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新井奥邃今其れ人を愛するに於て一法有り。人工の法に非ず。姑(しばら)く之を循環黙愛と謂はん。何ぞや。譬へば此に友十人ありとせん、我れ静黙以て日に其の一人を胸裏に特愛し十日にして全部に及ぶ。終りて復た始まる。諸友、各々此の如くにす。此れ集団を神愛するの法林竹二先生と森信三先生が別々の文脈でこの人に触れられ、深い敬愛を示されているのであう。 「新井奥邃 (1846-1922) 明治のキリスト教伝道師にしてトマス・レイク・ハリスの弟子。隠者。 仙台藩士の家に生まれ、藩校養賢堂に学ぶ。のちに江戸の昌平黌に留学するも戊辰戦争に従軍。さらに榎本武揚の幕府海軍に入り函館まで転戦。同地ではじめてロシア正教を知る。維新後は捕縛を恐れて友人宅にかくまわれていたが、この潜伏期間中にキリスト教信仰を深めている。やがて森有礼に見出され、1871年にアメリカのハリス教団に送り込まれる。教団ではおもにハリスの秘書として原稿を整理し、印刷出版に従事している。 1875年、ハリスとともにサンタローザに移住してさらなる信仰労働生活を送る。 1899年、実に28年余の教団生活ののちに日本に帰還。ほぼ無一文という身の上であったため、友人知人宅を転々とする。 1903年、巣鴨に私塾「謙和舎」を開き、伝道生活に入る。名誉欲など微塵もない人柄であり、一枚の写真も肖像画も残さぬまま隠棲し、1922年、巣鴨の謙和舎にて死去。享年77歳。 新井はハリスの信仰を引き継ぎ、生涯を貧のなかで過ごした。謙和舎には奥邃の無私無欲の人柄を慕う人が集い、幾多の奥邃語録が編まれていった。かれの塾に出入りした人間のなかには、内村鑑三や田中正造といった明治日本を代表するキリスト教関係者も見受けられる。」 林竹二先生は「田中正造と新井奥邃」の論文で谷中村の闘いの中で田中正造がいかに新井奥邃という人との出会いで救われたかを詳述している。 「久々にて新井奥邃氏を訪うて治す。 厄介とまる。安眠す。 ほとんど深山に寝たるごとし。 清風静かに、身辺和らかに神心清きを感ず。」 「安眠す」に田中正造の幼子が母のもとで安らかであるような気持ちまで感得できる。 「新井奥邃氏と話す。 一泊厄介を得て親しく長時間を対話するごとくするも、一物の存するなきがごとし。 ただ何事か心清まりて高尚にすすむを覚ゆ。 これ神のめぐみのみ。 神は物をさして教えることなし。 すべてを育するのみ。」田中正造は大正2年9月4日亡くなった。 胃ガンであった。 大正2年(1913)8月2日、田中は最後の河川視察を終えて、谷中に引き返す途中、病状が重くなり、足利郡吾妻村の庭田清四郎の家にころがりこんだ。 その1週間後、8月9日午後4時頃、島田宗造が知らせを受けて駆けつけ、夜を徹して百枚ばかりハガキを書いて諸方に知らせを発した。 このハガキを受けて新井奥邃が8月13日付けで島田に手紙を寄せて、新井の著書「静間読」の一節を田中に読み聞かすように指示した。 島田が田中正造に読み聞かせると、田中は大変喜んだとある。 8月22日夜半、病状はさらに悪化し、田中は大声で 「現在を救え、ありのままを救え」 と叫んで、意識不明となった。 新井奥邃は旅行して帰宅していたが、体調を悪くして静養していた。 島田からの田中翁危篤の手紙を受けて、島田に手紙を出した。 「(略) 今朝の新聞によれば翁いささかおよろしき方とあり、まず翁自身の安心の程度に安心いたし候。 肉体も実に大切なるものに候へども、人の生命は誠に永久にして肉体以上にあることを明らかにせざるべからず。 田中翁はその肉に死するもその人は死せず、何事のその身辺に起こるも必ず翁のために悲しむなかれ。 またいたずらに喜ぶなかれ。 翁の使命その奮闘今後千年なおいまだ尽きざればなり。 ただし、その身辺何事起こるも、周囲必ず清々粛々たること緊要なり。 8月26日午前9時しるす 奥邃」 「翁自身の安心の程度に安心いたし候」りある。 奥邃のいう「安心」は単なる病状が少しよくなって安心しましたということではないことはそれ以下の文章を見ればわかる。 「田中翁とあいしる12,3年。兄弟ただならず。」ともその後、正造の訃報を聞いて記している。 奥邃と田中翁は肉親よりも心の通じ合う間柄で、田中翁の心をおもんぱかって、出た言葉であろうか。 「肉体も実に大切なるものに候へども、人の生命は誠に永久にして肉体以上にあることを明らかにせざるべからず。 田中翁はその肉に死するもその人は死せず、何事のその身辺に起こるも必ず翁のために悲しむなかれ。またいたずらに喜ぶなかれ。」 奥邃の文章は独特の調べがあり、美しい。 そしてこの文章は私にも感慨を持たせる。 人は肉体は死んでも人の生命(魂)は永久であると奥邃は言う。
2022年06月17日
ジョージ・ソロス「ウクライナでの戦争が第三次世界大戦になり、我々の文明は滅ぶかもしれない」6/1(水) ロシアがウクライナに侵攻し、昨年のダボス会議から歴史の流れは大きく変わった。ヨーロッパは根底から揺るがされているが、欧州連合(EU)が設立されたのはこのような事態を防ぐためだった。戦闘がいずれか停止したとしても、状況は決して以前に戻ることはない。ロシアの侵攻は第三次世界大戦の始まりとなり、我々の文明は生き残れないかもしれない。ウクライナへの侵攻は突然起きたのではない。世界は以前から、「開かれた社会」と「閉じた社会」という正反対の二つの統治システムの間で闘争を繰り広げてきた。その違いをできるだけ簡単に定義してみよう。「開かれた社会」では、国家の役割は個人の自由を守ること、「閉じた社会」では、個人の役割は国家の支配者に仕えることだと考える。このシステムの闘争ゆえ、全人類に関わる他の問題は、後回しにせざるを得なくなった。パンデミックや気候変動への対処、核戦争の回避、国際的な組織の維持などだ。だからこそ私たちの文明は生き残れないかもしれないと言うのだ。私は、世界の広い地域が共産主義の支配下にあった1980年代に「ポリティカル・フィランソロピー」と呼ばれる活動を始めた。抑圧に対抗する人々を支援したいと考え、当時のソビエト帝国内で次々と財団を設立したのだ。それが思いのほかうまくいった。刺激的な日々だった。その時期に私は投資にも成功したので、1984年に300万ドルだった寄付額も、3年後には3億ドル以上にまで増やせた。しかし、2001年の9.11テロ以降、「開かれた社会」に対する流れが変わり始めた。抑圧的な政権が台頭し、開かれた社会は包囲され、危機下にある。その最大の脅威となっているのは、中国とロシアだ。なぜこのような変化が起きたのか、私は長い間考え続けてきた。その答えの一つにデジタル技術、特に人工知能(AI)の急速な発達がある。理論的にはAIは政治的に中立であるべきで、良い目的にも悪い目的にも使える。しかし実際にはその効果は非対称的だ。AIは特に抑圧的な政権を助け、「開かれた社会」を危険にさらすような支配の道具を生み出した。新型コロナウイルスもまた、そうした管理手段を正当化した。そうした管理はパンデミックへの対応に本当に有益だからだ。このAIの急速な発展は、ビッグテックやソーシャルメディア・プラットフォームによる世界経済の支配と密接に関係している。これらの勢力は短期間のうちに世界中に広がり、広範囲に影響を及ぼしている。この動きは、広範囲に影響を及ぼした。まず、米中間の対立を激化させた。中国は自国のハイテク・プラットフォームを国家の勝者に仕立て上げた。アメリカは、これらの技術が個人の自由に及ぼす影響を懸念し、躊躇している。こうした態度の違いは、2つの異なる統治システムの対立に新たな光を当てている。習近平国家主席の中国は歴史上最も積極的に個人情報を収集し、国民を監視・管理する国だ。これらの発展から利益を得るはずだったが、これから説明するように、そうはならない。・オミクロンは、その後まず中国最大の都市である上海で感染が拡大し、中国各地に広がった。しかし、習近平は現在もゼロコロナ政策に固執し、上海の住民に大きな苦難を強いている。上海市民は反乱寸前まで追い込まれた。多くの人は、この非合理的な対応に困惑しているが、なぜこんなことが行われているのか、私にはわかる。習近平には後ろめたい秘密があるのだ。中国国民が接種しているワクチンは、武漢で流行したタイプの初期のウイルスの感染は防いでも、変異株にはほとんど効かない。しかし、習近平の2期目の任期は今秋に切れ、現在非常にセンシティブな時期にあることから、そうとは公表できない。彼は異例の3期目を固め、最終的に終身支配者になりたいと考えている。そのためにすべてを尽くさなくてはならない。習近平もプーチンも、独裁者ゆえに信じ難い過ちを犯しているジョージ・ソロス「我々の文明を滅ぼさないためにはプーチンを倒すしかない」・最近、イタリアのマリオ・ドラギ首相などのヨーロッパの指導者たちは、さらに踏み込んだことを言い出した。ロシアのウクライナ侵攻を機に、ヨーロッパの統合を進め、プーチンの犯したようなことが二度と起きないようにしようというのだ。イタリアのレッタ前首相は、部分的にヨーロッパを連邦化する構想を打ち出した。外交、難民保護、エネルギー、防衛、社会・医療政策などを連邦で管轄するというのだ。そこに食料と気候の安全保障も加えるべきだと、私を含む多くの人が主張している。連邦の核となる政策においては、どの加盟国も拒否権を持たない。その他の政策領域では、加盟国は「有志連合」に参加するか、拒否権を保持することになるという。・フランスのマクロン大統領は、親欧州の姿勢を非常に高め、EUの地理的拡大の重要性とそれに備える必要性を訴えている。ウクライナだけでなく、モルドバ、グルジア、西バルカン諸国もEU加盟の資格を得るべきだと。詳細を詰めるには時間がかかるだろうが、ヨーロッパは正しい方向に進んでいるようだ。ウクライナへの侵攻に対し、歴史上かつてないほどのスピードと結束、そして活力で対応しているのだ。当初は躊躇していた欧州委員会のフォン・デア・ライエン委員長も、今では親欧州派として強い発言力を持つ。
2022年06月02日
アインシュタインの幸福な生活論、東京で記したメモが競売へ2017年10月23日物理学者アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)が95年前に東京に滞在した際、幸せな生活に関する短い自説を記したメモが、エルサレム(Jerusalem)で競売にかけられることになった。 時は1922年、アインシュタインは講演のため日本を訪問中だった。来日の直前、アインシュタインはノーベル物理学賞(Nobel Prize in Physics)受賞を知らされていた。 日本人の配達人が、帝国ホテル(Imperial Hotel)に滞在していたアインシュタインに1通のメッセージを届けた。アインシュタインは、その場でドイツ語で2つのメモを書いた。ドイツ・ハンブルク(Hamburg)在住で配達人の親戚である匿名希望の出品者によると、「もしあなたが幸運なら、このメモ書きは普通のチップよりもずっと価値が高くなるでしょう」とアインシュタインは配達人に話したという。 メモ書きの1枚は帝国ホテルの便箋に、「静かで質素な生活は、絶え間ない不安に縛られた成功の追求よりも多くの喜びをもたらす」と書かれている。また別のメモは白い紙に「意志のあるところに道あり」と記されている。
2022年05月21日
1月3日結跏趺坐12日目(2021年12月23日1日目)「道元禅参究」沢木興道p.284曰、身心脱落、好参禅。(『永平広録』)「曰く、身心脱落」とあるのは、これ坐禅のことである。・・・仏法というのは、一瞬でも、坐禅したら、それは生々世々の坐禅である。つまりこれは一世一代のものである。だからわしは坐禅したらそれでしまいだといつも言っている。 そういう坐禅が、また身心脱落であったのである。・・・われわれの身体というのは自分のものではない、大宇宙の生命生活の事実である。つまり身体は大宇宙の生命である。この大宇宙の生命である身体を実証するものが坐禅である。坐禅は個人の身体であったものを、身体の本来の姿である大宇宙の生命にもどすことである。だから坐禅は手を組み足を組んで自分のことは一切しないのである。かく坐禅することによって、身体は大宇宙の事実となる。これが身心脱落である。
2022年01月03日
12月31日結跏趺坐9日目(12月23日1日目)新聞に桝野俊明氏(曹洞宗建功寺住職)の「わが人生」が連載されている。きのうの21と今日の22は大本山総持寺での修行の日々である。添えられた写真には「住職になっても只管打座。夏も冬も朝4時半起床、坐禅を組み、ひたすら坐る。」とある。今朝のこみだしは「そこは地獄の1丁目」 1979年、26歳の時に大本山・総持寺で雲水となり、そこで雲水の基礎を徹底的にたたきこまれました。そこでの毎日の生活はおそろしく『世間離れ』していました。 この体験は「安居(あんご)」と呼ばれ、春と秋に新しい修行僧の入山が許されます。私は3月に入山したので「春安居(あんご)」。そこは地獄の1丁目でした。 まず「安居願」を総持寺に提出します。しばらくすると「入山許可書」が届き、入山の日時が指定されます。 当日、剃髪し、衣をまとい、必要な用具をもって、母親に「1週間くらいしたら洗濯物を取りに来て」と言い残しました。総持寺で修業した父は何も言わずに見ていました。やがて母は「いつまでたっても連絡がない」と首をかしげたそうです。こちらはすでに世間からは完全隔離されていました。 私と一緒に修業を始める人は74人。同じ日に入山する者を「同日安居」といい、4人でした。到着ごとに先輩が現れ、一対一で問答。「何しに来た!?」「修業に参りました!」「修業なら、他の寺でもできるだろう。帰れ!」「お前たちに食べさせる余裕はない。よその寺に行け!」などと繰り返され、なぜ総持寺の修業を選んだか、どんな心構えでいるかをただされます。 各自30分ほどの問答を終えると、先輩は「とりあえず、ここで一夜を過ごせ」と言い残し、姿を消します。何もない部屋で、用意された簡単な食事をとり、せんべい布団に潜り込みます。 翌朝、少量のおかゆをいただいて、待機。 午前10時ころ、和尚が現れ、同日安居4人を引率し三宝殿を出て、山門の前で写真を撮られる。写真は親元におくられる。 山門をくぐって待鳳館(たいほうかん)へ。いよいよ本格的な問答が始まります。(続きは翌日)💛昔の臨済宗の禅寺の入山希望はもっと過酷で、玄関先に放置され、同じ姿勢でずっと嘆願しつづける姿勢をとったようだ。 福山滝助翁に「蓑笠の教え」というのがあるが、厳しい禅僧の修業を思うと、日々の結跏趺坐など、安らかな居ずまいというところか(^^)
2021年12月31日
ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領書面インタビューロシアはどこへ行くのでしょうか?私(ゴルバチョフ)はよくこの質問を受けます。そこには真の民主主義に到達するロシアの能力に疑問があるかのようなトーンが含まれています。彼らは時折、ロシア政府が採択する法律や決定が民主主義に即したものなのか尋ねます。私はいつもこう答えます。我々の国民はあなたたちが思っているより民主的です。ただ、ロシアには困難の歴史があります。250年間にわたる「タタールのくびき(=13世紀に始まったモンゴルによる侵攻と支配)」、農奴制、スターリン時代の弾圧。国民は奴隷のように扱われることに馴らされていました。それらが終わったはずの90年代(=90年代、ロシアの政治・経済が大きく混乱)にも、国民は、民主主義とは名ばかりの、混乱と無秩序に耐えなければなりませんでした。我々は、過去から何を拒否すべきか、何を受け入れることができるかを学ぶ必要があります。時間はかかります。しかし、ロシアの未来は1つしかありません。それは、民主主義です。💛これは、中国についてもいえる。中国の未来は一つしかない、それは民主主義である。フォース「パワーかフォース」によると、ゴルバチョフ氏の 意識レベルは 500 という。ロシアを変革するために生まれてきたのであろうか?
2021年12月25日
「我々の国民はあなたたちが思っているより民主的」「ロシアを孤立させるべきではない」ゴルバチョフ元ソ連大統領インタビュー【全文掲載】12/23(木) 1991年のソ連崩壊から12月25日で30年を迎えます。ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領に、JNNはメディア1社と合同で書面インタビューを行い、今年のノーベル平和賞からウクライナ情勢などをめぐる欧米との関係、日ロの平和条約交渉まで聞きました。90歳になるゴルバチョフ氏は、新型コロナウイルス感染予防のため、医療施設で隔離生活を送っていて、面会は禁じられています。 インタビューの全文は以下の通りです。※()内は補足説明。 ■ノーベル平和賞ムラトフ氏は「本物のファイター」 ーーソ連崩壊30年となる節目の年に、あなたが支援に携わった「ノーバヤ・ガゼータ」の編集長ムラトフ氏がノーベル平和賞に選ばれたことをどう受け止めていますか。ロシアでは現在、独立系メディアの活動が制限され、野党が自由に選挙に参加できないなど、あなたが進めた「ペレストロイカ(政治体制改革)」や「グラスノスチ(情報公開)」に逆行するかのような動きが目立っています。コロナ禍が強権的な政治に拍車をかけたとも指摘されていますが、これからのロシアに真の民主主義が根付くのでしょうか? ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領:これは非常に重要なイベントです。ノーベル委員会は今回の決定で、現代の世界におけるメディアの重要性を強調しました。ドミトリー・ムラトフ氏とは長い間、それこそ、30年以上の付き合いがあります。我々は友人でもあります。彼は、正直で、勇気と責任感があり、あらゆることに関心を持っています。彼は真実と正義の信奉者です。そして、彼は本物のファイターでもあります。ノーベル委員会は今回、ジャーナリズムを専門にする人たちが、どのような気質を持っているべきかを示しました。 前世紀の80年代半ば、私は、まさに同じ信念に導かれ、ペレストロイカとグラスノスチにつながるプロセスを開始しました。残念ながら、30年前、よく知られた出来事(=1991年8月のクーデター未遂事件など)により、ペレストロイカは中断させられました。それまでにペレストロイカは「模索」、「予測」、「失敗」、「実現」など、さまざまな段階を経ていました。もし、最初からやり直すとしたら、多くのことを別の方法でやるでしょう。 ■国民を「主役」にするためだった しかし、私は、ペレストロイカが歴史的に正しかったと確信しています。ペレストロイカは必要でした。私たちは正しい方向に進んでいました。なぜなら、ペレストロイカには1つの「ライトモティーフ(=オペラなどで繰り返される主題・動機)」があったからです。これはすべての段階において、一貫して、我々の「模索」を導く“赤い糸”でした。ペレストロイカは国民に向けられたものでした。その目的は、国民を解放し、自らの運命と自らの国の「主役」に据えることでした。ですから、ペレストロイカは大規模な人道的プロジェクトでした。何世紀にもわたって、国民が専制国家、全体主義国家に従属していた中で、それは過去との決別であり、未来への突破口でした。これは現代にもつながるペレストロイカの真理です。異なる方法をとれば国が行き詰まることになりかねません。 グラスノスチは、改革そのものだけでなく、国民をそこに参加させるためにも、最も重要な手段でした。この言葉がペレストロイカとともに、ほとんど毎回、言及されているのは偶然ではありません。あなたも質問で言及しています。グラスノスチは古いロシアの言葉です。社会の開放、言論の自由、そして、国民に対する当局の説明責任など多くの意味を持っています。他の言語に翻訳することが不可能だというのも不思議ではありません。私は、グラスノスチこそ、自分の最大の協力者だとみなしていました。いまも同じ意見ですが、グラスノスチを批判する人たちがいつの時代も一定以上います。私は、国の状態と周りの世界について、国民に真実を伝えることが、私の役目だと思っていました。グラスノスチは、当局への批判を含め、自分の考えを自由に言えるようになった人たちからの声でもありました。つまり、国民が真実を知る権利です。 ですから、私はムラトフ氏とともに11月18日、「メモリアル(=ロシアの人権団体でソ連時代のKGBによる人権侵害・抑圧など調査、スパイを意味する「外国の代理人」に指定されている)」を解散させようとする動きに抗議するため、ノーベル平和賞受賞者同士として初の共同声明を発表しました。「メモリアル」は、抑圧の時代に殺害され、負傷した何十万人もの人たちに関する歴史的記憶を掘り起こし、現在や将来に二度と起きないようにすることを目的としています。「メモリアル」の活動を続けることは、社会と国の利益に一致します。 ■ロシアの未来は1つ、民主主義だ 私を批判する人や、時代の本質を理解していない人は、ソ連崩壊がペレストロイカの最終的な結果だと、今も主張し続けていますが、決してそうではありません。勿論、間違いもありましたが、ペレストロイカは大きな成果を収めました。冷戦の終結、核武装解除に関する前例のない合意、さらに言論の自由、集会、宗教、国を離れる自由、政権選択が可能な選挙、複数政党制など、国民が獲得した権利と自由です。最も重要なことは、改革が後戻りできないところまで進めることができたということです。 しかしながら、現在においても、定期的な政権交代や、国民が政府の決定プロセスに関わることができる体制づくりは整っておらず、改革の当初の目標はまだ実現していません。私はこれまで、時には厳しく批判的に、時には前向きに評価しながら、ペレストロイカの理想と価値観を持ち続けることを求めてきました。それが道しるべであり、それなしでは迷いかねません。 では、ロシアはどこへ行くのでしょうか?私はよくこの質問を受けます。そこには真の民主主義に到達するロシアの能力に疑問があるかのようなトーンが含まれています。彼らは時折、ロシア政府が採択する法律や決定が民主主義に即したものなのか尋ねます。私はいつもこう答えます。我々の国民はあなたたちが思っているより民主的です。 ただ、ロシアには困難の歴史があります。250年間にわたる「タタールのくびき(=13世紀に始まったモンゴルによる侵攻と支配)」、農奴制、スターリン時代の弾圧。国民は奴隷のように扱われることに馴らされていました。それらが終わったはずの90年代(=90年代、ロシアの政治・経済が大きく混乱)にも、国民は、民主主義とは名ばかりの、混乱と無秩序に耐えなければなりませんでした。 我々は、過去から何を拒否すべきか、何を受け入れることができるかを学ぶ必要があります。時間はかかります。しかし、ロシアの未来は1つしかありません。それは、民主主義です。 ■止められない「連鎖反応」起きる前に ーーいまのロシアと欧米の関係は冷戦後最悪ともいわれていますが、かつて「冷戦終結」を宣言した立場として、どのような思いで見ているのでしょうか。また、これからの国際社会でロシアのあるべき立ち位置をどう考えていますか? ゴルバチョフ元ソ連大統領:私は、美化することなく、正直に言わなければなりません。現代の世界は、主要な大国間でほとんど制御不能な軍事的・政治的対立に直面しています。これまで作られてきた枠組みは壊れているか、緩んでいるか、あるいは脅威にさらされています。このままでは大惨事になりかねません。 遅かれ早かれ、目を覚ますだろうと私は確信しています。そのためにどんな犠牲を払うことになるのか、それが問題です。最近、軍用機や艦船の「異常接近」をよく耳にします。政治家や軍が真剣に考えるために、本当に衝突が起きないといけないのでしょうか?止めることができない「連鎖反応」が起きてしまう可能性について心配していないのでしょうか? ■再び冷戦の“足音”聞くためではない 現状を打開する方法はあるのか?勿論あります!唯一合理的なもの、それは交渉です。相互非難、好戦的なレトリック、軍備拡大から、責任ある対話への移行が一刻も早く行われるよう、できることは何でもしなければなりません。 現代の国際政治において、ロシアと欧米の信頼関係の再構築ほど、重要かつ困難な課題はありません。ロシア抜きで深刻な国際問題を解決することは不可能であるため、欧米もその必要性を認めています。しかし、欧米は現在の状況に対するすべての責任をロシアに負わせようとしています。ロシアの方から歩み寄ることだけを待っていて、すべての争点に関し、欧米の立場に同意することを求めています。これではロシアと話ができないことを理解すべきです。ましてや、ロシアと他の国との関係を悪化させてまで、ロシアを孤立させるべきではありません。 ロシアには、何世紀にわたる豊富な外交経験があります。それは対話と建設的な協力の形を示したペレストロイカによって、さらに豊かなものとなっています。冷戦を終結させたのは、再び冷戦の“足音”を聞くためではありません。 近年起きている信頼の崩壊は、致命的で取り返しがつかないものだとは思いません。挫折や失敗、過ちの一種だと考えています。過ちであれば修正できます。過ちを正すには、時間、忍耐、常識、交渉など多くのことが必要になるでしょう。しかし、最も重要なのは、我々は同じ地球に暮らし、将来の世代に対し、この壊れやすい惑星の運命に責任を持っていることを理解すべきです。 最初の質問に対し、私はロシアの未来はただ一つ、民主主義だけだと言いました。効果的な外交を行うために我々に必要なのは、民主的で強いロシアです。これが私の信念です。21世紀にふさわしい新たな国際政治を築き上げるにあたって、ロシアは建設的な役割を果たす運命にあると確信しています。 ■最も困難な問題を俎上に載せるために ーーあなたはかつて、日ロの間に領土問題が存在することを公式に認めましたが、いまのプーチン政権は領土問題の存在を否定する強硬姿勢に戻っています。いまだに日ロ両国の間に平和条約が結ばれていないことをどう考えますか?両国はどのような関係を築くべきだと考えますか? ゴルバチョフ元ソ連大統領:私がソ連の大統領として公式に来日してから、30年以上が経過しました。「新思考外交」に基づく日ソ関係の新たな局面の始まりとして、私はその訪問を受け止めていました。「新思考外交」は、冷戦終結、東西ドイツの統一、国際紛争・戦争の終結、パリ憲章(=1990年、欧州における冷戦体制の終結を宣言)の採択、集団安全保障の議論など世界で大きな成果を上げていました。 ですから、私の立場は、協力関係を築き、互いの国民の認識を変え、さらに、地域・国際情勢の変化によって、問題解決のための最適なアプローチを探すことでした。日ソ関係においても、このようにして両国の関係を新しいレベルに引き上げようとしました。訪問の結果、私と海部首相は、日ソ共同声明と一連の分野に関する15の文書に署名することができました。 しかし、ペレストロイカが中断し、残念ながら私たちの関係発展は行き詰まってしまいました。新しい政権は、我々とは異なる彼ら自身の政策とビジョンを持っていました。私は今でも、大きな成果を上げるためには、あらゆる分野での協力発展、それに首脳、閣僚、専門家レベルでの協議が必要であると確信しています。これが相互の信頼を醸成できる唯一の方法であり、それなくして、困難な問題の解決につなげることはできません。議題を拡大することも必要です。 たとえ難しい時でも、対話を中断すべきではありません。交渉を恐れずに、最も困難な問題を議論の俎上に載せなくてはなりません。 古代インド・ヴェーダの格言があります。ラテン語の文書や聖書、世界の古典作品など、世界中で使われてきた言葉です。 「歩かなければ目的地にはたどり着かない」 JNNモスクワ支局長 大野慎二郎(23日12:00)
2021年12月24日
赤木雅子さん「ふざけんなと思う」公文書改ざん訴訟 国側が請求を『認め』に転じる 国との裁判が終結へ12/15(水) 文書の改ざんを苦に自殺した近畿財務局元職員の妻が、国と当時の理財局長を相手どり損害賠償を求めている裁判で、12月5日に国は突如、賠償金を全額支払うことを明らかにし、裁判が終わることになりました。 財務省近畿財務局の元職員・赤木俊夫さん(当時54)は、森友学園への国有地売却をめぐる公文書の改ざんを命じられたことを苦に3年前の2018年に自殺しました。 妻の雅子さんは、国に対し約1億1000万円、元理財局長・佐川宣寿氏に対し550万円の損害賠償を求めて裁判を起こしています。 12月15日、裁判の進め方を話し合う非公開の協議が行われ、国側は突如、「いたずらに訴訟を長引かせるのは適切ではない」として賠償金を全額支払うことを明らかにしました。これにより公文書の改ざんと俊夫さんが自殺した因果関係が明らかにされないまま、国への裁判が終わることになります。 非公開の協議後に大阪市内で会見を開いた赤木雅子さんと雅子さんの代理人らは、次のように話しました。雅子さん「ふざけんなと思う」「夫がなぜ死んだのかを知りたい」「また国に殺された」会見を行う赤木雅子さん(12月15日 大阪市内) (赤木雅子さん 12月15日) 「ふざけんな!と思います。こんな急にやってくるとは思いもよらなかったです。惨敗したような、大負けしたような気持ちでいます。夫は国に殺されて、また何度となく殺されてきましたけど、今日もまたうちのめされてしまいました。金を払えば済む問題じゃない。私は夫がなぜ死んだのか、なぜ死ななければいけなかったのかを知りたい」 さらに俊夫さんに向けての思いを、雅子さんは次のように話しました。 (赤木雅子さん 12月15日) 「帰って夫(俊夫さん)にどう報告したらいいのか。一番夫が苦しんだ改ざん作業、財務局、財務省に対してこのようなやり方で裁判が終わって、夫はなんて言うだろうと。全国行脚もしてきたし、『真実が知りたい』といろんなところで訴えてきた。これから先、どう訴えたらいいのか方向が見えません」
2021年12月16日
German video game ad labels China 'West Taiwan'・ An online advertisement for a video game has gone viral for listing China as "West Taiwan," among other changes to a map of the Asia-Pacific region.Earlier this month, a Facebook advertisement for Conflict of Nations: World War 3, which was developed by the German video game company Bytro Labs, surfaced showing a map depicting most of China as "West Taiwan." The region of Xinjiang was listed as an independent country called "Uyghur," while Mongolia is labeled as "China."・The use of the term "West Taiwan" (西台灣) to mock China has steadily grown in popularity since January 2020 when President Tsai Ing-wen (蔡英文) said that Beijing needs to face the reality that Taiwan is already an independent country. <機械翻訳>あるビデオゲームのオンライン広告が、アジア太平洋地域の地図に中国を「西台湾」と記載するなどの変更を加えて話題になっています。・今月初め、ドイツのビデオゲーム会社Bytro Labsが開発した「Conflict of Nations: World War 3」のFacebook広告が話題になりました。ドイツのゲーム会社Bytro Labs社が開発した「Conflict of Nations: World War 3」のFacebook広告では、中国の大部分が「西台湾」として描かれていました。新疆ウイグル自治区は "ウイグル "という独立国として記載されており、モンゴルは "中国 "と表示されていました。・蔡英文総統が「台湾はすでに独立した国であるという現実を北京は直視する必要がある」と発言した2020年1月以降、中国を揶揄する「西台灣」という言葉が着実に浸透している。ツイートより中国を西台湾と呼ぶのは、いいアイデアですね。10億人もの人々があの抑圧的な体制の下で暮らしていることを、誰も喜ぶべきではありません。自由な中国(西台湾)は、西洋の目標であり価値であるべきです。「ONE PIECE」より人が空想できるすべての物事は起こりうる現実である。物理学者ウイリー=ガロン*ウイリー=ガロン(第24巻) 詳細、実在 不明(^^)
2021年12月11日
夏場、健康診断の糖代謝の結果がD判定でこれではいかんと、生活習慣の全面的な改革を試みて、ストレッチに取り組んでいたら、体が柔軟性をとりもどして、久しく膝を痛め脚も上がらなってやめていた座禅ができるようになった。しかも座禅のあと、布団の上で10種類ほどしっかりとストレッチするため膝も痛まない、20代のころ、禅寺に通っていた経験がここになって生きてきたことは喜ばしい。30代のころ、足裏健康法に凝っていて台湾の官式健康法(スイス人のカトリックの宣教師の方がドイツのゾーンマッサージと中国のツボを融合して広められた)を熱心にやっていた。たまに妻が体調を崩すたびに妻の足の裏のゾーンを押してあげていたものだが、最近では毎晩、妻が寝る前に足の裏を押すのが日課になった。思うに夫婦はどちらか一人だけ健康でも、もう片方が倒れてはなりたたない。特に超高齢化社会になって、夫婦のどちらかが認知症になって途端に破綻してしまうケースが周りにも増えてきているように思われる。ご用心ご用心。「人は人を変えられない」ほかの人の生活習慣もまたなかなか変えられないのだが、自分のために30代熱心に自習してきた足裏マッサージが、この年になってつれあいに施せることを有難く思う。足の指の間を広げるストレッチは、安眠や体幹の安定につながるようで、禅寺で習い覚えた般若心経などを読みながら(時間を測る)足の指をひろげ、ふくらはぎをもむうちに深い眠りに誘われるようだ。快眠によって脳内をクリーニングすることは認知症予防につながるように思われる。夫婦はどちらかが認知症やその他で倒れるととたんに困難にたちいたる、予防のためにもしっかりと足の裏を押してあげよう。「他者が幸福であることで自分も利益を得る」「20代、30代のころにしっかりやっていたことは、歳をとって生きて来るものだねえ!!」
2021年12月09日
歴史学者ハラリ氏が語るコロナの危険性と“未来”11/12(金)Q.歴史学者という立場から、コロナをどのように捉えていますか?ハラリ教授:「伝染病は、人類の歴史において目新しくはありません。今では、ウイルスをどのように克服できるのか分かっています」「パンデミック発生から2年経った今でも、世界規模でパンデミックを阻止する方法や経済回復への対応など、グローバルな行動計画がありません。協力しなくて大丈夫だと思ってしまったら、その後は、より自己中心的なり、人類はこの先、戦争と競争だけになってしまいます」「人間は往々にして怠け者なので、極端な選択にひかれます。バランスを見つけるより、極端な選択の方が簡単だからです。独裁者はよく国民に対し、二者択一を提示します。『健康を選ぶか、プライバシーや自由を選ぶのか。両方を選ぶことはできない』と。これは間違っています」「今は歴史上初めて、テクノロジーが、誰と会い、どこに行くのかという人の“行動の監視”だけではなく、体の内側に入り込み、感情や思考まで監視します。これは独裁者が常に夢見ていたことです」「今のコンピューターテクノロジーなら、人間よりうまく感情のシグナルを分析できるでしょう。私が同性愛者だと気付いたのは、とても遅く、21歳の時です。人は往々にして、自分に関する重要なことに気付きません。しかし近い将来、私たちよりも先に、テクノロジーが私たちを知るかもしれません。今でも同性愛を犯罪とみなす国があります。本人が気付く前に、テクノロジーが同性愛者だと特定できるようになると、どういうことが起きるのでしょうか。監視システムは、人類史上最悪の独裁政権を築く可能性があります」Q.もしハラリさんが歴史の教科書を作るとしたら、コロナの時代をどんなふうに書きますか?ハラリ教授:「『選択の時代』と書きます。今、人類は甚大な危機に直面し、難しい決断を下さなければなりません。それでも私たちには、まだ力がありますし、政府機関が存在します。対立を選ぶのか、あるいは協力を選ぶのか。今後、数カ月、あるいは数年後の私たちの選択によって、どのような未来を私たちや子孫が享受できるのかが決まります」
2021年11月13日
若いころ鎌倉の禅寺の土日残前回に2年近く通っていたことがある。その後も、鎌倉近郊の禅寺の座禅会にもたびたび参禅した。しかし膝を悪くしてこの数十年座っていなかった。左ひざがどうにも痛んで座を組むのがつらくなってしまった。去年の夏はひざが悪化してしばらくビッコひく有様。最近は膝も硬くなって脚が組むどころでななくなった。ところが、今年の夏、健康のためにストレッチをやりだしたら、体が柔軟になって半かふ座ではあるが、数十分脚を組めるようになって、しかもストレッチを座禅のあとに、きちんとやると、左ひだも痛まなくなった。というわけでもう一か月以上もの間、座禅+ストレッチを続けて快調である。養老先生は「脳内でぐるぐる回しをする」(「バカの壁」p.80)とおっしゃっているが、座禅を始めた当初は、この「脳内のぐるぐる回し」つまり妄想が止まらない。数息観をしながら座禅を続けていると、数に集中して「脳内のぐるぐる回し」がやむ。そして座禅を終わると脳内が清涼とした感じが得られる。まだそういう研究結果はないのだが、おそらくは睡眠中の脳脊髄液が脳内を洗浄するのと同じ現象が起こっているのではあるまいか。座禅に限らず瞑想は覚醒しながらしかも脳内が洗浄される働きをもっているように思われる。臨済宗のお寺では座禅のあとに般若心経と座禅和讃を読む。「直に自性を証すれば 自性即ち無性」「無相の相を相として」「無念の念を念として」「三昧無礙」欧米では「マインドフルネス」と呼ばれる瞑想法としてビジネスマンも習得しているようだ。現代人こそ、「脳内のぐるぐる回し」をとめて、「自性」に立ち返り、自分をみつめ、脳内を洗浄する座禅や「マインドフルネス」などの瞑想法を身につけるべき時代なのかもしれない。【白隠禅師座禅和讃】衆生本来仏なり水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよたとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からずかたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし況や自ら回向して 直に自性を証すれば自性即ち無性にて 既に戯論(けろん)を離れたり因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し無相の相を相として 行くも帰るも余所(よそ)ならず無念の念を念として うたうも舞うも法(のり)の声三昧無礙(さんまいむげ)の空ひろく 四智円明の月さえんこの時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり【白隠禅師座禅和讃】衆生(しゅじょう)本来仏なり水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよたとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁は 己が愚痴の闇路なり闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき夫れ摩訶衍(まかえん)の禅定は 称歎するに余りあり布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ悪趣(あくしゅ)何処にありぬべき 浄土即ち遠からずかたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし況や自ら回向して 直に自性を証すれば自性即ち無性にて 既に戯論(けろん)を離れたり因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず無念の念を念として うたうも舞うも法(のり)の声三昧無礙(さんまむげ)の空ひろく 四智円明の月さえんこの時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり
2021年11月12日
"自壊するメディア (講談社+α新書) | 望月 衣塑子, 五百旗頭 幸男p.70 望月 衣塑子「私が好きな言葉を二つ紹介します。まずはアメリカ初の女性、アフリカ系、アジア系の副大統領となったカマラ・ハリスさんの言葉『すべての子どもたちへ。すべての子どもたちへジェンダーは関係ありません。大きな夢を抱き(Dream with ambition,)、信念を持って(lead with conviction)指導者となるのです。そして他の人とは違った見方で自分を見つめてください。他の人には、見つけられないかもしれないからです。私たちは皆さんの一歩一歩を温かく見守ります。』もう一つは、マハトマ・ガンジーの言葉です。『あなたのすることはほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。』」*2*1 And to the children of our country, regardless of your gender*8, our country has sent you a clear message:Dream with ambition, lead with conviction, and see yourself in a way that others may not, simply because they’ve never seen it before. But know we will applaud you every step of the way.*2 Almost anything you do will be insignificant, but you must do it. We do these things not to change the world, but so that the world will not change us.
2021年10月31日
「初雁」より「雲居禅師」P138 天正10年正月25日、伊予の国の毘沙門堂の前に生まれたばかりの赤ん坊がムツキにくるまって泣いていた。 赤ん坊は、小方左京兆というれっきとした武士の子だった。左京兆は、一条房家の家臣だった。房家は土佐の国司となったので、ともに移ってきた。房家の子、頼房の代になって臣下の長曽我部に逆意があることがわかって、頼房は伊予に避けたが、そこで病んだ。土佐にあった左京兆は、その看病に妻を遣わしたが、妻は身ごもっていて、途中男の子を産み落とした。先を急ぐので、赤子を毘沙門堂の前に棄てて、毘沙門天に無事を祈って、先を急いだ。子どもの母の叔母がこれを聞いて驚いて下男を毘沙門堂に遣した。赤ん坊は無事だった。母親は「毘沙門天がおまもりくださったのだ」と泣いて喜んだ。成長の後に、この話を繰返し聴かされた禅師は「わたしは毘沙門天に救うていただいた」と生涯この神を敬った。 雲居禅師は幼い頃から非常にすぐれた才能を示し、左京兆は土佐の国の神護山太平寺に連れて行った。16歳で雲居は剃髪し、師匠に従って京に出た。19歳から如心寺の一宙和尚のもとで修業を積んだ。「書物を読むには、まず文字をしらなくてはならない。一字一字の意味がはっきりしなくては、どうして道理に通ぜられようか」雲居は、常に聚分韻略を懐に、毎日字の数を定めて暗記し、全部覚えた。人が試みに問うと、それは何冊の何丁目の何行目にある、その意味はこれこれと答えるほどの強記であった。 25歳から雲居は諸国を行脚した。 寛永10年、52歳の春、雲居はともを連れずに東海道を上っていた。浜松を過ぎて、日は暮れたが、月が出ているのを幸いに歩み続けた。 男が2人少しの間跡をつけてきたが、いきなり前に立ちふさがって「金を出せ」とおどかした。「そらこのとおりじゃ」雲居は自分で帯を解いて、襟を開いて見せた。「わしは乞食坊主だから何も持っておらぬ」盗賊2人はきまり悪そうに逃げ去った。その時、雲居は懐に不時の用意のため、1枚の小判を持っていたことを思い出した。妄語は仏の戒めたまうところである。雲居はすぐに盗賊たちの後を追った。「おおい、待ってくれい」2人の賊は、何事かと思って振り返った。見るとさっきの坊さんが、追ってきている。「今しがたは、嘘をついてすまない。わしは金を持っていた。これだけあった。さあ、遣るから持っていくがよい。わしを許してくれ。」雲居は盗賊の前に金を差し出した。しかしそうなると盗賊も手をひっこめてあとづさりするばかりである。こうした尊いご出家の金をとうろうなら仏罰があたらないとも限らない。逆に不心得を詫びるのであった。やむなく雲居が去ろうとすると、この先盗賊が出ないとも限りませんからとわざわざ護衛して送ってくれた。夜が明けて雲居が2人の盗賊に別れを告げると、2人は地にひざまずいていつまでも拝んでいた。 寛永11年には雲居の高徳ぶりが天聴に達し、後水尾上皇の御前で仏教に関して諮問に答えた。寛永13年には仙台の伊達忠宗に招かれて、松嶋の瑞巌寺に入った。雲居は着古しの袈裟に饅頭笠をかぶってスタスタ歩いていったが、出迎えに大勢来ていた仙台の人々はあまりのみすぼらしい姿に雲居和尚と気づかなかったという。70越して、雲居は旅に病んだ。胸の痛みが去らず苦しんだ。松嶋に帰ろうと、忠宗に江戸で別れを告げたとき、駕籠で行くよう強く勧められたが、雲居は聴かなかった。途中痛みが起こるときには、野といわず山といわず、うめき声をあげて時を過ごして、痛みが治まると杖にすがって歩いていった。弟子がみかねて馬を雇いましょうと進めたが断った。「わしは今、前生におかした罪の償いをしている。わしは苦しみを喜んで受けておるのじゃ。」洞水長老入富山偈に和韻す雲居禅師は松島瑞巌寺中興開山。洞水禅師はその弟子で実際に現在の瑞巌寺の法流の基礎をつくった禅僧である。洞水は日向国飫肥(宮崎県日南市)の生まれで、雲居禅師来松以前より瑞巌寺で修行しており、雲居禅師の拝請の為に尽力したと伝えられる。若年時より政宗公の目にもとまる碩学であったようで、寛永13年(1636)8月雲居禅師が瑞巌寺に入寺するや、その室に参じ寛永14年頃には雲居禅師よりその禅境を認められている。この墨蹟は洞水のお正月の偈頌と富山入山の偈頌に雲居禅師が和韻したものである。洞水禅師の富山隠棲の時期から推測すると正保元年(1644)に書かれた墨蹟ではないかと思われる。和韻とは人の作成した漢詩に韻を合わせて作成するものである。内容としては洞水禅師が俗世を厭い、富山の幽谷の静寂を求め山中に独居し悟りの境地を深めんとする決意を述べたのに対し、雲居禅師は「若し時節を忘れたならば論議などというものがあるだろうか?物事の是非を離れれば、物も心も自ずから清らかなものだ。巷を嫌い山鶯に執着することなく、平等法を修めなさい。」「すでに功名心を離れれば苦など無い筈だ。市中だの山林だの、何故住処に迷う必要があろうか。君は十年は帰らないと誓っている。来た道を忘れるぐらい一生懸命修行しなさい。」雲居禅師は洞水禅師の閑寂を求める心に不徹底なるところを認めつつも最後は碧巌録34則にも引用される寒山詩の「安身の処を得んと欲せば 寒山 長しえに保つべし 微風 幽松を吹き 近くに聴けば声愈好し 下に斑白の人あり 喃喃として黄老を読む 十年帰り得ず 来時の道を忘却せり」をふまえ激励している。
2021年10月16日
フィリピンとロシアの記者に平和賞 政権と闘うメディア率いる ノーベル賞10/8(金) ノルウェー・ノーベル賞委員会は8日、今年のノーベル平和賞をフィリピンの記者マリア・レッサ氏(58)とロシア紙の編集長ドミトリー・ムラトフ氏(59)に授与すると発表した。 政権が強権主義を強める両国において、報道の自由を守る取り組みが評価された。 レッサ氏はジャーナリストと調査報道サイト「ラップラー」の最高経営責任者(CEO)を兼ねフィリピンのドゥテルテ政権と対峙(たいじ)し、ムラトフ氏は独立系紙「ノーバヤ・ガゼータ」の編集長としてロシアのプーチン政権と闘う姿勢で知られている。ノーベル賞委員会は「民主主義と永続的平和の前提条件である表現の自由の擁護」に2人が尽力していることを授賞理由に挙げた。 フィリピンでは麻薬犯罪の取り締まりで容疑者の超法規的殺害が続き、ドゥテルテ大統領はこれを事実上容認してきた。レッサ氏はラップラーを通して、その監視と批判的報道を展開した。ロシアではプーチン政権に批判的なジャーナリストの殺害が相次いだ。ノーバヤ・ガゼータは所属する複数の記者らに犠牲者を出しながらも、政権に妥協しない報道を堅持した。 ノーベル賞委員会は「民主主義と報道の自由が一段と困難な状況に直面する世界にあって(報道の自由という)理想のために立ち上がるすべてのジャーナリストを代表している」と2人を称賛した。 国際NGO「国境なき記者団」によると、当局による弾圧などを背景に、今年だけでも各国で報道関係者計28人が殺害され、460人が投獄された。 賞金は1000万スウェーデンクローナ(約1億2700万円)。授賞式は例年、12月10日にオスロで開かれるが、昨年は新型コロナウイルス対策のためオンラインで行われた。今年の式典形式についてはノーベル賞委員会が追って発表する。
2021年10月08日
「気候変動はコロナとともに人類の危機」ノーベル物理学賞・真鍋淑郎さん会見 日本の学術界に注文も2021年10月6日今年のノーベル物理学賞受賞が決定した真鍋淑郎しゅくろう・米プリンストン大上席研究員(90)は5日午後(日本時間6日未明)、記者会見し「気候変動は新型コロナウイルスなどとともに人類の危機だ」と訴えた。研究の原動力について「好奇心」を強調。実学重視の傾向が強まる日本の現状を「好奇心に基づく研究が減ってきている」と懸念した。 会見は同大の講堂で行われ、真鍋さんは詰め掛けた学生や関係者が拍手する中を登壇。冒頭で「年を重ねるにつれ、英語も日本語もどんどん悪くなっている」と控えめに語りながらも、終始リラックスした表情で英語で質疑に応じた。 自身の受賞決定については「グレート・サプライズ(素晴らしい驚き)」と表現。思いつく理由を問われると、歴代の受賞者に敬意を示しつつ「何がわれわれの問題であるかを理解するために自分が貢献できたのかもしれない」と述べ、気候変動問題の草分けとしての自負心ものぞかせた。 研究生活を振り返った真鍋さんは「楽しくて仕方なかった」と強調。米国では自由にコンピューターを使って好きな研究ができたと明かし、「最も興味深い研究というのは、好奇心が導く研究だ」と訴えた。日本では近年、基礎研究に対する予算不足や優秀な人材の海外流出が問題となっている。真鍋さんは、米国では学術界が政府へ効果的に助言しているとして「(日本も)両者がどのように意思疎通するかをもっと考えるべきだと思う」と指摘した。自身が国籍を日本から米国に移した理由について、研究環境の良さや他人へ過度に気を使わない気楽さを挙げた。私生活では「何かを考え始めると運転に注意を払えなくなる悪いドライバー」と苦笑い。料理上手で「素晴らしいドライバー」という妻信子さんのおかげで「100パーセント研究に集中できた」と感謝した。 会見に同席した同大の研究者トム・デルワース氏は、真鍋さんを「気候変動問題のマイケル・ジョーダンだ」とバスケットボール界のスーパースターにたとえて称賛。キャンパスでは、同大大学院で脳神経を研究するケン・イガルザさん(23)が「気候変動は本当に多くの分野と関連している。真鍋さんの優れた業績を研究室のみんなで祝った」と興奮気味に話した。 真鍋さんは会見に先立ち、同大近くの自宅で本紙などの取材に応じ、名古屋大特別招聘しょうへい教授時代を「毎年名古屋に行って研究していたが、非常に良い思い出が多い。大学院の学生と議論して実に楽しかった」と話した。Princeton University senior meteorologist Syukuro “Suki” Manabe has been awarded a share of the 2021 Nobel Prize in physics ”for the physical modelling of Earth’s climate, quantifying variability and reliably predicting global warming." Princeton will hold a press conference to hear more from Dr. Manabe.プリンストン大学の上級気象学者であるSyukuro "Suki" Manabe氏が、2021年のノーベル物理学賞の一部分を受賞しました。"地球の気候を物理的にモデル化し、変動性を定量化し、地球温暖化を確実に予測したこと "が評価されたものです。プリンストン大学では、真鍋博士から詳しい話を聞くために記者会見を行う予定です。
2021年10月07日
【速報】ノーベル物理学賞に真鍋淑郎氏10/5(火) 今年のノーベル物理学賞にアメリカ・プリンストン大学上席研究員の真鍋淑郎さん(90)が選ばれました。真鍋さんは地球温暖化研究の先駆的存在で1950年代末からアメリカにわたり、コンピュータを用いて気候の変動を分析する研究分野を開拓しました。その後、二酸化炭素濃度の上昇が大気や海洋に及ぼす影響を世界に先駆けて研究し、現代の地球温暖化予測の枠組みを築きました。日本のノーベル物理学賞の受賞者は、2015年の梶田隆章さん以来、12人目です。真鍋さんは1958年に東京大学大学院を修了後、アメリカ海洋大気庁(当時:気象局)の研究員となりました。1997年に帰国し、当時の科学技術庁の温暖化研究チームに着任、2001年からは再びアメリカにわたり、現在はプリンストン大学上席研究員をつとめています。真鍋さんは現在、アメリカ国籍を取得しています。日本学士院のHPによりますと、真鍋さんは東京大学で気象学を専攻し学位を得たあと、招かれて米国に渡り、40年にわたって同国海洋大気庁・地球流体力学研究所で研究を続けて来ました。真鍋さんの大きな業績は、コンピュータによる気候のシミュレーション・モデルを開発し、それを用いて気候の成り立ちと変動を解明するという新しい研究分野を開拓したことで、同時に、二酸化炭素の増加による地球温暖化に関しても理論的基礎を確立するとともにコンピュータ実験によって、世界各地の気候変化を推定する研究において世界をリードし、現代の地球温暖化予測の枠組みを築きました。真鍋さんは日本出身であることからしばしば日本を訪問して研究指導や講義を行い、さらに1997年から5年間日本の研究グループのリーダーを務め、日本における気候変動研究を最先端に導くなど学術の発展・向上に大きく貢献しました。真鍋さんの経歴 出身は愛媛県四国中央市真鍋さんは、1953年に東京大学理学部を卒業。1958年に東京大学大学院理学系研究科修了・理学博士を取得しました。1958~1963年には米国気象局大循環研究部門の研究員をつとめ、1963~1997年には米国海洋大気庁地球流体力学研究所の上級研究員もつとめました。1968~1997年にはプリンストン大学大気海洋科学プログラム客員教授をつとめました。1983年に東京大学特別招聘教授に就任。1997~2001年には、宇宙開発事業団・海洋科学技術センター、地球フロンティア研究システム地球温暖化予測研究領域長をつとめました。2002年~現在まで、独立行政法人海洋研究開発機構非常勤顧問、プリンストン大学大気海洋科学プログラム上級研究員をつとめています。受賞理由については、地球の気候を物理的にモデル化し、変動を定量化して地球温暖化を確実に予測したこととしています。
2021年10月05日
「消夏随筆」明治34年10月(『若き日の石橋湛山』p.25-29)(略)〇仏教家でも、昔は随分偉大なる人物が沢山あった。随ってその人によって弘通せられた当時は仏教も活きた勢力をもつことができた。〇吾れは、その中でも日蓮上人を崇める。上人は実に血と涙とでできたような人であった。四箇の大難、かずかずの小難にも挫けず、遂に日蓮法華経を弘通したるその有様、実に吾れ吾れ薄志弱行の士の教訓になる。その著『開目抄』に「善につけ、悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。大願を立てん、日本国の位をゆづらん。法華経を棄て観経等について往生を期せよ、父母の頸を刎ねん、念仏申さずばなんど、の種々の大難出来すとも智者に我が義やぶられずば、用いじとなり。その外の大難、風の前の塵なるべし。我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我れ日本の大船とならん、等とちかひし願、やぶるべからず。」とは、以てその霊海の偉人たるを知るに足るべきか。〇吾れは、このように血と涙を以て、国家のために尽くすような人物をぜひ現今日本の社会に欲しい。宗教界にせよ、政治界にせよ。💛石橋湛山は、戦前、東洋経済新報主筆として満州事変に反対し、日中戦争に反対し、日独伊軍事同盟反対し、もちろん太平洋戦争にも反対した。それを民間人として、言論人としてやられた。「一切を棄つるの覚悟」(21年社説)では、朝鮮、台湾、満州などの植民地、権益の放棄を主張し、「大日本主義の幻想」(同)では軍事力による膨張主義を批判し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を提唱した。そして「いかなる民族といえども、他民族の属国たるを愉快とするごとき事実は古来ほとんどない」と植民地の人々の心情に対する日本人の想像力の欠如も指摘した。 戦後はGHQに対し、戦時補償、終戦処理費(GHQ維持に日本の予算の3分の1を持って行った)、緊縮政策に徹底的に反対し、公職追放になった。 まさしく若き甲府一高の時の「消夏随筆」の日蓮の言葉「我れ日本の眼目とならん」を血と涙を以て国家のために尽くすような人物たらんと実行し続けたのである。
2021年10月04日
Gさん毎日7時まで御苦労様です。I先生は喜ぶことでしょう。港湾工学の先達者である廣井勇を、クラーク精神からの側から観測したGさんの功績が大きいと思います。・・・頑張って下さい。三國(2016/2/26)GさんI所長からいま電話があり。Gさんの著作を見て、大変に驚かられたらしい。3月に東京で「廣井勇博士研究会」が開催され全国から廣井氏を尊敬する港湾土木の教授連中が集まるとか。その時に、Gさんの本を紹介するということでした。「廣井勇と青山士」の冊子をその研究会で披露したいので、もう一冊あれば是非とも購入したいとのことです。私がいただいた「廣井勇と青山士」は、Iさんに渡っています。もし他のものをふくめて残部があればIさんに送れば、その学会で披露され全国的に貴重な資料として知られていくかもしれない。残部があればよろしくお願いします。Gさんの功績が少しずつ専門家の間で知られていくのは実にうれしいことです。三國(2016/3/2)三國先生の言葉は実にあたたかい。三國先生は亡くなられたが、その温顔と言葉はわたくしのうちで生き続ける。
2021年09月28日
岡本さんがバイオリン1位 ミュンヘン音楽コンクール2021/9/13ドイツ南部ミュンヘンで開かれているドイツ公共放送ARD主催の第70回ミュンヘン国際音楽コンクールで12日、ドイツ西部クロンベルク在住の岡本誠司さん(27)=千葉県市川市出身=がバイオリン部門で1位になった。コンクールは若手音楽家の登竜門として知られる。岡本さんは「クラシック音楽の中心地ドイツで大きな賞をいただき、本当にうれしい。集中力を保ちつつ、全力で走りきった」と喜びを語った。「このような権威あるコンクールで賞をいただき、とてもうれしく思っています。ベストは尽くせたと思っていますが、これからも音楽の本質に近づいていけるよう日々精進していきたいです」
2021年09月26日
東海大学新聞9月1日号にサウジアラビアから国費留学生として東海大学に留学しそのまま教員となったアルマズヤッド・オスマン氏が「商いの原点」という書評で『石田梅岩 都鄙問答』を紹介している。・石田梅岩は本書で健全な社会をつくり上げるため「人間」としてのあるべき姿を多面的に説く。加えて社会の繁栄を実現するため「人間」に投資し、人間性を磨く基礎を築き、現代の日本社会形成に多大な影響を与えた。・梅岩は商人の道について「売り物の商品は大切に思い、決して粗末に扱わずに売り渡せ」「商人は国の法を守り、人としての道を知れ。不義の金儲けはやがて子孫が絶える結果を招く。子々孫々を愛するならば、まず人としての正しい道を学んで家業が栄えるようにすべき」と伝える。・いま一度原点に戻り、日本の尊い価値観を再認識してほしい
2021年09月22日
序章『バカの壁』の向こう側(「死の壁」p.9)・『バカの壁』という本について、随分たくさんの取材を受けました。そうした取材のなかで、一番多かった質問の一つが「じゃあ、結局どうすればいいんでしょうか」という類(たぐい)のものでした。 たとえば「あなたは、『身体を使え』と書いてあるが、具体的には何をすればいいですか」という質問です。本来ならば、それは自分で考えてください、ということなんです。・繰り返し聞かれるから、とりあえず「参勤交代を国で推奨すべし」と提案してみました。都会の人間が一年のうち一定期間、必ず田舎で暮らすことを義務付けよ、という提案です。・それで何が変わりますか、と聞かれても、とりあえずやってみろとしか言いようがありません。ただし、身体を動かすことで必ずその人は変わってきます。身体を動かすことで、確実に脳にも影響があります。そして考え方が変わってくるはずである。◎「死の壁」発行は2004年4月、『バカの壁』発行は2003年4月である。『バカの壁』は、400万部を超えるベストセラーとなり、同年の新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。当時この本の題名は大変な話題となったが、読んでいなかった。ほぼ20年近くたって読んでみる。『バカの壁』p.88・戦後、我々が考えなくなったことの一つが「身体」の問題です。「身体」を忘れて脳だけで動くようになってしまった。・戦時中まで、身体を担っていたのは軍隊という存在でした。それが、終戦できれいに消えてしまいました。以降、実は自分にとって一番身近な身体の扱い方を個人がわからなくなってしまった状態のままなのです。・軍隊というのはどういう組織かといえば、とにかく考えずに身体の運動を統一させる組織です。 そこに所属している者たちは、身体について考える必要が無かった。 考える前の段階で、訓練によって身体を強制的に動かされる。いわば身体依存の生活を送らざるをえなくなります。・身体を動かすことと学習とは密接な関係があります。脳の中では入力と出力がセットになっていて、入力した情報から出力をすることが次の出力の変化につながっています。 歩けない赤ん坊が何度も転ぶうちに歩き方をおぼえる。出力の結果、ここでは転ぶという経験を経て、次の出力を繰り返す。そのうち転ばずに歩けるようになってくる。 赤ん坊はハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。ハイハイをして動くと視覚入力が変わってくる。それによって自分の反応=出力も変わる。 この入出力の経験を積んでいくことが言葉をおぼえるところに繋がってくる。そして次第にその入出力を脳の中でのみ回すことも出来るようになる。脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。・基本的に人間は学習をするロボットだ。それも外部出力を伴う学習である。 出力を伴ってこそ、学習になる。 ところが往々にして入力ばかりを意識して出力を忘れやすい。身体を忘れている。💛このところ、ストレッチを熱心にやっている。一つは20代のころ、禅寺で座禅をしていたのだが、沢木興道師の本を読んで、ひさしぶりに坐ってみようとみようと思ったら、ひざが固くなって半跏も組めない。これはいかんわい、柔軟性を復活させなくてはと思ったしだい。もう一つは健康診断で糖代謝がD判定(糖尿病)だった。従来、朝早くウォーキングを続けてC判定のままだったが、これはいかん、と食生活・生活習慣を見直して、食後に必ずストレッチとソフト・スクワットを取り入れることにした。 養老先生が『身体を使え』とおっしゃるとおり(それは自分で考えてください)わたくしの場合はストレッチを続けた結果、短時間ではあるが坐禅ができるほど、足が組めるようになってきた。 また海や池など自然のなかでストレッチする心地よさに気付いた。このところ顕著だった身体の不具合(体中しっしんだらけ、足の指が痛んで黒ずんだのが治らない、夜中に非常な気分の悪さを感じる)が徐々に解消してきた。 夢の中で おおきなカエルが弱ったのを、ごみ入れにのせて捨てるのを見たが、あるいは自分の身体にすくっていた悪きものがとりのぞかれる予兆かもなんて思った。「10年前に気付いてストレッチをしていればよかった」と知人に話したのだが、人間は失ったり、困難に遭遇しないとなかなか今までの生活習慣を反省し、新たな生活習慣にチャレンジできない。 このコロナの時代は、日本人や人類にとって困難な時代である。だからこそ民族や人類がその生活習慣を変えて、健全で安全で平和な時代へと移行できるチャンスなのかもしれない。
2021年09月09日
三國先生とのメールから2015年2月23日Gより三國先生、ありがとうございます。I先生については承知しておりませんが、広井博士を尊敬されているとのことですので、「紳士の工学の系譜」につながる方でしょうか。日本の工学をノーブル(高貴)たらしめているのは、広井勇の札幌農学校精神によるところが大きいと思います。広井勇は浅野総一郎に「死ぬまで仕事をしなさい。仕事ができなくなったらお死になさい」と常々言っていたそうです。退職してフル勤務にしたのは家内の慫慂のほかにその言葉があります(^。^)現在「報徳記を読む第三集」を印刷にかけるところで引き続き「第4集」の刊行に向けて編集をしています。刊行しましたら、三國先生に差し上げに伺います。2015年2月23日三國I先生はアカデミアの機関評価委員会の委員長をしてくれた方です。廣井勇を尊敬している方で、〇〇大学でも教職員や学生に圧倒的な人気があります。「ノーブルな工学」を追ってここまで来た方と思われます。病気から回復するたびに、前よりも一層元気になる不思議な能力をもっておられます。地福さんの本が話題になることが私には嬉しいです。浅野総一郎に「死ぬまで仕事をしなさい。仕事ができなくなったらお死になさい」と常々言っていた、という言葉は初めて聞きましたが、それはまことにわれわれの銘としてよい言葉です。倒れるまで良い仕事をしましょう。どうか頑張って下さい。三國2015年2月24日三國Gさん廣井勇に関する地福さんの著書2冊、「紳士の工学」と内村鑑三などとの書簡集を、Iさんに昨日お送りしておきました。喜ばれることでしょう。港湾土木の仕事を停年まで国土省で行ない、退職して横浜国大教授となり、そこが終わって放送大学神奈川学習センター所長をしています。「病気をして退院するたびに以前より元気溌溂となっている」とよく言われるので、何らかのスピリッツを持っている人間なのでしょう。まさに「働けなくなったらお死になさい」ですね。私も・・・・・・見習って自分を更新しなければとつくづく思います。三國2015年2月2日三國Gさん池田先生からいま電話があり。Gさんの著書を見て、大変驚かられたらしい。3月23日に東京で「廣井勇博士研究会」が開催され全国から廣井氏を尊敬する港湾土木の教授連中が集まるとか。その時に、Gさんの本を紹介するということでした。「廣井勇と青山士」の冊子をその研究会で披露したいので、もう1部あれば是非とも購入したいとのことです。私がいただいた「廣井勇と青山士」は、池田先生に渡っています。もし他のものをふくめて残部があれば池田先生宛に送れば、その学会で披露され全国的に貴重な資料として知られていくかもしれません。残部があればよろしくお願いします。Gさんの功績が少しずつ専門家の間で知られていくのは実にうれしいことです。三國2015年2月26日三國Gさん毎日、7時まで御苦労様です。池田先生は喜ぶことでしょう。港湾工学の先達者である廣井勇を、クラーク精神の側から観測した地福さんの功績が大きいと思います。・・・・・・頑張って下さい。三國*三國先生の「Gさんの本が話題になることが私には嬉しいです」「Gさんの功績が少しずつ専門家の間で知られていくのは実にうれしいことです」とわたくしの仕事が世に広まることを自分のことのように喜んでくださる三國先生の温情が身に心にしみる。また、「港湾工学の先達者である廣井勇を、クラーク精神の側から観測したGさんの功績が大きいと思います」と学術的にも、これまでの刊行物を評価してくださることが有難い。廣井勇博士が設計建設した小樽港北防波堤(二百年堤防)💛三國先生ありがとうございます。三國先生は亡くなられたがわたくしの心の中で生き続けている。人生において良き人との出会いは宝である。
2021年09月01日
「道元禅参究」正伝の正法・「仏仏祖祖正伝の正法は、ただ打座のみ」(永平広録)悟っても悟らんでも凡夫は凡夫のまま仏仏祖祖の坐禅をするのみである。このただ坐禅をするということが、正しく仏法の伝わるということである。・わしは昔から「『一切経』は坐禅の脚注である」と言い続けてきた。『一切経』を具現し、実修実行するものが座禅である。仏道を修行する学道には坐禅そのものを信じ、また必ず行として坐禅をつとめることをしなければならない。仏道の行とは坐禅をつとめることだといわなければならない。・沢木さんの悩むのを見たことがないというものがある。わしだって木像じゃないんだから悩むことはありますよ。いつぞやあるところで講演しておったら、下腹の具合が悪くて下痢して猿又を汚した。これにはほとほと困り抜いた。洗濯するにも時間も場所もない。そこで新しいのを買って交換してそのよごしたものを九州一円持ち歩いて、ようよう最後のところで 洗濯して解決したことがある。とにかくつらかった。糞を鞄のなかにもちあるいておるのだから、これあに軽々なるものならんやだね。しかしそんな悩みよりも、もっともっと熱の入ったものが破戒だとわしはいう。これをわしの言葉でいえば「のぼせ」ることである。・坐禅はそういう「のぼせ」が下がることである。のぼせはなぜおこるか?人間は損得でのぼせる。迷いということの根本は、どうしたら得がいくかということである。会社を経営しようが、代議士になろうが、大臣になろうが、それらは得になると思うから「のぼせ」あがって大騒ぎをする。それが損になるなら、なり手はないし、あんなに大騒ぎはせぬ。・それだから長い間、有所得で仏法を研究して来て、仏教学の博士だの名誉教授だのになったものに。「お前のようなのは有所得でやったことであって、それは仏法ではない、それはただ「のぼせ」だけのものだ」というたら怒るだろうが、これは本当のことである。ところがそういう人たちはもとから「のぼせ」上がっているから、こういっても素直に承知しまい。昔からの禅僧の問答にこういうのがある。ある年寄りのお師家さんに、若いお師家さんが「いやもうご無沙汰しまして、多忙にまぎれまして」と挨拶した。そうすると老僧の方がいわく「ウン、分相応多忙じゃろうのう。山僧はひまじゃ」といったということである。💛「会社を経営しようが、代議士になろうが、大臣になろうが、それらは得になると思うから「のぼせ」あがって大騒ぎをする。それが損になるなら、なり手はない」で思い出したのが「われ損の道を行く」のダスキン創業者鈴木清一氏の言葉である。鈴木 清一(ダスキン創業者)自分に対しては損と得とあらば 損の道をゆくこと他人に対しては喜びの種まきをすること「損の道をゆけ、というのはわかりにくい。いっそ〝正しい道をゆけ〟としたらどうか」という他人からの問いに対して、「何が正しいとか正しくないとか、人間にわかるものでしょうか。それは神様だけにしかわからない。人は自分がいつでも正しい、と主張するから争いが絶えない。そこを、多少、分が悪くても、相手によろこんでいただけるなら損の道をゆく。これなら神様に相談しなくても、自分でできる解決の道である」と、鈴木は語る。「物事を解決するとき、一歩前に出たやり方は解決にならない。一歩引いて解決したとき、これが完全な解決になる」「相手に喜んでもらうことで、徳を積むことこそ、自分の喜びになる」『ダスキン悲願』(働きさんが心がける〝徳目〟)謙遜、賢明、剛健の得を養い 仕事の第一は人間をつくることでありますように働くことが楽しみであり 利益は喜びの取引から生まれますように商いを通じて人と仲良くなり 経済をもって世界平和のお役に立ちますように・わしはなんというても坐禅というものは、われわれのこの材料でつくるもののうちでは、これが一番上等のものであると思う。つまり坐禅の正身端座したいわゆる堂々たる姿こそがそれではないかと思う。・身体そのままである姿勢、これが坐禅である。この姿勢、そのままが宇宙とブッ続きであるから、坐禅をしたら堂々たるものであることは当然です。だから坐禅するなら、どこまでも無所得であり、不可得である坐禅でなければならない。・この段(「永平広録」)では「即心即仏」ということについて述べているが、この即心即仏という言葉をとんでもなく間違えて、理解していることが非常に多い。わしが30代じゃったと思う。ある田舎に説教を頼まれていった。20代あまりの若い僧侶が、私が説教する前に一席やった。そこで彼は「当流の安心は他宗他門のように、死んでから地獄極楽に行くのではない。この身このまま即心即仏というてな」という調子で始めた。それを聞いておかしくなって困った。なぜかというとそのあとからすっかりすれを言い直さんならんからである。「この身このまま即心即仏なら、仏法も鉄砲もいらんことになる。けれどもそうはいかん。そこでどうしてもこの凡夫をへしまげて、即心即仏をしなければならんのである。そうするには『このまま』などというようにそう容易なことではない」と説教したことがある。・わしも出家する前は提灯屋の才吉だった。わしが故郷(三重県津市一身田)で講演した。そしたらわしの子供のころの先生の奥さんが「今日才吉つあんの話をきいてきた」というたそうである。わしは才吉つあんといわれても恥ずかしいどころか、誇りじゃね。幼い時に両親に死なれて養い手がないところから提灯やの養子にもらわれて、十二、三のころから提灯張りの商売に歩きまわっていたが、そのあと勝手にのたうって坊主になったものである。
2021年08月22日
米アフガン攻撃「間違っていた」 ゴルバチョフ氏語る―ロシア2021年08月17日ゴルバチョフ元ソ連大統領(90)は17日、アフガニスタン情勢に絡み米国の2001年のアフガン攻撃が「最初の最初から間違っていた」と述べた。ロシア通信に語った。ゴルバチョフ氏は1989年、ソ連軍のアフガン駐留を終わらせた。 ゴルバチョフ氏は「当初、米軍のアフガン攻撃をロシアは支持していた」と認めつつも「もっと早く誤りを認めるべきだった」と指摘した。「今となっては、現在の状況から学ぶことが何より重要だ。二度とこういう間違いを繰り返してはならない」と訴えた。クーデター未遂30年 ゴルバチョフ氏「民主主義こそロシア発展唯一の道」8/19(木) 旧ソ連の崩壊につながった1991年の保守派らによるクーデター未遂事件から30年になるのにあわせ、ゴルバチョフ元大統領は「民主主義こそがロシア発展の唯一の道だ」とする声明を発表しました。 ゴルバチョフ元大統領は、共産党保守派らによって別荘に一時軟禁されたクーデター未遂事件から19日で30年になるのにあわせ、声明を発表しました。 ゴルバチョフ氏は「当時の教訓は今にも通じる。民主主義と法の支配の原則を守ることは、常に社会と国家の関心事であるべきだ」と指摘。そのうえで「民主主義こそがロシア発展の唯一の道であり、あらゆる問題を解決できると信じている」と述べています。 ソ連末期に「ペレストロイカ」と呼ばれる改革を進めたゴルバチョフ氏は、1991年8月のクーデター未遂事件によって求心力が低下。12月にソ連は崩壊しました。 プーチン政権下のロシアでは、ゴルバチョフ氏をめぐり「大国」だったソ連を崩壊させたとして批判的な声もありますが、ゴルバチョフ氏は「クーデターの首謀者らがソ連崩壊に大きな責任を負っている」と強調しています。(19日07:41)領土「交渉恐れてはいけない」ゴルバチョフ元大統領に聞く 旧ソ連クーデター未遂30年・ゴルバチョフ氏は「長い時間が失われたのは残念だ。こうしたことで(交渉の)勢いを失ってはならない」と強い懸念を表明。「交渉を恐れてはいけない。最も困難で緊急性の高い問題を議題とすることが必要だ」と訴えた。・20年以上続くプーチン体制に関し、ゴルバチョフ氏は野党勢力が事実上、選挙から締め出されていることを指摘した上で、「独裁的な傾向が強まっている」と警鐘を鳴らした。 ソ連末期のペレストロイカは途中で挫折したが、「国民が政治プロセスに参加することによって社会問題を解決すること、グローバル化の目標など、その思想と原則は現在も有効だ」と改めて強調した。・米ロが今年2月、新戦略兵器削減条約(新START)の5年間延長で合意したことについて「現在、最も重要なこと。これによって戦略的な安定性に関する交渉を始めることができるようになった」と高く評価した。 同氏はこれを踏まえ、米ロ間でさらなる核兵器削減交渉の進展が必要であることを強調。「核兵器の先制不使用に向け前進すべき時だ」と米ロ双方に促した。また核大国となった中国を念頭に「他の核保有国を(軍縮)協議に参加させる必要がある」と指摘した。2021年8月19日
2021年08月21日
座禅の功徳(「道元参究」沢木興道)「功夫猛烈敵生死」功夫といっても、頭で理智分別をたくましゅうして公案を考えることではない。坐禅を猛烈に骨折って坐ることである。つまり一生懸命に両膝を下げ、頭で天に突き上げ、出る息が出る息ぎり、引く息が引く息ぎり、この生死関頭においてただ坐るということである。・・・つまり自分というものの入り込む余地を作らない端坐の努力をする。すなわちこれを非思量の仏坐というのである。・・・坐禅はどんなに人から坐禅の話を聞いたり、研究したとしたとしても、それは坐禅にまったく関係はない。実際に坐ってこそ坐禅である。・・・いつやら「坐禅をすると何になりますか」という。「坐禅をすると仏になる」と答えてやった。・・・「へー、何年くらいしたら」と聞く。「すぐなる」・・・功夫猛烈、一生懸命に坐禅をすればそれが成仏である。生死を透脱しているから成仏である。だから「功夫猛烈、生死に敵す」と言われるのである。・・・生死を透脱した坐禅こそ、宇宙一杯の自己を生きる唯一の生き方である。つまり坐禅するのがわれわれの本来のあり方であるのである。
2021年08月19日
「おいはのう 民のための国っちゅうもんを つくりたか。 みんなが 腹いっぱい飯を食うて 笑って生きていける国を つくりたかとじゃ。 一蔵どんには 分かってもらえんかった。 じゃっどん 糸どんなら おいの志を 分かってくれそうな気がして。 一人でも分かってくれる人が いたら 心強か。」「死んだら やっせん。 待っちょいもす。 あん家で お帰りを待っちょいもす。 西郷吉之助の妻として 新しか国を一緒に見たか! 西郷吉之助! チェスト 気張れ~!」吉之助 一蔵どんに 聞いてほしかこっがある。 もう幕府に 日本国を任せてはおけん。一蔵 なんち?吉之助 こんままじゃったら 日本国は 異国ではなく 幕府に滅ぼされてしまう。一蔵 こげなとこで ないを言いだすっとじゃ!吉之助 おいは こん目で見てきた。 あの華やかな京の都が 無残な焼け野原になったとじゃ。 長州征伐も 徳川の脅威となる 薩摩と長州を戦わせ 弱らせ 潰してしまおうち…。 これまでの日本を守ってきたのは 幕府である! これからも そうあるべき!一蔵 幕府が守りたいのは 徳川家だけっちゅう事か。吉之助 そいが一橋慶喜公の考えじゃ。 日本国は おいたちが守らんにゃならん。 そげな幕府なら 潰すしかなか。一蔵 ちょっ待たんか 吉之助さぁ おはんも聞いちょったどが。 殿は 薩摩が幕府の政に加わる事を 願っておられる。 国父様も同じじゃ。 幕府を潰そうち だいも考えちょらん。吉之助 そげなこつは分かっちょ! じゃっで こげんして おはんに話しちょっとじゃ。 日本を変えるには 薩摩を変えねばならん。 おはんの力を貸してくいやい!一蔵 もし 他藩に背を向けられ 孤立したら 薩摩は 長州の二の舞になる。 違うか? 一度は 地の底に落ちた薩摩を せっかく ここまで立て直したんじゃ。 そいを全て 水の泡にせえっちゅうのか?吉之助 じゃっで おはんの力が必要なんじゃ!一蔵 おいは ついていけん。吉之助 じゃったら しかたがなか。 おいは 一人でやる。一蔵 吉之助さぁ!吉之助 糸どんさえ よければ… あん家に来てくれもはんか。糸 な… ないを申されもすか!? 昨日も言ったとおり 私は…。吉之助 おいも1人目の妻には 離縁を告げられもした。 2人目の妻と子は 島においもす。 そん上 3人目の妻になってくれち ずうずうしかこつ極まりなか。 そいを承知の上で お願いしちょ。 糸どんが来てくれたら 家の者も喜びもす。糸 何度も言わせんでくいやんせ。 私は 子が産めんで 離縁されたとですよ。吉之助 そいでもよか。そげなこつは 天に任しもんそ。糸 吉之助さぁは 昔っから優しか。 居場所のなか私を憐れんで もらってくれようち しちょっとではあいもはんか?吉之助 そいは ちごっ! おいには 女子を憐れんだり 女子に惚れたりしちょっ暇はなか。 そいばかりか… いつまで こん命がもつかさえ 分からん。 糸どんじゃっで言うが おいは今 とんでもなかこつを しようちしちょっ。 日本中が ひっくり返るような…。糸 日本中が ひっくり返る?吉之助 おいはのう 民のための国っちゅうもんを つくりたか。 みんなが 腹いっぱい飯を食うて 笑って生きていける国を つくりたかとじゃ。 そんためには どげんしても やらねばならんこつがある。 一蔵どんには 分かってもらえんかった。 じゃっどん 糸どんなら おいの志を 分かってくれそうな気がして。 一人でも分かってくれる人が いたら 心強か。 どげんな?糸 すんもはん…。吉之助 そうか。 うん…。 無理を言うたな。 ごっそうさん。吉之助 糸どん?どげんした?糸 死んだら やっせん。 待っちょいもす。 あん家で お帰りを待っちょいもす。 西郷吉之助の妻として 新しか国を一緒に見たか!吉之助 糸どん。糸 ふつつか者じゃっどん よろしくお願い致しもす。吉之助 あいがとう。 あいがとな 糸どん。 ほいなら…。 行ってくっでな。糸 はい。 西郷吉之助! チェスト 気張れ~!
2021年08月07日
「歴史的な金だ」史上初の金メダルを掴んだ男子エペ団体に欧米メディアも熱狂!「勢いは止められなかった」【東京五輪】7/30(金) 全員が攻勢を貫き、掴んだ会心の勝利だった。3人が総当たりで戦う団体戦で、世界ランク2位のセルゲイ・ビダを擁するROCに対して、日本は「最初に勢いをつけたら絶対勝てると信じていた」が語ったトップバッターの山田が5-4で勝利。これで勢いに乗り、宇山は8-6、加納は8-3と、全員がリードを奪う“圧勝劇”を演じた。 過去に日本勢では、200のおのの北京五輪で太田雄貴氏が、男子フルーレ個人で日本初の銀メダルを獲得。さらに12年のロンドン五輪では男子フルーレ団体で銀メダルを手にしていたが、エペ団体としては日本初メダルをついに掴んだ。 文字通り歴史を塗り替えた日本チームには、各国からも賛辞が相次いでいる。伊メディア『OA Sport』は、「決勝でROCを破った日本が歴史的な金を手にする」と銘打ったマッチサマリーを掲載。そのなかで「ファイナルに辿り着くことも夢のような出来事だったホスト国が、その物語を見事に完結させた」と絶賛し、大トリを飾った加納のパフォーマンスを褒めちぎった。「日本は序盤からリードを保つ、彼ららしい積極的なパフォーマンスを披露し、自分たちのペースを譲らなかった。そして最後に登場したカノウは、ビダとの激闘を8-3という完勝と言うべきスコアで制し、日本という国全体を高揚させた」 さらに米放送局『NBC』は、「すでに女子が団体を制していたROCの男子は、自分たちも金メダルを狙いに行ったが、オリンピックの歴史を作ろうとする日本の勢いは止められなかった」と賛辞をマッチサマリーに記した。フェンシング武井壮会長「最高の気分だ!」1時間後に落ち着き公式コメント7/30(金)フェンシングの男子エペ団体で、日本が決勝でROCを下し、初の金メダルを獲得した。6月に就任したばかりの日本フェンシング協会の武井壮新会長(48)はツイッターで「歓喜の瞬間をみんなで分かち合いたい!!フェンシング男子エペ日本代表!!オリンピックゴールドメダリスト達だぜ!!!サーシャコーチもおめでとう!!!!! 最高の気分だ!!!!!!!」と「!」を19個も並べて興奮気味に喜んだ。その約1時間後、武井新会長は、日本フェンシング協会を通じて公式コメントを発表。いきなり落ち着いたトーンで、「!」は3つ交えて金メダルを喜んだ。公式コメントは以下の通り。フェンシング男子エペ団体戦で、エペ種目史上初の金メダル獲得となりました!日本のフェンシングの歴史が、太田前会長のメダル以来また一歩前進致しました!私は就任して間も無いので、このオリンピック太田前会長体制での強化普及への尽力が大きく実った結果だと感じます。この大きな功績を頂いて、今後さらにフェンシングを日本に、世界に広めるべく、オリンピック以降も全力で強化、普及に努めつつ、多くの方がフェンシングの魅力に触れられるフィールド作りを進めたいと思います。“競技経験ゼロ”の武井壮が「フェンシング協会会長」になったワケ7/29(木)6月19日、スポーツ界にビッグニュースが飛び込んできた。日本フェンシング協会の新会長に武井壮氏が就任した。 前会長は、北京五輪銀メダリストの太田雄貴氏。日本フェンシング界の顔であり、東京五輪招致に尽力した立役者。 東京五輪の1年延期という不測の事態に会長継続の声もあったなか、会長のタスキを武井氏に繫いだのは太田氏自身。属人的な運営体制からの脱却を図りたいという狙いと、武井氏のビジョンを掲げる力が会長にふさわしいと考えてのことだ。「今年の年明けにSNSのDMで『相談があるんです』と太田前会長から連絡があり、電話したんです。当初は会長ではなく理事の打診でしたが、返事は保留にさせていただきました。フェンシング界の知識もなく、理事として関わるとなれば選手の人生を多少なりとも変えてしまう。その責任に応えられないと感じたからです」武井氏はオファーがあるまでフェンシングに特別な関心を寄せていなかった。考えが変わりはじめたのは、何度も自宅に訪れて説得する太田氏の熱意に加え、選手たちの声を聞いたから。「太田前会長に、日本のトップ選手複数人と話す場をリモートで設けてもらったときに、彼らがどんな想いでプレーをし、フェンシングを通じてどんな人生を歩みたいのか、理想の年収や暮らしを含めてヒアリングしました。すると、今よりもっといい環境で競技をしたいという声が上がりました」 それに対し、武井氏はフェンシングの課題を提言した。「選手たちがよりいい環境で競技するには、スポンサーの存在が必要不可欠です。競技を見る人も競技人口も多くない今の状況は、スポンサーにメリットをお返しできていないと言いました。5000万円を広告費として使うなら、それ以上のリターンやメリットがなければ広告を出す意味がない。まずはそれ以上に価値のある業界にしなければ」日本のフェンシングの競技人口は2019年で約6000人。2大会連続でメダルを獲得した競技でありながら、競技人口はマイナー競技の域を出ない。武井氏もまた、十種競技の日本チャンピオンになった際に新聞の端に小さくしか取り扱われず、マイナー競技の現実を痛感した過去がある。「タレントもアスリートも同じ構造だと思っているんです。自分の価値を高め、取材や番組出演で認知され、応援してもらえる人の数を増やしていくことが重要。例えば街頭でフェンシング選手の写真を見せたときに名前と顔が一致する人ってほぼいないと思うんですよ。 スポーツをエンターテインメントとしてビジネス化するには、非常に脆弱な状態であると言わざるを得ない。スポーツをやっているだけで価値があるわけではなく、スポーツをやっている自分を見せて、そこに行き着くストーリーに共感してもらって価値を高めていくことが必要です。 フェンシングに出資するとメリットがある環境を築くことができれば、それが結果的に競技人口の増加にも繫がるだろうし、フェンシング界が成長する近道であると考えています。 その分、人から注目される苦労やストレスは増えますが、選手たちがそれでもやりたいと思うなら私にできることは少なからずあると思えました。10年前、世の中にまるで知られていなかった武井壮という存在をメジャーにした経験とノウハウがありますから」 こういったミーティングを重ね、選手からも「武井新会長」を待望する声は高まり、信任を得て会長へ就任することになった。
2021年07月31日
家族ふれあい新聞第1010号 3月31日号より鏡の法則 その1 ○小学生の息子が学校でいじめに会い、仲間はずれにされている。母(A子)は、息子から聞きただそうとするが、息子は「ほおっておいてくれ」と心を開かない。夫が自分の先輩の経営コンサルタント(B氏)に相談したらというので藁にもすがる思いで電話した。するとB氏は話を聞いて本気で解決する気なら難しいことではありませんと意外なことを言うのだ。「はっきりしていることは、あなたが、誰か身近な人を責めているということです。」A子は思わぬ回答にとまどった。B氏は続けた。「現実に起きる出来事は、一つの『結果』です。『結果』には必ず『原因』があるのです。あなたの人生の現実は、あなたの心を映し出した鏡だと思ってもらうといい。人生という鏡のおかげで、私たちは自分の姿に気づき、自分を変えるきっかけを得ることができるのです。」「私の悩みは、私の何が映し出されているのですか?」「あなたに起きている結果は、『自分の大切なお子さんが、人から責められて困っている』ということです。考えられる原因は、あなたが『大切にすべき人を、責めてしまっている』ということです。」B氏はA子に夫との関係を聞いた。A子は夫を教養がないと軽蔑していた。B氏はその根本的な原因がA子が父親を許せないと思っていることにあるという。B氏は、父に対する『許せない』という思いを紙に書きなぐるように言った。A子は、父に対する思いを、思いつくまま書いた。口やかましい父で、夕食が説教の時間になることも多かった。書いているうち感情が高ぶり、涙が出た。B氏「お父様をゆるす覚悟はできましたか?紙の上の方に『父に感謝できること』というタイトルを書いて、お父様に対して感謝できることを紙に書き留めて下さい。次に、別の紙を用意して『父に謝りたいこと』ってタイトルを書いてください。実感がともなわなくてもOKです。形から入りますから。今からお父様に電話をかけて、感謝の言葉とあやまる言葉を伝えるのです。『父に感謝できること』と『父にあやまりたいこと』の2つの紙に書き留めたことを、読んで伝えるだけでOKです。」A子は電話をかけた。「私、今まで言わなかったんだけど、お父さんが頑張って働いてくれて、私も育ててもらったわけだし。『ありがたい』っていうか、感謝みたいなこと言ったことないと思うのよ。それで、一度ちゃんと言っておきたいなと思って、・・。それから私、心の中で、けっこうお父さんに反発してたし、それもあやまりたいなと思ったの。」受話器からは、父が嗚咽する声が聞こえた。父が泣く声を聞いたのは初めてだ。父は私のことを愛したかったんだ。親子らしい会話もしたかったんだ。父は寂しかったんだ。娘に愛が伝わらなかったことが、辛いことだったんだ。B氏「潜在意識の法則というのがありましてね、実は、人生で起こるどんな問題も、何か大切なことを気づかせてくれるために起こるんです。偶然起こるのではなくて、起こるべくして必然的に起こるんです。自分に解決できない問題は決して起こらない。起きる問題は、すべて自分が解決できるから起き、前向きで愛のある取り組みさえすれば、後で必ず『あの問題が起きてよかった。そのおかげで・・』と言えるような恩恵をもたらす。心の世界はつながっています。原因を解決すれば、結果は変わるしかないのです。」
2021年07月26日
独紙「南ドイツ新聞」では、東京特派員のトマス・ハン記者が、東京五輪について「課題に充分対処しない日本の姿勢を多く露呈する。その姿勢は、日常のなかでは気づかれないものだ」とコメントしている。開閉会式のショーディレクターであった小林賢太郎が、過去にユダヤ人の大虐殺をあざけ笑うコントをしていたことで開会式前日に解任されたが、それは一連のスキャンダルによる辞任に続くものに過ぎず、「世界のスポーツ界は、東京大会の次のスキャンダルが何かと見ている」という。開会式の音楽制作担当だった小山田圭吾の過去の障がい者へのいじめ問題による辞任、渡辺直美の容姿を侮辱した演出ディレクターの佐々木宏の辞任、女性蔑視発言をした森喜朗前会長の辞任と、スキャンダルが続いた。これらのスキャンダルは、新しい担当者を入れることで対処されてきた。「このように日本においては、通常すぐに対応できる解決策が好まれる。しかし、根底にある問題に目が向けられているのかはわからない」と指摘する。「結局、女性差別やいじめ、反ユダヤ問題などは、ただの間違いではない。これらの問題は、島国の日本では外国人が批判したときにのみ問題になるのだ」と述べ、非倫理的な発言や行いが日本では普段見過ごされ、充分な対応が取られていないと批判的だ。
2021年07月25日
“ピクトグラム男”が会見に登場 シュールな映像に海外笑撃「ジャパンはマジ最高!」2021.07.24東京五輪は23日、開会式が東京・国立競技場で行われた。今大会の競技のピクトグラムを“実演”したパフォーマーが話題となっていたが、開会式後に行われた会見にもそのままの姿で登場。実際の映像を五輪公式SNSが公開しているが、シュールな様子に海外ファンからは「心奪われた」「ジャパンはマジで最高!」などと反響が寄せられている。全身真っ青の衣装で、見事なパフォーマンスを見せた“ピクトグラム男”。何と会見にもそのままの姿で登場した。女子レスリングで金メダル3つを獲得した吉田沙保里さんらと並んで座ると、質問に応えようとマイクのボタンを押す。しかし、反応しなかったため右手の手袋を脱ぎ、顔も出そうかというところで画面が切り替わっている。 実際の映像を公開した五輪公式ツイッターは「ピクトグラム人間に休みの日は無い」と文面につづった。海外ファンからは「本当に大好きだ」「可愛らしい」「もはやオフィシャルマスコット」「最もクールな取り組みだった」「私はグラフィックデザイナーですが心を奪われました」「彼をもっと登場させて」「ジャパンはマジで最高だ!」などとコメントが書き込まれている。“ピクトグラム男”は開会式で、場内の音楽に合わせてコミカルに動き、今大会の競技のピクトグラムを表現。ツイッター上の海外記者からも「メダルに値する」「超クール」などと称賛の声が続出していた。
2021年07月25日
「報徳記を読む会」で「森町見学会」を実行したとき、Mさんのはからいで、森町の老舗の割烹料理屋さんの2階の座敷で素敵な昼食をいただいた。三段重ねの漆器の器に美しく料理が盛られていた。その座敷の隣りの部屋は椅子席の洋間で、そこにサミュエル・ウルマン氏の「青春」の詩が飾られていた。青 春サミエル・ウルマン青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。(Youth is not a time of life ; it is a state of mind)優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く「驚異への愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。人は信念と共に若く人は自信と共に若く希望ある限り若く 疑惑と共に老ゆる恐怖と共に老ゆる失望と共に老い朽ちる大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。☆これを元の英文の詩と比較すると異なる点がいくつかある。・原文の「バラ色の頬、赤い唇、しなやかな膝の問題ではない」が省かれている。・原文での60歳を高齢化を受けて70歳に引き上げている。・「空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦」など訳詞者が言葉を多く補っている。・サミュエル・ウルマンは、人の心には無線局(アンテナ)があり、それはつながっている。そしてそのアンテナが人や無限(神)から楽観主義を感受し続ける限り、人の精神は老いることはなく、若いまま80歳(高齢化の現代では100歳であろうか)で死ぬことができる。・まことに日野原先生は「die young at a hundred」若くして亡くなられたというべきか。サミュエル・ウルマンの詩「青春」(原文) A. Original 版 Youth Samuel UllmanYouth is not a time of life ; it is a state of mind ;(青春とは、人生の一時期ではなく、心の状態である。) it is not a matter of rosy cheeks, red lips and supple knees ;(バラ色の頬、赤い唇、しなやかな膝の問題ではない。) it is a matter of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotions ;(意志の問題であり、想像力の質であり、感情の活力である。)it is the freshness of the deep springs of life.(人生の深い泉の新鮮さである。)Youth means a temperamental predominance of courage over timidity of the appetite, foradventure over the love of ease. (若さとは、気質的に、勇気が臆病を上回っていることを意味し、冒険が安楽を愛する心に勝ることを意味する。)This often exists in a man of sixty more than a boy of twenty. (これはしばしば20歳の少年よりも60歳の男性の方が多い。)Nobody grows old merely by a number of years. (誰もが単に何年かで年をとるわけではない。)We grow old by deserting our ideals.(私たちは理想を捨てて老いるのだ。)Years may wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. (年月は皮膚にしわを寄せるが、熱意を捨てると魂にしわができる。)Worry, fear,self‐distrust bows the heart and turns the spirit back to dust.(心配、恐れ、自己不信は、心を曲げ、精神を塵に戻す。)Whether sixty or sixteen, there is in every human being's heart the lure of wonder, theunfailing child‐like appetite of what's next, and the joy of the game of living.(60歳でも16歳でも、すべての人間の心の中には不思議な魅力がある。子供のように次のことが気になり、生きるためのゲームを楽しむことができる。)In the center of your heart and my heart there is a wireless station;(あなたの心と私の心の中心には、無線局がある。)so long as it receives messages of beauty, hope, cheer, courage and power from men and from the Infinite, so long are you young.(美しさ、希望、元気、勇気、そしてパワーのメッセージを人や無限から受け取っている限り、あなたは若い。)When the aerials are down, and your spirit is covered with snows of cynicism and the iceof pessimism, then you are grown old, even at twenty,(アンテナの感受性が下がり、精神が皮肉の雪と悲観主義の氷で覆われているときは、20歳でも老いている。) but as long as your aerials are up, to catch the waves of optimism, there is hope you may die young at eighty.(しかし、楽観主義の波を受け止めるためにアンテナを立てている限り、80歳でも、若いまま死ぬことができるという希望がある)
2021年07月14日
日野原重明先生は105歳で2017年7月に亡くなられた。最後は経管栄養の延命措置を拒否されて自宅でのお亡くなりであった。日野原先生を慕う人は多く、その健康法は、参考にすべきものが多い。2009年01月21日 97歳で超元気!脳と体の若さの秘密日野原先生は摂取カロリーを一日1300キロカロリーにしているという。ただし、野菜やたんぱく質はじゅぶんにとるように心がけている。 朝と昼は、ジュースや牛乳などの水分が中心。 夕食は。緑黄色野菜をやくさんとり、脂身のない肉や魚などは必ず食べる。 そうした食事で、体重や腹囲は30代のころと変わらない。 眠るときは腹臥せで、また運動不足解消のため、階段をできるだけ使うようにしている。歩くときにも歩幅を大きく、背筋を伸ばし、人を追い抜くくらいのスピードで歩く。息も「吐いて吐いてそして吸う」で胸の中の空気を全部吐き出してから吸う呼吸法を行っている。 ストレス解消法は第一に音楽を聴くこと。そして心の持ち方として、まず見返りを期待しない心を持つことをあげられる。日野原先生が大切にしていることは、待つこと、感謝すること、そして勇気を持つこと
2021年07月04日
バアル・シェム・トブ と ハシディズムの瞑想方法(『ユダヤ教の霊性』)ポーランド南部のポドリア地方の小都市メジブズで、ラビ・イスラエル・ベン・エリエゼル、通称「バアル・シェム・トブ」(1700頃ー1760年)がユダヤ教の復興運動、ハシディズム(敬虔主義)運動を始めた。バアル・シェムとは、護符師(病気などの場合にお守り札を書く)のことで、彼が書くお守り札は効能があるというので「バアル・シェム・トブ(良い護符師)」と呼ばれたのです。彼はポーランドとトルコの国境に近いポドリア地方の小村オコピに生れました。幼くして親を失い苦労して生育しましたが、その前半生の詳しい事は不明です。彼は愛をもって人々を励まし、感動をもって礼拝に臨むこと、神の身近さに感じながら日々の生活を祝い、敬虔(ハシッド)に生きることを教えた。そこで彼の運動はハシディズム(敬虔主義)と呼ばれた。ハシディズムの信仰の基礎は「全地は神の栄光に満つ」です。「神は世界中どこにでも存在する。それゆえに『神不在の場所はどこもない』」と彼らは考えた。バアル・シェム・トブは言う。「もしどこに行くとしても神が一緒にいるのであれば、人は常に喜ぶべきである。彼は、自分を守るために、シェヒナー(神の臨在)が自分とともにあると思うべきである。全面的な信仰をもってそう信じるべきである。もし彼が創造主を見上げれば、神はほむべきかな、神は彼を見守る。 創造主は自身が欲することは何事もなすことができる。もし神が欲するならば、全世界を一瞬のうちに滅ぼし、次の一瞬でそれを創造することもできる。 世界の中に存在するすべての善も刑罰も神に根ざしている。なぜならば、万物の中に神の聖なる流出と生命力があるからだ。だから、われわれは神以外の何者にも頼ってはならないし、恐れてはならない。」バアル・シェム・トブの最初の賛同者は、彼の義兄、ラビ・アブラハム・ゲルションでした。ベルションは、ポーランド南西部の商業都市ブロディのユダヤ教法廷の主席判事で、クロイスというユダヤ教神秘思想求道会の会員でした。後にクトブに移住し、クトブのラビ・アブラハム・ゲルションと呼ばれた。またコソブのラビ・ナフマンがバアル・シェム・トブの運動に加わったことも、ハシディズムの宣揚の助けとなった。彼もクロノスの会員でした。ラビ・ヤコブ・ヨセフは最初にバアル・シェム・トブの弟子になった人物です。彼は1780年に『トルドット・ヤコブ・ヨセフ』を出版しました。これがハシディズムの教えを網羅した最初の本です。バアル・シェム・トブが後継者に指名したのは、ラビ・ドブ・ベエルでした。彼は通称「大説教者」(マギッド・ハガドール)と呼ばれた。彼はユダヤ教神秘主義(カバラー)の研究家で、苦行のしすぎで神経衰弱になり、その治療でバール・トブ・シェブの助けを借りたことがハシディズムの出会いになった。彼はバアル・シェム・トブの死後、ハシディズムを教団化しました。ドブ・ベエルもバアル・シェム・トブも著作を残していません。語録を通して彼らの説教は伝わっています。バアル・シェム・トブはアブラハム・ゲルションへの手紙で、自分の魂が天に昇った幻について説明しています。それは西暦1746年9月(ユダヤ教の新年)の出来事でした。「私がそこ(メシアの天の宮殿)に滞在している間に学んだことは、三つの呪文と三つの聖なる御名である。それは学ぶことも識別することも容易であった。私が平静に戻ったとき、私はそれらを使えば、私の時代の人々も私と同じ霊的段階と水準に達することができるのだと悟った。つまり、人々は、今在るがままの状態で、私と同じように魂を高めることができるし、学び、また理解することができるということである。しかし、私がそれを明らかにすることは許可されなかった。そしてわたしはあなたのためにそれをあなたの教えることを特別に求めたけれども、許されなかった。私はここに誓ってそれを証明する。」その頃、バアル・シェム・トムはコソブの神秘家ラビ・ナフマンと出会い、意気投合します。その会話の中でラビ・ナフマンの実践を承認する形で自分だけの秘密の一部を明かした。それは、神の名「YHVH(ヘブライ文字יהוה)」を終始思い浮かべるということでした。ナフマン『イスラエルよ、きみは人々の思いが分かると言われているが、それは本当かね?』バアル『ええ、そうだよ』ナフマン『わたしが今何を考えているか、きみは分かるかね?』バアル『あなたの考えが固定していないので、分からない。思いが一点から他の点にと迷い、移り変わり続けている。もしあなたが一つの事に思いを集中するならばわたしにはそれが分かるだろう』ラビ・ナフマンが思いを固定するとバアル・シェム・トブは言った。『神の名יהוה(YHVH)があなたの思念の中にある。』ナフマン『きみはどっちみちそれがわかったはずだ。わたしがいつもこれを念じ続けているのだから。聖書に書かれているとおり、『わたしはわが主(יהוה)をわたしの前に常に置く』のだ。わたしがすべての思いを取り去って一つに集中する時はいつも、神の名יהוהがわたしの目の前にある。』バアル『だが他にもいくつか聖なる御名がある。あなたはどれでも好きな名に思念を凝らすことができたでしょう。』ナフマンがバアルが言うとおりだと認め、二人はトーラーの奥義について議論を交わした。ヘブライ語聖書では、神の名は「יהוה」の4文字が記される。ヘブライ語は右から左へ子音文字だけで綴る。ユダヤ教ではこの名をみだりに発音することを禁止する。この4文字をユダヤ教徒は「アドナイ(われらの主)」と読む。日本語訳聖書では、この4文字を「エホバ」とか「ヤハウェ」と訳し、最近では「主」と訳する。ハシディズムの人々が特に重視する聖書の一句は、詩篇16編8節の「わたしは יהוה をわたしの前に常に置く」(シャヴィーティ・יהוה・レネグディ・タミッド)です。原文の意図は、わたしは常に神と正面から向き合って生きているということです。しかし、ハシディズムの人々は、文字通り、יהוהの4文字を目の前に置くという意味に解釈したのです。ラビ・ナフマンの瞑想法は、4文字を思考するよりも、文字像を思い浮かべるものでした。ラビ・ヤコブ・ヨセフは「トルドット・ヤコブ・ヨセフ」で報告しています。「わたしは יהוה をわたしの前に常に置く」の一句について、わたしは、わが師ラビ・ナフマンから、これを理解することは難しくないと聞いている。神の名の文字が心に見えなければ、いつでも、心の中で御名を正確に映像化しなければならない。そうすれば祝福さるべき御方、神は常に神の思いの中におられるようになるであろう。」バアル・シェム・トムは彼自身の瞑想法を漏らしませんでしたが、ナフマンの方法を承認し、激励しました。「あなたは、神の御名を一体化すべく強く念を凝らせ。(略)そしてあなたは自分を聖名の文字に合体されるようにせよ写真の点線が「わたしは יהוה をわたしの前に常に置く」にあたる。
2021年06月15日
アントニオ猪木夫人・橋本田鶴子さん、心から愛していた猪木さんへの“遺言”2019.9.3【ドクター和のニッポン臨終図巻】 『人生のホームレス(HomeLess)』。これは、2001年に出たアントニオ猪木さん(76)の写真集の題名です。なんちゅうタイトルやと、心がざわついたのを覚えています。私も、毎晩帰る家はあれども、心が帰る場所は一生得られないかもしれないと、妙な共感をしたのです。一体、猪木さんはどんな心境でこんなタイトルに決めたのでしょうか…。 この写真集を撮影したのが、カメラマンの橋本田鶴子さん。17年に、アントニオ猪木さんの妻となった人です。そして、結婚生活2年あまりでお亡くなりになったと、猪木さんがご自身のTwitterで報告をされています。 〈8月27日未明、妻・田鶴子が永眠致しました。生前のご厚誼に深く感謝致します。カメラマンとして私の写真を撮りながら、いつも献身的に尽くしてくれました。今は感謝の言葉しかありません。故人の遺志により、葬儀は家族葬で行います。 弔問、香典、供花はご辞退申し上げます〉。 数カ月前に体調を崩し、入院されたということですが、死因や闘病の様子などは明らかにされていません。田鶴子さんは62歳だったそうです。 つまり、田鶴子さんと4度目の結婚をされたとき、猪木さんは74歳…少し羨ましく感じてしまうのが、男のサガかもしれません。俺は生涯独身でいく! と言い張っていた男性も、離婚を経験した、自由な生活を楽しんでいた男性も、60歳を過ぎると急に不安になるのか、「やっぱり結婚したいなあ…」と異口同音に言うようになります。 介護をしてほしいとか具体的な要望があるわけではなく、ただただ、寂しさと不安が増してくるのです。「孤独死したくない」という理由で急に婚活に走る70代男性も知っています。 これは、最近話題になっている男性ホルモン、「テストステロン」が老いとともに減少していくことと、もしかしたら関係しているのかもしれません。 一方、女性の方はというと、「結婚なんてもうまっぴらごめんだわ」と、死ぬまで独身生活を謳歌する人がたくさんいます。実は、中年以降は相対的に女性の方がテストステロン優位になるのです。強い男の代名詞の猪木さんも、テストステロンは少しずつ減少しているはず。今回のことで、ふさぎこんでほしくはないですが…。田鶴子さんは、「自分に万が一のことがあっても仕事に穴を開けないで」と猪木さんに遺言をしていたといいます。そして猪木さんもその遺言を守ったとか。心から夫を尊敬し、愛していたのだと感じました。2人の心は永遠に、ホームレスにはならないでしょう。★アントニオ猪木氏、腸捻転で手術 退院に向け「もうちょっとで俺も元気になる」6/12(土)長期入院中の“燃える闘魂”アントニオ猪木氏(78)が腸捻転で緊急手術を受けていたことが11日、分かった。腰のリハビリを続けていたものの、体調が悪化し、5月中旬に都内の病院で手術を受けた。現在は回復傾向にあり、この日、猪木氏は電話でコメントを寄せ、復活への意欲をにじませた。体重は激減しているが、「もうちょっとで俺も元気になる」と退院を目標に前を向いた。 かつて手術した腰の悪化で、1月から入院している猪木氏が、大きな試練を乗り越えていた。関係者によると、猪木氏は腸捻転を起こし、都内の病院で緊急手術を行った。手術は無事に成功し、現在の容態は安定しているという。 1月からの入院期間は途中、転院を挟みながら、半年に及ぶ。自身のYouTube「アントニオ猪木『最後の闘魂』」は更新を継続し、ベッドの上からパジャマ姿で近況を報告していた。動画は「元気ですかー!」とおなじみのせりふで始まり、病床からも元気を届けていた。 しかし、5月21日の投稿を最後に更新が途絶えていた。この動画は前もって撮影されていたものだった。猪木氏は、その間、突然忍び寄った病魔と懸命に格闘していた。 この日、猪木氏は現在も入院生活を送る都内の病院から電話でコメントを寄せた。自身の体調については、「やっと回復へ向けて」と説明し、快方に向かっていることを明かした。口調は落ち着いており、雑談中のリズムは、入院前の猪木氏と変わらない。 得意の詩も披露した。「ピーポーのまち」と名づけ、「誰がつけたかピーポーピーポー。救急車と呼ぶよりピーポーのほうが通りがいい。そんなタイトルで書いたら面白い。こないだ郊外の病院にいたら、ピーポーのまち。静かな田舎まちだった」と、ユーモアを交えて語った。現在、病院では新型コロナウイルス感染防止のため、面会が謝絶となっている。そのため、外部との接触は、ごく限られたスタッフしか許されていない。そんな中、猪木氏はベッドに体を横にしつつも、退院後に向けたアイデアを膨らませている。 一方で、手術の影響を隠せないのが体重の減少だ。一時は、そのやつれた姿にかつての猪木氏の姿を知るファンやレスラーからは驚きの声が上がった。それでも、猪木氏は「声もだいぶ張り上げて元気ですかが言えるようになりました」と明るい表情を見せていたが、体はさらにやせ細った。術後、食事は少しずつ、再開しているものの、元通りに戻るまでは時間がかかりそうだ。 記者との電話を切る前、猪木氏は「もうちょっとで俺も元気になるから、また思いついたら」と言った。持病の糖尿病のほかに、難病の「アミロイドーシス」も患い、満身創痍(そうい)。それでも燃える闘魂は復活を期し、最大の敵をねじ伏せるべく、闘っていく。
2021年06月12日
「初雁」より「雲居禅師」P138 天正10年正月25日、伊予の国の毘沙門堂の前に生まれたばかりの赤ん坊がムツキにくるまって泣いていた。 赤ん坊は、小方左京兆というれっきとした武士の子だった。左京兆は、一条房家の家臣だった。房家は土佐の国司となったので、ともに移ってきた。房家の子、頼房の代になって臣下の長曽我部に逆意があることがわかって、頼房は伊予に避けたが、そこで病んだ。土佐にあった左京兆は、その看病に妻を遣わしたが、妻は身ごもっていて、途中男の子を産み落とした。先を急ぐので、赤子を毘沙門堂の前に棄てて、毘沙門天に無事を祈って、先を急いだ。子どもの母の叔母がこれを聞いて驚いて下男を毘沙門堂に遣した。赤ん坊は無事だった。母親は「毘沙門天がおまもりくださったのだ」と泣いて喜んだ。成長の後に、この話を繰返し聴かされた禅師は「わたしは毘沙門天に救うていただいた」と生涯この神を敬った。 雲居禅師は幼い頃から非常にすぐれた才能を示し、左京兆は土佐の国の神護山太平寺に連れて行った。16歳で雲居は剃髪し、師匠に従って京に出た。19歳から如心寺の一宙和尚のもとで修業を積んだ。「書物を読むには、まず文字をしらなくてはならない。一字一字の意味がはっきりしなくては、どうして道理に通ぜられようか」雲居は、常に聚分韻略を懐に、毎日字の数を定めて暗記し、全部覚えた。人が試みに問うと、それは何冊の何丁目の何行目にある、その意味はこれこれと答えるほどの強記であった。 25歳から雲居は諸国を行脚した。 寛永10年、52歳の春、雲居はともを連れずに東海道を上っていた。浜松を過ぎて、日は暮れたが、月が出ているのを幸いに歩み続けた。 男が2人少しの間跡をつけてきたが、いきなり前に立ちふさがって「金を出せ」とおどかした。「そら、このとおりじゃ」雲居は自分で帯を解いて、襟を開いて見せた。「わしは乞食坊主だから何も持っておらぬ」盗賊2人はきまり悪そうに逃げ去った。その時、雲居は懐に不時の用意のため、1枚の小判を持っていたことを思い出した。妄語は仏の戒めたまうところである。雲居はすぐに盗賊たちの後を追った。「おおい、待ってくれい」2人の賊は、何事かと思って振り返った。見るとさっきの坊さんが、追ってきている。「今しがたは、嘘をついてすまない。わしは金を持っていた。これだけあった。さあ、遣るから持っていくがよい。わしを許してくれ。」雲居は盗賊の前に金を差し出した。しかしそうなると盗賊も手をひっこめてあとづさりするばかりである。こうした尊いご出家の金をとろうものなら仏罰があたらないとも限らない。逆に不心得を詫びるのであった。やむなく雲居が去ろうとすると、この先盗賊が出ないとも限りませんからとわざわざ護衛して送ってくれた。夜が明けて雲居が2人の盗賊に別れを告げると、2人は地にひざまずいていつまでも拝んでいた。 寛永11年には雲居の高徳ぶりが天聴に達し、後水尾上皇の御前で仏教に関して諮問に答えた。寛永13年には仙台の伊達忠宗に招かれて、松嶋の瑞巌寺に入った。雲居は着古しの袈裟に饅頭笠をかぶってスタスタ歩いていったが、出迎えに大勢来ていた仙台の人々はあまりのみすぼらしい姿に雲居和尚と気づかなかったという。70越して、雲居は旅に病んだ。胸の痛みが去らず苦しんだ。松嶋に帰ろうと、忠宗に江戸で別れを告げたとき、駕籠で行くよう強く勧められたが、雲居は聴かなかった。途中痛みが起こるときには、野といわず山といわず、うめき声をあげて時を過ごして、痛みが治まると杖にすがって歩いていった。弟子がみかねて馬を雇いましょうと進めたが断った。「わしは今、前生におかした罪の償いをしている。わしは苦しみを喜んで受けておるのじゃ。」
2021年06月09日
般若心経講座 七田真般若心経は、一切の苦厄を度すための理論と技術を教えている、ありがたいお経です。般若心経でどんな難病も治るし、願い事が叶います。 般若心経は紀元655年、天智天皇の頃に日本に入ってきました。般若心経には、すごい神通力があるので、紀元758年、淳仁天皇は詔勅を出して、広く大衆に般若心経の読誦を大衆にすすめられました。*『般若心経』(渡辺章悟著 大法輪閣 2009)には「『大日本古文書』によれば、天平三年(731)には「心経抄一巻」が書写されたと伝えている。」という記述がある。これは玄奘の『般若波羅. 蜜多心経』の翻訳(六四九年)から、わずか八二年後のことである。(略)般若心経講座 Vol.2般若心経は、「行深般若波羅蜜多時」と最初にあります。般若波羅蜜多を深く行いなさい。そうすれば今、あなたが直面している一切の問題が消えます。どんな難病にかかっても、般若心経を一生懸命唱え、心をこめてお願いすれば、病気が消滅するし、願いが叶うと説いているのです。(略)般若心経講座 Vol.3般若心経は証のない、論ばかりの教えではありません。実践の教えなのです。般若心経をくり返し唱えると、どんな病気でも治してしまうといわれています。般若心経は、心に何も引っかかりを持たず、何も恐れず、唱え続ければよい。すると奇跡と思われるほどの治癒の効果があると教えているのです。 昔、神戸に巽(たつみ)直道(じきどう)という先生がおられました。先生は般若心経から、この仏の智恵を学び、集まってきた人々に般若心経の教えを説いて、その場で奇跡を表すという現象を見せておられました。先生は「人間の病気で治らない病気はない。なぜならそれは、人間の病気だから」と言われるのが常でした。(略)般若心経講座 Vol.4弘法大師は818年、嵯峨天皇に般若心経についての釈講をし、般若心経は真言で、不思議な力を持っていることを説き、一学一京に無限の神秘な力が秘められていると説きました。般若心経の読誦には、神通力を開く力があるといわれます。次の6つの神通力です。 1宿命通 過去のことがわかる 2天眼通 見えないものが見える 3漏尽通 自由に煩悩を断ち切る 4天耳通 聞こえないものを聞く 5神境通 自由に飛行できる 6他心通 他人の考えていることがわかる*般若心経は、都で疫病が流行した弘仁9(818)年、嵯峨天皇が空海の勧めで世の平安を祈って写経したとされ、紺色の布に金泥で書かれている。 嵯峨天皇ゆかりの同寺で天皇の許可がないと開けられない「勅封」として秘蔵されており、60年に一度の戊戌(ぼじゅつ)の年にのみ寺院関係者らに公開してきた。摩訶は「非常に大きく優れていること」。般若は「知恵、良い般若の知恵」という意味です。 般若心経の目的は2つあります。一つは抜苦与楽。もう一つは止悪作善。「波羅密多」といのは、「彼岸にわたる」という意味です。もとの梵語の意味から言うと、般若心経は「摩訶不思議な神通力を持つ真言」となります。般若心経講座 Vol.5昔、神戸に巽 直道(たつみ じきどう)という先生がおられて、般若心経の教えを人々に説き、数々の奇跡を現しておられました。先生が奇跡を現したというのではなく、先生の説いた般若心経の教えが奇跡を次々と現したのです。 般若心経は、「行深般若波羅密多(ぎょうしんはんにゃならみった)」と最初に述べられています。これは般若波羅密多を深く行いなさい。そうすれば今あなたが直面している一切の問題が消えてしまいますよ、と述べているのです。たとえどんな難病にかかっても、般若心経を一生懸命唱え、心を込めてお願いすれば、病気は消滅してしまいますよ、と説いているのです。巽先生の般若心経講座には、多くの難病を抱えた人たちが集まってきました。先生がその人たちに与えた指示は、たった2つの指示でした。1観自在菩薩に誠を込めてお願いすること。2般若波羅密多を熱心に行じ続けること。(略) 般若心経講座 Vol.6巽直道先生「超常の治病」にはこんな話が書いてあります。 ある時、Y・Oさん(64歳)が杖にすがってやってきました。大手術をして命は取り止めたが、後遺症が大変でした。頭の右半分は、破れるように痛み、腎臓病のため、手足や顔はむくんでいました。耳は完全に聞こえませんでした。腕は神経痛で痛み、とても神戸まで来られる身体ではなかったのですが、付き添いの人に支えられてやって来たのです。それから毎日来ました。夜目は見えず、周りの人が簡単に治っていくのに、自分はだめなのだろうかと悲観していました。ところが6日目の夜、奇跡が起こりました。ふと、夜中に目を覚まし、何時かな、時計が鳴り出しました。ボンボンなるのを数えたら12時でした。その時、はっと気付きました。完全に耳が聞こえるようになっていたのです。 それに力を得て、ますます熱心に般若心経を唱えると、頑固な頭痛も神経痛の腎臓病も、みんな消えてしまいました。 巽先生のところではこんなことが毎日、日常茶飯事のように起きていました。般若心経には、そのような力があるのです。(略) 「般若心経講話 Vol.13」般若心経の解説の本は、いつの世でも書店にたくさん並んでいます。けれども、正しく解釈している本は少ないようです。大抵、般若心経は、「1大般若経を要約したものである。2般若心経には『空の理法』が説かれている」としてあって、般若心経の解説に終わっているのです。 実際は、般若心経というのは単なる教えではなく、行の仕方を教えているのです。般若心経を行ずると、どんな難病でも治しますよ、困ったことでも解消しますよと教えている、というのが正しい解釈の仕方です。般若心経を一心に唱え続ければ、奇跡のように難病が治りますよ。だから実践しなさいと教えているのです。 そのやり方が、次の2つに要約されて教えてあります。1観自在菩薩に誠を込めてお願いすること2般若波羅蜜多を一心に行じ続けること そのことは、行深般若波羅蜜多時(般若波羅蜜多を深く、つまり一心に、行ずると) 度一切苦約(一切の苦厄を度す、つまり苦厄を消す) と言っているところで分かります。 度は「救い渡す」という意味です。「渡す」と「度」の違いは、「渡す」は常識的な手段で川を渡ること。「度」は、常識的な手段では渡れない川を渡ること、という大きな違いがあります。「渡一切苦厄」ではないのです。 そのことが分かって、誠を込めて一心に般若心経を唱え続けると、一切の苦厄を消すことができます。そういうことができますよと教えているのが、般若心経なのです。とすれば、般若心経の解説の本にそのことが教えられていなければいけないのに、そして実際の例をたくさん示していなければならないばずなのに、普通の解説本にはこのような記述がないことを見ても、大抵の本が単なる「空」の論を唱えていることが分かります。心の持ち方だけを教えていて、行の仕方を教えていないのです。 このような教えを説いておられたのは、昔、神戸におられて般若心経の実践を教えて、次々と難病を目の前で治していかれた、巽直道先生だけです。
2021年06月07日
台湾にワクチン124万回分提供 4日到着、震災支援の「返礼」6/3(木) 政府が4日に新型コロナウイルスの感染拡大でワクチン確保に苦しむ台湾に対し、国内供給用に調達した英製薬大手アストラゼネカのワクチン約124万回分を提供することが3日、分かった。複数の政府・与党関係者が明らかにした。ワクチンを積んだ輸送機は4日、台湾に到着する。日本と台湾は大規模災害などの際に相互に助け合ってきたことを踏まえ、政府は緊急措置として支援を決めた。関係者によると、今回のワクチン提供は台湾側から日本側に水面下で打診。政府はワクチン支援を「国内の災害時の支援への返礼」(関係者)と位置付け、提供量や時期などを台湾側と調整し、アストラゼネカ製ワクチン約124万回分を送ることを決めた。平成23年の東日本大震災の際には台湾からの義援金が約200億円に上った。また、新型コロナの感染拡大に伴うマスク不足が深刻化した昨年4月には、台湾から医療用マスク200万枚が送られた。政府はアストラゼネカ製について、年内に1億2千万回分(6千万人分)の供給契約を結んでいる。ただ、接種後にまれに血栓が生じる事例が海外で報告され、当面は公的接種の対象外としている。政府は米製薬大手ファイザーのワクチンを年内に1億9400万回分(9700万人分)、米製薬会社モデルナ製を9月までに5千万回分(2500万人分)契約しており、アストラゼネカ製ワクチンを台湾に提供しても日本国民への接種に影響はない見通し。台湾では感染が急拡大する中でワクチンの早期調達が課題となっている。蔡英文総統は先月26日、一部の海外製薬会社からのワクチン購入に関し、中国の介入で今も契約できていないことを明らかにした。
2021年06月03日
松下幸之助「大将は、いつも部下のことを考えておらんといかんな。」 「俺は大将や、自分は指導者や、社長やと、そういう態度、話し方、接し方をしたら、部下はついてこんわ。部下の話を聞いて、褒めてな。その意見がええなら、すぐに取り入れる。すぐに対応する。そして、うまくいったら、あの社員のお陰や、あの君(くん)の提案によって、大きな成果が得られた。会社全体の売り上げが上がったとか、士気が上がったとかな言う。大事やで。きみ、いつも、部下のことを忘れんようにな。」「部下を育てようという思いを、つねに持っておらんと。部下はみんな、ええもんを持っとるんや。今、あまりたいしたことないと思う者でも、指導者とか社長が、上手に磨いてやればね、ダイヤモンドになるな」」昭和56(1981)年、9月だった。テレビの音が少し大きく気になった。松下幸之助は、私の報告が終わると、雑談。 そのなかで、次のように話してくれた。 「きみなあ、部下の話を聞いてるか。社員のことを気にしてるか。この社員は、どうも元気がない。どうしたのか。病気かどうか。なにか困っているのではないか。会社におらんときも今頃社員は、苦労しとるんやないだろうかとかな。まあ、大将はつねに部下のことや社員のことを考えんといかんな。そういう大将の姿に、部下もこの人のためならば、頑張ろう自分の命を捨てようと。実際には、捨ててもらっては困るけどね。大将が、いつも部下のことを考えておらんといかんな。 俺は大将や、自分は指導者や、社長やと、そういう態度、話し方、接し方をしたら、部下はついてこんわ。部下の話を聞いて、褒めてな。その意見がええなら、すぐに取り入れる。すぐに対応する。そして、うまくいったら、あの社員のお陰や、あの君(くん)の提案によって、大きな成果が得られた。会社全体の売り上げが上がったとか、士気が上がったとかな言う。大事やで。きみ、いつも、部下のことを忘れんようにな。 会社は、誰によって、持っている(維持されている)かというとね、社長や指導者の力は、まあ、3割ぐらいや。7割は部下の力によるところが大きい。わしの経験から、そう言えるな。社員が、会社の命運を握っていると言っても言い過ぎではない。社員には、大いに感謝している。社員は、宝やで、ほんまに。 だから、部下を第一に考えて、仕事をせんとな。また、部下を育てようという思いを、つねに持っておらんと。部下はみんな、ええもんを持っとるんや。今、あまりたいしたことないと思う者でも、指導者とか社長が、上手に磨いてやればね、ダイヤモンドになるな」。 「昔、店を始めた頃は、ええ人間なんか来てくれんわけや。けど結果的には、世間からも同業者の人たちからも、松下さんとこはええ人がいますなあと言うようになってくれた。社員が努力したことが大きいけど、まあ、そういう環境を作る。絶対に、社員を、育てようという強い心持ちを指導者が持っておることが大事やな。きみ、そういう心持ちで経営をやってくれや」。 「わかりました」と答える私の顔を見ながら、次のような話を付け加えた。「まあ、わしの経営は、ワンマン経営や、と言う人もいるわね。けどワンマンはワンマンでも、衆知を集めた上でのワンマンということやな。会社の発展の対策を次々に出してな、今日までやってきたけど、それはわし個人の意見であったかというと、そうではないわけや」。 「そうではなく、日頃から部下の話を聞くとかね。誰に対しても声を掛けるとかね。そういうように、社員がわしに話をしやすいようにしむけながら、多くの意見や心持ちを汲んで、いわば、衆知を集めてのわしの決断やから、社員の心を心として、経営をやってきたわけや。 ワンマンと言っても、わしのワンマンは、ほかのワンマンとは違う。普段から、社員の話を聞いておるからな。事を一瀉千里(いっしゃせんり)に進めても、社員の意思というか心に反することはなかったな」。 この話を聞きながら、以前、聞いた話を思い出していた。 昭和54(1979)年の春頃だったと記憶している。この日は、かなりご機嫌がよく、あれやこれやの雑談に花が咲く。 「こないだ、ある人(関西財界のA氏)が話してくれたけどね。昔な、中国のある王さん(王様)がいたそうや。その王さんが、家来に対してもうやりたい放題気分次第で家来に指示を出す。気にくわんと言って、殺す。そういう王さんやった。 あるとき、風呂を沸かしていた。まあ、風呂を焚くのは下の身分やわな。その風呂に王さんが入ろうとしたら、お湯が熱かった。するとな、その王さんが激怒して、打首や。まあ、いわば暴君やな。 ところが、その上の皇帝には、その王さんはもう、こんなことまでと思うほど、気を使う。過ぎるぐらいに接する。皇帝の言うことは、どんなことでも「仰せごもっとも」というだけや。皇帝の言うことは、いわば、神様の言うことというまあ、そんな具合やったそうや。当然まあ部下は、内心面白くないわな。少しは俺たちのことを気にしてくれよと。そいで、部下の者同士が相謀って、王さんを暗殺してしまった。そういう話をしてね。部下に対して、十分な配慮が必要ですな、と言っておったけどね。けど、それは、当たり前や。指導者は上を見んといかんけど、それ以上に部下を見んといかんのや。そういうことが指導者とか経営者には必要やな」いつも私は、こういうふうに、松下幸之助から雑談で部下との接し方、経営の仕方、指導者や経営者のあり方を教えられたものである。「雑談による教育」を、松下に習い、私も大事にした。
2021年05月30日
妙法蓮華経属累品第二十二爾(そ)の時に釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以て、無量の菩薩摩訶薩の頂(いただき)を摩(な)でて、是の言を作したまわく、 我無量百千万億阿僧祇劫に於て、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい:無上の正しい悟り)の法を修習せり。今以て汝等に付嘱す。汝等応当に一心に此の法を流布して、広く増益(ぞうやく)せしむべし。 是の如く三たび諸の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、是の言を作したまわく、 我無量百千万億阿僧祇劫に於て、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習せり。今以て汝等に付嘱す。汝等当に受持・読誦し広く此の法を宣べて一切衆生をして普く聞知することを得せしむべし。所以は何ん、如来は大慈悲あって諸の慳悋(けんりん)なく、亦畏るる所なくして、能く衆生に仏の智慧・如来の智慧・自然の智慧を与う。如来は是れ一切衆生の大施主なり。汝等亦随って如来の法を学すべし。慳悋を生ずることなかれ。未来世に於て、若し善男子・善女人あって如来の智慧を信ぜん者には、当に為に此の法華経を演説して、聞知することを得せしむべし。其の人をして仏慧を得せしめんが為の故なり。若し衆生あって信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし。汝等若し能く是の如くせば、則ち為れ已に諸仏の恩を報ずるなり。時に諸の菩薩摩訶薩、仏の是の説を作したもうを聞き已って、皆大歓喜其の身に遍満して、益恭敬を加え躬を曲げ頭を低れ、合掌して仏に向いたてまつりて、倶に声を発して言さく、 世尊の勅の如く当に具さに奉行すべし。唯然世尊、願わくは慮有さざれ。 諸の菩薩摩訶薩衆是の如く三反、倶に声を発して言さく、世尊の勅の如く当に具さに奉行すべし。唯然世尊、願わくは慮有さざれ。爾の時に釈迦牟尼仏、十方より来たりたまえる諸の分身の仏をして、各本土に還らしめんとして、是の言を作したまわく、 諸仏各所安に随いたまえ、多宝仏の塔、還って故の如くしたもう可し。是の語を説きたもう時、十方無量の分身の諸仏の宝樹下の師子座上に坐したまえる者及び多宝仏、竝に上行等の無辺阿僧祇の菩薩大衆、舎利弗等の声聞四衆、及び一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きたてまつりて、皆大いに歓喜す。*真実の「般若心経」あなたの願望を実現する 真実の「般若心経」巽 直道著法華経に「仏慧を信じていない一般の人々に、この法華経を説き聞かせても、無駄な骨折りに終わるから、餘の深法-法華経以外の無上・甚深・微妙の法によって、まず示教利喜しなさい。そして仏慧のありがたさを信じさせなさい」と示されている。だが、餘の深法とはどの経典をさしているのか、中国や日本の仏教学者の誰にもわからなかった。したがって、示教利喜という言葉だけがあって、その実が伴わなかった。(P.8)若し衆生あって信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於て 示教利喜 すべし。・「羯諦、羯諦」の大明呪(マントラ)を唱えることが心経の実践であり、それを一心に行ずれば、経文どおりに「能除一切苦」が実現し、難病なども治癒する。・巽先生の般若心経の解説は、大明呪(だいみょうじゅ)を唱える、例えば病気を治すときには、「治る、治る、きっと治る」と声に出して、あるいは心の中で、何千回、何万回、何十万回も繰り返して唱えると、病気が治るというものです。巽先生は、この大明呪による抜苦与楽(ばっくよらく)を強調されています。
2021年05月23日
円覚寺の学生座禅会に参加していた頃、たまに足立老師がお住まいになられていた黄梅院の庭の草取りをしたものだ。老師は「これは薬草だから抜かないように」と静かに諭されたものだ。黄梅院の入口には掲示板があって、いつも坂村真民さんの詩が掲示されてあった、そこで私も初めて真民さんの詩に触れた。先日、久しぶりに北鎌倉駅で家内と一緒に降りて円覚寺にもまいった。奥の黄梅院の掲示板には坂村真民さんの詩が足立老師のいらっしゃった当時と同じように掲示されていて嬉しかった。2007年09月03日「 心が小さくなった時には天を仰いで大きく息をしよう by坂村真民」あるプログに坂村真民さんの詩が載っていた。 天を仰いで 心が小さくなった時には 天を仰いで 大きく息をしよう 大宇宙の無限の力を 吸引摂取しよう (坂村真民)真民さんの詩と始めて出会ったのは、鎌倉の円覚寺の一番奥にある黄梅院の掲示板においてでであった。家族ふれあい新聞第524号 2月7日号より2月7日(土)○黄梅院に上がる。2月だ。掲示板の今月の標語は何だろう。ちょっとした楽しみ。掃除のお坊さんがいて、向こうから大きな声で「おはようございます」と挨拶される。「おはようございます」立ち止まり礼拝する。 ああ、今月も真民さんの詩が引用されている。 鉛筆を出して書き写す。迷いながら つまづきながら 求めながら 泣きながら 耐えながら 己をつくり 佛へ近づく (坂村真民詩集より)梅 寒苦を経て 香し2008年01月22日 女は台所が心を磨く修行ですよ円覚寺の足立大進老師の「安心(あんじん)の道しるべ」より。老師が60歳を迎えた正月、年賀状を700枚いただき、高校時代の同級生のものが30枚あった。今年、定年を迎えますというのが数通あったが、同級生の女性からこんな年賀状を見て嬉しかったという。「私は60歳という響きが好きです。今年から1歳ずつ引き算をして、生きていこうと思っています。」若くして大阪の商家に嫁いだ女性からの賀状には「静かな年にしたいなあと思っているのですがダメかもしれません。」と添え書きされていたという。この女性が嫁ぐ時、実家の母が諭したという言葉が実にいい。「女は台所が心を磨く修行ですよ」その教えを受けて、彼女がずっとまえに老師にこういう手紙を書いてきた。「家族の健康を祈りながら、お米をとぎ、一人ひとりの顔を思い浮かべては、お料理を作り、でもある時はクレンザーの上に涙をポタリと落とし、ある時は腹を立ててお鍋を力任せに磨き、でもお鍋のピカピカ光る頃は、心は穏やかになっていました。そのような日は台所をきれいに片付けて流しに向かって一礼をして床に入る思いです。どのようなことも台所は吸い取ってくれ、また力を与えてくれる、やはり女の城です。」
2021年05月20日
「新井奥邃の人と思想」より友に対する循環の黙愛ということがあります。それは毎日一人づつ、その日は特に誰を思うというふうにして、順々に友人のためを思ってそれを繰り返すのです。しかして決して友人にその事をしらせないのです。💛「ツキを呼ぶ魔法の言葉」より「心の持ち方って大事よ。だけど、もっと大事なのはね、言葉の使い方なの。どんなことを口に出すかで、あなたの目の前の状況が変わってくるし、あなたの心も変わってくるの。本当よ」 イスラエルのおばあさんからの手紙に書いてあった内容です。人間は言葉によって考え、言葉によって行動します。口から発せられる言葉は、間違いなく自分自身の人生を創っていきます。 「あなたのことをいつも想っていますからね」 イスラエルのおばあさんからの手紙に書いてあった言葉です。3回手紙を頂きましたが、いずれにも最後にこの言葉が書いてありました。これほど嬉しい言葉はありません。
2021年05月13日
般若心経講座 から般若心経は、「行深般若波羅蜜多時」と最初にあります。般若波羅蜜多を深く行いなさい。そうすれば今、あなたが直面している一切の問題が消えます。どんな難病にかかっても、般若心経を一生懸命唱え、心をこめてお願いすれば、病気が消滅するし、願いが叶うと説いているのです。般若心経は実践の教えです。般若心経をくり返し唱えると、どんな病気でも治してしまうといわれています。般若心経は、心に何も引っかかりを持たず、何も恐れず、唱え続ければよい。すると奇跡と思われるほどの治癒の効果があると教えているのです。昔、神戸に巽(たつみ)直道(じきどう)という先生がおられました。先生は般若心経から、この仏の智恵を学び、集まってきた人々に般若心経の教えを説いて、その場で奇跡を表すという現象を見せておられました。先生は「人間の病気で治らない病気はない。なぜならそれは、人間の病気だから」と言われるのが常でした。心からの祈りは数秒、数分、数時間、数日で病気を治してしまうと巽先生はおっしゃっていたものです。般若心経の目的は2つあります。一つは抜苦与楽。もう一つは止悪作善。巽先生の般若心経講座には、多くの難病を抱えた人たちが集まってきました。先生がその人たちに与えた指示は、たった2つの指示でした。1観寺在菩薩に誠を込めてお願いすること。2般若波羅密多を熱心に行じ続けること。般若心経というのは単なる教えではなく、行の仕方を教えているのです。 そのやり方が、次の2つに要約されて教えてあります。1観自在菩薩に誠を込めてお願いすること2般若波羅蜜多を一心に行じ続けること誠を込めて一心に般若心経を唱え続けると、一切の苦厄を消すことができます。そういうことができますよと教えているのが、般若心経なのです。
2021年05月13日
「『こうだったからこそこうなれた』というふうに自分の人生をやられたらいかがですか?」「人間はだんだん人間らしくなっていくんですよ。それは自分の心の持ち方と進め方なんですよ。」氏田さんは、「人間行脚の会」と言うのを結成した。顧問に鍵山秀三郎さん、モスバーガー創業者の櫻田慧さん、最初の発起人は西垣戸勝さんで他には松下政経塾の上甲晃さん、綜合開発の樋口順三さん、甲州建設の志村元司さん、大阪銀行の勝山直人さん、みの源の瀧内氏重さん、はやの速水逸也さん、など、そうそうたるメンバーで、私が最年少で何でも走り回る役でした。その結成式の時に、大変まずいことが有った。氏田さんは、鍵山さんに食ってかかったのだ。何かちょっとした言葉の中で、ローヤル(現イエローハット)の商売の仕方についてだ。「社長の考えてはる商売の仕方とか、が僕には理解できません。おかしいじゃないですか?今までの話とは違う!」ということで、訳も分からず鍵山さんに食ってかかっていた。何か非常にまずい雰囲気の中でその会は終った。その後自分としても気持ちの収まりが付かない。そこでお詫びの手紙をだした。「昨夜は遅くまですみませんでした。酒を煽って眠りに就いたものの、明け方に目が覚めました。布団の中で実につまらんことをしてしまった、自責の念でいっぱいです。いくら言葉や表現を変えてごまかしてみたところで、昨夜のこと、実際には自分の現状の不安や情けなさを表現したに過ぎないことがはっきり分かりました。自分の意志で長年の希望通りの仕事の展開を与えていただきながら、その不安に自分を偽っていたのが本音のところです。慌てて岸にあった船に乗って河を渡りかけていたのかもしれません。それも自分が長年憧れていた向こう岸に向かって河に出たものの、思いのほか流れが急すぎて、船のせいや河の流れのせいにしているのが今の私です。しかし、たとえ万が一にも船が転覆したところで、もう元の岸には戻れません。その場で溺れ死ぬか、何とか泳いででも夢に見た向こう岸にたどり着くか、、、。人のせい、世の中のせいにしている自分の情けなさに気が付きました。人間行脚の会のおかげで目の鱗が落ちたようです。もう二度と後悔じみたことを言ったり言葉をすり替えたりせず、がんばってみせます。たった一度の人生だからこそ、がんばってがんばって、がんばり抜いて見せます。貴重なお時間、本当にありがとうございました。行脚の会の一時に心より感謝し、あわせてお詫び申し上げます。今後ともよろしくお願い申し上げます。」こういう手紙を出し、心からお詫び申し上げた。この時、鍵山さんは、「良かったら、年が変わったら、一度東京へお越しください」とおっしゃっていただいた。平成3年の2月6日、ローヤルの本社を訪問した。本当に噂通りのすばらしい会社で、皆様の応対もすばらしかった。それ以上にすばらしかったのは応接室で待っているときに色紙がかけてあった。『その時の出会いが人生を根底から変えることがある 良き出会いを』という、相田みつおさんの詩だ。氏田さんは、これを見たとき、本当にこの方とお会いできて良かったな、ここへ来て良かったな、と思った。本当にきれいに掃除の行き届いた応接セットと、心を感じさせる「蜂の巣」の飾り物が置いてあったのが印象的だった。お昼の食事を一緒にいただいた後、鍵山さんが私にこの紙を出してくださった。「こうだったから、こうなった。 こうだったのに、こうなれた。 こうだったからこそ、こうなれた。」これを教えていただいた。「氏田さん、最後が良いんですよ。『こうだったからこそこうなれた』というふうに自分の人生をやられたらいかがですか?」とおっしゃった。自分に何らかのハンディキャップがあったり、自分が苦しければ苦しいほど、「だからこそ、こうなれた」、というふうに言える人生にしたい、と氏田さんも心した。今でも氏田さんは自分の部屋にこれをかけている。「きっと私が行くために鍵山さんが書いてくださったんや」とずっと思い続けている。氏田さんの宝物である。『人は考えたとおりの人間になる。』これも鍵山秀三郎さんに言われた言葉だ。「氏田さん、人間はだんだん人間らしくなっていくんですよ。それは自分の心の持ち方と進め方なんですよ。💛「技師鳥居信平著述集」の校正も最終段階である。印刷会社にメールする「Hさんが鶏のところ若干イラストの位置を修正したいそうです。 当該部分を構成してもらいますので、少しお待ちください」「承知しました。2021/04/10 10:02」
2021年04月10日
才助「医は仁術といいます。医者として、また人としての務めを果たさなければなりません。少しでも多くの方々に喜んでいただけることが私の幸せです。どうか悲しまないでください。人は生まれたとき、すでに天命が定められています。自分の体のことは私がよく知っております。」「薬代を持参する者にはお茶だけのもてなしでよいが、貧しくて薬代の払えない者には一食添えてもてなすように」斎輔の神示には罰だとか祟(たた)りというようなことは決してなかった。「江戸時代人づくり風土記22静岡」272~280ページ斎輔霊神ー民間療法の元祖となった高松才助天保元年(1830)3月5日、当時の周智郡奥山郷地頭方村の時原村(今の静岡県磐田郡水窪町)に一人の男の子が生れた。名を才助と名付けられた。父は修験道の先達だった高松周碩(かねひろ)、母はさとといった。 才助は3歳でいろはを覚え、小さい頃から、神仏を拝み生き物を憐れみ、ノミ、シラまで殺さなかった。8歳のとき、村の加持大仙という人の妻が難産で苦しんでいた時、父が祈祷で治せなかったのを祈願して不思議に無事出産したという伝承がある。 10歳のとき突然行方不明になる事件が起こった。村の人々が探し回ったが、白倉権現という修験者の道場で、断食の荒行を行っていた。才助を見つけた人々は説得して村に連れて帰った。 13歳になると周智郡山梨の医師の賢斎という人の門に入って、医学を修めた。才助はその後も諸方に行って勉学に励んだ。「斎輔霊神由来記」によれば、京都へ行ってさらに医学を学ぶ一方神社仏閣を拝し、「因果経」「法華経」などの仏典や医学書を求めて帰郷したとある。 才助の治療方法には独特なものがあった。患者自身に「少しで早く病気を治したい」と願う心持ちを起させ、薬療の効果を一層助長させるという治療方法をとった。そのことで患者の全快が早くなり、治療率もよかったと伝えられる。 そのころ、有本の新谷伊勢蔵という人が、弟子として才助に仕えたが、「才助様は、薬代を持参する者にはお茶だけのもてなしでよいが、貧しくて薬代の払えない者には一食添えてもてなすように」といつも指示を受けて実行していたという。またある雪の降った朝、才助が「伊勢、雪をかけよ」と命じたので、伊勢が「無学でもかかねばならぬ今朝の雪」と答えると「うん、よくできた」とほめた話が伝わっている。 安政元年(1854)正月、才助は思いがけず病気にかかり、日に日に病状は悪化した。しかし本人は少しも悲しむ様子が無く、普段と変わりなく笑顔で診療を続けた。両親が心配して「病にさわるから診療はやめるように」というと、才助は、「医は仁術といいます。医者として、また人としての務めを果たさなければなりません。少しでも多くの方々に喜んでいただけることが私の幸せです。どうか悲しまないでください。人は生まれたとき、すでに天命が定められています。自分の体のことは私がよく知っております。」と笑いながら答えたという。10月になって、病状は急に悪化し、死のまぎわに才助は「医者として、また人としての務めを半ばにして終るのが心残りですが、私亡き後、堀切峠の上に五色の雲が見えます。それが私です。母様よく見ていてください。それが見えれば、私亡きあとも皆様のお役に立つことができると思って喜んでください。」と言い残し、そばで見守る人々に礼を言い、眠るように死んでいった。10月5日、才助25歳だった。 一同が悲しみにふけるなか、ふと堀切峠を見ると、上空に五色の雲が浮かんで、それが数日間続いたという。 才助亡き後、生前の徳を慕う人々が社を建て、斎輔霊神の神号を奉ることになった。その後、信者に夢や感得という霊的体験で、また斎輔霊神に奉仕する神主の口を通しての「申し降ろし」によって、内服薬や外用薬の手当てを教示し、多くの患者を救った。「斎輔霊神由来記」によれば、没後まもなく有本の守屋国平の祖母が重い病にかかり、水窪の医師の診療を受けるため、村の人の協力で連れ出す支度中、祖母が心中に斎輔様を思い出し、祈念したところ、夢のように草木の根や皮の処方とその服用方法が浮かんできて、家人が急いでそれらを採取して服用させたところ、熱が下がり、日ならずして全快したという。 こうしたことが数多くあって、参拝者が絶えないようになった。後に新谷伊勢造が神がかりして「申し降ろし」を行い、患者やその代理人に伝えるようになった。 斎輔の神示には罰だとか祟りというようなことは決してなかった。才助の妹の子孫にあたる名古屋の高松栄一という人が故人となってから、「申し降ろし」のできる人は一人もいなくなった。(孫六京一)☆まるで、エドガー・ケーシーの日本版である。斎輔霊神、高松才助のことが忘れ去られていることがちょっと淋しい。2007年09月02日 エドガー・ケイシーの転生論「大法輪」日本エドガーケイシーセンター光田秀さんの「エドガー・ケイシーの霊的哲理と仏教」よりエドガー・ケイシーは生涯で1万5千件近い透視リーディングを行ったが、そのうち約2千件が依頼者の前世を透視するライフリーディングと呼ばれるものであった。(キリスト教圏でありながらケイシーが前世を語ったことから、後に教会から破門される)ケイシーからライフリーディングを受けた1200人中18人が「今回の転生をもって輪廻の束縛から離れる」ことを明示された。この18人中14人が女性であった。さらに既に転生を超えた人々が、人々に奉仕するためにあえて肉体に入るケースをリーディングは認めている。そのような人々を「使命をもって転生する人(reincanation with a mission)」と呼ぶことがあったが、そういう人が数人は認められる。しかし、ケイシーのリーディングによれば、使命を持って転生しても、彼らが再び地上の煩悩に捕らえられる危険性が常にあることを示唆している。(光田氏はそうしたリーディングの一つを紹介される)このリーディングは本人の母親の依頼によって、1927年2月26日にフロリダ州マイアミのハルシオンホテルで実施された。(ケイシー夫人が1906年3月27日フロリダ州に生まれたこの人の過去生について催眠状態に入ったケーシーに質問する。ケーシーは催眠状態のまま質問に答える。眠れる預言者と言われるゆえんでもある)ケイシー 過去生については次のようである。 この人はフランスの宮廷の人々のアイドルで、名をブリードラといい、人々に喜びと平和、幸福を与えることによって進歩を遂げた。それによって楽しい生活と贅沢に囲まれた地位を得たが、それを誤用することがなかった。この人は言葉においても、行いにおいても、常に人々に捧げつくしたからである。たくさんの人にとってこの人は注目すべき存在となった。言葉と行動によって自分を表現したいという願いが、当時からの衝動となって今に現れている。人々の生活に多大な影響を与えるような仕方で教え、訓練し、朗読する能力があるのはこのためである。(さらにギリシャ時代、エジプト時代の前世について語られる。いずれの時も奴隷にも喜びを与え束縛から解放したり、その信仰が人々に喜びを与えたことが示される)十字架へ導くあの道にしっかり留まりなさい。主の中にこそ光はあるからだ。この実体の努力を通してその光を身に現すならば、今回の人生をもって地上での転生を超える境涯に到達するという無上の喜びを、この実体は得るであろう。というのもこの実体は多くの人々をしのぐあの向上の領域に至っているからである。善用せよ、さればすべては益になる。光田氏はケイシーの転生論を仏教の輪廻と比較してこう述べる。ケイシーの転生論の中で、ブッダの転生論における「渇愛」に相当するものは「原罪」である。ケイシーの解釈する「原罪」とは「自己(self)」である。「自己」が諸悪の根源であるとケーシーは見る。・・・ケーシーのリーディングでは、「自己を失え(lose self)」ということが強調される。自己を失うとは、アイデンティティーを放棄することではない。自らの意思をより高次の存在原理に合致させるという意味で、自己を失うのである。。わたしたちは低位の自己を失うことで、本来の自分を自由にすることが可能になる。ケイシーは、より高次の存在原理がキリストにおいて体現されているという認識に立って、「主のうちに自己を失え(lose self in Him)」という言い方をすることもあった。またケイシーは、仏教で言う真言・マントラに相当する祈りの言葉(アフォメーション)を依頼者に与えることがしばしばあった。その代表的なものとして次のものがある。「私の意思ではなくおお主よあなたの御心が私のうちに私を通して行われますように私の為すことがすべてあなたが私に望まれるものと等しくなりますように」
2021年04月06日
「日本の敬意に感動」 アルゼンチン戦の“1分間の黙祷”が反響「最も胸を打った瞬間」3/27(土) U-24日本代表は26日、国際親善試合でU-24アルゼンチン代表と対戦し、0-1と惜敗した。キックオフ前にアルゼンチンの英雄であるディエゴ・マラドーナ氏らへ捧げる黙祷が両チームで実施され、「日本が示した敬意に感動」「記憶に残る史上最高の1分間黙祷」と、海外メディアの中で反響が拡大している。試合前、アルゼンチンのレジェンドとして知られるマラドーナ氏、アレハンドロ・サベーラ氏が昨年亡くなったことに対する哀悼の意を表し、アルゼンチン代表のメンバーは、入場や国歌斉唱の際、マラドーナ氏の象徴的な背番号である「10」を着用。さらに、キックオフ前には、日本とアルゼンチンが黙祷を実施した。アルゼンチンメディアでは、このシーンの反響が拡大している。 アルゼンチンメディア「infobae」は「日本が示したマラドーナとサベーラの敬意に感動」と見出しを打ち、「最も胸を打った瞬間は、決戦が始まる前の黙祷だった」と言及。アルゼンチン紙「Ole」も「記憶に残る史上最高の1分間の黙祷」と取り上げており、サッカー界のレジェンドに示した日本のリスペクトに、敵国メディアは感謝の意を見せていた。アルゼンチンのメディア『infobae』は、この一連のセレモニーを「日本におけるマラドーナとサべージャに敬意を表わした黙とうに感動」と題して次のように伝えた。「この数時間の間に、ディエゴ・アルマンド・マラドーナの死から4か月が経過し、彼の遺産の記憶はかつてないほど新鮮になった。U-23アルゼンチン代表(アルゼンチンでは五輪代表チームをU-23のままで呼称)はマラドーナに敬意を表わして全員が10番をつけて入場した」「しかし、最も衝撃的な瞬間は、決戦が始まる前の黙とうの間に起こった」と綴り、この日スタジアムに足を運んだ8416人の観衆を称えている。「1986年に世界チャンピオンとなった選手(マラドーナ)と2014年のワールドカップのファイナリストとなった監督(サベージャ)を偲ぶために、スタジアム全体に完全な沈黙があった。プロトコルを尊重する少数の聴衆がいたのだ」
2021年03月27日
「育てたように 子は育つ」相田美術館で女優の中井貴恵さんと吉岡たすくさんのテレビの収録があった。吉岡たすく先生が中井貴恵さんに「どの書がお好きですか」と聞くと「育てたように 子は育つ」だということでした。小学生の息子が、テレビゲームをやりながら、ポケットから百円取り出してお母さんに声をかけた。「お母さん、ジュース買って来て。お釣りはあげるから。」これって、きっと父親がテレビを寝そべりながら見ながら、奥さんに「煙草買って来てくれ・・・」というセリフが刷り込まれているのかな。鈴木鎮一(しんいち)先生がこうおっしゃっている。「子どもは生命活動で親の放射するものはなんでも吸収し、そして人間形成してゆくのです。つまり環境に適応して能力として身につけてゆくのですから、親の言葉、親の行為はそのままよい手本になっていることを知らねばなりません。幼児の敏感な感受性というのはおとなたちの想像以上です。たとえばお母さんがドアをパターンと閉める。お父さんが足で開ける。すると子どもはそれを見てすぐまねをする。そしてお母さんに叱られる。自分たちがそうやっておいて子どもを叱りとばす。そんな無茶なことがありましょうか。親たちのやったことを子どもがまねる。これは教育していると同じことなのではありませんか。」愛知県のある町で鈴木先生が講演したときのことである。その日、その町の名家であるKさんのお宅にとめていただいた。その翌朝、Kさんの奥さんがお給仕されながらこんなことを話された。「鈴木先生・・・。昨日、先生のお話を私は身にしみてうかがいました。そして本当にそうだと思いました。『子どもの姿はあなたが育てた姿なのだ』とおっしゃった言葉は私にとって本当に大きな反省となりました。ところが昨夜、子どもがいつものように手に負えぬわがままをしたので、私もかっとなって泣く子どもをお蔵へひきずってゆきました。そして蔵の戸を開けて中へ入れようとした瞬間『その子どもの姿はあなたが育てた姿ですよ』と鈴木先生のお声が心によみがえってきたのです。私ははっとして目が覚めました。私は泣いている子どもを抱いて二人で蔵の中へ入って、蔵の戸を閉めました。『今日はお母さまも一緒にお蔵に入ります』と、子どもと一緒に蔵の中で座ったのです。子どもは真っ暗な蔵の中が恐ろしいのか、私にしがみついてきました。私は子どもに『お前がわがままでお母さんの言うことをちっともきかないから、お母さんは悲しいのです。しかし、お前をこんなわがままな子にしてしまったのはお母さんのせいです。だからお母さんも悪かったので、今日は一緒にお蔵に入ったのです。今日はお母さんからお前に詫びます、ごめんなさい。お母さんはこれからもっとよいお母さんになりますから、許しておくれ』とあやまりました。そうしたら、子どもは『お母さん、僕が悪いの、これから僕はもっとよい子になります』と言って私にしがみついてきました。昨夜はそんなわけで、母子二人で蔵の中で泣き明かしたのでした。そうしたら今朝になってみると、子どもの態度が今までとはまるで違っているのでございます。子ども心にも母の悲しみがわかってくれたのですね。」「奥さん、本当によいことをなさいましたね。その考えの切り替えができたことはなんと素晴らしいことでしょう。わが子にわびながら育てる親の心はなんと気高いことでしょう。よくそこに気づいてくださった。」と鈴木先生は心から感動されてその奥様をほめられたのでした。
2021年03月13日
「西野さん(*)って、なんでそんなに設計だったり世界観だったりアイデアだったり、、、組み立てがバンバンできるんですか?」「例えば、、、テレビでやっているオールスターの運動会ってあるじゃないですか。 あれ、芸人さんとかも出ているんですが、何でマラソン大会で一位をとらないのか意味がわからないんです。 だって、マラソンでトップを走っていれば絶対に20分間テレビに自分が映るということが分かっているんですよ? テレビの芸人さんていうのはとにかくテレビに映りたくて、テレビに長く写ることを目標に番組に出ているはずなんです。 だったら、絶対20分間も長い尺でテレビに映れるって分かったら一位を取るほうがいいに決まっていますよね。 しかも、そこに映れるかどうかは運ではないんです。 努力の差でしかないんです。 だったら、もう遊びに行くのをやめて、ひたすらマラソンの練習を努力するべきなんです。 そんなことはもうわかっている、つまりもう答えがわかっているんです。 でも、売れていないのになぜかそれをやらない。 僕はその意味が分からないんです。 僕が一番好きな言葉は「凡事徹底」 誰にでもできることを、誰よりもやる。 ここに、何も差別はないんです。」*西野 亮廣(にしの あきひろ)は、日本のお笑いタレント、絵本作家、著作家。漫才コンビ・キングコングのツッコミ担当。相方は梶原雄太。絵本作家としてのペンネームはにしの あきひろ。キンコン西野 伝説のスピーチ「人生に失敗など存在しない」平成30年度近畿大学卒業式
2021年03月04日
【命の重み】いつからだろう 毎年7月18日、父は会社を休む。母は美しい花を買って二人でどこかに出掛けるのだ。 どこへ行くんだと俺が尋ねても、ちょっとねとお茶を濁す。そそくさと礼服に着替え、それはそれは不可思議な1日が毎年続いていた。 そんな俺ももう高校三年生。 なんとなく教師になりたいななどと夢を持っていたが家には金がない。意地でも国公立に行けと親には言われてる。しかし今日も希望校への判定はD。むしゃくしゃしてリビングで父の煙草を一本拝借。 火を付けた瞬間に母が帰宅した。 最悪のタイミング・・・。 母は何も言わず、メモとペンをとりだしてサラサラと何かを書いている。 「ここへ行ってきなさい」 は?見たら見たこともない住所と名前。 「何で俺がこん…」 「いいから行ってきなさい!」 母のここまで取り乱した顔を見たのは後にも先にもこの時だけである。 なんだってんだよ…まぁいいか、どうせ勉強もはかどっていないし。 そんな軽い気持ちで俺は書いてある住所へ向かうため電車に乗った。 前田裕子…聞いたこともない。母とどんな関係があるのだろう。 そこは小さなアパートだった。チャイムを鳴らすといくつくらいだろうか、なんせ母よりもいくらか年配の女性が飛び出してきた。 「慶太君!?大きくなったのね!」 親戚のおばさんかよ。 「前田裕子さんでしょうか、 母から訪ねるよう言われたのですが」 「私は裕子の母親よ、裕子も喜ぶわ、 上がってちょうだい」 「お邪魔します」 「裕子、慶太君だよ」 そこには… 仏壇と遺影があった 微笑むその遺影の女性はとても可愛く優しそうだった。 「裕子、慶太君大きくなったね、 良かったね」 おばさんは遺影に話しかけ続けた。 「あの…」 俺と母とこの人と裕子さん。 接点がまるで分からない。 「何から話せば言いか…」 おばさんはそっとビデオを取りだした 「とりあえずこれを見てちょうだいな」 それはとある日のニュース。キャスターは話す。7月18日夕方5時頃、トラックの前に飛び出したこどもをとっさにかばった女子高生前田裕子さんが意識不明の重体、病院に運ばれ間もなく死亡が確認されました。 どうやら裕子さんはこどもをかばい亡くなったらしい。 ビデオを止めたおばさんが衝撃の言葉を発した… 「このこどもがあなたなの」 「え」 全身から血の気が引いた。 何も言えない俺におばさんは続けた。 「裕子は今のあなたと同い年だったわ。 保育士を目指してた。 こどもの好きだったあの子の事、 私は何も不思議に思わなかった。 あなたの両親には泣きながら 何度も何度も頭を下げられた。 そんなあなたの両親に私はひとつだけ 約束をしてほしいと頼んだの。 あなたは当時二才。 あなたにだけはこの事実を 隠し通してやって欲しい。 娘もそう願っていると。 だから今日あなたのお母さんから 電話があった時にはびっくりしたわ。 自暴自棄になっているあなたに 全てを話してやって欲しいと 言うのだから。 あなたに恩を着せるつもりはなかった。 ただあなたが今道に迷っているなら きちんと話そうと思ったの。 あなたの命はあなただけのものでない。 あなたの何気なく生きる瞬間は 裕子があなたに命を捨てて授けた瞬間。 どうか真っ直ぐに生きて」 いつぶりだろう。人に涙を見せたのは。 毎年毎年花を持ち頭を下げていた両親。 娘を奪われてなお俺に心を馳せてくれたこの人。 そして見ず知らずの俺の為に18才の生涯を閉じた裕子さん。 たくさんの人の熱い想いが涙となり俺の頬を伝い続けた。 「すみません、 何を話せばよいか分かりません…」 「ならお願い」 おばさんは言った。 「今、受験生よね」 「3月には素敵な報告をおばさんに 届けてくれないかしら、 お母さんより先に。」 思わず見上げたおばさんはイタズラっぽく微笑んだ。 「…はい!」 俺はおばさんの家を後にした。ポケットに何かある。さっきの煙草だ。迷わずゴミ箱に棄てた。 それから俺はがむしゃらに勉強した。かなわなかった裕子さんの分まで。 3月。俺は走っていた。電車へと。そしておばさんの家へと。 「おばさん!やったよ!合格したよ俺!」 その時見せたおばさんの笑顔はあまりにまぶしかった。 「慶太、行くわよ!」 「あぁ」 7月18日。俺は二十歳になっていた。 裕子さんに。おばさんに。この日は俺にとって一番大切な日となった。
2021年02月28日
中村天風 一日一話【事業の成功】私が事業家にいいたいのは、ここだ。自分の欲望のみでもって、しようとしたことは、そうめったに成功するものではない。事業に成功するのは、自分が欲望から離れて、何かを考えたときに、また、その考えたことを実行したときに成功するのだ。同じ事業家でも、欲の固まりでやる者と、「この仕事で、世の中の人のために、本当に役立つものを提供しよう」という気持ちでやるのとでは、その結果が全然違うのである。「浜松の中村譲庵はいつも「我が事を先に先にとすれば悪、人の事を先に先にとするは善になる。」「息の棒屋中村藤吉氏がこれを放棄したほうがよいと、父に迫ったとき、父譲庵は大変怒って「己れはソロバンを以てせぬ。教えによって開発する」と叱った。」
2021年02月25日
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