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『二宮金次郎』の再上映決定5月から小田原市民会館で地元の偉人である二宮尊徳の生涯を描いた映画『二宮金次郎』が、5月3日(金)から小田原市民会館で再上映されることが決まった。 1月に同館で先行上映会が開催されて以降、アンコールの要望が高まっていたことを受けて同製作委員会が企画した。8月10日(土)までに全10回上映される予定=表=で、「小田原市民の10人に1人が観た!」映画にしようと、期間中に1万人の動員を目標にするという。 チケットは大人1300円、中学生以下700円。ハルネ小田原、万葉の湯、伊勢治書店ダイナシティ店、ローソンチケット等で販売中。
2019年03月17日
「巡拝記にみる四国遍路」167ページ鍵田忠三郎のケース鍵田は後に奈良市長になり、鎌田の四国遍路はひろく世に知られ、その壮絶な遍路は広く共感を呼んだ。鍵田は39歳の、昭和36年に遍路を敢行した。心臓肥大、肺湿潤、すい臓のはれ、痔瘻(じろう)を抱え、医者から余命2か月と宣告されていた。当時、鍵田は近畿日本鉄道系列の子会社4つの社長で、3人の小さい子の父でもあった。『遍路日記 乞食行脚三百里』は『奈良日日新聞』に五十五回にわたって連載されて大きな評判をよんだ。池田隼人(当時総理大臣)が序文を寄せた。池田も原因不明の皮膚病を患い、大蔵省を退職し四国遍路に出たことがある。鍵田が四国遍路に出た理由は病気平癒の目的のほか「いっさい社会のため、いっさい他人のための行動でなければならない」という課題をもって旅に出た。昭和十七年の19歳のとき、鍵田は曹洞宗の寺院で得度している。「四国行脚は乞食行であるが、いっさいを布施行にせねばならぬ」と札所に収める札は奈良・大安寺の河野住職に書いてもらったものを印刷してそれを納めてまわった。同行者に河原淳悟が自ら進んで申し出た。鍵田はいったん断ったが「いっしょに死んでやろう」という河原の親切に泣いて了承した。河原は医者から万一のためにと鍵田の主治医から薬を預かっていた。昭和36年3月12日夕方、鍵田と河原は遍路に出た。「仏者として十重禁戒は厳守する。般若心経を一千巻唱える、朝は勤行し般若心経、大悲円満経、修証義を唱える、夜も勤行してから休む、精進料理以外食べない」など課題にあげ、道標の建立や堂宇建設に寄付するなど布施行を行うことを決意していた。ところが遍路は決意とはうらはらに最初肉体的苦痛との闘いだった。第4番では「病身のうえに昨夜の不眠と雨に濡れたためだいぶ疲れ、途中の峠では呼吸が困難になり息苦しく、休み休み歩く。先が思いやられる」と弱音をはき、「とても今の状況では他人様の教化など覚束ない」と宿について反省もした。第10番切幡寺では「石段333段あり、息切れし、病身の体力としては限界点に達す。・・・・・杖にすがり、やっと登りきる」「吉野川の北側の上(切幡寺)から大きな吉野川を渡り、南側の山の上(11番藤井寺)まで2里20町であり、相当に疲れる。二人とも声なく、ただ杖の音といっしょに歩くのみ。三日坊主という言葉を思う。ほんと三日目の坊主修業はだいぶ疲れた。脚ひきずって山の中腹の藤井寺(大師開創)に到着し拝む。脚はほとんどもう動かず。今日はもう五里歩いたか」難所の12番焼山寺を下って13番大日寺に向かう時「焼山寺越えの疲れもあり、体力ついに限界点に達する」「いよいよ脚は言うことをきかない」「足が『がくん、がくん』と進まない」と記した。
2019年02月21日
山口県長門市の伊藤延一氏は郵便局長を務めていたが、定年前に退職し、亡き妻の供養のため四国遍路に出かけた(「巡拝記にみる四国遍路」116ページ)伊藤氏は俳人大山澄太(山頭火の友人)に俳諧を師事していて、その「四国へんろ記」は大山の主催する『大耕』に連載された。伊藤(敬称略)の遍路の目的は「両親と3人の妻の菩提を弔い」「人生再出発にあたり更仕一新下座行から始めよう」という念願からだった。伊藤氏は3回に分けて巡拝した。伊藤は母から「三度の火事よりも一人の妻を失うほうがもっとも心の痛手なのに、お前はどうしたことか三人の女房に先立たれるとはのう」と詠嘆されていた。伊藤は遍路の手段として遠距離の場合、交通機関を利用し、場合によってはタクシーも使った。寺院では般若心経と観音経普門品ゲを読経した。宿泊は宿坊を多く利用し、寺で勤行するとともに住職の法話を聞き、霊験談を多くかきとめた。第6番札所・安楽寺水谷しづさんは昭和31年より脊髄カリエスにかかり、あらゆる手当をしたが悪くなるばかりで死の直前においこまれた。そこで安楽寺住職が88か所の巡拝をすすめた。しづさんは夫の繫治さんに助けられて病気平癒を祈願し難行苦行しつつ巡拝し、途中27番神峯寺の山中で不思議な霊験を得て全快した。感激の余りご本尊としてこの薬師如来を奉納した。住職は、病気は医者や薬だけでは治らず、治療を受けると同時に信仰によって心の垢を除き、信念によって治すもの、と説法した。第9番札所・法輪寺奉納されていた絵額を目にした。それは階段に立たれた弘法大師に三人の男が合掌し、一人がひれふすものであった。「京都市山口庄太郎は脳病のため言葉の自由を失い、百方手をつくしたが効果がなく四国巡拝の旅に出た。5月1日九番霊場でにわかに卒倒し、お大師様の不思議の利益をこうむり、不自由な言葉も自由になり、病気も平癒した。同行三人眼前にこれを見て霊験に感銘し、ここに報謝のため額面をかかせて当寺大師堂に納める」第22番札所・平等寺に向かう途中で、大阪から来た大西三郎から聞いた大西の妻の出来事である。大西の奥さんは片方の卵巣を除いているのでもう子供はないと観念していたが、子供に恵まれたい一心で夫婦で4日程度の巡拝を毎年続けている。昭和44年4月、84番屋島寺に参拝して山上で休憩していると、同様に休憩している老夫婦から話しかけられた。「あなたたちは子供がなくて、願をかけて巡拝しているのじゃろうが」「心から信心して廻りなさい、必ず子供はさずかる」と言われた。本年(昭和45年)2月めでたく女子を出産した。来春は親子三人でお礼参りをするつもりである。第10番藤井寺から第11番焼山寺までは二つの峠を越えて約12キロ、男性の足で9時間の道程。伊藤は朝6時に勤行を行い、7時に出発した。「住職夫妻に送られていきなり裏山の急坂にとりかかる。人が一人ようやく通れるほどの小道、小石がごろごろ、大きな石が道をふさぐ、両ふりにはみぞにかわるのであろう。眼がちっとも離せぬ。やぶをかきわけ、枝をはらいのけ、道をさがして歩くありさま。(中略)一町行っては休み二町行っては休みしては息をいれる。」昭和30年代からは峠を二つ越えるこの山道の遍路道に代わって、藤井寺から徳島に出てバスで焼山寺山麓まで行き、そこから3キロ登って寺に行くコースが利用されている。
2019年02月20日
山頭火の遍路句日記種田山頭火は昭和2年~3年四国遍路したが、その日記は昭和5年に焼き捨てた。奉納帳は親友・大山澄太の母親に差し上げた。死去1年前の昭和14年の秋に2度目の遍路を行い「四国遍路日記」を残した。「四国遍路日記」は11月1日から始まる。昭和14年11月1日 広島宇品港から松山市の高浜港にわたり、松山で約1か月逗留し、放浪最後の四国遍路に旅立つ。ー有明月のうつくしさ。今朝はいよいよの出発、更始一新、転一歩を踏み出さなければならない。7時出立、徳島へ向う。山頭火の遍路は行乞の旅で、その記録もあった。11月5日 行乞のむつかしさ、私はすっかり行乞の自信をなくした、行乞はつらいかな、やるせないかな8-11時行乞、いやでいやでたまらないけれども生きられないので、食べて泊るほどいただくまで、-3時まで行乞、かろうじて銭34銭米五合、頂戴して帰る伊予に入ると行乞の成果がよくなり「人情も信仰もあついものがある」と記した。山頭火の遍路はアルコールとの同行二人でもあった。11月22日~26日藤岡宅にとまった。「晴れたり曇ったり酔うたり覚めたり秋はゆく」ー山頭火はなまけもの也、わがままもの也、きまぐれもの也、虫に似たり、草のごとし。山頭火の宿は遍路宿と呼ばれる木賃宿だった。米や麦を宿に渡して炊いてもらう、炊飯の薪代(木賃)が料金としてとられる。□安宿で困るのは、便所のきたなさ、食器のきたなさ、夜具のきたなさ、虱(ムシ)のきたなさ、等々であろう。〇安宿に泊る人はたいがい真裸である。虱がとりつくのを避けるためである。「娘遍路日記」でも28番札所・大日寺にまいってのちの赤岡の木賃宿のきたなさを記す「便所のすぐ前で汚い壺が露わに見えている。それは横を向いて忍ぶとしてどうにも忍ばれないのは桶の中の湯である。まるで洗い落とされた垢の濁りで真っ黒である。これではいかにもたまらない。」屋島寺から讃岐の一宮寺に行く途中では「便所と流しの半間と離れていないのが何よりきたなく、部屋の畳のぬれてかびている気持ち悪さ、壁はでこごこでしみだらけ」木賃宿は農家が副業として行っていたもので、粗末な宿が多かった。山頭火はたまに よい宿に泊まれると喜んだ。11月9日高知和食ー町はずれの、松林の中のヱビスやにおちつく。ほんとうによい宿であった、きれいでしんせつでしずかで、そしてまじめで山頭火は夜に食事が終わると日記を書き句作した。(十一月一日)旅空ほつかりと朝月がある夜をこめておちつけない葦の葉ずれのちかづく山の、とほざかる山の雑木紅葉の落葉吹きまくる風のよろよろあるく秋の山山ひきずる地下足袋のやぶれお山のぼりくだり何かおとしたやうな(十一月三日)山家ひそかにもひたき明治節山の学校けふはよき日の旗をあげもみづる山の家あれば旗日の旗よい連れがあつて雑木もみぢやひよ鳥や旗日の旗は立てて村はとかくおるすがち村はるすがちの柿赤し山みち暮れいそぐりんだうこんなに草の実どこの草の実(改)しぐるるあしあとをたどりゆくトンネル吹きぬける風の葉がちるしぐれてぬれて旅ごろもしぼつてはゆくしぐれてぬれてまつかな柿もろたしぐるるほどは波の音たかく大魚籠ビクさかさまにしぐれてゐる濡れてはたらくめうとなかよくしぐれて人が海をみてゐる十一月四日野宿いろ/\波音おだやかな夢のふるさと秋風こんやも星空のました落葉しいて寝るよりほかない山のうつくしさ生きの身のいのちかなしく月澄みわたるいつぞやの野宿をわがいのちをはるもよろし大空を仰げば月の澄みわたるなり留置郵便はうれしいありがたい秋のたより一ト束おつかけてゐた波音の松風の秋の雨かな歩るくほかない秋の雨ふりつのる(十一月五日、室戸岬へ)おほらかにおしよせて白波ごろごろ浜水もころころ山から海へ銃後風景おぢいさんおばあさん炭を焼いてゐる旅はほろほろ月が出た旅のからだをぽりぽり掻いてゐる病みて旅人いつもニンニクたべてゐる(室戸)わだつみをまへにわがおべんたうまづしけれどもあらなみの石蕗の花ざかり松はかたむいてあら波のくだけるまゝ蔦がからまりもみづりて電信棒われいまここに海の青さのかぎりなし秋ふかく分け入るほどはあざみの花墓二つ三つ大樟のかげ落葉あたたかく噛みしめる御飯のひかりいちにち物いはず波音野宿さま/″\こんやはひとり波音につつまれて食べて寝て月がさしいる岩穴枯草ぬくう寝るとする蠅もきてゐる月夜あかるい舟があつてそのなかで寝る泊るところがないどかりと暮れたすすき原まつぱだかになつて虱をとるかうまでよりすがる蠅をうたうとするか水あり飲めばおいしく洗ふによろしく波音そのかみの悲劇のあと太平洋に面してぼうぼううちよせてわれをうつ現実直前の力。大地を踏みしめ踏みしめて歩け!https://www.aozora.gr.jp/cards/000146/files/44914_18742.html山頭火は昭和15年10月11日にこの世を去った。
2019年02月18日
巡拝記にみる四国遍路娘巡礼記 高群逸枝逸枝が出かけた動機の一つは、母親の観音信仰が考えられる。逸枝は小学校校長を務めた父・高群勝太と母・登代の長女として生まれた。しかし、高群夫婦は逸枝の前に三人の子を産んだが早世させていた。夫婦は築後の清水観音に願掛けし、初観音の1月18日に生まれたのが逸枝だった。母は「この子を丈夫に成長させてくださいましたら、きっと一人で巡礼いたさせますから」と誓った。母の影響で逸枝は幼少時に母に連れられ観音寺院に参拝していた。逸枝は「実は私は最初花山院の御遺蹟である西国三十三か所の巡礼をと思っていたが」と記すが、四国遍路に出かけた。「何のために、とお問い下さるまじく候。実はわらわ自身すらも解しかね居り申し候。狂えるかと時折考え申し候。されど別に異状もなきように候。ただ極端に感激しやすく極端に懊悩しやすく声を放っておうぜんと泣きうるは不思議に候」と「九州日日新聞」の社会部長・宮崎大太郎にあてた手紙に記す。逸枝は、巡礼姿に身を包んで、大正7年6月4日、身を寄せていた熊本の専念寺を人力車に乗って出発した。金銭は宮崎に原稿を送るという約束で受け取った十円だけで十分ではなかった。6月10日大分の上井田でどこで泊まるか迷って真っ暗な村の中をとぼとぼ歩いていると、白装束を着た遍路帰りの40代の女性に会う。話を聞くと、宿に困った。なかなか泊めてくれない。旅費4,50円では足りず、修行して遍路を続けたという。「実のところ私のさいふは既に空だ。ままよ、別府で使い果たして無一文で四国をまわろうと考えついた」「私は心細くなってきた。でも構わない。生といい死という。そこに何ほどの事やある。私は信念を得たい、驚異を得たい、歓喜を得たい、さもなくば狂奔を得たい。とにかく苦しみ喚いていくうちにはたとえ方なき尊厳な高邁な信仰にも到達するであろう。私の生くべき途は、もはやそれ一つにあるのだ。私は、世にも尊いうるわしい気高い女であらねばならない。・・・・・・迫害よ!来たれ、わらわ豈おどろかんや。」6月12日 中井田で日が暮れ、ある小屋から「お遍路さん、お休みなされ」と70過ぎの老人から声がかかる。「今夜はここで泊まっておいで」おじいさんの名前は伊藤宮次。その夜寝ているとおじいさんから起こされた。「ねえさん、ねえさん。お前は、観音様をお供えしているのだな」「いいえ」「いや隠してもダメだ。お前は観音様と、因縁が非常に深い。でなけりゃ今の不思議が、あるわけない」「今の不思議とは?」「それはこうだ、わしが寝てから30分間ばかりしたかと思うと、まだ眠ってもいないのに上から、夢のように七つ八つの天冠をかぶったお稚児と、もう一人それの姿はよくわからなかったが私の頭の上あたりにおりてきて、すぐ消えてしまったのだ。きっと観音様に違いない」逸枝は、老人の話に圧倒されたが、嫌気がさして去ろうとしたが金がなく、翌13日雨が降り、おじいさんの家にいた。おじいさんは彼が四国巡拝中に頭のはげた浅黄の着物に縞かなにかを羽織った60くらいの人にあってお世話になったが、突如見えなくなった。宿でそのことを話すと、宿の人はそれは御大師様に違いないという、そこでもう一度その人に会いたいと思っていた。 そしておじいさんは「ありがたい、ありがたい。昨夜の観音の御示現といい、あなたはただならぬ人ときまった。もったいないがこのじいが、ご守護申して巡拝せねば仏にすまぬ。ここに10日余り滞在してください。きっとお供しますから。」「おれは金をもたん、そいで修行していくのじゃ。アンタもそのつもりで辛抱なされ」遍路では「修行」とは、門づけで米などを布施としてもらうことで、日々の食糧を確保することをいう。7月9日、逸枝と老人は出かけた。老人はお供として荷物を背負い、逸枝は巡礼姿で歩くだけであった。14日午前3時、大分から汽船宇和島丸に乗船して四国の伊予へ向かった。午前11時に八幡浜に上陸する。そしてこの地の大黒山吉蔵寺を訪ねる。それは逸枝が熊本を出るとき杖をくれた人が吉蔵寺にあてた紹介状を持っていたからである。逸枝は老人の提案で「逆打ち」で回ることにした。逸枝と老人が結願したのは10月18日である。文字通り歩き遍路二人同行3か月。おじいさんは別れ際に言った。「あなた様はどう考えても観音様の申し子だ、もったいない。あなたのお陰でこの年になって四国まいりができました」と涙をこぼした。☆八幡浜市立図書館は「二宮先生語録」を蔵書としていただいている(^^)市民図書館 新刊図書 /157/シ/ 111484341 帯出可 貸出可
2019年02月17日
娘「糸を何におつかいなさるのか」三次「メガネのネジがぬけたので」娘「それはお困りでしょう、まあ見せてください」 「うまくできるかどうかわかりませんが、付けてみましょうか」娘は頭髪からピン留めを取って折ってつけようとする。三次「そんなことまでもしていただいては済みません」言うより先に折ってネジ代りに差し込んで娘「ほんのマに合わせですみません、これで暫く辛抱してください」三次「田舎おやじの私にかように親切にしていただいて、誠にもったいないことで」娘「いえいえ滅相な、わたしはこのあいだおじいさまが急に亡くなったので淋しく、せめてできますことなら、よそのお年寄りのお世話でもと心がけておりますが、思うばかりで何もできませんでしたが、お役にすこしでも立ったのなら嬉しゅうございます」家へ帰り着いた三次郎さんを、待っていたものは東京の小包郵便で、包みをひらくと出てきたのは、美しい板に刻んだ観世音菩薩の像であった。長谷川伸「あなたにもできる、私にもできる、娘さんのしたことだってだれにでもできる」2007年06月30日 娘観音長谷川伸の「我が足許提灯の記」より・淡路源之丞一座という淡路の人形浄瑠璃が、大阪の大毎ホールで公演するので、頼まれて淡路島へ戻る途中、メガネのネジがぬけて片っぽの腕がとれてしまったので、神戸の中突堤にある待合室で、淡路行きの船を待つあいだに、一時のマに合わせに、糸でくくりつけようと考えたが、糸がないので、隣りに腰かけていた20ぐらいの娘さんに、糸の持ち合わせがあったら少々くださいと頼んだ。娘さんはよく探したが持ち合わせていない。連れの二人の娘にもその娘さんが尋ねてくれたがやはりなかった。と今いった娘さんが、糸を何におつかいなさるのかと尋ねたので、メガネのネジがぬけたのでと三次郎さんがいうと、娘さんがそれはお困りでしょう、まあ見せてくださいと云うので、メガネをみせると、じっと見ていたが、うまくできるかどうかわかりませんが、付けてみましょうかと、頭髪のうちから毛ピン一つとって、メガネのネジ穴とくらべて見て折ろうとするので、そんなことまでもしていただいては済みませんと、三次郎さんがいうより先に、娘さんは手早く折って、それをネジの代わりにさしこみ、前後の端を折りまげ、ほんのマに合わせですみません、これで暫く辛抱してくださいと、メガネをわたした。掛けてみるとまことに良く直っていた。三次郎さんはその娘さんの機転と親切に心をうたれ、田舎おやじの私にかように親切にしていただいて、誠にもったいないことでと礼をいうと、いえいえ滅相な、わたしはこのあいだおじいさまが急に亡くなったので淋しく、せめてできますことなら、よそのお年寄りのお世話でもと心がけておりますが、思うばかりで何もできませんでしたが、お役にすこしでも立ったのなら嬉しゅうございますという。三次郎さんはいよいよ感動して、私の孫娘もやがてあなたのような娘さんになってほしいと思いますといったところ、いえお恥ずかしいことです、それではわたし達の乗る船が出ますのでお別れいたします、ご無事にお帰りなさいますようにと、その娘さんは挨拶して、連れの二人の娘ともども、別府行きの船へ乗りにいった。 三次郎さんはそのうしろ姿を、暫くのあいだ、我をわすれて見送っているうちに、淡路行きの船が出るという知らせで、我に返ったがしかし、せめてあの娘さんの名前だけでも聞いておけばよかったのに、忘れていたのが心残りだとすぐ心付いた。 家へ帰り着いた三次郎さんを、待っていたものは東京の小包郵便で、包みをひらくと出てきたのは、美しい板に刻んだ観世音菩薩の像であった。その観音さまが三次郎さんをすぐ、先ほどメガネをなおして眼を明るくしてくれた娘さんを思い出させた、そして三次郎さんは娘さんのあのときの目が慈眼であったことを思い浮かべて、現実を超越したことだと承知しながら、あの娘さんは観音さまのお姿にひとしきものと思った。・次のような話を聞かせてくれた人があった。「今わたくしどもの方で、学問と技芸を教えてくれる先生がございます。その先生は俗にいう月足らずで生まれ、母親はお産のあとで亡くなりました。お医者さんはこの子には手の尽くしようがない。せめて母親とおなじ愛情の女の人があって、あの子に身も心もうち込んでくれたら、あるいは育つかと思うが、それも千に一つの頼み少なさだと、こういうのを聞いたヨソ者の女で、そこの町の工場で働いていたのが、あたしにその子を育たせてくださいと買って出て、子どもの父親や親類たちも、それではとヨソ者の女に子どもを預けたのです。 それからその女の我を忘れての養育がはじまり、長い間にわたって困難もあり絶望しかけたこともあったのですが、とうとう成人させまして、前に申し上げたように今ではちゃんとした先生になっておられます。その女は、子どもが幾つのことでしたか、子どもの父と結婚しました。 今では壮年期に達している先生が申すのです。私が毎日こうして人さまに何ごとか教えていられるのは、母が私を生かしてくれたその賜物です。私は観世音の化身の母に育てられてきたのです、とこのことを口にするときは、襟をそれとなく正してなさいます」☆長谷川伸の話はまだ続くのだが、最後にこう書き添えている。「あなたにもできる、私にもできる、娘さんのしたことだってだれにでもできる」
2018年05月05日
2009年09月22日建長寺に向う道の途中から亀が谷の切通しのほうへ抜ける。切り通し沿いの紅白のハギの花が盛りだ。坂を下ったところに田中智学獅子王文庫跡碑がある。田中智学といえば、大正3年に国柱会を結成し、一時期、宮沢賢治が傾注していた。突発的に花巻の実家を家出して東京の田中智学のもとを訪れた逸話は有名である。国柱会の田中智学に面会にあがったとき、応接したのが高知尾智耀であった。賢治が親に随い家業の質屋を継ぐべきか、あるいは法華行者として信仰に生きるべきか智耀に相談しとき、智耀の回答に自らの生きるべき道を見出した。賢治はそれを自らの手帳に記録した。「雨ニモマケズ」手帳の135ページにこう書いてある。「◎高知尾師ノ奨メニヨリ1. 法華文学ノ創作 名ヲアラハサズ、 報ヲウケズ、 貢高ノ心ヲ離レ2. 」また、139ページ、140ページには、紫色のエンピツでこう書いてある。(カタカナをひらがな表記にした)「筆をとるやまず道場観 奉請を行ひ所縁 仏意に契(かな)ふを念じ 然る後に全力之 に従ふべし 断じて 教化の考えたるべからず! たゞ純真に 法楽すべし たのむ所おのれが小才に 非(あらざ)れ。たゞ諸仏菩薩 の冥助によれ。」 実に宮澤賢治は、高知尾氏の勧めで、法華文学の創作を行おうと思い、しかもそれはただ純真な法楽としてなされたのだ。 その後、父(熱心な浄土真宗の門徒であった)を折伏しようとして家庭不和を引き起こし、親友保坂嘉内を折伏しようとして絶縁される。唯一の同朋であった妹とし子は若くしてなくなる。そうした懊悩のなかから、日本を代表する詩と童話が生まれた。賢治は後に智学を離れ、日蓮上人をも離れ、法華経の釈尊そのものに帰順し昇華していくようにも思われる。亀が谷切り通しを横須賀線と合流する道筋を左に道をとると浄明光寺がある。いつ行っても観光客の少ないいいお庭のお寺だ。京都の泉涌寺の末寺で、有名な楊貴妃観音を模刻した石仏がある。本堂の萩の花も見事でお参りしていたら、お彼岸であったことを思い出した。折角だ、久しぶりに杉本寺の観音様をお参りしようと鶴岡八幡宮の前を通っていく。「為供養菩提 父母に感謝」と杉本寺の内陣の観音様前の大ロウソクにマジックで書いて奉納する。この杉本寺は板東三十三カ所観音霊場の第一番札所で行基菩薩が創建し、光明皇后が開基だと伝えられる。美智子皇后が皇太子妃の折、参られた写真が飾られている。 思い立ってさらに逗子の2番霊場岩殿寺、ここは岩山自体が観世音という古代からの岩山信仰を受け継いでいるようなところで、ここから見る逗子の海も見事な眺めである。そこから名越えのトンネルに通じる道に出て、「ほさか」という和菓子屋で おはぎ を買い求める。3月に畏友木谷文弘がなくなったときは同じように鎌倉・逗子の観音霊場を巡って菩提を供養したのだが、その折は名越えの切り通しを経ていったものだ。そのときは今野先生に拙い句を読んで送信したところ、傷心を慰める返信をいただいた。最後に「いずれ私たちもですね・・・」とあった。 私たちは死者に生かされ守られているようなそんな気持ちになることがある。 先日、テレビで第2次大戦の折、赤紙(召集令状)を配って回った兵事係の西邑仁平さんのドキュメンタリードラマを見た。赤紙など資料を焼却するようにという軍の命令に反して焼かずに隠し持って、その後も毎日戦死した一人一人供養しているという番組であった。なんと104歳。きっとその方などは戦死者が供養を続けてもらいたくて、生かされているのであろうかとも思ったものだ。西邑さんは訴えていた。「赤紙を渡しに行ったら涙がこぼれる。そんなの(戦争)したらアカン」第3番霊場田村寺、第4番霊場長谷寺、母と参ったときのことがしきりに思い出される。観音経を唱え「お父さんお母さんありがとう」と感謝する。 祈るものは祈られている 拝むものは拝まれている わたくしが手を合わせて仏様を拝むとき 仏様もまた手を合わせてわたくしを拝まれているんだよ
2018年03月05日
暮れから正月にかけて手術のため入院していた。手術後、ICU(集中治療室)で、麻酔から醒めて、この大宇宙に独りぼっちで、一晩眠れぬ夜を過ごした時、自分のうちを探ってみて、頼りになる「よすが」を探した。あったのは「般若心経」と「観音経」であった。いずれも座禅会などで覚えたものである。一晩中、繰り返し「観音経」「般若心経」を唱えて過ごした。深淵たる孤独のなかで、まことに寄る辺となるべきものを自分のうちに持っていることの有難さを思った。「般若心経」は玄奘三蔵法師が漢訳した。中国北京の古寺、雲居寺で発見された石板に「三蔵法師の玄奘が詔を奉じて訳す」と題字されているという。玄奘三蔵法師は、経典を求めてインドに赴くとき、荒涼たる砂漠をわたっていったが、盗賊の難や妖魔(幻覚?)に襲われたとき、観音経や般若心経を唱えて救われたと『大唐西域記』に記してある。最古の玄奘三蔵訳の般若心経か 北京の雲居寺2016.9.28【北京共同】中国北京の古寺、雲居寺は、同寺が保管していた石に刻まれた般若心経が、唐代の中国の僧で、「西遊記」の三蔵法師として知られる玄奘三蔵による現存する最古の漢訳であることが分かったと発表した。西暦661年に刻まれたとしている。中国メディアが27日までに伝えた。 般若心経は大乗仏教の教えの一つで、般若経典のエッセンスを簡潔にまとめたもの。原文はサンスクリットで書かれ多様な漢訳があり、日本を含め玄奘による漢訳が最も普及しているとされる。 般若心経が刻まれた石は雲居寺の石室で保存されていた。専門家は「三蔵法師の玄奘が詔を奉じて訳す」との題字などから、玄奘の訳に違いないとしている。 中国メディアは、学術界では般若心経を玄奘が本当に漢訳したことがあるのか疑問を呈する見方もあったが、今回の発見で「論争についに答えが出た」と強調している。 雲居寺は約1400年前の隋代に創建された北京市房山区の古寺。石に刻まれた多数の経典が残っていることで知られる。「玄奘三蔵 大唐大慈恩寺三蔵法師伝」抜粋砂漠を何十回ともなく往復した老人が法師に言う。「西への道は険悪で、非常に道が悪く長いのです。もし鬼魅熱風にあえば免れる者はありません。大勢でパーティを組んで行っても、なお時々迷います。師のようにお一人で行かれるのでは、どうして行きつくことができましょう。」「私は大法を求めんために、西方へ出発しようとしているのです。もしインドに至らなければ決して帰ってきません。たとえ中途で死んでも後悔しません。」法師は、旅支度をして若い胡人の道案内と出発した。その夜、胡人は刀を抜いて法師に近づいた。法師はすぐ起き上がって誦経し観世音菩薩を念じた。胡人はそれを見ると、自分の寝床に戻っていった。そして翌日逃げ去った。法師は一人砂漠の中を歩いた。砂漠の中に突然軍隊が見えた。近づくと消え去る。法師は妖鬼の仕業であると思った。すると空中から「怖れるな、怖れるな」という声を聞いた。この声で落ち着きを得ることができた。砂漠では、空には飛ぶ鳥はなく、地上には走る獣はなく、草も生えていなかった。法師はただ観世音菩薩と「般若心経」を心に念じた。法師はいろんな奇怪な悪鬼が自分をめぐって前後するに会った。その時、観音を念じても、それらの悪鬼を去らせることはできなかったが、般若心経を読誦すると、声を発して皆消えてしまった。危険なときに救われたのは、実にこの経のお蔭であった。法師は専ら観音を念じて西北に進んだ。暴風・砂嵐が吹き散らして法師を苦しめ、ついに砂の中に倒れ伏した。法師は観音を念じた。『私のこの旅は財利を求め、名誉を願うものではない。ただ無上の正法のためである。仰ぎ思うに菩薩はすべての人を慈しみ、苦しみを救うのを務めとされている。どうして知らないのであろう。』法師が念ずると意識は失われなかった。更に道を行くと池を発見した。これは菩薩の慈悲によって生じたものである。人の至誠が神に通ずるのは、このようである。
2018年01月23日
台湾の鈴木藤三郎 これはだいぶ前に台湾日本の有効雑誌に 鈴木藤三郎特集をしていた時に編集者の方が載せていただいた挿し絵である。絵心のあるスタッフの方がいらっしゃるのであろう。 初夢:再度「八田與一と鳥居信平」についても特集していただき、関心のある方に一冊ずつ買っていただきそれを台湾の日本語学科のある大学図書館への郵送料(書籍が2か所台湾に送れるが、ここは「広井勇と青山士」との二冊組とするか)にあてる。目標50大学図書館 袋井講演会で「藤三郎と長三郎の最後の対話」を遠州弁で演じてもらったが、よかったなあ。 もっと大勢の森町の皆さんに作成して未公表の「台湾製糖株式会社特別協議会」などと一緒に聞かせたいものだ。 名付けて「台湾製糖株式会社における鈴木藤三郎」 ふふ、材料はすでにできている、 初夢として実現できないわけがない
2017年12月31日
寄贈する以上、蔵書としていただけることを願ってはいるが、埼玉県の越生町立図書館が「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」を蔵書としていただいたのには驚きそして感動した。大学図書館はともかく、公共図書館の場合、自らの市や町に関係ない場合、蔵書としていただくことには正直、期待値が低かったからである。遠州も鈴木藤三郎の埼玉県の町にとってはマイナーな、関係性が少ないように思われるかもと予見していたからで、嬉しい誤算であった。もともとなぜ越生町かというと、坂東観音霊場が近くにあり、徒歩で巡礼したことがあり、ご縁を感じたからである。星の谷観音⑧から慈光寺⑨へ(ルート)星谷寺⑧-下溝-上溝-橋本-八王子-拝島-箱根ヶ崎-金子-双柳-越生-上谷-慈光寺⑨実に遠く足も痛んだ、それだけに思い出深い。観音様のご縁で、寄贈し蔵書としていただいたようにも思われ、なにやら口元も心もほころびてくる。埼玉県越生町4件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎二宮尊徳の会 2016報徳記を読む -報徳は国を興し民を安んずる大業である 第3集 2016二宮金次郎の対話と手紙 第一 小田原編(少年・青年期)二宮尊徳の会2015報徳記を読む 第1集ず丼は食べなかったものの、以下のお店でかつ丼をいただいたものだ。とろける柔らかい食感がたまらない!「なまずの天丼」DATE:2016.12.0512月3日放送の「ぶらり途中下車の旅」(日本テレビ系、午前09時25分~)では、八高線を途中下車しながら旅する特集で、石井正則さんが「魚愛」(埼玉県入間郡越生町)を訪れた。JR八高線・越生駅から徒歩3分ほどにある同店は、「うな重」やなまずを使用した「ず丼」、「天丼」などをはじめ、定食メニューが味わえるお店だ。番組では、お店のメニューとして「レディー「ず」セット」(1242円/税込み)が紹介された。茨城県行方産の柔らかく肉厚な養殖なまず、野菜などを油で揚げた天ぷらをどんぶり飯の上に乗せ、梅ダレのソースをかけた天丼で、サイドメニューとして、大根の煮物、小鉢、汁物、漬物、地元の豆腐屋が作ったというチーズケーキが付いた定食だ。石井さんが、なまずの天丼を食べると「あっ!柔らかい!想像以上にふわっとしているんですよ、柔らかい、消えちゃった!」とコメント。「あっ、美味しい!本当とろけるように柔らかい白身のお魚です。消えちゃうって表現よくしますけど、まさにその感じですよ、あっという間に無くなっちゃいました!」と驚いた表情でコメントした。
2016年12月14日
広がる!?介護予防「二宮金次郎体操」 豊頃2015年12月16日豊頃町には独自の介護予防運動「二宮金次郎体操」がある。これが今、町内はもちろん、町外でも広がりをみせているという。同体操は2012年、町の保健師と「お元気サロン&ほっとサロン」を運営する町社会福祉協議会の職員が考案し、振り付けは町内のボランティア団体「すずらんの会」の松井貞子さん(78)と工藤栄子さん(75)が担当した。 「骨身を惜しまず 仕事を励み」-。報徳精神で知られ、町にゆかりの深い二宮金次郎を題材にした文部省唱歌の調べに合わせ、お年寄りたちが椅子に座って楽しそうに手足を動かす。12日に豊頃コミセンで開かれた「お元気サロン&ほっとサロン」に参加した高野政勝さん(77)=町在住=は「報徳の教えを感じながら体を動かすのは素晴らしい」と誇らしげに語った。体操の振り付けを考案した、工藤さん、社協職員の大久保理沙さん、松井さん(左から) 社協は昨年、普及員制度をつくり、町民が各種イベントや町外の社協の集まりなどで熱心にPRに努めている。「町外の施設や1人暮らしのお年寄りからDVDを送ってほしいという要望もある」(社協)など、予想以上の反響だった。 現在は40人を超す普及員が活動する。大津漁協女性部の役員を長年務め、歌と踊りが得意な工藤さんは、松井さんと相談して完成させた自信作。「『誰でも簡単にできる』を念頭に、まきを背負ったり、本を読んだり二宮金次郎を思わせる動作を取り入れた」と口をそろえる。 普及員の「師匠」を務める松井さんと工藤さんは「自分たちが楽しませてもらっている。元気な限り、運動を広めたい」と話している。
2015年12月25日
井上哲次郎といえば、内村鑑三の一高不敬事件において、キリスト教は日本の国体にあわないと批判し、内村は後に論駁を行った、現在では当時東京大学教授として名高かった井上博士について知るものは少ない。たまたま「越前、淡路、下野旅行瑣談話」のなかで、今市の報徳文庫について述べられている一文を発見した。現在、報徳文庫は報徳二宮神社の「宝物館」の2階にあるが、当時は藤三郎が寄進した大理石の蔵に納められていた。その状況がのべられていて、とても興味深い。記録のためここに読みやすくして載せる。宇都宮に行きました。国文の講習会であります。近いところであるから一夜泊りで行きました。朝早く行きまして、午前に講演を致しました。そして晩には懇親会をやるということでした。すなわち午後があいている。これを何かに利用しようと思って、行く前から考えておりました。 私はかねてまいりたいと思っておりましたのは、二宮神社です。かつて五十年祭の時に、私に来てくれということでありましたが、どうしても行かれないのでそのまま過ぎましたが、今度はよい機会であるから参拝しました。単に二宮神社に参拝するだけではありません。かしこには二宮尊徳翁の遺著が一万巻あるという。これは閉口しました。一万巻をちょっと行ってみるわけにもいかぬが、しかしマアどんなものか行ってみたいと思いました。それから講習会の幹部の人に話してその案内を受けて神社に参りました。社務所で休憩して社司(しゃし:かんぬし)といろいろ話をしましたが、その社司は八十何歳ということでありました。社務所の下にあって用をしている人が両人おりましたが、いずれも八十歳以上の老人であった。えらい老人が三人いました。しばらくして神社にまいりました。神社のうしろに二宮尊徳の墓がある。それに参拝しました。それからぐるっと回って右へ出てきますと、ちょうど社の右手に倉が設けてありまして、これを報徳文庫と称する。この倉に二宮尊徳の遺著がある。どうか拝見したいといったら開けてくれました。入ってみると二階建ての倉で、下には書物がない。二階にあがってみると、二宮の遺書をもって図書館になっている。その図書を見ると皆大本である、あるいは薄いのでも五十枚くらいあるかもしれない。それが二千五百冊ある。これには閉口しました。どうも二宮尊徳のように忙しい人が二千五百冊の著述をしたというのには閉口しました。 どうしてそこにその遺著があるというに、それは鈴木藤三郎という人が写さしたので、その写させるに五千円かかったそうです。時日もなかなか費やしましたので、七人の筆耕がかかりきりにかかって三年費やした。なかなかたいしたものである。これを報徳全書と申します。目録だけが二冊ありまして、部類別けになっております。考えてみるとほとんど一切経と匹敵するものであります。著述の多い人は日本にいくらもある。徳川時代にあっては、林羅山、山鹿素行、新井白石、貝原益軒、伊藤東涯、平田篤胤などがありますけれども、一人にして数千巻以上のものを書いた人はいない。巻ではない。巻というと一冊で何巻も寄せてあるが、二千五百巻ではなく、二千五百冊である。それでもって一つの図書館をなしている。 ちょうど私が敦賀におります時に、岡田良平君から手紙が来てこういうことを伝えられました。二宮尊徳の孫の二宮尊親氏が二宮全書を出版するということであるから賛成してくれということを言ってきました。それは賛成してやりました。その時は二宮の遺著を見ない時であります。遺著を見て帰って来てから二宮尊親氏にその出版というのはどんなものかと申しましたら、それは活版で一千ページくらいのものであるということでありました。全部出版したら大したものであります。その後、尊親氏から手紙が別に来まして、出版する書物の性質についていってきました。どうも自分が二宮先生の遺著から抜粋して出すのであるから、自分の考えで抜き書きするのであるから、なかなか満足なものはできまいと思ったが、賛成してくださって有難いという趣意でありました。やはり抜き書きということは確かであります。それで私は詩を作りました。よほど感を深うしましたから車の上で詩を作りました。 利用厚生立大功 農聖吾久慕高風 二千余巻存名誉 報徳源流豈有窮はなはだつまらないお話でありますが、夏休み中ちょっと二週間ばかりの旅行でありまして、その間に少し神道に関係あることもありますからとにかく申し上げた次第であります。内村鑑三は「代表的日本」の一人に二宮尊徳をあげて、世界に日本に二宮金次郎という農聖があることを知らしめた。井上哲次郎は内村鑑三を批判する立場にあったが、同じく「農聖われ久しく高風を慕う」とし、鈴木藤三郎の報徳全書の価値を源流としての久遠の価値を認めたことが興趣深い。
2015年12月06日
「ウォーキング入門を借りて来たんだけどウォーキング中の体重移動は1 かかとで着地する2 かかとから、足の外側、つま先へと体重移動をおこなう。3 足指とそのつけ根で地面をけりだすかかとから着地することがケガをしない歩き方だって。ウォーキングも技術なんだね。足が地面に着くときの衝撃は、体重の1・5倍で、骨やヒザ、腰などに負担がかかって故障しやすい。ヒザを前に出すのではなく、足を前に出すのがコツで、こうすれば自然とかかとから着地するんだって。歩幅はいつも通りでいいけれども、もう少し効率的に歩く、エネルギーをもっと消費したい場合は、いつもより5センチ前に足を着地するように歩幅を広くするってある。じゃあ、朝の散歩に行ってくるね、休みの日も毎日朝夕2時間くらい歩くと、調子がいいみたいだ。エネルギーの効率的な消費が次第に出来るようになる体になっていたりして」
2015年11月14日
〇〇先生、お早うございます。「二宮尊徳」のインタヴューをラジオ番組にアップ していただいて有難うございました。10月22日のアクセス数が通常の三倍ちかくになり、なぜ? と思っていましたが、きのう 10月21日に先生のFMの番組で放送されていることを知りました。恐るべし、放送の威力たるや♪ です。 先生の講演録を収録する予定の「報徳記を読む第3集」の刊行は、現在「二宮先生語録」の総ルビをふっている最中でまだまだです。 現在同時に12月19日に袋井市で講演する「鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』」の講演テキストの校正を進めています。 休みには 母の形見の数珠をもって、板東観音霊場巡礼ウォーキングをしてます。 完全な歩きではなく、3時間程度のウォーキングを組み入れ途中電車なども使って無理のない程度に歩いています。 しかし10月24日は朝5時に家を出て、橋本から第9番慈光寺を目指して、歩きに歩いて、目的の観音堂にたどり着いたのが午後2時過ぎで、さすがにまだ足が張っています。 ウォーキングは自然との出逢いでもあり、高麗川から歩いていたら道端でカマキリやコオロギやてんとう虫などに出会い、おもわず「僕らはみんな生きている」を口ずさみました(^。^) また、巡礼は自分をみつめなおし、内なる自分と向き合う旅でもあります。 歩きながら、尊徳先生のいわれる「幾諌章」は人道の至りであるという言葉を、自分の行いと照らし合わせて反省するところがありました。また父母に仕えるということ、たとえ亡くなっていても 父母を真に大事に思うということに思い巡らせながらの旅で、最後の慈光寺への長い 長い 坂や階段も また有難く思われます。 先生からいただいた言葉をいつも胸の奥、腹の底に置いて考えています。 感謝します。
2015年10月26日
越生町の図書館にボーイズ・ビー・アンビシャス第5集と「二宮金次郎の対話と手紙」を郵便局のスマートメールで寄贈した。板東観音霊場第9番慈仁寺に行く途中、越生で昼食をとった。慈仁寺は都幾川にあるのであるが、いわば納経代りに寄贈したわけである。慈仁寺には「般若心経の道」があり、空海や良寛の書による般若心経の石碑があり、とても興味深い。良寛さまの般若心経は、日本人の心そのままでおのずと笑みがこぼれてくる。空海の力強い筆致は宇宙的な広大さを感じさせる。観音堂までは延々と坂道と階段が続き、あえぐようにたどり着くと、バスでの巡礼の方々が先に着かれていてお坊さんが説明をしておられて一緒に拝聴する。「ここから観音堂に行くには、こちらの女坂と向うに一直線に階段を上る男坂があります。108段あります。階段には手すりがついていますので、それを握ってお上りください」とのことだった。みんなに先だってお参りをすませておこうと、お坊さんが草花について説明しておられるうちに、急な階段をてすりをしっかり握りながら登る。観音堂で、観音経を読もうとするが、声がでない、読んでいるうちに余りの疲れのせいか、息が整わず苦しくなってきた。冷や汗まで出てきて、気分が悪くなってきた。そうこうしているうちに、集団の巡礼の方々がお堂をうめつくして、身動きができなくなり始めた。観音経の最後の経文を眼だけでおって、堂のわきに寄ってへたりこむようにすわる。お坊さんが「涼しい季節になってきましたが、急な坂や階段を上るとさすがにあつくなってまいりますね。それでも手にもっておられるお経であおいではいけません(笑い)」といわれて、般若心経と観音十句経と真言を一緒に唱えられる。靴を脱ぎ、板間に正座し直して一緒に般若心経を唱える。お坊さんが空海と最澄の理趣経をめぐるやりとりなども法話として紹介されていた。読経が終わって、お堂の入口あたりがすいてきたので、その場を早めに退散した。今回の観音巡礼ウォーキングは、亡き母を供養する思いもあり、母からいただいた数珠とともに巡礼している。8番から9番までは歩くとなると神奈川県から埼玉県の奥武蔵への一日がかりの行程となる。緊張と緩和というが、観音霊場はいわばその信心が試されるような長丁場や難所がある。これは徒歩でなければ、当時の信仰の旅はなかなか体得できないのかもしれないと思われてくる。また徒歩での巡礼は自分と向き合う旅であり、それは内なる父母と向き合いたしかめる旅でもある、感謝します。今野先生のインタビュー番組を記念して、飛騨高山の図書館と中央区日本橋図書館にも寄贈した。平成27年10月26日中央区立日本橋 図書館 様 『ボーイズ・ビー・アンビシャス』第5集等の寄贈について 「二宮尊徳の会」では、二宮尊徳の事業と考えを高弟富田高慶が記した『報徳記』等を全ルビにした『報徳記を読む』シリーズ、鈴木藤三郎氏顕彰シリーズ及び『ボーイズ・ビー・アンビシャス』を刊行し、全国の公共図書館・大学図書館に寄贈しているところです。二宮尊徳の「報徳の精神」は、鈴木藤三郎氏が製糖業に適用し、砂糖王と呼ばれるほど成功し、すべての事業において適用できることを自らの一生で実証したところです。「報徳記を読む」シリーズは、『報徳記』等を読書会等で声に出して読むため、全ルビで作成しているもので、『報徳記』第3~5集、語録を収録した第3集を作成中です。また、札幌農学校精神は日本の近代化・合理化の一源流であり、特に戦後日本の民主主義・平和主義・国際協調主義は、内村鑑三と新渡戸稲造の「特別の二人」の礎石の上に建てられているといえるのではないかと考えます。『ボーイズ・ビー・アンビシャス』は、札幌農学校第二期生の四人組の交流と彼らの思想の軌跡を「資料集」という形で提示するものです。「ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集」等をここに謹んで貴図書館に寄贈させていただきますので、市民の皆様の閲覧に供していただければと存じます。貴図書館のますますの発展を祈念します。【二宮尊徳の会の刊行物】「日本近代製糖業の父 台湾製糖株式会社初代社長鈴木藤三郎」(2010年)「報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎」(2011年)「二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎」(2013年1月)「砂糖王鈴木藤三郎―氷砂糖製造法の発明―」(2013年6月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス-クラーク精神&札幌農学校三人組と広井勇」(2013年3月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス 米欧留学篇」(2013年10月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス第3集 新渡戸稲造の留学談・帰雁の葦」(2014年2月)「報徳記を読む」(2014年3月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集 札幌農学校教授技師広井勇と技師青山士」(2014年7月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集 内村鑑三神と共なる闘い不敬事件とカーライルのクロムウェル伝」(2014年10月) 「報徳記を読む第2集 報徳は精神変革である」(2014年11月) 「二宮金次郎の対話と手紙 第一小田原(少年・青年)編」(2015年2月初刷、㋄2刷) 二宮尊徳の会
2015年10月25日
板東(ばんとう)観音巡礼Walking 8回目 第9番慈光寺 その2八高線の小宮駅から妙覚駅まで一本で行けるつもりでいたら、小宮駅の次の拝島駅で川越駅に乗り換え、さらに高麗川で乗り換える必要があった。拝島は「はいじま」、高麗川は「こまがわ」と読む。拝島駅はこの地域のターミナル駅になっている。駅構内に「吉野家」まで入っている。乗り換えに結構時間がかかり、高麗島では一時間近く待つようだったので、巡礼Walkingの趣旨にしたがって、駅から出て歩くことにした、これがその後の誤算のもとであった。駅を出ると ちょうどどこかの会社の方々が集合写真をまさに撮らんとしていたところで、iフォンのカメラを撮るよう頼まれたが、思うように操作できなくて、少々時間をとられた。妙覚駅行きの電車が来るまでの数駅歩くつもりが、電車道から結構離れたところを歩く。道ばたで カマキリ を見た。生きたカマキリを見るのは久しぶりだ。こおろぎ や てんとう虫も見た。思わず「僕らはみんな生きている」の歌が口ずさんでしまう。 カマキリだって コオロギだって テントウムシだって みんな みんな生きているんだ友だちなんだ カマキリといえば、京都の祇園祭の山車(だし)に蟷螂山(かまきりやま)という人気の山車がある。 かまきりが羽を広げ、御所車の車輪が回転するなど、祇園祭の山鉾では唯一の「からくり」がほどこされている。 屋根の上のからくりを施したカマキリがカマを振りあげて動くので、子供たちに大人気で、「蟷螂の斧を以て降車のわだちをふせがんと欲す」という中国の故事にちなんだものという。 2015年は台風接近のため懸装品や楽器を濡(ぬ)らさないようにカバーを施した32基の山や鉾が巡行を行った。「カマキリ山」として親しまれている「蟷螂山(とうろうやま)」では、カマキリのカラクリを出さずに巡行した。 沿道ではかさやカッパ姿の観客が「カマキリー」と声を合わせて呼び掛ける一幕もあったという。 森町の神社には、カマキリの帽子をつけて踊る舞楽があり、森の元気屋さんからカマキリのデザインの入った箸袋に入ったお箸を頂戴したことがあり、今でも昼食に有難く使用している。 畑にはアオサギもいた。 巡礼Walking は自然との出逢いでもある。なんてここまではよかったのだが、歩いても歩いても次の駅近くにでない。埼玉医大病院あたりで、毛呂(もろ)駅を目指して横道に入ったら行けども行けどもそれらしいところに出ない。やっとこさ駅らしいところに来たら、JR線ではなく、東武東上線の武州長瀬駅であった。そこで越生(おごせ)駅まで電車で行くことにする。このあたりの地名はどくとくの読みをする。高麗(こま)川のようにこの地域は高麗の人々が渡来し、住み着いた場所であるという。大磯にも高麗山があり、高麗滅亡のおりに、大勢の渡来人が日本に難をさけて渡ってきたのかもしれない、高麗文化を日本に伝え、連綿として日本語を話すうちに、それらの人々は日本文化に融合していったのかもしれない。越辺(おっぺ)川という澄んだ水の流れる川もあった。何やら北海道のアイヌの呼称を思わせる響きだ。ウィキで調べると越辺川(おっぺがわ)は、埼玉県西部を流れる荒川水系入間川の支流で、一級河川である。越辺川の語源については、「越生の辺りを流れる川」から来ているという説や、北海道乙部町の「乙部」と同様にアイヌ語の「オ・ト・ウン・ペッ(o-to-un-pet 下流の方に沼のある川)」に由来するという説などがある。とあり、まんざら間違っていないようである。越生(おごせ)もまた難しい読みである。「越生」を「おごせ」と読む由来はこの地が関東平野の西端で秩父山地に接しているために秩父地方との往来は尾根を越していかねばならず、その「尾根越し(おねごし)」が「尾越し(おごし)」となり、それがやがて「おごせ」と変化したと言われているとあるが、越辺(おっぺ)とあわせて、やはり何かアイヌに由来する語源があるようにも思われる。調べると アイヌ語説があり 豊かな山の麓 という意味だという。こちらのほうが 「尾根越し(おねごし)」語源説より 語感がきれいな感じを受ける。越生駅でJRの妙覚駅への電車の時刻を聞くとやはり一時間近く待つというので、歩くことにする。駅を出て国道30号線に出たところにうなぎやかつ丼などの割烹料理店らしいいい雰囲気のお店があり、午前11時を回っていたこともあり、おなかを満たすことにする。「ず丼」という なまずの丼も魅力的であったが、柚子風味のかつ丼をたべる。おいしく頂いたのだが、これが誤算の第2弾で 腹が重く歩くのが苦しくなった。慈覚寺を目指して歩いていると、家から「今、どのあたり」とメールがあった。お昼くらいに東京か横浜に帰れるようなら、待ち合わせしようかとも前日話していたのである。「まだ慈光寺に向かっているところ、あと1時間はかかる。とても待ち合わせに帰れない。ごめん。」ところがあと一時間どろころか、行く道は延々と続き、最後一時間近くは坂を上り階段を上り、やっとこさで慈光寺の観音堂に着いたのは午後2時過ぎであった。実に座間の第8番からとき川の第9番までを歩くのは大変な行程で、慈光寺の門前町が宿と呼ばれるのも、一日がかりで夕方着いた巡礼者を宿泊させるための宿屋があったためであろう。昔の巡礼の人々の労苦がしのばれる 行程となった。感謝!
2015年10月25日
前回、海老名から橋本まで歩いたので、今回は橋本からで一応の目安は八高線の小宮駅である。そのあとは、電車で妙覚駅まで行って、慈光寺までいくプランである。家を5時前に出て、橋本駅から八王子街道を歩く。環状道路が出来ていておおむねそれに沿って歩くことになる。山間の崖ぎわには からす瓜やあけびの実がなっている。 からす瓜というと宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも、ケンタウル祭に川へ流しに行くカラス瓜をくりぬいた燈火が出て来る。 なにやら昨今のハロウィンの行事にも出てきそうな・・・・六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の燈火を持ってやって来るのを見ました。 途中、予定していた道筋と違い、地図を見ながら八高線の小宮駅へと向かう。 多摩川にかかる橋を渡っていたら、頭上を白鷺が川沿いに飛んでいく。古来、白鳥は死んだ人の魂を天井に運んでいくシンボルであった。ヤマトタケルは伊勢国能褒野で薨(こう)じ、同地に「陵」を造って葬った。『古事記』においては能褒野から白鳥となって飛び、河内国志幾に留まり、そこに「陵」を起こし、これを「白鳥陵」と呼んだが、のちここからまたも白鳥となって飛び、ついに昇天したという。『日本書紀』によれば白鳥となって能褒野陵から出て、まず大和国琴弾原(奈良県御所市冨田)にとどまり、そこに「陵」を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市邑にいきとどまったので、そこにも「陵」を造ったが、また白鳥となって天に上ったという。 「日本人の魂の行方」谷川建一 によると奄美や沖縄(琉球)にも 白鳥伝説があるという。奄美本島南部で歌われる「行きやれ節」には なごびら(坂)ぬちぢ(上)に 白鳥ぬゐしゆり(すわっている) 白鳥やあらぬ 美代貞主のがたまし(魂)白鳥を死者の魂とみているのである。白鳥にはそうしたイメージを喚起する力がある。小宮駅から本会の仲間メールする。「おはようございます。観音巡礼ウォーキングで橋本から八王子の先の小宮駅まで来ました今、第9番慈光寺です。歩きだと大変で昔の人の労苦がよく分ります。母の形見の数珠もちて」○○さんから「素晴らしい、今度行きたい」〇〇さんから「秋晴れの過ごしやすい天気、良い運動でご利益があると思います」とメールをいただいた。この時は、まだその後どんな難行が待ち構えているかつゆ知らなかった。(続く)
2015年10月24日
板東観音霊場は、時に大きく飛び離れて遠い箇所や 順路が違っていたほうがいいのにと思う順序が多い。座間の8番から埼玉の9番までは その飛び離れて遠い箇所の一つである。巡礼Walkingでは、早朝3時間ないし4時間を目安として歩いているから、3回ぐらいに分けないと行き着けない。そういうわけで、5時前に家を出て、海老名駅から橋本駅までを目途に歩く。この道順はおおむねJR東日本の相模線沿いに、あるいは相模川沿いに歩くので、地図を見る必要がない。知人からいただいた 銀杏(封筒にいれてレンジにかけると銀杏の皮と身の間の空気が膨張して堅い殻がポンポンと割れる)と素煎りの落花生をウォーキングのお供に持っていく。入谷駅と新磯駅の間の農道を歩いていたら、赤い花の群生があり、きれいだったので、近づくと表示があった。 赤そばを実験的に栽培しているらしい。日本で栽培されているほとんどのソバが白い花を咲かせる。「高嶺ルビー」のように、赤い花を咲かせるソバは、日本では非常に珍しい。そばの原産地の雲南省からヒマラヤにかけては、赤色のそばがあり、1987年にヒマラヤの標高3800メートルのところから、赤い花の咲くそばを日本に持ち帰り、信州大学の故氏原暉男名誉教授がタカノ株式会社(宮田村)と共同で開発して真紅の花を作り、高嶺ルビーと名付けた。ポリフェノールが豊富らしい。その後、長期にわたり品種改良をかさね、2011年にさらに赤みを増した「高嶺ルビー2011」が誕生した。写真をとりに来られた方がいる。「きれいですね」「前はもっと赤かったんですよ」 途中で相模川沿いに北上する。堰があり、川魚の遡上をやりやすくするため、誘導路を設けているが、白鷺などが何羽か待ち構えている。相模八景の名所 八景の棚 にいくと 遥かに丹沢の山並みが見渡せ、雄大な風光に感嘆する。 大股で速足が身についてきて、3時間ちょっとで 第9番を目指して その1 の行程を終えた。
2015年10月18日
数十年前、足の裏マッサージに凝ったことがある。いまも、街中にそうしたサービスの店を見ることがあるが、そういう店に行ってマッサージを受けることではない。台湾式の足裏マッサージの本を見つけて、自分でいろいろ試してみたのである。スイス人神父、ジョセフ・オイグスター(中国名:呉若石)さんの若石足裏反射法である。リウマチを患っていた神父はある時、スイス人看護師が書いた足つぼの本を試してみたら、めきめきと治り、同じ方法がほかの人にも効いた。若石氏は、中国古来の針灸の考えを、スイスの反射法に統合して若石足裏反射法を世に広めた。、評判を聞いて教会に来る人が後を絶たず、神父は80年ごろには一躍有名人になった。その第一次ブームの頃、自習して、効果があった。母親や家内にも試したが、確かに体調が悪いところが反応し、継続してマッサージすれば、症状が改善する。足の裏には、体の各部分に対応する反射区があり、歩くということは自然とそうした反射区を刺激して、人を健康な状態に導く、そういう効果があるように思われる。二宮尊徳先生は、毎日早朝の廻村をかかさなかった。その理由を先生は勤勉を継続することの大切さを身をもって示すためだと説明されているが、それとは別に 廻村で毎日歩いていたからこそ、健康で精力的な活動、一万巻にも及び日記や手紙等の記述が続けられたのであろう。以上は前書きである。巡礼Walking 6回目を始めようと、朝5時前に家を出ようとしたら、雨が降っていたので、中止した。第8番星が谷観音に参って、埼玉県にある 第9番 都幾山 慈光寺 までは長いので、3回くらいにわけて、 Walking しようかと思っていたのだ。ところが6時過ぎたら、雨があがっていた、いつ降り出してもおかしくない空模様だ。予定を変更し、大和から座間まで歩くことにして出かけた。大和駅を出ると小雨が降っていた。折りたたみ傘をリュックから出して、厚木街道をさがみ野に向かって歩く。上大塚駅の手前まで厚木基地に接し、分厚い鉄条網の壁沿いに歩く。ある意味、アメリカ軍の占領は終わっていないのである。先日のテレビで、戦後まもなく砂川闘争など全国各地でアメリカ軍との軋轢が生じて、反米感情につながると判断した日米両政府は、日本の一般市民のアメリカ軍に対する反感が生じることを避けるため、アメリカ軍兵士との接触をできるだけ少なくするとともに、基地を沖縄に集約してより管理やすくした。それが現在の沖縄の基地問題の根底にあるということだった。フィリッピンは反米感情から米軍基地を排除して、そのパワーの空白に乗じて中国の南沙諸島の占拠が生じたといえなくもない。さらにいえば、日本の敗戦によって生じた地政学バランスは、日本、沖縄、グアム(米軍基地がある間は、フィリッピン)を線に結んだアメリカの自由航行領域の確保にあったといえなくもない。大日本帝国は、満州、朝鮮、台湾、南シナ、南洋諸島とその領域を拡大し、アメリカの地政学的領域と拮抗し、ついには戦争にいたって破れた。戦争に破れることによって天皇制を中心とした国体という明治憲法の体制が崩れ、それに変わって天皇を国民統合のシンボルとし、平和主義と個人的人権、男女平等を中核とする日本国憲法体制に変わったのである。一方、日本はアメリカと同盟することによって、太平洋の自由航行を確保し、平和主義による武装の費用の軽減もあって、戦後の経済復興をなしとげたともいえる。現在の中国の興隆に伴う海洋領域をめぐっての軋轢は、かつて日本がたどった「自国のみの実力を向上させようとする一国独自の行動」をなぞっているようにもみえる。これは 古代ギリシャの歴史家トゥキディデスのセキュリティ・ジレンマなのだという。(引用)国際政治では、国家間の対立状況を分析する際に「安全保障のジレンマ」という理論がしばしば使われる。それは、古代ギリシャの歴史家トゥキディデス(前460頃~前400年頃)の著「戦史」から抽出される国際政治のリアリズム論だ。 前5世紀のアテネとスパルタの戦いの真因は何か。 トゥキディデスによると、結論はこうだ。 ペロポネソス戦争の真因はアテネとスパルタによる制海権の争奪戦にあり、一方的なアテネの力の増大がスパルタに恐怖を引き起こし、戦争を不可避にしたのだ-と。 すべての国が自国のみの実力を向上させようとする一国独自の行動は、逆にお互いの不安感を高める。 なぜなら、ある国が他からの脅威を受けないようにするために自国の実力を増強すると、他の国はその国から自国を守ろうとする心理が働くためだ。こうした国家心理が働く状態が「安全保障のジレンマ」だ。 さがみ野駅を北方に曲がる。 途中で道を迷いそうになって、何度も地図をとりだしては、自分の(続く)位置と行く道筋を確認する。位置情報でみればすぐわかるのだろうけれども、あえて数十年前に購入した地図を見ながら、いろいろ推測を加えてその都度判断する。これも脳細胞の活性化につながるというべきか。巡礼Walking には地図帳が欠かせない。立野台小学校のところを左折し、座間市水道局の配水池前を過ぎて、星谷寺(しょうこくじ)に着く。亡き母にいただいた数珠をとり出し、妙法蓮華経のいわゆる観音経全巻を読誦する。今回の3回目の巡礼Walking は母に感謝するためでもある。
2015年10月17日
歩くを 英語で訳すと walk ところが いわゆる ウオーキング にはそれにふさわしい日本語がない辞書でウオーキングは1 歩くこと。歩行。2 健康維持・体力増強のための歩行運動。3 競歩。で ここでは2番目でウオーキングが日本語として普及し定着した。一般社団法人日本ウオーキング協会にはウオーキングは、人が人として生きる上で一番大切な機能です。二足歩行は、私達がいかなる生活の活動の場でも、自立して生きる上で必要な機能なのです。足は単に移動手段として機能しているのではなく、上半身を支え、心肺機能に活力を与え、脳の活性化を促進し、活力寿命を維持延伸しているのです。 そして、ウオーキングはこれらの活力源として、人がより活性化するための運動であり、スポーツです。子どもから大人まで、ウオーキングをすることで自らの健康づくりは勿論のこと、社会に貢献できる大きな役割りを担っているのです。「人がより活性化するための運動」で「スポーツ」だという。観音巡礼Walking(私称) は 巡礼 と ウオーキング を合体させたコンセプトである。「心肺機能に活力を与え、脳の活性化を促進し、活力寿命を維持延伸」であろうとすれば有酸素運動でなければならない。ググルと「ウォーキングはいつ、どれくらいやればいい?」と問題提起があり、朝食前です。運動を始めると、まず糖質がエネルギーとして使われ始めますが、朝食前は血液中に糖質が少ないので、かわりに脂肪が燃えやすくなるといわれています。「ウォーキングはどれくらいの時間したらいいでしょう?」ではウォーキングなどの有酸素運動は、開始から20分以上経過したあとの方が、脂肪燃焼の効果は大きい。とある、ふむ、観音巡礼Walkingでは朝6時くらいから 3時間ないし4時間 ウオーキング しているから十分であろう。歩き方について「ウォーキングは大股&早足で!」とある。ウォーキングは背筋を伸ばして、いつもより少し大股で、少し早足で歩くと効果がグンとあがります。その理由は、ふくらはぎの伸び縮みにあります。ふくらはぎは「第二の心臓」と呼ばれています。人間の身体は、心臓がポンプの役目をしていて、全身に新鮮な血液を送ってくれています。そうして足の方まで送られた血液が、重力に逆らって静脈をのぼって、心臓まで戻るには、相当な力が必要になります。そこで、ふくらはぎが第二の心臓として、ポンプの役目をして、汚れた血液を心臓に押し戻してくれます。 なるほど速足は意識していたが、大股ではさほど意識していなかった、ふくらはぎの伸縮のためなんだ。「ウォーキングの前に、カフェインをとるといい。コーヒー、紅茶、緑茶などに含まれるカフェインには、脂肪の分解を促進してくれる効果がある。ウォーキングに出かける30分前ぐらいに飲めば、さらに効果アップが期待できる」とある。 ダイエットのためではないから、この知識はパス。 更に糖尿病を発症する前ならカフェインは脂肪燃焼によいが、既に2型糖尿病になってしまった人にとっては、大量の『カフェイン』は炭水化物(ブドウ糖)の利用効率を悪くして高血糖に結びつく恐れがあるとある。「ウォーキングしたあとに牛乳を飲むといい。運動したあとにたんぱく質をとると、効率的に筋力アップできる。牛乳にはたんぱく質が多く、吸収もされやすい。」 なるほどウォーキング後にタンパク質をとると筋力アップにつながるか。第2番霊場のあと、栃木屋で胡麻豆腐をいただいたのは効果的であるというべきか。ウォーキングの前にお茶やコーヒーなど水分を多くとると、途中トイレに困るので基本はとらない。巡礼後に、落花生、木の実やバナナなど液体でないものを食べながら、ウォーキングしている。前置きがだいぶん長くなったが第5回目は 第7番金目観音である。これまで2回の巡礼は平塚駅からバスに乗って参った。今回は 巡礼 &(アンド) Walking なので伊勢原駅から大磯駅に向かうことにし、金目川沿いの第7番金目観音 に参って 金目川沿いに下って行くというプランである。伊勢原駅を朝6時20分に出発して金目観音に向かう。途中、初冠雪した富士山がよく見えた。田んぼが多くさえぎる建物の少ないこの道沿いからの富士山の眺めもよい。前回4回目 第6番飯山観音に参った後、伊勢原駅に向かおうとしたら、地図を持っていなかったこともあり、途中で迷ってしまい、3時間半ウォーキングしたあとで、バスで厚木駅に向かっていささか中途半端なものに終わってしまった。今回は地図を持っていったのだが、途中国道62号線を歩いているつもりで、61号線を歩いているのに気付いた。61号線だと 伊勢原から平塚市街地へ一直線で、金目川とは遭遇しない。南豊田から湘南平の丘陵(きゅうりょう)をランドマーク(めあて)にして横道に歩く。渋田川と鈴川の合流地点の前の立堀橋を渡り、都合2つの川を横断して、金目川に当り、今度は上流に向かって歩く。だいぶん大幅に無駄に歩いたようだが、ある意味、巡礼Walkingの面白さかもしれない、迷うと脳を活性化させ、正しい道に軌道を戻すために地図を見、ランドマークや太陽の向きなどを考慮して歩く。今の季節は、みかんや柿がたわわに実り、コスモスの群生は朱色からピンクまでさまざまなグラデュエーションを映えて目を楽しませる。1時間40分近く、遠回りして金目観音に着いた。般若心経、観音経の偈文(げもん)を暗誦する。飯泉観音では、偈文を途中で度忘れして「ごめんなさい、今度はしっかり読めるようにして参ります」と心のうちに謝罪した。帰り尼僧の方が清掃していたので「おはようございます、ありがとうございます」とあいさつした。飯山観音では 老人の男性の方が清掃されていた。先日テレビで「掃除」と「清掃」の違いは何かをやっていた。「掃除」は汚れたところをきれいにすること、「清掃」は全体をきれいにする、汚れていてもいなくてもすべてをきれいにすることだったが、その意味では、清掃、すべてを、お寺も心もきれいにしているともいえようか。金目川沿いに車道のない、土手の上の道を歩く。水面のきらめき、あっ、ハヤが群れている。おおきな鷺(さぎ)が飛び、アオサギが川の真ん中でじっとたたずんでいる。眼の前を トンボが群れ飛ぶ。せせらぎの音、鳥のさえずり、秋を知らせる虫の音も心地よい。川沿いに歩くと 五感を通して 秋が自然が感じさせられる、これこそ観音巡礼Walkingの功徳というべきか、金目川から大磯駅まで北側の道を初めて通ったが結構遠かった。大磯駅から二宮駅に一駅電車にのって降りる。第3回目の観音巡礼Walkingで大磯から飯泉観音に東海道沿いに Walkingしていたとき、ここ、二宮駅前で 落花生 と看板を掲げた店があり気になっていたのだ。観音巡礼Walkingの楽しみの一つは地元の名物と出会えることだ。「二宮名産」とうたってある。「落花生は二宮名物なんですか?」と店の主に聞くと「落花生はここ二宮から広まったんだよ」とミニ知識。なんでも横浜で南京豆(むかしはナンキンマメっていったでしょ)の栽培方法を教えてもらって、ここ二宮で栽培したのが初めてだよとおっしゃる。残念なことに 素煎り(すいり)の落花生はなく、塩がふってあるのが残念であったが「二宮の落花生はおいしいよ」と太鼓判をおされる。確かにおいしかった、今度殻つきの落花生を買って食べてみよう。
2015年10月12日
板東観音巡礼第6番は飯山観音である。 厚木の北、飯山温泉郷にある。9日の朝、出勤途中、「おはようございます」と〇〇さんから あいさつ された。「おはようございます」とまじまじを顔を見て、あいさつ すると「帽子をかぶっていて分からなかった? いい天気ね」「ほんとうですね、ウォーキングするには ちょうどいい季節ですね。いま 巡礼ウォーキングをやっていまして」「・・・」「健康のためにウォーキングをしようと休みのたびに家の周りを2、3時間いろいろ散歩したんですけど、見慣れた風景にあきてしまうので、そうだ、巡礼とウォーキングと組み合わせてみようと思いついて最初、鎌倉と逗子の第1番から4番まで6時間かけて歩いて・・・」「へー、6時間も・・・」「そうしたら、どうも靴の足の甲への当り具合が悪かったのか、家にかえって見ると、甲から血がにじみだしてきましてね、ガーゼを待って 1、2週間おとなしくしていました。無理はしないほうがいいという身体のシグナルと受け取って、それから3時間くらいを目安に2回目、藤沢から大磯、3回目、大磯から小田原と刻んで 第5番 二宮金次郎ゆかりの 飯泉観音にまいってきましあ。この 巡礼とウォーキングの組み合わせのいいところは、見慣れない景色を見て、行く道に集中するので脳の活性化にもいいよです。また1番から2番に歩いていく途中米屋がやっている米粉のパンを売っている店があったり、第2番から第3番に行く途中に栃木屋という豆腐屋さんがあって、テラス席があるので、胡麻豆腐をいただいたり、土地土地のおいしいものとの出会いもあります。」(続く)」
2015年10月10日
職場にて「このあいだ、人間ドックを受けたら体重が4キロ減っていてね、少しショックだったよ。」「それは野菜ばかりで良質のたんぱく質をとっていないからですよ」「うん、そこで最近、カツオのなまぶしとか、マグロのハーブの燻製とか食べているけどその分運動しなくてはと、休みの日は2時間近く歩いているんだ。 今度のシルバーウィークは、坂東観音霊場を歩いて巡礼しようかと思っているんだ」「藤沢から片瀬山、寺分尾根道沿いに源氏山を越え化粧坂を降り、鶴ケ丘八幡宮を経て坂東観音霊場杉本寺に来ました。2人の母(実母と家内の母)の菩提を祈ってきます」10:31 逗子にある第2番霊場に行く途中に米屋さんのやっているパン屋があり、カレーパン(揚げたものではない)と こめパン を買う。「この こめパンって全部米粉が原料ですか?」「いいえ、80パーセントが米粉で20%が小麦粉です」うん、いずれも美味しい。「逗子の第二番霊場岩殿寺に着きました。150段の石段をあがると、遥かかなたに逗子の海が見えます。」11:32岩殿寺への県道からの入り口に栃木屋という豆腐屋があり、いろんな種類の豆腐を売っている。入り口のテラスにはベンチがおいてあり、休めるようになっている。黒ゴマの豆腐を買う。「テラスで食べられますか?」「はい」とスプーンをいただく。畏友木谷文弘が癌で59歳で亡くなった時、悲しくて鎌倉の1番から4番まで歩き遍路した。ちょうど第3番安養院に行く途中で、今野先生にその旨をメールしたら、お悔やみの文章とともに、最後に「いずれ私たちもですね」とあった。まことにそのとおりである。いつも今野先生の言葉を腹の底に置き、胸に当てている。「信」とは人の言葉と書く。「誠」とは言葉が成ると書く。いつも尊敬する人の言葉と共にあり、言葉が成就するように勤めることができれば素敵な人生といえようか。先日、今野先生にお会いしたとき、帰りがけ秘書の方に言われた。「〇〇さんは赤ちゃんのようですね」まことに赤子のごとく、信じ、誠(まごころ)を尽す。「鎌倉に戻り、第3番霊場安養院に着きました。ここは浄土宗のお寺で、北条政子が源頼朝を弔うために建てたお寺でで安養院は政子の出家の名前だそうです」12:26「長谷寺に着きました。さすがに人でごったがえしています。外国人も多くフランス語や中国語も聞こえます。今日はここで終了です」13:046時間歩き通して自宅に帰ると、足の甲から鮮血がにじんてきていた。「あんまり歩きすぎて、足がすれてしまったんじゃないの」「うん、もう無理はできない、ほどほどにしないさいと、体が少し悲鳴をあげたのかもね」第1番 大蔵山 杉本寺(神奈川県鎌倉市) 本尊 十一面観音像(伝行基、慈覚大師、恵心僧都)第2番 海雲山 岩殿寺(神奈川県逗子市) 本尊 十一面観音像(伝行基)第3番 祇園山 安養院田代寺(神奈川県鎌倉市) 千手観音像第4番 海光山 長谷寺(神奈川県鎌倉市) 本尊 本尊 十一面観音像(徳三上人)
2015年09月20日
岡田佐平治・良一郎、掛川に新資料 1日から一般公開(2015/5/ 1 )尊徳の死去を知らせるために良一郎が佐平治に宛てた手紙=掛川市立中央図書館 江戸時代の農政家二宮尊徳の報徳思想を遠州地方に広めた岡田佐平治と長男の良一郎に関する千点近い新たな資料が、掛川市で発見された。佐平治が尊徳を訪ねた際の道中日記や尊徳の死去を知らせるために良一郎が佐平治に宛てた手紙など。大日本報徳社と同市立中央図書館が1日から主要な資料を特別展示し、一般に公開する。 昨年秋、同市倉真の報徳神社内にあるかつての岡田家の蔵から見つかった。常葉大短期大学部非常勤講師の高木敬雄さん(65)=同市本郷=が、過去に同じ蔵から出ていた資料と合わせて調査した。 道中日記では、1853年に佐平治ら「遠州報徳先覚七人衆」が尊徳と面会するために現在の栃木県日光市へ向かった時の行程が克明に記されている。通説では一行の出発は8月10日とされるが、日記では8月4日から6日にかけて順次、たったと書かれていた。 また、8月30日の日光到着まで「なぜ1カ月近くかかったかは検証されていなかった」(高木さん)が、同行した尊徳の門人安居院庄七が病気となり、現在の小田原市で10日間も足止めを余儀なくされたことが分かった。 このほかに、遠州での報徳運動を“公認”してもらうため、佐平治が尊徳に渡した「遠州報徳村々書上」の写しも出てきた。尊徳は1856年10月20日に亡くなったが、その2年前から尊徳の元で学んでいた良一郎は、11月2日付で佐平治にこの情報を伝えている。 高木さんは「遠州での報徳運動の黎明(れいめい)期の様子やその後の発展していく経過がよく分かる」と資料を評価している。 特別展示は24日まで同図書館で。月曜は休館。3日午前9時半からは報徳社で常会が開かれ、高木さんが講演する。参加無料。
2015年05月03日
永らく本会発刊の本が空白であった近畿地方の唯一県奈良県で、奈良市立図書館が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と「二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎」の蔵書館となった。とても嬉しい。以前、百観音霊場を巡ったことがあり、近畿の三十三観音霊場を経巡ったものである。板東と違って、西国三十三観音霊場は、第一が那智の瀧の青岸渡寺から始まって、琵琶湖の中の島とか、天の橋立など山海の風光明媚なところが選ばれている。まことに難行と物見遊山が合体したような巡礼の旅である。なかでも奈良県の長谷寺は好きなお寺であって、巨大な観音像のいます楼台から緑の山々を楽しんだものである。ウォークマンのカセットの時代で、観音経を読誦したテープを聴きながら、長谷寺の境内を散策していると、お坊さんに お茶でもいかが と誘われたことがあった。道を急ぎますのでと丁寧にお断りして立ち去ったことも思い出される。 子供が小さいころ、深夜バスに乗って、朝夕寒い3月、法隆寺に詣でたこともある。朝が早すぎ、まだ開門していないため、近くのコンビニで暖をとって、法隆寺を巡り、高松古墳を見て廻り、一日飛鳥路を楽しんだものである。 そういう懐かしい思い出があり、奈良の地に本会発行の本がないことを少し残念に思っていたのだが、奈良市立中央図書館で蔵書としていただいて、嬉しかったのである。 平成25年10月19日現在ボーイズ・ビー・アンビシャス : 《クラーク精神》&札幌農学校の三人組 (宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造) と広井勇 (2013年3月発行)蔵書図書館一覧全84図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 12図書館岩手県立図書館 山形県立図書館 茨城県立図書館 埼玉県立図書館 東京都立中央図書館 富山県立図書館 長野県立図書館 福井県立図書館 広島県立図書館 徳島県立図書館 鹿児島県立図書館 沖縄県立図書館 市区町村立図書館 41図書館札幌市立図書館 江別市立図書館 恵庭市立図書館 北広島市立図書館 岩見沢市立図書館 砂川市立図書館 苫小牧市立図書館 函館市立図書館 旭川市立図書館 網走市立図書館 釧路市立図書館 帯広市立図書館 市立富良野図書館 小樽市立図書館 千歳市立図書館幕別町立図書館 中標津町立図書館 美幌町立図書館奥州市立水沢図書館 花巻市立図書館 相馬市立図書館会津若松会津図書館 日光市立図書館 桐生市立図書館 安中市立図書館 館林市立図書館 渋川市立図書館秦野市立図書館 大和市立図書館 平塚市立図書館 二宮町立図書館 湯河原町立図書館御殿場市立図書館 掛川市立図書館 袋井市立図書館 静岡市立清水図書館 森町立図書館 吉田町立図書館金沢市立図書館 奈良市立図書館 垂水市立図書館 大学図書館 29図書館青山学院大学 岩手大学 宇都宮大学 鹿児島純心女子短期大学 鹿児島大学 鹿屋体育大学 金沢大学 九州大学 高知大学総合情報センター中央館 神戸大学 福井大学 聖隷クリストフアー大学 拓殖大学 玉川大学 東京大学 京都大学 東京農業大学 東京農業大学(オホーツク) 東洋大学弘前大学 北星学園大学 北海道大学 宮城教育大学 小樽商科大学 鹿児島純心女子大学 高野山大学 早稲田大学 敬和学園大学同志社女子大学 「二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎」(2013年1月発行)蔵書図書館一覧全49図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 12図書館福島県立図書館 富山県立図書館 福井県立図書館埼玉県立熊谷図書館 静岡県立図書館 石川県立図書館広島県立図書館 岡山県立図書館 徳島県立図書館 熊本県立図書館鹿児島県立図書館 沖縄県立図書館 市区町村立図書館 29図書館奥州市立水沢図書館相馬市立図書館日光市立図書館 栃木市立図書館 真岡市立図書館横浜市立図書館 鎌倉市立図書館 大和市立図書館 平塚市図書館 秦野市立図書館 厚木市立図書館 藤沢市立図書館 大和市立図書館二宮町立図書館 寒川町立図書館 湯河原町立図書館御殿場市立図書館 静岡市立図書館 藤枝市立図書館 御前崎市立図書館 掛川市立図書館 森町立図書館 袋井市立図書館 磐田市立図書館 浜松市立図書館 裾野市立図書館 菊川市立図書館 吉田町立図書館奈良市立図書館 大学図書館 8図書館青山学院大学 岩手大学情報メディアセンター 金沢大学 拓殖大学 東京農業大学図書館(オホーツク) 長崎大学 高知大学総合情報センター中央館 関東学院大学
2013年10月20日
◆尊徳の教え後世に2012年5月27日クレーン車に引かれ、西方向に水平移動される木造2階建て寄せ棟造りの「仰徳学寮」。右奥は掛川城=26日、掛川市で まきを背負って本を読む少年の像でおなじみの二宮金次郎(尊徳、1787~1856年)ゆかりの大日本報徳社(掛川市掛川)で、明治期に建てられた皇室建築、近代和風建築の修復・移転工事が進められている。敷地内を庭園化して、隣接する掛川城公園などと併せて教育文化ゾーンにする計画で、来年3月の完成を目指す。26日から建物を水平移動させる曳屋(ひきや)作業が始まり、18年かけて総事業費7億円に及んだ"平成の大修復"は大詰めを迎えた。 同報徳社の敷地四千二十平方メートルには、事務所のほかに、明治初期から昭和戦前までに新築、移築された五棟がある。 平成の大修復は、一九九四年の調査から始まった。二〇〇〇~〇一年に、鉄筋コンクリート造りの図書館では県内最古の報徳図書館(一九二七年築、県指定文化財)が、〇四~〇八年には木造二階建て入り母屋造りの大講堂(一九〇三年築、国重要文化財)が全面修復された。 今年三月に再開した工事では、東京の旧有栖川宮邸の一部が移築された「仰徳(こうとく)学寮」(一八八四年築、市指定文化財)と、「仰徳記念館」(同)のうち、仰徳学寮を北西方向に移転。併せて、尊徳の高弟・岡田良一郎の私塾だった「冀北(きほく)学舎」(一八七七年築、同)など三棟の耐震性向上などに力を入れる。 事業費は、図書館に一億円、大講堂に四億五千万円、今回の三棟には一億五千万円を要した。各文化財の由来は異なるが、多くの人に親しんでもらえる施設に、という関係者の熱意は同じ。来春には報徳運動の新しい拠点としてよみがえる。◆榛村純一社長「価値ある空間に」榛村純一社長 大日本報徳社の榛村純一社長(77)に平成の大修復への思いなどを聞いた。 -大修復が終盤を迎えました。 「仰徳学寮と記念館は、今はほとんどなくなった宮廷建築。敷地内の建物はいずれも建築史的な価値が高く、報徳社の伝統の豊かさを示している」 -完了後はどうなるのでしょうか。 「建物の配置や環境が一新され、価値ある精神的な空間に生まれ変わる。全国から人々が訪れ、感ずるものがあればいいし、報徳運動の拠点として、もう百年輝き続けたらいいと思う」 -報徳の教えについて。 「中国の知人から『日本は大丈夫?』と聞かれると、まきを背負って本を読む金次郎の姿を、日本人が忘れなければ大丈夫と答えている。農村社会が減って、ツールとしては古くなったかもしれないが、教えそのものは今も完全に生きている」(佐野太郎)
2012年06月08日
日光に行ってきた。今市の報徳二宮神社に「鈴木藤三郎氏顕彰第3集」を奉納するためである。雲一つない 素晴らしいお天気であった。共同編集代表者である 森の元気屋 さんと 北千住で待ち合わせて、東武鉄道の特急スペーシアで下今市駅に到着する。いまいち一円会のK先生に北千住で電話していて、報徳ニ宮神社の境内で待ち合わせた。報徳ニ宮神社には既に宅配便で、第3集を送付し、また宮司様にも前日に伺うことを連絡してあったので、中に通された。別に用意した5冊を出して、御初穂とともに揃える。神前で恭しく祝詞をあげていただき、お払いを受けて、第3集を供え、榊を捧げた。第3集の印刷製本したのを見て、装丁が立派だと中身もしっかりしているように見えることに驚いた。形を整えることの大切さは、尊徳先生が後に遠州地方に報徳を説いて回った 福山滝助 に「菓」と「果」という字の作りで諭されたことでもある。福山滝助、当時 多喜蔵が尊徳に初めて面謁したのは、天保14年8月とされる。報徳社世話人の尾嶋屋忠次郎に伴われて、江戸の小田原藩邸に行った。そこでは、門人およそ14~5人が机を並べて仕事をしており、首席は富田高慶、次席は波多(吉良)八郎で、福住正兄もその列の中にいたという。尊徳はこのとき、鏡に向って自分で髪を調えており、それが済むと面会してくれた。尊徳は多喜蔵に目を向けると、尋ねた。「何商売か?」「菓子屋です。」「菓子の菓と因果の果と、違いがあるか?」妙な質問に多喜蔵がとまどっていると、正兄が口をはさんだ。「草冠があるのと、ないとの違いがあります。」「しかし、音は同じだし、形も似ているではないか。」「それはそうです。」と正兄は答えた。そこで尊徳は多喜蔵に向い次のように説いた。「何事でも第一に肝要なのは形なのだ。形が似なければ、精神も同じものを顕わすことができない。だから、もし人がわが道を修めようと思うならば、まず形から入らなければならない。」神前で神主様にお祓いを受け榊を捧げて厳粛な気分になった。厳粛な雰囲気で森の元気屋さんと第3集を奉納すると、尊徳先生に嘉納していただいたような心持ちになる。ちょうど遠州七人組が日光で病に伏した尊徳先生と何日も待たされた後、やっと面会できて、遠州地方での報徳活動を公認してもらったともこのような心持ちであったろうかとも思われた。一回きりの出逢いが歴史的な出会いとなる場合がある。松坂の一夜 もそれである。本居宣長は、生涯の師と仰ぐ賀茂真淵(かものまぶち)に松坂(現在の三重県松阪市)で一度だけ出会う。それほど世に知られているわけではないが、日光での遠州7人組と尊徳先生との出会いもまたそういうところがある。禅宗でいう衣鉢が渡されたというか、遠州地方の報徳運動が正当な後継者であることを認知された日であったのである。そういうものとは違うのだが、心の中で何か一区切りがついたような気持ちとなったのである。お昼は報徳蕎麦を食べに行ったが、ほとんど待たされることなく案内されて天ぷらざるを美味しく頂いた。その後、K先生のお車で、日光市内へと向かう。「あれが男体山です。その隣りが・・・」と説明をいただく。金谷ホテルの最初の建物跡や日光奉行所跡などを案内していただいた。実にこの日光奉行所跡の近くの桜秀坊で、遠州7人組は尊徳先生に面会したのである。もちろん、それを偲ぶ建物や記念碑などはない。1852年(嘉永5)の暮、佐野郡成滝村(現掛川市)の平岩佐兵衛は、旧主の病気見舞いのために江戸に向かったが、その際二宮尊徳が相馬藩の中屋敷に滞在していることを聞きつけた。佐兵衛はさっそく訪問したが会えず、二度目にも会えず、明けて正月7日3度目にして面会することができた。その時尊徳は遠州の報徳の重立った世話人たちを当方に呼ぶよう取り次ぐことを、佐兵衛に指示した。勇躍遠州に帰郷した佐兵衛は、それを遠州の報徳人に知らせたのである。1853年春の報徳大参会は山名郡高部村(現袋井市)の高山藤左衛門方で開かれた。ここで遠州報徳連中419人の総代として日光にいる尊徳のところにだれがいくかが議せられ、7人が選ばれた。佐野郡影森村(現掛川市)内田啓助、倉真村岡田佐平治、気賀郡竹田兵左衛門、同町松井藤太夫、森町村中村常蔵、同村山中里助、下石田村神谷久太郎の7人である。同年8月10日一行は安居院庄七に連れられ出発した。一行は二手に分かれ、佐平治、里助、常蔵、久太郎の4人は、途中十日市場にある安居院家を訪れたり、曽比村(現小田原市)の剣持広吉のところで報徳の資料を写したりして、尊徳のいる桜秀坊を訪ねたのは9月に入ってからだった。9月4日一行は揃って桜秀坊を訪ねたが、尊徳は多忙のため会えない。やむなく一行は仕法書を写しつつ逗留を続けた。待つこと1週間以上に及び13日にやっと面会することができた。庄七にとっても尊徳に直接会うのは初めてであり、一行の感慨はひとしおであったろう。一行は「報徳安楽談」などの報徳書を頂戴して、面会の2日後帰途についた。桜秀坊では里助も多くの仕法書を写した。と、「森町史」通史編下巻(59~61頁)にはある。1853 嘉永6年 9月14日 新村里助、中村常蔵ら遠州報徳連中代表7人、安居院庄七とともに日光桜秀坊にて二宮尊徳と面会する。森町出身の新村里助、中村常蔵がそこで親しく尊徳先生の話を聞いて仕法書を書き写したのである。来年1月には森町有志で、今市の報徳ニ宮神社を訪問する計画があるという。 今の我が身の 幸せたどりゃ 父や母 また御先祖様が 徳を残した 有難さ 譲る心の 尊さが 日本の国に生きている 噫々(ああ)二宮金次郎その後、今市振興会館など見学会に向けて現地を回った。いい一日に感謝します(^.^)
2010年12月05日
東京小名木川 日本精製糖株式会社 江東区教育委員会所蔵 黒煙を吐く工場の前では、荷物を引いた蒸気船(通運丸)が小名木川を進んでいる。工場は昭和16年(1941)に台湾へ移転し、跡地の北砂5丁目団地内に、「我国精製糖工業発祥之地」の石碑がある。 11月7日、浅草の観音様の早朝勤行に参列した後、思いついて 鈴木藤三郎 が江東区の小名木川のほとりに立てた日本精製糖会社を記念する「日本精製糖発祥の地」の碑を捜しにいったことはすでに『我国精製糖発祥之地』碑を探してで紹介した。 小名木川は静かに水が流れているが、かって黒煙を吐きながら精製糖(白砂糖)を作っていた当時の面影はとうになく、ただ大きな団地の間の公園の一画に碑と説明板がひっそりとたたずんでいる。 当時を偲ばせる写真が、中川番所資料館にしまわれているということだが、川釣りの竿の特集展で展示されてはいなかったが、写真の載った「江東地域の400年 小名木川とその周辺」のカタログを買っていた。「小名木川と近代産業」にはこうある。(2)精糖工場 明治以降、砂糖の需要が増大しましたが、国産の精製糖(白砂糖)の製造はまだ行われていなかったため、香港から精白糖を輸入していました。 明治22年(1889)、鈴木藤三郎が小名木川南岸(北砂5丁目)に氷砂糖の製造工場を設立し、独学で研究を進めた結果、日本で初めて精製糖の製造に成功しました。 明治28年、第三十九国立銀行東京支店長の長尾三十郎らの協力で日本精製糖株式会社が設立され、2年後には工場の東側に第二工場が新設されました。 鈴木は製糖工場の社長を退いた後も、その隣に日本醤油製造会社東京工場を設立し、製茶・製塩・醤油醸造・水産物用乾燥機など、人々の生活の基礎となる食料品の製造法を確立しました。 午後、麻生の都立中央図書館に寄った。検索したところ、鈴木藤三郎著の「乾燥国富論」があるということで確認しにいったのである。 幸い全文コピーできたので、森町においても貴重な資料になろうかと、森の元気屋さんにも送付した。 「乾燥国富論」は藤三郎が醤油醸造で社会から指弾され、全財産を供出してその責めをおうた後、再度、乾燥機会の発明で日本国に貢献しようとしたものである。 まことに将来を予見して数々の発明を行った。 何よりもそのくじけぬ精神力にはただただ感歎する。 現在、「洋行日記」を少しずつ登載している。 「日本糖業論」「乾燥国富論」もいずれ登載しようと思う。 そうすれば、現在入手できる鈴木藤三郎史料集も一応完成し、鈴木藤三郎を顕彰することにもなろうか。
2009年11月11日
10月13日 森町での「鈴木藤三郎勉強会」に参加するため、掛川駅から遠州浜名湖線に乗って遠州森駅に着いたのが午後4時過ぎである。勉強会は午後7時からの予定であるから、当初6時過ぎに到着できればいいとも思ったのであるが、そうだ、庵山の福寿観音さまと鈴木藤三郎のお墓に参ってこようと早めに出かけたのである。8月27日(日)に「森町見学会」のときは、高速道路を袋田のインターで降りて森町役場の方へ直行したのだが、こうして単線の電車に乗って秋の遠州の風景を車窓から眺めながら行くのもまたいいものだ。駅から商工会所の1階のルモンドという喫茶店に電話をかけ、いったん荷物を置かしていただけますか?とお願いする。庵山への山道を公演へと歩を進める。福寿観音様は鈴木藤三郎が生母の7回忌法要のために建立したものだ。明治34年、鈴木藤三郎は鈴木鉄工部で観世音菩薩の銅像を3体鋳造させた。原型は大熊氏廣氏の作ったもので、御身丈は1丈に余り、眉間の白毫は藤三郎の金のカウス・ボタンを鑄潰して入れたという。その一体は郷里森町の延壽山に、一体は鎌倉の別荘に、あと一体は台湾の橋仔頭工場の構内に建立した。森町の延寿山に建てたのは実母の7回忌追福の為で曹洞宗管長西有穆山禅師が「福寿海無量の功徳有難や母の為とて建てし御仏」という御詠歌を作られて、福寿観音と称して、今でも同地方の霊場の一つになっているという。(「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」291頁)ここから森町が一望できる。母の供養だけでなく、藤三郎が愛した郷里をお護りいただきたいという願いがこもっているようでもある。鈴木藤三郎の墓はここからほど近い旧周智農林学校を望むところに建っている。ルモンドさんで、「先日高校の先生が来たとき、話を聞いたら、私たちも藤三郎の墓域を清掃したものですよと話していました」とのこと。郷土の偉大な先人の業績を顕彰しようとこの11月27日、28日に「発明王を生んだ町 鈴木藤三郎」展を開催するという。そういう時期にこうして「報徳記を読む会」が見学会を行い、「勉強会」に参加できて嬉しいことであった。
2009年10月14日
板東観音霊場は、鎌倉の杉本寺から始まる。2番霊場は逗子の岩殿寺である。3月に畏友木谷さんが亡くなったときに、供養のため巡ったとき以来だ。その折は、杉本寺の正面のほうの山あいから辿る「平成の巡礼道」伝いに巡ったものである。小山からの相模湾のうらうらの海が美しかった。本来の古巡礼の道は報国寺の脇から出ている。岩場にゆかりの深い趣きのある巡礼の道である。 1番 杉本寺 --→ <五大明王院> -----------→ 2番 ---→ 岩殿寺 ----(名越の切通し)---- ←---- 逗子駅 ←---- 4番 ←---- 3番 ←---- 長谷寺 安養院 途中 五大明王院 に寄る。佐々井典比古氏の「尊徳の森」に尊徳先生のよき理解者で、老中水野越前守に幕府登用を推挙したのではともいわれている弁算和尚の4番目の墓があると記されているが、いまだに確認できない。「弁算の4番目の墓は、鎌倉市一二所の六浦街道沿い、もと真言宗明王院の墓地にある。県道の改修で圧縮整理された墓域の中央、ひときわ大きく、明王院へ向けて北面しているのが弁算の墓で、総高118センチ、西浦賀の笠屋長七母が寄進した。仙台石巻産の石材でできている。そして、少し離れた明王院の本堂脇には、弁算揮毫に成る、大師一千忌の光明真言塔と、地蔵尊が並んでいる。この三者は、いずれも安政2年、住職恵法が三浦半島一円の講中の寄進で建立したと認められ、弁算の感化がこの地方へも広く、深く及んでいたことを物語っている。」(同書296ページ) 岩殿寺 ウィキより 岩殿寺(がんでんじ)は神奈川県逗子市にある曹洞宗の寺院。山号は海雲山。本尊は十一面観音。通称、岩殿観音。逗子八景の1つ。また、一時期逗子に滞在した泉鏡花が当寺をしばしば訪れたことが知られる。 岩殿寺縁起 相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。 それゆえ、当山は徳上、行基両上人の開基と言われている。また、大非殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。 正暦元年庚寅春三月十七日六十五代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三カ所第二番の霊場とお定めになった。なお、源頼朝が蛭ケ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、夢に現われてお告げを蒙ることがしばしばあったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大非の冥助幾度も得て、立直れたというが、なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人ととなって頼朝を房州洲崎に渡してたちまち十一面観世音の妙容をあらわして、三浦の方にとび去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。ここの坂の上からの眺めながら、父のことを思う。家族ふれあい新聞にかって岩殿寺に参ってバスを待っていたとき、 トンビ が高い電柱の上に 羽根を休めていたのをみて、トンビの目線で文章を綴ったものを送ったら、父が褒めていたと母から聞いたことがある。そういうこともあって、ここに参ると、父のことを思うのである。まことに家族ふれあい新聞を1200号以上続けていて、思ったことは、親というものは有難いものであるということであった。
2009年09月25日
ウィキペディアより浄光明寺(じょうこうみょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。開基は北条長時。開山は真阿。本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で、足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と仮粧坂(けわいざか)に近い泉ヶ谷という谷戸に位置する。山号の泉谷山は谷戸の名にちなむものである。寺伝によれば、建長3年(1251年)、北条長時が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿であった。それ以前、源頼朝の命により文覚上人の建てた草庵があったともいうが、定かでない。なお、永仁4年(1296年)の開山(真阿)譲状には北条時頼と長時が開基であると記されている。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)、36歳で死去し、浄光明寺に葬られた。開山の真阿は浄土宗系の僧であるが、当寺は創建当初から兼学(複数の宗派が並存)の寺であり、3世の高恵(智庵和上)の時から四宗兼学となって近世末に至っている(「四宗」は必ずしも4つの宗派に限らず、真言、天台、浄土、華厳、禅、律を含む)。 浄光明寺は、萩の花が咲き乱れていた。ここはいつでも静かな観光客の少ないお寺で瀟洒なお庭がある。上のほうには、木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像 - 正安元年(1299年)の作が安置され、運がよければ拝むことができる。また、入り口付近に石造の楊貴妃観音像がある。京都の本山である泉涌寺の観音像を模刻したものである。ああ、そうだ、お彼岸だ、せっかくだ、杉本寺へ回って観音様にお参りしようと思ったものだ。
2009年09月25日
こうして「栢山詣で」の旅は終わり帰途につく。二宮総本家の家に立ち寄ってそこで小田原に出る者、国府津に行く者別れいく。筆者の犀東氏は中川氏、百穂氏とともに国府津街道に出て「酒匂川の土手に登りて、早瀬の川に網張れる、渡し舟のいと危ぶきをうち渡させ、小石のカワラを歩みゆきて、仮橋一つを越し、土手より下りて」と歩み行く。 先の道の一木氏と留岡氏との話が聞えてくる。「さても何事の遂げられるるともなく、年のみ長けて、いと心もとなし。いかにもして命を延びつべき工夫せずでは、思ふことの半ばもなしとげえざるべし。よき工夫もがな。」「それには時々に、金原翁が75歳の身を以て、若者ともろともに旅行にいづるが如く、つねに若者にうちまじわりて、旅行するが一つの工夫なるべし。」一木氏はうなずいて更に聞く。「二宮翁はいささかも政治の事には、口をも開かざりしが、かってさることもありしや。」「外舶のしきりに来たりし頃、(嘉永年間)容赦なく打ち払えとの幕命ありしを聞き、翁はそはあまりに事を知らざるの振舞いならめ。来るものが幾たびとなく理を尽くして乞いぬるを、ただ打ちはらえというは、人情にあらず、来る者も人情を尽くせば、迎うる者も人情を尽くすべしと、松前の女郎歌をひき、 外交には人情を本とすべきことを説かれしと覚ゆ。政治の事を語られしは、ただこの事ありしのみにて、そのほかはきかず。」という。一村を過ぎて、また野を行きぬ。こうして国府津駅に出て、一茶亭でミルクを飲み、サンドウィッチをつまみ汽車が来るまで休憩する。上りの汽車の乗って、よもやまの話は続く。岡田氏は大船で降りて鎌倉へ向う。品川で床次氏ら3名下車し、汽車は新橋につく。顧みれば2日にわたりしこの栢山詣でのいかに楽しかりしぞ。世に旅は多からん。されどこの日つどえる人の、ふたたびまどいして、かかる楽しき日をくらさんと、人の生さらにあるべきや。ましてひじりの生まれませる、山秀で水清らかなる、楽園の秋に、飽くまで香ばしき稲のにおいを衣にしめて、生きたる昔し語りを、山に問い水に聞きたる、いとなつかしともなつかし。
2009年08月31日
一行は少年監を出て、歩いて栢山へと向う。栢山の二宮金次郎の生家は、もともと寛保2(1741)年に建てられ、天明7(1787)年に金次郎がこの家で生まれている。しかし、二宮金次郎が15歳の時、一家離散したとき、この家も売られ、他の場所に二度ほど移築されたものが、昭和35年(1960年)に誕生地に「かや葺き寄木棟造」建物は当時の姿で復元されたものであり、当然明治39年10月14日のこの時勿論存在していなかった。 土地も真珠王御木本幸吉が土地を買い戻し、大谷石の石壁を作らせた。石垣は、明治42年(1909年)、御木本幸吉氏(真珠王)によって寄贈されたものであるから、石垣もまだ存在していなかったのである。水やなぎの並木、土手につづける処、瀬川の清きかわらに架けし橋を渡りぬ。 狩野川の橋とぞいうなる。留岡氏われらを呼び止めて、橋の真ん中に立ち、坪井氏が小田原より持ちきつる無花果(いちじく)をわかちて、渇きをいやしつつ、さて物語るよう、『昔し尊徳翁、服部家の仕法をなしける時、故ありて栢山に帰らんとて、この川にさしかかり、網して雑魚(ざこ)を取れる一群れを見しに、その長ともいうべき一人、諸人(もろびと)と共に網して、獲る所はすべてそれらを分ち与えり。余ありて後、自らそれを取りぬ。翁これを見ていたく感じたりけん。後服部家の仕法をしとげ、百両を謝金としてもらいけるとき、我の取るべきものにあらずとて、これを下女下男に与えたりしは、この漁夫の業(しぐさ)にならえるものならん。(以下略)』一行は二宮総本家の二宮長太郎家で昼食をとる。堀信次氏(東京府第一部長)、小田原から来た2人をあわせ20名となった。二宮尊徳の菩提寺、善栄寺に詣でる。「東に向ける墓の一基、二宮氏とわかりたるが、尊徳翁の法名もなく、祖先代々の法名だけをつらねて、翁のなき骸、ダビにふせられ、同じくこの中に倶会しありとぞいうなる。一行は生家跡へと赴く。 細きアゼ道の小祠に通ずる彼方に茂りあえる桑畑、ここぞ 尊徳翁の誕生したる家のあとなりというなり。尊徳翁の家すたれてより、今にもなお万兵衛の持てる地内に属するとかや。古橋うしは、しきりにこの地を買い求めて、真の誕生地に、いささかにても、記念にすべきものを建てまほしと、繰り返してぞ語りける。 この3年後、御木本翁が資金を出してこの土地を買ったのは、おそらくは古橋源六郎氏の志願と働きかけがあったのかもしれない。 ここを百穂画伯が、古橋氏の選んだ場所から描いた絵が掲載してあるが、「何もない場所」である。それはそれで「人の心の内」にあるというべきか。
2009年08月30日
国府犀東氏は湯本万翠楼の書画を延々と描写される。徂徠、頼山陽の書など興趣をそそるものであったのであろう。「一滴の酒にはや満面あけに染みたる鈴木氏、さすがに明治の砂糖王とて、上戸にあらで、果然たる第一の下戸らし。・・・一座に上戸の人一人だに見受けざりしぞ、いとめずらしの心地せられし。・・・飯のあとに猪口(ちょこ)一杯の酒を乾せる金原翁、飯すみてさらに菓子の甘きをめずる白仁氏、こは砂糖王の国へ行き住むべき人ならめ。」というのが面白い。夕食を終えてめいめい温泉につかりに行く。さて、その後の話が興趣がつきない、ぜひその場にいて聞いてみたかった心地がする。浴みの人はみな座につきて金原翁はしきりに、昔しの物語などしつ、大久保利通翁のこと、西郷高森翁の事、三條、岩倉両翁公の事、いづれも維新の当時を思い出されぬ。古橋氏もこれにつづきて、元田永孚翁の事などを物語り出でつ、さては富田高慶翁が 尊徳翁に教を承けし時の事に及びぬ。高慶翁が相馬藩侯より興復の事を命ぜられ、野州桜町に尊徳翁を尋ねて、教えを乞わんとしたるに、『さる暇もなければ、いまは逢いがたし』とて、うけがわれず。高慶翁も志堅き人なれば、なかなかに屈せず、逢わるるまではこの地を去らずと心を定め、労役のともがらに交わりて、尊徳翁に逢われん日を待ち、ついに『いかでかこの地を去らざりしや』『何を聞かんためにや』と問われ、始めて深かくその志に感ぜられ、教えをうけてその衣鉢を伝えるにいたりしなり。この「栢山詣での記 国府犀東」が載ったのは、第1編第7号(明治39年10月23日号)である。おそらくはここの記事がきっかけで古橋氏は「「富田高慶翁と西郷南洲翁」 「富田高慶翁と西郷南洲翁その2」 を寄稿されたのであろうか。大変貴重な記録といえる。二宮尊親氏によると、日光仕法書原本を読まれたのは古橋氏一人であると井口丑二氏が伝えている。巻数は約1万からありますが、ただ1通あるのみでは、万一の欠失も心配されるし、ひろく縦覧に供することもできず、遺憾なりというので、鈴木の篤志で、謄写の業を起し、明治39年1月から筆工約15,6人を入れて、約3年にして成就しました。この書類を通読したる者は、一人もありません。見ても容易に分かりません。ただ一人愛知県の古橋源六郎氏、両3日滞在しましたが、日光ひな形を見て感激し、始めて道理が分かったと喜びました。富田は10年苦学して、治国済民の術を求めて得ず、ついに桜町に行き、実地を学んで、始めて了解したのですが、今この書類を調べると、各地仕法の有様が詳細に分かります。古橋氏は湯本の宿で報徳の同志にさらにこのようにその心法を伝えたのである。高慶翁の還りて相馬藩の仕方を立てしとき、禄をも受けず力をもからず、尊徳翁より借り得し金を本とし、己が一身の料には、学問を人に教えて得つる宝をそれに充てしとぞ。藩侯の禄を受けざりしは、すべて改革を行うとき、その地に禄を受けなば、それがために、さまざまなそねみ、めたみを受けるおそれもあり、事を成すに妨げ多しとの、深き用心に出でたりとは、古橋氏の物語りなり。高慶翁が家老にいいつけ、綿服(わたいれ)をおくらしめしをさえ受けもせず、『仕法も立たねば、寒きこの頃、着る衣(ころも)なき民も候わん。仕方の立つまでは、綿服を着け候はず』といと雄々しく答えられしとは、高慶翁の教えをうけし、古橋うしが、ものがたられし所なり。
2009年08月30日
午後の2時すぎ、新橋を出でて間もあらず覚ゆるを、端書の札を手から手へと伝えて、己が名をそれへ書きつらねなどしつ、くさぐさ話の興に入り、尊徳翁をぬきんでんとおもいまうけましし閣老の要職に在りし大久保忠真侯の詩に「無雲世界秋三五。共看蟾盤上海涯。直到天頭天蓋処。不曽私照一人家」(雲無し世界秋三五。共看蟾盤海涯に上る。直に天頭天蓋処に到。曽て私に一人家を照らさず)とあるは、いかに高潔なる理想を歌いしものかなどと味わいつるほどに、一駅又一駅、覚えずすぎて、列車はこの話三昧に耽りける羅漢の一群れを運び、はや平沼駅に着く。平沼駅は現在存在しない。1901年(明治34年)~1915年(大正4年)に、東海道本線の短絡線上に横浜駅(当時はスイッチバック式)の代替として設けられていた鉄道駅とWikiにはある。ここで、内務書記官の中川望氏、五十嵐鉱三郎氏が乗ってくる。そして制服で入ってきたのが有馬典獄である。この日、中川、五十嵐氏は有馬典獄に伴われて横浜感化院を巡視してきたのであった。そして今回の旅の目的の一つは小田原の感化院を慰問することであり、そこで感化更生事業に身を投ぜられていた金原明善翁が感動的な説話をされる。『大船、大船。逗子鎌倉行きは乗換え』、帽に手をかけ、かすかに笑みて車窓の外に立てるは、岡田良平氏(貴族院議員、前文部次官)。和服にていと身軽るに装い、つと列車に入り、また隣り仕切りの椅子に一人を添えぬ。金原翁と、古橋うしとのほか、和服の人とてはなきに、かくて和服は3人となりぬ。 天下太平、日月清明、五穀成就、万民安泰、山河草木、国土豊かに、一塵動かぬ野の末、山の隈、秋玲瓏の空澄み渡りて、金色の雲、富士のそがひに夕焼けのこる頃、波打ち際の松並木を左りに、汽車はや進行を止めて、国府津(こうづ)駅に下車す。大船で岡田良平氏が乗ってくる。当時の報徳運動の主要の面々がこうして一同に旅をする、おそらくは留岡氏の差配によるものであろうか。流麗なる筆で列車の窓越しの風景が描写され、湯本の駅に着くのである。旅先の宿はいわずとしれた尊徳先生の高弟の一人福住正江の経営する湯本万翠楼である。
2009年08月30日
栢山詣での記 国府犀東 その1栢山詣での記 国府犀東 その2 あな、なつかしの栢山村、17,8年の前、年16,7の時、始めて『報徳記』を読み霊火にもえにし若き胸一つに、ただその幼(いと)けなくして家道の廃れるに逢い、つらさ悲しき事のみ多かりしを、我が身のうえのごとくに泣き伏しつ、いよよ読み行きて雄々しく猛(た)けき経世済民のいと大なる人となりませるに、いやしき心も空(そら)になり、己れその人になりたらんよう、いと猛々しき心地して、机辺の壁に貼られし、ナポレオン、ビスマルクの絵像よりも、さらに大なる人の面影、ありありと目の前に幻となりしそのかみより、ひとたびは尋ね行きて、この大なる人の生まれませる跡をとぶらはんと、幾たびか思いたちたりし 相模の栢山村を、ゆくりなくもおとづれ得たるを、そこばくのえにしありとやいはめ、なしとやいはめ、なつかしきこと限りなし 。(略) この国府犀東という人はどういう人であろうか。七五調の流れるような文で興趣を誘う。 全国名前辞典にはこうある。 国府 犀東(國府 犀東)こくぶ さいとう 1873. 2.(明治 6)ー1950. 2.27(昭和25) ◇漢詩人・新体詩人・文章家。幼名は長松のち種徳(タネノリ)、初号は聴松。金沢市堅町(犀川の東)生れ。四高を経て東京帝国大学法科中退。1907(明治40)内務省に入り、のち宮内省御用掛。大正・昭和初期の詔勅などを起草する。 内務省、宮内省の役人で文章をよくした方らしい。確かにこの 栢山詣での記 に登場する仲間は役人が多いのである。明治の末ごろ、報徳運動は国の官庁の主なるメンバーを動かす力を持っていたようなのである。 (明治)39年の10月、富士の高嶺に雪白妙の今朝はれて、野路に稲の実こぼれんばかり香ばしき秋の13日、なつかしき栢山村にゆかんとて、新橋の駅につどわれし、報徳会のともがき12人。 『稲の香や 十二羅漢の最寄(もやひ)汽車』 (略) 12人の名前を挙げれば 金原明善翁<天竜川の治水、植林事業で著名> 古橋源六郎氏(愛知県農会副長稲橋村長) 鈴木藤三郎氏(衆議院議員) 留岡幸助(報徳会評議員家庭学校長)、 ここだけみてもすごいメンバーだとわかる。このGAIAでもしばしば登場する報徳運動の歴史上の人物である。金原明善翁については、吉兵衛さんが送ってくれた本の内容をおいおい紹介しよう。 その他はおおむね役人である。 白仁武氏(文部省普通学務局長) 床次竹二郎氏(内務省地方局長) 井上友一氏(内務省書記官) 奥山万次郎氏(農商務省特許局事務官) 大橋重省氏(地方局)それに、 平福百穂氏(画伯)、坪井忍氏それに国府犀東氏の12人である。平福百穂画伯の絵が添えられていて、興趣を深めている旅行記である。
2009年08月30日
現在、「報徳本教・青木村治績」をブログで少しずつ紹介している。これは明治後半から昭和初期にかけて報徳関係者が発刊していた雑誌である。 もとはといえば「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」を作成するにあたって、今1歩踏み込もうと藤三郎氏本人の講演なり寄稿を探していたところ、この「斯民」という雑誌に豊富に載っていたのである。「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」の資料的価値の高さもまた、一つには報徳文庫を起草するにあたっての藤三郎氏の願文等関係書類を掲載したこととこの「斯民」の藤三郎氏掲載記事を収集して載せたことにあろう。 どうも物事は継起するものらしく、県立図書館で「斯民」の鈴木藤三郎氏の記事をコピーする際に気になる記事が2つあった。一つは「富田高慶翁と西郷隆盛翁」についてのべた古橋源六郎氏の記事であり、すでにこのGAIAでも登載した。古橋源六郎は、実に富田高慶その人から教えを乞い、日光仕法書原文を明治になって通覧したたった一人の人である。富田高慶に暇乞いするにあたっての話も実に味わい深い。( 「富田高慶翁と西郷隆盛翁」その2)もう一つが現在連載中の、「報徳本教・青木村治績」である。その時、一部しかコピーしなかったのであるが、その第1編第1号(明治39年4月23日)から第2編第11号(明治41年2月7日)の「報徳本教・青木村治績(9)完」まで都合9回にわたって掲載されているのである。原文は漢語で、著者は幕府の役人で尊徳先生の門人ともなった小田又蔵氏である。青木堰は「報徳記を読む会」有志で見学会に行った。桜川市のT先生にご案内いただいてとても充実した見学会となった。そこでT先生にその徳に報いることになろうかと、現在アップ中であるが、なにせ元が漢文なせいか現在使われない漢字が多く、意味も分らないことも多く、なかなか大変である。小を積んで大を為す方式で9月から今市市史の日光仕法掲載を一時休止して、「報徳本教・青木村治績」を掲載し、完成したらT先生に送って差上げようという構想である。ということで、県立図書館に再びおもむいて残りの部分もすべてコピーしてきた。尊徳先生は大工が仕事をするまえにその鉋の刃を研ぐといった事前の準備を大事にされた。いわばその準備は整ったといえる。ところがそのコピーの箇所を探している際に「栢山詣での記 国府犀東」というのに目が留まった。なんとここまで触れてきた古橋源六郎、鈴木藤三郎氏、これから触れたいと思っている金原明善氏(吉兵衛さんから「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」のお礼として贈って来たから、これもGAIAで紹介しとかなくてはね。あれもこれも登載したいものは沢山あるが、まずは一歩一歩右足左足交互に着実に歩んでまいろう。)などそうそうたるメンバーの栢山訪問記で、すこぶる面白い。以下少しずつ抜粋してみよう。 栢山詣での記 国府犀東(読みやすくするため大幅に手直しした) 豊葦原を開きて瑞穂の国となしたまいし昔は、鍬一鍬より始めたまえりとて、人の世に勤労ほど尊き宝なきことを教え、自らもまた、一生の歴史に、活きたる標本を示して、興国安民の道と、分度推譲の法とを立て、あらゆる困難、あらゆる障害に打ちかって、今より約50年の前に、鋤と鍬とのすれ尽きるまで戦い続け、最後の凱歌をあげて、と仰がれる、相模のひじり、日本のひじり、さては世界のひじりというべき、天使二宮尊徳翁の産沙(うぶすな)なる相模の栢山村。 (続く)
2009年08月30日
今日、9時15分から12時45分まで、もう一つの「報徳記を読む会」をKさんと2人で開催した。Kさんは、園芸業の方だが、「報徳要典」を古書のネットで買い求めた熱心な方である。巻の6を全部読了した。下館仕法までは、原文、現代語訳、参考資料と読んでいったがそこでもう2時間経過してしまったので、後半の相馬仕法は現代語訳は省略して、参考資料を中心に読んだ。最後に「二宮尊徳の相馬仕法」の後記を読む。「亡くなられた岩崎敏夫さんの後記の文章は、エッセイのようでとってもいいんだ。」 二宮尊徳の興国安民の仕法は、全国諸所に行われて成績をあげたが、とくに念入りにそして大規模に行われた日光神領の仕法を別にすれば、小藩ながら、もっともよく行われて実績をあげたのは相馬藩の仕法であった。それは二宮四大門人といわれた中の2人富田高慶と斎藤高行が相馬の人であったばかりでなく、藩主充胤をはじめ全藩あげて協力出来たことが原因となっている。その意味では相馬の仕法は、二宮仕法のいわば雛形のようなものであるから、これを詳細にすることによって、全体の仕法を明らかにすることが出来ると思われる。 私なども子供の時分から、二宮尊徳の話を聞かせられてきた。相馬では尊徳は「二宮先生」であり、富田高慶翁とともに信頼のまとであった。疲弊しきった明治直前の相馬は、二人の指導者によってみごとに復興し、栄える相馬になったのを、明治の老人たちは皆目で見、耳で聞いてよく知っていたのである。かって相馬にみなぎりあふれ、指導精神となった報徳精神は、さらに相馬に一段と古くからあった武士道精神とともに、人びとの心のすみに今なお名残をとどめて生きているのである。私は相馬人として相馬の仕法を書いてみたかった。 ちょうど太平洋戦争が終わって間もない頃、旧藩主家の相馬恵胤氏から、相馬が大きな恩恵を受けた二宮の事績を明らかにしてもらいたい、との依頼を受けた。尊徳は当時としては珍しい民主的な考えをもっていた人らしいから、戦後の新しい指針の参考にするためにも、改めて見直すべきだということであった。私も喜んで相馬家に所蔵されていた村々の仕法に関する原資料を検討して整理してみた。それがこの本の初稿であった。 気がついてみると、相馬の私の周囲にはなお仕法の名残が、人々の心の中にいくらも残っていることがよくわかった。富田翁や仕法に直接関係のあった人々のことを覚えている人が多くいて、例えば高慶翁は、いつもにぎり飯を腰にぶらさげて、道の端の方をうつむきかげんに小股に歩く人であったとか、そういう話はよく聞かされた。何の記録にであったか、高慶次女菅野ハル刀自の話として、「父は温和で小言は全然言わず、母にもやさしかったが、眼光はけいけいとしてみつめられるとおそろしかった。」とか、高慶孫富田テル刀自の話として、「祖父は写真嫌いで残っていない。木像は大槻吉直氏のくれたものでやはり相馬の佐藤朝山作である。斎藤三郎さんが記憶にある似顔を描いたのを土台に彫った。祖父は朝は粥と梅干。酒は少しは飲んだ。イチジクが好き。川魚も好き。そばも好きであった。しかし美食はしなかった。病気は胃けいれん、皮膚病、神経麻痺などで、耳も目も丈夫でなかった。痔も患った。風邪もよくひいた。」というようなことが伝わっている。 佐藤玄々作の木彫というのが、今も富田家に大事に保存されている。それに珍しいのは同家にかかる高慶の描いたものだと伝えている尊徳の略画があることである。 村長や小学校の校長の中にも、報徳精神を熱心に鼓吹している人が当時はまだいて、大野村の名村長といわれた猪狩雄祐氏なども実践者の一人であった。(略) 相馬市には愛宕山に、慈隆和尚と並んで二宮尊徳の墓があり、ここから相馬における仕法最初の地坪田、成田方面の耕土が望まれる。私共は中学校の生徒の時分には、二宮尊徳の命日に、全校生で墓参するのがならいで二宮祭といっていた。墓地周辺の赤松には、秋風がさわやかに鳴り渡り、時には初茸など見つけることもあって印象に残っている。同じ墓の少し離れた所に草野家老の墓がある。尊徳の娘文子の墓は別の墓地に斎藤高行の墓と並んでおり、尊行以下二宮家の墓は、富田家のと並んでいる。・・・・ 昭和45年1月 岩崎敏夫「愛宕山の二宮尊徳の墓からは、相馬仕法の最初の地、坪田・成田がのぞめるんだって。いいねえ。今度、一緒に相馬に行きましょうか?」「ぜひ、お願いします。」読書会に参加する予定だったが、仕事の都合で出席できなかったSさんにもメールした。「5月過ぎ落ち着いて、相馬地方を案内してくれるいい人が現れたら、一緒に相馬見学会に参加しない?」いいねえと返信がきた。
2009年04月05日
よみがえる金次郎 二 宮 尊 徳 青木村のあゆみ はじめに 吉野白山植樹・記念碑・記念誌発刊にあたって 春暖の候となり桜の開花も間近になりました。 (略) 平成20年5月のはじめ私が尊敬している郷土史家、舘野義久氏から昭和30年代まで青木堰付近にありました桜木は、ニ宮尊徳先生と深い関わりのある桜木であるという貴重な古文書を拝見し感動致しました。その内容は嘉永5年(1852)4月17日付けのニ宮金次郎(尊徳)から、領主旗本、川副氏家臣、青木村御趣法役、荒川泰輔宛の手紙でありました。(私の古文書にも荒川泰輔氏の名が登場しています。)「青木村桜川堰近辺の桜木は大和国吉野から雨引山楽法山を経て、実生の吉野桜が青木の地に植えられた」とその経過が詳細に記されています。 私は伝統と由緒ある吉野桜の存在を知り、吉野桜の母種樹から育てられた実生の桜木を、青木の地へ再現出来たら、・・・・全員参加の水利組合奉仕作業の折り皆様に申し上げた結果、是非とも桜導入を実現して欲しいとの結論に至りました。早速、茨城県筑西農業改良普及センター・・・奈良県・財団法人保勝会・・・と連絡を取り、・・・当地域の歴史と熱意を理解していただき、・・・・桜苗木導入の実が結びました。 直ちに・・・吉野桜植樹実行委員会を結成し、・・・ニ宮尊徳先生ゆかりの青木堰付近に、実生吉野白山桜を植樹し再現できました。今後この桜木を大切に育て花を咲かせて、集落の和をもった連帯の証となることを願っています。 併せて、ニ宮尊徳先生への報恩の念と青木のご先祖様への感謝を捧げるため、ニ宮先生回村の記念碑と青木村仕法から現在に至る記念誌を発刊いたしました。・・・ 平成21年3月8日 吉野桜植樹実行委員会 委員長 廣澤光一郎
2009年03月14日
このブログで茨城県のニ宮尊徳ゆかりの青木堰があった桜川に吉野桜を植えるというプロジェクトとを紹介した。こういう記事である。植樹:記念碑除幕しサクラ植える 二宮尊徳が再建の桜川市青木堰広場 /茨城 江戸末期、疲弊した農村復興などに功績を残した二宮尊徳(1787~1856)ゆかりの地、桜川市青木の青木堰(せき)広場で8日、尊徳の回村記念碑の除幕とサクラの植樹などが行われた。 青木村は桜川に作られた堰が壊れたことなどから江戸末期に荒廃。1834年、尊徳の指導で堰は見事に再建された。同時に堰周辺に植えられた「吉野桜」がサクラの名所として長年、親しまれてきたが、1950年代、堰の改修工事で大半が伐採されて姿を消した。 昨年5月に尊徳の手紙を読み、堰の吉野桜と尊徳の関係を知った広沢光一郎さん(71)が吉野桜植樹実行委員会を発足し、昨年12月、吉野桜の本場、奈良県を訪問。財団法人「吉野山保勝会」に吉野白山桜の苗木20本を譲り受けた。 除幕された記念碑は台座を含めて高さ2・5メートル、横約3メートルで、尊徳の業績と桜の由来が刻まれている。広沢委員長は「実行委員会を桜を育てる会に変え、この桜を大切に育てたい」と話している。以前、「報徳記を読む会」で桜町陣屋とこの青木堰の見学会を実施した。この折、桜川市教育委員会教育長の舘野さんにご案内いただいた。舘野先生は報徳記に出てくる舘野勘右衛門のご子孫ということで、その説明も素晴らしく、参加した会員は「よかった」と口をそろえていた。 平成20年10月18日(土) 桜町陣屋・青木堰見学会(「会報」より抜粋)(略)陣屋で蕎麦を食べた後、青木堰へと向う。桜川教育委員の舘野義久先生に現地で説明を受ける。舘野先生は報徳記巻の2に出てくる舘野勘右衛門の子孫であり、青木堰の研究の第一人者である。この案内板の説明も舘野先生が書かれた。「尊徳先生に勘右衛門ら青木村の一同が陳情に行った時、まずカヤを刈らせたのを舘野先生が『青木村の尊徳仕法は、心に生い茂ったカヤを刈り取る心田開発から始められた』といわれた指摘は素敵ですね」と言うと笑われていた。「以前、大和駅から歩いてここまで来た時、川の砂が本当に細かくて、尊徳先生が堰を築くまで大雨が降ると堰が何度も流れたとか、堰を築くのが難工事だった理由が分かったんですが、なぜこんなに砂が細かいのですか?」と聞いたら、ここらは大理石の産地でその粉となったのが流れ込んでる。当時、桜町陣屋には石工や大工の技能集団がいて、それらが総出で青木堰を建築したのだという。その技術屋の一部は青木に住み付いてその後の堰の改修で働いた。だから青木には石工などが多いのだと言われた。また、桜町のほうは高田の専修寺があり浄土真宗の信者が多く、ここ青木は天台宗が盛んで仲が悪かった。しかし高田の専修寺は信濃の善光寺と同じで全宗派を受け入れる善光寺系の寺であったため、青木から参った人が桜町での尊徳先生の事業の成功を聞いて勘右衛門の嘆願に繋がったのではないかとおっしゃった。江戸時代の土地の所有などいろいろお聴きした中で、医者や酒屋は薬代や酒代のかたに土地を押さえ、明治の維新後、所有権の概念が取り入れられて地主になっているケースが多いというのが面白かった。 青木堰跡を見学した後、舘野先生は「二宮尊徳先生顕彰碑」のところまで案内してくださった。わざわざ原文とそれを茨城大学の瀬谷名誉教授が下し文にされたものまで用意してくださっていた。感謝感謝である。「報徳先生は 姓は二宮 名は尊徳 相模の国栢山の人なり先生は天地の功徳に報ゆるを以て教えと為す その至る所は 則ち荒蕪を開き 民の窮するを救う 故に人称して報徳先生と曰(い)う 先生は青木村にいたり 救窮の方修を立て 堰を廃し 荒田を開き 以て窮を化して富を致す 村民今に至るまで先生の徳を称(たた)えて忘れざる也(以下略)」顕彰碑見学した後、青木堰の木材を寺の門に使った薬王寺へ案内していただいた。ここの案内板も舘野先生が書かれたのだという。こうある。「薬王寺山門(遺堰記念門)この寺の山門は「遺堰記念門」と称し二宮尊徳翁(金次郎)の遺業を後世に伝え恩徳に報いるべく村人の熱い思いによって大正7年に再建されたものである。宗祖伝教大師1100年御聖忌法要記念修行並びに山門落慶供養の御礼に記されている原文『山門の材は当字桜川の北方に二宮尊徳翁の建造に成る翁の三大遺堰の一の材料にて大正5年8月の大洪水の為めに破れ現在の新堰となり以て不用となる。余思いらく、この材を歴史的に考え門として翁の徳を永久に追慕し恩徳に報いんと有志と謀り手て是に山門と建つ。依って遺堰記念門と称す』 平成5年10月 桜川市教育委員会」薬王寺は徳一上人の創建で始めは法相宗だったが、その後天台宗に変わったという歴史の古い名刹である。ちょうど寺の住職が出て来られて本堂の二宮尊徳の位牌を拝ませてもらった。青木村の人々がこうして歴代、尊徳先生の徳を忘れず感謝しているということが嬉しい。庭に大きいもみじの木が有り、紅葉すると美しいという。舘野先生にお礼を言って帰途に着いた。帰りがけ浅草寺に寄ったが、本堂の戸が閉まっていたので外から礼拝した後、大黒屋で江戸風の天丼を食べて解散した。翌日、舘野先生に焼酎と泉橋を二本組みにして贈った。舘野先生からお礼の電話があり、10月26日掛川市で開催される報徳サミットに30名行くのでそこで飲みますとの事でした。夜、仕事から家に帰ると、その舘野先生からクロネコメール便が届いていた。なかには立派な冊子が入っていた。「 よみがえる金次郎 二 宮 尊 徳 青木村のあゆみ 」「拝啓 桜の便りも間近くなりました。この度、ニ宮尊徳ゆかりの吉野桜植樹と記念碑建立に合わせて記念誌を発刊いたしました。ご一読いただければ幸甚に存じます。 再会の日を楽しみにしております。 敬具」とあった。有難いことである。あの折もニ宮尊徳と吉野桜の話をされていて感銘を受けたものだ。その後もきっちり追っかけていますよ。感謝感謝である。来週、「報徳記を読む会」の見学会に参加したメンバーに回覧させていただこう。舘野先生を思うと「報徳訓」を思う。先祖や親の勤労や陰徳があって今の自分が有り、今の自分の勤労と推譲が子孫の繁栄に確かに繋がっている証(あかし)のようにも思われるのである。
2009年03月13日
植樹:記念碑除幕しサクラ植える 二宮尊徳が再建の桜川市青木堰広場 /茨城 江戸末期、疲弊した農村復興などに功績を残した二宮尊徳(1787~1856)ゆかりの地、桜川市青木の青木堰(せき)広場で8日、尊徳の回村記念碑の除幕とサクラの植樹などが行われた。 青木村は桜川に作られた堰が壊れたことなどから江戸末期に荒廃。1834年、尊徳の指導で堰は見事に再建された。同時に堰周辺に植えられた「吉野桜」がサクラの名所として長年、親しまれてきたが、1950年代、堰の改修工事で大半が伐採されて姿を消した。 昨年5月に尊徳の手紙を読み、堰の吉野桜と尊徳の関係を知った広沢光一郎さん(71)が吉野桜植樹実行委員会を発足し、昨年12月、吉野桜の本場、奈良県を訪問。財団法人「吉野山保勝会」に吉野白山桜の苗木20本を譲り受けた。 除幕された記念碑は台座を含めて高さ2・5メートル、横約3メートルで、尊徳の業績と桜の由来が刻まれている。広沢委員長は「実行委員会を桜を育てる会に変え、この桜を大切に育てたい」と話している。 【小林昭雄】桜町治績【56】青木堰普請のこと 天保4年に翁は青木の堰普請に従事す。横山周平の子息平太もまた常に随って出張せり。時に年24歳なり。遠路のこと故未明に陣屋を出て夜に入(い)りて家(うち)に帰れり。同年中に落成す。之がために同地方は田畑ともに広く開墾することを得て77町の田を開くことを得たり。この川は桜川と称し泥深き川にて堰普請をなすも随って崩れしが翁の時に至って根本的に之を修築せり。桜町より青木までは道程3里ありしが翁の健脚なる青木に至りて自ら鍬を取って役夫を指揮し荒地の開墾に従事し家に帰りし後も疲労を感ぜざりし故、村民もその健脚に驚きしが翁はなお陣屋へ帰りてより3ヶ村をめぐり密行的視察をなして足洗いの池にて足を洗い、別に家人(かじん)の手を煩わさずして寝に就き、かくして青木に通いおりしこと非凡の人にあらざれば到底なし得ざることである。「ツキを呼ぶ魔法の言葉ゴールドラッシュ」マスオさん朗読CDを聞くこと288回今野華都子先生の講演会のCDを聴くこと608回
2009年03月09日
桜川の青木堰 「二宮先生ゆかりの吉野桜を復活させたい」。江戸時代末期に活躍した篤農家二宮尊徳(金次郎)ゆかりの桜が植えられていた桜川市青木地区。青木堰(ぜき)の改修工事で伐採され姿を消したが、地元住民が桜植樹実行委員会を立ち上げ、桜の復活に動き出した。 二宮尊徳は、村民から頼まれて、荒廃していた同地区で農村復興事業を手がけ、青木堰の建設などに尽力した。事業の仕上げとして、桜の名所で知られる奈良県吉野山の桜を植え、以後、集落の住民たちは尊徳ゆかりの桜を大切にしてきたが、昭和30年代に行われた堰の改修工事で伐採されてしまった。 今回の計画は、昨年5月、実行委員長の広沢光一郎さん(71)が、先祖代々伝わる尊徳直筆の手紙の解読を、郷土史家の舘野義久さん(76)に依頼したのがきっかけ。手紙は嘉永5年(1852年)、尊徳が領主の旗本川副氏の家臣荒川泰輔にあてたもの。青木堰が作られた理由や村民同士が協力すること、植えた桜の木を大切にすることなどが書かれていた。 手紙によって桜の存在を知った舘野さんもその後、同年の別の手紙に「青木村桜川の堰付近の桜木は、本邦第一大和国吉野の実生桜にして、雨引山楽法寺(雨引観音)が丹精こめて育成した桜木なり、その実生は高価にして何百文にても得べし」とあるのを文献の中に発見した。 子供の頃、桜の季節になると青木堰周辺が花見でにぎわった記憶のある広沢さんは、尊徳が死ぬまで村の行く末を案じていたことを知り、集落の歴史を後世に伝えるために、吉野桜を復活させたいと思うようになった。住民に話を持ちかけると144人が趣旨に賛同し実行委が発足、約260万円のカンパが集まったという。 一方、吉野桜の譲渡を依頼された財団法人「吉野山保勝会」(奈良県吉野町)も住民の熱意に応え、樹齢1000年以上の吉野白山桜を母種樹とする実生の苗木17本を特別に提供してくれた。 8日には、地元小学生らを招いて吉野桜の植樹と、尊徳の教えを記した「報徳不忘」の記念碑の除幕式が行われる。広沢さんは「青木の現在があるのは過去があるから」と話している。(2009年3月7日 読売新聞)昨年「報徳記を読む会」でこの青木堰後を見学に行った。舘野義久桜川市教育委員会委員長にご案内をいただいて、とても有意義な見学会であった。その折にこの吉野桜を桜川沿いに植える計画があることを話されていたのである。桜川の名にふさわしく吉野桜が咲き誇るイメージを描く。尊徳先生は桜がお好きで会ったのか、箱根でも湯治に来た客に桜くらい見せてやれよと自ら桜の苗木を取り寄せて湯治場の近くの山に植えたという記録が残っている。青木の堰のあたりが吉野桜で満開でなればきっとにっこりと微笑まれることであろうか。
2009年03月07日
藤曲といえば二宮尊徳の藤曲仕法は有名で、模範とされたという。二宮尊徳全集 第19巻 仕法 小田原領6 解題 にはこうある。 富士東麓諸村の仕法は、数十個村にわたるものであるが、約70ヶ村中、天保凶饉後の救護仕法を受けなかったものはほとんどなかった。諸村中、報徳心の湧発によって、仕法を懇願した十数ヶ村には、その情勢に従って負債償還仕法より、進んで永安仕法を行ったものがあって、これらは既に当時他の範例となり、また後鑑となったものである。藤曲村の仕法、御殿場の仕法、竈新田の仕法等は甚だ有名なものであったのみならず、藤曲村の仕法は当時にあっても、後世においても著名な範例とせられ、竈新田には、現に知足財団として将来に永遠の仕法たる使命を発揮しつつある根基を作ったものである。 藤曲の仕法はいちはやく仕法開始を懇願し、熱誠に教旨を遵奉し実践したために、その仕法書は甚だ入念に認められた。・・・ 仕法書中の教化形式を表明した最も著しいものは「日掛縄索(ひがけなわない)帳」と「難村取直相続手段帳」とである。・・・藤曲の仕法書は、ほとんど仕法書の経典として、報徳の社徒の崇敬して止まざるところである。特に中庸の、天命の章を提げ来たって、これを日常生活に対照し、結局は 智者は奪ひ、富者は驕り、貧者は羨む、この煩悩を去らずんば、村柄立直り不申という千古の金言をもって、天道にのみ支配される禽獣虫魚の生活より、富者必貧の輪廻を脱却せんと努めたのである。藤曲村では名主平四郎が率先はしたが、68軒の百姓が余りに甲乙なく一致の精進を行った。 藤曲浅間神社には、二宮金次郎追悼碑がある。円の石に「誠明院功誉報徳中正居士」という法名が刻んである。円の脇には「二宮金治郎」と書いてある。本名は金治郎で小田原藩の役人が金次郎と書いたので、金次郎で通したという説をよく聞くが、二宮康裕氏の「二宮金次郎の人生と思想」には「金次郎、金治郎、金二郎、金次良、金治良」の5種類を使用しており、真偽は確認できにくいとされ、「金次郎」を採用されている。その理由として1 「金次郎」が圧倒的に多い。(金次郎が記した書簡3618通(全集所収)のうち、金次郎と署名のあるのが3277通と90%、金治郎は230通で6%)また、公私別なく「金次郎」が多い。2 金治郎は嘉永年間の決められた月に集中。金次郎はまんべんなく記されている。3 一族宛の書簡もほとんど「金次郎」とある。4 金次郎の建立した両親の墓石には「金次郎」とある。 今回の見学会の参考にさせてもらった報徳博物館の発行した「友の会だより73」の第17回友の会見学ツアー 御厨地地方の報徳群像の跡を訪ねる にはこう説明がある。「天保8年、尊徳は名主鈴木平四郎家を拠点として、お手元金の配分や救援米代金の貸付けを行いました。又、同家は村民が尊徳の教えを受ける集会所にもなりました。 平四郎以下村民は恩恵に感謝し、総出で縄綯いや山稼ぎなどに励み、集めた金を報徳金として差し出しました。 尊徳の没した翌安政4年10月、平四郎等村民は慶林寺境内に墓碑を建立。上部の円の中に「誠明院功誉報徳中正居士」と刻してあります。大正10年に八幡神社境内に移され、昭和10年に現在地に移されました。 その八幡様の前を流れる「藤曲用水」は、慶林寺の耕雲和尚が托鉢をして自力で300間(540メートル)のトンネルを穿(うが)ってほったもので、後に尊徳の指導で改修されたという説があります。 Sさんがその慶林寺の跡地を案内してくれる。網目の鋼板の下をゴウゴウと水が流れている。「天保7年に耕雲和尚が、自分も何か人のためになることをやろうと思い立って、あの山をうがって水を引くことを考えて10年かかってズイ道を引いたそうです。」「天保七年というと天保の大飢饉の年ですね」県道のバイパスがこの慶林寺の跡地を通ることになり、観音堂を移築したとかでバイパスの下のトンネルをくぐってお参りした。案内板にはこうある。「天保7年より弘化3年(1846年)耕雲和尚10年の歳月をかけ、大久保より藤曲にトンネルを掘り、藤曲用水路を貫通させ藤曲20町歩の水田が恩恵を受ける」
2009年02月15日
「御殿場」とは、江戸時代の初め、徳川家康が大御所として隠居していた駿府から足柄峠を越えて江戸へ往来する際の宿泊施設として造営されたこの「御殿」に由来するのだという。沼津代官だった長野九左衛門清定が、この土地の豪族芹澤将監に作られたものと案内板にある。御殿跡があったという吾妻神社に隣接する建物に御殿の模型が作ったものが保存されている。
2009年02月15日
パソコンの調子が悪く、デジカメの取り込みができなかったのだが、どういう塩梅かパソコンの中に取り込まれていた富士山の写真などを掲載できるようになった。昨日、小田原報徳二宮神社に茨城のKさんと待ち合わせていたのだが、遅れるという連絡があったので、友人と一緒に先にお参りした。神前で手を合わしたら、神殿の中からタイミングをはかったように太鼓がドーンと鳴った。以前、姪の高校受験のとき、合格を祈ってというか、受かりましたと感謝したら、同じようにドーンと鳴ったのだ。実はその時、神殿の中に祈願客がいて神主さんがたまたまその時、太鼓を鳴らしたのだが、主観的には願いが聞き入れられたというふうに思われたのだ。そしてもちろん姪は合格した。昨日もあまりのタイミングに何か素敵な予感がしたのだが、その後報徳博物館に寄った時、普通は起こりえないことが起ったのである。その内容はここではあえて記入しない。そうそう、御殿場見学会のときの富士山である。案内していただいた杉山信彦さんにビューポイントに連れてもらったので撮ったものである。昨日栢山を案内したKさんも「茨城からも富士山が見えるんですよ」と言われていたが、栢山からも箱根の外輪山ごしに雪をいただいた富士山がよく見えたものである。「二宮金次郎はあの富士山を見ながら、薪を背負って小田原城下まで売りにいったんですね。」富士山を見ると幸せな気持ちになる。 日をひと日 富士に見守(まも)られ めぐりをり 報徳様の 跡偲びつつ
2009年02月15日
今日は一日観音霊場巡礼をしていた。本当に巡礼日和というのか穏やかな小春日和であった。第1番から第4番まで歩いて回った。妙法蓮華経普門品第25いわゆる観音経全巻と般若心経を読経した。畏友の菩提を弔うためである。それにしても巡礼日和というのか穏やかないいお天気であった。第1番の杉本寺から、平成の巡礼道を越えて小山を登った。「ありがとう、ありがとう」吸う吸う「感謝、感謝」吸う吸う と畏兄を思いながら山道を登る。父からいただいたカンサイのジャンバーを着ていったが、急坂を登ると汗が出てくる。ジャンバーをぬいで、リュックにしまい、シャツの袖をめくる。頂上の原っぱは水仙が咲いて眺めもとてもよく、2組のハイカーが頂上からの眺めを楽しんでいた。山道を下ると巡礼古道と合流し、岩殿寺への道を急ぐ。岩殿寺の白梅が日当たりのせいか結構咲いていた。 梅の香や 友を偲びて 巡礼す第3番の田代観音におもむく途中、和菓子屋さんがあったのでのぞくと、品はわずかで生菓子が一種類とあとは羊羹らしきものが置いてあった。切り分けてあるのは黄色いのだけで、下段は抹茶羊羹と小豆の羊羹らしいものが一棹ずつ売っている。「その黄色いのは羊羹ですか?」と奥から出てきたおじいさんに聞くと「柚子羊羹です」と言うので2切れだけ貰う。 年老いて 夫婦(めおと)2人に 戻れるか 柚子羊羹を 家苞(づと)とするトンネルを抜けると町に入るともうお昼が過ぎている。少し腹を満たそう。去年の秋、歯を抜いた折、歯ぐきからの血がなかなかに止まらず、最初雑菌をできるだけ防ごうとしばらく朝食を抜いたら、胃の調子がいいのだ。そういえば97歳になられる日野原先生は朝食は食べずに野菜ジュースだけだと聞いた。夕食後、朝食を抜けばほぼ15時間ほど胃腸を休めることになる。胃腸も我が身のうちである、休ませなくちゃともう半年近く朝食を抜いている。その代わりお昼と夜はしっかりと食事をとる。ちょうどレストランがあった。メニューは3品、デザート、コーヒーがセットになっているから値段は少し高めである。普段なら弁当持参で昼食にそんなに使ったりはしないのだが、さすがに山道など3時間ほど歩いて少々疲れてもいるし、少し興味もあるので入る。広島のカキとペペロンチーネのスパゲッティ、それに自家製の杏仁豆腐のデザートだった。「杏仁豆腐おいしかったです」と言うとマダムが喜んでいた。もう一人の客が同じく言うと、「この店を最初開いたときのデザートなんですよ、お客様から洋食か中華か分からないとか言われたんでやめていたんです」と答えていた。ゆったりと時間の過ぎるおもむきのお店であった。田代観音に参って、さらに長谷観音まで足を伸ばす。こうして友を偲んで歩くと友を失った痛みが癒されていくようである。巡礼とは歩くこと、誦するという体を持続して動かすことで思念がややもすれば凝ろうとするのを解放してくれる、そんな感じがする。現在発売中の2009年3月号の「壮快」に日野原先生の健康法を和歌山県立医科大学の板倉徹教授が評論されている。172ページには 脳の血流が一気にアップし前頭前野が活性化!悩みも消える「歩き」の大効果 とある。 脳が活性化しているかは、脳の血流量を測ることで確認します。簡単な計算問題を解いたり、音読をしたりすることでも、脳の血流量が上がりますが、実は「歩く」という基本的な動作が、脳を活性化することが確認されているのです。 歩くことで血流がふえるのは脳の前頭前野という部分です。ここはいわゆる「人間らしさ」をつかさどっています。自発的に行動する力や、計画を立てて実行する「遂行機能」また、我慢したり、ときと場合を考えて行動したりする「自己抑制」も前頭前野の働きです。 つまり歩くことによって、前頭前野が活性化され、それによって「やる気」が出てきて元気になるという良好なサイクルが生れるのだという。ふーむ、歩き巡礼で起伏の多い山野を歩き、お経を誦すること自体が「やる気」を出させ、悩みも消させ、人間的にするそういう行為でもあったのだと改めて実感もしたそんな一日歩きの巡礼であった。
2009年02月08日
二宮尊徳先生遺蹟を見学した後、Sさんのご好意で富士山の雪解け水が作り出す景勝地や奇岩の名勝に連れていただいた。神山高橋見学~裾野市葛山の渓谷~五竜の滝などである。神山高橋には大工が棟梁から借りたノミを使って一生懸命仕事をしていたら、うっかりノミを川の中に落としてしまい、これは大変だと水の中に飛び込んだらそこには竜宮城のような宮殿があって、美しいお姫様がいて時を忘れて楽しんだが、故郷が懐かしくなって水の上に出たらだいぶん時代がたっていたという浦島太郎伝説を思わせる話があるという。裾野市葛山の景ヶ島渓谷は、富士山や愛鷹山の噴火による巨大な溶岩が、長い年月をかけて渓流に浸食されさまざまの奇妙な形へと姿を変えている。黄瀬川と佐野川の合流点近くに五竜の滝がある。合流点に若山牧水の大きな石碑が建っている。富士が嶺やすそのに来り仰ぐとき いよよ親しき山にぞありける一日快晴で昨日降った雪をまとって富士が嶺は美しかった。一日中いろいろな場所でいろいろな姿で、光と影の綾なす妙なる富士山の姿を見られてよかった。牧水にはこういう富士を読んだ歌もある。日をひと日富士をまともに仰ぎ来て こよひを泊まる野の中の村二宮尊徳はこの御厨地方を歩き回り飢えに苦しむ人々を救い助けた。天保8年8月24日付けの鵜沢作右衛門の尊徳宛の書状では、飢民救済により領民の間に尊徳を「報徳様」と称して慕う動きが沸き起こっていると述べた。そこで一首日をひと日富士にまも(見守)られ巡りをり 報徳様の跡偲びつつ by GAIA案内してくださったSさん、さらに貴重な時間をいただいた荒井園さん、中清水報徳社など感謝感謝である。
2009年01月29日
Sさんのプランでは、次のようになっている。11:00 藤曲浅間神社にて、金次郎追悼碑の見学11:10 藤曲用水及び、観音堂経由~報徳愛郷会館~仁杉報徳社~旧グミ沢名主家(江藤家)12:00 お昼藤曲といえばニ宮尊徳の藤曲仕法は有名で、模範とされたという。二宮尊徳全集 第19巻 仕法 小田原領6 解題 にはこうある。 富士東麓諸村の仕法は、数十個村にわたるものであるが、約70ヶ村中、天保凶饉後の救護仕法を受けなかったものはほとんどなかった。諸村中、報徳心の湧発によって、仕法を懇願した十数ヶ村には、その情勢に従って負債償還仕法より、進んで永安仕法を行ったものがあって、これらは既に当時他の範例となり、また後鑑となったものである。藤曲村の仕法、御殿場の仕法、竈新田の仕法等は甚だ有名なものであったのみならず、藤曲村の仕法は当時にあっても、後世においても著名な範例とせられ、竈新田には、現に知足財団として将来に永遠の仕法たる使命を発揮しつつある根基を作ったものである。 藤曲の仕法はいちはやく仕法開始を懇願し、熱誠に教旨を遵奉し実践したために、その仕法書は甚だ入念に認められた。・・・ 仕法書中の教化形式を表明した最も著しいものは「日掛縄索(ひがけなわない)帳」と「難村取直相続手段帳」とである。・・・藤曲の仕法書は、ほとんど仕法書の経典として、報徳の社徒の崇敬して止まざるところである。特に中庸の、天命の章を提げ来たって、これを日常生活に対照し、結局は 智者は奪ひ、富者は驕り、貧者は羨む、この煩悩を去らずんば、村柄立直り不申という千古の金言をもって、天道にのみ支配される禽獣虫魚の生活より、富者必貧の輪廻を脱却せんと努めたのである。 藤曲村では名主平四郎が率先はしたが、68軒の百姓が余りに甲乙なく一致の精進を行った。 藤曲浅間神社には、ニ宮金次郎追悼碑がある。円の石に「誠明院功誉報徳中正居士」という法名が刻んである。円の脇には「ニ宮金治郎」と書いてある。本名は金治郎で小田原藩の役人が金次郎と書いたので、金次郎で通したという説をよく聞くが、ニ宮康裕氏の「ニ宮金次郎の人生と思想」には「金次郎、金治郎、金ニ郎、金次良、金治良」の5種類を使用しており、真偽は確認できにくいとされ、「金次郎」を採用されている。その理由として1 「金次郎」が圧倒的に多い。(金次郎が記した書簡3618通(全集所収)のうち、金次郎と署名のあるのが3277通と90%、金治郎は230通で6%)また、公私別なく「金次郎」が多い。2 金治郎は嘉永年間の決められた月に集中。金次郎はまんべんなく記されている。3 一族宛の書簡もほとんど「金次郎」とある。4 金次郎の建立した両親の墓石には「金次郎」とある。 今回の見学会の参考にさせてもらった報徳博物館の発行した「友の会だより73」の第17回友の会見学ツアー 御厨地地方の報徳群像の跡を訪ねる にはこう説明がある。 天保8年、尊徳は名主鈴木平四郎家を拠点として、お手元金の配分や救援米代金の貸付けを行いました。又、同家は村民が尊徳の教えを受ける集会所にもなりました。 平四郎以下村民は恩恵に感謝し、総出で縄綯いや山稼ぎなどに励み、集めた金を報徳金として差し出しました。 尊徳の没した翌安政4年10月、平四郎等村民は慶林寺境内に墓碑を建立。上部の円の中に「誠明院功誉報徳中正居士」と刻してあります。大正10年に八幡神社境内に移され、昭和10年に現在地に移されました。 その八幡様の前を流れる「藤曲用水」は、慶林寺の耕雲和尚が托鉢をして自力で300間(540メートル)のトンネルを穿(うが)ってほったもので、後に尊徳の指導で改修されたという説があります。 Sさんがその慶林寺の跡地を案内してくれる。網目の鋼板の下をゴウゴウと水が流れている。「天保7年に耕雲和尚が、自分も何か人のためになることをやろうと思い立って、あの山をうがって水を引くことを考えて10年かかってズイ道を引いたそうです。」「天保七年というと天保の大飢饉の年ですね」県道のバイパスがこの慶林寺の跡地を通ることになり、観音堂を移築したとかでバイパスの下のトンネルをくぐってお参りした。案内板にはこうある。「天保7年より弘化3年(1846年)耕雲和尚10年の歳月をかけ、大久保より藤曲にトンネルを掘り、藤曲用水路を貫通させ藤曲20町歩の水田が恩恵を受ける」報徳愛郷会館には、ニ宮尊徳が回村中に腰かけている像がある。(社)御殿場愛郷報徳社 伊倉隆嘉理事長のスピーチがもう10年以上前のものになるが、御殿場ローターリークラブの週報に載っている。 先ず、山林の管理から申し上げますと、戦後近代化が進む中でガス、灯油が石炭や薪に取って代わるようになりました。それに加えて国の政策で杉檜の植林が進められてきたのであります。薪山跡地は農閑期を利用して社員により地造り、植栽、下刈り、除伐を行い林層を見ながら間伐も実施しております。現在社有の土地529haうち杉檜人工林261ha、雑木林134haを抱かえて役員13人、作業班非常勤で20人を持って管理しております。平成9年度の実績をみてみますと、山野巡視108人、山野作業1080人となっております。山野作業のためにはトラック1台、四輪駆動ワゴン車2台、林内作業車1台、木材集材機ひっぱりだこ2台、チェンソー4台を持ち、社員154人には下刈り機各1台を貸与して年2回の義務出社をお願いし、下刈り除伐の作業をしております。 現在、木材価格の低迷で森林事業が合いません。愛郷社は地球に貯金をする心算で育林作業に励んでおります。木材は有限の資財であります。1本の材木を育てるには10~20本の苗木を50~70年と手をかけて出来上がるものであります。まして、銘木を育てるには100年、200年の長い年月が掛かります。愛郷報徳社も人工林植後早いもので40年、立派な林となりました。あと30年汗水流して管理すれば、社の財源として素晴らしい力になると確信しております。 私達は押し寄せる開発の波にのみ込まれることなく、木を植えて緑を守り、大地の恵みを大切にして、綺麗な水と美しい山なみを後の世に残してゆかなければならないと思っております。 次に、コミュニティーセンターの運営について申し述べてみたいと思います。愛郷報徳社は毎月社員常会をもっております。年2回の総会もあります。このため地区公民館を利用しておりましたが、車社会となり、また中心から偏っていたので報徳会館の建設をし昭和56年4月より使用を開始したのであります。 これを運用するに当たっては、報徳コミュニティーセンター運営委員会を組織して地区より運営委員11名を出して運営しております。使用するに当たっては前月20日までに申し込み、その23日に運営委員会を開き、調整をして翌月の施設使用が計られるようになっております。使用料は各施設毎に半日単位で決められておりますが、管内居住者は原則として無料になっております。コミセンの使用は夜間が大部分でありますので、その調整に苦労します。運営委員会ではこれを文化部、体育部に分けて同好会制にして登録させ、毎週の使用日を決めて使用するようにしました。文化部26団体、体育部19団体により毎晩満杯の状態であります。そして、これが唯使うだけでは面白くありません。この集約発表が文化部に於いては文化祭となり、体育部においては球技大会、ゲートボール大会、また親善ゴルフ大会となって花を咲かせるようにしています。いま、年間使用延べ人員3万人を超えておりますが、昭和56年開設以来16年間の使用延べ人員478,000人となっております。 報徳社創立当初180戸余りの村落が戦後の開発の波にのり1,000戸を超す状況となりました。社員154人、管内4,000人の人達と和を計り地区の行事に少しでも役立つことができればと頑張っているところであります。 いま、政治、経済ともに混迷の真っ只中であります。この時こそ報徳の道の花開くときである訳ですが、長い間の金浸かり社会に慣らされて、他人の欠点短所をつくことに長けて、自ら励む力が萎んでしまい情けない状態であります。 わが御殿場愛郷報徳社は気高き富士のお山の姿をその儘に、そして二宮尊徳先生の至誠、勤労、分度、推譲を益々励み、子孫に淀みない世を送ってやりたいと専心努めているところであります。御殿場の報徳社の特徴は山林などの財産を持ってその基金をベースとして運営しているということである。こういう形で地区が報徳のもとによくコミュニティーをつくることに熱心であることに驚かさせられる。旧グミ沢名主家(江藤家)の前を通って、Sさんが昼食を予約していてくれた御殿場市永塚の「木の芽」に行く。後で聞いたらここのお米は杉山さんちで取れる御殿場こしひかりを使っているということでとてもおいしかった。コーヒーもポットでだしてくれてタップリと飲めたのも嬉しかった。雲一つない青空に白妙の衣をまとった雄大な富士山、まだ少し雪の残る坂道を登った小山の上からの眺めはそれはそれは素晴らしいものであった。
2009年01月25日
御殿場・竈新田見学会 その1竈のSさんが最初に連れていった先は、お茶屋さんの荒井園の2階であった。そこに「深沢城」の復元模型があった。なんでもその模型に使った垣根の材料の竹を提供したことから、作者の方から譲り受けたという。一時お寺においてあったが、ここに陳列することになって、ガラスケースを買ったのだという。事前のメールには9:30 深沢城模型の見学(お茶の荒井園さん)10:00 旧御殿場村 日野屋惣衛門店舗跡+御殿場御殿散策11:00 藤曲浅間神社にて、金次郎追悼碑の見学11:10 藤曲用水及び、観音堂経由~報徳愛郷会館~仁杉報徳社~旧グミ沢名主家(江藤家)深沢城模型の見学?最初、見た時には???である。お茶屋の荒井さんも二宮尊徳と何が関係が?と思われたらしい。しかし主と話していたら、荒井家は小林平兵衛の生れた江藤家とご先祖が縁戚関係があったらしい。報徳記から当時の農村を調べていくと、江戸時代、名主や豪商のクラスは縁戚関係を結んでネットワークがあったようなのだ。現代でもWIN/WINというか、成功者は成功者と関係を作るというのにも似ているような・・・。Sさんからいただいた資料にはこうあった。深沢城は、今から4百数十年前に静岡の今川の殿様が築城した。戦国時代の攻防戦で、小田原の北条氏の支城となる。1570年武田信玄が攻防戦で奪うが、2ヵ月後には北条氏が奪回する。1571年再度武田氏の攻撃で後11年間武田の駒井右京進が城主となる。1582年武田勝頼が自刃し武田氏が滅亡し、城主は城に火をつけて逃亡する。1584年徳川家康が北条に備えて深沢城を守備させる。1590年豊臣秀吉が北条氏を亡ぼし、家康を関東に移し、深沢城を廃城とする。つまり深沢城は今川・北条・武田と交通の要衝を守る要であったのだ。この深沢城の模型と同じ作者の方が、御殿跡があったという吾妻神社に隣接する建物に御殿の模型が作ったものが保存されている。そもそも「御殿場」とは、江戸時代の初め、徳川家康が大御所として隠居していた駿府から足柄峠を越えて江戸へ往来する際の宿泊施設として造営されたこの「御殿」に由来するのだという。沼津代官だった長野九左衛門清定が、この土地の豪族芹澤将監に作られたものと案内板にある。Sさんが「この芹澤将監を覚えていてください」という。元和元年(1615)造営されたが、翌元和2年4月17日家康は没したため、家康がこの御殿を使用することはなかった。この御殿の造営のために多くの人々が集められ、その町を御殿新町と称したのが御殿場の発祥という。寛永10年(1633)に御殿場は小田原領となり、稲葉氏が鷹狩りなどに来た際にこの御殿を利用したという。「ここの吾妻神社という名称は倭健命(やまとたけるのみこと)が東征した折、走り水から房総半島に渡るときに、暴風雨が起こり、弟橘姫が身代わりに入水しますね。その吾が妻を偲んで浜の小石を持ってきていたのを、東征の帰りにこの地に埋めたことに由来するというのです。」と杉山さんが古代のロマンを話す。ふむ、古代から交通の要衝であるだけあって、多くの伝説、逸話に満ちた地でもあるのだ。御殿跡から御殿場仕法で中心的な役割を果たした日野屋の跡地を案内してもらう。御殿場の仕法とは次のようなものであった。「小田原藩の研究」より抜粋 御殿場村のあらまし 御殿場村は元和元年(1615)徳川家康の旅宿として建てられた御殿を中心に作られた新町であるが、翌年家康の死によって御殿は一度も使われることなく終わった。付近にはすでに杉原・上田中・餅交・杉之内などの集落があり、これらの旧村と新たに移住してきた人々によって御殿場村が形成されたと考えられる。・・・ 当地方は矢倉沢番所を通過する相州側と、沼津・三島から水窪・伊豆島田の十分一役所を通過する駿州側及び富士籠坂越えの甲州・信州側の諸荷物が交錯する交通上の要地で、御殿場村は相州ー甲州・信州ー駿州の諸荷物の問屋場としての権利を認められていた。しかし相州ー甲州の経路には古沢村経由という別ルートがあり、駿州ー甲州の経路には神山ー茱萸沢ー須走ー富士吉田という宿継ぎがあって、新町としての同村の地位は揺るぎがちであり、近世を通じて何回かの訴訟が行われている。・・・ 天明8年(1788)の記録では、油屋、茶碗屋のほか地名・国名を冠する屋号の家々が多く見られ、当地方の村役人たちの会合に酒や飯を提供する宿屋・茶屋が散見しており、在郷町として当地方の経済上のかなめであったことは事実のようである。 これには近江国日野より出て、享保3年(1718)に当地で開業した日野屋の存在があずかっていると見られる。同家ははじめ漆器類のほか穀類・繰綿・茶・砂糖・紙を扱い、やがては呉服・太物(木綿・麻織物)まで手を広げ、寛政12年(1799)には名主平右衛門から酒造株を買って酒造業をはじめ、この地方では文化9年に相州関本村、文政2年(1819)には小田原近在の池上村に進出するほどに発展した。この間文化4年(1807)には小田原藩によって名主格に取り立てられ、弘化元年(1844)にはさらに5人扶持を給されて、藩の御用商人として遇されている。酒造高も御殿場村で900石、池上村で300石となり、当地方最大の商家としての基礎を築くにいたった。 報徳仕法の推進1 日野屋の活動 天保8年の尊徳の回村に際して、当地方にも割渡された仁恵金は、藩の蔵米の放出という形をとっていた。この蔵米放出の操作は主として日野屋が当っていた。日野家は天保の飢饉に際して、天保7年10月に報徳金120両を拠出し、その後も竈新田の小林平兵衛らと共同して、極難者への夫食(ぶじき)米の拠金・拠米を、当村内での村再建の動きも、その中心は日野屋だった。当主山中忠助のほか、日野屋兵右衛門・同惣兵衛などの名が仕法史料に散見される。報徳加入金にも計400両近くを拠出している。小林平兵衛と日野屋が、報徳仕法の原動力となった。2 個人仕法の開始(略)3 一村仕法の推進 天保8年3月、天保飢饉に際して尊徳の回村があり、藩主仁恵金に村内上層農民の拠出金などを加えて58両とし、極難・中農層を中心に救済を図った。 御殿場村では、天保10年8月の佐野屋源兵衛に対する個人仕法開始の後、翌11年3月、村役人及び世話人惣代の連名を以て、二宮尊徳宛に「難村御取直御趣法」を願い出た。いわゆる報徳仕法実施の願書である。同書では、天保4年及び7年の大凶作と、同8年3月の前記回村に触れた後、同村が「御田地少く、町場同然」のため、「その稼渡世つかまつり候者多く、飢饉以来何分取続きかね」るため、「難村御取直御趣法」を願い、この上は「驕奢をはぶき、きびしく節倹をとげ、相互に譲り合う」ことを申し出ている。 これに対して尊徳は 1 村高・戸数・人口 2 天保8年の仁恵金など飢饉の救済についての経過 3 借財の取調べ 4 村民の困窮の程度についての明細等についての報告を求め、同村28日には、米240俵(代金100両)と金320両、計430両を報徳貸付金として村に与えている。この拝借証文は、同時に尊徳宛の報告書の形をとっている。 1 天保4年以来の大凶作とその救済について謝意 2 同8年春の施米の状況 3 名主平右衛門の大借とその処置 4 村内難渋の根元は、本業を怠り、分限を失い、奢りに長じたところにあることなどをあげ、続いてそれらの反省から、万事倹約を宗とし、禁酒・禁煙・粗服・粗器の使用をすすめて、不用な道具を売払い、仏事・婚礼・各種祝儀を内輪にとどめ、伊勢太々講や日待・月待などの行事を簡素に行うなどを村中申し合わせて実践した結果、350両余を調達したものの、村内のみの力では救済不能のため、これらを報徳加入金として差出し、改めて430両を報徳善種金として拝借し、この内262両2分を名主平右衛門の借財分に当て、残り77両をもって村再建の土台金とするというもの。 村中で差し出した350両の内訳は、 諸事倹約により 52両3分余 名主借財弁済分拠出 126両1分余 国産方拝借勘弁残金積立金分 30両となっている。このうちの諸事倹約を見ると、時期は天保10年1月から翌11年2月末までで、最初の1月にまず37人が計36両余を拠出しているが、この中の32両は日野屋関係の手によっている。14ヶ月に98件の拠出があり、ほかに名主弁済引受金には、日野屋の100両を別に、101名が金30両から銭300文にわたって拠出している。(略) 日野屋は近江商人の流れをくむという。「三方よし」つまり「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」という商売倫理を大切にしていたのである。35世当主ブログ:お酒の山中兵衛門商店 に享和2年(1802)の「家憲 慎」が現代語訳で載っている。1 公私混同をしてはならない2 歴史を支えてくれた人たちを大切に3 うそを言ってはならない4 品物をよく吟味して売りさばきなさい5 何事も実直に勤めなさい6 小さなお客様を大切にしなさい7 見栄を張るような仕事をしてはならない8 相場に手を出してはならない9 商売を変えてはならない10 従業員を可愛がりなさい本当に今の時代でも大切にすべき項目である。
2009年01月25日
御殿場・竈(かまど)新田の地区は、江戸時代は小田原藩領であった。天保の大飢饉のとき、富士山の雪解け水を使って農作物を育てていたこともあり、被害がはなはだしく、飢え死にする人も出た。二宮尊徳は、小田原藩主、当時老中として江戸にあったが病に倒れていた大久保忠真侯の依頼を受けて、小田原領内を回村し、救助にあたった。救助した人数は4万人を超えたという。その際、尊徳に命を助けられた村民達は感謝してその後の村の建て直しも再三依頼した。御殿場では日野屋、竈新田では小林平兵衛がその代表的な指導者であった。「報徳記を読む会」で巻の5まで読了した。巻の5の後半が小田原仕法である。報徳記そのものでは、この折の小林平兵衛らの活躍ぶりは詳細には語られていない。そこで、有志で御殿場・竈新田における尊徳先生の遺蹟巡りを計画し、竈の杉山信彦さんに案内をお願いした。当地のことはよく分からないのですべてお任せした。昨日の夜、Sさんからメールがあって、「先ほどから雪がパラついて来ています。積もらないと良いのですが(笑)小山(藤曲)は、谷間で寒く、この山間部の積雪で空気もより冷えると思いますので、暖かい服装をしてきてください。」大丈夫、見学会大成功でした、感謝しますと「魔法の言葉」も唱えたし・・・すると今朝、快晴である。一本約束の時間より早めの電車に乗ったしと御殿場線の電車の中でメールに夢中になっていたら、なんと御殿場駅を乗り過ごして2駅先まで行き過ぎてしまった。ホームに降りると、昨日雪が降ったから、富士山が真っ白に雪をまとって優美に立つ。どうしようと思いながらも、携帯で写真を撮る。するとだ、向うから電車が来て、約束の10分前に御殿場駅に着いたのである。Sさんは先に来ていて御殿場の浅間神社に参ってきたという。Kさんも5分前の電車に乗ってきた。本当に乗り過ごしたけど間に合って迷惑かけないでよかった。竈の杉山さんはワゴンで来ていて詳細なプランを示してくれる。ぎっちりとまるで分単位のスケジュールである。しかもこの日は選挙で道も混んでいるというのである。平成21年1月25日御殿場駅→(新橋)深沢城模型→(二枚橋)膏薬屋→(御殿場)御殿場御殿跡地・日野屋跡→深沢街道→深沢城址へ上横山遺跡・陣屋→竹之下ー藤曲浅間神社→藤曲用水→(社)御殿場愛郷報徳社・大下神社・仁杉公民館→(グミ沢)江藤孫市・芹沢将監→昼食(木の芽)→(上新田)小林平兵衛(相続講)→奥住新左衛門→竈宿→三角柴原→宝徳閣→中清水報徳社→(ニ子)三井蔵之助→(神山)高橋このプランだけ見ても、いかに過密な日程かが分かるであろう、そしてほとんどこれを全部回るほかに御殿場。裾野に続く川沿いの自然景勝地をご案内いただいたのである。杉山さんの事前の緻密なシュミレーションのお蔭でである。感謝感謝!!何よりも天気がよかった。一日中雲一つない快晴で一日中いろんな表情の富士山を間近に見れてそれだけで半分は成功したような気持ちだった。朝もその富士山の様子をメールに貼付して送ってあげようと3人ほどメールの原稿を打って乗り過ごしたのであったが、結局寒い思いもせず、御殿場駅から2つ先からのホームから富士山を見れて、しかも電車のなかで寒い思いをせずよかったのだ。そういうことがこの日何回か起った。ほんと不思議なほど運がよかったのである。
2009年01月25日
竈新田(かまどしんでん)現在の静岡県御殿場市竈)の小林平兵衛は、二宮尊徳の報徳仕法を静岡県駿東郡を中心に広げた人である。その人の事跡を中心に見学会といっても都合で参加人数は予定の半分になってしまったが、御殿場駅に集合して尊徳先生の遺跡など見学する。案内してくれる竈のSさんからは、こちらは雪がちらほら降っています、温かく着こんできてくださいと連絡があった。とっても素晴らしい見学会となりましたと感謝した。わたくしの父が元気だったころ、くださったヤマモトカンサイのジャンバーコートを着こんでまいろう。小林平兵衛と農村復興ー心学から報徳仕法へ(「江戸時代人づくり風土記22」) 御殿場の名主(村役人の長)の家に生まれる 富士山は、日本を象徴する山です。平兵衛は、この富士山と箱根の外輪山にかこまれた今の御殿場市茱萸沢(ぐみざわ)の名主家江藤孫市の子として、安永8年(1779)に生れた。 御殿場地方は、富士山の東麓(とうろく)地方にあたり、静岡県の中にはもっとも北東部の県境にあたる。隣接する小山(おやま)町須走(すばしり)から籠坂峠を越えると山梨県に、また、足柄峠、乙女峠を越えると神奈川県に入るという位置にある。 江戸時代にあっては、メインストリートとしての箱根街道に対して、古代から歴史を背負った脇往還として、交通上の重要な意味をも持っていた。そういう点では、箱根の関所を補助する脇の固めとして、仙石原・谷峨(やが)・矢倉沢・河村の各関所も近い位置関係にあった。 かつては、宝永4年(1707)の富士山の噴火により、それまで小田原藩領であった村々が幕府領となり、再び小田原藩領に復帰するのに30年から70数年を要した。その後の天明・天保の大飢饉でも大きな痛手を負った地域である。このような自然環境のなかにあって、俳諧を通した文化活動や民衆道徳としての心学を広め、あるいは天保期(1830~44)の飢饉に際して、いちはやく機敏に活動した小林平兵衛という人物は、いかなる人であったか。 嘉永2年(1849)、平兵衛は71歳の生涯を閉じた。かつて行動をともにした牛負庵(ぎゅうふあん)牛翁(ぎゅうおう)は、平兵衛の生涯を「小林木二古人(もくじこじん)一代の記」にまとめ霊前に捧げた。それには「当家の木二(平兵衛の俳号)は何事をやるにしても徹底するのが好きで、俳句の道は享和・文化年間(1801~18)から学びはじめ、正風の道に深く志を立て、中年からは地理家相を学び・・・ その後は石門心学の道に入って京都に修行し、江戸に遊んで、心学の道をきわめた人に深く共鳴して・・・ さらにその後にいたっては、報徳の開祖であった野州(栃木県)宇津家の復興を手がけた二宮金次郎という人にその道の指導をあおぎ・・・そして、この道を深く学び、その後、この御厨での先達となって、自分の住んでいる村で隣村はいうに及ばず、報徳仕法を説いてまわり、郡中にまでそれを広げ、人の憐れみごとの相談にのり、貧乏な者を助けるために自分のことはぬきにして親切を尽くしました。」とあり、文化5年、竈新田の小林家に養子に入った前後から、その生涯にわたる事蹟をあとづけている。 牛負庵牛翁は御殿場村の村役人を勤め、平兵衛とともに二宮金次郎に従って天保期の報徳仕法の実践者となった蛭子(えびす)屋藤吉(とうきち)である。 小林平兵衛の人生遍歴 平兵衛は茱萸沢村の名主を江戸時代中期より代々勤める江藤家の孫市の息子として安永8年(1779)に生れた。兄の孫右衛門は父の跡をついで名主となった。一方、小林家は、もともと竈新田を開いた奥住新左衛門の甥にあたる小林3兄弟のうちの安兵衛家から分家し、屋号は「だんや」とよぶ家である。 平兵衛は、この小林家に文化5年(1808)に婿養子となり、文化10年には、家督を継ぎ、この年、息子の縫蔵(ぬいぞう)を湯山文右衛門のもとへ手習いに通わせた。この年、平兵衛は35歳になっていた。 後年、弘化元年(1844)に記した「遺状(のこしじょう)」には、若い頃身をもちくずし、両親から勘当され、当時、御殿場村から庵原(いはら)郡庵原村に養子に入っていた良蔵(8代目柴田権左衛門)に連れられて長々と同家に厄介になり、隠居中の6代目権左衛門の教えを受けて心を入れかえたとある。名主の息子としての何の苦労もない生活の中で、彼に課された一つの試練でもあったであろう。 第二段階として、小林平兵衛の竈新田時代がはじまるが、そのスタートも決して楽ではなかった。平兵衛が小林家に婿養子に入るについて、養父である5代目太兵衛が文化5年5月7日に35歳で亡くなったことと無関係ではないようである。この年は、平兵衛30歳であるので、小林家の5代目が早死にしたための6代目であったようである。この後、文化8年には養母が亡くなる。文化10年6月15日に小林家の6代目を継いだが、この時、本家の竈新田村中宿(なかじゅく)の小林安兵衛と杉名沢村の文左衛門、兄である江藤孫右衛門が立ち会った。家督を継ぐ前年、文化9年(1812)には、同じ村内の同志18人とともに毎月各々が草履8足または、銭48文を積み立てる相続講をつくった。平兵衛の日常は、米作りの農業のほかに、茶作り・タバコ・養蚕があった。牛翁の追悼文にもたったように、日記の中には農業のあいまに発句、碁打ち、「論語」の学習などにはげみ、毎日の生活だけに追われない道の追求の一端がうかがわれる。 心学道話への共鳴とその普及活動文政6年(1823)小林平兵衛に転機がおとずれた。平兵衛45歳である。1月18日、村方より平兵衛に組頭(江戸時代の村役人で名主を補佐する役)となるよう頼んできた。1月28日に平兵衛は、小田原に出立し、翌29日には、役所で竈新田の組頭を仰せ付けられた。組頭役についた、平兵衛は3月21日に江戸へ向って旅立った。旅の目的は2つあった。1つは、得意先へ椎茸を卸すこと。もう1つは、商売のかたわら江戸に着いた晩から、田嶋有覚、大島有隣らの道話を聞くことだった。平兵衛はこの間、5日間にわたって心学者から直接道話を聞き、竈新田に帰ったのは30日だった。文政6年中には、ほかにも4回商売兼研修の旅に出ている、彼の心の中には心学への思いがハッキリとした形になりはじめていた。(略) 平兵衛が聞いた大島有隣らは、正直・倹約・勤勉・堪忍といった道徳観を強調したので、文化・文政期(1804~30)の平兵衛ら農村の指導者たちには、非常に聞こえやすい指導方針や生き方であった。心学に接した平兵衛の生き方が積極的になり、地方の村々の指導者たちとのつながりを強めていった。発句会や親戚筋にあたる柴怒田(しばんた)村の医師瀬戸家での「老子」「荘子」「孟子」「論語」の筆写や話などを聞く中で学習を進めた。文政6年10月には、江戸から曾根直二郎が来て道話をしながら巡回を始めた。 文政10年平兵衛48歳の年には、掛川止敬舎の菊池良貞を招いて、富士山東麓御厨地方を巡回し、良貞の心学道話を筆写している。文政11年には掛川止敬舎のの近藤平格を招いて、文政12年、天保6年、7年と3回にわたって御厨地方を心学のため巡回している。そして天保6,7年には、自ら平格に従い相模、下総にまで遊説している。小林家の農業経営の行きづまり小林平兵衛は、文政6年に組頭に任じられた。その後の文政11年の小林家は、竈新田村だけでなく近郷にも田畑を所有し、その反別は水田が6町5反余、畑が4町余の合わせて10町歩以上に及んだ。 しかし、家督を7代目惣右衛門に譲る間に小作米、利金米ともに減った。これは、天明の飢饉以降の状態から農民が十分に立ち直れない一方、割高な年貢米によって村内が不安定になってきた。したがって、小林家の経営の行きづまりも広い小作地を持ちながら収入が減少し苦しくなっていった。菊池良貞の道話の内容を筆写した平兵衛の帳面には、「人は自己の了見を捨てて無心となること、他力を信じていくこと」の大事さが読み取れる。さびれてきた農村や農民には、不慮の災難や家内・村内の不和から起こる争いごとをやわらげる機能として、小林平兵衛には心学道話が必要であると思ったようだ。 しかし、天保の飢饉には、平兵衛のこのような考えは無残に崩壊した。天保7年(1836)の凶作によって、明らかに小作米は減少し、貸付金も回収できなくなった。そこで一度譲り渡した家督を惣右衛門から平兵衛に戻し、家の建て直しをすることとなった。同年7月には、小田原藩の郡奉行(こおりぶぎょう)の手代(下級役人)が凶作の御厨地方を回村した。この年の難渋人は、3119人で、竈新田は男16人、女7人の23人が死亡した。 天保8年、平兵衛59歳、3月から4月にかけて、小田原藩士二宮金次郎が鵜沢作右衛門を伴って飢饉に苦しむ富士山東麓の駿東郡78ヶ村を巡回した。窮乏の状況を無難・中難・極難の3段階に分け、その救済策として、極難には米1日2合と銭1文、中難には米1日1合と銭2文を貸し与えた。 報徳仕法の担い手としての活躍 天保の飢饉のなかで、小林平兵衛は水を得た魚のように、その活動が開始された。それは、心学の道話ではどうにもならない目の前の惨事があったからである。自らの家の農業経営をいってはいられないなかで、二宮金次郎の報徳仕法の担い手とてして天保8年、小林平兵衛は動きはじめた。 同年3月、小林平兵衛は報徳金として5両を二宮金次郎に差し出した。4月には、小田原藩主から仁恵金(救済金)として、1両3分2朱、永47文2歩9厘4毛を頂戴した。7月15日には、平兵衛、御殿場村の日野屋宗兵衛ら6人が発起人となり、御厨地方6筋の富裕層に「報徳窮民撫育」の拠金をよびかけ、6筋で金102両1分、銭182文が集まった。これを極難渋人513軒513軒1212人に分配した。 この年、小林平兵衛は茱萸沢(ぐみざわ)村にある小林家の所有地2町5反7畝2歩を質に入れ、二宮金次郎より50両を借用し、同村内の極難者に無利息で5年から7年賦の貸付を行っている。天保9年(1838)には、118両余りを土台金として、小林平兵衛はみずからの村の仕法をはじめた。 その後、天保10年には、小林平兵衛は野州桜町陣屋に二宮金次郎をたずね、仕法の模範村である青木村を案内してもらっている。天保12年には、小林家の諸道具を処分し、二宮金次郎のもとで報徳の指導を受け始めました。これが契機となり、富士山東麓地方にも各村々で村立て直しの報徳仕法が実施されはじめた。 天保14年には、ぐみざわ村の吉左衛門から買った田畑を売り、金55両を基金として「知足備金」を創設した。平兵衛が嘉永2年(1849)7月6日に71歳でなくなったのちもその遺志は持ち続けられ、明治44年(1911)には、10代目秀三郎、11代目慶一郎によって「小林知足財団」が設立された。知足財団の基本は、天保14年から明治45年までの積み金43,912円98銭7厘だった。
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