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<ちょっと一息> オードリー・ヘップバーンの愛した詩と二宮尊徳のたとえ報徳道いまいち一円会報158号に木村浩先生の「ローマの休日 今もなお」というエッセーが掲載されている。その随想の最後に「ヘップバーンにならいたい」という素敵な一文があった。「オードリー・ヘップバーンは、サム・レベンソン(米国人作家)の詩『時の試練を経た人生の知恵』が好きだったという。魅力的な唇のためには、優しい言葉を口にしなさい。愛らしい瞳を持ちたいなら、他人の良いところを探しなさい。ほっそりとした体型を保ちたいなら、おなかをすかした人に食べ物を分けてあげなさい。」木村先生は、この詩を掲げて、こう言われる。「二宮尊徳翁の『報徳の精神』に共通することだろう。心がけたい。」この詩がとても素敵だったので、原文を探してみた。Time Tested Beauty Tips by Sam LevensonFor attractive lips,Speak words of kindness.For lovely eyes,Seek out the good in people.For a slim fi gure,Share your food with the hungry.For beautiful hair,Let a child run his or her fi ngers through it once a day.For poise,Walk with the knowledge you'll never walk alone.People, even more than things, have to be restored,renewed, revived, reclaimed andredeemed;Never throw out anybody.Remember, if you ever need a helping hand,you'll fi nd one at the end of your arm.As you grow older you will discover that you have two hands;one for helping yourself,the other for helping others.詩の最後のフレーズを訳すとこうなろうか。「あなたが大きくなったら見出すでしょう。あなたには2つの手があることを。一つはあなた自身を助けるため、もう一つは人々を助けるために」まさにこれは二宮尊徳先生が風呂のたとえで言われた言葉でもある。尊徳先生は福住正兄の兄、大澤精一と一緒に小田原湯本の温泉に入られたとき、こう教えられた。(二宮翁夜話38)「この手を見るがいい。人間の手はつかむこともできるし、人に譲ることもできる。だが鳥やケモノは自分のためにつかむことしかできない。人間の手の仕組みはこうなっているのだ。人は自分のために取ることもできるし、人のために譲ることもできる。人は譲らなくてはならない。」尊徳先生はよく譬えで農民を諭された。お椀のたとえが「桜町治蹟」という本に載っている。「【29】翁は常に門人に語った。『私が巡回するのは、村民に勤勉の習慣をつけさせたいという趣旨から来ている。これをたとえるとお椀の中に箸(はし)を入れて回わしていると、はじめのうちは箸だけ回って水はそのままだが、暫くすると水も回りはじめ、水の回る勢いが段々強くなると箸は回さなくても自然と水の勢いで箸が回るようになる。私が巡回するのもその通りで、はじめ村民に惰弱の者があっても自然と感化されて勤めるようになる、だから早起きをして巡回するのである』と。」また、巡回のときに、盥(たらい)のたとえもよくされた。「【31】人夫などが仕事の休みなどに盥に水をくんで置いていると、翁はそれを見て教えられた。『その水を前の方にかいて見よ。いくら汗水流して前へかいてもその水は向うに行ってしまう。反対にその水を向うにばかり押してみよ。いくら押してもこちらに帰って来る。欲が深く自分の方にばかりかきこんでも、自分の方に来るものでない。人に推し譲ると自然とかえってくる』と。」2011 年4 月2 日、東日本大震災の地震・津波、放射能汚染の三重苦に苦しむ南相馬の桜井勝延市長はYouTube で世界に継続的な救援を訴え話題になった。相馬は報徳ゆかりの地でもある。市長は、最後にこう言われている。「人はお互いに助け合ってこそ人だと思います。(Helping each other is what makes us humanbeing.)」
2022年08月03日
二宮翁夜話巻の5【39】伊藤発身(はつみ)曰く、翁(をう)の疾(やまひ)重(おも)れり、門人左右にあり、翁曰く、予が死近きにあるべし、予を葬るに分(ぶん)を越ゆる事勿(なか)れ、墓石(はかいし)を立つる事勿れ、碑(ひ)を立つる事勿(なか)れ、只(ただ)土を盛り上げて其(そ)の傍(かたはら)に松か杉を一本植ゑ置けば、夫(それ)にてよろし、必ず予が言に違ふ事勿(なか)れと、忌明(きあ)けに及んで遺言(ゆゐごん)に随(したが)ふべしと云ふあり、又遺言(ゆゐごん)ありといへどもかゝる事は弟子の忍びざる処(ところ)なれば、分に応じて石を立つべしと言ふあり、議論区々(まちまち)なりき、終(つひ)に石を建てしは、未亡人の意を賛成する者の多きに随(したが)へるなり。【39】伊藤発身が言った。尊徳先生の病気が重くなった。門人が左右にあった。尊徳先生がおっしゃった。私の死期も近いことであろう。私を葬むるのに分を越えてはならない。墓石を立ててはならない、碑を立ててはならない、ただ土を盛り上げてその傍らに松か杉を一本植えて置けば、それだけでよろしい。必ず私の遺言に違ってはならない、と。忌が明けるに及んで遺言に随うべきだという者があり、また遺言があったとしてもこのようなことは弟子として忍びないところであるから、分に応じて墓石を立てるべきだとと言う者があり、議論がまちまちであった。ついに墓石を建てたのは、未亡人の意志に賛成する者が多いのに随ったのである。・二宮神社創建のこと明治43年、新聞記者鷹野弥三郎は当時「奇人・変人」として世間で呼ばれていた俳人十湖の自伝を編集するため東奔西走していたところ、十湖が二宮尊徳の偉業をたたえるためこの神社創建にかかわったことを知った。 鷹野によれば明治五年、十湖は福山瀧助指導により遠譲社を有志者と設立し、自らが中善地村の社長となって報徳社の教えを広めた。明治15年引佐麁玉郡長時代には引佐の農業を振興するため三遠農学社を設立、自ら主幹に就任し二宮尊徳の精神を根本にして勤勉貯蓄を図り教えを広めた。さらに報徳社を各地に設立し、いっそう二宮の功績に感動し、尊敬し、十湖としては神として祀りたいと運動をはじめたのは必然であった。そしてその運動は開花し今市、小田原の2箇所に神社が創建される結果となったというのである。*報徳二宮神社には尊徳の墓がある。俳人にして農政家の松島十湖の句碑もある。 「明け安し 我もひと夜の 御墓守」 (十湖)
2022年06月15日
2022年05月19日
2022年05月17日
二宮翁夜話巻の1【32】翁曰く、聖人も聖人にならむとて、聖人になりたるにはあらず、日々夜々天理に随ひ人道を尽して行ふを、他より称して聖人といひしなり、堯舜も一心不乱に、親に仕へ人を憐み、国の為に尽せしのみ、然るを他より其の徳を称して聖人といへるなり、諺に、聖人々々といふは誰(た)が事と思ひしに、おらが隣の丘(きう)が事か、といへる事あり、誠にさる事なり。我昔鳩ヶ谷駅を過し時、同駅にて不士講に名高き三志と云ふ者あれば尋ねしかば、三志といひては誰もしるものなし、能々(よくよく)問ひ尋ねしかば、夫(それ)は横町の手習師匠の庄兵衛が事なるべし、といひし事ありき、是におなじ。【32】尊徳先生はおっしゃった。「聖人も聖人になろうとして、聖人になったわけではない。日々夜々天理に随って人の道を尽して行うのを、他人が称して聖人といったのである。堯・舜(ぎょう・しゅん:古代中国の聖王)も一心不乱に、親につかえ、人を憐んで、国のためにつくしただけである。それを他の人がその徳を讃えて聖人といったのである。諺(ことわざ)に、聖人聖人というのは誰の事かと思ったら、おらが隣の家の丘(孔子の名前)が事か、ということがある。本当にそういう事なのだ。私が昔、鳩ヶ谷の宿場町を通った時、同町で不士講(ふじこう)で有名な三志という者を尋ねていったが、三志といっても誰も知る者がない。よくよく問い尋ねてみれば、それは横町の手習師匠の庄兵衛が事であろう、といわれた事があった。これと同じことだ。」☆「報徳見聞記」(川崎孫右衛門記)にも同じような記載がある。 尊徳先生は実践を重んじられた。「12 尭・舜は何も方角なしの出精人である。 一切が道にかなっていたのを、後に孔子が理をつけたのでえある。 酸っぱい、辛い、甘い、と味をわけるように区別をつけたのだ。 孔子の道を学ぶものは、字面をおうのではなく、尭・舜が行ったことを実践しなければならない。 17 仏経、儒書ともにシャカや孔子が説いたところを外から書いたものだ。 そうであれば今、書物をばかり読んで実践しなければ死に物である。」
2022年03月12日
「なんじ自身を省りみよ。 なんじがなんの用にたっているか。 ただ先祖が積んできた徳と、家柄と格式とによって、 役に立つ者のように見え、人にも敬せられているのだ。」「古語に、 我を非として当る者は我が師なり とある、 かつ大禹は善言を拝す ともある。 なんじらも肝に銘ぜよ。」二宮翁夜話巻の1【33】 下館侯の宝蔵火災ありて、重宝(ぢゆうはう)天国(あまくに)の剣(つるぎ)焼けたり、官吏城下の富商中村某(それがし)に謂ひて曰く、如其(かく)焼けたりといへども、当家第一の宝物なり、能く研ぎて白鞘(しらさや)にし、蔵に納め置かんと評議せり、如何(いかん)、中村某焼けたる剣を見て曰く、尤もの論なれど無益なり、例令(たとへ)此の剣(けん)焼けずとも、如此(かくのごとく)細し、何の用にか立たん、然る上に如此(このごとく)焼けたるを、今研ぎて何の用にかせん、此の侭にて仕舞置べしと云へり、翁(をう)声を励まして曰く、汝大家の子孫に産まれ、祖先の余光に因りて格式を賜り、人の上に立ちて人に敬せらるゝ、汝にして、右様の事を申すは、大(だい)なる過ちなり、汝が人に敬せらるゝは、太平の恩沢なり、今は太平なり、何ぞ剣の用に立つと立たざるとを論ずる時ならんや、夫れ汝自ら省り見よ、汝が身用に立つ者と思ふか、汝はこの天国の焼剣(やけみ)と同じく、実は用に立つ者にあらず、只先祖の積徳と、家柄と格式とに仍て、用立つ者の如くに見え、人にも敬せらるゝなり、焼身にても細身にても重宝と尊むは、太平の恩沢此剣の幸福なり、汝を中村氏と人々敬するは、是又太平の恩徳と先祖の余蔭なり、用立つ、用立たざるを論ぜば、汝が如きは捨てて可なり、仮令(たとひ)用立たずとも、当家御先祖の重宝(ぢゆうほう)、古代の遺物、是を大切にするは、太平の今日至当の理なり、我は此剣の為に云ふにあらず、汝がために云ふなり、能々(よくよく)沈思せよ、往時水府公、寺社の梵鐘(つりがね)を取り上げて、大砲に鋳替へ玉ひし事あり、予此の時にも、 御処置悪きにはあらねども、未だ太平なれば甚だ早し、太平には鐘や手水鉢を鋳て、社寺に納めて、太平を祈らすべし、事あらば速かに取つて大砲となす、誰か異議を云はん、社寺ともに悦んで捧ぐべし、斯(かく)して国は保つべきなり、若し敵を見て大砲を造る、所謂盗(ぬすびと)を捕へて縄を索(な)ふが如しと云はんか、然りといへども尋常の敵を防ぐべき備へは、今日足れり、其敵の容易ならざるを見て、我が領内の鐘を取つて大砲に鋳る、何ぞ遅からんや、此の時日もなき程ならば、大砲ありといへども、必ず防ぐ事あたはざるべし、と云し事ありき。何ぞ太平の時に、乱世の如き論を出ださんや、斯の如く用立たざる焼身をも宝とす、況んや用立べき剣に於てをや、然らば自然宜敷き剣も出来たらん、されば能く研ぎあげて白鞘(しらさや)にし、元の如く、腹紗(ふくさ)に包み二重の箱に納めて、重宝とすべし、是れ汝に帯刀を許し格式を与ふるに同じ、能々(よくよく)心得べしと、中村某叩頭(こうとう)して謝す、時に九月なり、翌朝中村氏発句(ほつく)を作りて或人に示す、其の句「じりじりと照りつけられて実法(みの)る秋」と、ある人是を翁に呈す、翁見て悦喜(えつき)限りなし、曰く、我昨夜中村を教戒す、定めて不快の念あらんか、怒気内心に満たんかと、ひそかに案じたり、然れども家柄と大家とに懼(おそ)れ、おもねる者のみなれば、しらずしらず増長して、終に家を保つ事覚束(おぼつか)なしと思ひたれば、止むを得ず厳に教戒せるなり、然るに怒気を貯へず、 不快の念もなく、虚心平気に此の句を作る、其の器量按外にして、大度見えたり、此家の主人たるに恥ぢず、此家の維持疑ひなし、古語に、我を非として当る者は我が師也とあり、且大禹(タイウ)は善言を拝すともあり、汝等も肝銘(かんめい)せよ、夫れ富家の主人は、何を言ふても御尤御尤と錆付(さびつ)く者のみにて、礪(と)に出合つて研ぎ磨かるゝ事なき故、慢心生ずる也、譬(たとへ)ば、爰(ここ)に正宗の刀ありといへども、研ぐ事なく磨く事なく、錆付く物とのみ一処におかば、忽ち腐れて紙も切れざるに至るべし、其の如く、三味線引や太鼓持などゝのみ交り居て、夫も御尤、是も御尤と、こび諂(へつら)ふを悦んで明し暮し、争友(そういう)一人のなきは、豈あやふからざらんや。 【33】下館侯の宝蔵が火災にあい、代々、家宝としてきた「天国(あまくに)の剣(つるぎ)」が焼けてしまった。下館城下で富豪である中村氏に下館藩の役人が尋ねた。「このように焼けてしまったが、この剣は当家第一の宝物である。よく研いで白鞘にしまって、蔵に納めおこうと思うがどうだろうか。」中村はその焼けた剣を見て言った。「ごもっともな話ですが、そんなことをしてもなんの益がございましょう。たとえこの剣が焼けないとしても、このように細うございます。何の用に立ちましょう。このように焼けてしまったのを、いまさら研いで何の用にたちましょう。このまましまっておかれればよろしいでしょう」と言った。これを聞かれて尊徳先生は、大声で叱責された。「なんじは、大家の子孫に生まれ、祖先の余光によってこのように格式をたまわり、人の上に立って人に敬せられているではないか。なんじのような者が、そのような事を申すのは、大きな過ちである。なんじが人に敬せられるのは、太平のお蔭ではないか。今は太平の世である。どうして、剣が用に立つとか、立たないとか論ずる時であろうか。なんじ自身を省りみてみよ。なんじがなんの用にたっているか。この天国の焼剣と同じように、実は用に立つ者ではないのだ。ただ先祖が積んできた徳と、家柄と格式とによって、やくに立つ者のように見え、人にも敬せられているのだ。焼身であっても細身であっても重宝と尊ぶのが、太平のお蔭であり、この剣の幸福なのだ。なんじを中村氏と人々が敬するのは、これまた太平の恩徳と先祖の余蔭である。用に立つ、用に立たない論ずるならば、なんじのような者は捨ておいてよい。たとえ用に立たなくとも、当家御先祖の重宝としてこれを大切にするのが、太平の今日において至当の理である。私はこの剣のために言うのではない。なんじのために言うのだ。よくよく沈思せよ。かって水戸の殿様が、寺社のつりがねを取りあげて、大砲に鋳造された事があった。わたしはこの時にも、 御処置は悪いわけではないが、まだ太平の世であるからはなはだ早い。太平の世には鐘や手水鉢を鋳て、社寺に納めて、太平を祈らせるがよい。事があった時にすぐにそれらを取り上げて大砲とすればよい。その時、誰か異議を言おうか、社寺ともに喜んで出すであろう。このようにして国は保つのだ。敵を見て大砲を造る、いわゆる盗人を捕へて縄をなうようだと言う人もあろうが、通常の敵を防ぐべき備えは、今日足っている。その敵が容易でないのを見て、自分の領内の鐘を取って大砲を鋳造する、どうして遅いことがあろうか。この時日もないほどであれば、大砲があっても、必ず防ぐ事はできないであろうと言った事があった。どうして太平の時に、乱世のような論を出す必要があろう。このように用に立たない焼身であっても宝とする。ましてや用に立つ剣ならなおさらである。そうであれば自然とよい剣もでてくるであろう。そうであればよく研ぎあげて白鞘におさめて、元のように、ふくさに包んで二重の箱に納めて、重宝とするがよい。これはなんじのような者に帯刀を許し、格式を与えるのと同じだ。よくよく心得えておくがよい。」中村氏は、頭を何度も畳にくっつけて先生に謝った。時に九月であった。翌朝、中村氏は句を作って、ある人に示した。その句に「じりじりと 照りつけられて みのる秋」と。ある人はこれを尊徳先生に見せた。尊徳先生はこれを見て大変に喜ばれ、こうおっしゃった。「私は昨夜中村氏を教戒した。定めて不快の念であろうか、怒気が内心に満ちていようかと、ひそかに案じていた。しかし家柄と大家とをおそれて、おもねる者ばかりだから、しらずしらず増長して、ついには家を保つ事もおぼつかなくなるだろうと思ったから、やむを得ず厳しく教戒した。それなのに怒気をたくわえることなく、不快の念もなく、虚心平気にこの句を作った、その器量は案外大きいように見える、この家の主人たるに恥じない、この家の維持は疑いない、古語に、我を非として当る者は我が師なり とある、かつ大禹(たいう:古代中国の聖王であった禹)は善言を拝す ともある。なんじら(門弟)も肝に銘ぜよ。富家の主人は、何を言っても、ごもっとも、ごもっともと錆つかせる者ばかりで、と石に出合って研ぎ磨かれる事がないから、慢心を生ずるのだ。たとえば、ここに正宗の刀があっても、研ぐ事がなく磨く事がなく、錆つく物とのみ一つところにに置けば、たちまち腐れて紙も切れないようになるであろう。そのように、三味線引きや太鼓持(たいこもち)などとだけ交っていて、それもごもっとも、これもごもっともなどと、こびへつらうのを喜んで明かし暮し、争友の一人もないのは、危ういというべきである。💛カムカムエブリボディ で 虚無蔵は五十嵐にもひなたにも「善言」を与える。虚無蔵「日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備えよ」五十嵐は反論する「来ないかもしれない機会を待ち続けるなんて理解できない」虚無蔵「傘張り浪人とて、刀を携えておる限り侍だ。あべこべにいくら刀を振り回しても愛しいおなごを泣かす者は真の侍にあらず」「どこで何をして生きようとお前が鍛錬し、培い、身につけたものはお前のもの。決して奪われることの無いもの。一生の宝にせよ。」「おひな、日々鍛錬せよ。いつ来るかわからぬ機会に備えよ」ひなたは、五十嵐との失恋を乗り越え、結婚資金と貯金していたお金を前払いして、英会話教室に通う。善言を「はい」と肯定して、実践に結びつけられるかどうかで、その人の運命が変わってくる。
2022年03月12日
『東大のディープな日本史2』1984年度 奈良の大仏はどのようにして造られたか?次の文章を読み、左記の設問に答えよ。僧行基(ぎょうき)は、当時、寺院にこもって学問と修行につとめる僧が多かったなかで、国々をめぐって人々に教えを説き、人々の協力をえて、橋をかけ、灌漑施設をつくるなどの事業を行った。このような行基の活動を支持し、行基の集団に加わる人々は、時には千人以上に達したという。朝廷は最初、行基の活動を抑圧したが、聖武天皇時代になるとその態度を変え、731(天平3)年には、行基に従う人々に、年齢によって出家を認めるようになり、行基も743(天平15)年から天皇が始めた大事業には、弟子たちを従えて積極的に参加し、のちには仏教界最高の大僧正の地位にまでついた。設問A 行基の活動が最初朝廷に抑圧された理由は何か。B 朝廷がのちに行基を重んじるようになった背景は何か。当時の政治・社会情勢や、朝廷のそれに対する政策との関連に注目しながら、各自の考えをA・B各4行(120字)以内で述べよ。Bの模範解答例(相澤理)は 疫病や政争などで社会不安が高まる中、聖武天皇は鎮護国家の仏教に頼って国分寺建立や大仏造立を企画した。朝廷は事業の推進や墾田の開発に行基集団のもつ動員力・技術力を利用しようと考え、さらに戸籍支配から離脱した班田農民を再び取り込もうとした。である。行基とはどんな人物か?・行基は天智7年(668年)、河内国大鳥郡(のちの和泉国)に生まれ、天武10年(682年)に14歳で出家、元興寺で道昭らに法相宗を学んだ。父は百済系渡来人の高志才智、母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)である。飛鳥寺や薬師寺で教学を学んだ。・行基は布教とともに貧しい人を助けるために布施屋と呼ばれる無料の宿泊所を作ったり、治水工事や架橋工事などの慈善事業を積極的に行った。これは師である道昭の教えに影響を受けたとされる。・行基の活動を快く思っていなかった朝廷は「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と、新しいタイプの宗教集団を寺の外での活動を禁じた「僧尼令」に違反するとし弾圧する。しかし朝廷からの厳しい弾圧にもかかわらず、行基とその集団の活動規模が膨らんでくると、行基の指導により墾田開発や社会インフラが発展したこと、地方豪族や民衆たちを中心とした集団の拡大を抑えきれなかったこと、そして行基の活動が「反朝廷的」なものでないと判断するようになり、朝廷は弾圧を緩め行基上人の活動を認めるようになった。・やがては聖武天皇から直々に依頼されて743年に大仏像造営の勧進(責任者)として起用される。行基は749年に大仏の完成を見ないで81歳で亡くなるが、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」ともいわれている。「問題のリード文に「橋をかけ、灌漑施設をつくるなどの事業を行った」とあるが、現在でも全国各地に行基が開削したと伝えられる貯水池や温泉がある。 朝廷にとって、行基の持つ土木技術力、そして「千人以上」の弟子を率いる動員力は魅力で、また浮浪・逃亡して戸籍支配から離脱した人々を再び掌握するチャンスでもあった。 行基は大仏造立への協力に先立つ740年、恭仁京造営に労働力を提供する見返りとして得度が認められる。朝廷は禁止・弾圧するのではなく、国家事業に協力させ支配下に取り込む方針に転換した。 こうした行基集団の動員はそのころ進められていた墾田の開発と関連づけて考えることもできる。 大仏造立の詔が発せられた743年、墾田永年私財法により開墾が奨励される。それに先立つ723年、三世一身の法が出されると行基は畿内近国で開墾の指導にあたった。実際は大仏造立に専念していたが、朝廷はそこまで意図していたと考えられる。」と『東大のディープな日本史2』62ページにある。・原始キリスト教がローマに弾圧されながら、民衆の間に広まり、ついにローマがキリスト教をとりこみ、逆にキリスト教国家となるのとアナロジーを感じさせる。・また二宮尊徳が幕府に招請され、最後に日光再開発を命ぜられるようになった経緯や遠州地方で行政が報徳運動を支援普及したこと、日露戦争後、国が報徳思想を全国に積極的に広めようとしたこととアナロジーがあるように思う。 二宮尊徳は小田原藩主大久保忠真候の依頼で10年契約で栃木の桜町領の開発に従事する。当初順調に進むように見えた事業は領民の非協力や小田原藩士の妨害などで危機に陥るが、成田山に籠っての祈願を経て、全面的な協力が得られるようになる。このときに力となったのが不二孝(富士山信仰)連中であった。また数学的な素養のある武士や開田を専門とする技術者、青木村の堰の改修などで参集した大工等の集団が集積するようになり、無利息貸付の累積による資金の充実とあいまって、尊徳の率いる技術的集団は幕府が注目するところとなり、水野忠邦は天保13年下野桜町にいた二宮尊徳を御普請役格に任命して利根川の分水路の計画をたてさせている。尊徳は命に従い、富田高慶など弟子を引き連れて江戸へと向かう。・二宮尊徳は、天保13年(1842)10月2日御普請役格として勘定奉行の配下となった。そして早速命ぜられたのは利根川分水路見分目論見御用であった。尊徳の幕府登用は、青木村などで評判になった水利に対する土木手腕が買われて、印旛沼から江戸湾へ新堀を開くためだった。この利根川分水工事はこれまでも何回か着手されたが、いずれも失敗した難工事で、尊徳は10月21日から11月15日まで現地を踏査し、「沿村の人の和を得なければ工事は成功しない。それには先ず報徳仕法によって周辺の村々を復興させねばならない。堀の開削はその後である」という20年も要する遠大な計画を報告した。工事の急をあせる幕府には、このような長期的計画は採用できなかった。・天保14年7月になると、御勘定所附御料所陣屋附手附(弘化4年5月からは山内総左衛門手附)となり、9月22日真岡の陣屋に赴任した。尊徳は赴任前、江戸で山内と話し合っており、赴任後もしばしば山内を訪ねてはいるけれども、山内の理解を得て御料所内に仕法を発業する運びには至らなかった。すると弘化元年(1844)4月、江戸に呼び出され、日光神領荒地開拓調査見込の上申を仰せ渡された。尊徳はこれこそ自分畢世の事業と力を尽くし、3年の歳月をかけ、方法書80余巻を草して提出したが、幕府からは何の下命もない。彼を起用した水野越前守忠邦は既に幕閣を去っていた。ようやく山内代官との話し合いで、東郷村と桑野川村の荒地を開発したものの、それがかえって陣屋下役の反対を呼び起こし、代官を仕法から遠ざける結果となった。これまで手がけて来た私領の仕法まで悉く閉塞したわけではないが、せっかく幕府に召し出されながら御料所内で何ら為すところなく「屈身」していることは残念極まることで、「道もまたここに止れり」(報徳記8)と慨嘆した。・嘉永5(1852)年6月23日、尊徳は「荒地起返し、米麦を取増し、雛形旧復の仕法は、御国の益の根元としての取行い方を願い上げ奉り」と、願書を出す。一畝、一歩ずつでも起返し、一家、一村でも取り直せば、その余徳をもって起返しは前後左右に拡大し、貧者一同が助かり、永久万代までも莫大の御仁恵として幕府が賞揚されるであろう、と記す。その後に尊徳が必死に書き綴ったことは「今まで繰り返して仕法の実施を嘆願してきたが、当年66歳となり余命いくばくかははかり知れず」と、至急存命中に実施できるように訴えている。真岡代官山内総左衛門はこの願書に付箋をつけ、尊徳が真岡の手付であっては日光仕法の取扱いはできがたいから、日光奉行所への転属を特別に計らっていただきたいと、好意的な意見を添える。 それから8か月、一日千秋の思いで待っていた許可の下命が、ようやく翌嘉永6(1853)年2月13日、勘定奉行松平河内守近直から申し渡された。「見込通り、御料・私領手広く取計らうよう致すべく候」と、従来手がけた諸仕法も認められている。追いかけて2月26日に、日光奉行所手付を命ぜられた。この日を待望すること久しかっただけに、尊徳の生涯中最大の喜びに満ち、その後死去する70歳まで、わずか3年間であったが、日光仕法に全力をふりしぼって余命をささげたのである。・明治時代後半に、内務省は中央報徳会と連携して「斯民」などを通して、日露戦争後の荒れた人心の改良のため、一時報徳運動を鼓吹した。全国各地の二宮金次郎像もその時の運動として盛んに建立され、その後も国民の理想像として建立された。 二宮尊徳の方法は「荒地は荒地の力をもって開く」という荒地開拓法と無利息貸付法の二つの仕法原理による。 これらは無限循環の性格を持ち、天地の理法を象った手法であるがため、地球上で人類が生存する限り有効であると主張した。二宮尊徳「この宇宙が崩れるまで、水が水平であり、糸に錘をつけてまっすぐ下がっている間は私の立てた法は有効である」
2022年02月21日
「八田與一と鳥居信平 増補版」を二宮尊徳の会会員にスマートレターで送る。I先生が暮れにご自分の講座用に本書を200冊テキストと発注していただいた。そこで、印刷所には、300冊印刷するよう指示した。これは報徳の仕法原理の一つ「荒地を興すに荒地の力を以てす」を「出版物を興すに出版物の力を以てす」に応用したものである。100冊のうち30冊はMさんに、20冊はT先生に送った。それぞれ台湾大学や台北の知人から引き合いがきていて「技師鳥居信平著述集」といっしょに送ってくださった。会員への送り状には、こう付け加えた。「報徳を信じ報徳を実践するときに、強い力で協力してくれる人が現れ、また報徳の仲間が助けてくれるようです。」と。・「たらいの水の原理」を信じよう。推したものが帰ってくるという「この世界の原理」を。そして推し続けよう、生涯をかけて。 なぜならば、「報徳」とは、私たちは生まれたときから先人の徳のおかげで、こうして今幸せに生きていられる。私たちは、生涯をかけて、それを返していかなければならないということにほかならないのだ。 そして私たちもまた後の世の人のために何か良いものを残していくという「報徳の精神」を実践し続けていこう。
2022年02月11日
〇〇さんから「福山滝助」について知りたいという人からの依頼文があった。その依頼文のなかに「報徳関連の記事が掲載されているGAIAというサイト」とあった。Oh このサイトのことだ(^^)グーグルなどで「福山滝助」で検索すると次のようなものが出てくる。GAIAはダム(貯水池)のようなもので、多くの資料が蓄えられている。上手に拾い出せば有意義な資料もあろうか。福山滝助のこと(「尊徳の裾野」佐々井典比古著抜粋336ページ~)福山滝助小伝の試み福山滝助小伝の試み2「静岡県報徳社事蹟」(報徳遠譲社分)抜粋(七) 報徳遠譲社報徳遠譲社本社、分社、支社社員数遠譲本社の春秋2期の参会は福山滝助先生が最も心を用いられた所である。松島十湖は二宮尊徳こそ、人の進む道の手本であると感じたので、二十歳の春、相模国小田原駅の福山滝助を訪ねていった。「松島十湖」遠州偉人伝
2022年01月04日
25 予言 ある時、手相を見てもらった占い師から、こう言われた若い娘を知っている。「ご結婚なさって、お子さんができますが、亡くなります」。こういう予言は、最初の道のりの間は心の重荷とならない。でも時がたって結婚し、最近子どもができた。すると予言はもう前よりは心の重荷となっているのだ。子どもが病気にでもかかると、いまわしい言葉が母親の耳に教会の鐘のように鳴り響くであろう。・・・ぼく(アラン)の考えをいうと、未来は考えないで、目の前のことだけを見ている方が好きだ。ぼくは占い師に自分の手相を見せにいかないばかりでなく、事物の本姓のなかに未来を読もうとしない。・・・・💛遠州報徳の師父には、占い師にいついつなくなりますと若死に告げられた人がいる。松島授三郎は、若い頃に易者に見てもらったところ、あなたは三十三歳の頃には大難があって命はないと言われた。そこで何とか長生きをする道はないかと考えた末、報徳の先生の荒木由蔵に話すと、「そんなことは心配しなさんな、報徳をやれば、きっと長生きができる」と言われて、早速寿三郎と言う名を負い、報徳の道の研究を励んだ。その後、明治二年、松島が三十三歳の時、居村の羽鳥村の地籍で、天竜川の堤防が切れて大洪水となり、松島の家も被害をこうむり、幸い屋上に上っていて辛うじて命だけが助かった。それが先年易者の予言した年だった。そこで松島は大いに感じ、これは全く報徳のお陰であったと喜び、益々報徳のために心身を傾けるようになり、その年の秋、隣村石原村に仕法を行い、五十戸の住民は救われた。それ以来、報村の道に精進すると共に、地方を教化し、明治十二年伊平村に農学誠報社を組織したのが、三遠農学社の前身なのである。
2021年12月18日
希望の歴史 人生の指針10か条0 Rules To Live By From Rutger Bregman – HumankindNo. 1: When in doubt, assume the best.(疑いを抱いた時には、最善を想定しよう)No. 2: Think in win-win scenarios.(ウィン・ウィンのシナリオで考えよう)No. 3: Ask more questions.(もっとたくさん質問しよう)No. 4: Temper your empathy, train your compassion.(共感を抑え、思いやりの心を育てよう)No. 5: Try to understand the other, even if you don’t get where they are coming from.(他人を理解するよう努めよう。たとえその人に同意できなくとも)No. 6: Love your own as others love their own.(他の人々が自らを愛するように、あなたも自分を愛そう)*No. 7: Avoid the news.(ニュースを避けよう)No. 8: Don’t punch Nazis.(ナチスをたたかない)No. 9: Come out of the closet: don’t be ashamed to do good.(クローゼットから出よう。善行を恥じてはならない。)No. 10: Be realistic.(現実主義になろう)*今市の報徳二宮神社の裏手に築島の二宮尊徳先生のお墓がある。二宮先生の遺体は甕の中にいれられてここに収まっているときく。その左の前に碑がたっていてこう刻まれている。ちちははも その父母も わが身なり 我を愛せよ われを敬せよ父母のそのまた父母もそうしてたどっていくと父母も先祖もさらに天地が、わがうちに宿っている。父母が私を愛してくださったように、私たちもまた自分自身を愛しなさい。自分自身を敬いなさいとわが子孫を愛する。 Love your own as your parents love yours.「二宮翁道歌解」福住正兄より【15】この歌は他に向かって 我を愛せよ、我を敬せよ というにあらず。わが心にてわが身を愛せよ、われとわが身を敬せよという心なり。父母は祖父母の身を分けしなり。祖父母は曽祖父母の身を分けし身なり。先祖遠祖まで皆同じ。されば我が身はすなわち父母なり祖父母なり先祖なり。先祖父母の身すなわち我この身なれば、粗略にせず等閑(とうかん:なおざり)に思わず、父母先祖の血脈を受け継ぎし、父母の遺体なれば、我とわが身を愛護し敬まいと謹みを加えて、不善不義の名を身に負わぬはもちろん、肌えも傷つけぬよう、大切にこの身を持つべしとの教えなり。かくしてこそ我が身を敬し、我が身を愛したる実行というべし。
2021年12月11日
尊徳精神、“里帰り”した路面電車で学ぶ 小田原で小学生対象の経済教室12/6(月)小田原ゆかりの農政家・二宮尊徳による商いの教えを学んでもらおうと、小学生を対象にした経済教室が5日、箱根口ガレージ報徳広場(神奈川県小田原市南町)で行われた。今年3月に64年ぶりに“里帰り”した路面電車モハ202号の車両で、子どもたちが実際に店を開いて地元特産品の菓子などを販売。働くことの大切さを体感した。 尊徳を祭る報徳二宮神社(同市城内)の関連会社「報徳仕法」などの主催。同社は2019年から子どもたち向けの経済ワークショップを展開し、今回は小中学生への金融教育に取り組む横浜銀行(横浜市西区)との連携で初開催した。 この日は地元の小学生ら11人が参加。客引きや会計など役割分担を決めて「きんじろうマーケット」を切り盛りした。車内では10~50円の駄菓子、車外では小田原特産の片浦レモンや足柄茶のキャンディー、小田原梅サイダーなどを通行人らに販売。慣れない接客や会計に戸惑いながらも元気いっぱいに「いらっしゃいませ」と声を張り上げた。
2021年12月07日
「それ奢侈は不徳の源にして滅亡の基いなり」二宮翁夜話巻の5【19】翁曰く、何程(なにほど)富貴(ふうき)なりとも、家法をば節倹に立て、驕奢(けうしや)に馴(な)るゝ事を厳(げん)に禁ずべし、夫(そ)れ奢侈は不徳の源にして滅亡の基(もとひ)なり、如何(いかに)となれば、奢侈(しやし)を欲するよりして、利を貪るの念を増長し、慈善の心薄らぎ、自然欲深く成りて、吝嗇(りんしよく)に陥り、夫(それ)より知らず知らず、職業も不正になり行きて、災(わざわひ)を生ずる物なり、恐るべし。論語に、周公の才の美ありとも奢(おご)り且(か)つ吝(やぶさか)なれば、其の余は見るに足らず、とあり、家法は節倹に立て、我身(わがみ)能(よく)之を守り、驕奢(けうしや)に馴るる事なく、飯と汁(しる)木綿着物(もめんきもの)は身を助く、の真理を忘るる事勿れ。何事も習(なら)ひ性(せい)となり、馴れて常となりては、仕方無き物なり、遊楽に馴(なれ)れば面白き事もなくなり、甘(うま)き物に馴るれば甘(うま)き物もなくなるなり、是(これ)自(みずから)我が歓楽をも減ずるなり、日々(にちにち)勤労する者は、朔望(さくぼう)の休日も楽みなり、盆正月は大なる楽みなり、是れ平日、勤労に馴るゝが故なり、此の理を明弁(めいべん)して滅亡の基(もとひ)を断ち去るべし、且つ若き者は、酒を呑むも、烟草(たばこ)を吸ふも、月に四・五度に限りて、酒好きとなる事勿れ、烟草好きとなる事勿れ、馴れて好(す)きとなり、癖(くせ)となりては生涯の損大なり、慎(つつし)むべし。【19】尊徳先生はおっしゃった。どれほど富貴となっても、家法を節倹に立てて、贅沢になれることを厳しく禁じなければならない。贅沢は不徳の源であって滅亡の原因である。なぜかといえば、贅沢を欲することから、利を貪る気持ちが増長し、慈善の心が薄いで、自然欲深くなって、吝嗇(りんしょく)に陥り、それから知らず知らず、職業も不正になっていき、災いを生ずるものである、恐るべきことだ。論語に、周公の才の美ありとも奢(おごり)且(か)つ吝(やぶさか)なれば、其の余は見るに足らず、とある。家法は節倹に立てて、自分の身はよくこれを守り、贅沢になれる事なく、飯と汁木綿着物は身を助く、の真理を忘れてはならない。何事も習(ならい)性となりなれて常となることは、仕方がないものである。遊楽になれれば面白い事もなくなり、うまい物になれればうまい物もなくなる。これは自ら自分の歓楽をも減ずるのである。日々勤労する者は、月の1日、15日の休日も楽みである。盆・正月は大いなる楽しみである。これは平日、勤労になれているためである。この理を明らかにわきまえて滅亡の原因を断ち去るべきである。かつ若い者は、酒を飲むのも、煙草を吸うのも、月に四、五度に限って、酒好きとなってはならない、煙草好きとなってはならない。なれて好きとなって、癖となっては生涯の損害が大きい。慎むがよい。
2021年10月22日
「今も成田山新勝寺に二宮尊徳がいる」4 成田山新勝寺において―二宮金次郎の七大誓願―文政十二年、二宮金次郎四十三歳の正月、失踪事件を起こす。前年、豊田正作が着任して以来、ことごとく金次郎のやり方を妨害し、それに同調する村民も出て、桜町仕法は停滞していた。金次郎は辞職願を提出したが、藩当局に握りつぶされていた。更に金次郎のやり方では復興するどころか、むしろ困窮した村民を破滅においやるものと讒言する者もあり、その弁明のため、金次郎は江戸の小田原藩邸におもむいて陳述した。一月二十日、同行の名主達を帰郷させ、金次郎は行方不明になる。金次郎は一人静かに考える場を求めて、川崎大師などを回り(この失踪の経緯はいまでも謎のままである)、成田山新勝山に到着したのは3月中旬であった。宿のさくらや(後「小川屋」)の主人は江戸の小田原藩邸に使者を出して、身分を照会したことから、金次郎の所在が判明する。この間、桜町内部でも反省の機運が起こり、二宮金次郎を支持する岸右衛門らは藩当局に直接実情を訴え、豊田正作は小田原に召還される。二宮金次郎は、新勝山の別寮にこもって断食祈誓していた。照胤和尚が金次郎に祈願の動機を尋ねられたところ、金次郎は桜町復興の悲願を告げ「天地神明がこの真心を信(まこと)としないならば死んでも食せず、民を救うことができなければ身を猛火に投ずる覚悟です。」と語った。和尚は感動し「それこそ仏祖の誓願に通ずるもので、その誠心を持して動かなければ、どのような障害も除かれ、天下に救い得ない民はないでしょう。」と言った。照胤和尚:世に当山に祈願する者を見るに、あるいは自らの病気を治すため、あるいは貧乏を免れようとし、あるいは栄華や利益を願うためにし、あるいは災難に遭遇するためにし、あるいは愛欲をみたさんと願い、およそ、その私事欲念のために祈願しない者はいない。今、私があなたを見るに、健康で病気がある人のように見えない。衣服は粗末だが、貧乏を憂えてのことでもない、満ち足りて静かであり、栄華利欲を祈るものでもない。言語もしっかりしていて、危うい道を踏んで災難に遭遇するとも思えない。心ひろく正直平静で欲念や怒りに身を焦(こ)がすものでもない。そもそも何の祈願があって、特に当山に来て、食事を絶ち、身を苦しめるのか。二宮金次郎:私は病気があるわけでもない。しかしながら、幼くして父母の病気にあって、不幸にしてはやく父母を亡くし、みなし子となった。その不幸はどれほどか。思うに天下に私と不幸を同じくするものが少なくないことを知るために、天下の人の父母たるものが無病健全で子供が安心して生育できるよう祈願するものである。私は今、貧乏を憂えるものではない。しかし、幼くして極貧の家に成長し、父母の艱難は言葉に尽くしがたいものであった。世の中で貧乏より悲しいものはないということを知った。ここをもって天下の貧者をみては、あまねくこれを救済して富者に至らしめることを祈願するものである。私が生まれた年、天明の大飢饉であった。死者は何万人いたかわからないほど多かった。関東の諸州の死亡が最も多く、栃木の芳賀郡の村々が廃亡したのもこの時であると聞いている。今、ここの開墾の任務にあたり、飢饉の害ほど天下に大きいものはないことを知る。六十年前後に必ず一凶荒の時があると聞いている。予めその備えをなして、天下に飢えた民がないことを祈願するものである。私は幼い時、しばしば洪水にあい、所持の田畑は再三押し流された。その開墾のため、父母の苦労は筆舌につくしがたいものであった。その開田もまた容易には良田になしえず、数年の労力を積んでようやく復旧しても、このために負債を生じて所有地を売り払うこととなった。一家滅亡したものも私の家だけではない。だから天下の水害をこうむって滅亡にいたるものを救助すること、私が自ら我が家をたてなおしたようにならんことを祈願するものである。天下にはさまざまな災厄をこうむって、借財を生じて、利息が累増し、元利を償還することができず、家財産を失い、逃亡する者も少なくない。あるいは諸侯や家老の職にあってぜいたくを誇り、負債のため職務を全うできず、百姓から厳しく重税をとりたてて国家危急にいたるものも少なくない。私はこのために方法を設け、救済することを祈願する。 要をもってこれを言わば、禍を転じて福となし、凶を転じて吉となし、借財を変じて無借となし、荒蕪を変じて開田となし、やせ地を変じて肥沃の地となし、衰貧を変じて富栄となし、困窮を変じて安楽となし、おおよそ人民のにくむところを除いて、好むところを与えようと、日々夜々に祈願するところである。私は君命を受けて、物井村に至ってより、ここに七年、着々これを実地に施した。しかしながら、民心はいまだにこれを理解せず、土地が開け、人民は豊かになってきて、しかも人心は喜ばず、かえって反抗をこころみ、よこしまな者どもは威力をたくましくし、良民はその志をのべることができないで、退いてしまおうとしている。君命をどのようにして進めようか。行く路がふさがっている者のようだ。すでに人民の困窮を変じて安楽の道をあたえ、すでに人民の貧を変じて富み栄させ、すでにやせ地を変じて開田とし、借財を幾度となく無借としてきた。しかしながら、人心の凶を変じて吉とすることがなしがたく、国家の禍を福とすることができない。いったいどういう理由であろうか。これは人民が私の誠に疑惑があるためである。私は君命のために国家を復旧する道をたて、民を水火に救おうと欲するのみである。天地神明いやしくもこの誠心を真実としなければ、死ぬとも食せず、民を水火から救うことができなければ、この身を猛火に投じよう。これが、私が当山に来て祈誓する理由である。照胤和尚:あなたの誓願が、まことによくこのようであれば、天下に救うことのできない民は無いであろう。ああ、これこそが、み仏の誓願に通ずるものである。二宮金次郎の成田山新勝寺での断食は三月十七日に始められ、四月七日に終った。二ヶ月間先生の行方不明を心配していた桜町へは、横山周平が江戸から来て成田山参籠を告げ、三月二十三日成田に行った者が報告して実情が分かった。歌子夫人はこれを聞いて立行を始め先生が帰陣するまで続けられた。二十七日は名主の一人が成田に赴き、小路只助も迎えに行った。四月五日には横山以下多くの名主・村役人が土浦まで出迎えた。先生は満願の日、二、三杯の粥をとり、下駄履きで帰路を急がれ、翌日に着陣された。豊田は三月二十一日江戸に召還されていた。先生は帰着の翌朝から領内を巡視され先生の不在中豊田が行った処置の善後策を講ぜられた。その後、桜町仕法は順調に実施された。二宮尊徳の生涯、初めて映画化 新勝寺で撮影五十嵐匠監督「新勝寺の協力がこの映画の始まり。実際に寺で使用している場所で撮影できて感激した。たくさんの方々に映画を見ていただき、今も新勝寺に二宮尊徳がいることを広めてほしい」https://www.tokyo-np.co.jp/.../CK2019042802000139.html
2021年09月16日
北海道で根室市立図書館が「資料で読む 技師鳥居信平著述集」を蔵書としていただいた。1 根室図書館 一般 一般新刊 (289 シリ) 貸出できます 002304624(北海道)北見市、帯広市、旭川市、根室市、厚岸町、八雲町二宮先生語録巻の1【55】家を興さんと欲する者よろしく家具什器を購蔵すべからず。必用の時に臨み、隣人に借る可なり。もし耕さんと欲して鍬無きもまたよろしくこれを借るべし。隣人もまた耕すといわば、すなわち励精これを助耕し、速やかにその畝をおえ、しかる後我が圃(はたけ)を耕す。夜に及ぶもまた可。これすなわち家を興すの道なり。しかりといえども終始これを借るをもって、是となすも、また貧を免るるあたわざるゆえんあり。そのこれを借るより、雇いとなり、銭を得てもって鍬を買うにしくはなし。これ一日の雇いをもってその鍬我がものとなる。およそ貧を免れ富をいたすの術、この理を拡充するに在るのみ。*二宮翁夜話巻の1【20】川久保民次郎という者があった。尊徳先生の親戚(母方が川久保家)であったが、貧乏のため先生の従僕をしていた。国(小田原)に帰ろうと暇ごいを言った。尊徳先生はおっしゃった。「空腹である時、他にいってご飯を一杯めぐんでください、めぐんでくださったら私があなたの庭をはきましょうと言っても、決して一杯のご飯をふるまってくれる者はいないであろう。空腹をこらえて、まず庭をはくならば、あるいは一杯のご飯にありつく事もあるであろう。これが己を捨てて人に随うの道であって、百事行はれがたい時に立ちいたっても、行うことができる道である。私が若いときに初めて家を持った時、一枚の鍬(くわ)を損ってしまった。そこで隣の家に行って『鍬を貸していただきたい』と言った。隣の年寄りの主が言った。『今からこの畑を耕して菜種をまこうとするところだ。まき終らなければ、貸せない』と言った。私は自分の家に帰っても、別に行うべき仕事もなかった。『わたしがこの畑を耕やして進ぜましょう』といって耕し、『菜の種を出しなさい、ついでにまいて進ぜましょう』と言って、耕し、かつ、種をまいて、後に鍬を借りた事があった。隣の主人は言った。『鍬に限らず何でもさしつかえる事があったら、遠慮なく申しでなさい。必ず用だていたしましょう』と言われた事があった。このようにすれば、百事さしつかえがないものである。お前が国(小田原)に帰って、新たに一家を持てば、必ずこの心得がなければならない。お前はまだ壮年である。夜もすがら寝なくても、さわりはあるまい。夜、寝るひまを励し、勤めて、草鞋(わらじ)一足あるいは二足を作って、 明くる日に開拓場に持っていって、草鞋の切れ破れた者に与えなさい。草鞋を受けた人がお礼しなくとも、もともと寝るひまに作ったものであるからそれだけのことである。お礼を言う人があれば、それだけの徳を積んだことになる。また一銭半銭をもって応ずる者があればこれもまたそれだけの利益といえる。よくこの理を心に銘じて、連日怠らなければ、どうして志が貫かれない理があろうか、何事か成らない理があろうか。私が幼少の時の勤めもこのほかにはない。肝に銘じて忘れてはならない。また損料(レンタル料)を出して、さしつかえる物品を用だてることをはなはだ損だいう人があるが、そうではない。それは物が足っている人の上の事である。新たに一家を持つ時は、百事にさしつかえがある。皆借り出して用だてればよい。世に損料ほど便利な物はない、かつ安い物はない。決して損料を高い物、損な物だと思ってはならない。【56】勤倹、富をいたし、怠奢、貧をいたす。自然の勢いなり。その富をいたすや、祖先の勤倹による。その貧をいたすや、子孫の怠奢による。子孫たる者、祖先の勤倹を忘れ、日に怠奢におもむき、衣食を美にし、あるいは居室を飾り、あるいは曲芸を学び、あるいは遊蕩にふけり、ついに貧に陥る。これ怠奢の塵芥を積みて、もって勤倹の宝玉を湮滅するなり。その塵芥を払い、もってその宝玉をあらわすに、すなわちもって貧を免がるあたわざるなり。いやしくも子孫怠奢の弊をあらため、もって祖先勤倹の道に復せばすなわちその貧を免がれその富に復す、何か有らん。*二宮先生語録 巻の1【40】王道を行えば王者である。どうしてまた王名を求めることがあろう。覇道を行えば覇者である。どうしてまた覇名を辞すことができよう。富道を行えば富者である。どうしてまた富名を好もう。貧道を行えば貧者である。どうしてまた貧名をにくむことができよう。ここに一つの畑があるとする。ナスを植えればナス畑である。瓜を植えれば瓜畑である。ここに一る桶があるとする。水を盛れば水桶である。糞を盛れば糞桶である。ここに一人あるとする。他財を借りて豊かにこれを用いている。あたかも富者に似ている。これはナスを植えないでナス畑といい、水を盛らないで水桶というようなものだ。どうしてよく富名を得ることができよう。富名を得ようとするならば、富者の道を行うべきである。私の国を興し民を安んずる道においてもまた同様である。その実を行うならばその名がある。その実を行わなければ、空しくその名を求めているだけだ。何の興国があろうか。何の安民があろうか。諸君よくこのことを考察しなさい。【57】人の子たる者、父祖の業を卑しみ、その家法を易(か)う。これ家を敗(やぶ)るの兆しなり。それ天日のその家を照らすや、朝陽東方よりし、夕陽西方よりす。その父祖、勤倹・艱苦、もってその家を興す。なお朝陽の升(のぼ)るごとく、その子、放逸・奢侈、もってその家を敗(やぶ)る。なお夕陽の舂(つ)くごとし。しかしてその子いう。日西方より照らす。父祖何ぞこれを東方よりすというやと。ことに居処の差(たが)えるを知らず。すなわちその家法を隘(アイ:せまい)とし、その什器を陋(ロウ:いやしい)とし、自ら世業を易(か)へ、専ら侈靡(シビ:奢りになびく)に誇り、負債日に加わり、ついに貧困に陥る。孔子いわゆる愚にして自用を好み、賎にして自専を好み、わざわいその身に及ぶ者、戒めざるべけんや。*二宮翁夜話残篇【7】尊徳先生がおっしゃった。若い者は、よく家道(かどう)を研究すべきだ。家道というのは、その身分収入に応じて自分の家を持つ方法の事である。家の持ち方は簡単であるようだが、結構難しい。まず早起きからり始めて、勤勉と倹約に身を馴らすがよい。それから農業なり、商業なり、家業の仕方を能く学ばないでその家を相続するのは、将棋にたとえれば、駒の並べ方をよく知らないで、指そうとするようなものだ。指すごとに打ちまけてしまい、つまりは失敗することは眼前である。もし余儀なくこの修業ができないで相続したのならば、親類や後見などよく人を師として、一々差図してもらって、それに随うがよい。これは将棋を一手指すごとに教えを受けて指すのと同じであり、そうすれば間違いはない。それを慢心して人にも相談せず、気ままに金銀を使うならば、たちまち金銀を相手に取られるであろう。たとえば父がこしらえた家を相続するのは、将棋の駒を人に並べてもらうようなものだ。すべて将棋の道を知らないで、自分が思うままに指すならば、失敗は知れた事である。中庸に愚にして自用を好み、賎にして自専(じせん)を好み、今の世に生まれて古(いにしえ)の道にそむく、このごとくなれば禍い必ずその身に及ぶ とある。今の世に生れて古(いにしえ)の道にそむくというのは、子孫と生れて、先祖数代の家を不足に思い、伝来の家具を不足に思い、先祖のことをくさしたり、勤勉・倹約の道に背いて贅沢にふけることをいう。古人はこのように丁寧に戒めておかれたのだ、慎しまなくてはならない。☆「中庸」第28章子曰、愚而好自用、賎而好自専、生乎今之世、反古之道。如此者、災及其身者也。子曰く、愚にして自ら用うるを好み、賤しくして自ら専らにするを好み、今の世に生れて、古の道に反(かえ)る。かくの如き者は、災いその身に及ぶ者なり。孔子はおっしゃった。「愚かであって自分の考えを通したがり、身分が低いのに自分の思い通りにしたがり、今日という時代に生きていながら古代のゆき方に帰ろうとする。このような者は災いにあうに違いない。」【58】貧者分力を弁えず、みだりに富者を羨み、もってこれにならわんと欲す。たとえば梁無きの河を隔て、前岸の行楽を望み、これとともにせんと欲するごとくなり。その梁無きを弁えず、前岸人に従わんと欲せば、すなわち必ず溺る。その分力を弁えず、富者にならわんと欲せば、すなわち必ず亡ぶ。人もし富者にならわんと欲せば、すべからくまず富を得るの梁を架す。守分と勤倹と、これなり。
2021年08月31日
「二宮翁逸話」71 翁の一にらみ翁は100有余名の門下生に恐れられかつ敬われたのみならず、使役せる農夫傭夫に至るまでも翁が巡回されると皆かたちを改めて精励したという。翁が開墾地で一にらみすると多くの労役者はその鍬の働かせ方を違わせたということである。ナポレオンの兵士を指揮するのと同じ感じがする。72 翁怒って農夫を鞭撻す翁が川副氏の知行所を仕法された時に新吉というなまけ者があって、金は使うが少しも働かないので、ある時翁がその者を鞭でもって打たれた。ところがある医者で翁を尊敬しておった人が翁に向かって「先生それはあまり残酷ではございませぬか」といわれたのに翁は答えて「民の親国の病に灸据えて泣くともままよ命ち長かれという歌がある。かやつがまじめな人間となるためには鞭打ってもよいではないか」といわれたという話がある。(略)☆これは実話なのであろうか。二宮尊徳という人は、怒ったときの声は雷のようあたかも不動明王が怒髪を逆立てたようで人々を震いあがられたといことであるが、人を打ち据えたような話はこれ以外に聞かない。孔子が杖でどうしようもない怠け者を鞭打ったという話があり、それとそっくりなのだ。原壌(げんじょう)、夷(い)して俟(ま)つ。子(し)曰(の)く、幼にして孫弟(そんてい)ならず、長じて述(のぶ)るころなく、老いて死せず。これを賊(ぞく)となす、と。杖(つえ)をもってその脛(すね)を叩(たた)く。73 翁済世のために席温かならず翁が朝早く起き夜遅くまで精励されたというのは珍しい話ではないが、余り朝は早く夜は遅いので弥太郎氏は親の顔を見ないほどであったということである。また翁も東奔西走せられたので子どもの育つをも知らなかったといわれたということである。これをもって見るも翁は非常に精勤せられたものと見える。74 猪子狩(ししがり)の中止某古老の談によると桜町の一村横田村のごときは猪(しし)が多く出て野荒らしをしたので、一夜に21頭も殺したことがあるという。そういうふうに野獣に荒らされるので、翁は鉄砲を物井に3挺、横田に1挺、東沼に2挺配付された。これは殺すというよりも野獣を脅かすためであったというが、もっていかに当時桜町三村が荒廃しておったかが分かる。陣屋の前に「桜え稲荷」というのがあって、そこに猪(しし)が子を産んでおったのを部下のものが見いだして前夜集まって翌朝石をなげて撲殺しようと協議をしておったところが、夜間巡回の節、翁これを立ち聞きされて、知らぬ顔をして自分の部屋に戻られ、万兵衛という者を呼んで言われるには、「明日石をなげて猪(しし)を殺すというような噂があるが、それは危ないからケガのないようにしてくれ。また猪(しし)を追い払うには、ドンドン開墾するに限る、開墾しさえすれば猪(しし)は自ずから逃げ去るのである、めったに危険をおかして大切の身体を痛めるな」といわれたので、猪狩(ししがり)は中止になったということである。75 翁、移住者のために住宅を建つ桜町は当時戸数減少して、いかに村を興そうとしても人間がいないので興復ができない。ゆえに翁は移住者を募集のため、越後の高田辺にまで行かれた。そうして移住者に与えるために上・中・下の三段に別ちて家屋を建築され移住者が到着する以前には悉皆家屋ができあがっておったということである。これによりて見ると桜町の荒廃のはなはだしいことが分かる。76 強欲者損をする某(それがし)という者、大いなる家を持っておったが、翁が家を建ててくれるというのでわざわざその家を倒して翁に乞うて新しい家を造ってもらった。ところがその新築の家は小さすぎるというので、今少し大きい家を造ってくださいと頼んだら、翁が「なぜか」と反問された。すると某が言うには、「私には息子嫁がたくさんありますから今の家では狭くて困ります」と。翁は「しからば嫁にやればよいではないか」と言われてその要求に応じられなかったので、強欲者が損をしたということである。この話は一時桜町界隈で評判の高かった話である。77 翁、成田山に籠もるある時、翁は飄然として桜町を去られてしばらくその行く所を知らせなかった。しばらくすると成田山に籠もっておられるということが分かったので、桜町から万兵衛、惣兵衛、善兵衛の3人が迎えに行った。見ると翁は無言の行をしておられるので、迎えに行った者が翁は弱ってものが言えないのであろうと早合点をして翁を助けるつもりで翁の肩に手をかけたところが杖をもって痛く打たれたという話がある。78 翁の実物教授翁は事件の起こらないときは決して理解がましいことや教訓がましいことは言われなかった。これは一個人においてもまた難村興復の事においても同じことであった。この事件が起こるやその事件をとらえて自己の所懐を述べじゅんじゅんとして天地の道理まで説かれた。翁の教訓に勢力があったのはこの故であろう。このへんはペスタロッチに酷似しておるところがある。79 二宮翁富田高慶に貢ぐ富田高慶が、翁の志を受けて相馬の仕法をする時に藩主は150石をもって高慶を抱えようとしたが、翁は高慶に向かって、「決して俸禄を受けるな。もし俸禄を受けるようになると報徳の主義を実行することが難しいから、要るだけは俺が送ってやる」と言ってしばらくの間、高慶に貢がれた。そうしてなお言われるに、「荒地を興してそれから生活の道の立つようにして行け」とけだし翁の心、自己の力で生活すれば他人の干渉はおのずから少ない訳であるというのであろう。熊沢蕃山、堀平太左衛門のごとき人々が「禄を受けて奉公すれば終わりを全うすることが難しい」と言ったのもけだし同一の意味であろう。80 二宮翁と柴田順作柴田順作氏は静岡県庵原(えはら)郡の人で報徳を信奉して庵原村付近に報徳の種子(たね)を蒔き、こんにち庵原村のごとき良村を作りたてる下ごしらえをなせし事については非常の功績のある人で、柴田氏は二宮翁より教えを聴いて庵原郡に帰りて報徳の道を説き、ついに庵原村字杉山の徳望片平信明氏に報徳の趣旨を伝え、しかして片平信明氏はただにその付近に報徳の種子(たね)を播いたのみならず稲取の前村長田村又吉氏にもこれを伝えた。しかして稲取村は報徳の主義を根拠として村政の改革を行い、今では良村の一として数えられるようになった。また庵原村にある東報徳社長西ヶ谷可吉氏もやはり柴田順作、片平信明の両氏から報徳の道を聴いて、後世にまで感化をのこす人となったのである。なお順作氏の報徳に入った道行がよほど教訓的である。この人はかの辺りの高持(たかもち)であって約800石を有しており、また有金も少なくないので、一時は5万両も持っておったということである。一体駿州は製紙業が盛んで、柴田家の先祖もこの製紙の事業に勤勉努力して身代を造ったので、順作氏はちょうど3代目に当たる。かように父祖の勤勉でせっかく造り上げられたこの身代がどうしてつぶれるようになったか、順作氏が破産をした行経を尋ねると今で言う米相場に手を出した結果である。そこで親類が打ち寄っていかにしてこれを仕法すべきかと協議をした。ところが前にも言うがごとき大家であるから、証文を取って貸した金ばかりでも約800両ばかりあったが、ナカナカ取れない。で「御鉢判」今の(命令書のごときもの)をもって取りに行けば必ず取れるに相違ないという、親類一同もこれに同意してこの方法で旧貸金を取り立てようとしたのである。ところがかって静岡の江川町の旧家に黒金屋という家があり、この家が身代限りをしようといた時、「御鉢判」をもって昔の貸し金を取り立てた。しかるに負債者の一人に子どもをもっている老人の家があって、「御鉢判」をもって厳談に及ばれたので一日延期してくれと願っておいてついにその老人が井戸に投身して死んだという話がある。そこで今、自分が失敗して旧貸金を「御鉢判」で取り立てることになると、その人数が180人ばかりあるので、このうちには2人3人は自殺するのがあるであろう。自分は仏教信者であるから、そういう無慈悲の事をするに忍びないというので、この事を実行するのに躊躇をしたが、自分がせっかく親類のきめてくれたことを水泡に帰せしむるので済まないからというので、親類へはしばらくその実行を延期してもらって、伊豆に入湯に行くという名義で竈新田の小林平兵衛を訪れた。ところが平兵衛は熱心なる二宮翁崇拝家であって心学道話の先生であったから、「お前がそれほど失敗したのなら俺が二宮翁の所へ連れて行って、仕法の道を聴かせてやろう、それには明日行こう」と言うたところが、順作が、「それは困る。明日というても野州表までは日数もかかることであるからそう速急のことにはいかない」と言ったら、平兵衛が言うには、「お前は仕法をするのに親族の説に従うのか、俺の説に従うのか、今日の場合一大決心を要さなくてはならない。お前は庵原(えはら)で死んで俺の家で生きよ」と言いつつ、徹宵じゅんじゅんと説諭された。しかしてその翌朝出発して急速に二宮翁のもとに行こうということになると、順作が「どうか今一遍宅へ手紙が出したいから暫く待ってくれ」と頼むと、平兵衛が言うよう「俺の家で生き返った者が家へ手紙を出す必要はない。直ちに行こう」と言うので野州まで引っ張られた。その途中で二人は相州伊勢原の加藤宗兵衛の家へ立ち寄った。加藤宗兵衛はまた熱心なる報徳主義の人であって、何が原因かは知らないがこの人も身代を蕩尽して無一物となった時、二宮翁に説諭されて当時は牛飼いをしておったのである。この男が牛をひいて野に行く途中、平兵衛順作の二人が伊勢原の入り口で出会ったのである。そこでその夜はこの男の家に一泊して翌早朝出立して野州に行って、平兵衛が二宮翁に順作を紹介したところが、二宮翁が平兵衛に向かって、「お前はなぜこういう迷い者を連れて来たか」と言われ、平兵衛は非常に叱られた。そうして翁は「かくのごとき迷い者に会うことはできない」と言うて面会を謝絶された。それから順作は21日の間、翁に会うことができないので、隣の垣根から二宮翁がその辺の百姓に説得されるところを立ち聞きをしてその間に非常に感服したのである。そうして21日目に初めて翁に面会することを許された。その時、翁は順作に向かって「お前それほど立派な家であったに、どうしてそういうふうに零落したのか、またこの場合どういうふうに、仕法をする積もりか」と一応意見を聞かれたので、その次第をつまびらかに述べたところが、翁の言われるのに、「それほどの大家であればお前の先祖がみごと家を繁栄ならしめた原因があるであろう、何かお前の家に宝物として秘蔵しておる物はないか」と言われたので、順作が「ハイございます、紙を買出しに行くために用いました背負い縄がございまして、これが家を栄えしめたものですからそれを桐の箱に納めて秘蔵してあります」と答えると、二宮翁は「それあらばお前は祖先の足跡を踏んでゆかなければなるまい。そういう背負い縄を秘蔵しないでそれを取り出して毎日働くべきである。使用すべきものを宝物としてしまっておくものだから今日のような大失敗を来たしたのである。早く帰ってどこまでも背負い縄をもって稼げ」と言われて、『古道に積もる木の葉をかき分けて天照神のあしあとを見む』という歌を詠んで聴かされ、かつ帰国するの旅費として2両2分の金を与え、なお言葉をついで「直ちに帰国し先祖の足跡を踏んで働け」とさとされた。しかしてその時与えられた今一つの教訓は「貸し金を取り立てようということはこの際もっての外のことである。そういうやり方は春収穫すべきものを冬の間に取らんとするのと同じことである。たとえば畑の中にある芋種を掘り出して食うようなもので、親芋を取ってしまえば子はできない。そういうことは全く止して一途に先祖の足跡を踏んで稼げ」と言われた。そこで順作はつらつら思うのにいったん国へ帰らば決心が崩れるに相違ないというので、二宮翁の台所におる浦賀の宮原エイ州の助手になって、翁には内緒で3年の間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。そうしてついには翁の黙許を得て時々その給仕に出たことがある。である時、翁の言われるのに、「お前はこういう人間だからいかない」と言うて香の物の切れかかったのをハシではさんで「この通り全く切れていない。切るならばシッカリ切るがよし切らぬならば切らぬがよし、切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりしておるから失敗するのである」と言われたことがある。その後順作は当時のことを思い出しては「あの時ぐらいつらかったことはなかった」と一つ話しにしたということである。
2021年08月29日
「報徳物語」井口丑二著より第3 遺跡古老の談話1 栢山二宮長太郎氏談話(長太郎氏は、栢山二宮家総本家の当主で、家は村里の豪農である。氏本年53歳)二宮翁の家は祖父銀右衛門が万兵衛の父の代に分家したので、すなわち万兵衛の叔父ですが、子が無いので、その甥にあたる、万兵衛の弟を養子にしました。これが利右衛門すなわち金治郎の父です。金治郎の弟は2人で、次男は友吉、後に親戚の家をついで三郎左衛門となり、末の富次郎は早世しました。翁が建てた家は、桜町に行くとき、西栢山に売ったのが、転々して今、富津村柳新田渡邊某の家となって現存すると思います。その時、家具万端ことごとく売ってしまって、ただ屋敷地だけ残ったのですが、以前は三郎左衛門跡兵三郎家で管理していたが、今は万兵衛跡寿次郎の所有地です。父増五郎は翁に7年間仕えたのですが、後、帰郷して家業を勤め、先年没しました。私の幼少のおり、いろいろと翁時代のことを聞かせたのですが、また例の老人の自慢話かという風情で別段に注意せず、たいがい忘れてしまいました。そのうち少し覚えている談話は、翁が、江戸西久保の宇津氏邸内にいたとき、門人が6,70人もあったそうですが、時に反対者が紛々と起こって、翁を害しようとする。毎夜、門前には落首があって、ヤレ二宮は斬首されるとか、ヤレ金治郎は遠島となるとか、いろんなことを書いて置く。なかなか物騒なありさまとなったので、門人どもは、一人減り、二人減りして、ちりぢりになって、ついには子息弥太郎と、私の父増五郎と二人のみとなりました。しかるに翁は平気なもので、こんな場合だからとて、何も平常に変わることなく、夜は毎晩1時半から2時間の講義説教をすること、やはりたくさんの門人があるときと同じで、朝は早いし、晩は遅いし、二人は疲れ切って、フラフラといねむりをすると、大喝一声「両人とも役には立たない」と雷の落ちかかるように叱られる。その容赦ない厳格には、実に両名ともに内々泣いていたそうです。しかのみならず段々恐ろしくはなるし、父増五郎も耐えかねて、もう逃げ帰ろうかと思ったことも、たびたびであったが、弥太郎一人となって、なおさら辛かろうというところから、やっと辛抱したということです。その頃、不思議が3度あったと申します。2件は忘れましたが、1件はこうです。ある夜、翁が風呂に入っておられると、見知らぬ若衆がフイと入ってきて、『早くお上がりなさるがよい。早くお上がりなさい』と言い捨てていなくなったので、翁も『さては』と思って、すぐに風呂から出るが早いか、壁を透かして槍が二本風呂の中へ突っ込んで来たそうです。その若衆があとさき全くわからないので多分人間ではなかったろうと皆々不思議に思ったそうです。翁の母方の川久保の家は、松田山の下で、栢山から約1里です。当主の名は太兵衛というと思います。以前は当地の二宮一家と親戚交際を続けたのですが、先年先方の祖父が死なれてから、往復を止めることになりました。翁の先妻は堀内村、今の富津村中村弥平の娘リヨといったので、後に竹松村に再嫁しました。その姉妹はいずれも遠近の豪農に嫁していますが、独りリヨ女のみ貧家の翁に嫁したのは、その岳父が見込んだのだろうと申します。竹松村の再嫁先は、段々零落したと見えて、後年翁が出世をして、下役人どもを随えて、巡村の折、リヨ女は夜間ひそかに訪問して翁から5両を恵まれたということであります。私の母は83,4で、今、存命ですが、母が私の家に縁づいてから、翁は2,3度宅に来られたことがあるくらいで、よくは記憶せぬと申します。なにさま翁が故郷を去られたのは、8,90年の昔ですから、当地ではもはや翁を知ったものはありません。禅の問答を、翁は常に善栄寺の和尚とやったものだと言い伝えております。あるとき、翁が総本家の絶えていたのを再興して、その祖先のために上げ齋(どき)をなそうと、翁自ら布施を持って寺参りをいたされまして、布施を盆に載せて出そうとするところに、和尚が『言葉多きは芸少なし、これいかん』とやる。翁は『行はせざるにしかず』と答えて、布施を懐に入れようとすると、和尚あわててこれを奪い取ったので「・・・・」と言って翁が負けになったと申します。栢山の報徳社は以前私的結社でやっていましたが、明治39年9月に社団法人を出願して、明治40年6月認可、それから社員は以前に倍加し、栢山90戸のうち78戸まで入社しています。定款は静岡西ヶ谷氏の作で、資本若干、明治40年の水害の際には、ことごとく貸し付けしまして急を救いました。貸し付け方はやはり無利息5カ年賦、元恕1カ年で都合よく運転しております。2 桜町広沢平八氏(桜町の属する物部村村長)桜町陣屋跡は、敷地5反5畝歩及び建物とも個人の所有であったのを、先年遠州報徳社で買収して、今市の二宮神社に寄付したのです。家はよほど傾いていたのをおこして手入れをしたのです。家はその後、下野報徳本社が、ようやく今市から買い戻したのですが、敷地も代地を買ってやって、今市と交換しようと計画中です。報徳の仕法は万事命令的で、はなはだ窮屈であったので、維新の政変とともに破壊されて、一時は村民も報徳のご恩を忘れていたが、明治17,8年頃から、遠州の岡田良一郎氏等が来て、毎度講話遊説をしたので、それに呼び覚まされて、始めて報徳結社をしたのが明治21年でありました。それから50年祭のとき、陣屋跡の神社を作り、神園を開いたのであります。報徳文庫を以前横山平太氏が陣屋の裏の田の中に建てて、村内に存する種々の遺書類をぼっしゅうして保管しましたが、明治25年に火災にかかって全焼したので、今は村内に一枚もありません。いわば一所に取り集めて焼き捨てたようなことで、誠に残念でした。翁が与えた家屋は、今100戸くらいは現存しております。それは全くタダで与え、あるいは年賦で貸したので、家は家族の人数、耕作地の多少等によって数等に分かれ、分相応に作りました。たいてい中等農民の家が20両くらいでできたもので、これを5年賦1カ年元恕金で貸し付け、その金をもって翁が一々指揮監督して、家を建ててやったのです。陣屋構内に元工場があったのは、この工事をするのでしたが、その他、農具、肥料、種子まで、あるいは貸与し、あるいは恵与し、撫育保護いたらざるなく、尽くさざるところなしでした。翁の精力は、もとより絶倫でありまして、青木村へ100日以上も通われましたが、3里のところを、毎朝村民の朝飯前に到着したので、後々は村民もこれに恥じて、勉めて早起きをなし、翁の到着前に仕事を始めるようになったそうです。翁はそれから日暮れて帰り、かの泉水(足洗池)でコッソリと足を洗って、晩餐をなし、晩餐後、さらに三カ村を巡回して、村民の勤惰を偵察し、3月、7月、12月の3度、その成績を調べて褒賞を行ったのですが、一つも誤りはなかったと申します。翁は最初名主格で赴任されたのですが、3村にはそれぞれ名主がある。名主格をもって名主を治めるは、下役をもって上役を治めるので到底行われようはずがない。むろん命令を聴きませんので、やむをえず一度引き取って、本藩に上申し、翌年翁も用人に昇進し、なお用人横山周平、目付豊田正作を伴い、家族もひきまとめて赴任し、全く懸命の覚悟で従事され、これからようやく成功されたので、それまでの艱難苦労は、誠に非常であったそうです。3 今市斎藤与吉氏談話二宮神社の創立については、私も先に立って運動しましたので、まず東京に出て寄付を募りましたときに、第1番に品川子爵が100円を付け、次に松方伯が50円、相馬家が500円という勢いで、日ならず東京だけで2200円がまとまりました。これが明治24,5年の頃でしたが、日清戦争のために事業が後れて、漸く明治30年11月に、落成鎮座式を行うに至った次第です。日光神領開発の時、二宮先生は、ここから近いところが10里、遠いところが12里ある栗山というところで、毎日指揮をされたことがありますが、炎天を冒して無理な勉強をなされたので、とうとう病気となり、たしか3月ばかりの御病気でお果てになりました。今はその栗山は立派な村となっております。二宮先生のお好きというのは、里芋を皮ごと蒸し、焙烙(ほうろく)で焦げるほど焼いたのに、醤油をつけて食する、これが大好物で、お付きの役人やら門人には、そのマネができなくて、大いに困ったのです。人民の家においでになっても、買った物は召し上がらず、自分の田畑に作ったものは、喜んで上がられました。先生の 木杖の先は槍のようになって、尖って光っていました。開墾者へは、一反歩につき、金3分に、鍬2種1挺づつをくださったのです。鍬を大きく造って、重いから、中に窓をあける、窓鍬という、これが軽くて幅が広く、多く土を起こす、便利な鍬で、先生の発明でありましたが、そのほか種々と工夫発明をなさいました。今市でも貧民に家を与え、馬を与え、そのほかお救いになったのが、たくさんありましたが、轟村も復旧になり、また野口、泉、平ヶ崎3箇村、もと用水がなくて困っていたのを、先生が見事な堀を作って、田をひらき、米麦を産するようになり、現今富村となりました。その堀を掘ったときの方法は、流し堀りと申して、掘る片端から水を流し、半分は水の力でもって掘ったのです。先生の体格は太く肥えてたくましく、夫人はなお一層太っておられました。先生は気短くいかめしい方で、毎晩門人方の部屋を回って教訓をなさいました。中間・下男にはワラジを作らせ、いずれも12時まで働き、朝は2時起きでありました。先生の墓は如来寺にありましたのを、神社建立の際、移したのです。相馬の二宮家から、毎年金10円の香華料が納ったのが、神社ができてから、改めて神饌料として、毎年あい変わらず奉納になります。4 宇都宮渡邊梅女談話(宇都宮市材木町菓子商浜田屋渡邊長吉氏母様梅子刀自、二宮家に侍女として9カ年間仕えた人で、家庭日常のことを詳しく知っておられる。刀自明治41年に81歳。耳聡く目明らかに、よく針の目を通す。ただ腰が少し曲がっている。タバコかまず、酒は2杯くらい、夜は遅く寝ても長くは眠らず、2時頃から目が覚める。若い時の躾が残っている。)私の祖父は物井村の名主で、小矢野直右衛門と申しました。二宮さんは最初名主格で、脇差一本さしてお出でになりましたそうで、それから段々ご出世になりました。私はお嬢様(文子)より後に生まれましたので、20歳の時、先生のご所望で、小間使いとなりました。お嬢様のお生まれの時は、私の祖母が参って、種々お世話をしたと申しました。私は9年間仕えましたが、東郷から今市にお引っ越しの時に暇をいただきました。お嬢様が相馬へご縁づきの時、ぜひ梅をつれて行きたいとお望みでありましたが、旦那様はそれでは梅の嫁入り時が後れるからといって、後に下館の大島儀左衛門の女房になった女をつれていけとおっしゃいましたけれども、どうしてもお嬢様が聴きませんので、私も嫁入りはしなくても苦しうございませんといって、ついてまいりました。お嬢様はそのとき、28歳の初縁でありましたが、このようにお年が後れたのは、旦那様がご仕法でお忙しかったためと思います。相馬へは一カ年もお出でになりません。やがてご妊娠で、かの地には良い産婆もないからとて、東郷にお帰りになって、産後のムクミが出て、お亡くなりになって、赤ちゃんも亡くなりました。墓は物井にあります。私のことは、先生が大層ご心配くださいまして、いつもお屋敷へ奉行衆、家老衆などがお出でになりたびたびに、梅をしかるべき所に世話してくれるようにとお頼みになりました。梅は細身でとても百姓には向かないからと言ってらっしゃいましたが、ここの向かいのおかみさんが、小田原から来た人なので、ついにそれこれの縁で、私も宇都宮へ縁づきいたしました。先生は晩餐が長い方でありました。下館、遠州、その外から先生はデップリ太ったお方で、そうです、右の頬に黒子(ほくろ)がありました。近頃方々からいろいろの絵図を持ってきて、似ているかとお尋ねでございますが、一つも似たものはありません。弥太郎様は一層背がお高くていらっしゃいました。この方は27,8まで、江戸の宇津家においででございました。先生はお叱りになさるようなことはありませんでしたけれども、お気にいらぬときには、何ともいえぬ恐ろしいお顔をなさいました。お気にいったときにはまた何とも愛らしいお顔をなさいました。本は常々お読みなさいました。成田へご参詣は実際でございます。その時、4千石から、村々の名主手合いがお迎えに参りました。ところが先生は断食のあげくでございましたけれども、高足駄はきでサッサとお歩きで、名主どもはワラジはきでも追いつくことができなかったと申します。福住さんは一所にいました。11年が間、学問をなさいました。先生は最初水商売のへ養子にゆくことはできぬとおっしゃいましたけれども、とうとう箱根の宿屋へ養子に参りました。先生のお勉強は申し上げる言葉もありません。東郷の時代にも、毎夜回村をなさいますのに、川久保の民治郎さんが、おともでした。行こうと思えば夜半でもお出かけになります。お疲れになると土手にでも、どこへでもゴロリとおやすみになります。福住さんは1里か2里、5里くらいまでは随行になりましたが、民治郎さん遠近ともに必ず随行いたしました。先生はご病気、ご薬用などということはめったにありませんでした。時々夜分に、足から背へ灸をおすえになりました。
2021年08月29日
二宮翁逸話55 大学の料理翁が浦賀の人宮原エイ州外数人にあてて送った手紙は随分長文であるが、その追って書きがなかなか面白い。その意味は大学は店晒(たなざら)しで人々が読まない。また大学そのものは骨も大きく肉もたくさんであるから世人がこれを咀嚼するのによほど困るのであるから、余は世の人々がこれを咀嚼しうるようにしてやるといって大学の奥深い意義を31文字にして読まれたものがすなわち左に掲げる歌である。歌を紹介する前にその歌についておる書簡の一部を示そう。 追って申し上げ候近代世上一統華美柔弱にあい流れ、古人の金言などのかたき物をよくかみしめ深く味わうものすくなし。その元を案ずるに今眼前その表前後の海底より釣りいだし候大魚はもちろん小魚といえども、切り刻み煮炊きいたし候て日用食物人命の助けともない成るべく候。いわんや千載の昔し、異国より来たり候大学論語などは天下国家を治むるの大徳備わりおり候えども肉も多く、身も多し。定めて大いなる骨もこれあるべく候につきなかなかもって諸人もてはやすのみにして、丸呑みにはあいなりなね、年久しく店ざらし同様にあいなり候古もの、一両句見つけこけをふき、皮をはぎ、筋も骨もとり、平生日用に人々あい用い候ひらがなにて賤の女(しずのめ)賤の男(しずのお)が「臼挽き歌」同様、あるいは老人または子供らにも呑みこみしやすくしたて、お試しのため少々差し遣わし申し候につき御賞味くださるべく候。その外神儒仏の三昧(さんまい)、悟道、即席料理などもこれまた数年天地の間に借地仕り人様の厚き御世話を蒙り渡世つかまつり候間、右報徳のためお望み次第案外お安く差し上げ申すべく候につき、早々御越し御求め御施しくだされ候わば御地三崎辺この節不漁のよし窮民の一助にもあいなるべく候。以上別紙明徳を明らかにするに在り 豊(とよ)あしのふか野が原を田となして 米を作りてくらふ楽しさ民を親(あらた)にするに在り 田を開き米を作りて施せば 命あるもの皆ふくすらん至善に止まるに在り 田を作り食を求めて譲りなば いく代(よ)ふるともこれに止まる学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋友遠方より来たる有りまた楽しからずや 蒔きうえて時々に草刈り耕せば しだいしだいにたのしかるらん人知らずしていからず。また君子ならずや 姿こそ深山がくれに苔むせど 谷うち越えて見ゆる桜木至誠の道はもって前知すべし。 国家まさに興らんとすれば、必ず禎祥あり。シ亀に見(あらわ)れ、四体に動く。故に至誠は神のごとし。 北山は冬気にとじて雪降れど ほころびにけり前の川柳湯(とう)の盤の銘にいわく。まことに日に新たに日に日に新たなり。また日に新たなり。 いにしえの白きをおもひ洗濯の かへすがえすも返す返すもふるきをたずねて新しきを知る ふる道に積もる木の葉をかきわけて 天照神の足跡を見ん色は空に異ならず。空は色に異ならず。色即是空。空即是色。相行識を受け、またまたかくのごとし。 春は花秋は紅葉と夢うつつ 寝ても覚めてもあり明けの月天何をか言わん。四時行わる。百物生ずる。天何をか言わん。 音もなく臭(か)もなく常に天地(あめつち)は 書かざる経をくり返しつつ正直は一旦の依怙(えこ)にあらずといえども,終(つい)には日月の憐れみを蒙る 丹誠は誰しらずともおのずから 秋の実りのまさるかずかず赤子を保つがごとく心誠にこれを求むれば。中らずといえども遠からず。未だ子を養うことを學んで后嫁する者有らざるなり 己が子を恵む心を法(のり)とせば 学ばずとても道に至らんとにかく翁の胃の腑は恐ろしい消化力で、孔子であれ、釈迦であれ、翁の胃袋のうちに入るとことごとく消化して出るのである。学問を丸のみにする学者とは同日に論ぜられない。56 俸給よりは荒蕪地を望む翁が幕府に召抱えられた時に幕府が一向仕事を与えてくれないので、翁は種々苦心してしばしば建白をした。その建白の一つに俸給を返上して荒蕪地を下賜せられむことを願うたということがある。これは翁のせられるようなことであって、「豊(とよ)あしのふか野が原を田となして 米を作りてくらふ楽しさ」という歌を思い合わせて見れば、どこにか奥ゆかしいところがある。57 翁と大道これも浦賀の人宮原エイ州外2人にあてた手紙の中の言葉であるが、なかなか面白い節があるから書き抜いてみよう。神代より天祖天孫代々(よよ)御丹誠をもって豊葦原の瑞穂の国を安国(やすくに)と平らげたまいしより、この道盛んなるときは富豊(ゆたか)なり。この道衰え怠るときは窮す。諸々平常日用あい営みおり候えどもその理に暗し。然りといえども銘々よく耕し草切るときはその実り多く、粗作なるときは実り眼前に少なし。これ皆有用の財宝は土地と金力との二つよりして、国家を潤沢するものなり。もって土地の貴きゆえんを知るべし。本来異国は異国の財宝をもって興(お)き、我が朝は我が朝の恩沢をもって、このごとく開け、有難き申すも畏れ多し。然れば道の御丹誠を知ることは、今の艱難をもってせずんばあるべからず。58 翁と大久保公明君としては大久保公もえらかったが、事業家としては二宮翁もえらかったのである。翁がいかに大困難に堪え忍び、盤根錯節を切り抜けて後世仰ぐべく大事業を成したかというに、全く大久保公と二宮翁の互いにあい信じあいよりたる力の大いなりしによることである。その証拠には翁の言わるるよう「信あればすなわち民任すという言葉があるが、子女の慈母におけるもまたかくのごときもので、いかほど大切なるものでも子女は慈母に疑いなくしてこれを預ける。これ慈母のまことが子女に通ずるがゆえである。余が先君大久保公におけるもまた同じである」といい、かつこういうことを書きし添えてある。「余が桜町仕法の委任は心組みの次第一々申し立つるに及ばず、年々の出納も計算するに及ばず、10カ年の間任せおくものなりとあり、これ余が身を委ねて桜町に来たりしゆえんなり」といわれておる。信用の力が人を動かすにおいて大いなる力を有しておることは実に測り知ることのできないものがある。二宮翁夜話巻の4【1】尊徳先生はおっしゃった。論語に曰く、信なればすなわち民任ずと、子どもが母を信ずることは、自分がどれほど大切と思っている物でも、疑いなく預けるものである。これは母の信が、子どもに通じているからである。私が先君に対するのもまた同じだった、私に桜町仕法を委任するにあたって、先君は心組みの次第を一々申し立てるに及ばない、年々の収入支出の計算をするに及ばない、10ヶ年の間お前に任せおくということであった。これが私が一身をゆだねて、桜町に来た理由である。さてこの地に来て、いかにしようかと熟考するに、皇国を開闢された昔、外国から資本を借りて、開いたわけではない。皇国は、皇国の徳沢にて開いたに相違ない事を明かにしたため、本藩から助成金を謝絶し、近郷の富豪に借用を頼むことなく、この4000石の地の外を、海外とみなして、われ神代の古えに、豊葦原へ天降ったと決心し、皇国は皇国の徳沢にて開く道こそが、天照大御神の足跡であると思い定めて、一途に開闢元始の大道によって、勤め励んだのである。開闢の昔、芦原に一人天降ったと覚悟する時には、流水にみそぎをしたように、潔い事は限りない。何事をなすにもこの覚悟を極めるならば、依頼心もなく、卑怯卑劣の心もなく、何を見ても、うらやましい事もなく、心中清浄であるために、願いとして成就しないという事はないという場に至るのである。この覚悟は、事を成すの大本であり、私の悟道の極意である。この覚悟が定まれば、衰えた村を起すのも、廃家を興すのも大変やさしい。ただ、この覚悟一つである。
2021年08月29日
二宮金次郎の銅像に隠されたメッセージとは。背負っているのは薪ではない?「小学校の校庭に建っているイメージがあると思いますが、近年は幼稚園や会社からの注文が多いですね」金次郎の思想や生き様に共感する経営者の人が建てることが多い。金次郎の思想や生き様に共感する経営者の人が建てることが多い。生産数は年間10体。それでも作り続ける理由「なんで作っているか言うたら、それはやっぱり二宮金次郎の哲学を売りたいからですよ」「まぁ簡単に言うと金次郎像は親孝行せいと、こう言っとるわけやから」「金次郎が苦労して家の再興を果たしたように、この会社もやっぱり先祖からの預かりものなんですよね」「技術的にも、うちは金次郎像を手がけたことで、それまで花器など小さなものを手がけていたのが大きな銅像も任されるようになり、今があります」「こうして先祖の預かりもので商売させてもらう以上は、像を通して二宮金次郎の哲学や生き様を知ってもらうことが、何よりの恩返しで、また次の仕事にも繋がっていくと思っています。銅像を作りながら、日本の誰もが知っている人の思想を広められるってすごいことじゃないですか」
2021年08月27日
沢木興道「二宮尊徳翁の歌に『音もなく香もなく常に天地は 書かざる経をくりかへしつつ』とあるが、お経とは黃巻赤軸の紙に書いたものばかりだという小さい概念に固まっている者には、この天地いっぱいの大経巻は分からない。また渓声是れ広長舌、山色豈に清浄身に非ざらんやという気持ちも、小さな手製の概念から覗いていたのではわからない。つまり一切を投げ出してただ坐るところに開けてくる広大無辺な世界があるわけである。」💛生活習慣改善記録 2121/8/25Thu健康診断の結果表が届いたが、糖代謝がD-1というありさま。つらつら考えると食生活や生活習慣に改善すべき点があるなあと反省。1 帰宅後すぐ軽くウォーキングを行う。予定 ・昼食後、菓子パンを食べてたのが主因かな→やめる ・昼食後、以前は意識してウォーキングしていたのだが、最近椅子に座っている →食後、立ってストレッチか階段を上り下りする。果たして1か月後、生活習慣は改まっているか?糖代謝は改善されているか?
2021年08月26日
「尊徳の裾野」(佐々井典比古)243ページ以下に「玄倉(くろくら)村の自立精神」が載っている。天保の大飢饉の際、尊徳先生は小田原藩主大久保忠真侯の懇請を受けて小田原領内の救助に回村された。この折、寄られた山村の玄倉(くろくら)村の自立精神を讃えたものである。 天保8年(1837)の春、尊徳は大久保忠真の遺命により、大飢饉の救助のため小田原領内を巡村していた。このうち、相州足柄上郡の玄倉村(斎藤高行の「報徳秘稿」には駿州御厨郷黒倉村とあるという。伝聞による誤りであろう。)は、ごく山奥の寒村だ。尊徳はここに着いて、名主や組頭を呼んで、飢えに迫っている者はないか、出精人とか奇特人はないか、食料の拝借は願わないかと、他村と同様に尋ねた。「出精人と申しても別にございません。しいて申せば、手足が大丈夫で、葛の根を掘りに出ている者がそれに当りましょうか。奇特な善行者といえば、芋2俵を施した者ぐらいでしょうか。食料は差しつかえありませんので、拝借には及びません。」尊徳は重ねて尋ねた。「このような貧乏村で、差しつかえないとは合点がいかない。お殿様が特に、いたく御心配になって、恵み育てるために私が回村しているのだ。拝借には及ばないといって、明日にでも飢えに及ぶものがあったらどうするのだ。」すると名主たちは言った。「もうソラマメの花も咲きました。何とか食い継ぎができます。それに先日頂戴したお救い米を一升ずつ、それぞれの家の棟木にくくりつけて、万一の節の貯えとさせています。ですから当村では、困窮ということはございません。」 名主も組頭も目はくぼみ、やつれ果てた顔色をしながら、なおかつ、こう言うのだ。尊徳はその篤実な態度をほめて、50両を無利子据置で貸し付けたところ、年賦で確実に返したという。佐々井氏はこの逸話についてこう解説されている。 玄倉村は「西山家組合」9か村(山北町の山間部一帯)の一つで、石高わずか35石余、当時の戸数26軒、人数およそ80人という小さな村であった。 ふだんでも食料に乏しいこれらの農山村は冷害の打撃も大きかった。小田原藩でも、尊徳の来援に先立つ前年の12月、これらの地方にとりあえず「窮民撫育」の措置を講じた。玄倉村には金1分2朱と米5斗7升1合7才が与えられた。「先日頂いたお救い米」というのがそれである。一戸平均2升2合ほどのわずかなものを、半分近く残していたことになる。翌年3月回村して来た尊徳は、この事実にも感心したが、もっと強く心を打ったのは村の幹部の態度であった。 これまで回村して、まず耳にするのは泣き言だった。いかに窮状か、今にも全滅しそうに言ってすがりつく。それをたしなめ、励ますのが第一の仕事だった。それがここではこちらが心配しても大丈夫ですという。篤行者のことも控えめに言う。これまで窮乏の村々を回っても名主や組頭などが食う物に困るということはなかった。むしろ彼らが抱え込んでいるものを推譲させるために「この際、人の命の救い時じゃ」などと説いてきたのだった。それが玄倉村では彼らが率先して食料を放出し、平等に分配し、村民と共々に飢えを忍んでいる。だからこそ村民も、黙ってついていくのだ。 尊徳はまず「御仁恵金」1両2分3朱余を伝達し、組頭2名、百姓4名を農業出精・食料融通の「奇特人」として表彰、金2分ずつを与えた。また、麦秋までの食いつなぎ料として無利息金14両3分余を貸しつけ、5か年賦で返済させた。これらの措置は被災した各村に共通の措置であった。 ところがすぐその後、玄倉村と隣りの世附(よづく)村・中川村に伝染病が流行して、3村は再び飢えに瀕した。尊徳は天保9年2月、3村共通に一戸一俵ずつのつなぎ米を貸与するとともに、玄倉村へは特別に金50両を無利息貸与して、村借の肩代りをさせた。米と合わせて71両2分余の償還は、一応5ヵ年賦とするが「年々の返納分を繰り返し原資として、増産と備蓄につとめ、大丈夫となった上で返納するように」とあり、10年後の一括返納を予定していたようである。しかし玄倉村はこれを、5年間で返した。佐々井氏は問われる。「今日の日本で、玄倉村と同様の極限状況に置かれたとき、かれらと同様の自立と団結と共助の精神は残っているだろうか?彼らと同様の生き方はできるだろうか?」
2021年08月26日
三遠農学社の八老農 平岩佐平(ひらいわ・さへい)その1 平岩佐平(佐兵衛)は遠州七人衆と二宮尊徳との面会のきっかけをつくった。「遠州七人衆桜秀坊を訪う」鈴木文雄(「かいびゃく」昭和33年9月号)というシナリオに平岩佐兵衛の姿が活写されている。 弘化3年(1846)、相模国大山の人浅田勇次郎が、遠州下石田の神谷与平治に出会ったのを機として翌4年に下石田報徳社が生まれた。1年おいて嘉永元年掛川倉眞村の岡田佐平治が勇次郎の兄、安居院庄七に会い、その年12月に牛岡報徳社が結成され、安居院と佐平治の推進力で嘉永2年には、袋井高部藤左衛門を中心に、高部報徳社が、その年に気賀町恩田彦右衛門、升田兵左衛門を中心に気賀社が発足した。更に嘉永4年周智郡片瀬報徳社、周智郡の平田社が結成され、翌5年安居院庄七は森町に滞在しここに報徳社を結成した。遠州における報徳結社は安居院庄七の指導の下、着々結成されその効果を上げていたが、遠州報徳社が二宮尊徳の直接の指導下にないことは報徳連中に一抹の寂しさを与えていた。一度二宮先生に会い、じきじきの指導をうけたいというのが遠州報徳連中の念願であったのである。 嘉永6年の正月。昨5年の年末から、江戸の主人が、大病であるとの報にあとを頼んで出府していた成瀧村の平岩佐兵衛は、二宮尊徳が当時相馬屋敷に逗留中であることをきいて郷里の報徳連中への土産にもと、二宮先生の指導をうけたいと相馬屋敷に足を運んだが、「年末多事にして取込中に付き差し戻し」と面会を許されなかった。嘉永6年正月、佐兵衛は帰国を前に二宮先生に面会したいと、3度目の相馬屋敷訪問を試みた。当時尊徳は67歳、日光ご神領復興の命を受け、この事業に畢生の努力をつぎこまんとしていた時である。平岩「再三、二宮先生にお目にかかりたく伺いました。遠州の平岩佐兵衛と申すものでございますが、明日は国もとに帰りますので、ほんの少々の間でもお話しをうかがいたいと重ねてお願いに参りました」受付の者「先生はこのごろ大変お忙しいので、今日も外出中で、お留守でございます。まことにお気の毒ですが」「あつ、お帰りのようです」「先生この方が昨年の暮から再三見えられて是非とも先生にお目にかかりたいと」二宮「どちらの」平岩「遠州成瀧村の平岩佐兵衛です」二宮先生は佐兵衛の遠州の報徳連の話を聞いて「遠州にはかねがね私の報徳の道を説くものがあるということは聞いていたが、詳しい事がわからないし、誰がその先達であるか分からなかった。今日はいちいち様子はわかったが、私の説く報徳の道には事と次第というものがある。ただの口説法だけで何もわからぬ百姓に説教をきかせて、かえって世の人をあやまることにもなりかねない。実はそれを心配していた。遠州の重だった世話人に、一度そろって出てこいと言われた。
2021年08月25日
報徳訓父母の根元は天地の令命にあり。身体の根元は父母の生育にあり。子孫の相続は夫婦の丹精にあり。父母の富貴は祖先の勤功にあり。吾身の富貴は父母の積善にあり。子孫の富貴は自己の勤労にあり。身命の長養は衣食住の三つにあり。衣食住の三つは田畑山林にあり。田畑山林は人民の勤耕にあり。今年の衣食は昨年の産業にあり。来年の衣食は今年の艱難にあり。年年歳歳報徳を忘るべからず。 「報徳訓を現代に生かす佐呂間漁業協同組合」佐呂間漁協の貯金残高を組合員数で割ると約1億円。その仕組みは非常にユニークである。水揚高の70%は月取貯金として無条件で天引されて、翌年の生活費に回される。そのほか納税準備金、漁協への手数料、年金など水揚高の9割が天引きされる。自由に使えるお金は1割以下。生活費は前年度積立の月取貯金でまかなう。前年度の稼ぎで今年度生活する。月取貯金も全て生活費に回されるわけでなく、残った金は貯金され、平均1億円の貯金を持つことができた。組合員は毎年1月その年の営漁計画書を出す。計画書を漁協の担当者と組合員で計画が妥当か話し合う。漁協は貯蓄額の80%まで貸し出す。借りた金だから毎月返済する。金銭の緊張感が維持できる。昔の漁師は1回の漁で何百万も稼ぐと、その金を腹巻きに入れ、キャバレーに繰り出したりもした。もともとこの仕組みがあったわけではない。佐呂間漁協がホタテの養殖を始めたのが昭和40年で、組合員の生活を安定させたいと始めた。当時の漁協には新事業を立ち上げる資金がなく、上部団体に借入れを申し込み断られた。販売取扱高も貯蓄残高も少なかった。町が債務保証し必要な資金が確保できた。「佐呂間漁協の仕組みは、初代、二代目の組合長がつくりだした。その精神は二宮尊徳の報徳訓にあった。特に最後の三行今年の衣食は昨年の産業にあり来年の衣食は今年の艱難にあり。年々歳々報徳を忘るべからず。が、佐呂間漁協の基本精神になった。」 報徳訓をこのように仕組みとして実践している例はほかに聴かない。鈴木藤三郎は、尊徳先生の「荒地の力を持って荒地を興す」を製糖業など近代産業に適用して成功させた。尊徳先生の言葉を自分のものとできるならば、生涯使っても使い尽くせない無尽蔵の宝庫となる。その人一代だけではなく、それを実践し続ければ、子孫や共同体まで豊かにうるおしてくれる。鈴木藤三郎はこう断言する。「報徳の道を修養し、この道の精神を以て各種の事業に応用すものあらば、事として成らざるなく、業として成功せざるなし」(「報徳実業論」『報徳産業革命の人』p.167)
2021年08月22日
広島県のEさんから複写はがきをいただいた。複写はがきを実践し続けている人は少ない。継続に頭がさがる。Eさんには雑誌「かがり火」に載ったインタビュー記事を送ってあった。「御葉書きと『かがり火』のインタビュー記事をありがとうございます。コロナ禍の下で行われた東京オリンピックで十代の若者達の活躍に感動し、メダルを手にした人々の応対挨拶に多くのきづきを頂きました。かがり火の取材記事からGさんが「荒地の力を以て荒地を興す」仕方によって既に20冊を出版されたことを知り驚きました。それも『報徳要典』をパソコンに入力し、それをテキストにして読書会を始められたことを知り感激しました。 私たちの読書会でも「二宮尊徳の会」の本を読むだけで終わっていますが、「報徳精神」をどう活かすか実践が課題です。」「報徳記」の原典を輪読しているのは、本会とEさんの会以外を知らない。Eさんのおっしゃるとおり、ただ読んで終わるのではなく「報徳の精神」をどう生活のなかに活かすかが問題である。二宮尊徳先生の発明された「報徳」の教えのひとかけらでも生活に活かせれば使っても使っても尽きない宝物を手にいれたと言えようか。
2021年08月18日
札幌市中央図書館0180369308 157.2/ホ/5 1階図書室 31B 一般図書 一般貸出 貸出中
2021年07月25日
「尊徳の語録類(夜話・語録)・四大門人の著作などを読んだだけで満足して、尊徳の思想を論ずることは厳に戒めなければならない。彼の全身全霊を傾けた実践記録である仕法書類についての考究も併せ行うのでなければ、この立体的な思想を正しく理解することはできないからである。」「尊徳は、その一挙手一投足にも深い思索をこらし、たえず遠い過去の事跡を振り返ってそれを充分に究め、同時に長期的展望を立て、人性への深甚な理解と同情とをもって、その事業を行った。彼の全事業は徹頭徹尾倫理的性格を帯びたものにほかならない。したがって、彼の原理・原則に関する著作を読むことを棚上げにして、もっぱら仕法書類などの分析によって尊徳の遺業を論ずることは根本的に間違っている。彼の真精神、彼の真の意図を本当に理解せずしては、彼の事業を本当に評価することは出来ない。」尊徳研究を志す者は必ず彼が自らの思想と事業の全てを書き残した遺著一万巻をひもとかねばならない。これをその原本にあたって行うことはもちろん至難の業(わざ)であって、だれもが実行できるわけではない。幸いこの一万巻を体系的に整理し、解説をほどこして公刊された『二宮尊徳全集』(全36巻、約4万6千ページ)がある。だから少なくともこの書を座右において、詳しく研究したものでなければ、尊徳研究としてはまず問題にもならない。彼の思想はただ坐って考えた平面的なものでなく、実際の仕事の上から得たもので立体的な思想であるから、研究にあたっては充分そのことを承知していなければならない。したがって、戦前までの多くの尊徳研究文献がそうであったように、全集第1巻(原理篇)と尊徳の語録類(夜話・語録)・四大門人の著作などが収められている第36巻とを読んだだけで満足して、尊徳の思想を論ずることは厳に戒めなければならない。彼の全身全霊を傾けた実践記録である仕法書類についての考究も併せ行うのでなければ、この立体的な思想を正しく理解することはできないからである。 尊徳は、ただがむしゃらに勤倹力行して成功を収めた単なる事業家ではない。その一挙手一投足にも深い思索をこらし、たえず遠い過去の事跡を振り返ってそれを充分に究め、同時に長期的展望を立て、人性への深甚な理解と同情とをもって、その事業を行った「特殊思想家」(村岡典嗣)なのである。彼の全事業は徹頭徹尾倫理的性格を帯びたものなのであって、正しく言葉本来の意味における経済事業、ちまり「経世済民」にほかならない。したがって、特に戦後盛んになった報徳仕法の研究にみられるように、彼の原理・原則に関する著作を読むことを棚上げにして、もっぱら仕法書類などの分析によって尊徳の遺業を論ずることは根本的に間違っていると言わざるを得ない。彼の真精神、彼の真の意図を本当に理解せずしては、彼の事業を本当に評価することは出来ないはずだからである。 ところで、この『二宮尊徳全集』は昭和2年5月に配本を開始し、同7年末に、最終配本(第一巻・原理篇)をもって完成されたものであるが、本全集刊行の尊徳研究史上における意義を知るためには、尊徳の自著及び門人の著書を含めて、尊徳研究の基本資料がこの刊行以前にどのような扱いを受けてきたか、また、全集公刊の沿革を振り返っておく必要がある。残念ながら枚数制限のためその詳細は別の機会にゆずることとして、その概観を語るにとどめる。 第一期は幕末維新までとし、全集原本が整理されていく様子、弟子たちによる筆写、動乱の中どのようにしてこの貴重な資料が守られてきたか、ということが問題になる。 第二期は明治25年までとし、高弟たちによる師説の祖述活動がようやくその緒につくところである。 第三期は明治末年までとし、雑誌『大日本帝国報徳』が発刊され、尊徳研究資料刊行史に新しい時代が始まった。この雑誌を通して初めて尊徳の遺著『報徳全書』が少しずつ公表された。斎藤高行の『語録』、留岡幸助が集めた『に二宮翁逸話』の公刊、さらに今市謄写本『報徳全書』一万巻の完成など特筆すべきことが多い。 第四期大正時代は嫡孫尊親による『二宮尊徳遺稿』の公刊と井口丑二の活躍、特に『大二宮尊徳』の刊行によって代表され、全集刊行の準備期にあたる。
2021年07月25日
留岡幸助は、キリスト者である。留岡はその生涯を罪を犯して監獄に入れられたものの更正事業にささげた。北海道にある家庭学園は彼の創設になるものである。彼がアメリカに監獄学の勉強をしに行き、ボストンの近くのコンコルド感化監獄でそこの工場で囚人と一緒に働きながら生計を立てると共に研究を続けた。感化監獄(Reformatory)は懲罰を含む学校組織であり、技能養成学校であった。留岡幸助はニューヨークのエルマイラ感化監獄でも学んだ。ここには不定刑期主義に基くブロックウェーがいて、互いに語り合った。ブロックウェーはこう言った。「This one thing I do.われこの一事をつとむ。これが私の座右の銘です」この一言を留岡幸助は「一路到白頭」と意訳した。自分はこの道を髪の毛が白くなるまで歩み続けよう、という決心をしたのであった。留岡は実践を重んじ、二宮尊徳を研究し、明治のまだ生存中の二宮尊徳を知る人々に会い、話を聞いて書きとめ、後にその逸話を世に公表した。二宮翁逸話自序予が二宮翁の研究にとりかかったのは、明治36年の春で、指折り数えればもはや6星霜を経ている。この間、予が歴遊した所で、翁に関係が浅くないのは、その生誕地として名高い相州(神奈川県)栢山(かやま)、起業地として忘れることができない桜町に今市、さらに進んで奥州(福島県)相馬等である。そしてこれらの地で予が見聞した事柄はあるいは古老についてその逸事を探り、あるいは書類を調べてその事績をたずね、あるいは遺書をさぐってその思想を学び、そして得るところのもの甚だ少なくなかった。集まるものは必ず散ずるの道理で、その結果の一部として世に出たのがすなわち「農業と二宮尊徳」「二宮尊徳と其風化」及び「二宮翁と諸家」等である。図らずもこれらの著述が江湖の厚き同情に浴し、すでに4版を重ねるに至ったのは全く意想外のことである。現今わが国に二宮翁を歓迎するの声がすこぶる高い。その声の高く響く方面はただに農業界のみでない。進んでは教育界、宗教界、さては報徳と極めて縁の遠い実業界までもその範囲を広めつつあるので、一見不思議の現象である。不思議の現象とはいうものの、時勢の要求である。しかるに床の間に端座した二宮翁、講座にカミシモを着けた二宮翁の風采に接した者はこれまでも少なくないが、家庭のうちにいる翁の風貌、談笑の間に顕われた翁の言説にいたっては聞くところはなはだ稀である。故に著者は本書において未だ世に現れざる翁の反面を描くことにつとめた。 予が二宮翁を研究するに立場より見れば本書は従来の著書に比べてその副産物ともいうべく、幸いに読者がこの書によって翁の平生を知る一助となれば、著者の幸福はこれに過ぎないのである。これに加えてこの書が教育家、宗教家、さては家庭教育等の教材ともなり、幾分か修身斉家の上に補益するところあらば著者にとっては望外の幸福である。明治41年7月東京巣鴨家庭学校 編者しるす
2021年07月22日
二宮翁逸話 2 他人の慈善と組合の慈善翁は平生陰徳を施すことをもってその心がけとせられたから、一個人で慈善をすることは嫌われ、報徳社のような組合で慈善をするほうがよいと常に教えられた。それは一個人で慈善をすれば自然恩を着せるようなことがあるが、団体でやればその嫌いは少ないから組合で慈善をすると自ずから陰徳を人に施すことになるからである。「報徳教聞書」【18】予(鵜沢作右衛門)問う。野州(栃木県)へ公用で出張した時、夏の暑さがひどく湿り気がなく旱魃(かんばつ)で人々が難渋しておりました。田畑の作物も枯れて痛んできたそんな時に、夕立が降ってきてまいりまして、「これでこそ作物が皆よく成長できますね」と二宮に問いかけました。二宮が答えますに「この湿り気にも善し悪(あ)しはあるものです。その見どころを申しますと、作物のうちにも豆などを蒔きつけ、雑草をとって、よくよく手入れをいたして、湿りを祈っているほどの農業に精出している人の畑などには、即座に雨露の恵みを受けて、作物も育つものです。また同じ日限に豆を蒔きつけてロクロク手入れもいたさないで、草も生え放題にそのままにしておいたならば、同じ日和にあえば、豆はかなり生長するように見えますけれども、雨露の恵みは雑草のほうへ回り、いろいろの草が生長して、つまりは豆のほうはかえって枯れるようなことになります。 これは人にとってみても同じことで、いつもは人並みの暮らしをしていても、祖先を敬い、父母を大事にし、仕事に励み人助けなど陰徳を積んでいれば、幸福になり、たとえば宝くじが当たっても、それだけの融通ともなり、繁栄の基礎にもなります。 ところが人によっては心に悪心を持って、金銭を借用しても返済もしない、何事によらず自分勝手で、嘘をつき隠し事をしているようであれば、平日は目立たなくても、何か宝くじにあたるなど福がまいこんできても、いろんなところから借金の返済の催促を受け、せっかくの金もつまらないことに使いつくすなどということになりかねません。世間で『宝くじに当たって首くくり』と俗にいうのがこれです。」○文政12年2月吉日付け母の実家の当主、川久保太兵衛にあてた手紙より(佐々井典比古氏現代文訳「尊徳の裾野」269ページより)このたび、相州足柄下郡曽我別所村の私の母方の在所へ、祖父母の仏参に来てみたところ、はなはだ困窮して昔の形を失い、まことに嘆かわしい姿になっている。そこでつらつら考えたのはいま私はかたじけなくもご城主(大久保忠真侯)の命によって、下野国芳賀(はが)郡東沼村・横田村・物井村、高4146万石余、宇津ハン之助様知行所の復興にあたっている。享保年中から追々困窮して、文政4年には収納が米1005俵余、畑方金127両余と、わずか1000石相当にしかならず、ご勤仕もできないありさまとなったので、ご本家でも捨てておかれず、村柄取直し・収納復古・百姓相続の仕法を私に仰せ付けられたのだ。そこで文政5年から赴任したところ、天なるかな時なるかな、人民に勤労意欲が出、田畑開発はあらましでき、風俗も立ち直り、年貢米が1900俵余、畑方はまだ集計しないが、存外の成就をみた。このように功あるこの身は、すなわち父母のたまものであって、全くわが身ではなく、父母の陰徳による。その父母はどうかといえば、祖父母の陰徳があったからだ。その本が乱れて末の治まるものがないように、人生、孝行より大事なものはない が、では、何をしたら孝行になるのか?このように退転同様になってしまっては、たとえ追善供養をしたところで、いったんの志で仏意を保てるわけがない。このように信ずるとき、ふと天の命がわが心中に浮かんだ。それはほかでもない。桜町の仕法のように家々で子孫が繁盛しているのは、みんなが親を尊んでいることで、それがまた天道への追善供養なのだ。この身は天から先祖に分身して、また先祖から代々父母に分身して、父母から我へと分身した。それゆえ、天理にかなうことをしさえすれば、直ちに孝行なのだ。しかるに川久保家では、代々のうち 奢りが長じ、分を越えて暮らして他人の財宝をむさぼり、天のにくみを受けて、田畑山林家株を天道に取り戻されたのだ。不思議と子孫男女が息災だが、いのちがあって田畑山林家株財宝衣食を天から受け得たいと願うならば、身をちぢめ、一切七分で暮らし、堅く分限を守り、天下に陰徳を積んで、国家に財宝を施し、人民のために勤めて後、天のお恵みを受けるしかない。さて、天下の財宝は天下万民の勤行によって生ずる。万民の勤行は衣食があってできる。ところが昨年文政11年は、天明の飢饉のような国土一円の凶作で、農民ははなはだ難渋している。そこで、仏の菩提のため、元金は私が出すから、里から米を買い入れて山家(やまが)へ運び、山家から麦を買い入れて里へ運び、それも一銭も利を取らずに買い入れ値段で売買して、米麦を流通させ、近村隣家の助けになろうと心がけるがよい、神儒仏の心は一つ。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
2021年07月22日
二宮翁逸話 3 子供の仕付け方野州桜町で翁が家屋を新築されたことがあって、その時翁の一子弥太郎というのが5、6歳ですこぶるいたずら者であり、ウボなどは随分困ったということである。ちょうど廊下の突き当たりに壁を塗るばかりになってあるところを無理に通りたいと言い出してひどく困らされたということである。翁はこれを見られて、すぐ大工に言いつけ、今にも壁を付けんとするところを打ち壊わさせて、弥太郎の言うとおりにそこを通り抜けさせた。それから後で二度とかような所を通るのではないと懇々諭されたということである。これは酒匂村の酒井儀左衛門という、その時弥太郎の守をしていた老翁の話である。☆二宮尊徳先生は子供にはやさしかった。「可愛くば五つ教えて三つほめ二つ叱って良き人にせよ」という道歌があるという。二宮翁逸話ではこのようなエピソードも伝える。「神奈川県中郡土沢の小字(こあざ)の枇杷(びわ)というところがある。そこに原小太郎という、その辺りでの豪農があるが、この原という人はそこの報徳社の社長をしており、その一家はこぞって報徳を唱え、実践躬行につとめている。この家の老婆いわ子刀自(とじ)は、もう81歳になる人であるが、二宮翁に可愛がられた人であるということを聞いたから、余(留岡幸助)は二宮翁の肖像を色々持ち行きて、いずれが一番よく似ているか尋ねたことがある。このおばあさんは福住正兄翁の令妹であって、非常に丈夫で物覚えのよい方であるから種々のことを話された。そのとき余は、何か二宮先生のことについて頭に残っていることはありませんかと尋ねたら、「さようです、私が12,3歳のころでした、二宮先生がご入来になる頃はいつも草鞋(わらじ)をはいて来られるので、まず縁側に腰をかけ、それから足を洗って上がられるのが常でありました。それで私の家では、その上がられる前に饅頭(まんじゅう)とか菓子とかを縁側へ持っていって、さぞお疲れでしょうと言ってさしだすのですが、これが私の役になっておりました。すると先生は私にきっと何か取ってくだされるのです。だから先生が来られると聞くと、私はあわてて逃げ込んで奥の間の障子の間からすき見をしたものです。すると先生は障子のかげに私を見られて、ちょっと来いと呼ばれる。私はただ恥ずかしいので逃げようとすると、親が無理に引っ張って先生の前に連れて行く。そうすると先生は、ご自身が召し上がる前に、『これはお初穂だからお前にやる』と言うて、いつでもくださったものです。」と。
2021年07月22日
「近世の村と生活文化ー村落から生れた知恵と報徳仕法」(大藤修著)には、「谷田部藩の尊徳仕法の導入と経緯」の項目があり、非常に啓発されるところが多い。報徳仕法は為政者に高度の倫理性を要求する。分度を確立し、余剰を農村など被支配層に還元し再投資することを要求する。困窮窮まった時には、なんとしても目前の困窮から逃れたいばかりに仕法実施を懇願する各藩は、尊徳の要求を受け入れるのだが、一服すると、上に薄く下に厚い報徳仕法のやり方に不満を生ずる。また被支配層も支配層の倫理性のなさに異議申し立てをする。被支配層の異議申し立てを嫌った支配層は分度を廃止し、農民の覚醒を促そうとする尊徳の考えと農民との関係を絶とうとする。以前「報徳記を読む会」の有志で栃木の桜町陣屋の見学に行った折、「報徳仕法は多くは失敗しています」と隣接する二宮尊徳資料館の館員の方が言われたが、失敗したではなく、仕法を導入した支配層が仕法を中途で放棄したのである。その意味で、報徳仕法は常に支配層、施行する側に高い倫理性を要求するのである。「近世の村と生活文化ー村落から生れた知恵と報徳仕法」抜粋131ページ1 尊徳への仕法の依頼 谷田部藩が尊徳仕法を導入した発端は、野州芳賀郡中里村の出身で、江戸に医術の修行に出ていた中村元順が、親族の桜町領物井村の百姓岸右衛門から、尊徳の仕法のことを伝聞したことにある。 元順は、自らが借財に苦しんでいたことから、岸右衛門に無利息金拝借を尊徳に頼んでくれるよう言った。すると岸右衛門は、あなたが借財に苦しんでいるのは、「財を施す事はさておき、草根木皮の類で薬代を貪り、その身を富ます」ことしか念頭にないから、世間の人々に人徳を慕われることがなく、だから医業も不振なのだと批判した。自分もかっては、自己の利益しか考えなかったが、二宮様から御教諭を受けて、他人の生活が成り立つよう献身してこそ自分の家業も安泰を保てるということを悟って、「ただただ大勢を助ける道であるから、自分の事は生活を取り縮めて、冥加(神仏の加護に対する報恩)のために無給で」二宮様の手足となって働いているのだ、と話してきかせた。 後に元順は、谷田部藩の藩医中村周圭の養子となり、養父の死後家督を相続して細川候の侍医となった。細川家の財政の窮乏を知った元順は、若殿喜十郎に、尊徳の仕法が農村復興と財政再建の妙法であることを話した。天保4年(1833)の凶作によって打撃を受けた細川家は、窮状を打開するため尊徳の仕法に期待し、天保5年(1834)1月、喜十郎は内々に元順に命じて、桜町陣屋の尊徳のもとに仕法の依頼に赴かせた。尊徳は「国の興廃、一家の執政・存亡にかかわることは容易ならざる根元」であり、喜十郎殿は養子に来られたばかりで、性急に家政改革を行って失敗したら、腹黒い臣は喜び、父子の間も疎遠になります。「自己を慎んで、天然の時を期し、まごころを尽されるならば、外患を除き行なわれることもあるでしょう」と諭して断った。天保5年2月7日、江戸の大火で谷田部藩の柳原の藩邸が全焼し、細川藩はますます窮地に陥った。この非常事態を契機に「長門守父子、重役ども一同挙げて衆議一決して」元順に公式に尊徳への仕法依頼に当らせることになった。6月1日、元順は尊徳のもとに赴き、藩の窮状を訴えて、仕法を懇願した。これに対して、尊徳は「国家の興廃、民力の盛衰によって発すべきものであるから、国の元は民である事を、しっかりと理解したのであれば」お世話もしようと答えた。つまり、仕法を引き受ける第一の条件は民を基本とする政治の基本方針であったのである。尊徳の質問に対して、元順は、藩の借財の状況、貢租の収納状況、領内の生産条件、荒廃の状況など説明し、農村の荒廃の原因は「谷田部と茂木の両方の村々とも惰農ばかりで、年来の悪い風習が止まない」ことにあると述べた。これに対して尊徳は「天に私無し。恐れるべきことだ。これによって自分の分限を引き去って、困窮した民を救い、子孫を相続させるよう行ない、水脈を整理し、荒地を開発し、その米と麦をもって、困窮した民を養って、領民を賞するならば、善い種を蒔いて善い草を生じ、天の自然に叶うようになう」」と説いてこの仕法の趣旨を両殿様が御承認されれば仕法を引き受けようと返答した。 元順が尊徳の説いた内容を長門守父子、重役に報告し承諾された。9月14日、元順はその旨を尊徳に告げた。尊徳は、藩財政の分度を確立し、経常費及び家中の俸禄・役料はその内でまかない、「分度」外の収入で「窮民撫育。荒地再開発、難村取直しの手当て備えにいたすべきである」という具体的な条件を提示して、これが受け入れない限り「興国救民趣法取興」を引き受けるわけにはいかないと申し渡した。 元順が尊徳の説いた内容を長門守父子、重役に報告し承諾された。9月14日、元順はその旨を尊徳に告げた。尊徳は、藩財政の分度を確立し、経常費及び家中の俸禄・役料はその内でまかない、「分度」外の収入で「窮民撫育。荒地再開発、難村取直しの手当て備えにいたすべきである」という具体的な条件を提示して、これが受け入れない限り「興国救民趣法取興」を引き受けるわけにはいかないと申し渡した。谷田部藩側は、尊徳の提示した条件を受け入れ、元順と在所の藩士に命じて桜町陣屋に詰めさせ、尊徳の指導のもとで諸帳面類を調査させた。その結果、貢租の収納量は延宝期に比べ近年は半分近くに減少し、累積の借金の返済額は13万両余に上っていることが判明した。これは1年分の貢租をすべて借金の返済にあててもようやく元金だけ返済できる額である。このことを長門守、重臣に報告したところ、「上下あげて驚き入り、この上立て直す手段もあるべきものかとうち寄って評議」した。これまで谷田部藩では、財政帳簿の整理がなされておらず、借金額も確認されていなかった。藩財政は計画的ではなく、場当たり的に借金を重ねていた。 改めて事態が深刻なことを知った谷田部藩は、「いよいよ上下一和をもって、衆力精誠実あい凝らして」尊徳に仕法を懇願することを評決した。天保5年10月17日、藩命を受けて仕法懇願に来た元順に対して、尊徳は具体的に藩財政の分度案を示し、10ヵ年の仕法期間中は絶対にこれを守るように命じた。谷田部藩側もこれを承諾したが「救民興国趣法」の資金がないので尊徳に相談したところ、尊徳は桜町領の「分度」外の収入を積み立てた報徳金のうちから1000両ほどを融通することを約束した。
2021年07月21日
「雛形の通りに年々繰り返し、少しの廃地のないよう廃地を起き返り、作り立て、その潤沢を以て、借財返済、窮民撫育、潰れ退転した家を取立てご仁徳を左右に布くならば、ご領中のみに限らず、つまり御国益にも成ります。」「ここには、単に個別領分の富裕化のみを目的としていたのではなく、日本全体の「興国安民」の実現を企図して各地の復興仕法を指導していた尊徳の視野も示されている。」「近世の村と生活文化ー村落から生れた知恵と報徳仕法」大藤修著174ページ4 (3)尊徳と谷田部藩との確執 174ページより 天保14年(1843)、尊徳と谷田部藩との関係は断絶した。そのため尊徳は、これまでの事業報告書の提出と貸し付けた桜町報徳金の返却を谷田部藩に要求した。だが藩側は全く応じようとしなかった。尊徳がこの交渉経緯を記録した書類を見ると、相手側の態度に憤激している。尊徳が谷田部藩の仕法のために桜町領から投入した金銭と米穀は、総額1951両余に上っている。これは無利息5ヵ年賦で返済すべきであったが、実際には天保13年(1842)段階で268両3分しか返済されていなかった。この貸付には「趣法通りの取行が功験が之無く、返済相届き難き候節は、其の儀に及ばず」という条件が付けましていたが、尊徳が返済を強く求めたのは、その投入によってせっかく農村がある程度復興し、「分度」外の収入が生ずるようになったにもかかわらず、尊徳の指示通りにそれを繰り返し農村復興仕法に投下することをせず、藩財政に流用していたため、「報徳」の趣旨に背いているとみなしたためだった。嘉永2年(1849)尊徳は谷田部財政のあり方を痛烈に批判した。「去る午年以来、荒地起返し、産出候平均御土台外米金、1,560俵余、その外御本方より多分の軽利金御繰り入れ下し置かせられ候余徳を以て、凡そ12万両余の御借財もあらまし形付き、柳原御上屋敷はじめ、谷田部御陣屋御普請もでき、次に中郷御下屋敷代地まで相整え、去る冬は 辰十郎様御乗出しも相済み候に付き、表向きは御高丈相整い候得ども、先年御困窮相成り候其の根元を知らざるものなどは、十分この上も無く、立直り候様相心得申すべく候得ども、前々古荒5分9厘2毛の内、御趣法以来凡そ半分、2分9厘5毛8弗起返り候と見積り、都合7分少し余、2分9厘6毛5弗の御不足、凡そ3ヶ年に1ヶ年皆無同様に罷り成り候悪種、速やかに官禄身命をなげうって、御子孫永久の為を御開発成さるべき御身分に候処、案外結構御取立て下し置かれ候御恩沢に甘へ、又妻子の愛情にひかれ、先年約諾仕り置き候発願を翻し、立身出世、身分の為に包み置き、年々歳々御分内より発行仕り候御困窮は、向後御自分始め、仮令何程人智者並出るといえども、是を防ぐ事叶わず、古歌に、田子の浦に、うち出て見れば、白妙の、富士の高根に、雪はふりつつ、とかや、眼前当方より繰り入れ候御土台米金、御返済之儀は勿論、御本藩より多分之御助成を以て、御世話進ぜられ候その甲斐も御座無く相成り、忽ち素(もと)の如く荒地と罷り成り、家数人別御収納等相減じ、御困窮に罷り成り候段、残念至極に存じ奉り候。」 仕法によって荒地もかなり起き返り、「分度」外の米・金も産出し、借財整理の進捗したが、しかし、これで十分立ち直ったと判断するのは間違いである。もしこれで安心するとしたら、それは以前に困窮した根元を知らないからである。まだ領内には3割近くの荒地が残っている見込みで、すぐさまその開発に力を注ぐ必要がある。しかるに、先年、「分度」を守り、それを超える米・金収入を農村復興仕法に投入することを約したにもかかわらず、違約してそれを自分のためだけに抱え込み、復興仕法をなおざりにしている。このままでは領地はたちまちもとのごとくに荒廃に帰してしまい、当方より米・金を繰り入れて援助した甲斐もなくなってしまう。以上のように批判した上で、「去る午年以来15ヵ年の間起き返り、産出候平均御分台外米金、其の外以前と違い、所々起き返り候趣法米金も、多分之有り候間、一作未4月、御伺い相済み居り候雛形の通り、年々繰り返し、尺寸の廃地之無き様起き返り、作り立てられ、其の潤沢を以て、借財返済、窮民撫育、潰れ退転式取立て、御仁徳を左右に布き候はば、御領中のみに限らず、詰まり御国益にも相成る申すべく候」と「分度」外の米・金を年々繰り返し農村復興仕法に投入していくように要請し、それは領分中の益のみに限らず、つまるところ「御国益」にもなるのだと、説いている。ここには、単に個別領分の富裕化のみを目的としていたのではなく、日本全体の「興国安民」の実現を企図して各地の復興仕法を指導していた尊徳の視野も示されている。 これに対して、谷田部藩側は、尊徳との約束に背き、「分度」を守らなかったことを認め、それを侘びながらも、藩財政が再建できてこそ領民の撫育もできると、藩財政の再建を優先させる論理で尊徳に返答しており、農村復興こそ何より優先すべきで、領主階級の「分度」内での緊縮財政の実践を厳しく要求する尊徳の論理との相違が端的に示されている。 桜町報徳金返済問題は、嘉永4年(1851)にとりあえず300両を故大久保加賀守菩提所麻布教学院へ回向料として献金し、翌年より5ヵ年間で残りを年賦返済していくことで示談が成立している。
2021年07月21日
広島県のEさんに返信のハガキを出す。「技師鳥居信平著述集」の「二峰圳」の出版記念絵葉書に細書する(^^)「複写葉書ありがとうございます。また報徳記も相馬藩仕法に入られるとのこと。「報徳記を読む第4集」は二宮尊徳全集や相馬市史等と照合し、富田高慶の記述が事実に則して記されていることを明らかにしたものです。 雑誌「かがり火」から取材を受けました。第199号に掲載されるとのことです。インタビューの中で編集長からの質問で印象に残ったのは『報徳をどう活かしていますか?』でした。「報徳仕法の原理は荒地開拓法(荒地の力を以て荒地を興す)と無利息償還法です、大藤修先生は、無限循環の天地の理法に基づいている言われています。私も「出版物の力を以て出版物を興す」〇〇大学のI先生がご自分の講座のテキストに「広井勇と青山士」を数百冊購入してくださった利益で『二宮先生語録』『八田與一と鳥居信平』を出版し、今回クラウドファンディングの支援により『技師鳥居信平著述集』を出版できました」とお答えしました。報徳を学ぶ者は「報徳をどう活用していますか?」をいつも問われているようです。
2021年07月20日
二宮翁逸話64 翁の死翁は安政3年10月20日巳の刻すなわち今の午後11時頃野州今市の官舎において瞑目された。翁の危篤なることが栢山にある弟、三郎左衛門に通達せらるや、そうこう行李(こうり)を整え昼夜兼行で今市に行った。すると翁はほとんど切れそうである呼吸を三郎左衛門が到着するまでは引き取らなかったということである。やがて三郎左衛門の到着せしことを耳にするや直ちに瞑目されたということである。尊徳先生が弟にあてた手紙「先祖代々の家名を相続して、親を大切に養育することを根本に工夫するほかはありません。そのほかはみな私欲から出て、後に必ず破れるものです。・・・わが身の元を知りたまえ。わが身はわがものか。いよいよわがものであるならば、いずこの国から持参したもうたか。いつの頃、何をもって造りたもうたか。いつ口をつくって飲み食いし、味を知りたもうか。いつ手をつくって用をたし、業をしたもうか。いつ足をつくって歩き、諸国へ行き、帰りたもうか。いつ目をつくって世界万物を見たもうか。いつ耳をつくって人の善し悪し、あるいは泣き笑う声、音曲、さらに中国、インドのことまで聞き知りたもうか。いつ鼻をつくって息をはいたり吸ったり、さまざまの香りを知り分かちたもうか。作った覚えがあるか。無ければまったくわが身ではない。このようにわが身さえわがものでないならば、天地の間にあるもの、みんな天地が造化しておいたものであることを知らず、なお田畑、山林、家屋敷、めいめい先祖が丹精して子孫に伝えようとしたことだとも知らないで、生涯わが心のままに、自由自在だとするから、人と生まれて人であるかいもなく、心のままにはならないのです。右の元を知って、御恩礼を勤めれば、直ちに我と天地と一体になって、富貴万福心のままにならないことはない。 おのが身は 有無の都の渡し舟 行くも帰るも 風にまかせて12月29日」・三郎左衛門は兄を敬うこと厚かった。金次郎が一家を廃して桜街陣屋に行く時も甥の弥太郎をおんぶしてずっと見送ったと伝えられる。桜街時代も何度も小田原から兄のもとに教えを請いに行っている。兄もまた弟の無心にはできるだけ答えたようだ。三郎左衛門は父譲りに人の頼みを断れなかったようだ、郡司という人に百両の金策を頼まれ、一緒に桜街に出かけ、兄に融通をお願いする。手元にあるのはこれだけだと80両渡され、家族の反対にもかかわらず、三郎左衛門は自分の農地を質入して20両を作り100両にして郡司に渡している。そのことを聞いて尊徳先生が泣いてこう言って喜んだという。「それでおまえも人間の仲間入りができた」三郎左衛門は、「兄貴が自分をほめてくれたことは、これが生涯にタッタ一遍であった」と一つ物語りに語ったのだという。三郎左衛門は、兄の遺髪と遺歯を父祖の地に持ち帰って法要し、菩提寺善栄寺の墓に収めた。
2021年07月19日
仮の身を もとのあるじに 貸し渡し 民やすかれと 願ふこの身ぞ(「解説 二宮先生道歌選」佐々井信太郎著より抜粋)○この歌は、二宮先生が桜町の仕法に全力を注がれていた時の気分を詠まれたものであって、「仮の身」というのは、この世を仮の世といった仏教思想から来ている。次の「貸し渡し」と対応する意味で「借の身」すなわち天地人の三才(3つの働き)から借りた身と解釈してもよい。「もとのあるじ」というのは、造化の神などといったこの世を造った神で、日本書紀にも最初に出た神を造化の三神といっており、漢語で造物主ともいっている。二宮先生は、「父母の根元は天地の令命に在り」と報徳訓の第一句に書かれている。また天地をもって父母の根元、すなわち元の父母といった歌「きのうより 知らぬあしたのなるかしや もとの父母 ましませばこそ」もあるのであるから、天地や造化の神を「もとのあるじ」と詠んだと思われる。「貸し渡し」は、わが身をわが意で働かないで、元のあるじの意で働くように自他を振り替えて、さてこの身は、民の安らかになるためにのみ働かせる。すなわち自己のためにと全力を尽くして来たのを、他のため、国民のため、社会のため、すべてを他のためにと全力をささげるというのである。
2021年07月08日
二宮先生語録巻の3 【292】世の人はややもすれば増減・大小・貧富・倹奢を論ずるといっても、いまだその理をつまびらかにしない。大はもとより限りがなく、小もまた限りが無い。今、禄が十石であれば小であろうか。禄が無い者も有る、それでは十石を大とするか。百石も有り、千石も有り、万石も有る。千石を大とするか。世の人はこれ小旗本という。万石を大とすつか。またこれを小大名という。そうであれば何を大とし、何を小としようか。これを物価にたとえよう。物と価格と比較し、その後美悪や高いか安いかを論ずるべきである。ただ物をとって美悪を論ずることはできない。ただ価格だけで高いか安いかを論ずることはできない。全国の禄と侯伯の数とを比較して、その後に大小を論ずるべきじゃ。千石の村、百戸の民、均しくこれを分てば一戸十石じゃ。これが増でなく減でなく、大でなく小でなく、貧でなく富でない自然の中じゃ。神道の書でこれを天御中主(あめのみなかぬし)という。儒教の書でこれを君子の中庸という。仏教の書でこれを中品中生という。そしに過ぎるのを増とし大とし富とする。これに及ばないのを減とし小とし貧とする。その禄が十石で、その家事を営む。九石を用いることを倹といい、十一石を用いるを奢という。だから私は中というものは増減の源であり、大小二つの名の母としたのじゃ。1『報徳秘稿』三〇八「夫れ、世人、口には貧富・驕倹を唱うといえども、何を富、何を貧、何を驕、何を倹と云うの理を知らず。天下固(もと)より大も限りなし、小も限りなし。十石を貧といえば無禄のものあり。十石を富といえば百石のものあり。百石を貧といえば五十石のものあり。百石を富といえば千石・万石あり。千石を大といえば世人小旗本という。万石を大といえば世人小大名という。然らば何をおさえて貧富大小をいわん。譬ば買物の如し、物と料とを較(くら)べて、然して下直(ね)・高直を論ずべし。物のみにて高下を云うべからざるが如し。之が為に之を詳(つまび)らかにす。曰く、千石の邑(むら)、戸数一百、一戸十石にあたる。是自然の数也。是を貧せず、富まず、大ならず、小ならず、増さず、減ぜずの中という。此の中に足らざるを貧と云う。此の中を越えるを富と云う。此の十石の家九石にて経営す、是を倹と云う。十一石にて経営す、是を驕奢という。故に曰く、中は増減の源、大小の二名の母也と、一円を図して以て之を諭す。」2「尊徳という人の貧富観は普通の考えと違っているのです。というのは、普通の人ですと、とかく収入の大小だけで貧富を決めてしまおうとする。―つまり月収二万円の人は貧、三万円の人はやや富み、五万、十万と月収のあるのは富というふうに考えたがるわけです。皆さん方もおそらくそうでしょう。ところが尊徳翁はちょっと違うのです。というのは尊徳翁は収入と支出をつき比べてみて、そこに残りがあれば富であり、もし赤字となるなら、いかに収入が多かろうとも、それは結局貧だというわけです。ですから月収は五万円あっても、月々六万円も費う者は貧乏であり、それに反してたとえ月収は二万円でも、月々の暮らしを一万八千円でやってゆくなら、その人間は、富の部に入る―少なくとも貧ではないというわけです。ですからこれは、結果的現実で押さえる実に手堅い貧富観といってよいわけです。」(『報徳記を読む』第一集三〇頁「森信三の見る二宮尊徳」)
2021年07月08日
二宮先生語録巻の3 【265】仏教における托鉢では、施米が鉢を満たすと止める。そして日に怠たらない。これは家産は捨てるが、身命を捨てない。これによって人々の救済に勤めるのじゃ。私が説く分度は、この鉄鉢であり、そして年に分外に推譲する。これは家産を捨てることなく、人々の救済を務めるものなのだ。1『報徳秘稿』四九〇「釈氏の手鉢は、今日勤めて満ちれば止め、又明日雨雪風雨を厭わず出でて貰う。是れ身代を捨て、命を捨てずして、一生人を救うに当たる。分度は猶此の手鉢の如し。分度を定めて其の余を施す時は、救助限りあるべからず。」「富田翁語抄録に、ある日、富田高慶が尊徳先生に史記を講じた場面が出てくるんです。周の文王が讒言され紂(ちゅう)王に捕らえられて幽閉された。紂という王は残虐で、家臣を殺して塩肉や干し肉にしたり、諫めた賢臣の胸を裂いたり、奴隷とし。だから文王の家臣達は大変に心配して紂王のお気に入りの家来の費仲を通じて、西国の名馬・立派な4頭立ての馬車や踊り子や珍しい宝物などを贈り物とした。すると紂王は喜んで『これ一つだけでも文王を釈放するに足りる』と文王を釈放したばかりか、弓矢やまさかりを与えて西国を征伐する権限まで与える。そこまで聞いていた尊徳先生が手を打って素晴らしいと感嘆される。富田はびっくりして『先生は嘆賞されましたが、後世の儒者の中には文王の家臣がどうして不正の贈賄で文王を救おうとしようか。釈放されるのも道があるはずだ。これは司馬遷が間違って史記に載せたに違いないと言う者がおります』と言った。すると尊徳先生は『腐れ儒者に何が分かろうか。司馬がここに載せたのは史実と信じたからである。紂は残虐無道で次々に家臣を殺した。もし文王の家臣が紂に道を説いて釈放を求めたら、必ずや紂は怒ってこれを殺し、その怒りは文王に及ぶであろう。家臣達は自分たちが殺されて主君が釈放されるのであれば喜んで死に赴こう。死なずに紂のお気に入りの家来を通じてこのことをなす。全く紂の心を察して主君が許されることを至誠に思う気持ちで計らったのだ。賢者でなければどうしてできようか』そう褒めたたえたんだ。おそらく豊田正作の妨害で正面から豊田を説得しても全く聞く耳をもたない、このままでは大久保忠真侯から命じられた復興事業が頓挫してしまう。そこで事業を成功させるためにはどうすればよいかと思案して、豊田に
2021年06月30日
二宮先生語録巻の3 【264】親鸞は深く後世を慮り、末法の僧侶が戒律を守ることができないことを知って、自ら戒律を破って、一宗を開いた。これはあやまっているというべきだろう。その戒律を破ることで末法の僧侶が存することになったのじゃ。戒律を守って自らたおれたほうがましであろう。1『報徳秘稿』三五七「親鸞の末法の中、迚(とて)も仏跡を継ぐことあたわざるを悟って、仏戒を破り、肉直・妻帯して一宗を開く。是甚だあやまれり。仏戒を破りて永く相続せんよりは、仏戒を守って及ばざる処まで勤め勤めて、力尽くせば絶えるに如かず。楠氏の如く、上の不明を捨てず、精力を尽し尽くして、終に死するは誠に当れり。我が道の入札を以てするは、此れには異なれり。聖人の政を以て行うべきを、凡人にして政を執る、入札に限るなり。」2『報徳秘稿』六一九「親鸞上人、五戒難行末世の比丘の持し難きを見て、肉食妻帯を免じて宗旨を立つ。先生曰く、理は尤もにて実は非也。守られぬ迄も法をば乱すべからず。法ある時は末世といえども真僧出るべし。親鸞宗の如き、千歳を経るとも、釈氏の律に入る僧は出るまじ。故に仏敵也。法敵也。」予が見たる二宮尊徳翁by内村鑑三(「内村鑑三全集12」より)予が見たる二宮尊徳翁予はかって「日本及び日本人」なる一書を英文にて著し、これを世に示したり、録するところ、西郷隆盛、日蓮上人、上杉鷹山公等なりしが、これを読んで英米人のもっとも驚嘆せしは二宮尊徳先生という。彼らが異教国と称するこの国にかくのごとき高潔偉大の聖人あらんとは彼らの意外とせしところなりしと見ゆ。もし欧米人が詳らかに先生の性行閲歴を知りえたらんには恐らく先生をもって世界における最高最大の人物に数えるならん。英人は世界の宝庫といわゆるインドを有するよりもシャークスピア全集を有するを誇りとなす。否、シャークスピア全集を有するは誇りにあらず、シャークシピア全集を有するは誇りにあらず、シャークスピアその人を生じたるをもって光栄となすという。しからばわが日本は満州を獲るよりもロシアに勝つよりもこの二宮先生を有するというにおいて至大の光栄となすべきか。予は汽車に乗りて国府津(こうず)松田間を過ぐるごとに先生を思うて止まざるなり。予の理想に近き人を求むれば先生はすなわちそれなり。近年、日本に産出せられたる書物の中にてもっとも大なる感化力あるものは二宮先生の報徳記にしくものなし。予は予が小児(しょうに)らにまず読ましめたきものはすなわちこの書なり。予が雑誌「聖書の研究」の読者に推薦して熟読を勧めおるものは実にこの書なり。この書は聖書的の書籍にして現今博聞館より出版する幾百冊の書を読むもこの報徳記の百分の一の益をも感化をも受くること能(あた)わざるべし。何ゆえにこの書がしかく偉大なる感化力を有するや。他なし。これ真正の経済なるものは道徳の基礎に立たざるべからざることを先生の事業生涯をもって説明したるものなればなり。すなわち身をもってこの問題の解決をなしたるなり。先生は経済と道徳の間に橋をかけたり。先生の一生は経済道徳問題の福音なり。この意味において報徳記は一部の「クラッシク(古典)」なり、経書なり。そもそも現今経済を論ずるものは大抵倫理道徳と関係もなきものと為すもののごとし。倫理と経済と分離して秋亳(しゅうごう)の関係なきものなるや否やは至難の問題に属すといえども恐らく倫理道徳の要素なしに経済の成立すべきはずなからん。アダムスミスの「富国論」は著名なり。邦人皆これを読みて経済学上の大著となす。しかれども彼れはこれをその倫理学の一篇として書きたるものなり。彼れは両者密接の関係を認めたるなり。しかるに現今英米の学者輩経済学をもって単に利欲の学問とせり。ここにおいてか経済学は武士の子孫が学ぶべきものにあらずなどと思惟したる者ありき。福沢氏のごときは道徳は畢竟経済なりと道破し現今の社会主義者は道徳は単に胃腑の問題なりなどというに至れり。かくのごときは果たして真正の経済学なるべきか。先生はしからず。道徳は原因にして経済は結果なりと断じたり。至誠勤勉正直(せいちょく)にして初めて経済の成立するものなりとせり。かくのごとき高尚なる経済論はたとえ英のオックスフォード大学に行くも決して聴くことを得ず。勤倹貯蓄のみが先生の報徳なりとなすものあらば先生を誣(し)ゆるもまた甚だしからずや。もしかくのごとき人あらば予は先生に代わりていわん。諸君は誤れり。諸君まず善人となるべし、至誠の人となるべし。予の根本とするところは道徳なるがゆえに諸君もまずこれを心がけざるべからずと。ゆえに先生の報徳説盛んに行わるるところには必ずまず道徳的大変化大復興起こらざるべからず。もししからずしてただ勤倹貯蓄経済上の変化のみならばいささかこれをあやしまざるを得ず。先生が事業の為すところには往々反対に出でたり。そはその地の料理店貸し座敷、あるいは一部の偽善者輩なりしがこれをもって見るも先生の事業方針の正に道徳上の改革より初まれるを想見すべきなり。かって大磯の川崎屋孫右衛門なるもの先生につきて廃家再復の途(みち)を聞かんと欲せし時、先生浴室より飛び出し、夜中二里余を隔てたるところに逃げ行けり。何ゆえぞやといえば、彼のごとき難物は容易に道に入(い)るべき人間にあらず、仕法を教えるも益なしと考えたればなりという。家政困難を救うは、先生の喜ぶところなりといえども、その人物を改善せしむるを先となしたることこれをもって明らかなり。先生の自信の強きことはまたこれによりて知らるべし。今日のキリスト教の伝道者などが説教聴聞に来るものあらばよくこそ来たれりとて礼を述ぶるがごとく卑屈ならず。教えを乞うものあるもまず自ら教えを受くるに足る者となりて来たるにあらざれば決してこれを授けずしてしりぞくるがごとき自信力は先生の有せしところにしてかくのごとき確信こそ吾人(ごじん)の得んと欲するところなり。しかしてその与える再興の法は何ぞや。いわば汝は非を飾り他(ひと)を苦しめんとす。誠に悪人なり。速やかに善に帰し家産を尽くして人命を救助し一人も助命の多きを多きを願うべし。これ汝の家の再興の法なりと教訓せしがごとき実に高尚なる工夫なり。先生が破産家の整理法は実にかくのごとし。今日の社会決してこれを見いだすこと能わざるなり。予かって某地の人某の2万円ばかりのために整理の相談を受けしことありたり。予は翁の教えをもってこれに勧めたり。すなわち財産を隠蔽するなかれ、至誠をもって各債主に事情を告白せよ。無一物貧措大となるも恐れるなかれ。有るを有るとし無きを無しとして一毫の私心を挟まず返却の途(と)を講ぜよといいしに後某来り謝して債主等の好意能く予の至誠他意なきを憐れみ満足なる整理を遂げたりとのことをもってせり。また先生の印旛沼堀割見分の命を受けその復命をなしたるごとき実に現時の人々(ひと)に見ること能わざるところなり。先生つぶさに種々の調査を遂げ確かに印旛沼掘割より生ずる大益を認めたれども、その地方人民の道徳腐敗のゆえをもって直ちにこれに着手するもその功なきを認めまず儒者を遣わしてその民を教導ししかる後に事業の挙がるべきをもってしたり。先生はこの沼の開墾事業をもって道徳問題となしたり。今日の教師らにこの見識ありや。測量や水利やただこれをもって土木事業は成就すべしと思うは非なり。先生は150年以前すでに日本ありて以来の卓抜の識高潔の徳をもってかくのごとき復命をなしたり。今日の経済学者はまずソロバンを手にす。先生はまず至誠の有無を質す。吾人先生に学ぶところなきか。今や不景気の声高し。この救済策をもって先生に問わば先生必ず云わん。人民腐敗せり、まずこれを救わざるばからず。不景気の救済は不道徳の救済ならざるべからずと。今どきの人ややもすれば挽回策をもって農工銀行や商業銀行の設立によるとなす。しかれども人心腐敗すればかくのごときものはかえってこれ不景気の前駆となり破産の機関となり了せん。予聞けるに越後の人にして所有地を抵当になし農工銀行より金(かね)を引き出し放蕩して遂に破産せるものありき。畢竟経済の本は金にあらずして人の心にあるなり。この点において先生の経済論は実に敬服のほかなきなり。今の経済学者はただこれをもって金銭利欲の問題となして人の意志に関する無形の倫理道徳の問題なるを知らず。真に憐れむべきにあらずや。予は農学士なり。今やキリスト教の伝道者となりて東奔西走すれば友人輩あるいはあやしみあるいは笑えり。しかれども予思えらく、牛の改良や種子の改良はその事はなはだ容易なり。ただ人心を改良し罪あるものを悔い改めしめ悲しめる者に慰謝を与えることこれもっとも難きことにしてまた甚だ尊貴なることなりと。かくのごとき事業こそ万事の根本となるにあらずや。これ予の喜んでとるところの事業たるなり。予の伝える福音を信じて破産をなしもしくは放蕩するがごとき人はいまだかって一人もこれあらざるなり。すべての財産は天のたまものなり。至誠勤勉の結果なりとは二宮先生の教訓なり。キリスト教においてもまたしかり。人往々キリスト教の信仰のごとき絶えて経済などには関係もなきもののごとく思惟するは甚だいわれなきことなり。
2021年06月30日
朝、ごみだしに行こうとすると雨が降っている。このところ天気予報士泣かせの天気が続いていて、きのうはいいお天気で、空梅雨かと思ったら結構降ってきた。先日、プレバトで伊集院光さんが濡れ鼠せめてどこぞの喜雨であれと詠んで才能あり尊徳先生が「人間の手の骨格を見よ。鳥獣は自分のために掴むことしかできないが。人間の手は掴むことも人に差し出すことも出来る。推譲は人間の道なのだ」と。自分を愛し他人(ひと)を愛する。*人のからだの組立を見るがよい。人間の手は、自分の方へ向いて、自分のために便利にもできているが、また向うの方へも向いて、向うへ押せるようにもできている。これが人道の元なのだ。鳥獣の手はこれと違って、ただ自分の方へ向いて、自分に便利なようにしかできていない。だからして、人と生れたからには、他人のために押す道がある。それを、わが身の方に手を向けて、自分のために取ることばかり一生懸命で、先の方に手を向けて他人のために押すことを忘れていたのでは、人であって人ではない。つまり鳥獣と同じことだ。なんと恥かしいことではないか。恥かしいばかりでなく、天理にたがうものだからついには滅亡する。だから私は常々、奪うに益なく譲るに益あり、譲るに益あり奪うに益なし、これが天理なのだと教えている。よくよくかみしめて、味わうがよい。(二宮翁夜話)
2021年06月29日
「大二宮尊徳」井口丑二著121~124頁 九 貴賎とは(抜粋) 世に貴賎といふものあり。その標準は時代により、あるいは人によって観方が異なる。あるいは種族によって別ち、あるいは職業によって別ち、あるいは徳行によって別ち、あるいは財産によって別つ。種族によって別つものは、インドに厳重な制度がある。中国には王侯相将に種性なく、我が国にては中古以降特にこの制厳しいものがあり、余習が今猶存している。ただし皇室と臣民の種別は万古を貫く大法にして、これは日常談論の外である。職業によって別つ制度は、我が国は封建時代に行われたが、今はほとんどなくなっている。インドにおいてはすこぶる厳しく、種族の貴賎と職業の貴賎を組み合わせて20余種の職業の階級があり、互いに侵すことができないという。徳行によって別つことは、最も合理的な、理想的であるが実際においてはその割合に行われていない。財産によって別つことは、何れの国にも最も多い。中国・日本において、『富貴』と連ね、貴と財とを結合することは、この一般心理を表したものであろう。 我が尊徳はこれに対して、どのような断定を下したか。彼曰く 『徳と貴とは本末にして古今の差のみ。古へ徳を積みし者は今貴(たっと)し。今徳を積む者は後世貴し。勤めて徳を積み子孫に伝へ、後世(こうせ)を楽しむの外あるべからず。』 又曰く 『夫れ貴(たっと)き者は能く徳を尊ぶ。徳ある者は能く貴(き)を尊ぶ。貴を尊べば徳生ず。徳を尊べば貴を増す。貴を敬へば徳益々盛なり。徳を尊べば貴きこと増々長栄す。古(いにしへ)の徳行は今貴し。今の徳行は後世貴し。徳行を以て貴を後世に継ぐ。徳と貴とは、譬へば草木の花実(くわじつ)の如し。古今の差あるのみ。いづれも天下国家を治むるの要道なり。返す返すも万民の希(こひねが)ふ所に候。』 『人皆其の職を貴ぶべし。家老が代々官禄を以て勤仕(きんし)するも、豆腐屋が豆挽くも同じことなり。然るに豆腐屋は恥かしと思ひ家老は栄なりとするは誤なり。』 すなわち職業は皆貴にして、大臣は貴く、豆腐屋は賎しいといういわれは無い。そうにもかかわらず、彼が専ら重農論を強調したのは、農は直接の生産者であり、その時代の実情において、国民皆農をなすも支障がないという理由から来たので、その徳を尊んだのである。若しそれ財産にいたっては最も軽視した。曰く『徳は本なり。財は末なり』 随ってその言論においても、行為においても、富者を貴び、貧者を賤しんだ痕跡は、彼において認めるを得ない。 これを要するに彼の貴賎の標準は、種族ではなく、職業にもあらず、財産にもあたず、ただ徳にこれありえたのである。彼はすなわち歌って曰く、 受け得たる徳をおのおの譲りなば 四海のあひだ 父子の親しみ
2021年06月27日
二宮先生語録巻の3 【233】ゴーダマ・シッダルタ(釈尊)の論は人々をこのように諭す。「私は王子である。王位にあれば大変に安楽である。しかしあなたがたのために王位を去って肉食や妻や妾を断って独身となり、今日の食も、一鉢を分度となし、衣は捨てられたようなボロを用い、飢えや寒さを免がれるだけである。これもまた勤めなければ得ることはできない。だから寒くても暑くても風雨の時でも、西にはしり東に走り一鉢の米を得て、命を保つ。独身であることこのようである。ましてやあなたたちはなおさらである。父母や妻を養い、子を育て、家屋で風雨をおおい、衣服で寒さや暑さをしのぐ。五穀で口腹を充たす。家屋は修理しないわけにいかない。衣服はつくろわければならない。五穀は植え付けや取り入れをしないわけにいかない。そうであればどうして一日も勤めないわけにいこうか。勤めれば疲れる。もし疲れることを厭うならば、妻子を養うわけにいかない。家屋にいることはできない。衣服を用いることはできない。五穀は食べることはできない。あなたがたは妻子を捨てて養わないか、家屋を捨てて雨に濡れるか、衣服を捨てて寒さをたえるか、五穀を捨てて飢えを忍ぶか」。人々は皆言う。「まことにもっともです。疲れても勤めないわけにはいきません」。これを同発菩提心というのじゃ。ああ、そのこれを論ずること至れり尽せりである。1『報徳秘稿』一八五「釈氏、衆生を教誨して済度する、至れり尽くせり。衆に諭すに曰く、予は上梵大王の子に生まれば不足あることなし。然れども、汝衆生の為に大王を捨てて、妻子を絶ち、独身となって、今日の食手鉢一つと極めたり。然り而して、安居して身命を養うことあたわず。寒暑風雨を厭わず、日々奔走して、一鉢の施米を得て、身命を保つ。是の如く独身一鉢の身すら尚一日も安息することを得ず。一日も安足せざるを得ず。況や汝等に於いてをや。妻を持ち、子孫を愛し、此の家に入りて雨露・雪霜を支え、衣服を以て寒暑を凌ぎ、五穀を食して口腹を養う、何ぞ一日も安居することを得んや。家は作らずは成らず。衣は織らざれば出来ず。五穀は耕作せざれば出来ず。家は造るとも年々補わざれば破るるぞ。衣も亦然り。五穀も年々耕さざればならぬぞ。之を勤るには必ず骨が折れるぞ。若し骨折りを厭わば妻子も養うべからず。家にも入るべからず。若し骨折りを厭わば妻子も養うべからず。家にも入るべからず。五穀も食うべからず。衣もきるべからず。家に入らずして雨にぬれて居らるるか。衣をきず裸身にし寒にさらして居らるるか。食を食べずんば一日も飢えて居らるるか、と説く。衆生皆尤もと感じ、仮令(たとえ)骨が折るるとも耕織を勤むるがよかろうと云う。是を同発菩提心と云うなり。」
2021年06月24日
土屋大夢 湯船の諭し<めぐる水車> ロータリーは回転を意味するが、二宮尊徳も常に回転、“循環の訓え”を説いている。植物は種から発芽、生長、開花、結実、そして再び種に戻って循環する。循環と関連して【水車の話】がよく出ます。 『水車は輪回するものでありますが、人の道も水車のようなものと思えばよい。その形の半分は水流に順い、半分は流水に逆らって回転する。もし、まるまる水中に入れば回わらずして流さるべし。また、もし水を離るれば回わることあるべからず。』『それ仏教にいう高徳、智識の如く、世を離れ欲を捨てたるは、水車の水を離れたるが如し。また凡俗が、教義に耳を傾けず、義務も知らず、私欲一辺倒に執着するは、水車をまるまる水中に沈めたるが如し。共に社会の用を為さず。』 『ゆえに人の道は中庸を尊ぶ。水車の中庸はよろしき程に水中に入れて、半分は水に順い、半分は流水に逆らって運転滞らざるに在り。人の道もそれと同じように、【天理】に順いて種を蒔き、天理に逆らって草を取る。欲に随うて家業を励み、欲を制して義務を思うべきなり。』(二宮翁夜話第三節)と言っております。<湯船の諭し> さらに、“二宮尊徳”は、『人のために善を尽すことが、やがて、自らを利することになる。』と言って、多くのたとえを挙げております。 有名なのは【湯船の諭し】です。弟子の福住正兄という人が、箱根の湯本に温泉を持っていましたが、二宮尊徳がある日、この弟子の兄と共に温泉につかり、湯桁に腰をかけながらこういうように教えました。 『世の中には、お前たちのように物持ちでありながら、十分であることを知らずに、あくまでも利をむさぼり、不足を唱えるのは、あたかも、大人が湯の中に立って屈まないで、湯を肩にかけて「湯船が甚だ浅い。膝にも達しない。」とつぶやき罵しるようなものだ。』『もし、お湯をその望みのように深くすればどうなるか。小人・童子は入浴できなかろう。これは湯船が浅いのではなくて、自分が屈まないのが間違いなのだ。世間で富者が不足を唱えるのはこのたとえと何処が違おうか。分限を守らなければ千万石ありとて不足に感ずることであろうと。』また、尊徳はこういう風にも論しました。『湯に入って、お湯を手で己れの方に掻けば、湯は我が方へ来るようだが、すぐ向うへ戻ってしまう。反対に、向うへ手で押しやれば、やがてわが方へ流れ帰る。少し押せば少し帰るし、強く押せば強く帰る。これが【天理】というものである。』夫れ、仁といい、義というは、向うへ押す時の姿なり。わが方へ掻く時は、不仁となり、不義となる。人体の組み立てを看よ。人の手は、我が方へ掻くことができるが、同時に向うの方へも、押せるように出来ておる。これ人道の元なり。 鳥獣は然らず。わが方へ取り込むのみ。人たるもの、先方へ手を向けて、他人のために向うへ押すことを忘れるは、人にして人に非ず、すなわち禽獣なり。あに恥しからざらんや。ただに恥しきのみならず。天理に背くが故に、終には滅亡す。我、常に奪うは益なく、譲るに益あり。よくよく玩味すべし。』(同第三八節)これはロータリーのモットー “He profits most who serves best”と全く同じ意味です。<義を先に利を後に>250余年の昔、大丸を創業した“下村彦右衛門翁”は、一行商から身を起した人であるが、一代にして東西の三都ならびに中京に堂々たる店舗を開設し、百貨店業界に覇を競うまでに発展しました。その標榜した旗印は「義を先にし利を後にするものは栄ゆ」でありました。 商売道において、まず志すべきは、富の集積にあらず、利権の獲得にもあらず、取引の誠実と顧客へのサービスであることを道破し、繁栄はこれに伴って後からついてくるものであると訓えたのであります。これまたロータリーのモットー“Service Above Self”(サービス第一、自己第二)と全く符合する考え方であって、あまりにも似ていることに驚きを禁じ得ません。この店祖の教訓に随って代代経営されてきた大丸が今日の繁栄を続けていることも宜なるかなと申せましょう。既に故人となられたが、大丸社長であった里見純吉、北沢敬二郎両君はわが大阪ロータリークラブの元会長であり、かつ、地区の元ガバナーをもつとめたりっぱなロータリアンでありました。<そろばんと論語>明治・大正の時代における実業家の第一人者に“渋沢栄一翁”があります。彼は明治5年に初めてわが国へ銀行制度を導入し、また、通貨制度を改革して、日本に自由主義経済の基礎を築き上げた人であります。 渋沢翁は常に「経済と道徳の合一論」を説かれた。そして彼はこれを「論語とそろばん」と表現しました。右手に算盤、左手に論語だと教えて、明治年代の財界人を指導されたことは有名であります。まことに明快な言葉です。『車に両輪が必要な如く、単なる利益追求の一輪車では走れない。永続きしない。「道徳」というもう一つの輪を備えた上での、利潤でなければ、多くの人の信頼は得られない。また、真の繁栄もあり得ない。』と説くのでありました。今を去ること51年前、ロータリー国際大会がアメリカのセントルイスで開かれた折りに、大会決議第【23の34号】として可決された。そして、今日もなお依然として生きておるロータリー哲学を諸君はご承知でしょうか。こう言うのです。 「根本的にいうと、ロータリーは、自己のために利益を得ようとする欲望と、他人のために尽さねばならぬという義務感との間に、常に起きる心の中の争いを和解して、調整しようとする人生の哲学である。この哲学はサービスの哲学、すなわちService Above Self(サービス第一、自己第二)の哲学であり、そして He profits most who Serves best(最もよくサービスするものに最大の利得あり)という実践的倫理の原則に基礎をおいている。」<神と獣の間> 以上、いろいろと引用しましたが、煎じ詰めればみな同じことを、教えているのに気が付くと思います。結局のところ、人間は神様でないが、動物とは違う。動物のような生き方、つまり、自己本位だけの生き方をすれば、人間とは言えまい。ということであります。 近ごろの日本人はエコノミック・アニマルだと西欧人から悪口を言われている。この罵倒に対してわれわれは、率直に、心静かに反省が必要だと思います。明治100年にして、日本は物質文明の頂点を味わうことができたが、同時に、古い伝統の美しい心、気高い東洋道徳は、日本人の中から失なわれつつある。片や物質、片や道徳の、秤のバランスが崩れ去ろうとしています。私欲の方が、ピンと跳ね上がり、他人を思いやるサービスの精神が、急降下したのであります。 この世代にこそ、ロータリーのサービス精神の運動が、最も要求されて然るべきだと思うのです。著名な実業人が、テレビの画面に、あるいは国会の議場に大勢現われて、糾弾をうけたり、あるいは誤解を招いている如き事件が、将来なおも続くとするならば、日本の自由主義経済体制は、正に危機と言える。体制崩壊の危険なしとは、誰も断言できないでしょう。 自己本位に過ぎる、憂うべき現世相に臨んでこそ、「サービス第一、自己第二」をモットーとする社会生活、個人生活に、われわれロータリアンは改めて挑戦すべきではありませんか。」
2021年06月16日
本日は午後休んで、センターで、青山士の「信濃川改修工事」をワードに起こしていた。レターボックスを見ると大学・公共図書館からの寄贈のお礼の葉書とともに、千葉県柏市の方からのお葉書が届いていた。「『二宮先生語録』を柏市図書館にて借りて読んでいます。是非とも手元に置いて何回も読んでみたい」という趣旨で「仕事も農業関係でもあり、師の思想に共鳴すること多です」とあった。家に帰って書棚を見ると、『二宮先生語録』は2冊しかない。「『二宮先生語録』は絶版で私の手元に二冊しかありませんが、『仕事も農業関係でもあり、師の思想に共鳴多』とのこと一冊お譲りします。」と「技師鳥居信平著述集」出版絵葉書に書いて投函する。〇尊徳先生が小林平兵衛に諭された話が「報徳見聞記」に載っている。尊徳先生が御殿場の小林平兵衛という人の仏壇を開帳されたところ、そこに「諸人無愛敬諸道難成就(諸人愛敬無ければ、諸道成就しがたし)」と書かれてあったのを見て、「きさまは、この語をもっぱら信じ用いる者か」とひどくお叱りになったことがあります。「諸人に愛敬を受けなければ、道は成就しないなどと思って、人に助けられることのみ修行するものだ。これは菜っ葉の虫が柔らかい葉を食うようなものだ。本当に諸道を成就しようと思うなら、次のように心がけるべきだ。 諸人救助なくして諸道成就しがたしこの自他の違いは大きい。人と生まれて諸人を救助することなければ、諸道成就することなし。人を救い助ける心を押し広げる。そして是非を見極め、誠をもって救い助けるべきだ。そうして後に諸道は成就するのだ」とじゅんじゅんと諭されたのでした。(報徳見聞記68)☆尊徳先生は、平兵衛の 人に愛され敬われよう とする心がけをたしなめられた。そうではない 人を救い助ける心をもって、それも無暗に行うのではなく、是非を見極めて(二宮金次郎は桜町で助けても救ってもかえって堕落する人がいるのを見て、そういう人は見限ってその子や親族で自力更生の心掛けがある者を取り立てた。そのことで小田原藩から派遣されている役人と対立し成田山参籠へとつながる)誠をもって救い助けるべきだとする。
2021年06月14日
「当年の時候遺作の模様は、昨年出張された時に詳しくお話し申し上げていたところですから、今更驚くようなことではありません。しかし、御議論も申し上げておいた旧冬の儀は、秋からまず日照りの模様、その上数度の地震、その上暖気と、陽が三つ重なったので、いずれ今年の夏は雨天・冷夏と陰が重なることは天地自然、これを承知して明白にご覧に入れたいと、いろいろ申し上げ、一円図をもって申し上げておいたところです。」二宮先生語録巻の2【162】《訳》手で物を取るとき、左手が出れば右手が出、右手が出れば左手が出る。親指が出れば人差し指が出、人差し指が出れば親指が出る。口で御飯を食べるとき、上の歯が下れば下の歯が上がり、下の歯が下れば上の歯が下る。これは自然の勢いじゃ。仏教で僧が法を説く場合も同じである。「南(な)」と言えば「無(む)」といい、空と言えば色(しき)と言い、死と言えば生と言う。すべての言葉がみなそのとおりじゃ。だから狐や狸もたぶらかすことができず、悪鬼も近くに寄ることができない。儒者の言葉はそうではない。ただ譬えば「田を耕すべし」「家は造るべし」と言う。仏者は「田は必ず荒れ、家は必ず破れ、生有るものは必ず死ぬ」と言う。譬えば家に盗っ人が入ったとする。家の外で「御用だ!」と呼べば、家の中で「召し捕った」と叫んで、これを縛り上げるようなものじゃ。儒者はただ家の外で「御用だ!」と呼ぶだけである。盗っ人は裏口から逃げ出してしまうことを知らないものだ。1『二宮尊徳全集』第3巻日記四〇八頁、天保七年(一八三六)六月十六日、小田原藩の横沢時蔵にあてた手紙は、二宮金次郎が天保の凶作を予知していた話を証明する手紙である。「当年の時候違作は、昨年申し上げたとおり」とあり、金次郎が数か年に及ぶ天候不順を予測していたことが分る。一円図で説明していたことも分り、二宮金次郎の思考方法の独自性を伺うことができる。「お手紙拝見しました。仰せのように今年の時候は雨天・冷気勝ちで、諸作物の稔りのほどもおぼつかないことをお心にかけられ、飛脚をもってお尋ねくだされ、ご深意のほど、陣屋に詰めている者はもちろん、ご領内の領民が重々有難いしあわせに存じます。早くこちらから村役人をもって作柄の良否を申し上げるところ、少々延引しました訳は、豊田氏も先月十四、五日までは必ず帰村するべきてはずを定めて出立し、そのほか辻村の源左衛門も去年二十六日出立し、今月五、六日頃までには必ず帰村するべきつもりで出立しましたので、この両便で御地のご様子を承知した上で委細申し上げる心組みで一日一日と日遅れになりました。仕方なく昨十四日に知行所の村役人一同に申し付けて当陣屋内残らず出払って、田畑を検査し、確固とした作柄の模様を申し上げるようにと出張しました。帰宅したところへ飛脚が到着しました。天道自然と申しますか符節を合わせたようです。もっとも当年の時候遺作の模様は、昨年出張された時に詳しくお話し申し上げていたところですから、今更驚くようなことではありません。しかし、御議論も申し上げておいた旧冬の儀は、秋からまず日照りの模様、その上数度の地震、その上暖気と、陽が三つ重なったので、いずれ今年の夏は雨天・冷夏と陰が重なることは天地自然、これを承知して明白にご覧に入れたいと、いろいろ申し上げ、一円図をもって申し上げておいたところです。何も今になって変だと申すことではありません。年がらはもちろん、人の身の上、禍福吉凶、財産の盛衰、万事一々、陰陽がためらって合体せず、陰々と重なる時も陽々と重なる時も亡びる。天地が万年を経ても寒さ暑さが増減のないことを天地静謐と喜び、また百千万日を経ても昼夜は増減あく、千里の道を行っても右足一歩、左足一歩、右足左足と増減のないことをもって自在とすることは天地の間皆そうです。昨年、図をもって申し上げたように、前年の陽々と重なった次は、陰々と重なるのは、全く天地自然、なにぶん人の力の及ばないところです。まず当知行所(桜町陣屋内の領地)は、ヒエも蒔きつけ、米も別紙の俵数がございますから、これ以上の取り計らいは必要ありません。村内の結束が第一と考えています。そのほかは金子を繰り合わせ西ノ久保様(領主宇津氏)の差支えにならないよう取り計らいたいと存じております。どうか格別のご賢慮をもって、村内の結束、西ノ久保様のおしのぎなさるような良い方法を幾重にもお考えください。今年の作物は大豆少々よろしく、その次は小豆、芋なども少しよいように見えます。不作のものは綿、その外にごま・おかぼ・あわなどは追々赤くなり、根に虫がついた様子と人々は申しております。稲作もところどころ寄せ水の末、水上の土地、干鰯(ほしか)と肥料をたくさん施し、その上早く植えた場所はかなり実るようです。その外、日陰の土地、水窪、野地、谷田の類は植え付けたままで、また植え付けた時よりかえって赤い葉ができ、根が減じたものもあり、これから天気が良くなっても、ようやく天保四年くらいの実りになれば、まず大喜びと推察します。それとても今日までの模様ではなかなかそこまでも及ぶことは難しいと心配しております。しかし、どのように不作であっても、ご知行所(桜町領)につきましては、近郷近村よりはまずはしのぎやすいと思います。この段ご安心下さい。そのほかは天気が回復することを祈り、ご良策をご考案の上お示しくださるようお願いします。何にしましても、村役人が帰村の時、ご仁恵のほどお願い申し上げます。以上。」
2021年06月11日
代表的日本人より「二宮尊徳」by内村鑑三5 公共事業一般「手だてに困ったときの飢饉の救済法」という名高い講和を尊徳が行ったのは、このときのことでした。主だった聴講者は、領主によって藩政の執行に任ぜられていた国家老(くにがろう)でした。この講話には、講師の特徴がよく反映しているので、その一部をここに紹介しましょう。「国が飢饉をむかえ、倉庫は空になり、民の食べるものがない。この責任は、治める者(領主)以外にないではありませんか。その者は天から民を託されているのです。民を善に導き、悪から遠ざけて、安心して生活できるようにすることが、与えられた使命ではありませんか。その職務の報酬として高禄を食(は)み、自分の家族を養い、一家の安全な暮らしがあるのです。ところが、今や民が飢饉に陥っているのに、自分には責任はないと考えています。諸氏よ、これほど嘆かわしいことを天下に知りません。この時にあたり、よく救済策を講じることができればよし、もしできない場合には、領主は天に対して自分の罪を認め、みずから進んで食を断ち、死すべきです!ついで配下の家老、郡奉行、代官も同じように食を断って死すべきです。その人々もまた職務を怠り、民に死と苦しみをもたらしたからです。飢えた人々に対し、そのような犠牲のもたらす道徳的影響は、ただちに明らかになりましょう。『ご家老とご奉行が、もともと何の責任もないにもかかわらず、私たちの困窮のために責任をとられた。私たちが陥っている飢饉は、豊かなときに備えようとしないで、ぜいたくと無駄遣いをしたためだ。立派なお役人らをいたましい死に追いやったのは私たちのせいだ。私たちが餓死するのも当然だ』こうして飢饉に対する恐れも餓死に対する恐怖も消え去るでしょう。心は落ち着いて、恐怖は除かれ、十分な食糧の供給も間もない。富める者は貧しい者と所有を分かち、山に登って、木の葉、木の根も食べることになるでしょう。たった1年の飢饉で、国にある米穀をすべて消費しつくす心配はありません。山野には緑の食物もあるのです。 国に飢餓が起こるのは、民の心が恐怖におおわれるからです。これが食を求めようとする気力を奪って、死を招くのです。弾丸をこめていない銃でも、撃てば臆病な小鳥を撃ち落すことがあるように、食糧不足の年には、飢餓の話だけで驚いて死ぬことがあるものです。したがって、治める者たちが、まずすすんで餓死するならば、飢餓の恐怖は人々の心から消え、満足を覚えて掬われることでしょう。郡奉行や代官にいたるまでの犠牲を待たずに、よい結果が訪れると想います。このためには家老の死のみで十分です。諸氏よ、これが何の手立てもないときに飢えた民を救う方法です。」講話はおわりました。家老は恥じ入って、長い沈黙ののちに言いました。「貴殿の話に異存はない」尊徳の痛烈な話は、まじめに語られた話ではありますが、もちろん実行をねらったわけではありません。救済は実直に遂行されました。実直であるということは、他の即断、勤勉、苦しむ人々への強い同情、「自然」と「自然」の恵み豊かな理法への信頼と同じく、尊徳の仕事には常にあらわれる特徴でした。穀物と金銭が、困窮する農民に対して、5年以内の穀物による分割払いの約束で貸し与えられました。約束は、忠実に、いとわずに守られ、4万390人の窮民の、一人として約束期限に支払えなかった者を出さなかったのです!これは、救済を提供する側の深い信頼とあわせ、救済される農民側の純真な心の賜物でした。このことを忘れてはなりません。☆報徳記の該当箇所は以下のとおりである。申(さる)の凶荒(きようくわう)に當(あた)り、救荒(きうくわう)の道を命ぜられ小田原に至れり。時に大夫(たいふ)某(それ)先生に問て曰く、年飢ゑて民を救うの道を得ず。此の時に當(あた)り何の術を以て飢渇の民を救ひ之を安(やす)んぜんや。先生曰く、禮(れい)に云(いわ)く國(くに)九年の蓄(たくわ)へ無きを不足と曰ひ 六年の蓄(たくわ)へ無きを急と曰ひ 三年の蓄(たくわ)へ無きを國(くに)其(その)國(くに)に非ずと曰ふ夫(そ)れ歳入の四分が一を餘(あま)し之を蓄(たくわ)へ、水旱(すゐくわん)荒年(くわうねん)盗賊衰亂(すゐらん)の非常に充(あ)つるもの、聖人の制(せい)にあらずや。事豫(あらかじ)めする時は救荒(きうくわう)の道何ぞ憂ふる事之あらん。然るに僅(わづか)一年の飢饉至り救荒(きうくわう)の道なしとは何ぞや。是の如くにして國君(こくくん)の任何(いづ)れにかある。大夫(たいふ)執政(しつせい)の任何を以て其任とするや。大夫(たいふ)某(ぼう)曰く、事前に備ることあらば元より凶飢(きようき)の憂(うれひ)あらず。今如何(いか)にせん。其の備(そなへ)なく又其の術を得ず。此の難場(なんば)に臨み之を處(しょ)するの道ある歟(か)。撫育の米財なくして民を救(すく)はんこと英傑明知と雖(いへど)も能(あた)はざる所ならん、將(はた)別に道あるか。先生答へて曰く、如何(いか)なる困窮の時といへども自然處(しょ)すべきの道なしと謂(い)ふ可らず。唯(たゞ)行ふ事の能(あた)はざるをのみ憂ひとせり。某(ぼう)曰く願はくば其の道を聞かん。先生曰く、國(くに)窮し倉廩(そうりん)空しくして五穀實(みの)らず國民(こくみん)餓ヒョウ(がへう)を免れざるもの其の罪安(いづく)んかある。國君(こくくん)大夫(たいふ)以下の職たるや、天民(てんみん)を預り之をして悪に陥らず善を行ひ、人倫の道を蹈(ふ)み生養(せいやう)を安ぜしむるもの其の職分にあらずや、此の勤勞(きんらう)を以て恩禄を賜り父母妻子を養ふことを得。然るに其の民を預り安んぜんとするもの思慮此(これ)にあらずして自ら安居(あんきょ)の道を計り奢侈(しゃし)に長じ、上下(じょうげ)困窮に陥り萬民(ばんみん)をして飢渇死亡に穽(おとしい)るゝに至りて、猶(なほ)漠然として我が罪なることを知らず、歎ず可(べ)きの至りに非ずや。此の時に當(あた)り救助の道を得(え)ば可也(かなり)。若し得ずんば人君(じんくん)此の罪を天に謝し萬民(ばんみん)に先立ち飲食を斷(だん)じて死すべし。然りといへども一國(こく)君を失はゞ其の患(うれ)ひ至大(しだい)にして、誰か又國家(こくか)を治めん。然らば大夫(たいふ)たるもの君の死を止(と)め、領中に令(れい)して云(い)ふべし。我等君(きみ)を補佐し仁政を行ひ百姓(ひゃくしやう)を安んぜんが爲(ため)の職分なり。然るに上(かみ)君に忠を盡(つく)すことあたはず、下(しも)百姓を安んずることあたはず、一歳(さい)の飢饉猶(なほ)其の飢渇を救ふことを得ず、是皆我が不肖(ふせう)にして其の罪重しといふべし。百姓に謝するに死を以てすといへども何を以て其の罪を償ふことを得んや。君(きみ)仁心厚くして某等(それがしら)の罪を自分(じぶん)の過(あやま)ちとなし、今領民に先立ち命を棄て萬民(ばんみん)に謝し玉はんと宣(のたま)ふ。某等(それがしら)大いに驚き一國(こく)上下の大患(だいくわん)是より大なるはなし。君(きみ)素(もと)より臣等に安民の政(せい)を任ず。臣其の任を受けて而(しか)して其の民を飢渇に陥らしむ。此の罪臣等にありと言上し、君(きみ)の百姓に先立ち玉ふことを止(と)め奉りしなり。是(これ)に由(より)て某(それがし)百姓に先んじ食を斷(た)ち死を以て領民に謝する也と令し、第一に大夫餓死(がし)に及ぶべし。其の次に郡(こほり)奉行(ぶぎょう)なるもの其の職とする所領民の危(あやふ)きを去り安からしむるにあり。然るに其の行ふ所道に差(たが)ひ此の民を飢亡(きぼう)せしむ、是我が罪なり。死を以て百姓に其の罪を謝せんと云(い)ひ斷食(だんじき)して死すべし。其の次は代官たるもの奉行同罪なりと云ふて食を斷(た)ちて死すべし。是(こ)の如くなれば始めて其の任に在りて、其の任を忘れたるの罪を知れりとすべし。領民此の事を聞かば國君(こくくん)の民を憐み玉ふこと一身にも換(か)へ玉ふ。大夫(たいふ)以下我々飢渇の故を以て其の咎(とが)を一身に引(ひ)き飢亡(きぼう)に及べり。君(きみ)大夫(たいふ)以下何の罪あらんや。我が輩(ともがら)平年奢(おご)りに長じ米財(べいざい)を費(ついや)し凶年の備(そな)へをなさず自(みずか)ら此の飢(うゑ)に及べり。然るに高禄歴々の重臣之が爲に死亡に至れる事我輩(わがはい)の大罪にあらずや、餓死元より當然(たうぜん)なり。高禄の貴臣尚(なほ)食を斷(た)ちて終れり。我々の餓ヒョウ(がへう)に至らん事何の恐るゝ所やあらんやと、一同飢歳(きさい)を恐れ死亡を憂ふるの心忽然として消(せう)し其の心悠然たり。一旦憂懼(いうく)の心去る時は食(しょく)其の中にあり。領民互(たがひ)に融通(ゆうつう)し又は高山に登り草根(さうこん)を食とし、國中(こくちゅう)一人の餓ヒョウ(がへう)なきに至る事必せり。一年の凶飢(きょうき)何ぞ一國の米粟竭盡(けつじん)するの理あらんや。又百草百木も人を養ふに足れり。然して國民飢亡(きぼう)に及ぶものは憂惧(いうく)の心主となり、食を求るの氣力(きりょく)を失ひ死亡に至るなり。譬(たと)へば玉なしの鳥銃(てうじゅう)の音に驚き死するが如し。鳥銃玉なくんば豈(あに)人を害せんや。然して斃(たふ)るゝものは玉ありとなし其の音に驚き死す。一歳(さい)の凶年何ぞ人を害せんや、人飢饉の音に驚き飢渇に及べり。是の故に政(せい)を執るもの咎(とがめ)を一身に引(ひ)きて先づ死する時は、音に驚きたる衆民(しゆうみん)の惧心(ぐしん)消散(せうさん)し、必ず飢(うゑ)に及ぶものなし。豈(あに)奉行代官までの死を待たんや。大夫(たいふ)餓死せば萬民(ばんみん)救はずして必ず飢亡(きぼう)を免るべし。是(これ)荒政(くわうせい)の術盡(つ)き萬民(ばんみん)を救わずして救ふの道なり と云ふ。大夫(たいふ)愕然(がくぜん)として自ら失ふが如く、流汗(りうかん)衣(ころも)を沾(うるほ)し良(やゝ)久しくして曰く、誠に至當(したう)の道なり。
2021年06月11日
御木本幸吉「それは面白い企てである。鈴木君の長逝はお互い残念なことであるが、その代わり私が今度鈴木君の志を継いで、その寄附講演とやらを実行することにしよう。」御木本幸吉の二宮尊徳顕彰事業は鈴木藤三郎の遺志を継ぐことでもあったのである。二宮尊徳の生家に掲げられた御木本幸吉顕彰碑「文部大臣従三位勲二等法学博士 一木暮徳郎寡款」「二宮尊徳翁ノ誕生セラレタル旧宅ノ趾ニシテ、又其ノ興復ノ辛酸ヲ嘗メラレタルノ地ハ、即チ此ノ總計二五九坪ノ地積、是ナリ。明治四十二年三重県鳥羽町ノ人、御木本幸吉氏其ノ地久シク堙晦二層スルヲ憾ミトシ、貲ヲ出シテ此ノ地ヲ購ヒ、工ヲ起シテ、適当ノ設備ヲ爲シ、其ノ歳十一月十五日ヲ以テ、土工ノ一切ヲ竣へ、其ノ地積ヲ挙ゲテ之ヲ本会二寄附セラレタリ。本会ノ有志、及チ碑ヲ建テ、翁ノ遺蹟ヲ顕彰セムコトヲ謀ル。遠近聞ク者、争ウテ醵金ヲ寄セ、女学校生徒及ビ小学校児童ノ之二応ジタル者、亦少シトセズ、頃者、碑石漸ク定マル。因テ其ノ次第ヲ記シ、之二勒ス。」大正四年八月 中央報徳会読みやすくする。二宮尊徳翁の誕生された旧宅の跡にして、またその興復の辛酸をなめられた地は、すなわちこの総計259坪の地積、これである。明治42年三重県鳥羽町の人、御木本幸吉氏はその地が久しく堙晦(インカイ:ふさぎ、くらます)に層するを憾(うら)みとし、貲(シ:たから)を出して、この地を購(あがな)い、工を起こして、適当の設備を為し、その歳11月15日をもって、土工の一切を竣(お)え、その地積を挙げてこれを本会(中央報徳会)に寄付された。本会の有志は、碑を建てて、翁の遺跡を顕彰せんことを謀(はか)る。遠近聞く者、争うて醵金(きょきん)を寄せ、女学校生徒及び小学校児童のこれに応じた者は、また少なくない、頃者(ケイシャ:このごろ)碑石ようやく定まる。よってその次第をしるし、これにきざむ。御木本幸吉は、関東大震災で生家の周りの石垣が倒壊した折も現地におもむき、復旧の工費を出すとともに、二宮尊徳顕彰のための案内碑の整備などにも全面的に協力した。「相州桜井村栢山なる二宮翁の誕生地跡は久しく桑園菜圃のまゝに委せられてゐたが、真珠の養殖を以て知られたる御木本幸吉氏大に之を憾(うら)みとし、眥(し)且つ樹を植え柵を繞らす等相当の設備をなし、挙げて之を本会に寄附して永久に保存の道を講ぜられた。ことは十数年前に属するが、同地は一昨秋の大震災の為め、周囲の石柵悉く倒壊し、記念碑も亦斜傾する等の被害ありたるを以て、御木本氏は更に其修理を企てられ、去る三月二十二日午後、忙中の寸閑を以て令息と共に実地の検分に赴かれた。本会よりは留岡理事並に上野、近江両幹事行を共にした。翁の遺族たる二宮長太郎、二宮兵三郎両氏を首(はじ)め、同村吏員有志諸氏に迎へられた一行は、先づ詳しく其実状を踏査した後、御木本氏より、之が修理に要する工費は悉く寄附するのみならず、更に翁の遺蹟を顕彰する為めに種々考慮しつつある旨を述べられた。是等はいづれ遠からず実現さるべく、其機会に於て発表することゝする。一行は残雪斑々たる函嶺の彼方に落んとする夕陽に照されつゝ記念の撮影を終り、更に車を急がせて小田原城趾なる報徳二宮神社に詣でた後、帰京の途に就いた。因に近く起工さるべき小田原急行鉄は同地付近を通過する予定であるといふ。」(『斯民』一九〇九年、報徳会、四編九号、七四頁)「人道」という留岡幸助主宰の雑誌の156号に(大正7.4.15)「御木本真珠翁」という記事の中で鈴木藤三郎は「61歳になったら事業を辞めて財産を3分し、その一部で全国に自治、報徳、慈善に尽くしたい。全国講演の折は君に手伝ってもらいたい」と提案し、留岡氏は「君の考えは61歳以降の計画のほうが素晴らしい。ぜひ三寸の舌を提供し寄付しよう」と盟約した話が出てきます。藤三郎は61歳以前になくなりましたが、それを聞いた御木本幸吉が「それは面白い企てだ。私が鈴木君の遺志を継ごう」と言っています。御木本翁は二宮尊徳を心から尊敬し、「わたしは志摩の尊徳になりたい」と、口にしていたそうですが。大正4年、小田原市栢山にある二宮尊徳の生家があった土地を購入し、他の場所に移されていた生家を移築しました。これも藤三郎の遺志を継ごうという思いもあったのからかもしれません。「鈴木藤三郎君が在世の時分、私と両人で相談したことがある。鈴木君がいうに、藤三郎もお蔭で相当の余財ができたから61の還暦を期として財産を三分し、その一部分を全国一周の講演費に充てゝ自治、報徳及び慈善のために尽くしたい、その時は留岡君、講師になってくれまいかとの事であったので、私が答えて、それは近頃以て奇特なお考えである。農業に譬えていえば、稲を作るは61以前の事で米のできるのは、61以後の事である。貴君の考えは失敬ながら61以後の計画の方がそれ以前の計画にも倍して立派なものである。貴君が金を提供するなら、この貧乏な留岡は金の代わりに三寸の舌を提供して全国に講演の寄附を致そうと、こう語り合って互いにその積りでいたのであったが、人事図るべからず、鈴木君は晩年蕭条、思いがけなく早くもこの世を去ったのは返す返すも遺憾な事である。ところが、先日御木本翁と旅行を共にしているある夜のこと、四方山話の末に、ゆくりなく往時を回顧してこの事を語ると、翁がいうに「それは面白い企てである。鈴木君の長逝はお互い残念なことであるが、その代わり私が今度鈴木君の志を継いで、その寄附講演とやらを実行することにしよう。しかし留岡君、お互いまだ若い身空であるからその実行は今十年経ってからの事にしようじゃないか。幸吉は本年61歳、後十年すると相当に財産もできようし、君は本年55とやら、すると65になって両人とも、かなりの年輩になる。その時を期していよいよその計画を実行することに着手するも、いまだ以て遅しとせずだ。いかがです、この考えは」との事である。そして私も大いに翁の意気を壮とし、ついては予めこの約束を反古にせざらんがため、世に披露して置くことも志を遂げる方便にもなろうと相談がまとまり、ある会合の後、有志諸君と懇談の節に、非公式の形で両人からこの事を発表するのみか、三重県下で起こったことであるから一応知事に報告することも他日の左券になろうとて、自分は長野〔幹〕明府に手紙を書いて送って置いた次第であった。後十年、天幸いに命を貸すならば、翁は兵糧を持参し、私は口を持参して、講演の回国団を組織し、全国を打って回ることになるが、翁はその時もやはり「電気演説」を前座に務めるという条件まで定まったのである。人生の前途は多望である。思えば今後の十年間、これ自分にとって大切な修養の時期である。」
2021年06月11日
西晋一郎「報徳の教えは悟道に至らしめるものであり、悟道から発する人道を立てさせるものでもあつて、教えといふものにはともすると弊の生ずるものである中に、弊の少ない稀有の教えと思はれる。」二宮先生語録巻の二 【155】物があれば、必ず弊害がある。かぶらを植えれば、かぶらの虫が生ずる。たばこを植えれば、たばこの虫が生ずる。これは自然の道理じゃ。ゆえに富には贅沢にふけるという弊害がある。貧乏には怠惰の弊害がある。この二つの弊害は、国家の大きな弊害で、私の報徳の法はこの二つの弊害を除くものじゃ。すなわち贅沢にふけることを転じて倹約と推譲となし、怠惰を変じて勤勉にならせる。二つの弊害が除かれれば国家は安泰となる。1『報徳秘稿』一七二「物あれば必ず弊なき事あたわず。論語の六言六弊の如し。夫れ菜あれば菜虫あり。煙草あれば煙草虫あり。其の如く、富は富の弊あり。貧にも貧の弊あり。貧の弊、是を怠惰と云う、富の弊、之を驕奢と云う。此の二つの者は天下の大患也。我が道は此の二つの患いを転じて幸となし、国用の善種となしたる也。農の不浄を転じて清浄となすが如し。夫れ善は子孫長久の計、是に過ぎたるなし。しかれども、善にも又弊なき事あたわず。弊生ずる時は、忽ち其の善を亡ぼすに至る、恐れざるべけんや。善の弊とは何ぞや。曰く、驕慢也。其の父、善を積むを長久の計となすといえども、是子孫一たび驕慢を生じる時は、葉に虫の生ずるが如し。恐れざるべけんや。」2『尊徳と梅岩』西晋一郎「万物の中人間のみは自らに依る所の存在を実にして無依の天の真に迫るものである。故に人界といふ自己の天地を開くのである。この人間の人間たる所を実にするものが悟道である。報徳の教は悟道に至らしめるものであり、悟道から発する人道を立てさせるものでもあつて、教といふものにはともすると弊の生ずるものである中に、弊の少ない稀有の教と思はれる。尊徳曰く、忠勤を尽くして其の弊を知らざれば忠信に至らず。忠勤を尽くして其の弊を知れば必ず忠信に至る。仁愛もまた然りであつて、その弊を知らねばならぬ。忠勤を尽すを道理と思ふは可なり。忠勤を尽し報徳を思へば忠至る。報徳の二字が至理を言表はして弊少く、実事に施して効多く、教として報徳教と名づけてある。」
2021年06月10日
二宮先生語録巻の二 【154】深山は雪である。谷の奥は凍り、寒さがリンリンとしていても、川柳が芽を生ずれば氷も雪も虚となる。山野の草木は緑であっても、一つの葉っぱが枝を離れれば、緑も皆虚である。国家が衰退し、田畑が荒れ、負債が山のようであっても、国君や家老がこれを深く憂慮する者があれば、衰退や荒地や負債はすべて虚である。たとえ国家が安寧で財産が豊富であっても、国君や家老が贅沢であれば、安寧や豊富もすべて虚である。中庸の伝に「至誠の道は予め知ることができる。国家が今にも興ろうとするときには良いきざしがある。国家がまさに滅びようとするときには必ず悪いきざしがある」と。このことを言うのだ。1『報徳秘稿』五八「夫れ奥山は寒気に閉じて雪ふり氷れども、川端の柳一葉芽を発(ひら)く時は、最早山の雪も谷の氷も皆むだとなりてとけるのみ也。又、秋に至り、桐一葉落ちる時は、世界の青きものは又むだとなる也。世界は昼夜自転して止まず。故に時に向かう者は育し、時にそむくものは枯る。昼前は東に向かう者は照り、西に向かう者は蔭り、昼後は西に向かう者は照り、東に向かう者は蔭る。人々此れを知らずして、或いは運は悪いと云い、或いは世が末だと。是誤り也。故に国に善人ありて、国を興さんと欲するものあれば、幾千万両の借財も皆返済なるべし。又、一人不足と云う心あらば、幾千万両の財宝も又皆むだとなるべき也。―奥山は冬気にとぢて雪ふれど、ほころびにけり前の川柳。」
2021年06月10日
二宮先生語録巻の二 【153】農家が秋、収穫してこれを全て秋と冬に消費すれば、来年の食糧がなくなってしまう。だから秋に収穫すれば年貢を収め、種と飢饉に備えての備蓄を貯え、その余りを十二月で分割し、堅くその分度を守り、父母を養い妻子を養育する。これが農民の道だ。怠け者の農民は、耕作に励まない、それでも秋に数俵を収穫できる、これは天の恩だ。それでなお足らないとして賭博で大利を得ようとする。これは迷いのはなはだしいもので、単に大利を得ないばかりか、賭博は家を亡ぼすに至る。秋に収穫が多いことを願うのは、農民の常で、まずは力を耕作に尽くすべきだ。一の畝を耕せば一の畝の利益があり、二の畝を耕せば二の畝の利益がある。これを中庸に「至誠は神のようである」というのだ。1『報徳秘稿』五一四「農夫秋の実りを得て、之を秋に食い 尽くすときは、明年の食なし。故に貢税を納めて全残穀を十二月に割りて過不及なく妻子を養う、之を道と云う。然るを惰農の癖として、耕耘も能く尽くさずして秋実五俵もあるは、天道の恵みにて大幸なり。然るを不足と思い、之を売りて博奕(ばくち)して多分の金を得んと思う。嗚呼、迷いの甚だしきもの也。何ぞ得ることを得ん。夫れ米粟を多く得たきは農夫の常也。然らば来年を待って一反余計に作るべし。一反余計に作れば、必ず一俵の余計を得。又二反余計に作れば、必ず二俵の益あり。之を至誠は神の如しと云う。」
2021年06月10日
二宮先生語録巻の二 【134】農業はなかば天にしたがい、なかば天に逆らい、順逆がなかばして成る。たとえば水車のようなものだ。水車はなかば水中に入って順流に随い、なかば水上に出なければ。循環を失う。原野の茫々としたのは天自然で、農業はそれに逆らってこれを開墾し、草をきる。春に生育する天自然に随って種まきの時を失わない。なかば天に逆らって農耕を怠らないのが人の道だ。1『報徳秘稿』一六九「天地の道と父子の道と夫婦の道とは、天性自然也。聖人の道と農業の道とは人造にして自然の道にあらず。夫れ、天道自然の道は鳥獣・虫魚、凡そ生きる者皆食を求めて譲る事なく、漸く鳥獣の類に親子共に食するのみ。草木に至りては、眼前松の根に生える松苗は己が子なれども、己が根の届くだけ水を奪い、己が枝葉の届く丈は雨露を吸い、少しも譲る事なし。是則ち天道の自然、古より今に至りて親子・兄弟・朋友の親しみなし。故に聖人始めて出て、譲るの道を興し、是を人道となすなり。人といえども道なければ、何ぞ是と別たんや。故に人心、奪心を生ずるは、譬ば山野に草木の生えるが如し。夫れ山野に草木の生えるを起こし返して米麦を作る。是は農業の道と云う。奪を変じて譲る事を成す、是を人道と云う。共に天道に背くなり。譬ば水車の如し。夫れ、水車は半分は水に随い、半分は水に逆らう形也。聖人の道と云うは此の如し。或いは一度は天道に随い、一度は天道に逆らう。農業の道も又然り。天道に背いて田畑を起こし、天道に随って蒔き仕付ける也。2『報徳秘稿』二二八「農業の道は天に逆って懇開し、刈草し、又、天に従いて樹植し、生養す。半ば天に逆らい、半ば天に従う。順逆相半ばして以て農業成る。之を水車に譬う。半ば水に入りて順流に従い、水上に出て逆流に従う。順逆相半ばして以て水車なる。若し丸に水上に上れば循環せず。丸に水中に入るも亦然り。農の如き、草野茫々たる天自然に逆らいて懇開し、耕耘し、春時生育の自然に順いて樹植糞培し、秋時枯落の自然に従いて刈穫す。半ば天に逆らい、半ば天に順うて、以て農業成る。是自然の道にして人道の第一也。」〇株式会社藤本組(掛川市)創業90周年記念『安全大会・記念式典・感謝の集い』開催!8月21日(金)、創業90周年記念「安全大会・記念式典・感謝の集い」を開催いたしました。記念式典では、今期より社長交代、新組織が発表されました。この記念式典を契機に組織は一段と若返り、新社長から感謝の言葉と共に、力強く、名実ともに「100年企業」「地域№1企業」を目指す! と、宣言されました。記念講演では、二宮金次郎の七代目子孫である、中桐万里子先生を迎えご講演いただきました。水車を例えられ、①水車の下の動きは川に従い、②そして上は逆らう、そして、水車の中では生産活動が行われている。その力加減、バランスが素晴らしい。①従うは 相手を知る、よく見る、観察する、受け入れる、②逆らうは 対策、工夫、実践、行動する。そして、人の生活も同じ・・・ヒントはいつでも生活の中、現場の中にある。という事を教えていただきました。その他、「積小為大」「報徳」について、分かりやすく丁寧にご講演いただきました。それぞれが、日々の生活、仕事を見つめ直す良い機会になりました。
2021年06月10日
飯(めし)と汁木綿(もめん)着物は身を助く 其(その)余は我を責むるのみなり二宮翁夜話に高野氏が尊徳先生のもとで仕法の研修を終えて旅立つ時、尊徳先生が「あなたに安全のお守りをあげよう」とこの歌を授けたという話がのっている。尊徳先生は、相馬藩から、藩の復興の依頼を受け、相馬藩180年の貢税を調べて分度を定めた。仕法着手の依頼を受けたが、最初推薦してきた山村の草野村について先生は相馬藩の家臣が二宮仕法を慕ってなんとしても実施したいという誠意がみられないと仕法依頼を断った。「仕法の道は善を賞して不能を教えることを主としている。だから仕法を行う場合も領中で一番善良な村から行わなくてはならない。領中の模範となるような村に仕法を実施すると、たとえば縛ったたきぎの束に一本のたきぎを打ち込むとき、しまって全部が堅固になるようなものだ。これが一を挙げれば全部が挙がるという道理である。そうであるのに今、領中で惰農の貧しい村から、実施することは前後を間違えている。しかも草野村は城下から30キロほど離れている。私の方法で興せない村は無いが、草野村から始めれば費用もかかり、全村が良くなるまで年数も数十年かかってしまう。草野村に開業を求めるのは私の仕法を信じ、この道を慕うからではない」そこで相馬藩の群臣は協議して今度は領中の中央に位置する大井村、塚原村を推薦してきた。「領中の一番善良な村をよくするのは誰でもできることだ。 大井村は貧村で惰風が極まっている。塚原村は田に海水が入り込んで復興することが難しい。二宮の仕法でよくなるか試してみよう」尊徳先生はまだ相馬藩復興のときではないと明察し、仕法の実施を先延ばしにされた。弘化2年になって、相馬藩の家老池田は、二宮先生が開業されないのはわがほうの至誠熱意がないからだと、代官以下を集めて進んで実施しようという者はないかと奮起を促したが、疑惑するばかりで自分からやりましょうというものはなかった、そのときである。高野丹吾という代官助役のものが名乗りを挙げた。高野は以前から成田村と坪田村の復興を命ぜられていたが、力及ばずなかなか成果があげられないでいた。そこで両村の農民に二宮仕法を示して今この道によらなければ復興することはできないと熱弁を振るった。両村の名主や農民はその熱意にうたれて喜んで歎願しようということになった。高野は歎願の誠意を示すために所有のモミ50俵を差し出して復興の資財とした。それに両村の農民は感動してその分に応じて米や金を出して誠意を表した。高野は両村の戸数・人口・田畑など調査した資料とともに家老の池田に提出した。池田は大変喜び、高野自身先生のもとに赴いて歎願するように命じた。高野は急いで身支度を整え、江戸に赴いた。相馬藩の江戸家老草野は高野に会って事情を聞いて大変喜んだ。そして二人尊徳先生に嘆願書を持って赴いたのである。先生は言われた。「いま両村が誠意をあらわし、領中に先立って仕法を歎願することは賞賛すべきことである。私の道は難村を先にするのではないが、この誠意をとりあげなければ、勧善の道にかけることになろう。よし、その願いに応じよう。」ここに相馬藩の仕法が始まるのである。高野は数ヶ月先生のまとに滞在して仕法を習得した。その年の11月、尊徳先生は高野に懇切丁寧な指示を与え、報徳記の著者である富田高慶を添えて相馬藩に帰国させて仕法を実施させた。その折、尊徳先生は高野丹吾にこういわれたのだ。「あなたに安全の守りを授けよう。すなわち私が詠んだ飯(めし)と汁木綿(もめん)着物は身を助く 其(その)余は我を責むるのみなりという歌である。歌が拙いからといって、軽視してはならない。身の安全を願うならば、この歌を守りなさい。一朝事があったときに、自分の味方となるのは、飯と汁木綿着物のほかにない。これは鳥獣の羽毛と同じでどこまでも味方である。このほかのものは皆自分の敵であると知りなさい。この外のものが自分の内に入るのは、敵が内に入るようなもので、恐れて除きなさい。これくらいのことは、これくらいのことはといって自ら許すところから、人はあやまつものである。始めは害がないものでも、年月をへると思わず知らずいつのまにか敵となって、後悔しても及ばなくなる。このくらいのものはと自ら許すものは猪や鹿の足跡のようなもので隠すことはできず、その足跡のために猟師に獲られてしまうのと同じだ。その外のものが内にはいらなければ、暴君も悪い官吏もどうすることもできない。進んで私の仕法を行う者は慎まなければならない。決して忘れてはいけない。」高野は頭を下げ、その言葉に感謝し、心をひきしめて相馬藩へ帰って仕法を実施するのである。
2021年06月10日
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