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友人から、『かがり火200』が届いた。感謝します。最終号である。表紙展には「『かがり火』は1987年創刊の『リゾート通信』が母体で、1993年6月誌名を変更して『かがり火』となった」とある。目次を見たら「中谷健太郎」とある。亡き畏友木谷文弘に『健太郎さんと薫平さんに教わったこと』という新書版があって、そこで健太郎さんは「記録せよ発信せよ」と湯布院の街造りで言っている。私の座右の銘の一つである。朝のウォーキングの途中、マックに寄って、読む。「最終号のメッセージに代えて」中谷健太郎 抜粋・昨日、大分市の進学校「上野丘高校」の1年生が3人、「湯布院の町づくりについて聴きたい」と我が家にやってきました。・・・前もって「質問のペーパー」が届きました。こいつは「無粋じゃなあ」とは言わんかった。・・・意地悪も言わんかった、何せ87歳じゃからね・・・・・。💛ほう、中谷さん87歳か、軽快な語り口は変わらない(^^)質問ペーパー1 湯布院を発展させる上で、具体的にどのようなことを行ったのか?2 どんな苦労があったのか?3 過去に目指した湯布院と、今の湯布院を比較して、どのように捉えているか?4 湯布院発展の上で参考にした事例はあるか?(あれば何処か?)5 現在、何を考えているか?2 どんな苦労があったのか? それにしても、由布院を多くの方々に知ってもらうことに苦労した。①知って貰うためには、あちこちに出かけて行って、会うて、話して、仲間になった。「大分・別府・博多・東京」に仲間が増えて、それらが、ワシ等の第二の故郷になった。つまり故郷が二種類になった。「家族」のおる生まれ故郷と、「仲間」のおる「旅」の故郷とに・・・忙しゅうてワシも家族も、大変じゃったけど。「土地の者」と「他者者」とにまたがる交流が、湯布院の経済的、文化的活動をエネルギッシュにしてくれた、と思う。5,現在、何を考えているか?②「文字」よりも「コトバ」に興味がある。「コトバ」は異文化・異人との交流に「文字」以上に大事です。なのに世の中「コトバ」以上に「文字」それも「標準語」を重用する。ワシの「コトバ学」では、ひとは三つのコトバを習得すればよろしい。❶ふるさと語・・・家族・近隣と共有できるコトバ、ナツカシイ・・・❷国語 ・・・国が「標準語」と認めておるコトバ。タダシイ・・・❸外国語 ・・・好きな国のコトバ・・・メズラシイ
2022年03月06日
――<木谷ポルソッタ倶楽部>―――――――――――――――――――― ■「ムルギー」という名のカレー屋さん■――――――――――――――――――――――――<2007/1/15>―――東京で働いていた三年間、私は池波正太郎さんの本を片手によく散策した。その本の名前は「散歩の時に何か食べたくなって」という。そしてね、散策している間に、食べたくなって本の中の店によく入った。そのひとつに「ムルギー」という店がある。渋谷の道玄坂付近の入り組んだ路地の奥の奥にあるカレーの専門店だ。レンガでできたやけに古めかしい玄関を思い出す。中が暗かった。客が多かった。しかし、やけに静かだった。店員のおばちゃんが履いていた運動靴の白が鮮やかだった。おばちゃんはテーブルの間を器用に走り回ってカレーを配っていた。 おばちゃんが「ムルギーカレー」を運んできた時には驚いた。ご飯がとんがっていた。ピラミッドというか小さな島のように盛られていた。その周囲を島に寄せる海の波のようにカレーがたっぷりとかけられていた。そして、ゆで卵の輪切りが五、六枚ほどが漂っていた。「オオーーオッ」私はそんな悲鳴をあげたはずである。それから悩んだ。どうスプーンをつければいいのだろうか。スプーンでカレーをすくって島の端にかけて、そこにゆで卵を置く。スプーンでガバッとすくって口に運んだ。エッ、これは何という味なんだろう。豊潤というかとてもゆたかな味なのだ。どう形容したらいいのだろうか。う~ん、むずかしい。ただね、ひと口ごとに幸せな気持ちになっていくんだ。夢中で食べていて気がついたら皿がきれいになっていた。「皿をねぶりたい」本気で思った。最後の最後まで味わいたかった。あれから十年が過ぎた。東京に行っても渋谷に行くことがない。「ムルギーに行きたい」そうつぶやいて、どんどん変化している東京を思った。ムルギーはまだあるのだろうか。レンガ造りの古めかしい玄関はまだ形をとどめているのだろうか。運動靴を履いたおばちゃんはいるのだろうか。食の想い出というものは、食べるものだけではないのだ。最近、そのことをしみじみと思う。―――――――――――――――――――――――― わたしは墓のなかにはいない わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる だからわたしに会いたいなら わたしの詩集をひらいておくれ 「坂村真民詩集」より―――――――――――――――――――――――
2021年12月06日
湯平の放浪詩人由布院のお隣に湯平温泉という情緒ある温泉場がある。石畳の坂道沿いに旅館が並んでいる。夜ともなると、旅館の灯すあかりに映えて石畳が輝く。そのような湯平温泉に、昔、ひとりの放浪詩人がやってきた。雨が降っていた。石畳がすっぽり濡れていた。湯平温泉街の昼下がり、雨のためか人の通りはない。石畳の両脇には、旅館が連なっている。遠くは霞んでいる。一人の男が歩いている。破れかけた笠 を被っている。破れた足袋に草履。頬には白い髭を生やしている。無精髭といってもいい。眼鏡はいかにも度が強いといった感じである。やせこけた頬に、旅の疲れがひしひしとあらわれていた。一軒、一軒……男は托鉢をして回る。雨音のためか、どこの家から誰も出てこない。男はひたすら念仏を唱える。ひたすら念じる。泊まる先はあるのだろうか。食事はしたのだろうか。細い足がかすかに震えている。念じる指先が青白くなっている。肩を落として、次の家へ行く。雨が冷たく男の肩を叩く。旅館街のはずれにある一軒の旅館に男は佇んだ。旅館というよりも、普通のあばら家、そんな佇まいだ。看板に書かれた消えかけている名前でかろうじて旅館とわかる。男はひたすら念じた。念じて念じ終わると、鐘をひとつ鳴らした。瞬間,建て付けの悪い戸が音をたてて開いた。ひとりの少女が出てくきた。「お坊さん、うちは貧乏な旅館だからお金もお米もあげられないの。でも、熱いお茶ならあるから、中へ入りなさいな。それから、恥ずかしいけれど……お芋ならふかしたのがあるから食べていただけますか」男は深く頭を下げた。眼鏡の奥の瞳にひとつ光るものが浮かんだ。男は、結局、旅館「湯平」に三泊することになる。そして、ひとつの句を残した。「時雨るるや 人のなさけに 涙ぐむ」男の名は、山頭火という。山頭火の話、詳しく知りたい人は、湯平にある『時雨館』に行くといい。人は旅をする。人生は旅だ。よく言われる。しかし、人生の旅には辛い時が少なくない。だから……人の情けがとてつもなく嬉しくなるのだ。
2021年08月02日
旅をしないワイン20歳 山浦 修2020/1/7朝晩の冷え込みが厳しさを増すと、大分県は久住の山懐に抱かれた湯治場が無性に恋しくなる。 由布院のように鉄道や高速道は通っておらず、施設も多くはないが、日本有数の炭酸泉が待っている。体に巻き付く気泡が特徴で、澄んだ外気とともに身も心も癒やしてくれる。配水管から川辺に落ちる湯を首に当てるスッポンを目撃したことがある。なかなか信じてもらえないが。 そんな山間の秘湯に、名物がもう一つある。 「炭酸泉で町おこしをしたい」。地域づくりと格闘していた町職員氏から熱い思いを聞いたのは30年以上前の昭和末。ドイツの炭酸泉保養地バートクロツィンゲン市を知るや、視察団を組んで乗り込み、ホットな交流を始めた。現地に専用のブドウ畑が設けられ、1999年秋、収穫されたブドウで醸造した特製ワインの輸入を果たした。 バートクロツィンゲンは有名な「黒い森」近く。育まれるワインは多くが地消されるため「旅をしないワイン」の別名を持つ。そのワインが約1万キロを旅した。町では思案の末、「飲みたかったら来て」と温泉周辺の限定販売にした。「旅をしないワイン」が長旅でたどり着いた地で、再び「旅をしないワイン」になった。 「知る人ぞ知る名物がある。町名のラベルが貼られたドイツワインだ。山間の小さな温泉場が、炭酸泉を絆に試みた国際交流から生まれた、付加価値に富んだ特産物」。当時、こんな記事を書いた。2004年には来日したシュレーダー独首相(当時)に、小泉純一郎首相(同)が振る舞い「グローカル交流」の成果として話題を呼んだ。 その後が気になって、最近の様子を尋ねてみたら、中学生の相互ホームステイ、温泉施設同士の連携、人材の派遣などグローカル交流は多彩に根付いていた。一昨年、昨年と双方で交流30周年記念式典を開催し、絆となったワインも活躍した。 各地で特産品づくりに挑む中、異国から持ち込んだ資源を「地域の宝」に創造する発想は新鮮だった。さらにロマンあふれる交流物語で、20年も味付けを重ねてきた温泉地の継続力には胸が熱くなる。 ワイン名は「フロイントシャフト」。和訳すると「友情」。山間の湯治場は竹田市直入町の長湯温泉で、熱血職員氏は4市町が合併した05年の4年後に首長となり奮闘する。輸入や販売手法は変化してきたが、「NAOIRI」ラベルの温泉名物ワインは健在。健康保養地へと進化を図る炭酸泉との友情を深めているようだ。
2021年07月15日
木谷文弘のはなし【甲子園の土】私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうです。「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」父から、幼い頃良く聞かされたものです。そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。その後入退院を繰り返し、私が高校1年の冬から父はずっと病院に入院したきりになってしまいました。父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。それを父に報告すると、父はひとこと言いました。「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかし、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」その言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。さらに数週間後、父の意識は無くなりました。そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。ガンでした。病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。「○月○日今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して私は死に物狂いで練習しました。翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。そのとき打順は、9番バッターの私でした。相手のピッチャーの球は、140kmを超えていました。打てるはずもありませんでした。あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。チームメイトは、感動で皆泣いていました。応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることができて、とても楽しく野球が出来ました。そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
2019年12月06日
今は亡くなった父母に送り続けた家族ふれあい新聞を改めて見直してみると、畏友木谷さんに負うところが多いことに気づかれる。木谷さんから朝のメールが来た。「おはようございます。今日は雲ひとつない快晴ですよ。今年の梅雨は「中入り」が多いですよね。そう「雨男」の神通力が効かないようです。今日から新しい一週間が始まります。アジサイの花には雨が少し降るといいのでしょうがね。「アジサイにおのれを知るや雨の朝」私の友人が酒に酔いながら詠んだ句です。「どういう意味だい?」私は尋ねました。「わからないけれど、雨に打たれているアジサイを見るとね。なにやらしみじみとした気持ちになるんだ」友人の気持ちがなんとなくわかるような気がしました。人は笑っているけれどいろいろな問題をみんな抱えているんだ。そうですよね。みんなそれぞれの人生があるのですよね。いろいろなことがあっていろいろなことが過ぎていく。gaiaさんのメールを勝手に転送しているのですが、普段は返事のない人からメールが入ります。「涙が知らず間に流れます。生きる事。大切さを教えていただきました。ついつい、忘れています。感謝もたなの上に置いたままのときがあります。雨の日も雨音に気持ちが休まるときがあります。毎日、忘れている事きづかせていただきます。ありがとうございます」「・・・康文くんを亡くした時のお母さんを思うと。言葉がみつかりません」そうですよね、私も体調を整えてガンバリます!以上、朝のメールでした。」○木谷さん こんばんは。いい表現ですねえ「感謝もたなの上に置いたままのときがあります。」私が送ったのを木谷さんが感動されて、その感動が広がっていくのをみるのはとてもうれしいものです。江本勝さんという波動研究家で、水の結晶で有名な方がいます。水に「愛・感謝」という字を見せると素晴らしい結晶になるけれども、「ばか」とか悪い言葉を見せると結晶にならないかゆがんでしまうという写真を撮っているので知られています。この方のエネルギーの法則の話をご存じですか。「アインシュタインのエネルギーの法則【E=mc2】は1905年に特殊相対性理論の一部として発表されたものです。 Eはエネルギー、mは質量でcは光の速度です。ですからこの法則は、エネルギーの量とは、それがもつ質量と光の速度の二乗を掛け合わせたものですよ、という意味になります。 今から10年ほど前、この公式について素晴らしい解釈をし、私に教えてくれた先生と出会いました。お名前をホアン・ヴァン・デユークさんといい、もとベトナムの方で私がお会いした時は南カルフォルニア大学の病理学の教授でした。 その先生が私に言ったのです。 「江本さん、E=mc2のCは、本当はconsciousness(意識)のCなんだよ。そう置き換えてみてはじめてこの公式の意味が分かるんだ」と。「E=mc2のうちmは質量ですが、人で言えば人の数になります。ですからこの公式は世界のエネルギー問題は世界のどれ位の人がどの程度の意識レベルに到達するかによってどうとでもなるよということを示している公式と考えられるのです。」ふふふ、木谷さん、こうもいえますね、Eはearth(地球)、mはman(人)、cはconsciousness(意識)要するに、地球は、そこに住む人とその意識の2乗を掛け合わせたもので、意識が高くなる人が多くなるほど、この地球ガイアはよくなっていくんですよということでしょうか。
2019年10月29日
父母がいましたころ、「家族ふれあい新聞」を毎週1回ないし2回作成しては郵送していた。文章を書くこと、発信をおっくうに思わないのは、父母が喜んで、「家族ふれあい新聞」を読んでくださったおかげである。新聞の裏面には、わたくしが感銘をうけた文章等を転載し、大分県の木谷さんのもよくのせたものである。父母も木谷さんも今はいないが、懐かしく思うとともに、感謝する。家族ふれあい新聞第841号 ■銀行員さんのせつない想い■宇佐の銀行員さんの話を聞いた。せつなくなった。その話である。宇佐市内の各家を訪問しながら営業していると、時々、せつなくなることがあります。七十から八十のご老人がぽつりとひとりで在宅しているところへお邪魔をすることがよくあります。仕事の話が終わると、出して戴いたお茶を呑みながら世間話となるのです。あるとき、八十近いおばあちゃんが終戦間際の話をされました。春になるとね、私は思い出すことがあるのよ。昔、宇佐には海軍航空隊の基地があったのよね。基地の若い隊員たちは、休日になると、私の家にも訪れてくれてしばし憩ってくれたものよ。私は、まだ、幼かったから、隊員のお兄さんたちはよく遊んでくれたわね。四月のある日、隊員のひとりのお兄さんがいったのよね。「今日は楽しかったよ。いつもいつもお兄ちゃんと遊んでくれてありがとうね。これからも元気で生きていくんだよ。そうだ、明日、この家の上を飛行機が飛んだら、それはお兄ちゃんだから、みんなで手を振って見送ってくれるかな」私が、翌日、空を見上げていると、飛行場から何機もの飛行機が飛び立っていたわよね。一回、二回、三回、鳥のようにゆっくりと旋回したのよね。お兄ちゃんだ。私は手を何度も何度も振ったわさ。でもね、でもね……やがて……飛行機は、南へ向かって青い空の中へ消えていっちゃったのさ。幼かった私は、後から知ったのだが、それが神風特別攻撃隊だったのさ。帰らない特攻を前にして、私の家の上を、お兄ちゃんはぐるぐる回ってくれたのさ。そう、お兄ちゃんは、ぐるぐる……ぐるぐる……とね。もっと生きたかったやろうね。いろいろな夢があったろうね。それがね、ぐるぐる、まわっていっちゃった……ぐるぐる、ぐるぐる……。そう話しながら、おばあちゃんは涙ぐむのです。私も泣きたくなりました。それが、一軒だけではありません。二軒、三軒と、おじいちゃん、おばあちゃんたちは一生懸命お話されます。その話を聞きながら、私はこれをみなさんに伝えていかねばと思いました。そう話す銀行員さんの瞳には涙が溢れていた。そう、絶対に絶対に戦争をしてはいけないのだ。人は殺し合ってはいけないのだ。人は助け合わなければならないのだ。外は久し振りの雨が降っている。アジサイの花が鮮やかな、平和の昼下がりだった。
2019年05月28日
由布院の宿 木谷文弘「母が由布院に行きたかったと言っていたのです」先日、お母さんを亡くされた友人から電話があった。「母の供養といってはおかしいのですが、由布院に行こうと思います」友人はお母さんを由布院に案内する気持ちなんだろうな。私は思った。友人は早朝の高速バスで大分に着くという。うん、私は悩んだ。早朝から開いている食堂など由布院にはない。私はある旅館の主に頼んだ。「朝食だけをつくつて戴きませんか?」そこの旅館は温泉も一般客に開放していなかった。宿泊客を大切にする小さな旅館として知られていた。私は事情を話した。主の顔が崩れた。「わかりました。宿泊のお客様の朝食が終わる頃にご用意しましょう」微笑みながら言った主の次の言葉が忘れられない。「お母さんもご友人の方もお疲れですから、温泉にまず浸かって下さい」当日、友人をその旅館に案内した。紅葉に彩られた緑の小径に、友人は驚いていた。「こんな旅館で朝食ができるのですか?」私は何も言わずにフロントに近づいた。「お荷物など貴重品をお預かりします」フロントの担当者は普段どおりの対応をしてくれた。朝の湯煙が漂う温泉に入った。「あああーっ、ひと息つける。やっぱり温泉っていいですよね」「お母さんも女性風呂に浸かっていると思いますよ」友人は遠くを見る目つきをした。温泉から上がると、食事の場に仲居さんが案内してくれた。一番端の静かな席だった。友人と友人の知人、そして私は座った。「まずは地ビールで乾杯をしますかな」私は友人に微笑みながら言った。地ビールで乾杯した。湯上がりのビールはおいしかった。仲居さんが朝食の準備を始めた。友人と私達はビールを呑んでいた。仲居さんが御飯と味噌汁を持ってきていた。ビールを呑んで、少しお酒を呑む気でいた。「朝から呑んでもいいですか」と主には了解を得ていたのにそんなに早く御飯や味噌汁を持ってきてと、私は苛立った。仲居さんは、私の苛立ちに関係ないような顔をした。仲居さんは、私や友人の前でなくひとつ席をつくり始めた。御飯とおみそ汁と漬け物と箸とコップをキレイに並べ終えた。「お母様のお席です。みなさまでお食事をゆっくりと楽しんで下さい」友人は呆然としていた。お母さんのことを思い出しているのだろう。私は旅館の主の気配りに感謝していた。「それでは、もう一度乾杯しますかな。 お母さん、由布院へようこそいらっしゃいました」紅葉の由布院の朝、それはそれは透きとおるような青空が広がっていた。
2019年02月09日
2014年06月12日 由布院の小さな奇跡(「ちょっと一息」より)東京に勤務していた時、北海道のT、大分県の木谷文弘と友人となり、その後も交友は続いた。木谷は文筆が達者で、新潮新書から「由布院の小さな奇跡」を出版した。その本に由布院の中谷健太郎・溝口薫平らがドイツの温泉町バーデン・バイラーを視察した時、ホテルの主人グラウテルさんから、あなた方は町をよくするため何をしているかと一人一人指差されて問い詰められ、何も答えられず、それがきっかけで由布院の街作りを決意する場面が載っている。グラウテルさんはこうも言った。「街作りには三人以上仲間がいる。世界中の同じ志をもった仲間と手を握ることが大事だ」と。「南ドイツの、ドイツ、フランス、スイスと三つの国が重なるあたりの黒い森の麓にあるバーデン・ヴァイラーという小さな温泉地を、三人が訪れた時のことだ。バーデン・ヴァイラーは人口約四千人と、由布院に似た小さな温泉地だった。小さなホテルのオーナーであったグラテヴォルさんの話に、三人は感動した。その感動が、いまの由布院をつくったと言っても過言ではない。中谷が熱い想いで綴っている。「私たち三人が、ドイツのバーデン・ヴァイラーという町で受けたあの衝撃を、なんとか由布院の町の人たちにも伝えようと、わけのわからぬ、子供らしいあがきをはじめたのは事実だった。それは今でも続いている。あの日、グラウヴォルさんは私たちに熱く語ってくれた。『町にとって最も大切なものは、緑と、空間、そして静けさだ。その大切なものを創り、育て、守るために、君たちはどれほどの努力をしているのか?君は?君は?君は?』グラテヴォルさんは、私たち三人を、ひとりずつ指さして詰問するように言った。私たち三人は顔が真っ赤になってしまった」グラウヴォルさんについて溝口もよく話する。「まちづくりは、ひとりでやっていては孤立する。最低でも、三人は必要だ。まちづくりは、大勢の仲間で進めることが大切だと、私たちはグラテヴォルさんから教わった」。
2018年07月10日
2008年06月28日家族ふれあい新聞第1014号より「だんご汁」その1 木谷ポルソッタ通信特急『にちりん』は、大分駅のホームに滑り込んだ。今朝、田沢さんは東京を出た。新幹線、にちりんと乗り継いで、夕方、田沢さんは大分駅にやっと着いた。やっと……そんな感じだ。田沢さんは疲れていた。飛行機で飛べば二時間で大分空港に着く。改札口を出た。春近い大分、なんとなくなまめかしい雰囲気が漂ってた。(さて、どうしようか)今回は仕事の旅ではなかった。彼女を追っての旅だ。三月に入って仕事が忙しかった。マンションの部屋に戻らず仕事場で寝た。彼女からは何度も電話があった。会えなかった。仕事に追われていたこともあったが、もうひとつの理由があった。彼女とのつきあいは三年間になっていた。最近、なにかにつけてわずらしく思えてきた。(自由になりたい)そんなことを、田沢さんは考えるようになっていた。仕事を理由に、彼女からの誘いを知らずのうちに断っていた。ちょうどひと月、彼女と会わなかった。徹夜をした田沢さんは朝早く久しぶりにマンションの部屋に戻った。彼女からメールが入っていた。開いた。〈私、もうあなたに会うことはないでしょう。両親からお見合いの話がきました。あなたに相談したかったのに……あなたは会ってくれませんでした。三年間、長かったのかもしれません。でも、楽しかったわ。ありがとう。さようなら〉「さようなら」田沢さんは口に出して言ってみた。突然に寂しい気持ちが押し寄せた。三年間……そうだよな。三年間という時の流れの中で培ってきたふたりの気持……それは何だったのだろう。そして、それがどれほど大切なものであるか。そのことに気がつくと同時に、田沢さんは東京駅へ向かっていた。彼女の故郷は大分だった。まず大分へとにかく行こう。そして……田沢さんは大分へ来た。「さあ、これからだよな」田沢さんはぽつりとつぶやいた。時計の針は六時を過ぎていた。彼女の大分の実家の住所は知らない。電話番号も知らない。彼女の携帯に電話するがつながらない。電源を切っているのだろう。田沢さんは考えた。彼女の会社へ彼女の実家を問い合わせた。不審がられて断られた。さあ、どうするか。考えた。考えた末に、彼女の会社に彼女宛のFaxを送った。『君に話がある。見合いはするな。明日、大分へ行く。 君の言っていただんご汁屋で待っている。 本当に大切な話だ。明日、大分へ行く。(会社の方へ……彼女への連絡をお願いします)』会社の誰かが彼女に連絡してくれるだろう。連絡してくれなければ、それも運命だ。あきらめるしかないだろう。(つづく)
2018年06月25日
(以前の記事より)木谷さん、現代は教育でも会社でも、すぐに問題がある人を切り捨てようとする。でも、捨てていい人間なんてどこにもいないのだということをしみじみわかられてくれる。私はこれまで本を読んだ中で、わざわざあばれものややくざものを慕ってくる限り、縁のある限りは捨てない人物を二人知っている。一人は山岡鉄舟だ。鉄舟は清河八郎の主催で虎尾の会を松岡萬と村上政忠、石川周蔵らと起こす。松岡は剣の達人でその頃だいぶ人切りをしていたといわれる。松岡は鉄舟の議論をふっかけても茫洋としたつかみどころのないところが気にいらなくて、ある会合の時、切ろうと刀を抜きかけた。しかし鉄舟の人格に押されて切れないんだ。そこで感激家の松岡は逆に鉄舟に弟子入りするんだ。鉄舟は俺は弟子はとらないと断ったが、松岡は一たん決めたらてこでも動かない。そこで毎朝撃剣の稽古に来るならと入門を許したんだ。ところがある雪の日、松岡が来ない。鉄舟は松岡を尋ねる。松岡は腹を壊してうんうんと寝ていた。「なんだ死んだと思ったら生きているじゃねえか。生きているのに来ねえなら破門だ」と鉄舟は厳しいねえ。すると松岡は剣に寄りかかって鉄舟の家の前に来て「俺が悪かった。許してくれ」と数時間雪の上に座って謝ったというんだ。後に松岡はその治水や工事の手腕をかわれ、新政府でも腕を振るう。あの秋葉原の万世橋も自分の名前からとったといわれ、静岡では地元の農民に「松岡さま」と感謝され、磐田市の地主神社と岡部町の松岡神社の二社にまつられているほどなんだ。また、村上政忠というのもまあ御しがたい人物で勝海舟にしょっちゅう金をせびりにいって、悪たれをついては困らせた。海舟も手にあまって鉄さん、村上をひきとってくれと使者を寄越したほどだ。警視庁とだって揉め事を起こして平気だったけど、鉄舟には借りてきた猫のようにしたがった。鉄舟がなくなった時には、殉死のおそれあると警察に拘束されたり、その後も悲嘆のあまり三味線一つかかえて行方がわからなくなったほどだ。また鉄舟の義弟、奥さんの妹と結婚したのだけれども、石坂周蔵という人物がいる。清川八郎が惨殺されたとき、親の仇であるといいたてて清河が隠し持っていた虎尾の会の血判状と清河の首を鉄舟の家に持ち帰った人物だ。年は鉄舟より上だったので自分の肝っ玉をみせて感心してやろうと、箱根で政府軍と幕府軍がドンパチやっているなか、孔明の出陣の詩を朗々と詠ったと自慢したところ、本をさかさまに持ってたというじゃないかと鉄舟にからかわれて「とても兄貴にはかなわない」と鉄舟の弟子となったのだ。後に石油王といわれるくらい事業家となったが、結局失敗して、鉄舟がその後始末を見た。今でも谷中の全生庵に鉄舟の墓をとりかこむように3人の墓があるんだ。もう一人は山本玄峰老師で、臨済宗の傑僧だが、こうおっしゃった。「僧堂にはいろいろな人がくるが、まともな人間は余人に任せる。わしは世間から、あばれもの、やくざもののように見られている連中を世話する」と。こんなことはよほど傑出していないといえないし、実践できない。現に田中清玄という人は東大を出てコチコチのコミュニストだったんだけど、獄中で転向する。『自分が共産党から転向したのは、実は玄峰老師の教えによって転向したんだ。初め老師が、刑務所へ教誡師としてきて、話をされたけれども、このくそ坊主、何をいうかと。こっちは、こちこちのマルクス・レーニン主義者だから、頭から馬鹿にしておったが、あの人が帰ると、妙に寂しくなってくる。そのうち、段々と老師の来るのを楽しみに待つようになった。それで、とうとう転向したんだ』と本人が語ったことがあるという。後に田中は玄峰老師の秘書のようになり、終戦時、鈴木貫太郎首相に「堪え難きを堪え、忍びがたきを忍んで、この難局を乗り切ってください」と激励した。これが終戦の勅語に反映されたというんだね。老師は横綱、大関が引退するように、きれいに戦に負けなさいと伝言させるんだ。おそらく鉄舟や玄峰老師はどんな人の中にも仏性を見たんだろうね。だからどんなあばれもの、やくざものの中にも、その内なる仏性を見て縁がある限り決して見捨てない。今野さんも「辞めさせてください」と自分で自分を見限って申し出る弟子たちがいるとこう言うんだって。「いつ辞めていいよ。でも私がいいと言うまではまだここにいなさい。私がいいといったら、どこに行っても何をやっても大丈夫だ。でも、まだ辞めてはいけません。」今、日本の教育や社会はすぐに人を「あいつはダメだ」とは早急に評価を下して、切り捨てようとする。そういうふうに切り捨てるのではなく、こういうような人を活かす、そういう教育、経営が本当に必要な時代なんだろうね。以前、伊勢神宮に叔母と一緒に行ったときだ。「あなたがたは神様が見える人ですか?」伊勢神宮の外宮から内宮に行く途中、タクシーに乗って叔母と世間話していたら、タクシーの運転手さんがいきなり尋ねてきた。え? 私は思わず絶句した。「私たちは神様が見える人ではありませんが、神様が見える人を知っています」とそう叔母がにっこり笑って答えた。叔母の当為即妙な答えに感嘆することがある。「神様が見える人が、このタクシーに乗られることがあるんですか?」と私がタクシーの運転手さんに聞いた。「はい、よくあります。今日は神様からお告げを受けたので、どこそこの神社に行ってくださいと頼まれるんです。」はあ、さすが伊勢だと妙に感心した。こんな話をしていて違和感がない。岩木山の麓で「森のイスキア」という癒しの施設を作って、疲れた人、悩む人、苦しむ人におむすびやお漬物などをお出しして食による癒しの業(わざ)をされている佐藤初女さんが、電車の中で「あなたはキリストですか?」と向かい合わせの方から聞かれたというエピソードを思い出した。初女さんは、答えに困って、心の中で「私はキリストではないのだけれど」と戸惑いながら、「カソリックの信者ですよ」と答えられた。(「おむすびの詩」142ページ)電車の中での出会いに、初女さんは、神様のお導きを感じ、その人との交流が始まったということである。そのタクシーの運転手さんは、一日いくらで契約していたのだが、思わぬ問いに心の距離がぐっと近くなって二見にある御福餅(赤福ではないよ)本店によって、お福氷を頼むとき、運転手の方も一緒の席に招いて叔母がご馳走した。暑い日であったので、肌理の細かい氷がじつにおいしかった。こおりにかかった蜜も実に上品な味わいで感心した。その氷の上に載る御福餅との相性のいいこと。運転手さんが席に来る前、お店の奥に何か声をかけた。「何をされていたんですか?」と叔母。「どうも見た顔だと思ったら、ここのおかみは私の知り合いだったんで挨拶してきたんです。」すると年配の女性の支配人の方がわざわざ挨拶にこられた。「ここの御福餅がおいしいので、連れて来たんですよ。」と叔母が言うと、とても喜んでおられた。そして帰るとき、お土産を頼んだらなんと余分にサービスしていただいたのだ。人はおいしいときは「おいしかったよ」と素直に口に出してほめるほうがよいのだなあ。わざわざ伊勢市から二見まで御福餅を食べさせにきたと知って嬉しかったのだ。支配人の方は、タクシーが見えなくなるまで深々とお礼されていた。「やっぱり老舗は違うわねえ」とまた叔母が感嘆する。叔母はこれまでいろんな病気に次々にかかってきた。私はその一部を知ってている。「でもそんなときいつも『私でよかった。他の人でなくてよかった』と思っていたの。」「なるほどなあ、そういう心がけだから、蓮華の花が泥中を出でて白い輝く花を開かすようにいい人との出逢いがあったり、いい気づきをいただけたり、大きく花開いてきたんだな」と感嘆してしまった。その後、その運転手の方と思わぬ奇縁があることがわかって、叔母は名刺をいただいていた。思わぬ出会いに、導かれるような不思議を感じ、その人との長い交流が始まることがある。
2018年06月19日
2009年05月24日 家族ふれあい新聞第780号の中の木谷ポルソッタ倶楽部【電車の中の母娘】平成17年第780号 平成17年3月20日号発行家族ふれあい新聞 ■木谷ポルソッタ倶楽部【電車の中の母娘】先月の終わり、東京へ久し振りに行った。電車に乗った。昼下がりの郊外線だったためか、車内はやけに空いていた。私の前の席に母親らしき若い女性と三歳くらいの女の子が座っていた。女性は疲れているのか顔色は暗く耳元の髪がほつれたままだった。女の子は窓の外を見つめていた。首に巻いている赤いマフラーが、女の子の動きにあわせて時々ゆらゆらと揺れていた。女性はため息を何度も吐いていた。よほどつらいことがあったのだろうか。時には眉を寄せて考え込むかのように深いため息を吐いていた。車窓には建物が切れ目なく続いていた。これが東京という街なのだろう。窓の風景にあきたのか、女の子が女性の方を振り向いた。口で指を噛むとむずかりだした。なにか飲み物か食べ物を欲しがっているようだった。女性は女の子を抱くように背中に手を置いて軽く叩くだけだった。我慢をしなければならないことを知っているのか、女の子はむずかることをやめた。そればかりか、疲れた女性を励ますかのように低く唄い始めた。私にすまないという顔を見せながらも、女性も低く唄い始めた。私の耳元に快く響いた。次の駅で、特急待ちをするとの車内アナウンスがあった。私はジュースを女の子へ買ってやろうかと思った。私のビールを買うついでなら女性も遠慮をすることはないだろう。 私がそう思っていると、女性は何かを思い出したかのように紙袋の中を手であさり始めた。女性の顔がほっとしたように感じられた。紙袋から手を出した。手には一個のミカンが握られていた。女の子の顔が明るくなった。女性は皮を丁寧にむいて女の子へ渡した。女の子は嬉しそうにミカンを握った。しかし、女の子はミカンを食べないでじっと見つめていた。ガタンガタン、電車は軽い音をたてていた。やがて、女の子は女性へミカンを返すかのように押しつけた。ぐずった。ミカンは駄目だと言うのか。我が儘な子供だ。私は思った。女性は女の子の目をじっと見つめていた。女性は微笑んだ。ミカンをふたつに割った。片方を女の子へ返した。女の子も微笑んだ。女の子はおいしそうにひときれひときれミカンを食べていた。女性もひときれひときれ食べながらも、女の子の口から、時々、皮を取り出しては自分の手のひらに置いていた。女の子が女性を仰ぎ見た。女性も女の子を見た。「おいちいね」「うん、おいしいよね」女性と女の子、ふたりが顔を見合わせニコッと笑った。私は立ちあがった。ドア近くへ行き外を眺めた。涙が流れてきた。止まらなかった。どんなことがあったか知らないけれど、あの母娘は幸せに生きていくよな。そうだよ。絶対にそうでなくてはいけないよな。振動音が大きくなった。電車は鉄橋を渡っていた。多摩川がぼやけて見えた。
2018年06月13日
――【木谷ポルソッタ倶楽部】――――――――――――――――――――― ■ 無気力 ■―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――無気力、生まれて以来、最大の「気力のなさ」を味わっている。ご飯を食べる気がしない。嫌ではない。食べる気力が湧かない。人と話をする気がしない。人には会いたい。会える気持ちではない。それになにより、酒を呑む気がしない。蕎麦を食べる気がしない。「抗ガン剤を投与しているから、体力が衰えるのはあたりまえです。 木谷さんの体力が落ちている間に、薬が癌と闘っているのです。 癌との勝負に決着が付いたら、木谷さんの身体ももとに戻ります」看護婦さんから言われた。なるほどと納得した。私の身体を弱らせて、そのすき間を狙って癌(敵)を叩く。うん、喧嘩の弱い私でもその方法なら戦えそうな気がしてくる。そう、そういうことで、現在の、私は「無気力」の状態だ。この三ヶ月で、抗ガン剤を四度もたっぷりと打たれた。「木谷さんの身体は不思議ね」看護婦さんが驚くほど、「発熱」「痛み」「下痢」「脱毛」「口内炎」などの抗ガン剤による副作用はひとつも出ていない。ただ、先週から、気力が急激に衰えてきた。おのれが「無気力」ということを教えられた。先週の木曜日、朝、起きる。顔を洗って、食事を済ませる。九時出勤と決めているので、時刻までベッドに寝ころんだ。目を覚ました。夕陽が沈みかかっていた。朝の九時から夕方の五時まで熟睡していたということだ。夕食を食べた。部屋に戻るとまたベッドに倒れ込んだ。朝まで目を覚まさなかった。それからである。起きられなくなった。動けなくなった。無気力になった。ずーっとベッドの中で「眠り姫」の状況である。「本を読む」「蕎麦を戴く」「映画を見る」そんな気力も湧いてこなかった。うん「酒を呑む」……みなさんは驚かれるが、そんな気力も湧いてこなかった。木曜日から、水曜日まで、眠り続けだった。眠っていると電話の呼び出し音が聞こえる。「出なければいけない。出れ、出るんだ、出よ」おのれに言い聞かせるのだが、「無気力感」に押し負けてしまう。今朝、出勤しようと決心した。勢いをつけてベッドを抜け出た。ブルブル、寒くはないのに震えが来た。眠たい証拠だ。ベッド横のガラスの机の上に置かれた携帯電話に目が入った。寝ていた、呼び出し音は聞こえていた、出る気力はなかった、話す気力はなかった。ベッドの上に座った。九人の人から電話が入っていた。すまない、電話に向かってただお詫びするだけだ。おっと、伝言メモがふたつ入っている。ふたつとも健太郎さんだ。どんな電話だったのだろう。気にかかる。伝言メモ・その一「健太郎です。別に用事はないけれどね」伝言メモ・その二「健太郎です。三十秒以内にまとめろって言われてもな。もう三十秒たっちゃうよな。今、東京に来ています。木谷さんよ、早う元気になって、東京で蕎麦を喰った一杯呑みましょうぜ」ヨイショ、ベッドからお尻をあげた。後は、前に向かって歩くだけだった。一週間ぶりの研究室出勤が始まった。ゴールには東京のお蕎麦屋が待っているのだ。 ――――――――――――――――――――――――――――――― 木谷 文弘(きたに・ふみひろ)
2018年06月09日
2009年03月15日 「学年始めの挨拶」(森信三修身教授録より)○森信三先生とはどうのような人か。明治二九年愛知県生まれ、大正一二年京大哲学科に入学、西田幾太郎に師事する。昭和一四年満州の建国大学に赴任、敗戦により二一年帰国。昭和二八年神戸大学教育学部教授に就任。同大学退官後の昭和40年には神戸海星女子学院大学教授に就任。昭和50年「実践人の家」建設。1992年(平成4年)逝去。おもな著書に『修身教授録』『哲学叙説』『恩の形而上学』などがある。ちなみに「信三」は戸籍上は「のぶぞう」と読み、「しんぞう」は通称である。○森信三さんが昭和一二年大坂天王寺師範学校で行った講義をまとめた「修身教授録」の最初の講義から。「さて今年はご縁があって、諸君たちの組の修身を受け持つことになりましたが、すべてわれわれが教えたり教えられる間柄になるということは、考えてみれば実に深い因縁といっていいでしょう。 と申しますのも、この地球上には数十億の人間が住んでいますが、それはしばらくおくとしても、日本人だけ考えても、そのうちわれわれが一生の間に知り合う人間の数はきわめて僅かでしょう。いわんや一生の間に、その面影を忘れない程度に知り合う間柄となると、いかにそれが少ないかということは、諸君らが過去十数年の生活を反省してみられたら、自ずと明らかなことだと思います。 それらいろいろの人と人との関係においても、特に師弟関係というものは、一種独特の関係であって、そこには何ら利害の打算というものがないのです。実際世に師弟の関係ほどある意味で純粋な間柄はないといえましょう。(略) 私の考えによりますと、われわれ人間というものは、すべて自分に対して必然的に与えられた事柄については、ひとり好悪の感情をもって対しないのみか、さらに一歩をすすめて、これを「天命」として謹んでお受けをするということが大切だと思うのです。同時にかくして初めてわれわれは、真に絶対的態度に立つことができると思うのです。 ですからわれわれも、ここにこうして一年間を共に学ぶことになったということは、天の命として謹んでこれをお受けし、ひとり好悪を言わないのみか、これこそ真に自分を生かすゆえんとして、その最善を尽くすべきだと思うのです。 ところで今私の申したことは、ひとり学科の担任というようなことのみならず、広くは人生におけるわれわれの態度の上にも言い得ることであって、われわれはこの世において、わが身の上に起こる一切の事柄に対して、すべてこのような態度をもって臨むべきだと思うべきだと思うのです。 ですからたとえば親が病気になったとか、あるいは家が破産して上級学校へ行けなくなったとか、およそ我が身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として慎んでお受けをするということが、われわれにとっては最前の人生態度と思うわけです。ですからこの根本の一点に心の腰のすわらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。したがってここにわれわれの修養の根本目標があると共に、また、真の人間生活は、ここからして出発すると考えているのです。 さて以上のことを、言い換えれば、われわれはすべてわが身に連なるもろもろの因縁をかたじけなく思って、これをおろそかにしてはならぬということです。(略) ですからこの深い因縁をかたじけなく思って、共にこの一年間を学ばねばならぬと思うのです。では、ここに学年始めに当たり、諸君の組を受け持つことになった御縁を感謝しつつ、ご挨拶の言葉とする次第です。」 森信三先生の話が終わった時、生徒の一人が質問がありますと立ち上がった。『先生は僕らの組を受け持つことは、天の命だと思うと言われましたが、僕にはどうもそういうふうには信じられませんが』と言った。 すると先生はニコリとされて『それはそうでしょうよ。諸君らは若くてまだ人生の苦労というものをしていないんですから。私がああ言ったのは、主として私自身の気持ちを申したのです。ただね、そう信じられる人と、信じられない人との人生の生き方が、将来どう違ってくるかということだけは考えてみて下さい』と微笑したまま礼をされて教室を去られた。
2018年04月29日
2009年03月22日 家族ふれあい新聞第614号の中の木谷ポルソッタ倶楽部 きらきら星と蔵の中 平成16年第614号 平成16年6月14日号発行 愛・感謝 家族ふれあい新聞木谷さんから朝のメールが来た。「Gさん、おはようございます。今日は雲ひとつない快晴ですよ。今年の梅雨は「中入り」が多いですよね。そう「雨男」の神通力が効かないようです。今日から新しい一週間が始まります。アジサイの花には雨が少し降るといいのでしょうがね。「アジサイにおのれを知るや雨の朝」私の友人が酒に酔いながら詠んだ句です。「どういう意味だい?」私は尋ねました。「わからないけれど、雨に打たれているアジサイを見るとね。なにやらしみじみとした気持ちになるんだ」友人の気持ちがなんとなくわかるような気がしました。人は笑っているけれどいろいろな問題をみんな抱えているんだ。そうですよね。みんなそれぞれの人生があるのですよね。いろいろなことがあっていろいろなことが過ぎていく。Gさんのメールを勝手に転送しているのですが、普段は返事のない人からメールが入ります。「涙が知らず間に流れます。生きる事。大切さを教えていただきました。ついつい、忘れています。感謝もたなの上に置いたままのときがあります。雨の日も雨音に気持ちが休まるときがあります。毎日、忘れている事きづかせていただきます。ありがとうございます」そうですよね、Gさん、私も体調を整えてガンバリます!以上、朝のメールでした。」○木谷さん こんばんは。いい表現ですねえ「感謝もたなの上に置いたままのときがあります。」私が送ったのを木谷さんが感動されて、その感動が広がっていくのをみるのはとてもうれしいものです。江本勝さんという波動研究家で、水の結晶で有名な方がいます。水に「愛・感謝」という字を見せると素晴らしい結晶になるけれども、「ばか」とか悪い言葉を見せると結晶にならないかゆがんでしまうという写真を撮っているので知られています。この方のエネルギーの法則の話をご存じですか。「アインシュタインのエネルギーの法則【E=mc2】は1905年に特殊相対性理論の一部として発表されたものです。 Eはエネルギー、mは質量でcは光の速度です。ですからこの法則は、エネルギーの量とは、それがもつ質量と光の速度の二乗を掛け合わせたものですよ、という意味になります。 今から10年ほど前、この公式について素晴らしい解釈をし、私に教えてくれた先生と出会いました。お名前をホアン・ヴァン・デユークさんといい、もとベトナムの方で私がお会いした時は南カルフォルニア大学の病理学の教授でした。 その先生が私に言ったのです。 「江本さん、E=mc2のCは、本当はconsciousness(意識)のCなんだよ。そう置き換えてみてはじめてこの公式の意味が分かるんだ」と。「E=mc2のうちmは質量ですが、人で言えば人の数になります。ですからこの公式は世界のエネルギー問題は世界のどれ位の人がどの程度の意識レベルに到達するかによってどうとでもなるよということを示している公式と考えられるのです。」ふふふ、木谷さん、こうもいえますね、Eはearth(地球)、mはman(人)、cはconsciousness(意識)要するに、地球は、そこに住む人とその意識の2乗を掛け合わせたもので、意識が高くなる人が多くなるほど、この地球ガイアはよくなっていくんですよということでしょうか。だから、木谷さんや私が感動と感謝と愛のお話を皆さんに伝えるというのも意味があるのかもしれませんね。 ということでお休みなさい。きらきら星と蔵の中○子どもが生まれて、育児書を多く読んだ。そのなかで感銘を受けたのは、鈴木鎮一先生とドーマン博士の本だった。鈴木先生は、幼児にヴァイオリンを教える方法を創造し、スズキメソードとして世界中に広まっている。 鈴木先生に感銘を受けて、息子が3歳の頃、スズキメソードのヴァイオリン教室に連れていった。最初は見学するだけだった。同じくらいの年齢の子どもがヴァイオリンのキラキラ星を練習する風景を見聴きして興味を持ったようだけどほおっておいた。本人がやりたいと言うまで待つつもりだった。ある日、息子が「ぼくもやりたい」とワンワン泣き出した。そこで始めて幼児用のヴァイオリンを買ってやらせたものだ。キラキラ星を嬉々として一所懸命練習する。最初ギーコギコしていたものがハーモニーとなっていく。次第に高度なものまで引きこなせるようになる。。ああ、今思うと「ぼくもやりたい」とワンワン泣いて一生懸命キラキラ星を練習していたあの頃が一番楽しいときだったなとしみじみと思う。子どもに一緒に成長させてもらった。○鈴木鎮一先生のご本にこんなエピソードがのっていた。先生が松本から東京に出てきた時、いつも泊まる宿があった。ある日、先生はいつもマッサージを頼まれた。すると年輩の女性の按摩さんが来て、蒲団の上でうつぶせになっていた先生を揉みながらこんな愚痴をこぼした。「先生、子どもは天からの授かりものといいますけど本当にそうですね。うちの子は私の言うことをちっとも聞かないですよ、私に逆らうようなことばかりするんですよ。ほんとによそは良い子をさずかったのに、うちの子のような困った子を授かってしまって」。 すると鈴木先生は起きあがって、その人の目を見てこんなふうに諭された。「奥さん、それは違いますよ。お子さんはあなたがそんなふうに育てたんですよ。どの子もみんなよく育つんですよ。家に帰ったらこうしてご覧なさい。口に出して言わなくていい、『お母さんが悪かったばかりにあなたをこんな子に育ててすまないね』と心の中でお子さんに謝ってみてごらんなさい」数ヶ月後、鈴木先生がまたその宿でマッサージを頼んだら、その人が来た。「ああ、先生、あの後、先生に会ってお礼を言いたいと思って探していたんですよ。このあいだ、先生に諭されたのがこたえて、先生がおっしゃったとおり、洗濯や洗い物をしながら「お母さんが悪かったばかりにあなたをこんなふうに育ててしまってすまなかったねえ」と心の中で詫びていたんですよ。すると、息子が「お母さん、手伝おうか」と何かと手伝ってくれるようになりましてね、この頃はすっかりいい子になったんですよ」と先生に何度もお礼を言ったという。○あるとき、鈴木先生はPTAの講演会に招かれ、そこでオオカミ少女のことを話された。インドで雌のオオカミに育てられた少女が発見された。アマラとカマラだ。二人の幼児はほかの乳兄弟であるオオカミの子と一緒に育てられ、4つ足で歩き、夜目がきき、鼻も鋭敏だった。4つ足で走ると人間はとても追いかけられないくらいだった。物も手ではなく、口でくわえ、生肉を食べ、腐った肉を特に好んだ。水もペロペロ皿からなめて飲んだ。昼間は寝て、夜歩き回り、時々遠吠えをした。幼いほうのアマラは、その後なんとか手をつかってコップの水を飲むようになり、言葉も少し話せるようになったが、カマラはついに推定16歳で死ぬまで、オオカミのように水も皿から舌でペロペロとなめ、遠吠えするオオカミの習性もついになおらなかったのだ。アマラが死んだとき、カマラは一滴だけ涙を流し、遠吠えをした。 鈴木先生は、人の子がオオカミのなかで育てられれば、オオカミの生態を習得する。環境に応じて適応し生きる能力を人間はもっている。そして幼児期にオオカミの習性を獲得した人間はその後教育してもなかなか人間として適応できなくなってしまうとお話された。どの子も環境に応じて育つ能力をもっているんですよ。あなたの子はあなたが繰り返し教えたとおりそのとおり育っているんですよ、性格も含めてそうした繰り返しによってあなたが育ててきたのですよと切々と環境の大切さを訴えられた。すると最後に挨拶に立ったPTAのお母さんの代表が、「私たちオオカミの親は・・・」と泣き出されてしまい、ほかのお母さん方も一緒にすすり泣きしはじめたので、鈴木先生はおおいに困られたということであった。○その日は地元の後援者の家に泊まった。旧家で蔵のある大きな家であった。翌日の朝、その家の若奥様が鈴木先生に朝ご飯の給仕をしながら、昨夜こんなことがあったんですよと感動した面もちで話をした。「うちの子はとても悪さがひどくて、昨日もあんまり言うことをきかないものだから、いつものように叱りつけて『蔵の中に入って反省していなさい』と嫌がる息子を蔵に連れていったんです。蔵の中に入れようとしたら、先生の『あなたがお子さんをそんな子に育てたんですよ』という言葉が思い浮かびました。ハッとしました。そこで子どもと一緒に私も蔵の中に入って息子にいいました。『あなたは悪いことをしたので、蔵の中に入れます。でもあなたをそんなふうに育てたお母さんも悪かった。だから今日はお母さんも蔵の中に入ります』そう言ったらいつもは意固地をはっている息子が突然泣き出して、私にしがみついて来て、『お母さん、ごめんなさい、ごめんなさい』とわたしの胸に顔をうずめて、泣きじゃくったのです。 私も涙が溢れてしまい、母子して一晩中、蔵の中で泣き暮らしたんですよ。 そうしたら、けさはとても素直ないい子になっていました。先生ほんとうにありがとうございました。」鈴木先生は、一緒に蔵の中に入ったお母さんの行いをとても喜ばれた。
2018年04月10日
新潮新書「由布院の小さな奇跡」の中に湯布院の中谷健太郎さんらがドイツの温泉町バーデン・バイラーを視察した時、ホテルの主人グラウテルさんから、あなた方は町をよくするため何をしているかと一人一人指差されて問い詰められ、真っ赤になって何も答えられず、それがきっかけで湯布院の街作りを決意する感動的な場面が載っている。グラウテルさんはこうも言った。「街作りには三人以上仲間がいる。世界中の同じ志をもった仲間と手を握ることが大事だ」と。 「由布院の小さな奇跡」96-100ページより南ドイツの、ドイツ、フランス、スイスと三つの国が重なるあたりの黒い森の麓にあるバーデン・ヴァイラーという小さな温泉地を、三人が訪れた時のことだ。バーデン・ヴァイラーは人口約四千人と、由布院に似た小さな温泉地だった。小さなホテルのオーナーであったグラテヴォルさんの話に、三人は感動した。その感動が、いまの由布院をつくったと言っても過言ではない。中谷が熱い想いで綴っている。「私たち三人が、ドイツのバーデン・ヴァイラーという町で受けたあの衝撃を、なんとか由布院の町の人たちにも伝えようと、わけのわからぬ、子供らしいあがきをはじめたのは事実だった。それは今でも続いている。あの日、グラウヴォルさんは私たちに熱く語ってくれた。『町にとって最も大切なものは、緑と、空間、そして静けさだ。その大切なものを創り、育て、守るために、君たちはどれほどの努力をしているのか?君は?君は?君は?』 グラテヴォルさんは、私たち三人を、ひとりずつ指さして詰問するように言った。私たち三人は顔が真っ赤になってしまった」 このグラウヴォルさんの詰問が、三人を奮い立たせた。 七年後、志出、中谷、溝口の三人は、湯布院の町長を先頭に、約二十人の仲間とともにドイツを再び訪れた。病床の身ながらも、グラテヴォルさんは待っていてくれた。三人が多くの人たちを連れて再びやってきたことに、グラテヴォルさんは大変喜んでくれた。 その時のグラウヴォルさんの話を、中谷はこれまた感動的に書いている。「君たちは約束を守った。君たちは長い道を歩き始めた。世界中どこの町でも、何人かの人が、あるいは何十人、何百人かの、決して多くはない人たちが同じ道を歩いている。ひとりでも多くの人が、よその町を見ることが大切だ。そして、その町をつくり、営んでいる『まじめな魂』に出会うことが必要だ」 グラテヴォルさんとの出会いについては、溝口も機会がある度によく話をする。「まちづくりは、ひとりでやっていては孤立する。 最低でも、三人は必要だ。 まちづくりは、大勢の仲間で進めることが大切だと、私たちはグラテヴォルさんから教わった」。平成16年第702号 平成16年11月24日号発行 家族ふれあい新聞今回、「由布院の小さな奇跡」という拙著が新潮新書として発売された。それにともなって、私(木谷文弘)はいろいろな「感動」「感激」を味わい、多く方々へ深く「感謝」をするという出来事が起こっている。これは、そのうちのひとつの話だ。本の発売の一ヶ月前、知人の新聞記者さんから電話があった。「あんたの本の宣伝ビラが、市内の本屋“晃星堂”に貼られているよ」私は驚いた。翌日、晃星堂へ行った。店の中へ入るとすぐわかった。《由布院はどこへ行くのか!木谷文弘・著『由布院の小さな奇跡』11月中旬発売》A4紙にマジックで走り書きされていた。私の名前が踊っていた。本の整理をしていたエプロン姿の店員さんへ、私はお礼を言った。「見ず知らぬの私の本のために……このようなことを……」大野さんという店員さんは整理する手を休めて答えてくれた。「由布院はいま大きく揺れています。この本により、みなさんが由布院のことを考えてくれたらな……私はそう思ったのです。題名を見ただけで、なにか普段の由布院のガイドブックとは違うのだと感じたのです。由布院の普通の人たちのことを描いてくれているのでしょう。由布院らしいとは何だ。そのようなことが理解できる新書なのでしょう」私はただ感謝するだけだった。〈まだ発売されていないというのに……〉私は大野さんへ深く頭を下げた。 また、新聞記者さんから電話があった。本の発売日だ。「木谷さん、今、晃星堂にいるんだが、あんたの本が沢山あるんだよ。玄関を入った店先の新刊本コーナーと、奥の新書のコーナーと、そしてね、勘定をするカウンターにも重ねて置いてあるんだ。この光景は凄いぜ。そしてね、五分前に、あんたの本が一冊売れたんだよ」新聞記者さんの声は嬉しそうだった。「私が別の本を立ち読みしているとね、ひとりのお客さんがあんたの本を取り上げてパラパラと見ているんだ。私はね、心の中で念じたんだ。『買え、買え、あなたはその本を買うのだ』と。するとね、フフフフ、お客はその本をカウンターへ持って行ったんだ。その新聞記者さんは新聞社の中でも地位の高い方だ。それに、髭を生やしている威厳のある人なのだ。私は嬉しいやらありがたいやらで何も言えなかった。翌日、私は晃星堂へ行った。なんと貼り紙が三枚になっていた。店内のあちらこちらに貼られていた。カウンターの上にも本名を書いた旗のようなものが置かれていた。そして、それらがゆらゆらと揺れていた。それは、私には「幸せの黄色いハンカチ」のように感じられた。そして、人は多くの人に応援されて生きていることをひしひしと感じて嬉しくなった。 【拙著のご案内】今夜の大分はやけに静かです。FMからはピアノ曲が流れています。秋が過ぎて冬が近づいているということです。そう、今年も残りあと一ヶ月あまりとなりました。さて、私、この度、新潮社より新潮新書の一冊として『由布院の小さな奇跡』という本を発行するようになりました。由布院の人たちの小さな出来事ばかりを追ってみました。小さな出来事ですが、それらのひとひとつには輝きがあるのです。そしてそれらの「小さな奇跡」が集まって、今の由布院があるのだと思います。でも、いまの由布院取り巻く状況はきびしいものです。由布院の若者は言いました。「まちづくりは百年、二百年の単位です。ぼちぼちやっていきます。まちづくりとはそういうものです」私は何も言えずに由布岳を眺めるだけでした。みなさまのお近くの本屋の新書コーナーを見て下さい。一冊ぐらいちょこんと置かれているかもしれません。焼酎2杯我慢して戴いた気持ちでどうかご購入の程お願いします。そしてご感想を聞かせて戴ければありがたいと思います。
2018年03月20日
2019年 大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は“オリンピックに初参加した男”金栗四三(かなくり しそう)と“オリンピックを呼んだ男”田畑政治(たばた まさじ)だそうだ。主演は金栗四三役に中村勘九郎さん、田畑政治役に阿部サダヲさんである!【企画内容】“オリンピックに初参加した男” 金栗四三と“オリンピックを呼んだ男” 田畑政治日本のオリンピックは、マラソンの金栗四三と陸上短距離の三島弥彦、たった2人の選手から始まった。まだ“スポーツ”の言葉もなかった時代。1912年に初参加した「ストックホルム大会」で、金栗は日射病で失神、三島も大惨敗。だが、そこから持ち前の根性で猛勉強、日本はスポーツ大国へと成長する。1936年の「ベルリン大会」では、水泳の前畑秀子をはじめ金メダルを量産。念願の「東京オリンピック」招致を勝ち取る。だが、時代は戦争へと突入、夢は幻と消えてしまう。 敗戦。田畑は蛙と芋で飢えをしのぎ、執念で競技を再開。ついには、1964年の「東京オリンピック」を実現する。戦争、復興、そして…平和への祈り。オリンピックには、知られざる日本人の“泣き笑い”の歴史が刻まれている。ドラマでは、1912年「ストックホルム」から、1936年「ベルリン」、1964年「東京」までの3大会を中心に、激動の52年間を描いていく。語り手は、“落語の神様”古今亭志ん生ドラマの語りは、稀代の落語家・古今亭志ん生。架空の落語『東京オリムピック噺』の軽妙な語りにのせ、“笑いの絶えない”日曜8時のドラマを目指す。 また、志ん生自身の波乱万丈な人生もドラマに挿入。 生粋の江戸っ子である志ん生の目線で、明治から昭和の庶民の暮らしの移ろい、“東京の変遷”を映像化していく。大河ドラマ初の4K制作で描く、「東京&オリンピック」の物語。この落語の神様 古今亭志ん生 役が タケシ である。NHKから「神様(志ん生)は神様に演じてもらうしかない」という出演要請を快諾し「志ん生さんは一番尊敬する落語家。うれしくてしようがない。久々にプレッシャーがかかって、夜中に落語をやってみたりしている」と語っている。金栗四三については、今は亡き畏友木谷文弘が「ポルソッタ倶楽部」で木谷節を披露している。--【木谷ポルソッタ倶楽部】--------------------- ■ 世界一遅いマラソン記録 ■-------------------------------------------昨日、大分毎日マラソンが開催された。大分出身の若者がゴールを切った。地元のマラソンで、地元の選手が優勝した。嬉しかった。 マラソンというと、感動する話を聞いたことがある。 みなさんは、金栗四三さんという人をご存知だろうか。うん、戦前の生まれの人ならば、すぐに「マラソンの父」だと言うだろう。 明治44年、金栗さんは翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場した。当時の世界記録を27分も縮める大記録を出して完走したそうな。 27分も縮めたということに、私しゃあ驚きましたわいな。 金栗さんは三島弥彦さんとともに日本人初のオリンピック選手となった。金栗さんは明治45年のストックホルムオリンピックのマラソンに参加した。 それで、どうなったかって......ふふふ、話はうまくはいかない。金栗さんは走っている途中に気分が悪くなり意識を失って倒れたそうな。マラソンコース近くの農家に運び込まれて介抱されたらしい。 そして、なんと金栗さんが意識を取り戻したのは、翌日の朝であった。ふふふ、もちろん、マラソンの競技は終わっていた。 金栗さんの無念さは、運動神経オンチの私にも想像できる。 その後、金栗さんは2度のオリンピックに出たり、箱根駅伝の開催のために尽力し、その功績を讃え、金栗杯が創設されている。 明治、大正、昭和と、いろんなことがあり、時は過ぎていった。昭和42年、スウェーデンのオリンピック委員会から、金栗さんは突然に招待された。 ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典、途中棄権をした私がなぜに招待されるのだろう。金栗さんは恥ずかしい気持ちながらも招待を受けた。 マラソン途中で意識を失って、農家にかつぎこまれた金栗さん、ストックホルムでは棄権の意志がオリンピック委員会に伝わっておらず「競技中にひとりが失踪し行方不明」として扱われていた。 金栗さんがストックホルムに行き競技場に赴くと。なんとゴール付近には一本の白いテープが張られていた。スウェーデンの人達にせかれて、金栗さんはテープを切った。 競技場内にアナウンスが高らかにされた。 「金栗選手、ゴールです。記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3です。 これは世界一遅いマラソン記録であります。 以上をもって、第5回ストックホルムオリンピックの全試合が無事に終わりました」 ------------------------------- 木谷 文弘(きたに・ふみひろ)
2018年03月17日
「人生二度なし」(修身教授録Ⅱ第3講より)○真民さんはこう書いている。「『人生二度なし』これは森信三先生のお言葉。これをしっかと丹田に打ち込むこと。特に晩年になるほど、これは大切である。私は森信三先生にお会いして、やっと腹が決まり、「詩国」を発刊し、五〇〇号になった。その間一回も休まず、入院もしない。凡ては先生のおかげである。皆さんもどうか、このお言葉を、骨肉に浸透して下さい。」人生二度なしとはどういう事か。○先生は今日はモーニングを着用して来られた。一礼された後、「人生二度なし」という題と共に、次の歌を無言のまま板書された。 高山の頂にして親と子のあわれなるかな「諸君この歌のうちで一番いいところはどこだと思いますか。」「心相寄るはーというところが好きです。」と生徒の一人が答えた。「ここが一番よいところです。これは赤彦でなければ言えないところです。赤彦は学歴としては、長野師範学校を出ただけです。それでいて万葉以後の歌人となったのです。それ故諸君が志を立てるには、明治以後の人のうちでは、最もよい目標の一人といえましょう。 とにかく人間は、地位とか学歴とかに引掛っている間は真に徹底した生き方はできないものです。学歴というようなけち臭いものに引掛っている間は、その人の生命は十分には伸び切らないからです。もちろん一方では、人間は自分の地位、さらには学歴というようなものについての謙虚さがなくてはなりません。しかしながら、その内面精神においては、一切の世俗的な制約を越えて、高邁な識見を内に蔵していなくてはならぬのです。 そもそも人間というものは、その外面を突き破って、内に無限の世界を開いていってこそ、真に優れた人と言えましょう。 さて、われわれのこの人生は、二度と再び繰り返し得ないものであると言っても、諸君らはあまりたいして驚かないかもしれません。私なども、諸君くらいの年頃には、この人生の最大事実に対しても、一向に無関心でいたから、もっともなことでもあるのです。 そもそもこの世の中のことは、多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」という真理のみは、古来ただ一つの例外すらないのです。諸君らが、この「人生二度なし」という言葉に対して、深く驚かないのは、無意識のうちに自分だけはその例外としているからではないでしょうか。もちろん諸君らも意識すれば、自分をその例外であるなどと考えている人は、一人もないに相違ないのです。要するに諸君たちが自分の生命に対して真に深く思いをいたしていない何よりの証拠だといえましょう。すなわち諸君らが二度とない一生をこの人の世にうけながら、それに対して、深い愛惜尊重の念を持たない点に基因すると思うわけです。 われわれは、わずか一日の遠足にさえ、プランを立て、調査をするわけです。しかるにこの二度とない人生について、人々は果たしてどれほどの調査と研究とをしているでしょうか。否、この「人生二度なし」ということさえ、常に念頭深く置いている人は少ないかと思うのです。これ古来多くの人が、たえず生きかわり死にかわりするけれど、しかも深く人生の意義と価値とを実現する人の少ないゆえんかもしれません。 そもそも人生の意義については、いろいろ考え方がありましょうが、われわれ日本人としては、自分が天から受けた力をこの肉体的生命の許される限り、十分に実現して人々のために尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた後にも、なおその精神がこの国土に残って、後にくる人々の心に、同様な自覚の火を点ずることにあるかと思うのです。 かくしてわれわれが人間としてこの世に生まれてきた意味は、この肉体が朽ち果てると同時に消え去るのでは、まだ十分とは言えないです。というのも、この肉体の朽ちると共に、同時にその人の存在の意味も消え去るのでは、実は肉体の生きている間も、その精神は十分には生きていなかったという、何よりの証拠と言っていいでしょう。尊徳翁はその「夜話」の中で「生きているうちに神でない人が、死んだからといって、神に祀られる道理はない。それはちょうど、生きているうちに鰹でなかったものが、死んだからといって、急に鰹節にならぬのと同じだ」と言っていますが、さすがに大哲人の言葉だけあります。生前真にその精神の生きていた人は、たとえその肉体は亡びてもちょうど鐘の余韻が残るようにその精神は必ずや死後にも残ることでしょう。 こう考えると、諸君らは今こそここに志を立てるべき時です。そのような志が真に確立しない限り、諸君らは真に深く自分の生命を愛惜するとは言えないでしょう。何となれば、真の精神は不滅であり、いかに凡人でもその生涯を深い真実に生きたならば、必ずやその死後、何らかの意味でその余韻を残しているからです。人間が死後にも生きる精神とは、結局その人の生前における真実心そのもので、その真実の深さに比例して、その人の精神は死後にも残るのです。かくして人生の真のスタートは、この「人生二度なし」という真理を、その人がいかに痛感するかから、始まると言ってよいでしょう。」
2016年11月20日
「坂村真民」の詩の紹介(森信三「幻の講和」第二巻より)○第三講「生きることの探求」より「 主人貧しくも 坂村真民 主人貧しくも 鶯来鳴き 春の戸ひらく 主人貧しくも 月照り ひかり堂に満つ 主人貧しくも 石笛吹けば 天女舞う 主人貧しくも タンポポ咲いて 種子四方に飛ぶ 坂村さんは、戦前は朝鮮で先生をしていられたのです。そして敗戦によって食糧難の祖国へ引き上げてこられて、四国の片田舎で苦難の日々を送られたようですが、そうした中からも、つねに詩作にはげんで、毎年一冊ずつ詩集を出して、ごく少数の知己の範囲に頒って来られたのです。 そしてこの詩は、その処女作の『六魚庵天国』の中に入っている詩ですが、そのころの坂村さんの生活や心境の点からして、ここに掲げてみた次第です。 清貧というコトバが、いかにもピッタリとよくあてはまる詩でしょう。しかし坂村さんの今日あるのは、ひとえに、当時このような極貧に近い生活にもかかわらず、詩を自分の「天職」と心得て、それに没頭してこられたからであります。つまり、坂村さんが今日、一部の人々から『国民詩人』と呼ばれるようになった土台は、いわばこの時期に築かれたといっていいでしょう。現在、坂村さんは、ご自宅のお住まいを『タンポポ堂』と名づけていられますが、そうしたタンポポへのふかい愛情も、すでにこのころきざしていたと言えそうですね。」○森先生は、「われわれ人間が、この二度とない人生を真実に生きようとしたら、「師」を持たなければならない。真に生きた真理は、これを生み出した人自身によって語られ、さらにはその人が実践されるのを目の当りに見るのでなければ、真実の趣は分り難い。」と言われる。「われわれの人生は、実に限りない深さをもったものだが、また無自覚のうちに死んでゆく人も少なくない。何ゆえ人生の真理の深さは、かくも限りないのか。われわれ人間がこの地上に生まれ出た根源の力は結局神に基づく。それは「宇宙生命」とか「大自然」といってもよい。一人ひとりが、大宇宙の根源意志につらなって生きているのだ。」○第四講「自分を育てるのは自分」「 ひとりひそかに 坂村真民 深海の真珠のように ひとり ひそかに じぶんを つくってゆこう ごらんのように、この詩はごく短い詩ですが、それだけにかえって、読む人の心に深く訴えるものを持っているといえましょう。 坂村さんは、戦後海外からの引揚者の一人で、四国の片田舎で、極度の食糧難の中で、五人の家族をかかえて、日々を苦しい生活にあえぎつつも、その間自己の天職と考える詩作の道に励まれたのです。 しかしながら、そのころ詩人としての坂村さんの本質を知る人は、ほとんど無かったといってもよいでしょう。しかもそうした深い孤独の中にありながら、坂村さんは詩作のあゆみを怠らなかったのです。そしてこの詩は、ある意味ではそうした坂村さんの心境を表現したものといってよく、そのためにこんなに短い三行詩でありながら、よく万人の心を打つことができるのでしょう。」○「前回、われわれ人間にとって、自分の生き方の探求ほど大事なものはないと申しました。そして、書物以上に大事なのは「師」で、書物に書かれた真理が平面的だとすれば、「師」を通して得られる真理は立体的で、人生のふかい真理は一人の生きた人格において初めて生かされるのです。われわれが真摯に人生の真理を探求しようとしたら、生きた人格として、全力を挙げて真理に生きようとしている「師」について学ばねばならない。 真に「師」に学ぶということは、単に「師」の言われたり、行われることを模倣することで満足しないで、「自分を育てるものは結局自分以外にはないのだ」という態度を確立しなければならない。○鈴木鎮一先生はクリングラーに師事した。多くの優れた魂は優れた人格のもとで自分の行き方の探求を行ったといっていいかもしれないな。なんかわが身を振り返ると痛ましい限りだな。森先生の言われる「人生の師」―全力を挙げて真理に生きる人格を師といただいたことはないな。二宮尊徳先生など、本を通じて親炙してきたに過ぎない。ああ、せめて、「師」と言える生きた真理の人格の許で自らを磨いていきたいものだと切に思う。これは「家族ふれあい新聞」570号にかかげたものである。幸いにして 「師」と言える生きた真理の人格 といえる人と会えたことはこの上もない喜びである。残念なことに 森信三先生も 坂村真民先生にもお会いすることはできなかった。ただ真民先生在世の頃、本を買い求めたら、サインをいただいたことがある。出会いはまことに不思議である。お二人とは出会いはなかったが、その文章を通じて わたくしの人生を豊かに照らしてくれる。
2016年11月18日
炎の縁、人の縁より(松田社長との出会い)○昭和四十年代、陶工の道に踏み入れた紫峰氏は、自転車操業状態で借金を返すのに借金をするという悪循環は、次第次第にその金額が膨らんでいた。こういう弱みにつけこみ、騙そうという者さえ現れた。その頃、紫峰氏は黒楽の窯づくりの研究をしていて、その窯に取り付ける温度計を調達したかったが、資金がなかった。電話帳を眺める日が続いた。すると広告の中でも一番小さな広告が目に止った。 紫峰氏は思わず受話器をとってダイヤルを回していた。呼び出し音が聞こえて、ハッとして受話器を置いた。そして本当に自分にとって温度計が必要か自分の胸に問うてみた。釉薬の研究をする上で不可欠だと答える。再び受話器をとってゆっくりダイヤルを回した。「私、陶工の神崎と申しますが、社長さんはおられますでしょうか」「お待たせしました。松田ですが」はきはきとした大きな声だった。「私、大阪北区で焼物を焼いている陶工の神崎紫峰と申しますが、社長さんの所ではパイロメーターは作っていただけるのでしょうか?」「はい!はい!作らせていただきますよ」「実は・・・。実は・・・ですね・・・」「どうかなさいましたか?」「私は陶工といっても、まだ駆出しですので、作っていただいてもすぐには代金をお支払いできないのです。初めてお電話をさせていただいて、虫のいいことをとお笑いかも知れませんが、出世払いということでお願いしたいのですが・・・・・」「ワッハッハッハッ。貴方もなかなか面白いことをおっしゃる。出世払いとは・・・・・。私は、貴方に会ったこともないのですよ。でも、初めての電話で、支払いできぬが作ってほしいという貴方が気に入りました。分かりました。分かりました。出世払いということで作らせていただきましょう」このような身勝手なお願いは取り合ってもらえると思ってなかった。「本当ですか?」電話をして一時間ほどたったころ、背が高く、色艶もよく、がっちりした体つきの人が私の仕事場に入ってきた。年の頃なら四十歳前後。「先ほど電話をいただいた松田ですが・・・・・」。 紫峰氏は現在の経済状態について事細かに話した。自転車操業も行きつくところまで行き、もはや破産寸前の経済状態であることを。いまは幻といわれている古信楽・古伊賀を、将来必ず私の手で再現するつもりでいることを熱っぽく語った。「私はね、紫峰君の声を電話で聞いたとき、なにかしら閃くものを感じた。これは直感です。紫峰君の困っているのが手に取るように伝わってきた。誰でも一生のうちには、いろんなことがあります。それでこそ人生、楽しいじゃないですか。温度計は作らせてもらいます。お断りするなら先ほどの電話で断わってます」その翌日のことだ。取引先から電話があり、今日支払うと約束したがどうしても都合がつかないので、待ってくれという。その入金をあてにして手形をふりだしていた。資金繰りに走り回ったがどうにもならない。その時、昨日会ったばかりの松田社長が思い浮かんだ。「こんにちは! 社長さんはいらっしゃいますか?」川島先生から「金がなくとも心豊かであれ。それには先ず表情から変えよ。」と云われていた。「よお! よくきたね。まあまあ、こちらへ・・・」「昨日は社長と初めてお目にかかったに拘わらず、厚かましいお願いを快く引き受けていただき、ありがとうございました。実は・・・。今日は、またまた厚かましいお願いに伺ったのですが・・・」紫峰氏は、今朝からの事情を話した。「ワッハッハッハッ。そうだったのか。そうだったのか・・・」。「かあちゃん、今朝のことは紫峰君のことだったよ!」しばらくすると奥さんが、紙袋を応接室まで持ってきた。社長はその紙袋を奥さんから受け取ると、袋の中を確かめもせずに、「はい。これをもって早く銀行に行きなさい」「紫峰君、実はなあ、今朝のことなんだよ」「私の会社は、集金も支払いもすべて銀行振込を使っている。だから、現金を持ってくる人は滅多にない。ところが今朝、現金で五〇万円持って支払いにきた人がいた。こんなことは滅多にないことだから、この五〇万円は誰かが必要なのだろう、と思ったんだ。それで、かあちゃんに、誰かがこの金を欲しがってるから、今日一日だけ預かっといて、といって渡しておいたんだ。」「そういうわけだから、これは気にせずに使えばよいから・・・。」紫峰氏は、溢れる涙を拭き拭き階段を掛け下りた。階段の下から、社長室に向かって、頭を深ぶかと下げ、銀行へ急いだ。○この話には続きがある。社長の父親から、その五十万円を紫峰氏が期限までに返さなかったら、社長自身が不渡りを出すおそれがあったというのである。
2016年11月16日
「地上の星」 「地上の星」は、プロジェクトXの主題歌である。二〇〇三年の大晦日の紅白で中島みゆきが黒部ダムの坑道で歌ったため、ヒットチャートに再び踊り出た。中島みゆきも自分の子どもを誉められたみたいに嬉しいと語ったという。 2003年は、中島みゆきの長いキャリアの中でもひと際輝く一年だった。「地上の星/ヘッドライト・テールライト」が1月にチャートで1位になり、4つの年代(70・80・90・00年代)で1位獲得という史上初の快挙を成し遂げ、5月には連続チャートインのロングセラー記録を23年振りに更新した。二〇〇二年、NHKスタッフから紅白への出演依頼があったとき、「家族も親戚もでてほしいといってるし、自分もでたいという気持ちはあるが、途中のショータイムに出るほど自分をふっきれない」 とやんわりと断った。その後、NHK「プロジェクトX」の人気と共にCD「地上の星」の好調なセールが続き、昨年暮れにはオリコン100位 以内のロングセラー記録をうちたてた。その時点で彼女はNHKの2年越しの依頼をはねつける理由がなかった。彼女は「NHKに感謝します。恩返しがしたい」と言って出場を決意した。しかし彼女は紅白でNHKホールの舞台の上に立ちたくなかった。黒部ダムからの中継というのは彼女自身のアイデアだったのである。 この「地上の星」が生まれるにあたってのエピソードをご存知だろうか。「プロジェクトX・挑戦者たち」のプロデューサー今井彰の講演記録から。 プロジェクトXは、火曜日の夜九9時15分という時間帯を与えられた。NHKにとって、魔の時間帯といわれていた。 今井プロデューサーは、プロジェクトXを始めるにあたって、「どうしてもこの番組を支えてくれる味方が欲しかった。」と語る。 そこで、中島みゆきのチームに主題歌とエンディングテーマを書いていただけないかと頼んだが、夜会とかやっていて忙しいし、そもそも彼女はその番組のためだけの書き下ろしはやっていないと断られた。 その回答を受けて、今井さんは、富士山レーダー、VHS開発、青函トンネル、黒部ダムなど5本分の企画書を入れてほとんどラブレターに近い手紙を中島さんに出した。すると、中島さん本人からこんな電話があった。「今までドラマとかバラエティから依頼があることはあったけれど、社会情報部のプロデューサーからお手紙をいただいてどういうことかと思いました。本当に一つだけお伺いします。これは本当にまじめな番組なんですね。」「こういった人々の話をやるのに我々も真剣にひたむきにベストを尽くさなければできない番組です。」すると、中島さんは2週間半くらいこもって、作詞作曲した。 中島さんは、ある雑誌のインタビューに対して、「大きなプロジェクトの完成には、実際に現場でボルトを締めたり、重いものを運んだ人々の姿がある。華やかな報道の裏で、そんな注目されない人たちが勇気をもてるような歌を作りたかったのです」とコメントしている。今井さんはこう言う。「ですから、あの歌の中にある草原のペガサス、街角のヴィーナスという歌は、実は一般に生きている方々、それは技術者だったり、家庭の主婦だったり、営業マンだったり、そういった人たちを彼女の中で消化して書きぬいていったときに、それがギリシャ神話の神々にたとえられるくらい集中していった歌なんですね。 ですから、あの歌にはそれだけの彼女の想いがこめられている歌なんです。そして我々はこの歌がプロジェクトXの中で出てくる名もなき登場人物を守ってくれていると思っているんです。」 そして、プロジェクトXについてこう語った。「ある目的に向かって一生懸命働いた人間の気持ちを、運命は決して裏切らないんです。それをこの番組で是非ともお伝えしたかった。」そして最後にこう結んだ。「思いは叶う、努力する人間を運命は裏切らない、逆境の中でも道は開ける、思いは叶う・・」1.風の中のすばる 砂の中の銀河みんな何処へ行った 見送られることもなく草原のペガサス 街角のヴィーナス みんな何処へ行った 見守られることもなく地上にある星を誰も覚えていない 人は空ばかり見てるつばめよ高い空から教えてよ 地上の星をつばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう2.崖の上のジュピター 水底のシリウス みんな何処へ行った 見守られることもなく 名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴むつばめよ高い空から教えてよ 地上の星をつばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう3.名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴む風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処へ行った 見送られることもなくつばめよ高い空から教えてよ 地上の星をつばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう
2016年11月16日
徳永先生物語その2○「お母さんね、徳永先生のこと、きのう話したでしょう。その続きなんだけれどもね」朝げの支度で忙しい家内に 子供のようにまとわりついて語ります。「徳永先生という方は 三六歳という若さで 校長先生に抜擢された。 けれども五年後 教えの現場に立ちたいと 自ら願い出て 平の教員に 戻られたんだ。 東井義雄という徳永先生と親しい方がこんな思い出を綴られている。 東井先生が 徳永先生とご一緒に 泊まったおりのことだった。 午前三時に 目が覚めて 布団の中で もぞもぞしていると その気配を察せられたのか 徳永先生 サッとおきられ 布団の上で 合掌正座した後に 東井先生の足元に 正座した。「東井先生 うつぶせになってください」そうおっしゃった。東井先生驚いて「何事でしょう」と問いただした。「まあ、うつぶせになってください」とおっしゃるばかり。言われるままにうつぶせになると、「これから あなたの足の裏を もまさせていただきます」「もったいない そんなことをされたなら 罰があたってしまいます どうかかんべんしてください」と答えると「東井先生は 奥様の足の裏を もまれたことはありますか」「いえ、ありません」「それではゆるしてあげるわけにはまいりません。 明日お宅にお帰りになったならば 私がもんだのと 同様に 奥様の足の裏をもんであげてください」そこまで言われれば 仰せのとおり従うよりほかはない。「東井先生 人の足をもませていただくときはまず合掌して 足の裏を 拝ませていただくのです」もったいないやら ありがたいやら。徳永先生は まずていねいに 足の裏をば 拝んでは 親指の指の先から 順番に 指の根もとまでもみおろされた。どの指もどの指も ほんとにていねいにもみおろされた。指と指との間が終わったら だんだん足の裏の中心部に移っていかれます。いよいよ中心部に移られると、「東井先生、ここをグーッとおすと、腹の方までひびいてくるでしょう。腹のはたらきがよくなるんです。ここは『足心』というところなんです」などといいながら、ずいぶん時間をかけて、踵のあたりから、足首の方までもんでくださるのだ。もったいなすぎてやりきれない。さあ 東井先生は その日遅く 夜中の一時 我が家に 帰り着いた。奥様は 眠らずに 「お帰りなさい」と 玄関に出迎えた。東井先生 座敷へと 上がるなり 奥様に「おまえ すまないが うつぶせに なってくれ」さあ、奥様は驚いた。「何をなさるのですか」と聞きたもうた。「これからおまえの足をもむ」「ご冗談を言って もらっては 困ります」「冗談でもなんでもない、とにかくうつぶせになってくれ」奥様は 困惑して あらがいたまう。「いやどうしても お前の 足の裏を もまねばならぬわけがある」嫌がる奥様をうつぶせにして 拝むまねごとばかりして とにかく早くすませてしまおうと 奥様の足袋を脱がせたのであった。両手で奥様の足の裏にさわって、ハッとした。熊の足の裏みたいにガサガサしている。ああ、この女は町に生まれ、大事に大事に育てられ 嫁入りしたその頃は かわいらしい足の裏をしていたに違いない。山の中の寺に嫁いできて 毎日毎日 険しい山道を 薪を背負って 山道いっぱいに 広がっている岩を 滑らないように 指の先 力を入れて 踏みしめて 何十年もしているうちに こんな足の裏になってしまったのであろうか畠のことを見ようともせず 出歩いてばかりいる 亭主に代わって 畠を耕やし こやしを運び そうこうしているうちに こんな足の裏になってしまったのであろうか ああ、苦労をかけたなと 思ったその時にああ、この女は私のために生まれてきたのかもしれぬなあと胸のうちがなにやら いっぱいになってきて思わず知らず 心から拝む気持がおきてきて 奥様の足の裏を 丁寧にもんであげたということだ」話す私も涙声 聞く家内の目も うるうると 涙にくもる ひとときぞ「今朝、お母さんの 足の裏を おがんでから もんだのは そういうわけがあったんだよ」と付け加えると「それにしては お父さんのは 心がこもっていなかった」「この話を したくてさ 足の裏をもんだんだもの」「だから気持がこもらないのよ」と家内の手厳しい一言だ。「今度、もむときは 心をこめて もませてもらおう」そんな夫婦(めおと)の朝の会話があったとさ。
2016年11月16日
「人生二度なし」(修身教授録Ⅱ第3講より)○真民さんはこう書いている。「『人生二度なし』これは森信三先生のお言葉。これをしっかと丹田に打ち込むこと。特に晩年になるほど、これは大切である。私は森信三先生にお会いして、やっと腹が決まり、「詩国」を発刊し、五〇〇号になった。その間一回も休まず、入院もしない。凡ては先生のおかげである。皆さんもどうか、このお言葉を、骨肉に浸透して下さい。」人生二度なしとはどういう事か。○先生は今日はモーニングを着用して来られた。一礼された後、「人生二度なし」という題と共に、次の歌を無言のまま板書された。 高山の頂にして親と子のあわれなるかな「諸君この歌のうちで一番いいところはどこだと思いますか。」「心相寄るはーというところが好きです。」と生徒の一人が答えた。「ここが一番よいところです。これは赤彦でなければ言えないところです。赤彦は学歴としては、長野師範学校を出ただけです。それでいて万葉以後の歌人となったのです。それ故諸君が志を立てるには、明治以後の人のうちでは、最もよい目標の一人といえましょう。 とにかく人間は、地位とか学歴とかに引掛っている間は真に徹底した生き方はできないものです。学歴というようなけち臭いものに引掛っている間は、その人の生命は十分には伸び切らないからです。もちろん一方では、人間は自分の地位、さらには学歴というようなものについての謙虚さがなくてはなりません。しかしながら、その内面精神においては、一切の世俗的な制約を越えて、高邁な識見を内に蔵していなくてはならぬのです。 そもそも人間というものは、その外面を突き破って、内に無限の世界を開いていってこそ、真に優れた人と言えましょう。 さて、われわれのこの人生は、二度と再び繰り返し得ないものであると言っても、諸君らはあまりたいして驚かないかもしれません。私なども、諸君くらいの年頃には、この人生の最大事実に対しても、一向に無関心でいたから、もっともなことでもあるのです。 そもそもこの世の中のことは、多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」という真理のみは、古来ただ一つの例外すらないのです。諸君らが、この「人生二度なし」という言葉に対して、深く驚かないのは、無意識のうちに自分だけはその例外としているからではないでしょうか。もちろん諸君らも意識すれば、自分をその例外であるなどと考えている人は、一人もないに相違ないのです。要するに諸君たちが自分の生命に対して真に深く思いをいたしていない何よりの証拠だといえましょう。すなわち諸君らが二度とない一生をこの人の世にうけながら、それに対して、深い愛惜尊重の念を持たない点に基因すると思うわけです。 われわれは、わずか一日の遠足にさえ、プランを立て、調査をするわけです。しかるにこの二度とない人生について、人々は果たしてどれほどの調査と研究とをしているでしょうか。否、この「人生二度なし」ということさえ、常に念頭深く置いている人は少ないかと思うのです。これ古来多くの人が、たえず生きかわり死にかわりするけれど、しかも深く人生の意義と価値とを実現する人の少ないゆえんかもしれません。 そもそも人生の意義については、いろいろ考え方がありましょうが、われわれ日本人としては、自分が天から受けた力をこの肉体的生命の許される限り、十分に実現して人々のために尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた後にも、なおその精神がこの国土に残って、後にくる人々の心に、同様な自覚の火を点ずることにあるかと思うのです。 かくしてわれわれが人間としてこの世に生まれてきた意味は、この肉体が朽ち果てると同時に消え去るのでは、まだ十分とは言えないです。というのも、この肉体の朽ちると共に、同時にその人の存在の意味も消え去るのでは、実は肉体の生きている間も、その精神は十分には生きていなかったという、何よりの証拠と言っていいでしょう。尊徳翁はその「夜話」の中で「生きているうちに神でない人が、死んだからといって、神に祀られる道理はない。それはちょうど、生きているうちに鰹でなかったものが、死んだからといって、急に鰹節にならぬのと同じだ」と言っていますが、さすがに大哲人の言葉だけあります。生前真にその精神の生きていた人は、たとえその肉体は亡びてもちょうど鐘の余韻が残るようにその精神は必ずや死後にも残ることでしょう。 こう考えると、諸君らは今こそここに志を立てるべき時です。そのような志が真に確立しない限り、諸君らは真に深く自分の生命を愛惜するとは言えないでしょう。何となれば、真の精神は不滅であり、いかに凡人でもその生涯を深い真実に生きたならば、必ずやその死後、何らかの意味でその余韻を残しているからです。人間が死後にも生きる精神とは、結局その人の生前における真実心そのもので、その真実の深さに比例して、その人の精神は死後にも残るのです。かくして人生の真のスタートは、この「人生二度なし」という真理を、その人がいかに痛感するかから、始まると言ってよいでしょう。」
2016年11月04日
今は亡き父母に「家族新聞」をえんえんと送っていた。子の作ったものは 喜んで読んでくれる 親心の有難さ想えばこれが 現在、行っている ボーイズ・ビー・アンビシャスシリーズ や 報徳記を読むシリーズ の原型なのかもしれない。父母に感謝である。 「坂村真民」の詩の紹介(森信三「幻の講和」第二巻より)○第五講「家庭というもの」より「 ねがい 坂村真民 ただ 一つ 花を 咲かせ そして 終るこの 一年草の 一途さに 触れて 生きよう○森先生は、子どもの基本的しつけは、一、朝晩のあいさつ 二、返事 三、ハキモノをそろえる の三つでよいと考える。「あいさつと返事ができるようになれば、親のいうことの聞ける子どもになる。この二つをしつけることによって、一応子どもとしての「我」が除かれるために、親のいうことを素直に聞けるようになる。基本的なしつけは、ごく少数の基本的事柄を小さいうちにーなるべく小学校に入る前にー十分に徹底させることが、しつけの秘訣です。」と○第六講「学校というところ」より「 花は開けど 坂村真民 花はひらけど わが眼ひらかず わが心ひらかず罪業の深さよ 視力を失おうとする 眼に映りくる 花の清さよ坂村さんが、今日に到られたについては、いろいろな原因が働いているでしょうが、私に分かっている範囲では、①お母さんが偉かったこと、②杉村春苔尼という優れた方を師として持たれたこと、③敗戦による引揚者の一人として、辛酸をなめられたことなどが考えられます。しかし、もう一つの大きな原因は、坂村さんは中年のころ眼疾にかかられ、一時は失明の恐れさえあったということです。そしてこの詩は、そうした消息の伺える詩といえましょう。実際、眼病は、特にそれが失明の恐れさえあるというに到っては、その深刻さは直接その経験をした人でなければ分かりません。それというのも、万一失明となると、第一教職に留まっていられなくなります。失明は直ちに失職につながるわけで、失業はやがて死につながりますから、実に深刻きわまりない出来事といってよいわけです。この詩の背景となっているこれらの事柄を頭に入れた上で、もう一度この詩を読んでみましょう。 花はひらけど わが眼ひらかず わが心ひらかず罪業の深さよ 視力を失おうとする 眼に映りくる 花の清さよいかがです。こうして味わってみますと、詩というものが心ある人々にとって、いかに深い力を持っているか、お分かりになりましょう。○第七講「世の中へ出て」「 念ずれば花ひらく 坂村真民 念ずれば 花開く 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしも いつのころからか となえるようになったそうしてそのたびに わたしの花が ふしぎとひとつ ひとつ ひらいて いった 坂村さんの今日に到られたいくつかの原因のうち、第一にお母さんの偉さをあげましたが、実は坂村さんは、五つの歳にお父さんが亡くなられ、それ以後は未亡人のお母さんによって育てられたそうです。そういう中で、息子を遠く専門学校へ入られたその一つをとって見ても、坂村さんのお母さんという方が、どういう方だったかが、うかがえるのです。それというのも、もしお母さんがそれに反対だったら、おそらく現在の坂村さんはありえなかったと思われるからです。 しかし、坂村さんのお母さんの偉さはひとりそれだけではないのであります。そしてその点ハッキリうかがえる点で、この詩のもつ意義は大きいといっていいでしょう。それにしても「念ずれば花ひらく」とは、何という良い言葉でしょう。それはこの世にあるコトバのうちでもおそらくは最上のコトバの一つといってもよいのではないでしょうか。このように考えますと、坂村さんの今日あることも、決して偶然ではないといえましょう。○「われわれ人間は、社会を「場」として行われる人間形成の厳しさによって、深刻な鍛錬を受けると申しました。しかし、われわれ人間は、これら職業的な事柄以外にも、さらに家庭的な種々の出来事によって深刻な試練を受けるのであります。それは両親に亡くなられるとか、妻や子を失ったり、あるいは火災や盗難、地震等の天災に見舞われたり、時には自分自身が病気になったり、私生活上の苦難の鍛錬も決して少なくないのであります。では、これらの試練に対して、一体どのように対処するかというと、結局これらの試練を正しく受け止めるしかない、つまり、それらの試練は、「天」がこの自分を鍛えるために与えられたものと考える他ない。同時にこれ以外には、それらの苦難を根本的に生かす道は、おそらくはあるまいと思うのです。
2016年11月04日
小さな由布院、百年の町づくり 木谷文弘1――湯布院が求めてきたもの「九州の山ん中の小さな田舎というかムラ、それが湯布院なのです」大分県湯布院町について、湯布院の人に尋ねると、そのような答えが返ってくる。人口が1万2千人の盆地だ。周囲は山に囲まれている。田園風景が広がっている。なるほど小さな田舎のムラだ。そのムラに、年間 4 百万人ほどの観光客が来る。我が国有数の観光地といってもいいだろう。「大勢の観光客がどうして来るようになったのですか?」そのような質問をすると、湯布院の人たちは困惑した顔を見せる。湯布院の人たちにもその理由はわからないということらしい。40年前の湯布院はどこにでもある田舎の鄙(ひな)びた寒村だった。湯布院の隣町別府には、当時、多くの団体観光客が訪れていた。湯布院の誰もが「別府のようになりたい」と思っても不思議ではなかった。しかし、湯布院の人たちは叫んだ。「別府になるな。湯布院を小さな別府にしてはいけない」別府のようなまちづくりを進めていけば、小さな湯布院は大きな別府に取り込まれてしまう。ムラの良さが壊されてしまう。湯布院の人たちは考えた。「湯布院は湯布院の地域性を生かした独自の歩き方をしなくてはいけない。『湯布院はゆたかな町なんだ』といわれる故郷をみんなでつくっていこう」湯布院という地域をどうしようかと考えた時、湯布院の人たちは「ムラ」であることを大切にしようと考えたのは確かだろう。ここでは「ムラ」というキーワードを中心に、湯布院の「祭り」「産業」「自然」について述べてみたい。2――ムラである湯布院の祭り一年に一度ある祭りのために、一年間、一生懸命働く人がいる。ムラの祭りとはそういうものだ。祭り、今風にいえばイベントといってもいいだろう。湯布院では「音楽祭」「映画祭」など多くのイベントが開催されている。そのほとんどが、40年の間に考えられたものだ。すべてが手づくりだ。手づくりであるがために、バブルがはじけた今でも継続されている。今年で、音楽祭は 31 年、映画祭は 30 年を迎える。手づくりのイベントは大きな感動と、次への期待を感じさせてくれる。それも長続きの理由だろう。第8回の「湯布院映画祭」での出来事だ。映画祭のゲストはノーギャラだ。交通費と宿泊費のみを主催者が持つだけだ。ゲストの迎えもスタッフの自家用車で迎えることになる。特別試写会で「竜二」という映画が上映された。スタッフは主演の金子正次を空港に迎えに行った。金子の顔色が悪い。「湯布院映画祭に招待された。挨拶ぐらいはちゃんとしたい」金子は手術後の身体だった。痛み止めの麻酔を打つと気分が朦朧とする。挨拶ができない。挨拶が終わるまで我慢をすると言う。凄い人がいる。スタッフは何も言えなかった。映画上映の前、金子はステージで挨拶に立った。白いスーツに白い帽子とサングラスの格好だった。「新人だ。派手にやれ」と会社から言われていた。金子はひとこと言った。「竜二です」観衆に受けた。映画はより受けた。上映が終わっても拍手がしばらく続いた。観客席にいた金子が立ちあがった。拍手はまた高まった。シンポジウムも盛り上がった。立食による交流会が始まった。金子は気分がすぐれなかった。それでも映画の余韻を引きずったまま、観衆との談話を楽しんでいた。誰かが椅子を持ってきた。椅子に座った金子を中心にしてみな車座になって床に座った。田舎のなおらいとなった。それから3ヶ月後、金子は「竜二」の一般上映開始直後に亡くなった。肝臓癌だった。その話を聞いた湯布院映画祭のスタッフたちは泣いた。大分の一般上映を前に、前売り券を多量に預かり、スタッフたちは全員で売って回ったという。これが湯布院のムラの祭りである。手づくりだからこそ、このような感動が生まれる。イベントが祭りが終わる。スタッフたちは来年へ向かって走り出している。3――ムラである湯布院の産業湯布院の人たちはまちづくりを進めようとした時に、まず「地域ありき」と考えた。観光地としてのまちづくりではなく、地域そのものを良くしていこうと考えた。ムラの産業の中心は農業だ。農業の発展なくしてムラである湯布院の発展はない。そこで、農業と観光業の「協働」を積極的に仕掛けてきた。例えば、旅館の料理人新江憲一の話だ。湯布院の野菜を使って料理をしよう。「地産地消」ということだ。安全安心な料理を提供できる。それが、湯布院の農業と観光業の協働だと、新江は考えた。新江は農家を訪ねた。湯布院の農家はホウレン草をつくっているところが多かった。単一品種をつくる方が生産性も増し効率的で品質の良いものをつくることができた。「湯布院で採れる野菜でお客へ料理を出したい。いろいろな野菜をつくって欲しい」新江はお願いした。農家の人は承諾しなかった。自家用の野菜はつくっていたが、旅館相手となると片手間といかなかった。品質の問題もあったが、一定量をいつも確保できるかの不安もあった。新江は農家へ一年半通った。やっと了承を得ることができた。シュンギク、大根、白菜と届けられた。湯布院の旬のものが入る。新江は喜んだ。冬が過ぎ春が過ぎて夏が近づいた。キュウリ、ナス、トマトが、毎朝、届けられた。しかし、夏野菜は毎日収穫できる。野菜は余るようになった。新江は困った。仲間の料理人に頼んだ。それをきっかけに「ゆふいん料理研究会」というものを、新江は立ち上げた。「ゆふいん料理研究会」とは、旅館、ホテルなどの料理人たちが集まって料理の研修や研究をするのだ。80名ほどの料理人が夜9時頃から集まる。それぞれの宿のレシピをお互いに紹介しあう。時には農家の人も来た。農家が料理を勉強するようになった。料理人が農業を勉強するようになった。湯布院の料理がますますおいしくなった。農業と観光業だけではない。湯布院のイベントのポスター貼りでも、昔は、各商店へお願いして回った。今では「もうすぐ音楽祭やね。ポスターはまだできないのかな」との催促がくるようになった。イベント間近の駅前の商店街はポスターがずらりと貼り出されるということになる。ムラだからできた手づくりイベントの成功と感動は、観光業と商業の協働をも可能にした。湯布院では、農業と商業と観光業との複合的な「協働」のシステムがいつのまにかつくられている。それは、お互いに助け合うというムラの「結い」の心が今でも生きているということだ。4――ムラである湯布院の自然・景観湯布院のまちづくりは「ゴルフ場建設反対」運動から始まった。別府と湯布院の間にある「猪の瀬戸湿原」という自然を守ろうと、湯布院の人たちは叫んだ。ゴルフ場というと、当時、観光業にとっては誘致こそすれ建設に反対するとは信じられないことだった。しかし、ゴルフ場の自然と湿原の自然の「質」の違いを、湯布院の人たちはわきまえていたのだ。それがために「湯布院は自然を大切にする町」として知られるようになった。そして、湯布院のまちづくりにおいては、自然保護、景観の保全ということをいつも考えてきた。ひとつの例が、駅前通りだ。駅前広場から見る湯布院の商店街通りはすっきりとしている。一見「電線地中化」がなされているように見える。電線地中化は、田舎である湯布院ではなかなか進まない。そこで、湯布院の人たちは考えた。電柱や電線を家屋の背後へ回した。湯布院を訪れた人がまず見るであろう由布岳の景観を、湯布院の人たちは大切にしたかったのだ。しかし「地域ありき」「自然ありき」でやってきた湯布院の自然景観や町並みの景観も、最近、怪しくなってきている。観光客の増加とともに、県外資本の土産店や宿泊施設が進出してきた。町内のあちこちに建てられる建物や看板による景観の破壊状況が年々ひどくなっている。デザインに統一性がなく、ただけばけばしいだけのそれらは「湯布院らしさ」というものを考慮していないのだ。駅から金鱗湖へ続く道が湯布院観光の一番のルートだ。その中でも、観光客が多く散策する湯の坪地区の状況が特に問題視されている。そこで、地元の人たちが集まり「湯の坪街道デザイン会議」というものを立ち上げた。行政主導ではなく民間主導というところが湯布院らしい。メンバーは地元の観光関係、商工関係、町づくりグループと多岐に渡っている。公平性を期するために、観や交通などの専門家にもアドバイザーとして参加してもらっている。湯布院の人材のネットワークの奥深さがわかる。会議では「湯布院らしさ」を取り戻すために、どうすればいいのかを検討し、景観形成の方針を策定した。建物の改築、看板や自動販売機の設置など景観を変更る場合には、事前に地権者同士が話し合いをする「湯の坪景観協定」を締結した。協定では、景観の改変を伴う一切の行為について、地権者が「湯の坪デザイン委員会」に計画書などを提出、相談をし、同委員会の助言、指導、勧告に従うことを義務づけている。ムラである湯布院の「湯布院らしい」景観を守るために、地域の景観はまず地域で考えていこうということだ。5――湯布院の百年のまちづくり~農村生活観光地昭和46年に、湯布院のまちづくりにとって何が必要なものかと、志手康二(「夢想園」)、中谷健太郎(「亀の井別荘」)、溝口薫平(「由布院・玉の湯」)の三人がヨーロッパを旅した。その 60日の旅が、湯布院のまちづくりに大きな影響を与えたといわれている。その旅で、出会ったドイツの温泉保養地バーデンヴァイラーのホテルのオーナーから話を聞き、3人は多くの示唆を戴いたらしい。主なものを列記する。・まちづくりにとって必要なものは「緑」「空間」「静けさ」だ。・まちづくりはひとりでは孤立する。大勢の仲間で進めることが大切だ。・ひとりでも多くの人がよその町を見ることが大切だ。去年、私は中谷、溝口ら湯布院の人たちとそのバーデンヴァイラーという町を訪れた。バスが町中へ入った時に、溝口が言った。「変わっていない。昔、来た時と町の風景が変わっていない」町の景観が30 数年前と変わっていないらしい。変わったものは何かないかと、私たちは町中を散策した。町の中の自然が少し大きくなっていた。建物のいくつかは建て替えられていた。高さや色彩などが変えられていないから、ムラの醸し出す懐かしい雰囲気の中で気持ちがやすらいできた。ドイツの旅を続けながら、私は思った。ドイツの農村の風景は実に美しい。美しいだけではない。実質的に生産している景観が農村のゆたかさを感じさせてくれた。この景観は、行政が考える五カ年計画や十カ年計画でつくることはできない。少なくとも百年という時の積み重ねが必要なのだ。「30年前は保養温泉地、これからは農村生活観光地だ」今回の旅の途中、中谷が言った。ムラである湯布院のあるべき姿は「農村生活観光地」ということだ。「農村生活観光地」の湯布院、持続していく湯布院のまちづくりには、百年ではなく永遠に続くということだ。ムラである湯布院らしい「祭り」「産業」「自然」を味わいながら楽しみながら、「ムラ」ということをより深めていけばいい。その中で、人々がゆたかさを感じながら生きていけばいいということだ。(文中敬称略)
2016年07月14日
2 由布院の宿 「母が由布院に行きたかったと言っていたのです」 先日、お母さんを亡くされた友人から電話があった。 「母の供養といってはおかしいのですが、由布院に行こうと思います」 友人はお母さんを由布院に案内する気持ちなんだろうな。私は思った。 友人は早朝の高速バスで大分に着くという。 うん、私は悩んだ。早朝から開いている食堂など由布院にはない。 私はある旅館の主に頼んだ。 「朝食だけをつくつて戴きませんか?」 そこの旅館は温泉も一般客に開放していなかった。 宿泊客を大切にする小さな旅館として知られていた。 私は事情を話した。主の顔が崩れた。 「わかりました。宿泊のお客様の朝食が終わる頃にご用意しましょう」 微笑みながら言った主の次の言葉が忘れられない。 「お母さんもご友人の方もお疲れですから、温泉にまず浸かって下さい」 当日、友人をその旅館に案内した。 紅葉に彩られた緑の小径に、友人は驚いていた。 「こんな旅館で朝食ができるのですか?」 私は何も言わずにフロントに近づいた。 「お荷物など貴重品をお預かりします」 フロントの担当者は普段どおりの対応をしてくれた。 朝の湯煙が漂う温泉に入った。 「あああーっ、ひと息つける。やっぱり温泉っていいですよね」 「お母さんも女性風呂に浸かっていると思いますよ」 友人は遠くを見る目つきをした。 温泉から上がると、食事の場に仲居さんが案内してくれた。 一番端の静かな席だった。友人と友人の知人、そして私は座った。 「まずは地ビールで乾杯をしますかな」 私は友人に微笑みながら言った。 地ビールで乾杯した。湯上がりのビールはおいしかった。 仲居さんが朝食の準備を始めた。友人と私達はビールを呑んでいた。 仲居さんが御飯と味噌汁を持ってきていた。 ビールを呑んで、少しお酒を呑む気でいた。 「朝から呑んでもいいですか」と主には了解を得ていたのに そんなに早く御飯や味噌汁を持ってきてと、私は苛立った。 仲居さんは、私の苛立ちに関係ないような顔をした。 仲居さんは、私や友人の前でなくひとつ席をつくり始めた。 御飯とおみそ汁と漬け物と箸とコップをキレイに並べ終えた。 「お母様のお席です。みなさまでお食事をゆっくりと楽しんで下さい」 友人は呆然としていた。お母さんのことを思い出しているのだろう。 私は旅館の主の気配りに感謝していた。 「それでは、もう一度乾杯しますかな。 お母さん、由布院へようこそいらっしゃいました」 紅葉の由布院の朝、それはそれは透きとおるような青空が広がっていた。
2016年05月07日
愛媛大学図書館は今は亡き友人木谷文弘の母校である。木谷さんの文体とユーモア・ペーソスは今でも鑑(カガミ)である。1 「二宮尊徳の会」鈴木藤三郎氏顕彰.二宮尊徳の会.2 二宮金次郎の対話と手紙 : 中学生からお年寄りまでよくわかる ; 第1.2刷. -- 二宮尊徳の会, 2015.巻号 所蔵館 配置場所 請求記号 状態 第1 中央館 書庫-和 157.2/NI/1 通常 ---3 補注鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』 : 明治29年(1896)7月24日-同30年(1897)5月8日鈴木藤三郎[著]. -- 二宮尊徳の会, 2015.巻号 所蔵館 配置場所 請求記号 状態 中央館 書庫-和 588.1/SU 通常 ---4 新渡戸稲造 (にとべいなぞう) の留学談・帰雁 (きがん) の蘆 (あし)新渡戸稲造 [談] ; -- 2刷. -- 二宮尊徳の会, 2014. -- (ボーイズ・ビー・アンビシャス ; 第3集).巻号 所蔵館 配置場所 請求記号 状態 中央館 書庫-和 281/BO/3 通常 ---5 内村鑑三神と共なる闘い : 不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」-- 2刷. -- 二宮尊徳の会, 2014. -- (ボーイズ・ビー・アンビシャス ; 第5集).巻号 所蔵館 配置場所 請求記号 状態 中央館 書庫-和 281/BO/5 通常 ---6 砂糖王鈴木藤三郎 : 氷砂糖製造法の発明.二宮尊徳の会, 2013.巻号 所蔵館 配置場所 請求記号 状態 中央館 書庫-和 588.1/SA 通常 ---7 ボーイズ・ビー・アンビシャス.二宮尊徳の会, 2013.8 《クラーク精神》&札幌農学校の三人組 (宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造) と広井勇 : boys be ambitiousはいかにして現実化されたのか日本の近代化・合理化の一源流「札幌農学校精神」.二宮尊徳の会, 2013. -- (ボーイズ・ビー・アンビシャス).巻号 所蔵館 配置場所 請求記号 状態 中央館 書庫-和 281/BO/1 通常 ---9 報徳産業革命の人 : 報徳社徒鈴木藤三郎の一生 -- 二宮尊徳の会, 2011. -- (「二宮尊徳の会」鈴木藤三郎氏顕彰 ; 第1集).巻号 所蔵館 配置場所 請求記号 状態 中央館 書庫-和 289.1/HO/1 通常6 座布団の前後 「木谷くん、それって座布団の前後が逆よ」 学生時代、道後温泉の旅館で働いていた時、ひとりの品のよい仲居さんから怒られた。 「座布団の前後が逆?」 座布団の裏表は縫い目を見ればわかる。前後が逆と言われた。 「あの人は料亭で働いたことがあるの。気にしなくてもいいから」 他の品のない仲居さんからそっと耳打ちされた。でも、品の良い仲居さんが並べた座布団の後を見るときちんとしている。 仲居さんに座布団の前後を尋ねる機会がないままアルバイトを終えた。 座布団に前後があるのか。どうして見極めるのか。卒業して三十数年間、頭の隅にそのことがひっかかっていた。 先日、松下幸之助さんの本を読んでいた座布団の話があった。松下さんが座布団を勧めてくれた若者に言ったらしい。 「君、この座布団、前と後ろが反対と違うか?」 「前でも後ろでも一緒じゃないですか。 座れたらどっちでもいいじゃないですか」 若者は簡単に言った。松下さんは強く叱ったらしい。 「そういう考え方をしている間は、絶対に一流になれん!君なあ、百人のうち一人かもしれん。あるいは、千人のうちの一人かもしれん。世間には本物を見抜く人がおるんや。その本物を見抜く人の目を畏れて仕事をせなあかん!」 松下さんの言葉にも感動したけれど、私は道後温泉の品の良い仲居さんを思い浮かべた。 座布団の前後の見分け方をみなさんは知っているだろうか。座布団は四方のうち一箇所だけ縫い目のないところがあるらしい。 その縫い目のないところが前となるらしい。 人が座布団に座った時に、膝の下になる部分に縫い目が来てはいけないらしい。 ふむふむ、私は、また、道後温泉の仲居さんを思い浮かべぽつりと言った。 「ありがとうございました。やっとわかりました」 家に帰って、早速、座布団をしげしげと眺めた。四方共に縫い目が入っていた。これではどこが前かわからない。仲居さんよ~い、私は空に呼んでみた。 母に尋ねてみた。「座布団は縫い目がない方が前と思うのだが、四方に縫い目がある。わからん」 母はいとも簡単に言い放った。 「それは高級な座布団よ。うちのような座布団は高級な作りをしていないのさ」 そりゃそうだ。素直に納得した。 母の話はまだ続いた。 「縫い目の中に、内縫いでなく外から縫っているところがある。 綿を入れた口の方さ。そこが後ろと考えてもいいさ。 また座布団カバーの場合は、チャックのついているところが後ろだろうね」 なるほど、これまた私は素直に納得していた。これは薀蓄(うんちく)のひとつになるわい、と私は満足していた。 母が新聞を見ながらぽつりとこちた。 「それって常識だわさ。おまえは、そんなことをわからないでいたのかい」 満足が反省の念に変わっていった。ああ。
2016年05月06日
3 北の田舎から来たおもとだち 北海道という名の田舎から友人が来た。 「どこへ行きたい?」 「ちっちゃいところへ行きたい。」 私の質問に友人はそう答えた。 ちっちゃいところ・・・・・・そうだよな。広大な田舎で日々生活をしている友人だ。 たまには、ちっちゃいところへ行きたいのだろう。 うん、わかった。ちっちゃな盆地『由布院』へ、私は友人を案内した。 「どこの家にも柿の木がある!」 友人は驚きながら叫んだ。 北海道には柿の木がないのか。柿の木の北限は山梨らしい。 私は初めて知った。私の方が驚いた。田舎の秋という季節には、やはり柿の木がなくてはならない。 「いいな。竹林がある」 今度は竹林を見ていた友人がうっとりとした声で言った。 エッ、北海道には竹もないのか。 そう、竹の北限は青森らしい。北海道には笹しかない。 そう、現在、アイヌの人たちが吹いている竹製の口琴さえも、昔は、木で造っていたらしい。 由布岳を見ながら、私は佇(たたず)んだ。心を静かにした。 田舎の風景をつくる柿や竹林がないという北海道に、私は想いを馳(は)せた。 そうだよな。柿の木や竹林は、北海道には似合わないよな。 それぞれの田舎には、それぞれの風景をつくるそれぞれの自然があるのだ。 私はこぶしを堅く握った。 「ちっちゃな田圃(たんぼ)ばかりだよな」 友人は嬉しそうに微笑んだ。微笑みながら、私を振り向いた。 「広い大地があるけれど、厳しい気候に耐えて生きている北海道。 狭いけれどゆたかな自然に囲まれてい生きている由布院・・・・・・ みんなそれぞれの田舎で頑張って生きているんだな」 川沿いの小径を歩いて、私たちは金鱗湖へ出た。 「これが金鱗湖(きんりんこ)ですか・・・・・・これが湖か。秋になると霧の漂う金鱗湖なのですが・・・・・」 友人は呆然と金鱗湖を眺めていた。 おいおい、霧の摩周湖と比較しないでくれないか。阿寒湖と比べないでくれないか。 由布院はちっちゃいことを自慢する田舎なんだ。 「ちっちゃいところへいきたい」 そう言ったのはあんただろう。なあっ、ちっちゃな湖だろう。 ちっちゃな由布院を十分に楽しんだ友人は、広い広い北の田舎へ戻っていった。
2016年05月06日
1 母の顔 これは木谷さんから以前聞いた話である。感動して、朝食の準備をする家内に話して聞かした。話しながらまた胸がいっぱいになって、目に涙が浮かんできた。 「私は母の顔がすごく嫌いでした。 なぜなら大きなやけどの跡があるからです。 よそのお母さんはあんなに綺麗なのに、何で私のお母さんは…。とか、何でこの人が母親なんだろうとさえ思ったことがありました。 そんなある日のこと。その日の四時間目のこと私はあることに気づきました。 夕べ徹夜で仕上げた家庭科の課題が手元に無いのです。 どうやら家に置いてきてしまったようです。 あたふたして勉強も手につきません。 家庭科の授業は五時間目。 私は昼休みに自宅まで取りに帰る事を決心しました。 四時間目も終わり帰る準備をしていたところ、 クラスメートが「めぐみ~、めぐみ~、お母さん来てるよ」 と言いました。私は、はっとしました。 急いで廊下に出てみると何と母が忘れた課題を学校まで届けに来ていたのです。 「なんで学校にきてるのよ!取りに帰ろうと思ってたのに!」と息を立てて問い詰めると、 「でも、めぐみちゃん夕べ頑張ってやってたから・・・」といいました。 私は、「おばけみたいな顔して学校来ないでよ、バカ!」と言って母から課題をひったくるように取り上げるとすたすたと教室に入って行きました。 自分の母親があんな顔をしていることを友人達に知られてしまったことで私は顔から火が出る想いでした。 その日の夕飯後のこと、私は父親に呼ばれました。 昼間のことで怒られるのだろうな・・・と思いました。 すると父親は予想に反してこんな話をはじめました。 「お前がまだ生まれて数ヶ月の頃隣の家で火事があってな。 その火が燃え広がってうちの家まで火事になったことがあったんだよ。 そのときに二階で寝ていたお前を助けようと母さんが煙に巻かれながらも火の中に飛び込んでいったときに顔に火傷を負ってしまったんだよ。 今お前の顔が綺麗なのは母さんが火の中に飛び込んでいってお前を助けたからだよ。」 私はそんなことは、はじめて聞きました。 そういえば今まで火傷の理由を母から聞いても、あやふやな答えしか返ってきたことはありませんでした。 「なんで今まで黙ってたの?」 私は涙ながらに母に聞くと、母は静かに言いました。 「めぐみちゃんが気にすると思って、ずっと黙ってようと思ってたんだけど……」 私は母への感謝の気持ちと今まで自分が母親に取ってきた態度への後悔の念とで胸が張り裂けそうになり、 「お母さん~」と言って母の膝の上でずっと泣いていました。 今では自分の母の顔のことが誇りにさえ思えるようになりました。家族を、私を守ってくれた母のこの顔の傷のことを・・・。」
2016年05月06日
由布院の宿 木谷文弘「母が由布院に行きたかったと言っていたのです」先日、お母さんを亡くされた友人から電話があった。「母の供養といってはおかしいのですが、由布院に行こうと思います」友人はお母さんを由布院に案内する気持ちなんだろうな。私は思った。友人は早朝の高速バスで大分に着くという。うん、私は悩んだ。早朝から開いている食堂など由布院にはない。私はある旅館の主に頼んだ。「朝食だけをつくつて戴きませんか?」そこの旅館は温泉も一般客に開放していなかった。宿泊客を大切にする小さな旅館として知られていた。私は事情を話した。主の顔が崩れた。「わかりました。宿泊のお客様の朝食が終わる頃にご用意しましょう」微笑みながら言った主の次の言葉が忘れられない。「お母さんもご友人の方もお疲れですから、温泉にまず浸かって下さい」当日、友人をその旅館に案内した。紅葉に彩られた緑の小径に、友人は驚いていた。「こんな旅館で朝食ができるのですか?」私は何も言わずにフロントに近づいた。「お荷物など貴重品をお預かりします」フロントの担当者は普段どおりの対応をしてくれた。朝の湯煙が漂う温泉に入った。「あああーっ、ひと息つける。やっぱり温泉っていいですよね」「お母さんも女性風呂に浸かっていると思いますよ」友人は遠くを見る目つきをした。温泉から上がると、食事の場に仲居さんが案内してくれた。一番端の静かな席だった。友人と友人の知人、そして私は座った。「まずは地ビールで乾杯をしますかな」私は友人に微笑みながら言った。地ビールで乾杯した。湯上がりのビールはおいしかった。仲居さんが朝食の準備を始めた。友人と私達はビールを呑んでいた。仲居さんが御飯と味噌汁を持ってきていた。ビールを呑んで、少しお酒を呑む気でいた。「朝から呑んでもいいですか」と主には了解を得ていたのにそんなに早く御飯や味噌汁を持ってきてと、私は苛立った。仲居さんは、私の苛立ちに関係ないような顔をした。仲居さんは、私や友人の前でなくひとつ席をつくり始めた。御飯とおみそ汁と漬け物と箸とコップをキレイに並べ終えた。「お母様のお席です。みなさまでお食事をゆっくりと楽しんで下さい」友人は呆然としていた。お母さんのことを思い出しているのだろう。私は旅館の主の気配りに感謝していた。「それでは、もう一度乾杯しますかな。 お母さん、由布院へようこそいらっしゃいました」紅葉の由布院の朝、それはそれは透きとおるような青空が広がっていた。
2015年10月30日
愛媛大学は畏友木谷文弘の母校である。木谷兄は大分県の出身で愛媛大学に進んだ。理系の出だが、文章をよくし、新潮新書から「由布院の小さな奇跡」を出し、大学の教材にも使われたこともある。「ポルソッタ通信」というメールでの、随筆を多くの人に送って、楽しませたりほろりとさせたり、ユーモアとペーソスの文章に巧みだった。GAIAのフリーページにもいくつかそうした「ポルソッタ通信」を収録している。325 お姉さんの割烹着 三十数年前、学生時代を、私は愛媛の松山で過ごした。緑ゆたかな城山の近くにこぎれいな小料理屋があった。一階に七席程度の白木のカウンター、二階に六畳ほどの小部屋があった。そこが、私たち仲間のたまり場だった。おばあさんがひとりで切り盛りしていた。違う。七時を過ぎた頃になるとおばあさんの孫である娘さんが来た。娘はデパートに勤めていて、夜の忙しい時だけおばあさんの手伝いに来ていた。彼女は、二十五、六歳といったところだ。私たちにとってはお姉さんだった。それは、私たちが接するはじめての社会人の女性、まぶしい大人の女性だった。お姉さんは化粧をしていなかった。でも、瞳はいつも輝いては肌は白く髪は長く、私たちにとっては憧れの人だった。お姉さんは店へ来ると、紺絣の着物に着替えた。そして、白い割烹着をつけた。「私はあわてん坊だからと、おばあちゃんが割烹着をつくってくれたの」お姉さんが微笑みながら答えた。そう、お姉さんはあわてん坊だった。割烹着に酒や醤油をよくこぼしていた。そしてね、急な階段をけたたましい悲鳴とともに滑り落ちることも珍しくなかった。私たちは我がちにと階段の上から助けに行く。お姉さんはお尻をさすりながら私たちを仰ぎ見る。着物の裾から見える白い足に、私たちは興奮しまた感動した。お姉さんは慌てて裾を直す。その仕草がとても愛くるしく、私たちはまた感動したものだ。仲間たちの来るのが遅くて、私ひとりがお姉さんと向かい合うこともあった。そうだよな。お姉さんを独り占めして語り合える。それは、私にとって至福のひとときだった。「木谷くんは、どんな社会人になるのかな。私、楽しみだな」お姉さんがお酌をしてくれながらささやいた。うん、私は何も言えなかった。ある夜のことだった。料理がいつもと違ってやけに豪華だった。「今夜は、私のおごりよ。みんな、どんどん呑んでよね」お姉さんが私たちに叫ぶように明るく言った。そして、お姉さんは割烹着をはずした。私たち、ひとりひとりにお酌をしてくれた。普段は化粧をしていないお姉さんが薄化粧をしていた。それはとてもきれいなお姉さんだった。私たちは酔っぱら払った。私たちは唄った。フォークソング、ロシア民謡、叙情歌などを、次から次へと唄った。そして、一段落した時、お姉さんがぽつりと言った。「みんなで城山へ登ろうか」みんなで城山に登った。松山の夜景がとてもきれいだった。風が頬に吹いてきた。「これが私の故郷なのよね。そして、みんなと楽しく過ごしたところなのよね」お姉さんが涙声でつぶやいた。それは、私にだけしか聞えなかった。私はいお姉さんを見た。白い顔が少し紅潮していた。長い髪が風にゆらりゆらりと揺れていた。いつも輝いている瞳がどこともなく細くなっていた。翌日からお姉さんは来なくなった。おばあさんが一通の手紙を私たちに差し出した。「みなさんにさよならを言うのが辛かったから黙っていました。私は結婚します。大阪にいる彼のところへ行きます。みなさんは頑張って立派な社会人になって下さい」おばあさんはカウンターの中の椅子に座っていた。小さなからだがより小さく見えた。やがて、大学紛争がより激しくなり、大学は荒れていった。思想も哲学もなかった私は「山登り」に夢中になっていった。そして三十数年が過ぎた。割烹着をつけた女性を見ると、私はお姉さんを思い出す。そう、お姉さんは今でもあの頃の若いままなのだ。そのお姉さんに、私は語りかけてしまう。「あわてん坊のお姉さん、今でも白い割烹着をつけて頑張っているのですか?」(2003/12/26)
2015年09月17日
「薫平さんと健太郎さんから教わったこと」は故木谷文弘さんが、私家版として作った新書版の本である。その内容の多くは新潮新書の「由布院の小さな奇跡」に受け継がれた。木谷さんとの懐かしい交流を思い出させる大切な本である。よく飲んだ、よく語った・・・よき友は宝である。木谷さんはただの友人ではなく、畏友といえる友であった。 母がなくなって、法事で帰るとき、兄が位牌を持たせてくれた。わたくしは、木谷さんに 大分に寄って、会いたいと連絡をした。すると木谷さんは、玉の湯の主と話をつけて、温泉に入り、朝食をいただくという贅沢なひとときを用意してくれた。そして 由布院のおいしいものを食べさせ、由布院88か所に連れて行ってくれた。ああ、その一つ一つが木谷さんのやさしい思いやりにみちている。「薫平さんと健太郎さんから教わったこと」を手にとって限りない感慨にふける。 由布院の宿 木谷文弘「母が由布院に行きたかったと言っていたのです」先日、お母さんを亡くされた友人から電話があった。「母の供養といってはおかしいのですが、由布院に行こうと思います」友人はお母さんを由布院に案内する気持ちなんだろうな。私は思った。友人は早朝の高速バスで大分に着くという。うん、私は悩んだ。早朝から開いている食堂など由布院にはない。私はある旅館の主に頼んだ。「朝食だけをつくつて戴きませんか?」そこの旅館は温泉も一般客に開放していなかった。宿泊客を大切にする小さな旅館として知られていた。私は事情を話した。主の顔が崩れた。「わかりました。宿泊のお客様の朝食が終わる頃にご用意しましょう」微笑みながら言った主の次の言葉が忘れられない。「お母さんもご友人の方もお疲れですから、温泉にまず浸かって下さい」当日、友人をその旅館に案内した。紅葉に彩られた緑の小径に、友人は驚いていた。「こんな旅館で朝食ができるのですか?」私は何も言わずにフロントに近づいた。「お荷物など貴重品をお預かりします」フロントの担当者は普段どおりの対応をしてくれた。朝の湯煙が漂う温泉に入った。「あああーっ、ひと息つける。やっぱり温泉っていいですよね」「お母さんも女性風呂に浸かっていると思いますよ」友人は遠くを見る目つきをした。温泉から上がると、食事の場に仲居さんが案内してくれた。一番端の静かな席だった。友人と友人の知人、そして私は座った。「まずは地ビールで乾杯をしますかな」私は友人に微笑みながら言った。地ビールで乾杯した。湯上がりのビールはおいしかった。仲居さんが朝食の準備を始めた。友人と私達はビールを呑んでいた。仲居さんが御飯と味噌汁を持ってきていた。ビールを呑んで、少しお酒を呑む気でいた。「朝から呑んでもいいですか」と主には了解を得ていたのにそんなに早く御飯や味噌汁を持ってきてと、私は苛立った。仲居さんは、私の苛立ちに関係ないような顔をした。仲居さんは、私や友人の前でなくひとつ席をつくり始めた。御飯とおみそ汁と漬け物と箸とコップをキレイに並べ終えた。「お母様のお席です。みなさまでお食事をゆっくりと楽しんで下さい」友人は呆然としていた。お母さんのことを思い出しているのだろう。私は旅館の主の気配りに感謝していた。「それでは、もう一度乾杯しますかな。 お母さん、由布院へようこそいらっしゃいました」紅葉の由布院の朝、それはそれは透きとおるような青空が広がっていた。
2014年10月25日
「磐田市で青山士を読む会」の際に、ちょっと一息磐田市バージョンを おまけ として持参した。 袋井にも 袋井バージョン を作成してお持ちしよう。 おいでになった方への わたくしなりの おもてなし として「由布院の宿」木谷文弘「母が由布院に行きたかったと言っていたのです」先日、お母さんを亡くされた友人から電話があった。「母の供養といってはおかしいのですが、由布院に行こうと思います」友人はお母さんを由布院に案内する気持ちなんだろうな。私は思った。友人は早朝の高速バスで大分に着くという。うん、私は悩んだ。早朝から開いている食堂など由布院にはない。私はある旅館の主に頼んだ。「朝食だけをつくつて戴きませんか?」そこの旅館は温泉も一般客に開放していなかった。宿泊客を大切にする小さな旅館として知られていた。私は事情を話した。主の顔が崩れた。「わかりました。宿泊のお客様の朝食が終わる頃にご用意しましょう」微笑みながら言った主の次の言葉が忘れられない。「お母さんもご友人の方もお疲れですから、温泉にまず浸かって下さい」当日、友人をその旅館に案内した。紅葉に彩られた緑の小径に、友人は驚いていた。「こんな旅館で朝食ができるのですか?」私は何も言わずにフロントに近づいた。「お荷物など貴重品をお預かりします」フロントの担当者は普段どおりの対応をしてくれた。朝の湯煙が漂う温泉に入った。「あああーっ、ひと息つける。やっぱり温泉っていいですよね」「お母さんも女性風呂に浸かっていると思いますよ」友人は遠くを見る目つきをした。温泉から上がると、食事の場に仲居さんが案内してくれた。一番端の静かな席だった。友人と友人の知人、そして私は座った。「まずは地ビールで乾杯をしますかな」私は友人に微笑みながら言った。地ビールで乾杯した。湯上がりのビールはおいしかった。仲居さんが朝食の準備を始めた。友人と私達はビールを呑んでいた。仲居さんが御飯と味噌汁を持ってきていた。ビールを呑んで、少しお酒を呑む気でいた。「朝から呑んでもいいですか」と主には了解を得ていたのにそんなに早く御飯や味噌汁を持ってきてと、私は苛立った。仲居さんは、私の苛立ちに関係ないような顔をした。仲居さんは、私や友人の前でなくひとつ席をつくり始めた。御飯とおみそ汁と漬け物と箸とコップをキレイに並べ終えた。「お母様のお席です。みなさまでお食事をゆっくりと楽しんで下さい」友人は呆然としていた。お母さんのことを思い出しているのだろう。私は旅館の主の気配りに感謝していた。「それでは、もう一度乾杯しますかな。 お母さん、由布院へようこそいらっしゃいました」紅葉の由布院の朝、それはそれは透きとおるような青空が広がっていた。わたくしは、由布院のMさんあて、お礼のハガキを出した。「M様 11月23日木谷さんの案内で〇〇の朝食をいただき、誠に有り難うございました。木谷さんが鹿児島での母の四十九日法要の後、大分に寄ると知り、母の供養として全て面倒みましょうと申し出ていただいたので、母の位牌をリュックに背負って由布院へ参りました。○○の朝陽を浴びての温泉も夜行バスで来た疲れをとってくれましたが、特に母のために朝食の席(蔭膳)を設けて戴いたのには感激しました。その後、木谷さんに由布八十八箇所等案内して貰い忘れがたい一日となりました。母の妹二人に〇〇のおもてなしを伝えたところ、ともに感動し、亡き姉をもてなしてくれた玉の湯に、いつの日か行きたいと申しておりました。心からお礼申し上げます。由布院と皆様のご発展をお祈り申し上げます。」
2014年06月28日
由布院の小さな奇跡(「ちょっと一息」より) 東京に勤務していた時、北海道のT、大分県の木谷文弘と友人となり、その後も交友は続いた。木谷は文筆が達者で、新潮新書から「由布院の小さな奇跡」を出版した。その本に由布院の中谷健太郎・溝口薫平らがドイツの温泉町バーデン・バイラーを視察した時、ホテルの主人グラウテルさんから、あなた方は町をよくするため何をしているかと一人一人指差されて問い詰められ、何も答えられず、それがきっかけで由布院の街作りを決意する場面が載っている。グラウテルさんはこうも言った。「街作りには三人以上仲間がいる。世界中の同じ志をもった仲間と手を握ることが大事だ」と。 「南ドイツの、ドイツ、フランス、スイスと三つの国が重なるあたりの黒い森の麓にあるバーデン・ヴァイラーという小さな温泉地を、三人が訪れた時のことだ。バーデン・ヴァイラーは人口約四千人と、由布院に似た小さな温泉地だった。小さなホテルのオーナーであったグラテヴォルさんの話に、三人は感動した。その感動が、いまの由布院をつくったと言っても過言ではない。中谷が熱い想いで綴っている。「私たち三人が、ドイツのバーデン・ヴァイラーという町で受けたあの衝撃を、なんとか由布院の町の人たちにも伝えようと、わけのわからぬ、子供らしいあがきをはじめたのは事実だった。それは今でも続いている。あの日、グラウヴォルさんは私たちに熱く語ってくれた。『町にとって最も大切なものは、緑と、空間、そして静けさだ。その大切なものを創り、育て、守るために、君たちはどれほどの努力をしているのか?君は?君は?君は?』グラテヴォルさんは、私たち三人を、ひとりずつ指さして詰問するように言った。私たち三人は顔が真っ赤になってしまった」 グラウヴォルさんについて溝口もよく話する。 「まちづくりは、ひとりでやっていては孤立する。 最低でも、三人は必要だ。まちづくりは、大勢の仲間で進めることが大切だと、私たちはグラテヴォルさんから教わった」。
2014年06月12日
「由布院の小さな奇跡」九六-一〇〇ページより 南ドイツの、ドイツ、フランス、スイスと三つの国が重なるあたりの黒い森の麓にあるバーデン・ヴァイラーという小さな温泉地を、三人が訪れた時のことだ。 バーデン・ヴァイラーは人口約四千人と、由布院に似た小さな温泉地だった。小さなホテルのオーナーであったグラテヴォルさんの話に、三人は感動した。その感動が、いまの由布院をつくったと言っても過言ではない。中谷が熱い想いで綴っている。 「私たち三人が、ドイツのバーデン・ヴァイラーという町で受けたあの衝撃を、なんとか由布院の町の人たちにも伝えようと、わけのわからぬ、子供らしいあがきをはじめたのは事実だった。それは今でも続いている。 あの日、グラウヴォルさんは私たちに熱く語ってくれた。 『町にとって最も大切なものは、緑と、空間、そして静けさだ。 その大切なものを創り、育て、守るために、君たちはどれほどの努力をしているのか?君は?君は?君は?』 グラテヴォルさんは、私たち三人を、ひとりずつ指さして詰問するように言った。私たち三人は顔が真っ赤になってしまった」 このグラウヴォルさんの詰問が、三人を奮い立たせた。 七年後、志出、中谷、溝口の三人は、湯布院の町長を先頭に、約二十人の仲間とともにドイツを再び訪れた。病床の身ながらも、グラテヴォルさんは待っていてくれた。三人が多くの人たちを連れて再びやってきたことに、グラテヴォルさんは大変喜んでくれた。 その時のグラウヴォルさんの話を、中谷はこれまた感動的に書いている。 「君たちは約束を守った。君たちは長い道を歩き始めた。 世界中どこの町でも、何人かの人が、あるいは何十人、何百人かの、決して多くはない人たちが同じ道を歩いている。 ひとりでも多くの人が、よその町を見ることが大切だ。そして、その町をつくり、営んでいる『まじめな魂』に出会うことが必要だ」 グラテヴォルさんとの出会いについては、溝口も機会がある度によく話をする。 「まちづくりは、ひとりでやっていては孤立する。 最低でも、三人は必要だ。 まちづくりは、大勢の仲間で進めることが大切だ と、私たちはグラテヴォルさんから教わった」。
2014年05月18日
平成17年第838号 平成17年6月20日号発行 やさしい気持ち 赤ちゃんを抱いたお母さんにとって辛いことは、人混みの中で赤ちゃんが泣くことらしい。これはお母さんがいくら頑張ってもどうしようもない。赤ちゃんにも言い分はあるはずだ。泣くことが赤ちゃんの仕事なんだよね。でもね赤ちゃんに泣かれる、それもバスの中で泣かれることが、お母さんにとつてはせつないらしい。閉塞された空間での赤ちゃんの泣き声は、迷惑きわまりないものだからだ。 夕方には少し早めの四時頃、西村さんはバスに乗っていた。一番前の席に赤ちゃんを抱いたお母さんが座っていた。窓の外を見ながら笑っていた赤ちゃんも飽いたのかむずかり出した。泣き声混じりでお母さんの胸を叩きだした。お母さんは眉に皺をよせた。窓ガラスに赤ちゃんを向けると、お母さんはあやすように言った。「熊さんがいるよ。ミッタンの好きな熊さんがいるよ」 赤ちゃんの名前はミッタンというらしい。赤ちゃんは泣くのをやめると目を白黒させて外を眺めた。やがて、それにも飽きたのか、また泣き始めるような顔つきになった。 バスが停まった。ひとりの老人が立った。降車口へ近づいた。チケット投入口へ切符を入れると降りようとした。老人が赤ちゃんの方を振り返った。「熊さんだよ。ウォーウォー。熊さんだよ。バイバイ」 赤ちゃんは一瞬驚いたように老人を目を大きく広げて見つめた。それから、にっこりと微笑んだ。老人はバスを降りても道路上で「ウォーウォー。バイバイ」を繰り返していた。西村さんは驚くだけだった。その驚きは一度だけではなかった。次にバスが停まった時のことだ。 ふたりのおばさんがバスを降りようとした。多くの荷物を抱えていた。ふたりのおばさんは降車口で荷物を持ち直した。それから、赤ちゃんの方をゆっくりと振り向いた。「うさぎちゃんが二匹よ。ぴょんぴょん。バイバイね。ぴょんぴょん」 ステップを跳ねながらふたりのおばさんは降りて行った。赤ちゃんの笑い声が聞こえた。お母さんが赤ちゃんの小さな手を握って振らせていた。ふたりのおばさんは道路上でもビョンピョンと跳ねていた。西村さんの前に座っていたピアスをした茶髪の背の高い若者が立ちあがった。次のバス停で降りるのだろうか。シャツはズボンからはみ出していた。バスは停まった。若者はだらしなさそうに片手をポケットに入れたまま降り口へ歩いていった。 チケット投入口へポーンと切符を投げ入れた。そして、なんと、ポケットから手を出した。これまた驚いたことに若者が赤ちゃんの方へ振り向いたのだ。「キツネだよ。コーンコーン。キツネだよ。バイバイ」 両手の親指で口を広げ人差し指で目尻を上げながら言った。お母さんはすまなそうに若者へ頭を下げていた。赤ちゃんの笑い声は大きくなってバスの車内に響いた。若者は舗道上でまだ指で口を広げ目尻を上げて赤ちゃんを見送っていた。 西村さんは次の次のバス停で降りるのだ。さあ、何になって赤ちゃんに笑ってもらおうか。ブタさんかゾウさんになろうか。悩んでいるとバスは停まった。お母さんが赤ちゃんを抱えたまま荷物を手に取って立ちあがった。エッ!なんと降りるらしい。「ありがとうございました」 お母さんは運転手さんへすまなそうに言った。運転手さんは微笑みながら帽子をとった。そして、帽子を鼻の前でブラブラさせながら言った。「ゾウさんだよ。ゆらゆら鼻が揺れるよ。ゾウさんだよ。バイバイね」 なんと言ったらいいのだろう。運転手さんまでが動物になってしまったのだ。お母さんに抱かれた赤ちゃんが小さな白い手を振った。お母さんはバスを降りながら深く深く頭を下げた。
2014年01月01日
2008年(平成7年)5月の時期の 家族新聞 を調べていたら木谷さんの ポルソッタ倶楽部 があった。懐かしい、旧友、畏友の想い出はいつまでも懐かしい。 ■木谷ポルソッタ倶楽部【エール】服井先生は私立高校の英語担当の教師だった。寡黙な人だった。無口だった。横笛と篆刻が趣味という静かな人だった。春休みだった。桜が直に咲こうという頃だった。その矢先、突然、服井先生は学校で倒れた。脳梗塞だった。学校が休み中だったということで、倒れた先生の発見が遅れた。救急車で運ばれた時には意識がなかったらしい。四十一歳だった。服井先生の葬儀の日、朝から漂っていた霧が昼には小雨に変わっていた。葬儀はとどこおりなく行われていた。ただ、参列者がどんどん増えてきた。服井先生の親族と葬儀社の人が協議して二階の会場も開いた。卒業生たちがなんらかの方法で、先生の訃報を聞き集まったのだろう。一階、二階もいっぱいになり、会場に入れない参列者たちが外に溢れていた。友人代表と学校関係者の弔辞が読まれた。服井先生は学校でも目立たない教師だったようだ。目立たない教師だったが、人として、教育者として、立派な人だったようだ。各々の弔辞の内容は素晴らしいものだった。参列者たちの涙を誘った。葬儀が終わっても、参列者たちは帰る素振りを見せなかった。出棺の時がきた。親類の人と友人たちが棺を抱えた。参列者たちをかき分けるように棺は進んでいった。会社員らしきひとりの若者が、突然、棺の前に飛び出してきた。棺を抱えた人たちの歩みが止まった。「待って下さい。 私にもひとこと服井先生にお礼を言わせて下さい」若者は封筒から紙を取り出し叫ぶかのように読み始めた。「服井先生、私は、高校時代、応援団に入り、俗にいうワルで、授業を真面目に受けずに、学校に迷惑ばかりかけていました。三年の時、先生が担任になりました。私の素行は改まることなく退学寸前まで行きました。先生はおっしゃいました。『煙草を吸うのも酒を呑むのもおまえの自由だだ。それはいいだろう。けれど人を傷つけることだけはやめろ』と。でも、私は応援合戦の末に殴り合いをかなりしました。その度に、先生は相手の高校に謝りに何度も行ってくれました」若者の高校時代の担任が服井先生だったらしい。服井先生にかなりの男気があったようだ。親族も参列者たちも黙って若者の弔辞に耳を傾けていた。「そのような私でしたから就職時期を迎えて苦労しました。でも、自分にとっては思いもよらない立派な会社が採用してくれました。退学寸前の私には高校からの推薦書が貰えなかったのに不思議でした。昨日、社長に先生の訃報を知らせ休ませてくれるようお願いしました。すると社長がはじめて教えてくれました。服井先生は社長に手紙を書いてくれていたのですね。『学校として推薦書は出せない。そこで、服井個人として推薦したい。少々のワルですが、思いやりのある頑張り屋の若者です。服井個人が推薦するとともに保証します』と。社長にとって、あのような推薦書ははじめてだったのことです。私の入社試験の結果は散々なものだったらしいのです。しかし、社長は服井先生の推薦書で私を採用したそうです。社長からもありがとうございますと言ってくれと頼まれました。服井先生、もう、直接にお礼を言うことはできないのですね。服井先生、本当にありがとうございました。私は頑張って生きていきます」若者は紙を封筒へ直すと親族の人へ渡した。若者は、小雨の中、じっと立ちつくしていた。戻る素振りはなかった。若者は両手を前へすくっと掲げた。「服井先生へ感謝を込めてエールを送りたいと思います。フークーイ、センセイ、チヤチャチャ、フークーイ、センセイ、チヤチャチャ、フークーイ、センセイ、チヤチャチャ」若者は声の限りに叫んだ。若者の手の動きに合わせて参列の在校生たち、卒業生たちは手を叩いた。エールが終わると、若者は両手を頭上高く挙げた。「校歌斉唱。セーノ」みんなが校歌を歌い始めた。一番だけではなかった、二番、三番までも唄われた。歌声の中を、服井先生の棺はゆっくりと運ばれた。校歌が終わった。若者は人文字で佇んでいたが、足を合わせると頭を深く下げた。卒業生だろう参列者たち全員が頭を下げた。それぞれの脳裏には、それぞれの服井先生の姿が浮かんでいたのだろう。それは春も間近の、服井先生の葬儀での出来事だった。
2013年12月25日
平成25年11月22日現在 ボーイズ・ビー・アンビシャス : 米国留学中の内村鑑三日記と手紙、新島襄・広井勇あて書簡、宮部金吾・新渡戸稲造往復書簡抜粋 米欧留学篇 (2013年10月発行)蔵書図書館一覧全30図書館 国立国会図書館 都道府県立図書館 3図書館東京都立中央図書館 山形県立図書館 富山県立図書館 市区町村立図書館 17図書館札幌市立図書館 江別市立図書館 北広島市立図書館 網走市立図書館 帯広市立図書館 砂川市立図書館 幕別町立図書館 町立小清水図書館 様似町立図書館厚真町立図書館 中標津町立図書館 安中市立図書館 平塚市立図書館浜松市立図書館 森町立図書館半田市立図書館和歌山市民図書館 大学図書館 9図書館東京大学 九州大学弘前大学図書館 宇都宮大学 金沢大学図書館東京農業大学 鹿児島純心女子短期大学 鹿児島純心女子大学 聖隷クリストフアー大学 このうち、今回初めて「ボーイズ・ビー・アンビシャス」を蔵書としていただいたのが、 町立小清水図書館 様似町立図書館 厚真町立図書館 の北海道の町立図書館と 半田市立図書館 和歌山市民図書館 である。北海道の今回初めて寄贈した市立町立図書館は、友人のT君の送料推譲による。明日、森町で 町並みと蔵展 が開催され、テーマは森町の特産「治郎柿」である。二宮先生が遠州七人衆に授けられたのが「報徳安楽談」で 報徳の教えを 柿の実にみたてて、広く世に広めて、世界中を豊かで平和な世界にせよと託されたのである。不思議と二宮尊徳と遠州森町は 柿 にまつわる縁を思う。そして北海道のT君について木谷兄が 柿にまつわるエッセイを残している。えにしなるかな。ぜひ遠州森町の治郎柿を宅配便で送って、味わっていただこう。 91 北の田舎から来たおもとだち 北海道という名の田舎から友人が来た。「どこへ行きたい?」「ちっちゃいところへ行きたい。」私の質問に友人はそう答えた。ちっちゃいところ・・・・・・そうだよな。広大な田舎で日々生活をしている友人だ。たまには、ちっちゃいところへ行きたいのだろう。うん、わかった。ちっちゃな盆地『由布院』へ、私は友人を案内した。 「どこの家にも柿の木がある!」友人は驚きながら叫んだ。北海道には柿の木がないのか。柿の木の北限は山梨らしい。私は初めて知った。私の方が驚いた。田舎の秋という季節には、やはり柿の木がなくてはならない。 「いいな。竹林がある」今度は竹林を見ていた友人がうっとりとした声で言った。エッ、北海道には竹もないのか。そう、竹の北限は青森らしい。北海道には笹しかない。そう、現在、アイヌの人たちが吹いている竹製の口琴さえも、昔は、木で造っていたらしい。由布岳を見ながら、私は佇んだ。心を静かにした。田舎の風景をつくる柿や竹林がないという北海道に、私は想いは馳せた。そうだよな。柿の木や竹林は、北海道には似合わないよな。それぞれの田舎には、それぞれの風景をつくるそれぞれの自然があるのだ。私はこぶしを堅く握った。 「ちっちゃな田圃ばかりだよな」友人は嬉しそうに微笑んだ。微笑みながら、私を振り向いた。「広い大地があるけれど、厳しい気候に耐えて生きている北海道。狭いけれどゆたかな自然に囲まれてい生きている由布院・・・・・・みんなそれぞれの田舎で頑張って生きているんだな」 川沿いの小径を歩いて、私たちは金鱗湖へ出た。「これが金鱗湖ですか・・・・・・これが湖か。秋になると霧の漂う金鱗湖なのですが・・・・・」友人は呆然と金鱗湖を眺めていた。おいおい、霧の摩周湖と比較しないでくれないか。阿寒湖と比べないでくれないか。由布院はちっちゃいことを自慢する田舎なんだ。「ちっちゃいところへいきたい」そう言ったのはあんただろう。なあっ、ちっちゃな湖だろう。 ちっちゃな由布院を十分に楽しんだ友人は、広い広い北の田舎へ戻っていった。(02/09/24)
2013年11月22日
先週金曜日、所用で出かけた折に、久しぶりに野毛の○○屋に寄ってみた。「おっ、灯りがついている、あいているようだ」玄関には、看板もかかっていない 一人では見つけることも難しい 一見、普通の家の飲み屋である。以前何度も新聞でも取り上げられ、補助金の対象となったとき、店主が辞退したという心意気の知る人ぞ知るのお店である。もう三十年来の長き付き合いではあるが、数年前、店主の二人の老婦人が体調を崩し、入院し、そんなことやで、長らく閉店の日が続いたので、すっかり足が遠ざかっていた。すりガラスの引き戸をあけると、「あら、お久しぶりね」と店主がにっこり笑って声をかける。店内は満員である。アルバイトの女性が奥の座敷につめてくれるようお願いして席をつくってくれる。「お酒をお願いします」という。基本的にお任せで、ビールがいい人はいうと出してくれるのだが、基本は桜正宗のコップ酒三杯までで、常連には帰り際、おちょこで少しおまけしてくれる。おつまみも たまねぎの酢づけから始まって、最後おしんこまで、お酒の進捗に合わせて出してくれる。アット・ホームにゆったりとした時間を過せる、いわば居心地のいいお店だが、一見の客でも断ることはない、ただいつも満席で、寒夜何十分も外で待って入ったことも何回かある。大分から畏友木谷さんが来たおりにも、何回か連れていったことがある。酒を飲みながら楽しい時間を過したものだ。そういうことを懐かしみながら、一人酒を飲む。このところ「ボーイズ・ビー・アンビシャス」製作に忙しく、家では全く酒を飲まず、外でもめったに飲むこともなく、ひたすら元資料を作成し続けていた。印刷屋に原稿を回し、校正もすまして、来週には本が届く。するとすぐに公共・大学図書館への発送を始める。次の構想「台湾の新渡戸稲造と鈴木藤三郎」に向けて、資料の蒐集と整理を始めたところで、とりあえずは「米欧留学篇」ができてよかったというところだ。 今日、図書館に本を返しにいったついでに、開架書架で台湾の地理あたりの本を見ていたら、近くに木谷さんの「由布院の小さな奇跡」(新潮新書)があった。ああ、まるで 僕のことを想い出してくれてありがとうと目の前に出現したようだ。裏に木谷さんの顔写真が載っている。木谷さん、ありがとう、感謝します。 「由布院の小さな奇跡」96-100ページより 南ドイツの、ドイツ、フランス、スイスと三つの国が重なるあたりの黒い森の麓にあるバーデン・ヴァイラーという小さな温泉地を、三人がバス訪れた時のことだ。 バーデンヴァイラーと人口約四千人と、由布院に似た小さな温泉地だった。小さなホテルのオーナーであったグラテヴォルさんの話に、三人は感動した。その感動が、いまの由布院をつくったと言っても過言ではない。 中谷が熱い想いで綴っている。簡単にまとめるとこうだ。「私たち三人が、ドイツのバーデン・ヴァイラーという町で受けたあの衝撃を、なんとか由布院の町の人たちにも伝えようと、わけのわからぬ、子供らしいあがきをはじめたのは事実だった。それは今でも続いている。 あの日、グラウヴォルさんは私たちに熱く語ってくれた。『町にとって最も大切なものは、緑と、空間、そして静けさだ。その大切なものを創り、育て、守るために、君たちはどれほどの努力をしているのか?君は?君は?君は?』 グラテヴォルさんは、私たち三人を、ひとりずつ指さして詰問するように言った。 私たち三人は顔が真っ赤になってしまった」 このグラウヴォルさんの詰問が、三人を奮い立たせた。 七年後、志出、中谷、溝口の三人は、湯布院の町長を先頭に、約二十人の仲間とともにドイツを再び訪れた。病床の身ながらも、グラテヴォルさんは待っていてくれた。三人が多くの人たちを連れて再びやってきたことに、グラテヴォルさんは大変喜んでくれた。 その時のグラウヴォルさんの話を、中谷はこれまた感動的に書いている。「君たちは約束を守った。君たちは長い道を歩き始めた。世界中どこの町でも、何人かの人が、あるいは何十人、何百人かの、決して多くはない人たちが同じ道を歩いている。 ひとりでも多くの人が、よその町を見ることが大切だ。 そして、その町をつくり、営んでいる『まじめな魂』に出会うことが必要だ」 グラテヴォルさんとの出会いについては、溝口も機会がある度によく話をする。「まちづくりは、ひとりでやっていては孤立する。 最低でも、三人は必要だ。 まちづくりは、大勢の仲間で進めることが大切だと、私たちはグラテヴォルさんから教わった」。 実にわたくしたちの会も、また藤三郎プロジェクトの活動もこの グラテヴォルさんの示した町づくりの原則に即して実践している。・ 一人でやっていては孤立する。最低でも三人は必要だ。・ 大勢の仲間で進めることが大切だ・ よその町に見ることが大切だ。そして『まじめな魂』に出会うことが必要だ9月14日の桜川市での報徳の講演会でも 実に七人の仲間が 出かけ シナリオを朗読し、報徳記の「青木村仕法」を輪読し、全員で「報徳訓」を唱和した。そうしてそういう持続的な活動のなかから、5冊に及ぶ本を発刊し、「報徳産業革命の人」が百を超える、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」が80を超える公共・大学図書館の蔵書となり、わずか150ページの小冊子も含めてすべての発刊物を蒐集しようとする公共・大学図書館が日本各地に出現しているのである。 木谷さん、ありがとう、感謝します (^^)/
2013年10月13日
旅にでないワインの話「以前、大分県の直入町役場で働いていた人の話だけれどもね。 直入町ではドイツのバードクロイツインゲンと友好都市となっていて毎年未来を担う中学生を派遣していた。ドイツからも市長さんはじめ毎年多くの方が見える。 町民が百人ドイツに行ったのを記念して、国際シンポジウムを開催した。ドイツの物産展を開催したらね、これが好評で、特にドイツワインが飛ぶように売れたんだ。すると、『あのワインをうちの町でずっと飲むことはできないだろうか』と商工会のメンバーが言う。ところがこのワインは、「旅に出ないワイン」と言われて、そこに旅をしないと飲めない。そのくらい貴重な、少量だけど非常にうまいワインだ。商工会長自らドイツに行ったが分けてもらえない。そこで町長とその町役場の人と通訳でドイツに渡った。それで苦しんだんだけどうまくいかない。最後の日、向こうの商工会が招待してくれたので『未来の子供達にあなた達が作ったヨーロッパでも有名なこのワインを飲ませてあげたい』と頼んだんだ。 すると通訳のマチ子さんが黙りこんで横を向いて泣き出した。『どうしたの、マチ子さん?』と聞いと『私は長い間、日本の方々をドイツにお招きして通訳の仕事をさせていただいた。ただ、これほど、今夜ほど私は自分が通訳をしていてよかった。こんなに感動した夜はありません』というふうにマチ子さんが言う。『ドイツの皆さんは遠く海を渡って何回も来たあの日本の友人たちに自分たちの秘蔵のワインを分けてあげようじゃないか。そのために直入とクロツィンゲンの頭文字を取ったナークロという会社を新たにつくって、ワインを上陸させて、直入町の皆さんの期待に答えてあげようじゃないかと話しているですよ』 マチ子さんはそういう会話を聞いて思わず瞼が熱くなったんだ。 町役場のその人はね、宿に帰って、シャワーを浴びながら男泣きに泣いた。 ドイツとの交流が始まってまだ四年にしかならない。 こんな農村であんなことをやってあいつらはドイツかぶれだという陰口もある。 それなのに、こうしてまだ数回しか会ったことのないドイツの友人が私たちの夢を実現してあげようという、そう思うと泣けて泣けて仕方がなかったという。 そして喜んで帰りの飛行機に乗ったら、 帰りの機内誌の中に、マザー・テレサの特集があった。マザー・テレサが生涯愛した言葉、「暗いと不平を言うよりも、自ら進んで明かりを灯しなさい」という有名な言葉があるが、実は、マザーが愛したのは、そのすぐ後に続く言葉なんだ。「誰かがやるだろうということは、 誰もやらないということを知りなさい」マザーが愛したその言葉が強烈にその人に降り注いできた。前年に商工会のみんながドイツに渡っている。ワインの交渉もやろうと思えばできていたかもしれない。ただ、誰かがやるかもしれない。地域づくりのほかのことに対してもそうだ。これはいい話だが、誰かがやるだろう。そうではなくて、気がついたあなたがやらなければ、誰もやりませんよ。そういうことを教えられた気がすると。
2013年10月02日
ほぼ徹夜で 校正して 北海道の友人にメール便速達で送った昨年の9月に彼の案内で 小樽港の北防波堤を視察し、彼に「あとがき」を書いてもらっていたのでその確認がある。それとともに、「鈴木藤三郎翁の足跡を求めてin台湾」と小冊子が 台湾で初めてわたしたちの会の本を印刷製本していただいた、いわば産婆にあたる利先生のレクイエムの意味を持つのに対し、今度の「ボーイズ ビー アンビシャス」は北海道の友人とも共通の畏友木谷さんを紙の碑に刻むものででもある。私たちの活動の一端は木谷兄の街づくりの広報運動や文筆活動に刺激されたところがあるのである。報徳とは私たちが受けた先人の徳を受け継ぐとともに更に発展させて、後の世の人々に報いることにある。その意味で今回の本を作成し、日本全国の公共図書館に収蔵していただこうと思う。資料として収めた宮部金吾の内村鑑三小伝(米国留学まで)、新渡戸稲造小伝、広井勇小伝を一緒に収めたことだけでも価値があると考える。とくに内村と広井の小伝は入手が難しいのである。新渡戸と宮部金吾の往復書簡も往復の形で世に提示されるのは始めてであろう・ 会員の一人に 別の目での校正をお願いしたが、忙しいなかやっていただけるかどうか。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をベースとしており、その知識があったほうがよいと思われる。 「終りに」に上記の事情を幾分か記した。 終りに 街作りには3人以上の仲間が必要です。世界中のまじめな魂との交流が大切です。 平成十四年(2012)九月、私は北海道の友人の誘いで札幌と小樽を訪問した。東京に勤務していた時、北海道の○○、大分県の木谷さんと交友し、その後も交友は続いた。木谷は文筆が達者で「健太郎さんと薫平さんに教わったこと」(自費出版)の外、新潮新書から「湯布院の小さな奇跡」を出版された。その本に湯布院の健太郎さんらがドイツの温泉町バーデン・バイラーを視察した時、ホテルの主人グラウテルから、あなた方は町をよくするため何をしているかと一人一人指差されて問い詰められ、真っ赤になって何も答えられず、それがきっかけで湯布院の街作りを決意する感動的な場面が載っている。グラウテルはこうも言った。「街作りには三人以上の仲間がいる。世界中の同じ志をもった仲間と手を握ることが大事だ」と。 札幌農学校の三人組を考えるとき、この固い友情の絆が、彼らが苦難のとき、どれほど頼みになり慰めとなったことを思う。一方、広井は孤独に自分のうちに沈潜し、信仰の事は内村を除いて人に語ることがなかった。ピューリタニズムは、人間を孤独にし、人を神と直接向かわしめるところがある。新渡戸はあだ名をつける名人で、広井を手紙で「ズル」「ズルッコ」と幾分侮蔑がこもったあだ名で呼んでいる。広井は同級生との付合いも犠牲にして金をため、同級生を出し抜くように二期生で最初に渡米する。これは三人組にも衝撃を与えたようで、新渡戸、内村、宮部と広井に続くように渡米する。広井がアメリカの橋梁会社などに勤め、土木の実務を身につけ、英文で著した本が欧米の土木の教科書として名声を博するなど実績を積み上げるなかで、三人組も広井の真価を認めるようになった。内村鑑三は広井が亡くなった時の葬儀を主宰し、広井を「紳士の工学」を打ち立てた「清い工学者」でしたと讃えている。 私の北海道行きの目的の一つは、広井が築造した小樽港北防波堤を視察することだった。広井は台湾で百年ダムを作った八田與一の恩師で八田に大きな影響を与えた。「人類のため」の工学を目指した青山士も広井の教え子だ。北海道の友人は千歳空港まで車で出迎えてくれ、札幌に向かう途中「札幌農学校に興味があるようだから」とクラークが「Boys be ambitious」と言った旧島松駅逓跡に寄ってくれた。クラークは苫小牧へと馬で去る時、この駅逓の休憩所に寄った。当日農学校は休校とし、教員・生徒はここまでクラークを見送った。案内された方が土木出身で「二期生に広井勇がいます。土木の世界では『広井公式』という波力公式を作っている人ですが、内村や新渡戸ほど知られてなくて」と漏らされたのが印象的だった。「明日小樽港の広井勇が築造した百年防波堤を見に行くところなんですよ」と言うと喜ばれた。 翌朝友人と一緒に台北経済文化代表処札幌分処の処長にお会いした。平成二十四年(2012)八月静岡県森町で開催した文化講演会用に作成した「鈴木藤三郎の足跡を求めてin台湾」のパンフレットを置いてもらうためだった。処長は丁寧に応対して下さりパンフレットも置いて頂いた。その後私達は小樽を目指した。小樽には建設省小樽港管理所に展示室があり、広井勇の防波堤建設に係る資料が展示されていた。副所長自ら案内して頂き説明を伺った。「二〇一二年が広井勇の生誕百五十年にあたり、高知の故郷の町でも記念展をやりたいと見えられましたが、広井勇は知られていなくて」と言われた。その時八田の恩師である広井勇と札幌農学校をまとめてみたいと思った。広井はほとんど手紙を残していない。「『工学博士廣井勇伝』「書翰より見たる廣井博士」によれば、「内村鑑三氏との信仰上の問題に関する往復の書信などは全部焼き捨てた」とあり、宮部金吾あての十四通の書翰が『今は何より尊い資料である』と書かれています」とある。そこで札幌三兄弟と広井を含めた中で交流の記録をまとめた。私たち三人の友誼もまた共に記念するために。
2013年03月03日
<ちょっと一息> 町づくりには3以上の人が必要です。世界中のまじめな魂との交流が大切。 2012年9月に私は北海道の北広島市在住の友人T氏の誘いで、札幌と小樽を訪問した。東京に勤めていた時、北海道のT氏、大分の木谷文裕氏と交友を結んだ。木谷氏は文筆が達者で、私家本「健太郎さんと薫平さんに教わったこと」のほか、新潮新書から「湯布院の小さな奇跡」を出版されている。本に湯布院の健太郎さんらがドイツの温泉の町バーデン・バイラーを視察したとき、ホテルの主人グラウテルさんから、あなた方は町をよくするために何をしているかと一人一人指差されて問い詰められた。湯布院の3人は、真っ赤になって何も答えられず、それがきっかけで湯布院の街づくりを決意する感動的場面が載っている。グラウテルさんはこうも言ったという。「町づくりには3人以上の仲間がいる。世界中の同じ志をもった仲間と手を握ることが大事だ」と。 札幌農学校の3人組を考えるとき、この固い友情の絆が、彼らが苦難のとき、どれほど頼みになり慰めとなったことを思う。一方、広井は孤独に自分のうちに沈潜し、信仰の事は人に語ることがなかった。ピューリタニズムは、人間を孤独にし、人を神と直接向かわしめるところがある。新渡戸はあだ名をつける名人で、年齢をごまかし農学校に入ったり、農学校の信仰の友にも内証で金を貯め、2期生では一番最初に渡米した等から広井を「ズル」「ズルッコ」と幾分侮蔑をこめたあだ名で呼んだことが宮部宛の手紙にある。しかし広井が、業(works)による福音を実践し、数々の土木的な偉業を成し遂げるなかで、3人組もその真価を認め、内村鑑三は広井が亡くなった後の葬儀を主宰し、その挨拶で、そのピューリタン的精神をもった工学者として讃えている。 私の北海道行きの目的の一つは、広井が建造した小樽港北堤防の視察も目的としていた。T氏は千歳空港まで車で出迎え、北広島市の自宅に寄る途中「札幌農学校に興味があるようだから」とクラークが「Boys be ambitios」と言った島松駅に寄ってくれた。当時北海道には鉄道はまだ敷設されていず、クラークは苫小牧へと馬で去る時、島松駅の休憩所に寄った。当日農学校は休み、教員・生徒はここまで見送った。当時の建物は増築され、案内された方が土木出身の方で「2期生に広井勇という土木の世界では『広井公式』という波力公式を作り今でも活用されている人がいるが、技術者だから内村や新渡戸ほど知られていなくて」と残念そうに漏らされ印象的だった。「私たちは明日、小樽港の広井勇が建造した百年堤防を見に行くところなんですよ」と言うと喜ばれた。 翌朝、私達はその後小樽を目指した。北堤防は小樽の人に聞いても、よく知られていないようで、最初難航したが、建設省小樽港管理所に展示室があり、広井勇の堤防建設に係る資料が展示されていた。副所長自ら案内し、説明を聞き、貴重な資料もお借りできた。「今年(2012年)広井勇の生誕150年にあたり、高知の故郷の町でも記念展をやりたいとここに見えられたが、広井勇は知られていなくて」と言われた。その時に、札幌農学校出身の広井勇をまとめてみたいと思い立ったのである。しかし、広井はほとんど手紙を残していない。「『工学博士廣井勇伝』「3書翰より見たる廣井博士」によれば、氏と札幌農学校の三兄弟との書簡において触れられてあり、「内村鑑三氏との信仰上の問題に関する往復の書信などは全部焼き捨てた」とあり、宮部金吾あての14通の書翰が「今は何より尊い資料である」と書かれています」と北海道図書館にご教示頂いた。そこで札幌3兄弟の手紙の中で広井も含めた交流をまとめた。木谷、T、gaiaの交流も記念して。
2012年11月23日
どうも資料の整理ができないほうで、捨てることとしまうことしかできないから、よく資料がどこにあるか、分らなくなる。以前、ある方が、捜し物をしていた時に、「人生の半分は探し物をしているようなものだ」と喝破されたので、笑ったものだったが、ある意味、人生は自分の生きる意味そのものを探しているようなものだ。探し当てて、天命として安心立命できて、人生をよく生きる人がどれほどいるであろうか。 自らの天命をわきまえた人は、有為転変に揺るがぬところがある。幸いな時も不運の時も、運命学でいえば、天中殺であっても、自若としてその厳しい試練をさえ感謝して受け止めるという態度となってあらわれるようである。 探し物をしていたら、畏友木谷文博兄からいただいた手紙が出てきて、懐かしく読んだ。北海道に行った折、共通の友人と すすき野 の ジンギスカン のお店に案内してもらった。「すみません。コップを一つ余分にください」と友人が、お店の人に頼む。「亡くなった友人のために・・・・」二人の生ールを少しづつ 注ぎあって 乾杯した。「木谷さん、乾杯!! ありがとう」 《木谷さんのお手紙》 去年の夏の終わり、由布院へ行きました。あるコンサートを聴くためです。陽が落ちて、私は由布院駅に着きました。今宵のコンサートは、駅のホールで催されるのです。「農業歌手っていうか、農業に関する歌を唄う歌い手のコンサートがある。農業の歌だ。皆、呑んで、歌って、踊ってということになる。どうだ、今夜、由布院へ来ないかい?」 呑んで、歌って、踊ってか・・・・・これは、行かなくてはいけません。しかし、前日、コンサートの事務局の平野さんから電話が入りました。「明日のコンサートは、中止をするかもしれません」「なぜですか?」「コンサートの事務局長であるTさんの病状がおもわしくないのです。でも、コンサートを中止にしたら、彼はきっとがっかりするだろうし・・・・・だからといって、彼に無理をさせるのも何ですし・・・・・・コンサートを開催するか中止するかは、明日また電話をします」 平野さんの声が、ちょっと震えながら重苦しく私の耳元で響きました。 翌日、また、平野さんから電話がありました。「今朝、病院に行った者の連絡では、Tさんは元気だそうです。コンサートを開催します。」 ちょっとだけ明るい平野さんの声です。 私は行くことに決めました。 夕方、仕事を終えて、私はJRの電車に乗りました。私は車窓の外へ目をやりました。稲穂が美しく揺れていました。いいな。私は完全に旅人になっていました。大分から由布院まで、一時間、ちょっとした旅気分を味わえます。しかし、今夕の旅はちょっとせつなく・・・・・・窓の外は次第に黄昏ていきました。車内に灯がつきました。窓に私の顔が映りました。まったく表情がありません。自分の顔でないような気がしました。 湯の平駅、南由布院駅には改札口がありません。駅舎のすぐ左側にアートホールがあります。 私はホールの中へ入りました。いい雰囲気が漂っている。「Tさんは、大丈夫なの?」 私はHさんに尋ねることができませんでした。その時、会を代表する中谷健太郎さんが飄々と現われました。 (続く)
2012年10月28日
きのう、「のどじまん ざ わーるど」で世界各国の日本と日本の歌を愛する外国人が参戦して歌合戦していた。実に歌の言葉が心にしみいるような熱唱が多く、下手な歌番組よりも聞き応えがあった。優勝したのは、20歳のアメリカ人だったが、特別賞にはトルコの女性で、キロロの名曲「未来へ」だったが、その枕言葉がよかった。トルコでは「天国は母親に近いところにあるといいます」と。 「とんび」の再放送をNHKでやっている。幼いころ、自分を助けるためなくなった子供に、「おとうさんを助けるために お母さんはなくなったんじゃ すまんかった」とわびる場面が有る。子供に心理的な負担をかけまいという親心である。あきらは、和尚さんに真実を教えられ恨んでもいいといわれた父を恨んだこともないことを感謝する。「ありがとう、お父さん」という原稿に涙する。結婚式で子連れの嫁さんを迎えたあきらに言う。「あきらは 自慢の息子です。あきらが選んだ嫁さんに間違いはありません。」と。 木谷ポルソッタ倶楽部に「母の顔」という作品がある。親の愛の深さ、信頼、尊さ、それが生命をつないできたのだ、 母の顔 「私は母の顔がすごく嫌いでした。なぜなら大きなやけどの跡があるからです。よそのお母さんはあんなに綺麗なのに何で私のお母さんは...。とか、何でこの人が母親なんだろうとさえ思ったことがありました。そんなある日のこと。その日の四時間目のこと私はあることに気づきました。夕べ徹夜で仕上げた家庭科の課題が手元に無いのです。どうやら家に置いてきてしまったようです。あたふたして勉強も手につきません。家庭科の授業は五時間目。私は昼休みに自宅まで取りに帰る事を決心しました。四時間目も終わり帰る準備をしていたところ、クラスメートが「めぐみ~、めぐみ~、お母さん来てるよ」 と言いました。私は、はっとしました。急いで廊下に出てみると何と母が忘れた課題を学校まで届けに来ていたのです。「なんで学校にきてるのよ!取りに帰ろうと思ってたのに!」と息を立てて問い詰めると、「でも、めぐみちゃん夕べ頑張ってやってたから・・・」といいました。私は、「おばけみたいな顔して学校来ないでよ、バカ!」と言って母から課題をひったくるように取り上げるとすたすたと教室に入って行きました。自分の母親があんな顔をしていることを友人達に知られてしまったことで私は顔から火が出る想いでした。その日の夕飯後のこと、私は父親に呼ばれました。昼間のことで怒られるのだろうな・・・と思いました。すると父親は予想に反してこんな話をはじめました。「お前がまだ生まれて数ヶ月の頃隣の家で火事があってな。その火が燃え広がってうちの家まで火事になったことがあったんだよ。そのときに二階で寝ていたお前を助けようと母さんが煙に巻かれながらも火の中に飛び込んでいったときに顔に火傷を負ってしまったんだよ。今お前の顔が綺麗なのは母さんが火の中に飛び込んでいってお前を助けたからだよ。」私はそんなことは、はじめて聞きました。そういえば今まで火傷の理由を母から聞いても、あやふやな答えしか返ってきたことはありませんでした。「なんで今まで黙ってたの?」私は涙ながらに母に聞くと、母は静かに言いました。「めぐみちゃんが気にすると思って、ずっと黙ってようと思ってたんだけど......」私は母への感謝の気持ちと今まで自分が母親に取ってきた態度への後悔の念とで胸が張り裂けそうになり、「お母さん~」と言って母の膝の上でずっと泣いていました。今では自分の母の顔のことが誇りにさえ思えるようになりました。家族を、私を守ってくれた母のこの顔の傷のことを・・・。」
2012年10月08日
ニューヨーク・ポスト紙に掲載されたイチローのインタビューが印象的だ。「僕はニューヨークが好きだ。ジーターらと一緒にプレーしている。ここでの経験は僕が死ぬ前に必ず思い出すだろう」と語っている。この言葉に球団首脳もニューヨークのファンもすっかり感動し、今オフのイチローとの再契約を望む声も高まってきた。 さらにニューヨーク・タイムズ紙は、イチローがバットやグローブなどを大切にしている日本時代からのエピソードを大々的に紹介。特に8本のバットを特製のケースに入れて持ち歩く姿を、「ミュージシャンがストラディバリウスを抱えているようだ」とも形容して格別に美化している。 ★ 昼過ぎ、一時間ほどかけて高台の図書館まで、自転車でいってきた。少し有酸素運動を取り入れなくちゃという思いもある。残念ながら、事前に調べて求めた「台湾を愛した日本人」は貸し出し中だった。先日、北海道に行った折に台北駐日経済文化代表処札幌分処に寄って、森町文化講演会にあわせて作製した「鈴木藤三郎の足跡を求めてin台湾」のパンフレットを置いてもらえるよう頼みにいった。札幌処長自ら応対していただいて、一時間ほど、お話したなかで、印象深いことの一つは、現在、台湾で評価され、感謝されている八田與一は地元の農民は感謝していたものの、台湾の人々はほとんど知らなかったというのである。それをある台湾の日本語学校の教師が、八田の業績に感銘し、それをまとめて本にして、それが台湾総統の目にとまって、台湾全土で表彰されることになった。それは日本にも伝わり、現在も日本からの訪問が絶えないという。その本というのが「台湾を愛した日本人」のようだ。かわりに「内村鑑三日記書簡全集」 を借りてきて、帰りがけセンターのパソコンを使ってその一部をアップしてきたところである。図書館からの帰りがけ、家内に頼まれたマッシュルームとりんごを買うと、「かぼす」が売っていた。ああ、そういう時季か、と深い感銘に打たれた。わが畏友 木谷文裕氏が秋になると送ってくれたものda カボス在り 木谷畏兄を 偲びをり 我もいずれは 死ぬものなれば 木谷兄は ガンで59歳でなくなった 悲しくてお寺参りして ○○先生にメールしたら慰めの言葉とともに「私たちもいずれはですね」と書き添えてあった。まことにそのとおりで、私たちは今の状態が永遠に続くような感覚のなかに生きていがちだが、まことに明日をもしれぬという 中で生きているのである。 カボス切り 焼酎の中に しぼりたり 乾杯しよう 畏友木谷よ 一日は 一生なりと 定めをり 今日は終れり 明日新たなり
2012年10月06日
☆「報徳記を読む会」では「原文」「現代語訳」をメンバー全員で輪読する。途中適当なところで、理解を深めるため、用意した参考資料を読み上げる。基本として「史料をして語らせる」読書会方式であり、その場での感想とか意見を求めることはしない。しかし、どうにも内側から嘆声が参加者から漏れることはあり、そうした感想は大事にして会報に記録として取り上げることが多い。「記録せよ、発信せよ」が「報徳記を読む会」のもう一つの特徴である。これは畏友木谷兄が伝えた由布院の街づくりの方法である。会合での話は必ず記録し、由布院に関心を持っていてくれる人にFAXで発信する。そうやって街づくりの熱気と発信力を高めていったのだという。人間の記憶というものは実にあいまいなもので、会合の都度、記録して置くと、それが全部でなくても参加した人にとってはその時のイメージが湧き起り、参加しなかった人にもおおよその雰囲気が分かる。 8月22日に森町文化講演会のDVD鑑賞会を開いたが、センター備え付けの器機やパソコンでは再生できず、懇親会になった。それですら会報を作って会員には郵送などで発送した。 「幻の」森町文化講演会の原稿がある。それは最初、講演時間が分からず、3~4時間ほど語ることになっていいように、第1集の「報徳社徒鈴木藤三郎の一生」から抜き出したものであり、森町に事前にシナリオ読み合わせの練習に行ったときに、Sさんに手渡した。 その冒頭に 「エピローグ」を入れて 3人の人との出会いを紹介した。その第一が木谷文弘氏である。そこではこの「記録せよ、発信せよ」は省略したが、わたくしの中でいつも響いている、いわば木谷兄からの贈り物である。 プロローグ ○ 森町で講演するのは、これで2回目です。前回は3年前、2009年に第9回「街並みと蔵展」で「発明王を生んだ町。鈴木藤三郎」を開催する前のことでした。 なぜ、私が森町が生んだ偉人鈴木藤三郎についてお話しすることになったのか、その経緯をまずはお話しするのですが、○ その前に わたくしの 大切な3人についてお話ししたいと思います。 まず一人目は、木谷文弘さん、元大分県の技術職員でした。「でした」というのは残念なことに数年前に亡くなりました。 大分の由布院という温泉の街はご存知ですか?有名な温泉地ですが、木谷さんは由布院の街づくりに参画していました。新潮新書から「由布院の小さな奇跡」という本を出しています。その中に由布院の街づくりが始まったきっかけの話が出てきます。 それは中谷健太郎さんと溝口薫平(くんぺい)さんそれに夢想園のご主人の三人が街づくりの参考にしようと、ドイツのバーデン・バイラーという保養地の温泉地を訪問したときのことでした。彼の地のホテルのオーナーのグラテウォルさんという人に会います。グラテウォルさんは、「『町にとって最も大切なものは、緑と、空間と、そして静けさだ。』」と三人に力説します。そして三人を一人一人指差してこういったそうです。「その大切なものをつくり、育て、守るために、君たちはどれほどの努力をしているのか?君は?君は?君は?」と一人一人指差して問いただした。三人は顔を真っ赤にして押し黙るしかなかった。由布院の街づくりはこの時始まった。街づくりは、人がなんとかしてくれるだろうではない、気がついた私が何かをやらなければならないのだと。また、グラテウォルさんはこんなことも言った。「まちづくりは、ひとりでやっていては孤立する。最低でも三人は必要だ。まちづくりは、大勢の仲間で進めることが大切だ。」 さらにこうも言った。「世界中どこの町でも、何人かの人が、あるいは何十人、何百人かの決して多くはない人たちが同じ道を歩いている。ひとりでも多くの人が、よその町を見ることが大切だ。そして、その町をつくり、営んでいる『まじめな魂』に出会うことが必要だ」と。○5月6日に掛川の大日本報徳社の大講堂でMさんの鈴木藤三郎についての講演がありました。わたくしも「報徳記を読む会」の仲間3人と一緒に車で高速道路をとばして聴きに参りました。講演が終ったあと、質問がありました。「鈴木藤三郎の研究は日本でどなたがやられていますか?」と、私が挙手して答えました。「森町の村松さんのグループと私たちの『報徳記を読む会』のメンバーと、台湾の高雄市のC先生たちがいらっしゃいます」と。「最低でも3人が必要だ。世界中の決して多くはない『まじめな魂』と出会い繋がることが必要だ」とグラテウォルさんは言われた。その道を私達、藤三郎プロジェクトーこれは台北のJさんが名付けてくれた名称ですがーの仲間達は進めています。
2012年08月26日
--<木谷ポルソッタ倶楽部>-------------------- ■最高の幸せ~のんびりとした時間■ ------------------------<2007/7/14>--- 最高の幸せとはどのような時をいうのだろう。最近、ひとりで夜、寝酒を呑みながら考えることがある。そして、のんびりと過ごすことができることかもしれないと思った。 「のんびりとした時間」とはどのようなものだろう。 雨の休日、ゆっくりとした音楽を聴きながら、好きな本をゆっくりと読む。そう、のんびりとしながらも、何かに追われているような感じをぬぐえない。 温泉地に行く。おいしいものを食べて温泉にじっくりと浸る。確かにのんびりとしているが、明日のことをつい考えてため息をついてしまう。 由布院の旅館のご主人に尋ねてみたことがある。「ご主人にとって、のんびりとはどのような時をいうのですか?」「のんびり、顔を改めたから何かと思ったら、むずかしいことを......」その方は頭をかきながら照れ笑いを浮かべた。 「そうだな、そう、あのね......。 何か経済的な仕掛けもされていないただの地球空間でね。 ぼさぼさっと草が生えていて、犬を連れて散歩をしてて、 犬が小便をしている間、こちらがごろんと寝転がっている。 そんなことさ......ふふふ」 「最後のふふふは何ですか?」「ほう、そうきましたか。これで答えになっているかなという意味さ」「私には含み笑いに聞こえましたよ。何か意味があるのでしょう?」「意味があるのと問われても、意味はないよ......ふふふ」 「ほれ、また、ふふふと笑った。何か意味があるはずです」「今夜のあんたはしつこいよ。ただのふふふさ」「ただのふふふですか」「そうね、ただのふふふですよ」 「ところでご主人は猫を飼っていますが、犬を飼っていたことはあるのですか?」「犬を飼うとか、猫を飼うとか、そういう問題ではないだろう。 犬と散歩している方が絵になるだろう。猫と散歩している人いるかね」 「ぷっ、ふふふ」「ほらっ、あんたもふふふと笑った。その意味は何だね?」「別に意味などありません。ただのふふふです」「それじゃ、私と同じだ」 「ご主人と同じではありません。ご主人のふふふには意味があります」「ああ、それよりも、のんびりとお酒でも呑みませんか?」「ああ、それはいいですね。ふふふ」「あっ、そのふふふ......ふふふ、考えないことにしましょうな、ふふふ」 ふふふ......こんな会話ができる。それも「のんびりとした時間」なのかもしれない。ふふふ。 ------------------------ 人間のためでも、誰のためでもなく、 それ自身の存在のために自然が息づいている。 そのあたりまえのことを知ることが、いつも驚きだった。 (星野道夫著「長い旅の途上」より。----------------------- ■発 信 者 :木 谷 文 弘
2011年12月12日
--■木谷ポルソッタ倶楽部■---------<2008/1/24>---- 一杯のラーメン ---------------------------------- のれんをくぐった。引き戸を開けた。懐かしい匂いがした。私はカウンターにゆっくりと腰を下ろした。注文をしなくてもいい。私の欲しいものはオヤジにはわかっている。 「オマチドウ!」婆さんがどんぶりをカウンターにドカーンと置いた。ふふふ、これこれ、これが食べたかった。 今回、入院している間、退院したら、何をまず食べようか。朝に昼に夜に、私はそればかり考えていた。悩んでいた。ひと月も過ぎると、それは憧れにまで変わっていた。 ラーメン、トンカツ、中華丼......これがベスト・スリーになっていた。これがベスト・スリー、しかし、それは、そう毎日、変わっていた。 時には、ゴボ天蕎麦、チャンポン、カレーライスなどに変わる。病人は他に考えることがないのだ。ふふふ。 分厚いステーキ、油ののった大トロの握りなどは思いもしなかった。豪華ものでなく普段食べていたものがとてつもなく恋しかった。 そして今......とにもかくにも、目の前に、ラーメンが置かれた。地鶏の肉片が油の浮かんだスープの中を漂っている。焼きを入れた太めの白ネギ、大きからず小さからずのチャーシュ、ふふふ、これよ、これなんだ。 スープをまず飲む。飲む。すする。アチイッ、ああ熱いよな。地鶏をひときれ、喰う。喰う。ああ、筋があるよな。固いよな。そして、おもむろに麺を箸ですすりあげる。ズルズルルル......ズル。 二、三分だっただろうか。何も目に入らなかった。瞬きを何度したろうか。ただひたすらに喰った。気がついたらどんぶりにひと滴のスープもなかった。 空になったラーメンのどんぶりがカウンターに置かれていた。それを、私は満足げにいつまでも見つめていた。 「生きている」「生かされている」人はささいなことで、おのれの命を実感する。それも元気な頃ではあたりまえのことで実感する。 人間とは愛おしいものだと、しみじみと思った。 ■追 伸■ 去年の年末、今年の年始と、私は病院で過ごしました。私の人生にとって長期の入院ははじめての経験でした。「あんたでも病気になることがあるんだ」ある人がため息まじりに言われました。 そう、今回は病気も病気、生死にかかわる病気といってもよかったのです。私は自分の人生の終わりというものを考えました。六十歳、もう、そう考えてもおかしくない歳になっていたのです。 多くのみなさまにご心配をおかけしました。おかげさまで、先日、退院し、今後は通院治療となりました。 そして今......「生きるか死ぬか」の気持ちが「生きている」と変わりました。いいえ、そう、今の私、「生かされている」というのが本音です。 旅もできます。蕎麦も戴けます。音楽も聴けます。映画も見られます。酒も呑めます。そう、気持ちを新たに、うん、これだけが、ふふふ、むずかしいでしょうね。そうです。「怠惰」と「欺瞞」の性格は変わっていないのです。 そういうことで、くだらぬ「木谷ポルソッタ倶楽部」を今までとおり、時々、メールで配信続けることができます。 今後ともおつきあいのほどをよろしくお願いします。 ----------------------- 木谷 文弘(きたに・ふみひろ)
2011年12月04日
--【木谷ポルソッタ倶楽部】-----------------<2008/2/4.>---- ■ 世界一遅いマラソン記録 ■-------------------------------------------昨日、大分毎日マラソンが開催された。大分出身の若者がゴールを切った。地元のマラソンで、地元の選手が優勝した。嬉しかった。 マラソンというと、感動する話を聞いたことがある。 みなさんは、金栗四三さんという人をご存知だろうか。うん、戦前の生まれの人ならば、すぐに「マラソンの父」だと言うだろう。 明治44年、金栗さんは翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場した。当時の世界記録を27分も縮める大記録を出して完走したそうな。 27分も縮めたということに、私しゃあ驚きましたわいな。 金栗さんは三島弥彦さんとともに日本人初のオリンピック選手となった。金栗さんは明治45年のストックホルムオリンピックのマラソンに参加した。 それで、どうなったかって......ふふふ、話はうまくはいかない。金栗さんは走っている途中に気分が悪くなり意識を失って倒れたそうな。マラソンコース近くの農家に運び込まれて介抱されたらしい。 そして、なんと金栗さんが意識を取り戻したのは、翌日の朝であった。ふふふ、もちろん、マラソンの競技は終わっていた。 金栗さんの無念さは、運動神経オンチの私にも想像できる。 その後、金栗さんは2度のオリンピックに出たり、箱根駅伝の開催のために尽力し、その功績を讃え、金栗杯が創設されている。 明治、大正、昭和と、いろんなことがあり、時は過ぎていった。昭和42年、スウェーデンのオリンピック委員会から、金栗さんは突然に招待された。 ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典、途中棄権をした私がなぜに招待されるのだろう。金栗さんは恥ずかしい気持ちながらも招待を受けた。 マラソン途中で意識を失って、農家にかつぎこまれた金栗さん、ストックホルムでは棄権の意志がオリンピック委員会に伝わっておらず「競技中にひとりが失踪し行方不明」として扱われていた。 金栗さんがストックホルムに行き競技場に赴くと。なんとゴール付近には一本の白いテープが張られていた。スウェーデンの人達にせかれて、金栗さんはテープを切った。 競技場内にアナウンスが高らかにされた。 「金栗選手、ゴールです。記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3です。 これは世界一遅いマラソン記録であります。 以上をもって、第5回ストックホルムオリンピックの全試合が無事に終わりました」 ------------------------------- 木谷 文弘(きたに・ふみひろ)
2011年12月04日
――【木谷ポルソッタ倶楽部】――――――――――――――――――――― ■ 素晴らしき田舎の人々 ■―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 今回の入院に際して、私は病室にかなりの本を持ち込んだ。本を読もう。とにかく本を読んで読んで読み尽くそうと思った。 「木谷さんって、本ばかりいつも読んでいるのね」 看護婦さんたちから冷やかされるぐらい読んだ。 持ち込んだ本の中に、宮本常一さんの著作の本がかなりあった。そう、なぜか、宮本常一さんだ。宮本常一さんの本がなぜか多くなった。 宮本さんは一般人にもよくわかるように「民衆の歴史」を広めた。市販の歴史もののほとんどは、政治や経済の動きを権力者の視点から描いている。それを、宮本さんは民衆の視点から描いている。 それも、宮本さんが日本全国を歩いて聞き取り聞き書きしたものが多い。そうそう、「忘れられた日本人」など名著が多い。 うん、私が病院のベッドで笑ってしまった話がある。 田舎の言葉のわるい娘が奉公にいって里言葉丸出しで話すので、その家の主婦がその娘に注意をしたそうな。「おまえももう少し物にオをつけて話すとよかろう」 すると娘は何にでもオをつけて話をするようになった。「オクサマ、オ米びつのオ米をオ洗っておきましょうか」「オクサマ、オご飯がオ炊けました」 主婦はわずらわしくなって注意をした。「もう少しオをなくしたらよかろう」 素直な娘だ。すぐに注意を実行した。すると、これもまた困ったことになった。 主婦が娘を呼ぶと、娘は答えた。「クサマ、何でございましょう」オの字をとったのである。 「クサマとはなんだね」「ハア、オクサマのオをとったので……」「それはとらなくてもいい。ところで豆はどこに入れてあるのかね」「ハア、豆はケの中にあります」 ふふふ、宮本常一さんの本の世界は田舎パラダイスでっせ。入院している間、宮本さんの本を読みながら、私は思った。 「早く元気になって、田舎をゆっくりと旅したいな。 そう鈍行列車に乗って、そう桜の花の咲く頃にね……ああ」――――――――――――――――――――――――――――――― 木谷 文弘(きたに・ふみひろ)
2011年12月03日
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