごく悲しくなっているんじゃないかと思います」「鎌倉殿の13人」の第15回「足固めの儀式」で、坂東武者の最大勢力を誇った上総広常が、源頼朝、大江広元らの策略によって謀反人に仕立て上げられ、討たれる。ネットには、「北条泰時が武士の法律に当たる「御成敗式目」を定めた人物であることにも注目。広常が読み書きが苦手だったことを踏まえ「上総介が討たれたときに生まれた泰時が、『只かなを知れる物』(ひらがなしか知らない=子どもの手習い程度しか読み書きできない武人)*でも読めるよう御成敗式目を作るんだもんな…」とあった。 なるほど、棟方志功のようにはいつくばって、習字の手習いをしていた上総介のイメージが北条泰時の「御成敗式目」制定の伏線ともなるのか。*北条泰時は1232年御成敗式目制定に際して、弟の六波羅蜜探題北条重時に送った書状で「まな(真名:漢字)にむかひ候時は人の目をしいたるがごとくにて候へば、この式目は只かな(仮名)をしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への、はからひのためばかりに候」と言っている。
2022年04月21日
「歴史好きの三谷さんは原則として史実を忠実に再現することを心掛けています。そのうえでドラマを面白くするために登場人物をどう膨らませるかを常に考えています。従来、悲劇の女性として描かれてきた八重に関心を持った三谷さんは『新垣さんに演じてほしい』と熱心にオファーしたといいます」「2014年公開の新垣さん主演映画『トワイライト ささらさや』で彼女は大泉洋さんの妻、そして自身初となる母親役を演じました。この映画のポスターを、三谷さんの監督作『ラヂオの時間』や『みんなのいえ』を手掛けたイラストレーターが描いており、三谷さんもこの映画を見ていたといいます。『鎌倉殿』でも頼朝と八重との間に子供が生まれることから、新垣さんに白羽の矢が立ったそうです。意外なことに三谷さんは新垣さんと仕事をするのが今回が初めて。撮影に入る前に15分会っただけでした」(前出・NHK関係者)「かねて新垣さんの演技を高く評価していた三谷さんは今作で『逃げ恥』の、みくり役のイメージを塗り替えたいと強く思っていたそうです。八重は意志が強く、自分の思いに忠実に行動できる女性。実際に会った新垣さん本人と重なる部分が多々あり、新たな八重像が広がったと聞いています三谷は今年初め、『朝日新聞』の連載エッセイでこうつづっていた。《僕は当て書きの脚本家。俳優さんありきで、その人にどんな役を演じてもらったら面白いか、どんなセリフを喋ってもらったら楽しいか。そこから物語を作っていく》《新垣さんは稀有な女優さんだと思う。(略)ほんの小さな眉の動き、固く結んだ唇が少しだけ緩む瞬間。そういった細かい表情で気持ちを表現する。これってとんでもなく難易度が高いこと》《きっと信じられないほど台本を読み込み、役を自分に落とし込んでいるのだろう》(「三谷幸喜のありふれた生活」’22年1月27日付)「三谷さんはもちろん八重が身投げしたという伝承をご存じでした。とはいえ、八重が江間次郎という男性に嫁いだという別な説もあり、江間の領地が伊豆の北条館の目と鼻の先だったことから、義時と結婚するという今回のシナリオが誕生したといいます。三谷さんは新垣さんを2人の英雄と結婚する美女“クレオパトラ”と評し、撮影後も『自分が思い描いていた以上の八重さんでした』とベタ褒め。難役にプレッシャーを感じていたという新垣さんは『全部報われました』と安堵していました」
2022年04月19日
「鎌倉殿の13人」上総広常“手習い伏線”にネット号泣 佐藤浩市が明かす舞台裏「童心のような希望」 2022年4月17日これから3年のうちにやるべきこと 明神様のための田んぼを作る 社も作る 流鏑馬を幾度もやる これ全て鎌倉殿の大願成就と東国の太平のため佐藤「最初に、本筋とは何か全然関係のないところで、広常のキャラクターが見えるようなシーンがあったらいいね、なんてことを演出陣と話していました。それを三谷幸喜さんが聞いて、できたシーンだったんです」「どこか粗野な上総介が、全く童心のように、未来に対する希望として、それを書いている姿、やっている姿、そういう希望を無残に壊されてしまう悲しさがあると思います。実際のところ僕らは武士、もののふの生活というのは伝聞や歴史に残ったものでしか分からないので、正しいか正しくないかは別にして、僕らの世界にも常に通じるものという、そういうふうな思いとして映ればいいかなと。それがとてもうまくできたから、逆に言えば、広常のたどった運命とつながってみると、ものすごく悲しくなっているんじゃないかと思います」
2022年04月19日
大江広元の『一つだけ気になることが』の言葉の回収大江「最も頼りになる者は、最も恐ろしい」頼朝「上総介は言った。御家人は使い捨ての駒と。あいつも本望だろう」頼朝「わしに逆らうものは何人も許さぬ」★ナンバー2は作らない。(「銀河英雄伝説」田中芳樹)歴史に出てくるナンバー2には大きく分けると、二つのタイプがある。第一は後継者タイプ、皇太子タイプです。第二は軍師や宰相とかの重役タイプです。ナンバー2をつくる弊害は、後継者タイプの場合ですと「もう将来はこっちだ」というわけでナンバー2の方に権力が集まってナンバー1がないがしろにされる。それで、ナンバー1がナンバー2を粛清するか、あるいはナンバー2の方が反旗を翻してナンバー1を駆逐するという形で終わることが多い。オーベルシュタイン「組織にナンバー2は必要ありません。無能なら無能なりに、有能なら有能なりに、組織をそこねます」そしてこの「最も頼りになる者は、最も恐ろしい」「わしに逆らうものは何人も許さぬ」の原理が、義経など次々と「最も頼りになる者」の粛清を招くことになり、ついには頼朝の死後、自分に連なる源氏の一族をも滅ぼしてしまう。上総介の粛清からすべての悲劇とそして悲劇を通して日本に新しい政治体制、武家政治が確立する。💛三谷幸喜さんは、史実としての大河ではなく、史劇として、シェークスピアに匹敵するような「史劇」を創造しようとしているのかも2022年大河ドラマ制作発表脚本の三谷幸喜です。〈鎌倉殿の13人〉、ちょっと新しい大河ドラマを作りたいなってことでプロデュサーの皆さんと話し合いまして、今まで大河でこんなタイトル絶対なかったってものを探そうと試行錯誤しまして、最終的にこの〈鎌倉殿の13人〉というタイトルに落ち着きました。〈鎌倉殿の13人〉というのはですね、源頼朝という鎌倉幕府を作った将軍がいるんですが、「鎌倉殿」というのは将軍のことですね。で、頼朝が死んだあと、2代目の将軍、彼も鎌倉殿ではあるんですけども、頼家という若者がおりまして、この頼家が2代目ということもあって、「おやじを超えるぞ!」みたいな感じでちょっと頑張りすぎて力が入りすぎちゃって。若かったものですから。それでちょっと暴走してしまう。それを止めるために家臣たちが集まって、これからは合議制ですべてを決めていきます、って決めちゃうんですね。その家臣たちがちょうど13人いて、これが日本の歴史上初めて合議制で政治が動いたという、そういう瞬間なんですけども。ほんとに僕好みの。それが〈鎌倉殿の13人〉。 えっと、13人の名前、知ってる人あまりいないと思うんですけども、これから覚え方をお教えしたいと思います(笑)。「ひかわなにお、ほほはあみあみ」です。これが全部の13人。13人覚えるのは大変なんですけども、「ほっぺたが網々になってるひかわなにおさん」っていう(笑)。「なにお」っていうのはちょっと強引なんですけども。「ひかわなにお」の名前だけ覚えてれば、全員が分かると。今はほとんど知らない人ばかりだと思いますけど、僕も途中、思いつかなったんですけども。たぶんこのドラマがオンエアされて、その年の暮れぐらいには日本中の人が全員の名前を知っているという、そんな感じになると確信しております。 この中で一番若かったのが、この北条義時という人です。お父さんが北条時政なんですけども、一番若手の北条義時が最後、この人たち結局パワーゲームというか、みんなで勢力争いしてどんどん脱落し、死んでいくんですけども、最後に残ったのがこの北条義時。この一番若い彼が、最終的に鎌倉幕府を引っ張っていく最高権力者になる。そこまでを今回はドラマで描いていきたいと思っております。これ、試験に出ますから(笑)。北条義時が主人公ですね。源頼朝と北条政子という有名な夫婦がいますけども、義時は北条政子の弟になります。 大体、北条義時ってどのくらい知名度があるか、聞いてみたいんですけども。知ってる人?(数人、手を挙げる) ほーですよ、これが日本の教育ですよ(笑)。これがたぶんね、大河ドラマで日本で一番有名な北条さんになるんじゃないかなと思っております。北条家、北条時政というのがお父さんで、息子がおおざっぱに言うと、宗時がいて、これが有名な北条政子、この政子さんが源頼朝と結婚します。そのことによってもともと北条時政というのは地方の豪族のひとりというか、絶対に歴史に残るような、中央に出てくるような人ではなかったんですけど、娘が頼朝と一緒になったことによって、突然、歴史の表舞台に出てきてしまった、駆り出されてしまったという、そういう状態になっています。 おもしろいのは、主人公は義時なんですけども、頼朝が挙兵したときに北条家も一緒になって平氏と戦うんですけども、その時に一番頼りになっていたお兄さんの宗時っていうのが、戦で死んでしまうんですね。それによって本来、北条家の中心になるべき人じゃなかった、この義時って青年が、歴史の表舞台に駆り出されてしまって、時政と共に頼朝をサポートして鎌倉幕府をつくるというふうになっていきます。これが、何かに似てるなって思ったんですけども、『ゴッドファーザー』という映画がありまして。『ゴッドファーザー』で言うところのマイケル・コルレオーネ、アル・パチーノですね、その設定とすごく似てる。マイケルのお兄さんのソニーが殺されて、やむなくマイケルがマフィアを継いでいくという。たぶんあのゴッドファーザーの原作者のマリオ・プーゾは、鎌倉時代のこれに影響されて(笑)つくったんじゃないかなと思います。 それくらい、言っときますが、ほんとに僕、この仕事を引き受けてよかったと思うのは、この時代っておもしろいんですよね。おもしろいドラマ、おもしろい物語の要素が全部詰め込まれてる。ほんと『ゴッドファーザー』だと思うし、この北条時政には、牧の方という後妻がいて、この人が悪知恵をどんどん時政に入れ知恵して、たきつけて、時政はどんどん悪い奴になっていくんですけども。これがほんとに『マクベス』みたいで、たぶんシェイクスピアはこの時代のことを知って(笑)、『マクベス』を書いたんじゃないかなという。それくらいすごくドラマティックな、ちょっと僕の頭では想像がつかないようなすごいドラマが鎌倉時代に展開していて、それをドラマにすることができて、僕は本当に脚本家冥利に尽きると思っております。
2022年04月19日
WIKIより源 義仲 (みなもと の よしなか)は、源義賢の次男。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名で知られる『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄で義賢嫡男の仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護したことで頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送ることで頼朝との対立は一応の決着がつく。寿永2年(1183年)5月11日、義仲は倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く加賀国での篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。7月25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。義仲は7月28日に入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた。7月30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった。8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられる。後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう朝廷に申し立てた。摂政・九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。朝廷では義仲を制するための御占が数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという。北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかった。義仲は京都の治安回復にも期日を要した。養和の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。9月になると治安は悪化の一途を辿った。京中守護軍は義仲の部下ではなく、行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、義仲が全体の統制が出来る状態になかった。後白河法皇は9月19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」[13] と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならなかった。義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗した。そんな中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、10月15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。法皇は義仲に「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」最後通牒を行う。義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入った。11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛し法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。20日、義仲は五条河原に百余の首をさらした。入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北と状況の悪化により脱落者が続出して千騎あまりに激減していた。また、義仲は平家との和平交渉とともに後白河法皇らを奉じて北陸道へ下る事も考えていたようであるが、関東は飢饉によって兵力を動員できず義経の兵も千騎ほどという情報が入ってきたため、北陸下向を中止して迎え撃つ判断をしてしまった義仲が敵の実勢を把握したのは15日の夜であり、翌16日には範頼が北陸道の入口である近江国の瀬田に兵を進めて義仲軍を京都に閉じ込めてしまった(「関東が飢饉によって兵力が動員できない」という情報自体が頼朝側が流した偽情報であった可能性もある)義仲は義仲四天王の今井兼平に500余騎を与えて瀬田の唐橋を、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護した。1月20日、範頼は大手軍3万騎で瀬田を、義経は搦手軍2万5千騎で宇治を攻撃した。義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れる。根井行親、楯親忠は必死の防戦をするが、義経軍に宇治川を突破される。義経軍は雪崩を打って京洛へ突入する。義仲が出陣し、義経軍と激戦となる。義仲は奮戦するが遂に敗れ、後白河法皇を連れて西国へ脱出すべく院御所へ向かう。義経は自ら数騎を率いて追撃、院御所門前で義仲を追い払い、後白河法皇の確保に成功する。後白河法皇を連れ出すことを断念した義仲は今井兼平と合流すべく瀬田へ向かった。瀬田で範頼軍と戦っていた今井兼平は宇治方面での敗報を知り退却、粟津で義仲との合流に成功する。義仲は北陸への脱出をはかるが、これへ範頼の大軍が襲いかかる。義仲軍は奮戦するが次々に討たれ、数騎にまで討ち減らされたところで、遂に義仲が顔面に矢を受けて討ち取られた。今井兼平も義仲を追って自害した(粟津の戦い)。・木曾義仲の没落で状況が一変し、将来の禍根を絶とうと頼朝は義高の殺害を決意した。北条政子は、密かに義高を逃がしたが、追っ手に捕らえられて討たれた。未来の夫と成るべく人。義高が父・頼朝に殺されたと知った大姫は、悲しみの余り病に伏せる身となり父・頼朝の薦める縁談にも耳をかさず、鬱々とした日々を過ごすばかりであった。頼朝は建久六年(1195)になると、妻政子、嫡男・頼家、大姫を伴って2度目の上洛を行った。大姫の入内である。しかし建久八年に大姫は20歳の若さで死去。父の犠牲になた哀れな生涯であった。常楽寺の裏山に木曾義高の碑と墓がある。また大姫の祀ってある岩船地蔵が亀が谷切通しの近くにある
2022年04月17日
鎌倉殿の13人で『神回』が話題に!「鎌倉殿の13人」第13話での義時と八重のやりとりに「神回」の声があがったことがある。帰ろうとする義時に「待って。小四郎殿、お役目、ご苦労様でございました」と八重が言って頭を下げ、笑みを浮かべ「おかえりなさいませ」という八重に「ただいま、帰りました」と言って男泣きする義時。「おはすた」で出演者から4月17日が「神回」の声があがった。大泉さん「出演者全員が認める神回」山本さん「「1回最終回が来るぐらい、かぶりつきで見てほしい」」 小栗さん「震えが来る回」佐藤さん「トイレに行けないぐらい」その内容は明かされないが、歴史が示すところは梶原景時の暗殺による「上総介の死」である。明かされた映像によれば、そこには「棟方志功」ばりにはいつくばって大書する上総介の習字の姿がある。・大泉≫一個一個が…普通の役者がやったら、もっと ただただ強くて怖い人に なるのかなと思うんだけど 浩市さんがやることによって 上総介というのが とっても魅力的な かわいらしい一面もたくさん見れているなとは 思いますよね。 勘違いから生まれた愛らしさも。予告編では「謀反である」と大義の成敗を高らかに主張する梶原景時の太刀を持った姿がある。小栗さん「佐藤浩市の勇姿を観てほしい」そして歴史の示すところによると、上総介は 鎌倉殿の安泰を願って祈願文を神社に奉納していたことがのちに判明し、頼朝は上総介の謀反の疑いを解くが、時すでに遅し。そしてすべてのシナリオの裏に 大江広元 の鎌倉幕府確立に向けての構想がある。大江広元「(義時は)決して手放してはなりません。まだ若く、しくじりもありますが、あの者は鎌倉殿に忠義を尽くします」頼朝も「わしもそう思う」広元「ご安心を、鎌倉は安泰でございます」「ただ、ひとつ気になったのが…」頼朝「言ってくれ」日常的に、死(暗殺、謀殺)があり、偽計、だまし討ち、闇討ちが行われる「鎌倉殿」の中で、巨視的に 頼朝+大江+義時の鎌倉地方政権 VS 法王の京都の伝統的政権との巨大な権力闘争が行われ、そして800年近く日本という国を統治した政治機構、武士政権・封建制度が誕生する。それらを三谷氏がどう描くか、楽しみ。
2022年04月16日
「鎌倉殿の13人」八重・新垣結衣を救った三谷幸喜氏の言葉 初大河「反省ばかり」も「全部報われた思い」2022年4月10日新垣結衣「現場で初めてのことがたくさんあって、反省しかないので、成長できたかどうかは分からないですけど、経験としては一つ、自分の身になったかなと思います。所作は現代劇だったとしても動きが美しく見えるのかなと思ったり、お着物を着て過ごす時間は気持ちも締まるんです。そういうことは今後、どこかで生きるんじゃないかなと思います」三谷幸喜「これから作品に携わる時も、台詞の細かい意味まで大事にしていきたいなとあらためて思いましたし、うれしい感想もたくさん頂いて、とても励みになりました。反省ばかりなんですけど、『僕が思い描いた以上の八重さんになりました』というお言葉を頂けた時、本当に全部報われたといいますか、安心したといいますか。反省の気持ちは消えないんですけど、そういうふうにおっしゃっていただけて、本当によかったなと思いました」三谷幸喜「時代劇ですし、今まで現代劇で演じてこられたような役とは違い、生きるか死ぬかみたいな局面がやたら出てきますが、とても素晴らしいですね。もの凄く丁寧に丁寧に、お芝居をされる方。聞くと、本当に台本を読み込まれる方だというんですね。リアクションも細かいですし、的確ですし、顔のちょっとした表情の変化も丁寧に演じられていますし、素晴らしいですね。ビックリしました」「義時の初恋の人だから、皆さん、5~6話ぐらいでいなくなると思っているかもしれませんが、とんでもないですからね。皆さんが思っている以上に登場しますから、楽しみにしておいてください」💛ほんと、「鎌倉殿の13人」では、史実にしたがって、次から次へと重要人物が殺戮される。ほとんどが戦いでなくなるか、暗殺・闇討ちされる。八重は、北条義時の初恋の人にして源頼朝(大泉洋)の最初の妻。後に相馬家に嫁いでいった(*)という説があり、まさか義時の妻になり、泰時を産むという役どころとは思わなかった。「皆さん、5~6話ぐらいでいなくなると思っているかもしれませんが、とんでもない」してやられたな。*八重姫(やえひめ)は、平安時代末期の女性。伊豆国伊東庄の豪族であり、頼朝の監視役であった伊東祐親の三女。源頼朝の最初の妻とされる。頼朝の初子・千鶴御前の母。 延慶本『平家物語』『源平盛衰記』『源平闘諍録』『曽我物語』などの物語類にのみ登場し、同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料には見えない。 『曽我物語』によれば、14歳で伊豆国へ流罪となり、在地豪族の伊東祐親の監視下で日々を送っていた頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に祐親の三女と通じ、やがて男子を一人もうけて千鶴御前と名付けた。千鶴御前が3歳になった時、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、「親の知らない婿があろうか。今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか」と平家への聞こえを恐れ、家人に命じて千鶴を轟ヶ淵に柴漬にして殺害し、娘を取り返して同国の住人・江間の小四郎に嫁がせた。さらに頼朝を討つべく郎党を差し向けたが、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた祐親の次男・祐清が頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れた。時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがて時政の長女・政子と結ばれることになる。『源平闘諍録』では江間の元を出奔し、後年頼朝から呼び戻されて、その計らいで相馬師常と結ばれたとする。『曽我物語』では後に密かに伊東館を抜け出して頼朝のいる北条館を訪れたが、すでに頼朝は政子と恋仲になっていたため真珠ヶ淵に身を投げて入水自殺したとされる。最誓寺( 静岡県伊東市音無町)の伝承では北条氏と縁を結んだと伝えられている。坂井孝一は「不明な点、論証できない点は少なくないが」「推論に推論を重ねることを承知の上で、いささか想像をめぐらしてみたい」と断った上で、八重姫が夫・江間の小四郎の戦死後、「阿波局」という女房名で頼朝の御所で働くようになり、江間氏の所領を受け継いだ北条義時と再婚して、北条泰時を産んだのではないかとの仮説を提示している。💛なるほど八重が頼朝の御所で働いたり、義時の妻となり北条泰時を産んだというストーリーもまったくの虚構ではないということか(^^)
2022年04月12日
「鎌倉殿の13人」第13話鹿狩りの帰り。頼朝は亀のいる館に立ち寄り「久しぶりである」。そこには政子の姿があった。頼朝は二度見し、口をあんぐり。「なぜ、こうなる。いや~、このままでは帰れん。帰れんぞ」 亀「家まで焼き払って、まだ足りない?」 政子「足りませぬ」 亀「では私、手を引きます」 政子「そうしてください」 亀「1つだけいい?」 政子「あなたの話を聞くつもりはありません」 亀「『黒髪の~乱れも知らずうち臥せば~まづかきやりし人ぞ恋しき』。髪を振り乱して寝ているとね、愛しい人がこの髪をね、指に絡めてそっとかき上げてくれるたことを思い出すわけよ。誰が詠んだか、知らないでしょ。和泉式部」 政子「和泉式部ぐらい知っています」 亀「では、あのお方の日記は?目は通したの?りく様から渡されましたよね」 政子「ざっとですけど」 亀「嘘。伊豆の小さな豪族の家で育った行き遅れがさぁ、急に御台所、御台所って。勘違いしてもしようがないけど。大事なのはこれから。自分が本当に鎌倉殿の妻としてふさわしいのか、よく考えなさい!足りないものがあったら、それを補う!私だって文筆を学んだのよ。あなた、御台所と呼ばれて恥ずかしくな女になんなさい。憧れの的なんだから。坂東中の女の。 そんなふうに考えたことあった?」 政子「考えたことありませんでした」 亀「では、よろしくお頼み申します」 政子「あの、差し当たって、何を読めばいいでしょうか」💛なにやら亀が破綻して描かれている。 ドラマでは、亀はもともと千葉の漁師の妻で、これまでこんな教養の片りんもなかったような。NHK大河ドラマでは描きづらい…源頼朝の不倫相手「亀の前」が史実としてやったこと4/2(土) (ドラマ)・ドラマにおいて、源頼朝は安房国に避難している時に、漁師の妻・亀の前は出会ったように描かれた。人妻でありながら、頼朝と一夜を過ごした亀。彼女の夫の漁師とその仲間たちが「亀は」と殴り込んでくる。そこへ長狭常伴(ながさつねとも)が、頼朝を襲撃しようときて、漁師の集団とかちあう。三浦義村が頼朝に「敵の大将を討ち取ってきます」と告げた時、亀は「自分の夫もついでに殺してきて」と言い放つ。・ドラマの中では、亀は、八重に、頼朝と寝所にいるところを見せつける。(『吾妻鏡』)・『吾妻鏡』によると、亀の前は頼朝が伊豆に流罪になっていた頃からの知り合いで、「良橋太郎入道」という人物の娘だったという。『吾妻鏡』によると、亀の前は美人で、性格も温厚であると。(なるほど頼朝がくつろぐはずだ。)寿永元年(1182)6月1日、頼朝は亀の前を、家臣・中原光家の逗子の家に引っ越させた。引越しの理由を『吾妻鏡』は「外聞を憚って」と書く。また逗子に住まわせたのは「由比ヶ浜に禊(みそぎ)に行く」といって、頼朝が出てきやすいからと書いてあるという。6月8日にも、頼朝は逗子を訪問している。その頃、政子は妊娠中で、8月12日には無事に男子を出産している。・寿永元年(1182)の秋に、愛人・亀の前の存在を政子が知る。その頃、頼朝は亀の前を伏見広綱の邸に住まわせていた。広綱の邸は飯島(鎌倉市)にあった。政子が、亀の前の存在を知ったきっかけは、北条時政の後妻・牧の方の告げ口による。11月10日、怒った政子は、「牧宗親(牧の方の実父)に命じて、亀の前が住む伏見広綱の邸を襲撃させ、破壊させてしまう」(『吾妻鏡』)広綱は亀の前を連れて逃げ出し、太多和義久(おおたわよしひさ)の邸に逃れる。・襲撃事件から2日後、頼朝は太多和義久の邸を訪問。牧宗親を連れての訪問だだったた。そして、頼朝は皆がいる前で、亀の前に侮辱を与えた牧宗親を罵り、髻を切ってしまう。宗親は、泣きながら、邸を飛び出していったという。 (ドラマでは牧の方の兄・時親が、亀の前を襲撃したとする。)・北条時政は「妻の親族に侮辱を与えたな」と怒り、伊豆に無断で帰ってしまう。・12月10日、亀の前は再び、逗子の中原光家の邸に移される。亀の前は、政子の怒りが怖いとしきりに言っていたよう(『吾妻鏡』)・12月16日、伏見広綱が遠江国浜松へ流罪となる。💛要するに実在の 亀の前 は「美人で、性格も温厚」で、前の夫を「自分の夫もついでに殺してきて」と言ったり、頼朝の前彼女に「彼と寝所にいるところを見せつける」ような女性ではない。あるいは文筆を学んだ可能性は大いにあるが「知らないでしょ。和泉式部」「日記は?目は通したの?」と政子に説教するようなタイプの女性でもなかったようだ。 それにしても 鎌倉殿に出てくる女性の性格の濃いこと(^^)
2022年04月06日
「鎌倉殿の13人」一途義時の男泣きにネット感涙「小四郎、大逆転」ついに八重を笑顔に 巴御前の影響も4/3(日) 「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)4月3日、第13話第13話は「幼なじみの絆」。政子が男児を出産し、源頼朝の嫡男誕生に沸く鎌倉だったが、頼朝の浮気が大騒動に発展。激怒した舅の北条時政は伊豆へと戻り、これを比企家の好機と捉えた能員夫妻は源義経らに近づく。北条義時は八重のことを一途に思い、鎌倉と江間を往復する日々を送り…。 八重が裁縫をしていると、どっさりの土産を抱えた義時に気づき、目を見開いた。海産物を置いて、すぐ帰る義時に「え、怖い」――。 木曽義仲との信濃会談を前に、義時は再び江間へ。今度は山菜。 八重「小四郎殿、私、つらいです。勝手すぎます。あなたはそれでいいのかもしれないけど。それに、要らなかったら誰かにあげてって、なんで私が山菜好きな人をわざわざ探さないといけないんですか」 義時「私は好きなのです。八重さんの、笑っている姿が」 八重「笑えないです」 義時「いつか、八重さんに笑いながら『お帰りなさい』と言ってほしい」 八重「笑いながら言う人なんていません」 義時「だから、また来ます」 八重「また来ますって、自分の家でしょうが」 義仲との会談を終え、江間に帰ると、八重に追い出される頼朝を目撃。干したヤツメウナギなど信濃土産を持ってきた。 八重「なぜです?なぜ私に尋ねないのです。鎌倉殿と会っていたのかと、なぜ問い詰めないのです。私のことを慕ってらっしゃるんでしょう?だったら、聞いたらどうなんです。何もございませんでした。かつて心を通い合わせた相手が、今も想いを引きずっているだなんて、殿方の勝手な思い込み。ホッとされましたか」 義時「これは、信濃の山中で採れた茸です。茸はお嫌いなんでしたっけ。どちらでも、よいのです。ここに鎌倉殿を招き入れたとしても、私は構いません。私と八重さんは幼なじみ。私の想いは、あの頃からずーっと変わりません。私はそれを大事にしたい。八重さんに振り向いてもらいたい、そんな大それたことはもう考えません。振り向かなくても構わない、背を向けたいのなら、それでもいい。私はその背中に尽くす。八重さんの後ろ姿が幸せそうなら、私は満足です。しばらくここには戻りません。八重さんはどうか、ここにいてください。あなたはやっぱり伊豆の景色がよく似合う。伊東の館に紫陽花を届けたあの日から、ずっとそう思っておりました。帰ります」 八重「待って。小四郎殿、お役目、ご苦労さまでございました。お帰りなさいませ」 義時「ただいま、帰りました」💛鎌倉政府内部での権力争いでの暗殺やこれから起こる源氏同士での凄絶な争いが予見されるなかで、小四郎の一途な純愛が成就することでカタルシス効果があるのかも。人間や権力の闇が深ければ深いほど、人の純粋な愛が高きに引き上げられる。
2022年04月04日
「鎌倉殿」愛人事件の陰で 上総広常に不穏演出「鎌倉殿の13人」3月27日第12回「亀の前事件」義時「お孫さんの手習いですか」広常「俺が書いたんだよ」。広常「若い頃から戦ばかりでな。まともに文筆は学ばなかった。京に行って公家どもにばかにされたくねえだろ。だから今のうちに稽古してんだよ」広常「人に言ったら殺す」ネットでは、・上総介殿、今からロスになりそう 死ぬな…・群像ドタバタ劇三谷筆の炸裂回。佐藤浩市演じる上総介をあんなに可愛らしく描けるのは三谷さんくらいでは…。・上総介お爺ちゃん本当可愛くて好き。お洒落も勉強も頑張るよ!って・時政に上総ノ介…。くっ、おっさん達が可愛すぎるやないかー!!!早くも 上総介ロスを心配する声が・・・・「手習いしてるのはもしかして後々伏線になるのか?」おそらくは、これは伏線であろう?大庭景親は“最期”に上総広常に予言して高笑いのまま逝った。「あの時、頼朝を殺しておけばと、お前もそう思う時が来るかもしれん、上総介。せいぜい気を付けることだ」・1183年12月、上総広常は、謀反を企てたとして、源頼朝は、梶原景時・天野遠景に暗殺を命じた。愚管抄によると、梶原景時は、上総広常と「双六」(すごろく)を行っている間に、謀殺した。鎌倉の朝夷奈切通近くには、梶原景時が上総広常を討ったあと、太刀を洗ったと伝わる「梶原太刀洗水」がある。嫡男・上総能常も自害させられ、広大な上総氏の所領は、千葉氏や三浦氏などに与えられる。・翌年、上総広常が無罪だったことを察した源頼朝は後悔し、上総広常の又従兄弟・千葉常胤が預かっていた上総広常の弟・天羽直胤や、相馬常清らを釈放する。ただし、没収された所領が返還されることはなく、房総平氏の惣領の地位は、千葉常胤に移った。・上総広常が一宮へ奉納された甲冑の願文を見ると、その内容は頼朝公の武運長久を願うものばかりだったことで冤罪は晴れた。 手習いは、その願文が上総広常の自筆であって、「人に言うな」につながり、おそらくは義時が頼朝に冤罪であることを証明する物証として登場するのではなかろうか?・『吾妻鏡』によると、上総広常は源頼朝の東国泰平を祈願して上総国一宮の玉前神社(たまさきじんじゃ)に「小桜皮威(こざくらかわおどし)の鎧」を寄進した。 境内には、その鎧に結びつけてあった願文を刻んだ顕彰碑が建てられている。広常が玉前神社に奉納した願文。一 三箇年のうちに、神田二十町を寄進すること。一 三箇年のうちに、万度の流鏑馬を射ること。一 三箇年のうちに、神殿の造営をすること。「頼朝の祈願成就と東国泰平のためのものであること」
2022年04月02日
大江広元~下級貴族であった男はなぜ頼朝のブレーンとなったのか?~3/28(月) 大江広元(おおえのひろもと)は、久安4年(1148)に京都で誕生した。中原家の養子になって「中原姓」を名乗ったが、後に「大江姓」に戻った。いくつかの職域を歴任した文官だが、下級官僚に過ぎなかった。広元は、元暦元年(1184)、政務に通じた人材を京都に求めた源頼朝の招きに応じて朝廷の官を辞して鎌倉に下向した。鎌倉では新設された公文所(文書の扱い・税の徴収などを行う役所)別当(長官)になった。 広元は、この後常に頼朝の側近にあって、その優れた政治的見識をもって、鎌倉幕府の政治運営を補佐し続けた。広元は、頼朝の信頼が厚かったせいもあって、頼朝に対する多くの取り成しをやっている。頼朝の弟の義経・範頼(のりより)、平維盛(これもり)の息子・六代禅師などの上申書は、広元の手を通じて行われている。 広元は、鎌倉幕府と公家政権(朝廷)との政治折衝に関係し、特に頼朝の名代として幕府を代表する形で事に当たった。京都の公家たちも広元については「頼朝の腹心専一の者」と称していた。広元の見識を頼朝が高く評価していたとともに、広元が下級とはいえ、朝廷(貴族)の出身という立場も、頼朝、公家双方から信頼される要因であったろう。広元は、開設された鎌倉幕府の政所(幕府の財政・庶務を司る役所)の初代長官に抜擢された。この政所には、多くの文官が採用されて文章などの様式も決定された。つまり、文書の形式の上での官僚的な制度化も進むことになる。これによって、御家人とは違う立場の(文筆を主とする)側近官僚組織が出来上がる下地になった。頼朝が死亡して、頼家が2代将軍になると、宿老13人の合議制が出来上がった。広元も文官としてこれに加わったが、他の御家人たちとは一線を画して扱われた。 この後、御家人同士の勢力争いや謀叛(むほん)などがあった。表面上は一貫して中立を保ちながら、北条氏(時政・義時)とは協調を保つ。言い方を換えれば、北条氏側が頼朝の側近であった実力者・広元の取り込みを図ったともいえる。広元の晩年に、大きな政治事件が続出した。3代将軍・実朝の暗殺、承久の乱(承久3年・1221)である。後鳥羽上皇による倒幕運動である。この時、70歳をいくつか越えていた広元は、箱根・足柄を固めて守備に専念するという消極策に対して「運を天に任せて軍兵を京都に派遣すべき」と積極的攻撃策を主張した。結果として広元の積極策を採った幕府軍は京都を制圧した。 この乱から4年後の嘉禄元年(1225)6月10日、広元は波乱に富みながらも意義深い78歳の人生を閉じた。鎌倉殿の13人:“頼朝の知恵袋”大江広元が登場 栗原英雄「生き抜く力の数値がとてつもなく高い人物」2022年03月27日栗原英雄「頼朝の腹心であり、草創期の幕府の中心的存在。有力御家人の権力抗争からも自ら距離を取り、長きにわたり幕府に仕えた優れた政治手腕の持ち主で北条氏と協調しながら武家政権の確立に貢献した人物。その時代の日本における政治の激動を一身に体現した大江広元という人物を演じることは、役者冥利に尽きます。生き抜く力の数値がとてつもなく高い人物だと思います。型にとらわれず、より人間的に時代を生き抜いた鎌倉殿の13人の一人として存在できるよう全力で挑戦致します!」大河ドラマは、三谷氏が手掛けた『真田丸』(2016)以来、2度目。「真田信尹役を探していた三谷さんが、たまたま私の舞台をご覧になって、『信尹を見つけました!』とプロデューサーさんに推薦して下さり出演が決まりました。人生分からないものです。三谷さんと私は全く面識がなかった中からの出来事だったのですから」「全く違ういろいろな役を与えて下さり、役者として幸せですね。作品の登場人物全ての方々への分け隔てない愛情をお持ちで、三谷さんはそれぞれの役柄の人生を繊細に描かれます。演じるだけでなく、観る側でもワクワクします。今回もそれぞれのキャラクターの人間味溢れた作品になること間違いなしです!」
2022年03月29日
りく「夫に妾がいて、それを心より許せる女子など、都にだっておりませぬ!夫がそんな物言いとは、懸命に御台たろうと励んでいる政子が憐れでなりませぬ」政子「女子同士でつまらぬ争いをしてしまったこと、恥ずかしく思います。肝心なのは夫の裏切り」りく「咎めるべきは夫のふしだら」源頼朝「黙れ!わしに指図するなど、もってのほか!源頼朝を愚弄すると、たとえおまえたちでも容赦はせぬぞ!身の程をわきまえよ!下がれ!」北条時政「源頼朝が何だってんだ!わしの大事な身内に、ようもそんな口を叩いてくれたな!たとえ鎌倉殿でも許せねぇ!」「時政殿は酔っておいでですよね」時政「言っちまったぁ。いや、シラフだ。どうやら、ここまでのようだ。小四郎、わしは降りた。伊豆へ帰る。やっぱり、鎌倉の暮らしは窮屈で性に合わん。伊豆へ帰って米を作っておる方がいい。小四郎、あとは任せた」🥅ネット「時政パッパ、まじカッコ良かった」「頼朝相手でもキレる時政パパ最高。生粋の坂東武者だね」「時政パパ、カッコいいよ!」「最後に時政が全部持っていくとは思わなかった。」と坂東彌十郎パパ絶賛の声大江広元「気になる者が一人おります」も気になる。鎌倉幕府以来続いた武家政治という政治体制の盤石の礎を築いたのは、大江広元と北条泰時かもしれない。
2022年03月28日
北条義時、源頼朝、北条政子、実衣が、義時と八重の結婚の相談をする。実衣の「八重さんはどう思ってるの?」義時「それは心配ない。あの人はとてもわたしのことを頼りにしてる」しかし、頼朝、政子、実衣のいる前で八重は「お断りいたします」。鎌倉殿の13人 佐藤浩市さんらがトークショー 千葉 富津03月13日佐藤さん「しゃべり言葉で男女が言葉をかけあってドラマをうまいぐあいに成立させていくのは三谷さんだからだと思います」「鎌倉殿の13人」爆笑会見 新垣結衣が結婚後初の公の場!小栗旬らベタ褒め「どんどん顔赤く」 2021年12月17日新垣「大河ドラマが初めての私でも、理解しやすい本だと感じます。歴史を動かしてきた人たちのカッコいい部分だけじゃなく、コメディー要素でダメな部分、かわいらしい人間らしい部分を描いている。そこは、大河ドラマ以外の三谷さんの作品でも、いつも思っていますね」小池「ガッキーは凛としている八重さんがピッタリ。動じない強さは昔から感じていた部分」小栗「今回共演させていただいて、意外と動じない人なんだなぁというイメージ」新垣「あんなに強いかなぁ、しっかりしているかなぁと思いますけど。動じてる!今も動じてる。どんどん顔赤くなっています」小栗「ガッキーに関して凄く好きなのは、撮影の初めの頃、少し早めにリハーサルに来たり、こっそり自分と全然関係ないシーンをのぞく姿をよく見かけたんですよ。それがね、素敵だなぁって思って」小池「見てるねぇ。そういうところ、義時っぽいよね」新垣「本当に初めてのことなので、流れも全然分からないから、少しでも情報を収集したい気持ちと、皆さんとお会いできないシーンもあるので、一足早く見られるのはラッキーだなと思いながら、のぞいていました」菅田「初日、大泉さんに『義経は異常にかわいいね。菅田君だから、かわいいのかしらね』とおっしゃっていただいた後、2人きりになった時、『オレの方がかわいからな』と」小池「ちっちゃい男だよ」新垣「頼朝さんもかわいらしいんだと思いますよ。私も取材の時、『八重は頼朝のどこに惹かれたんでしょう?』と聞かれて、冷酷な部分もたくさん描かれていますから、なんて答えたらと思ったんですけど、大泉さんが演じる頼朝さんだから、みんな、どうにかしてあげたくなるんじゃないか、と」大泉「本当にありがとう。ああいうこと言えないかな、小池さんも」
2022年03月21日
つぐみ の話で急に舞台に登場した頼朝の弟・義円が早くも舞台を去った。佐竹征伐の際に和田義盛が捕まえた小鳥が入る鳥籠を手に取った義円(成河(そんは)「これはツグミでございますね。ヒヨドリに似ていますが、ツグミはさえずりません。口をつぐむ、からツグミと呼ばれているようです。兄上でございますね。お会いしとうございました。源義朝が八男、乙若でございます。今は義円と名乗っております」成河「今回、撮影に参加することが叶って、うれしかったです。毎回の仕事、一つ一つが縁。今回の縁は、自分への何かのメッセージだったのかなと思っています」成河は大学時代に演劇を始め、北区つかこうへい劇団10期生。11年には第18回(10年度)読売演劇大賞・優秀男優賞(「BLUE/ORANGE」および「春琴」の演技により)を受賞。昨年21年も「イリュージョニスト」「子午線の祀り」「スリル・ミー」「森 フォレ」「検察側の証人」「ローマ帝国の三島由紀夫(リーディング公演)」と舞台に立ち続けた。義円は、頼朝の異母弟で義経の同母兄。父・義朝が敗れた「平治の乱」(1160年)後に近江・園城寺へ入るが、兄の挙兵を聞き、京から駆けつける。弓矢の名手で、和歌にも通じる。成河は昨年2~3月、4年ぶりの再演となった舞台「子午線の祀り」(作・木下順二、演出・野村萬斎)に出演。「平家物語」を題材にした不朽の名作で、再び源義経役を演じた。成河「源平の世界観には親近感があったんですが、不勉強で(今回演じる)義円という人物はあまり知らなくて。可能な限り調べたんですが、残っている資料も少ないんです。そこを三谷さんがピックアップなさって。大事な役を頂いて『やべぇ、やべぇ(笑)』『これは大変だぞ』と思いましたね」「気品は少し言い過ぎかもしれませんが、そんな佇まいを意識しました。僧侶なので、精神も清らかな感じ。そういう人物として兄弟の中に入っていく、ある種の異物感が面白い。そこを大事にしました」剃髪の特殊メークは、付けるのに1時間以上、外すのに30分かかる。「その大変さはありましたが、ハリウッドと遜色ない最先端の技術が使われていて、物凄く近くで写真を撮っても、シワ1つなく、毛穴までが表現されている精工さ。衣装や小道具も含めて、そこまで精工なものを身に着けさせていただくと、精神に及ぼす影響があって。簡単に言うと、とてもその気になれるんですね」頼朝の叔父・源行家が鎌倉に現れ、頼朝の弟たちを懐柔して平家討伐を画策する。「源氏が平家に代わって栄華を極めるときだ」とあおるが、誰も誘いに応じない。義円は京で行家の世話になった恩があり「申し訳ないことをしてしまった」。 義経は頼朝や北条政子、御家人からも評判のいい義円が目障りだった。 義経「行けばいいじゃないですか」 義円「しかし私は兄上の元で…」 義経「ここにいるよりはいいと思いますよ。勘違いしてるかもしれないけど、鎌倉殿はあなたのことを、それほど買ってないから。うん、やっぱり遅れてきたのがよくなかった。平泉にいた私よりも遅いんだから。たちが悪い。それに、御台所の前で和歌を詠んだでしょ」 義円「いけなかったか」 義経「ひけらかすのって、鎌倉殿は一番お嫌いだから。能ある鷹は何とやら」 義円「どうすれば」 義経「鎌倉殿に認めてほしいんだったら、十郎叔父に従って西へ行き、手柄を立てる。それしか、ない。朝一番で叔父上と出立しなさいよ。みんなには私の方から、うまく話しておくから」 義円「その前に一度お会いしたい」 義経「鎌倉殿と?どうしてそういう考えになるかなぁ?言い訳とか、本当、あの方はお嫌いなのに」 義円「では、文を書く」 義経「それはいいと思います。私が渡して差し上げますよ」 義円「話を聞いてくれて、助かった」 義経「兄弟なんだから当たり前。助け合っていきましょう」 翌早朝、義円は行家と出発。見送った義経は、義円から預かった頼朝宛の文を破り捨てた。 そこを梶原景時にみられ、手紙は張り合わせられて頼朝に渡され、義経は謹慎を命ぜられる。 これはのちの 義経と梶原の軋轢の伏線として描かれている。 尾張・美濃国境付近の墨俣川で行家軍は平家軍に大敗し、義円も討ち取られた。成河「(三谷氏が描く義経は)小ずるいけど、憎めない。でも、ずっと破滅の色を身にまとっている。一般的な英雄イメージを覆していく、人間くさい人物として造形されていたので『この義経、凄く分かる』と思っていました」「一見、義円は間抜けにハメられてしまったと映るかもしれません。でも、それだけなんだろうか。これは僕の妄想なんですが、義円は兄弟と会えて、本当にうれしかったんじゃないか。その部分をとにかく大事に、一番根っこに持って演じようと心掛けました。単に、普段から抜けた人がハメられても、面白くないですよね。本来は観察力があるはずの義円が、心待ちにしていた兄弟との対面が叶って少しでも役に立ちたい、鎌倉に駆けつけたのが遅れたので一刻も早く兄弟に近づきたいと足掻(あが)いているうちに、こんがらがった糸の中で自分が何を選択すべきか少し冷静さを欠いてしまったんだと思います。共演の皆さんに比べると僕は映像に不慣れなので、あれこれ考えて持ち込むより裸一貫で現場に入ったような感じでしたが、菅田くんが自然にボールを投げてくれたので、僕も瞬発的に義円をつくっていけました。楽しくて仕方がなかったです。菅田くんともっともっと長く台詞を交わしていたいと思いましたね。年齢は僕が上ですが、胸を借りました」「義円の死が引き金を引いて、最終的には義経の悲劇にまでつながっていく。義円がこの物語に何を残すことができるか。それが一番重要だと考えていましたが、菅田くんの義経なら、否が応でも義円が残すものが浮き彫りになる。菅田くんの佇まいを見て、そう確信して安心しました。あの義経に唆(そそのか)されたら…。視聴者の皆さんも納得なんじゃないでしょうか」「川のロケの時、寒くて大変でしたが、剃髪の特殊メークも『何分なら持ちます』と着け方を工夫してくださって、外れることなくNGもなし。インパクトのあるシーンになったと思います。最期が水の中というもの、源平の行く先を暗示していますよね」「菅田くんとガッツリお芝居できたことが、ずっと心に残っています。今回あらためて実感したのは、まだ出会っていない人や感性が、たくさんあるということです。決して目や耳を閉じることなく、もっと色々な人に出会って、ビックリさせられたいと思いました。ビックリさせる側じゃなく、僕自身がもっとビックリしたい。映像の作品も、やればやるほど面白いと再認識したので、ご縁を大切に、またチャンスを頂けた時は全力で取り組みたいと思っています」
2022年03月21日
全62件 (62件中 1-50件目)