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古写真募集の自治体、八田與一夫妻の写真も台南市六甲区公所(=区役所)は2年以上前から、六甲の「人、物、地、産、景」をテーマに古写真を募集してきた。現在までに約350枚が集まり、冊子にまとめる用意を進めている。今年11月には出版される予定だ。これはそのうちの一枚で、烏山頭ダムを建設し、不毛だった嘉南平野を穀倉地帯に変えたことから「嘉南大圳の父」と呼ばれる日本人技師、八田與一(左から3人目)とその妻・外代樹(左から4人目)が並んで写る写真だ。 いまから93年前、昭和3年(1928年)に赤山龍湖巖の前で撮影したもので、八田與一の孫である八田修一さんがわざわざ提供してくれたという。六甲区の陳啓栄区長は「この古写真は私たちの歴史の記憶と感動を呼び起こすものだ。赤山龍湖巖という古刹の約100年前の様子を伝えるものでもあり、非常に貴重だ」と述べている。Taiwan Today:2021年9月23日
2022年08月06日
「日本と台湾の絆を紡いだ土木技師 八田與一」 6.13 漁火会 八田修一氏講演2022年6月18日名古屋の経営者団体の名古屋経営者漁火会主催の講演会が6月13日、名古屋国際センターで行われた。名古屋地域の中小企業の経営者を中心に「立派な日本人たれ」をスローガンに、正しい歴史を学ぶ事で健全な経営を目指す目的で毎月勉強会を行っているもの。今回は、台湾世界遺産登録応援会の代表理事八田修一氏を招き「日本と台湾の絆を紡いだ土木技師 八田與一」を題材に講演された。冒頭、八田與一を祖父に持つ八田修一氏が代表理事を務める「台湾世界遺産登録応援会」の紹介から始まり、「台湾には世界遺産候補地が18か所あるがUNESCOに加盟していないため世界遺産が一つもないという事実」「日本から台湾の世界遺産登録を応援する目的で当会が活動をしている」などの説明がなされた。八田與一は、東京帝国大学土木学科の卒業後、1910年(明治43年)に台湾に渡り、台南上水道の調査を経て、嘉南大圳(烏山頭ダム)の調査を開始した。嘉南平原は雨季には洪水、乾季には干ばつが襲い、塩害も加わり、農民は三重苦の状況であった。この嘉南平原を何とかして灌漑するため、與一は大学で教えを受けた広井勇教授の言葉「橋を架けるなら人々が安心して渡れる橋を造れ、工学はそれを使う人たちのためにある」を忘れなかった。1920年(大正9年)、地震に強いセミハイドロリック工法(中心部はコンクリート、周りは礫、粘土で固める工法)を採用し、大型土木機械を米国から導入して烏山頭ダムは着工された。途中導水管トンネル爆発で約50人が殉職し、難工事であったが與一の指揮により1930年(昭和5年)に嘉南大圳(烏山頭ダム)がついに完成した。ダムの堰堤は長さ1274m×高さ56mで濁水渓と曽文渓との間の嘉南平原92km×32kmを潤し、給配水路は地球半周の1万6,000kmになった。嘉南大圳完成により平原は台湾第一の穀倉地帯となった。講演は「助け合う日本と台湾 分かち合う精神で実践」と「日本精神」が主な内容だった。與一は嘉南大圳(烏山頭ダム)の工事、その後の灌漑の方法による「分かち合う精神」(差別をしない平等の精神)を実践。具体的には次の5点。トンネルガス爆発事故対応で台湾人と日本人を同等に扱った。関東大震災後の解雇の際、優秀な技師から解雇し地元作業員の雇用を守った。殉工碑は亡くなった順に台湾人、日本人を問わず氏名を彫った。三年輪作給水法で嘉南大圳全域に水を供給。(15万町歩、60万人農民)導水源の濁水渓と曽文溪の間に麻魚寮分水工を設け、南北間で渇水時の水供給を準備。90年間で2回使用。さらに「日本精神」とは約束を守る、礼節を重んじる、嘘をつかない、浪費しない、法を守る、勤勉である、時間を守る、人の手柄を横取りしないなど台湾人の間で語り継がれてきた、である。李登輝元総統が2002年の「日本人の精神」講演論文で、第一に「公に奉ずる」精神こそが日本人本来の精神的価値観である事。第二に嘉南大圳工事のように伝統的なものと進歩を適当に調整し、三年輪作灌漑の例のように新しい方法がとられても農民を思いやる心には伝統的な価値観「公義」は変わることがない事。第三は八田與一夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、誠を持って率先垂範、実践躬行する日本精神が脈々と存在している事。以上が列挙された。日本精神の良さは「口先だけではなく実際に行い、真心をもって行うというところにある」と強調された。「当時の日本人は気概を持って生きていた」とも加えた。
2022年08月04日
『水明り 故八田與一追偲録』、台南市の高校へ寄贈https://www.roc-taiwan.org/jp_ja/post/86405.html台湾南部・台南市を拠点とする成功獅子会(ライオンズクラブ)はこのほど、日本の北國新聞社(石川県)が出版した『水明り 故八田與一追偲録』52冊を購入し、台南市に寄贈した。市を通して、市内の普通高校や職業高校に配布する。この書籍は、烏山頭ダム(台南市)を建設した八田與一技師の妻・外代樹さんが、夫の一周忌の1943年に制作。少量印刷して親しい人たちに配った私家版を復刻したもの。八田技師が東京から家族に宛てた手紙や絵はがき、親族による追憶集や関係者による追悼座談会の内容など貴重な資料が収められている。復刻版は2020年、北國新聞社が出版したもので、日本語と中国語訳の併記となっている。寄贈を受けた台南市の黄偉哲市長は、「八田技師は数日前に亡くなった安倍晋三元首相と同じで、心で台湾とつながり、台湾を熱愛した日本人だった。八田技師が残した烏山頭ダムと嘉南大圳は現在も嘉南平野を潤し、台湾と日本の絆をつないでいる」とし、この書籍が台南市と石川県の距離を縮めることになるよう期待を寄せた。Taiwan Today:2022年7月12日
2022年08月04日
青山士「人と人との争いは人がこ之れを止むる事ができますが、天が人に降す災は人はこれを止める事はできません。ただ人はこれに対して、あらかじめ備えるほかありません。 人と人との間の争いは人文の発達しない時代は、力づくでその力の強い方の意思どおりになったのですが、今は裁判所もでき、それに仲裁されて判決されるのです。」「皆様もこの天災すなわち洪水の防御について大きな関心を持っていただきたいのです。」・21世紀は洪水の防御にはある程度備えることもできるようになったが、人と人との争い、すなわち戦争がやまず、仲裁もきかず、力づくで強いほうの意思通りにしようというのが変わらないのが悲しい。「国は利をもって利となさず。義をもってて利となす」二宮先生語録巻の5 【412】利益は利益ではない。真の利は利でないところにある。真の益は益でないところにある。なぜならば、益を益とすれば損がこれについてくる。利を利とすれば害がこれについてくる。そこで義をもって利とするのが賢明な君主が人民をいつくしむところであり、利をもって利とするのが暗愚な君主が人民を虐待するところだ。人民をいつくしめば、戸数人口は増し、田畑は開け、租税額は増大し、国家は富む。国君の利はこれより大きいものがあろうか。人民を虐待すれば戸数人口は減り、田畑は荒れ、租税額は減少し、国家は衰える。国君の不利はこれより大きいものがあろうか。『大学』という書に子思が「国は利をもって利となさず。義をもってて利となす」と言っているのは、このことだ。1 「孟献子(もうけんし)曰く、馬乗(ばじょう)を畜(か)うものは鶏豚(けいとん)を察せず。伐氷(ばつひょう)の家は牛羊(ぎゅうよう)を畜わず。百乗の家は聚斂(しゅうれん)の臣を畜わず。その聚斂の臣あらんよりは、寧(むし)ろ盗臣あれと。これを国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為すと謂う。国家に長として財用を務むる者は、必ず小人自(よ)りす。小人をして国家を為さしめれば、災害並び至る。善者ありと雖もまたこれを如何ともするなし。これを国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為すと謂う。」(大学)洪水の災害と其の防御青山士(「水土と利水」第七巻第十号1928(昭和3)年10月)人と人との争は人之れを止むる事を得べきも、天の人に降す災は人之れを止むる事能はず唯人は之れに対して予め備ふるの外ありません。人と人との間の争いは人文の発達せざる時代は力づくで其の力の強い方の意思通りに成つたので ありますが今は裁判所も出来夫れに仲裁せられ判決せらるるのであります。災害の防禦と言ふことは天然と人との戦であります。而し天の人に降す災即ち天災を起す元は非常に強大で而も人間でないが故に談判をして、即ち話し合ひで之れを未然に止むる事は出来ません。即ち彼の関東の大震災も例令へ地震学の博士に依つて何年何月何日に起ると言ふ事が分つて居つても之れを止むる事は出来ません。只人智が進んで来て其の災害の来らむとする時期及び其の輪廓を知ることは出来るかも知れません。例へば日本に於ける台風等は其の卵が南洋諸島付近に発生してから日本本土へは五、六日で来る其の発達の程度はニ、三日前でなければ分らない其の深度に依つて其の威力の大体の輪廓も大体の輪郭も知る事が出来るかも知れません。例へば日本に於ける台風等は其の卵が南洋諸島附近に発生してから日本本土へは五、六日で来る其の発達の程度は二、三日前でなければ分らない其の深度に依つて其の威力の大体の輪郭も知る事が出来る而し其の台風を途中で喰止むる事は天気博士でも出来ない事である。彼の明治四十三年八月の日本国の殆んど全部を襲った大洪水又大正六年十月一日の東京湾を襲った暴風に依る津浪も又最近去る九、十、十一の降雨に依り生じた北陸地方の手取川水源加賀白山に於ける雪解、山抜けに依る大水害及び庄川、黒部川等の洪水にて僅か一日の間に百数十名の人名及び四、五千万円の財産を失ひ其の他勘定する事が出来ない無形の損害を蒙つた大水害等も皆仮令へ其の禍の来ると言ふ時日が分つて居つても之れを止むると言ふ事に就ては人間の力は今の所どうする事も出来ないのであります。それならばそれを拱手して待つべきかと言ふにそうは行かないのであります。人は其の力の及ぶ範囲内に於てそれに備ふる事を得るのであります。大雨の時の雨漏は相当なる大漏でもバケツ又は盥等で受けることが出来るも洪水はそうは行かないから近代に於ける洪水防禦の方法としては先づ河の両岸に大なる堤防を作り又は河の曲りを真直ぐにして一定の水路を作り又は河底を浚渫して水の流れを良くして地上に降った水を平地に溢るゝ事なしに海なり大きな湖水なりに早く流してやることであります。而し近代は土木工学の進歩に依つて其の河に良き地点があれば其処へ堰堤を設けて其の洪水を溜めそれを徐々に流す方法も考へられ又其の水を利用して水力発電又は灌漑に利用する事もあります。即ち東京の近くでは彼の大利根川の洪水に依り徳川幕府時代は江戸の下町は時々浸水の厄に遇ひ維新以後にあつても彼の権現堂堤其の他の個所の缺壊に依り東京の下町は水害に襲はれ明治四十三年の如きは其の洪水が荒川の夫れと合して上野の山下辺迄濁水が押寄せて来た事は其の後利根川、荒川の改修工事が竣功した今日殆んど忘れられた様な有様でありますが斯の如く利根川の改修工事に依つて関東平野の水災の大部分は除かれ又荒川下流の改修工事にて足立、江戸川、王子、豊島、浅草、下谷、本所、深川区等を荒川の水災より免れしめ、木曾川の改修工事は之れに関連して木曾、長良、揖斐三川を改修し濃尾平野の大水災害を除き、淀川の改修工事は之れに関連して摂津平野、大阪の大水害を除去し夫等地方に於ける人命及び国土、財産を安全にしたのみでなく其の地方の産業の発達を促した事は非常なものであることは言ふ迄もありません。以上の利根川、荒川下流、木曾川、長良川、揖斐川及び淀川の改修工事は国即ち内務省が大部分直営で施行したものでありまして夫れにどれだけの費用を投じたかと申しますれば総計約一億四千万円でありますが、それに依つて年々平均千五百万円の物質的の被害より国を救つて居るのでありますれば其の防禦工事が全く十露盤に掛らないものでないのみならず良き投資であると存じます。それのみならず衛生上の改善、交通の利便その他精神上の脅威を除く事に於て大なる利益のある事は言ふまでもありません。それでありますから皆様も此の天災即ち洪水の防禦に就て大なる関心を持つて戴きたいのであります。
2022年06月11日
日本時代の台湾ダム建設の父、八田與一自筆の手紙贈呈式フォーカス台湾2013年5月8日日本統治下の台湾で1930(昭和5)年、南部に烏山頭ダムを建設した八田與一技師の自筆の手紙2通が没後71年目の命日にあたるきょう台湾側に寄贈され、ダムのほとりにある八田紀念館で所蔵されることになった。この2通はそれぞれ1939(昭和14)年11月と12月、当時の台湾総督府内から日本内地に送られたもので、八田が東京帝大土木科のクラスメートであった関毅氏の死去を知り、その遺族に宛てて書いた追悼の手紙。戦後長らく関家に保管されていたが、2011年の東日本大震災の際の台湾支援で日台交流が活発化したのを機に話がまとまり、嘉南農田水利会(台南市)への寄贈が決まった。関毅氏の嫁にあたる関由喜子さん自らが手紙を携え台湾・台南を訪れ、8日午前、嘉南農田水利会講堂で行われた贈呈式で楊明風会長に手渡された。式には八田與一氏の嫁と孫にあたる八田綾子さんと修一さんも出席、これまで連絡のなかった両家が初めて対面した。八田與一は関家に手紙を送った3年後の1942(昭和17)年5月8日、広島からフィリピンに向かう途中、乗船した大洋丸が長崎沖で米軍潜水艦に撃沈され死亡、八田の妻も後を追うように烏山頭ダムで投身自殺している。当時、烏山頭ダムによって嘉義・台南地方の水田が十分潤うようになり、台湾の米蔵としての価値を一気に高めたが、この功績を記念して毎年5月8日には台湾・日本の双方から八田をしのぶために多くの人が集り、水利会によって八田與一紀念園区・紀念館が建てられた。8日午後には追悼記念行事が行われ、今回も日本から200人ほどが参加、八田家と関家の関係者も出席する。
2022年05月29日
クラーク「私はここ(札幌農学校)ににアンテオケの宗教を建てるつもりである」クラークは来日した1876年11月19日に、故郷につぎのような手紙を送っている。「私は今日クラスの生徒に聖書をもって教育する許可をとった。かくして札幌農学校においては、日本において他のすべての政府の学校においては法をもって禁じられていることー聖書をテキストブックとして使うことーができる。このことに関して、神は私に黒田長官の理解を得る特別の恩寵を賜った。」 大島正健の思い出によると、第一期生たちはその後ただちにクラークから聖書をもらってこれに親しむようになっている。そしてクラークは、日曜日ごとに「学生やその他の人を集め、聖書を教え」た。しかし「普通の宣教師と違い、実際的宗教だから面白かった。宗教臭い宗教ではなかった」と述べている。 クラークは生徒たちに、アメリカのキリスト教が腐敗し形式に流れている現状を説いた後に、こう言ったという。「むかし、聖パウロがキリストの教えを伝道したときに、ユダヤのキリスト教とはまったく違った独立したキリスト教を教え、形式からはなれ、もっとも神に接近し、自由に伝えられるところとして、アンテオケ(シリヤの町)は新しく自由な教育ができた。私はここにアンテオケの宗教(アンテオケの教会はやがて異邦人伝道の教会となり、パウロなどはここから伝道旅行に旅立った)を建てるつもりである」。農学校における聖書使用の許可(北大百年史p265-267) Sapporo,1st Nov. 19, 1876.Capt. Wm. B. Churchill; My dear Brother : Thanks for your good letter and your valuable package of Illustrated Christian Weeklies. To-day I have distributed them to my class of Bible-readers and by a nice adjustment, apparently providential me in writing to "interest them in the Holy Scriptures." To-morrow morning I propose to begin the College Exercises by reading from the Bible and repeating with the students the Lord's Prayer. To-day they could all repeat correctly the first seventeen verses of the 20th chapter of Exodus. Thus in the Sapporo Agricultural college the Bible has become a textbook, though forbidden by law in all schools and Colleges under the control of the Japanese government. God has given me special favor with Governor Kuroda, who is one of the most influential officers of the imperial government at Tokio and whose will is supreme in Hokkaido. While traveling with him last summer I conversed with him last summer I conversed with him freely about religion and finally asked leave to use the Bible in the College. He answered that personally he had no objection, but he must forbid it on account of the law and the opinions of the high officials. I told him the Bible was the best ob books and was surely to be taught at no distant day in Japan as in all other enlightened countries, and that it would be greatly to his credit to allow its introduction in his new College. He said I could teach its truths to the students, but must not read it publicly nor give them copies for private use. I answered that I was very sorry, for I had thirdly copies, but that I would obey orders. About a month after this he set for me and wished me to teach the students good morals, I replied I could not without constant reference to the Bible and I feared I should give offence. The next day he told me he would withdraw his prohibition in regard to the Bible and I could do as I chose. So I decided to distribute the books and make them useful. Now N.B. you must no let a word of this get into the papers for it might create a breeze. This you know is the land of typhoons! I am having wonderful success in all my work here, and have done more in the four months towards the organization and equipment of the College than even I would have deemed possible. Besides my regular College work, which goes swimmingly, I have the entire control of a splendid farm of splendid farm of 250 acres with a complete outfit of American stock, tools and machines, and am building a barn, better than ever was built in the East. I have full power to buy, sell and hire as I please, and my official seal is required to draw from the treasury any of the $15,000 appropriated for the ordinary annual expenses. Thus having plenty of health, I should be a most unworthy wretch if I had not plenty of happiness. True, I would like to enjoy the merry chatter and sweet companionship of the loved ones at home, but I am most thankful for the goodly portion I have been blessed with in the past. We are now building a library building and have already a considerable number of scientific books, cyclopedias, etc. Can you help us in any way to obtain some interesting religious reading? Are there not bound volumes of the Weekly? I will gladly pay fifty dollars towards the expense of a box and see that the books are properly labelled and placed in the College library, if sent to my address "Care of Kaitakushi". After a most delightful autumn, winter began on the 15th inst, by a snow storm which soread a soft white blanket over the unfrozen earth which was two feet and one inch thick. It is however rapidly wasting away and we hope for a few days more pf good weather for out-door work. We are aching to know that Hayes and Wheeler were elected on the 7th inst. and also to learn about elections in Massachusetts, but must wait in hope till Christmas, or possibly till the 10th of January, 1877. Give much love to the sisters who are under your captaincy and keeping and tell them I am waiting for their letters. With best wishes for your health and happiness, I remain, Most truly, Your affect, Brother, W.S.Clark<機械翻訳>1876年11月19日、札幌。Wm.B. チャーチル大尉 B. チャーチル 親愛なる兄弟。 良いお手紙と、イラスト入りキリスト教週刊誌の貴重なパッケージをありがとうございました。今日、私は聖書を読む人たちのクラスにそれらを配布しました。そして、素晴らしい調整によって、どうやら私は「聖書に興味を持たせる」ために書いたようです。明日の朝は、聖書の朗読と「主の祈り」を生徒と一緒に繰り返すことから、大学の演習を始めようと思っています。今日、彼らは皆、出エジプト記第20章の最初の17節を正確に繰り返すことができた。このように、札幌農学校では、日本政府の管理下にあるすべての学校や大学では法律で禁止されているにもかかわらず、聖書が教科書になっているのです。 神は私に黒田知事の特別な好意を与えてくださいました。黒田知事は東京の帝国政府の最も影響力のある役員の一人で、北海道ではその意志が最高です。昨年の夏、彼と旅行している間、私は彼と宗教について自由に会話し、最後に大学で聖書を使用する許可を求めた。彼は、個人的には異存はないが、法律と高官の意見との関係で禁止せざるを得ないと答えた。私は彼に、聖書は最高の書物であり、他のすべての啓蒙国と同様、日本でも遠からず必ず教えられるようになること、そして彼の新しい大学にその導入を許可することは、彼の信用に大きく資するであろうことを告げた。そして、私が学生にその真理を教えることはできるが、公然と読んだり、私的利用のためにコピーを与えたりしてはならないと言われた。私は、3冊目を持っているのでとても残念ですが、命令に従いますと答えました。それから約1ヶ月後、彼は私を訪ねてきて、生徒たちに良い道徳を教えるようにと言った。私は、常に聖書を参照しなければできないし、不快感を与えることを恐れていると答えた。翌日、彼は聖書に関する禁止事項を撤回すると言い、私は自分の好きなようにすることができると言いました。そこで、私は本を配布し、それを役立てることにした。さて、注:このことを一言でも新聞に載せてはならない。風を起こすかもしれないからだ。ここは台風の国なのだから。 私はここでのすべての仕事において素晴らしい成功を収めており、この4ヶ月間で大学の組織と設備に対して、私でさえ可能だと考えた以上のことをしてきました。大学の通常の仕事は順調に進んでいますが、それ以外に、私は250エーカーの立派な農場の全権を握っており、アメリカの家畜、道具、機械を完備し、東洋一の納屋も建設中です。私は好きなように売買や雇用を行うことができ、通常の年間経費として計上されている1万5千ドルのいずれかを国庫から引き出すには、私の公印が必要です。 このように、私は健康にも恵まれていますが、もし幸福にも恵まれていなければ、最も価値のない哀れな人間になっていたことでしょう。確かに、私は家で愛する人たちと陽気なおしゃべりや甘い交際を楽しみたいのですが、過去に恵まれた十分な分量に最も感謝しています。 私たちは今図書館を建設中で、すでにかなりの数の科学書やサイクロペディアなどを所蔵しています。何か面白い宗教関係の本を手に入れるのに、何かお役に立てることはないでしょうか?週刊誌の製本版はないのでしょうか?私の住所「開拓使宛」に送ってくれれば、箱代として50ドルを喜んで払い、本がきちんとラベルを付けられて大学の図書館に置かれるのを見届けたいと思います。 最も楽しい秋の後、15日に冬が始まり、雪嵐は凍らない大地に2フィートと1インチの厚さの柔らかい白い毛布を巻き付けました。しかし、雪は急速に消え去り、屋外での作業に適した天候があと数日続くことを願っています。 7日にヘイズとウィーラーが当選したことを知り、またマサチューセッツ州の選挙について知りたいと願っていますが、クリスマスまで、あるいは1877年1月10日まで、希望を抱いて待つしかありません。 あなたの指揮下にある姉妹たちに多くの愛情を注ぎ、私が手紙を待っていることを伝えてください。 あなたの健康と幸福を祈りつつ、私はここに留まります。 心から、あなたの愛情を込めて、兄弟。 W.S.Clark
2022年05月28日
「広井勇博士伝」P93- 16 信仰 土木工学者としての広井博士が、いかなる生涯をおくったかという事は既に記した。しかしながら内村鑑三氏がその告別の辞の中で述べたように、博士はその人となりを工事を以て現わし、しかも博士自身はその工事以上であり、博士自身が工学よりも遙かに尊かった。 よしや博士は工学の上に天賦の才能を有し、そのためにその教授としての見識と工学博士たる名誉を得たとしても、それは博士の偉大さを計る尺度とするに足らない。博士はこのようなものを超越した偉大さを持ち、単に卓越した技術者でなく、むしろ偉大な人格者であった。 博士をして高潔な人格者たらしめ、侵すことのできない尊厳を保たしめたものは何であったか。 それは博士の不断の努力であったか、それとも教養であったか、また個性であったろうか。もちろんそれらすべてのものであったであろうが、それにもましてまず博士の信仰を挙げねばならぬ。広井博士は熱心なキリスト教徒であった。けれども、博士はその信仰を他人に説いた事がなかったから、永年の友人すらこれを知らなかった人も多いほどである。まことに大富は貧なるごとく、大賢は愚なるがごとしである。けれども博士の信仰はその深さとその真摯さとにおいて何人にも譲らないものがあった。信仰に入るの動機は人によって様々である。ある人は研究の結果より、ある人は心に罪を感じたるより入る者もある。しかし博士においてはむしろ、生に対する尽くる事なき懐疑によって、神の道に入ったのではあるまいか。博士は人をして凄そうの感を抱かしめるほどの懐疑者であった。その悩むところが深刻であっただけ、それだけその信仰は深かったのである。何者をも信ずる事のできない無限の空虚を、神によって充たしたのである。そして全的の信頼を神に捧げたのである。博士は毎朝5時に起床し、清嗽の後、一室に籠もって錠を下し、聖書を読み、双掌を机上に置いて頭を垂れ、黙祷を捧げる事、数分であった。この祈祷は40年来変わる事なく続けられた。その錠を下した一室の祈りこそは、博士にとってすべての力の源泉であったのである。博士はそのところでただ独り、自らの魂を神に触れしめ、神の心を自らの心とする事ができたのであった。そしてこの祈祷の後、机上にはしばしば熱涙の跡を認めたという。博士の家人は40年来、毎夜9時に祈祷の集まりを催して来た。しかし博士だけは自分の信仰は少し変わっているからといって、いかに勧められてもその席につこうとはしなかった。ただその集まりを喜んでいた。時には、もはや9時になると家人を促すくらいであった。日曜には博士は家人に教会へ行くことを勧めて、自らは独り静かに聖書を読み、安楽椅子に寄って哲学、宗教、文学等の書物に読みふけるのを唯一無上の楽しみとしていた。キリストの尊厳を信ずる博士にとっては軽々に衆と共に祈りをするに耐えないものがあったのではあるまいか。しかし博士は祈りの人であった。そしてすべての人の祈りを力強く感じていた。「人間にとって祈祷は最も主要な事である。実際、人間には祈祷より外に施すべきはないのである。自分の如き者は素質において、決して天才という質でない。他人が三日にて成就する事も自分には一ヵ月もかかるのである。その点からしても、ただ祈りと努力があるばかりである、どうぞ自分のために祈ってくれるように、祈りにました援助はない」とは、博士が繰り返し家人に語っていた言葉である。人に対して毅然たる博士の一面には神に対し幼子のごとき謙遜があり、信頼があったのである。そしてことに母堂と夫人の祈祷をこの上もなき助力としていた。何事かを仕遂げ、または何事か災厄を免れ得た場合には、いつもこれを母堂と夫人の祈りによる賜であると心からの感謝を述べるのであった。 博士はたとえ友人であっても、学校問題や技術方面の人には、決して宗教上の問題を口にしなかったが、内村鑑三氏や新渡戸稲造等同信の友人に対しては、老後までもよくこの問題について論じ合い、より深く、より清くその信仰を進めるようにつとめた。 これら信仰の友人間の交わりには、誠に和気藹々たるものがあった。「自分は死んでも天国には入られないかも知れないが、天国の門番くらいにはなれるつもりである。自分が天国の門番になっていると君らもやって来るだろうが、君らは天国には入れないよ。入れないで追い返してやる。」等と内村氏や新渡戸氏に笑談を語ることもあった。 内村氏はその著、“How I Became a Christian Out of My Diary” 中に、 Charles was a compound character. He was second only to Frederick in his shrewd common sense, but was more like Paul in his intellectual attitude toward Christianity. He like many other ardent youths tried to comprehend God and Universe by the aid of his intellect, and to conform himself to the very letter of God's eternal law by his own efforts ; in which failing, he oscillated to an entirely different aspect of Christianity, and .settled in his faith in the " gospel of good works." He turned to be a learned engineer, and his sympathy in substantial forms can always be relied upon when some practical good is contemplated either within or without the church.チャールズ〔広井〕は複合的性格であった。彼はその機敏な常識においてわずかにフレデリック〔高木〕に劣るだけであったが、しかしキリスト教に対する知識的態度においてはいっそうに似ていた。彼は多くの熱心な青年のように神と宇宙とを彼の知識の助けをかりて理解し、自分自身の努力によって神の永遠の律法に文字通り自分自身を一致せしめようと試みたが、それに失敗して彼はキリスト教のまったく異なった一面に傾き、「善きわざの福音」を信ずる彼の信仰に落ち着いた。彼は学識ある技術者となるようになった。そして実質的な形をもってする彼の同情は、教会の内部たると外部たると何か実際的の善事が意図されているとき、つねに信頼することができる。 右は当時の博士の信仰を伝えるに最もよき資料といえよう。 晩年に至ってある時、博士は次のごとくかたったことがある。「晴夜、天空のまたたきを眺めていると、その悠久さと、その偉大さと、その壮美さとに実際打たれる。神は悉くこれを統べたまうのである。その幾億光年に比べては人生は実に朝露にもたとえられない。宇宙の無限に比べてはこの地球のごときは粟粒にも足りない。その中の人間などが、神の経綸の中に数えられるなどとは考えることもできない・・・・・・けれどもこの人間に神に通ずる所があるのだ。それゆえに人生が尊くあるのだ・・・・・・政治も、権力も、名誉も、学問も、何の値もないものだ」 また、いったことがある。「神はわれわれの知識を祝したもう、学問はこの意味において尊くある」「もし工学がただに人生を繁雑にするのみのものならば、何の意味もない事である。これによって数日を要する所を数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間に止め、人をして静かに人生を思惟せしめ、反省せしめ、神に帰るの余裕を与えないものであるならば、われらの工学には全く意味を見出すことはできない」 博士の工学が悉くその信仰中心であった事はこれによってもその一半をうかがうことができる。*天路歴程ところで、土曜日、真夜中ごろ、巡礼たちは祈り始めた。そしてほとんど夜明けまで祈りを続けた。Well, on Saturday, about midnight the pilgrims began to pray; and continued in prayer till almost break of day.
2022年05月28日
昨日、2022年5月21日土曜日のブラタモリは「横浜・川崎は東京湾をどう進化させた?」がテーマだった。なぜペリー来航は横浜だったのか→蒸気船10隻を横列できるのは水深の深い横浜しかなかったとのこと。現在も大型化する一方のタンカーや客船を停泊できるら新たな本牧沖の埠頭をば新たに建設中とのこと。横浜港はいまも進化し続ける港湾都市なのです。大さん橋からスタートしたタモリさんたち、横浜港は、コンテナ船の大型化や貨物量の増加に対応するため、新たな埋め立てを進めています。新本牧ふ頭と呼ばれます。タモリさんは、ケーソンに加え、土砂を運んで海水に落として埋め立てる土運船を見学し、大喜びでした。ところが開港後、横浜ー東京間の輸送料はかなり高額であったのが悩みだった。川崎から品川にかけて遠浅の砂州が広がり、難破の恐れがあった。そこで運河を築く計画を考えた人がいた。「この人は誰でしょうか。」と写真が出る。「わかならい。見たことがない」とタモリさん。そこで「浅野総一郎でしょう」と私がテレビに答えると正解。「お父さんすごい」。(それは 広井勇を調べた時に総一郎が息子にいかに広井博士が偉大だったかの口述記録『広井勇と青山士』に収録したことがあるからね)広井博士を憶う(『父の抱負』抜粋 浅野総一郎(昭和三年、八十一歳の時)編者註:本編は工学博士広井勇氏のご逝去後、同氏の追悼録発刊に際し、寄稿されたる原文にして、これを記稿せしむべく口述されながら、眼に一杯の涙を湛えられしほど愛惜極まりなき風情あられしものであった。) 広井博士と私とは、交友ここに数十年、しかも相見たる初めより晩年に至るまで、その間少しも変ることなき誠心誠意の交わりであった。 広井博士を私が初めて知ったのは、明治三十年、小樽築港のかの難工事を博士が引き受けられた当時のことである。小樽港は水深五十三尺、冬は防波堤上一丈五尺の怒涛おどるという難工事中の難工事にして、これに使用するセメントは、特に浅野セメントに限るという博士のご指名を受けて、御用を被ることとなった関係上、私はこの難工事の実況を視察するため、たびたび小樽に出向いた。そうして越中屋に宿を取って、朝の六時頃から視察するのが例であった。現場監督の博士は、何時(いつ)お見受けしても、早朝から既に合羽服に身を固めて、ご自身でセメントと砂と砂利とを調合し、水でこねておられる。この光景を眺めて私は実に感に打たれた。この博士なればこそ、この難工事も事なく運ばれるのだ。博士は私を顧みてよくいわれた。「この難工事の全責任は自分に在る。もし何年か後にこの防波堤が崩壊すれば、それは私の責任である、と同時に浅野セメントの責任である。私たちの責任と信用はこの防波堤にかかっている。防波堤が割れれば自分も割れるが、浅野セメントも割れてしまうのである」と極言しておられた。かくまで責任を明らかにされる博士のことであるか、したがって絶対に他のセメントを使用するを禁ぜられたことはいうまでもない。かくて博士苦心の小樽港はみごとに完成し、数十年の今日もなお、打ち寄する怒涛の中に厳として、港内の平穏を維持している。のみならず、北海道拓殖の大計画案は、この小樽港をもってその策源地とするに至ったというではないか。小樽港の真価は今後においてなお一層に発揚されるであろう。 これが縁故となって、博士監督の函館、留萌、釧路、稚内等、ほとんど北海全道の築港工事は、ことごとく浅野セメントが御用を果たすこととなり、自然博士と私との間をますます密接な関係に結びつけるに至ったのである。(略)実に想起すれば博士は惜しみても、なお余りある人物である。そうして性格的には覚悟のよい偉丈夫であった。ご不快のときにあっても、仕事だけは忘れずに続けておられた。そして常にいわれた。「仕事ができなくなれば死ぬほかはない。仕事のできなくなった時がすなわち自分の死ぬときである。」と、実に良い覚悟の持ち主である。晩年、私が「大学はお辞めなさい。私もこれからは余り無理なお願いはせぬから、今後は十分体を大切になさらなければいけない」と再三再四申し上げたが、博士は頑としてうなずかれなかった。そうして毎日のように「生きている間は仕事をする。大学にいけなくなれば死ぬるほかはない」と主張されていた。「社会の役に立たぬ体になったら、むしろ死んでしまいなさい」というのが博士の持論で、私はいつも尊敬すべき言葉として拝聴していた。博士は現代に珍しい硬骨漢にして、しかもその半面には豊かな情味を有する人であったから、その逸話美談も多かろうが、以上述べたごとく、人間生活に徹底した覚悟を持った人としての博士は、実に珍しい人傑だと思う。 博士と隔意なき交誼数十年に及んだ私としては、博士の死は到底慰め得られぬ名残を有し、想起するごとに感慨さらに新たなるを覚えるのである。
2022年05月22日
夢と希望で地域・国・世界の未来を創る場「札幌遠友夜学校記念館」を10,000人の皆さんとともに夢と希望で地域・国・世界の未来を創る場「札幌遠友夜学校記念館」を10,000人の皆さんとともに札幌農学校(現在の北海道大学農学部)の卒業生である新渡戸稲造は、明治24年(1891年)に母校の教授として札幌に戻りました。その2年後、萬里子夫人(メリー・P・エルキントン)に、アメリカの実家から届いた1,000ドルの遺産を用いて札幌市内に開設されたのが、稲造の夢であった遠友夜学校です。学校に行きたくとも様々な事情で就学出来ない児童のために作られたもので、明治27年(1894年)の開校から昭和19年(1944年)に軍事教練を拒み廃校に追いやられるまでの50年にわたって、男女の別なく無料で開かれていました。この学校は[学問より実行]を教育の根本におき、一般教科目は勿論ですが、特に教育に体育を重視し、他の人への思いやりを持った人間を育てるのが大きな特色でした。新渡戸稲造の崇高な精神に共鳴し、社会事業に深い理解を持つ人々の寄付金を中心に運営され、教師も北大の学生が新渡戸博士の意志を引き継いで代々無給で奉仕してきました。温かな援助を惜しまなかった市民の人たちなどに支えられ、希望の灯をともし続けた遠友夜学校は、札幌のボランティア活動の原点でもありました。記念館活動は公的な役割を担いますので公の機関との連携はもちろんですが、民間の機関として皆さんの要望・アイディアを聞きながら、それぞれの思いを生かした温かく簡素な運営と、多彩な活動を考えています。現在、以下のような事業概要、運営を考えています。なお、本事業は、札幌市、札幌市教育委員会と相談しながら進めているものです。★事業概要(1)市民や道民など地域や国を結ぶ国内・国際交流、世界を学ぶ事業(2)講演、出前講義の斡旋、読書会、記念フォーラム、大学等のアウトリーチ活動(3)一般市民向け教養講座、音楽会、各種の教育プログラム(不登校児童・生徒の学びの場、進学塾、学習補習教室、障がい者の会、女性の会、相談会等)(4)展示、図書室、閲覧室の充実(5)その他
2022年05月20日
新渡戸稲造の母の死去に関する内村と宮部の慰めの手紙内村鑑三 一八八〇年(明治一三年)七月二八日 札幌にて 内村鑑三日記書簡集第5巻三頁 第一信(英文封書)陸中盛岡 太田(新渡戸)稲造殿 札幌農校 内村鑑三七月二八日 札幌にて 親愛なる兄弟パウロ 函館からの手紙が届き、一同心から喜んだ。君の旅行が陸路は快調に、海路もさして不快でなかったとのことに、一同大喜びである。君の今後の旅も安全・快適ならんことを。君の手紙が学校へついたときには、われわれ七人は(フレデリックを除き)定山渓へ行っていて留守だった。一同、同地に四日を過ごした。持参の重い荷物と、あらゆる種類のブヨの攻撃とに悩まされながらも、実に愉快な、大成功の遠足だった。その間チャールズ(広井勇)は野望にかられて、豊平川の水源に向かって二度探検を試み、その結果、彼が久しく渇望していた貴重な砒石の岩層には達しなかったが、川岸で一個の大きな砒石塊を発見した。それゆえ僕の(同時に我々の)最悪の敵は大食漢(藤田九三郎)だった。彼は怠け者で、しかも他人のエネルギー(物理学の表現を借りていえば)の最大の、また恐ろしい消費者である。君がわれわれの一行の一人でなかった事は感謝である。君は今、異教主義という暗い深淵にただ一人のクリスチャンの星として輝いていることと思う。「厳冬に臨んで、初めて常盤の松を識別できる」と昔の中国人は言っている。われわれが、愛と平和と善意とが熱心に求められているクリスチャンの兄弟たちの間にいるときには、バラ、桜草、ツバキ、ゼラニウム、エニシダ、シクラメンなどがいっせいに同じ花壇に咲き乱れて、たえず我々の眼にさらされていても、残念ながら我々は、その美しさに見飽き、彼らに水そそいで、熱心に、努力して、誠意をもって、彼らの成長を助けることを怠るのである。それどころか手荒く、いなしばしば、手きびしく、扱うのである。しかし可憐な桜草が、コホベ、ヨモギ、スゲ、イなどが圧倒的に優勢な、すさまじい雑草の群の間に、咲いているのを想像してくれたまえ。当然われわれはその優しい美しさを賞でて、その成長を妨げる妨害物を取り除き、根元の土をやわらげ、支柱をたててその発育をうながすだろう。 兄弟パウロよ、僕は信じている。(僕が昨年の夏体験したように)、君が札幌のクリスチャンの兄弟たちのことを思えば思うほど、君はいっそう彼らにとって親しいものとなり、かつ我々もまた、君について、思えば思うほど、また君が我々といっしょにいたときに、君に対する愛と情において我々が欠けていたことを思えば思うほど、いっそう我々は後悔の念にとらえられ、君に対する結び付きをいっそう強くされ、君のためにささげる祈りは、君もよろこんでくれると思うが、いっそう熱烈になるのである。我々の間にこのような偽りなき愛を恵みたまえる神の聖名はほむべきかな。我々の心と心をつなぐ鎖は、「壊ちる黄金よりもはるかに貴く」、永遠に不滅でなければならない。距離は遠く、君と我々とをへだてる海は広い。しかしそのへだたりが増せば増すほど、我々の結びつきと心持とはいっそう強くなる。神の聖名はほむべきかな。 我々は目下、皆無事で健康状態もふつうである。測量の方は僕の体が弱いため余り成功とはいえない。それゆえ僕の財産がふえることについては余り心配しないでくれたまえ。しかし藤田は非常に頑健なので、君が札幌に帰ってくるときには、大した金持ちになっているだろう。植物学者[宮部金吾]は少々疲れている。化学者[高木玉太郎]は少々頭痛を訴え、工学者(野心家の)[広井勇]はとても金に困っている。豚学者(ピゴロジスト)は小説を読んでいる。体育館とカハウ[佐久間信恭]とは変わりない。 次の機会まで、サヨウナラ 君の古い兄弟にして友なる ヨナタン[内村鑑三]二伸 君のお母さんと、もしお父さんが目下盛岡におられたら、お父さんとに、くれぐれもよろしく。我々のために祈ることを忘れないように。我々も絶えず君のために祈っている。第二信(英文封書)内村鑑三日記書簡集第5巻五頁 陸中盛岡 新渡戸様方にて 太田稲造愛兄 大至急 八月三日発す 札幌農校 内村鑑三一八八〇年(明治一三年)八月三日 札幌にて 親愛なる兄弟パウロ〔新渡戸稲造〕 盛岡からのお手紙昨夕着、我々は一大衝撃を受けた。ーそのため我々は食欲を失い、暗涙にくれた。いつも陽気な連中が、誰も彼もだまりこんでしまった。我々は自分を君の境遇に置いてみた。ーおお! 何たる悲しい、たえがたい試練か!君が生まれ故郷を訪れた唯一の目的は、疑う余地もなく、お母さんに会うことだった。しかも、ああ! ああ!お母さんは君の到着以前にすでに逝かれたのである。兄弟よ、僕にはどう君を慰めたらよいのかわからない。「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい」と使徒は言っている。僕は君に対する自分の気もちや強い同情がどんなであったか、また今あるかについて語ることを避けるが、在札幌のクリスチャンの兄弟たちの悲嘆の状を伝えることとする。エドウィン〔足立元太郎〕は昨夕から食事をとろうとしない。一週間前から頭痛を訴えているフレデリック〔高木玉太郎〕も同様である。フランシス〔宮部金吾〕は悲嘆の余りベッドの上に伸びている。ヒュー〔藤田九十三郎〕は自分の年老いた両親が、君のなつかしいお母さんと同じ運命に陥ったらどうしたらよいのかと案じつつ、今まで熱心にやってきた測量の仕事に、今朝はとりかかろうとしないでいる。チャールズ〔広井勇〕は、持ち前の男らしさから、自分の悲しみや同情の念を顔にこそ出さないが、静かに、物思いにふけりながら、君を想う忍び難い心持ちをハッキリと見せている。兄弟よ、こうしたしらせは、君の悲しみを慰める役には立たないかも知れない。しかしこれらはすべて、僕は心から証言するが、偽善から出たものでも、体裁をつくるものでもないのだから、我々の恵み深き父なる神が、我々のハートの中に住まわせてくださったところの、真の友情と兄弟愛のしるしとして、受け取ってくれたまえ。兄弟よ、神の道は、我々の道と違う。君はヨブの忍耐について、すなわち彼が引き続く苦難にいかにたえたかを知っているはずだ。君はモーセとエリヤについて、彼らがしばしば自分たちの期待に反する事をたくさんになさしめられたが、最後に幸福と希望と繁栄との栄冠を授けられたことを覚えているはずだ。我々は選ばれた子孫、すなわち特殊の民で、神、すなわち広大さ、偉大さ、力強さをもって全宇宙の創造主にいましながら、同時に憐れみにとんで、孤児と苦しむ者との友にいます神に、永遠の希望を寄せる特権を授けられた者ではないか。もし君のお母さんが君から福音を聞かされてから、それを信じることなく、永遠の眠りについたとしたら、お母さんは福音の光に照らされることに死んだよりもはるかに大きな、はるかにひどい刑罰にあわれなければならないのである。今後のことは、神が定めておいて下さったところではあるまいか。おお!キリストにある愛する兄弟パウロよ、君の試みを「イエス・キリストの現れるとき、賛美と栄光と誉れとに変」らせてくれたまえ。君にとり大きな、しかり、確かに最大の試みではあるが、しかし「火で精錬されても朽ちるほかない金よりもはるかに貴い信仰の試錬」である。 兄弟よ、悲しみに負けないでくれたまえ。悲しみは君の健康に大害があるし、君は健康を取り戻すために故郷を訪れたのだから。君の亡きお母さんは、ご自身の身体以上に、君の健康を案じておられた。勇気を出して、強い健康な人たるべく努めてくれたまえ。そして君の祖国と、神と、大切な君の家名と、君自身とのために立派な有益な働きをして、君の亡きご両親を喜ばせるように努力してくれたまえ。《身を立て 道を行い 父母の名を後世に挙げるは 孝の至りなり》君のために祈ることを決して忘れない。兄弟よ、愛する兄弟よ、僕は心から期待し、祈っている。身体は健康に、信仰は生気にあふれ、希望はあふれ、恩恵にみちみちた君に再び会い得んことを。 君の最も親しき兄弟にして友なる ヨナタン・内村鑑三 ご親戚の皆さんへくれぐれもよろしく宮部金吾(封書英文)明治一三年(一八八〇)八月三日、札幌から盛岡へ 佐藤全弘訳、編者において「ポール」「ジョナサン」を「パウロ」「ヨナタン」に変更した〕 親愛なるパウロ 七月二二日付の君の手紙は、昨晩、いつものように当初は大喜びで手にしたが、しかし、ーその手紙の中身をくわしくよむと、ああ、親友からー霊における親友からー受けとるにはあまりにも残酷な頼りだった。君に何と返事してよいかわからない。君をどう慰めてよいかわからない。君の懐かしいお母さんが亡くなられたー君の到着の三日前にーそして今は墓の中におられると、君からはじめて知らされたとき、君がどんな気持がしたことか、僕はあわれな父親の無い子の心で想像できた。パウロよ、君のばあい、他の人々とは事情が違うことがわかる。君のやさしい、感じやすい心には、あまりにも耐えがたいこともわかる。これは君の信仰の火の試練なのだ。しかし、兄弟よ、雄々しくまたキリスト信徒らしくありたまえ。そしてこの試練を「聖書の忍耐と慰め」で終わりまで耐え忍びたまえ。君も承知のように、君自身の魂は、世界全体をまとめて与えられても、それよりも君にとっては価値があるのだ。神のみ心については性急な結論を下すべきではない。とりわけ僕たちの祈りへの応答については。というのも、神の側には僕たちが求めた以上に、僕たちの魂の安泰によって、より高く、より良い配慮がおありかもしれず、それは、僕たちの限られた知恵では思いもつかないからだ。恵みと憐れみにあふれる神、父無き者、孤児の父は、僕たちの祈りを聴き、もし僕たちの祈りが神のみ心にかなうなら、また全き信頼をもって求めたのなら、遅かれ早かれ、何らかの仕方で、それに応えてくださるのだ。君を試そうとする火のような試練について、まるで何か思いがけないことが君に生じたかのように思ってはいけないよ。そうではなくて、君がキリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びたまえ。神の栄光があきらかにされる時には、君もまた溢れる喜びをもって悦ぶことができるように(一ペテロ四の一二、一三)。そうすれば、「恵み溢るる神、キリスト・イエスを通じてその永遠の栄光へと僕たちを召された神は、君がしばらく苦しみをなめた後、君を完全にし、強め、力づけ、不動のものにして下さるのだ。」(一ペテロ五の一〇)。というのも、「僕たちの主イエス・キリストご自身、さらには父なる神が、・・・・・恵みにより、永遠の慰めを僕たちに与えてくださったのだから。力強くありたまえ。」(二テサロニエ二の一六)。「勇気を出したまえ。パウロ」(使徒行伝二三の一一)。 僕は君のために祈りつづける。「心砕けた者を癒やし、その傷を包んでくださる」(詩編一四七の三)方の永遠の慰めにより、君が力づけられるようにと、また君の信仰が強められ、君の希望が拡大されるように、また「君が憐みを受け、恵みにあずかって、必要な時にかなう助けをいただくため」(ヘブル四の一六)変わりない清い心と信仰をもって、「大胆に恵みの御座に近づくようにと」、さらにまた、君の健康が速やかに回復し、君の言行が他の人々にも影響して、彼らを僕たちの主の恵みと憐れみにより、永遠の光へと導くようにと。 君の誠実な友なる フランシス・K・宮部 パウロ・太田殿 追伸 ご尊父、ご令兄たち、ご令姉たちにくれぐれもよろしく。僕たちの信仰と身体の健康のために祈ってくれたまえ。
2022年05月02日
静岡文化芸術大学図書館・情報センターが「札幌農学校教授・技師広井勇 (いさみ) と技師青山士 (あきら) : 紳士 (ジェントルマン) の工学の系譜」を蔵書としていただいていた。2019年01月05日に寄贈していたものである。2022年8月26日現在 「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集 広井勇と青山士」全315図書館 国立国会図書館 1図書館 都道府県立図書館 42図書館 北海道 青森県 岩手県 秋田県 宮城県 山形県 福島県 栃木県 茨城県 群馬県 埼玉県 東京都 千葉県 神奈川県 長野県 新潟県 静岡県 富山県 石川県 福井県 愛知県 岐阜県 三重県 京都府 奈良県 兵庫県 和歌山県 島根県 岡山県 広島県 山口県 徳島県 香川県 高知県 福岡県 長崎県 佐賀県 大分県 熊本県 鹿児島県 沖縄県市区町村立図書館 181図書館(北海道36)札幌市 江別市 網走市 富良野市 旭川市 函館市 北斗市 砂川市 帯広市 苫小牧市 小樽市 北広島市 恵庭市 北見市 登別市 釧路市 根室市 美唄市 岩見沢市 栗山町 比布町 様似町 小清水町 音更町 京極町 美幌町 八雲町 厚岸町 新十津川町 新冠町 別海町 佐呂間町 浦幌町 湧別町(青森県4)青森市 八戸市 十和田市 五戸市(秋田県)湯沢市(岩手県12)盛岡市 奥州市 花巻市 遠野市 二戸市 釜石市 大船渡市 一関市 北上市 久慈市 金ケ崎町 雫石町(宮城県2)名取市 加美町(福島県10)郡山市 相馬市 いわき市 会津若松市 喜多方市 本宮市 須賀川市 南会津町 三春町 新地町(栃木県5)足利市 日光市 真岡市 那須烏山市 鹿沼市(茨城県3)ひたちなか市 土浦市 八千代町(群馬県5)藤岡市 館林市 渋川市 高崎市 富岡市(埼玉県2)さいたま市 所沢市(千葉県4)千葉市 鎌ヶ谷市 市原市 流山市(東京都)足立区(神奈川県12)横浜市 藤沢市 秦野市 相模原市 小田原市 厚木市 大和市 海老名市 平塚市 伊勢原市 二宮町 葉山町(新潟県7)新潟市 燕市 三条市 長岡市 五泉市 新発田市 南魚沼市(長野県2)松川村 白馬村(山梨県)甲府市(静岡県14)静岡市 浜松市 下田市 磐田市 袋井市 三島市 御殿場市 掛川市 菊川市 湖西市 富士市 森町 小山町 川根本町(富山県4)富山市 滑川市 黒部市 砺波市(石川県3)金沢市 加賀市 羽咋市(福井県2)あわら市 鯖江市(愛知県6)名古屋市 安城市 岡崎市 新城市 武富町 愛西市(京都府)南丹市(奈良県)奈良市(和歌山県)和歌山市(大阪府2)大阪市 堺市(兵庫県4)西脇市 姫路市 三田市 赤穂市(鳥取県)倉吉市(島根県)松江市(広島県2)広島市 尾道市(山口2)岩国市 防府市(徳島県3)三好市 吉野川市 牟岐町(香川県3)善通寺市 観音寺市 丸亀市(高知県6)高知市 土佐市 宿毛市 四万十市 南国市 いの町(愛媛3)西条市 今治市 新居浜市(大分県2)佐伯市 臼杵市(長崎県)長崎市(佐賀県2)佐賀市 唐津市(熊本県3)上天草市 玉名市 人吉市(宮崎県5)宮崎市 都城市 えびの市 小林市 日南市(鹿児島県8)薩摩川内市 指宿市 日置市 姶良市 霧島市 与論町 大崎町 南大隅町(沖縄県2)石垣市 北谷町大学図書館 92図書館 東京 京都 北海道 東北 九州 九州理系 横浜国大 弘前 岩手 福島 会津 宇都宮 東京都立 新潟 福井 金沢 静岡県立 静岡産業 三重 神戸 兵庫 徳山 愛媛 高知 長崎 大分 鹿児島 東海 東京農大 東京農大生 小樽商科 北海道教育 宮城教育 京都教育 大阪教育 兵庫教育 早稲田 東洋 拓殖 法政 國學院 鹿児島純心女子 同左短期 日本女子 東京女子 活水女子 北海学園 北星学園 青山学院 敬和学園 金沢学院 神戸学院 西南学院 玉川 高崎経済 聖隷クリスト 同志社女子 武庫川女子 日大 関東学院 関西国際 神戸国際 沖縄国際 獨協 水産大学校 立命館 北海道科学 駒沢 酪農学園 室蘭工科 高知工科 京都工芸繊維 静岡理工科 桐蔭横浜 札幌大谷 東北福祉 昭和女子 豊橋創造 山梨学院 聖心女子 近畿 愛知学院 金城学院 岡山理科 四天王寺 九州産業 放送 大東 八戸学院 弘前学院 皇學館 静岡文化芸術
2022年03月26日
磯田謙雄技師の長女松任谷良子さんに北國新聞がインタビュー2011年11月1日磯田謙雄(いそだ・のりお)は、烏山頭ダムを造った八田與一の後輩に当たり、台中市内に巨大な逆サイホンの水管を敷設し、白冷圳(はくれいしゅう)」と呼ばれる農業用の水路を造って農地を潤した日本人技師。磯田技師には一人娘松任谷良子(まつとうや・りょうこ)さんがいて、北國新聞がインタビューを掲載している。【北國新聞:2011年10月31日】20歳で一家で金沢に引き揚げた良子さんは「父の仕事が今でも台湾の人たちのお役に立っていると聞き、うれしく思う」と少女時代を過ごした台湾を懐かしんだ。 良子さんが父の仕事で覚えているのは小学4年のころ、台湾北部の新竹(しんちく)県を流れる頭前渓(とうぜんけい)の土木工事である。父の転勤に伴い、新竹の官舎に引っ越した。 「台風のひどい時に『現場が心配だから』と命懸けで見に行くんです。母は不安でたまらず、わたしも心細かった」と良子さんは回想する。家では仕事の話をほとんどしなかった磯田技師だが、技師が水を治めた新竹は、今や「台湾のシリコンバレー」と呼ばれるIT企業の集積地に発展している。磯田技師の先輩に当たる同郷の八田與一(はったよいち)技師については「母と祖母が『烏山頭ダムの時はねえ』とか『八田さんの所は子どもさんが多くてにぎやかだね』という話をしていた」という記憶が残る。 総督府に出勤する際は詰め襟の官服を着用し「子ども心に『お父さんって立派だなあ』って思っていた」。家族で海水浴へ行くにも時刻表で緻密な計画を立てるタイプで、「父は磯田謙雄技師の長女松任谷良子さんに北國新聞がインタビューと厳しく言い、受け取ると怒るから母も困っていた」と厳格な一面がのぞく。 一方で一人娘の良子さんをかわいがり「夕食後に映画に連れて行ってくれるのがうれしかった」と楽しい思い出に浸る。台湾生まれで台湾育ちの良子さんは台湾人の友人とよく遊んだという。
2022年02月23日
台湾の台南市が2020年に烏山頭(うさんとう)ダムを中心とするかんがい施設「嘉南大しゅう(かなんたいしゅう)」の着工100年記念として出版した絵本の日本語版が出版されました。 100年前、台湾南部の嘉南平野の水利のため当時東洋最大となる烏山頭ダムを建設し、“台湾水利の父”と呼ばれた日本人技師、八田與一(はった・よいち)と、10年にわたる大工事を20枚の《蝋描壁掛嘉南大圳工事模様》という絵に遺した伊東哲(いとう・さとし)が、嘉南大圳の完成記念品となる絵の制作に取り組むストーリーです。 物語のほかに伊東の作品「蝋描(ろうがき)壁掛嘉南大圳工事模様」の解説や作者・謝金魚さんの金沢探訪記「伊東哲を探して」などを収録。興味ある方はぜひ読んでみてくださいね。詳細情報→ https://book.hokkoku.co.jp/bk_detail.php?bk=950
2022年02月16日
吉備国際大学のU先生に『八田與一と鳥居信平 増補版』と『技師鳥居信平著述集』記念絵葉書をU先生にお送りいただいたスマートレーターにいれて郵送する。吉備国際大学図書館に寄贈したところ、本図書館では寄贈本は受け入れていない、しかし職員でほしいという人がいるが差し上げてよいか?とのメールがあった。「本書は大学図書館用に寄贈用にお送りしているもので、個人の場合は対価をお願いしています。研究用として活用していただけることは有難いことで、また現在『八田與一と鳥居信平 増補版』を増刷していて必要であればそちらは差し上げたいので連絡先をお教えいただきたい」と返信したら、U先生から連絡をいただいた。そのメールのなかに「I.T.先生が協力されていたこと、これまた奇遇です。」とあった。そこでその関係を確認したところ、「I先生は、私の前職JICAに来られておられました。また、I先生がY大時代は、国際協力分野の研究推進をされて、学会などでお世話になりました。I先生は私のことはあまりご存じないとは思いますが、、、」とあった。U先生お世話になります。『八田與一と鳥居信平 増補版』を同封します。I先生をJICA時代にお知り合いとのこと、奇遇に驚きました。I先生は私が〇〇センター在籍時、三国所長と親しく、三国先生が、I先生が廣井勇とそれに繋がる青山士、八田與一を尊敬されていると知って、私が三国先生に差し上げていたボーイズ・アンビシャス・シリーズをお渡ししたところ、感動されました。そして、私が自費で大学図書館等に寄贈しているというのを聞いて、それは気の毒だ、加勢してあげようと、I先生の講義のテキストとして『廣井勇と青山士』を使ってくださったのです。その後、I先生から「八田與一」は作られないのですか?、と聞かれたこともあり、作成したのが『八田與一と鳥居信平』です。(略)今後ともよろしくお願いします。
2022年02月06日
「宮部金吾」P35-36札幌へ 笈(きゅう)を負(お)うて〔(史記蘇秦伝から)勉学のために故郷を離れる意味〕、青雲の志を抱き、いよいよ故郷東京に別れを告げ、明治10年8月27日、品川より開拓使の御用船玄武丸にて出帆した。玄武丸は644トンの蒸気船で、今日でこそ、小さな船なれ、当時としては鄙には稀な豪華船であった。もっともこの豪華船は非常に動揺しやすく、一名ゴロタ丸の別名を有していたほどである。中央部甲板の下にホールがあり、このホールは食堂兼談話室であった。ホールを中心にして一等室があり、各室とも定員2名、二等は舷側にあって定員4名、ベッドは上下に位置していた。三等室は舳(とも:船首)にあって、荷物が輻輳(ふくそう:一箇所に集中して混雑すること)すると積荷はその室にまで溢れて来た。私たちの乗船した時は、幸いに船客が極めて少なく、一行は一等室もしくは二等室をあてがわれた。この引率者は幹事であり、予科で英語の教師を兼ねていた井川冽氏である。途中大分荒れて一行にも船酔いを催すもの多く、町村金弥君はその時の船酔いの旗頭であった。8月30日函館に入港、9月2日まで停泊した。蝦夷の関門にいよいよ上陸第一歩をしるし、さわやかな陽の光に、感銘深い永き憧憬の地の初秋を感じた。暇を得て、函館山に上り、さまざまな珍しい植物に眼を惹かれ、また碧血(へっけつ)之碑〔函館戦争で旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑。碧血とは、「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」(荘子)という中国の故事によるもの〕なども訪れてみた。町は思ったより相当殷賑(いんしん)であったが、やはり東京から来て見ると異郷に渡って来た思いがした。すれちがう女の魚売りの「さかなかはにしかね、さかなかはにしかね」と聞こえる呼び声や、「ぞにもつ、するこもつ」(雑煮餅、汁粉餅)などの看板に遥けくも来た道の遠さが思われた。9月3日早朝つつがなく小樽に入港、海路は極めて平穏であった。直ちに下船、入船川のほとりの海に面した宿で朝飯をしたためる。当時、手宮はまだ漁村で、入船町のあたりが港の中心であった。食後、馬20頭、鈴の音をひびかせて、いよいよ一同札幌に向かう。国道は海浜に沿い、銭函までは漁村が散点していた。ただ張碓に近い神威古潭(カムイコタン)だけは、まだ道路が未完成で、高い断崖下に岩礫がるいるいしていた。好天に恵まれ、海も静かであったが故、波浪の洗礼もうけないで馬上無事通過、なお海沿いに銭函に進み、小坂をあがった所の宿で昼食をとり、鄙びた饅頭を食べる。この饅頭は銭函名物なりし酒饅頭の前身である。これから道は海にわかれ、鬱蒼たる森林を縫って軽川から琴似(ことに)に向かった。この間、所々に農家が散在していた。琴似で始めて屯田の建物らしい建物を見、ぽっかりと人里のあたたかさを感じ、またことに屯田の事務所や小学校などが爽かに眼についた。一行は遂に渡嶋通り、すなわち南一条から北二条西二丁目の薄暮の寄宿舎に着いた。布団もない荷物を両側に付けた駄鞍にのって来たので、尻は勿論、始めて乗った馬とて体の節々も痛く、気鋭の若者も一同大いに疲労した。玄関はひっそりとして一人の出迎えてくれる上級生もなく、全然空屋のような静けさであった。ただ遠くの室で、何か集会があるらしく、歌の声などが聞こえてきた。後でわかったことであるが、その時、上級生一同は復習室に集まって、ちょうど祈祷会を開いたところであったのだ。まず食事をとり、風呂に入る。2人ずつ既に割り当ててあり、各室のドアーの側に名札が掛っていた。実に偶然といえば偶然、私と内村君は同室になっていたのだ。ほの暗いランプの下で、虫の音を聞くともなく聞いていると、遥けくも来た旅愁を身にひしひしと感じた。当時寄宿舎の規定で、各学年ごとに室をかえ、また同時にコンビネーションもかえることができるようになっていたが、私共両人は室は変っても離れることなく、4年間一緒にいて、最も平和な楽しい生活を共にすることができた。 1882年(明治15年)1月30日 親愛なるカボテン〔宮部金吾〕今日は休日で郵便局はしまっている。タッタ2頁の君の手紙本日午後着いた。大きな喜びと感謝とをもって繰り返し読んだ。僕がいつものとおり君の胸の中にいることを知り、また君の霊肉とも健やかなことを告げられて、実に大きな慰めを与えられた。僕の父に関する君のしらせは、いたく僕を動かし、熱き希望と感謝とをいだかせてくれた。神と神の御子イエス・キリストを信ずる信仰において、僕がますます成長しつつあるというこのこと以外に、何の言うべきことがあろう。ドーか、機会があったら父を訪れてくれたまえ。僕の心持を父に伝えてくれたまえ。また僕の絶えざる祈りは、父がふたたび頑固な儒教に立ち戻らぬことだと伝えてくれたまえ。 今日、《北海講学会》の演説を聞きに行った。聴衆は200ばかりだが、演説は、僕の判断では、第一級のものではなかった。かつて函館で説教師をしていた丸山が主な世話人だった。彼は教会には来ず、全く不信仰になりかかっている。札幌もイスカリオのユダには事欠かないのだろうか。宗教に反対する多少の暗示的なことが述べられた。しかしまだ大したことはない。 タラ漁視察のため、明日、祝津(しくずし:小樽から2里)に行く。非常に興味がある。標本は豊富だし、解剖は自由だし、その上現場の漁師たちからたくさんの興味ある事実が学べる。同地に約1週間滞在するつもりだ。 目下、藤田〔九三郎〕と一緒に自炊している。近頃女中一人を雇うと1ヶ月約8円かかることがわかった。自炊案を最初に持ち出したのは広井〔勇〕だったが、彼はその翌日教会に移り、そこでキタナラしい食事をつくっている。彼の米たきの方法は次のようだとのことだ。まずドナベを用意し、一つかみか二ちかみかの米を(とがずに)その中に入れ、水を使うのは面倒なので雪をひと山その上に押しつける。それからひとかたまりのミソをその雪の上において、それを火にかける。それで万事すむ。無精-無精! 足立〔元太郎〕は社交がひろい。彼は目下中村〔良吉〕一家と食事を共にしている。 兄弟よ、ニュー〔藤田九三郎〕と僕とが小さなストーブの前に立ち、その上に骨っぽいテックイ〔ヒラメ〕を入れたナベをのせ、-腰かけもなく立つ図と、冷たい米の飯と、4日に一度洗うことになっているキタナイ食器とを想像してくれたまえ。月給30円の官吏としては余りにも低い生活だ、《銭取ル病ト死ヌ病》と君は言うだろう。-金を得るためには一所懸命に働かねばならない。太田に告げてくれたまえ。われわれは女中は追っ払ったが、彼がわれわれの所へ戻ってくる時には、何ら不便はかけさせない、と。僕のために善い本を探して僕を助けてくれる君の絶えざる努力を多謝する。何といって感謝したらよいかわからない。ただ僕のようなつまらぬ者に対する君の変わらぬ愛に深く感激するのみである。兄弟よ、もし今、顔と顔とをあわせて君に会えるとしたら、僕の今の状態について君に話すのに、最低3日はかかるだろう。喜びと慰めの中にも、困難がないわけではない。A〔足立元太郎〕君の結婚問題に関与したため世間から姦淫者のごとく見られ、また新郎をねたむ友と見られ、世間の評判を打ち消すのに僕はかなり苦心した。あの結婚については何も言わないことに決心した。-彼にも僕にも不利だから。しかし神は僕の心を知りたもう。そして僕は清き良心をもって働いたと思っている。教会のことは実に面倒だ。僕は教会の役員の仕事から身を引ける立場にはいない。つぶやくべきではない。しかし、愛する兄弟よ、君には、すべての教会の仕事の中の一番むずかしい事が、今、僕自身の上に落ちかかっていることを告白する。僕は一番かたい核を食べているのだ。同じことが札幌基督教青年会についても言える。僕は自分のために働いていることを知っている。しかし愛するフランシスよ、君は誰よりもよく僕を知っている。君は僕の能力と知識と年齢とがドレほどのものか知っている。以上に加えて、明年の水産展覧会の用務に関する別の面倒がある。この方からはスッカリ身を引くこともできるかも知れない。この点は長い間予期している。神は人をいろいろ異なった性格につくりたもう。そして万人が神の子ではあるが、もしできるなら、同じ性格の者が一緒になって働く方がはるかによい。僕は同じことをすでに馬の骨格の組立てに当たって経験した。一面からすれば、万事暗くボンヤリしている。僕は自分の将来がどうなるかを知らない。北海道の漁師か、ガラリヤの漁師か、僕には言えない。神のみ心の成らんことを。ああ!兄弟よ、僕は今ただ一人、ランプの前に坐り(午後10時半)、明日の旅行の用意について考えている。今、君のすがたが眼の前にハッキリうつる。君の常に変わらぬ輝かしい顔で僕の心を喜ばせてくれたまえ。願わくは神、君の任務の遂行を助け、肉においても霊においても健やかに、希望にあふれ、変わりなき愛にある君をば、無事に僕のところに伴いたまわんことを。あらゆる機会に君のために祈っている。僕のためにも同じようにしてくれたまえ。ひまの時には、たびたび手紙をくれたまえ。そして君と君の家族のことをモット知らせてくれたまえ。 キリストに在って、常に君の愛する兄弟なる ヨナタン・内村鑑三君の善い兄さん、2人の姉さん、愛するお母さんと君の全家族にくれぐれもよろしく。-片山〔清太郎〕、伊藤〔悌治:共に東京外国語学校時代の同級生〕の両君に、今朝僕が役所に行った時、両君のねんごろな手紙が引き出しに入っていることを発見し、嬉しさに溢れた、と伝えてくれたまえ。帰宅してから両君へ手紙を書くつもりだ。東京 宮部金吾あて 札幌より 〔内村書簡全集5〕p27-301882年(明治15年)1月30日 札幌にて 親愛なるフランク〔宮部金吾〕 ホンの数日前、君と太田〔新渡戸稲造〕に長い長い手紙を書いた。もし札幌と僕自身のことについて一切を書こうとすれば本一冊を使っても足りないだろう。しかし書簡文範の大家たちは、事務上の手紙は短きをよしとする、とすすめているので、この手紙はそんなふうにする。 僕は平岩〔愃保〕君に、《六合雑誌》内容改善費として2月1日までに13円送金する、との約束の手紙を出した。僕は札幌の兄弟たちに、できるだけ多く寄付するようすすめるため全力をつくし、そのためかなり苦労したことを告白せねばならない。しかしこれは理由のないことではない。君の知る通り教会の全会員は経済的困窮に陥っている。君の知るとおり、われわれは教会のため1ヶ月1-2円をきまって献金しなければならない。この他、約40円を困っている兄弟たちと1姉妹のために使った!ちょうどその頃、出田〔春太郎:第一期生〕君の記念碑寄付がやって来た。辻本〔全二〕君は教会に対する借金を返してくれず、われわれの出費は予想以上に大きい。実をいうとわれわれは経済的大困難のうちにある。同封で12円を送るから、君から東京基督教青年会の会計係へ手渡してくれたまえ。そして彼らに、われわれの実状を話してくれたまえ。彼らは、僅か1円足せば約束の額に達するではないか、と、と考えるだろうが、今のところ僕にはできない。われわれはできるだけのことをした。ドーか君から、青年会に対する僕の心の深いところを告げてくれたまえ。同時に、われわれが全力をつくして姉妹なる青年会を助けたいと願っていることと、もし愛するその青年会の会員がわれわれの寄付の余りに僅かなことを許してくれるなら、われわれは非常に有り難く感ずる、と告げてくれたまえ。われわれの青年会はだんだん立派に成長しつつある。現在多数の新しい出席者があり、われわれはこの方法で多くの善いことをなしうると思う。今日(1月30日)《北海講学会》と呼ぶ新しい会の発会式があるとのことだ。この会の表むきの趣旨は、北海道の人に科学教育をすることとなっている。しかし、真の動機は、開拓庁のやることについて役所の喜びそうな意見を宣伝し、あわせてキリスト教反対を説くことにあるらしい。そのおもな会員は農学校の急進的な反キリスト教学生らと数人の卒業生(すべて不信者!)と、多くの有力な役人と市民とから成っている。クリスチャンは会員たることを許されない。ただし佐藤昌介君はその会員であるが、会は日曜日に集まるのだから、僕にはその理由が分らない。同君の日曜日の教会出席は極めて不規則だ。この会はわれわれの札幌キリスト教青年会に正面から対抗するものらしい。ダニエル・デフォーの言うところは正しい。神、祈りの家を建てたまえば悪魔、必ずそこに会堂を築くやがて結果は明らかとなり後者ははるかに多くの会衆を持つに至る来たれ、汝小ミル輩よ、幼虫のスペンサーよ、あわれなバックルよ。なんじらは科学によってキリスト教を否定しようとする。何ぞ?科学によって、とよ。いかなる科学によってか?植物学によってか?われわはなんじらの相手を東京に持つ。彼〔宮部〕は間もなく帰りきたってわれらに加わるだろう。天文学によってか?われらは汝に対抗し得る者をもつ。もしなんじらがフォークト、モーレシェル、ヤング、ブラウンの名において答えるであろう。歴史によってか?われらはなんじらに答える者を持つ。彼〔新渡戸〕は今、眼を病むとはいえ、やがて帰りきたってなんじらと戦うであろう。進化論と物質至上主義によってか?われら無学なりとはえ、なんじらの常識的反対論に答え得る者が数人いる。化学と数学と哲学とによってか? きたれ、きたれ、われらの札幌キリスト教青年会の講壇上より、われらの反撃をあびせよう。われわれは皆で、この物質至上主義ら(誇大すぎる言だ)の会の創設を祝おうではないか。「われらと格闘する者はわれらの勇気を強くし、腕前を鋭くしてくれる。われらの敵手はわれらの助け手である。」とエドマンド・パークはいっている。フランクよ。君の信仰の楯をみがき、興味深いわれわれの戦闘において僕らを助けてくれたまえ。結果を見守ってくれたまえ。そして勝利がいずれに帰するかを見てくれたまえ。本よ、本よ、本よ! なんじはこの現下の戦争におけるわれらの唯一の武器である。僕ヨナタンは君フランシスに、マイヴェートの「種のはじめ」かラボックの「文明の起源」を、特に前者の方を、求めてくれることを望む。僕は今、実に貧乏で、次の月給日まで金を送れない。君は君のシュミットを手ばなせるか。手ばなせるなら、いくらくらいか。この辺で事務上の手紙を終らねばならない。今回は君の手紙書きの怠慢については何も言わない。しかし宮部君、僕はすでに君に、6通の手紙を書いたが(この状も含めて)、君からはただ1通、しかも返事の1通を受け取っただけだということを付け加えることを許してくれたまえ。ドーか僕が《マジメ》でこの事を書いていることを心にとめてくれたまえ。片岡〔清太郎:東京英語学校の同級生〕君は約3ヶ月前から1通の手紙もくれない。僕にはその理由が分からない。今年は僕は見放されるのだろうか。たしかにつらい年になるだろう。
2022年01月14日
寺田寅彦の「藤棚の陰から」というエッセイに広井勇のことが載っている。野中兼山のなかけんざんが「椋鳥むくどりには千羽に一羽の毒がある」と教えたことを数年前にかいた随筆中に引用しておいたら、近ごろその出典について日本橋区にほんばしくのある女学校の先生から問い合わせの手紙が来た。しかしこの話は子供のころから父にたびたび聞かされただけで典拠については何も知らない。ただこういう話が土佐とさの民間に伝わっていたことだけはたしかである。 野中兼山は椋鳥が害虫駆除に有効な益鳥であることを知っていて、これを保護しようと思ったが、そういう消極的な理由では民衆に対するきき目が薄いということもよく知っていた。それでこういう方便のうそをついたものであろう。「椋鳥は毒だ」と言っても人は承知しない。なぜと言えば、今までに椋鳥を食っても平気だったという証人がそこらにいくらもいるからである。しかし千羽に一羽、すなわち〇・一プロセントだけ中毒の蓋然率プロバビリティがあると言えば、食って平気だったという証人が何人あっても、正確な統計をとらない限り反証はできない。それで兼山のような一国の信望の厚い人がそう言えば、普通のまじめな良民で命の惜しい人はまずまず椋鳥むくどりを食うことはなるべく控えるようになる。そこが兼山のねらいどころであったろう。 これが「百羽に一羽」というのではまずい。もし一プロセントの中毒率があるとすればその実例が一つや二つぐらいそこいらにありそうな気がするであろう。また「万羽に一羽」でもうまくない。万人に一人では恐ろしさがだいぶ希薄になる。万に一つが恐ろしくては東京の町など歩かれない。やはり「千羽に一羽」は動かしにくいのである。 こういうおどかしはしかし兼山に対する民衆の信用が厚くなければなんの効能もなくなることである。 兼山の信用があまりに厚かったためにいろいろの類似の言い伝えが、なんでもかでも兼山と結びつけられているのではないかという疑いもある。実際土佐とさでは弘法大師こうぼうだいしと兼山との二人がそれぞれあらゆる奇蹟きせきと機知との専売人になっているのである。 十七 野中兼山のなかけんざんの土木工学者としての逸話を二つだけ記憶している。その一つは、わずかな高低凹凸おうとつの複雑に分布した地面の水準測量をするのに、わざと夜間を選び、助手に点火した線香を持って所定の方向に歩かせ、その火光をねらって高低を定めたと言い伝えられていることである。しかしねらうのには水準器のついた望遠鏡か、これに相当する器械が必要であろうがそれについては聞いたことがない。 もう一つは浦戸港うらどこうの入り口に近いある岩礁を決して破壊してはいけない、これを取ると港口が埋没すると教えたことである。しかるに明治年間ある知事の時代に、たぶん机の上の学問しか知らないいわゆる技師の建言によってであろう、この礁かくれいわが汽船の出入りの邪魔になると言ってダイナマイトで破砕されてしまった。するとたちまちどこからとなく砂が港口に押し寄せて来て始末がつかなくなった。 故工学博士広井勇ひろいいさむ氏が大学紀要に出した論文の中にこのときの知事のことを“a governor less wise than Kenzan”としてあったように記憶する。実に巧妙な措辞そじであると思う。この知事のような為政者は今でも捜せばいくらでも見つかりそうな気がするのである。 少なくも、むやみに扁桃腺へんとうせんを抜きたがる医者は今でもいくらもいるであろう。『築港』広井勇著の緒言に、広井が幼い頃、高知県浦戸に遊びに行ったとき、野中兼山が築いた防波堤が二百年の時を経て、安政の大地震で津波を防いで、一村が助かった話を古老から聞いて感動したとある。「惟(おも)うに港湾修築の事たる、実に国家重大の事業にして、その施設の困難なる土木事業中の最たり。故にこれが計画を立つるに当りては、最も慎重に、最も周到を以てし、百年に竟(わた)りて違算なきを期せざるべからず。著者〔広井勇〕幼時、土州浦戸種崎に遊び、これを古老に聴く。該地海峡を扼(やく)する二個の波止〔はと・防波堤〕あり。これ我が邦(くに)工学の泰斗〔たいと・泰山北斗の略:その分野の第一人者〕たるの中野中兼山の築きしものなりと。その種崎村にあるものは、久しく堆砂(たいさ)のうちに埋没し、知るもの絶えてなかりしに、後二百余年を経、安政元年の震災に際し、怒涛襲来し、種崎の一村今や狂瀾(きょうらん)に捲き去られんとする一刹那(せつな)、彼の波止露出し、ここにこれを防止して僅かに一村を全うすることを得たりと言う。ここにおいてか、兼山の施設の永遠に迨(およ)び、その当を得たるを証するに足る。実に技術者、千歳の栄辱は懸かって設計の上に在り。これが用意の慎密遠図を要する、また以て了すべきなり。」「巻中に引用せし許多の試験及び観測を為すに当り工学士真島健三郎、遠藤善十郎、北村房次郎諸氏の補助を得たるもの少なしとせず。ここにこれを謝す 明治三十一年八月 著者識(しるす)」*幼い頃の数馬(9歳のときに父と死別し、名を勇と改める)は浦戸湾の入口にあたる種崎村(現、高知市)の海岸で、十数年前に津波が襲来した際、堆砂の中に埋没し忘れられていた堤防が露出して津波を防いだという話を聞かされたと記している。この堤防は、遡ること200年前の1655年(明暦元年)に、野中兼山が造らせたものであった。
2021年12月06日
「背信者」小山内薫 「祈祷会」抜粋「山田(小山内)は急いで夕飯を済ますと、また家を出た。・・・・・・ 千駄ヶ谷の会場には、もう会員が大部分集まってゐた。そこには、けさの緊張に引きかへて、幾分かの寛ぎがあつた。寄宿生の間には既に親睦と談笑とが見られ、寄宿生と通学生との間にも、局部局部に友誼と懇談とが見られた・・・・・・「今日は祈祷会といふことにしましたが、諸君の内には、まだ祈祷の精神といふものを、よく知らない人があらふと思ひますから、一応座談的にそのことを話して置かうと思ひます。― 一体、さつき白井君にも話したことですが、夜の会は飽くまでも遠慮のない寛いだ会にして、わたしが何か言ふよりは、あなた方の感想なり疑問なりを、わたしの方で聞くことにしたいと思ふのです―」「さて祈祷の話ですが、一体、基督教で言ふ祈祷は儀式でもなければ、典礼でないのです。ですから、祈祷といふものはかういふ風にしてしなければならないとか、かういふ詞を使はなければ、ならないといふ規則などはないのです。よく教会などで見る形式的な祈祷―あれが必ずしも祈祷ではないのです。祈祷は信仰の現れ以外のものではないのです。苟も人にして信仰を持てば、どうしても祈祷をせずにはゐられなくなるのです。世の人には、神は信ずるが、祈祷などといふ迷信的なことはしないと言つて、息張(いばつ)つてゐる基督教信者が随分ありますが、さふいふ人は祈祷の何者たるを知らないばかりでなく、実は信仰の何たるかさへ弁へない人です・・・・・・」「・・・・・・神とか信仰といふ問題は、一先づ別のところへ置いて、諸君が美しい花とか好い景色とかを見た場合を想像してみますね。それらが神の創造であることなどは考へないでも、美しい花を見れば美しいと思ひ、好い景色を見れば好い景色だと思ふのは、人情の自然だらうと思ひます。そこで、人間が嘆美の詞を発しますね。実に綺麗だとか、こんな景色は今までに一度も見たことがなかつたとか言ひますね。ところが、それだけでは、どうも物足りない。もっと何か自分の感情を満足の出来るまで言ひ現したい。そこで、詩や歌を作ることになる―自分で出来なければ古人の詩や歌を思ひ出す。そして自分の感情とその感情の対象とを少しででも密接な関係に置かうとします。祈祷の精神は手もなくこれです。信仰告白の高調が詩歌となつて現れたものが祈祷なのです。祈祷は詩です。信仰の歌なのです・・・・・・それでは、唯それだけのものかと言ふと、なかなかさうでない・・・・・・」「諸君は『山上の垂訓』といふものを知つてをられるでせう。『心の貧しき者は福なり。』をもつて始まるマタイ伝第五章から第七章の終に至るまでのあの有名なイエスの詞です。これはキ基督教の信者でない人でも、大抵な人は知つてゐる。或人などはこれさへあれば聖書の他の部分は全部なくなつても構はないとまで言つてゐます。トルストイなどは、これを一般道徳と見て、人は何人でもこれを実行しなければならないやうに言ってゐますが、それは非常識だと言はなければなりません。成程『山上の垂訓』の中には、イエスの倫理らしいものがあります。併し、それは道徳律ではなくて、実は天国の福音なのです。仮りにこれを道徳だと見て、決して一般道徳ではないのです。信者道徳なのです。天国の道徳なのです。信者の国なる天国に於いてのみ行はれ得る道徳なのです。基督の血によつてその罪を贖はれた、心の虚しい、ヘリ下つた信者の間にのみ行はれ得る道徳なのです―これを国家道徳と見て、また社会道徳と見て、その不可能たるは誰が見ても明かです・・・・・・」「併し、この天国の律法は、モオゼによつて伝はつた旧約の律法よりも遥に厳格です。『爾(なんぢ)に求むる者には与へ借らんとする者を卻(しりぞ)くる勿れ』―『なんぢ施済をするとき右の手の為すことを左の手に知らする勿れ。』―『もし右の眼なんぢを罪に陥さば抉出して之を棄てよ。』―『人なんぢの右の頬を批たば亦ほかの頬をも転らして之に向けよ。人なんぢに一里の公役を強ひなば之と偕に二里ゆけ。』―どこを読んでも、至難なことばかりです。これは確にモオゼ律以上です。『山上の垂訓』を守る困難は、到底モオゼ律を守るの困難の及ぶところではないのです・・・・・・」「天国の幸福は誰にとつても慕はしいものには違ひありませんが、かくもむづかしい律を守らなければ、そこへはひる資格が得られないとすれば、天国は吾々凡夫にとつて有つて無きに等しいものである。『天国の市民になりたいとは思ふが、到底自分にはその能力がない。』とは、イエスの山上の説教を読んで何人にも起る感想であります。『然らば誰か救を受くべき乎』とは、この場合ばかりでなく、他の場合に於いても、屡イエスの弟子達の間に起つた疑問でした。イエスの宣べた天国の律法は、肉体を持つてゐる吾々にとつては、あまりに純潔過ぎます。その実行は、吾々の弱さを以てしては、到底不可能です。『誰か之に堪へんや』です。イエスの要求と吾々の能力との間には天地も田だ啻(ただ)ならざる距離があります・・・・・・「『求めよ、然らば与へられん。尋ねよ、然らば会はん。叩けよ、然らば開かれん。』とは、この疑惑絶望を救はうとして、イエスが述べた『山上の垂訓』の総括とも称すべき詞なのです・・・・・・「イエスも自分の述べた道徳が、地上の人にとつて守るに困難なことはよく知つてゐたのです。イエスは自分一箇の立場から、自分とはまるで違つた境遇にゐる普通の人間に向つて、自分の道徳を強要するやうな、そんな無慈悲な人ではなかつたのです。イエスがここで言つた詞の意味はかうなのです―「イエスはかう言つたのです―だが、お前達は私の福音を聞いて失望するには及ばない。私の要求に応ずることの困難なことは私もよく知つてゐる。『汝等の義にして学者とパリサイ人の義に勝るに非ずんば。汝等は必ず天国に入る能はず―私はかう言つた。これはなかなか普通の人間に出来ることではない。併し、人には出来ないことでも、神には出来る。神に出来ないことは何一つないのだから。お前達も自分の力だけを頼りにして、私の教を守らうと思つても、それは無理だ。併し、お前達の父はお前達を助けて、どんなむづかしいことでも為遂げさせて下さるのだ。求めれば、与へられるのだ。尋ねれば、会へるのだ。叩けば、開かれるのだ。お前達の力の不足を父に祈つて補ふが好い。彼は喜んでお前達の祈祷に答へるだらう・・・・・・イエスはかう言つたのです。「かういふ意味で、祈祷には必ず効力があるのです。それは日本で普通言ふ御利益とか大願成就とかいふものではない。商売繁盛や家内安全の祈祷が叶ふのではありません。人間が人間の能力以上の道徳を行はうとして、その足りない力を神に乞ふのです。祈祷の精神には無限にいろいろな意味がありますが、その重要な要素がこれであることは疑ふ余地がありません・・・・・・「繰り返して言ひますが、イエスは神の助けなしに人間に実行出来るものとして、天国の律法を述べたのではありません。神に求めて、神に尋ねて、神の聖意の門を叩いて、はじめて、右の頬を打たれた時左の頬をこれに向ける忍耐を得ることが出来るのです。自分を詛ふものを祝し、自分を責めるものの為に祈る愛心を持つことが出来るのです。苟もイエスの弟子たるものはその祈祷の範囲を善心の祈求にまで広げなければなりません。吾々は先づ善事をして、それから善心を貰ふのではありません。先づ祈つて、善心その者を貰ひ、それによつて心から善事をするのです。山上の垂訓をもつて、単にイエスの道徳律と見なすものは、彼が祈祷の勧めをもつてこれを結んでゐることに気が付かないものであります・・・・・・「求めよ・・・・・・尋ねよ・・・・・・叩けよ・・・・・・といふのは、どういふ意味でありませうか。『求めよ』とは、詞をもつて求めよの意味です。『尋ねよ』とは足を運んで尋ねよとのことです。『叩けよ』とは手を挙げて叩けよといふことです。口で願つて、若し聴かれなければ、手を伸べて願へと言ふのです。祈祷は切々たらざるべからずと言ふのです。さうすれば、必ず与へられると言ふのです。『ひたすら請ふ故に、その需に従ひ、起きて予ふべし。』といふ詞がある位です・・・・・・「求めて聴かざれば尋ねよ。尋ねて猶聴かれざれば叩けよ―さうすれば、神はお前達に、お前達の難しとする天国の律法を実行することの出来る能力と精神とを与へて下さるに違ひない―かうここでイエスは説いたのです・・・・・・「『汝等のうち誰かその子パンを求めんに石を予へんや。また魚を求めんに蛇を予へんや。然れば汝等悪しき者ながら善賜をその子に与ふるを知る。まして天に在す汝等の父は求むる者に善賜を与へざらん乎。』―祈祷が神に聴かれる理由はこれであります。若しこれが理由にならないならば、他に理由はないのであります。祈祷の効力―これを科学的に証明することは出来ません。祈祷はなぜ神に聴かれるのかーこれを論理的に立証することは出来ません。併し、父の親心に訴へて見て、神がその子供の祈祷を聴く理由が分かるのです・・・・・・(続く)💛青山士の祈禱文の意義をしるには、内村鑑三の夏期講談会の内村の講演と祈禱会の内容を知る必要がある。青山は「パナマ運河の話」の巻頭で、内村と広井とバー教授の3人の先生の写真を掲げ、この本を捧げた。青山を知るには、内村鑑三と広井勇の考え方、生き方そしてその教えを知る必要がある。そして「技師青山士著述集」を出版することに意義があるとすれば、内村鑑三と広井勇について、特に夏期講談会の内容を小山内薫の「背信者」(この小説も実は小山内が感動し青春をささげた内村鑑三とその夏期講談会を記録したものにほかならない)より抜粋し、またボーイズ・ビー・アンビシャス第4集「広井勇と青山士」から広井勇の授業風景やその「紳士の工学」の精神を広く知らせることは意義があるに違いない。
2021年10月18日
小説「背教者」の夏期講談会の内村鑑三*夏期講談会は、一九〇〇(明治三三)年から一九〇二(明治三五)年まで年一回、内村鑑三が主催した講演会である。『東京独立雑誌』の主筆だった内村鑑三は、第五八・五九号で夏期講談会を計画し広告したが、一八九〇年七月東京独立雑誌社は解散し、内村一人で責任を負うことになった。内村の他に大島正健、松村介石、留岡幸助らが講師として応援した。第一回は一九〇〇年七月二五日より八月三日までの一〇日間で、初日の来会者七十六名。東京府角筈の女子独立学校で寝食を共にして行われた。内村は開会前「予の信仰は国の為めキリストの為めこの二なり。Pro Christ et Patria」と述べた。この言葉「Pro Christ et Patria」は後に出版される雑誌『聖書之研究』の表紙に掲げられる。夏期講談会の三日目。午前八時に記念写真を撮影。参加者として小山内薫、青山士、井口喜源治ら六六人が女子独立学校の校舎を背に写る。八月一日・八日目は午前中アメリカの「ペンシルバニア州州立白痴院の院長アイザック・ケルリン」について語り、午後は巣鴨の留岡幸助の家庭学校を訪ねている。八月二日・九日目夜、独立苦楽部を結成し、各自三分間夏期講談会に対する感情を告白する。八月三日・一〇日目(最終日)留岡の講演の後、内村が送別の挨拶をして七月二七日聖書を中心に道徳、文学、歴史などのキリスト教的「講究会」が主な参加者は、井口喜源治、荻原守衛、森本慶三、小山内薫らであった。 第二回は一九〇一年七月二五日より八月三日までの一〇日間に角筈女学校で行われた。申込希望者六十三名。二四日夜八時二〇分より夜会を開き、挨拶。夜会のテーマ「著述並びに読書」志賀直哉は末永馨の誘いで夜会から出席した。七月二六日・第二日。復活信仰の話に続きクロムウェルの宗教について講演した。この日の内村の講演を聞いて、新生を体験したのが小山内薫である。小山内は夏期講演会の前日失恋したところだった。「明治三十四年七月廿六日、これわれの霊に於て生れし時なり。第二回夏期講談会はこの無名の青年を救ひ得て遂に遂に不朽なり。」と感想を寄せた。内村は「一人の霊魂を救ひ得ば百年の労も惜むべきにあらず」と後に『聖書之研究』に所感を加えた。七月二七日・第三日。開会前に記念写真の撮影。小山内薫、浅野猶三郎、志賀直哉らが写る。午前マタイ伝第一章の講演。この講演が『背教者』に詳述されるのは、小山内の新生の感激が投影されているからであろう。七月二八日・第四日。角筈聖書研究会が浅野、小山内ら十二名で結成された。 七月二九日・第五日。「予が聖書研究に従事するに至りし由来」を講演。この講演が『背教者』の午前の講演として採録されている。すなわち『背教者』における森川先生の講演は内村の三回に各回十日にわたる講演のうち、小山内薫が最も読者に伝えたかった、または再生を体験した講演や夜会を一日に凝縮して提示したものに他ならない。第三回は一九〇二年七月二五日より八月三日までの一〇日、角筈で行われた。この会に大賀一郎が、青山士に誘われて初参加した。斎藤宗次郎、有島武郎なども参加している。七月二七日・第三日、記念写真。「出席会員七十四名、開会前会場の西方に列んで講師会員一同紀念の為撮影す。」夜の祈禱会では、内村はマタイ伝一八ノ二〇「わが名の為に二三人の集れる処には我も其中に在ればなり」を解釈する。「集会の諸君よ、唯単へに己れの事のみ祈らずして互に他人の祈をも助け給へ」七月二八日・第四日。九時より小金井まで遠足。七月三〇日・第六日。午前中「狭隘の利益」と題して講演。夜の懇話会のテーマは「我が生涯の目的」。この時の記録に青山君は大学の工科生なり。・・・・・・予は青山君を見たり。予は君が微笑を以て三寸の下を蘊(つつ)み、多く語らずして実は大いに心中に語り居る人なることを看たり。而して予輩は本夜の談話に於て君が志望の大学以上にあることを解せり、予輩は今君について多くを語るを好まず、唯願くは君の健在ならんことを祈る」と内村の所感が記録されている。青山士の『聖書之研究』に掲載された懺悔文を理解するには、『背教者』で小山内薫が描いた夏期講談会での夜の祈禱会を理解しなければならない。
2021年10月10日
小山内薫の小説「背教者」に、青山士が「天岡」という名前で登場する。小山内と青山は内村鑑三の夏期講談会で出会った。「背教者」の中では、第二回講談会で山田(小山内)は天岡(青山)と深田(大賀一郎)と出会った場面がある。大賀一郎は古代蓮を遺跡で発見した種から現代に再生させたことで知られているが、大賀の回想録によると、それは第三回夏期講談会のことで、一高の先輩、青山に連れていかれたとある。青山は一高の寮の同室の浅野猶三郎に誘われて内村鑑三の講演会を聞いて感動し、夏期講談会にも参加していた。1902年7月29日(火)、30日(水)の第三回夏期講談会5日目、6日目の黒木耕一の記録に小山内と青山に関する内村の評がのる。5日目「小山内君の家庭の不幸も君が之に処して大なる幸福を得し訳を聞けり。予は実に君の言行を聞いて君の信仰の着々実際に現れ出たるを感謝せずんばあらず。家庭生活の円滑に行かざるは必ずしも他人(ひと)のむづかしきに由るに非ずして我がむづかしきに由ることあり」6日目「青山君は大学の工科生なり。・・・・・・予は青山君を見たり。予は君が微笑を以て三寸の下を蘊(つつ)み、多く語らずして実は大いに心中に語り居る人なることを看たり。而して予輩は本夜の談話に於て君が志望の大学以上にあることを解せり、予輩は今君について多くを語るを好まず、唯願くは君の健在ならんことを祈る」浅野によると、小山内はこの夏期講談会の時期から、「その頃小山内君は我が会の模様を小説にしてみせると言っていたが、それを実現したのがかの小説『背教者』である。」とある。また大賀は「この会合の様子は小山内薫君の『背教者』中によく記されている。」と記す。小山内は小説の素材とするべく丹念に講談会の様子を記録した。だからこそ、森川(内村)先生の講談に熱あり力あるのである。『背教者』の講談会の模様を本書(「技師青山士著述集」)に記録し発表することは、小山内薫や当時熱心に聴講した内村の弟子たちの青春を語ることでもある。と同時に、「ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集 内村鑑三 神と共なる闘い」の続編ともなり、内村鑑三は「いかにしてキリスト教を世に広めたか、いかにして人を育てたか」を指し示すものともなろう。青山士の「人類のための工学」は内村鑑三と広井勇の二人より受け継いだものにほかならない。
2021年10月10日
「背教者」小山内薫 聖書の研究 イエスの系図その1内村鑑三の夏期講談会におけるマタイ伝第一章の講演は、1901年7月27日(土)第2回夏期講談会第3日目のことであった。(「内村鑑三日録1900~1902」p.158)小山内薫の「背教者」では、すべて第一日目7月25日の午前、午後、夜会の一日の中の出来事として描いている。夏期講談会は十日間で留岡幸助、巌本善治、大島らの講師も講演したが、内村の公園のみを採録している。それは小山内自身が自らに照らして切に感動し、また後世に記録として残したいたもののみを選んだというべきであろう。内村の聖書研究の一番最初を記録しようとしたのである。p.734「タマルとラハブー二人ともに娼妓である。その一人は多分。他の一人は確実に。そして、さういふ人達の間からイエスがこの世に生れて来たといふのである。実に驚くべき記事ではないか。大胆極まる記録ではないか。しかもこれが新約聖書の巻頭に於ける明白な文字なのである・・・・・・ ・・・・・・普通の人間の立場から見て・・・・・・娼妓を祖先の一人として持つことは確に恥辱である。しかもイエス・キリストの立場から見て、それは決して恥辱ではなかつた。否、イエスは却つてこれを誇りとしたのである。 おのれの清浄を誇る祭司の長(をさ)や民の長老に向つけ、「実に誠に汝等に告げん、税吏及び娼妓は汝等より先きに神の国に入るべし。」と言つたのはイエスである。 パリサイの人シモンの家に客になつてゐた時、町で悪いことをした醜業婦に、香油で自分の足を洗はせ、その髪の毛で之を拭かせて、「汝の信仰汝を救へり、安然にして往け。」と言つたのもイエスである。 イエスにとつては、婦人が娼妓であることが、彼等を愛する少しの妨げにもならなかった。イエスは人を見るに、神の眼を以てしたのである。即ち、人の外部生活を見ないで、その内部生活を見たのである。娼妓と雖も、神に対する態度次第で、イエスの姉妹となることが出来るのである。さうして、神は娼妓をイエスの系図の中に置いて、淪落の女の救済を約束したのであるーこれが福音でなくて何であらう。これが好き音信でなくて何であらう・・・・・・」p.735「ところで、第三のルツは何者であつたらう。ルツは異邦モアブの婦人であつた。モアブの人民はエホバの神を拝せず、ケモシの偶像に事へ、所謂「イスラエルの籍にあらざる異邦人にして、夫の約束を以て結び結びし契約に与りなき者」であつた。モオゼの律法にも、「モアブ人はエホバの会に入るべからず。彼等は十代までもいつまでもエホバの会に入るべからざるなり。」とある。況んや、この異邦人を迎へて妻とすることは、モオゼ律の厳禁するところであつた。「汝、彼等と婚姻を為すべからず。汝の女子を彼の男子に与ふべからず。彼の女子を汝の男子に娶るべからず。」これ程厳しい規定が設けられてゐたのである。 これを今日に解釈して言へば、信者は不信者を娶るべからず。また不信者に嫁すべからず。」である。ところが、イエスの系図の中には、この明白なモオゼ律違反の実例が挙げてあるのである。真のイスラエル人なるボアヅは、異邦モアブの婦人を娶つて自分の妻としたのである。さうして、エホバはこの結婚を祝福し、これに由つてオベデ生れ、やがてオベデの孫としてダビデ王が生れたと言ふのである。見よ。この明白な歴史的事実は、律法をその根蒂より覆してゐるのである。「人の義とせらるるは信仰に由る。律法の行為に因るにあらず。」とは、ロマ書に於ける使徒パウロの詞である。「我れ汝等に告げん。多くの人々東より西より来りてアブラハム、ヤコブと共に天国に坐し、国の諸子は外の幽暗に逐ひ出されて、そこにて哀悲切歯することあらん。」とは、マタイ伝が記すところのイエスの詞である。法律の遵法者が救はれるのではないと言ふのである。天国の外で泣き喚のは、教会信者や自称選民だと言ふのである。 喜べよ、不信者。慰めよ、無教会信者。神の選択は寧ろ汝等の上にあつて、聖別を誇る所謂「信者」の上にはないのである。 マタイ伝第一章に曰く、「ボアヅ、ルツに由りてオベデを生み」と。沈黙せよ、監督と牧師と伝道師よ。吾々はこの明白なる聖書の教に聴いて、再び汝等の声に耳を傾けないであらう・・・・・・ ・・・・・・さて、第四のウリヤの妻とは何人のことであらう。 凡そ罪といふ罪の中で、最も醜い罪、最も憎むべき罪が、ダビデに依つてこの婦人に犯されたのである。「ダビデ王、ウリヤの妻に由りてソロモンを生み」ーこの簡単な記録その者が、同じ姦淫罪の宣表である。 ダビデは王宮の屋根の上から、ウリヤの妻の入浴するさまを見て、心を動かし、直ちに宮中へ招き入れて、おのれの楽欲を満たした。丁度、その時、ウリヤはダビデ配下の将軍ヨアブに従つて、ラバの包囲攻撃をしてゐた。ダビデはヨアブに命じて、ウリヤをわざと最も危険な方面の先鋒に立たせた。そして、これを討死させた。さうして、ウリヤの妻を宮中へ召し入れたのであるー事は太平記に見られる高師直の罪悪に酷似してゐる。 それ故、大王ソロモンは、ユダヤ人がイエスに対して言つたやうに、「我は姦淫に由りて生れし者に非ず。」と、自分の清浄を誇ることの出来ない人であつた。彼は父が他人の妻に由つて生んだ子であつた。姦淫の子であつた。しかし、彼は「ソロモンの栄華の極の時だにも、その装この花の一つに及ばざりき。」と謳はれた、あのソロモン大王であつたのである。 父の恥辱である。母の恥辱である。子の恥辱である。然るに人類の救主なるイエスは「ダビデの子」と称へられて、この父とこの母とこの子とを祖先として持つたのである。「ダビデの子」と称へられたのは、イエスの名誉ではなくて、寧ろイエスの恥辱であつた。しかも、イエスはよくこの恥辱を忍び、ダビデの罪を自分の罪とし、これを十字架につけてダビデの罪を贖ふと同時に、ダビデに傚つて姦淫の罪を犯して総てのものの罪を贖つたのである。 タマルとラハブとルツとバテシバ。 姦淫の女と異邦の女ー殊更にこれらをイエスの系図の中に掲げて、マタイ伝の記者は偉大な福音を説いたのである。神に依らずして、何人がかやうな系図を書き得られよう。乾燥砂を嚙むが如き系図も、かく解すれば、一篇の大叙事詩となつて、罪に苦しむ人の子を慰め、励まし、且癒すのである・・・・・・ 森川先生(内村鑑三)の講義はまだ続いたー (続く)
2021年10月09日
「背教者」小山内薫全集第2巻p.727「さて、愈(いよいよ)これから聖書の研究にかかります・・・・・・」 先生はかう言ふと、家から持つて来た中型の新約聖書の第一頁を明けたー「ーアブラハムの裔(こ)なるダビデの裔(こ)イエス・キリストの系図・・・・・・けふの午後の演題はこれであります・・・・・・」 先生はさふ言ふと、直ぐー「・・・・・・アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟を生めり・・・・・・」と読み出した。 会員の内には聖書を持つてゐるものと、持つてゐないものとがあつた。聖書を持つているものは直ぐとその場所を明けて見たー「・・・・・・ユダ、タマルに由りて、パレスとザラを生み、パレス、エスロンを生み、エスロン、アラムを生み、・・・・・・サルモン、ラハブによりてボアズを生み、ボアズ、ルツに由りて、オベデを生み・・・・・・エツサイ、ダビデ王を生み、ダビデ王、ウリヤの妻に由りて、ソロモンを生み・・・・・・」 それは一頁に亙る単なる人名の連続であつた。・・・・・・「・・・・・・マツタン、ヤコブを生み、ヤコブ、マリヤの夫ヨセフを生めり。このマリヤよりキリストと称ふるイエス生れ給ひき。」ここまで読むと、先生は聖書を机の上に置いて、にこにこ笑ひながら、みんなの顔を見たー「どうです、諸君。面白いですか。ちつとも面白くないでせう。」さう言つて、又にこにこ笑つた。「・・・・・・聖書ー殊に新約聖書は世界唯一の書物だと言はれてゐます。世界第一の有益な書物、世界第一の興味深い書物だと言はれてゐます。ところが、その巻頭第一に書いてあることは、この乾燥無味な系図であります。コオランの序品(じょぼん)第一には『神を頌へよ。万物の主宰、最大慈悲、審判の日の王をわれ礼拝す』とあります。埃及(エジプト)の死者の書は『天の東部にラアの昇る時、これに奉る讃美の歌』を以て始まつてゐます。論語は『学んで時にこれを習ふ。また悦ばしからずや。』で始まつてゐます。法華経は阿羅漢の頌徳を以て始まつてゐます。然るに、新約聖書は、その巻頭、馬太(マタイ)伝の第一章に於いて、無愛想にも『アブラハムの裔なるダビデの裔イエス・キリストの系図』と称して、唯人の名を列記してゐるのであります・・・・・・」p.729「書籍の趣意が若し巻頭の一句にありとすれば、聖書は砂を嚙むが如き無味乾燥な書物だと言はなければなりません。なぜ、山上の垂訓を巻頭第一に置かなかったのでせう。なぜ、愛の頌讃を以て始めなかつたのでう。読者を引きつける手段として、拙の又拙なる道をとつてゐるのであります・・・・・・」p.730 併し、その砂礫のやうに無味なるところに、また砂礫のやうに意味深長なところがあるのであるー先生はさう説くのである。ー「アブラハムの裔なるダビデの裔イエス・キリストの系図」。この一句の内に、もう重大な意義が含められてゐるのである。イエスはアブラハムの子であつて、又ダビデの子であつたのである。即ち、イエスはその肉体に於いて、アブラハムの信仰とダビデの権威とを代表してゐたのである。アブラハムとダビデー即ち、信仰と権威とを一つの身に体得したものが、キリスト即ち完全な救ひ主なのである。そしてイエスは実にその人であつたのである。「アブラハムの裔なるダビデの裔イエス・キリスト・・・・・・」この一句の内に、もう重大な意義が含められてゐるのである。これは決して無味乾燥な詞ではない。歴史的事実に拠つた最も意義深い詞である。聖書に於いて、アブラハムと言へば、神に喜ばれる信仰を表す名であつて、既に固有名詞ではない。ダビデの名も亦同じことである。聖書智識に養はれて育つたユダヤ人が、アブラハムの子にしてダビデの子イエス・キリストと聞けば、もうその一句の内に深遠量るべからざる意味を読んだものである。これを乾燥だと言つて嘲り、これを無味だと言つて笑ふのは、その人の無識を表すに過ぎないのであるー アブラハムからダビデ王に至るまでには、父子孫十四代の間があつた。その間にも、イサクの沈着、ヤコブの熱情、ユダの剛毅ー語るべき性格の人物は多々あるが、今それを語る必要はないーそれでは唯、遊牧の民であつたアブラハムとその孫とが、ダビデに至つて終にユダヤ国の王となつたといふ一事だけを記憶するに留めて、この系図が示すもつと重大な意義を探らなければならない・・・・・・」p.731「この系図に於いて、最も注意しなければならないことは、アブラハムからソロモンに至るまでの間に、婦人の名が特に四つだけ記されてゐることである。第一がタマル、第二がラハブ、第三がルツ、第四がウリヤの妻即ちバテシバであるーこの外はイエスの系図全部に求めても、その生母マリヤの外に婦人の名を見出すことは出来ないのである。然らば、旧約聖書はアブラハム家の婦人として、以上の外に記録するところがなかつたであらうか。決して、さうではなかつた。アブラハムの妻サラの名が載つてゐる。イサクの妻レベカの名が載つてゐる。ヤコブの妻レアの名が載つてゐる。なぜ、マタイ伝の記者はこれらの有名な婦人の名を省いて、特にタマル以下三人の婦人の名を書いたのであらうかー そこに、新約聖書巻頭の系図が単なる系図として書かれたのではないといふ深い理由があるのである。この系図は乾燥無味な唯の系図のやうに見えて、実は一大福音なのである。砂のやうに見えて、実は砂金なのである。・・・・・・」p.732「先づ第一に名の出て来るタマルはどういふ婦人であつたらう。タマルはユダの長男ヱルの嫁であつた。ところがヱルが死んだので、その弟のオナンの妻になつた。ところが、このオナンが又死んでしまつたので、三男シラの妻になることになつた。併し、ユダは長男も次男もエホバに罪を犯して早く世を去つてしまつたので、シラも亦同じ運命を追ひはしまいかと思つて、シラが一人前になるまで暫く寡婦になつて父の家にゐろと言つた。タマルはユダの言ふ通りにした。その内に、ユダの妻が死んだ。ユダはその悲しみを紛らす為に、友人のヒラと一緒に、テナムといふところへ羊の毛を剪りに行った。 タマルは、シラが既に一人前の男になつてゐるにも関らず、相変らず寡婦の儘で置かれたのを憤慨した。そこで、舅のユダがテナムへ登つたといふ噂を聞くと、寡婦の着物を脱ぎ捨て、被衣(かつぎ)に顔を隠して、テナムへ行く道の広場に坐つて待つてゐた。折から、そこを通りかかつたユダはタマルを娼妓だと思つて、お前の家へ行きたいものだと言つた。では、それまでの証拠に何か質物をくれと言ふので、ユダは持ち合わせた印と綬と杖とをタマルに渡して、つひにタマルの家にはひつた。やがて、タマルは被衣を脱いで、また寡婦の着物を着て、知らん顔をしてゐた。 ユダは女に預けて置いた質物を取り返そうとして、友人のヒラに託して山羊の子を届けさせたが、もうその時は女の行方が分からなかった。」p.733「三月程すると、タマルが娼妓になつて人の子を姙んだと報告するものがあつた。ユダは非常に怒つて、即刻媳(よめ)を連れて来て、焚き殺してしまへと言つた。 タマルは舅の前に引き出されると、例の印と綬と杖とを見せて、自分はこれを持つてゐた人に依つて姙んだのだと言った・・・・・・ タマルはかうした婦人であつた。自分の肉欲が満たされない復讐に、身を娼妓に装うて、わが舅を罪に陥れたのである。旧約聖書には、唯「装うた」ことだけが記されてゐるが、彼女の素性は元々娼妓か何かであつたのであらうーこの人倫に反した行為によつて出た双生児がパレナとザラとであつた。そして、イエスの祖先の内には、かういふ人間があつたと言ふのである。マタイ伝の記者は殊更にかうした記事を掲げたのである。祖先の恥辱をわざと明白に系図の中に書き入れたのである・・・・・・ さて、第二のラハブは如何なる婦人であったらう。ラハブは明かに娼妓であつた。旧約聖書にも「妓婦ラハブ」とはつきり書いてある。ラハブはヨシユアがエリコに送つた間者二人を助けたのであつて、その行為は義侠的でもあり、エホバの神に忠実でもあつたのであるが、彼女の素性の卑しかつたことは否むべからざる事実であるーこの婦人が後にヨシユア配下の名将サルモンに嫁して儲けた子が、ルツの夫になつたボアヅであつたのである。」(続く)
2021年10月09日
*青山士は第一高等学校(一高)で浅野猶三郎とどうし津でとなり、浅野が青山を内村鑑三の講演会に誘ったという。浅野の『信仰と恩寵』に浅野の内村鑑三」 との出会いを記す。「明治三十一年の夏、『東京独立雑誌』の第一号をある友人から送られるまでは、私は先生の思想の一端をも知らなかった。・・・・・・『独立雑誌』の一言一句は若き私の胸に異常なる力を以て迫り来った。号を重ねるに従って私の熱心は次第に加わった。・・・・・・当時ただ一度先生の演説を聞く機をもったが、始めて先生の風貌を見て、想像以上に恐ろしいのに驚いた。頭髪漆の如く、眼光炯々として人を射るところ、正にユダヤの預言者を偲ばせるものがあった。特にその日の演説は悲憤慷慨、愛国の赤誠を吐露したものであって、そこに先生の預言者的一面が最も鮮やかに現れ出でたから、これによりて畏敬の念は更に拍車をかけられた。」青山士はこうした内村に内村鑑三に畏敬の念と熱心をもつ浅野に誘われて一八九九年一一月五日(日)神田の帝国教育界で開かれた社会教育演説会で内村の「日本の今日」と題する内村の講演を聞く。「先生は・・・悠然として壇上に現われ、「日本の今日」と題して雄弁を振るわれた。先生はまずわが国の現状を、泥深き不忍の池に譬えて、その腐敗の甚しきを慨嘆せられ、国家をこの危機より救うものは、ただ神に対する信念にあることを力説して、最後に「若しもここに集るところの数百名の諸君が皆神を信じて、正義人道の人となるならば、日本帝国は滅びない」と絶叫された。その一時間二十分にわたる大演説は、私の脳裡に終生忘れがたき印象を残した。この時私は始めて先生に於て真の愛国者を見たのである。」(『信仰と恩寵』)青山も同じく内村鑑三に傾倒していき、今度は自らが一高に入学した大賀一郎を誘って内村の夏期講演会に参加する。『現代に生きる内村鑑三』の「角筈時代の一瞥」「私は一高の東寮から先輩の青山士君に引張られて、伝通院から早稲田を経て高田の馬場にそれから新宿角筈にと三時間の道を歩いたのであった。」 また「この会合の様子は小山内薫君の『背教者』中によく記されている。」と記す。『内村鑑三:追想集』の浅野の「角筈時代のおもひで」には「その頃小山内君は我が会の模様を小説にしてみせると言っていたが、それを実現したのがかの小説『背教者』である。そのうちの登場人物が揃いも揃うてここに顔を並べているのも興味深い事実である。」と記す。この写真を撮影したのは「当時帝大工学部三年生の青山士君」とある。青山士が初めて内村鑑三に会った頃の様子は小山内薫の『背教者』を読まなければならない。「背教者」の中の内村鑑三 1「背教者」の中の内村鑑三 2 | GAIA - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
2021年10月09日
横浜市に所蔵されている「八田與一と鳥居信平 台湾にダムをつくった日本人技師」が貸し出し中になっている。出版し寄贈したものとして、市民の皆様に読んでいただいて完結する。次世代をになう若い人に、これらの技術者の noble ambitious(気高い志)を受け継いでもらいたいものだと切に願う。横浜市立図書館1 2062059349 中央 289 /ハ 可 貸出中 5階(人文科学)
2021年10月04日
「イメージでつかむ似ている英語使い分けBOOK 」を読んでいる。日本語と英語では頭の中で、それを使う話し手の視線に違いがあるという。p.162 英語は自分のことに対して客観視をするのに、日本語は相手や第三者の世界に入り込んだ共感をする。・Yes とNo の感覚は違う。英語では客観視するので、Yes の方向はいつも一定。Do you have one?/ Don't you have one?のどちらの質問にも、持っていればYes、持っていなけばNo 日本語では相手との共感が基準になるので、持っていたら「持っていますか?」「はい、持っています」、「持っていませんか?」「はい、持っていません」と「はい」の方向が変動する。p.174 「結果重視の思想と動詞の意味」では・英語ではWell done! Good job のようなほめ方をする。英語では「結果」をほめる。日本語では「よくやった」「よくがんばった」という過程をたたえる。日本語では経過と結果を混同することがあるが、英語ではその点が明確で、かつ結果に対する評価をする考えが強い。〇現在、青山士のパナマ運河工事従事の小説「熱い河」三宅雅子著を読んでいるが、アメリカ人の結果重視の考え方によって、測量のポール持ちとしてバア教授の推薦で無試験で採用された青山士が、その実績をexcellent(素晴らしい)として評価されていく過程にも反映されているように思われる。「熱い河」p.127-8 1904年5月31日国防省から正式な採用通知があった。採用通知には、末端測量員であること、無試験で採用、バア教授の紹介であること、パナマまでの運賃はパナマ地峡運河委員会(ICC)が負担する、月給は75ドルなどと記されていた。p.142 青山の最初の仕事は、地質調査や堰堤予定位置の測量を手伝うことだった。彼にも黒人労務者が4人ついた。・・・測量はそれぞれ5人が一組となって出発した。 測量をする場所は、チーフが選んだ。測量する測点から測点までの器械運びや据え付けは、全部測量技師補が自らやった。・・・手際のよい青山の測量の腕にチーフの信用は日を追って高まっていった。p.163 1905年6月1日付で、青山は技師補に昇進した。月給100ドル。3月に83.33ドルに昇給し、その3か月後昇進・昇給した。青山は初任給の時から日本へ送金し続けていた。没落した青山家へ送金することは、パナマへ来る動機の一つであって青山は「出稼ぎ」と呼んだ。p.183 1906年8月、青山は、大西洋側のクリストバル港の港湾建設現場へ配置替えになった。月給は125ドルに昇給した。2年1月のジャングル生活は終わり、建設事業に参加することになった。p.186 パナマ運河は閘門(ロック)式に決まった。閘門式運河とは、大西洋側と太平洋側の潮位の高さの違う分だけ閘門を作って水位を調節して船を通す運河のことである。p.187 大西洋から入る船はクリストバル防波堤のあるリモン湾から水路に入る。船は閘門の三段階で水位が上がり、ガツン湖に入り、クレブラカットを通り、ペドロミゲール閘門に入り、三段階で太平洋の海水位まで下げ、太平洋に入っていく。青山は測量主任技師になった。ICC(パナマ地峡運河委員会)の勤務評定には「excellent transitman(優秀な測量技師)」と書かれた。p.195,200 技師長だった鉄道技師ジョン・F・スチブンソンに代わって陸軍工兵中佐ジョージ・ワシントン・ゲーザルスが技師長に任命されると、工区を大西洋区、太平洋区、中央区の三つの工区にわけてそれぞれに責任を持たせ、競わせることにした。 大西洋工区はウィリアム・サイバート少佐が受け持った。p.201 大西洋工区長のサイバート少佐は、ガツンダムやガツン閘門の設計を急がせた。青山はそれに最適だった。p.202 ジャングルでの測量の経験、昇給・昇格の速さ、ICCの評価は常に「excellent」だった。青山はクリストバル港から、ガツンダムの測量に変更になった。青山は単身者用の宿舎に入り、一室を二人で共有した。青山のルームメイトは機械・製図工のチャットフィールドだった。彼の先祖はメイフラワー号に乗ってアメリカへわたってきた。代々イエール大学を出ているニューイングランドの名家だった。p.203 二人はよくYMCAクラブハウスの図書室に行き、また映画が上映されると必ず見に行った。p.208 二人は聖書や詩をよく読みあった。パナマの有給休暇は一年に一度、42日間もらえた。チャットイールドは青山をニューヘブンにある自分の家に連れて行った。p.219 1908年11月、ガツンダムの余水吐(よすいはき)で基礎が地盤沈下で崩壊する事故が起きた。青山は大西洋工区長のサイバート少佐に呼び出され、「君は主任なので責任をとってもらう。減給処分もやむをえない」と言われ、測量主任青山は測量技師補に降格され、月給も150ドルから125ドルに減らされた。p.221 1909年3月1日、青山は測量技師に復帰し、月給も150ドルに元に戻った。青山の調査をもとにダムは設計変更された。p.222 1910年、青山は設計技師に昇格した。ポール持ち、測量技師補、測量技師、設計技師と昇進し、年俸2000ドルの設計技師(ドラフトマン)に到達した。P.223 ICCの申請書には「アメリカ人ではないが、有能であるためにドラフトマンにする。」とある。P.224 1910年4月5日に決裁はおりた。名前は ドラフトマンだが、実際はガツン閘門ウィグ・ウォール、閘門中央部ののアプローチ・ウォールの主任設計技師だった。p.236 1911年11月11日青山は日本に帰国することにした。
2021年10月03日
「熱い河」三宅雅子著をバックパックに一冊入れて、ウォーキングの後、マックでコーヒーを飲みながら読書する。青山士の小説である。この本では青山の渡米費用の面倒を見たのは、大倉喜八郎(大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日(1837年10月23日) - 昭和3年(1928年)4月22日)は、日本の武器商人、実業家。 明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した。中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。)とある。検索してみると、「明治の群像その4」石田三雄 に「青山は身内から100円(50ドル)、大倉喜八郎から船賃100円を借りて1903年8月11日横浜港を離れた。」とあり、事実のようである。〇「熱い河」の中で初めて知ったのは、青山の渡米費用の100円を出したのは、大倉喜八郎(大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日(1837年10月23日) - 昭和3年(1928年)4月22日)は、日本の武器商人、実業家。 明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した。中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。)とあり、広井勇の紹介とある。また、大倉は「8月11日に横浜からカナダに行く船がある。それに乗りませんか。」と勧め、7月11日に卒業したばかりの青山は即決したとあります、ですから中泉の実家に帰る日数もなかった。この「旅順丸」で飯田という大阪商人と親しくなり、シアトルの大商人古屋政治郎とその顧問服部綾雄を紹介される。古屋の紹介で教会のボイラー焚きの仕事をあっせんしてもらって、広井先生から紹介されたバア教授から「まだ現地に入れる段階にまで国情は至っていない。今しばらく待ってほしい。必ず知らせるから」という返事を信じ、パナマ運河の仕事に採用の連絡があるのをシアトルで待つ日々が続きます。 1902年3月、運河条約批准が成立したことを知った青山は、ニューヨークに出発します。 ニューヨークのコロンビア大学で青山はバア教授に会うことができた。バア教授は、「運河条約は批准したが、まだ何も具体的には決まっていない。決まったら一番に知らせるから、それまで待ってもらえないか」と意外な返答を受ける。「どのくらい待てばよろしいのでしょうか。」「わかりません」バア教授の紹介で、青山はニューヨークセントラルホドソンリブア鉄道会社で働けることになった。しかし無給だった。「無理に頼んだので無給ですが、あなたの働きによっては、有給になると思います」青山は無給だったが会社の宿舎に入れてもらえたので下宿代は助かった。朝早く起きて、測量の棒(ポール)を持って停車場に行く。ボスはノルトンという身長1メートル90センチの大男。青山はどんなことを言いつけられても嫌な顔一つせずに体を動かした。ノルトンは青山にポールを持たせては次々と測量地点に立たせ、測量し、線路の設計図を仕上げていく。青山はもちろん測量は習っていて、ノルトンがやっている測量器からの計算や野帳のつけ方も知っているが、知っていることはおくびにも出さず、他の助手とともに末端の仕事を懸命にやっていた。レジデントエンジニアのノルトンは青山の技師としての能力を見抜き、会社での階級を上げる試験を受けることをすすめた。試験は受かり、水準儀や経緯儀を持たされることになった。相変わらず無給である。ノルトンは会社にかけあってくれたが「別にほしい要員ではない」との返事。1904年3月3日アメリカ政府はジョン・ウォーカーを理事長とするパナマ地峡運河委員会を正式に発足させた。バア教授はウォーカーを理事長あて日本人青山士とエドワード・フェランを末端測量員として推薦した。5月27日、青山にバア教授から「6月1日、ニューヨークから船で現地に出発するように」と連絡が入った。5月31日国防省から正式な採用通知があった。採用通知には、末端測量員であること、無試験で採用、バア教授の紹介であること、パナマまでの運賃はパナマ地峡運河委員会(ICC)が負担する、月給は75ドルなどと記されていた。こうしていよいよ青山はパナマに向けて出発する。
2021年10月03日
「背教者」の中の青山士と師・内村鑑三小山内薫全集第2巻p.727「さて、愈これから聖書の研究にかかります・・・・・・」先生はかう言ふと、家から持って来た中形の新約聖書の第一頁を明けたー「ーアブラハムの裔(こ)なるダビデの裔(こ)イエス・キリストの系図・・・・・・けふの午後の演題はこれであります・・・・・・」「・・・・・・アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟を生めり・・・・・・」「・・・・・・ユダ、タマルに由りて、パレスとザラを生み、パレス、エスロンを生み、エスロン、アラムを生み、・・・・・・サルモン、ラハブによりてボアズを生み、ボアズ、ルツに由りて、オベデを生み・・・・・・エツサイ、ダビデ王を生み、ダビデ王、ウリヤの妻に由りて、ソロモンを生み・・・・・・」「・・・・・・マツタン、ヤコブを生み、ヤコブ、マリヤの夫ヨセフを生めり。このマリヤよりキリストと称ふるイエス生れ給ひき。」ここまで読むと、先生は聖書を机の上に置いて、にこにこ笑ひながら、みんなの顔を見たー「どうです、諸君。面白いですか。ちつとも面白くないでせう。」さう言つて、又にこにこ笑つた。「・・・・・・聖書ー殊に新約聖書は世界唯一の書物だと言はれてゐます。世界第一の有益な書物、世界第一の興味深い書物だと言はれてゐます。ところが、その巻頭第一に書いてあることは、この乾燥無味な系図であります。コオランの序品(じょぼん)第一には『神を頌へよ。万物の主宰、最大慈悲、審判の日の王をわれ礼拝す』とあります。埃及(エジプト)の死者の書は『天の東部にラアの昇る時、これに奉る讃美の歌』を以て始まつてゐます。論語は『学んで時にこれを習ふ。また悦ばしからずや。』で始まつてゐます。法華経は阿羅漢の頌徳を以て始まつてゐます。然るに、新約聖書は、その巻頭、馬太(マタイ)伝の第一章に於いて、無愛想にも『アブラハムの裔なるダビデの裔イエス・キリストの系図』と称して、唯人の名を列記してゐるのであります・・・・・・」p.729「書籍の趣意が若し巻頭の一句にありとすれば、聖書は砂を嚙むが如き無味乾燥な書物だと言はなければなりません。なぜ、山上の垂訓を巻頭第一に置かなかったのでせう。なぜ、愛の頌讃を以て始めなかつたのでう。読者を引きつける手段として、拙の又拙なる道をとつてゐるのであります・・・・・・」p.730 併し、その砂礫のやうに無味なるところに、また砂礫のやうに意味深長なところがあるのであるー先生はさう説くのである。ー「アブラハムの裔なるダビデの裔イエス・キリストの系図」。この一句の内に、もう重大な意義が含められてゐるのである。イエスはアブラハムの子であつて、又ダビデの子であつたのである。即ち、イエスはその肉体に於いて、アブラハムの信仰とダビデの権威とを代表してゐたのである。アブラハムとダビデー即ち、信仰と権威とを一つの身に体得したものが、キリスト即ち完全な救ひ主なのである。そしてイエスは実にその人であつたのである。「アブラハムの裔なるダビデの裔イエス・キリスト・・・・・・」この一句の内に、もう重大な意義が含められてゐるのである。これは決して無味乾燥な詞ではない。歴史的事実に拠つた最も意義深い詞である。聖書に於いて、アブラハムと言へば、神に喜ばれる信仰を表す名であつて、既に固有名詞ではない。ダビデの名も亦同じことである。聖書智識に養はれて育つたユダヤ人が、アブラハムの子にしてダビデの子イエス・キリストと聞けば、もうその一句の内に深遠量るべからざる意味を読んだものである。これを乾燥だと言つて嘲り、これを無味だと言つて笑ふのは、その人の無識を表すに過ぎないのであるーp.731(工事中)「」
2021年09月25日
6 「背教者」の中の青山士と師・内村鑑三 小山内薫(おさない・かおる)は明治―昭和時代前期を代表する劇作家・演出家であるが、現在ではほとんど忘れ去られているようである。小説に「大川端」、戯曲に「国性爺(こくせんや)合戦」などがある。 小山内薫に『背教者』という内村鑑三とその弟子達を題材にした小説があり、その登場人物の一人、天岡のモデルが青山士である。 『背教者』(小山内薫全集二巻)は青山(天岡)の「送別会」の場面から始まる。「真赤な海だ、真赤な空だ。落日が断崖にかかっている。赤い漣が縞を作つてゐる敷物のやうに静かな海の上に、赤く塗られた置物のやうに、荷足船(小型の和船)が一艘、ぢつと動かないで浮かんでいる。・・・・・・舟には八人の青年と一人の少女が乗つてゐる。」「八人の青年は二人を除いていづれも帝大の学生である。その内、天岡といふのがついこなひだ工科の土木建設科を卒業した。體はあとの七人の誰よりも小柄だが、年は一番上だつた。恩賜の銀時計を貰つて学校を出ると、直ぐパナマへ出張を命ぜられた。運河工事視察の為だ。」 この小説では運河工事視察の出張を命ぜられたとあるが、青山はパナマ運河開削工事に参加するために明治三六年(一九〇三)八月十一日横浜港を発った。その後のことは青山自身が「ぱなま運河の話」に詳しく記す。「送別会」は、内村鑑三に師事する「角筈十二人組」の有志が横浜港本牧埠頭に小舟を浮かべて送別会を開いたものであった。「千駄ヶ谷に「森川先生」(内村鑑三)といふ基督教の教師が住んでゐた。森川先生はどの教会にもどのミッションにも関係がなかった。自分一人の基督教を、自分一人の力で、自分一人の家で説いていたー九人はみんなこの先生の弟子だった。そしてこの先生を通してー基督に於いて交はる友が自分達だと信じてゐた」「「だが、なんぼなんでも、あんまり粗末な送別会だなあ。天岡君には全く気の毒だよ。」本牧に住んでゐるので、けふの送別会の幹事をやつた寺山がかう言つた。・・・・・・「名前は視察だが、天岡君は実際その為事(しごと)にたづさはるんださうだ。日本人で亜米利加の政府に雇われて行くんだから豪いよ。」「なあに、青服を着に行くのさ。労働だよ。併し、僕は神の思召は何処にでもあるものだと思つているから、喜んで行くつもりだ。僕だつて、もつと精神的な為事をしたいんだが、神様は最も適当に僕の能力を使って下さるだろうから、僕は少しも不平はないよ。」天岡はかう言った。「不平なんて勿体ないよ。こんな尊い為事が外にあるもんか。目に見えて人類の幸福になることだ。日本にゐて詰らない論議に日を暮らしているより、どんなに立派な為事だか分かりやしない。」・・・・・・「さうだとも。僕はこんな難有い会はないと思つてゐる。何の飾りもない。少しの外交的な付け加へもない。友情その物のー神に於ける友情その者の現れだ。僕は今日までに随分沢山な送別会に臨んで来た。学校の教授連がして呉れたのもあった。同じ科の連中がやつて呉れたのもあつた。建築学会が開いて呉れたのもあつた。御馳走も随分あつた。余興もいろいろあつた。併し、その多くは「お義理」の会だつた。世間的な交際だけの催しだつた。けふのやうな至純な会は始めてだ。僕は感謝してゐる。心から感謝してゐる。」感傷的な天岡は、かう言ひながら、目に涙を浮かべた。」彼らは全員で賛美歌「世々の磐」を歌う。 小山内は明治三三年(一九〇〇)七月二五日内村が千駄ヶ谷で開催した夏期講習会で始めて青山と会う。小山内は東京帝国大学文科大学文学科、青山は東京帝国大学工科大学土木工学科の学生であった。小寺が「あそこへ来ている工科大学の天岡といふ人と、理科の深田(大賀一郎)といふ人は、実際まじめらしいね。実際、切実な求道心からここへやって来たものらしいね。」と小山内らに青山と大賀を引き合わせる。「天岡は浴衣に袴をはいて、真新しい角帽を冠つてゐた。小作りではあるが、骨節がしつかりしていて、顔にも健康な血の色が見られた。」と描写し、「感情の純朴と意志の強固とが、その眉宇の間に見られた」とする。(小説「背教者」の夏期講習会の内村鑑三) 青山士が師とし、その話を聞いて感激した夏期講習会の講話の内容はどのようなものか、を旧漢字や歴史的かな遣いを改め、仮称のマシウスをクラークなどに直して紹介する。「けさの題目は、なぜ、わたしが聖書研究に従事するようになったか。その由来をお話ししたいと思うのであります。元来わたくしは農学校の出身でありまして、特別に聖書の講義などは聞いたことがないのであります。ところがキリスト教を信じてから二十余年を経て、ますます聖書の研究を重要なことに思い、こうして大胆にもそれに関する講演までするようになった。その間には長い経歴もあれば、込み入った因縁もあるのであります。勿論、わたくしはこれを宣教師に強いられたこともなければ、またこれを説かなければならない世間的の義務も持っていなかつたのです。両親に要求されたのでもなければ、友人に勧誘されたのでもないのであります。それにもかかわらず、わたくしがこれを畢生(ひっせい)の事業としようと決心するようになったのは、けだしやむを得ざる事情から出たのです。・・・・・・」「・・・・・・第一にわたくしを聖書の研究へ引き入れたのは、わたくしが学校を出てから、最初に自分の専門とした漁業問題でありましたーわたくしは農学校で水産学を学んで、特にこの学問に興味を持ったのです。そして、この学問を応用して日本の富を計ろうとしたのです。ところが、たちまちにして、わたくしはわたくしの仕事の全く徒労であることを悟りました。それは外でもありません。日本の漁業の振るわないのは、資本の欠乏や漁業教育の不完全であるためではなくして、道義が頽廃しているからだということに気がついたのです。即ち、漁業の問題は、取りも直さず宗教道徳の問題だと思うようになったのです。忘れもしません。わたくしが自分の本職としていた漁業を見棄てたのは、今から十四年前の夏、ちょうど今頃のことで、たまたまわたくしが漁業調査のために房州の方へ出張した時のことでした。あすこの富崎というところに神田吉右衛門という老人がありまして、わたくしは毎晩のように、この老人とよもやまの話をしました。誠に質朴な老人で、漁業の方では、実際上の深い経験を持っていました。何でも思うことを少しも飾らずに言うので、わたくしはそれが好きで、暇さえあれば、この老人を訪ねたのです。ところがある晩のこと、この神田老人がしきりに嘆息して言うには、いくら鮑(あわび)の繫殖を計ったところで、いくら漁船を改良したところで、いくら新工夫の網道具をこしらえたところで、結局それは漁師達を助けることにはならないのだーと、こう言うのです。なるほど漁師の生活ほどあわれむべきものはない。今年は大漁だと言うと、もうすぐ料理屋へかけこんで、一夜に百金二百金を使い捨てる。儲けた金で借金を払おうなどと考えるものは一人もない。いわんや貯金をしようなどというものはないのです。して見れば、新工夫を考えてやることも、それで利益の得られるようにしてやることも、いわば彼らの放蕩の手伝いをしてやることになるのです。わたくしは、こういう人達に金をやるのは、かえって国家を貧しくするゆえんではないかとーちょうど、そう疑っていたところなので、わたくしはひどく神田老人のことばに動かされたのです。それから、その後越後や佐渡の方も巡回して見ましたが、いつも同意見同結論に到達しました。そこで、わたくしはもう続けて漁業に従事する勇気がなくなってしまいました・・・・・・」「・・・・・・そこで、今度は慈善事業を研究して見ようと思いまして、アメリカへ渡って、ある白痴病院へはいって見ましたー白痴を相手にする看護人になったのです。わたくしはここであらゆる犠牲的な仕事をして見ました。白痴の尻までぬぐって見たのですが、やっぱりここでもまた疑惑が起って来ました。調べて見れば見るほど慈善そのものはつまらないものである。慈善事業とは放蕩息子の梅毒を治療してやるようなものです。そこで、あっちのある大学の有名な先生を訪ねまして、遠回しに教育の方針を尋ねてみました。ところが、その先生の答えが面白い・・・・・・」「・・・・・・先生は静かに口を開いて、こう言うのですー『わたしに教育の方針などというものはない。わたしはただ主イエス・キリストの導きに頼るのみである。』と。わたくしはまずこの一語に打たれました。それから、やがて先生の書斎へ通りますと、先生は一枚の写真を出して見せてー『これは二年前に亡くなった妻の面影である。彼女は既に天国へ行って、あなたやわたしの来るのを待っているのだ。』そう言って、両眼にいっぱい涙を溜めているのです。わたくしはもうたまらないような気持がしました。が、それと同時に今までの疑惑が一度に晴れてしまいましたーもう学問の目的も分かった。事業の目的も分かった。たとい政治や歴史を研究しても、たとい慈善事業を調べても、同胞兄弟が救い出されて神の栄光にあずかることが出来なければ、何のための学問ぞ、何のための慈善事業ぞと、いちずにそう考えこみました・・・・・・」「しかし、そうなっても、わたくしはまだ特別に聖書を研究しようという気にはなりませんでした。聖書の註釈などは、いくらでもやる人があるのだから、これは人に任せておいて、自分はやっぱり農業か漁業に従事しよう。新聞記者になって正義人道のために筆をふるおう。教育家になって育英に身をゆだねよう・・・・・・そういった考えにのみ支配されていたのですが、日本に帰ってから、だんだん宗教界の様子を見ますと、誠実にまた熱心に聖書そのものを研究しようという人は暁天の星の如くでありまして、ことに外国の神学校を卒業して来た先生達が、日本へ帰ると、銀行の支配人になってしまつたり、商店の番頭になってしまつたり、政府の役人になってしまったりするのを見ますと、不肖わたくしのようなものでも、伝道の一念俄然(がぜん)として発起するのを禁じ得なかったのであります。かようなわけで、わたしが諸君の前に聖書の解釈を試みるのは、父母の要求や、教師の勧誘や、肉体上の境遇からするのではなくて、実にやむを得ざる事情因縁からするのであります・・・・・・」「さて、聖書、聖書と、聖書のことばかり言えば、多数の人はそれをうるさがって、聖書研究もよいがたまには社会事業をやれとか慈善事業をやれとか言うのです。もちろん、それもやらないではない。新聞などはことに好きで、やる段になれば、かなり一生懸命になるのですが、しかし、ほんとにやって見て、一番手答えのあるのは何かと言うと、やっぱり天国の福音を説くことであります。しかも、これ以上に有益な仕事は世の中にありません。人間が死ぬ間際になって、公債証書がいくらになったとか、大きな機械を発明したとか、学校をいくつ立てたとか言ったつて、そんなことで安心して死ねるものではありません。どれだけの人間が罪を悔い改めたか、どれだけの人間がわれわれの紹介によってキリストの救いに預かったか、それを聞きながら死ぬより愉快なことはないのであります・・・・・・」「わたくしが北海道の農学校へはいった時分に、アメリカから来ていた教師でクラークという人がありました。はじめてわれわれにキリスト教というものを伝えてくれた恩師は、このクラーク氏であります。クラーク氏の歴史は、明治の日本宗教史の肝要な一部分をしめていると言わなければなりません。クラーク先生がなければ、かく申すわたくしも一箇の内村鑑三で終ったに違いないのです。・・・・・・先生が北海道にいたのは、僅かに八か月でした。最初横浜を立って、北海道へ来る時、聖書を五十冊買い求めたものです。何しろ、その時分のことですから、人はその無謀を笑いました。しかし、先生は平気で、北海道までそれをにないで来て、学生達に配ったのです。今にして往時を追懐すれば、実に感慨無量です。先生は鉱物学者で、ことにその得意の題目は無機化学でした。南北戦争時代には、少尉から大尉に昇級して、後には大佐(カアネル)クラークと呼ばれるようになりました。そればかりでなく、マサセチューセッツ州に農学校を建てて、生理植物学者として名声を得るかと思うと、今度はまたアマストの市街に水道の敷設をするといったような、千変万化の英傑でありました。北海道の農学校を辞してアメリカへ帰ってからの計画は船の上に世界大学を作るということでしたー教員や生徒を船にのせて、世界各国を廻りながら学問を研究するという計画なのです。先生は実に野心勃々家の代表者でありました。しかし、晩年は鉱山に失敗して末路ははなはだ悲惨であったという話であります・・・・・・ところが・・・・・・ところが、この先生がいよいよ死ぬという間際に、アマストのある牧師を枕べに呼びました。そして、言うには、自分はこの六十年数奇な生涯を経て来たが、今考えて見て、たった一つ喜びとすることは、日本の農学校に八か月いて、聖書を広めた一事のみであると。どうです、諸君。学問上の新発見をしたことや、有名な第二十一連隊をひきいて奮闘したことは、先生の生前にとって、必ず愉快事の一つであったに相違ないのです。しかも、それらの追憶は臨終の床において、毫(ごう)も先生を慰める糧(かて)にはならなかったのであります。しかし・・・・・・しかし、この小日本ーしかも、その北の果ての一学校で、単に数十冊の聖書を広めたというその一事が、先生の一生に一度の死を慰めたのであります。われわれが現世の苦闘を終えて、いよいよ死を迎えるという時に、われわれの説いた福音が耳から耳に伝わつて、多くの人が宇宙の神を見つけたという報告に接したら、どんなに愉快な心持がするでしょうか・・・・・・」
2021年09月23日
夏期講習会の内村鑑三の講話(小説「背教者」小山内薫著)「・・・・・・さて、前置が大変長くなつてしまひましたが、さふいふわけで今度の講習会は全部を聖書の研究に捧げたいと思ひます。そこで、けさの題目は、なぜ、わたしが聖書研究に従事するやうになったか。その由来をお話ししたいと思ふのであります。元来わたくしは農学校の出身でありまして、特別に聖書の講義などは聞いたことがないのであります。ところが基督教を信じてから二十余年を経て、ますます聖書の研究を重要なことに思ひ、かうして大胆にもそれに関する講演までするやうになった。その間には長い経歴もあれば、込み入った因縁もあるのであります。勿論、わたくしはこれを宣教師に強いられたこともなければ、又これを説かなければならない世間的の義務も持つてゐなかつたのです。両親に要求されたのでもなければ、友人に勧誘されたのでもないのであります。それにも拘わらず、わたくしがこれを畢生の事業としようと決心するやうになつたのは、蓋し已むを得ざる事情から出たのです。甚だ高慢な申しやうではありますが、少くともこのことだけは、極めて清潔な思想から涌いて来たことであつて、毫も私的感情がこれを促したのではないことは、明確に断言することが出来るのであります・・・・・・」「・・・・・・第一にわたくしを聖書の研究へ引き入れたのは、わたくしが学校を出てから、最初に自分の専門とした漁業問題でありましたーわたくしは農学校で水産学を学んで、特にこの学問に興味を持つたのです。そして、この学問を応用して日本の富を計らうとしたのです。ところが、忽ちにして、わたくしはわたくしの為事の全く徒労であることを悟りました。それは外でもありません。日本の漁業の振るはないのは、資本の欠乏や漁業教育の不完全である為ではなくして、道義が頽廃してゐるからだといふことに気がついたのです。即ち、漁業の問題は、取りも直さず宗教道徳の問題だと思ふやうになつたのです。忘れもしません。わたくしが自分の本職としてゐた漁業を見棄てたのは、今から十四年前の夏、丁度今頃のことで、たまたまわたくしが漁業調査の為に房州の方へ出張した時のことでした。あすこの北條といふところに赤坂仁左衛門といふ老人がありまして、わたくしは毎晩のやうに、この老人と四方山の話をしました。誠に質朴な老人で、漁業の方では、実際上の深い経験を持つてゐました。何でも思ふことを少しも飾らずに言ふので、わたくしはそれが好きで、暇さへあれば、この老人を訪ねたのです。ところが或晩のこと、この赤坂老人が頻に嘆息して言ふには、いくら鮑(あわび)の繫殖を計つたところで、いくら漁船を改良したところで、いくら新工夫の網道具をこしらへたところで、結局それは漁師達を助けることにはならないのだーと、かう言ふのです。成程漁師の生活ほど憫むべきものはない。今年は大漁だと言ふと、もう直ぐ料理屋へ駈け込んで、一夜に百金二百金を使ひ捨てる。儲けた金で借金を払はうなどと考へるものは一人もない。況んや貯金をしようなどといふものはないのです。して見れば、新工夫を考へてやることも、それで利益の得られるやうにしてやることも、謂はば彼等の放蕩の手伝ひをしてやることになるのです。わたくしは、かういふ人達に金をやるのは、却つて国家を貧しくする所以ではないかとー丁度、さう疑つてゐたところなんで、わたくしはひどく赤坂老人の詞に動かさられたのです。それから、その後越後や佐渡の方も巡回して見ましたが、いつも同意見同結論に到達しました。そこで、わたくしはもう続けて漁業に従事する勇気がなくなつてしまひました・・・・・・」「・・・・・・そこで、今度は慈善事業を研究して見ようと思ひまして、アメリカへ渡つて、或白痴病院へはひって見ましたー白痴を相手にする看護人になつたのです。わたくしはここであらゆる犠牲的な為事をして見ました。白痴の尻まで拭つて見たのですが、やつぱりここでも又疑惑が起つて来ました。調べて見れば見る程慈善その者は詰まらないものである。慈善事業とは放蕩息子の梅毒を治療してやるやうなものです。そこで、あつちの或大学の有名な先生を訪ねまして、遠回しに教育の方針を尋ねてみました。ところが、その先生の答が面白い・・・・・・」「・・・・・・先生は静に口を開いて、かう言ふのですー『わたしに教育の方針などといふものはない。わたしは唯主イエス・キリストの導きに頼るのみである。』と。わたくしは先づこの一語に打たれました。それから、やがて先生の書斎へ通りますと、先生は一枚の写真を出して見せてー『これは二年前に亡くなった妻の面影である。彼女は既に天国へ行つて、あなたやわたしの来るのを待つてゐるのだ。』さう言つて、両眼に一ぱい涙を溜めてゐるのです。わたくしはもう堪らないやうな気持がしました。が、それと同時に今までの疑惑が一度に晴れてしまひましたーもう学問の目的も分かつた。事業の目的も分かつた。たとひ政治や歴史を研究しても、たとひ慈善事業を調べても、同胞兄弟が救ひ出されて神の栄光にあづかることが出来なければ、何の為の学問ぞ、何の為の慈善事業ぞと、一図にさう考へ込みました・・・・・・」「併し、さうなっても、わたくしはまだ特別に聖書を研究しようといふ気にはなりませんでした。聖書の註釈などは、いくらでもやる人があるのだから、これは人に任せて置いて、自分はやつぱり農業か漁業に従事しよう。新聞記者になつて正義人道の為に筆を揮はう。教育家になつて育英に身を任ねよう・・・・・・さういつた考へにのみ支配されてゐたのですが、日本に帰つてから、だんだん宗教界の様子を見ますと、誠実に又熱心に聖書そのものを研究しようといふ人は暁天の星の如くでありまして、殊に外国の神学校を卒業して来た先生達が、日本へ帰ると、銀行の支配人になつてしまつたり、商店の番頭になつてしまつたり、政府の役人になつてしまつたりするのを見ますと、不肖わたくしのやうなものでも、伝道の一念俄然として発起するのを禁じ得なかったのであります。かやうなわけで、わたしが諸君の前に聖書の解釈を試みるのは、父母の要求や、教師の勧誘や、肉体上の境遇からするのではなくて、実に已むを得ざる事情因縁からするのであります・・・・・・」「さて、聖書聖書と、聖書のことばかり言へば、多数の人はそれを煩さがつて、聖書研究も好いがたまには社会事業をやれとか慈善事業をやれとか言ふのです。勿論、それもやらないではない。新聞などは殊に好きで、やる段になれば、可なり一生懸命になるのですが、併し、ほんとにやつて見て、一番手答のあるのは何かと言ふと、やっぱり天国の福音を説くことであります。しかも、これ以上に有益な為事は世の中にありません。人間が死ぬ間際になつて、公債証書がいくらになつたとか、大きな器械を発明したとか、学校をいくつ立てたとか言つたつて、そんなことで安心して死ねるものではありません。どれだけの人間が罪を悔い改めたか、どれだけの人間が吾々の紹介によつてキリストの救ひあづかつたか、それを聞きながら死ぬより愉快なことはないのであります・・・・・・」「わたくしが北海道の農学校へはひった時分に、アメリカから来ていた教師でマシウス(クラーク先生)といういふ人がありました。はじめて吾々に基督教といふものを伝へて呉れた恩師は、このマシウス氏であります。マシウス氏の歴史は、明治の日本宗教史の肝要な一部分を領(し)めていると言はなければなりません。マシウス先生がなければ、かく申すわたくしも一箇の西野文太郎(内村鑑三)で終つたに違ひないのです。・・・・・・先生が北海道にゐたのは、僅に八ケ月でした。最初横浜を立つて、北海道へ来る時、聖書を五十冊買ひ求めたものです。何しろ、その時分のことですから、人はその無謀を笑ひました。併し、先生は平気で、北海道までそれを担いで来て、学生達に配つたのです。今にして往時を追懐すれば、実に感慨無量です。先生は鉱物学者で、殊にその得意の題目は無機化学でした。南北戦争時代には、少尉から大尉に昇級して、後には大佐(カアネル)マシウスと呼ばれるやうになりました。そればかりでなく、マツサチウセツト州に農学校を建てて、生理植物学者として名声を得るかと思ふと、今度はまたアマストの市街に水道の敷設をするといつたやうな、千変万化の英傑でありました。北海道の農学校を辞してアメリカへ帰つてからの計画は船の上に世界大学を作るといふことでしたー教員や生徒を船にのせて、世界各国を廻りながら学問を研究するといふ計画なのです。先生は実に野心勃々家の代表者でありました。併し、晩年は鉱山に失敗して末路は甚だ悲惨であつたといふ話であります・・・・・・ところが・・・・・・ところが、この先生が愈死ぬといふ間際に、アマストの或牧師を枕辺に呼びました。そして、言ふには、自分はこの六十年数奇な生涯を経て来たが、今考へて見て、たつた一つ喜びとすることは、日本の農学校に八ケ月ゐて、聖書を広めた一事のみであると。どうです、諸君。学問上の新発見をしたことや、有名な第二十一聯隊を率ゐて奮闘したことは、先生の生前にとつて、必ず愉快事の一つであつたに相違ないのです。しかも、それらの追憶は臨終の床に於いて、毫も先生を慰める糧にはならなかったのであります。併し・・・・・・併し、この小日本ーしかも、その北の果の一学校で、単に数十冊の聖書を広めたといふその一事が、先生の一生に一度の死を慰めたのであります。吾々が現世の苦闘を終へて、愈死を迎へるといふ時に、吾々の説いた福音が耳から耳に伝はつて、多くの人が宇宙の神を見つけたといふ報告に接したら、どんなに愉快な心持がするでせうか・・・・・・」「一歩を進めて言へば、聖書の研究そのものが、実は実業の振興なのであります。社会改良の事業なのであります。社会改良、実業振興の最良策は即ち聖書を解釈して、その大精神を明白に伝えることであります。諸君の中の二三の人は、この会の始まる前に、手紙を呉れて、クロムエルの紹介をしろとか、カアライルを説いて呉れとか言つてよこされたが、今述べた精神を外にしては、わたくしは明白に言ひます・・・・・・聖書の研究は、わたくしにとつての必要であつて、同時に又国家社会に対しての義務である、と・・・・・・勿論、かく言へばとて、わたくしは諸君の総てに向つて、わたくしと同じ為事をしろと言ふのではありません。諸君が聖書研究の為に筆を執ることが出来なくても、口を費すことが出来なくても、それは咎むるに足りないのです。唯願はくば、人生の目的に二つはないといふことを会得して、自分の為事は何であらうと、最大目的を同一にして、相共に進軍喇叭を吹きつつ、人生の戦ひを戦つて行きたいものだと思ふだけです・・・・・・」「午前の話はこれだけにして置きます」天岡(青山士)と深田(大賀一郎)は弁当を持つて来てゐた。・・・・・・「さて、愈これから聖書の研究にかかります・・・・・・」(続く)
2021年09月21日
夏期講習会の内村鑑三の講話(小説「背教者」小山内薫著)「・・・・・・さて、前置が大変長くなつてしまひましたが、さふいふわけで今度の講習会は全部を聖書の研究に捧げたいと思ひます。そこで、けさの題目は、なぜ、わたしが聖書研究に従事するやうになったか。その由来をお話ししたいと思ふのであります。元来わたくしは農学校の出身でありまして、特別に聖書の講義などは聞いたことがないのであります。ところが基督教を信じてから二十余年を経て、ますます聖書の研究を重要なことに思ひ、かうして大胆にもそれに関する講演までするやうになった。その間には長い経歴もあれば、込み入った因縁もあるのであります。勿論、わたくしはこれを宣教師に強いられたこともなければ、又これを説かなければならない世間的の義務も持つてゐなかつたのです。両親に要求されたのでもなければ、友人に勧誘されたのでもないのであります。それにも拘わらず、わたくしがこれを畢生の事業としようと決心するやうになつたのは、蓋し已むを得ざる事情から出たのです。甚だ高慢な申しやうではありますが、少くともこのことだけは、極めて清潔な思想から涌いて来たことであつて、毫も私的感情がこれを促したのではないことは、明確に断言することが出来るのであります・・・・・・」「・・・・・・第一にわたくしを聖書の研究へ引き入れたのは、わたくしが学校を出てから、最初に自分の専門とした漁業問題でありましたーわたくしは農学校で水産学を学んで、特にこの学問に興味を持つたのです。そして、この学問を応用して日本の富を計らうとしたのです。ところが、忽ちにして、わたくしはわたくしの為事の全く徒労であることを悟りました。それは外でもありません。日本の漁業の振るはないのは、資本の欠乏や漁業教育の不完全である為ではなくして、道義が頽廃してゐるからだといふことに気がついたのです。即ち、漁業の問題は、取りも直さず宗教道徳の問題だと思ふやうになつたのです。忘れもしません。わたくしが自分の本職としてゐた漁業を見棄てたのは、今から十四年前の夏、丁度今頃のことで、たまたまわたくしが漁業調査の為に房州の方へ出張した時のことでした。あすこの北條といふところに赤坂仁左衛門といふ老人がありまして、わたくしは毎晩のやうに、この老人と四方山の話をしました。誠に質朴な老人で、漁業の方では、実際上の深い経験を持つてゐました。何でも思ふことを少しも飾らずに言ふので、わたくしはそれが好きで、暇さへあれば、この老人を訪ねたのです。ところが或晩のこと、この赤坂老人が頻に嘆息して言ふには、いくら鮑(あわび)の繫殖を計つたところで、いくら漁船を改良したところで、いくら新工夫の網道具をこしらへたところで、結局それは漁師達を助けることにはならないのだーと、かう言ふのです。成程漁師の生活ほど憫むべきものはない。今年は大漁だと言ふと、もう直ぐ料理屋へ駈け込んで、一夜に百金二百金を使ひ捨てる。儲けた金で借金を払はうなどと考へるものは一人もない。況んや貯金をしようなどといふものはないのです。して見れば、新工夫を考へてやることも、それで利益の得られるやうにしてやることも、謂はば彼等の放蕩の手伝ひをしてやることになるのです。わたくしは、かういふ人達に金をやるのは、却つて国家を貧しくする所以ではないかとー丁度、さう疑つてゐたところなんで、わたくしはひどく赤坂老人の詞に動かさられたのです。それから、その後越後や佐渡の方も巡回して見ましたが、いつも同意見同結論に到達しました。そこで、わたくしはもう続けて漁業に従事する勇気がなくなつてしまひました・・・・・・」(続く)💛「報徳訓」の考えを取り入れて、漁業者の生計を根本的に立て直した例が、「かがり火」136号2010Decemberに掲載されている。佐呂間漁業協同組合の組合員は59名、昨年度末の貯金残高は 67億4千万余縁、組合員の平均1億1千余円、つまり平均すれば組合員全員が億万長者だという。その仕組みは年間2,000万円の水揚げ高があるとして、水揚げ高の70%、1,400万円は月取り貯金として無条件で天引される。このお金は翌年の生活費に回される。そのほか納税準備金10%で200万円、漁協への手数料6%で120万円、船を買い替えたりする場合の漁船準備金が2%40万円、天候が荒れて漁に出れない場合の備荒貯金2%40万円、高齢で働けなくなった場合の養老年金が2%40万円、したがって92%の1,840万円が強制的に天引きされる。つまり自由に使えるお金は8%160万円しかない。生活費はすべて前年度積立てた月取り貯金でまかなう。前年度の稼ぎで今年度生活するのである。だから病気などで1年間まるまる働けなくなっても、1年間は生活できるのだ。「月取り貯金 が1,400万円あってもすべて生活費に回されるわけではありません。生活費としては、月にせいぜい30万円から40万円あれば十分でしょう。それに漁具などの償還や重油など漁にかかる経費もこの中から支払いますが、それでもかなりの金額が残ります。それが毎年貯金されて、組合員平均1億円近い貯金を持つことができたわけです。」と佐呂間漁業協同組合の阿部組合長は語った。 すべての組合員は毎年、1月15日までに、その年の営漁計画書を出す。 ホタテやシマエビ、カキの出荷計画とともに、毎月の生活費まで記入する。 子供が大学に行くので仕送りが必要だとか、娘の結婚、家の改築計画などすべて記入する。その計画書を漁協の担当者と組合員が計画が妥当か話し合う。もし貯蓄額が低いのに家を新築したいといえば『まだ早いのでは、もう少し我慢したら』などとアドバイスする。「たとえ家の新築や船の買い替えを認めても、本人の貯金は解約させません。 漁協が貯蓄額の80%まで貸し出す仕組みになっています。 自分の金だと思って自由に使えるようになれば、気が緩んでしまうからです。 借りたお金となれば、毎月きちんと返済しなければなりません。 お金についての緊張感が維持できます。」 昔の漁師は1回の漁で何百万も稼ぐと、その金を腹巻きに入れてキャバレーに繰り出したりしたという。「佐呂間漁協の組合員は皆堅実で、佐呂間町にはホタテ御殿やベンツ・ポルシェを乗り回す人もありません。その代わり、夜逃げする人も出ません。」 もともとこの仕組みがあったわけではないという。 佐呂間漁協がホタテの養殖を始めたのが昭和40年で、組合員の生活を安定したものにしたいと始めた。 当時の佐呂間漁協の販売取扱高は7,600万円、貯蓄残高は7,200万円。 当時の漁協には新事業を立ち上げる資金がなくて、上部団体に1億5,600万円の借り入れを申し込んで断られた。販売取扱高も貯蓄残高も少なかったからである。 その時、町が債務保証してくれて必要な資金が確保できた。「われわれの漁は漁師だけの努力で成り立っているのではない。 町民みんなのおかげだということを肝に銘じて忘れてはならない。 当時の組合長は懇々と組合員を諭したそうです。 この教えはいまも生きています。」☆「昔の漁師は1回の漁で何百万も稼ぐと、その金を腹巻きに入れてキャバレーに繰り出したりした」という内村鑑三が千葉や新潟でも見聞したとおりの有様だったという。 しかし漁協で「報徳訓」を実践することを決定し、根本的に漁業者の生活習慣を立て直したのである。「佐呂間漁協の仕組みは、初代、二代目の組合長がつくりだした。その精神は二宮尊徳の報徳訓にあった。特に最後の三行今年の衣食は昨年の産業にあり来年の衣食は今年の艱難にあり。年々歳々報徳を忘るべからず。が、佐呂間漁協の基本精神になった。」・9月19日放送の鬼滅の刃「那田蜘蛛山編」で、竈門炭治郎が言う。「考えろ、考えろ。何か方法があるはずだ」
2021年09月20日
「背教者」の中の青山士「背教者」の中の内村鑑三 1「背教者」の中の内村鑑三 1夏期講習会の内村鑑三の講話 1夏期講習会の内村鑑三の講話 2「・・・・・・さて、前置が大変長くなつてしまひましたが、さふいふわけで今度の講習会は全部を聖書の研究に捧げたいと思ひます。そこで、けさの題目は、なぜ、わたしが聖書研究に従事するやうになったか。その由来をお話ししたいと思ふのであります。元来わたくしは農学校の出身でありまして、特別に聖書の講義などは聞いたことがないのであります。ところが基督教を信じてから二十余年を経て、ますます聖書の研究を重要なことに思ひ、かうして大胆にもそれに関する講演までするやうになった。その間には長い経歴もあれば、込み入った因縁もあるのであります。勿論、わたくしはこれを宣教師に強いられたこともなければ、又これを説かなければならない世間的の義務も持つてゐなかつたのです。両親に要求されたのでもなければ、友人に勧誘されたのでもないのであります。それにも拘わらず、わたくしがこれを畢生の事業としようと決心するやうになつたのは、蓋し已むを得ざる事情から出たのです。甚だ高慢な申しやうではありますが、少くともこのことだけは、極めて清潔な思想から涌いて来たことであつて、毫も私的感情がこれを促したのではないことは、明確に断言することが出来るのであります・・・・・・」「・・・・・・」(工事中)
2021年09月19日
「背教者」の中の青山士「背教者」の中の内村鑑三 1「背教者」の中の内村鑑三 1夏期講習会の内村鑑三の講話 1「・・・・・・『勇者は一人立つ時最も強し』とは詩人シルレルの詞であります。わたくしは今にして一層この詞の深い意義を悟りました。若しわたくしが神の力による勇者の一人であつたら、わたくしは孤独になつて、愈強くならなければならない筈であります。わたくしが孤独になつて前より強くなることが出来たら、それは神の力の現れだと言わなければなりません。神の力は如何なる微小なものを通しても現れるに違ひありません。わたくしはその示現を信じて疑わないものであります・・・・・・」「・・・・・・ルウテルも放逐されたのです。ロオジヤア・キリアムスも放逐されたのです。リヰングストオンは直接伝道をやめてアフリカ探検に従事した為に英国の伝道会社から棄てられました。米国の宣教師クロセットは、支那の窮民救助に従事した為に、本国あらの支給を絶たれて、支那海の下等船室の中で窮死しました。さういふ例はまだ沢山にあります。友人に捨てられ、愛する者に讒謗され、親戚に悪人扱いにされるものは、決してわたくし一人ではないのであります。「世ににくくまるるは、われのみならず。イエスは我よりもいたくせめらる。」です・・・・・・」「・・・・・・併し、わたくしは自分だけが正しくて、わたくしを捨てた人達がみんな間違つてゐるとは決して思ひません。わたくしに欠点の多いことは神様が御存じであります。わたくしの言行が常に矛盾してゐることは、わたくし自身も認めてゐるのであります。それ故、わたくしはわたくしを捨てた人達を決して怨まないのであります。あの人達の中にも必ず君子人のあるあつて、世道人心の為に尽した功績の決して鮮少でないことも、わたくしの十分認識するところであります。わたくしは如何に彼等から憎まれても、彼らを憎むことは出来ないのであります。わたくしは自らリベラルだと称する人が、自分のやうにリベラルでない人を目して、或は迷信だと嘲り、或は狭隘だと言つて非難する場合を幾度か見ました。わたくしはわたくしの信じ且愛する神に、どうか真正のリベラルな心を与へ給へ、しかして、自分を捨て去りし人々に対し、長く寛容なるを得せしめ給へと祈るより外、為すべきことを知らないのであります・・・・・・」「今わたくしは全く一人になりました。併し、かく一人となったが為に、何人にも気兼をせずに、諸君と寛いで話をすることが出来るやうになり、誰に遠慮もせずに、聖書の研究をすることが出来るやうになり、心置きなく至愛の神と交通することが出来るやうになつたことを思ふと、歓喜と感謝に身の措きどころをあります・・・・・・」(続く)
2021年09月19日
小山内薫の小説「背教者」の中の内村鑑三夏期夏期講演会「わたくしは先づ、わたくしの身の上にけふおこつた一大変動に就いて、諸君の御清聴を煩はさなければなりません・・・・・・ ・・・・・・この三年間、諸君の愛読を辱うしていた『東京インデペンデント』は今年今月今日、廃刊のやむなきに立ち至りました・・・・・・ ・・・・・・理由は申しません。また訊ねて貰ひたくないのです。兎に角、けふわたくしは又元通りの独りぼつちになつてしまつたのです。ーわたくしはわたくしの今までの生涯に於いて、三度も四度もこれと同じ経験を嘗めてをります。わたくしが最後に新聞社を退いて、この千駄ヶ谷に社会的の隠遁を企てました時、わたくしの周囲に集まつて来て、日本の社会に絶望してゐるわたくしを、再び社会へ引つぱり出したのは、『東京インデペンデント』の同志であります。この若い同志は腐敗しきつたこの日本に稀に見るところの純真廉潔な青年達でありました。わたくしはこの青年達を心から愛しました。青年達もこのわたくしを愛して呉れました。わたくしはこの三年間ほど愉快に筆をとつたことはありませんでした・・・・・・」「・・・・・・ところが、晴天の霹靂とでも申しませうか、月夜の迅雷とでも申しませうか、今年今月今日、しかも諸君にお目にかかる唯の十分間前に、わたくしはかくも愛し愛された同志に捨てられてしまつたのです。それは、わた、わたくしの信仰が、わたくしの宗教が、わたくしのこの講習会で聖書をのみ説かうとしたことが、しかもわたくし唯一人でこの十日間聖書に就いてのみ話さうとしたことが、彼等をわたくしから去らせてしまつたのです・・・・・・その他の事は申しますまい。また訊ねて貰ひたくない一時はわたくしも為すところを失ひましたゐ。併し、幾人の同志がわたくしを捨て去らうとも、至愛の神はわたくしをお捨てになりませんでした。種々の妨害があつたにも関らず、この会場は容易に借りることが出来ました。諸君は路を遠しとせずして、或は東北から、或は信州の山奥から、或は山陰から、或は四国の辺地から、かくも多数に集まつて来て下さいました。中にも熱心な方は、ここに寄宿をして、この神聖な十日間を、わたくしどもと起臥を共にすることになさいました。諸君が唯単にこの一小森川(内村)を崇めまつりに来られた方々でないことは、わたくしの信じて疑はぬところであります。また諸君が唯単に『東京インデペンデント』の愛読者として、一種の読者大会に臨むやうな暢気な心持で集まつて来た人達でないことも、わたくしの堅く信じてゐるところであります・・・・・・」「ー諸君は確にここへ人間としての道、即ち神の道を求めに来られたのだと思ひます。若しさうでなければ、諸君は忽ち失望をなさるだらうと思います。若し、諸君の内に『東京インデペンデント』の愛読者大会のやうな心持で来られた方があつたらーまた、この小森川を崇拝して来られたやうな方があつたら、どうぞ遠慮なく申し出て下さい。すぐに会費をお返し申しますから・・・・・・」「どなたもさういういふ方はないのですか。」「どなたもないやうです。わたくしは諸君がわたくしの信ずる通りの人達であつたことを神に感謝いたします。」(続く)
2021年09月18日
「背教者」の中の青山士 小山内薫(おさない・かおる)は明治―昭和時代前期を代表する劇作家・演出家であるが、現在ではほとんど忘れ去られているようである。小説に「大川端」,戯曲に「国性爺(こくせんや)合戦」などがある。 小山内に『背教者』という内村鑑三とその弟子達を題材にした小説があり、その登場人物の一人、天岡のモデルが青山士である。 『背教者』(小山内薫全集二巻)は青山(天岡)の「送別会」の場面から始まる。「真赤な海だ、真赤な空だ。落日が断崖にかかっている。赤い漣が縞を作つてゐる敷物のやうに静かな海の上に、赤く塗られた置物のやうに、荷足船(小型の和船)が一艘、ぢつと動かないで浮かんでいる。・・・・・・舟には八人の青年と一人の少女が乗つてゐる。」「八人の青年は二人を除いていづれも帝大の学生である。その内、天岡といふのがついこなひだ工科の土木建設科を卒業した。體はあとの七人の誰よりも小柄だが、年は一番上だつた。恩賜の銀時計を貰つて学校を出ると、直ぐパナマへ出張を命ぜられた。運河工事視察の為だ。」 この小説では運河工事視察の出張を命ぜられたとあるが、青山はパナマ運河開削工事に参加するために明治三六年(一九〇三)八月十一日横浜港を発った。その後のことは青山自身が「ぱなま運河の話」に詳しく記す。「送別会」は、内村鑑三に師事する「角筈十二人組」の有志が横浜港本牧埠頭に小舟を浮かべて送別会を開いたものであった。「千駄ヶ谷に「森川先生」(内村鑑三)といふ基督教の教師が住んでゐた。森川先生はどの教会にもどのミッションにも関係がなかった。自分一人の基督教を、自分一人の力で、自分一人の家で説いていたー九人はみんなこの先生の弟子だった。そしてこの先生を通してー基督に於いて交はる友が自分達だと信じてゐた」「「だが、なんぼなんでも、あんまり粗末な送別会だなあ。天岡君には全く気の毒だよ。」本牧に住んでゐるので、けふの送別会の幹事をやつた寺山がかう言つた。・・・・・・「名前は視察だが、天岡君は実際その為事(しごと)にたづさはるんださうだ。日本人で亜米利加の政府に雇われて行くんだから豪いよ。」「なあに、青服を着に行くのさ。労働だよ。併し、僕は神の思召は何処にでもあるものだと思つているから、喜んで行くつもりだ。僕だつて、もつと精神的な為事をしたいんだが、神様は最も適当に僕の能力を使って下さるだろうから、僕は少しも不平はないよ。」天岡はかう言った。「不平なんて勿体ないよ。こんな尊い為事が外にあるもんか。目に見えて人類の幸福になることだ。日本にゐて詰らない論議に日を暮らしているより、どんなに立派な為事だか分かりやしない。」・・・・・・「さうだとも。僕はこんな難有い会はないと思つてゐる。何の飾りもない。少しの外交的な付け加へもない。友情その物のー神に於ける友情その者の現れだ。僕は今日までに随分沢山な送別会に臨んで来た。学校の教授連がして呉れたのもあった。同じ科の連中がやつて呉れたのもあつた。建築学会が開いて呉れたのもあつた。御馳走も随分あつた。余興もいろいろあつた。併し、その多くは「お義理」の会だつた。世間的な交際だけの催しだつた。けふのやうな至純な会は始めてだ。僕は感謝してゐる。心から感謝してゐる。」感傷的な天岡は、かう言ひながら、目に涙を浮かべた。」一同は讃美歌「世々の磐」(*)を歌う。*余の特愛の讃美歌 明治35年4月20曰-37年11月17日 『聖書之研究』20-58号「所感」 署名 内村鑑三余の学びし最初の讃美歌にして、亦た最も好く救拯に関する余の信仰を彰はす者なり、原文は Rock of Ages を以て姶まり、「われたる岩や」又は「千世へし岩よ」と訳されて我邦の信徒間に歌はる、英人トプラデーの作にして彼の名は此讃美歌と共に広く世界に知らる・・・・・・余は茲に余の意訳を掲ぐ。 世々の磐よ我を囲めよ 我を汝の間に匿せよ 汝の脇より流れ出し 血潮と水は我の罪を 贖ふ二倍の代価《しろ》となりて 責《せめ》と科《とが》より我を救へよ 我の手の業《わざ》如何に多きも 法律《おきて》の要求《もとめ》に応《かな》ふ能はず 我の熱心|休《や》む時なきも 我の涙は流れ尽ずも 我の罪をば贖ふ能はず
2021年09月18日
「広井勇と青山士」は「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の第4集に位置するとともに、ここから技術者(エンジニア)シリーズとして「八田與一と鳥居信平」、「技師鳥居信平著述集」が展開された。これは前〇〇大学副学I先生が「広井勇と青山士」を高く評価してくださって、ご自身の講座にテキストとして使ってくださったとともに「八田與一については作られないのですか?」というサジェストから始まり、「これはエンジニアシリーズですね」と名称を付けていただいたことから始まった。2021年8月22日現在 「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集 広井勇と青山士」全314図書館 国立国会図書館 1図書館 都道府県立図書館 42図書館 北海道 青森県 岩手県 秋田県 宮城県 山形県 福島県 栃木県 茨城県 群馬県 埼玉県 東京都 千葉県 神奈川県 長野県 新潟県 静岡県 富山県 石川県 福井県 愛知県 岐阜県 三重県 京都府 奈良県 兵庫県 和歌山県 島根県 岡山県 広島県 山口県 徳島県 香川県 高知県 福岡県 長崎県 佐賀県 大分県 熊本県 鹿児島県 沖縄県市区町村立図書館 181図書館(北海道36)札幌市 江別市 網走市 富良野市 旭川市 函館市 北斗市 砂川市 帯広市 苫小牧市 小樽市 北広島市 恵庭市 北見市 登別市 釧路市 根室市 美唄市 岩見沢市 栗山町 比布町 様似町 小清水町 音更町 京極町 美幌町 八雲町 厚岸町 新十津川町 新冠町 別海町 佐呂間町 浦幌町 湧別町(青森県4)青森市 八戸市 十和田市 五戸市(秋田県)湯沢市(岩手県12)盛岡市 奥州市 花巻市 遠野市 二戸市 釜石市 大船渡市 一関市 北上市 久慈市 金ケ崎町 雫石町(宮城県2)名取市 加美町(福島県10)郡山市 相馬市 いわき市 会津若松市 喜多方市 本宮市 須賀川市 南会津町 三春町 新地町(栃木県5)足利市 日光市 真岡市 那須烏山市 鹿沼市(茨城県3)ひたちなか市 土浦市 八千代町(群馬県5)藤岡市 館林市 渋川市 高崎市 富岡市(埼玉県2)さいたま市 所沢市(千葉県4)千葉市 鎌ヶ谷市 市原市 流山市(東京都)足立区(神奈川県12)横浜市 藤沢市 秦野市 相模原市 小田原市 厚木市 大和市 海老名市 平塚市 伊勢原市 二宮町 葉山町(新潟県7)新潟市 燕市 三条市 長岡市 五泉市 新発田市 南魚沼市(長野県2)松川村 白馬村(山梨県)甲府市(静岡県14)静岡市 浜松市 下田市 磐田市 袋井市 三島市 御殿場市 掛川市 菊川市 湖西市 富士市 森町 小山町 川根本町(富山県4)富山市 滑川市 黒部市 砺波市(石川県3)金沢市 加賀市 羽咋市(福井県2)あわら市 鯖江市(愛知県6)名古屋市 安城市 岡崎市 新城市 武富町 愛西市(京都府)南丹市(奈良県)奈良市(和歌山県)和歌山市(大阪府2)大阪市 堺市(兵庫県4)西脇市 姫路市 三田市 赤穂市(鳥取県)倉吉市(島根県)松江市(広島県2)広島市 尾道市(山口2)岩国市 防府市(徳島県3)三好市 吉野川市 牟岐町(香川県3)善通寺市 観音寺市 丸亀市(高知県6)高知市 土佐市 宿毛市 四万十市 南国市 いの町(愛媛3)西条市 今治市 新居浜市(大分県2)佐伯市 臼杵市(長崎県)長崎市(佐賀県2)佐賀市 唐津市(熊本県3)上天草市 玉名市 人吉市(宮崎県5)宮崎市 都城市 えびの市 小林市 日南市(鹿児島県8)薩摩川内市 指宿市 日置市 姶良市 霧島市 与論町 大崎町 南大隅町(沖縄県2)石垣市 北谷町大学図書館 91図書館 東京 京都 北海道 東北 九州 九州理系 横浜国大 弘前 岩手 福島 会津 宇都宮 東京都立 新潟 福井 金沢 静岡県立 静岡産業 三重 神戸 兵庫 徳山 愛媛 高知 長崎 大分 鹿児島 東海 東京農大 東京農大生 小樽商科 北海道教育 宮城教育 京都教育 大阪教育 兵庫教育 早稲田 東洋 拓殖 法政 國學院 鹿児島純心女子 同左短期 日本女子 東京女子 活水女子 北海学園 北星学園 青山学院 敬和学園 金沢学院 神戸学院 西南学院 玉川 高崎経済 聖隷クリスト 同志社女子 武庫川女子 日大 関東学院 関西国際 神戸国際 沖縄国際 獨協 水産大学校 立命館 北海道科学 駒沢 酪農学園 室蘭工科 高知工科 京都工芸繊維 静岡理工科 桐蔭横浜 札幌大谷 東北福祉 昭和女子 豊橋創造 山梨学院 聖心女子 近畿 愛知学院 金城学院 岡山理科 四天王寺 九州産業 放送 大東 八戸学院 弘前学院 皇學館
2021年08月23日
「広井勇と青山士」は「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の第4集に位置するとともに、ここから技術者(エンジニア)シリーズとして「八田與一と鳥居信平」、「技師鳥居信平著述集」が展開された。2021年8月22日現在 「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集 広井勇と青山士」全312図書館 国立国会図書館 1図書館 都道府県立図書館 42図書館 北海道 青森県 岩手県 秋田県 宮城県 山形県 福島県 栃木県 茨城県 群馬県 埼玉県 東京都 千葉県 神奈川県 長野県 新潟県 静岡県 富山県 石川県 福井県 愛知県 岐阜県 三重県 京都府 奈良県 兵庫県 和歌山県 島根県 岡山県 広島県 山口県 徳島県 香川県 高知県 福岡県 長崎県 佐賀県 大分県 熊本県 鹿児島県 沖縄県市区町村立図書館 181図書館(北海道36)札幌市 江別市 網走市 富良野市 旭川市 函館市 北斗市 砂川市 帯広市 苫小牧市 小樽市 北広島市 恵庭市 北見市 登別市 釧路市 根室市 美唄市 岩見沢市 栗山町 比布町 様似町 小清水町 音更町 京極町 美幌町 八雲町 厚岸町 新十津川町 新冠町 別海町 佐呂間町 浦幌町 湧別町(青森県4)青森市 八戸市 十和田市 五戸市(秋田県)湯沢市(岩手県12)盛岡市 奥州市 花巻市 遠野市 二戸市 釜石市 大船渡市 一関市 北上市 久慈市 金ケ崎町 雫石町(宮城県2)名取市 加美町(福島県10)郡山市 相馬市 いわき市 会津若松市 喜多方市 本宮市 須賀川市 南会津町 三春町 新地町(栃木県5)足利市 日光市 真岡市 那須烏山市 鹿沼市(茨城県3)ひたちなか市 土浦市 八千代町(群馬県5)藤岡市 館林市 渋川市 高崎市 富岡市(埼玉県2)さいたま市 所沢市(千葉県4)千葉市 鎌ヶ谷市 市原市 流山市(東京都)足立区(神奈川県12)横浜市 藤沢市 秦野市 相模原市 小田原市 厚木市 大和市 海老名市 平塚市 伊勢原市 二宮町 葉山町(新潟県7)新潟市 燕市 三条市 長岡市 五泉市 新発田市 南魚沼市(長野県2)松川村 白馬村(山梨県)甲府市(静岡県14)静岡市 浜松市 下田市 磐田市 袋井市 三島市 御殿場市 掛川市 菊川市 湖西市 富士市 森町 小山町 川根本町(富山県4)富山市 滑川市 黒部市 砺波市(石川県3)金沢市 加賀市 羽咋市(福井県2)あわら市 鯖江市(愛知県6)名古屋市 安城市 岡崎市 新城市 武富町 愛西市(京都府)南丹市(奈良県)奈良市(和歌山県)和歌山市(大阪府2)大阪市 堺市(兵庫県4)西脇市 姫路市 三田市 赤穂市(鳥取県)倉吉市(島根県)松江市(広島県2)広島市 尾道市(山口2)岩国市 防府市(徳島県3)三好市 吉野川市 牟岐町(香川県3)善通寺市 観音寺市 丸亀市(高知県6)高知市 土佐市 宿毛市 四万十市 南国市 いの町(愛媛3)西条市 今治市 新居浜市(大分県2)佐伯市 臼杵市(長崎県)長崎市(佐賀県2)佐賀市 唐津市(熊本県3)上天草市 玉名市 人吉市(宮崎県5)宮崎市 都城市 えびの市 小林市 日南市(鹿児島県8)薩摩川内市 指宿市 日置市 姶良市 霧島市 与論町 大崎町 南大隅町(沖縄県2)石垣市 北谷町大学図書館 88図書館 東京 京都 北海道 東北 九州 横浜国大 弘前 岩手 福島 会津 宇都宮 東京都立 新潟 福井 金沢 静岡県立 静岡産業 三重 神戸 兵庫 徳山 愛媛 高知 長崎 大分 鹿児島 東海 東京農大 東京農大オホーツク 小樽商科 北海道教育 宮城教育 京都教育 大阪教育 兵庫教育 早稲田 東洋 拓殖 法政 國學院 鹿児島純心女子 鹿児島純心女子短期 日本女子 東京女子 活水女子 北海学園 北星学園 青山学院 敬和学園 金沢学院 神戸学院 西南学院 玉川 高崎経済 聖隷クリストファー 同志社女子 武庫川女子 日大 関東学院 関西国際 神戸国際 沖縄国際 獨協 水産大学校 立命館 北海道科学 駒沢 酪農学園 高知工科 京都工芸繊維 静岡理工科 桐蔭横浜 札幌大谷 東北福祉 昭和女子 豊橋創造 山梨学院 聖心女子 近畿 愛知学院 金城学院 岡山理科 四天王寺 九州産業 放送 八戸学院 弘前学院 皇學館
2021年08月22日
「後より来たるもののの為めに幾分なりとも参考に為らしめる事は為し置くべきこと事と信じ、上梓した」『我汝に命ぜしに非ずや。心を強くし且つ勇め。汝のすべて往く処にて汝の神エホバともにいませば懼(おそ)るることなかれ。戦慄なかれ』青山士の語る「パナマ運河の話」(第4集略出、一部読みやすくした)〇「ぱなま運河の話」の奥付には、昭和十四年五月二十日印刷とある。青山士が著者として唯一印刷・刊行した本で、パナマ運河にただ一人日本人として参加した記録としても歴史的にも貴重な資料である。〇 この本には、「はしがき」と奥付の次ページに青山士自身の筆記が載っていて、非常な興味を覚える。「はしがき」の上には「ゲーテの夢」という題で次の文章が綴られる。「人類がやがて成し遂げるであらう三つの偉大なる工事、それを見て死ぬ者は何と幸福であらう」その三と云ふのは「パナマ運河」「ダニューブとラインを結ぶ運河」及び「スエズの其である」。〇「ぱなま運河の話」の最初に三人の写真、「内村鑑三先生」、「廣井勇先生」、「ウヰリアム・エツチ・バア先生」が掲げられ、「感謝ヲ以テ此小冊子ヲ諸先生ノ靈ニ捧グ」と献辞がある。「はしがき」に、青山自身が本書刊行の意図を綴っている。「パナマ運河は世界の土木工事の中で相当に大きなもので、またそれが人類文化の上に大いなる影響を与える事において有名な施設であるが故に、その工事に実際携わった、またその所を視察した人、またそれについての書籍を読んだ人によって多くのものが書かれております。・・・・・ハナマ運河がいまだ海のものとも山のもとも分らなかった時から、私がその幻を逐って遂に身の強からざりし私をして七年有余消煙蛮雨の熱帯、不健康地に働く事を得せしめた恩師及び友達の奨励並びに御親切な御援助に対し、私自身が全身汗みどろになって働いたその工事の事及び私がその時見た事及び感じた事を書き付けてそのの甚大な感謝の意を表すると同時に後より来たるもののの為めに幾分なりとも参考に為らしめる事は為し置くべきこと事と信じ、上梓したのであります。 昭和十四年四月少閑を得て 著者誌(しる)す」 目次に、一歴史、二竣工せる運河の概要、三ガトウン堰堤、余水吐及水力発電所、四太平洋側堰堤、五閘門及閘扉、六閘門通過及び付属諸機械の電気的運転及其統御、七運河及閘門等の照明組織、八運河の海水面区間の航路、九運河関係永久的建築物、十臨港設備・船渠・修繕工場、十一糧食・石炭・鉱油・及其他の供給、十二要塞、十三運河地帯及陸軍用地、パナマ運河工事全盛時代(千九百九年及同年頃)使用土功器具機械、十五横浜港より普通航路によりパナマ運河を通過するとせざるとによる航路長の差、十六運河開通以来の船舶通航隻数及びトン数、余禄、図面とある。青山のパナマ運河建設従事の様子を〇「ぱなま運河の話」の「一歴史」「余録」等から現代語表記で紹介する。「私は東京帝国大学にいる時、スエズ運河が有名なフランス技師レセップ伯爵によって開鑿(かいさく)された事を聞いた。またパナマ運河も同伯爵によってその工事を始められたが失敗に終った事をも聞いていたが、明治三十六年大学を出る少し前に東京経済雑誌に出ていた峰岸氏の視察報告や広井教授のお話よりその運河開鑿工事に興味を持つ事になって、終に彼の地に渡ってその仕事の一部に従事してみたいという希望を抱いていた。同年七月十一日に卒業式を終ると、八月十一日に数人の友人に『我汝に命ぜしに非ずや。心を強くし且つ勇め。汝のすべて往く処にて汝の神エホバともにいませば懼(おそ)るることなかれ。戦慄なかれ』(ヨシュア記第一章第九節)の言葉を以て送られ、横浜港を後に旅順丸の三等先客となって、まずカナダへ渡り、直ちにアメリカへ入った。そしてワシントン州のシアトル市付近で様々な労働に従事してその時の至るのを待った。」〇一九〇四年二月パナマ共和国と米国とが運河条約の批准を交換したからパナマ運河工事は遂行されると見当を付け、アメリカ西部を出発し、三月中旬にニューヨーク市に着いて、当時アメリカのイスミアン・カナル・コミッショナー(Isthmian Canal Commissioner)の一人、コロンビア大学のウィリアム・H・バア教授(Professor Williams H. Burr)へ広井教授の紹介状⑵を持って行って運河工事に就職方を依頼した(a)が、まだ出発する組も定まらないから、少し待つようにという事だった。その間何か働く事はないかと尋ねると、ニューヨーク・セントラル・エンド・ホドソンリバー鉄道会社へ紹介状をくれ、ニューヨーク市給水のため新クロトン・ダムの築造に当りクロトン湖の水面が上り、そのためにその付近にある同社線を変更しなければならなくなった。その線路変更工事へ働く事になって、ニューヨーク市の北四十八マイルのマウント・キスコ町へ行き、ノルトンという大男のエンジニアの下に働く事になった。〇初めは言葉もできず、常に必要な数の聞き取り、言い出しができず二週間ばかり下宿に帰るとその練習に費やした。そして弁当持ち、杭持ちから試験を経て、水準儀及び経緯儀を持たせられる事になった。しかしその仕事は終に一文にもならず、ただ働きだった。しかしこの二か月にわたる仕事の練習は後にパナマに行ってすぐ役立ち、非常によかった。〇バア教授の尽力により(b)、イスミアン・カナル・コミッションの職員の一人となることになり⑶、同年六月一日ニューヨーク港でユカタンという船の中で契約書に自署して工事従業員の一人となり、同日同港を出発し同月七日の午後、コロン港に着船した。この港はその当時は不潔で、また善い宿もなく、その晩は港の中で船中に泊まり、翌日、各人は蚊帳(かや)と毛布一枚までを渡され、この所より七マイル余り離れたボヒョというシャグレス河の岸にある村へ落ちつく事になった。その晩は元フランスの運河会社が建てた汚い古家で、屋根裏に何千匹というコウモリとアブラムシがギイギイ啼(な)いている所へ寝た。それ以後もこの所を宿舎とした。それから二、三日して測量、ボーリング等の機械が到着し測量及び地質調査の準備に掛り、まず初めにポヒョのダム予定位置の測量と地質調査に従事し、ダムの予定位置がガトウンに変更されてからは、ガトウン人工湖の貯水面積地形調査に移り、バス・オビスポからシャグレスの河の上流へ遡り、右へカトウンシュ河から分水嶺を越え、アグア・スシアからガトウン河を下り、ガトウン村に出て、またシャグレス河の左の一大支流のトリニダッド河へ遡ってテント生活を続けた。この野外測量隊の本部には組長一人またはアメリカ人エンジニア五、六人の割で一人に土人労働者四、五人、その他荷物糧食運搬及び料理人五、六人で、我々はテント中の帆布(はんぷ)のコットに蚊帳を吊って寝、土人は大概パームの種類の葉を葺(ふ)いた掘建て小屋へパームの一種の幹を割って開いて板のようにした床を造り、その上にアンペラのようなものを敷いて、毛布一枚くらいにくるまって寝た。測量には、見透しがきくよう熱帯ジャングルを一インチずつ切り開いて行かなければならないから、労力を要する。一組に五人くらい配し、交代に二人ずつそのジャングルを日本刀型のものと青竜刀型のものとを振って切り開いて行く。その刀はマチエッテという便利なものである。その仕事場への往復が三時間ないし四時間を要するようになれば本部を移すか、支部を置く事になる。アメリカ人が二、三人行く時はテントを持って行くが、一人二人の時は土人と同じくパーム葺きの掘建て小屋を建て、それに折畳みの出来る帆布を持って行く。私はしばしばこの支部へ行った事があった。一度、ただ一人で土人(どじん)労働者五人と一人の糧食運搬兼料理人を率いて行った時、下痢症にかかり、一昼夜十四、五回の下痢で、便所はジャングルの中に二本の大木を伐り倒して並べてあるくらいのものだったので、夜中ランタンを提げて行くなどなかなか苦しかった。医師は無く、本部から誰も来てくれないので、三、四日絶食療法を試みた。料理人が山鳥をとって来てくれ、そのスープで力を付けて一週間目くらいに、また測量に出たところ、めまいを起こし、土人に背負われて帰ったこともあった。また一度はアグアシア(スペイン語の濁水)の上流で組長と労働者との間の些細な行違いで土人にストライキを起こされ、ついにアメリカ人がマチエテで測線を切り開き、一アメリカ人をロッドマンとして私が水準測量をやった事もあった。その時、一日仕事に出て、幅五間位の谷川を渡って、向う側で仕事をしているうちに非常な急雨があって、急に水が出て濁水がトートーと流れ、水嵩を増し、谷川の幅も倍くらいになって渡れず、終に泳いで越す事になって、私が最も後になって測量野帳のカバンを頭に結んで泳いで対岸へ着こうとするところで、その野帳カバンが下へ流れて行ったのに気が付いて、その後を逐って、それを口にくわえ、ずっと下流に流されて対岸に着いた時は疲労して、やっと岸に這い上がり暫く動く事もできなかった。翌日その下へ行って見ると、その所に滝があってもう少し下流へ流されれば最早この世のもので無かったであろうとゾットした事もあった。またある時は山猫やマチョといって犀(さい)を小さくしてその角を無くしたような強力な動物で、どんなジャングルでもその鼻の先と体にて突入して行くようなものにも出合った。サソリ、カメレオン、アリ、これには多くの種類があり、ある者に頸筋(くびすじ)等を喰い付かれると、頭が痛み、顔が腫れたり、また手などを咬まれると手が痛み、わき下にグリグリができたりする。また蜂(はち)も至る所に巣食っていて、一日に数度打ち付ける事がある。蜂は人がその巣の近所を通ると、上からとび降りて来て刺すという始末におえないものもあった。また乾燥季になるとダニがいて、毎日それに取り付かれて困った事もあった。ワニは私達の働いていた近所に余り大きい物はいなかった。また河の縁の村落の近くへ天幕を張った時などは、フェスタつまり祭りで田舎の盆踊りのような踊りを見たりした。また雨季には朝から晩まで雨に湿(む)れ、または一日沼地に入り、腰の辺まで水に浸かった事もあった。熱帯無人の境における測量は費用を要するだけでなく、天然との戦争で苦痛の伴うものであるが、今になって顧みると血の沸き返るを覚えて愉快な事もあった。その天幕測量隊の労務は現場へ行き戻りの時間に合わせ九時間くらいであるから、キャンプに帰ってから、その日の測量の野帳を整理し、計算する必要があるものは計算し、誤差を見出せば翌日すぐにその所へ行って、その訂正を行い、組長はその夜中にその日に出来た測量の結果を出し、図面に書き入れて、また翌日の仕事をそれぞれ割り当て翌朝、組が出て行った後に昼寝をするという具合に仕事を進めて行った。このように二年余りの天幕生活をしてその測量を終った頃に、運河ができるようになって、私はガトウンへ戻り、ガトウンのダム及び閘門[こうもん・運河などで水量を調整する堰]等に関する精細な測量、続いて余水吐[よすいばき・ダムに予定以上の流水が入ってきた時に河川等に水を戻す施設]、堰堤(えんてい)、閘門、工事の施工に必要な線及び勾配など種々のステーキ・アウト(Stake out)に従事した。この運河工事に従事する職員は日給で、一年の中に六週間の有給休暇を取り、その間、温帯地方で休養のため費やすことになっていて、その所に至る汽車・船賃は非常な割引でその特典は家族まで与えられた。また一年を通し三十日の病気欠勤はその間の給料は支給され、また無料で官設の病院へ入院治療を受ける事ができ、それ以上給料は支給されないが、無料で入院治療を受ける事ができるようになっていた。また天幕生活を余儀なくされていたものには、その期間、上質の食料品をただで支給された。アメリカ人は働く事も善く働いて測量等の選点は必ず組長が先に立って行く。また機械はその測量中、測点より測点まで運び据え付ける等は皆測量技師がやる。また山の中でも日曜祭日は休養する事になっていた。気温は乾燥季、すなわち十二月より翌年四月の初めまでは夜明けは華氏の六十度[摂氏一六度]くらいまで下降する事がある。日中は八十度[摂氏二七度]以上でガトウン閘門築造中などは深さ八十尺[二四メートル]もある閘門の室の中でコンクリートの上では百十度[摂氏四三度]以上になり暑いだけでなく日光の反射で目がくらむような事もあった。湿度はなかなかで、クレプラの分水嶺の太平洋側は大西洋側に比べれば雨量も少ないが、私のいたガトウン等では一年の雨量が三千六百ミリくらいに達した事もあり、帽子、衣類、書籍などカビることがひどく、靴など雨に湿れて、明朝まで置くと青かびが生ずるというありさまで、雨季は気持の良い所ではないが、衣服は簡単で、役所で仕事中は所長以下皆、上衣を着る事は他を訪問する時くらいだった。〇一九一一年十一月十一日、パナマ運河地帯を去るまで、設計製図の内業に従事していた。私が設計して残してきたうちで、ガトウン閘門の湖水の方の翼壁及び下流の中央繋船壁及び小規模だが、ガトウン村の給水工事中の鉄筋コンクリート造のアグアクララ・フイルトレーション・プラントは私が帰る時は百分の七八十できていたが、その後、でき上った写真を見ると取水口、沈澱池、ラピッド・メカニカル・サンドフイルタア、浄水池、ポンプ小屋及び試験所等、皆設計通りにできているのを見ると、少しは働きがいがあったように感じる。(略)」〇青山士はパナマ運河委員会で昇進を続け、測量主任技師、最後は設計技師となる。一九〇六年八月に二年余のボイオの測量を終り、金メダルを授与された。〇後、クリストバル港の港湾建設現場に配置替えになる。一九〇七年九月、大西洋建設部のガツン閘門とダムの現場に測量主任として配置換えになる。一九〇八年十一月ガツンダムの余水吐の基礎が沈下して崩壊する事故があり、青山は測量技師から測量技師補に十一月二十三日付で降格し、翌年三月一日測量技師に復帰する。「パナマ運河委員会」の人事委員会への申請書に「アメリカ人ではないが有能」とある。青山はガツン閘門のウィング・ウォール、閘門中央壁の先端のアプローチ・ウォールの主任設計技師となる。一九一一年年俸二千ドルの中堅技術者となる。人事記録に「彼のサービスと品行は共にエクセレント」とある。(b)青山は一九一二年一月九日に辞職して帰朝する。(1)略⑵ 広井はパナマに向かう青山に対し「パナマ鉄道はその使用した枕木の数だけの人命に値した」という言葉を繰り返し健康に注意するよう助言した(本書p.169)。⑶ 「日本の友人のプロフェッサー広井の紹介で若い青山という男と私の縁故のフェランが応募した。採用したいのでよろしく」とバー教授からパナマ運河委員会ウォーカー委員長に推薦状が出され、「一九〇四年五月三十一日青山士ボイオ支局トリニダード川測量隊の測量補助員として三か月臨時雇用。無試験採用。バー教授の紹介。月給七五ドル。色:黄色。国籍日本人」と人事記録にある。(写真集p.15)⑷ 牧野雅楽之丞氏の追悼に「青山さんの話によると当時米国人の日本の認識薄く日本国などどこにあるのか一般の米国人は知っている者少なく特に人種的差別甚しく、初めは『ロッド、マン(ポール持ち)』にも採用しなかったそうで、それ故一々下から認めてやらして貰うのは容易でなかったと話されていた。気候は暑く不衛生地で蚊が物凄く家は金網張りだからいいが、作業は袋をかぶってやる事は閉口したが、よくも生きて帰れたものと述懐されていた」とある。(旧交録p.9)
2021年07月01日
Yさま盛岡市先人記念館に寄託し売上金全額を東日本大震災復興支援にあてていただいていた『新渡戸稲造の留学談』が日本赤十字社の東日本大震災支援受入中止で戻って来ました。Tさん,Mさんに「出版物の力をもって復興支援をする」試みの記念に一冊ずつ送りましたが、Yさんに『技師鳥居信平著述集作成にあたってお世話になりましたのでお送りします。
2021年06月26日
「スラムダンク」シーズン1でインターハイ出場が決定した湘北は、静岡代表・常誠高校に合宿に行くが、桜木花道は安西先生の指示で行かせてもらえない。短期間でインターハイの秘密兵器となるべくシュート2万回の特訓を受けることになる。「この天才もIH間近でヒマじゃねぇ オヤジの道楽につきあってるワケにはいかないんだよ」と言い放つ桜木。でも桜木の寝る間も惜しんでのシュート練習を見守りながら、安西先生はつぶやく。「道楽……… 道楽か…そうかもしれんね」「日一日と…成長が はっきり見てとれる この上もない楽しみだ」きのう、センターで作業していたら『荷物届きましたよ』とセンターの人から声がかかる。盛岡市先人記念館から『新渡戸稲造の留学談』が30数冊届いた。記念館に100冊送り売上を東日本大震災復興支援にあてて頂いていたが十年の歳月を経て日本赤十字社が募金停止するというので、送料を現金書留で送って、残部をセンター宛て送っていただいたのだ。朝のテレビ番組の「お帰りモネ」ならぬ「お帰り、ボーイズ・ビーアンビシャス 新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆蘆」これもまた「道楽…そうかもしれない」「(略) さて日本赤十字社の義援金受付が3月末で終了したことに伴い、・・・・・・残部34冊を返却いたします。返却冊数 34冊(100冊ー66冊) 平成26年度 9冊 平成27年度 21冊 平成28年度 15冊 平成29年度 12冊 平成30年度 0冊 平成31年度 4冊 令和2年度 4冊 令和3年度 1冊 合計 66冊」
2021年06月24日
岩手県の盛岡市先人記念館から電話連絡があり、「ボーイズ・ビー・アンビシャス第3集 新渡戸稲造の留学談」の発送を終わりましたと連絡があった。この本は100冊を盛岡市先人記念館に寄託販売していただき、売り上げはすべて日本赤十字を通じて東日本大震災復興支援にあててくださいとお願いして、毎年わずかではあるが赤十字に寄付しましたという連絡があった。このたび日本赤十字が東日本大震災復興支援の寄付の受け入れをやめることになりましたが、どうされますか?というお尋ねがあり、「大学図書館等に寄贈しますので、お送りください」と送料を送ったところである。60冊弱ではあるが、また「大海の一滴」ではあるが、東日本大震災復興支援に役立てていただいてよかった。盛岡市先人記念館様、ありがとうございました。
2021年06月23日
静岡県磐田郡誌下巻第25章雑部 第二節 海外移住及出稼p.1290〇中泉町中泉 青山 士明治三十六年七月、帝国大学工科を卒業し、同年八月、渡米ヴイクトイアに着し、それよりバンクーバーに往き、更にシヤトルに至る。当時米国パナマ運河開鑿の事を決せしも、条約尚批准に至らざりしを以て、パナマに至ることを得ず。依って暫くこの処に滞在することとなりぬ。蓋しこの行は、廣井博士の紹介に依り、米国知人よりの便宜を得んとするに在りき。会々(たまたま)千九百四年二月、パナマ共和国と、北米合衆国との間に運河条約の批准交換を了したるを以て、コロンビア大学のウイリアムエーチブアー氏を訪い、廣井博士の紹介状を示し採用方を依頼せしに、同氏が一先ずパナマ地方を視察した後にせんとの事にて、用いられざれしに依り、ニューヨークに至りて某鉄道会社に入り、以て期の至るを待ちしが、その年五月二十七日、いよいよ採用せらるることとなりたり。すなわちパナマに赴き爾来測量事業に従い七星霜を経て帰国せり。
2021年06月12日
旧友広井勇君を葬るの辞 内村鑑三「清廉にして寡黙なりし君はその仕事に忠実なりしはいうまでもありません。君が札幌農学校を卒業して後、間もない事でありました。君は君の先輩の指揮の下に、北海道鉄道の線路に当たるある小なる橋梁の建設を担任させられました。君は君の当時の工学的知識の全部を絞りて、その任に当たりましたそして漸くにして橋はなりて、列車の無事通過を見て安心して胸を撫でおろしたと聞きました。私はその当時、君と宿所を同じうし、君より直ちにその実験を聞きまして、君の技術の最初の成功を祝したのであります。すなわち広井君にはその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通じて強く働いたのであります。『我が作りし橋、我が築きし防波堤がすべての抵抗に堪え得るや』との心配があったのであります。そしてその良心その心配が君の工学をして、世の多くの工学の上に一頭地を抽んでしめたのであります。君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に殊に貴いのであります。」☆明治三十一年四月二十五日市川紀元二は、東京電気株式会社技師となり、大磯電燈新設工事や小田原電気鉄道会社などの工事に携わった。明治三十三年六月十日結婚後郷里にいた夫人が小田原に来て、七月十八日まで滞在した。七月十八日、湯本塔ノ沢電燈増設工事が終了、この年、北清事変が起こり、予備軍人の召集がありそうだと完成を機に辞職して帰国する。同日付け手紙には「余はこの度小田原をしもうて一と先づ帰国し調物を為し何時召集するも差支えなきよう致す筈なり」とある。小田原電鉄を辞めた頃、暴風雨になって河が増水し、発電所にも相当な故障が起こりそうな形勢になってきた。「夜中の十二時過から轟々たる暴風雨中を毛布を被って見廻りに出かけた。一廻りして帰ったら暁方の四時になっていた。翌日昼再び見廻りに出た。しかも人に顔を見せないように毛布を被って出かけた」とある。のちに青山士も退職後、大型台風があると、磐田から電車に乗って自らが施工した荒川取水堰を見廻りに行ったという話と共通する。市川紀元二と青山士にもまた「鋭い工学的良心があった」のである。
2021年06月07日
祖父・青山宙平と父・青山徹磐田市立図書館の「発見!いわた 「磐田の著名人」に青山宙平の略歴が載っている。青山 宙平(あおやま ちゅうへい)1818(文政元)年~1910(明治四十三)年 遠江国豊田郡中泉(現磐田市中泉)の人。家は代々旅宿(たびやど)業を営む。1845(嘉永七)年 御前崎にアメリカの船が渡来の際は、中泉代官の命で民兵を組織し海防に尽力した。1873(明治六)年 浜松県第二大区副区長、1877(明治十)年静岡県第十一大区長、1879(明治十二)年磐田・豊田・山名郡長を歴任。地租改正の際には、県民会を設立させ、その副議長に選ばれる。浜松廃県後も遠州州会副議長として全州民を指導し、目覚ましい活躍をした。さらに1857(安政四)年中泉代官が設立した恵済倉の米穀を資産金貸付所の資金に組み入れ、その利潤を中泉小学校、公会堂建設その他にあてて公益に尽くした。1877(明治十一)年には資産を背景に静岡県内初の国立銀行の設立に協力した。また1869(明治二)年に出された前島密の「普済院規則」に従い、奉仕活動を行って身寄りのない生活困窮の大人と子供、身心障害者の救済に尽力した。東海道本線の着工に際しては、土地を提供し中泉駅舎(現磐田駅)に用地を提供した。 父・青山徹 「『故工学士市川中尉伝』にば「父姓は青山、名前は徹、徹宗居士と称す。磊落不羈にして深く禅に通ず。母は小西氏五男一女あり。中尉はその第二子なり。祖父宙平無形居士と号し、経済の才に富み好んで後進を推挽し、老来茶道囲棋に消閑して風月に悠遊するも徹と共に郷党に推重せらる」とあり、父徹は常に僧衣を着て、数珠を手にして奇人と称されていたという。(『市川紀元二中尉傳』) 磐田市史通史編下巻には宙平と並んで各種事業に徹の名前が確認できる。「浜松に設立された第廿八国立銀行出資者」に青山宙平四五〇〇円、青山士三〇〇〇円と名前を連ねている。P.105「明治五年(一八七二)学制が公布されると、青山宙平の主唱をで資金を募り」明治六年四月二十一日開校式をあげた。これが中泉学校で」・学区取締に青山徹の名前がある。P.163「浜松県は、明治八年(一八七五)二月十五日、女子の就学向上のた区長・学区取締が説諭をするよう布告し、十年六月にも女子小学教則を制定し」女子教育の推進をはかった。学区取締に青山徹が任命されている。P.169 前島密と青山宙平祖父青山宙平の事績を見て行くとわずか八か月の在任であったが、前島密の影響が強かったように思料される。前島は後に日本の郵便・電話や新聞、あるいは海運・鉄道という経済社会の社会基盤を整えるのに類まれな構想力と実行力を有した。前島は青山宙平に近代精神と博愛の理念を身を以て教え、宙平はそれを生涯励み勤めたように思われる。前島密の中泉奉行としての業績を「磐田市史」通史編下巻に詳しく見てみよう。中泉奉行所の設置明治二年(1868)正月十三日、府中藩は領内十一か所に奉行・添奉行を設置した。中泉奉行所は前嶋来助(後の前島密)で、当時35歳の若さであった。「駿府各所分配姓名録」には中泉奉行 前嶋来助 添奉行 淵辺徳蔵⑴同支配調役 高橋陽之助 長兵庫 山岡精二郎景連 萩原保二郎同調役並 天野忠三郎 高林新右衛門 塚原隣平 川目健次郎 大塚東作 宮村新右衛門同定役 前嶋又三郎 取田権太郎 伊藤源十郎 脇坂米次郎同下役 渡辺庄次郎 外ニ分配士族七百十一名中泉奉行前島密をはじめ、諸役人は同月(明治二年一月)中泉に着任し、元中泉代官の陣屋で執務にあたった。前島は一般民政のほか、無禄移住の徳川藩士士族七百余名の授産の道も講じなければならなかった。 徳川家は六百万石以上に及ぶ領地を没収され、七十万石に減らされ、これまでの家臣を養うことはできなかった。徳川家は、家臣に対し、朝臣となるか、帰農帰商するか、無禄で静岡に移住するか、選ぶように通達した。 朝臣となる者は、旧禄高が下賜されたので希望者が多く、帰農帰商を希望する者は少なかった。徳川家達に従って無禄で駿河、遠江、三河へ移住した人数は、駿河府中六九四人、浜松七二一人、掛川七〇一人、遠州横須賀六八二人、赤坂六二八人、田中六五二人、相良七六〇人、中泉七二九人、参州横須賀六〇六人、小島三九九人、計六五七二人だった。藩の職務についた者は扶持米を支給されたが、勤番組といわれる移住不勤のものには十二月に旧禄に応じて扶持米が給されたが、これだけで一家が生活するのは困難であったから、内職に励まなければならなかった。前島は、配下の役人のうちから世話役を選んで、無禄士族の生計やその子弟の教育の任にあたらせた。男子は薪財を製し、女子は中泉七軒町の満徳寺本堂に勧工場を設けて綿糸を紡ぎ、縫製をし、製茶・養蚕の時期には手伝いに出て労賃を稼いだ。さらに前島は上州から労農を桑の栽培や養蚕の方法を学ばせ、自分の妻にも婦女子の指導にあたらせた。一方西願寺を仮学校として授業を行い、後に奉行所で漢学・英学・数学を教授し、武道の稽古も行った。前島自ら英学を教授した。また前島は悪徒取締りのため非人の使用をやめ、勤番組のうちから剛壮の者三十人ほどを選んで奉行所の中に捕亡方として採用するよう要望書を出した。中島救院の設置在任期間わずか八か月であった前島の業績の一つに「中島救院」の設置がある。「救院」の設置の事情は、青山宙平が明治四年(1871)十二月に書き残した「中島救院備忘録」によってうかがうことができる。前島は告諭で西洋の例をあげて、このままでは仏教がキリスト教に圧倒されると警告し、「予がいわゆる救窮助廃の院を建て、人々の心をして確乎不抜の帰依におき、その後よく護り、彼(キリスト教)をふせぐを得べきか、予が言を玩味して、仁恤救助の術を施し、一は国家の政を補翼し、一は本師(仏陀)の法を安養ならしめよ」と管内の僧侶の総奮起を促し、救院の設置をすすめた。⑶この告諭を受けた各寺院は評議の上、翌六月には中泉村の泉蔵寺(臨済宗)に仮の救院を設置した。救院の運営は、宝珠寺(保六島村、臨済宗)・万勝寺(万正寺村、臨済宗・泉蔵寺兼帯)・中泉寺(中泉村、臨済宗)・西願寺(中泉村、浄土真宗)の四か寺が「寺院惣代」として中心的な役割を担い、管内諸寺院を「寺院組合」に分けて「それぞれ交替自費」で行われた。「寺院組合」は管内の寺院を地域別に分けて組織され、「月番」で救院運営の実際を担ったが、こうした具体的な運営方法については当初より前島から「宝珠寺其他の長老に細説」されていたものであった。前島は、六月付で「普済院規則」を出し、救院運営の具体的な指針を示している。規則には、食事や衣服、日々の取扱方(起床時間や一日の時間割)、六歳以上の小児には読書・手習・算術を学ばせ、十歳以上は「課業」に従事させ製品の賃銭を支給するなど、育児・養老・授産の施設として自立の道が立つような懇切丁寧な内容が規定されている。九月に中泉奉行所が廃止され、前島が中泉を離れた後、一時救院は存続の危機を迎えるが、明治四年三月に青山宙平が取扱方となり五百両の御下金を受け救院再建に尽力した。青山宙平は「右救院取締諸世話之儀、一人ニ而ハ迚も難行届候処、当時泉蔵寺兼帯住職万勝寺実禅」の「助力を以、窮民撫育の道も相立居候」と当時の状況を記す。その後、中泉救院は明治二十一年(1888)の「備荒賑済制度」に引き継がれるまで存続し、社会福祉行政の先鞭となる事業として評価されている。このように、前島密は中泉救院の創設において、まず基本理念を示した上で、事業化に向けた道筋を具体的に提示し、既存の仕組みや条件をまとめながら新しい制度を実現した。前島は、当時を「養老院を設けて寺僧にその事を任ずる等、日夜孜々として奔走したり。未だ是を以て成功の域に達せずと雖もややその端緒を啓くに至れり。」と述懐している。
2021年06月07日
『市川紀元二中尉傳』から主に青山士との関係を抜き出してみる。「市川中尉は明治六年二月十七日、静岡県磐田郡磐田町七軒に青山徹の二男として生まれた。紀元二という名はやや珍しく感じられるが・・・・・・紀元という語は明治五年十一月十五日太政官布告に「神武天皇御即位を以て紀元と定め」とあり、そういう折に生まれた二男というわけで命名された。」p.3「青山氏の先祖は中條氏といい、三河国伊良子崎の城主をしていたが、途中青山氏を名乗り、後今川氏の破る所となって中泉在の岡田へ逃れてきた。その後徳川家康に中泉へ出て本陣をする事を命ぜられ、以来庄屋を兼ねてこれを続けて来た。中尉の祖父宙平に至って同町七軒町に分家し、宙平は同町營(たむろ)ケ丘に隠居した。青山家は中泉屈指の旧家とせられていた。」p.4 「『故工学士市川中尉伝』にば「父姓は青山、名前は徹、徹宗居士と称す。磊落不羈にして深く禅に通ず。母は小西氏五男一女あり。中尉はその第二子なり。祖父宙平無形居士と号し、経済の才に富み好んで後進を推挽し、老来茶道囲棋に消閑して風月に悠遊するも徹と共に郷党に推重せらる」とある。父徹は常に僧衣を着て、数珠を手にして奇人と称されていた。母ふじ子は浜松の小西氏の出て、紀元二小学校時代の恩師大木文蔵氏が「母君ふじ子は小造り丸顔の方で、誠にしとやかにもあり、なごやかにもあり」とある。 幼児の市川紀元二のこんな話が伝わる。「五歳の時、大釜の中におちて上唇にひどい裂傷を負った。その時少しも泣かないで自分の手で抑え、乳母に抱かれて医者に行き、縫い合わせて帰るまで自若としていた。」p.5「少年時代について、大木文蔵氏が『市川紀元二中尉傳』の筆者(横山英)に与えられた書簡によると一 青山紀元二君、幼年の頃はからだは小造り、何れかと申せば丸顔にて、いわゆる明朗というふうではないけれども、いつも眉宇の間ににこやかなる様子があり、いいぼっちゃんという趣を備えていた。二 沈着にして寡言なるはその特徴と申すべく、世の児童のごとく飛びまわりはねまわり大声疾呼するというが如きことなく、いわゆるおとなしいお子さんでした。三 少年の頃もやはり沈着寡言にてそのにこやかなる趣きは幼年の頃と変わりはなく、そのものの言いぶり、その態度風采はしっかりとしていました。」 十四、五歳くらいのある日、士が兄の紀元二を怒らせようといたずらして、その作っていた庭の草花を抜いてしまったが、その時紀元二はフフンと笑っただけだったという言い伝えが残る。 その青山士の話によると、「自分こそ気短かで、兄が自宅庭内の一隅に楽しみ作っていた蔬菜などを喧嘩の結果抜いてしまった。その喧嘩のとき「自分が怒らせたのだから仕方がない」といってフフンと笑っていた」というのが真相だと語ったとある。 青山紀元二は明治十四年十一月、九歳の時、名義だけ市川ちせの養子となり、市川紀元二となった。伝えられる所によると徴兵逃れのためだという。明治初年には相続人は徴兵にとられないということで、次男三男は分家したり養子にいった事例は少なくなかった。養子といっても名義だけで、その後も青山家の人として育てられた。 明治二十六年一月末の「紀念誌」という帳面がある。紀元二自身が二十一歳の時に記したものである。「六歳の頃 旧御陣屋跡の小学校に入る明治十九年(十四歳) 右学校を終る同年 四月上京(浅草区蔵前片町の祖父宅に入る) 四月十七日、戸川深見翁の塾に入る五月 九段坂上英和予備校に入る十二月、先生、塾と共に小石川に転居 明治二十年 六月、英和予備校卒業、一旦帰省 八月、神田淡路町共立学校(開成中学)に入る同二十一年 九月、第一高等中学校予備第三級に入る、戸川先生の塾を出て寄宿舎に入る。」p.11同二十五年(二十歳)の項に「四月、弟士就学の為上京」とあり、同二十七年に「五月一日、祖父根津の宅を引払って郷里に帰るこの日より弟士と共に本郷区駒込千駄木町五七敬業館に寄宿す(敬業館は遠州掛川山崎家の創設にかかり掛川近傍の学生を養成するための寄宿舎)七月七日、第一高等中学校卒業九月十一日、工科大学授業始め同二十八年 九月二日、敬業館廃止により弟と共に本郷区坂町八二衛生館へ下宿す」同三十年 七月帝国大学電気工学科を卒業す」p.14紀元二は明治二十五年から三十年まで弟の士と共に一緒の下宿に住んでいたことがわかる。紀元二は少年時代から科学的趣味を持ち、弟の士を伴って御茶ノ水の教育博物館へ行って、汽車や機械類を見るのを喜び、家でも弟相手によく機械の模型を作ったりしていたという。士が工学を志したのも兄・紀元二の影響と思料される。」
2021年06月06日
「磐田市史 通史編下巻近現代」の「日露戦争」の項目に青山士の兄・市川紀元二の項目がある。青山士に影響を与えたのは、祖父青山宙平とともに兄・紀元二がある。「市川紀元二中尉 当市(磐田市)出身の出征者の中で最も有名な人物に市川紀元二中尉(明治六年~三十八年)がいる。中尉は中泉の青山家の生まれで、幼くして市川家を継ぎ、十四歳の時上京、明治三十年七月東京帝国大学電気工学科を卒業した工学士であった。一年志願兵の出身の予備将校、しかも当時は大変珍しい工学士でありながら、有名な首山堡付近の戦闘に抜群の偉勲をたてて(第六連隊、敵の鉄条網破壊隊の隊長)、日露戦役を通じて二、三人しか無かった武功全軍布告の栄誉を得、そのため嘖々(さくさく)たる名声を博したが、奉天会戦で戦死、葬儀は五月三十一日中泉町招魂社において公葬として執行された。町民は中尉の偉勲を永久に伝えるため、明治四十一年四月中泉駅のすぐ東に銅像を建立(総額四七四〇円余、海野美盛作)、そこを整備し市川公園と命名した。公園は大正七年(一九一八)府八幡宮境内南端に移転。銅像は郷里以外に、同年十一月母校東大校内にも建立された。また、中泉小学校は池辺義象に依頼して五章からなる中尉の歌を作った。(床山英『市川紀元二中尉傳』)。」
2021年06月06日
・鳴門教育大学が「資料で読む技師鳥居信平著述集 : 台湾の地下ダムの原点は徳島県農業技師時代にある」を蔵書としていただいた。鳴海教育大学は何度寄贈してもなかなか蔵書としていただけなかった。ごく最近、徳島にゆかりの本だからと寄贈したら即蔵書としていただいた。よかった、地元の教育大学に受け入れられて。・石川県の白山市立図書館 図書サービス課から「当館では所蔵できない旨」連絡があり、返信用のスマートメールを郵送する。「大切な本を廃棄することなく循環して活用できることに感謝します。」
2021年06月02日
2 祖父・青山宙平磐田市立図書館の「発見!いわた 「磐田の著名人」」に青山宙平の略歴が載っている。青山 宙平(あおやま ちゅうへい)1818(文政元)年~1910(明治四十三)年 遠江国豊田郡中泉(現磐田市中泉)の人。家は代々旅宿(たびやど)業を営む。1845(嘉永七)年 御前崎にアメリカの船が渡来の際は、中泉代官の命で民兵を組織し海防に尽力した。1873(明治六)年 浜松県第二大区副区長、1877(明治十)年静岡県第十一大区長、1879(明治十二)年磐田・豊田・山名郡長を歴任。地租改正の際には、県民会を設立させ、その副議長に選ばれる。浜松廃県後も遠州州会副議長として全州民を指導し、目覚ましい活躍をした。さらに1857(安政四)年中泉代官が設立した恵済倉の米穀を資産金貸付所の資金に組み入れ、その利潤を中泉小学校、公会堂建設その他にあてて公益に尽くした。1877(明治十一)年には資産を背景に静岡県内初の国立銀行の設立に協力した。また1869(明治二)年に出された前島密の「普済院規則」に従い、奉仕活動を行って身寄りのない生活困窮の大人と子供、身心障害者の救済に尽力した。東海道本線の着工に際しては、土地を提供し中泉駅舎(現磐田駅)に用地を提供した。 前島密と青山宙平祖父青山宙平の事績を見て行くとわずか八か月の在任であったが、前島密の影響が強かったように思料される。前島は後に日本の郵便・電話や新聞、あるいは海運・鉄道という経済社会の社会基盤を整えるのに類まれな構想力と実行力を有した。前島は青山宙平に近代精神と博愛の理念を身を以て教え、宙平はそれを生涯励み勤めたように思われる。前島密の中泉奉行としての業績を「磐田市史」通史編下巻に詳しく見てみよう。中泉奉行所の設置明治二年(1868)正月十三日、府中藩は領内十一か所に奉行・添奉行を設置した。中泉奉行所は前嶋来助(後の前島密)で、当時35歳の若さであった。「駿府各所分配姓名録」には中泉奉行 前嶋来助 添奉行 淵辺徳蔵⑴同支配調役 高橋陽之助 長兵庫 山岡精二郎景連 萩原保二郎同調役並 天野忠三郎 高林新右衛門 塚原隣平 川目健次郎 大塚東作 宮村新右衛門同定役 前嶋又三郎 取田権太郎 伊藤源十郎 脇坂米次郎同下役 渡辺庄次郎 外ニ分配士族七百十一名中泉奉行前島密をはじめ、諸役人は同月(明治二年一月)中泉に着任し、元中泉代官の陣屋で執務にあたった。前島は一般民政のほか、無禄移住の徳川藩士士族七百余名の授産の道も講じなければならなかった。 徳川家は六百万石以上に及ぶ領地を没収され、七十万石に減らされ、これまでの家臣を養うことはできなかった。徳川家は、家臣に対し、朝臣となるか、帰農帰商するか、無禄で静岡に移住するか、選ぶように通達した。 朝臣となる者は、旧禄高が下賜されたので希望者が多く、帰農帰商を希望する者は少なかった。徳川家達に従って無禄で駿河、遠江、三河へ移住した人数は、駿河府中六九四人、浜松七二一人、掛川七〇一人、遠州横須賀六八二人、赤坂六二八人、田中六五二人、相良七六〇人、中泉七二九人、参州横須賀六〇六人、小島三九九人、計六五七二人だった。藩の職務についた者は扶持米を支給されたが、勤番組といわれる移住不勤のものには十二月に旧禄に応じて扶持米が給されたが、これだけで一家が生活するのは困難であったから、内職に励まなければならなかった。前島は、配下の役人のうちから世話役を選んで、無禄士族の生計やその子弟の教育の任にあたらせた。男子は薪財を製し、女子は中泉七軒町の満徳寺本堂に勧工場を設けて綿糸を紡ぎ、縫製をし、製茶・養蚕の時期には手伝いに出て労賃を稼いだ。さらに前島は上州から労農を桑の栽培や養蚕の方法を学ばせ、自分の妻にも婦女子の指導にあたらせた。一方西願寺を仮学校として授業を行い、後に奉行所で漢学・英学・数学を教授し、武道の稽古も行った。前島自ら英学を教授した。また前島は悪徒取締りのため非人の使用をやめ、勤番組のうちから剛壮の者三十人ほどを選んで奉行所の中に捕亡方として採用するよう要望書を出した。中島救院の設置在任期間わずか八か月であった前島の業績の一つに「中島救院」の設置がある。「救院」の設置の事情は、青山宙平が明治四年(1871)十二月に書き残した「中島救院備忘録」によってうかがうことができる。前島は告諭で西洋の例をあげて、このままでは仏教がキリスト教に圧倒されると警告し、「予がいわゆる救窮助廃の院を建て、人々の心をして確乎不抜の帰依におき、その後よく護り、彼(キリスト教)をふせぐを得べきか、予が言を玩味して、仁恤救助の術を施し、一は国家の政を補翼し、一は本師(仏陀)の法を安養ならしめよ」と管内の僧侶の総奮起を促し、救院の設置をすすめた。⑶この告諭を受けた各寺院は評議の上、翌六月には中泉村の泉蔵寺(臨済宗)に仮の救院を設置した。救院の運営は、宝珠寺(保六島村、臨済宗)・万勝寺(万正寺村、臨済宗・泉蔵寺兼帯)・中泉寺(中泉村、臨済宗)・西願寺(中泉村、浄土真宗)の四か寺が「寺院惣代」として中心的な役割を担い、管内諸寺院を「寺院組合」に分けて「それぞれ交替自費」で行われた。「寺院組合」は管内の寺院を地域別に分けて組織され、「月番」で救院運営の実際を担ったが、こうした具体的な運営方法については当初より前島から「宝珠寺其他の長老に細説」されていたものであった。前島は、六月付で「普済院規則」を出し、救院運営の具体的な指針を示している。規則には、食事や衣服、日々の取扱方(起床時間や一日の時間割)、六歳以上の小児には読書・手習・算術を学ばせ、十歳以上は「課業」に従事させ製品の賃銭を支給するなど、育児・養老・授産の施設として自立の道が立つような懇切丁寧な内容が規定されている。九月に中泉奉行所が廃止され、前島が中泉を離れた後は、一時救院は存続の危機を迎えるが、明治四年三月に青山宙平が取扱方となり五百両の御下金を受けながら救院再建に尽力した。青山宙平は「右救院取締諸世話之儀、一人ニ而ハ迚も難行届候処、当時泉蔵寺兼帯住職万勝寺実禅」の「助力を以、窮民撫育の道も相立居候」と、当時の状況を記している。その後、中泉救院は明治二十一年(1888)の「備荒賑済制度」に引き継がれるまで存続し、社会福祉行政の先鞭となる事業として評価されている。このように、前島密は中泉救院の創設において、まず基本理念を示した上で、事業化に向けた道筋を具体的に提示し、既存の仕組みや条件をまとめながら新しい制度を実現した。前島は、当時を「養老院を設けて寺僧にその事を任ずる等、日夜孜々として奔走したり。未だ是を以て成功の域に達せずと雖もややその端緒を啓くに至れり。」と述懐している。⑴ 淵辺徳蔵(ふちべ-とくぞう) 幕臣。両都(江戸,大坂)両港(新潟,兵庫)開市開港延期の件で,先発していた遣欧使節(正使は竹内保徳(やすのり))に訓令をつたえるため勘定格に任命され,文久二年(1862)イギリス公使オールコックに同行して通詞森山多吉郎とともに横浜をたつ。合流後は遣欧使節の随員としてヨーロッパ各地を歴訪した。⑵ 『鴻爪痕』(前島密自伝)「遠州中泉奉行に任ず」「明治二年余は本藩より遠州中泉奉行に任ぜられたり。本職は普通民政を掌るものなれども、江戸より移住すべき七百戸余の無禄士族を統轄するは、誉有る職なると共に亦頗る苦心を要する職たり」⑶ 磐田市歴史文書館所蔵「中泉救院備忘録」明治元辰年中、駿遠両国並三河国ニおひて御高七拾万石新既御領地と相成、遠州浜松中泉掛川三ヶ所ニ各所奉行被為置候節、前島密殿中泉奉行被命、翌己年正月中御引移ニ来多数之御勤番御所置、其外御管内民政諸務御取扱候中、極貧救育之道相立候様、種々御配慮、同年五月中ニ至、御管轄地諸寺院江御告諭有之、則左ニ記ス 告諭の大意(読みやすくする) それ鰥寡(かんか)孤独、廃疾の者を救うは仁の大術、人の最も勉むべき所、朝廷既に此を高札に定めたまえり、今世上物価騰踊一日務めずば健者も凍餒を免れず、いわんや窮民廃疾の者をや、道路累々寒を人に訴え村里ひび飢えを門に号(さけ)ぶ者少ならず、予かつてより是を悲み、夙夜歎息焦心す、先日任に中泉に臨めば、去年水害尤も甚しく、目に触れすべて惨然たり、然れども新封極疲の官庫にして、祖宗以来の臣家すら各菜色あるの日なれは、是を救うの術を失せり、よつて益(ますます)是を惟(おも)うに、方今西洋諸大国、窮院廃院その他を建て不幸不便の民をして、各自意を得せしむるは、全公廩の費に非す、多くハその国篤学の教師、扶育の心を天に体し、門徒に勧めてこれを設け、以て教化を導くなり、わが国僧侶は教師なり、僧尼の多き都鄙遍く堂宇をつらね、村市到う処梵音を聞く、而してその施行の如何を見れはただその法を修するのみ、世上飢寒の民あるも或いは知らさるもののごとくす、これただ王法保護の義に差(たが)うのみならす、仏意奉崇の道にあらず、故に貴僧等よく救術の心を発し、一区の院を設け、この窮民廃疾の者を教育し、深く仏恩を蒙らしめ、厚君徳に浴せしめ、以て天地の化育に裨補(ひほ)あるよう勉めて執行これありたし、かつ聞く近時諸山の学徒、かの天主教(キリスト教)を防がんため、各講究討論して彼我の正非を吟味すと、然れども予謂(おもえ)らく、もしこの教えの流行するに当らば、決してこの儀の得と能く禦(ふせ)ぐ所にあらさるべし、如何となれは今日僧侶の門徒において、至誠愛憐の心なく、ただ争てその財を得、己か私を営むのみ、万一朝廷制度発さず、彼の教師の輩、漸々皇国に進入し、各政府の力をかり、既慣の法に倣いて、財を投(なげう)ち恩を售(う)り、下民の心を得るに至らば、幸い百説千論の後正邪判然、氷炭の如きも、衆情既に仏を去らばこれを如何ともすべきなからむ、故に蚤(はや)くこれを察し、速かに力の及ぶ所を尽し、予がいわゆる救窮助廃の院を建て、この衆生の心をして確乎不抜の帰依に居き、而る後よくこれを護り、彼を拒(ふせ)ぐを得べきか、予が言を玩味して、仁恤救助の術を施し、一は国家の政を補翼し、一は本師の法を安養ならしめて、以て造化覆裁の功を助けよ、その具論においては、事務忙劇悉くしえず、ただ大趣意を書記し畢(おわん)ぬ、これを施し行うの術、既に宝珠寺その他の長老に細説せり、なお商儀して終に宇内に及し不朽に伝うるの一大基礎堂に造立あらむを所冀(しょき)す、謹言 皇明治二巳年五月 前島密(花押) 中泉管内各宗老僧中
2021年05月29日
僕はうたよみにあらず歌を以て君の を成功する 能はず僕は文章家に非ず文章を以て君を送るの辞を する能はず僕は処世家に非ず「渡米後の覚悟」を説いて君の成功を謀る能はず僕はまた当時甚だ素寒貧なり。故に石鹸一個ののななむけを なす事能はず僕はただ僕の読めるこの数節を抽て聊か君を送らむとす蓋し僕を尤もたやすく尤も節倹なる送別法をとなせるなり。君よ僕のイングラチチウドを許せよ。 僕を先づ詩僧西行が撰集抄に云へる処を(略)ハレルヤ アーメン九日午後 薫士兄
2021年05月29日
市川紀元二中尉伝(当用漢字、現代かなづかいなど読みやすくした)p.3 生い立ち 市川中尉は明治6年2月17日、静岡県磐田郡磐田町七軒(現磐田市)に青山徹の二男として生まれた。紀元二という名はやや珍しく感じられるが・・・・・・紀元という語は明治5年11月15日太政官布告に「神武天皇御即位を以て紀元と定め」とあり、そういう折に生まれた二男というわけで命名された。p.4 青山氏の先祖は中條氏といい、三河国伊良子崎の城主をしていたが途中青山氏を名乗り、後今川氏の破る所となって中泉在の岡田へ逃れてきた。その後徳川家康に中泉へ出て本陣をする事を命ぜられ、以来庄屋を兼ねてこれを続けて来た。中尉の祖父宙平に至って同町七軒町に分家し、宙平は同町營(たむろ)ケ丘に隠居した。p.5 父徹は常に僧衣を着て、数珠を手にして奇人と称されていた。 母ふじ子は浜松の小西氏の出て、紀元二小学校時代の恩師大木文蔵氏が「母君ふじ子は小造り丸顔の方で、誠にしとやかにもありなごやかにもあり」といっておられることでその人柄を知りうる。 幼児のこんな話が伝わる。 5歳の時、大釜の中におちて上唇にひどい裂傷を負った。その時少しも泣かないで自分の手で抑え、乳母に抱かれて医者に行き、縫い合わせて帰るまで自若としていた。 少年時代について、大木文蔵氏が筆者(横山英)に与えられた書簡によると1 青山紀元二君、幼年の頃はからだは小造り、何れかと申せば丸顔にて、いわゆる明朗というふうではないけれども、いつも眉宇の間ににこやかなる様子があり、いいぼっちゃんという趣を備えていた。2 沈着にして寡言なるはその特徴というべく、世の児童のごとく飛びまわりはねまわり大声疾呼するというがごとくなくいわゆるおとなしいお子さんでした。3 少年の頃もやはり沈着寡言にてそのにこにこなる趣きは幼年の頃と変わりはなく、そのものの言いぶりその態度風采はしっかりとしていました。 14、5歳くらいのある日、弟が兄を怒らせようといたずらをして、その作っていた庭の草花を抜いてしまったが、その時フフンと笑っただけだったという言い伝えが残る。 その青山士氏の話によると、士は気短かで、兄が自宅庭内の一隅に楽しみ作っていた蔬菜などを喧嘩の結果抜いてしまった。その喧嘩のとき「自分が怒らせたのだから仕方がない」といってフフンと笑っていたという。(続く)
2021年05月27日
「物語 日本の治水史」竹林征三著p.166-169青山士の碑文大河津分水堰修復工事竣工碑に刻された青山士技師の『萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ 人類ノ為メ国ノ為メ』は下段にエスペラントが記されている。この文言の意味を青山士氏に聞いたら、それはそれぞれ自分で考えてほしいと言い、語ってくれなかったという。この碑文のバックに文様がデザインされている。上のほうは山並みのようであり、下のほうは洪水時の激浪・三角波のようである。三角波の左端にイナズマのようなものが描かれ、上のほうのバックの真ん中に円が描かれていて、その中に鳥が描かれている。三本足の烏である。よく見れば『萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ 人類ノ為メ国ノ為メ』である。下のほうのバックの真ん中に円が描かれ、その中で杵で臼を叩いている動物が描かれている。ウサギの餅つきにみえるが、ブタか牛のような大きなずうたいの動物である。この碑文の台座全体はベアトラップ堰の堰柱をデザインしてある。三本足の烏は神武天皇東征の先導役八烙烏(ヤタガラス)のようである。八烙烏は中国の神話から伝来している。中国神話では「三足烏」は太陽の象徴の火鳥である。崑崙山に西王母という神が住み、不老不死の薬を持っている。崑崙山の石室にあり、瓢箪に入っている。「三足烏」は宝物・不死の薬の番をしている鳥である。洪水神話の場合、宝物は「息壌(そくじょう)」となる。鯀(こん)が治水にあたり手にいれようとしたものである。もう一つの動物は虁(き)である。虁(き)は一本足の怪神で、おそれつつしむという意味がある。靂の字は、北、貢、止、巳、夂の合字である。月の象徴の神格の怪獣である。その声は雷の如く五百里まで届く。黄帝がその皮で鼓をつくった。楽祖である。『書、舜典』に「帝曰く、虁よ女(なんじ)に命じて楽を典(つからさど)らしむ」「虁曰く、ああわれ、石を撃ち、石をうてば百獣率い舞う」とある。虁が怒れば雷鳴とどろき、大豪雨となり、洪水を引き起こす。また一方助けを求めれば百獣を率いて大きな力を発揮する。複雑な両面を持つ神獣である。
2021年05月26日
「青山士などから寄贈された古い写真と資料」に「青山士は何故『内務省史』に記述されなかったのか」という興味ぶかい文章が乗っている。 内務省時代の土木行政は『内務省史 第三巻』にまとめられ、同書は土木行政の正史とされているという。その第八節に「土木技術の先覚者」が記され、一、古市公威、二、沖野忠雄、三、原田貞介、四、市瀬恭二郎、五、中川吉造の五人が載っている。古市公威を除く二から四は明治44年に新しく復活した内務技監の初代~第四代である。そして第五代技監が青山士である。 ところが、『内務省史 第三巻』の「土木技術の先覚者」が発見され、それには第五代内務技監青山士が「六、青山士」が載っていた。なぜ掲載されなかったのかは謎である。 なにかリトワニアの在カウナス日本領事館領事代理に任命された杉原千畝の事績を想起させる。昭和14年(1939年)に就任した千畝はナチスにおいつめられるユダヤ人にビザを発行し続けた。千畝は帰国後、外務省から独断でビザを発行したことの責任を問われ、解職された。しかしその気高い行為は時の流れを経て杉浦の勇気と人道性は世界的に評価されている。 同様に青山士は時の内務省の正史には載らなかったものの、その「人類のための工学」という気高い理想は正史の先覚者を超えて現代評価されるようになっている。「六、青山士 青山士は、明治十一年九月、駿河の中泉藩士の家に生れ、明治三十六年七月、東京帝国大学土木工学科を卒業すると、当時着手されようとしていたパナマ運河工事に従事しようと、広井教授の紹介状を持って渡米したが、着手までにはなお時日を要すると聞くと、ニューヨーク・セントラル・アンド・ハドソン・リバー鉄道に入り、測量、製図等の業務に従事した。こうして約一年近く翌三十七年六月、念願が叶って、イスミヤンカナル委員会に採用されると、直ちにパナマ現地に赴任して、悪疫猖獗を極める地峡において、あらゆる辛酸を嘗めつつ測量設計等に従事した。その間の詳細は、後日、退官後『ぱなま運河の話』と題して自費出版されている。 明治四十五年一月、厳父の大患の報を受けて帰朝し、同年二月、内務技師に採用、東京土木出張所勤務となり、荒川改修工事に従事することとなった。大正四年十月、岩渕水門工場主任となり、これを完成させ、大正七年七月には荒川改修事務所主任(所長)となった。その後、大正十五年には鬼怒川改修事務所主任を兼務して、五十里ダムの調査を実施した。 昭和二年八月、信濃川の大河津分水堰の陥没事故が発生し、この事故の責を負って新潟土木出張所長新開寿之助が退官すると、その後任を命ぜられ、大河津分水堰の復旧はもとより、北陸サ三県および山形、長野二県の直轄河川ならびに新潟・伏木・七尾等の直轄旅行港湾、加えて常願寺川筋、神通寺筋、手取川等の直轄砂防工事の施工に全力を傾注した。このようにして七年、昭和九年五月中川技監勇退のあとをうけて、第五代内務技監に就任した。 技監在任中、東北・北陸等に長く在任している主任技師と、関西・九州方面の技師との人事交流を実施し、人心の一新を図ったのは青山技監の大いなる卓見であり、その効果は大なるものがあった。 昭和十一年一月、推されて土木学会会長となったが、同年十一月には退官して郷里に帰り、中泉に居住して、静岡、富山、兵庫等各県の土木工事の顧問を依嘱され、ときどき出張することはあったが、ほとんどは自宅において静かな余生を送り、昭和三十八年三月、八十四歳の高齢を以て昇天した。没後、特旨をもって、勲三等旭日中綬章を授けられた。 青山の技術官としての功績は、岩渕水門を完成して隅田川による帝都の洪水を永遠に断ち切ったこと、信濃川大河津分水堰を修覆して後顧の憂いをなからしめたこと、そのほか立山、白山、砂防の基本を確立したことなどである。 青山は謹厳なクリスチャンで、己を律することは厳しかったが、これを他人に強いることはなかった。また、酒も煙草も好まなかったが、酒席をあえて避けることもなく、祝賀の折には、杯を二、三杯あけることもあったといわれる。また、和歌・俳句を好まれ、折にふれ自からもつくられたようである。」
2021年05月22日
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