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2021年08月22日
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「道元禅参究」
正伝の正法

・「仏仏祖祖正伝の正法は、ただ打座のみ」(永平広録)
悟っても悟らんでも凡夫は凡夫のまま仏仏祖祖の坐禅をするのみである。
このただ坐禅をするということが、正しく仏法の伝わるということである。
・わしは昔から「『一切経』は坐禅の脚注である」と言い続けてきた。『一切経』を具現し、実修実行するものが座禅である。
仏道を修行する学道には坐禅そのものを信じ、また必ず行として坐禅をつとめることをしなければならない。
仏道の行とは坐禅をつとめることだといわなければならない。
・沢木さんの悩むのを見たことがないというものがある。

いつぞやあるところで講演しておったら、下腹の具合が悪くて下痢して猿又を汚した。これにはほとほと困り抜いた。洗濯するにも時間も場所もない。そこで新しいのを買って交換してそのよごしたものを九州一円持ち歩いて、ようよう最後のところで 洗濯して解決したことがある。とにかくつらかった。糞を鞄のなかにもちあるいておるのだから、これあに軽々なるものならんやだね。
しかしそんな悩みよりも、もっともっと熱の入ったものが破戒だとわしはいう。
これをわしの言葉でいえば「のぼせ」ることである。
・坐禅はそういう「のぼせ」が下がることである。
のぼせはなぜおこるか?
人間は損得でのぼせる。迷いということの根本は、どうしたら得がいくかということである。
会社を経営しようが、代議士になろうが、大臣になろうが、それらは得になると思うから「のぼせ」あがって大騒ぎをする。それが損になるなら、なり手はないし、あんなに大騒ぎはせぬ。
・それだから長い間、有所得で仏法を研究して来て、仏教学の博士だの名誉教授だのになったものに。「お前のようなのは有所得でやったことであって、それは仏法ではない、それはただ「のぼせ」だけのものだ」というたら怒るだろうが、これは本当のことである。
ところがそういう人たちはもとから「のぼせ」上がっているから、こういっても素直に承知しまい。
昔からの禅僧の問答にこういうのがある。
ある年寄りのお師家さんに、若いお師家さんが「いやもうご無沙汰しまして、多忙にまぎれまして」と挨拶した。そうすると老僧の方がいわく「ウン、分相応多忙じゃろうのう。山僧はひまじゃ」といったということである。




鈴木 清一(ダスキン創業者)
自分に対しては損と得とあらば 損の道をゆくこと
他人に対しては喜びの種まきをすること
「損の道をゆけ、というのはわかりにくい。いっそ〝正しい道をゆけ〟としたらどうか」という他人からの問いに対して、「何が正しいとか正しくないとか、人間にわかるものでしょうか。それは神様だけにしかわからない。人は自分がいつでも正しい、と主張するから争いが絶えない。そこを、多少、分が悪くても、相手によろこんでいただけるなら損の道をゆく。これなら神様に相談しなくても、自分でできる解決の道である」と、鈴木は語る。
「物事を解決するとき、一歩前に出たやり方は解決にならない。一歩引いて解決したとき、これが完全な解決になる」

『ダスキン悲願』(働きさんが心がける〝徳目〟)
謙遜、賢明、剛健の得を養い 
仕事の第一は人間をつくることでありますように
働くことが楽しみであり 
利益は喜びの取引から生まれますように
商いを通じて人と仲良くなり 
経済をもって世界平和のお役に立ちますように

自然、ビーチ、海の画像のようです

・わしはなんというても坐禅というものは、われわれのこの材料でつくるもののうちでは、これが一番上等のものであると思う。つまり坐禅の正身端座したいわゆる堂々たる姿こそがそれではないかと思う。
・身体そのままである姿勢、これが坐禅である。この姿勢、そのままが宇宙とブッ続きであるから、坐禅をしたら堂々たるものであることは当然です。だから坐禅するなら、どこまでも無所得であり、不可得である坐禅でなければならない。
・この段(「永平広録」)では「即心即仏」ということについて述べているが、この即心即仏という言葉をとんでもなく間違えて、理解していることが非常に多い。
わしが30代じゃったと思う。ある田舎に説教を頼まれていった。
20代あまりの若い僧侶が、私が説教する前に一席やった。
そこで彼は「当流の安心は他宗他門のように、死んでから地獄極楽に行くのではない。この身このまま即心即仏というてな」という調子で始めた。
それを聞いておかしくなって困った。
なぜかというとそのあとからすっかりすれを言い直さんならんからである。
「この身このまま即心即仏なら、仏法も鉄砲もいらんことになる。けれどもそうはいかん。そこでどうしてもこの凡夫をへしまげて、即心即仏をしなければならんのである。そうするには『このまま』などというようにそう容易なことではない」と説教したことがある。

・わしも出家する前は提灯屋の才吉だった。
わしが故郷(三重県津市一身田)で講演した。そしたらわしの子供のころの先生の奥さんが「今日才吉つあんの話をきいてきた」というたそうである。わしは才吉つあんといわれても恥ずかしいどころか、誇りじゃね。
幼い時に両親に死なれて養い手がないところから提灯やの養子にもらわれて、十二、三のころから提灯張りの商売に歩きまわっていたが、そのあと勝手にのたうって坊主になったものである。

寺院、自然、記念碑の画像のようです





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最終更新日  2021年08月23日 04時36分19秒
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