全150件 (150件中 1-50件目)
天路歴程「私は「プロミス」という鍵を持っている」 さて、昼になる少し前、善良なクリスチャンは半ば自失した者のように熱烈な言葉を叫びだした。私はまあ、と、彼は言った。なんというバカ者だろう。勝手きままに歩いてよいものを、こうしていやな臭いのする土牢の中に横たわっているとは。私は「プロミス」という鍵をふところに持っているのだ。それは「疑惑の城」のどんな錠前も開くと信じているのだ。するとホウプフルは言った。それは、兄弟、いい知らせです。ふところから引き出して、やってごらんなさい。 Now a little before it was day, good CHRISTIAN, as one half amazed, break out in this passionate speech: "What a fool," quoth he, "am I, thus to lie in a stinking dungeon, when I may as well walk at liberty! I have a key in my bosom called Promise; that will, I am persuaded, open any lock in Doubting Castle." Then said HOPEFUL, "That's good news; good brother, pluck it out of thy bosom, and try."銀河鉄道の夜車掌「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」その切符は、いちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものであった。鳥捕り「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」ブルカニロ博士(第四次稿で削除されてしまった部分に、銀河鉄道から地上に戻った時にジョバンニが緑いろの切符を握りしめて立っているという場面がある。)「さあ、切符をしっかり持っておいで、お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ歩いて行かなければいけない。天の川の中でたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」「おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。-中略-もしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんと ほんたうの考 と うその考 とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。」第四次稿で、ブルカニロ博士の部分は賢治自身の手によって削除されてしまった。クラーク博士は来日した1876年11月19日に、故郷につぎのような手紙を送っている。 私は今日クラスの生徒に聖書をもって教育する許可をとった。かくして札幌農学校においては、日本において他のすべての政府の学校においては法をもって禁じられていることー聖書をテキストブックとして使うことーができる。このことに関して、神は私に黒田長官の理解を得る特別の恩寵を賜った。 大島正健の思い出によると、第一期生たちはその後ただちにクラークから聖書をもらってこれに親しむようになっている。そしてクラークは、日曜日ごとに「学生やその他の人を集め、聖書を教え」た。しかし「普通の宣教師と違い、実際的宗教だから面白かった。宗教臭い宗教ではなかった」と述べている。 クラークは生徒たちに、アメリカのキリスト教が腐敗し形式に流れている現状を説いた後に、こう言ったという。「むかし、聖パウロがキリストの教えを伝道したときに、ユダヤのキリスト教とはまったく違った独立したキリスト教を教え、形式からはなれ、もっとも神に接近し、自由に伝えられるところとして、アンテオケ(シリヤの町)は新しく自由な教育ができた。私はここにアンテオケの宗教(アンテオケの教会はやがて異邦人伝道の教会となり、パウロなどはここから伝道旅行に旅立った)を建てるつもりである」。 農学校における聖書使用の許可(北大百年史p265-267) Sapporo,1st Nov. 19, 1876.Capt. Wm. B. Churchill; My dear Brother : Thanks for your good letter and your valuable package of Illustrated Christian Weeklies. To-day I have distributed them to my class of Bible-readers and by a nice adjustment, apparently providential me in writing to "interest them in the Holy Scriptures." To-morrow morning I propose to begin the College Exercises by reading from the Bible and repeating with the students the Lord's Prayer. To-day they could all repeat correctly the first seventeen verses of the 20th chapter of Exodus. Thus in the Sapporo Agricultural college the Bible has become a textbook, though forbidden by law in all schools and Colleges under the control of the Japanese government. God has given me special favor with Governor Kuroda, who is one of the most influential officers of the imperial government at Tokio and whose will is supreme in Hokkaido. While traveling with him last summer I conversed with him last summer I conversed with him freely about religion and finally asked leave to use the Bible in the College. He answered that personally he had no objection, but he must forbid it on account of the law and the opinions of the high officials. I told him the Bible was the best ob books and was surely to be taught at no distant day in Japan as in all other enlightened countries, and that it would be greatly to his credit to allow its introduction in his new College. He said I could teach its truths to the students, but must not read it publicly nor give them copies for private use. I answered that I was very sorry, for I had thirdly copies, but that I would obey orders. About a month after this he set for me and wished me to teach the students good morals, I replied I could not without constant reference to the Bible and I feared I should give offence. The next day he told me he would withdraw his prohibition in regard to the Bible and I could do as I chose. So I decided to distribute the books and make them useful. Now N.B. you must no let a word of this get into the papers for it might create a breeze. This you know is the land of typhoons! I am having wonderful success in all my work here, and have done more in the four months towards the organization and equipment of the College than even I would have deemed possible. Besides my regular College work, which goes swimmingly, I have the entire control of a splendid farm of splendid farm of 250 acres with a complete outfit of American stock, tools and machines, and am building a barn, better than ever was built in the East. I have full power to buy, sell and hire as I please, and my official seal is required to draw from the treasury any of the $15,000 appropriated for the ordinary annual expenses. Thus having plenty of health, I should be a most unworthy wretch if I had not plenty of happiness. True, I would like to enjoy the merry chatter and sweet companionship of the loved ones at home, but I am most thankful for the goodly portion I have been blessed with in the past. We are now building a library building and have already a considerable number of scientific books, cyclopedias, etc. Can you help us in any way to obtain some interesting religious reading? Are there not bound volumes of the Weekly? I will gladly pay fifty dollars towards the expense of a box and see that the books are properly labelled and placed in the College library, if sent to my address "Care of Kaitakushi". After a most delightful autumn, winter began on the 15th inst, by a snow storm which soread a soft white blanket over the unfrozen earth which was two feet and one inch thick. It is however rapidly wasting away and we hope for a few days more pf good weather for out-door work. We are aching to know that Hayes and Wheeler were elected on the 7th inst. and also to learn about elections in Massachusetts, but must wait in hope till Christmas, or possibly till the 10th of January, 1877. Give much love to the sisters who are under your captaincy and keeping and tell them I am waiting for their letters. With best wishes for your health and happiness, I remain, Most truly, Your affect, Brother, W.S.Clark<機械翻訳>1876年11月19日、札幌。Wm.B. チャーチル大尉 B. チャーチル 親愛なる兄弟。 良いお手紙と、イラスト入りキリスト教週刊誌の貴重なパッケージをありがとうございました。今日、私は聖書を読む人たちのクラスにそれらを配布しました。そして、素晴らしい調整によって、どうやら私は「聖書に興味を持たせる」ために書いたようです。明日の朝は、聖書の朗読と「主の祈り」を生徒と一緒に繰り返すことから、大学の演習を始めようと思っています。今日、彼らは皆、出エジプト記第20章の最初の17節を正確に繰り返すことができた。このように、札幌農学校では、日本政府の管理下にあるすべての学校や大学では法律で禁止されているにもかかわらず、聖書が教科書になっているのです。 神は私に黒田知事の特別な好意を与えてくださいました。黒田知事は東京の帝国政府の最も影響力のある役員の一人で、北海道ではその意志が最高です。昨年の夏、彼と旅行している間、私は彼と宗教について自由に会話し、最後に大学で聖書を使用する許可を求めた。彼は、個人的には異存はないが、法律と高官の意見との関係で禁止せざるを得ないと答えた。私は彼に、聖書は最高の書物であり、他のすべての啓蒙国と同様、日本でも遠からず必ず教えられるようになること、そして彼の新しい大学にその導入を許可することは、彼の信用に大きく資するであろうことを告げた。そして、私が学生にその真理を教えることはできるが、公然と読んだり、私的利用のためにコピーを与えたりしてはならないと言われた。私は、3冊目を持っているのでとても残念ですが、命令に従いますと答えました。それから約1ヶ月後、彼は私を訪ねてきて、生徒たちに良い道徳を教えるようにと言った。私は、常に聖書を参照しなければできないし、不快感を与えることを恐れていると答えた。翌日、彼は聖書に関する禁止事項を撤回すると言い、私は自分の好きなようにすることができると言いました。そこで、私は本を配布し、それを役立てることにした。さて、注:このことを一言でも新聞に載せてはならない。風を起こすかもしれないからだ。ここは台風の国なのだから。 私はここでのすべての仕事において素晴らしい成功を収めており、この4ヶ月間で大学の組織と設備に対して、私でさえ可能だと考えた以上のことをしてきました。大学の通常の仕事は順調に進んでいますが、それ以外に、私は250エーカーの立派な農場の全権を握っており、アメリカの家畜、道具、機械を完備し、東洋一の納屋も建設中です。私は好きなように売買や雇用を行うことができ、通常の年間経費として計上されている1万5千ドルのいずれかを国庫から引き出すには、私の公印が必要です。 このように、私は健康にも恵まれていますが、もし幸福にも恵まれていなければ、最も価値のない哀れな人間になっていたことでしょう。確かに、私は家で愛する人たちと陽気なおしゃべりや甘い交際を楽しみたいのですが、過去に恵まれた十分な分量に最も感謝しています。 私たちは今図書館を建設中で、すでにかなりの数の科学書やサイクロペディアなどを所蔵しています。何か面白い宗教関係の本を手に入れるのに、何かお役に立てることはないでしょうか?週刊誌の製本版はないのでしょうか?私の住所「開拓使宛」に送ってくれれば、箱代として50ドルを喜んで払い、本がきちんとラベルを付けられて大学の図書館に置かれるのを見届けたいと思います。 最も楽しい秋の後、15日に冬が始まり、雪嵐は凍らない大地に2フィートと1インチの厚さの柔らかい白い毛布を巻き付けました。しかし、雪は急速に消え去り、屋外での作業に適した天候があと数日続くことを願っています。 7日にヘイズとウィーラーが当選したことを知り、またマサチューセッツ州の選挙について知りたいと願っていますが、クリスマスまで、あるいは1877年1月10日まで、希望を抱いて待つしかありません。 あなたの指揮下にある姉妹たちに多くの愛情を注ぎ、私が手紙を待っていることを伝えてください。 あなたの健康と幸福を祈りつつ、私はここに留まります。 心から、あなたの愛情を込めて、兄弟。 W.S.Clark
2022年05月28日
ざしき童子のはなしby宮沢賢治 ぼくらの方の、ざしき童子(ぼっこ)のはなしです。 あかるいひるま、みんなが山へはたらきに出て、こどもがふたり、庭であそんでおりました。大きな家にたれもいませんでしたから、そこらはしんとしています。 ところが家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒の音がしたのです。 ふたりのこどもは、おたがい肩にしっかりと手を組みあって、こっそり行ってみましたが、どのざしきにもたれも居ず、刀の箱もひっそりとして、かきねの檜葉(ひば)が、いよいよ青く見えるきり、たれもどこにもいませんでした。 ざわっざわっと箒の音がきこえます。 とおくの百舌(もず)の声なのか、北上川の瀬の音か、どこかで豆を箕(み)にかけるのか、ふたりでいろいろ考えながら、だまって聴いてみましたが、やっぱりどれでもないようでした。 たしかにどこかで、ざわっざわっと箒の音がきこえたのです。 も一どこっそり、ざしきをのぞいてみましたが、どのざしきにもたれもいず、たゞお日さまの光ばかり、そこらいちめん、あかるく降っておりました。 こんなのがざしき童子です。「大道(でえどう)めぐり、大道めぐり。」 一生けん命、こう叫びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないで円くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷のなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞によばれて来たのです。 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんで居りました。 そしたらいつか、十一人になりました。 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけ居りました。その殖(ふ)えた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出て来て云いました。 けれどもたれが殖えたのか、とにかくみんな、自分だけは、何(どう)だってざしきぼっこだないと、一生けん命眼を張って、きちんと座っておりました。 こんなのがざしきぼっこです。 それからまたこういうのです。 ある大きな本家では、いつも旧の八月のはじめに、如来さまのおまつりで、分家の子供らをよぶのでしたが、ある年、その中の一人の子が、はしかにかかってやすんでいました。「如来さんの祭へ行くたい。如来さんの祭へ行くたい。」と、その子は寝ていて、毎日毎日云いました。「祭延ばすから早くよくなれ。」本家のおばあさんが見舞に行って、その子の頭をなでて云いました。 その子は九月によくなりました。 そこでみんなはよばれました。ところがほかの子供らは、いままで祭を延ばされたり、鉛の兎を見舞にとられたりしたので、何ともおもしろくなくてたまりませんでした。あいつのためにひどいめにあった。もう今日は来ても何(どう)したってあそばないて、と約束しました。「おゝ、来たぞ、来たぞ。」みんながざしきであそんでいたとき、にわかに一人が叫びました。「ようし、かくれろ。」みんなは次の、小さなざしきへかけ込みました。 そしたらどうです。そのざしきのまん中に、今やっと来たばっかりの筈(はず)の、あのはしかをやんだ子が、まるっきり瘠(や)せて青ざめて、泣き出しそうな顔をして、新しい熊のおもちゃを持って、きちんと座っていたのです。「ざしきぼっこだ」一人が叫んで遁(に)げだしました。みんなもわあっと遁げました。ざしきぼっこは泣きました。 こんなのがざしきぼっこです。 また、北上川の朗明寺(ろうみょうじ)の淵(ふち)の渡し守が、ある日わたしに云いました。「旧暦八月十七日の晩に、おらは酒をのんで早く寝た。おおい、おおいと向うで呼んだ。起きて小屋から出てみたら、お月さまはちょうどそらのてっぺんだ。おらは急いで舟だして、向うの岸に行ってみたらば、紋付を着て刀をさし、袴(はかま)をはいたきれいな子供だ。たった一人で、白緒(しろお)のぞうりもはいていた。渡るかと云ったら、たのむと云った。子どもは乗った。舟がまん中ごろに来たとき、おらは見ないふりしてよく子供を見た。きちんと膝に手を置いて、そらを見ながら座っていた。 お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかわいい声で答えた。そこの笹田のうちにずいぶんながく居たけれど、もうあきたから外(ほか)へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば、更木(さらき)の斎藤へ行くよと云った。岸に着いたら子供はもう居ず、おらは小屋の入口にこしかけていた。夢だかなんだかわからない。けれどもきっと本統(ほんとう)だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終ったし、めきめき立派になったから。」 こんなのがざしき童子です。
2021年08月28日
八木英三「少年宮沢賢治」(「宮沢賢治研究資料集成第1巻」p.141-144)私は明治40年に早稲田大学へ入学することになって、花城小学校の代用教員を退職した。私の最初の教え子達であるところの賢治君の組は尋常3年から持ち上りで4年を今や終ろうとする2月の中旬であった。18歳にして代用教員を拝命したところの私自身がすでに少年であった。「教壇に立つときはまっ黒な足をしないで足袋(たび)をはきなさい。」と照井先生に注意されて、不思議な儀礼に首をかしげたものである。「弁当は教壇に腰かけて食べてはいけません。」と及川校長に𠮟られたときは成程と感心した。高等科4年生の桂のおきみさんは16の美人だった。「英三さん、先生になったって、そんなに頑張らないで、あそびにおでれぢゃ。」とひやかされて真っ赤になったこともある。このような少年の私が一躍にして先生になったのだ。3年生まではおじいさんの吹張先生に甘やかされて来た犬ころのような子供らである。級長のかける「礼」の声が通らなくて、一時間中教師と生徒と立ってばかりいたことがある。(賢治君は副級長だった。)時間半ばごろからさすがに生徒の方も気がついてシイーンとなったけれども、私は着席することを許さなかった。「おれは先生になる資格がないのだろうか。」おれは一日黙々として楽しまなかった。翌朝井戸端で顔を洗っていると、ドット鼻血が流れて洗面器を真赤に染めた。母がビックリして登校を制止したけれども「死んでもアノ子供らにまけるものか」という勇気がぼつ然として台頭した。子供らはやや静粛に授業をうけるようになった。私も少しずつ教育に興味を感じはじめ、夕方おそくまで一人で明日の支度をしてかえるときなど、思わず小唄が鼻さきに上がったりすることもあった。その頃、五来素川が「まだ見ぬ親」をはじめて翻訳した。私はかみつくようにこの少年小説を耽読した。大事な言葉は暗記くらいにまで進んだ。授業のヒマヒマ、体操の時間で雨でつぶれたときなど、この物語りを連続長講で話してやったが、このときばかりは子供らの面持ちに異常の緊張さがあらわれ、心から涙を流すもの、思わず歓呼の声をあげるものも少なくはなかった。私自身も自らの声音に上気して眼がボーツとなるのであった。この話が二月も三月もつづいたと思うが、それが終わるころから、私の組が大そう従順になった。私もまた童話やリーダーの中から、彼らにいつでもお土産の用意はしていたのである。そして一週間に三ぺんづつ必ず作文をかかせた。一日おきにそれを調べてかえすのは、かなりおっくうな仕事であったけれども、少年の頭には疲労がないものだ。忠実にあやまりを正し、秀句に図点をつけ、書後に批評を加えた。それだから子供たちの中にもその事に興味を持つものが出来て、ある自由作文の宿題のとき、今の大橋博士が十八枚の半紙にたんねんに蘇我兄弟の物語をかいて持ってきた。同じ宿題に、賢治君が、十二行罫紙三枚半にきれいな真書の細筆で、七五調のすっかり整った長詩を物した。題目は忘れたが、なんでも四季の眺めを別々にうたってあったように記憶する。私が賢治君の詩才に感嘆したのがこれがはじめてであった。その天才を摘出してやることが私の任務の大きなものの一つであるように思った。けれども少年教師と少年門弟とは最早たもとをわかつべきときとなっていた。「お前たちはえらい人にならなければいけない。先生とおわかれにめいめいののぞみを書いて記念にのこしてくれ。」といって「立志」と黒板に題を示した。いつもは陸軍大将になるの、大学総長になるのと威張っていた連中だったが、この題を、この機会に与えられて、誰も顔を上げるものがなかった。たいてい一、二行にかんたんに大工になるとか、おじさんのあとをついでお医者になるとか、卵買いなどして歩くとか、いたってジミな答えばかりであった。賢治君も同様に家業をついで商売にいそしむ趣が、やっぱり二三行にかいてあった。私は子供らのこの着実な考え方に自分の無鉄砲さの影響しなかったことをひそかによろこび、浅春の豊沢橋上までみんなに見おくられてアバラ屋にかえった。ひと昔とまた何年かすぎて、賢治君は「春と修羅」をかいた。それから間もなくのこと、汽車の中で偶然一緒になり、突然こんな質問をうけた。「このごろ、ある朝の印象という題の詩をかきましたが、わきにドイツ語を入れなければ、どうしても心持が落ちつかないのです。アイネファンタジー、です、アイネスモルゲンスではいかがでしょう。」「非常に面白いね」とあいづちを打った。その時の話に「私の詩は哲学的に、思想的に、また宗教的に考えたときに、非常に偉大なものだと自負していますが、思想の根底はすべて先生の童話から貰ったように思って感謝しています」という一言があった。・・・・・(『女性岩手』第9号、昭和9年1月)
2020年11月22日
宮沢賢治と伝染病(エンドトキシン研究の黎明期は宮沢賢治の生きた時代だったhttp://www.asahi-net.or.jp/~CP6K-IND/kenji.html)・宮沢賢治は6歳のとき(明治35年,1902)赤痢を患い花巻町の隔離病舎に入院した。看病した父も感染した。この数年前に伝染病予防法が施行されており、赤痢は強制的に隔離される法定伝染病であった。大正3年(1914)、18歳になった賢治は蓄膿症の手術で、岩手病院(後の岩手医科大学)に入院した。手術後発熱し発疹チフスの疑いがでたため入院が長引いた。発疹チフスも法定伝染病であり、赤痢にかかって隔離された6歳の時の記憶が蘇り賢治は死への恐怖にさいなまれた。目をつぶりチブスの菌と戦へるわがけなげなる細胞をおもふ屋根に来ればそらも疾みたりうろこぐも薄明穹の発疹チフス (宮沢賢治『歌稿』大正3年4月)賢治は昭和8年(1933)、不治の病結核を発症し37歳でこの世を去った。結核の特効薬ストレプトマイシンが放線菌から発見されたのは彼の死から10年後の1943年だった。・妹トシの死因(マスクとうがいhttps://www.yokokai.com/index.php?UID=1246625138)大正7年12月27日早朝、雪の残る東京に、宮沢賢治(22歳)が母・イチ(41歳)をともない、妹・とし子(トシ)(19歳)の看病のため、花巻から上野に到着、小石川区雑司ケ谷町の旅館に止宿した。賢治は早速妹を入院先の永楽病院(東大付属病院小石川分院)に見舞い、その様子を故郷の父・政次郎(44歳)あての手紙に、次のようにつづった。「拝啓 今朝無事着京敦し候。午後二時永楽病院にて面会仕り候処別段に顔色も悪からず言語等常の如く御座候。昨日は朝三十八度夜三十九度少々咽喉を害し侯様に見え候。……」 とし子は目白の日本女子大学校3年生、積善寮に寄宿していた。 賢治は母を先に帰し、以後一人で毎日とし子の病室に通い、体温の上下など容態を詳しく父親に手紙で、毎日かならず一通、ときには二通書き送る。それによると、発熱ははじめ心配した腸チフスによるものではなく、翌年1月4日の手紙にあるように、「割合に頑固なるインフルエンザ、及肺尖の浸潤によるものにて今後心配なる事は肺炎を併発せざるやに御座候」ということであった。主治医は名医といわれた二木謙三博士で、当時としては最高の治療を受けることができた。 先の1月4日の手紙には、とし子が「伝染室」に入れられているとあり、「医員の注意は殆んど集中し居り候由決して御心配無之候」とある。 このインフルエンザは、後になってスペイン・インフルエンザとして被害の大きさが知られたが、当時はこの新型インフルエンザの恐怖について人びとは気づいていなかった。当時はまだコレラ・赤痢・腸チフス・痘瘡の四種伝染病が最大の恐怖の対象であった。 賢治も妹が腸チフスでなかったことに安心し、このインフルエンザが前代未聞の死亡率の伝染病であるという認識はなかった。賢治の大正8年1月23日の手紙では、「近頃又感冒流行にて病院にも入院者大分増し申し候」とある。そして、先の1月4日の手紙に次のように書いている。「尚私共は病院より帰る際は予防着をぬぎ、スプレーにて消毒を受け帰宿後塩剥(えんぼつ)にて咽喉を洗ひ候。勇々御心配被下間敷候。」 「塩剥」とは塩素酸ナトリウムの俗称で、うがい薬として使われていた。病院の「伝染室」の出入りには専用の予防着をつけ、消毒していたことがわかる。 また1月28日の手紙では、「当地は感冒流行の噂は聞き侯へども成程と思ふ様の事には未だ会はず候。但し往来には仁丹を少しつヾ噛み、帰宿後は咽喉を潅ぎ」と書いている。賢治は消毒液で手洗いし、うがいを励行していたことがわかる。政次郎は臨終にあたって 「とし子、ずいぶん病気ばかりして ひどかったな。こんど生まれてくるときは、また人 になんぞ生まれてくるなよ』となぐさめた。トシは 『こんど生まれてくるたて、こんどはこたにわりやの ごとばかりで、くるしまなあよに生まれてくる』と 答えた。また母は愛情のこもった言葉で娘をなぐ さめた。」(年譜P.556) トシの死が告げられるや母はトシの足元で泣きくず れ、妹シゲとクニは抱き合って泣いた。 そして賢治は、押入れに首をつっこんで働突した。★賢治の生涯は幼児期に赤痢にかかり、妹は当初インフルエンザ、最後は結核と診断されてなくなり、自身も結核でその命を終わった、賢治の生涯はまた伝染病とともにあったともいえる。
2020年04月14日
現代数学で最重要の難問「ABC予想」を証明、論文掲載へ 京大・望月教授、8年越しで専門誌に4/3(金)現代数学で最も重要な難問とされる「ABC予想」を証明したとする京都大数理解析研究所の望月新一教授の論文が、同研究所の編集する専門誌「PRIMS」に掲載されることが3日までに決まった。論文はインターネット上に2012年から公開されていたが、8年越しで専門誌に掲載されることとなる。 整数では足し算と掛け算ができるが、ABC予想はその二つの演算の絡み合い方に関する問題。1980年代に欧州の数学者たちに提唱された。ABC予想の成立を仮定すると、多くの未解決の予想が証明されるため重要な問題とされてきた。論文は四つあり、計約600ページに上る。 PRIMSの編集委員長は望月教授だが、同研究所の柏原正樹教授と玉川安騎男教授が共同編集委員長となり、望月教授を除いた特別編集委員会をつくって今回の論文を審査した。 望月教授は発表したコメントで、証明の難しさについて「既存の数学理論と難しさの種類が違うことはあると思う」と説明。専門の研究者にとっても「まったく違う枠組みの議論につまずいてしまうことも起こり得る」とした。 望月教授は、16歳で米プリンストン大に飛び級で入学、19歳で同大学数学科を卒業。2002年に32歳で京大の教授に就任した。京都で研究してきた意味について「数学の研究を進めるには、ある程度話が通じる相手がある程度の人数いる環境でないと難しい」とし、数理解析研究所に優れた研究者たちが在籍する利点を強調した。京都新聞★こういう時代だからこそ、永遠のテーマや宇宙に目を移すことが大切なように思われる。宮沢賢治は盛岡農林学校時代、石ころに宇宙の生成をイマジンした。「カチリ 石英の音 秋こんな詩を見せてくれた友達があった。沼津では一番大きい紙問屋の一人むすこで、私たち仲間の餓鬼大将であった。私はこの短い詩を見せられたとき、なるほど詩というものはこういうものかと思った。確かに秋の来る気配の中には、石英のぶつかる音がしているとおもった。 井上靖」石英のぶつかる音に秋を感じる、素晴らしい感性だ。これを読んでいたら、宮澤賢治が盛岡農学校時代、友人の高松秀松にあてたハガキのことを思い出した。「今朝から12里歩きました。鉄道工事で新しい岩石が沢山でています。私が一つの岩片をカチツと割りますと初めこの連中がガスだった時分に見た空間が紺碧に変わって光っていることに愕(おどろ)いて叫ぶこともできずきらきらと輝いている黒雲母を見ます。今夜はもう秋です。スコウピオ(さそり座のこと)も北斗七星も願わしい静かな脈を打っています」
2020年04月03日
教師宮沢賢治の実習 より長坂俊夫の証言 麦刈りの脱穀は、もみがらが飛んで、首にささって、汗でべとついて、ほんとに嫌なんです。 すると賢治先生が。とつぜん大声で「おおい、氷買ってこい」なんて言うのです。 代表がバケツを持って買いに走ります。先生はブドウ糖液を持ってくるんです。それをバケツにぶちこんで、みんなで麦わらで作った長いストローで立ったままチュウチュウ吸うんです。 ふっと上向いて山が見えれば、先生は「あのごつごつした肩のあたりはね、あのあたりまで昔は海だったんだな」(*1)なんて突然言うんです。 賢治先生は、左手をポケットにこう入れてね、あぜ道を歩くんです。首にペンシルぶらさげてね、麦藁帽子になっぱ服を着て、それで実習の列の先頭にたって猫背にこうして歩くんですよ。 それがとつぜん天から電波でも入ったみたいに、サッサッと生徒を取り残して前のほうに駆けていくんです。 そうしてとびあがって「ほ、ほっ-」と叫ぶんです。叫んでからだをコマのように空中回転させて、すばやくポケットから手帳(*2)を出して何かものすごいスピードで書くんです。*1 早池峰連峰以南の南部北上山地の古生代地層は4億年前にはゴンドワナ(現在の赤道付近の大陸)の北縁がプレート移動によって移動してきたもので、アンモナイトや三葉虫の化石などが発見される。http://sanriku-geo.com/intro_growth/*2 実習のやり方もユニークだった。太田代潔は、苗の生育がきわめて不良だった農学校の苗代を短冊型に仕切り、アンモニアの施肥量に差をつけて追肥実験をしたときの思い出を話している。賢治の説明では肥料はいったん土壌に吸収されたあと植物が吸収していくので効果が出るまでに 2 時間くらいかかるということで、「みんな苗代のよく見える土手の上にうち伏して午後の実習の二時間をじっと苗の変化に目をこら」した。賢治はポケットから手帳を取り出し、そこに書かれた詩を朗読して聞かせたという。晴山亮「生徒たちも、だから宮沢先生の実習には、競争で出たがったもんです。何となくそうなので、別に特別に親切にされるということもないのですが、自然に吸いつけられ、引きずられるようです。ジシャクにくっつく、砂鉄か釘のようなもんです。ひっぱられるのではなくて、こっちのほうから寄ってゆくようでもあり、ともかくみんなで慕ったのでありました。この気持ちは、ちょっと言葉では言いあらわせないものであります。」柏田正一「額から汗が流れるのもなんのその、先生と歌をうたい、わずかの休憩時間に興味のある科学のお話などをして下さるのですから、実習ほど楽しいものはありませんでした。何かおいしいものを持って来て下さったこともありました。」
2020年03月29日
宮沢賢治先生の授業・ただ感動してください。・賢治先生は目に見えるように教えてくれた。堀籠先生は教科書に書かれていることを、端からほんとうに細かく、丁寧に説明してくれました。そのころに習ったこと全部忘れました。でも、賢治先生の授業は違うのです。たとえば、酸性土壌というのを教えてくれるとします。 すると、先生はこう言う。 『酸性土壌かどうかは、まず見れば、スギナ、ジシバリが多く生えるのですぐわかる。 見つけたら消石灰をやって土をなだめなければいけない』 目で見るように先生は教えるのです。目に見えるものほど実生活で役立つのです。」・「皆さん、神社などでよく見かけるしめ縄が何を意味しているのかを知っていますか?太いしめ縄の本体は雲、細かく下がっている藁は雨、ギザギザの紙は稲妻を表しているのです。」賢治先生は、まず、最初の授業を始めるとき、「授業を受けるにあたって守るべき3つのルール」を挙げたそうです。(1) 先生の話を一生懸命聞いてくれ(2) 教科書は開かなくていい(3) 頭で覚えるのではなく、身体全体で覚えること そのかわり大事なことは身体に染み込むまで何回でも教えるから。 特に(3)については、賢治先生は常に次のように語っていたといいます。「頭で覚えず、いつでも身体で覚えなさい。すると、知識に感動できるのですよ。詰め込みでは何も理解できません。ただ感動してください」と。賢治先生の授業、教え方の特徴は、まず第一に「賢治先生は目で見えるように教えてくれた(身のまわりの事柄と結びつけて教えてくれた)」と生徒たちが証言しています。生徒の証言その(1) 例えば、"農作物の肥料として、窒素が重要"という事実を教える際に、賢治先生は次のように教えたといいます。 「皆さん、神社などでよく見かけるしめ縄が何を意味しているのかを知っていますか?太いしめ縄の本体は雲、細かく下がっている藁は雨、ギザギザの紙は稲妻を表しているのです。なぜ、しめ縄が神社に奉納されているのかというと、それは豊かな実りを祈るためです。なぜなら、雨と雲と雷は豊作のために不可欠なのです。雲のあるところに雷が発生する。雷が空中の窒素を分解し、それを雨が地中に溶かし込むと、その土地は栄養分豊かな土地になるのです。すなわち、窒素は作物にとって重要な栄養素なのです。それでは、今からこのことを自分自身の目で確かめるために、皆で雷のよく落ちる名所である変電所に行きましょう」こういって、賢治は変電所に実際に生徒たちを連れて行き、「変電所の周りの田んぼには、今まで一度も肥料をやったことがないそうです。にもかかわらず、ここの稲はこのように穂もたわわに実り、肥料をやっているほかの田んぼの稲よりずっとたくさん収穫量があるのです。この事実は先ほど私が言ったことの裏付けになっています。窒素の重要性がわかりましたか」 賢治先生は"しめ縄"という身近なものに注目し、自然現象のカラクリを解き明かし、それを自分自身の目で確かめさせ、教科書に"窒素は肥料の重大な要素のひとつ"とだけ書かれている事実を、生徒の頭の髄から納得させたのです。生徒の証言その(2) 私の入った大正13年という年は、岩手県は大干ばつに見舞われた年でした。先生はまず私たちを見回してから、苗代神事の話を始められました。 その頃の苗代では、田をなえあした後で、苗代の真ん中に萱(かや)の茎を30センチくらいに立てる慣わしがありました。でもそうなのかは誰も知らなかったのです。 それを先生は、「稲の原産地は、中国の雲南省、タイ北部、インドの東部あたりです。 昔、このあたりでは、稲は極秘の宝物で、もみ種をよその国に持ち出すことは絶対に禁じられていたのです。 それで日本では手に入れることはできなかったのです。しかし、作物として最も優れている稲を、どうしても手にいれたいと考えていた神様がいました。 その神さまがお稲荷様、これは稲を荷った神さまという意味ですね、に変身して、種もみを萱の中に隠して、それを口にくわえて日本に持ち帰ったのです。 それを後世にしるすために、この行事が始まったのです。 それから、水の取り入れ口に一番近い田んぼのことを「うなん田」といいますね。 これも、稲の原産地雲南の田というところからきているのです。」生徒の証言その(3) 「堀籠先生はとてもいい先生でした。堀籠先生は教科書に書かれていることを、端からほんとうに細かく、丁寧に説明してくれたのです。で、それだから、そのころに習ったことは私は全部忘れました。 たとえば、阿部、堀籠先生たちは、授業の始め30分を掛けて黒板にびっしり字を書いてそれらをノートに写させるのです。そうして後半はそれをちょっちょっと詳しくして読んで終わりなのですよ。60年もたつと、そういう授業は全部忘れてしまいます。勉強するときだけやけに忙しくて、でも卒業するとすっかり忘れて、何の仕事の役にも立たない抜け殻の学問だったのですね。 でも、賢治先生の授業は違うのです。たとえば、酸性土壌というのを教えてくれるとしましょうか。すると、先生はこう言うのです。『酸性土壌かどうかは、まず見れば、スギナ、ジシバリが多く生えるのですぐわかる。見つけたら消石灰をやって土をなだめなければいけない』 目で見るように先生は教えるのです。で、目に見えるものほど実生活で役立つのです。」生徒の証言4宮澤賢治が盛岡農学校で英語を教えていた頃、よく英単語のしりとりの競争をさせていた。 「皆さん、一番長い英単語を知っていますか。」と賢治先生が生徒達に尋ねます。暫しの沈黙。 賢治先生は黒板に白いチョークでSmileと書きます。先生は振り返り、いたずらっぽい笑顔をして生徒達を見回します。いぶかしげに先生の次の言葉を待つ生徒達。 「ほら、このエスとエルの間にマイルってあるでしょう。一マイルは約千六百メートルですから、長いでしょう。」 わっと笑う生徒達生徒達の証言より・先生と初めて会ったのは、私は花巻の稗貫(ひえぬき)郡立稗貫農学校1年生、15歳の時でした。別の先生の欠員を埋めるのに来られたんですが、詰襟に丸刈りで風采が上がらない。「校長先生の紹介にあずかった宮沢です」とした言わない。みんな「養蚕所を改良した教室しかない貧弱な学校だから、こんな先生しか来ないんだ」とがっかりしたんです。 ところが、先生は45分の授業を30分で終わらせ、自分で作った童話を読んで聞かせるのです。 当時、私らは童話なんて言葉をしらなかったが、それがとても素敵でね、いつも新聞紙に原稿を包んでいたので、先生が新聞包みを持って来ると「ああ、きょうも先生の話を聞けるんだ」と思いました。 先生はよく私たちを山へも連れていってくれました。 ある日曜日、先生と野原を歩いたんですが、先生は普通の道を歩きません。ガサガサッとわきのくさっぱらに入っていって、「ホホー、ホホー」と言いながら、あっちこっち跳びはねているのです。それで、「おれと歩いていると面白いか」と聞くんです。はじめはビックリしました。先生は原始人で、自然ととけあっているんです。 粗末な服のとっちゃんが、貧弱な馬を引いて、向こうからやってきたときのことです。先生は「今年は米はなんぼとれましたか」とやさしく声をかけました。ちょうどそこがその人の田んぼだったので、先生は土を手に取って、「窒素肥料をやれば、来年は一俵多くとれますよ」と教えるのです。その人が「どちらの人ですか」と聞いても、先生は「おれか、おれはこの辺の人です」としか言わなかったですね。 先生と北上川の支流で舟に乗ったこともありました。10月のすごく天気のよい日でした。先生は船べりから持っていたリンゴをポタッと水面に落としては浮かび上がるのを見ているのです。何度も何度も、水の揺れかたと光の反射で見え方が微妙に変わるらしく「一回ごとにその反応が違うんだ。きれいだな」と言ってね。それから、先生は急に泳ぐと言い出し、裸で飛び込んだのです。暖かいといっても10月ですよ。 一緒に歩いたところが童話のモデルになっていたこともありました。ある時、私が近くの森でたくさんのフクロウを見たことを先生に話して、連れていったのですが、その時だけフクロウがいなかったのです。申し訳ない気持ちになりましたが、奥のほうではパサパサ飛び立つ音がしました。先生はそれで満足したと喜んでおりました。でも、先生は後から一人で行ったらしく、「今度はフクロウに会ってきたぞ」とうれしそうに話してくれました。それがフクロウの子どもを主役にした「二十六夜」という美しい物語になりました。 先生は「あれをやれ」とか口に出したことは全然ありませんでした。 賢治先生は自然なんです。(照井謹二郎 東京新聞平成12年12月7日)次のかっての教え子に語りかける口調の詩は実に心に沁みる。教え子への愛、百姓への思いに満ちている。最後の祈りの言葉なんか、胸にせまってくる。(現代風に少し改めました、すみません賢治先生)あすこの田はねえあの品種では少し窒素が多過ぎるからもうきっぱりと水を切ってね3番除草はやめるんだ ・・・車をおしながら 遠くからわたくしを見て 走って汗をふいている・・・それからもしもこの天候がこれから5日続いたら、あの枝垂れ葉をねえ、こういうふうな枝垂れ葉をねえむしってとってしまふんだ ・・・汗を拭く 青田のせなかでせわしく額の汗を拭くそのこども!それからいいかい今月末にあの稲が君の胸より延びたらねえ葉尖を刈ってしまうんだ ・・・泣いているのか 涙を拭いているのだな・・・ ・・・冬わたくしの講習に来たときは 1年はたらいたあととはいえ まだかがやかなリンゴのわらいをもっていた 今日はもういたましく汗と日に焼け 幾日の養蚕の夜にやつれている・・・君が自分で設計したあの田もすっかり見てきたよ陸羽132号のほうねあれはずいぶん上手に行った肥えも少しもむらがないし植えかたも育ちぐあいもほんとうにいい硫安だってきみがじぶんで播いたろうみんながいろいろいうだろうがあっちは少しも心配がない反当り3石5斗ならもうきまったようなものなんだしっかりやるんだよこれからのほんとうの勉強はねえテニスをしながら 商売の先生からきまった時間で習うことではないんだよきみのようにさ吹雪やわずかな仕事のひまで泣きながらからだに刻んで行く勉強があたらしい芽をぐんぐんふいてどこまで延びるかわからないそれがあたらしい時代の百姓全体の学問なんだぢゃ さようなら 雲からも風からも 透明なエネルギーが そのこどもにそそぎくだれ
2020年01月13日
ざしき童子のはなしby宮沢賢治 ぼくらの方の、ざしき童子(ぼっこ)のはなしです。 あかるいひるま、みんなが山へはたらきに出て、こどもがふたり、庭であそんでおりました。大きな家にたれもいませんでしたから、そこらはしんとしています。 ところが家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒の音がしたのです。 ふたりのこどもは、おたがい肩にしっかりと手を組みあって、こっそり行ってみましたが、どのざしきにもたれも居ず、刀の箱もひっそりとして、かきねの檜葉(ひば)が、いよいよ青く見えるきり、たれもどこにもいませんでした。 ざわっざわっと箒の音がきこえます。 とおくの百舌(もず)の声なのか、北上川の瀬の音か、どこかで豆を箕(み)にかけるのか、ふたりでいろいろ考えながら、だまって聴いてみましたが、やっぱりどれでもないようでした。 たしかにどこかで、ざわっざわっと箒の音がきこえたのです。 も一どこっそり、ざしきをのぞいてみましたが、どのざしきにもたれもいず、たゞお日さまの光ばかり、そこらいちめん、あかるく降っておりました。 こんなのがざしき童子です。「大道(でえどう)めぐり、大道めぐり。」 一生けん命、こう叫びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないで円くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷のなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞によばれて来たのです。 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんで居りました。 そしたらいつか、十一人になりました。 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけ居りました。その殖(ふ)えた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出て来て云いました。 けれどもたれが殖えたのか、とにかくみんな、自分だけは、何(どう)だってざしきぼっこだないと、一生けん命眼を張って、きちんと座っておりました。 こんなのがざしきぼっこです。 それからまたこういうのです。 ある大きな本家では、いつも旧の八月のはじめに、如来さまのおまつりで、分家の子供らをよぶのでしたが、ある年、その中の一人の子が、はしかにかかってやすんでいました。「如来さんの祭へ行くたい。如来さんの祭へ行くたい。」と、その子は寝ていて、毎日毎日云いました。「祭延ばすから早くよくなれ。」本家のおばあさんが見舞に行って、その子の頭をなでて云いました。 その子は九月によくなりました。 そこでみんなはよばれました。ところがほかの子供らは、いままで祭を延ばされたり、鉛の兎を見舞にとられたりしたので、何ともおもしろくなくてたまりませんでした。あいつのためにひどいめにあった。もう今日は来ても何(どう)したってあそばないて、と約束しました。「おゝ、来たぞ、来たぞ。」みんながざしきであそんでいたとき、にわかに一人が叫びました。「ようし、かくれろ。」みんなは次の、小さなざしきへかけ込みました。 そしたらどうです。そのざしきのまん中に、今やっと来たばっかりの筈(はず)の、あのはしかをやんだ子が、まるっきり瘠(や)せて青ざめて、泣き出しそうな顔をして、新しい熊のおもちゃを持って、きちんと座っていたのです。「ざしきぼっこだ」一人が叫んで遁(に)げだしました。みんなもわあっと遁げました。ざしきぼっこは泣きました。 こんなのがざしきぼっこです。 また、北上川の朗明寺(ろうみょうじ)の淵(ふち)の渡し守が、ある日わたしに云いました。「旧暦八月十七日の晩に、おらは酒をのんで早く寝た。おおい、おおいと向うで呼んだ。起きて小屋から出てみたら、お月さまはちょうどそらのてっぺんだ。おらは急いで舟だして、向うの岸に行ってみたらば、紋付を着て刀をさし、袴(はかま)をはいたきれいな子供だ。たった一人で、白緒(しろお)のぞうりもはいていた。渡るかと云ったら、たのむと云った。子どもは乗った。舟がまん中ごろに来たとき、おらは見ないふりしてよく子供を見た。きちんと膝に手を置いて、そらを見ながら座っていた。 お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかわいい声で答えた。そこの笹田のうちにずいぶんながく居たけれど、もうあきたから外(ほか)へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば、更木(さらき)の斎藤へ行くよと云った。岸に着いたら子供はもう居ず、おらは小屋の入口にこしかけていた。夢だかなんだかわからない。けれどもきっと本統(ほんとう)だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終ったし、めきめき立派になったから。」 こんなのがざしき童子です。☆次郎さんが父の初盆で田舎に帰ったとき、不思議なことがあった。兄弟3人で入院しているお母さんを見舞ってからお寺に車で乗りつけた。本堂に入ると椅子に母の妹にあたる叔母さんが先に座っておられた。このところ心臓やら悪くなにやらあって十何年も付き合いがなかった叔母さんだった。次郎さんが兄の一郎さんに話して「初盆におばさんを呼ぼうか?」と聞いたらお兄さんは「お前にまかせる」ということだったので、空港から帰省する前に次郎さんはそのおばさんに電話をしたのだった。「心臓もヒザも悪いから行けるかどうかわからない。あんたの声を聞いて涙が出るようだ。いけるようなら行くね、いけなかったらごめんね。」そのおばさんが来られていた。そして男の子がおばさんにまとわりついてはしゃいでいた。次郎さんは一瞬おばさんがお孫さんを連れてきたのかと思ったほど親しくなごやかだった。その男の子は、次郎さんにもはしゃいで見せた。一郎さんが用事をたしている間、次郎さんはおばさんの手を握り、「よく来てくださったなあ。父ちゃんが喜ぶが。」と言った。おばさんはヒザに厚く巻いた包帯を見せて、こんなのだから行けないかと思ったけど、あの後名古屋の妹からも電話があって、「お姉さん、私はいけないけど私の分も持っていってくれる?」と頼まれていく気になったのだという。次郎さんは名古屋のおばさんにも電話していたのだ。四郎さんが「連携プレーのようだね」と言った。おばさんは涙ぐんでいた、次郎さんもかすかに涙ぐんで語った。「なかよくせいよというのが父ちゃんの遺言みたいなものだったから、きっと父ちゃんが呼んでくださったんだ」男の子はいつのまにかいなくなっていた。次郎さんは後で思った、お寺の座敷わらしがおばさんがわざわざ出てきてたのを喜んで、出てきてはしゃいだようにも思われたのであった。
2020年01月13日
宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」の詩は、賢治が亡くなる約2年前の1931年11月、病床で手帳に鉛筆書きされた。12年前に初公開された手帳は今、背表紙部分の傷みが目立ち始めている。また、5点の絵画のうち、3点の水彩画は色あせが心配されている。特に岩手山や早池峰(はやちね)山をイメージして描いたとされる「日輪と山」は、全体が淡い青色で幻想的な雰囲気をかもし出しており、色があせるのは致命的だ。 この手帳の発見については、弟の宮沢清六さんが「兄のトランク」で貴重な証言を残してくれている。「あれは茶色なズックを張った巨きなトランクだった。大正10年7月に、兄はそいつを神田あたりで買ったということだ。 トシ ビョウキ スグ カエレという妹の病気を知らせる家からの電報で、兄がうろたえてそのおおきなトランクを買ったら、汽車賃の外に銀貨が一枚残ったので、小さな梅びしおを買ったというのだ。 その頃中学生の私が、花巻駅に迎いに出たとき、まず兄の元気な顔に安心し、それからそのトランクの大きなことに驚いた。兄は実にきまり悪そうに苦笑いをして「やあ」と言ったし、私も「やあ」といい、そこで2人ともすっかり落ち着いて、そのトランクを下げて家へ帰ったのだ。 そのトランクを2人で、代りがわりにぶらさげて家へ帰ったとき、妹の病気もそれほどでなかったので、「今度はこんなもの書いて来たんじゃあ」と言いながら、そのトランクを開けたのだった。 それがいま残っているイーハトーヴォ童話集、花鳥童話や民譚集、村童スケッチその他全集3・4・5巻の初稿の大部分に、その後自分で投げ捨てた、童話などの不思議な作品群の一団だった。「童子(わらしこ)こさえる代りに書いたのだもや」などと言いながら、兄はそれをみんなに読んでくれたのだった。(略)あのトランクについての思い出は、最後に一番大切なことが残されている。実は私はそのことを長い間気づかなかったのであるが、あのトランクの蓋(ふた)の後には、ポケットのような袋があったのである。私はそのポケットの中から、見なれない一冊の手帳と、両親と、私たち弟妹にあてた二本の手紙を発見した。 その手帳には「雨ニモマケズ」とか「月天子」とか、さまざまの詩や詞が書かれており、この手帳と手紙が遺稿全部の中でも、非常に重要なものであることが、おぼろげながらも私にも解ってきた。」つまり「雨ニモマケズ」の詩は、賢治自身は亡くなる時点では公表は考えていなかったのである。この詩の書かれたページの上に青地で「11.3」とあり、昭和6年11月3日と考えられている。この年の9月20日トランクに東北砕石工場の40キロもの見本をつめて東京に着き、神田駿河台に宿をとった。その夜発熱し、21日に生命の危機を感じて父母あてに遺書を綴った。27日、賢治は父に最後の別れをするため電話する。父は東京にいる友人に頼んで寝台車で賢治を花巻に帰させる。28日の朝、花巻についてそのまま床について、11月3日に「雨ニモマケズ」の詩を書いたのである。そして二度と床を離れて元気に活動することはなかった。賢治が亡くなったのは、これから2年後、昭和8年9月20日である。昭和19年9月20日、谷川徹三は東京女子大学での講演した。「この詩を私は、明治以後の日本人の作ったあらゆる詩のなかで、最高の詩であると思っています。もっと美しい詩、あるいはもっと深い詩というものはあるかもしれない。しかし、その精神の高さにおいて、これに比べ得る詩を私は知らないのであります。」雨にも負けず雨にも負けず風にも負けず雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだをもち慾はなく決して怒らずいつも静かに笑っている一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べあらゆることを自分を勘定に入れずによく見聞きし分かりそして忘れず野原の松の林の陰の小さな萱ぶきの小屋にいて東に病気の子供あれば行って看病してやり西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい
2020年01月13日
(宮沢賢治の誓願)昭和8年(1933年)1月1日付け(この年の9月21日亡くなる)で宮澤賢治は、浅沼政規則、河本義行、菊池信一、高知尾智耀、母木光、高橋忠治、藤島準八、伊藤与蔵の8人に新年の挨拶を送っている。(「宮澤賢治全集」第15巻書簡集)特に高知尾智耀の名前が注目される。賢治が父との確執を経て、家出同然に東京に出て、国柱会の田中智学に面会にあがったとき、応接したのが高知尾智耀であった。賢治は法華行者としていかに生きるべきか智耀に相談しとき、智耀の回答に自らの生きるべき道を見出した。賢治はそれを自らの手帳に記録した。その手帳は賢治の死後発見され、「雨ニモマケズ」の詩が書かれてあったことから、「雨ニモマケズ」手帳と名づけられた。 その135ページにこう書いてある。「 ◎高知尾師ノ奨メニヨリ1. 法華文学ノ創作 名ヲアラハサズ、 報ヲウケズ、 貢高ノ心ヲ離レ2. 」また、139ページ、140ページには、紫色のエンピツでこう書いてある。(カタカナをひらがな表記にした)「筆をとるやまず道場観 奉請を行ひ所縁 仏意に契(かな)ふを念じ 然る後に全力之 に従ふべし 断じて 教化の考えたるべからず! たゞ純真に 法楽すべし たのむ所おのれが小才に 非(あらざ)れ。たゞ諸仏菩薩 の冥助によれ。」 実に宮澤賢治は、高知尾智耀の勧めで、法華文学の創作を志し、しかもそれは教化を目的としてではなく、ただ純真な法楽としてなされたのだ。そして賢治は国柱会を離れてからも、終生高知尾師を徳とした。 高知尾智耀あての最後の年賀状にはこう書いてあった。「謹賀新正 昭和8年1月1日 岩手県花巻町 宮沢賢治拝 客年中は色々と御心配を賜はり有難く存じ奉り候 お蔭さまにてこの度も病漸くに快癒に近く いずれは心身を整えて改めて御挨拶申し上げ候」8月30日には、満州派遣歩兵第31連隊第5中隊の伊藤与蔵あての手紙を出している。その中にこんな記述がある。「当地方稲作は最早全く安全圏内に入りました。 初め5月6月には雨量不足を憂い、6月も25日になってやっと植え付けの始まった地区さえあり、また7月の半ばには、湿潤のため各所に稲熱病発生の徴候も見えたりしたのでしたが、結局は全期間を通じての数年にない高温によって成育は非常に順調に進み、出穂も数日早く穂も例年より著しく大きく、今の処県下全般としては作況稍(やや)良と称せられておりますが、西の方の湿田地帯などは仲々3割の増収でも利かないように思われます。 私もお蔭で昨秋からは余程よく、もっとも只今でも時々喀血もあり、殊に咳が始まれば全身のたうつやうになって2時間半くらい続いたりしますが、その他の時は、弱く意気地ないながらも、どうやらあたり前らしく書きものをしたり・・・しています。それでも何でも生きている間に昔の立願を一応段落つけやうと毎日やっきになっている所で我ながら浅間しい姿です。・・・」 「昔の立願」とは、おそらくは盛岡中学のときに友人たちと岩手山に登った時の誓願であろうか。賢治は生涯を願に生きた人であった。 賢治は盛岡中学時代の親友、保坂嘉一にだけその心中を吐露した。保坂は、盛岡中学を思想問題で退学処分となった。賢治は法華経信者となり、保坂に「一緒に参らして下さい」と口説くのだが、保坂は次第に賢治から離れていく。そんな状況で書いた日付不詳の賢治の手紙にこうある。「あなたはむかし、私が持っていた、人に対してのかなしい、やるせない心を知っておられ、またじっと見つめておられました。今また、私の高い声に覚び出され、力ない身にはとてもと思われるような、4つの願をも起こした事をあなた一人のみ知っておられます。 まことにむかし・・・夏に岩手山に行く途中誓われた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく、自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません。」4つの願といえば、菩薩の四誓願を思い出す。「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん せいがんど) 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじん せいがんだん) 法門無量誓願学(ほうもんむりょう せいがんがく) 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう せいがんじょう)大正9年12月2日には、保坂あて「今度私は 国柱会信行部に入会しました。即ち最早私の身命は 日蓮聖人の御物です。従って今や私は 田中智学先生の御命令の中にだけあるのです。 謹んでこの事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります」と保坂を熱狂的に日蓮宗に折伏しようとする。保坂は入隊していた。賢治の手紙に違和感を覚え、そうした返信を書いた。大正10年1月に、賢治はさらに「あなたの為すべき様は まづは心は兎にもあれ 甲斐の国(保坂は山梨出身)駒井村のある路に立ち 数人或は数十人の群の中に正しく掌を合せ 十度高声に 南無妙法蓮華経 と唱える事です・・・ とにかく保坂さん どうか早く 大聖人御門下になって下さい。」と催促する。賢治は、その頃、実家の質屋の店番をしていたが、保坂に勧めたとおり、自らも花巻町の中を題目を叫んで歩いた。大勢の知り合いも顔をそむけ、行き過ぎては立ち止まってふりかえってそんな賢治を気でもふれたかと見ていた。実家は浄土真宗を奉ずる名家であった。息子の気がふれたような行動に父は激怒した。そして賢治は切羽詰まって東京へ家出を敢行するのである。そして上野に着いて国柱会へ行った。「私は、昨年御入会を許されました岩手県の宮沢と申すものでございますが、今度家の帰正を願うために、にわかにこちらにまいりました。どうか下足番でもビラ貼りでも何でもいたしますからこちらでお使いくださいますまいか。」知らない先生が出てきて賢治に言った。「そうですか。 こちらの御親類でもたどっておいでになったのですか。 ひとまずそちらに落ち着いてください。 会員であることはわかりましたが、何分突然の事ですし、こちらでも今は別段人を募集もいたしません。よくある事です。全体父母というものは、なかなか改宗できないものです。ついには感情の衝突で家を出るという事も多いのです。まずどこかへ落ち着いてからあなたの信仰や事情やよくうけたまわった上でご相談いたしましょう。」賢治は、そのおさとしにお礼を言って「又お目にかかります。失礼ですがあなたはどなたでいらっしゃいますか。」と尋ねた。「高知尾智耀です。」「たびたびお目にかかっております。それでは失礼いたします。」と国柱会を退出した。その後、小さな出版社に入って、仕事をする。「さあ、ここで種を蒔きますぞ。」と親戚の関徳弥に書き送っている。そして1月30日付けでの保坂あての手紙に、「かつて盛岡で我々の誓った願我等と衆生と無上道を成ぜん これをどこまでも進みましょう」とそのかつて立てた誓願を述べている。「形だけでいいですから 大聖人御門下という事になってください」と調子もだいぶ落ち着いてきている。 見習い士官となっていた保坂に賢治は面会を求めた。 7月3日付けの賢治の手紙に言う。「お葉書拝見しました。 私もお目にかかりたいのですがお訪ね出来ますか。・・・ どうです、またご都合のいいとき日比谷あたりか、植物園ででも、又は博物館ででもお待ちしましょうか。」 そしておそらくは日比谷図書館で保坂に賢治が日蓮宗への帰正を求め続ける態度に絶縁を告げたのである。そのときの衝撃が「われはダルケを名乗れるものと」という詩となった。 われはダルケを名乗れるものと つめたく最后のわかれを交はし 閲覧室の三階より、 白き砂をはるかにたどるこゝちにて その地下室に下り来り かたみに湯と水とを呑めり そのとき瓦斯のマントルはやぶれ 焔は葱の華なせば 網膜半ば奪はれて その洞黒く錯乱せりし かくてぞわれはその文に ダルケと名乗る哲人と 永久(とは)のわかれをなせるなり この唯一の親友との別れは、賢治に衝撃的なダメージを与えた。7月13日付けの関徳弥あての手紙に書く。「私の立場はもっと悲しいのです。あなたぎりにして黙っておいてください。信仰は一向動揺しませんからご安心ください。そんなら何の動揺かしばらく聞かずに置いてください。・・・私には私の望みや願いがどんなものやらわからない。・・・今日の手紙は調子が変でしょう。こういう調子ですよ。近頃の私は。」8月11日付けの関徳弥あての手紙には書く。「7月の始め頃から25日頃にかけてちょっと肉食をしたのです。 それは第一は私の感情があまり冬のような具合になってしまって燃えるような生理的の衝動なんか感じないように思われたので、こんな事では一人の心をも理解しかねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べたためにそれをきっかけとして脚が悪くなったのでした。」ここで「一人の心をも理解しかねる」というのは、おそらくは保坂のことである。10月13日に賢治は保坂嘉内あて手紙を書いている。「拝啓 御葉書有難く拝誦つかまつり候。 帰郷の儀も未だ御挨拶申上げず御無沙汰重々の処御海容願い上げ候。お陰をもって妹の病気も大分によろしく今冬さへ無事経過致し候はばと折角念じ居り候・・・」とよそ行きの挨拶状を出す。 それまでの保坂への熱情あふれる文章は姿を消す。そして妹の病気を理由に花巻に帰り、農学校の先生となるのである。12月保坂宛の手紙にはこうある。「・・・ 毎日学校に出ております。 何からかにからすっかり下等になりました。それは毎日のNaClの摂取量でもわかります。近ごろしきりに活動写真などを見たくなったのでもわかります。また頭の中の景色を見てもわかります。 それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になりまする。 しきりに書いております。書いておりまする。・・・ 授業がまづいので生徒にいやがられておりまする。・・・」けれども、この親友保坂との別れによって、教師宮沢賢治が誕生し、そして不朽の文学を創作し続けるのである。すべては宮沢賢治にとって、必要なそして必然の出来事だったのかもしれない。
2020年01月13日
斎藤宗次郎大正11年「二荊自序伝 上」斎藤宗次郎著 大正12年(p.207-378)2月5日午後館区内の集会に出て農学校で校長に会い柿の話や、校舎移転後の新計画に就て語り合った。春季予(斎藤宗次郎)に苺の苗を頒けれ呉れいとのことであった。『斎藤さんから譲られたのだとして長く繫殖せしめたい』とのことであった。学校には宮沢賢治君が居るから実現さるることと思うた。6月3日 〇宮沢賢治先生と懇話 西方集金に際し五時四十分より農学校にて宮沢賢治先生と物語った。始めに苺、甘蘭(キャベツ)、蕃茄(トマト)などの話があった。次に先生自作の“黎明行進歌”(*1)というを示され且つ所感を求められた。予は平和と希望に満ちたよい歌であるというたら、安心したと言われた。時節柄、革命的反抗的の意あるものの如く誤解せらりしは遺憾の至りであると言われた。“荒蕪地開墾の歌”(*2)というをも見せられた。そして何れも譜に合せ声高らかに歌って聞かせて呉れた。それから教育の根本問題、農村問題、田演劇の話などあって二人共興味深き時間を過して別れた。9月12日、水 ●宮沢賢治先生は寛待さる 西郊に新築せる農学校を訪うて宮沢賢治先生に会うた。氏は生徒と倶に実習を了えて将に職員室の机辺に身を移さんとする時であった。氏は予を款待して呉れた。椅子を取出して予をしてこれに倚らしめた。更に蓄音器によってピアノの数曲を予に供したのであった。予は例の如く冥目(めいもく)拱手(きょうしゅ)して氏と共にベートーベンの第四シンフォニー(*3)に心耳を傾倒して恍惚たるものがあった。周囲は一面の田園、前方に雑木林を隔てて豊沢の凹地に臨む静粛なる一境地である。此処は氏の如き思想の人、芸術の人、信仰の人の居として適当である。予は閑談時余にして数枚のレコードを貸与され再び自転車にて走り帰った。雲外の夕陽も亦家路に急ぐのであった。*1 黎明行進歌歌詞蛇紋山地の赤きそら 雲すみやかに過ぎ行きて夢死(むし)とわらはん田園の 黎明いまは果てんとす。銹びし五日の金の鎌 かの山陵に落ち行きてわれらが犂(すき)の燦転(さんてん)と 朝日の酒は地に充てり。起てわが気圏の戦士らよ 暁すでにやぶれしをいま角礫のあれつちに リンデの種子をわが播かん。とりいれの日は遠からず 微風緑樹の荘厳と禾穀の浪はきららかに 歓呼は天も応へなん。ふるふ地平の紺の上 広き肩なすはらからよげに辛酸のしろびかり になひてともに過ぎ行かん。https://player.fm/series/series-1272689/li-ming-xing-jin-ge*2 荒蕪地開墾の歌は不明、あるいは「開墾」のことか?開墾落ちしのばらの芽はひかり樹液はしづにかはたれぬあゝこの夕つゝましくきみと祈らばよからんをきみきたらずばわが成さんこの園つひにむなしけん西天黄ばみにごれるに雲の黒闇の見もあへず*3 ベートーベンの第四シンフォニーベートーヴェンの交響曲の中では古典的な均整の際立つ作品で、ロベルト・シューマンは、「2人の北欧神話の巨人(第3番と第5番のこと)の間にはさまれたギリシアの乙女」と例えたと伝えられている。ロバート・シンプソンは「この作品の持つ気品は『乙女』のものでも『ギリシア』のものでもなく、巨人が素晴らしい身軽さと滑らかさで気楽な体操をこなしているときのものなのだ。ベートーヴェンの創造物には、鋼のような筋肉が隠されている」と述べている。
2020年01月05日
「二荊自序伝 上」斎藤宗次郎著 p.30-204(宮沢賢治は大正10年の正月のある日、実家の店頭で留守番をしているとき、すぐ後ろの棚から『日蓮上人御遺誡集』がドサッと落ちてそれを手にとったとき「いまだいまだ今こそ東京に出かけるのだ」と家出した。本郷菊坂町に下宿し中学の同級生小田島祥吉の友人の紹介で最初東京大学医学部の解剖用遺体の運搬をして生活費を稼いだが、「あまりに臭いがひどい」とやめ、その後金田一京助の講義をプリントしそれを学生にわけいくらか金を手にした。午後は国柱会で無料奉仕、夜は図書館で研究した。妹としが病気になったので9月に花巻に帰ってきた。)(4月賢治は父政次郎と関西へ旅に出る。その途上多くの和歌を詠んだ。・父とふたり急いで伊勢に詣るなり 雨と呼ばれしその前の夜・かがやきの雨をいただき大神の み前に父とふたりむかづかん・ありあけの月はのこれど松むらの そよぎ爽かに月出でんとす・ねがわくは妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまえ・法隆寺はやとほざかり雨ぐもは ゆうべとともにえまりきたりぬ)1921年(大正10年)8月9日南方集金(新聞)の途上、宮沢政次郎氏(賢治の父)宅に至り色々物語をなせし序でに我が子の前途につき同氏は頻りに音楽学校に学ぶ必要を述べられた。1922年(大正11年)1月16日神保氏に液体オゾーンを註文す。宮沢氏の分。(斎藤宗次郎は液体オゾンの吸入もあって結核が治癒した。これはおそらく政次郎の依頼に基づくものであろう。斎藤宗次郎は新聞の集金ととし子の病気にちなんで宮沢家と親交を深めていく。)(賢治は盛岡高等農林学校で土壌学の権威関博士に師事した。関は「宮沢は土壌学岩石学では並ぶ者のない天才だ」と言っていた。花巻農学校の畠山栄一郎は関と意見が衝突していた。賢治は「かねて私が尊敬している関先生と真正面から喧嘩されるそうですのでやらしていただきます」と農学校教員となることを承諾した。)2月3日、金 午后3時頃稗貫農学校に行き畠山校長を始め宮沢賢治、白藤、奥寺の諸氏居合せストーブを囲んで色々の話をなす。土地と産物と家屋のとのことのみであった。2月11日 昨年以来、液体オゾーンを取次ぎしは左の人々である。池田常五郎ミヱ子用大一、器一。島和右衛門氏小一、器一、紹介して直送。宮沢政次郎氏小一、器一。岩田金次郎氏小一、器一。宮沢はる子大一、氏小一、器二。芳賀健治氏小一、器一。
2020年01月03日
12月7日のブラタモリは花巻で、お題は「なぜ花巻は宮沢賢治を生んだか?」でした。冒頭、つかみとして花巻東高校の高校前で「本日の主人公です」と二宮金次郎像を紹介(笑)し、花巻東高校が菊池雄星投手や大谷翔平投手の母校であることで視聴者を驚かす。タモリさんは校門前にある遊歩道が鉄道の線路跡であることに気づく。番組スタッフは慌てて、それは番組後半(銀河鉄道の乗り物は実は「電車」がモデルだったという伏線)でと仕切る。鉄道マニア、しかも線路鉄であるタモリさんだけに、すぐに線路跡に目に行くのであろう、「なぜ花巻は宮沢賢治を生んだか?」番組では北上川と豊沢川の合流地点となる河原に案内し、そこの石を拾って、分類させる。なぜ宮沢賢治が幼いころ、「石っこ賢治」と言われるほど河原の石に夢中になったのか?安山岩 流紋岩 れき岩 ジャスパー といった火山活動に伴う石や海底に蓄積した微生物の死骸でできた岩など種類の異なる奇跡の地点だという。北上川の両岸の北上山地と奥羽山脈とが成り立ちが全く違い、北上高地は赤道近くにあった海底が大陸移動に伴われて来たもので海底から隆起したもの、一方奥羽山脈は火山帯で「若造」(^^)であるとのこと。石っこ賢さんはそのまま石の魅力にとりつかれて、盛岡高等農林学校在籍時には北上川周辺一帯の地質調査を行っている、それは後にこの地の農民に対してそれぞれの土壌に適した肥料コンサルトを行うのに役立つことになる。番組の終わりで、タモリさんが「地質学と文学は普通は結びつかない。宮沢賢治には『心の地層』がある。我々は外側からしか見ていないものを内側に取り込んでいた。いろんなことを内側に取り込んで物語に昇華させることができるのが宮沢賢治」と言ったのが印象的でした。なるほど宮沢賢治の尽きることのない魅力と不思議は、サイエンティスト(科学者)の客観的な言葉がそのまま文学としての主観的な言葉として使われることで、それは宮沢賢治が外側の世界をそのまま内側の「心の地層」に取り込むことができる独特な認知能力に由来し、宮沢賢治の文学的表現を通して、人類は宮沢賢治の決して古びることのない独特で永遠の「言葉」に驚嘆し魅了され続けるのかもしれませんね。それをタモリさんは気づかせてくれます(^^)☆以上をフェイスブックに12月8日に投稿した。すると本日(12月28日)「この解説の方が番組より深い気がする。」とコメントがあったので、御礼と追加のコメント「つい、せんころの話」をひとつ(^^)「法華経を読む」(紀野一義著)に宮沢賢治の弟の清六さんの話がでてきます。紀野さんが花巻を訪れたとき、清六さんにイギリス海岸を案内していただいた。イギリス海岸といっても、北上川の花巻近くの岸辺のことで、かって賢治がその地層がイギリスの白亜の海岸を思わせるということでそう名づけたのだ。賢治はこの岸辺が好きで、農学校の教師時代、生徒を連れては水泳をさせたり、地質の調査に従事させた。そのとき、生徒の一人がクルミの化石を発見した。賢治は驚きかつ喜び、この発見を発表し、どこかの偉い博士が発掘にも来て、それが百万前のものであることを確認したこともあった。そしてこれが、銀河鉄道の夜の白鳥ステーションでジョバンニとカンパネルラが化石を発掘する博士と出会う場面に結実しているのである。清六さんはそのイギリス海岸で時々掘り出されるくるみの化石を紀野さんに見せて「紀野さん、このくるみの化石はどれぐらい昔のものだと思いますか?」と聞いた。「1万年ぐらい前ですか」「とんでもない100万年前ですよ。100万年前のくるみの化石がまだこんなに軟らかいんですよ」それから数年たって、紀野さんの主催する会の講演会に宮沢清六さんを講師として呼んだ。「私は話が下手で、やったこともありませんし、どうかご勘弁ください」と固辞された。しかし紀野さんの説得に押し切られてとうとう承諾された。その講演のとき、清六さんは30分ぐらいで用意してきた話題がつきて、腕時計を見て「いやあ、時間というものは経たないものですね、やめてはいかんでしょか?」と主催者で聞いていた紀野さんに困ったように問われた。紀野さんは首を横に振った。清六さんは困り果てて「仕方が無いから、中学1年の時に教わった英語の歌を歌います」と歌われた。歌い終わってもまだ時間がある。そのとき、イギリス海岸のくるみのことを思い出されて、そのくるみの話をされたのである。「その化石は100万年前のものです。100万年前の化石が。まだ軟らかいのです。ですから、100万年前だって、ついせんころ(先頃)なんだすよ。100万年前がせんころなんですからね、日蓮上人はついさっきその辺を歩いておられたんですよ」会場は爆笑におおわれた。*写真は平塚市立博物館の「賢治がみつめた石と星」に展示されていたクルミの化石です。
2019年12月29日
現在早割期間中のイベントのお知らせです。2020年2月2日(日)に宮澤家ゆかりの本郷・求道会館で開催致します。セラピストのゴーシュをご存知ですか?町の活動写真館でセロ(チェロ)を弾く係のゴーシュは町外れの水車小屋に住み、毎晩セロ(チェロ)の練習に励んでいます。ある晩三毛猫が「ロマンチック・シューマンの“トロイメライ”を演奏してくれ」と訪れます。次の晩にはかっこうが音階練習をしてくれと頼みに来ます。三日目の晩には子狸が“愉快な馬車屋”を一緒に演奏してくださいと頼みに来ます。四日目の晩に訪れたのが病気の子どもを連れた小鼠でした。長くなりますがその後の部分を原文でお読みください。「先生、この児こがあんばいがわるくて死にそうでございますが先生お慈悲じひになおしてやってくださいまし。」「おれが医者などやれるもんか。」ゴーシュはすこしむっとして云いました。すると野ねずみのお母さんは下を向いてしばらくだまっていましたがまた思い切ったように云いました。「先生、それはうそでございます、先生は毎日あんなに上手にみんなの病気をなおしておいでになるではありませんか。」「何のことだかわからんね。」「だって先生先生のおかげで、兎うさぎさんのおばあさんもなおりましたし狸さんのお父さんもなおりましたしあんな意地悪のみみずくまでなおしていただいたのにこの子ばかりお助けをいただけないとはあんまり情ないことでございます。」「おいおい、それは何かの間ちがいだよ。おれはみみずくの病気なんどなおしてやったことはないからな。もっとも狸の子はゆうべ来て楽隊のまねをして行ったがね。ははん。」ゴーシュは呆あきれてその子ねずみを見おろしてわらいました。 すると野鼠のねずみのお母さんは泣きだしてしまいました。「ああこの児こはどうせ病気になるならもっと早くなればよかった。さっきまであれ位ごうごうと鳴らしておいでになったのに、病気になるといっしょにぴたっと音がとまってもうあとはいくらおねがいしても鳴らしてくださらないなんて。何てふしあわせな子どもだろう。」 ゴーシュはびっくりして叫さけびました。「何だと、ぼくがセロを弾けばみみずくや兎の病気がなおると。どういうわけだ。それは。」 野ねずみは眼めを片手でこすりこすり云いました。「はい、ここらのものは病気になるとみんな先生のおうちの床下にはいって療なおすのでございます。」「すると療るのか。」「はい。からだ中とても血のまわりがよくなって大へんいい気持ちですぐ療る方もあればうちへ帰ってから療る方もあります。」「ああそうか。おれのセロの音がごうごうひびくと、それがあんまの代りになっておまえたちの病気がなおるというのか。よし。わかったよ。やってやろう。」ゴーシュはちょっとギウギウと糸を合せてそれからいきなりのねずみのこどもをつまんでセロの孔あなから中へ入れてしまいました。ゴーシュは音(振動)で子ねずみの病を癒しました。これはまさに振動音響療法です。1970年代にドイツで発表された振動音響療法のことを既に賢治は知っていたことになります。『セロ弾きのゴーシュ』は本邦初のサウンド・セラピー童話ではないでしょうか?子ねずみが体感したサウンド・セラピーを体験してみませんか?『宮沢賢治変奏曲VOVL.2〜“セロ弾きのゴーシュ”をシンギング・リン®️にのせて〜』を2020年2月2日(日)に本郷にあります賢治ゆかりの求道会館(東京都有形文化財指定)で開催致します。シンギング・リン®️は心と体を “いのちの周波数” に調律して幸せのハーモニーを奏でる新時代のヒーリング楽器です。開発者の和真音さんと認定パフォーマー8人が奏でる美しい倍音の響きが漂う中で歌手の巻上公一さんと女優の高泉淳子さん、お二人の声の魔術師により語られる“セロ弾きのゴーシュ”です。単なる朗読会や読み聞かせの会ではなく、物語と音が響き合う贅沢なセラピューティック・ライブです。年末までにお申し込み頂ければ早割価格で参加して頂けます。詳細は下記を参照下さい。物語を浴びる奇跡のサウンド・セラピー!【宮沢賢治変奏曲VOL.2】「セロ弾きのゴーシュ」をシンギング・リン®️にのせてhttps://bit.ly/2M7yZthご参加をお待ち申し上げております。コメント野鼠のねずみのお母さんの話は、あるいはトルストイの「神父セルゲイ」からきているのかも・・・。宮沢賢治は、大島から帰った後、親友藤原嘉藤治に語った。「あぶなかった。全く神父セルゲイの思いをした。指は切らなかったがね。俺は結婚するとしたら、あの人(伊藤ちゑ)だな。」 「神父セルゲイ」とは何か。調べると、トルストイの小説の題名でした。セルゲイはロシア皇帝に仕える親衛隊の将校でしたが、恋人が皇帝に寝取られたと知って、絶望して隠者となりました。その高潔な行いが評判となり、ある女性がたぶらかせてみせると友人とかけて道に迷ったふりをして、セルゲイの気を惹こうとする。 セルゲイは、隠遁目六年目に庵室に道に迷ったふりをしてやってきた出戻り女の誘惑を左手の薬指を斧で断ち切って耐えた。女は自分の行為を深く反省して一年後尼僧となる。 この出来事をきっかけに神父セルギイの名声は高まった。なかには病気を治してくれと病人を連れてくる者さえ出始めた。隠遁生活の八年目にある母親が我が子を連れてきて、彼にその子の頭に手をのせてくれと頼んだ。彼は断った。 するとその母親は、『ほかの人を治してやりながら、どうして自分の子供を助けようとしてくれないのか』と彼の足下にひれ伏して嘆願する。『ただ、子供の頭に手をのせて祈ってもらえばいいんです』と繰り返したんだ。彼はそれを断って庵室へ入った。しかし、翌日も嘆願する母親に根負けして、子供の頭に手をのせて、祈り始めた。 この「ほかの人を治してやりながら、どうして自分の子供を助けようとしてくれないのか。ただ、子供の頭に手をのせて祈ってもらえばいいんです」が、『セロ弾きのゴーシェ』の鼠のお母さんと病気の子ねずみの話に賢治が取り入れたのかもしれませんね(^^)。
2019年12月22日
花巻市初の名誉市民に山折哲雄氏を決定平成31年1月18日氏名 山折哲雄氏住所 京都府京都市生年月日 昭和6年5月11日(87歳)昭和18年に花巻市内の母親の実家に疎開してから昭和25年に岩手県立花巻高等学校(現在の岩手県立花巻北高等学校)を卒業するまでの6年間を本市で過ごした。宮沢賢治の生家が近かったこともあり、幼少期に数多くの賢治作品に触れる。宗教学の第一人者として日本人の宗教観や心の問題について様々な提言を行い、文化の振興に寄与されている。幼少期からの賢治作品との関わりを通じて、賢治の世界観を広く紹介し、平成8年、12年には、本市で開催された第1回、第2回宮沢賢治国際研究大会で記念講演を行った。平成17年には、「デクノボーになりたい」を発行するほか、本市出身のキリスト教活動家で賢治と交流のあった斎藤宗次郎の自叙伝「二荊自叙伝」の刊行に編集者として携わった。昨年、ご遺族から本市へ斎藤宗次郎直筆の日記を寄贈いただいた際にもご尽力いただいたほか、本年9月には、本市で開催された市民憲章運動推進第53回全国大会花巻大会で「賢治の銀河宇宙とマコトのまちづくり」と題して記念講演を行っている。花巻北高の関西桜雲同窓会会長も務めており、花巻市との縁が深い方である。山折哲雄氏「感謝のことば」このたび、ふるさとからの思いもかけない暖かい贈りものをいただくことになり、ことばにつくせない感謝の気持でいっぱいであります。お前はいったい何をしたのかと、天から降るお叱りの声が耳元にひびいて鳴りやみません。これからも一日一日を一年一年を、路傍の石のようにあぜ道の草のように生きていきたいと思っております。ありがとうございました。花巻市名誉市民について市勢の発展又は市の名誉・名声の高揚に著しく貢献された方に対し、その功労をたたえるとともに後世までその功績を顕彰するものです。
2019年12月15日
★ブラタモリの花巻篇でタモリさんが中学生か高校生の頃、「雨にも負けず」の詩の最後の「ミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ」を読んで、「目だとうとか成功しようとばかり思っていたんで、これを読んで、俺はこんな者にはなりたくないと思った。ずいぶん後になって宮沢賢治の短編読むようになって。これがわかるまでに相当かかったわけですね。」と話したのが面白かったです。林田アナ「タモリさんはいつその境地に達したのですか?」タモリさん「雨ニモマケズの境地にはまだ到達していません」
2019年12月09日
ブラタモリの花巻篇で、銀河鉄道の車両は、花巻電鉄の電気客車ではないかと説明していました。『銀河鉄道の夜』を読んだ、ほとんどの読者は軽便鉄道の蒸気機関車の引く客車を想像していたと思います。『銀河鉄道の夜』の列車の描写を確認すると・ジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座すわっていたのです。車室の中は、青い天蚕絨(びろうど)を張った腰掛が、まるでがら明きで、向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っている。(六、銀河ステーション)・「この汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。(六、銀河ステーション)・「この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」「こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」(九、ジョバンニの切符)・汽車はだんだんしずかになっていくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ小さな停車場にとまりました。(九、ジョバンニの切符)・たくさんのシグナルや電燈の灯(あかり)のなかを汽車はだんだんゆるやかになりとうとう十字架のちょうどま向いに行ってすっかりとまりました。(九、ジョバンニの切符)「軽便鉄道」「汽車」とあるので読者はすっかり蒸気機関車の引く列車と思い込んでしまう。しかし確かにどこにも蒸気機関の描写や轟音はない。それどころか、ジョバンニははっきりと「この汽車石炭をたいていない」カンパネルラは「アルコールか電気だろう」と答える。確かにブラタモリで紹介された電車がモデルのようですね、それでも「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」と注釈付きですから、軽便鉄道の蒸気機関車のイメージでも賢治は許容してくださるでしょうね(^^)
2019年12月09日
12月7日のブラタモリは花巻で、お題は「なぜ花巻は宮沢賢治を生んだか?」であった。冒頭、つかみで花巻東高校の高校前で「本日の主人公です」と二宮金次郎像を紹介(笑)し、花巻東高校が菊池雄星投手や大谷翔平投手の母校であることで視聴者を驚かす。タモリさんは校門前にある遊歩道が鉄道の線路跡であることに気づく。番組スタッフは慌てて、それは番組後半でと仕切る。鉄道マニア、しかも線路鉄であるタモリさんだけに、すぐに線路跡に目に行くのであろう、「なぜ花巻は宮沢賢治を生んだか?」番組では北上川と豊沢川の合流地点となる河原に案内し、そこの石を拾って、分類させる。なぜ宮沢賢治が幼いころ、「石っこ賢治」と言われるほど河原の石に夢中になったのか?安山岩 流紋岩 れき岩 ジャスパー といった火山活動に伴う石や海底に蓄積した微生物の死骸でできた岩など種類の異なる奇跡の地点だという。北上川の両岸の北上山地と奥羽山脈とが成り立ちが全く違い、北上高地は赤道近くにあった海底が大陸移動に伴われて来たもので海底から隆起したもの、一方奥羽山脈は火山帯で「若造」(^^)であるとのこと。石っこ賢さんはそのまま石の魅力にとりつかれて、盛岡高等農林学校在籍時には北上川周辺一帯の地質調査を行っている、それは後にこの地の農民に対してそれぞれの土壌に適した肥料コンサルトを行うのに役立つことになる。番組の終わりで、タモリさんが「地質学と文学は普通は結びつかない。宮沢賢治には『心の地層』がある。我々は外側からしか見ていないものを内側に取り込んでいた。いろんなことを内側に取り込んで物語に昇華させることができるのが宮沢賢治」と言ったのが印象的だった。なるほど宮沢賢治の尽きることのない魅力と不思議は、サイエンティスト(科学者)の客観的な言葉がそのまま文学としての主観的な言葉として使われることで、それは宮沢賢治が外側の世界をそのまま内側の「心の地層」に取り込むことができる独特な認知能力に由来し、宮沢賢治の文学的表現を通して、人類は宮沢賢治の決して古びることのない独特で永遠の「言葉」に驚嘆し魅了され続けるのかもしれない。それをタモリさんは気づかせてくれる(^^)
2019年12月08日
八木英三「宮沢賢治に聞いた事」(「宮沢賢治研究資料集成第1巻」p.318-320)私の書いたものが、先生にわからないとは不思議ですね。私の童話や童謡の思想の根幹は尋常科の三年と四年頃に出来たものです。その時分先生が「太一」のお話や、「海に塩のあるわけ」など色々のお話をして下さったじゃありませんか。その時私はただとう然として夢の世界に遊んでいました。今書くのもみんなその夢の世界を再現しているだけです。もっともその後青年期になってから取り入れた法華経の哲理等については今日の世界では或は私の外にわかる人間がいないかも知れない。しかしそれがわからなくとの差支えありませんよ。 人間の力には限度があり、仕事をするのには時間が要りますね。私はどうせ間もなく死ぬのだから、早く書きたいものを書いてしまおうと思い、一か月の間に三千枚書きました。そしたら終わりごろになると原稿の中から字が一字一字飛び出して来て私にお辞儀をするのです。その時私は思いました。こんな調子で書き続けたものは本当のわたくしを伝えてくれるかどうかわからない。もう一ぺん正気を取り直してから読んで見ようと思い、それから暫くの間、一切筆を取らずに静養しました。「或る朝の印象」という詩が出来ました。それにドイツ語で傍注をつけようと思うのですが、それをつけなければどうしてもしっくりした気分にならないのです。それで「アイネファンタジー、デスアイネスモルゲン」とやって見ました。語調の上からは満足しますけれども、なんだかドイツ文法を読むような気持で面白くありませんから、「アイネファンタジー、イムモルゲン」としようかと思っていますがどうでしょう。五輪峠の頂上で一夜を明かしました。私は野宿がすきで、ほうぼうにゴロゴロ寝て夜を明かすことがありますが、しかしたいしておそろしいと感じた事がありません。ところが五輪峠の夜ほど「おそろしさ」を感じた事はありません。空は澄み渡っています。地にはそよとも風もありません。天地の間に声するものは私の呼吸する息だけでありました。海の底の静けさとでも申しましょうか。しかしこの「静けさ」ほどおそろしいものがありません。それは死と同様です。熊でも狼でもいいから、そこの笹原を動かしてもらおたい、強盗でお追剝でも出てきてほしいと思いました。しかし遂に何物も来ないで夜が明けましたが、その一夜の長さは本当に千日にも比すべきものでありました。そして東天に曙光を眺めた時の心持こそ全く再生の恵みをしみじみ感ずるのでした。(『宮沢賢治研究』第5.6合併号、昭和11年12月)
2019年11月22日
八木英三「少年宮沢賢治」(「宮沢賢治研究資料集成第1巻」p.141-144)私は明治40年に早稲田大学へ入学することになって、花城小学校の代用教員を退職した。私の最初の教え子達であるところの賢治君の組は尋常3年から持ち上りで4年を今や終ろうとする2月の中旬であった。18歳にして代用教員を拝命したところの私自身がすでに少年であった。「教壇に立つときはまっ黒な足をしないで足袋(たび)をはきなさい。」と照井先生に注意されて、不思議な儀礼に首をかしげたものである。「弁当は教壇に腰かけて食べてはいけません。」と及川校長に𠮟られたときは成程と感心した。高等科4年生の桂のおきみさんは16の美人だった。「英三さん、先生になったって、そんなに頑張らないで、あそびにおでれぢゃ。」とひやかされて真っ赤になったこともある。このような少年の私が一躍にして先生になったのだ。3年生まではおじいさんの吹張先生に甘やかされて来た犬ころのような子供らである。級長のかける「礼」の声が通らなくて、一時間中教師と生徒と立ってばかりいたことがある。(賢治君は副級長だった。)時間半ばごろからさすがに生徒の方も気がついてシイーンとなったけれども、私は着席することを許さなかった。「おれは先生になる資格がないのだろうか。」おれは一日黙々として楽しまなかった。翌朝井戸端で顔を洗っていると、ドット鼻血が流れて洗面器を真赤に染めた。母がビックリして登校を制止したけれども「死んでもアノ子供らにまけるものか」という勇気がぼつ然として台頭した。子供らはやや静粛に授業をうけるようになった。私も少しずつ教育に興味を感じはじめ、夕方おそくまで一人で明日の支度をしてかえるときなど、思わず小唄が鼻さきに上がったりすることもあった。その頃、五来素川が「まだ見ぬ親」をはじめて翻訳した。私はかみつくようにこの少年小説を耽読した。大事な言葉は暗記くらいにまで進んだ。授業のヒマヒマ、体操の時間で雨でつぶれたときなど、この物語りを連続長講で話してやったが、このときばかりは子供らの面持ちに異常の緊張さがあらわれ、心から涙を流すもの、思わず歓呼の声をあげるものも少なくはなかった。私自身も自らの声音に上気して眼がボーツとなるのであった。この話が二月も三月もつづいたと思うが、それが終わるころから、私の組が大そう従順になった。私もまた童話やリーダーの中から、彼らにいつでもお土産の用意はしていたのである。そして一週間に三ぺんづつ必ず作文をかかせた。一日おきにそれを調べてかえすのは、かなりおっくうな仕事であったけれども、少年の頭には疲労がないものだ。忠実にあやまりを正し、秀句に図点をつけ、書後に批評を加えた。それだから子供たちの中にもその事に興味を持つものが出来て、ある自由作文の宿題のとき、今の大橋博士が十八枚の半紙にたんねんに蘇我兄弟の物語をかいて持ってきた。同じ宿題に、賢治君が、十二行罫紙三枚半にきれいな真書の細筆で、七五調のすっかり整った長詩を物した。題目は忘れたが、なんでも四季の眺めを別々にうたってあったように記憶する。私が賢治君の詩才に感嘆したのがこれがはじめてであった。その天才を摘出してやることが私の任務の大きなものの一つであるように思った。けれども少年教師と少年門弟とは最早たもとをわかつべきときとなっていた。「お前たちはえらい人にならなければいけない。先生とおわかれにめいめいののぞみを書いて記念にのこしてくれ。」といって「立志」と黒板に題を示した。いつもは陸軍大将になるの、大学総長になるのと威張っていた連中だったが、この題を、この機会に与えられて、誰も顔を上げるものがなかった。たいてい一、二行にかんたんに大工になるとか、おじさんのあとをついでお医者になるとか、卵買いなどして歩くとか、いたってジミな答えばかりであった。賢治君も同様に家業をついで商売にいそしむ趣が、やっぱり二三行にかいてあった。私は子供らのこの着実な考え方に自分の無鉄砲さの影響しなかったことをひそかによろこび、浅春の豊沢橋上までみんなに見おくられてアバラ屋にかえった。ひと昔とまた何年かすぎて、賢治君は「春と修羅」をかいた。それから間もなくのこと、汽車の中で偶然一緒になり、突然こんな質問をうけた。「このごろ、ある朝の印象という題の詩をかきましたが、わきにドイツ語を入れなければ、どうしても心持が落ちつかないのです。アイネファンタジー、です、アイネスモルゲンスではいかがでしょう。」「非常に面白いね」とあいづちを打った。その時の話に「私の詩は哲学的に、思想的に、また宗教的に考えたときに、非常に偉大なものだと自負していますが、思想の根底はすべて先生の童話から貰ったように思って感謝しています」という一言があった。・・・・・(『女性岩手』第9号、昭和9年1月)
2019年11月22日
「宮沢賢治とクリスチャン」120-141ページに「女性岩手」の編集者多田ヤスについて載っている。「女性岩手」には賢治の作品が載った。「女性岩手」(多田ヤス編集) 創刊号(昭和7年8月) 文語詩「民間薬」「選挙」 四号( 〃 11月) 文語詩「祭日」「母」 七号(昭和8年7月) 「花鳥図譜7月」
2019年11月12日
2009年04月08日の古い記事ですが、宮沢賢治の詩の感性の私たちに呼びかける不変性宮沢賢治の未発表詩の草稿発見 執筆から80年、貴重な1編 詩人で作家の宮沢賢治(1896-1933年)が書いた未発表の詩の草稿が見つかったことが、8日までに分かった。賢治が書き残した詩や童話などの作品は、これまでの調査や研究でほぼ出尽くしたとみられており、1編とはいえ極めて貴重な発見。「新校本 宮沢賢治全集」(筑摩書房)の別巻にもこのほど収録された。推定される執筆時から約80年を経て現れた“新作”だけに、注目を集めそうだ。 発見されたのは「停車場の向ふに河原があって」というフレーズで始まる詩の草稿。岩手県南部にある猊鼻渓とみられる景勝地の近くを走っていた乗合自動車をモチーフに「ところがどうだあの自働車が」「傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ/そのすさまじい自働車なのだ」などとつづり、躍動感のある筆致で幻想的な光景を描いている。 昨年、岩手県花巻市内にある賢治の生家の蔵を解体した際に、内部の梁に載せられていた書類の中から見つかったという。大正時代の初めに印刷された同県水沢地方の地図の裏に、賢治独特の文字で書かれていた。 宮沢賢治学会代表理事の杉浦静・大妻女子大教授によると、当時の賢治に関する証言や作品の文体などから、生前刊行された唯一の詩集「春と修羅」が世に出た翌年、賢治が花巻農学校の教師をしていた1925(大正14)年から数年の間に書かれたと推定できる。停車場の向ふに河原があって水がちよろちよろ流れてゐるとわたしもおもひきみも云ふところがどうだあの水なのだ上流でげい美の巨きな岩を碑のやうにめぐったり滝にかかって佐藤猊嵓先生を幾たびあったがせたりする水が停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て運転手たちは日に照らされてものぐささうにしてゐるのだがところがどうだあの自働車がここから横沢へかけて傾配つきの九十度近いカーブも切り径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶそのすさまじい自働車なのだ「宮沢賢治の地学実習」・賢治は花巻農学校の教員を辞すと、農村経済や文化芸術の研究のために、羅須地人協会を設立しました。下根子桜にある宮沢家の別邸を拠点として、賢治はここで自炊生活を始め、周辺を開墾し、畑や花壇を作りました。ここで賢治は土壌学、植物生理学、肥料学、肥料設計など農業に必要な科学的知識を人々に啓蒙し、「農民芸術」と名づけた新しい農村文化の創造にも努力しました。(p.30)・1929年2月、東磐井郡松川にあった東北採石工場の工場長・鈴木東蔵が、肥料としての石灰の効用について教えてほしいと賢治を訪ねてきました。その後もたびたび彼から石灰関連の製品化について相談を受けた賢治は、1931年2月新しく開設された東北砕石工場花巻出張所の技師として就職することになりました。☆宮沢賢治の詩の世界上記の詩の「停車場」は大船渡線の「陸中松川駅」、「げい美の巨きな岩」については、「水沢」地図裏の「〔停車場の向ふに河原があって〕」本文が記入された下方には、天地を逆にして赤鉛筆で、White lime Stone over the river NS 75°との記入があり、「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝氏が、地質学者である加藤碩一氏、原子内貢氏に見解を求めたところ、これは「白色石灰岩(の地層面)の「走向」がちょうど南北方向、「傾斜」は75°で川に覆いかぶさっている」という意味であり、これは猊鼻渓における最大の石灰岩露頭である「大猊鼻岩」とのことです、「きみ」とは、鈴木東蔵。東蔵は、若い頃に「佐藤猊巌先生」の自宅に通い、直にいろいろ教えてもらった(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』)とのことで、東蔵から佐藤先生について話を聞いたのかもしれません。佐藤 衡(さとう こう)は、明治時代から昭和時代前期の政治家・教育者・漢学者。岩手県東磐井郡長坂村長。号は猊巌。猊鼻渓の観光開発と景観保存に尽力した。
2019年11月10日
平塚市博物館で『賢治のみた石と星』展でカタログを買ってきた。1500冊印刷して価格が500円。賢治展だと入場者が多く見込めるので、多く刷って価格を安く設定したのだろう、カラーの鉱石などを紹介したカタログとしては破格に安い感じがします。創元社から『宮沢賢治の地学学習』という本が今年9月発刊されていて、同じように地学や鉱石、化石を写真入りで説明している。『宮沢賢治の地学学習』第1章 賢治と地学ゆかりの地を訪ねよう・宮沢賢治は1896年8月27日に岩手県花巻市に生まれました。生後5日目にして陸羽地震が起き、死者200名を超え、賢治の生家でも震度4の揺れが感じられたと推定されています。その2か月後の6月15日には明治三陸津波が起きて、2万人もが亡くなっています。(p.8)・賢治は花巻市にある花城小学校に通っていました。賢治は担任の八木英三先生から川原の石の見方を教わって以来、石に興味を持ち、放課後はよく家の近くを流れる豊沢川の川原に石を探しに出かけていました。賢治は近所の人から「石っこ賢こ」と呼ばれました。(p.12)・1909年、小学校を卒業した賢治は、盛岡市の盛岡中学校へ入学、家を出て寮に入ります。中学時代には、岩手公園で風化した花崗岩の観察や蛭石(黒雲母が風化変質した鉱物)採集をしたり、初めて岩手山に登るや夢中になって頻繫に山登りや石の採集をしたり、後の作品に表れる様々な体験をしています。(p.16)・1915年賢治は盛岡高等農林学校に入学し、2年生の時、「秩父・長瀞・三峰地方土質・地学見学旅行」に参加しました。引率者は関豊太郎博士と神野幾馬助教授でした。この地域は地質学発祥の地として有名で賢治たちは『秩父古生層』で結晶片岩などを採集しました。(p.22)・1921年賢治は農学校教員となり、1922年には「イギリス海岸」を書き、生徒を連れてはこの泥岩層で化石採集や足跡化石の観察を行いました。(p.26)「大正十二年七月小舟渡北上河岸に於て第三紀層泥岩から有史前の巨獣の足跡や胡桃の化石を発見した事は偶然の収穫のようであるが、実は氏の真摯な研究の態度に酬いられたものであろう。氏は此処をイギリス海岸と名づけて自ら水泳なども試みたようである・・・・・・新聞配達の途上、農学校で賢治さんから珍らしき岩塊や化石の実物を出して説明された時は、何やら時代を超越し歴史を凌駕して天地創造の大業を傍観して居るように感じた。胡桃の化石は今でも私の机の中で保存されてある。」(斎藤宗次郎「懐かしき親好」『宮沢賢治資料集成』7巻、214頁)
2019年11月09日
「平塚市と花巻市は友好都市協定を結んでいて、締結35周年を記念して平塚市博物館で『賢治のみた石と星』展をやっていて日曜日行ってきました。賢治の作品に出てくる鉱物の現物や星座などが展示されていて面白かったですよ」と知人に話すと「賢治といえば、今朝の朝日新聞の天声人語に、賢治はベジタリアンだった、ベジタリアンには『同情派』と『病気予防派』があって、賢治は同情派だったとあったよ、もっとも論説のまくらだけれども」そこでさっそく天声人語と『ビジテリアン大祭』を読んでみた。朝日新聞天声人語(20191107)宮沢賢治が菜食主義者になったのは、動物の命を大事にする気持ちからだ。童話『ビジテリアン大祭』のなかで、その精神を「同情派」として説明している。「よくよく食べられる方の身になってみると、とてもかわいそうで」△賢治によると菜食主義の精神はもう一つ、「予防派」というのがある。病気予防のために動物性タンパク質を取らない人たちで、いわゆる健康志向か。さて現代では、三つ目の精神を付け加えるべきかもしれない。「環境派」である。(略)ビジテリアン大祭宮沢賢治https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2589_25727.html私は昨年九月四日、ニュウファウンドランド島の小さな山村、ヒルテイで行われた、ビジテリアン大祭に、日本の信者一同を代表して列席して参りました。 全体、私たちビジテリアンというのは、ご存知の方も多いでしょうが、実は動物質のものを食べないという考かんがえのものの団結でありまして、日本では菜食主義者と訳しますが主義者というよりは、も少し意味の強いことが多いのであります。菜食信者と訳したら、或あるいは少し強すぎるかも知れませんが、主義者というよりは、よく実際に適かなっていると思います。もっともその中にもいろいろ派がありますが、まあその精神について大きくわけますと、同情派と予防派との二つになります。 この名前は横からひやかしにつけたのですが、大へんうまく要領を云いいあらわしていますから、かまわず私どもも使うのです。 同情派と云いますのは、私たちもその方でありますが、恰度ちょうど仏教の中でのように、あらゆる動物はみな生命を惜おしむこと、我々と少しも変りはない、それを一人が生きるために、ほかの動物の命を奪うばって食べるそれも一日に一つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思わないでいるのは全く我々の考が足らないので、よくよく喰たべられる方になって考えて見ると、とてもかあいそうでそんなことはできないとこう云う思想なのであります。ところが予防派の方は少しちがうのでありまして、これは実は病気予防のために、なるべく動物質をたべないというのであります。則すなわち肉類や乳汁を、あんまりたくさんたべると、リウマチスや痛風や、悪性の腫脹しゅちょうや、いろいろいけない結果が起るから、その病気のいやなもの、又またその病気の傾向けいこうのあるものは、この団結の中に入るのであります。それですからこの派の人たちはバターやチーズも豆まめからこしらえたり、又菜食病院というものを建てたり、いろいろなことをしています。’(略)賢治の童話を読むと「あらゆる動物はみな生命を惜しむこと、我々と少しも変りはない、それを一人が生きるために、ほかの動物の命を奪って食べるそれも一日に一つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思わないでいるのは全く我々の考が足らないので、よくよく喰べられる方になって考えて見ると、とてもかあいそうでそんなことはできない」「いくら物の命をとらないと云ったところで、実際にほかの動物が辛くては、何にもならない、結局はほかの動物がかあいそうだからたべないのだ、もしたくさんのいのちの為めに、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていい、そのかわりもしその一人が自分になった場合でも敢えて避けない。けれどもそんな非常の場合は、実に実に少いから、ふだんはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないようにしなければならない、くれぐれも自分一人気持ちをさっぱりすることにばかりかかわって、大切の精神を忘れてはいけない」という考え方がそこかしこに反映されていることがわかります。それは童話だからということではなく、賢治の本心からの考え方なのです。そしてその本当の真摯な気持ちが読む人の心にしみとおってせつなくもうるわしく感じられるのだと思われます。△よだかの星「一疋の甲虫(かぶとむし)が、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑みこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。 雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)」「お前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたずらにお魚を取ったりしないようにして呉れ。ね、さよなら。」△銀河鉄道の夜「お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈いのりしたというの、 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸さいわいのために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。」
2019年11月08日
神奈川県の平塚市博物館で2019年冬期特別展「賢治がみつめた石と星」が11月2日~1月13日開催されていて2019年11月4日行ってきました(^^)花巻市と平塚市は友好都市協定を結んでいて、博物館前には「世界ぜんたいが 幸福に ならないうちは 個人の幸福は あり得ない」という球形のオブジェがあります。友好都市協定締結35周年を記念して「石と星」という自然科学を通して賢治の広く深い魅力を紹介しようとする企画です。賢治の作品は実に数多くの鉱石で彩られていて、通常の読者はその色彩あふれる心象世界がイメージできません。「河原の礫は・・・水晶や黄玉や・・・青白い光を出す鋼玉やらでした。」(『銀河鉄道の夜』のプリオシン海岸)「眼のさめるような、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきととほった球」(同、アルビレオの観測所)「ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりも美しい」(同、蠍の火)「あ、あすこ石炭袋だよ。空の孔だよ。」・・・天の川の一ところに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。(同、石炭袋と暗黒星雲)宮沢賢治が詩人・草野心平にあてた手紙には「一個のサイエンティストと認めていただきたいと思います」ともあります。実に自然科学と人文科学(人間の文化)を総合し昇華させたのが、宮沢賢治という稀有の天才のように思われます。賢治19歳の夏に友人の高橋秀松にあてた葉書があります。このなかに将来を予感させる壮大な賢治世界がすでに表れているように思われます。「今朝から十二里歩きました。鉄道工事で新しい岩石がたくさん出ています。私が一つの岩石をカチッと割りますと、初めこの連中がガスだった時分に見た空間が、紺碧に変わって光っていることに驚いて、叫ぶこともできずキラキラと輝いている黒雲母を見ます。今夜はもう秋です。スコウピオも北斗七星も願わしい静かな脈を打っています」賢治は自らの作品を「詩」ではなく「心象スケッチ」と呼びました。健治が見た心象世界をなぞるには、実際の鉱石の色や結晶や星座を見て、自らの心象に落とし込んで、なぞりながら嘆賞する必要があるようです。賢治のみた心象は賢治しか見えない、しかし、そのスケッチでそれぞれの知見に応じて感得することは出来る。賢治の遺言は「後はまた起きてから書きます」です。弟の宮沢清六さんは「兄のトランク」のなかで「いちばん強い人たちは願ひによって墜ち 次いで人々と一緒に飛騰しますから いざ さらばわが業のまま いづくにもふたたび生(あ)れん」という詩をひかれて「『また生まれ変わって』という意味があるように思われる」と書かれています。宮沢賢治は実は私たちの心の中に「人々と一緒に飛騰するために生(あ)れて」いるのかもしれませんね(^^)
2019年11月05日
冬期特別展「賢治がみつめた石と星」開催=神奈川県平塚市 宮沢賢治は現・岩手県花巻市出身の詩人・童話作家です。平塚市は花巻市と友好都市協定を締結し、さまざまな面で交流活動を進めていますが、本年は友好都市協定締結35周年となる年であり、市民に親しまれている賢治作品を取り上げる特別展を企画することにしました。 宮沢賢治の作品には鉱物や天体などが数多く登場しますが、それが内容に関わる場合や比喩的表現で使われる場合があり、それらの知識があることでより深く作品を知ることができます。そこで当展示では、彼の作品に登場する鉱物や天体などの実物や写真を展示し、自然科学的な視点で彼の作品を読み解くとともに、自然科学と彼の作品との関わりを紹介します。主催 平塚市博物館日時 令和元(2019)年11月2日(土)~令和2(2020)年1月13日(祝)休館日 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで) ※ただし11月12日(火)~11月17日(日)はイブニングミュージアムウィークとして午後7時まで延長(入館は午後6時30分まで)場所 平塚市博物館(平塚市浅間町12-41)主な出品物 賢治作品に登場する岩石・鉱物・化石・天体写真/岩手県関連地質資料/花巻市の民芸品ほか計約200点展示構成 序章:賢治の作品と生涯/第一章:描かれた石と星/第二章:賢治の自然科学観/第三章 賢治の故郷 花巻・岩手関連事業 ・講演会「宮沢賢治の描いた宇宙」渡部 潤一 氏(国立天文台 副台長・教授) 12月1日(日) ・体験学習「イーハトーブの宝石図鑑を作ろう」 11月24日(日)、 12月14日(土) ・展示解説 11月2日(土)、12月1日(日)、12月26日(木)、1月5日(日) ・プラネタリウム朗読「聖夜のおくりもの」 12月21日(土)、12月22日(日) ・イブニングミュージアムウィーク 学芸員による文学夜話 11月12日(火)~17日(日) また、以下の通常事業も特別展に関連付けて実施する ・プラネタリウム一般投影「賢治が見つめた星空」 ・プラネタリウム特別投影 星空音楽館「賢治が愛したクラシック」 11月17日(日) ・プラネタリウム特別投影「銀河鉄道の夜」(KAGAYAスタジオ作成全天フルCG映像作品) ・星を見る会「賢治が愛した星たちを見よう」 12月20日(金)出版物 特別展示図録『賢治がみつめた石と星』協力 花巻観光協会/平塚市文化・交流課(2019/10/28
2019年11月02日
「雨ニモマケズ」手帳第4ページ 南南南無南南無無妙無無安無法上浄立辺蓮行行行行華菩菩菩菩経薩薩薩薩これは、「佐渡始顕の十界曼荼羅」を略式化したものである。宮沢賢治は、姉崎の「法華経の行者日蓮」を読んでいたことを関が伝えている。そこではこの「佐渡始顕の十界曼荼羅」についてこう伝えている。「この一篇がなったのは文永10年4月25日、その前からして本尊を形に顕わすについての工夫を凝らし、いよいよ正式標準の図式が出来たのは、あたかも100日目の7月8日であった。その図式では、南無妙法蓮華経の題目が妙法の本体を現わして中央にかかり、その両側には釈迦・多宝の二仏が妙法の証明として座を両側に分かち、上行等の四菩薩その他の諸仏菩薩これに隣り、以下天と人と鬼と畜生と皆各々その位置を占め、しかしてこれを囲んで四天等の善神がその全体を守護する。このようにして十界の衆生は妙法の光に照らされ、その本来の仏性を発揮して本有の尊形を現わす。すなわちこの本尊は、法と人との円満な結合によって宇宙妙法の一切の因果功徳を具備図顕するがゆえに、これを曼荼羅すなわち功徳聚(しゅ)また円満具足と呼ぶ。要するに妙法の要契をつかんで、これを人々の心の本有の光と結合する目印である。」賢治は大正10年(1921)に国柱会に入会し、「佐渡始顕の十界曼荼羅」を授与され、病床でも枕もとの本棚の中央上段において、常に礼拝を怠らなかったという。賢治は「道場観」を手帳に記した後、うやうやしく略式曼荼羅を手帳に書き始めるにあたって記載したのである。ここに出てくる浄行菩薩、上行菩薩、無辺行菩薩、安立行菩薩は、法華経見宝塔品第14に由来する。巨大な多宝塔が光輝いて空中に出現し、その塔の中に釈迦仏と多宝仏が並んで座り説法する。その説法に感動して、従地湧出品第15では大地が震動して裂けて無数の菩薩たちが出現して空中を満たす。その菩薩達の指導者こそがこの4人の菩薩なのである。「この菩薩たちに四人の導師がおりました。一を上行(じょうぎょう)・二を無辺行(むへんぎょう) ・三を浄行(じょうぎょう)・四を安立行(あんりゅうぎょう)といいます。」「雨ニモマケズ」の詩は、手帳の第51ページから第59ページまで続くのだが、59ページの見開き第60ページには再びこの略式の曼荼羅が記されている。ということは宮沢賢治は「雨ニモ負ケズ」という自らの理想を詩にするとともに、この詩を「南無妙法蓮華経」に恭しく奉納したということなのかもしれない。雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒドリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ南無無辺行菩薩南無上行菩薩南無多宝如来南無妙法蓮華経南無釈迦牟尼仏南無浄行菩薩南無安立行菩薩☆「兄のトランク」宮沢清六「あれは茶色なズックを張った巨きなトランクだった。大正10年7月に、兄はそいつを神田あたりで買ったということだ。 トシ ビョウキ スグ カエレという妹の病気を知らせる家からの電報で、兄がうろたえてそのおおきなトランクを買ったら、汽車賃の外に銀貨が一枚残ったので、小さな梅びしおを買ったというのだ。 その頃中学生の私が、花巻駅に迎いに出たとき、まず兄の元気な顔に安心し、それからそのトランクの大きなことに驚いた。兄は実にきまり悪そうに苦笑いをして「やあ」と言ったし、私も「やあ」といい、そこで2人ともすっかり落ち着いて、そのトランクを下げて家へ帰ったのだ。 そのトランクを2人で、代りがわりにぶらさげて家へ帰ったとき、妹の病気もそれほどでなかったので、「今度はこんなもの書いて来たんじゃあ」と言いながら、そのトランクを開けたのだった。 それがいま残っているイーハトーヴォ童話集、花鳥童話や民譚集、村童スケッチその他全集3・4・5巻の初稿の大部分に、その後自分で投げ捨てた、童話などの不思議な作品群の一団だった。「童子(わらしこ)こさえる代りに書いたのだもや」などと言いながら、兄はそれをみんなに読んでくれたのだった。(略)あのトランクについての思い出は、最後に一番大切なことが残されている。実は私はそのことを長い間気づかなかったのであるが、あのトランクの蓋(ふた)の後には、ポケットのような袋があったのである。私はそのポケットの中から、見なれない一冊の手帳と、両親と、私たち弟妹にあてた二本の手紙を発見した。 その手帳には「雨ニモマケズ」とか「月天子」とか、さまざまの詩や詞が書かれており、この手帳と手紙が遺稿全部の中でも、非常に重要なものであることが、おぼろげながらも私にも解ってきた。」つまり「雨ニモマケズ」の詩は、賢治自身は亡くなる時点では公表は考えていなかったのである。この詩の書かれたページの上に青地で「11.3」とあり、昭和6年11月3日と考えられている。この年の9月20日トランクに東北砕石工場の40キロもの見本をつめて東京に着き、神田駿河台に宿をとった。その夜発熱し、21日に生命の危機を感じて父母あてに遺書を綴った。27日、賢治は父に最後の別れをするため電話する。父は東京にいる友人に頼んで寝台車で賢治を花巻に帰させる。28日の朝、花巻についてそのまま床について、11月3日に「雨ニモマケズ」の詩を書いたのである。そして二度と床を離れて元気に活動することはなかった。賢治が亡くなったのは、これから2年後、昭和8年9月20日である。昭和19年9月20日、谷川徹三は東京女子大学で講演した。「この詩を私は、明治以後の日本人の作ったあらゆる詩のなかで、最高の詩であると思っています。もっと美しい詩、あるいはもっと深い詩というものはあるかもしれない。しかし、その精神の高さにおいて、これに比べ得る詩を私は知らないのであります。」
2019年09月09日
風の又三郎にはその先駆としての風野又三郎があることは有名だ今でのその幻想的な描写にはファンが多い。「 九月一日 どっどどどどうど どどうど どどう、 ああまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろもふきとばせ どっどどどどうど どどうど どどう」で始まる。風の又三郎ではこの歌は「どっどど どどうど どどうど どどう ああまいりんごも吹きとばせ すっぱいりんごもふきとばせ どっどど どどうど どどうど どどう」と「ざくろ」が「りんご」に変わり、リズムも変わっている。(ザクロ(石榴))ざくろは秋実って熟すとあるから、やはり最初のイメージは熟した赤いざくろや青いざくろが風に吹き飛ばされる賢治のイメージだったのであろう。それが最終稿でりんごに変わる。りんごは銀河鉄道の夜でも重要な役割をになっており、亡くなった妹トシとの通信を思っての青森挽歌でも出てくる果物だ。 こんなやみよののはらのなかをゆくときは 客車のまどはみんな水族館の窓になる (乾いたでんしんばしらの列が せはしく遷ってゐるらしい きしゃは銀河系の玲瓏〔れいらう〕レンズ 巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる) りんごのなかをはしってゐる ・・・ もうぢきよるはあけるのに すべてあるがごとくにあり かゞやくごとくにかがやくもの おまへの武器やあらゆるものは おまへにくらくおそろしく まことはたのしくあかるいのだ 《みんなむかしからのきやうだいなのだから けっしてひとりをいのってはいけない》 ああ わたくしはけっしてさうしませんでした あいつがなくなってからあとのよるひる わたくしはただの一どたりと あいつだけがいいとこに行けばいいと さういのりはしなかったとおもひます 現在のよく出回る西洋リンゴの収穫時期は11月に入ってから熟すのに対し、青森県津軽地方で以前より小型の「和リンゴ」と呼ばれるものが栽培されていた。そして「和リンゴ」はお盆時が収穫時期であることから、風の又三郎の最終稿では、賢治がそれを意識して物語の時期を8月6~7日に設定しなおしているのだという。ああ、それにしても青森挽歌の賢治の想いの崇高なること《みんなむかしからのきやうだいなのだから けっしてひとりをいのってはいけない》
2019年07月29日
2008年05月26日 精神歌by宮澤賢治カテゴリ:宮澤賢治の世界 精神歌(宮澤賢治)(一)日ハ君臨シ カガヤキハ 白金(はくきん)ノアメ ソソギタリ ワレラハ黒キ ツチニ俯(ふ)シ マコトノクサノ タネマケリ(二)日ハ君臨シ 穹窿(きゅうりゅう)ニ ミナギリワタス 青ビカリ ヒカリノアセヲ 感ズレバ 気圏ノキハミ 隈(くま)モナシ(三)日ハ君臨シ 玻璃(はり)ノマド 清澄ニシテ 寂(しず)カナリ サアレマコトヲ 索(もと)メテハ 白堊(はくあ)ノ霧モ アビヌベシ(四)日ハ君臨シ カガヤキノ 太陽系ハ マヒルナリ ケハシキタビノ ナカニシテ ワレラヒカリノ ミチヲフム 宮沢賢治の教え子だった瀬川哲男さんは、この精神歌の意味を考え続けてきてこう言われている。「賢治先生の考える根本は、この生きとし生けるもの、すなわち有機質も無機質もみな立派な生命を持っているという考え方に立っていたんです。」「『日ハ君臨シ』とは、太陽は太陽系の真ん中にあってその君主である。この星の上の生きとし生けるものは、すべて太陽に生かされている。『白金ノアメソソギタリ』とは、真昼の太陽の光のことだ。雨は非常に大切なもので、雨によって生物が生命を保っている。太陽の光は貴重な白金が降ってくるようなもので、雨もまた白金よりも価値があるという気持ちがこもっている。『ワレラハ黒キ ツチニ俯シ』とは、土は肥やしとか有機質を与えると黒い立派な土になる。環境がよければ良いものが育つということだ。『俯シ』とは、種を蒔いたり、鍬で耕す時のかがんだ姿勢。『マコトノクサノ タネマケリ』とは、立派な種を蒔いていい植物を育てること。植物は正直で手入れしないとちゃんと育たない。ただ植物の種を播くというだけでない。宮澤先生は、真善美のほんとうの芸術世界を教えるから、みんな立派な人に育ってくださいと願っていたのだと思います。」 瀬川さんは、賢治先生からよく稲と仲良くしなさいと教えられた。「稲と仲良くお話しなさい。それが一番大事だと。」「先生は『百姓は、何の職業よりも立派な職業です。この学校に入ったからには、立派な百姓になりなさい』と言っていたのです。」「農業というのは、みんなのために食糧を作る尊い仕事。生命を支える尊い仕事。そういう精神で、金儲けをしようなどと欲を持ったりせずに、静かな汗を流して働きなさい。それはたとえば、太陽のようでもあり、菩薩業です」「先生は、授業中、こう言ったのです。『頭で聞くんじゃない。からだ全体で聴きなさい。教科書を開いたりノートをとったりしないで体全体で聴きなさい』」「先生はしょっちゅう、すごく感動したり、面白いことがあると、ホーホーと声を出して、とび上がって回るんです。先生は、うれしいとき、感動したときは、体が軽くなって、体全体が宇宙に飛び上がる思いがすると言っておられました。」
2018年06月23日
2008年04月08日XML家族ふれあい新聞第700号より宮沢賢治の母(葉山照澄阿闍梨)要約 去年の暮、岩手県花巻市を訪ねた。早朝にもかかわらず、賢治の弟清六さんらのお迎えを受けて、ひとまず旅館に入った。そのうち戸外がほの明るくなってきたので、降り積る雪の中を、賢治の碑やお母さんの家へご案内頂いた。あわただしい日程で五時間後には東京へ引返さねばならない。 花巻にきた一番の目的は、賢治のお母さんにお目にかかることであった。それに9月ではないが、21日の命日に、墓参をしたかったのだ。私(葉山照澄阿闍梨)はこの2月から千日行に入るので3年間は下山できなくなる。そのわずかな間を見つけて、花巻に賢治母堂を訪れることにしたのだ。立派な子は、その母が立派であることは鉄則だとされているが、その母親について賢治の秘密を知りたいと考えたのが、本当の花巻行の目的であった。 イギリス海岸では、雪の中の白い小石を拾い、手向けの経文を唱えた。それから賢治が奉職していた旧稗貫農学校、今の花巻農学校へ行き、校庭に建つ有名な「雨の中なる真言なり」の詩碑を拝んだ。 すぐ近くに、日蓮宗身照寺というこの土地の菩提寺があり、そこに賢治のお祖父さん以来の「遺骨塔」と、賢治供養のための小さな「五輪塔」がある。この墓は父祖代々の浄土真宗の墓所から、移されたものである。 賢治は、父母に対して「たとえ信仰でなくてもよいから、題目を唱えてくれ、そこに必ず自分が出てお答えする」とまで法華宗に打ち込んでいた。それで今までの家の宗旨も変えざるを得なくなったのだ。 賢治の一番好きなのはあの「デクノボウ」であった。即ち常不軽菩薩の行そのものを実行することにあった。私どもが「回峰行」を、禅と念仏の綜合として最も生きた、将来性のある信仰としてとらえているのも、まったくこの意味からである。かって父上と賢治が心を一つにして、比叡山へのぼった。このとき賢治26歳、父上との信仰の旅は、まず国の源としての伊勢に詣でそれからまっすぐ叡山にのぼった。賢治は比叡山で、「ねがわくは、妙法如来正偏知、大師のみ旨成らしめ給へ」と願っている。そのまま大師の「あのくたらさんみゃくさんぼだいの仏たち、わがたつ杣に冥加あらせたまえ」に、参入したものであろう。 私どもはそれからさらに、三角の一角をなしている郊外桜町の、賢治の詩のうちでも最も名高い「雨ニモマケズ」の詩碑に参った。ここは、もと賢治の祖父の持ち山であった。山といっても雑木林で、そこに祖父が小屋を建てて一人で生活し、農村の青年達を相手に、科学的で芸術的だともいえる新しい農業を実践したのである。碑は実に雄大なものであった。碑文は高村光太郎先生の筆である。 豊沢町の家へ向う。仏壇には、妹とし子さんの瞳の澄んだきれいな顔を大きく引きのばした写真が、真ん中に飾ってあり、その横に賢治の写真があった。ここでも私は天台のお勤めをした。 ここで始めて賢治の母上にお目にかかった。きれいな着物に頭は白い手拭いで、姉さんかぶりにしておられた。お年は80歳だが、そんな年には見えない。 賢治の弟さんも、姉さんも、兄がと、いろいろ語ってくださった。しかし母上はおだやかな微笑でただ返事をくりかえされるだけだった。私が賢治の命日に比叡山からきたことがうれしいらしくよろこんで下さった。母上は私の回峰行のことなど熱心に聞いておられたが、どうか身をいとえ、大事にしろといって下さった。 母堂に別れ、汽車での帰途、「みとせの比えの山ごもり」にはじまり、「亡き母よりも 年たけて 更に清らに美しき 賢治の母は 我がために 身体いとへと云いたもう。ああ そはわが母の 生きの言葉かー。」の詩をつづった。 いつか賢治のふるさとは、雲のかなたに隠れてしまった。
2018年06月15日
ハンガリー出身の世界的な数学者、ピーター・フランクル(60歳)は、タイプの異なる2人の天才の名前を挙げる。「私が人生で初めて出会った天才は、ラースロー・ロヴァース氏でした。彼はハンガリーのオトボス大学の先輩で、驚異的に頭の回転が早く、一を聞いて十を知るタイプでした。国際数学オリンピックにも4度出場し、3度金メダルをとっている。私も時として天才と呼ばれることがありますが、彼の車のほうが速かった。追いつけないな、と思いましたよ」「ボイタ・レードルという数学者を前にすれば、ロヴァース氏も私も天才とは言えないかもしれない」「彼と知り合ったのは、私がフランスの国立科学研究センターにいた頃です。数学の国際会議で意気投合し、チェコ工科大学に勤務していた彼とプラハで共同研究をしました。そのときほど、『自分はいくら頭の回転が早くても、所詮努力型だ』と思ったことはなかったですよ」「日本の大学の数学科なら、彼は合格すらできなかったでしょう。ただし、どこから手をつけたらいいのかさえ誰もわからないような問題を前にしたとき、彼は誰にも真似できないひらめきで解決することができた。最も驚いたのは、彼が『アルファベットの文字を見ると、それぞれに色のイメージが浮かぶ』と言っていたことです。例えば『Aは赤、Bは緑、Cは白銀』といった感じです」「一般に論理的な思考は言葉や文章で行われますが、彼の場合、イメージや絵が浮かぶ。彼は独創的なひらめきを持つ半面、説明は下手で論文もまとまりが悪かった。これがこのタイプの天才が活躍しにくい理由だと思います。私はそういう部分を補う役割でした。良いコンビでしたよ」ラースロー・ロヴァース(Lovász László, IPA: [ˈlovaːs ˈlaːsloː]、1948年3月9日 - )は、ハンガリー生まれの数学者である。 組合せ論に貢献した。2007年から2010年まで国際数学連合の総裁を務めた。賢治の知人で医師の佐藤隆房「賢治さんは、優れた官能の鋭敏さと、稀(まれ)に見る官能間の融通性とをもっておりました。眼で見たものは耳から聴いたように、耳からきいたことは、目で見たように、自由に感じ得られる人でありました。ですから色を見ましては、感情となったり、形となったり、音楽となったりしますし、形を見ましては、色となったり、音となったりし、音を聞いては色とか形を思い浮かべ、それが叙情の詩となる人でありました」(佐藤隆房『宮沢賢治』)宮沢賢治は常人の持っていない共感覚の持ち主で、しかもそれを言語表現できた極めてまれな存在だった。賢治は日本語の世界を豊かにした、おそらくは数千年後も生き続ける偉人であろう。
2018年06月06日
2009年10月02日産経新聞の「次代への名言」に宮沢賢治のお母さんイチさんの言葉が載っていた。お国言葉の語尾がほほえましい。【次代への名言】9月21日・宮澤賢治の母、イチ2009.9.21 ■「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」(宮澤賢治の母、イチ) 幼い宮澤賢治と添い寝するとき、いつも語りかけていたという、このことばほど、彼を象徴するものはない。人のために自分は何をできるのか。そう問い続けた賢治は昭和8(1933)年のきょう、37年の生涯を終える。 「私には私の望みや願ひがどんなものやらわからない」。賢治は盛岡高等農林学校を卒業し、その研究生を務めたあと、家業の質店兼古着商を手伝っていたが突如、東京に出奔する。右はそのころ、親類にあてた手紙のなかにある。 後世が愛してやまない賢治の作品は、この家出に続く帰郷後の教員生活、帰農、そして化学肥料のセールスマン時代の間にはぐくまれる。「人のため」に、彷徨(ほうこう)する彼の魂から、「唾(つばき)し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」(『春と修羅』)という強烈な詩が生まれ、「わたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(『注文の多い料理店』の序文)という、美しく切ない童話が誕生する。 さがし続けたものを、賢治は見つけることができたのだろうか。わからない。ただ、彼の最後のことばは、「ああ、いいきもちだ」-だった、という。☆このイチさんの「人というものは、人のために何かしてあげるために生まれてきたのです」という言葉は、鈴木藤三郎が「報徳」とは何かを自分なりに徹底的に(これが藤三郎の驚嘆すべき性格の一つではある)探求して得た結論と一致する。 「鈴木藤三郎伝」では、実業日本に掲載された藤三郎の言葉を集約してこう述べる。「藤三郎は、やがて次のような一つの悟りというようなものをうるに至った。 人は、なぜにこの世に生まれて来たのであるか? どう生きるのが、本当であるか? 人は、金銭や名誉を目的として働くのは間違っている。 国家や社会のために、その真の幸福を増進することを目的として仕事をするのが本当である。 それには過去の人がしておいたことを、現代の人は更に良くし殖やして、これを後世の子孫に伝えなければならない。 それをしないで本能のままの生き方をしたのでは、何千年、何万年たっても、少しも進歩も発達もしない鳥や獣の世界と同じことになって、人類が万物の霊長であるという値打ちがなくなってしまう。 もちろんこれは一人や二人の力で仕遂げられるものでもないし、また一代や二代で完成するものでもないから、すべての人類が、この大目的のために永遠に力を合わせる覚悟にならなければならない。 しかし、その目的さえ一つならば、各々が受け持つ仕事は違っていても、その間に上下の区別があるはずはない。みな同じように、先人の徳に報いる聖業に従事している訳である。 また、商売をするには、元値を知ることが必要であるが、人生のほうの元値とは『人は生まれた以上は死ぬ』ということである。必ず死ぬときまっている以上は、いつ死んでも仕方がないのに、今日も、また今日も生きているのは、もうけものだといわなければならない。生きていることが既にもうけものなのだから、それ以上のことはすべて皆、もうけの上のもうけであると一大覚悟をきめさえすれば、一生涯に苦痛とすることはない。これが、報徳主義の生きた悟りである。」(同書17ページ)鈴木藤三郎はこういう覚悟で生涯を生きた。人は失敗したとき、その真価が問われる。そして事業で大失敗したときも、この覚悟で全財産を差し出して、しかもなお新たな発明(乾燥法)で日本にそして後の世に貢献し続けようと火花を発するのである。ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス イチ
2018年06月01日
「雨ニモマケズ手帳」第13ページ、第14ページ(第13ページ)◎人他の非を忿りて 是を心に裁く 数ふるときはさながら 大なる鬼神の ごとく(第14ページ)わづかに 身の非を省み 思へるときは そのうなゐ母みどりこを 見るにも 似たり黒エンピツで力強く書かれている。はじめに「人」と書いたのを消して「他の非を忿(いか)りて 是を心に裁く」と書いたが、「是を心に裁く」を消して「数ふるときは」と訂正している。「さながら大なる鬼神のごとく」と繋げて14ページに「身の非を省み」と書いたが「わづかに」を最初に足して、「省み」を消して「思へるときは」と続けた。「母みどりこを」と書いて「みどりこ」を消して「そのうなゐ」に直した。そして「見るにも似たり」と最後に置いた。賢治の創作の過程が見てとれる。「他の非を忿りて数ふるときは さながら大なる鬼神のごとく わづかに身の非を思へるときは 母そのうなゐを見るにも似たり」※うなゐ 【▼髫/〈髫髪〉】(1)髪をうなじのあたりで切りそろえ、垂らしておく小児の髪形。[和名抄](2)〔髪を「うない」にしておく者の意から〕小児。小さい子。☆他人の非を怒るときは、まるで鬼神が怒る時のように咎め、僅かに自分の非を見る時は、母親が幼子を見るようにやさしい 賢治の自省の詩である。人間心理をよく洞察する!☆「魔法の言葉」に「おばあさんが教えてくれたことは 『決して怒ってはいけない』ということでした。」とある。「絶対に人の悪口を言ってはダメ。人前だけでなく、自分一人っきりの時でも、言葉に出して言うだけでなく、思ってもダメ。人に対して怒ってもだめ。怒れば怒るほど、せっかく積み重ねたツキがどんどん無くなっていくわ。」☆ジョーの母「ね、怒りて日の入るまでに至るなかれ、よ。お互いに許し合って、助け合って、明日はまた新しくやりなおしましょう。」でも、ジョーのエイミーに対する怒りは続く。 スケート場でエーミーが水に溺れそうになって反省する。ジョー「みんな、わたしの、恐ろしいかんしゃくからですわ。(It's my dreadful temper!)わたし、それを直そうと努めているんです。そして直ったと思うと、また今まで以上に悪くなってしまうんです。ああ、おかあさん。私ってどうしてこうなんでしょう。どうしたらいいんでしょう。」母「目を覚まし、そして祈れ です。ね、決してあきらめないでトライしなさい。自分の欠点は決して直らないなんて思わないことよ。ジョー、私たちはみな誰にだって誘惑ってあるのよ。あなたのよりはるかに大きいものもね、人はそれらに打ち勝つのに一生かかることだってあるのよ。あなたは自分の性質が世界中で一番悪いと思っているようだけど、おかあさんだって、ちょうどそんなふうだったのよ。」ジョー「まあ、おかあさまが?だって、一度だって、お怒りになるなんてないじゃありませんか。」母「お母さんはそれを直すのに40年もかかりました。それでもやっとそれをおさえられるようになっただけです。私はね、ほとんど、まい日、怒りたくならない日はないのよ。でも、ジョー、それを顔に出さないようになっただけです。これからは、心から怒るということがないようになりたいと思っていますが、それには、もう40年かかるかもしれません。」Little Women(邦題「若草物語」) ジョー、魔王アポリオンに会う(Jo Meets Apollyon) のアポリオンとは、「天路歴程」(Priglm's progress)に出てくるクリスチャンの行く手をはばむ魔王である。いかに オルコットのLittle Women が 天路歴程 を意識し、またそれを当然の前提としてこの少女向けの小説が書かれているかわかる。この魔王アポリオンとはジョーにとって何か彼女の心の中の敵ー怒りーである。それはいつも彼女を打ち負かす。エーミーがジョーが一生懸命書いた原稿を誤って燃やしてしまった。「ばか、ばか!・・・一生ゆるしてあげない」ジョーは逆上し、妹の横っ面を張り倒す、(ジョーのパッションPassion は ボロ布のほかは何も残さなかった )エーミーの仕打ちは数年間の骨折りをすっかりだいなしにしてしまった。「ゆるしてちょうだい、ジョー、私ほんとに悪かったわ」 「ゆるさない、けっして」とジョーはきっぱりと言い放ち、それいらいエーミーを無視した。マーチ(母)はジョーがその日「お休みなさい」を言いにきたとき「ね、怒りて日の入るまでに至るなかれ、よ。お互いに許し合って、助け合って、明日はまた新しくやりなおしましょう。」でも、怒りの魔王はジョーを支配し、心から許す気持ちにならなかった。エーミーはあんなに謝ったのにと、自分から和睦を申し込んだのがはねつけられてすっかり気分を害してしまった。次の日もジョーの怒りは続き、エーミーがスケートで危うく氷を割って川に落ち込んで死ぬところを、ローリーが危うく救って、はじめて深い後悔に襲われる。家に帰って母に言う。「お母様、もしもあの子が死ぬようなら、私のせいなんです。」 「みんな、わたしの、おそろしいかんしゃくからですわ。It's my dreadful temper!わたし、それを直そうと努めているんです。そして直ったと思うと、また今まで以上に悪くなってしまうんです。ああ、おかあさん。私ってどうしてこうなんでしょう。どうしたらいいんでしょう。」I try to cure it, I think I have, and then it breaks out worse than ever.OH, Mother, what shall I do? What shall I do?「目を覚まし、そして祈れ です。ね、決してあきらめないでトライしなさい。自分の欠点は決して直らないなんて思わないことよ」Watch and pray, dear, never get tired of trying, and never think it is impossible to conquer your fault「ジョー、私たちはみな誰にだって誘惑ってあるのよ。あなたのよりはるかに大きいものもね、人はそれらに打ち勝つのに一生かかることだってあるのよ。あなたは自分の性質が世界中で一番悪いと思っているようだけど、おかあさんだって、ちょうどそんなふうだったのよ。」Jo, dear, we all have our temptations, some far greater than yours, and it often takes us all our lives to conquer them. You think your temper is the worst in the world, but mine used to be just like it.「まあ、おかあさまが? だって、一度だって、お怒りになるなんてないじゃありませんか。」Yours, Mother? Why, you are never angry!「お母さんはそれを直すのに40年もかかりました。それでもやっとそれをおさえられるようになっただけです。私はね、ほとんど、まい日、怒りたくならない日はないのよ。でも、ジョー、それを顔に出さないようになっただけです。これからは、心から怒るということがないようになりたいと思っていますが、それには、もう40年かかるかもしれません。」I've been trying to cure it for forty years,and have only succeeded in controlling it.I am angry nearly every day of my life,Jo, but I have learned not to show it,and I still hope to learn not to feel it, though it may take me another forty years to do so.
2018年04月26日
「夕べのウオーキングに行ってくる」昨年暮れの手術の前は「朝のウオーキング」を毎朝続けていたが、日も永くなってきた、「夕べのウオーキング」をやってみよう。「わたしも今日は外に出なかったから行ってみようかな」「じゃあ待っていよう、南に行く?そうだ西の蓮池に行ってみよう、ひょっとしたら 翡(みどり)色の美しい かわせみ に会えるかもしれない・・・・」残念ながら、かわせみには会えなかったが、鴨が二羽(親子だろうか、つがいだろうか・・・)岸辺にいた。近づくと池の中に入っていく。宮沢賢治の『よだかの星』には 醜いよだかが かわせみ に別れのあいさつに行く場面がある。あるいは よだかを自分に 美しいかせわみ(作品では「弟」となっているが、賢治はよく変容の手法を使う)に 妹とし をイマジンさせていたのかもしれない。『よだかは、実にみにくい鳥です。 顔は、ところどころ、味噌(みそ)をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。 足は、まるでよぼよぼで、一間いっけんとも歩けません。 ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合(ぐあい)でした。・・・・・・よだかは、あの美しいかわせみや、鳥の中の宝石のような蜂(はち)すずめの兄さんでした。・・・・・・ よだかはまっすぐに、弟の川せみの所へ飛んで行きました。きれいな川せみも、丁度起きて遠くの山火事を見ていた所でした。そしてよだかの降りて来たのを見て云いました。「兄さん。今晩は。何か急のご用ですか。」「いいや、僕は今度遠い所へ行くからね、その前一寸(ちょっ)とお前に遭(あ)いに来たよ。」「兄さん。行っちゃいけませんよ。蜂雀(はちすずめ)もあんな遠くにいるんですし、僕ひとりぼっちになってしまうじゃありませんか。」「それはね。どうも仕方ないのだ。もう今日は何も云わないで呉くれ。そしてお前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたずらにお魚を取ったりしないようにして呉れ。ね、さよなら。」「兄さん。どうしたんです。まあもう一寸お待ちなさい。」「いや、いつまで居てもおんなじだ。はちすずめへ、あとでよろしく云ってやって呉れ。さよなら。もうあわないよ。さよなら。」』賢治には妹との かわせみ についての語らいを詩にした作品がある。この詩には、『よだかの星』につながる発想がある。また妹としとの美しく心の通うさまが、表現されていて楽しい。「一五八一九二四、七、一五、(北上川は熒気(けいき)をながしィ 山はまひるの思睡を翳す) 南の松の林から なにかかすかな黄いろのけむり(こっちのみちがいゝぢゃあないの)(をかしな鳥があすこに居る!)(どれだい) 稲草が魔法使ひの眼鏡で見たといふふうで 天があかるい孔雀石板で張られてゐるこのひなか 川を見おろす高圧線に まこと思案のその鳥です(ははあ、あいつはかはせみだ 翡翠(かはせみ)さ めだまの赤い あゝミチア、今日もずゐぶん暑いねえ)(何よ ミチアって)(あいつの名だよ ミの字はせなかのなめらかさ チの字はくちのとがった工合 アの字はつまり愛称だな)(マリアのアの字も愛称なの?)(ははは、来たな 聖母はしかくののしりて クリスマスをば待ちたまふだ)(クリスマスなら毎日だわ 受難日だって毎日だわ あたらしいクリストは 千人だってきかないから 万人だってきかないから)(ははあ こいつは…… ) まだ魚狗(かはせみ)はじっとして 川の青さをにらんでゐます(……ではこんなのはどうだらう あたいの兄貴はやくざもの と)(それなによ)(まあ待って あたいの兄貴はやくざものと あしが弱くてあるきもできずと 口をひらいて飛ぶのが手柄 名前を夜鷹と申します)(おもしろいわ それなによ)(まあ待って それにおととも卑怯もの 花をまはってミーミー鳴いて 蜜を吸ふのが……えゝと、蜜を吸ふのが……)(得意です?)(いや)(何より自慢?)(いや、えゝと 蜜を吸ふのが日永の仕事 蜂の雀と申します)(おもしろいわ それ何よ?)(あたいといふのが誰だとおもふ?)(わからないわ)(あすこにとまっていらっしゃる 目のりんとしたお嬢さん)(かはせみ?)(まあそのへん)(よだかがあれの兄貴なの?)(さうだとさ)(蜂雀かが弟なの)(さうだとさ 第一それは女学校だかどこだかの おまへの本にあったんだぜ)(知らないわ) さてもこんどは獅子独活ししうどの 月光いろの繖形花から びろうどこがねが一聯隊 青ぞら高く舞ひ立ちます(まあ大きなバッタカップ!)(ねえあれつきみさうだねえ)(はははは)(学名は何ていふのよ)(学名なんかうるさいだらう)(だって普通のことばでは 属やなにかも知れないわ)(エノテララマーキアナ何とかっていふんだ)(ではラマークの発見だわね)(発見にしちゃなりがすこうし大きいぞ) 燕麦の白い鈴の上を へらさぎ二疋わたってきます(どこかですももを灼いてるわ)(あすこの松の林のなかで 木炭(すみ)かなんかを焼いてるよ)(木炭窯ぢゃない瓦窯だよ)(瓦窯やくとこ見てもいゝ?)(いゝだらう) 林のなかは淡いけむりと光の棒 窯の奥には火がまっしろで 屋根では一羽 ひよがしきりに叫んでゐます(まああたし ラマーキアナの花粉でいっぱいだわ) イリスの花はしづかに燃える」
2018年04月06日
「兄賢治の生涯」宮沢清六著より抜粋賢治は明治29年8月27日に岩手県花巻町で生まれた。明治29年という年は、東北地方に天災の多い年であった。賢治は生後5日目の8月31日午前5時、花巻町の西方約25キロメートルの地にある沢内村に2メートルに及ぶ断層ができるほどの大地震が発生し、死者200人を数えた。また、大津波、大風雨、また赤痢、伝染病が流行した。賢治は長子だった。その頃の風習で母の実家の同じ町内の鍛冶町で生まれた。母は20歳で、生後5日目の朝、大地震がおこったとき、赤子の上に身を伏せて念仏を称えていたが、賢治の祖母のきんが息も絶え絶えに駆けつけたのでやっと人心地がしたという。兄は初孫として大切に育てられたが、7歳で赤痢を病み、介抱した父も感染して生涯胃腸が弱くなった。当時の古着・質商という陰気な家業が賢治に与えた影響も少なくない。父は仏典を好み、同志とともに中央から学者や名僧を呼んで仏教講習会を開いた。賢治も7,8歳の頃から講習会に父にともなられて行っては熱心に聞いた。兄は表面陽気に見えながらも、何ともいえない哀しいものを内に持っていた。父も「賢治には前生に永い間、諸国をたった一人で巡礼して歩いた宿習があって、小さいときから大人になるまでどうしてもその癖がとれなかったものだ」としみじみ話したものだった。兄は鉱物や植物や昆虫に熱中して、鉱石や植物の説明をしてくれたものだ。一時あまり鉱物に凝ったので、家族から「石コ賢さん」と言われたほどだった。若いころの賢治の思想に強い影響を与えたものにキリスト教の精神があった。賢治の幼年時代、内村鑑三の2人の高弟が花巻におられた。その一人の高潔な教育者の照井真臣乳(まみじ)に小学校2年のとき教えられている。私が5歳のとき兄は盛岡中学校の入学試験に合格し、父に連れられて寄宿舎に入った。4年生のとき、それまでおとなしかったのが、登山して学校を休んだり、寄宿舎の友だちと一緒にいたずらして教師を怒らせたり、舎監の排斥運動に加わって寄宿舎を追放されたりした。そのため父から厳しく叱責され、何も言わずに頭を下げている兄を見て気の毒であった。卒業と同時に岩手病院で蓄膿症の手術をしたが、原因不明の熱が続き、発疹チフスの疑いで2ヶ月入院した。☆賢治の主治医だった佐藤隆房さんは「宮澤賢治」で賢治が発疹チフスで病院に入院していたこんなエピソードを伝えている。「ある晩のこと、急に目を覚まして、パッチリ目を開いた賢治さんは、『お母さん、今 白いヒゲをはやし、白い着物を着た岩手サンがおいでになったす。そして手に持った剣で俺は腹をうんと刺されたもす。』そしてそのご熱はすっかりさがった。」この後、賢治は岩手山にしきりに登山するようになる。☆花巻農学校教員時代の教え子、小原忠氏の回想より 『山と雪と柏林と』 「岩手山につれてってやろう。」と宮澤賢治先生に云われたのは花巻農学校一年生のときである。それから暫くたった大正十三年の春、ある晴れた日の朝、これから飯豊森(この地方では「いでもり」と呼ぶ)に行こうと私の家に誘いに見えた。飯豊森は花巻南西約四キロ、平野部に佇立する一三一.六米の小さい山で、古い岩鐘である。 途中先生はその当時売出されたばかりのゼリービーンズと干葡萄を箱ごと私にくれた。そして化学の先生らしく、ゼリーのなかにはゼラチンが入っていると云った。当時私は、ある先生から、骨は石灰と膠からできている。従ってこれらを摂取すれば骨が丈夫になり背も高くなると聞いて、薬店から買求めて摂っていた。それで先生に「ゼラチンを食えばほんとに大きくなるんですか。」と訊いたら、「誰がそんなことを教えたか。」と苦い顔をした。 そんなことを話しているうちにやがて山に着いて、いよいよ登り始めると、意外に高く路も険しかった。中腹まで登ったら、先生はどんどん頂上目がけて駆出した。私は懸命にその後を追い掛けたが先生はなかなか早くて追いつけなかい。やっとのこと息を切らして頂上に辿りついた。先生は「小原君は案外丈夫なんだな。これなら岩手山に連れてゆける。」と云った。先生は私のことを身体も小さいし、極端に弱いと思っていたらしい。今迄山登りといえば遠足で花巻東郊の胡四王山(一七六.六米)に登ったぐらいのもので、この飯豊森は平野部にあるだけに意外に遠望がきいて周囲の山々は美しく見えた。 (中略) ところがその夏、ほんとうに岩手山に私を連れて行ってくれた。二年生、一年生をまぜて全部で六・七人位だった。花巻駅を午后出発して滝沢駅に着き、ここから裾野の道を歩き麓の岩手山神社に一休みした。それから夜みちをかけて一人の落伍者もなく頂上に着いた。頂上の神社にざこ寝をするのだがとても寒くてブルブル震えて眠るどころのさわぎではない。先生はかねて用意の新聞紙を配り身体に巻付けるように云った。やがてほかほかとあたたまり眠りにつくことができた。 あけがたは御来迎を拝むということで早く起きてお鉢まわりを始めた。この日は風が強く眼下は白雲がいっぱい怒濤のように行き来して恐ろしく見えた。ときどき雲の切れ目から、早池峯山、鳥海山、岩木山がぽかりぽかりと顔を出し、先生はいちいちそれを指して教えた。先生はお鉢まわり中、音吐朗朗とお経を唱えた。その声は高く力のこもったもので、頂上の風も持って行けないくらい透った声であった。 いよいよ下山になり、九合目あたりの傾斜面に大きな残雪が横たわっていた。先生はここでも、そこへ行って雪を一杯とって来て私にくれた。日頃残雪など珍しくもない私も、その雪ばかりは山頂の霊気がこもっているようでありがたく思われた。 帰り、一行のリーダー格の宮沢貫一君が先頭を切って兎のようにピョンピョンと岩から岩へ飛び下りてゆく。みんな一斉にその後を追う。貫一君は前にも先生に連れられて来たとのことで岩手山の路には委しい。麓まで下りて道はそれから柏林に入る。この林には冷たい水がこんこんと湧いていた。先生に云われるとおり柏の葉を取ってきて水を掬って飲んだ。ここで暫く休息ということになった。私は横になったらいつの間にかとろとろと睡ってしまった。目を覚ましたらみんな出発したあとで、あたりはガランとして静まり返っている。何時かも判らない。日は西にまわっているように思われた。びっくりして道を東に走りに走った。すそ野の道はあきれるほどに遠い。ようやく滝沢駅に着いて一行と落合い、汽車に乗り私はすぐに睡ってしまったが誰か起こす者がある。貫一君が私の席を探して汽車弁当くれた。先生が盛岡駅で求めたもので私には初めてお目にかかる珍しいものだった。弁当はたしか五十銭、当時としては高価かなものだった。家に帰ってから二日二晩眠りこけたから、二千米の初めての登山はそれだけ私の身体に応えた。 ラクムス青の風だといふ シャツの手帳も染まるといふ 青い風のリズムをつたえる「林学生」はこの時のものかも知れない。往復の汽車賃のことは全然記憶がない。おそらく全員分を先生が自辨されたものと思われる。 (以下略)
2018年03月01日
宮澤賢治が亡くなったあと、大きな鞄の内側から一冊の手帳が発見された。「雨ニモマケズ」の詩が書き付けられた最後の手帳である。その手帳に北上川沿いの山々、沼森、篠木峠、岩手山、早池峰山など32の山々が記されてあり、それらの山々の頂上に法華経を埋納して欲しいと書いてあり、埋納の筒のスケッチがしてあった。賢治の父と弟は戦後それらの山々に埋めてまわった。畑山博さんが出版社の人と話しているとき、ふとこれらの山々を線で繋ぐと星座になるのではという話になり、やってみた。すると北上川を天の川に見立てて白鳥座、わし座、琴座、いて座などが浮かび上がった。白鳥座の傍らにはジョバンニと友人(あるいは賢治ととし子)らしい星まであった。アア、賢治は自分が亡くなったあと、68億9千年後、弥勒菩薩降臨の時まで、愛するイハートブの地の目印として法華経を埋納しようと願ったにである、なんという壮大な浪漫であろうか
2018年01月20日
芥川賞に直木賞 岩手文学席巻に地元歓喜 書店に特設コーナー1/18(木)岩手県遠野市出身の若竹千佐子さん(63)の第158回芥川賞受賞に岩手が沸いている。県関係者の受賞は、前回の作家沼田真佑さん(39)=盛岡市在住=に続き2人目。しかも今回、直木賞に選ばれた門井慶喜さん(46)の「銀河鉄道の父」は、岩手が生んだ詩人で童話作家の宮沢賢治が題材で、岩手文学が文壇を席巻した格好だ。受賞決定から一夜明けた17日、盛岡市の老舗書店「東山堂」肴町本店は店頭に特設コーナーを設置した。受賞作「おらおらでひとりいぐも」が平積みになり、買い物客の目を引いた。 東山堂店売部の斉藤雅俊副部長は「2期連続の地元受賞はめったにない。岩手県が文学的な土地柄と認められたのではないか」と手放しで喜び「受賞が県関連の作家に触れる機会になってほしい」と期待した。 受賞作を購入した盛岡市の女性(72)は「岩手出身の作家が、高齢者の生き方を描いていると聞き興味を持った。じっくり読み込みたい」と語った。 タイトルの「おらおらで-」は、賢治の詩「永訣(えいけつ)の朝」の一節。賢治の父・政次郎の視点から賢治を描いた「銀河鉄道の父」と2冊まとめて買い求める客も多いという。 宮沢賢治記念館(花巻市)の鎌田広子館長(60)は「どちらの作品にも賢治さんの世界があちらこちらに感じられる」と評論。「岩手の風土や賢治さんの思想が、現代作家にも魅力として伝わっているのではないか」と話した。◎受賞作「おらおらで」5.5万部増刷 河出書房新社は17日、第158回芥川賞の受賞が16日に決まった若竹千佐子さん(63)の「おらおらでひとりいぐも」を5万5千部増刷すると明らかにした。昨年11月に発売された同作の発行部数は計12万部となる。 若竹さんは昨年10月に第54回文芸賞を史上最年長で受けた。文芸賞受賞作が芥川賞を受賞するのは初めて。63歳での芥川賞は史上2番目の年長受賞。 直木賞に選ばれた門井慶喜さん(46)の「銀河鉄道の父」(講談社)も10万部の増刷が16日に決まっており、昨年9月の発売からの発行部数は計13万部を超えた。芥川賞を若竹さんと同時受賞した石井遊佳さん(54)の「百年泥」(新潮社)は今月24日に発売される予定。
2018年01月18日
雷から「反物質」 身近な場所で発見、研究者も驚き石倉徹也2017年11月23日物質と出合うと、光を放って消えてしまう不思議な性質を持つ「反物質」が、雷によって大量に作られていることを、京都大や東京大などの研究チームが突き止めた。これまで、宇宙から降り注ぐ高エネルギー粒子(宇宙線)が地球の大気にぶつかって生じるケースなどが報告されていたが、身近な気象現象である雷による生成が確認されたのは初めて。英科学誌ネイチャー(電子版)に23日、論文が掲載される。 反物質は、物質と電気的な性質が逆で、宇宙誕生時には物質と同じ量あったが、その後ほとんどが消えたと考えられている。ただ、加速器を使って人工的に作ることができ、米映画「天使と悪魔」(2009年)では、物質と接触して膨大なエネルギーを放つ「兵器」として描かれた。 京都大の榎戸輝揚・特定准教授(宇宙物理学)らのチームは今年2月、新潟県柏崎市で雷雲から放出されるガンマ線を観測。その結果、反物質の一種である「陽電子」が消滅する際に出る特有のガンマ線を検出することに成功した。また、雷によって作られた窒素の放射性同位体から、陽電子が発生するという仕組みも突き止めた。 雷雲の中では、1回の放電で数兆個の陽電子が作られ、10分間ほどの間に発生と消滅を繰り返すと推定されるという。 榎戸さんは「反物質が、実は身近な場所で生まれていることが明らかになり、非常に驚いた」と話す。(石倉徹也)賢治先生の授業"農作物の肥料として、窒素が重要"という事実を教える際に、賢治先生は次のように教えた。 「皆さん、神社などでよく見かけるしめ縄が何を意味しているのかを知っていますか?太いしめ縄の本体は雲、細かく下がっている藁は雨、ギザギザの紙は稲妻を表しているのです。なぜ、しめ縄が神社に奉納されているのかというと、それは豊かな実りを祈るためです。なぜなら、雨と雲と雷は豊作のために不可欠なのです。雲のあるところに雷が発生する。雷が空中の窒素を分解し、それを雨が地中に溶かし込むと、その土地は栄養分豊かな土地になるのです。すなわち、窒素は作物にとって重要な栄養素なのです。それでは、今からこのことを自分自身の目で確かめるために、皆で雷のよく落ちる名所である変電所に行きましょう」こういって、賢治は変電所に実際に生徒たちを連れて行き、「変電所の周りの田んぼには、今まで一度も肥料をやったことがないそうです。にもかかわらず、ここの稲はこのように穂もたわわに実り、肥料をやっているほかの田んぼの稲よりずっとたくさん収穫量があるのです。この事実は先ほど私が言ったことの裏付けになっています。窒素の重要性がわかりましたか」 賢治先生は"しめ縄"という身近なものに注目し、自然現象のカラクリを解き明かし、それを自分自身の目で確かめさせ、教科書に"窒素は肥料の重大な要素のひとつ"とだけ書かれている事実を、生徒の頭の髄から納得させたのです。
2017年11月23日
鉄階段をやっとのことでおれは十階の床をふんだここの天井はずゐぶん高いぜんたい壁や天井が灰いろの陰影だけでできてゐるのかつめたい漆喰で固めあげられてゐるのかわからないけれども さうだ この巨きな室にダルゲが居てこんどこそもう会へるのだおれはなんだか胸のどこかが熱いか溶けるかしたやうだ七米も高さのある大きな扉が半分開くおれはするっとはいって行く室はがらんとつめたくて猫背のダルゲが額に手をかざし巨きな窓から西ぞらをじっと眺めているダルゲは陰気な灰いろで腰には厚い硝子の蓑をまとってゐるダルゲは少しもうごかない窓の向ふは雲が縮れて白く痛いダルゲがすこしうごいたやうだ息を引くのは歌ふのだ 西ぞらのちゞれ羊から おれの崇敬は照り返され (天の海と窓の日覆い) おれの崇敬は照り返され空の向ふには氷河の棒ができあがるダルゲはもいちど小手をかざしてだまりこむもう仕方ない おれはひとあしそっちへすゝむ (えゝと、白堊系の砂岩の斜層理について)ダルゲがこっちをふりむいておゝ ひややかにわらってゐる 図書館幻想 おれはやっとのことで十階の床ゆかをふんで汗を拭った。 そこの天井は途方もなく高かった。全体その天井や壁が灰色の陰影だけで出来てゐるのかつめたい漆喰で固めあげられてゐるのかわからなかった。(さうだ。この巨きな室にダルゲが居るんだ。今度こそは会へるんだ。)とおれは考へて一寸胸のどこかが熱くなったか熔けたかのやうな気がした。 高さ二丈ばかりの大きな扉が半分開いてゐた。おれはするりとはいって行った。 室の中はガランとしてつめたく、せいの低いダルゲが手を額にかざしてそこの巨きな窓から西のそらをじっと眺めてゐた。 ダルゲは灰色で腰には硝子の蓑を厚くまとってゐた。そしてじっと動かなかった。 窓の向ふにはくしゃくしゃに縮れた雲が痛々しく白く光ってゐた。ダルゲが俄につめたいすきとほった声で高く歌ひ出した。 西ぞらの ちゞれ羊から おれの崇敬は照り返され (天の海と窓の日覆ひ。) おれの崇敬は照り返され。おれは空の向ふにある氷河の棒をおもってゐた。ダルゲは又ぢっと額に手をかざしたまゝ動かなかった。おれは堪こらえかねて一足そっちへ進んで叫んだ。「白堊系の砂岩の斜層理について。」ダルゲは振り向いて冷やかにわらった。(校本全集11 「初期短編綴等」より)ダルゲとは、『東京ノート』56ページに「図書館(ダールケ博士)」とメモされたドイツ人医師のことで、ダールケは大乗非仏説を主唱する仏教学者でもあったという。ダールケ著『仏教論文集』(英訳)〈八~一○ページ〉(Paul Dahlke:Buddhist Essays,Eng.tr.by Silacara,pp.8-10) 仏陀はイエスやパウロのような熱情をもって語らなかった。もちろん彼は古代の予言者たちの死のような暗い真剣さをもって語ることもしなかった。(中略) 仏陀が泣いたとか笑ったとかいうことは、ほとんど伝えられていない。(中略) 仏陀は純粋に人間的な感情に没入することはなかった。感情は無明《むみょう》である。大空が地上を覆《おお》うように、一切の人間的なものをはるかに超越している仏陀のゆるぎない清澄さの上に、輝かしい雲にも似た情愛はほとんど見られない。しかし、この点に関して非難されるべきものは仏陀その人ではなく、仏教徒の表現の狭さにあるといえるだろう。仏陀の人格は、どのような人間的な事柄もそれと無縁であり得ないほど偉大であり且つ多方面的であった。 たとえば『大涅槃《だいねはん》経』に述べられている一つの物語は、どれほど人の心を動かし、また人情の機微《きび》に触れたことであろう。すなわち、仏陀の愛弟子《まなでし》阿難《あなん・アーナンダ》が師の臨終の近いことを知って悲しみのために戸の後ろで泣いていると、仏陀は阿難をそばに呼び寄せて、母がその子供を慰めるように慰めていった。「阿難よ、元気を出しなさい。泣くのをやめなさい。万事はこのようになるものであって、われわれは結局尊いもの、愛するものと必ず別れなければならないものであることは、汝《なんじ》に幾度も語ったではないか。生あるものに滅なきことがどうして出来ようか」。 またあるとき、病気のために顧《かえり》みられないで、自分の部屋に閉じこもっている比丘《びく》のそばに行き、他の比丘たちを戒めていった。「汝らは父親も母親もない者である。それ故、汝らは互いに父となり母となりなさい。汝らが日ごろ私の世話をし、私に仕《つか》えてくれるように、病人の世話をし、その人に仕えなさい」。ダールケ著『仏教論文集』(英訳)〈二一七~二二一ページ〉(Paul Dahlke:Buddhist Essays,Eng.tr.by Silacara,pp.217-221) 仏陀《ぶっだ》がベナレスにおいてはじめて五人の比丘《びく》に説教したとき、その説教は次のような言葉で始まっている。 「おお比丘たちよ、世の中に二つの極端な事柄があるが、それらは出家した者が必ず避けなければならないものである。 それは何か。 第一は低級、卑俗且つ無益な快楽の生活に耽《ふけ》ることであり、第二は苦痛多く低級で無益な難行苦行に耽ることである。如来は、このような二つの極端な事柄を避けることによって中道を知るに至ったのであるが、この中道は識見、英知、平和、知識、安心および涅槃《ねはん》に至る道である。 しかしながら中道への道は何であるかといえば、それは八正道《はっしょうどう》にほかならない」。 さて、われわれはすでに八正道において苦に関する第四番目の真理を認識することを学んだ。 仏陀は、この中道の教説を苦に関する真理から独立したもの、あるいは並行するもの、否、それよりも前に位置するものとして取り扱っているが、その後再びこの真理を基盤にして中道を考えている。 この特殊な地位は、中道の教説が仏陀の教えの体系の中で果たすべき特殊の機能に対応するものである。 人はこの中道によって、ある意味において仏教徒となりはじめるのである。(中略) 人は八正道を離れて仏教徒となることは出来ない。(中略) 他面、八正道に従うことは、必ずしも仏教徒になることを意味しない。 この道を踏むことは単に思慮に富み、注意深くなることの前提にすぎない。 しかしながら、思慮と注意に富む者はだれでも心中において過去と未来の間に彷徨《ほうこう》することなく、現在にその立脚地をとるようになる。 現在に立脚地をとる者は、一切の事物が諸原因から生起するものであることに気づく。 そして一切の事物が諸原因より生起するものであることに気づく者には、外見上存在していると思われるものはすべて「縁起《えんぎ》」の中に溶かし込まれている。 しかしながら、これによって人はまだ仏道に到達したとはいえないのであって、単に無常観に到達したにすぎない。(中略) それでは「どのようにして仏教徒となることが出来るのか」という問題には、次のように答えることが出来るだろう。 仏教は一種の苦しい治療法のようなものであって、どんなに理屈の分かった人でも必要に迫られないかぎり、これをそのまま用いることは出来ない。 したがって仏教を必要とする者だけが仏教徒となることが出来る。 仏教を必要とする者とは、信仰する力を欠いている人であって、その欠如に気づいている人である。 このような人にとって宗教は必要物であって、信仰者にとっては宗教は恩恵である。 信仰のない者が宗教を探索するのは、あたかも病人が治療を求めるのと同じである。 このように信仰のない者にとっては仏教のほかに救済の道はない。 それ故、このような人において八正道は確立されるのである。 このような人において、自己を改善していく過程が始まり、発展していく。 その場合、知識は道徳とともに増大し、道徳は知識とともに増大する。 このようにして、われわれが仏教徒となる直接の原因は、われわれが八正道の要求に同意し、それに従うことであることが分かる。(中略) 一切の極端を排除する真の中道の法則は、苦の法則という機械に備えつけられた調節力のようなものである。 仏陀《ぶっだ》の教えには驚くべきものが多々あるが、この中道という法則の機能を導入したことは、おそらく最も驚嘆に値することだろう。 天才にしてはじめて、このようなことを成就出来る。 天賦《てんぷ》の天才にしてはじめて、矛盾と生命力のないものを全く含まないもの、すなわち生命を宿した教説を作ることが出来る。 苦の概念が仏陀の思想の中で形成され、それを包括する膨大な体系-これは必然的にその激烈な火炎によって破壊されてしまわなければならないもの-がこの中道の法則によってはじめて生命あるものとなる。 あるいは次のようにいうことが出来る。 地球がその表面に生命を維持出来るようになったのは十分に冷却してからのことであるが、それと同じように苦の概念が基となって作られたこの教説が人間の必要に応じ得るようになったのは中道によってであると。 しかしながら、地球は過度に冷却するときはかえって再び生命を維持することが出来なくなるように、仏陀の教えも苦の法則に対して中道の法則を過度に尊重するときは、再び効力のないものとなり実を結ばないものとなるだろう。 仏陀の教えは全体としてこれを見れば、無限なるもの、絶対的なるものを持たないが、その理想的状態は常に中道の法則と苦の法則が適切な相互作用を行うときに生じるのである。氷菓第話第6話
2017年10月14日
氷菓第4話で折木奉太郎が、45年前に関谷純が文化祭の開催期間で教師陣と対立し、退学したという仮説をたてる。宮沢賢治の友人、保阪嘉内は文集アザレアにロシア革命に賛同するような詩を載せて退学させられる場面を思い出した。「馬鹿旅行」も…親友が宮沢賢治の素顔を明かす2017.8.24 盛岡高等農林学校(現・岩手大)で詩人・童話作家の宮沢賢治(1896~1933)と同級生だった小菅健吉(1897~1977)が、68年に宮沢賢治研究会で講演したときの録音が初公開された。在学中に賢治らとともに文芸同人誌「アザリア」を立ち上げた親友が語る、賢治の素顔とは──。 民間団体「栃木・宮沢賢治の会」が6月3日、宇都宮市で開催したセミナー。そこで賢治の盟友・小菅健吉の貴重な肉声が初公開され、約130人の賢治ファンが耳を傾けた。 小菅は栃木県出身の教育者で、賢治とは盛岡高等農林学校の同級生である。賢治が文学活動を始める契機となった文芸同人誌「アザリア」を3年時の大正6(1917)年に仲間12~13人と創刊。俳句や短歌、短編、評論などが収められた同誌の巻頭言「初夏の思ひ出に」を任されたのが小菅(筆名・流るゝ子)だった。「初めに断っておきますが、当時、お互いを呼びあうときは賢治さん、あるいは宮沢さんと『さん』づけでしたが、今日は賢治と呼びます」 と前置きしてから録音テープの講演は始まった。「賢治は(学校に)入った時から級長で、2年、3年の時には特待生でした。クラスで問題が起こると、先生との折衝とか嫌な顔もしないで私たちのわがままな要求を先生の所へ持って行ってくれました」 頼りがいがある一方、孤独な面もあったという。「賢治は法華経に凝っておりまして、部屋で一人暗唱していることもありました」 そんな二人が意気投合したのが登山だった。賢治は土曜の授業が終わると、マントを持って一人、岩手山に向かった。ふもとの山小屋に泊まると朝から山に登って日曜日の夜に帰ってきた。それを繰り返していると聞き、同じ趣味を持つ小菅も姫神山や七ツ森などを一緒に歩くようになった。「アザリアのメンバーが集まって発行の会を開いたときは、夜遅くにこれから歩こうじゃないかと、賢治と河本義行君、保阪嘉内君、それと私の4人で出かけて、ホトトギスの鳴く雫石、あるいは小岩井農場あたりを夜通し歩いて帰ってきたこともありました。山の中を懐中電灯で照らしながら大声を出してお互いを呼びあい、真っ暗な山の中を歩いていったのが今更のように思い起こされます」夜中まで雑誌に掲載する作品の選定、批評などで激しい意見交換をしたのだろう。高揚した気持ちを抑えきれず山登りに出かけた、この4人がアザリアの中心メンバーで、これを「馬鹿旅行」と呼び、道中を俳句や短歌で詠んだ。 セミナーにはパネリストとして賢治の実弟の孫・和樹氏、アザリアのメンバー潮田豊の子息・悦穂氏、小菅の子息・充氏に加え、宮沢賢治研究家の杉田英生氏も壇上に並んだ。録音テープは杉田氏が提供した。「宇都宮の会員の方々が熱心で、何か協力できないかと。それで地元出身である小菅さんの肉声を出そうと思ったんです」 人前で賢治について語らなかった小菅が昭和43(68)年に唯一参加した、宮沢賢治研究会の講演会で録音されたものだ。「私は肉声の録音があることすら知らなかった」という栃木・宮沢賢治の会・栗原俊明代表は、「公開の決定が直前で、チラシの段階ではプログラムになかった。会場で初めて肉声のことを知った研究会の方々も驚いていましたよ」 会場を訪れていた吉村昭記念文学館学芸員で小菅健吉研究家の深見美希氏は感動で涙があふれたという。「私が抱いていた小菅さんのイメージはストイックに厳しい創作活動をした方だと。ところが肉声からは、おおらかで仲間と表現しあい支えあう、青春を謳歌(おうか)する若者の姿が浮かんだ。まるで生身の小菅健吉が目の前に浮かんでくるような感動がありました」 小菅は盛岡高等農林学校卒業後、土壌細菌学研究のために渡米。大正15(26)年の帰国後は愛媛県や京都府に教諭として赴任。昭和24(49)年から郷里に戻り、定年後の同41(66)年まで教壇に立ち続けている。 実は、アザリアの中心メンバー4人で、この小菅の研究が一番遅れているのだ。 前出の深見氏がいう。「ほかの3人に比べると資料が少なくて、一番知られていない存在なんです」 理由を杉田氏が語る。「卒業してすぐアメリカに行ってしまったのもありますが、小菅さんが宇都宮にいることを会員が知らなかった。それが昭和41年、研究会で花巻の(賢治の実弟)清六さんに会いに行ったとき、宇都宮に小菅健吉さんがいると教えられたのがきっかけですね」8年におよぶアメリカ生活のため、手紙などの資料は限られる。加えて教員という職業からか、あまり表に出たがらない性格も影響したようだ。 こんなエピソードがある。「父の京都時代の同僚や教え子と今も文通しているけど、賢治の話は聞いたことがなかったというんです」 そういって小菅の子息で元栃木県副知事の充氏は首をひねると、こう続けた。「私は昭和15(40)年小学校入学ですが、2年生の時に映画『風の又三郎』を学校で見せられたんです。中身は覚えていなかったけど『お父さんの友達が原作を書いたんだよ』と教えられた。でも私自身、当時は賢治に興味がないから、それで終わり(笑)。それ以外、賢治について父と話した覚えはありません。今になってもっと話を聞いておけばよかったと思います」 それでも研究会の人には求められて話をした。たった一度とはいえ講演会にも参加している。なぜなのか。おそらく小菅にとって賢治は特別な存在で、同じ思いを持つ人にしか語りたくなかったのではないか。 大正15年に帰国した小菅は新婚旅行のついでに花巻の羅須地人協会に住む賢治を訪ねている。その時の様子を杉田氏がいう。「奥さんに聞いたら、賢治はどてらみたいなものを着て生活は厳しそうだったけど、まるで少年のように夢中になって小菅さんと話し込んでいたそうです」 昭和8(33)年に没する賢治の、小菅が見た最後の姿だった。 セミナーで公開された肉声は約20分。ラストに「雨ニモマケズ」を朗読した彼は、こう締めくくった。「これは賢治が描いた人間の理想像です。これに向かって賢治は精進し、励まし、近づこうとした。あるいはひとりでも多くの人がこういう人になりたい、ならせたいという念願を持っていたのではないかと思います。非常に地味でまじめで、縁の下の力持ちというようなことを自ら進んで実行し、一生をささげたものだと思っております。結論として賢治は詩人であり哲学者であり、宗教家で日蓮の信者であり行者であった。こう私は見ております」 友への思いが心に響く。※週刊朝日 2017年9月1日号氷菓第4話
2017年10月13日
[山崎育三郎]宮沢賢治の親友役でピアノ猛特訓 主演・鈴木亮平が「いとおしくてしょうがない」[2017/04/29] ミュージカル俳優の山崎育三郎さんが、鈴木亮平さん主演の連続ドラマ「宮沢賢治の食卓」(WOWOWプライム、6月17日スタート)で、主人公・宮沢賢治の親友の藤原嘉藤治役で出演することが、このほど明らかになった。嘉藤治は自由奔放な賢治に振り回されるが、のちに親友となる高校の音楽教師で、山崎さんは「今では親友・賢治役の亮平さんがいとおしくてしょうがないです。今回ピアノを弾くシーンがとても多く、芝居以外の時間はピアノの猛特訓でした。ピアノシーンも見どころです!」とアピールしている。 ドラマは、少年画報社の「思い出食堂」に掲載された魚乃目三太さんのマンガ「宮沢賢治の食卓」が原作。若かりしころの天真らんまんな宮沢賢治が主人公で、彼の愛した食やクラシック音楽を通して、家族や親しい人たちとの関わりを描く。大正10(1921)年、若き青年・宮沢賢治(鈴木さん)は実家を飛び出して東京で自活していたが、父からの電報で帰郷。久々に帰郷した賢治は打ち込むべきものを見つけられずにいたが、そんな中、東京で味わったコロッケを手作りし、それを家族と“分かち合う”ことから気づきを得る……というストーリー。 好きな音楽や文学を通じて次第に賢治に引かれていく小学校教員・櫻小路ヤス役を市川実日子さん、おっとりした性格で賢治を含む5人の子供たちを優しく見守る母・宮沢イチを神野三鈴さん、代々続く質屋を継いでほしいと思いながら作家を夢見る賢治を厳しく育てる父・宮沢政次郎を平田満さんが演じ、柳沢慎吾さん、おかやまはじめさん、竹財輝之助さん、井之脇海さん、犬飼直紀さんらも出演する。賢治の最愛の妹・トシ役は石橋杏奈さんが演じる。また、鈴木さんが“ヤング宮沢賢治”に扮(ふん)した姿が描かれたレトロ調のポスタービジュアルも公開された。 「宮沢賢治の食卓」は6月17日スタート。WOWOWプライムで毎週土曜午後10時に放送(第1話は無料放送)。
2017年05月01日
■松江 カイワレで、学会誌掲載 「雷の多い年は豊作になる」という言い伝えは本当か-。この疑問の解明に松江市の池田圭佑さん(18)が開星高校(同市)に在学中、カイワレダイコンと放電装置を使って取り組み、「雷を受けると植物は成長する」との実験結果をまとめた。この研究成果は学会誌に掲載され、専門家からも評価を受けた。(小林宏之) 池田さんは、校内にある実験用の放電装置で落雷と同様の状態を作り、カイワレダイコンの成長の様子を調べた。この結果、種子に50秒間放電してから育てると、放電しなかった種子に比べて成長が約2倍速かった。また、放電を5分間続けた水道水と、通常の水道水を使って栽培したカイワレダイコンの成長の違いをみたところ、放電した水で育てた方が通常の水に比べて芽の伸びが約2倍になった。 使った水を分析すると、放電した水は通常の水に比べ、窒素量が約1・5倍だった。窒素は肥料の3要素の一つとされることから、「放電で空気中の窒素が水に溶け込み、成長の違いに影響した」と結論づけた。 また、放電時間を50秒より長くすると発芽率や成長の度合いが下がったため、「それぞれの作物について適切な放電時間を突き止めれば、収穫サイクルの短縮などで生産量の向上につながる」と話している。 宮沢賢治が、農学校教員時代の授業で雷と作物の出来との関係に触れていたということを高校2年の時に本で読んだのがきっかけ。興味を持った池田さんは2年の冬から実験に取りかかり、プラズマ・核融合学会が主催する平成28年度の第14回高校生シンポジウム「科学とプラズマ」に応募した。昨年8月に九州大学で行われたシンポで発表し最優秀賞を獲得。研究成果が同学会誌に掲載された。池田さんは今月から大阪府内の大学に進学する。 京都大大学院エネルギー科学研究科の岸本泰明教授(プラズマ・核融合科学)は、種に直接放電することで成長が促進される原因は不明としながらも、「放電によって空気中の窒素が水に溶け込み、カイワレダイコンの成長が促進されたことを実験で突き止めた点は素晴らしい」と話している。教師宮沢賢治の授業 より「皆さん、神社などでよく見かけるしめ縄が何を意味しているのかを知っていますか?太いしめ縄の本体は雲、細かく下がっている藁は雨、ギザギザの紙は稲妻を表しているのです。なぜ、しめ縄が神社に奉納されているのかというと、それは豊かな実りを祈るためです。なぜなら、雨と雲と雷は豊作のために不可欠なのです。雲のあるところに雷が発生する。雷が空中の窒素を分解し、それを雨が地中に溶かし込むと、その土地は栄養分豊かな土地になるのです。すなわち、窒素は作物にとって重要な栄養素なのです。それでは、今からこのことを自分自身の目で確かめるために、皆で雷のよく落ちる名所である変電所に行きましょう」こういって、賢治は変電所に実際に生徒たちを連れて行き、「変電所の周りの田んぼには、今まで一度も肥料をやったことがないそうです。にもかかわらず、ここの稲はこのように穂もたわわに実り、肥料をやっているほかの田んぼの稲よりずっとたくさん収穫量があるのです。この事実は先ほど私が言ったことの裏付けになっています。窒素の重要性がわかりましたか」
2017年04月01日
<東北大>水色と青色区別30年前より増加2017年03月07日日本語を母語とする人は、他の言語を母語とする人と比較して水色と青色を明確に区別していることが、東北大電気通信研究所などの研究で分かった。多くの言語に共通する11の基本色(赤、緑、青、黄、紫、ピンク、茶、オレンジ、白、灰、黒)に加え、日本語では水色も基本色として言語化されていた。 研究グループは、20~30代の男女57人に330色の色見本(図)を示し、それぞれ何色かを聞いた。 統計手法で解析した結果、11の基本色に加え、水、肌、抹茶、黄土、えんじ、山吹、クリーム、紺の8色についても名称を区別して指摘する人が多かった。 特に水色は、ほぼ全員が青色とはっきり区別した。また、水色と青色を区別する人の割合は、同じ実験をした30年前に比べて増加していた。 東北大の栗木一郎准教授(視覚科学)は「日本語の色の言語表現は変化し続けていることが分かった」と話す。宮沢賢治〔冒頭欠〕たいエゴイストだ。たゞ神のみ名によるエゴイストだと、君はもう一遍、云って呉れ。さうでなくてさへ、俺の胸は裂けやうとする。純黒 俺の胸も裂けやうとする。おゝ。町はづれのたそがれの家で、顔のまっ赤な女が、一人で、せわしく飯をかき込んだ。それから、水色の汽車の窓の所で、瘠せた旅人が、青白い苹果にパクと噛みついた。俺は一人になる。君は此処から行かないで呉れ。〔〕蒼冷 ありがたう。判った。判ってゐるよ。けれども俺は快楽主義者だ。冷たい朝の空気製のビールを考へてゐる。枯草を詰めた木沓きぐつのダンスを懐かしく思ふのだ。〔〕純黒 俺だって、それは、君に劣らない。あの融け残った、霧の中の青い後光を有った栗の木や、明方あけがたの雲に冷たく熟うれた木莓や。それでも それでも。俺は豚の脂を食べやうと思ふ。俺の胸よ。強くなれ。お里さとの知れた少しの涙でしめされるな。強くなれ。蒼冷 俺は強くならうともしない。弱くならうともしない。すべては神のなるが如くになれ。〔以下原稿なし〕
2017年03月07日
朝ウォーキング248日目。朝4時半に家を出て、海へとウォーキング。きのう、勤務先からの帰りがけ、同僚と駅まで健康談義。「何か運動やっていますか?」「以前はジョギングもやったりしたけど、今はテレビを見ながら踏み台を昇り降りするくらいですね。」「踏み台って、どういうの。」「ホームセンターで木の踏み台が安くで売っていたので、それを買って。」「重いの?」「いや、軽いですよ。桐の木の踏み台なんで、テレビを観ながら運動できるんでいいですよ。」「ふーん、いいねえ。私も足をひきずったり、ちょっとした段差でつまづいたりしたことがあったけど、ゾンビ体操や体幹運動など太ももをあげる運動をするようになって、つまづいたり、ひっかけたりすることがなくなってきた。 年をとると、自分では足をあげたつもりでも、上っていなくてつまずいたり、ひっかけたりして転んで怪我をしたり、寝たきりになったりすることもあるから、毎日の運動に足をあげる運動を組み入れることは大切だよね。」海辺に出て、ウンパニ体操しながら、浜辺沿いに歩く。波の音もあり、すれ違う人もほとんどないので、大声を出しても平気なのだ。東の空はまだ明けやらず、三日月が出ている。三日月の左には 冬の大三角形右手には さそり座。ああ、さそり座を見ると、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出て来る さそり の歎き を思い出す。「お父さん斯(こ)う云ったのよ。 むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。 さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、 そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。 そのときさそりは斯(こ)う云ってお祈りしたというの、 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。 ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。 どうか神さま。私の心をごらん下さい。 こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。 そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
2017年02月21日
二次予選三日目、最終日 虹の向こうに 春の祭典 二度目にステージに立った風間塵は、観客の熱狂的な拍手にも、もはや全く動じていなかった。・・・・・ ドビューシーの練習曲、第一曲。 ・・・・・ ピアノ初心者の教則本で広く知られる「ツエルニー氏に倣(なら)って」というサブタイトルが示す通り、曲はピアノを始めたばかりの子供を連想させる、たどたどしい茶目っ気あるフレーズから始まる。しかし「ピアノのお稽古」は徐々に進化していく。 ・・・・・二曲目はバルトークの「ミクロコスモス」。バルトークの、どことなく土俗的な雰囲気の漂う、ジャズっぽい気まぐれなメロディも彼によく似合う。野性的というのか、動物的というのかー戸外で子どもが駆け回っているような演奏。 ・・・・・ バルトーク。彼のミクロコスモス。故郷の民族に伝わるメロディを愛し、研究に没頭した男。しかし、祖国を離れることを余儀なくされ、遠い異国の地で不遇のうちに生涯を閉じた、漂泊の男 ・・・・ごく静かに、風間塵の「春と修羅」は始まった。 まるで、前の曲、「ミクロコスモス」の続きのような、さりげない幕開け。曲も、至ってシンプルに展開される。日常生活。いつもの散歩道。窓を開け、一日が始まる。自然。人々の営みを包む、宇宙の理(ことわり)。当たり前にそこにあり、生活を満たしているもの。・・・・・そのイメージは、カデンツアに突入したとたん、一瞬にして打ち砕かれた。客席が凍りついた。風間塵の紡ぎだしたカデンツアは、すこぶる不条理なまでに残虐で、凶暴性を帯びていたのである。 聴いているのがつらい、胸に突き刺さる、おぞましく耳障りなトレモロ、執拗な低音部での和音。 甲高い悲鳴、低い地響き、荒れ狂う風。敵意を剥き出しにした、抗う術もない脅威。 これまでの、楽しげで、ナチュラルで、天衣無縫な演奏とは似ても似つかない、暴力的なカデンツア。・・・・ 自然は優しく人間を包んでくれているだけではない。むしろ、古来より人間を打ちのめし、常に絶滅の一歩手前まで人類を追いこんできたのだ。「春と修羅」 宮沢賢治も、それは嫌というほど知っていた。彼の住む東北は、彼の生きていた時代も自然災害続きだった。冷害に凶作、噴火に地震。 春と修羅 (mental sketch modified)心象のはひいろはがねからあけびのつるはくもにからまりのばらのやぶや腐植の湿地いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様(正午の管楽くわんがくよりもしげく 琥珀のかけらがそそぐとき)いかりのにがさまた青さ四月の気層のひかりの底を唾つばきし はぎしりゆききするおれはひとりの修羅なのだ(風景はなみだにゆすれ)砕ける雲の眼路めぢをかぎり れいろうの天の海には 聖玻璃せいはりの風が行き交ひ ZYPRESSEN 春のいちれつ くろぐろと光素エーテルを吸ひ その暗い脚並からは 天山の雪の稜さへひかるのに (かげろふの波と白い偏光) まことのことばはうしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ ああかがやきの四月の底を はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ (玉髄の雲がながれて どこで啼くその春の鳥) 日輪青くかげろへば 修羅は樹林に交響し 陥りくらむ天の椀から 黒い木の群落が延び その枝はかなしくしげり すべて二重の風景を 喪神の森の梢から ひらめいてとびたつからす (気層いよいよすみわたり ひのきもしんと天に立つころ)草地の黄金をすぎてくるものことなくひとのかたちのものけらをまとひおれを見るその農夫ほんたうにおれが見えるのかまばゆい気圏の海のそこに(かなしみは青々ふかく)ZYPRESSEN しづかにゆすれ鳥はまた青ぞらを截る(まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる)あたらしくそらに息つけばほの白く肺はちぢまり(このからだそらのみぢんにちらばれ)いてふのこずゑまたひかりZYPRESSEN いよいよ黒く雲の火ばなは降りそそぐ 四曲目はリスト。「二つの伝説」の第一曲、「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」 ・・・・・ 聖フランチェスコはカトリックの聖者。十二世紀から十三世紀にかけて実在した人物で、裕福な商人の家に生まれたが、財産をすべて捨てて野外に暮らし、小鳥や動物と会話ができたと言われている。この曲は、小鳥のさえずりやはばたきが写実的に表現され、小鳥と聖フランチェスコが対話をしているところを描いている。 会話しているー本当に、鳥と話している。・・・・・ 風間塵の二次予選の最後の曲は、ショパン、スケルツオ第三番、嬰ハ短調である。・・・・ イタリア語で「冗談」とか「いたずら」の意味を持つスケルツオだが、風間塵のスケルツオは飛び切りトリッキーだった。 鬼火 亜夜は一次と同じように、つかの間眩しそうな表情を浮かべ、それから視線を落とした。 指を鍵盤の上に落とす。 同時に、なにかずしんと重い負荷が舞台に掛かった、いきなり、ドラマティックなラフマニノフの世界が面を打つような激しさで、しかも巨大な姿で出現した。 「音の絵」作品39、第五曲目。アパッショナート変ホ短調。 二曲目は、リストの「超絶技巧練習曲集」のひとつ「鬼火」。 名前の通り、ちろちろと燃える青白い炎を思わせる、細かい音符がびっしりと並ぶ、難曲として知られる一曲である。・・・・ めまぐるしく動き回るたくさんの青い炎。浮かんでは消え、消えては現れ、ゆらゆらと上下し、時に大きく、時にしぼんで小さくなる。・・・・ 次は「春と修羅」。・・・・ 足元には、ざわざわと風に鳴る草原が続く。足の甲に触れる草を感じる。冷たく、ちょっと尖端が当たってチクチクと痛い。 どこからか風が渡ってきて、亜夜の髪を揺らし、ドレスの裾をはためかす。・・・・ 母なる大地。 どこまでも続く地平線。駆けて行く子どもたち。遠くで手を広げて待っている誰か。生きとし生ける者が歩いていく大地。・・・・亜夜は、あの凄まじい「修羅」に満ちた風間塵のカデンツアを聴いて、それに応えた。自然が繰り返す殺戮や暴力に対して、それらをも受け止め飲み込んでしまう大地を描いている。それでもなおかつ新たな生命を生み出し、はぐくむことのできる大地を。 有明起伏の雪はあかるい桃の漿しるをそそがれ青ぞらにとけのこる月はやさしく天に咽喉のどを鳴らしもいちど散乱のひかりを呑む (波羅僧羯諦ハラサムギヤテイ 菩提ボージユ 薩婆訶ソハカ)雲の信号あゝいゝな せいせいするな風が吹くし農具はぴかぴか光つてゐるし山はぼんやり岩頸がんけいだつて岩鐘がんしようだつてみんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ そのとき雲の信号は もう青白い春の 禁慾のそら高く掲かかげられてゐた山はぼんやりきつと四本杉には今夜は雁もおりてくる風景観察官あの林はあんまり緑青ろくしやうを盛もり過ぎたのだそれでも自然ならしかたないがまた多少プウルキインの現象にもよるやうだがも少しそらから橙黄線たうわうせんを送つてもらふやうにしたらどうだらうああ何といふいい精神だ株式取引所や議事堂でばかりフロツクコートは着られるものでないむしろこんな黄水晶シトリンの夕方にまつ青さをな稲の槍の間でホルスタインの群ぐんを指導するときよく適合し効果もある何といふいい精神だらうたとへそれが羊羹やうかんいろでぼろぼろであるいはすこし暑くもあらうがあんなまじめな直立や風景のなかの敬虔な人間をわたくしはいままで見たことがない高原海だべがど おら おもたればやつぱり光る山だたぢやいホウ髪毛かみけ 風吹けば鹿しし踊りだぢやいプログラム後半ラヴェルのソナチネ。どことなく古風な響きのする三楽章からなる曲を、亜夜は丁寧に弾いていく。最後の曲が始まった。メンデルスゾーンの「厳格なる変奏曲」。静かに始まり、さざなみが寄せては返す。やがて波は高まり、咆哮(こうこう)する。繰り返されるテーマ。坂巻く波のように、バリュエーションが繰り広げられる。・・・・・第二次予選は終わった。
2017年02月20日
蜜蜂と遠雷 恩田陸著目次第二次予選 は 193ページから310ページの117ページ全体の4分の1近くを占める課題は 1 ショパン、リスト、ドビュッシー、スクリャービン、ラフマニノフ、バルトーク、ストラヴィンスキーの練習曲から異なる作曲家のもので二曲。2 シューベルト、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リスト、ブラームス、フランク、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーの曲から一曲ないし数曲3 芳ケ江国際ピアノコンクールのための委嘱作品、菱沼忠明の「春と修羅」。ここは、宮沢賢治の世界の解釈がぶつかりあう章である。宮沢賢治は、日本語の世界に科学用語を持ち込み、音楽性を与え、新たなる魅力を与えた。日本語の世界は、宮沢賢治を持ち得たことを世界への誇りとする。日本語は子音と母音が常に結合し、子音だけの音の世界が持ちにくい特殊な言語体系である。表情筋を使うことが少ない言語であり、いわゆる音楽的な表現には向かないように想える。「蜜蜂と遠雷」は、言語で音楽の世界をいかに表現できるかを問うものでもある。表紙みかえしに「ユウジ・フォン=ホフマン」の「推薦状」が載る。 皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。 文字通り、彼は『ギフト』である。 恐らくは、天から我々への。 だが、勘違いしてはいけない。 試されているのは彼ではなく、私であり、皆さんなのだ。 彼を『体験』すればお分かりになるだろうが、彼は決して甘い恩寵(おんちょう)などではない。彼は劇薬なのだ。中には彼を嫌悪し、憎悪し、拒絶する者もいるだろう。しかし、それもまた彼の真実であり、彼を『体験』する者の中にある真実なのだ。 彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのか、皆さん、いや、我々にかかっている。 ユウジ・フォン=ホフマンこれは実はこの本の読者と作者にかかっている。この本を 「『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのか、皆さん、いや、我々にかかっている。」 『災厄』というのは、オーバーだが、この本を読んで、音楽の世界が感じられ、読者の意識を文字の外に連れ出せるかの、読み手の、そして作者のチャレンジにほかならない。「聴きなさい、と先生は言った。 世界は音楽に溢れている。 聴きなさい、(読者よ)。耳を澄ませなさい。世界に溢れている音楽を聴けるものだけが、自分の音楽をも産み出せるのだから。」 あなたは、世界に溢れている音楽を聴けますか?そして自分の世界をも産み出せますか?そう作者は読者にも呼び掛ける。 ああ、宮沢賢治、まさに日本語の世界における 天から我々日本語を母語とする者への『ギフト』そのものである。第二次予選の目次 魔法使いの弟子 ジェニファ・チャンの演奏ーチャンの演奏も「春と修羅」から始まっていた。 黒鍵のエチュード 高島明石の演奏 ありがとうございます。僕をここに立たせてくれて、本当にありがとう。 ・・・・・・ 何か月も掛けて曲を仕上げても、少しあいだを空ければ人間は忘れてしまう。さらうのに最初の時ほどは時間が掛からなくなったとしても、弾きこんでいないと説得力のある演奏はできない。 ・・・・・・ うん、そうだ、カデンツアはあの台詞をメロディの乗せよう。 パッとそう閃いた。 あめゆじゅとてちてけんじゃ。 あめゆじゅとてちてけんじゃ。 賢治が死にゆく妹を詠(うた)った「永訣の朝」の中のひときわ印象的な妹の言葉。高熱に苦しむトシが雪を取ってきて食べさせてくれと賢治に頼んだ台詞。あまりに痛切だが、同時にとてもリズミカルで音楽的な言葉だ。 ・・・・・・一曲目、「春と修羅」・・・・・次はショパンのエチュードだ。通称、黒鍵のエチュード。 もはや、手に馴染んだ、手が音の形に自然になってしまうほどの曲。 指が、滑るように動く。 ・・・・・・続いて、リストの練習曲。パガニーニのテーマを使った、パガニーニの大練習曲の第六曲、主題と変奏だ。・・・・・・次はシューマンのアラベスク。派手なパガニーニの大練習曲のあとに、一休みだ。 けれど、アラベスクはとても難しい曲だ。シンプルなだけに、ごまかしがきかない。・・・・・・ いよいよ最後の曲。 ストラヴィンスキー、ペトリューシュカからの三楽章。 ここは思い切り華やかな導入だ。ぱっきりと鐘の音のように、硬質な音を響かせよう グリサンドは、鋭くそれでいてなめらかに。 色彩ゆたかでトリッキーに。 ロンド・カプリチオーソ 聴きなさい、と先生は言った。 世界は音楽に溢れている。 聴きなさい、塵。耳を澄ませなさい。世界に溢れている音楽を聴けるものだけが、自分の音楽をも産み出せるのだから。・・・・ 音に浸るー身体に染み渡っていくー音楽を呼吸するー吐き出すー何かを加えて、身体から押し出すーこうして過ごしていると、時間の感覚がなくなり、心はいつもどこかに飛んでいる。・・・・・ 音楽は常に「現在」でなければならない。・・・・・ アメユジュトテチテケンジャー 驚くべきことに少年は高島明石が宮澤賢治の詩を取り入れたフレーズの発音まで聞き取っていたのだった。・・・・・ よし、塵、おまえが連れ出してやれ。・・・・・ ただし、とても難しいぞ。本当の意味で、音楽を外へ連れ出すのはとても難しい。私の言ってることは分かるな?音楽を閉じ込めているのは、ホールや教会じゃない、人々の意識だ。綺麗な景色の屋外に連れ出した程度では、「本当に」音を連れ出したことにはならない。解放したことにはならない。 音の絵 ワルキューレの騎行「春と修羅」の続きのように、ラフマニノフの練習曲、作品39の第六曲が始まる。 闇の中で何かが蠢(うごめ)くような、低く、不穏な始まり。 徐々に動きが起こり、緊張感のあるトレモロが闇を穿(うが)つ。 深い闇を感じさせた一曲目から、二曲目で徐々に明るく、開けたところへ出ていくような雰囲気を出している。 そして三曲目のドビュッシーの練習曲、「オクターブのために」で、一気に開けたところに出る。 マサルの持つダイナミックさが、ドビュッシーの曲の独特なスケール感とあいまって、感動的なまでに表現される。 更に、ギアチェンジが為されたまま、最終曲のブラームスの変奏曲へ。 パガニーニのテーマが「満を持して」堂々と提示され、がっぷり四つに組んだまま変幻自在に料理されていく。 (続く)
2017年02月17日
虐待50年、解放されたゾウが「涙」 インド2014.07.13インド北部マトゥラー(CNN) インドで50年間も鎖につながれ、虐待を受けてきた1頭のゾウが助け出された。この時ゾウが涙を流したとされる場面のビデオが、インターネット上で大きな話題を呼んでいる。このゾウは、野生動物の救助活動に取り組む団体、ワイルドライフSOSが今月4日、北部ウッタルプラデシュ州アラハバードで解放した「ラジュ」。チームが到着すると、目から「液体」があふれ、両方のほおを流れ落ちたという。同団体の幹部は「私たちも深く感動した。ゾウがあんな風に泣く姿は見たことがない」と振り返る。ビデオは3日後に動画共有サイト「ユーチューブ」に掲載され、閲覧回数はすでに100万回を超えた。救出には、野生生物の専門家10人と当局の職員30人のチームで8時間かかった。ラジュは太いとげのついた足かせをはめられ、栄養失調に陥っていた。足かせを外された後、今度はうれし泣きのような涙を流したという。宮沢賢治の「オッベルと象」という作品に、最初は無邪気で人助けな大好きな気のいい象が、オッベルという悪賢い人間にこきつかわれて奴隷状態で働かされる場面が出て来る。最後は仲間の象に救出される。これは 人間社会の寓意をこめたものかと思っていたのだが、実は 人間対家畜動物(馬や牛など)にもあてはまる普遍的なテーマだということがこのニュース記事をみてわかる。札幌農学校二期生の 広井勇は幼い頃、東京の叔父の家に厄介となったが、その家の男の子にこきつかわれ、煙草の火を掌に押し付けられてヤケドし、それでもその家の人に訴えることもせずに我慢したりした。非常に辛い少年時代を送った。そこから脱出するために懸命に学び、授業料が無償の工科大学や札幌農学校へと進学する。広井は卒業後、新渡戸稲造に「ズル」とか「ズルッコ」とか言われるほど、金銭面について金を出すのを惜しみ、それをひそかに貯えて同期生のうちでアメリカ留学(ミシシッピー河改修工事に従事した)に一番乗りして同窓生を驚かす。アメリカでも働きつつ勉学する生活を続け、札幌農学校の教員として採用され、ドイツ留学を命ぜられる。そうしたひたすらに真面目で勤勉な態度に新渡戸や内村は一種畏敬の念を持つようになる。広井は札幌農学校教授時代、自宅の前で、馬子が馬を虐待するのを見ると、非常に憤慨して家を飛び出して馬子を説教したという。自らの辛い体験が動物への虐待をも許しておけなかったのであろう。オツベルと象宮沢賢治+目次 ……ある牛飼うしかいがものがたる第一日曜 オツベルときたら大したもんだ。稲扱いねこき器械の六台も据すえつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。 十六人の百姓ひゃくしょうどもが、顔をまるっきりまっ赤にして足で踏ふんで器械をまわし、小山のように積まれた稲を片っぱしから扱こいて行く。藁わらはどんどんうしろの方へ投げられて、また新らしい山になる。そこらは、籾もみや藁から発たったこまかな塵ちりで、変にぼうっと黄いろになり、まるで沙漠さばくのけむりのようだ。 そのうすくらい仕事場を、オツベルは、大きな琥珀こはくのパイプをくわえ、吹殻ふきがらを藁に落さないよう、眼めを細くして気をつけながら、両手を背中に組みあわせて、ぶらぶら往いったり来たりする。 小屋はずいぶん頑丈がんじょうで、学校ぐらいもあるのだが、何せ新式稲扱器械が、六台もそろってまわってるから、のんのんのんのんふるうのだ。中にはいるとそのために、すっかり腹が空すくほどだ。そしてじっさいオツベルは、そいつで上手に腹をへらし、ひるめしどきには、六寸ぐらいのビフテキだの、雑巾ぞうきんほどあるオムレツの、ほくほくしたのをたべるのだ。 とにかく、そうして、のんのんのんのんやっていた。 そしたらそこへどういうわけか、その、白象がやって来た。白い象だぜ、ペンキを塗ぬったのでないぜ。どういうわけで来たかって? そいつは象のことだから、たぶんぶらっと森を出て、ただなにとなく来たのだろう。 そいつが小屋の入口に、ゆっくり顔を出したとき、百姓どもはぎょっとした。なぜぎょっとした? よくきくねえ、何をしだすか知れないじゃないか。かかり合っては大へんだから、どいつもみな、いっしょうけんめい、じぶんの稲を扱いていた。 ところがそのときオツベルは、ならんだ器械のうしろの方で、ポケットに手を入れながら、ちらっと鋭するどく象を見た。それからすばやく下を向き、何でもないというふうで、いままでどおり往ったり来たりしていたもんだ。 するとこんどは白象が、片脚かたあし床ゆかにあげたのだ。百姓どもはぎょっとした。それでも仕事が忙いそがしいし、かかり合ってはひどいから、そっちを見ずに、やっぱり稲を扱いていた。 オツベルは奥おくのうすくらいところで両手をポケットから出して、も一度ちらっと象を見た。それからいかにも退屈たいくつそうに、わざと大きなあくびをして、両手を頭のうしろに組んで、行ったり来たりやっていた。ところが象が威勢いせいよく、前肢まえあし二つつきだして、小屋にあがって来ようとする。百姓どもはぎくっとし、オツベルもすこしぎょっとして、大きな琥珀のパイプから、ふっとけむりをはきだした。それでもやっぱりしらないふうで、ゆっくりそこらをあるいていた。 そしたらとうとう、象がのこのこ上って来た。そして器械の前のとこを、呑気のんきにあるきはじめたのだ。 ところが何せ、器械はひどく廻まわっていて、籾もみは夕立か霰あられのように、パチパチ象にあたるのだ。象はいかにもうるさいらしく、小さなその眼を細めていたが、またよく見ると、たしかに少しわらっていた。 オツベルはやっと覚悟かくごをきめて、稲扱いねこき器械の前に出て、象に話をしようとしたが、そのとき象が、とてもきれいな、鶯うぐいすみたいないい声で、こんな文句を云いったのだ。「ああ、だめだ。あんまりせわしく、砂がわたしの歯にあたる。」 まったく籾は、パチパチパチパチ歯にあたり、またまっ白な頭や首にぶっつかる。 さあ、オツベルは命懸いのちがけだ。パイプを右手にもち直し、度胸を据えて斯こう云った。「どうだい、此処ここは面白おもしろいかい。」「面白いねえ。」象がからだを斜ななめにして、眼を細くして返事した。「ずうっとこっちに居たらどうだい。」 百姓どもははっとして、息を殺して象を見た。オツベルは云ってしまってから、にわかにがたがた顫ふるえ出す。ところが象はけろりとして「居てもいいよ。」と答えたもんだ。「そうか。それではそうしよう。そういうことにしようじゃないか。」オツベルが顔をくしゃくしゃにして、まっ赤になって悦よろこびながらそう云った。 どうだ、そうしてこの象は、もうオツベルの財産だ。いまに見たまえ、オツベルは、あの白象を、はたらかせるか、サーカス団に売りとばすか、どっちにしても万円以上もうけるぜ。第二日曜 オツベルときたら大したもんだ。それにこの前稲扱小屋で、うまく自分のものにした、象もじっさい大したもんだ。力も二十馬力もある。第一みかけがまっ白で、牙きばはぜんたいきれいな象牙ぞうげでできている。皮も全体、立派で丈夫じょうぶな象皮なのだ。そしてずいぶんはたらくもんだ。けれどもそんなに稼かせぐのも、やっぱり主人が偉えらいのだ。「おい、お前は時計は要いらないか。」丸太で建てたその象小屋の前に来て、オツベルは琥珀のパイプをくわえ、顔をしかめて斯う訊きいた。「ぼくは時計は要らないよ。」象がわらって返事した。「まあ持って見ろ、いいもんだ。」斯う言いながらオツベルは、ブリキでこさえた大きな時計を、象の首からぶらさげた。「なかなかいいね。」象も云う。「鎖くさりもなくちゃだめだろう。」オツベルときたら、百キロもある鎖をさ、その前肢にくっつけた。「うん、なかなか鎖はいいね。」三あし歩いて象がいう。「靴くつをはいたらどうだろう。」「ぼくは靴などはかないよ。」「まあはいてみろ、いいもんだ。」オツベルは顔をしかめながら、赤い張子の大きな靴を、象のうしろのかかとにはめた。「なかなかいいね。」象も云う。「靴に飾かざりをつけなくちゃ。」オツベルはもう大急ぎで、四百キロある分銅を靴の上から、穿はめ込んだ。「うん、なかなかいいね。」象は二あし歩いてみて、さもうれしそうにそう云った。 次の日、ブリキの大きな時計と、やくざな紙の靴とはやぶけ、象は鎖と分銅だけで、大よろこびであるいて居おった。「済まないが税金も高いから、今日はすこうし、川から水を汲くんでくれ。」オツベルは両手をうしろで組んで、顔をしかめて象に云う。「ああ、ぼく水を汲んで来よう。もう何ばいでも汲んでやるよ。」 象は眼を細くしてよろこんで、そのひるすぎに五十だけ、川から水を汲んで来た。そして菜っ葉の畑にかけた。 夕方象は小屋に居て、十把ぱの藁わらをたべながら、西の三日の月を見て、「ああ、稼かせぐのは愉快ゆかいだねえ、さっぱりするねえ」と云っていた。「済まないが税金がまたあがる。今日は少うし森から、たきぎを運んでくれ」オツベルは房ふさのついた赤い帽子ぼうしをかぶり、両手をかくしにつっ込んで、次の日象にそう言った。「ああ、ぼくたきぎを持って来よう。いい天気だねえ。ぼくはぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらってこう言った。 オツベルは少しぎょっとして、パイプを手からあぶなく落としそうにしたがもうあのときは、象がいかにも愉快なふうで、ゆっくりあるきだしたので、また安心してパイプをくわえ、小さな咳せきを一つして、百姓どもの仕事の方を見に行った。 そのひるすぎの半日に、象は九百把たきぎを運び、眼を細くしてよろこんだ。 晩方象は小屋に居て、八把の藁をたべながら、西の四日の月を見て「ああ、せいせいした。サンタマリア」と斯こうひとりごとしたそうだ。 その次の日だ、「済まないが、税金が五倍になった、今日は少うし鍛冶場かじばへ行って、炭火を吹ふいてくれないか」「ああ、吹いてやろう。本気でやったら、ぼく、もう、息で、石もなげとばせるよ」 オツベルはまたどきっとしたが、気を落ち付けてわらっていた。 象はのそのそ鍛冶場へ行って、べたんと肢を折って座すわり、ふいごの代りに半日炭を吹いたのだ。 その晩、象は象小屋で、七把わの藁をたべながら、空の五日の月を見て「ああ、つかれたな、うれしいな、サンタマリア」と斯う言った。 どうだ、そうして次の日から、象は朝からかせぐのだ。藁も昨日はただ五把だ。よくまあ、五把の藁などで、あんな力がでるもんだ。 じっさい象はけいざいだよ。それというのもオツベルが、頭がよくてえらいためだ。オツベルときたら大したもんさ。第五日曜 オツベルかね、そのオツベルは、おれも云おうとしてたんだが、居なくなったよ。 まあ落ちついてききたまえ。前にはなしたあの象を、オツベルはすこしひどくし過ぎた。しかたがだんだんひどくなったから、象がなかなか笑わなくなった。時には赤い竜りゅうの眼をして、じっとこんなにオツベルを見おろすようになってきた。 ある晩象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰あおぎ見て、「苦しいです。サンタマリア。」と云ったということだ。 こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。 ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒たおれて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、「もう、さようなら、サンタマリア。」と斯う言った。「おや、何だって? さよならだ?」月が俄にわかに象に訊きく。「ええ、さよならです。サンタマリア。」「何だい、なりばかり大きくて、からっきし意気地いくじのないやつだなあ。仲間へ手紙を書いたらいいや。」月がわらって斯う云った。「お筆も紙もありませんよう。」象は細ういきれいな声で、しくしくしくしく泣き出した。「そら、これでしょう。」すぐ眼の前で、可愛かあいい子どもの声がした。象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯すずりと紙を捧ささげていた。象は早速手紙を書いた。「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」 童子はすぐに手紙をもって、林の方へあるいて行った。 赤衣せきいの童子が、そうして山に着いたのは、ちょうどひるめしごろだった。このとき山の象どもは、沙羅樹さらじゅの下のくらがりで、碁ごなどをやっていたのだが、額をあつめてこれを見た。「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出てきて助けてくれ。」 象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠ほえだした。「オツベルをやっつけよう」議長の象が高く叫さけぶと、「おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。」みんながいちどに呼応する。 さあ、もうみんな、嵐あらしのように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。どいつもみんなきちがいだ。小さな木などは根こぎになり、藪やぶや何かもめちゃめちゃだ。グワア グワア グワア グワア、花火みたいに野原の中へ飛び出した。それから、何の、走って、走って、とうとう向うの青くかすんだ野原のはてに、オツベルの邸やしきの黄いろな屋根を見附みつけると、象はいちどに噴火ふんかした。 グララアガア、グララアガア。その時はちょうど一時半、オツベルは皮の寝台しんだいの上でひるねのさかりで、烏からすの夢ゆめを見ていたもんだ。あまり大きな音なので、オツベルの家の百姓どもが、門から少し外へ出て、小手をかざして向うを見た。林のような象だろう。汽車より早くやってくる。さあ、まるっきり、血の気も失せてかけ込こんで、「旦那だんなあ、象です。押し寄せやした。旦那あ、象です。」と声をかぎりに叫んだもんだ。 ところがオツベルはやっぱりえらい。眼をぱっちりとあいたときは、もう何もかもわかっていた。「おい、象のやつは小屋にいるのか。居る? 居る? 居るのか。よし、戸をしめろ。戸をしめるんだよ。早く象小屋の戸をしめるんだ。ようし、早く丸太を持って来い。とじこめちまえ、畜生ちくしょうめじたばたしやがるな、丸太をそこへしばりつけろ。何ができるもんか。わざと力を減らしてあるんだ。ようし、もう五六本持って来い。さあ、大丈夫だ。大丈夫だとも。あわてるなったら。おい、みんな、こんどは門だ。門をしめろ。かんぬきをかえ。つっぱり。つっぱり。そうだ。おい、みんな心配するなったら。しっかりしろよ。」オツベルはもう支度したくができて、ラッパみたいないい声で、百姓どもをはげました。ところがどうして、百姓どもは気が気じゃない。こんな主人に巻き添ぞいなんぞ食いたくないから、みんなタオルやはんけちや、よごれたような白いようなものを、ぐるぐる腕うでに巻きつける。降参をするしるしなのだ。 オツベルはいよいよやっきとなって、そこらあたりをかけまわる。オツベルの犬も気が立って、火のつくように吠ほえながら、やしきの中をはせまわる。 間もなく地面はぐらぐらとゆられ、そこらはばしゃばしゃくらくなり、象はやしきをとりまいた。グララアガア、グララアガア、その恐おそろしいさわぎの中から、「今助けるから安心しろよ。」やさしい声もきこえてくる。「ありがとう。よく来てくれて、ほんとに僕ぼくはうれしいよ。」象小屋からも声がする。さあ、そうすると、まわりの象は、一そうひどく、グララアガア、グララアガア、塀へいのまわりをぐるぐる走っているらしく、度々中から、怒おこってふりまわす鼻も見える。けれども塀はセメントで、中には鉄も入っているから、なかなか象もこわせない。塀の中にはオツベルが、たった一人で叫んでいる。百姓どもは眼もくらみ、そこらをうろうろするだけだ。そのうち外の象どもは、仲間のからだを台にして、いよいよ塀を越こしかかる。だんだんにゅうと顔を出す。その皺しわくちゃで灰いろの、大きな顔を見あげたとき、オツベルの犬は気絶した。さあ、オツベルは射うちだした。六連発のピストルさ。ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ところが弾丸たまは通らない。牙きばにあたればはねかえる。一疋ぴきなぞは斯こう言った。「なかなかこいつはうるさいねえ。ぱちぱち顔へあたるんだ。」 オツベルはいつかどこかで、こんな文句をきいたようだと思いながら、ケースを帯からつめかえた。そのうち、象の片脚が、塀からこっちへはみ出した。それからも一つはみ出した。五匹の象が一ぺんに、塀からどっと落ちて来た。オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰つぶれていた。早くも門があいていて、グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。「牢ろうはどこだ。」みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へん瘠やせて小屋を出た。「まあ、よかったねやせたねえ。」みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。 おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。
2016年09月06日
「白線流し見ました・・・」と職場の隣の人に言われた。「えっ、DVDで?」「ユーテューブで見ました。今でも結構売れてる俳優さんが出ているんですね・・・」きのう、スピッツの「空も飛べるはず」は、「白線流しの主題歌だったんだよ」と、ひとしきり話題にしたところだった。「あれ、 微熱 という題名じゃなかったんですか?」「ふふ、歌詞に微熱って出てくるしね、たしかに 青春の微熱 がテーマかもしれないね・・・」「長瀬智也と酒井美紀が主役なんですね・・・」「そう、定時制併置の高校で、酒井美紀扮する全日制の女子高校生が忘れ物をとりに教室に戻ろうとすると、定時制に通う長瀬智也とぶつかって、それをきっかけに淡い恋模様になっていく松本の雄大な自然を背景に結構人気があったドラマだよね。長瀬は天文学が趣味で、そこでさそり座から宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の さそり の話をするのが印象的でね、」「・・・」「ある荒野にさそりがいてね、いたちに食べられそうになって、必至に逃げる・・・ところが古井戸があってね、そこに落っこちってしまう。そこで、さそりはこう思う。ああ、こんなことで虚しく死んでしまうのだったら、いたちに食べられてしまえばよかった、そうすれば他のものの役にたったのに。ああ、神様、今度生まれ変わるときには、こんなに虚しく生きて死ぬのではなくて、どうか世の中の役に立つようにさせてください と心から願った。 神様はさそりのその願をあわれにまた感心に思われて、天上にあげて さそり座としたもうた」「なにか、いかにも宮沢賢治らしい話ですね・・・」「宮沢賢治の詩に 永訣の朝 というのがあって、妹さんの死を悼んで読んだ歌なんだけど、そのなかで妹が最後にいう。 ああこんなに自分のことばかりではなく、今度生まれてくるときには人のために生きれるように生まれてくる!」(ああ、私たちはあるいは、前世で死ぬときに、さそりや賢治の妹のように 願いをもって この世界に生れてきたのかもしれない。 ああ、神様、今度生まれるときには、もっと人のために 世の中の役にたつのように 生まれてきます と。 そうした願いを使命をもって生まれてきたのならば たった一つでも 誠実につとめを果たしてしにたいものだと思う 今度生まれるときには・・・・・ではなく ああ、ありがとうございました、お父さん、お母さん、皆さんのおかげで十二分に使命を果たすことができました、感謝します)お父さんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍(さそり)がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけど、とうとういたちに押えられそうになったわ。そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ。もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言ってお祈りしたというの。 ああ、わたしはいままで、いくつのものの命をとったかわからない。そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかいください。って言ったというの。 そしたらいつか蠍(さそり)はじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって燃えて、よるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。
2016年06月15日
きぬうは豪雨のために朝のウォーキングができなかった。浜辺に立つと、雨で空気中の浮遊物が洗い流されたせいか、海の向こうに大島が見えた、こんなにもはっきりと近くに大きく見えることはめったにないことである。宮沢賢治は、伊豆の大島に農業指導のために渡ったことがある。それは実はある女性とのみあいも兼ねていたようで、賢治はその女性に惹かれるのであるが、結局告白することもなく、詩のなかに淡い恋心を封じ込めた。宮沢賢治 きみにならびて野に立てば 風きらゝかに吹ききたり 柏ばやしをとゞろかし 枯れ葉を雪にまろばしぬ 峯の火口にたたなびき 北面に藍の影置ける 雪のけぶりはひとひらの 火とも雲とも見ゆるなれ 「さびしや風のさなかにも 鳥はその巣を繕はんに ひとはつれなく瞳澄みて 山のみ見る」ときみは云ふ あゝさにあらずかの青く かゞやきわたす天にして まこと恋するひとびとの とはの国をば思へるを
2016年06月14日
2016.6.12 「チャグチャグ馬コ」鈴の音鳴らし練り歩き 岩手国の無形民俗文化財で、みちのくの初夏の風物詩「チャグチャグ馬コ」が11日開かれ、美しく着飾った農耕馬73頭が滝沢市の鬼越蒼前神社から盛岡市の盛岡八幡宮まで約13キロを練り歩いた。 好天に恵まれ、雄大な姿を現わした岩手山をバックに馬の行列は神社近くのあぜ道を進み、街中の沿道に詰めかけた市民、県内外からの観光客の前を「チャグチャグ」の鈴の音を鳴らしながら練り歩いた。 盛岡市在住の歌手、福田こうへいさんの大ファンで馬好きが高じて夫婦で初めてやってきたという三重県伊賀市の主婦、小石美栄子さん(65)は「本当に癒やされました。馬はとてもきれいで、大きいのにびっくりしました」とカメラ片手に笑顔で話していた。ちやんがちやがうまこ 宮 澤 賢 治 夜明げにはまだ間あるのに下のはしちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。ほんのぴゃこ夜明げがゞった雲のいろちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。いしょけめにちゃがちゃがうまこはせでげば夜明げの為が泣くだぁぃよな氣もす。下のはしちゃがちゃがうまこ見さ出はたみんなのながさおどともまざり。
2016年06月12日
全150件 (150件中 1-50件目)