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報徳の精神とはなにか。 「報徳」について「静岡県報徳社事蹟」では「起源」と「大意」にに分けて次のように説明する。 報徳の起源 徳川幕府の末頃、二宮尊徳は幼い頃から艱難をなめ、刻苦勉励して民力を活用し、生活を豊かにする道を窮めた。社会救済の念を起こし、空理空論を排除し、実理実行、「徳をもって徳に報いる」道を起こした。至誠・勤労・分度・推譲の四つを説いて、道徳と経済が調和し、並び行われるように図り、人を導き、世を益そうとした。その教義は一つだが、治者のために計画実施したものと、平民のために説いたものと、二つの方法がある。一つは興国安民の方法。もう一つは報徳結社の方法だ。興国安民の方法は、幕府及び諸侯のため国を治める要道で、上より下に及ぼすもの。この方法は命令的に行うもので、その効果は迅速だ。この方法は善い方法だが、治者に人物を得ない時はたちまち廃絶して永続できない。報徳結社の方法は、身を修め家庭を整える方法を説き、専ら個人を指導し、報徳社の団結の力で相互の福利社会の利益を増進する方法だ。下館藩士のため信友講を設け、また相模国片岡村の同志が克譲社を創設し、これが報徳の名を付した始めだ。団結の力により報徳の教義を調べ、本質を究明実践し、一身一家一村の福祉を増進しようとするものだ。この方法は個人相互の結合により設立するもので、興国安民の方法に比べ遅々としているが、廃絶のおそれが少ない。現在各地に設立する報徳社団は皆この系統に属するもので、専ら個人の福利増進と社会の公益を図っている。報徳の発達については、尊徳の高弟富田高慶と福住正兄等の功績が大きく、この二人は尊徳に親しく仕え、その薫陶を長く受け、報徳の教義並びに尊徳の言行などを記述し、報徳の教えの啓発に努力した。報徳の大意報徳の教説は、二宮尊徳が社会救済の目的を実現するために唱導したものが一個の道徳の教えとなったもので、上は政治の原則より下は個人の家庭経済まで含み、理論を後にし、実行を先にする。 世の中には天道と人道とがあり、天道は自然の法則で、天道に従い植物は成長し、動物は自由に行動する。しかし人類はこの自然の法則に一任できない。もし天道にまかせたままだと、人類は怠慢と悪行により生存を遂げることができない。人類が生存するためには、相互の共存をはかり、法によって善悪の標準を定め、人類の共存に害があるものを悪として除去し、利益のある方法を行うことを善行としなければならない。共存の必要上、各人個々が互いに勤労し、社会を完全にし、社会全体の福利を増進しなければならない。人と生まれた者は各自の本分を尽し勤労しなければならない。この勤労と推譲を人道における善とする。各人の勤労勤労で生産したもので生計を行い、その生計には一定の限度を置いて、この限度以外のものを生産の元資に供し、更に他人に譲渡する。これを分度・推譲という。分度は、自己の所得と消費に対して限度を加え、非生産的費用を制限し生産的資本の充実をはかるために定めるものだ。 富田高慶は報徳の教えをわけて四綱領とし、「至誠を本とし、勤労を主とし、分度を立てることを体とし、推譲を用とした」。尊徳は「報徳訓」で、自己が存在するのは父母の保護・養育による。そのまた父母は天地の令命による。私は父母・天地の賜物で、その生活は父母の財産・教養により、人がこの世に安んじることができるのは天地、君主、父母の保護による。人はその徳に報いなければならない。徳に報いるには自己の徳行で行うべきで、これが人間が人道を守るべき理由である。報徳によれば、他人に恩恵を施すことも結局自己が人と社会とに対する義務とする。報徳の根元は、道徳と経済の調和された教えであり、その活動は天地人の三つの働きに報いるに自己の徳行をもってするということに帰着する。
2022年08月03日
「片山氏決心誓書の末に添える一言 先師いわく、それ世の中、法則とすべき物は、天地の道と、親子の道と、夫婦の道と、農業の道との四つである。この四つの道は、誠に両全完全である。百事にこの四つの道を法(のり)とするならば、必ず誤りがない。予の歌に「おのが子を、恵む心を、法とせば、学ばずとても、道に到らん」とよんでいるのはこの心である。それ天地は生々の徳を下し、地はこれを受けて、万物は発育し、親は子を育てるのに損益を忘れ、ひたすら子の生長を楽しみ、子は親に育てられて父母を慕う。夫婦の間も、また相互に楽しんで今日を送る。農夫もまた勤労して、植物の繫栄を楽しみ、草木もまた欣々として繫茂する。皆共に苦情がなく、喜悦の情のみである。さてこの道にのっとる時は、商法は売って喜び、買って喜ぶようにすべきである。売って喜び買って喜ばないのは道ではない。買って喜び売って喜ばないのも道ではない。貸借の道もまた同じである。借りて喜び貸して喜ぶようにするべきである。借りて喜び貸して喜ばないのは道ではない、貸して喜び借りて喜ばないのも道ではない。百事このとおりである。それ我が教えはこの道にのっとるために、天地の生々の心を心として、親子と夫婦との情に基づいて、損益を度外に置いて、土地の潤沢と、土地の復興とを楽しむのである。それ無利息金貸付の法は、元金の増加することを徳としない、貸付高の増加することを徳とする。これは「利を以て利とせず、義を以て利とする」(「大学」の章句)と同じである。元金が増加するのを喜ぶのは利心である。貸付高が増加するのを喜ぶのは善心である。これ大善心のある者でなければ、できない業(わざ)である。尊ぶべきであると諭されたことがあった。ここに片平父子は家業を勉強し、ぜいたくを禁じ放埓を慎んで、この法を立てて、天地の功徳、皇恩、国恩に報いたてまつる。報徳の道を片平の家の主として一家の事をば客として、この主客を誤らないために作られた、この決心誓書を尊しというのも愚かである。 天地地祇八百万神(やおよろずのかみ)も、冥助し守護したまうべし。そうであれば代々の子孫たちもこの誓書お永遠に確実に守り、報徳の教えに違う事がなく、朝夕に心田の荒蕪を去って、天授の徳政善種を培養し、善行の収穫を得て、あまねく国家に及ぼし、天意を奉じ、天威を恐れて、天につかえるこの道を勤めたまうならば、代々の祖先もこの徳によって、昇天して神爵を受けたまうであろう。子孫長久家門繫栄は、疑いのないものである。以上。 明治十八年一月一日 報徳教徒 福住正兄しるす
2022年07月31日
二、松島授三郎(一)◎松島授三郎君の伝(『岳陽名士伝』) ●平民農●引佐郡●伊平村伊平君は遠江国豊田郡羽鳥村に生まれる。明治八年中、引佐郡(いなさぐん)伊平村に移り、薬舗を以て業とした。君は常に大志を抱き目前の小利をわずかなことに争うことを欲しなかった。明治十二年に同村に博徒が横行し良民を無理に誘い自分たちの仲間に入れようとした。全村の民があいついでこれに赴いて、ほとんど不良者のすみかとなろうとした。戸長の山本氏等はこれを大変に憂い、救済の策を君にはかった。君は落ち着いて言った。「そもそも民を治めるには、あたかも水を治めるようにするだけです。速やかに功を奏せんと欲すればかえって破れる憂いがあります。おもむろにこれを処置する策を講ずるのがいいでしょう」とくわしくその方法を述べた。人はみな高論に服した。のちに郷里の民を誘導するに、一に君の議に従って措置を托した。そこで君は野末某とはかって一社を創立し名づけて農学誠報社といった。野末氏が社長となった。専ら農業を勧め、道徳を講じ、風俗の淳厚をはかることを目的とした。忙しく働き勉励数年ののちに、全村百五十余戸に、だましたり争う声がなくなり、敦厚の風俗は隣村に聞こえた。ああこの際に当たって松島氏の救済策がなかったならば一郷の悲運は実に言うに忍びないことになったであろう。のちに明治十四年九月静岡県令大迫氏は、誠報社の主意を喜んで特に金円を賜った。君は常に言った。「人民の怠惰に流れるのは救済しなければならない。農業が衰えて元気がなくなるのは振い起さなければならない。人心は日にあやうく道義は月にかすかなのは振って回復しなければならない。今や社会の表面はにわかに一転をなし、欧米の文物がいたずらに皮相に入って奢ってみだらな安逸の風となっている。」君は深くそのよって起こる所を考察し、道徳仁義のもとを注入し、しきりに古くから続いている弊害の改良をさとした。同十五年九月に至って率先して西遠農学社を創立し、農学の研究をなし、かたわら道徳の学を講じて、また自邸に夜学場を起して、学生数十人を教授した。書籍器具から薪炭・灯火の費用など、すべて君の自ら調達する所であるという。初め君が西遠農学社を起すと、賛成者と共に四方を走りまわって会員を募った。到るところ、続々入社する者があった。ついに千有余名に達した。それ以来入社を乞う者が日一日に増加した。ここにおいて更に奥山・気賀の二か所に支社を設立して、連月一回定会を開いて、また各地有志家の請いに応じて、社員と共に農談を行い、ほとんど平穏無事な日がなかった。今や君の説を聞こうと欲する者は、駿河・遠江二三国の大半にわたった。その農談を開始するに当たり、来会する者は七八百名の多きに至る。一回は一回より多く、県下を風靡して隣県に及ぼすようであった。これはほかでもない。本社の組織のよろしきを得ることと、その実行のこのように顕著なことによるが、君の忍耐率先の功績は一番大きいといわなければならない。明治十六年前の引佐麁玉(あらたま)郡長・松島吉平氏は、永峯書記官と坐談し、話のついでに、この社の事に及んだ。永峯氏は大いにこれを喜び賞して、維持金として若干を寄贈した。のちに関口県令が金円および揮毫を贈った。同十九年松島氏等は有志者とはかり西遠農学社の本館を気賀町に新築し、松島氏を社長とし、連月十二日を以て会日とし、春秋の二季大会を開いて、互いに農業上の得失を討論し、学理と実際とを応用し、精を探り幽をきわめた。のち三遠農学社と改称し、社員の多いことは、現に三千名に達するという。三遠農学社の隆盛は実にこのようであった。そして君の功績は偉大といわなければならない。しかし君は自らの功績をくらましてあえてこれを辞色(言葉や顔色)に出すことなく、かえってこれが顕れることを恐れる者のようであった。君が謙譲の徳に富むことは、推して知ることができる。明治元年中、長く雨が降り続くこと数月、天竜川が決壊して横流し氾濫して水は数十の村落を浸した。羽鳥石原等の諸村が最も甚だしかった。家屋を流出して、野には青色なく、人民の半ばは家がなく、食料がなかった。みな里正小栗某の門に集まり、しきりに救助を乞うた。惨状は実に見るに忍びないものがあった。里正は策を施すことができず、これを君にはかった。君は言った。「簡単なことです。願わくはわたしに百両を貸してください。わたしがあの困窮の民を救いましょう」と。里正は言った「百金で大勢の人命を救うことができれば、どうして私が惜しむことがあろう。しかし百両を数十の貧民に分かっても、よく数日を支えることができようか」と。君は笑って言った。「わたしに策があります。憂えることをやめなさい。」すなわち下石田村の神谷某にはかって、窮民を集めて告げて言った。「時すでに冱寒(ごかん:凍り閉ざす寒さ)、年寄りや幼い者は野外で仕事につくことは難しい。壮丁(成年男子)はみな粉骨砕身してこの疾苦を免れなければならない。わたしは、今あなたがたのためにはかる。あえて背いてはならない。わたしもまたあなたがたと共に業に就こうと。衆は皆わかりましたと命を奉じた。そこで君は率先してもっことすきをとって、荒蕪の地を開拓して、旧状に復させた。そしてその労力に応じて賃金を支払って家族を養わせた。そしてまだ足らない者があれば里正に告げて米麦を給付した。このようにして、五か月がたって四月になると麦が実る秋になり、ついに困窮した民も安堵するに至った。そして里正の財を散ずることは前後数十両を出なかった。人は君の良策に驚いた。この時に当って、君もまたひとしくその災いにかかって家屋や田園すべて流失してわずかな蓄えもなかった。よく一家の生計をなげうって他人の急に赴くことは、大丈夫の心胆を有していなければ、できないところである。明治十八年七月再び天竜川の堤防が決壊して豊田郡の西部及び長上郡の村落また洪水の浸す所となった。時期は田植えの前後に接した。稲の苗は腐敗して用いることができない。君はこれを聞いて、嘆いて言った。「ああ緩急互いに救うことは人の世の通義である。まして私は農業に身をまかせる者だからなおさらだ。どうして秦の人が趙の人を見るような時であろうか」と。名倉藤三郎、早戸仙二郎、井村又三郎らの農学社員にはかって、昼夜東西に奔走して各村の残りの苗を集め、二万四千八百有余束を得て、すぐにこれを被害の村落に贈って、その急を救った。二郡の人は、君の厚い友諠に服し、仁恵に浴した、決してその小さくないことを知る。君はその性格は快活豪毅で、好んで人の良い言葉や善行を高く表彰した。常に道徳仁義を講じて、殖産興業を論じた。その談論するに当って雄弁快活で聞く者をして手が舞い足が踊るに至らしめるという人もある。君に実歴を問うと、君は笑って答えない。強いて聞くと、「わたしは一老農である。何の実際の功績があろうか。しかしある年の水災に非常の困厄に陥って、またある人のために家政をととのえて、かえって破綻を生じて失敗したことがある。」また言った。「わたしは若い時に羽鳥村にあって村民に代って中泉代官の訟庭に争ったことがあった。のちに大いにこれが非であることを悟って、総代の任を辞し、終生訴訟に関しない」などの事を述べるに止まった。かつてその功績を説かず、かえってその失敗を併列し、問う者をして恥じて赤くならさせるものがあった。しかし君の励精研磨は決して一朝一夕の習熟によるものではなく、学理と実際とによって研究した要素で深く報徳の道を実践した結果であるというべきである。君は、安政三年に相模人安居院某と浅田某について報徳の道を学んだ。のちに浅田氏去り、安居院氏がなくなった。そこでしきりに先覚者の門を叩いて、その奥義を究めることに努力した。今や君自らが報徳の道の拡張をはかり、古今の実理に鑑みて、確実動かないものを自論とした。だからひとたび君の説を聞くと、いわゆる世の風をとらえ影を捕えるような論者を恥じて死なせるに至らせるほどである。ああ、君は実に毅然とした大丈夫と称するべきであろう。
2022年07月24日
六 遠江国報徳社1 所在地2 沿革3 組織4 事業 一 貸付 二 風教 三 殖産興業 四 教育 五 難村救済5 本社支社社員数及び資産 6 創設者岡田佐平治の小伝7 現任社長の略歴 遠江国報徳社1 所在地 本部を遠江国浜名郡浜松町に置き、同国見付町〔磐田市〕及び掛川町に支部を置く。2 沿革 嘉永元年(一八四八)相模の人、安居院庄七という者が遠江に来て、始めて二宮尊徳の教えを説いて勤倹推譲の道を教えた。当時、民力は窮乏し、人情は浮薄に流れていたので、有志者がこれを憂え、いたる所で安居院を招いて結社し、この救済の道を講じた。嘉永六年(一八五三)八月佐野郡倉真村岡田佐平治、周智郡森町山中利助外六名は安居院と共に二宮尊徳を日光に訪問し、親しくその教えを受けた。日光から帰ってきて一層報徳の道を唱導した。以後毎年一回遠江各地に報徳大会を開いて、勤倹推譲の道を講じた。安居院庄七はよく各社を統一したので、結社の数は次第に増加した。文久三年(一八六三)に安居院庄七が亡くなり、報徳の講師がいないため、この招聘について、福住正兄に相談した。福住正兄は小田原報徳社員福山滝助を推挙した。滝助は専ら報徳結社を誘導したことからその数は大いに増加した。これによって各社を統轄する必要を生じて始めて遠江国報徳本社を浜松町に設置した。明治八年(一八七五)十一月十二日です。岡田佐平治がその社長で、伊藤七郎平、小野江善六、新村里三郎、名倉太郎馬、神谷喜源次等が幹事でした。毎月十一日をもって会日と定めた。集会する社員は常に数百名を下りません。同年岡田佐平治は社長を辞任し、その長男岡田良一郎が社長に推選された。後に見付町及び掛川町に分館を置いた。明治三十二年(一八九三)、民法の施行に際して許可を得て法人とした。3 組織本社は定款の規定により毎月一回社員を集合し、報徳の道義を講義し、農工商業改良の方法を研究することを目的として、本社を浜松町に置き、支社を置きます。これを町村社という。この目的を達するために土台金・善種金・加入金の制度を設けます。土台金とは、社員入社の義務金及び町村社社員の随意寄付金等より成立し、町村社設立の基本金または勧業奨励等のために支出します。善種金は社員の義務金及び町村社社員の随意寄付金により成立し、十円をもって一口とし、その証書を交付し、これを永安証券と称します。十円未満のものにはその額が十円に達すると証書を付与します。年五分の利息を付し、一口百円になれば善種応報金としてその半額を寄付者に下付し、以後百円に達するごとに善報金を授けます。この善報金は荒地の開墾、道路の改善、商業資本及び肥料買入等のために町村社の要求に応じて貸し付けるもので、その貸付方法は無利息五か年賦とし、六ヶ年目に至り恩謝金として年賦一年分を納めさせます。これを元恕金と名付けます。加入金は無利息または利付預かり金で、産業振興の資本または子孫の教育金等の名義で蓄積します。町村社においては天災地変に備え金銭・穀物の貯蓄を行う制度があります。本社には、社長一人・副社長一人・幹事二〇名あって、おのおのその事務を処理します。その他訓導二八名、農事講師七名、勧誘委員四八名、組合取締四〇名を置いて、教化及び結社の勧誘、町村社の取りまとめを行わせます。4 事業一 無利息貸付 貧村及び社員の救済または殖産興業・水利土木の資金として町村社に対して無利息貸付を行った実績は明治十一年(一八七八)より同三十六年(一九〇三)まで四万二千円余円に達します。今これを区別すれば次の通りです。二 風教報徳社は主として質朴を尊ぶために、毎月の定会に出席する者は数里の外からワラジをはいて弁当を携えて定刻に必ず到着します。その質朴の風は一見して報徳社員であることが分かります。祝儀や不幸の際には互いに倹約を尊び、相互に助けあいます。報徳社は勤倹推譲を旨とします。ぜいたくや怠惰の者及び不道徳の者もいったんこれに加盟する時は、次第にその行いを改めます。ですから結社の所在地にあっては芝居狂言等の興行があることを聞きません。裁判や訴訟は多く和解するため、社員相互の間にあっては、出訴は非常に少ないのです。また農業に努める精業善行者を賞与する規則を定め、本社で表彰式を行いました。前後七回、受賞者三一二人になります。町村社にあっては明治三十一年より三十六年末まで約三千人の多くが受賞した。三 殖産興業1 小笠郡中内田村森組報徳社社長浅羽平八及び社員の発起に係る共益製茶販売組合は社員が製造した緑茶を収集してこれを精選して箱詰にして横浜に販売する。始め森組報徳社員の製茶に限って共同販売を行っていたが、次第に拡張して一般に及んで大いに横浜貿易商の信用を博し、製茶販売の上に大きな利益を得た。明治三十六年の販売代金は十四万円以上に達し、年ごとに盛況を呈するようになる。小笠郡地方は皆共益社の法にならって各所に製茶共同販売組合を設置するようになる。これは報徳社員浅羽平八とその弟平九郎が率先尽力した所に起因します。2 掛川信用組合は遠江国報徳社長岡田良一郎が唱して創立した所です。始め同人が佐野城東郡長だった時に、報徳の方法によって勧業資金の法を設け、一口を金十円と定め、十か年出金し、五分利で利殖し一千口を募集し、荒地開墾、工業資本、道路堤防改善等公共事業に貸し付ける目的で経営し、十年で資本金はすでに一万一千余円に及びました。そして溜池費に五千六百円、道路改修費に一千三百四十円、開墾費に千四百五十円、その他勧農上に貸付を行ったもの二千六百十円で、実効ようやく明らかになろうとするに当たりその取扱いを嘱託した資産金貸付所の組織変更と共に一時解散することが止むをえなくなる。そこで掛川信用組合と改称し、資本総額を十五万円と定め、一口の金額を五十円とし、積立利子を七朱、貸付利子を八朱と定めてこれを行い、。数日で満員となる。明治三十六年十二月現在、資金九万九千三百六十三円九十一銭、組合員四百九十二人に達しています。3 見付町報徳社はこの法にならって、報徳社連合信用組合を設置して金融上非常な便利を得ています。明治三十六年十二月現在資金二万二千六百九十四円四十銭組合員二百二十一人。組長は故遠江国報徳社副社長伊藤七郎平が兼ねた。4 浜松町報徳信用組合は明治三十五年の設立で、明治三十六年十二月現在、資金四千四百三十八円七十銭、組合員二十七人皆報徳社員の発起に係るものです。5 東京小名木川の日本精製糖会社は遠江国報徳社員鈴木藤三郎の創立で、資本金二百万円を有する日本第一の精糖所です。鈴木藤三郎による特殊な発明は純白な氷砂糖です。始め藤三郎は資本金が少ない菓子商でしたが、森町報徳社に加入し商業の真理を悟って、いわゆる元値商いの法によって次第に商業が繁盛し、かたわら氷砂糖の製造に熱心に努めました。時に野州今市に二宮尊徳の法会があります。藤三郎はこれにおもむいた帰り道、宇都宮の旅宿において隣室に宿泊していた学生の化学談を聞いて、大いに悟るところがあった。これによって純白透明な氷砂糖を製造することができた。これから工場を改造し、大いにその業を拡張し、後に東京に移住して、遂に今日の大成をなすに至った。藤三郎は氷砂糖製造を二宮神霊のたまものとし、厚く報徳の道を信じ、毎月一回報徳会を小名木川の自宅に開いて工場の役員を始めとし、職工等を集めて報徳談を行い、勤倹貯蓄を奨励し、兼ねて恩恵を職工に施したため、報徳の教えはその間に行われた。藤三郎は現在同会社の専務取締役で、資産は数万円に及びます。同志者の吉川長三郎もまた同社の取締として藤三郎と心を合わせて協力しています。吉川もまた遠江国報徳社の社員です。💛やっと、「静岡県報徳社事蹟」の表をエクセルで作成しなおして、ワードに張り付けた。幾分、空白が目立つ箇所がある。写真か補注で埋めてまいろう。昨日、音楽の日で 優里が「ベデルギウス」という壮大な歌を歌っていた。ベデルギウスは、オリオン座にある恒星で、一等星。おいぬ座のシリウス、冬の大三角形を形成する。歌詞に「誰かと繋ぐ魔法」とある。「静岡県報徳の師父」シリーズが次の世代の誰かとつながるように「魔法の言葉」を唱えよう(^^)
2022年07月17日
八 報本社1 所在地2 沿革3 組織4 事業一 貸付二 風教三 殖産興業四 水利土木五 善行者賞励六 時局に対する施設5 本社、支社社員数及び資産6 創設者新村里助の小伝7 現任社長の履歴1 所在地遠江国周智郡森町四八〇番地2 沿革遠江における報徳社の始めは遠く嘉永年間にあり、当時周智郡森町の人、新村豊作が有志を集めて一社を組織した。森町報徳社がこれです。以来結社が相次いで明治初年の頃、その数は大いに増加した。しかしこれを総括する本社はなかった。明治五年に福山滝助が遠譲社を組織するにあたって、新村豊作はこれに入社した。明治八年岡田佐平治が遠江国報徳社を結社するにあたって、またこれに入社した。しかしその報徳金の取扱いに関して、滝助と佐平治と意見が異なり、ついに分離のやむなきにいたった。明治一七年佐平治の長男岡田良一郎が遠江国報徳社の無利息扱いを全廃しようとして、現社長の新村里三郎が遠江国報徳社の役員だったが反対した。明治二十八年になって遠江国報徳社が無利息扱いの全廃を決定すると、里三郎は断然意を決し同社を退いたところ、相次いで退社したものが二五社に及んだ。皆無利息扱いを本旨とするものです。そこで互いに相談して一団となった。これがすなわち報本社です。当時は純粋な社団ではなく、ただ二十五社の有志社員が報徳の道を研鑽する機関に過ぎなかった。明治三十二年民法の施行の際に社団法人の許可を受けて、以来専ら支社を管理しているところです。3 組織当社は二宮尊徳の教義を奉じ、勤倹推譲の道を教えることを目的とし、その目的遂行のため善種金、土台金、預け金の区別がある。善種金とは二宮尊徳より下付されたいわゆる善種は善果を収めるという意味で、受ける者からいえば善種金で、授ける者からいえば土台金です。すなわち本社から支社へ下付するときは土台金となるものです。土台金は社員の寄付金よりなる。預け金(加入金)とは、社員の随意に預け入れるものをいう。社に巡回講師を置いて各社団を巡視し、報徳の講義その他有益な演説講話を行う。また毎年一回社員の集会を開いて、報徳の道の研究を行い、あるいは支社で特別の事情があるものに対しては総会の決議によって本社資本の無利息貸付を行う。4 事業本社は各支社を監督し、必要に応じて、支社に対して資金の貸付を行う。支社は毎月一回社員の集会を開いて報徳の道の研究を行うのはもちろん専ら知識の交換を行い、また土台金・加入金の積立を行わせ、一つには風俗を正しくすることに役立たせ、一つには平時における殖産興業のために、社員に金融の便宜を得させることにある。なお、社員に余業として縄やワラジを作製することを奨励し、専ら分度外に零細な貯蓄を行わせている。現にこれを実行している支社は二五社に及ぶ。一 風教報徳の本旨は道徳を進めるとともに経済の発達を主とするために、講師に各社を巡回させ、報徳の道に関する講話を行い、専ら社員を導き助けることで風俗を改良し徳義心を養成することに役立つところが少なくない。二 殖産興業産業を興し農事を奨励することは主な事業でこの概況を挙げる。社長新村里三郎自ら田五反歩を出し、各種の試作を行い、成績の良好なものを移して社員に実行させ、専ら農事の模範とした。また当時挿秧法〔そうおうほう:苗のさし方〕の整理が正しくなく、除草その他に困難であることをわずらい、安居院庄七の発明に係る挿秧法〔正条植え〕の実行を企画し、定規植えを奨励した。それから広く行われるようになった。なお重要物産の一つである茶樹栽培の必要を認めて森町字森山に茶樹を栽培し茶園の模範とした。明治八年小麦の改良を図り、当時の浜松県に出願して支那種の下付を受け、これを社員に分与し栽培させたという。明治十五年農商務省の技師西沢伝次郎より、稲藁で肥料を栽培する方法を習得し、これを大門報徳社員木村某に伝えた。以来各所の農家でこの肥料が行われるようになった。地方物産を盛んにする目的で、資金一万円で物産販売委託合資会社を起こし、茶及び椎茸の売買を行った。また東京の日本精製糖会社は森町の鈴木藤三郎が創立したところですが、藤三郎は初め資力が微弱で事業を起こすのに困難だったので、新村里三郎が大いにこれを助けた。その報酬として藤三郎より当該会社の株券の贈与があった。伏間報徳社では社金三六〇余円で山林を購入し、共同事業として樹木を植えつけて、この下刈り手入れ等は社員が交互にこれを行っている。三 水利土木袋井及び掛川より森町に通ずる通路に太田川がある。これに架かる森川橋は私人の所有で橋銭を徴収したため、当時の人々はこれを不便とした。報本社社長は森町有志と協議して、金三六〇円で橋を購入し賃銭を廃止し、人々の便を図った。また小笠郡原田町より森町に通ずる里道太田川に橋梁がなく、不便少なくなかったことから、明治十二年に森町天城忠三郎等有志とともに金五〇〇円を費やして、橋梁を架設し里人の便をはかった。明治二十二年に小笠郡原田村より森町に通ずる里道里余を改築し、道路の改良を行った。その他、用悪水路の改さくを行うことが少なくない。四 賑恤(貧困者などを援助するため金品を与える)引佐郡中川村刑部報徳社員八名が貧困に陥って負債の償却の道が立たなかった。そこで同社の求めをいれて理事を派遣してその家政を整理した上で、無利息金を貸与した。今なお返済期間中です。周智郡一宮村大字五川字伏間区は戸数一三戸の小部落で極めて寒村でしたが、現社長松尾幸七は早くから報徳社員となり、明治一三年から同三四年に至るまで無利息金の貸与を受け家政を興復するとともに、部落に報徳の道を盛んに広め、山林に共同樹植を行った。また同社員松尾某は、元は多少の資産があったが家が衰退し、明治十五年になって三六〇円の負債を生じ、財産全部を売却し、なお不足したので報徳社で金一七〇〇円を貸し付けてすえおき、勉励貯蓄を行わせた。その効果は空しくなく、五年後には負債を完済し、今日では相当の資産を有するようになった。このように貧困窮乏して自立ができないものは、その状態がどうであるかによって、その救助の方法は異なるが、報徳の助けによって家政を興復したものは百余人に及ぶ。五 善行者奨励明治十九年に支社の社員の中より善行者三〇名を選抜し、各々鍬一挺を賞与した。明治三四年に支社社員より功労者五名を選抜し、賞品を贈与し、かつ創立者に銀杯を贈与した。5 本社支社社員数及び資産社 名 所在地 社員数 人 報徳報本社 周智郡森 町 80 森町報徳社 同 郡同 町 25 草ヶ谷報徳社 同 郡園田村 27 中村報徳社 同 郡宇刈村 40 園田報徳社 同 郡園田村 51 大鳥居報徳社 同 郡天方村 8 大日上組報徳社 同 郡宇刈村 24 森本町報徳社 同 郡森 町 12 森町下組報徳社 同 郡同 町 23 市場報徳社 磐田郡熊 村 12 伏間報徳社 周智郡一宮村 15 上川原報徳社 同 郡園田村 6 谷中報徳社 同 郡同 村 32 鍛冶島報徳社 同 郡天方村 17 雨宮報徳社 同 郡同 町 27 大門報徳社 同 郡同 町 22 向天方報徳社 同 郡同 町 45 土橋報徳社 磐田郡山名村 27 吉岡報徳社 同 郡原谷村 42 西山報徳社 周智郡久努西村 42 寺島報徳社 同 郡原田村 30 家田報徳社 磐田郡敷地村 12 平島報徳社 小笠郡原田村 30 豊沢報徳社 磐田郡笠西町 38 長北報徳社 浜名郡小野田村 26 中新田報徳社 志太郡大富村 50 祝田報徳社 引佐郡中川村 38 勧善社 浜名郡天神町村 24 笠原報徳社 小笠郡笠原村 26 助宗報徳社 志太郡稲葉村 28 堀ノ内報徳社 同 郡同 村 20 宮原報徳社 同 郡同 村 21 寺島報徳社 同 郡同 村 18 計 33社 同 郡同 村 904人💛当初、本社支社社員数及び資産 は省略するつもりであったが、せっかく「静岡県報徳社事蹟」を作成するからと、エクセルで作成した表を張り込んでいる。「ベテルギウス」優里の歌にある。「誰かに繋ぐ魔法」と。報徳の教えと静岡県報徳の師父の実践を、のちの世代の誰かにつながるよう、「魔法の言葉」を唱える(^^)
2022年07月16日
岡田佐平治の伝 岡田佐平治は遠江国佐野郡(現在掛川市)倉真村の人です。文化九年(一八一二年)七月生まれる。祖父の清弥の没後より一家は次第に贅沢に流れ、家は衰退した。佐平治は若くして家を継ぎ、祖業の回復を志した。家のきまりを改正し、農事に励んで、数年で家政は回復にむかい、一家が再び栄える基礎を開くにいたった。 家は代々里正(庄屋)だったが、父の清光の代に至って、これを辞した。以後数十年里正は数々交代して帳簿が乱れ、加えて古検地を経過すること久しく、阡陌(せんぱく:縦横の交差する道)乱れ、反別は符合せず、境界を争い、訴訟が絶えなかった。天保四年(一八三三年)佐平治は二十二歳の時これを改正しようと誓った。日夜非常に骨折って、まず境界を正し、村内の田畑の明細図を作り古検地と照合し、六年で完成した。以来帳簿をもって貢租の基礎とし、明治維新まで廃することがなかった。天保十年里正となり、無駄な経費は省き、河川や堤防を修理し、荒地を開拓し、住民の風俗は大いに改まった。 天保十一年(一八四〇年)掛川藩の地方用達となった。いわゆる大庄屋であり、上下の意を通じて、渋滞することをなくした。 佐平治は三十四年間倦まず怠らず務めたので上下は信頼した。 嘉永元年(一八四八年)佐平治が三十七歳のとき、報徳の教義を安居院庄七に聞いて、身を修め家をととのえる道でこれに超えるものはないと思った。子どもたちを率いて農事に励み、耕作や肥料の方法を精緻にし、稲を植えるのに縄規植え(田植縄を田の縦方向にわたし苗を真直ぐに、等間隔に植える)をし、麦を作るのに七踏七耘七糞の法を用い、勤勉と節倹を漏れなく尽くした。村民はその事業に感じて報徳社を結社してその教えに従った。そこで日掛け縄積の法を立て一戸ごとに一房あるいはわらじ一足を出させ、その積もった代金を毎年入札を行い、社員のうち農業に努めた者一名に金五両もしくは十両を無利息五か年賦で貸付けた。五年の末になって、年賦の一年分を元金のほかに出させた。これを報徳金と名付け、年々これを積んで貸付を行った。これを循環して止まないことにより、社中でその利益をこうむらない者はなかった。また社員勤業の約束を定め、五年を一期とし、地方用達の給料米六俵と庄屋の給料米五俵一斗四升を度外としてその積金に加えて、嘉永元年より同六年に至った。また別に金四十二両を善種金として出し、勤勉を助けまたその業の怠惰や廃業に陥りやすいことを憂いて同元年十二月より五年に至る間、毎朝早朝近隣の社員二十戸を寒暑や風雨を厭わず積縄を集めて回った。以来今日に至るまで怠ることがなかった。あるいは田を買って公有のものとした。その影響は四方に及ぶ。 嘉永六年八月同志者数名と二宮尊徳にまみえて親しくその教義を聞こうと欲し、相州蓑毛村(神奈川県秦野市)に行って、安居院庄七の家を訪問し一緒に出発した。当時、尊徳は幕府の命令で日光神領の復興事業にあたっていて、下野(栃木県)にいた。佐平治らは尊徳に面会し、数日口授を受け、大いに得るところがあった。佐平治が家の規則を改正する方法を尊徳に質問した時、尊徳は詳細に歳入歳出を質問し、尊徳が調製した相州大住郡片岡村(神奈川県平塚市)の大沢小才太の家則を示してこれに則らせた。佐平治はこれを写して帰り、親族と協議して、関係する掛川藩役人の監査もあおぎ数ヶ月で完成した。これを「雲仍遺範」と称する。嘉永六年から天保五年にさかのぼり二十年の豊凶を平均して中庸の分度を立てて年々米五十俵を官に上納し、六十年を継続してこれを掛川領内の困窮した民の救済と荒地開墾の資本として提供することを願い出た。領主の太田備中守はその志に感じこれを許可した。安政元年、佐平治が四十三歳の時です。また別に金百両を献金したいと願い出た。官(掛川藩)はこれを開墾救済の資金に加え、これを報徳金と称して永遠に伝えようとした。その後領主が上総柴山に移封するに及んで、佐平治の献言によって、金四百五十七両余りを新しい領地に分かち、その徳化に浴させた。その功績で帯刀を許され、五人分の給与米を給せられた。領主は領内に布達した。「岡田佐平治に難村立入ならびに荒地起き返しなどの取締りを命じた。存立の困難な難村で、荒地開墾の願いのある村々は佐平治を頼って申し出よ」。それ以来、報徳の方法を施し、資金を貸与し救済したものは佐野郡に印内村、増田村、栃沢村、飛鳥村、平野村、北西部に村上、西郷村がある。城東郡に桶田村がある。山名郡に不入斗村がある。豊田郡に篠原村などがある。その他数村の多数に及んで、佐平治の名前は遠近に伝わった。 また佐野郡領家村の困窮を救い、薄利十年賦返済の約束で百七両三分を貸付し、別に十四両三分を施した。 同郡細田・沢田の両村は土地が平らで灌漑用のため池を築くことができない。用水が欠乏するために頻繫に干ばつとなり百姓は困窮していた。佐平治は武蔵千住より井戸師招いて非地を画定して工事した。鉄の錐が八九丈地中に入ると、井戸水がほとばしり出た。村民は大いに喜んで、その水を神水と称した。それ以来井戸水の及ぶところは稲が熟し、干ばつの年でも飢餓を免れることができた。 豊田郡深見村は太田川にまたがり、堤防は破壊され、荒れた田が多く住民は生計に苦しみ、隣人と争った。領主の摂津候はこれを憂慮し、復興の方法を地方用達に命じ、佐平治がこれを担当した。住民に報徳の道をさとして、日掛け積縄の方法を教えて、公私の負債を償却させ、堤防を修築して、荒地を開墾し十年で一村はようやく昔のように復旧することができた。 安政二年掛川城の草の刈り取りの法を講じた。従来城の草刈りには領内の人民の労力を使い、千百四十人分の費用がかかり、銭九十九貫六百三十六文になる。その弊習、半人分の労力に当たらない。佐平治は人足の費用を見直し、銭七十六貫文とし、金銭を出すこととし、城西の村に受け負わせた。その銭は五十貫文、草は請負人の利益と定め、残りの銭二十六貫文(この金を四両とする)は年々積み立て、百分の五の利をもってした。官民共にその法に感嘆し無窮に伝えようとしたが、維新の廃藩と共にこの法も中止となった。 佐野郡幡鎌村は村高三百四十七石で、戸数はわずかに四十三戸、借金は三千百両、また山名郡中野村は村高五百九十三石で、戸数は九十二戸、そして借金は五千七百両の巨額にあがり、両村ともに水害・干ばつの害が毎年のように起こり、農力の衰退は極に達した。何度も救済を官に愁訴したが、維新の争乱に際し、領主も顧みるいとまがなかった。明治三年に両村ともに静岡藩の領するところとなり、佐平治に命じてこの救済策を立てさせた。佐平治五十九歳の時で二村の回復を最終の業としようと、借金の額を詳細にし、毎戸の生計の予算を立て、日掛け縄ないの法を立て、勧農の田を置き租税を免除し、別に私費を投じ、幡鎌村へ金四百三十二両余り、中野村へ金七百両余りを貸し付け、年賦返済させた。別に勧農の地の代金十五両を幡鎌村に、百十五両余りを中野村に出し譲田とした。官もまた貸与するところがあった。数年で人民の気風は一変し、生計は日に暮らしやすくなり、貢納も納期に遅れることなく、回復するに至った。この年藩庁より上下一具、ラシャ二反を賜り、翌年の正月にはまた白木綿二十反を賜ってその功績を賞せられた。明治九年朝廷は佐平治の従来の功績を評価され、三組の銀杯を賜った。 明治九年九月資産金貸付所御用係となる。いわゆる資産金貸付所は浜松県が創設し、諸種の献金などながくその功績を隠滅させないために設けたもので、報徳金もまたその基本財産の一つである。後年老年を理由に辞任した。 明治八年十二月同志とはかり浜松報徳社会議規則を定め、毎月十一日社を集め報徳の教えを講じ百穀草木培養種芸の事を研究し、また遠江国報徳会の社則を改正し創立費金六十九円余りを寄付した。 明治十一年三月病気で亡くなった。六十九歳。無息軒至誠とおくり名された。長子の良一郎が家をついだ。 佐平治は経書を掛川藩の儒学近藤某に学び、周易に非常に通じ、また兵書を海津某に受け、兼ねて弓術をよくし、ともにその奥義を究めた。
2022年07月16日
6,現任社長の履歴 静岡県小笠郡倉真村 岡田良一郎 天保十年十年二十一日生 父佐平治が二宮尊徳の報徳を唱導したので、良一郎もその門に入り、国家に力を尽くすことを自分の任務とし、各地に報徳を伝播し、よく人を感化し誘引した。資性篤実で平素は勤倹廉直を旨としてわずかな時間も無駄に過ごすことなく、朝早く起きて事務ととり、家人を励まし、節約を守ったので、皆それに風化されて家業はよく治まった。官に奉職すると、自ら一生懸命働き、言論は遠慮することはなかった。そしてまた善く人の言葉を入れた。経済に最も意を用い、官を辞して掛川銀行の頭取となると、昔銀行が信用を失墜したのを挽回して大いに世人の信用を受けるようになった。これより先、資産貸付所の恐慌を数回こうむったが、固く維持して衰退を回復した。常に書物を読むことを好んで、閑暇があれば手に書物を放さなかった。著書が数種ある。今その履歴を細別すると次のとおりです。 嘉永五年(一八五二年)遠江国佐野郡大池村後藤美之に従い数学を学ぶ。 安政元年(一八五四年)江戸に至り相馬藩家老池田胤直に従い経書を学ぶ。年十六歳。同年九月下野に至り二宮尊徳の門に入り、報徳学を修める。在学六年、その奥義を究め、報徳の道の拡張・普及に努める。文久三年(一八六三)掛川藩学校徳造書院に通学し漢学を五年研究する。万延元年(一八六〇)倉真村の里正となり、堤防を修理し、道路を改良し、大いに村内の公益をはかったので村民は悦服した。明治元年日阪宿伝馬所取締りを兼ね、大いに悪弊を矯正した。同六年二月大区画区長兼学区取締りとなる。この時に時務策数編を浜松県令に建議しまた士族授産のために浜松掛川の二ヶ所に蚕業所を起こし女子教育のために女工場を設置する。同七年浜松に資産貸付所を創設し、後に自ら総括となり、大いに同所の衰退を挽回する。明治九年三月遠江国一般地価改正に際して大紛議となった。浜松県の依頼を受けて、青山宙平と共にこの解決にあたる。同十年十月私塾冀北学舎を開き、漢英の学を授けること七年。その間、遠近より学ぶ者が至り、全科を卒業する者は少なかったが、能力を発揮して学術その他実業界において当時世に聞こえた者は少なくなかった。同年遠江国報徳社長に推薦されて、結社は日に多くなり、社員は今に至ってほとんど一万人。同十一年二月同志とはかり掛川に農学社を起こし、毎月一回勧業演説会を開いた。今に至るまで存続する。同年十一月二日 天皇陛下巡行のみぎり、父佐平治以来公益を厚く起こすことをもって天顔奉拝、羽二重一匹を下賜される。同十二年、掛川資産金貸付所に勧業資金の方法を設ける。以来興業の助けとなるものが少なくなかった。 この年三月佐野城東郡長に任ぜられた。 同年十二月私塾冀北学舎の授業の功績少なくないことを以て金一百円を下賜される。 同年同月竹山某とはかり、遠州に紡績機械を設置する。 同十三年依願本官を免ぜられ、勉励金九十円下賜される。 明治十四年一月地債修正の儀についての建議が採用され、遠江国のほとんど全部がその方法に従って治安することができた。 同十五年掛川農学社に製糸場を設置する。 同十六年七月掛川農学社に勧農俚謳集を発行し、天下の俚謳を改良しようと欲した。毎月一回発行して五十余号に及んだ。 同十八年五月、これより先、社中の有志とはかって遠江国報徳学本社建築の資本を募集し、資本が集まったので浜松見付の両所に学館を新築した。両所は毎月の集談会はこれより日にますます盛んになる。同年四月大日本報徳社規則草案をつくり農商務卿に建議する。すなわち公報号外で府県に頒布される。 この年興業意見書一部を農商務省より下賜される。 同十九年二月有志数名と共に遠江国の総代となり、地価修正の事を政府に請願し、二十年に至り特別の命を得、人民は初めてその志を達することができた。 同二十年九月西南地方を漫遊し、鹿児島に至って帰る。 同二十三年七月衆議院議員に当選する。 同二十四年十一月藍綬褒章を賜り、その善行を表彰される。 同二十七年以降、教育勧業救貧報徳道路改良のため、金穀を寄付すること約四千余円に及ぶ。 明治二十九年六月衆議院議員に再選する。 同三十年二月英照皇太后宮御大葬につき参列を仰せ付けられる。 同三十四年十一月著書治国指掌三部を宮内省に献納する。 同三十五年二月叙勲六等、瑞宝章を授けられた。 著したところの書目は次のとおりです。 活法経済論 第二回巡回紀行 郡中小孝節録 報徳富国論 報徳斉家談 淡山論集 無息軒翁一代記 吾人ニ七宝アリ 報徳教章 報徳演説筆記 治国指掌
2022年07月13日
七、岡田佐平治の伝 岡田佐平治は遠江国佐野郡(現在掛川市)倉真村の人です。文化九年(一八一二年)七月生まれる。祖父の清弥の没後より一家は次第に贅沢に流れ、家は衰退した。佐平治は若くして家を継ぎ、祖業の回復を志した。家のきまりを改正し、農事に励んで、数年で家政は回復にむかい、一家が再び栄える基礎を開くにいたった。 家は代々里正(庄屋)だったが、父の清光の代に至って、これを辞した。以後数十年里正は数々交代して帳簿が乱れ、加えて古検地を経過すること久しく、阡陌(せんぱく:縦横の交差する道)乱れ、反別は符合せず、境界を争い、訴訟が絶えなかった。天保四年(一八三三年)佐平治は二十二歳の時これを改正しようと誓った。日夜非常に骨折って、まず境界を正し、村内の田畑の明細図を作り古検地と照合し、六年で完成した。以来帳簿をもって貢租の基礎とし、明治維新まで廃することがなかった。天保十年里正となり、無駄な経費は省き、河川や堤防を修理し、荒地を開拓し、住民の風俗は大いに改まった。 天保十一年(一八四〇年)掛川藩の地方用達となった。いわゆる大庄屋であり、上下の意を通じて、渋滞することをなくした。 佐平治は三十四年間倦まず怠らず務めたので上下は信頼した。 嘉永元年(一八四八年)佐平治が三十七歳のとき、報徳の教義を安居院庄七に聞いて、身を修め家をととのえる道でこれに超えるものはないと思った。子どもたちを率いて農事に励み、耕作や肥料の方法を精緻にし、稲を植えるのに縄規植え(田植縄を田の縦方向にわたし苗を真直ぐに、等間隔に植える)をし、麦を作るのに七踏七耘七糞の法を用い、勤勉と節倹を漏れなく尽くした。村民はその事業に感じて報徳社を結社してその教えに従った。そこで日掛け縄積の法を立て一戸ごとに一房あるいはわらじ一足を出させ、その積もった代金を毎年入札を行い、社員のうち農業に努めた者一名に金五両もしくは十両を無利息五か年賦で貸付けた。五年の末になって、年賦の一年分を元金のほかに出させた。これを報徳金と名付け、年々これを積んで貸付を行った。これを循環して止まないことにより、社中でその利益をこうむらない者はなかった。また社員勤業の約束を定め、五年を一期とし、地方用達の給料米六俵と庄屋の給料米五俵一斗四升を度外としてその積金に加えて、嘉永元年より同六年に至った。また別に金四十二両を善種金として出し、勤勉を助けまたその業の怠惰や廃業に陥りやすいことを憂いて同元年十二月より五年に至る間、毎朝早朝近隣の社員二十戸を寒暑や風雨を厭わず積縄を集めて回った。以来今日に至るまで怠ることがなかった。あるいは田を買って公有のものとした。その影響は四方に及ぶ。 嘉永六年八月同志者数名と二宮尊徳にまみえて親しくその教義を聞こうと欲し、相州蓑毛村(神奈川県秦野市)に行って、安居院庄七の家を訪問し一緒に出発した。当時、尊徳は幕府の命令で日光神領の復興事業にあたっていて、下野(栃木県)にいた。佐平治らは尊徳に面会し、数日口授を受け、大いに得るところがあった。佐平治が家の規則を改正する方法を尊徳に質問した時、尊徳は詳細に歳入歳出を質問し、尊徳が調製した相州大住郡片岡村(神奈川県平塚市)の大沢小才太の家則を示してこれに則らせた。佐平治はこれを写して帰り、親族と協議して、関係する掛川藩役人の監査もあおぎ数ヶ月で完成した。これを「雲仍遺範」と称する。嘉永六年から天保五年にさかのぼり二十年の豊凶を平均して中庸の分度を立てて年々米五十俵を官に上納し、六十年を継続してこれを掛川領内の困窮した民の救済と荒地開墾の資本として提供することを願い出た。領主の太田備中守はその志に感じこれを許可した。安政元年、佐平治が四十三歳の時です。また別に金百両を献金したいと願い出た。官(掛川藩)はこれを開墾救済の資金に加え、これを報徳金と称して永遠に伝えようとした。その後領主が上総柴山に移封するに及んで、佐平治の献言によって、金四百五十七両余りを新しい領地に分かち、その徳化に浴させた。その功績で帯刀を許され、五人分の給与米を給せられた。領主は領内に布達した。「岡田佐平治に難村立入ならびに荒地起き返しなどの取締りを命じた。存立の困難な難村で、荒地開墾の願いのある村々は佐平治を頼って申し出よ」。それ以来、報徳の方法を施し、資金を貸与し救済したものは佐野郡に印内村、増田村、栃沢村、飛鳥村、平野村、北西部に村上、西郷村がある。城東郡に桶田村がある。山名郡に不入斗村がある。豊田郡に篠原村などがある。その他数村の多数に及んで、佐平治の名前は遠近に伝わった。 また佐野郡領家村の困窮を救い、薄利十年賦返済の約束で百七両三分を貸付し、別に十四両三分を施した。 同郡細田・沢田の両村は土地が平らで灌漑用のため池を築くことができない。用水が欠乏するために頻繫に干ばつとなり百姓は困窮していた。佐平治は武蔵千住より井戸師招いて非地を画定して工事した。鉄の錐が八九丈地中に入ると、井戸水がほとばしり出た。村民は大いに喜んで、その水を神水と称した。それ以来井戸水の及ぶところは稲が熟し、干ばつの年でも飢餓を免れることができた。 豊田郡深見村は太田川にまたがり、堤防は破壊され、荒れた田が多く住民は生計に苦しみ、隣人と争った。領主の摂津候はこれを憂慮し、復興の方法を地方用達に命じ、佐平治がこれを担当した。住民に報徳の道をさとして、日掛け積縄の方法を教えて、公私の負債を償却させ、堤防を修築して、荒地を開墾し十年で一村はようやく昔のように復旧することができた。 安政二年掛川城の草の刈り取りの法を講じた。従来城の草刈りには領内の人民の労力を使い、千百四十人分の費用がかかり、銭九十九貫六百三十六文になる。その弊習、半人分の労力に当たらない。佐平治は人足の費用を見直し、銭七十六貫文とし、金銭を出すこととし、城西の村に受け負わせた。その銭は五十貫文、草は請負人の利益と定め、残りの銭二十六貫文(この金を四両とする)は年々積み立て、百分の五の利をもってした。官民共にその法に感嘆し無窮に伝えようとしたが、維新の廃藩と共にこの法も中止となった。 佐野郡幡鎌村は村高三百四十七石で、戸数はわずかに四十三戸、借金は三千百両、また山名郡中野村は村高五百九十三石で、戸数は九十二戸、そして借金は五千七百両の巨額にあがり、両村ともに水害・干ばつの害が毎年のように起こり、農力の衰退は極に達した。何度も救済を官に愁訴したが、維新の争乱に際し、領主も顧みるいとまがなかった。明治三年に両村ともに静岡藩の領するところとなり、佐平治に命じてこの救済策を立てさせた。佐平治五十九歳の時で二村の回復を最終の業としようと、借金の額を詳細にし、毎戸の生計の予算を立て、日掛け縄ないの法を立て、勧農の田を置き租税を免除し、別に私費を投じ、幡鎌村へ金四百三十二両余り、中野村へ金七百両余りを貸し付け、年賦返済させた。別に勧農の地の代金十五両を幡鎌村に、百十五両余りを中野村に出し譲田とした。官もまた貸与するところがあった。数年で人民の気風は一変し、生計は日に暮らしやすくなり、貢納も納期に遅れることなく、回復するに至った。この年藩庁より上下一具、ラシャ二反を賜り、翌年の正月にはまた白木綿二十反を賜ってその功績を賞せられた。明治九年朝廷は佐平治の従来の功績を評価され、三組の銀杯を賜った。 明治九年九月資産金貸付所御用係となる。いわゆる資産金貸付所は浜松県が創設し、諸種の献金などながくその功績を隠滅させないために設けたもので、報徳金もまたその基本財産の一つである。後年老年を理由に辞任した。 明治八年十二月同志とはかり浜松報徳社会議規則を定め、毎月十一日社を集め報徳の教えを講じ百穀草木培養種芸の事を研究し、また遠江国報徳会の社則を改正し創立費金六十九円余りを寄付した。 明治十一年三月病気で亡くなった。六十九歳。無息軒至誠とおくり名された。長子の良一郎が家をついだ。 佐平治は経書を掛川藩の儒学近藤某に学び、周易に非常に通じ、また兵書を海津某に受け、兼ねて弓術をよくし、ともにその奥義を究めた。💛7月10日、仕事帰りに駅からの帰り道でばったりAさんに出あって声をかけられた。「以前この近くでお見かけして、そうかしらと思ってたんですけど」もう40年近く前に職場で一緒に働いていた同僚の女性である。その時代に、図書室で佐々井典比古氏の「訳注報徳記」を読んで二宮尊徳の偉大さを知り、今に至る。実に40年近く報徳に親しんでいることになる。岡田佐平治「佐平治三十七歳のとき、報徳の教義を安居院庄七に聞いて、身を修め家をととのえる道で報徳の道に超えるものはないと思った。」報徳の道はいわば家の土台石である。「報徳の師父」たちはこれを生き方の基本において、「これを循環して止まな」かったのである。
2022年07月12日
川の突堤でスロースクワットと片脚立ち。突堤の繋ぎめでひさしぶりに蟹さんを見た。生きていること、今生きているということ、今生かされていること。帰ったら『静岡県報徳社事蹟』の表に引き続き取り組もう。二 磐田郡今井村深見〔現袋井市深見〕は、嘉永の頃、風俗がぜいたくとなり、遊惰に流れ、嘉永五、六両年(一八五二、五三)干ばつや凶作が続いて、民風・村俗は大変乱れました。加えて嘉永七年(一八五四)一一月にこれまでなかった規模の大地震があり、村内の家は皆倒壊し、太田川の堤防は崩れ、土地は凹凸を生じました。引き続いて安政二、三年(一八五五、五六)の両年ともに太田川が出水し、堤防の破壊は数か所に及び、濁水は波をうって耕地に浸入し、良田はたちまち荒地となり、作物は腐敗し、天災を被ること前後六年に及びました。村民は食糧の確保に苦しみ、やむをえず出稼ぎしました。領主はこれを憂えて、倉真村の岡田佐平治、垂木村の弥五兵衛に命じて、二宮尊徳の仕法に基づいて善後策を講じさせました。佐平治は終始深見村に出張し、いろいろ調査を行って、ほとんど寝食を忘れて日夜努力しました。農業奨励の法を設け、出精者を投票によって選んで表彰し、困窮した人民を救助し、負債米三三五俵、借金一五八九両余りの償還方法を立てました。その期間は、文久元年(一八六一)より明治二年(一八六九)の十か年として、村民より請書を徴し、勤倹貯蓄を行わせました。明治二年(一八六九)には負債はすべて償還し、四三九両の余剰を生ずるようになりました。これを一村の基本金として、以後専ら利殖をはかり、明治二十一年(一八八三)には同郡大藤村に三十三町余の山林を購入し一村の共有とし、そのほか堤防・道路の修繕など公益事業に費消した金額も少なくありません。明治三十六年七月現在で一千九百円二十二銭が現存します。これは皆報徳社の恩徳にほかなりません。このほか備荒貯蓄として金二百二円十八銭四厘あります。明治十九年に利倍増殖の貯蓄法を設け、これを実行し、明治三十六年十二月に至って予定金額に達したので、明治三十七年一月二十日、村民百四十二人名に千五百円を割り渡しました。
2022年07月02日
⑤ 難村救済⑴ 山名郡堀越村〔現袋井市堀越〕は、村高八八五石五斗一升六合、田の反別八〇町六反八畝一三歩、畑の反別一〇町一反九畝二二歩、戸数一〇四戸人口三七五人。弘化、嘉永の頃より村政がはなはだしく乱れ、風俗は頽廃の極に達してしまいました。当時、堀越村の村民は年貢が納められないため、村高の過半を地頭渡邊家へ土地を没収されていました。そのため農業は日々に衰退し、村民は不義を行っていました。村内に生産した米麦は村民の需要を充たすに足らないため、村民は連帯して高利の米を借り入れ、その返済は秋の時期、米価が下落の時に行うために、米一俵の元利金に当てるのに一俵半ないし三俵余も売却しなければならないようになりました。その時の名主役永井五郎作がこれを憂い、岡田佐平治について教えをこい、一村の興復をはかるには、報徳社を起すことが急であると感じて、駿河の人荒井由蔵を招いて村民を永井五郎作の家に集めて連日連夜報徳の道義を聞かせました。その結果、ようやく四二名の者が議定書に調印して結社を見るにいたりました。明治五年(一八七二)二月のことです。その社員数は一村の戸数より計算するとまだ半数に達していませんでしたが、村役人を始め主だった者が加盟したことから、一村に対して優勢で百事報徳社の決議を行う事ができるようになりました。従来村費は村役人の専断によって不正の費用を徴収し、村民の衝突を生じて常に村内の不和を醸成していました。永井五郎作は、これを憂い、一方には地主の公選により数名の村総代を設け、村費の賦課に立ち合わせ、費目の明細録を調製し、各地主に配布して疑心を無くさせました。他方では村費の大節減を行い、土地の負担を軽減し、その徴収日を一日間と定めて厳格に実行しました。費目が明瞭となり、土地負担が減少したことから、村民は大いに満足しました。これは岡田佐平治の教訓を実行したものです。また短期の年限を定め、すべて飲食の失費を節倹すべきだという教えに基いて、最初五か年を期して、飲食に関する倹約を実行しました。その一、婚姻披露の際に祝い酒を供することを厳禁する。その二、葬式の際に酒飯を供することを厳禁する。その他、あぜ道の改築、水路の開さく等を企画し、耕作灌漑の利便を得させ、大いに農業改良の道を講じて、かたわら農業に精出す者に農具を与えて表彰しました。また永井五郎作は、私田二反余歩を農業に出精する者に無税で耕作し収穫させるなど、農業の奨励法を行いました。このために村の人気は日に順調で良好に向かい、社運は年をおって隆盛におもむきました。明治三二年(一八九九)耕地整理を実行させたので、わずか三年間で土地台帳の整理も完成し、大いにその効果をあげるに至りました。また善業者賞与及び天災地変等非常の災害をこうむったものの救済並びに社員が死亡した際における祭祀料の贈与に関する規定を設けた。明治三十六年に至るまでに支出した金額は次のとおりです。
2022年06月26日
(六) 遠江国報徳社③ 殖産興業⑴ 小笠郡中内田村森組報徳社社長浅羽平八及び社員の発起に係る共益製茶販売組合は社員が製造した緑茶を収集してこれを精選して箱詰にして横浜に販売する。始め森組報徳社員の製茶に限って共同販売を行っていたが、次第に拡張して一般に及んで大いに横浜貿易商の信用を博し、製茶販売の上に大きな利益を得た。明治三十六年の販売代金は十四万円以上に達し、年ごとに盛況を呈するようになる。小笠郡地方は皆共益社の法にならって各所に製茶共同販売組合を設置するようになる。これは報徳社員浅羽平八とその弟平九郎が率先尽力した所に起因します。⑵ 掛川信用組合は遠江国報徳社長岡田良一郎が唱して創立した所です。始め同人が佐野城東郡長だった時に、報徳の方法によって勧業資金の法を設け、一口を金十円と定め、十か年出金し、五分利で利殖し一千口を募集し、荒地開墾、工業資本、道路堤防改善等公共事業に貸し付ける目的で経営し、十年で資本金はすでに一万一千余円に及びました。そして溜池費に五千六百円、道路改修費に一千三百四十円、開墾費に千四百五十円、その他勧農上に貸付を行ったもの二千六百十円で、実効ようやく明らかになろうとするに当たりその取扱いを嘱託した資産金貸付所の組織変更と共に一時解散することが止むをえなくなる。そこで掛川信用組合と改称し、資本総額を十五万円と定め、一口の金額を五十円とし、積立利子を七朱、貸付利子を八朱と定めてこれを行い、。数日で満員となる。明治三十六年十二月現在、資金九万九千三百六十三円九十一銭、組合員四百九十二人に達しています。⑶ 見付町報徳社はこの法にならって、報徳社連合信用組合を設置して金融上非常な便利を得ています。明治三十六年十二月現在資金二万二千六百九十四円四十銭組合員二百二十一人。組長は故遠江国報徳社副社長伊藤七郎平が兼ねました。⑷ 浜松町報徳信用組合は明治三十五年の設立で、明治三十六年十二月現在、資金四千四百三十八円七十銭、組合員二十七人皆報徳社員の発起に係るものです。⑸ 東京小名木川の日本精製糖会社は遠江国報徳社員鈴木藤三郎の創立で、資本金二百万円を有する日本第一の精糖所です。鈴木藤三郎による特殊な発明は純白な氷砂糖です。始め藤三郎は資本金が少ない菓子商でしたが、森町報徳社に加入し商業の真理を悟って、いわゆる元値商いの法によって次第に商業が繁盛し、かたわら氷砂糖の製造に熱心に努めました。時に野州今市に二宮尊徳の法会がありました。藤三郎はこれにおもむいた帰り道、宇都宮の旅宿において隣室に宿泊していた学生の化学談を聞いて、大いに悟るところがありました。これによって純白透明な氷砂糖を製造することができました。これから工場を改造し、大いにその業を拡張し、後に東京に移住して、遂に今日の大成をなすに至りました。藤三郎は氷砂糖製造を二宮神霊のたまものとし、厚く報徳の道を信じ、毎月一回報徳会を小名木川の自宅に開いて工場の役員を始めとし、職工等を集めて報徳談を行い、勤倹貯蓄を奨励し、兼ねて恩恵を職工に施したため、報徳の教えはその間に行われました。藤三郎は現在同会社の専務取締役で、資産は数万円に及びます。同志者の吉川長三郎もまた同社の取締として藤三郎と心を合わせて協力しています。吉川もまた遠江国報徳社の社員です。⑹ 掛川農学社は岡田良一郎外数名が発起する所で、明治十一年に開設しました。道徳を勧め農事を奨励することを目的とします。良一郎がその社長です。毎月第一日曜日を定例日とし講話会を開き、風俗改善及び農事改良の講演をします。その他田畑試作農産物共進会(毎月一回定会)牛耕、塩水撰種法、種苗交換は勿論勧業義田法、農家年中行事表、勧農俚謡集会等の書籍を出版して、これを会員に頒布し、その風俗及び農事の改良に利益する所が少なくなかった。明治三十五年四月財団法人の認可を受けて遠江国報徳社と協議合同して公会堂を建設し、明治三十六年四月落成式を挙行した。浜松第一館、見付第二館と併立し、これを報徳社の本社と定めた。その他遠江国周智郡森町城下、同国榛原郡静波、駿河国志太郡青島、三河国八名郡豊津に各出張所を設置して毎月一回講演を行う。掛川公会堂建築費一万千六百二十九円十七銭三厘、静波出張所建築資金二千三百二十円、外に農学社資金一千三百二十五円合計金一万五千百八十四円十七銭三厘はすべて寄付による金円です。
2022年06月25日
三遠農学社を受け継ぐ人々―山崎延吉 山崎延吉は愛知県立農林学校の初代校長である。愛知県の安城市一帯が「日本のデンマーク」と呼ばれるほど農業先進地になったのは、農業改善に力を尽くした山崎の力が大きい。 山崎は大正七年、三遠農学社社長となった。愛知県に三遠農学社主義が普及するのに山崎の功績は大きい。『』に「三遠農学社との関係」が載る。三遠農学社の成立の由来とその後について述べる。「三遠農学社は、その成立は古く、静岡県と愛知県にわたり、報徳を奉ずる民間の有力者、篤農家をもって作った団体である。農事の改良、人心の変化、農村の振興のために多大の貢献をしている。山崎は社長として長年努力をはらった。 三遠農学社はその始め、農学誠報社といい、ついで西遠農学社と呼び、後に三遠農学社と呼ぶようになった。その主意は安居院庄七と成田勇次郎の報徳の遺教である。 初め両氏は遠江に来て、二宮尊徳の教えを伝え、松島授三郎は多年これに師事し、明治十二年八月農学誠報社を創立し、同志を集めて報徳と農業を講習した。明治15年組織を改めて西遠農学社と呼び、社員の内外を問わず、広く各地に農談会を開き、農業を勧め、風俗を篤からしめた。次第に盛大となり、明治20年4月規模を拡大して、三遠農学社と称するにいたった。 三遠農学社の事績には推称すべきものが多い。特に明治15年より巡回員を派遣し、各地に農談会を開くこと92回、毎年100回以上150回、この他三河、伊勢等にも巡回員を送って農談会を開き、そして明治19年には、広く公衆に図書を貸与して、奨学修養に役立てた。この年の9月、社長野末九八郎が死去し、松島授三郎が社長となる。明治20年には、米麦試作委員を置いて、その結果を報告させる事として、更に麦・茶・繭の品評会を開催した。明治22年天龍川の堤防が破れ、洪水が氾濫して種もみを失ったので、広くこれを募集して75俵を得て、更に寄付金も得て、罹災地にわかち、明治24年には、三遠農学社耕作法を定め、米麦栽培の方法を示して、農事の改良をはかるとともに、伊勢、三河等にも招かれて、毎年農談会を開いていた。その年の社員の所在数は、肥後、佐渡、越前、美濃、尾張、信濃、伊勢、三河、遠江、伊豆、駿河、相模、武蔵にわたり、非常に発展して社員数1万有余に及び、各地に支社を置くことになった。すなわち三河に宝飯支社、及び東三支社、駿河に西駿支社等である。明治31年社長松島授三郎が死去し、渡瀬友三郎が社長となり、遠州に中遠支社、遠江に西遠支社の創立があった。全社員二万人を超えた。大正6年社長渡瀬友三郎が死去し、大正7年9月山崎が社長として推薦された。大正7年、遠州に大正支社が設立される。この所に現在活動する支社の名前をあげれば次のとおりである。東三支社(愛知野田)支社長 河井要太郎中遠支社(静岡中泉)支社長 金子 律平大正支社(浜名豊西)支社長 袴田鹿太郎 西遠支社(浜名芳川)支部長 水谷 熊吉 このように三遠農学社は、古い光輝の歴史と業績を持ち、毎年支社及び本社の大会が開かれ、互いに研究し、協力し、農事の発達、農村振興のために全力をあげている。」「三遠農学社の今昔 天地の恵みに感謝し、深い宇宙の生命に触れて農業を愛し、苦心の経験談を歓迎されては、手弁当に農談会に奔走した、隆盛の三遠農学社も、大正の初め頃よりやや衰運をみた。それは時代の変遷によるもので、各地に系統的農事は組織だち、学理を基にした農事の改良が主唱され、人は実利主義にめざめて労働を忌み、堆積肥料が金肥万能となり、産業の経営も変化した。人は農民の道を重んじないで、経済主義を第一とした。しかし金肥万能が土壌を酸性にして作物の生育を害し、病害虫を増やすように、実利一点張りの個人主義が農村を荒廃させた。天地の心を忘れて、農民の精神的基礎が壊れたことが、農村の悲境である。人心は萎縮し、農村は行き詰った。生気ある野の力に、尊農愛村の大義は守られる。今や農民は天地の道を道とする農民の道にめざめなければならない時がきた。。このように三遠農学社社長山崎先生は、農民の道の自覚を叫ばれていた。」
2022年06月25日
三遠農学社の八老農 松嶋授三郎 『引佐麁玉有功者列伝』「三老農伝」に松嶋授三郎の事績を述べられている。「松嶋授三郎は遠江国豊田郡羽鳥村の人である。明治8年に引佐郡伊平村に移住する。家は薬屋を生業としたが、その志は通常の商人の類ではなかった。明治12年伊平村に博徒がのさばって博打を行い、村の良民を誘って惰民の巣窟となるありさまだった。村長の山本宗次郎は松嶋に相談した。松嶋は「民を治めるには水を治めるようにするべきだ。速やかに効果をあげようとすればかえって破れるおそれがある。徐々に計を実施するほうがよいでしょう」といってその方法を述べた。村長はその計に感じて、村民を導くことを松嶋に託した。松嶋は野末九八郎とはかり農学誠報社を組織し、野末を社長にした。社は専ら農業を奨励し、道徳を講じ村民を教化することを基本とし、数年力を尽くしたところ、村民はついに誠実で人情に厚い風俗にかえった。明治14年9月には大迫静岡県県令より金円を賜って、誠報社の功績を称した。松嶋は常にこう思った。「人民が怠惰に流れれば救わなければならない。農業が振るなければ振興しなければならない。古語に『人心これ危うく、道心これ微かなり』という。道心は回復しなければならない。これは皆な偶然に起るではない。その由って来る所について計を施さなければ、よい結果を観ることができない」。そこで明治15年9月に率先して松嶋の居村伊平村に西遠農学社を組織し、農学の研磨を行うとともに道学の講究を兼ねた。松嶋はまた自邸の内に夜学を開き、学生数十名に教授した。書籍器具その他の費用はすべて松嶋が支弁した。始め西遠農学社を起そうとして賛助者と共に社員を募ると続々と賛成を得てその数は既に千有余名に至った。なお加盟を願う者は、日一日と増加したため、更に同郡の気賀・奥山の両所に支社を設け、毎月一回常会を開いた。また各地有志者の要求で松嶋は社員を率いて出張した。今や松嶋が説くのを聞こうとする者は、遠州の佐野・周智・豊田・長上・敷知・麁玉・引佐の七郡及び三河の八名・設楽二郡にまたがり、その開会にあたって来会する者は、多いときは七、八百名以上、少ないときも百名を下らなかった。明治16年11月に松島十湖は公務のため静岡におもむいて永峯大書記官に面会し、話のついでに農学社の事に及ぶと永峯は大変喜んで維持金を賜った。関口県令も金と直筆の書を賜った。ああ西遠農学社がよい結果をもたらし、栄えたものは松嶋が率先し鼓舞したからだ。しかし松嶋はこれを自負する色が無く、かえって自分の功績が現れることを恐れるようであった。松嶋の謙譲のほどを察するべきである。 これより先、明治元年数月雨が続き天竜川の堤防が決壊し、数十か村が氾濫し田圃家屋が流された。豊田郡中善地羽鳥・石原はその被害がひどかった。石原村は耕すに土地なく、食べるに食物なく、活路を失する者が全村中半ばに至った。里正小栗清九郎の門に哀れみをこうた。小栗は松嶋に相談した。松嶋「百金を私に貸せ。私は困窮した人々を仕事につかせよう」。小栗「百金で多くの人の命を救えればどうして惜しもう。しかし人々に分配すれば一二両に過ぎない。どうしてその凍えや飢えを救うことができよう」。松嶋「私に策がある。憂えるな」。松嶋は下石田村の神谷與平次とはかり、人々を集めて言った。「今寒い時で老幼は野外で仕事ができない。壮者よ、今困窮に逢う、非常の勉励をすべし非常の艱苦を忍ぶべし。私はいま衆のために一策がある。私が行うところにならって背いてはならない」。松嶋は自らもっこをにない、水害にかかった荒地の起き返しに従事した。人々と困苦を共にし、終日安んじなかった。その得た賃金で各々家族を養わせた。翌年4月麦が熟し、人々の困窮を救うことができた。明治18年7月風雨が暴烈で数週にわたり、天竜川の堤防が決壊し、豊田郡西部及び長上郡の村落は浸水した。田植えの時節で、水が減じても苗は腐敗し生育しない。松嶋は言った。「ああ共に救いあうのは人生の通義である。私は農業にまかせる者で傍観する時ではない」。名倉藤三郎・早戸仙次郎・井村又三郎等と西遠農学社の社員にはかり東奔西走し昼夜の別なく各戸の残苗を集め、二万数千把を得て、すぐに被害村落に贈ってその窮を救った。氏の人となり勇壮活発、人の良い言葉や善行を挙げ、道義を講じ、殖産興業を談じた。雄弁で聞く者は感嘆した。人がその経歴を問うと笑って答えない。私はある人の家政が退廃するのを見て挽回しようとして失敗した。私が羽鳥村にいた時、全村に関する訴訟があり総代に選ばれ中泉県令の庁に到り悟る所があり、総代の任を辞し、以来訴訟の事に関わらないなど数事を語るのみだった。松嶋が自任し務める所は報徳の道と農桑を世に拡張せんとするにあった。」
2022年06月22日
三遠農学社の八老農 夏目喜平、平岩佐平夏目喜平は、三ヶ日町鵺代(ぬえしろ)の隣海院の境内に墓と顕彰碑がある。老農 夏目喜平墓 (顕彰碑) 明治二十九年四月十二日 三遠農学社建之老農夏目喜平翁は文政十一年(1828)当地鵺代村に生を受け幼少の頃より学術修行に励まれた、青年期には諸国の情勢を見るために、西国金比羅・大峰・高野の諸山と、西国の諸国を五十五日間をかけて歴訪し地方の人々が艱難困苦している様子を見聞、農事の大切さを感得し、村人にも農業にいっそう精進することを奨めた。成人してよりは生来の才覚と努力によって田畑の改良を手がけ、明治八年より明治十四年にかけて、柑橘苗四百数十本の植樹を行った。大規模に、しかも畑に柑橘苗を植えたのは当地区内では最初のことであったと伝えられている。その後、明治十八年には、西遠農学社大会に於いて、篤農家の一員として郡長表彰の栄誉に浴した。喜平翁没(明治二十二年)後その業績を称えんとして三遠農学社の社員によって当隣海院境内に顕彰碑が建立されたのである。この度隣海院境内整備にともない、老農の末裔等志を合わせその徳を後世に伝えたく此処に移設した。 平成二十年(2008)十一月吉日 平岩佐平(佐兵衛)は遠州七人衆と二宮尊徳との面会のきっかけを作った。「遠州七人衆桜秀坊を訪う」鈴木文雄(「かいびゃく」昭和33年9月号)に平岩の姿が活写されている。 弘化3年(1846)、相模国大山の人浅田勇次郎が、遠州下石田の神谷与平治に出会ったのを機として翌4年に下石田報徳社が生まれた。1年おいて嘉永元年掛川倉眞村の岡田佐平治が勇次郎の兄、安居院庄七に会い、その年12月に牛岡報徳社が結成され、安居院と佐平治の推進力で嘉永2年には、袋井高部藤左衛門を中心に、高部報徳社が、その年に気賀町恩田彦右衛門、升田兵左衛門を中心に気賀社が発足した。更に嘉永4年周智郡片瀬報徳社、周智郡の平田社が結成され、翌5年安居院庄七は森町に滞在しここに報徳社を結成した。遠州における報徳結社は安居院庄七の指導の下、着々結成されその効果を上げていたが、遠州報徳社が二宮尊徳の直接の指導下にないことは報徳連中に一抹の寂しさを与えていた。一度二宮先生に会い、じきじきの指導をうけたいというのが遠州報徳連中の念願であったのである。 嘉永6年の正月。昨5年の年末から、江戸の主人が、大病であるとの報にあとを頼んで出府していた成瀧村の平岩佐兵衛は、二宮尊徳が当時相馬屋敷に逗留中であることをきいて郷里の報徳連中への土産にもと、二宮先生の指導をうけたいと相馬屋敷に足を運んだが、「年末多事にして取込中に付き差し戻し」と面会を許されなかった。嘉永6年正月、佐兵衛は帰国を前に二宮先生に面会したいと3度目の相馬屋敷訪問を試みた。当時尊徳67歳、日光神領復興の命を受け畢生の努力をつぎこまんとしていた時である。平岩「再三、二宮先生にお目にかかりたく伺いました。遠州の平岩佐兵衛と申す者ですが、明日は国もとに帰りますので、ほんの少々の間でもお話しを伺いたいと重ねてお願いに参りました」受付「先生はこのごろ大変お忙しいので、今日も外出中で、お留守でございます。まことにお気の毒ですが」「あっお帰りのようです」「先生この方が昨年の暮から再三見えられて是非先生にお目にかかりたいと」二宮「どちらの」平岩「遠州成瀧村の平岩佐兵衛です」二宮先生は佐兵衛の遠州の報徳連の話を聞いて「遠州にはかねがね私の報徳の道を説くものがあるということは聞いていたが、詳しい事がわからないし、誰がその先達であるか分からなかった。今日は様子はわかったが、私の説く報徳の道には事と次第というものがある。ただの口説法だけで何もわからない百姓に説教をきかせて、かえって世の人をあやまることにもなりかねない。実はそれを心配していた。遠州の重だった世話人に、一度そろって出てこい」と言われた。語り手 平岩佐兵衛の帰りをまって嘉永6年春、高部村、高山藤左衛門の所で、遠州報徳社の大参会がひらかれ、席上、平岩は江戸での二宮との面会の模様を話したのである。岡田 皆の衆、今日は二宮先生のお言葉により遠州報徳連中を代表して、先生の所にゆくものを定めたいのだが、やはり各地からの代表を出すことがよいと思うが、どうでしようかなあー語り手 かくて協議の結果、影森村の内田啓助、倉真村の岡田佐平治、気賀町の升田兵左衛門、同じく松井藤太夫、森町の中村常蔵、山中利助、この人は後に新村をついで新村利助となる、下石田村の神谷久太郎の七人が選ばれ、これに安居院庄七を加えて8人が二宮尊徳を訪れることになった。我々は、この七人を遠州七人衆とよぶ。
2022年06月19日
三遠農学社の八老農 野末九八郎、井村又三郎 三遠農学社の八老農、野末九八郎、平岩佐平、井村又三郎、名倉藤三郎、夏目喜平、神谷與平治、荒木由蔵、松島授三郎のうち、野末九八郎については三遠農学社の前身となる農学誠報社を松嶋授三郎と共に立ち上げて、初代社長となった以外は現在のところ不明である。井村又三郎には次の著作がある。1 自家経済之予算 図書 井村又三郎 著 (井村又三郎, 1890)2 麦の説明 図書 井村又三郎 著 (井村又三郎, 1890)また「引佐麁玉有功者列伝」(国文学研究資料館)の「三老農伝」において井村又三郎が顕彰されている。井村又三郎は「貯穀除虫方法」の後書きに「右は多年実験した所で報国の一端ともなさんと欲する故に今回印刷に付し有志者にわかつ」と記した。又三郎はこのように自ら実験し効果があると認めれば直ちにこれを人に伝え、あるいはこれを筆記して世の人に頒布した。井村は松嶋授三郎と相談し明治15年西遠農学社結成に尽力した。その定会の日には必ず自ら培養した穀類や野菜などを携えて出席し成熟の良否を示し培養の方法を説き、あるいは農具の便利か有益かを弁じ、満場の人々を感動させた。又三郎のこうした農事に精励する姿勢は遂に引佐郡の農民の旧癖を一変させた。 井村又三郎は文政四年二月に引佐郡刑部村に生まれ、少年の頃から六十の今日に至るまで、必ず農事改良に尽力したとある。 「引佐麁玉有功者列伝」(松島吉平著)の「三老農伝」において、井村又三郎について次のように顕彰している。読みやすくして紹介する。「井村又三郎は遠江国引佐郡(いなさぐん)中川村の人である。専ら心を農事改良に注いで、かつて人に語って曰く、業を為すは器の便否を考えなければならない。そうであるのに、わが郷里の農民は三叉鍬及び平鍬を用いるほか、別に耕うんの法が無いのではなかろうか。ああ僅々たる人力のみをもって耕うんを業とすれば、いずれの日か農事盛大の時を見るであろう。農事をして盛大ならしめようと欲するならば、牛馬耕に超えるものは無いと。断然志を起し、牛耕を試みたが、果して便益は少なくなかった、ここにおいて人は皆な氏にならって牛耕を行うに至った。引佐郡にこの事あるは氏をもって嚆矢(こうし)とする。氏はまた土地が瘦せ、収益の無い土地に堀り貫き井戸をうがって、畑を田に応用することを工夫したが、その収穫の量は、良田に譲らないだけでなく、米の品質も良田にまさっていたという。始め氏がこの説を唱えたところ、その説の新奇であることから、聞く者は皆なこれを信じなかったが、その収納を観て、賛嘆しない者はなかった。氏はまた種子の精選と交換とは農家の緊要不可欠の件であることを信じ、同業で会う機会があればこれを説いた。人々はまたこれを知らないわけではなかったが、その煩雑さを厭い、これを実施する者はほとんど稀であった。氏は非常に活発進取の気象に富んでいて、これを見て思うに、種子精選は怠惰な農民が容易に行うことができないところである。私が自ら多量の種子を選んで、これを人に与えたほうがよいと。そこで自ら選んだ種子を数年間あるいは与え、あるいは交換したが、その実益は少なくなかった。そこで遂に従来の惰農者をしてその非を悔い、大いに奮起させたという。 引佐郡気賀村地方で有名な物産である琉球表は、その製造が次第に粗悪におもむいていた。氏は深くこれを憂えて、明治15年4月中、その由来と培養製造の利害得失を詳しく論じ、これを印刷に付して、四方の有志者に配ってまわった。また穀類の虫の除去方法には、近来いろいろあるが、簡易でしかもその効果を奏するものが無かった。そのため氏はその方法研究に心を砕いて、多年の経験を積んで、一つの方法を発明した。そしてこれを世間に示すため、その本を数千部印刷し、これを有志者に配布した。氏はこのように自ら実験して有効と認めることがあれば直ちにこれの記述をもって人に伝え、あるいはこれを筆記して世の人に頒布するなどした。いやしくも愛国の心情が厚くなければできないところである。氏はまた松嶋授三郎とともに明治15年中、西遠農学社を結社する事に奔走尽力した。その定会日には必ず自ら培養する穀物野菜の類いを携えて出席し、成熟の良否を示し、培養の方法を説いて、あるいは農具の便否得失を弁じ、満場の人をして感動させた。ああ、氏の農事精励の至れる所、遂に引佐郡の農民をして旧僻を一洗させたという。」
2022年06月19日
二 三遠農学社 「浜松市史」三の「第三章 町制の施行と浜松町の発展 第二節 報徳運動の推移 第二項 浜松と報徳の人たち」のなかで、「松島授三郎 西遠農学社 三遠農学社」という項目を設ける。 松島授三郎(明治三十一年没、六十三歳)、豊田郡羽鳥村の人。明治元年(一八六八)天竜川の堤防が決潰すると、下石田村神谷与平治と相談し、荒蕪地をよく開墾した。八年引佐郡(いなさぐん)伊平村に移り、十二年、野末八郎を社長とする農学誠報社を設け村民の風俗の矯正に力を尽したが、十五年居村に西遠農学社を創立、夜学部を設け、自弁で農学の研磨を主とし、かたわら道学を講じたが、入社を乞うもの千余名に達したので、気賀、奥山に支社を設けた。十九年西遠農学社本館を設立、その説を聞くものも次第に増し、遠州において七郡、三州において二郡に及んだ。三遠農学社と改名、社員の数三千余名に達したという。西遠農学社が明治十八年十一月四日呉松村鹿島神社で催した農談会は、出席者二百余名、松島授三郎の社側朗読、神谷力伝の貧富図解、松島吉平の救済策などの演説があって懇親会に移り「満場沸くがごとく夜十一時散会した」という(『静岡大務新聞』)。明治十八年七月天竜川がまた決潰し豊田郡・長上郡下浸水の際、農学社員は各村の残苗二万四千余把を被害民に贈って、その窮を救った(『嶽陽名士伝』『静岡県人物誌』『引佐麁玉有功者列伝』)。」 「三遠農学社と報徳農業道」においては、「三遠農学社はその成立は古く、静岡県と愛知県とにわたり、報徳の教えを奉ずる民間の有力者、篤農家をもって組織する特殊な団体であり、農事の改良、人心の教化、農村振興のために多大に貢献している。以前、同地方の人が言うに「掛川の報徳は貯蓄を本位としているが、三遠農学社は、農業の改良発達に重きを置き、報徳を業道の上に生かしている」と言ったが、これは当時の三遠農学社の状態を表している。まだ農会も、試験場も、産業組合もなかった頃から、互いに農業を研究し錬磨した結果を持ち寄って、芋や煮豆で質素な食事をとりながら、大いに農事の改良・発達を談じ、家を整え農業を尊び勤労の民風を興起して農村振興のため、積極的行道の活動を行ったことは、報徳の真の精神にかなうものである。 それゆえに三遠農学社の社員は、自ら大地に立って勤労創造する人たちの集まりで、鋤や鍬を取らない金持ち、大地主等のいわゆる顔役はなく、肩書も地位も必要でなく、天爵無位、真に勤労耕作民ばかりの会であることは、全く他に見られない特色を有する。三遠農学社主義にあるように、天地を賛し、勤労を尊び、智慧を進め、創造に目覚めて、勤労する者の自由と幸福の安楽世界を真の生活とするところに、報徳の理想が躍如とし、報徳ならではできない地上楽園の光明思想がみなぎり、百姓安楽国の理想が高揚されている。」「三遠農学社は、明治十二年八月、松島授三郎、野末丸八郎などの有志がはかって組織したもので、始めは三才農学誠報社と称し、報徳の教えと耕種の法を講習し、同十五年組織を改めて西遠農学社と呼び、社員の内外を問わず、広く各地に農談会を開き、農桑の方法及び処世人道を説き、地方の民風を篤からしめた。次第に盛大となり、明治二十年四月、三遠農学社と称するに至ったのである。」「松島は二十一歳の時、下石田村神谷與平治宅で、安居院庄七から報徳の話を聞いて感動し、その後は平岩佐平、荒木由蔵について報徳の道を研究した。この松島についてはこういう話がある。松島は若い頃に易者に見てもらったところ、あなたは三十三歳の頃には大難があって命はないと言われた。そこで何とか長生きをする道はないかと考えた末、報徳の先生の荒木由蔵に話すと、「そんなことは心配しなさんな、報徳をやれば、きっと長生きができる」と言われて報徳の道の研究に励んだ。その後、明治二年、松島が三十三歳の時居村の羽鳥村で天竜川の堤防が切れて大洪水となり、松島の家も被害をこうむり、幸い屋上に上っていて辛うじて命だけは助かった。それが先年易者の予言した年だった。そこで松島は大いに感じて、これは全く報徳のお陰であったと喜び、ますます報徳のために心身を傾けるようになり、その年の秋、隣村石原村に仕法を行い、五十戸の住民は救われた。それ以来、報村の道に精進すると共に、地方を教化し、明治十二年伊平村に農学誠報社を組織したのが、三遠農学社の前身である。 当時、諸方に報徳の結社ができ、善種金を積み、加入金を蓄え、縄ないを行い、勤労・分度・貯蓄・推譲は行っていたが、一歩進んで農業を研究し、生産と福利を挙げようとする農業道の自覚も、産業増殖の認識もなかった。松島はこの点を考えた。「二宮先生の教えに、農業の道は聖人の道に同じと言われている。今日農業は最も大切であるにもかかわらず一番遅れている。その一例を挙げるならば各都会より地方の書店に行って農書を探しても一冊もない。農業は国の大本とあるのに、農書一冊もなく、農事の研究をする人が一人もないというのは嘆かわしいことだ。我々こそは有志を集めて農事の研究を行い、農談会を開いて増収をはかろう。これは報徳と言わない報徳である」と。松島はこの信条をもって同志を語らい、遂に農学社を創立した。このために独自の特色を有するに至った。」「三遠農学社は、明治十二年八月三才農学誠報社として創立され、十五年に西遠農学社といい、明治二十年に三遠農学社と改称したものである。その趣旨は、報徳の道を基に農事の改良発達と、農村の福利増進を計り、農村を楽土としようとするものであった。したがって三遠農学社の事業には推称すべき事が多い。特に明治十五年より巡回員制を定め、巡回員を各地に派遣して農談会を開いた。遠州全土を初め、駿河、三河、伊勢方面に対して、年々百回ないし百五十回に及んだ。同十八年天竜川が氾濫して稲苗が流出したので、引佐郡内の余った苗二十万余束を集めて罹災地に送付した。同十九年には松島十湖が主幹となり本社を気賀町に新築した。二十年には米麦試作委員を置き、また麦、茶、繭の品評会を催し、種苗交換会を行った。二十二年天竜川の堤防が破れて洪水が氾濫すると、農家は種籾を失ったので、種籾を広く集めて罹災地に配付した。二十四年、三遠農学社耕作法を定め、米麦栽培の方法を示し農事の改良を計り、また全国各地方に農談会を開いて農事の指導をした。当時、三河、伊勢、肥後、佐渡、越前、美濃、尾張、信濃、遠江、伊豆、駿河、相模、武蔵等にわたり、社員数二千七百九十六人に及んだ。 明治二十五年米麦十俵作品評会を行った。農学社の勢力は次第に拡大し、駿河、遠江、三河等にわたり、非常に発展し社員一万有余に及び、各地に支社を置いた。三河に宝飯分社と東三支社、駿河に西駿支社等である。明治十九年以来社長だった松島は三十一年に死去し、渡瀬友三郎が社長となり、遠州に中遠支社、西遠支社を創立し会員二万を越えていたが、大正六年に渡瀬氏死去するや、大正七年九月山崎延吉氏が社長となり、農民精神の徹底と、農業経営の改善に努め、農村の福祉の発展のために尽くしている。 大正七年遠州に支社が設立され、現在活動しているのは、東三支社(三河野田)中遠支社(静岡中泉)大正支社(浜名豊西)西遠支社(浜名芳川)等であるが、毎年秋季には大会を開き、金子律平、水谷熊吉氏を始め、有力の人々が相寄って、伝統を持続している。そして今日もなお米作に、麦作に、養蚕に、茶に、果樹に、養鶏養畜に、農業経営にそれぞれ深い研究と手腕と識見とをもっているものが多く、それぞれ活動している。 また農学社にては、荒木由蔵、松島授三郎、渡瀬友三郎、鈴木浦八、平井重蔵、木村武七氏等を始め、三遠農学社に恩顧あり、功労のあった人々の彰徳碑を建てて、報恩の道を全うしている。三遠農学社は明治初年より今日に至るまで、報徳の教えに基づいて、農凝を尊び勤労を重んじ、研究進取をめざして農村の福利増進を計って来た所に、多大なる功績と独自の存在があるのである。」
2022年06月18日
5. 遠江国報徳社 本社及び町村支社社員数及び資産社 名所在地社員数土台金善種金各種積立金計米穀 人円 円 円 円 遠江国報徳本社 8231,696、21283,437、47512,714、18997,847、876 町村社 石 東萩間報徳社榛原郡萩間村30124、658539、41377、056741、12725、300
2022年06月15日
片平信明略伝 片平信明は幼時嶺一郎と称する。代々駿河国庵原郡庵原村杉山に住し、名主役であった。農家でかたわら商業を営んだが、富裕ではなかった。信明は二十四歳で家を継いで、奮闘修養一日も空しくしなかった。ここにおいて家政はようやく豊かになることができた。信明は名主として善く村政を整理した。杉山は山間の一部落で、古来桐水油の材料の毒荏樹(どくえ)を栽培して家計を立てるものが多かったが、明治初年頃からその樹が枯衰し、加えて石油の輸入により桐水油の価格が下落し、村民の中で活路を失うものがあった。信明は輸出入に匹敵する物産を産するのがよいと、明治三年率先して所有の山野を開墾し、茶・桑・柑橘の栽培に従事し、これを村人に勧めた。資金に乏しい者に対して無利息で資金を貸与し、または種子・苗木を分与するなど奨励につとめた。その結果、数年で茶・桑・柑橘の産地になるに至った。明治七、八年のころ、製茶の価格がにわかに低下し、収支が償わなくなった。信明はこれを憂い、農家永安策に関し焦慮した。たまたま伊豆の熱海に療養中、福住正兄著の「富国捷径」と題する一書をひもといて大いに得る所があった。帰ると二宮尊徳の門人柴田順作を招いて村民に報徳の教えを聴かせた。同九年十二月杉山報徳社を設立し、報徳の教えの趣旨を実行に努めた。後に柴田順作、高田宜和、牧田勇三等とはかって駿河東報徳社を設け大いに尽くした。後に牧田勇三の後をうけ社長となった。これより先、明治八年杉山に夜学校を起し、子弟教育のみちを開き、後にこれを報徳社の事業に移し、資金千円を備え、その利金で校費を支弁した。またその設立に係る杉山報徳社は着々事業を実行し、その蓄積金は実に二万円余に達し、駿河東報徳社中の模範を以て目されるに至った。明治二十六年十二月官は信明の積年の功績を嘉し、木盃一組を賞与した。信明はますます一生懸命画策する所あったが同三十一年十月病を以て逝去した。年六十九。駿河みやげ(斯民第一編第十号)に、「西个谷氏は杉山区並びに庵原全体につき語るに、『杉山に農業補修学校がある、明治8年11月の設立で、夜学校も設置している。日本に実業補習学校あるは、これを始めとする。杉山村の今日あるのは、全く片平信明翁の力によるものにて、報徳教の効果、最も顕著なるは、この地なるべし。』「西个谷氏は庵原村の戸長をも勤めたことがある、今は東報徳社の社長である。『庵原では従来積立金もあったが、諸種の共有金を集め明治14年ごろには79円59銭、明治18年には利殖し552円となった。明治18年5月農商務省第20号布達、済急趣意書が達せられ、勤倹貯蓄を勧められたことから、この積立金を土台としてその7月7日に発起し、規約を結んで、奢侈の弊風を直し、また各人に勤労をすすめ、毎年1月、5月の両回、各戸より10銭ずつ積立てることを定めた。この積立金は、終に積って最近二千四百円ほどなり、内千二百円余りで戦役記念のために他村の山林を買い、明治38年にに杉、ヒノキ25万7千本を植栽した。30年の後には、少なくも2万円の収入を得るだろうから、うち8千円を280戸に分配し、その余はすべて学校の資本財産とし、また村に寄附しようと計画』とある。 駿河みやげ(斯民第一編第十号)に、牧田包栄氏の家の座敷の扁額に、品川弥次郎の遺墨があるとあり、この話を思い出す。『衛君(衛の32代君主)が蒲の野に行った時、一人の老父があえぎながら一所懸命多くの松の苗を植えているのを見た。衛君は老父に問うた。「老父よ、おまえはどうして松の苗をうえているのか。老父は答えた、「将来、屋根の棟(むね)や梁(はり)とするためです」衛君は言った。「老父よ、年はいくつか」「八十五歳です」衛君は笑って言った。「この松の木が大きくなっても老父は用いることはできまい」「木を植えるのは、それを用いるのを百年後にまつものです。君は必ずこれをその世に用いようとされるのか。ああ君の言葉はどうして国をたもつ者にふさわしい言葉といえましょうか。私は老いてはいますが、死んでも、ひとり子孫のための計をなさないでおきましょうか」と。衛君は大いに恥じて謝まって言った。「私が間違っていた。あなたを師をしよう」と。そして老父をねぎらうのに酒食を以てした。詩に曰く、「貽厥孫諒以燕翼子。於老父有焉」明治三十一年十月二十三日、念仏庵主筆』」とある。 司馬遼太郎の「 街道をゆく」のオランダ紀行に、オランダ北部の全長30キロの大堤防を車で走るシーンが出てくる。左が海、右が湖。10キロほど走ったところで停車し、司馬さんは高台に立つ。海には白い波が立つが、湖は波もない。「国土とはこういうものか!」小さい展望塔には、三人の男たちの土を耕す姿がレリーフされていて、「将来を立てないと民族はなくなる(“Een volk dat leeft, bouwt aan zijn toekomst”)」と刻まれている。「今、私たちが立っている現在もかつての人々が将来を思って営んでくれたおかげである」と司馬さんは思う。私たちもまた将来の人々のために現在を営む必要がある。これが報徳である。*締切大堤防 Afsluitdijk 締切大堤防とは、オランダ北部にある世界最大の堤防で、北海(ワッデン海)とアイセル湖を仕切るためのものである。オランダ語の名称は、"Afsluit"(閉鎖、締め切り)と"Dijk"(堤防)という二つの単語から成り立っていて、日本語名称もそこから来ている。 この堤防は、ゾイデル海開発プロジェクトの一環であり、かつてゾイデル海(湾)であったアイセル湖を、外海である北海(厳密には北海に繋がっているワッデン海)から仕切っている。 淡水化し水位を下げたアイセル湖の 4 箇所(北ホラント州のウィーリンガーメール、フレヴォランド州の北東ポルダー、東フレヴォランドと南フレヴォランド(現在のアルメレ、レリスタット、ドロンテン、ゼーヴォルデの各基礎自治体))では大干拓地が造成された。 堤防の南西端は北ホラント州のヴィーリンゲン基礎自治体、東北端はフリースラント州のウォンセラデール基礎自治体である。 締切大堤防上には、欧州自動車道路 E22/A7(E22:国際 E-ロードネットワーク、イギリス西部~同・マンチェスターManchester~オランダ・アムステルダム Amsterdam~ドイツ・ハンブルク Hamburg~スウェーデン・マルメ Malmö~ラトビア・リガ Rīga~ロシア・モスクワ MockBa~ロシア中央部まで5,320km、A7:ドイツ連邦高速道路、デンマーク国境~オーストリア国境まで 963km ドイツを縦断)が通っている。 展望台の登り口にある、大堤防の石を積み上げる男たちが刻まれたレリーフは、「将来を樹てないと、民族はなくなる。」(EEN VOLK DAT LEEFT BOUWT AAN ZIJN TOEKOMST)と題されている。 また、陸橋を渡ったワッデン海(北海)側には石を積み上げる等身大の像があり、「水との戦いは人々によって、人々のために続く戦いである」(DE STRIJD TEGENHET WATER BLIJFT EEN STRIJD DOOR EN VOOR DE MENS)と記されている。」
2022年05月21日
今日から2日間、森町で「町並みと蔵展」小さな「町並みと蔵展」2022年5月21日(土)〜22日(日)遠州の小京都森町 小さな「町並みと蔵展」開催決定!例年春と秋に開催される『遠州の小京都森町の「町並みと蔵展」』は、コロナ感染症拡大防止のため、2年の間、開催を中止していましたが、今年は規模を縮小して開催することになりました。例年は町並みの中に100店を超す店舗が出店しますが、今年は森町内の業者に限定して、密にならない状況などの感染対策をしながら、約40店の出店者で“小さな”「町並みと蔵展」としています。
2022年05月21日
明治期地域民衆の文芸活動についてー富士山東麓を例としてを「静岡県報徳の師父と三遠農学社」に収録するべく、ワードにおこしているが、「●室伏薫平。生土村名主。戸長室伏小八郎長男。安政3年生。―君幼にして読書及び習字を家厳に受け、后三島の人米山蓉谷、 小田原の学士中垣秀実及東京の小永井岳先生に就て漢籍を学ぶ。 ―山田万作編『岳陽名士伝』明治24年。 室伏薫平は、高杉長次が20才で没した明治11年には22才。明治24年当時は、改進主義の静岡県会議員を勤めている。年齢は36才である。読書と習字は、寺子屋へ行く年頃、家厳即ち父親小八郎から教育を受けている。江戸時代の天保の大飢饉以降、明治3年まで祖父勘左衛門(明治2年以降寛十郎、雅号志徳)が、生土村の名主を勤めている。その後、父小八郎が名主を勤め、明治5年1月に戸籍編成組合ができると、同じく父が第八区戸長、明治6年1月に静岡県に大区小区制が敷かれると、翌月から五小区惣代人、明治7年8月からは五小区長を勤めた。小八郎は、幕末の三筆の一人と言われた市河米庵の子万庵について書を学び、門人たちと師の墓碑を刻んだ。祖父勘左衛門句碑に補助として名を残している。室伏家は、江戸時代後期から頭角をあらわしはじめた家筋で、生土村の天保の大飢饉による村建て直しに際し、二宮尊徳の報徳仕法のリーダーとなって以後、着々と村の中心的な重立(おもだち)となっていった。」とある。💛おお、ここで「二宮尊徳の報徳仕法のリーダー」として室伏薫平が紹介されている。「静岡県駿州報徳の師父」として収録するにふさわしい語句が出てきた。 ちなみに「幕末の三筆」とは、 江戸時代末期に活躍した唐様の能書のうち、巻菱湖(まきりょうこ)・貫名菘翁(ぬきなすうおう)・市河米庵(いちかわべいあん)の三人のこと。知らないなあ(^^)・巻 菱湖(まき りょうこ、安永6年(1777年) - 天保14年4月7日(1843年5月6日))は、江戸時代後期の書家。越後国巻(現在の新潟市西蒲区)に生まれる。姓は池田、後に巻を名襲名。名は大任、字は致遠または起巌、菱湖は号で、別号に弘斎。通称は右内と称した。 明治政府及び宮内庁の官用文字・欽定文字は御家流から菱湖流に改められ、菱湖の門下生は1万人を超えたと伝えられている。市河米庵、貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と並び称された。石碑の揮毫も手がけており、現在全国に30基ほどの石碑が確認されている。幼少の頃から新潟町で育ち、寺の住職に書の手ほどきを受けた。母親が他界した後、19歳で江戸へ行き、書家の亀田鵬斎に師事して書と詩を学んだ。以後、楷書を欧陽詢・褚遂良、行書を李邕・王羲之、草書を『孝経』・『書譜』・『十七帖』・『絶交書』、隷書を『曹全碑』に範をとり、晋唐以前の書法に傾倒した。 29歳の時、『十体源流』を著し、書塾「蕭遠堂」を開く。53歳の時、近衛家にあった賀知章の『孝経』を見て驚倒したという。漢詩も能くし、酒を好み、天保14年(1843年)67歳で没した。 現在でも将棋の駒においては、銘駒と呼ばれる書体の1つが菱湖体である。タイトル戦などで使用される高級な駒などによく用いられており、中原誠などこの書体を好む棋士も多い。なお、菱湖自身が駒の書体を確立したわけではなく、大正時代頃に将棋の専門棋士で、坂田三吉の弟子だった高濱禎(たかはま てい)が菱湖の書体を駒字に作り替えたものである。・貫名 菘翁(ぬきな すうおう、安永7年3月(1778年) - 文久3年5月6日(1863年6月21日))は江戸時代後期の儒学者・書家・文人画家。江戸後期の文人画家の巨匠で、とりわけ書は幕末の三筆として称揚される。 姓は吉井、後に家祖の旧姓貫名に復する。名は直知・直友・苞(しげる)。字は君茂(くんも)・子善。通称は政三郎、のちに省吾さらに泰次郎と改める。号は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など多数。室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂。笑青園などと名のっている。海屋・菘翁が一般に知られている。 徳島藩士で小笠原流礼式家の吉井直好の二男として徳島城下御弓庁(現・弓町)に生まれる。母は藩の御用絵師矢野常博の娘である。 86歳で死去、京都東山高台寺に葬られる。 菘翁は晩年になるにつれて書家としての名声が高まったが、「自分は儒家を以って自ら居るので書や画を以って称せられることは好まない」(江湖会心録)と述べており、事実、儒者として生計を立てていた。馮李驊・陸浩が編纂した『左繍』、清の趙翼『二十二史箚記』などを翻刻している。晩年は聖護院付近に移り住み、名産の野菜・菘(スズナ、蕪の古名)に因んで菘翁と号した。最晩年になって下賀茂に隠居した。下賀茂神社に自らの蔵書を奉納したときの目録である「蓼倉文庫蔵書目録」には経学・史学を中心に3,386部(11,252巻)が記され、菘翁が学問を重視していた姿勢が窺われる。・市河 米庵(いちかわ べいあん、安永8年9月16日(1779年10月25日) - 安政5年7月18日(1858年8月26日))は、江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など。通称は小左衛門。 漢詩人の市河寛斎の長子[1]。安永8年(1779年)、己亥九月亥の日(9月16日)の亥の刻に江戸日本橋桶町に生まれたので三亥と名付けられた。 父や林述斎・柴野栗山に師事し、書は長崎に遊学し清国の胡兆新に学ぶ。その後、宋代の書家 米芾や顔真卿らの書を敬慕し、その筆法を研鑽する。米庵という号は米芾に因んでいる。 隷書・楷書を得意とし、寛政11年(1799年)、20歳の時に書塾 小山林堂を開いた。その後、和泉橋藤堂侯西門前に大きな屋敷を構え、門人は延べ5千人に達したという。尾張藩徳川氏、筑前福岡藩黒田氏、津藩藤堂氏、徳山藩毛利氏、鯖江藩間部氏などの大名にも指南を行った。 書の流派である江戸唐様派の大家。同じく江戸で門戸を張った巻菱湖(1777年 - 1843年)、京都の貫名海屋(1778年 - 1863年)とともに幕末の三筆に数えられる。文化8年(1811年)に富山藩に仕えたが、文政4年(1821年)に家禄300石をもって加賀藩前田家に仕え、江戸と金沢を往復し指導に当たった。 余技に篆刻を嗜み、印譜『爽軒試銕』がある。文房清玩に凝り唐晋の書画の蒐蔵と研究で知られる。また煎茶を嗜み、松井釣古の主人であった加賀屋清兵衛に楓川亭と命名している。『米庵墨談』など多数の著述がある。 米庵が60歳のときに長子、万庵(いちかわ まんあん、1838年 - 1907年)を授かる。1858年歿、享年80。西日暮里本行寺に墓がある。
2022年04月29日
静岡県報徳の師父 4 「駿河みやげ」の尾羽修斉社明治40年1月23日発行の斯民第1編第10号に「駿河みやげ」(国府犀東著)が載る。鈴木藤三郎氏らの尾羽修斉社視察記録があり、当時の報徳運動とその影響を知ることができる。読みやすくして掲載する。◎庵原郡庵原村は駿河東報徳社の管下にあって、報徳社の著名なるものが二つある。杉山報徳社と尾羽修斉社である。この日報徳社に行くには、里程が少し遠いため、半日で往復することは難しいので、まず尾羽修斉社に立ち寄って、それから二社の本社であう東報徳社を訪問する予定を立てた。◎修斉社の事務所は牧田氏の家であり、牧田氏が一切の事務を処理している。尾羽の戸数は36戸ばかりで、牧田氏の所有地が大部分を占める。住民はおおむねその小作人であるから、牧田氏の盛衰は直ちに尾羽村の盛衰である。現戸主の祖父、牧田包栄氏の時、洪水に引き続いて天保の大飢饉があった。家道がそのため非常に衰えたことがあった。包栄氏は家の興復、村の興復を図るため、二宮尊徳の高弟・柴田順作にはかって報徳の結社を行った。修斉社の発端はこの時である。当時、一家一村のために仕法を立て、盛んにそれを行っていた頃、遠州から安居院庄七氏がこの村に巡回し、牧田氏の家で柴田氏と面会し、包栄氏に向かって『家の宝はいうまでもなく家財道具一切を売り払った後でなければ興復の望みはない』と語ったという。◎村の全部を挙げて皆、報徳社員で生計に苦しむ者はいない。近隣の信用も極めて厚く、日用品を始め肥料なども江尻町で調達するが、江尻の商家は、尾羽の人と聞くだけで、子どもを使いにやっても、すぐに掛売りを行い取引を行う。肥料代などは高価だがあやしむ様子もなく、すぐこれを手渡す。これは尾羽の人が借用を非常な恥辱に思い、やむを得ず借りても必ず期限前に返済することからこのように信用されるという。◎尾羽の住民は、星が移り物が変わっても、波に動かない岩石に似ている。登記所を開設して以来、土地の異動は極めてまれで、登記を行うのは相続などの時だけに限って、土地の売買など、いまだかつてない。◎安政年間より、社員の間に『助け合い』ということがある。植付けの時にも、刈入れの時にも、もし病人などがあって手の回らない家でもあれば、社員は総出で、その労をとるのが常である。植付けの時などは、尾羽の田は、一斉に植付けが終わって、一人も後れを取ることはない。この『助け合い』の法があるため、日露戦争の時は、一村36戸ばかりの中から、兵隊を30人ばかり出したけれども、生業の扶助を今さら新しくする必要もなく、一戸として不足を告げるものはなかったという。(略)◎牧田家の座敷の扁額は、故品川子爵の遺墨がある、『衛君、蒲野に一老父が息をあえぎながら、松の苗を多く栽えるのを見る。衛君は問いて曰く、老父よ、なんじはどうして松の苗を栽えるのか。答えて曰く、将来、家の棟の梁(はり)とするためです。衛君曰く、老父よ、年は幾つか。曰く、八十有五、衛君笑って曰く、松の材を盛んにしても、老父よこれを用いることができようか。曰く、木を植えるのは、その役立つのに百年後にまつものです。君は必ずこれをこの世に用いようとするのか?ああ君の言は、どうして国をたもつ者にふさわしいといえましょうか。私は老人ですが、死んでも子孫のための計を行わないでいられましょうか。衛君は大いに恥じ、謝して曰く、私は過っていた。あなたを師としよう。そこでいたわるのに酒食を以てすると。詩に曰く、貽厥孫諒以燕翼子。老父に於てこれ有り。明治31年10月23日、念仏庵主筆』。◎静岡県報徳社事蹟と応急規定その他の帳簿を見る。午前の私たちの一行は8人、西个谷氏の饗をうける。◎西个谷氏が杉山区と庵原全体について語るに『杉山に農業補修学校があります。明治8年11月の設立で、夜学校も設置します。日本に実業補習学校があるは、これを最初とします。杉山村の今日があるのは、全く片平信明翁の力によるもので、報徳教の効果が最も顕著なのは、この地でありましょう。』(略)◎『柑橘の輸出先は、東北地方を随一とし、仙台、新潟、北海道へも送られ、近年は満州・朝鮮へも送り、歓迎されたようです』。『立派な温州ミカンもでき、ネーブルも良好です。これは静岡や東京へ送ります』。 ◎庵原郡十か村900戸、庵原村字庵原280戸。西个谷氏は庵原村の戸長を勤めたことがあり、今は東報徳社の社長。『庵原で従来積立金があったが、これを土台とし、規約を結び、奢侈を改め勤労を勧め、毎年2回各戸から10銭ずつ積み立て、これで他村の山林を買い造林費を費やし、杉、ヒノキ25万7千本を植栽した。30年後には、少なくも2万円の収入を得るから、8千円を280戸に分配し、残りは学校の財産とします』💛衛君が視察の折に一人の老人が息をゼイゼイいわせながらしゃがんでは松の苗を植えていた。「あなたはどうして松の苗を植えているのか?」「将来、家の柱やはりとするためです」「あなたは年はいくつか?」「85歳です」 衛君は笑って言った。「松の木が盛んに生い茂っても、あなたがこれを用いることができようか?」「木を植えるのは、100年後にまつものです。 あなたは必ず自分が生きているうちに用いようとされるのか? そんなことでどうして国をたもつことができましょうか。 私は老人で、死んでしまいますが、子孫のために計画を行わないでいられましょうか!」「技術者シリーズ」もまた、100年後も「人材(次の世代の技術者)」が育つようにと計画し、出版し、公共・大学図書館に寄贈するものである。 あるいはむなしく朽ちるかもしれない。それでも「小人は老たり、死すといへども、独り子孫の計を為さざらんや」
2022年04月09日
片平信明略伝 片平信明は幼時嶺一郎と称する。代々駿河国庵原郡庵原村杉山に住し、名主役であった。農家でかたわら商業を営んだが、富裕ではなかった。信明は二十四歳で家を継いで、奮闘修養一日も空しくしなかった。ここにおいて家政はようやく豊かになることができた。信明は名主として善く村政を整理した。杉山は山間の一部落で、古来桐水油の材料の毒荏樹(どくえ)を栽培して家計を立てるものが多かったが、明治初年頃からその樹が枯衰し、加えて石油の輸入により桐水油の価格が下落し、村民の中で活路を失うものがあった。信明は輸出入に匹敵する物産を産するのがよいと、明治三年率先して所有の山野を開墾し、茶・桑・柑橘の栽培に従事し、これを村人に勧めた。資金に乏しい者に対して無利息で資金を貸与し、または種子・苗木を分与するなど奨励につとめた。その結果、数年で茶・桑・柑橘の産地になるに至った。明治七、八年のころ、製茶の価格がにわかに低下し、収支が償わなくなった。信明はこれを憂い、農家永安策に関し焦慮した。たまたま伊豆の熱海に療養中、福住正兄著の「富国捷径」と題する一書をひもといて大いに得る所があった。帰ると二宮尊徳の門人柴田順作を招いて村民に報徳の教えを聴かせた。同九年十二月杉山報徳社を設立し、報徳の教えの趣旨を実行に努めた。後に柴田順作、高田宜和、牧田勇三等とはかって駿河東報徳社を設け大いに尽くした。後に牧田勇三の後をうけ社長となった。これより先、明治八年杉山に夜学校を起し、子弟教育のみちを開き、後にこれを報徳社の事業に移し、資金千円を備え、その利金で校費を支弁した。またその設立に係る杉山報徳社は着々事業を実行し、その蓄積金は実に二万円余に達し、駿河東報徳社中の模範を以て目されるに至った。明治二十六年十二月官は信明の積年の功績を嘉し、木盃一組を賞与した。信明はますます一生懸命画策する所あったが同三十一年十月病を以て逝去した。年六十九。
2022年04月09日
静岡県報徳の師父 3 二宮尊徳と柴田順作 その2「二宮翁逸話」80 二宮翁と柴田順作より 抜粋柴田順作は静岡県庵原郡の人で報徳を信奉し庵原村付近に報徳の種子を蒔き、庵原村のごとき良村を作りたてた事について非常の功績のある人で、柴田は尊徳より教えを聴いて庵原郡に帰ってて報徳の道を説き、ついに庵原村字杉山の片平信明に報徳の趣旨を伝え、片平信明はその付近に報徳の種子を播いたのみならず稲取の前村長田村又吉にもこれを伝えた。稲取村は報徳の主義を根拠として村政の改革を行った。また庵原村にある東報徳社長西ヶ谷可吉もやはり柴田順作、片平信明から報徳の道を聴いて、後世にまで感化を残した。順作は約800石を有し、また有金も一時は5万両も持っていた。駿州は製紙業が盛んで、柴田家の先祖もこの製紙の事業に勤勉努力して身代を造ったので、順作は3代目に当たる。父祖の勤勉で造り上げた身代がどうしてつぶれるようになったか、順作が破産をした行経を尋ねると米相場に手を出した結果である。そこで親類が打ち寄っていかにしてこれを仕法すべきか協議をした。ところが証文を取って貸した金が約800両あったがナカナカ取れない。そこで「御鉢判」をもって取りに行けば必ず取れるに相違ない、親類一同も同意してこの方法で旧貸金を取り立てようとした。ところがかつて静岡の江川町の旧家に黒金屋という家があり、この家が身代限りをしようといた時、「御鉢判」をもって昔の貸し金を取り立てた。負債者の一人に子どもをいる老人の家があり「御鉢判」をもって厳談に及ばれたので一日延期してくれと願って、ついにその老人が井戸に投身して死んだ。今、自分が旧貸金を「御鉢判」で取り立てると、その人数が180人ばかりあり、このうちには2人3人は自殺するものがあろう。そういう無慈悲をするに忍びない、順作は親類にその実行を延期してもらい、伊豆に入湯に行く名義で竈新田の小林平兵衛を訪れた。平兵衛は熱心な二宮翁崇拝家で「お前がそれほど失敗したのなら、俺が二宮翁の所へ連れて行って、仕法の道を聴かせてやろう、明日行こう」と言った。順作が逡巡すると「お前は仕法をするのに親族の説に従うのか、俺の説に従うのか、今日一大決心をなさなくてはならない。お前は庵原で死んで俺の家で生きよ」と説諭した。翌朝、順作が「今一遍宅へ手紙が出したい」と頼むと、平兵衛は「俺の家で生き返った者が家へ手紙を出す必要はない。直ちに行こう」と野州まで引っ張っていった。平兵衛が尊徳に順作を紹介すると、平兵衛に向かって「お前はなぜこういう迷い者を連れて来たか」と叱られ、面会を謝絶された。順作は21日の間、翁に会うことができず、隣の垣根から尊徳がその辺の百姓に説得されるのを立聞きして、その間に非常に感服した。21日目初めて尊徳に面会を許された。順作28歳、尊徳56歳である。尊徳は順作に向かって「お前それほど立派な家であったに、どうしてそういうふうに零落したのか、またこの場合どういうふうに、仕法をする積もりか」と聞かれ、順作がその次第を述べると、尊徳は「それほどの大家であればお前の先祖が家を繁栄ならしめた原因があろう、何かお前の家に宝物として秘蔵している物はないか」と言われ、順作が「ハイ、紙を買出しに行くために用いました背負い縄があり、これが家を栄えしめたものですから、桐の箱に納めて秘蔵しています」と答えると、尊徳は「それがあればお前は祖先の足跡を踏んでゆかなければなるまい。背負い縄を秘蔵しないでそれを取り出して毎日働くべきだ。使用すべきものを宝物としてしまっておくから今日のような大失敗を来たしたのだ。早く帰って背負い縄をもって稼げ」と言われ、なお「直ちに帰国し、先祖の足跡を踏んで働け」とさとされた。その時今一つの教訓として「貸金を取り立てようということはこの際もっての外だ。そういうやり方は春収穫すべきものを冬の間に取らんとするのと同じことだ。たとえば畑の中にある芋種を掘り出して食うようなもので、親芋を取ってしまえば子はできない。そういうことは全くよして一途に先祖の足跡を踏んで稼げ」と言われた。順作は思うに一旦国へ帰らば決心が崩れるに相違ない。尊徳の台所にいる浦賀の宮原瀛州(えいしゅう)の助手になり、内緒で3年間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。ついには尊徳の黙許を得て時々その給仕に出た。ある時、尊徳が「お前はこういう人間だからいかない」と言って香の物の切れかかったのを箸ではさみ「この通り全く切れていない。切るならばシッカリ切るがよし、切らぬならば切らぬがよし、切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりしておるから失敗するのである」と言われた。その後順作は「あの時ぐらい辛かったことはなかった」と話したという。
2022年03月27日
静岡県報徳の師父 1 二宮尊徳と多田弥次右衛門二宮先生夜話巻之1【23】尊徳先生が、多田弥次右衛門(※1,2)にこうおっしゃったことがあった。「私は、徳川家康公の御遺訓という物を拝見したことがある。それにはこうあった。『私は敵国(今川家)に生れ、ただ父祖のかたきを報いようという願いだけ持っていた。しかし祐誉上人の教えにより国を安らかにし民を救うことが天理である事を知ってから今日に至っている。わが子孫は長くこの国を安らかに民を救おうという私の志を継がなくてはならない。もしこれに背く者は、私の子孫ではない。民はこれ国の本であるからである。』そうであれば、あなたが子孫に遺言すべきことは『私は過って新金銀引替御用を勤め、自然に増長し贅沢になり、御用の種金を使い込んで大きな借金をかかえ、破滅寸前のところを報徳の方法によって莫大な恩恵を受けこのように安らかに相続することができた。この恩に報いるには、子孫代々贅沢や怠惰を厳に禁じて節倹を尽し、収入の半分を推し譲って世の中の益になるよう心がけ、貧乏人を救い村里を豊かにする事を勤めなくてはならない。もしこの遺言に背く者は、私の子孫でも子孫ではない。すぐに放逐しなくてはならない、婿や嫁はすぐに離縁しなければならない。私の家や田畑は本来報徳の方法によってあるものだからである。』と子孫に遺言するならば、神君の思し召しと同一で、孝であり忠である。仁であり義である。その子孫も、徳川家の二代公三代公のように、この遺言を守るならば、その功業は量ることができないだろう。あなたの家の繁昌と長久も、また限りがないであろう。よくよく考えなさい。」※1 天保11年(1840)6月8日小田原にあって代官江川太郎左衛門の招きをうけた尊徳は、箱根の山を越えて大磯町も管轄とする伊豆の韮崎代官所を訪れた。6月6日に「御出で下され候様幾重にも願ひ奉り候」という江川代官直筆の手紙を受け取って、すぐに出立したのであった。江川の用件は伊豆韮崎の豪商で吹替金銀引替御用という役目を勤める多田家が4,823両の借金と1,389両の上納金不足で幕府御用からもはずされ破綻しかかっているというのであった。尊徳は多田家救済に、報徳金1,389両を多田家が持つ田畑42町5反のうちの31町7反を担保に貸付け、畑から上がる小作料のうちから年々416俵ずつを年賦償還にあてるというかたちで行われた。この返済は思うにまかせず、尊徳在世中には決着がつかなかった。尊徳は多田家に報徳金を貸し付けたのは、江川太郎左衛門という幕府代官のねんごろな要請があったからであり、後に幕府に登用されてからこの縁が有効に働いた。(「二宮尊徳」守屋志郎著248~250頁要約) 『御遺状御宝蔵入百ヶ条』の第十五条に、「我少(わか)き時、敵国を征伐し父祖の讐(あだ)を報いんするのみなりき。酉誉(ゆうよ)の誨(おし)えに逢いて、救国安民のこころざし天理なるを知りてより、一途に今日に至る。子孫永くこの志を継ぐべし。・・・」とある。(「補注報徳記」下10頁)*2 多田弥次右衛門は新金引替御用を仰せつけられ、新金を引替の種金として預り、これを民間に貸付け、上納や返金に旧金銀を受け取り豪勢な経済力を有した。そこで資金が必要な事業に関係することも多くなった。生鯛御用もその用命の一つである。沿岸の漁獲物を江戸に送り、常に御用に充てるため、多額の資金が必要で、各方面への貸付も返金が滞り、幕府の用命で取り扱える古金の上納に困却するようになった。上納に迫られて所有地の売却をはかったが容易に買主がない。多田は小田原に出入りしたので、小田原藩に土地買上を懇願した。この時、尊徳が江川への献策により、小田原役所より200両、翌年694両余、川崎孫右衛門仕法金694両余、総計1,389両を貸し付け、多田の所有地からの作徳米で十か年賦で償却することとなった。しかし実際は返納延引が続いた。弥次右衛門はたびたび小田原、下野を往来し先生の教えを聞き、子息藤五郎は報徳仕法の実習も受けた。嘉永3年12月12日付、尊徳が多田藤五郎に贈った「御百姓永久相続方並残趣法田畑世話方議定書」では、多田家の仕法の最初よりの顛末を詳しく述べ、残りの報徳金返金に関する仕法を授けた書類で、その中に報徳の趣旨を明らかにした教訓が記されている。「古語に曰く、民はこれ邦の本、本固ければ邦寧しとのたまえり。その余徳あらば一畝一歩までも荒地起き返し、年々一粒までも取り増し、度外の産財を以て相互に助け合い・・・年々繰り返し取り立てれば・・・まさに天より降り来るが如く、また地から湧き出るが如く、内外潤沢致し、・・・何方までもきっと立ち直り申すべく候」。文久慶応の間に元金が皆済となったという子孫の報告がある。(「二宮尊徳伝」佐々井信太郎著338~342)
2022年03月27日
「静岡県報徳社事蹟」二十四 財団法人掛川農学社 1 所在地 静岡県小笠郡掛川町掛川九百三十七番地2 沿革組織事業事績 明治十一年二月の創設に係り、発起人は岡田良一郎、丸尾文六、大塚義一郎、河村八郎次、山崎徳次郎、松本文治で、大迫静岡県令の認可を得て、株主を募集し、株金五千円を得た。内五百円を創業費に支消し、残四千五百円を備金として、その利子の三分を年々株主に配当し、その七分で事業の費用に支払うことを規則とする。これにおいて県令に請願して宅地五畝二十八歩を開墾地に、一反六畝二十九歩を建物一棟土蔵一棟と金五百円とを下付された。よって家屋を修め、試験園を購入し役員を選挙し教員を招いた。明治十一年七月より三州足助村大垣津音蔵を招いて村々を巡回させ、同十二年五月より佐野郡成瀧村平岩佐平を雇ってこれを継がせ、同年六月勧農義田法を起し、郡村に頒布した。同月農家年中行事法を製作して発売したところ非常に公益があった。稲綿大根人参その他良種の交換媒介を年々行い、また苗木良種をひろめた。十三、四の両年繭審査会を行い、十二年十月遠州諸郡に非常の雹災があった。種籾を得られない者が少なくなかったので、遠江国報徳社に協議して種籾の寄付を募集したところ、遠近からその募集に応じ、そのため八十四石を得た。これを罹災の村五十四か村、戸数三千三百六十四戸に分配し、一戸につき種籾二升五合を配当してその欠乏を補った。十四年二月四県共進会に綿を出品した。また同年内国勧業博覧会に籾種、麦種、大豆、油菜種等を出品して褒状を受けた。これより先十一年二月以来、道徳経済に関する演説会を開き、聴衆は少ないときでも二百名をくだらず、多いときは五百名を超えて、会堂が狭隘となったので、十四年七月増築のため寄付金を募集したところ、佐野軍、城東の両郡を始め隣郡有志陸続と募集に応じ金一千百六十円十八銭二厘を得た。なお三百円の県補助によって増築できた。もっとも熱心に事に当ったものは山崎徳次郎、松本文治で、常務に専任したものを高鳥甚三郎とする。明治十六年七月勧農俚謳集を発行し、毎月一回読者に頒布した。毎号三千余部を印刷し、広く諸県に愛読され、掛川農学社の名は天下に聞こえた。その功績は非常に大きかったが、経費の都合によって二十一年五月にこれを廃した。明治十六年城東郡海岸各村は干ばつのため籾種を失ったものが多かった。よって十一石七斗一升を募集し、これを成行村ほか十か村へ配付した。また十七年風害の諸村へ寄贈した種籾六石七升七合城東郡東大淵村ほか十二か村戸長役場へ配付した。明治十九年九月静波出張所を設けて毎月一回勧農演説会を本社同様に開いた。その経費は寄付を得たもの五十二円三十一銭ある。これより榛原郡中農事改良緒につき田方定規植え行われるようになり、ついで駿州信太郡に及ぶ。明治十八年一月農産品評会を設け、以来各月諸種の農産を収集し精否の等級を定め、商品を付与し、二十一年五月に至る。その間農事の進歩は少なくなかった。明治十九年十月獣医講習所を設け、獣医学士牧野終太氏を招いて生徒を教授し、病畜を治療する。同二十年四月愛知県において獣医の試験に及第したものが十一名あった。明治十二年以来、試験田試験畑を設け、試作を行ったが、費用は多かったが好良の結果を見ることができなかった。このため経費の不足を生じたので、二十一年十二月会議を開き、諸種の試験を廃し、構外の所有地その他不用の物品家屋を売却し負債を償還し資本金を減少し毎月の集談会を継続して専ら社会教育に資し、報徳社と一致し、道徳経済の道を演説して怠ることなく今日に至る。当社開発以来教師として招いて用いたものは、大垣津音蔵、平、浅井小一郎、鈴木良平、佐藤仲吉、伊藤七郎平等である。伊予国温泉郡丹生谷亮之のように当地方の牛耕の開祖とも称すべきものとする。当社において薫陶された鈴木良平、桑原惣作、山崎源吉は農事講師として各県に招かれた。明治二十二年より同三十二年まで十年間は演説会のほか別に記すべきことはない。その年度出席人員は左のとおり。 二十二年 二千三百九十八人 二十三年 二千九百八十四人 二十四年 二千二百八十一人 二十五年 千九百八十三人 二十六年 千八百四十人 二十七年 二千二百六十七人 二十八年 二千一人 二十九年 二千五百七十六人 三十年 二千二百十人 三十一年 二千四百四十四人三十二年 二千二十人 明治三十三年十二月規則をすべて寄付とし、初めて財団法人の認可を得て、遠江国報徳社と協議合同して夏に寄付金を募集し、両社共用の公会堂を建築し、大いに道徳経済の道を広める。5 社員数及び資産 社員 二千四百四十六名 内 創立社員 六十四名 特別社員 八十四名 名誉社員 十八名 普通社員 二千二百八十名 資産 金一千五百十円五十四銭五厘 宅地四反六歩 建家九棟この建坪三百一坪6 現在理事 岡田良一郎(履歴略す)
2022年03月27日
「静岡県報徳社事蹟」二十四 財団法人掛川農学社 1 所在地 静岡県小笠郡掛川町掛川九百三十七番地2 沿革組織事業事績 明治十一年二月の創設に係り、発起人は岡田良一郎、丸尾文六、大塚義一郎、河村八郎次、山崎徳次郎、松本文治で、大迫静岡県令の認可を得て、株主を募集し、株金五千円を得た。内五百円を創業費に支消し、残四千五百円を備金として、その利子の三分を年々株主に配当し、その七分で事業の費用に支払うことを規則とする。これにおいて県令に請願して宅地五畝二十八歩を開墾地に、一反六畝二十九歩を建物一棟土蔵一棟と金五百円とを下付された。よって家屋を修め、試験園を購入し役員を選挙し教員を招いた。明治十一年七月より三州足助村大垣津音蔵を招いて村々を巡回させ、同十二年五月より佐野郡成瀧村平岩佐平を雇ってこれを継がせ、同年六月勧農義田法を起し、郡村に頒布した。同月農家年中行事法を製作して発売したところ非常に公益があった。稲綿大根人参その他良種の交換媒介を年々行い、また苗木良種をひろめた。十三、四の両年繭審査会を行い、十二年十月遠州諸郡に非常の雹災があった。種籾を得られない者が少なくなかったので、遠江国報徳社に協議して種籾の寄付を募集したところ、遠近からその募集に応じ、そのため八十四石を得た。これを罹災の村五十四か村、戸数三千三百六十四戸に分配し、一戸につき種籾二升五合を配当してその欠乏を補った。十四年二月四県共進会に綿を出品した。また同年内国勧業博覧会に籾種、麦種、大豆、油菜種等を出品して褒状を受けた。これより先十一年二月以来、道徳経済に関する演説会を開き、聴衆は少ないときでも二百名をくだらず、多いときは五百名を超えて、会堂が狭隘となったので、十四年七月増築のため寄付金を募集したところ、佐野軍、城東の両郡を始め隣郡有志陸続と募集に応じ金一千百六十円十八銭二厘を得た。なお三百円の県補助によって増築できた。もっとも熱心に事に当ったものは山崎徳次郎、松本文治で、常務に専任したものを高鳥甚三郎とする。明治十六年七月勧農俚謳集を発行し、毎月一回読者に頒布した。毎号三千余部を印刷し、広く諸県に愛読され、掛川農学社の名は天下に聞こえた。その功績は非常に大きかったが、経費の都合によって二十一年五月にこれを廃した。(続く)国指定重要文化財 指定名称:旧遠江国報徳社公会堂(大日本報徳社大講堂)平成21年4月17日、国の文化審議会で、大日本報徳社大講堂を国の重要文化財に指定するよう文部科学大臣に答申しました。これを受け、答申通り同年6月30日付の官報(号外138号)に告示され、正式に重要文化財になりました。市内の重要文化財指定は、掛川城御殿に次ぎ2件目の指定です。明治36年(1903年)に建築正門をくぐると正面に建っているのが大講堂です。日本瓦の大屋根、漆喰塗りの外壁、洋風の丸みのある窓等、荘厳な重みが感じられる和洋折衷の建物です。この大講堂は、報徳運動の拠点として明治36年に建設され、当初は「遠江国報徳社農学社公会堂」と呼ばれていました。公会堂として建てられた建物では日本で2番目に建築され、現存する公会堂としては最古の建築物となるため、貴重な文化施設です。
2022年03月21日
「静岡県報徳社事蹟」二十三 救済社 1 所在地 静岡県磐田郡袖浦村駒場三番地2 沿革 明治三十四年十二月十六日設立許可で別に挙げるべきことはない。3 組織 勤倹推譲の徳義を奨励し、慈善の行事を立て、公益を博進するため土台金・基本金の二種を社員の義務として寄付積み立てるものとする。4 事業 社有の田地を貸付し、、地料を徴し、未墾地には鍬下法を設け開墾させ、また荒蕪で開墾のめどのない地には樹木を植えつけて繫殖をはかり、暴風の除害に供した。道路橋梁の修繕費そのほか用悪水路の修繕費等公共事業費に対し補助を行う。また社員で家計そのほか農具肥料等の購入に関して金銭の貸付を乞うものがあるときはその用途を査察して低利の貸付を行った。5 社員数資産 社員数 百二十五名 資産 田三畝三歩、畑十二町二反二畝二十八歩 宅地一反六畝十二歩 荒蕪地七十町一反六畝三歩 国庫債権額 百三十円 現金 五百六十七円五十銭6 時局に対する施設 戦時中部落二十五人の出征軍人家族保護補助として一人につき金一円ずつを贈与し、また出征軍人の貧困なるものに限り社地の貸付料を免じた。7 設立者小伝 相場長平 石川多喜三 堀内金三郎の三人とする。(履歴略す)相場長平は現在社長である。
2022年03月21日
・現在、「共救社」やその創始者「高部廣八」で検索しても出てこない。浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ浜松市史 三 第三章 町制の施行と浜松町の発展 第三節 近代産業の勃興第四項 農業その他 農会・耕地整理・水利組合245 ~ 246 / 729ページ 浜松町農会 浜名郡農会には「つぎに農会について述べよう。浜松付近では、すでに町村単位の農会の前身ともみなすべき例えば神久呂の共救社、赤佐(明治十五年)・芳川(二十一年)などをはじめ各村に農談会や、郡単位ともいうべき西遠勧業会があったが、明治二十八年八月県会による農会規則が発布されると、翌二十九年七月浜松では浜松町農会の発足となり、織田利三郎(安政四年生、南庄内村織田家に養子し、浜松田町で雑貨商を営む、華道の師匠、前田正名の指導により四品の生産奨励に力を尽した。大正十二年九月没、六十七歳)が会長に就任(爾後在任三十余年に及んだ)、西遠勧業会は浜名郡農会となった(二十九年九月、会長横田保)。そして三十三年政府による農会令施行によって、各町村のほとんどに農会の創立をみるにいたった(『浜名郡誌』)。【品評会】品評会も催されたが、なかでも明治三十二年八月浜松尋常小学校を会場とした東海実業区五県連合五二会品評会は大がかりなものであった。」の記述がある。しかし「創設者の小伝」を読むと、高部廣八という人の非凡さがわかる。貧家に生まれ、染物屋の徒弟となり、18歳のとき「すべて業は熟練と蘊奥を究めるとにある」と気づき、諸国の染物屋を遍歴し、その技術を学び、自村に染物屋を開いて父兄とともに営業した。昼は営業、夜は読書、算数を学んだ。「常に思うに経済の道は勤と倹の二つのみ」と、予定したことは必ず実行し「時は金なり」の格言を守った。彼の偉いところは、村の進歩発達のため、公利民福を企画し、明治14年勧業談話会を起し、翌15年共救社を創設し、村民救済を実践したことにある。末廣勧工所を設けて、染工製藍織物の三科を置いて、村内の子弟を募ってこれに業を授けた。また村内の田が耕地灌漑が不便なのをを嘆いて、畦畔を改良を発起し、耕地整理を成功させた。単に一身一家の幸せだけでなく、地域の公利民福のために努力している。私たちはこうした忘れられた多くの偉大な先人のおかげでこうして幸せにいられるということを「静岡県報徳社事蹟」を読むと気づかされる。静岡県報徳社事蹟二十二 共救社 1 所在地 静岡県浜名郡神久呂村志都呂2 沿革 明治十四年中、高部廣八という者があった(後に末廣と改める)。村民が幕府時代よりの宿弊を脱せず、安逸を貪り自奮の志に乏しく、おおむね他村の小作を行い、毎年巨多の金穀を吸収され、このために挙村次第に疲弊することを嘆いてその善後策を講じようとして金十円を寄付し、勧業談話会を起こしたのを創立の起因とする。同十五年改めて共救社と称し、専ら道徳を主とし、社員有志者より金銭及び米穀等の寄付を行わせ、以て救済の法を講じる。同十六年更に同一社員を以て共育社を創設し専ら自立を旨とし、子孫のために余力を以て別途積立金を行わせて共救社とあいまって社員の福利を増進することをはかった。同十八年共育社の積金を以て地所を購入し、 社の基礎を強固とした。同十九年両社の合併を行い、前共救社の社金を以て土台金とし、共育社の積立金を基本金と改め、単に共救社として県の許可を受ける。同三十四年一月法人の許可を得た。3 組織 勤倹推譲の徳義を奨励するを以て目的とする。その目的を達するために左の報徳金と称するものがある。 一 土台金 二 基本金 土台金は社員の寄付金及び基本金より年々組み入れた寄付金と社外篤志者の寄付金よりなる。 基本金は社員子孫の永安及び土台金を増殖するため、社員の篤志積立金よりなる。 定時総会は毎年一月これを開き、前年度諸計算その他の要件を議し、役員の選挙を行う。常会は毎年一回これを開会し、報徳の道義を講究し、農工商業改良の方法を談話もしくは演説する。4 事業 明治十六年三月凶作につき貧困者に大麦二十一俵を施与する。同十七年一月より社に日掛法を設け、同二十一年十二月に至る五か年、毎朝一戸金四厘五毛ずつ(なるべく余業を以て縄又は草鞋で代納せせる)の寄付を行わせ、毎月社員中、負債返済の途の立たない者及び篤志者または肥料購買力に乏しい者等に投票を以て無利息貸与を行う。その金額年度は左のごとし。 明治十七年中貸付金 六十円 同 十八年中同 百二十円 同 十九年中同 百八十円 同 二十年中同 二百四十円 同二十一年中同 三百円二十二二銭八厘 同二十二年中同 三百円二十二二銭八厘 計金明治十八年九月より備荒貯蓄法を設け、同二十二年八月に至る四か年間米穀の貯蓄を行う。同二十三年より同二十九年に至る七か年間、家計保護耕地を設けて社員の生計を保護する。その総計正米二百二十九年俵四斗一升二合六夕であり、その内訳は左のごとし。 明治二十三年中 三十二俵四升八合六夕 同 二十四年中 三十俵二斗三升四合九夕 同 二十五年中 二十四俵三斗八升五合四夕 同 二十六年中 三十八俵一斗四升七合五夕 同 二十七年中 三十九俵一升三合八夕 同 二十八年中 三十俵三斗二升五合九夕 同 二十九年中 三十四俵九升六合五夕明治二十五年より同三十年に至る六か年間、社に試作耕地を設け、米作の改良をはかる。同二十七年十一月小松原知事の勧業視察を受けたという。明治二十九年五月より貯金法を設け、毎月常会において適宜貯蓄を行わせ、引続き現今に至る。社運隆盛となったので、日掛金及び貯穀を行った社員にその善報として明治三十一年一月より投票をもって左の年限間金円を下付したという。 明治三十一年中 金四十四円八銭三厘 同 三十二年中 金三十四円一銭三厘 同 三十三年中 金三百三円八銭五毛明治三十六年一月より毎年社員中精農者に肥料購入費として無利息一か年貸を開始する。その金額は左のごとし。 明治三十六年中貸金二十四円 同 三十七年中貸金三十四円 同 三十八年中貸金七十円 明治三十七年より社田の稲作品評会を開始し、それぞれ商品を授与し、以てこの事業の発達進歩をはかった。社の創立以来毎年篤実な社員に金穀または物品を賞与した。5 時局に対する施設 明治三十七年一月社に出兵家族保護法を設けたが、同年三月更に志都呂尚武会と改称し、相当規約の下にこれを実行した。 明治三十七年三月社員は戦争中出兵者の労苦を以て心とし、勤勉余力を以て金一銭またはわらじ一足を一口と定め、共同して毎朝貯蓄を行い、国債の募集に応ずる趣旨で戦時貯蓄法を設ける。目下その貯蓄総額は二百五十円以上となっている。6 社員数及び資産金穀 正社員 三十九名 準社員 十二名 (準社員は基本金を積んで永安券を所持するが、土台金の寄付高が五円に満たないものをいう) 一 金一万六千二百二十六円八十九銭九厘 ただし地所反別十二町九反四畝十二歩 一 金四百七十五円 米九十三俵四升六合見積代 一 金千三百十六円三十九銭九厘 預金債券金額有高 計 金一万八千十八円二十九銭八厘7 創設者の小伝 高 都 末 廣 弘化二年十月生 末廣幼名を忠吉と称する。家はもとから貧しく中道で学を廃し、常に弟妹を襁褓(むつき)して父母を田畝の間に助けた。年十三のとき敷知郡篠原村の染戸某の徒弟となり、日夜業務を励精する。十八歳大いに感ずる所があっておもえらく、すべて業は熟練と蘊奥を究めるとにあると。すなわち家を辞して東奔西走諸家に歴遊しその秘法を研究して大いに得る所があって家に帰るときに年二十二歳。慶応二年十二月であった。かつて営業の資本にあてようと得た雇賃の貯蓄金わずかに十八両を以て自ら染戸を開き、父兄とともに自営自活、昼はすなわち家業に励み、夜は書を読み、算を学んだ。明治二年二月妻をめとり別に一家をなし、名を廣八と改め、鋭意励精その業を営んでいた。しかし薄資で赤貧洗うがごときで辛楚艱難つぶさにこれをなめた。常に思うに経済の道は勤と倹の二つのみと。発憤刻苦すなわち一日の業務を予定し、必ずこれを履行し、いわゆる時は金なりの格言を確守し、堅忍不抜節倹を努めること多年一日のごとく、その効果で験しがあり、家道がやや興る。よって専ら居村の進歩発達を旨として、公利民福を企画し、明治十四年勧業談話会を起し、翌十五年共救社を創設し、同十六年また共育社を創立して大いに社員を指導誘掖し、村民救済の法を講ずる。同十九年授産の目的を以て末廣勧工所を設け、染工製藍織物の三科を置き、村内の子弟を募ってこれに業を授けた。しかし同三十二年中閉所した。また明治二年より同十年に至る九か年間、敬神の趣旨に基づいて毎朝蓄積した賽銭の利倍増殖金百二十円を以て二十三年中、祭礼耕地というものを設け居村の氏神の祭礼の経費にあて、以て少壮者の旧慣を打破した。同二十一年居村の田畝の規模が極めて少なく畦畔少なく耕地灌漑の不便が甚だしいのを嘆いて地押測量を利用し畦畔の改良を発起し、三十三年田七十四町歩以上の耕地整理を成功するに至った。同三十九年末廣と改める。同日露戦役に際し、志都呂尚武会を組織した。8 現在専務理事の略歴 浜名郡神久呂村志都呂 高部廣八 明治元年十月四日生 明治二十九年三月共救社長となり以来引続き勤務 同年四月より遠江織物同業組合役員となり、以来引続き勤続。同年六月遠江五二会本部織物評議員となる。同三十年七月浜名郡品評会審査員を命じられる。同三十二年八月第二回東海実業区五県連合五二会品評会事務員となる。同年十月浜名郡会議員に当選する。同三十三年七月神久呂村志都呂耕地整理委員長となる。同三十七年三月志都呂尚武会会長となる。
2022年03月20日
「静岡県報徳社事蹟」二十一 上河津農家共同救護社 1 所在地 静岡県賀茂郡上河津村湯ケ野十八番地2 沿革 当社は農業の共同救護を旨とし、報徳の事業を実行する目的を以て明治三十六年四月設立許可を申請し、同年十二月許可を受ける。3 組織 農家の道徳を振揮し各自の品性を高めるために左の二項を実行すべきものとする。一 常に親睦協和を旨とし各自財産の分内を守り、善を積み、業を励み、共同救護して共に農家永安の法を立てる事二 教育に関する直後の御趣旨を奉体し本村永遠の安寧福利を図り勤勉、法を行い、国家富強の基を補う事以上の目的を達するために社に善種金及び永安家資金の二種を置く。善種金は社員の余業節倹より得た寄付金より成る。永安家資金は社員の分度外積金より成る。善種金は協議員会の決議により左の各項に支払われる。 一 孝子、節婦、義僕、順孫、精農その他農業特志者への賞典 二 道路橋梁の修繕その他公共事業の献金及び寄付 三 罹災者を救助し貧困者を撫育し及び無産の者を農業に従事させるなどの諸費または善行と認める事業四 社費および会議費4 事業 社員中天災地変その他の災害により各自所有財産の存否に関する場合がある時は、五か年賦返済の法を以て貸付けてこれを救助し、また社有土地を買入れたとき、毎年四月栽植日を以て松・杉・檜等の共同植付を行う。これは植付後三十か年に至り、社員の家屋新築等の用材をあてるために分与することとなる。 理事及び協議員は毎年七月社員作付の田畑を巡回し、平素耕耘の勉否を調査し、総会に報告することを例とする。5 社員数及び資産 社員 三十一名 資産 元資金百四十円 善種金三十三円六十一銭一厘6 創設者の小伝 創設者山田啓吉は賀茂郡上河津村湯ケ野大野円次郎の二男で、弘化二年五月十三日同村に生まれ山田家をつぐ。幼い時より書・漢・数を学び、長ずるに及んでよく世務に熟達する。明治十一年十五か村の副戸長を拝命し、学校幹事試補兼務を申し付けられる。同二十二年七月上河津村長に挙げられ、よく村政を治める。退職後村会議員、郡会議員等に選挙され、前後公職にあること三十年。その間徳教に衛生に勧業によく郷党を指導誘掖した。村内にまだ農家共同救護がないことを憂えて、有志者を説いて、同三十六年ようやく上河津農家共同救護社を設立し、以来社長としてその事業に尽瘁する。*上河津農家共同救護社静岡県賀茂郡河津町湯ケ野18番地概要上河津農家共同救護社は静岡県賀茂郡河津町にある法人です。なんと今でも法人は存在するのだ、驚き!!二十二 共救社 1 所在地 静岡県浜名郡神久呂村志都呂2 沿革 明治十四年中、高部廣八という者があった(後に末廣と改める)。村民が幕府時代よりの宿弊を脱せず、安逸を貪り自奮の志に乏しく、おおむね他村の小作を行い、毎年巨多の金穀を吸収され、このために挙村次第に疲弊することを嘆いてその善後策を講じようとして金十円を寄付し、勧業談話会を起こしたのを創立の起因とする。同十五年改めて共救社と称し、専ら道徳を主とし、社員有志者より金銭及び米穀等の寄付を行わせ、以て救済の法を講じる。同十六年更に同一社員を以て共育社を創設し専ら自立を旨とし、子孫のために余力を以て別途積立金を行わせて共救社とあいまって社員の福利を増進することをはかった。同十八年共育社の積金を以て地所を購入し、 社の基礎を強固とした。同十九年両社の合併を行い、前共救社の社金を以て土台金とし、共育社の積立金を基本金と改め、単に共救社として県の許可を受ける。同三十四年一月法人の許可を得た。3 組織 勤倹推譲の徳義を奨励するを以て目的とする。その目的を達するために左の報徳金と称するものがある。 一 土台金 二 基本金 土台金は社員の寄付金及び基本金より年々組み入れた寄付金と社外篤志者の寄付金よりなる。 基本金は社員子孫の永安及び土台金を増殖するため、社員の篤志積立金よりなる。 定時総会は毎年一月これを開き、前年度諸計算その他の要件を議し、役員の選挙を行う。常会は毎年一回これを開会し、報徳の道義を講究し、農工商業改良の方法を談話もしくは演説する。4 事業 明治十六年三月凶作につき貧困者に大麦二十一俵を施与する。同十七年一月より社に日掛法を設け、同二十一年十二月に至る五か年、毎朝一戸金四厘五毛ずつ(なるべく余業を以て縄又は草鞋で代納せせる)の寄付を行わせ、毎月社員中、負債返済の途の立たない者及び篤志者または肥料購買力に乏しい者等に投票を以て無利息貸与を行う。その金額年度は左のごとし。(続く)
2022年03月13日
「静岡県報徳社事蹟」二十 稲取村農家共同救護社 1 所在地 静岡県賀茂郡稲取村入谷八十三番地2 沿革 明治二十一年十月稲取村入谷有志者申し合わせ、稲取村入谷精農 会を組織し、毎月十五日を以て集会し、第一兵糧、第二常備物産、第三予備物産、第四後備物産と農産物を区別して、農業経済を進めることを研究する。二十六年一月家庭教育会と合併して、教育勅語の聖旨を必ず実行するべきことを盟約する。二十九年一月農家共同救護組合と改め、常備物すなわち養蚕売立て高一割を各自永安家資金として積立て、これを無利息五か年賦及び十か年賦の貸付を行い、負債がある農家の経済を改良させた。三十五年四月内務大臣に申請し、法人の許可を得て、稲取村農家共同救護社と称する。3 組織 稲取村入谷住民を以て組織し、専ら農家の道徳を振揮し、左の三項を実行することを目的とする。 第一項 常に親睦協和を旨とし、各自財産の分内を守り、善を積み業を励み協同救護して共に農家永安の法を立てる事 第二項 明治二十三年十月三十日の勅語を服膺し、道義を重んじ実践窮行を旨とする事 第三項 報徳訓を確守し神徳皇徳祖先父母の徳に報いるに我が徳行を修めるを以てし、勤勉節倹して貯蓄を行い、富強の基本を確立する事 以上の目的を達成するために社の報徳金がある。 善種金 社員余業節倹より得た寄付金 永安家資金 社員分度外積金 善種金は一たび差出した後は返戻されない。協議員会の決議によ り左の費途に支払い、その余を年々積立てて、社有地買入資金に備えるものとする。 一 陸海軍恤兵の必要あるときの献金及び赤十字社寄付金 二 力農精業孝子節婦義僕等の特志者に贈る賞与金 三 道路橋梁の修繕又は神社仏閣の修理及び献金 四 罹災者を救助し貧困者を撫育し、無産の者を農業に従事させる等の諸費及び善行と認める事業費五 社員の家族で八十才以上の者を待遇する諸費 六 社費及び会議費 永安家資金は社員が毎年農産物又は蚕業収益金の一割以上を分度 外の財として積立の日より六十か年を一期とし積立を行うものとする 社の付属として耆老会、母の会、青年会、処女会を設け、相当規 約の下にこの実行をはかる4 事業 毎月十五日総会を開き諸般の評議及び研究を行う 本社員は毎年四月十月の両度に樹栽日を定め、樹木の共同植付を行う。その植樹したものは現在杉檜六万六千本に及ぶ。右は植付後三十か年目より社員家屋の新築または増築の用材として無代価 を分与する約束となっている。また毎年八月社員の投票を以て精農力農孝子節婦等の奇特者四人(男二人、女二人)を選定し過半数の得点者を挙げこれに善行証書及び賞品を与え、かつその姓名を善行名簿に記載し、毎会の善行席に着かせ、格別の待遇をなし、かつ八十才以上の者を特遇し、あるいは貧困者を救助する。そして理事及び協議員は毎年七月三十日限り社員栽培の田畑を巡回し、平素耕耘の勉否を調査し総会に報告することを常とする。明治二十八年より三十八年十二月まで前記の目的のために支出した金額三千百七十七円十四銭に及んでいる。5 時局に対する施設 時局に際しては本社に第一軍人家族保護部、第二経済整理部、第 三業務整理部、第四物産増殖部、第五教育部、第六農業部、第七 家行監察部の七部を置き、各部に正副部長及び委員四名を置き、各部の受持ちを調査奨励させる。6 社員数、資産 社員数 社員 百三十八人 見習社員 六人(幼戸主で積立をしない者、事業及び社業に従事しない者)資産金九千三十円十五銭八厘 現在額 社有山林原野反別六十町六反二畝六歩7 創設者の小伝 田村又吉(*1)は明治二十一年十月稲取村入谷精耕会組織に際し、会長となる。同二十六年組織を変更し教育会との合併につき再選されて会長となる。同二十九年一月農家共同救護組合の監督となり、三十二年満期で再選される。 八代善次郎は明治二十九年稲取村入谷農家共同救護組合長となる。同三十一年一月十二日病死する。山田恒吉は明治二十六年一月幹事となり同二十八年本社青年報徳夜学校幹事兼任。同三十一年一月組長に選任され、同三十四年一月再選される。同三十五年一月共同救護社と変更したために解任されたが、更に再選される。同三十九年一月また重任する。*1 田村又吉 たむら-またきち天保(てんぽう)13年1月5日生まれ。 明治22年静岡県賀茂郡稲取村初代村長となる。 28年片平信明(のぶあき)を知り,ミカン栽培を導入,報徳結社稲取村農家共同救護社を結成。 またテングサ採取,植林事業,教育・医療・水道施設の整備につとめた。田村又吉翁の碑
2022年03月06日
「静岡県報徳社事蹟」十八 永安報徳社1 所在地 静岡県駿東郡原里村永塚三十七番地2 沿革 本社は明治二十九年の創設で、この起因は明治二年小田原領主より、備蓄をなすべき趣旨をうけ、永塚村のうちの主だった者数名が米穀を積み立ててきたが、その成績が良くなかったので、二十九年二宮尊徳の報徳組織に改め、当時あった金穀をその報徳社に寄付することを決して、その寄付金一百円を土台金とし、社員は善種金として毎月金三銭以上、一社員について金二十五円に達するまで、貯蓄積立を行うこととし、以て今日に至っている。3 組織 社員の災厄を救助することを目的とし、左の事項を実行する。一 皇徳及び父母祖先の徳に報いるために、わが徳行を修めるべきこと二 吾人の分度を守り、富盛の基本を確立すること三 善種を播き善根を植え、幸福を永遠に享受するべきこと以上の目的を達成するため、報徳金に左の二種がある。 一土台金 二善種金土台金は左の方法により成立し、飢饉あるいは天災時変の際社員の救助及び社費支弁に充てられ、その残余は利殖を謀るにある。社員の寄付金、社外篤志者の寄付金財産より生ずる利益善種金は社員共済救助のため設けられた所で左の方法よりなる。社員の余業及び節倹による積立金、社員及びその他篤志者の寄付金。4 事業 土台金を以て社員中の最貧者に対し、農事仕入に要する資金のために貸付し、秋の収穫の時期に返済させ、また社員の火災あるいは死亡等の災厄にかかった者には金穀を与えて救助した。既に社員が死亡のために弔祭料五円以上を贈った者三名、火災にかかって十円以上与えた者が一名ある。農事仕入のために金穀を貸付けた者は社員中ほとんど三分の一に達している。また善種金を社員中へ不動産抵当で貸付を行う。5 時局に対する施設日露戦端を開くに当って明治三十七年三月通常総会において左の事由を以て毎月の積立を休止した。勤倹貯蓄は常に平穏な時において行うべきで、凶年あるいは戦時等職業に影響をこうむる時に当たっては、その貯蓄を利用あるいは使用することがあっても、夏に貯蓄を行うべき余裕がないためである。そして創業して日が浅く、資本も少額であるので、時局に対してはなんら積極的な施設を行っていない。6 社員数及び資産 社員数 四十名 資産土台金 二百六十七円六十銭善種金 六百五十四円六十銭一厘土台米 六十六俵一斗二升五夕7 創設者、現任理事の小伝勝亦国臣は慶応二年三月原里村永窪に生まれ、家は世々村役人を勤め、農業を営んでいた。国臣は熱心に蚕業に従事し、村内の蚕業家を説いて、繭の質の一定、蚕種の共同購入を行わせるため、自費で明治二十三年より同三十五年に至る間、三度群馬、長野の二県に至り、善良の蚕種を購入して、飼育させ、かつ自分が飼育した繭を品評会、共進会等に出品して銀牌あるいは一、二等の褒状を得て、模範を示し、蚕の飼育の改良を奨励した。明治二十九年永安報徳社を組織して社長となり現時に至る。その公職には村会議員、町村組合会議員、郡会議員に選出された。学歴としては明治三十一年東京専門学校に入り、同三十三年九月政治経済科を卒業し、同月更に法律学校高等専攻科に入り経済学及び国際法学を研究し、法律本科と共に三十六年六月卒業する。帰郷後商事会社の役員だった。十九 御厨報徳社 1 所在地 静岡県駿東郡御厨町西田中二十二番地2 沿革 当社は相模国福運社長故福住正兄の誘いにより明治二十四年一 月故小宮山聞一発起のもとに結社し、常時社員の数寡少であったが、以来入社する者が次第に増加し、同二十九年に至って社員数三十五人に達した。ここにおいて社員数を限って新たに入社することを許可しないこととし、同三十四年に至って創立後十か年を経て報徳金が増加したので社団法人の許可を申請し同三十五年九月許可を得て今日に至る。3 組織 故二宮尊徳の遺教を奉じ徳に報いる道を務めることを目的とし、社員は左の箇条を模範を遵守すべきものとする。 一 神徳・皇徳・国恩及び父祖の恩に報いるに、我が徳行を修むべきこと 二 勤倹守分富栄の基を建てるべし 以上の目的を達せんがために社に報徳金がある。 一土台金 二善種金 三加入金 土台金とは社外篤志者の贈与金その他近隣の社よりの善種分与金または社員の特別誠心を以て差出す金をいう。本金は年々集金高の半額を定備金とし半額をば貸付に用いる。 善種金とは各自節倹を尽し特志を以て差し出す金をいう。本金は一たび差出した時は返戻されない。そして社中協議の上、賞与、救助、道路橋梁の修繕または社費に支出するものとする。 加入金とは日掛け縄索(なわない)その他の余業を以て日課に差し出す金をいう。本金は借財返済、家産増殖、子孫永安方法のために積み立てられるべきものとする。4 事業 事業としては毎月の定会に社員集会し、報徳の研究を行い、あるいは実験上の知識を交換する。また毎年十二月総会を開き、社務の報告及び報徳上の談話を行い、また左の貸付を行う。 賞与のため入札法を以て無利息五か年賦貸付を行う 社員の営業資本のために貸付を行う5 社員数資本金穀 社員数 三十五人 資本金 千八百七円七十一銭二厘6 創設者小伝 小宮山聞一は駿東郡御厨町深沢小宮山儀平次の長子である。家は世々農を業とし、非常に富裕で数代名主戸長等の職を務めた。幼い時から学を好み早くから俊秀として知られた。長じて福住氏をめとり家を継いで専ら力を公共の事に尽し、町会、郡会の議員に挙げられた。明治二十九年八月病気でなくなった。享年三十三。7 現任理事社長の略歴 梶常次郎は駿東郡御厨町深沢小宮山庄三郎の実弟で同時新橋梶半次郎の養子となる。資性温厚よく人を容れる。町村実施以来挙げられて御厨町収入役であること数年、後に町の助役となり、続いて町長に選挙されて現に在職中である。
2022年03月05日
「静岡県報徳社事蹟」十三 報徳積善社1 所在地 静岡県志太郡大富村中根四十九番地2 沿革 明治七年二月同意者を募り報徳積善社を結成し、同三十六年六月七日法人の許可を受く3: 組織 故二宮尊徳の遺訓に基づき報徳の事業を立て、兼ねて殖産工業 を目的とす。報徳金に縄索加入金・特別加入金・善種金・元恕金・別途積立金あり。これらには各自の随意積立並びに共同積立金の二種ありて、これら報徳金は貸付又は社費に支払われるものとする。4 事業 創立以来各社員の勤倹貯蓄を奨励し、風俗の矯正、報徳の発達を図るため、専門家を招いて時々講説を行わせた。また農業につとめる者または衆人の模範となる行為あるものに対しては賞与を行い、以て奨励の道を講じる。なお毎月一回報徳会を開いて報徳の道の講究並びに報徳金の積立を行い、毎年一月社員に無利息貸付を行う。5 時局に際しては勤倹節約を主とし、自営の道を講じたのみ。6 社員数及び資産 社員四十六名 資産金四千六百九十五円九十九銭です7 創設者塚本薫平 安政四年八月生まれる。世々農を以て業とする。近藤準平(*1)、曾我耐軒(*2)等に従い漢書を学び伊佐岑満(みねみつ)(*3)、萩原正年に就いて国書を学ぶ。中年に及んで東京慶応義塾に入って英学を修める。明治七年福住正兄著「富国捷径」を閲覧し、報徳結社の必要を感じ、郷党の有志とはかり報徳積善社を創設し、遠江国小笠郡倉真村岡田佐平治、駿河国安倍郡大里村石垣作兵衛等に親しく接し、報徳の道を研究して社員を導き助けた。当時、西駿地方報徳結社のことはなかったので、この社を以て一番始めとする。薫平は創設以来社長となり、自宅を以てその事務所にあて、この監理の任に当たる。明治十六年志太益津郡書記に挙げられ、以来二三の郡衙(ぐんが:郡役所)に歴任した間にも帰省して社務をみることを常とした。8 現任理事は塚本伊兵衛、松本治之、塚本廣吉、塚本七右衛門の四人である(履歴は略す)。*1 近藤 準平(こんどう じゅんぺい、1841年 - 1900年8月4日)は、明治時代の政治家。内務官僚。衆議院議員(1期)。浜松藩儒・近藤大三郎の嫡子として、遠江浜松藩領長上郡、のちの有玉村(静岡県浜名郡有玉村、積志村を経て現浜松市東区)に生まれる。岡崎藩儒官となり文学を教えたのち帰郷し、小学校の教員となる。1874年(明治7年)内務省に出仕し、千葉県少属となり、1877年(明治10年)帰郷し、副区長、区長、大区会議員などを経て、1879年(明治12年)静岡県会議員に当選。同副議長を務めた。同年、演説結社浜松己卯社を立ち上げ同社長となり、さらに藤枝に扶桑社を創立し議長となり民権思想の普及に努めたが、同年末には再び官吏となり静岡県に奉職した。1881年(明治14年)志太・益津郡長、1886年(明治19年)引佐・麁玉郡長を歴任した。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では静岡県第6区から出馬し当選。議員集会所に所属し衆議院議員を1期務めた。のち周智・小笠郡長を務めた。*2 曾我耐軒(そが-たいけん)1816-1870 幕末-明治時代の儒者。文化13年9月11日生まれ。春田九皐(はるた-きゅうこう)の弟。江戸昌平黌(しょうへいこう)で古賀侗庵(どうあん),松崎慊堂(こうどう)にまなび,老中水野忠邦(浜松藩主)につかえる。のち三河(愛知県)岡崎藩につかえ,明治2年藩校允文館の文学総括に就任。明治3年9月20日死去。55歳。江戸出身。本姓は春田。名は景章。字(あざな)は子明,子直。別号に詩仙,蘭雪。著作に「耐軒詩草」「幽討余録」など。*3 伊佐 岑満(いさ みねみつ) 15歳の時に幕府金同心見習となり、その後、下田奉行、具定奉行、海軍奉行等の幕府の要職を歴任しました。岑満は、若くして書、仏典、漢籍を修め、短歌や蘭学も習得しており特に書は小島成斉に師事し、通称は新次郎、如是(にょぜ)と号し、草書を得意としました。岑満の書の名声は高く、幕末の三舟、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟に書を教授、金原明善等の明治の逸材たちも数多く岑満から学んでいます。岑満は、明治元(1868)年駿府に移り、明治9(1876)年牧之原移り住みます。牧之原への入植後は、67歳という年齢のため開墾には従事せず、開拓士の子弟に塾を開いて教えるようになり、私塾は明治23(1890)年頃まで続いたと言われています。岑満は、明治24(1891)年11月82歳で卒去十四 相川報徳社1 所在地 静岡県志太郡相川村相川乙六十二番地2 沿革組織及び事業 明治三十五年一月創立。同年十月法人の許可を受け、故二宮尊徳の遺法を遵守し、報徳の事業を立てることを目的とし、土台金、善種金の二報徳金がある。その他加入金及び貯蓄金の二種がある。いずれも余業縄索または勤倹より生ぜさせるものとする。そして土台金を賞与恤救・道路修繕・勧業及び社費等に充用し、善種金を社員の出精者奨励のため又は農業商業の営業資本として貸付けることを常とする。事業としては、ただ節倹を主とし春秋二回部落道路の修繕を行う。また毎月一回社員の集会を開き、報徳に関する道義の研究、農商工業改良の方法を講演するのみ。時局に際しては社員中出征したものに対して善種金積立を補助したという。3 社員数及び資産 社員二十六名 資産金四十円九十銭一厘4 創設者は川村彌平、瀧井久次郎、瀧井千代吉、森下万次郎、川 村春吉、森下勝蔵の七名とす(履歴略す)5 現任理事長 川村彌平である。十五 勧農報徳社1 所在地 静岡県磐田郡笠西村愛野八十五番地2 沿革 従来俗にいわゆる子待庚申(ねまちこうしん)なといういうものを廃し、明治十一年十月始めて勧農社を興し、規則を設け以来報徳の事業を行っていたが、三十一年に至り規則を改正し三十六年一月十四日勧農報徳社と改称し、同年八月二十九日法人の許可を得た。3 組織 故二宮尊徳の遺教により報徳の事業を立てることを目的とする。s社の附随事業として予備金・余力金・補助金を社員賞与、貸付金、損害補償金、勧業、恤救、社費等に支払う。その他の金円を農工商業資本のため、社員の申出により年賦貸付を行い、あるいは地所を購入し又は預金として利殖の道をはかった。4 事業 毎月一回社員の常会を開き、予備金、余力金の積立を行い、毎年一回社員の総会を開いて、収支清算を報告し、講師を招いて、道徳上の講話を行う。なお五か年もしくは六か年ごとに精業善行等の者に賞与を行う。5 時局に対する施設としては御料地を借受けて植林の計画中である。6 社員数及び資産 社員数 百三十六名 資産金 千九百九十八円三十三銭八厘7 創設者は戸倉藤四郎、戸倉吉十郎の二人とする(履歴略す) 8 現任理事社長 桑原太三郎である(履歴略す)十六 江留報徳社1 所在地 静岡県志太郡相川村下江留九十七番地2 沿革組織及び事業2 沿革組織及び事業 明治三十二年十月の創設で、故二宮尊徳の教えにより報徳善種金を積立て、縄を索(な)い、徳を子孫にのこすことを目的とする。社に土台金・善種金の二種がある。定款の規定によって積立又は貸付等の事業を行う。また毎月一回定日に集会し、報徳に関する道義の研究を行い、兼ねて善種金、善種縄を積み、時として米を積むことがある。6 社員数及び資産 社員数 二十名 資 産 六百四十八円十四銭四厘7 創設者並びに現任理事 多々良治郎吉(履歴略す)
2022年02月26日
十一、駿河西報徳社1 所在地 駿河国安倍郡大里村石田七十三番地2 沿革 安政四年有渡郡石田村石恒治兵衛というもの、その村内の衰頽を憂い、二宮尊徳の門下故安居院庄七の教えを受け、報徳社を設けこれの救済の道を講、数年でその効を奏した。近隣これをならっ結社したものがはなはだ多い。そこでこれを総括するために明治十三年本社を創立し駿河西報徳社と称した。3 組織及び事業 本社は各支社及びその社員をもって本社員とし、毎年四回通常総会を開き、社員を会し、左の事業を研究す。 一 耕耘の改良・肥培の法を究める事 一 殖産興業に関する事 一 不正の利を貪らず公益を図る事 一 勤倹を行い窮民を救済する方法 一 荒蕪を開拓し水利を便にし山林を繫殖させる事 一 勧業の方法を講ずる事 一 風俗矯正の事 本社の報徳金は土台金・善種金・加入金の三種とし、土台金は社員特志をもって寄せ入れる金で、これを本社の基礎金として確実な銀行に預け置いてその利子を以て本社の経常費を支弁する。 善種金は篤志者の寄付によるもので,その支出の大要は次のとおりである。 一 社員の力耕者、特別善行者に褒賞金品を付与する事 一 社員の非常災害に罹った時の救済 一 各支社において勧業奨励費を要する時幾分を補助する事 一 荒蕪地開拓・道路堤防・用悪水路の新設及び修繕費を補助する事 一 臨時社費支弁の事 一 社員の家政整理のため五か年賦・七か年賦・十か年賦等に貸与して年賦返済の一か年賦を納めさせる事 加入金とは社員各自が非常予備のため本社に積み立てて置くものをいう。よって社員は神徳皇徳の諸恩に報いる意味で神納金と称し、社員一名につき一か月金一銭までを差し出すを例とする。後をこれを善種金と改称し、非常を救恤し、無利息貸付を行い、家政を回復させる、あるいは公益事業に義捐する資本となし、加入金は十か年をもって一小期とし、六十か年をもって一大期とし、年々四回の大会に積み立てさせ、社員の非常予備に貯蓄する。明治八年以来連綿継続して来て、現今第三期中に属する。そしてやむを得ない事情があって元金割戻しを乞う者にはこれを許し、負債償却その他救済に支弁させることもある。4 難村救済 旧有渡郡石田村は嘉永年中より風俗遊惰に流れ、負債増加し破産に瀕するものが多く、村民は生計に窮し、これを回復する方法がないようになった。同村里正石垣治兵衛はこれを憂い、救済をはかったけれども未だならなかった。その時に安居院庄七が庵原郡大内村にあって、報徳の道を講ずることを聞いて、有志者とはかって往って救済の方法を問い、後にこれを治兵衛の家に招き、その教えを受けること、三年。風俗を改め、徳義を尊び、業を励まして、村治おおいに挙がった。農事改良等に至って、第一に稲種を選び水選法を行い、あるいは他の地方と良種の交換を行い、定規をもって挿秧すると共に畦畔の屈曲を改め、高低を平均し、用水を便にし、排水路を設け、あるいは水田を開田となし、大いに収穫の増加を見るに至った。また各自の収穫を調査し、その最も多量のものに賞品を与え、調査表を作り、これを豊年鏡と称し、社員に縦覧させる等、農事上益することが少なくなかった。朝夕の余業としては縄をない、わらじを作り、これを他の町村に売って、貯蓄し、負債償却の資本とした。安政四年より明治三年に至る十四年間に救済の方法が大成したと告げるに至った。 近時にいたって本社は一層社員及び支社を督励して勤倹の実を挙げさせ、資産の一部及び特殊の積立金等をもって国庫債券の応募、軍事費の献納、恤兵奨兵の義捐等をなし、ますますこの道の拡張をはかりつつある。5 本社及び支社社員数、資産〔総計三社五三五人〕(略)6 創設者石垣治兵衛履歴 天保三年十一月安倍郡大里村石田に生まれる。八歳より同所牧牛寺住職澤翁に就いて習字読書を学び、十八歳の時に父三郎左衛門が病にかかって公務を弁じ難いと、里正代理を命じられた。当時石田村の困窮はその極に達していた。これを憂い、安居院庄七を家に招いて報徳の教えを受け、その教旨に則って救済の事に尽力し明治三年に至る十四年間で遂にその事業を完成した。 万延元年父が没して里正となり、後明治三年にこれを辞した。 明治四年駿河甲斐伊豆の諸国に至り報徳の道を教え、各自の家政を調査し歳出歳入を詳らかにして負債償却の方法を立てさせ、三十余社の報徳支社を設立し、これを総括するために春夏秋冬の四時に大会を開く事を定めて、同村牧牛寺を会場に定めたが狭隘となったために、静岡市宝泰寺を借り受けて三か年会場に充たしたが、なお不便を感じ、本社会場を建築するに決してその費用に報徳善種金及び社中有志者の寄付金を以てし、明治十三年八月起工して翌年十二月落成を告げた。同十五年一月大迫県令の臨場を請い、開場式を挙行した。 明治十二年三月静岡県会議員に当選する。 同十四年有渡郡安倍郡勧業委員に当選する。 同十七年七月静岡県勧業諮問会員申し付けられる。 同十八年有渡安倍郡勧業委員に当選する。 同年七月本県知事の命により、遠江国報徳社岡田良一郎、駿河東報徳社長高田宜和等と協議し、報徳の道の拡張のために毎月十七日を期して静岡県会議事堂において駿遠二州報徳学集談会を設け、明治十九年七月に至る満一か年間継続執行した。当時支社の総括農事改良及び支社の巡回、各地に報徳の道の伝播の要務多端で老体で自由に任せないため、このため本社社長を辞す。時に明治二十九年一月だった。以来本社内にあって監督の任に当たる。 以上記載のように安政四年より今日に至るまで専心一意、報徳方法によって社会の公利公益を増進しようと欲し、一家一村の救治に従事する。これによって明治二十六年本県知事より左の賞状を受ける。 有渡郡大里村 石垣 治兵衛 夙ニ志ヲ公益ニ注キ旧石田村ノ疲弊ヲ憂ヒ率先シテ之れが回復 ヲ謀リ其他ノ改良種交換肥料実験等意ヲ用ヒサルナク其ノ行為 洵ニ奇特トス依テ為其賞木盃壹組ヲ下賜候事 明治二十六年十二月十三日 静岡県知事従四位勲四等小松原栄太郎 その他天災地変救済義捐金等のため銀杯木杯並びに賞状を受けたこと前後数回に及んでいます。7 現任社長の履歴 安倍郡大里村石田二十六番地 石垣茂作 安政六年八月十一日生 明治十二年二月五日有渡郡石田報徳支社長に選挙される 同十三年九月二十九日有渡郡石田村衛生委員となる 同十四年十一月十六日有渡郡第二十四学区学務委員申し付けらる 同十六年一月九日公立静岡病院負担町村聯合会議員に当選する 同年七月三十一日公立静岡病院掛に当選する同十七年七月有渡郡川辺村組合聯合会議員に当選する同年十一月二十二日有渡郡静岡札の辻町始め有渡安倍両郡三百十六町宿村聯合町村会議長に当選する同年同月二十五日有渡郡川辺村組合衛生委員、静岡県より申し付けらる同年十二月二十六日静岡病院監査役に当選する同十八年一月駿河西報徳社幹事に選挙される同十九年一月駿河西報徳社長に選挙される同二十一年四月五日安倍川水防負担静岡札の辻町外九十二か宿町村会議員に当選する同年五月二十八日中原尋常小学校理事を有渡安倍郡長より嘱託される同二十二年一月十五日町村制執行されるに付き自治造制大里村準備委員に当選する同年三月十五日有渡郡大里村村会議員に当選する同年七月五日大里村名誉助役に当選する同二十三年十月八日有渡郡県会議員に当選する同二十四年七月二十一日大里村名誉職村長に当選する同二十五年六月十六日有渡安倍郡農産海産品評会事務委員を命ぜられる同年二月二十二日有渡郡県会議員定期改選に当り再選する同二十七年十月二十七年農商務統計局調査委員を嘱託される同二十八年三月十三日大里村名誉職村長に当選する同年四月二十二日有渡郡大里村村会議員定期改選に当り再選する明治二十八年五月十八日日本赤十字社有渡郡大里村委員を嘱託される同年二月一日有渡郡県会議員定期改選に当り再選する同年八月十日安倍郡大里村農会評議員に当選する同年同月十五日安倍郡大里村農会会長に当選する同年同月二十五日安倍郡農会評議員に当選する同年九月二十四日安倍郡農会幹事に当選する同二十九年十月十三日安倍郡群会議員に当選する同三十年五月二日静岡県会議員に当選する同年同月二十日静岡県名誉職参事会員に当選する同年大里村名誉職村長に当選する同年四月一日明治二十七八年戦役の労により木杯一組を下賜される同年六月八日地方衛生会委員を命ぜられる同三十一年十二月安倍郡名誉職参事会員に当選する同三十二年一月二十四日静岡県会議員に当選する同年二月十七日名誉職参事会員に当選する同年三月十四日静岡県学事臨時調査委員に当選する同二十七八年戦役の際、軍費の内へ金二百円駿河西報徳社代表献納したことによりその賞として木盃一組明治三十年六月一日下賜される同三十三年九月十三日安倍郡農産及び水産品評会柑橘梨実審査委員を嘱託される明治三十四年十一月十九日安倍郡大里村名誉村長に当選する明治三十五年六月十日日本海員掖済会静岡支部安倍郡委員を嘱託される同三十五年十月一日静岡県山林協会委員を嘱託される同三十六年三月安倍郡奨兵会幹事に当選す同三十七年六月三十日静岡税務署所得税調査委員に当選する同三十八年六月八日日本海員掖済会静岡支部安倍郡委員を嘱託せらる同三十八年十一月四日安倍郡大里村名誉村長に当選するその他天災地変救済義捐金を行った賞として木盃並びに賞状を受けること数回あった
2022年02月20日
創設者石垣治兵衛履歴 天保三年十一月安倍郡大里村石田に生まれる。八歳より同所牧牛寺住職澤翁に就いて習字読書を学び、十八歳の時に父三郎左衛門が病にかかって公務を弁じ難いと、里正代理を命じられた。当時石田村の困窮はその極に達していた。これを憂い、安居院庄七を家に招いて報徳の教えを受け、その教旨に則って救済の事に尽力し明治三年に至る十四年間で遂にその事業を完成した。 万延元年父が没して里正となり、後明治三年にこれを辞した。 明治四年駿河甲斐伊豆の諸国に至り報徳の道を教え、各自の家政を調査し歳出歳入を詳らかにして負債償却の方法を立てさせ、三十余社の報徳支社を設立し、これを総括するために春夏秋冬の四時に大会を開く事を定めて、同村牧牛寺を会場に定めたが狭隘となったために、静岡市宝泰寺を借り受けて三か年会場に充たしたが、なお不便を感じ、本社会場を建築するに決してその費用に報徳善種金及び社中有志者の寄付金を以てし、明治十三年八月起工して翌年十二月落成を告げた。同十五年一月大迫県令の臨場を請い、開場式を挙行した。 明治十二年三月静岡県会議員に当選する。 同十四年有渡郡安倍郡勧業委員に当選する。 同十七年七月静岡県勧業諮問会員申し付けられる。 同十八年有渡安倍郡勧業委員に当選する。 同年七月本県知事の命により、遠江国報徳社岡田良一郎、駿河東報徳社長高田宜和等と協議し、報徳の道の拡張のために毎月十七日を期して静岡県会議事堂において駿遠二州報徳学集談会を設け、明治十九年七月に至る満一か年間継続執行した。当時支社の総括農事改良及び支社の巡回、各地に報徳の道の伝播の要務多端で老体で自由に任せないため、このため本社社長を辞す。時に明治二十九年一月だった。以来本社内にあって監督の任に当たる。 以上記載のように安政四年より今日に至るまで専心一意、報徳方法によって社会の公利公益を増進しようと欲し、一家一村の救治に従事する。これによって明治二十六年本県知事より左の賞状を受ける。 有渡郡大里村 石垣 治兵衛 夙ニ志ヲ公益ニ注キ旧石田村ノ疲弊ヲ憂ヒ率先シテ之れが回復 ヲ謀リ其他ノ改良種交換肥料実験等意ヲ用ヒサルナク其ノ行為 洵ニ奇特トス依テ為其賞木盃壹組ヲ下賜候事 明治二十六年十二月十三日 静岡県知事従四位勲四等小松原栄太郎 その他天災地変救済義捐金等のため銀杯木杯並びに賞状を受けたこと前後数回に及んでいます。
2022年02月19日
忘れられた報徳の功績者を発掘する。十一、駿河西報徳社1 所在地 駿河国安倍郡大里村石田七十三番地2 沿革 安政四年有渡郡石田村石恒治兵衛というもの、その村内の衰頽を憂い、二宮尊徳の門下故安居院庄七の教えを受け、報徳社を設けこれの救済の道を講、数年でその効を奏した。近隣これをならっ結社したものがはなはだ多い。そこでこれを総括するために明治十三年本社を創立し駿河西報徳社と称した。3 組織及び事業 本社は各支社及びその社員をもって本社員とし、毎年四回通常総会を開き、社員を会し、左の事業を研究す。 一 耕耘の改良・肥培の法を究める事 一 殖産興業に関する事 一 不正の利を貪らず公益を図る事 一 勤倹を行い窮民を救済する方法 一 荒蕪を開拓し水利を便にし山林を繫殖させる事 一 勧業の方法を講ずる事 一 風俗矯正の事 本社の報徳金は土台金・善種金・加入金の三種とし、土台金は社員特志をもって寄せ入れる金で、これを本社の基礎金として確実な銀行に預け置いてその利子を以て本社の経常費を支弁する。 善種金は篤志者の寄付によるもので,その支出の大要は次のとおりである。 一 社員の力耕者、特別善行者に褒賞金品を付与する事 一 社員の非常災害に罹った時の救済 一 各支社において勧業奨励費を要する時幾分を補助する事 一 荒蕪地開拓・道路堤防・用悪水路の新設及び修繕費を補助する事 一 臨時社費支弁の事 一 社員の家政整理のため五か年賦・七か年賦・十か年賦等に貸与して年賦返済の一か年賦を納めさせる事 加入金とは社員各自が非常予備のため本社に積み立てて置くものをいう。よって社員は神徳皇徳の諸恩に報いる意味で神納金と称し、社員一名につき一か月金一銭までを差し出すを例とする。後をこれを善種金と改称し、非常を救恤し、無利息貸付を行い、家政を回復させる、あるいは公益事業に義捐する資本となし、加入金は十か年をもって一小期とし、六十か年をもって一大期とし、年々四回の大会に積み立てさせ、社員の非常予備に貯蓄する。明治八年以来連綿継続して来て、現今第三期中に属する。そしてやむを得ない事情があって元金割戻しを乞う者にはこれを許し、負債償却その他救済に支弁させることもある。4 難村救済 旧有渡郡石田村は嘉永年中より風俗遊惰に流れ、負債増加し破産に瀕するものが多く、村民は生計に窮し、これを回復する方法がないようになった。同村里正石垣治兵衛はこれを憂い、救済をはかったけれども未だならなかった。その時に安居院庄七が庵原郡大内村にあって、報徳の道を講ずることを聞いて、有志者とはかって往って救済の方法を問い、後にこれを治兵衛の家に招き、その教えを受けること、三年。風俗を改め、徳義を尊び、業を励まして、村治おおいに挙がった。農事改良等に至って、第一に稲種を選び水選法を行い、あるいは他の地方と良種の交換を行い、定規をもって挿秧すると共に畦畔の屈曲を改め、高低を平均し、用水を便にし、排水路を設け、あるいは水田を開田となし、大いに収穫の増加を見るに至った。また各自の収穫を調査し、その最も多量のものに賞品を与え、調査表を作り、これを豊年鏡と称し、社員に縦覧させる等、農事上益することが少なくなかった。朝夕の余業としては縄をない、わらじを作り、これを他の町村に売って、貯蓄し、負債償却の資本とした。安政四年より明治三年に至る十四年間に救済の方法が大成したと告げるに至った。 近時にいたって本社は一層社員及び支社を督励して勤倹の実を挙げさせ、資産の一部及び特殊の積立金等をもって国庫債券の応募、軍事費の献納、恤兵奨兵の義捐等をなし、ますますこの道の拡張をはかりつつある。5 本社及び支社社員数、資産〔総計三社五三五人〕(略)6 創設者石垣治兵衛履歴 天保三年十一月安倍郡大里村石田に生まれる。八歳より同所牧牛寺住職澤翁に就いて習字読書を学び、十八歳の時に父三郎左衛門が病にかかって公務を弁じ難いと、里正代理を命じられた。当時石田村の困窮はその極に達していた。これを憂い、安居院庄七を家に招いて報徳の教えを受け、その教旨に則って救済の事に尽力し明治三年に至る十四年間で遂にその事業を完成した。 万延元年父が没して里正となり、後明治三年にこれを辞した。 明治四年駿河甲斐伊豆の諸国に至り報徳の道を教え、各自の家政を調査し歳出歳入を詳らかにして負債償却の方法を立てさせ、三十余社の報徳支社を設立し、これを総括するために春夏秋冬の四時に大会を開く事を定めて、同村牧牛寺を会場に定めたが狭隘となったために、静岡市宝泰寺を借り受けて三か年会場に充たしたが、なお不便を感じ、本社会場を建築するに決してその費用に報徳善種金及び社中有志者の寄付金を以てし、明治十三年八月起工して翌年十二月落成を告げた。同十五年一月大迫県令の臨場を請い、開場式を挙行した。 明治十二年三月静岡県会議員に当選する。 同十四年有渡郡安倍郡勧業委員に当選する。 同十七年七月静岡県勧業諮問会員申し付けられる。 同十八年有渡安倍郡勧業委員に当選する。 同年七月本県知事の命により、遠江国報徳社岡田良一郎、駿河東報徳社長高田宜和等と協議し、報徳の道の拡張のために毎月十七日を期して静岡県会議事堂において駿遠二州報徳学集談会を設け、明治十九年七月に至る満一か年間継続執行した。当時支社の総括農事改良及び支社の巡回、各地に報徳の道の伝播の要務多端で老体で自由に任せないため、このため本社社長を辞す。時に明治二十九年一月だった。以来本社内にあって監督の任に当たる。 以上記載のように安政四年より今日に至るまで専心一意、報徳方法によって社会の公利公益を増進しようと欲し、一家一村の救治に従事する。これによって明治二十六年本県知事より左の賞状を受ける。
2022年02月17日
駿州報徳の師父 十、静岡報徳社 現任社長の履歴 静岡県静岡市両替町三丁目四十一番地 中上喜三郎 嘉永五年一月二十三日生一 明治十年報徳積善分社に加盟す一 同十二年同社幹事に挙げらる一 同十二年一月駿河国富士郡小泉村に出張、報徳の講話をなし、同地に結社させる。一 同年中福住正兄の勧めにより報徳に関する図書の発売を開始する。一 同十三年十月静岡報徳社を創立するにあたって社長に選ばれ、以来引き続き現在にいたる。一 同十六年三月相豆駿遠四州報徳社有志会を開いた際、福住正兄、新村里三郎等の勧めによる報徳に関する一切の図書発行の事業を始め、現在なおこれに従事する。一 明治十八年七月報徳事業者普及のため県下各社長あい諮り、毎月一回静岡に報徳集談合を開設することとなり、全会常務理事に推され、事務を整理したが、この会は満一か年で閉会した。一 明治十八年八月駿河国西報徳社幹事兼第三組合副組長となる。一 同年十月報徳土台米規約の編纂を行い、以来信用組合法定款模式、報徳社定款模式注釈、報徳神拝祝詞、報徳学道徳経済談等の著作を行った。一 同年十二月その筋の命により県下及び他府県設立の各報徳社の現況を調査しその取調べ書を内務省に提出した。一 同二十五年三月報徳の道の普及の目的のために福住正兄その他の社長等とはかって「報徳」と題する雑誌を発刊し、以来引き続き発行する。一 同年三月報徳二宮神社創建に際して神奈川県足柄下郡小田原町及び栃木県上都賀郡今市町両社建設委員となる。同三十三年六月栃木県今市鎮座県社報徳二宮神社維持評議委員に挙げられる。一 明治三十六年九月岡山県及び鳥取県下有志の請いにより出張し、各地を巡回して報徳講話を行う。一 同三十七年一月神奈川県高座郡農会の嘱託に応じて同郡各町村を巡回し講話を行う。
2022年02月17日
十、静岡報徳社1 所在地 静岡県静岡市両替町三丁目四十一番地2 沿革 明治六年中、市内呉服町に住する多々良某というものあり。家政回復の為、曲金報徳組合員某に就き、その教義を聞き、一家経営の方法を立てて実行、数年にして漸次回復することができた。ここにおいて有志を勧誘し曲金組合に加盟させた。以来日を追って市内商工業者のこれに加盟するものが多くなったため、明治八年十二月独立の一社を設けて報徳積善分社と称してこの道を講究した。これが本社創立の遠因とする。その後、市内において別に一、二結社をなすものがあった。しかしながらその社員はいずれも少数だったために明治十三年中協議の上、合併して一社とし、報徳積善分社に合したが、その取扱上において社員中意見を異にするものがあった結果、ついに同年九月中以前のように分立するに至った。元積善分社もこの際に二派に分かれ、東組西組となった。本社はいわゆる西組であり、分立後明治十三年十月現今の名前を父子、中上喜三郎がその社長となった。その後また一旦分立した各社員も漸次再び本社に加盟するものもあった。以来継続、明治三十二年一月にいたって公益社団法人として許可を得た。3 組織 本社は二宮尊徳の遺教にしたがい「徳を以て徳に報いる」の道を修め、善業をすすめ、汚風を正し、衰貧を興復し、富盛を保持するを以て目的とし土台金・善種金・加入金・元恕金の制度を設ける。 土台金とは二宮尊徳譲与金の内、先輩福住正兄よりの分与金及び報徳大本社(興復社をいう)並びに先功報徳社の寄贈金その他社員入社義務金または篤志社員の寄付金等を以て成立するものである。本金は逐年増加するときはその幾分を報徳永安金として公債証書を買い入れ、あるいは貯金とし、またその幾分を常備金とし、社員決議の上、左の各項に限り使用することができる。一、天災地変凶荒党非常予備のため金穀を購入し貯蓄をするとき一、土地家屋を購入し、あるいは殖産事業を起こし、または新家取 立、難村救済等を謀るとき 善種金は救済慈善を主とし、社員各自節倹を守り、余財を以て寄入する金円にして返戻を求め、あるいは返戻すべきものにあらず。その使用の途左のごとし。一、社員、生業出精、性向篤実にして特別善行あるものに褒賞を行うとき二、社員中、非常災害にかかりたるものを救助するとき三、慈善恤兵その他奨励のため献金または寄付金を要するとき四、社費 加入金は報徳の道を奉じ、各自生業を励み所得の一部を貯蓄する。返戻を乞われれば一節(六か年を以て一節)ごとにその出金高を計算し、元金のみを還付する。 加入金は社員入社満一か年以上報徳の義務を尽し、負担償還その他一家の方法を確立して成業の目的あるものに及び生業精励、家産増殖等のため、資本金として無利息月賦または年賦にて貸付するものとする。 元恕金とは貸付金割賦返納の後、月賦金はその一か月分、年賦金はその一か年分を報酬のため納めさせるものにして収入の上はこれを土台金に編入する。4 事業 本社事業としては社員相互に報徳の教えを遵守し、各自生業を励精し、節倹をなし、余財を産出して積立をさせ、土台金・善種金・加入金等を蓄積し、資産増殖にしたがい天災地変等非常予備となし、あるいは社員中生業出精、特別善行者を奨励し、及び無資力者にして水火病難等の災害にかかった者を救恤し、また報徳の教旨に基づいて無利息貸付をなして産業を興させた。その他その重なるものにしてこの手段として毎月一回常に集会を開いて報徳学を研究し並びに左記の事項について講話または研究をなした。 一、風俗を醇良にし徳義を厚くすること 二、勤倹を行い、窮民を救済する方法 三、怠惰をただし偽善を悛悔させること四、不正の利を貪らず公益を謀ること五、殖産興業に関すること六、耕耘の改善、肥培の法を究めること七、荒蕪を開拓し、水利を便にし、または山林を繫殖させること 本社は他の各社に比べ創立後歳月を経ること浅く、社員もまた少数でその多くは職工者なるなど他社と趣きを異にするところがある。これに加えて資産は未だ豊富ではなく、したがって事業発展の力が足らない。ゆえに従来施行した事業は左記の事業にすぎない。各支社はまた多くは数年前の創立で、目下専ら報徳の道を弘めるに努めつつあって、僅かに災害救助のため義捐金を出すに止まり、記すべきことはない。(続く)
2022年02月11日
駿河東報徳社 創設者の小伝 柴田順作略伝 高田宜和の略伝 宜和は駿東郡沼津町和田義宜の第二子にして庵原郡高部村柏尾高田七左衛門の養子となる。性怜悧にして学才あり。最も国学に長じ、地頭長崎某の領地の長となり名声遠近に高かった。明治維新後静岡藩地租改正御用係となり、よく地方行政の諮詢に答え地租改正事業についてはその功績が多大であったので、静岡藩より賞品を拝受した。後に郷社龍爪積神社の祠官となり権中教正となり専ら県下各地に神道要義を説教した。明治十五年郷社開田神社祠掌柴田順作の嘱託によりその監督する報徳社の教師に招かれ敬神愛国の要旨を報徳社員に講説して報徳社の振興をはかった。明治十六年衆社員に推されて駿河東報徳社の社長となり、柴田氏と共に報徳社の結成に力を尽くしたが、明治十九年六月病にかかり六十四を一期とし同年九月十六日を以て逝去した。 牧田勇三の略伝 牧田勇三は庵原郡尾羽の人にして天保十三年三月十五日を以て生まれる。勇三の父包栄は領主石川氏に仕えて在職四十年よくその任を尽くし功績が多かったという。天保の凶饉に当たり包栄千憂万慮わが事を捨てて専ら救済の手段を講じたが、良好の方法を得ず。時に二宮尊徳の門人柴田順作、報徳の教えによりて家道を回復したと聞いて就いて報徳学の大旨を聴き大いに得る所があった。安政三年自村に報徳社を創設し以て勤勉勧業の道をおしえた。村民はその徳に化し、数年たたないで大いに村民の富力を増した。これより先、勇三の家は領主の会計整理のため四十年間奉公したためか、安政の頃衰運を来した。包栄はそのうちにあって家事を忘れて専ら居村の回復に尽瘁し、よくその目的を達することを得たが、一家はいぜんとして衰運のなかにあった。そこで漸次自家の整理に従事するに至った。勇三はすなわちこの間に生まれ成長したため辛酸をつぶさになめ、よく父を補佐し家政の改革に従事すること十三年常に報徳の教えを奉じ一生懸命一家の経営につとめ、明治元年に至り家運ようやく旧に復した。同六年中、包栄の遺督をうけてますます勉めた。のちに戸長となり公事に勤め大いに名があがった。たびたび公益事業に寄付し褒賞を前後十数回受けたことがある。 明治十一年近村に報徳社が設立された。勇三もまた自村に再興を計り勤勉貯蓄の美風を養成し更に一村火災の患いを除こうとして自ら各戸に説いて社金を貸し付けて各家の屋根の構造を改めさせた。また柴田順作・高田宜和を補佐して駿河東報徳社を創設して勇三はその幹事長となって大いに社業の拡張をはかった。故文部大臣井上子爵かつてこの社を巡視されて勇三の功績を聞いて同人を旅館に招いて報徳の道を諮問されたという。 明治二十四年四月駿河東報徳社長柴田順作死亡後、勇三は推されて社長となったが、同二十五年病を以て社長を辞し、同三十三年九月逝去した。年五十九。
2022年01月15日
駿河東報徳社創設者の小伝 沿革において述べたように報徳社の勃興したのは柴田順作がその家道の回復を図ったのを始めとし、ついに多くの結社を見るに至った。駿河東報徳社の創立もまた順作がもっぱらこれを唱道したことによるが、その今日の盛況を呈するにいたったのは、牧田勇三・片平信明の両人が順作の教えによって報徳社を設け、その道を続けて、あるいは順作の後をうけて社長となり経営につとめた功績は少なくない。今その略伝を挙げればつぎのとおりである。 柴田順作略伝 順作、諱(いみな)は堅節、字は光年松齋と号する。初め権左衛門と称し、後に今の名に改めた。家世々富豪、石川氏領の里正である。そして苗字帯刀を許され、禄二人口を賜る。父祥右衛門のとき家道衰えて所有の田園を売却するに至る。順作その後をうけるに及んで、天保凶饉の余波を受け、村民生計の道を失うに至った。順作もまた大いに産を失い、耕すに半畝の地なく、ただ祖先の遺功により領主から受ける所の俸禄のみとなった。すでに自給することができず、他を救うことはもちろんできなかった。順作は慨然として興復の志を懐いて、ついに里正を辞して家を出て、駿東郡竈新田の人小林平兵衛の家に寄食した。これは天保十三年二月のことで、時に二十八歳であった。平兵衛は二宮尊徳の門下で、また順作とは旧知だった。そのため順作にその本を報いる道、あるいは難村救済の法及び衰家再興の法を説いた。順作はかつて復興の事に苦心したが、いまだその法を得なかったので今その説を聴くに及んで意志大きく動き、後に平兵衛に誘われて二宮尊徳を野州桜町に訪れ親しくその説話を聞いて大いに得るところがあった。なお留まり教えを受けることを請うたが許されなかった。かえって尊徳より金二円を支給されて速やかに帰国すべきことを諭された。順作は帰ってからこの道を敬慕する念がぼつぼつと起きて止まず、天保十五年また尊徳を訪れ、ついに薪水の労をとって仕えることができた。居ること四年にして、帰る順作の祖先かつてその家を興す当初において藤蔓で編んだ背負縄で荷物を背負って北部両河内の各部落に行商してその資産をなしたという。よって後代の主はその祖先の勤労を追念し、子孫の模範にしようとその背負縄を保存した。その箱の銘に「子々孫々祖先の艱苦を忘るべからず」とあった。順作はこれを見て感奮し、これより鶏鳴に起き夜半に寝て常に寸陰を空しく過ごすことを恐れ、焦心苦慮もっぱら家道の復興を図った。後にようやく資産を得て、嘉永六年八月尊徳を日光神領の官舎に訪れ、多年経営の要を語ったところ、尊徳は大いに喜んで金五円を贈って、その志を賞された。その年再び里正に挙げられ、それ以来、報徳の道を唱え、村民を奨励した。安政三年二月庵原郡尾羽村の人、牧田包栄、居村の衰退を憂い、順作に乞う所があった。順作は答えなかった。包栄は来て請うて止まない。順作はその至誠を知って、報徳の法を授けた。ここにおいて包栄その教えを奉じ、数年ならずして居村はにわかに回復した。同五年郡の取締役を命ぜられた。慶応三年領主石川氏にぬきんでられて江戸官舎在勤勝手方取締りを命じられた。後に王政維新に際して辞して帰り、もっぱら報徳の教えをひろめた。明治八年山原村郷社関田神社神官を命じられた。同九年十二月杉山村に報徳社を設け、同十一年に居村原に、同十二年二月尾羽村にこれを設けた。それ以来、遠近これを伝え、結社をなすものが多かった。よって順作は柏尾村高田宜和とはかって駿東報徳社を設置し、その成るに及んで推されて社長となり、大いに尽くす所があった。その結果、庵原、安倍、富士、駿東の各郡に三十有余の結社を見るに至り着々社業の拡張を図りつつあったが、明治二十四年四月二十三日逝去した。享年七十八。「二宮翁逸話」80 二宮翁と柴田順作柴田順作氏は静岡県庵原郡の人で報徳を信奉して庵原村付近に報徳の種子(たね)を蒔き、こんにち庵原村のごとき良村を作りたてる下ごしらえをなせし事については非常の功績のある人で、柴田氏は二宮翁より教えを聴いて庵原郡に帰りて報徳の道を説き、ついに庵原村字杉山の徳望片平信明氏に報徳の趣旨を伝え、しかして片平信明氏はただにその付近に報徳の種子(たね)を播いたのみならず稲取の前村長田村又吉氏にもこれを伝えた。しかして稲取村は報徳の主義を根拠として村政の改革を行い、今では良村の一として数えられるようになった。また庵原村にある東報徳社長西ヶ谷可吉氏もやはり柴田順作、片平信明の両氏から報徳の道を聴いて、後世にまで感化をのこす人となったのである。なお順作氏の報徳に入った道行がよほど教訓的である。この人はかの辺りの高持(たかもち)であって約800石を有しており、また有金も少なくないので、一時は5万両も持っておったということである。一体駿州は製紙業が盛んで、柴田家の先祖もこの製紙の事業に勤勉努力して身代を造ったので、順作氏はちょうど3代目に当たる。かように父祖の勤勉でせっかく造り上げられたこの身代がどうしてつぶれるようになったか、順作氏が破産をした行経を尋ねると今で言う米相場に手を出した結果である。そこで親類が打ち寄っていかにしてこれを仕法すべきかと協議をした。ところが前にも言うがごとき大家であるから、証文を取って貸した金ばかりでも約800両ばかりあったが、ナカナカ取れない。で「御鉢判」今の(命令書のごときもの)をもって取りに行けば必ず取れるに相違ないという、親類一同もこれに同意してこの方法で旧貸金を取り立てようとしたのである。ところがかつて静岡の江川町の旧家に黒金屋という家があり、この家が身代限りをしようといた時、「御鉢判」をもって昔の貸し金を取り立てた。しかるに負債者の一人に子どもをもっている老人の家があって、「御鉢判」をもって厳談に及ばれたので一日延期してくれと願っておいて、ついにその老人が井戸に投身して死んだという話がある。そこで今、自分が失敗して旧貸金を「御鉢判」で取り立てることになると、その人数が180人ばかりあるので、このうちには2人3人は自殺するのがあるであろう。自分は仏教信者であるから、そういう無慈悲の事をするに忍びないというので、この事を実行するのに躊躇をしたが、自分がせっかく親類のきめてくれたことを水泡に帰せしむるので済まないからというので、親類へはしばらくその実行を延期してもらって、伊豆に入湯に行くという名義で竈新田の小林平兵衛を訪れた。ところが平兵衛は熱心なる二宮翁崇拝家であって心学道話の先生であったから、「お前がそれほど失敗したのなら俺が二宮翁の所へ連れて行って、仕法の道を聴かせてやろう、それには明日行こう」と言うたところが、順作が、「それは困る。明日というても野州表までは日数もかかることであるからそう速急のことにはいかない」と言ったら、平兵衛が言うには、「お前は仕法をするのに親族の説に従うのか、俺の説に従うのか、今日の場合一大決心を要さなくてはならない。お前は庵原で死んで俺の家で生きよ」と言いつつ、徹宵じゅんじゅんと説諭された。しかしてその翌朝出発して急速に二宮翁のもとに行こうということになると、順作が「どうか今一遍宅へ手紙が出したいから暫く待ってくれ」と頼むと、平兵衛が言うよう「俺の家で生き返った者が家へ手紙を出す必要はない。直ちに行こう」と言うので野州まで引っ張られた。その途中で二人は相州伊勢原の加藤宗兵衛の家へ立ち寄った。加藤宗兵衛はまた熱心なる報徳主義の人であって、何が原因かは知らないが、この人も身代を蕩尽して無一物となった時、二宮翁に説諭されて当時は牛飼いをしておったのである。この男が牛をひいて野に行く途中、平兵衛・順作の二人が伊勢原の入り口で出会ったのである。そこでその夜はこの男の家に一泊して翌早朝出立して野州に行って、平兵衛が二宮翁に順作を紹介したところが、二宮翁が平兵衛に向かって、「お前はなぜこういう迷い者を連れて来たか」と言われ、平兵衛は非常に叱られた。そうして翁は「かくのごとき迷い者に会うことはできない」と言うて面会を謝絶された。それから順作は21日の間、翁に会うことができないので、隣の垣根から二宮翁がその辺の百姓に説得されるところを立ち聞きをしてその間に非常に感服したのである。そうして21日目に初めて翁に面会することを許された。その時、翁は順作に向かって「お前それほど立派な家であったに、どうしてそういうふうに零落したのか、またこの場合どういうふうに、仕法をする積もりか」と一応意見を聞かれたので、その次第をつまびらかに述べたところが、翁の言われるのに、「それほどの大家であればお前の先祖がみごと家を繁栄ならしめた原因があるであろう、何かお前の家に宝物として秘蔵しておる物はないか」と言われたので、順作が「ハイございます、紙を買出しに行くために用いました背負い縄がございまして、これが家を栄えしめたものですからそれを桐の箱に納めて秘蔵してあります」と答えると、二宮翁は「それあらばお前は祖先の足跡を踏んでゆかなければなるまい。そういう背負い縄を秘蔵しないでそれを取り出して毎日働くべきである。使用すべきものを宝物としてしまっておくものだから今日のような大失敗を来たしたのである。早く帰ってどこまでも背負い縄をもって稼げ」と言われて、『古道に積もる木の葉をかき分けて天照神のあしあとを見む』という歌を詠んで聴かされ、かつ帰国するの旅費として2両2分の金を与え、なお言葉をついで「直ちに帰国し、先祖の足跡を踏んで働け」とさとされた。しかしてその時与えられた今一つの教訓は「貸し金を取り立てようということはこの際もっての外のことである。そういうやり方は春収穫すべきものを冬の間に取らんとするのと同じことである。たとえば畑の中にある芋種を掘り出して食うようなもので、親芋を取ってしまえば子はできない。そういうことは全く止して一途に先祖の足跡を踏んで稼げ」と言われた。そこで順作はつらつら思うのにいったん国へ帰らば決心が崩れるに相違ないというので、二宮翁の台所におる浦賀の宮原エイ州の助手になって、翁には内緒で3年の間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。そうしてついには翁の黙許を得て時々その給仕に出たことがある。である時、翁の言われるのに、「お前はこういう人間だからいかない」と言うて香の物の切れかかったのをハシではさんで「この通り全く切れていない。切るならばシッカリ切るがよし切らぬならば切らぬがよし、切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりしておるから失敗するのである」と言われたことがある。その後順作は当時のことを思い出しては「あの時ぐらいつらかったことはなかった」と一つ話しにしたということである。
2022年01月13日
「駿州報徳の師父と三遠農学社―静岡県・報徳の師父 第二集―」(仮題)訳注「静岡県報徳社事蹟」七) 駿河東報徳社 その14 事業 本社は各支社を監督する外、左の事業を行う一 社員中、力耕精業及び特別善行者を褒賞すること一 社員中、遭難または薄命者を救助すること一 公益事業殖産事業費のため、社員に対し無利息年賦金の貸付をなすこと また毎月十五日常会を開き報徳学を講話し春秋二季に総会を開き、道徳経済の要義及び実業に関する事項を講演もしくは研究する。その研究すべき事項おおむね左のごとし。一 耕耘の改善、肥培の方法二 殖産興業に関すること三 商法の利を正しうし、公利を謀ること四 勤倹を行い窮民を救済する方法五 荒蕪を開拓し水利を便にし、山林を繫殖すること六 勧業の方法七 風俗を醇良ならしめ、徳義を厚くする方法支社は各その定款の規定に従い毎月常会を開き、報徳学を研究し、毎会土台金善種金加入金等適意応分の出資をなさしめ、これを以て社員興産資本として低利貸または無利息年賦貸をなし、あるいは米を買入れて蓄積し、また毎年社員中特別善行あるものに褒賞を与え、あるいは社員に共同貯金を奨励してこれを銀行に預け入れ、もしくは郵便貯金となし、以て利殖を図らせる等のことをなします。一 貸付報徳金の貸付は毎年十二月二十日常会においてこれを行う。貸付金高は役員の協議を以て定める。その償還方法は五か年賦、七か年賦、十か年賦の三種で、すべて無利息とし、毎年春秋二季大会の日において年賦金の払込をなさしめる。ただし別途加入金を以て貸付けるものは必ず五か年賦に限ることとなす。二 風教 風俗道徳に関しては特筆すべき事例なしといえども、報徳の結社のある部落は人民勤勉にして風俗また良好であることは一般の認める所です。報徳社員であって、いまだかつて租税を滞納した者があることを聞かないようなことはその効果の一つです。三 殖産興業 殖産興業は徳に報いるものの務める所であるを以て、報徳社の結成ある部落は特に発達している。今その著しいものを挙げれば左のごとし。庵原郡庵原村尾羽は明治の初年までは住家多くは茅屋草舎なりしが牧田勇三報徳社を興して以来、火災風害の憂いを除かんとして苦心の末、低利の貸付金をなす方法を講じ、これによって一部落四十余戸の民家を瓦葺きとした。故に文部大臣井上毅子爵かつてこの地を過ぎた際に、これを見て大いに賞揚された。 庵原郡庵原村杉山は柑橘の適地であるが、その産額僅かに一か年二百五十円に過ぎなかったが、明治九年故片平信明報徳社を結成し専ら殖産のみちを鼓吹した結果、今や一か年の収穫金一万五千円となり、また茶の収入は従来一か年一千円だったものの今や一万余円に上り、その他蚕業大いに起り、その産額もまた少なくなかった。 庵原郡小島村但沼はかつて貧村の聞こえがあったが、明治十年平岡喜太郎、望月久作の二人が報徳社を設け、産業を奨励して以来、漸次回復し、近年にいたっては蚕業の収入だけでも一か年金七千余円に達したという。 庵原郡庵原村吉原報徳社は社員僅かに十一名であるが、社員よく勤勉し、大いに産業に勤めた結果、現今山林十二町歩を買い得て杉苗五万本余を植栽した。安部郡入江町朶美報徳社は社員中の力農精業者に褒賞貸付をなすにあたって現金ではなく公債証書を貸付けてその証書はこれを報徳社に預かりおいて、公債利子の外、年賦返納を行わせ満期に至って公債証書を交付している。これは即ち貯蓄の方法であって、これによって産を興したものが少なくはない。庵原郡庵原村杉山報徳社は明治二十四年より山林を購入し、現今その反別八十五町歩に達し、内二十一町歩には杉、松、桧の植栽を行った、従来この材木は社員中山林を有しない者に対し、家屋の建築を助けるため、無代交付を行う予定であるという。四 水 土木 庵原郡庵原村茂畑は山間の部落で道路険悪、車馬の交通極めて困難だったが、茂畑報徳社理事杉山百太郎は明治二十一年十月社員をして自ら開鑿の業に当たらせ、また社金三百円余を支出し、一か年を以て延長二千二百六十八間の車道を開鑿した。それ以来薪炭木材等運搬の便を得、そのために本部落の生産力を増加するに至った。 駿河東報徳者すなわち本社は明治十六七年の頃、東海道道路破損の個所あるを嘆いてその付近の有渡郡中吉田村及び庵原郡東倉沢村の破損所を社員の力役と社金二百余円とを以て修繕し一般交通の便を計った。 庵原郡庵原杉山報徳社は杉山区に車道なきを憂え社員等明治九年より同三十六年までの間に金二千二円五十銭七厘を費やして延長千三百八十五間の車道を開鑿した。 庵原郡庵原村庵原報徳社員西ヶ谷可吉は耕地整理の必要を認むれども、これを実行するものなきを憂え、率先自己の所有地一町二反二畝歩の耕地整理をなし、一般の模範となった。 庵原郡庵原村杉山報徳社員青木清六は明治十四年より同十六年まで三か年を以て杉山区字足沢大峯の山嶺にある原野四反二畝歩を開拓し二十二枚の棚畑を作り、その畦畔はことごとく石を以て積上げ以て平坦の畑となし、今やこれより何年金五百円の収穫を見るに至ったという。五 教育 庵原郡庵原村杉山報徳社理事故片平信明は子弟の夜間徒らに放歌徘徊する悪風があることを嘆き、これを学に就かせて漸次順良の民にしようと明治八年十一月夜学校を創設し、同十四年学資金千円を備え、それ以来その利金を以て校舎の費用を支弁した。この挙は故井上文部大臣の知る所となり、特に視学官にこれを視察させ、ついに実業補修学校の模範とされるに至った。この外庵原、原に実業補修学校があった。また尾羽夜学校があり、その他各報徳社は一般に夜学校を設け青年子弟の教育を行っています。六 賑恤(しんじゅつ:貧困者等を救済する) 本社は専ら貧民に自助的精神を煥発させることを以て要旨とし、集会の講話には常に自営自活の道を説き、自己を愛し他に愛するは人道の要義であることを教え、他人の救済を受けることは大なる恥辱であるという観念を抱かせる。要するに清貧の神髄はむしろ精神的救済にあって、その穏健なる思想の涵養にあるとする。この趣旨によって社員で貧を免れた者が多い。また賑恤は遭難者あるときに応分の金銭物品を給与している。七 難村救済 難村救済の要旨はその町村の荒廃を開拓するには、村民性格の改善を計ることを先とする。二宮尊徳の教えに雑草を刈ろうとすれば先ず鎌を研げ。鎌がすでに研げれば天下の草は刈り得たるに等しい。村民の個性健全となり勤勉の民となれば難村の救治は手のひらをひるがえすがごとしと。本社はこの趣旨によって専ら個性の改善開発に努めつつある。その事蹟の一二を挙げれば左のごとし。 庵原郡庵原村杉山区は明治九年報徳社結成当時は区内の土地二百八町歩中三分の一は他村民の所有に属したが、専ら人心の改善と殖産の増進とを計った結果、大いに生産力を増加し、従来他村人の所有に係る区内の土地をことごとくこれを買戻し、なおその余力を以て他町村土地三百余町歩を買得し区民の富力は実質上杉山区を数倍にするに至った。これは難村救済の著大なるものである。 また庵原郡高部村押切は難村で明治二十五六年のころ、小作人ますます困弊に陥り、地主小作人の調和を欠くに至った。当時大石浅次郎という者がこの状況を憂慮し小作人のみを集合し、明治二十七年報徳社を結成し勤勉力行を奨励したところ、結社後十年で農業が大いに進んで村風また善良となった。八 篤行者奨励 本社は毎年役員をして各支社を巡回させ、一社一両名の篤行奇特者を選抜調査し、年々秋季大会の際これに賞品または金員を賞与し以て一般社員の善行を奨励している。その創立以来三十六年までに賞与したものは左(略)のごとし。九 時局に対する施設(略)5 本社支社社員数及び資産(略)
2022年01月10日
昭和24年に駐留軍のインデボーデン少佐が「青年」という雑誌に『二宮尊徳を語る』というインタビュー記事を掲載しているその記事のなかに杉山部落の話がある。『二宮尊徳を語る』ー新生日本は尊徳を必要とするーGHQ新聞課長D・C・インボーデン (一)日本が生んだ最大の民主主義者 戦争が終わってからこの夏でまる4年になる。この間、日本人は一生懸命になって日本の新しい生き方ーー民主主義国家の建設ーーの足固めに努力してきた。民主主義という言葉は新聞に雑誌にまた講演に何千万回叫ばれ、綴られ、読まれてきただろう。(略) ここで私の言わんとすることは民主主義というものは、個人が誤りのない理性と人間愛をもって真理を追求するとき、必ず到達する唯一絶対の結論であると言うことである。これは人種、国柄の如何を問わない。 一口に封建時代と片ずけられてしまう日本の過去の歴史のなかにも、そうした真理追求のために身を挺した人物はいるのである。 その一人、尊徳二宮金次郎こそは、近世日本の生んだ最大の民主主義的なーー私の見るところでは、世界の民主主義の英雄、偉人と比べいささかの引けもとらないーー大人物である。 祖先のうちにこのような偉大な先覚者をもっていることは、あなたがた日本人の誇りであるとともに、日本の民主主義的再建が可能であることを明確に証明するものであろう。 私は日本に来て、その歴史にこの人あるを知り、地方によってはその偉業がさかんに受け継がれているのを目の当たりに見て、驚きと喜びの情を禁じえない。 (二) 静岡県杉山部落の話 日本人なら誰でもーー小学校に通ったことのあるものならーーあの肩に重い薪背負い、歩きながら、むさぼるように書物に読み耽っている少年の像を想い浮かべることができるに違いない。勤勉の生きた姿として、二宮金次郎は、必ずや日本人の一人一人の頭の中に根強く焼き付けられているはずである。 ところで、あなたがたが修身教科書から学び取ったものが、ただ寝食を忘れて勉強する模範少年の型だけであったならば、それは甚だ危険な学び方である。勿論、勤勉は大きな徳の一つであるが、ただ単に努力家というだけの人ならそう珍しいものではない。ひとり営々として富を貯え、地位を築き上げた人の話はわれわれの良く耳にするところである。 二宮尊徳の教えるものは、そうしたいわば利己的な立身出世主義ではなく、社会人として践み行うべき一つの大道である。 すなわち「いかなる人もこの世に生をうけ生を保っていられるのは、天と地と人のおかげである。したがってその広大な恩に報いる手段として、人は生ある間、勤勉これ努めねばならぬ」これが尊徳の主張しかつ自ら実践した報徳の教えであって、彼の主義とその主義から生まれた経済の方法ーーというより一種の道徳にもとずく社会政策ーーは死後一世紀に近い今日なお一部地方農村の指標となり、他の町村では見られない効果をおさめている。 私は日本各地を旅行して、その伝統的美風の多くのもの、勤勉、正直、朴訥、隣人愛などが農村にこそ脈打っていることを示す事実に再三ならず出会ったが、なかでも特に心を動かされたことが一つある。 静岡県庵原郡杉山部落を訪れた時のことである。この村では、過去85年の間、ただの1回の犯罪事件のないことを知って感嘆した。 これは世界の歴史を紐どいてもなお稀有のことであると思う。思想的にも、心理的にも、道徳的にも著しい頽廃を特徴としている戦後の日本社会、あの血なまぐさい帝銀事件をはじめ、下山事件、さては三鷹の無人電車暴走事件などを生んだ同じこの国の一角にこのような犯罪のない村が存在することは、一寸常識ではうなずけないことである。 この村の経営がいっさい尊徳の遺した主義、方法に則っていることを聞いて、はじめて納得がいったのである。 」調べてみると、下村湖南の「次郎物語でも杉山部落が取り上げられていた。 友愛塾で朝倉先生のもとで研鑽を励んでいた次郎は塾生達みんなと静岡県に旅行に行く。「最初の目的地は、静岡県のH村だった。この村にはKという友愛塾の第一回の修了生がいて、村生活に大きな役割を果たしているということが、すでに早くからたしかめられていた。朝倉先生としても、次郎としても、ぜひ一度はたずねてみたい村だったのである。 みんなは、H村につくと、まず小学校の一室に招(しょう)ぜられた。そこには村の青年たちばかりでなく、村長以下のあらゆる機関団体の首脳者が集まっていて、歓迎してくれた。儀式ばった歓迎では決してなかったが、顔ぶれがあまり大げさなので、朝倉先生がK青年にそのことをそっとただしてみると、かれはこたえた。「この村では、一つの機関や団体が何かいい催しをやると、他の機関や団体もいっしょになって喜んでくれ、できるだけの応援をしてくれるんです。今日も私のほうからむりにお願いして集まってもらったわけではありません。」 いちおうあいさつがすみ、お茶のごちそうになると、陽(ひ)のあるうちに村中の諸施設を見学した。そのあと、また小学校に集まって、村の青年たちと夕食をともにし、座談会をやったが、ただ場所がちがっているというだけで、気分ははじめから終わりまで友愛塾そっくりだった。この村の青年たちは、すでに友愛塾音頭(おんど)までを、塾生たちといっしょにじょうずにおどることができたのである。 ふんだんに用意してあった夜具にくるまって一夜をあかし、翌朝早くこの村をたったが、塾生たちのこの村からうけた印象は、なごやかな空気の中にみなぎっている生き生きした創意工夫と革新の精神であった。なお、わかれぎわに、村長が朝倉先生に私語した言葉は、それをはたできいていた塾生たちに、異常な感銘(かんめい)を与(あた)えたらしかった。村長は言った。「この村をごらんになって、何かいいことがあったとしますと、その半分以上は、実はK君の力ですよ。K君は、自分ですばらしいことを考えだしておいて、それを実施する場合には、だれかほかの人を表面に立てるんです。私が村長としてこれまでやって来たことも、たいていはK君の入れ知恵でしてね。ははは。」 第二日目は、報徳部落として全国に名のきこえた、同県の杉山部落の見学だった。杉山部落は、歴史と伝統に深い根をもち、すでに完成の域にまで達しているという点で、新興革新の気がみなぎっているH村とは、まさに対蹠的(たいしょてき)だった。明治維新ごろまでは乞食(こじき)部落とまでいわれた山間の小部落が、今では近代的な組合の組織を完成し、堂々たる事務所や倉庫や産業道路などをもつに至ったその過去は、塾生たちにとって、まさに一つの驚異であった。 かれらはめいめいに自分たちの村の貧しい光景を心に思いうかべながら、この富裕な部落をあちらこちらと見てあるいた。ほとんど平地にめぐまれないこの部落の人たちは、過去数十年間の努力を積んで、山の斜面を残るくまなく、茶畑とみかん畑と竹林とにかえてしまったのである。その指導の中心となったのは片平一家であるが、すでに70歳をこしていると思われる当主九郎左衛門翁(くろうざえもんおう)の、賢者を思わせるような風格に接し、その口から報徳社の精神と部落の歴史とをきくことができたのも、塾生たちの大きな喜びであった。 」次郎たちはこの後、清水の鉄舟寺に向かう。この次郎物語の記述に対して、2004年11月9日開催の日本児童文学会大会で東京学芸大学の鷲山学長はこのように言われている。「私は静岡県の出身ですが、『次郎物語』も少し静岡県と縁があって、「第5部」の青年団運動の指導者の「田沼先生」というのは、湖人の親友の田沢義輔がモデルといわれますが、この人は静岡県の安部郡の郡長をした方でした。 終わりの所は、2・26事件の後に、自由主義的な青年団運動は弾圧されるのですが、最後に全国行脚をして、全国に散らばった同志たちと座談会を持とうということになって旅に出るのですが、報徳部落として知られる清水の杉山部落を訪れるところがあります。 乞食部落といわけた杉山部落を、二宮尊徳の報徳思想で立て直し、近代的な産業組合を持つ豊かな村に作り替えたという話は、よく聞かされて知っていましたが、この小説の中に、指導者の片平九郎左右衛門という名も載っていて、これは中学時代には全く気付かなかったことでした。その場面に「H村のK君」という名前が出てくるのですが、「おそらくこれは初倉村の河村七太郎さんのことだろう」と父に言われて、これにも驚きました。当時の農村では、疲弊した村の立て直しが深刻な共通課題で、篤農家や活動家が、修養会や先進的な各地の視察などを通じて知り合になり、情報を交換しつつ、あの人があのように頑張っているから、おれたちも頑張ろうと村の立て直しに奮闘し合っていたことがわかります。」杉山地区の報徳運動のリーダーは片平信明でした。杉山報徳社の社長だった片平信明は天保元年3月15日に生まれた。片平家は代代名主役を勤めた。信明は次男で幼い頃、寺院に養われていたが、長兄が病死したため、生家に帰り、父母に仕えて家業に励んでいた。明治9年病気のため熱海温泉に湯治に行ったとき、貸本屋で尊徳の弟子福住正兄が著した「富国捷径」を読んで、その報徳主義に感動し、家に帰るや尊徳の門弟柴田順作を迎えて、杉山地区の有志に説いて、杉山報徳社を結んだ。明治11年には近郷の村々も次々結社を作り、20余りの報徳社が結社された。明治12年にはこれらの各社を統一する今の駿河東報徳社を結社するに至った。明治24年には実に40余りの結社となり、明治27年には駿河東報徳社の社長に推された。元来杉山地区は貧村で有名で、人情風俗もひどく悪かった。片平信明は新産物を作り出す覚悟をして、率先して山野を開墾し、桑や茶、柑橘を栽培して進んでその範を示した。地区内の人々に新産物を興すべきを諭し、資金がない者には無利息の貸付けを行い、種子や苗も進んで分け与えた。その後製茶の価格の下落等苦労したこともあったが、自ら負債ややりくりをして村の復興にあたった。地区の民衆も信明の誠意と実践にうたれ、ついには桑、茶、柑橘の一大産地となるにいたった。 片平信明は産業のほか、教育・風紀にもその注意を払い、明治8年には夜学校を設立し、明治11年には杉山報徳社夜学校とした。これは明治27年に杉山農業補習学校となった。杉山地区の青年はこれによって感化を受けるものが多く、学問を尊び技術を重んじ農業を励んで怠らないような人格が作られていった。片平信明は次のような名言を残した。「信用は形なき財産である。」「生活を簡易にし生産を増加して、消費の拡大とその費途を考えよ」「土地に相応なる仕事を見出さねばならぬ。」「家にあって巧みに指揮するよりは実地に臨んでこれを監督するするがよい。」「農夫は山野にたおれるが名誉である。」 そしてその言葉どおり明治31年山林で雇夫の監督中なくなられた。 東海地方にはこうした報徳思想を体現した人物をたくさん輩出している。
2022年01月10日
2022年1月10日結跏趺坐19日目(2021年12月23日1日目)・昨年12月19日(日)「第8回報徳講座」参加のため新幹線で掛川駅まで赴いた。森町のMさんが出迎えてくださって、「さわやか」で名物「げんこつハンバーグ」を一緒に食べた。その時、携帯電話がなった。御殿場市のS先生からであった。先生と共著で「遠州報徳の師父」の続編を作りましょうという話をしていて、三遠農学社について書くことをお願いしていたのだが、その目次が見当たらないので「再度送ってください」とのことだった。「わかりました」と答えたものの、その後、なかなか手がつかなかった。これは私のうちで構想が二転三転(「翁の遺徳」→「三遠農学社と遠譲社」→「三遠農学社と富士山東麓の報徳」)と変転しているためもあって、やっとこの連休初めに目次を整理して芹沢先生に送ることができた。送ったのちも「駿州報徳の師父と三遠農学社」と仮題を変更している。表題によって資料集の構想と収録内容が変動してくる。 「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」に「静岡県報徳社事蹟」のうち遠州分を「訳注・静岡県報徳社事蹟(遠州分)」を収録した。七 駿河東報徳社 同支社、十 静岡報徳社 同支社、十一駿河西報徳社 同支社、一二法多報徳社は省略した。現在、「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」の続編「駿州報徳の師父と三遠農学社」の資料編に、駿河国の分も含めた「訳注・静岡県報徳社事蹟」を収録することを構想中で、順次アップしている。「駿州報徳の師父と三遠農学社―静岡県・報徳の師父 第二集―」(仮題)訳注「静岡県報徳社事蹟」七) 駿河東報徳社1 所在地 駿河国庵原郡(いはらぐん)庵原村(いはらむら)十一番地2 沿革 本社は明治十一年十一月の創設に属しますが、その来歴をたずねると庵原郡原村(現静岡市清水区)の人、柴田順作が天保年中二宮尊徳の教えを受け家道を回復したことに始まります。そもそも柴田家は当地方の豪族であって富裕の聞こえがありました。その祖先は藤蔓をもって編んだ脊負縄(しょいなわ)に荷物をせおって行商して産をなしたといいます。このためにその脊負縄を家宝とし子々孫々祖先の艱苦を忘れないようにということを家訓としましたが、順作の代に至って天保年度の凶荒に際し、家道が急に衰えました。順作は家道の回復に焦慮しましたが、良い方法を見いだすことができませんでした。たまたま旧知の駿東郡竈新田の人、小林平兵衛に誘われ、天保十三年二月二宮尊徳を野州桜町陣屋を訪れ、一家興復の要旨を聞きました。その時尊徳の訓えに曰く「なんじはなんじの祖先の足跡を見出し、これを踏んで営々倦(う)まざらむか、いかに窮乏に瀕すといえども決して復旧せざるの道理なからむ。なんじ、それを努めよ」と。順作は感奮しいったん帰国の後、再び尊徳の家僕となり、日夜教訓薫陶を受けること前後四か年、大いに得るところがあり帰国し、これから力行勤倹はなはだ勤め、ついに尊徳の教えを空しくすることなく、家道を回復し、祖先を安んじ、もって教えを近隣にひろめるに至りました。安政三年庵原郡尾羽村地方役の牧田包栄の依頼に応じて同村に報徳を設けました。これが本地方における報徳結社の創始であり、また本社設立の遠因です。後に明治九年に至り庵原郡杉山村の片平信明が自村の衰退を憂い、順作を招へいし杉山報徳社を設けました。それ以来各町村が風俗の矯正または勤勉貯蓄を奨励する目的をもって結社するもの多く、したがってこれを統轄する必要を認め本社を設立し、柴田順作が社長となる。明治十八年規則を改正し結社年限を六十か年とし明治三十一年民法施行によって公益社団法人の許可を受ける。3 組織 故二宮尊徳の道教を奉じ、徳に報いる道を務めることを目的とし、その社員は左の箇条を実践するものに限る。一 神徳皇徳国恩及び父祖の諸恩に報いるに徳行を以てすること。一 克く勤に克く倹に分度を守り、富盛の基本を確立すること。一 分度外の財を推譲し善を積み業を脩めて公衆の模範たること。本社に集める金円を総称して報徳金と云う。これを区別すれば左のごとし。一 土台金 二 善種金三 加入金 四 別途加入金五 酬謝金土台金とは諸種の恩賜金、報徳大本社及びその他の社より分与金並びに篤志者の寄付金又は社員特別の誠意により差し出す金を以て充て、永遠本社の基礎となすべきものであって、何らの事故があっても返戻しないものである。故に本金は通常の貸付に使用しない。年々集金額の一半は公債証書、田畑山林等の購入資金に充て、その一半は常備金として銀行または会社に預けおいて賞与貸付を行うときの補助に備える。その収益金は善種金にまぜて賞与救助等に使用する。善種金は救済積善を主とし報徳のために差し出し、または勤倹により推譲する金であって一度差し出したものは返戻しないものである。故に本金は土台金の収益を合わせて左の事項に使用する。 一 各社の具申により社員中、力耕精業及び特別善行者に褒賞金を付与すること 二 社員中の非常災害にかかりたるものを救助すること 三 各支社において勧業奨励費を要するとき 四 荒蕪開墾、道路堤防、用悪水路の新開及び修繕費に対し補助すること 五 社費 加入金及び別途加入金 加入金とは報徳の教えを奉じ各自勤倹により所得の一部を差し出したる金をいう。退社するもののあるときは元金のみを返戻する。別途加入金は篤志者より差し出すをいう。その取扱いは仮に六か年を以て一期とし満期に至り継続することを得。ただし本人の都合により満期の際に割戻を乞うときはこれを許し、元金に五朱の金を付し返付する。右二種の加入金はおおむね左記の事項に対し貸付するものとする。 一 支社報徳金として借受申出があるとき 二 各支社より力耕精業及び特別善行者に褒賞貸付の具状あると き 三 荒蕪開墾、道路堤防、用悪水路の新開費用のため、支社より借受申出があるとき 四 難村救済のため支社より借受申出があるとき 五 社員一家整理につき成功の目的があって借受申出があるとき 六 飢饉凶荒救助のため、支社より借用申出があるとき酬謝金 本金は無利息年賦金を借り受けたものをして皆済後、恩謝のため年賦返納の一か年分を納めしめたものであって収入の上はすべて土台金に編入する。4 事業 本社は各支社を監督する外、左の事業を行う一 社員中、力耕精業及び特別善行者を褒賞すること一 社員中、遭難または薄命者を救助すること一 公益事業殖産事業費のため、社員に対し無利息年賦金の貸付をなすこと また毎月十五日常会を開き報徳学を講話し春秋二季に総会を開き、道徳経済の要義及び実業に関する事項を講演もしくは研究する。その研究すべき事項おおむね左のごとし。一 耕耘の改善、肥培の方法二 殖産興業に関すること三 商法の利を正しうし、公利を謀ること四 勤倹を行い窮民を救済する方法五 荒蕪を開拓し水利を便にし、山林を繫殖すること六 勧業の方法七 風俗を醇良ならしめ、徳義を厚くする方法支社は各その定款の規定に従い毎月常会を開き、報徳学を研究し、毎会土台金善種金加入金等適意応分の出資をなさしめ、これを以て社員興産資本として低利貸または無利息年賦貸をなし、あるいは米を買入れて蓄積し、また毎年社員中特別善行あるものに褒賞を与え、あるいは社員に共同貯金を奨励してこれを銀行に預け入れ、もしくは郵便貯金となし、以て利殖を図らせる等のことをなします。一 貸付報徳金の貸付は毎年十二月二十日常会においてこれを行う。貸付金高は役員の協議を以て定める。その償還方法は五か年賦、七か年賦、十か年賦の三種で、すべて無利息とし、毎年春秋二季大会の日において年賦金の払込をなさしめる。ただし別途加入金を以て貸付けるものは必ず五か年賦に限ることとなす。二 風教 風俗道徳に関しては特筆すべき事例なしといえども、報徳の結社のある部落は人民勤勉にして風俗また良好であることは一般の認める所です。報徳社員であって、いまだかつて租税を滞納した者があることを聞かないようなことはその効果の一つです。三 殖産興業 殖産興業は徳に報いるものの務める所であるを以て、報徳社の結成ある部落は特に発達している。今その著しいものを挙げれば左のごとし。(続く)
2022年01月10日
静岡県報徳社事蹟(七) 駿河東報徳社1 所在地 駿河国庵原郡(いはらぐん)庵原村(いはらむら)十一番地2 沿革 本社は明治十一年十一月の創設に属しますが、その来歴をたずねると庵原郡原村(現静岡市清水区)の人、柴田順作が天保年中二宮尊徳の教えを受け家道を回復したことに始まります。そもそも柴田家は当地方の豪族であって富裕の聞こえがありました。その祖先は藤蔓をもって編んだ脊負縄(しょいなわ)に荷物をせおって行商して産をなしたといいます。このためにその脊負縄を家宝とし子々孫々祖先の艱苦を忘れないようにということを家訓としましたが、順作の代に至って天保年度の凶荒に際し、家道が急に衰えました。順作は家道の回復に焦慮しましたが、良い方法を見いだすことができませんでした。たまたま旧知の駿東郡竈新田の人、小林平兵衛に誘われ、天保十三年二月二宮尊徳を野州桜町陣屋を訪れ、一家興復の要旨を聞きました。その時尊徳の訓えに曰く「なんじはなんじの足跡を見出し、これを踏んで営々倦(う)まざらむか、いかに窮乏に瀕すといえども決して復旧せざるの道理なからむ。なんじ、それを努めよ」と。順作は感奮しいったん帰国の後、再び尊徳の家僕となり、日夜教訓薫陶を受けること前後四か年、大いに得るところがあり帰国し、これから力行勤倹はなはだ勤め、ついに尊徳の教えを空しくすることなく、家道を回復し、祖先を安んじ、もって教えを近隣にひろめるに至りました。安政三年庵原郡尾羽村地方役の牧田包栄の依頼に応じて同村に報徳を設けました。これが本地方における報徳結社の創始であり、また本社設立の遠因です。後に明治九年に至り庵原郡杉山村の片平信明が自村の衰退を憂い、順作を招へいし杉山報徳社を設けました。それ以来各町村が風俗の矯正または勤勉貯蓄を奨励する目的をもって結社するもの多く、したがってこれを統轄する必要を認め本社を設立し、柴田順作が社長となる。明治十八年規則を改正し結社年限を六十か年とし明治三十一年民法施行によって公益社団法人の許可を受ける。
2022年01月08日
(一)二宮尊徳小伝○一六歳で孤児となる尊徳は通称を金次郎といいます。相模国(さがみのくに)(神奈川県)足柄上郡栢山(かやま)村(小田原市)の人で、父を利右衛門(りえもん)といい、母よしは近隣(旧曽我別所村)の川久保太兵衛の娘でした。尊徳は天明七年(一七八七)七月二三日に生れます。友吉(後の三郎左衛門)と富次郎の二人の弟がありました。父母は三人を養育しました。寛政三年(一七九一)尊徳五歳のとき、酒匂川の洪水で大口堤が破れ、数か村が流されました。父利右衛門の田畑もまたその被害をこうむり、すべて不毛の地に化しました。家が貧しいところへ、加えてこの水害にあったので、困難はいよいよ迫りました。そこで利右衛門は朝早く起き、夜は遅く寝て、専ら力を開拓に尽し、三人の子どもを養いました。後に病気にかかりました。家産を尽くし、一生懸命その回復を求めますが、寛政一二年(一八〇〇)ついに亡くなりました。母子の嘆き悲しみははなはだしく、村人はみなこれを見て、もらい泣きしました。当時、尊徳一四歳で弟はまだ幼少だったために困窮はいよいよ極まりました。尊徳は朝早く起き、遠くの山に入り、柴をかったり、まきを切って、これを小田原の町に売りに行きます。夜は縄をない、わらじを作って僅かな時を惜しんで、労働し心を尽くして、母の心を安らかにし、二弟を養う事に励みます。尊徳はたきぎを採りにいく往き返りにも儒教の経典の一つである「大学」の書物をふところにし、途中歩きながら暗誦します。これが尊徳が聖賢を学んだ始めです。享和二年(一八〇二)四月、母も病気になりました。尊徳は大いに嘆き、日夜帯をとかず看護に力を尽くますが、その努力もついに空しく母は亡くなりました。その時、尊徳は一六歳でした。家財田畑はすでになく、残ったものはただ空屋だけでした。二人の弟を慰め、悲んでなすところを知りません。親族は相談し、二人の弟を母の生家に預け、尊徳を近親の万兵衛の家に寄食させました。万兵衛は、本来大変物惜しみする性質で慈愛の心に乏しく、このため尊徳の困難や苦しみは倍加しました。尊徳は日夜、農事を勤め、さらに幼くして貧困に陥ったことを嘆きました。「天下で憐れむべきものは、ただ貧乏である。私がもし家を興すことができたら、ひろく貧しい人々を救う方法を設けよう」尊徳は、刻苦勉励し、昼は家業に勤め、夜は縄ないなどを行い、暇があれば読書・算数を学びました。1 二宮先生幼時勧学逸話 二宮兵三郎(「大日本報徳学友会報」第六十五号」) 二宮翁幼年の時に大層困苦して学問なされた事はただいま種々の書物にも載せられてありますが、私の祖父(二宮三郎左衛門、尊徳の弟)から聞きますに、手習いをするのに、筆や墨があってしたのではないのでして、お膳のような縁のあるものを作って、これに方言でボガスナという砂を入れて、お手本を前に置いて箸でこの砂の上の中へ習うのであります。そうしては砂をならしては、またその上で手習いをするのであります。この手本と大学とは今は小田原の二宮神社におさめてありますが、翁が野州へ下る時に私の祖父へ残してゆかれたもので、「どうかこれをお前の児孫に習わせてくれ」と申されたということであります。 また翁は同郷の岡部善右衛門と申す人からも本を教わったのであります。この岡部善右衛門と申す人は幼名を伊助と申しまして地方では物知りであったそうです。翁はこの人に本を教えてくれと言って常に「一辺でよいから一辺教えてくれ。必ず返礼をするから。三辺読んでくれれば講釈をしてやる」と申されたそうです。その礼をするというのは、どういう次第かと申しますと一度教えてもらえば決して忘れないからです。かえって教えた当人の伊助という人は忘れるような事がある、その時は反対に教えてやったという事であります。 それから服部家の仕法中にも同家にて子息の書を習ったという事です。それはご子息が毎日藩の儒者の所へ学問に行くのでありますから、それに伴をして行くのでありますが、身分が違うから玄関より上に登る事はできないので、障子越しにその書物を習い、又は講義を聞くのであります。それで翁が服部家の畑を打ちながらご子息を畔に立たせて本を復習させたり、また講義したとの事であります。この不思議な現象が遂に家中一般の評判となって、服部家にいる下僕の金次郎は非凡なものであるといわれるので、それがついに大奥の大久保侯の耳に達したので、侯の翁を抜擢せんとしたのはこの辺りからであろうと思います。
2022年01月08日
昨年12月19日(日)「第8回報徳講座」参加のため新幹線で掛川駅まで赴いた。森町の〇〇さんが出迎えてくださって、「さわやか」で名物「げんこつハンバーグ」を一緒に食べた。その時、携帯電話がなった。御殿場市の〇〇先生からであった。先生と共著で「遠州報徳の師父」の続編を作りましょうという話をしていて、三遠農学社について書くことをお願いしていたのだが、先に送った目次が見当たらないので「再度送ってください」とのことだった。「わかりました」と答えたものの、その後、なかなか手がつかなかった。これは私のうちで構想が二転三転(「翁の遺蹟→「三遠農学社と遠譲社」→「三遠農学社と富士山東麓の報徳」)と変転しているためもあって、やっとこの連休初めに目次を整理しなおした。「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」に「静岡県報徳社事蹟」のうち遠州分を「訳注・静岡県報徳社事蹟(遠州分)」を収録した。七 駿河東報徳社 同支社、十 静岡報徳社 同支社、十一駿河西報徳社 同支社、一二法多報徳社は省略した。現在、「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」の続編「三遠農学社と富士山東麓の報徳」を構想中で、その資料編として、「訳注・静岡県報徳社事蹟」を収録することを構想中である。再三再四、構想は転変している(また変わるかも(^^))が、「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」が現在多く参照されているように、「静岡県・報徳の師父」シリーズが、静岡県の報徳運動の理解に資するとともに、さらには今後の新たな報徳運動につながることを期待して・・・静岡県報徳社事蹟 緒言〔前書き〕二宮翁の唱導に係る報徳の教義は広く各地に行われ、その効果の見るべきものは少なくありません。なかでも報徳結社の方法によって最も善良の発達を遂げ、翁の理想が大いに行われているのは、我が静岡県です。明治三七年末、本県における公益法人報徳社及びこれと目的を同じくする社団は、本支社を合せて四四二の多きに及んでいます。そしてこれら公益社団は結社以来、善をすすめ産業を興す目的をもって社員を導き助け、その事業の遂行によって、人民の個性の啓発や徳育の刷新、難村の救済もしくは農工商業の改良発達に利益を与えただけでなく、町村の公共事業を振興させたことも少なくありません。そこでその施設事業及び効果の顕著なものを調査し叙述し、もって民心をしてますます共同経営のみちに向わせるとともに、これらの機関が必要なことを知らしめ、将来この報徳の教えがますます普及することを期して本書を公刊するに至りました。本編はつとめて完璧を期し、鋭意調査しましたが、史料に乏しく、加えて事務の余暇に急いで編集したもので、事実をいまだ詳細に調査したものと保証はできません。これらはまさに識者の是正を待って補うところがありましょう。この本を見る人はどうかこのことをご了解ください。明治三九年一月 静岡県事務官 丸山熊男 目 次一 二宮尊徳小伝二 報徳の起源三 報徳の大意四 安居院庄七の伝五 静岡県における報徳の沿革六 遠江国報徳社 同支社七 駿河東報徳社 同支社八 報徳遠譲社 同支社九 報 本 社 同支社十 静岡報徳社 同支社 十一駿河西報徳社 同支社一二法多報徳社1 「事蹟」に紹介されている報徳社は、1遠江国報徳社、2駿河東報徳社、3報徳遠譲社、4報本社、5静岡報徳社、6駿河西報徳社、7法多報徳社の7社である。遠州地方に限ると、遠江国報徳社、報徳遠譲社、報本社が並立していた。遠江国報徳社は本部を浜松町に置き、見付町と掛川町に支部を置いていた。一八四七年に安居院庄七が浜松の下石田村の神谷与平治に報徳の教えを説き、初めて遠州に報徳社が設立された。その後、毎年一回遠江各地で報徳大会を開いて、結社の数が増加した。そこで各社を統轄する必要が生じ、明治八年遠江国報徳本社を浜松町に設置した。岡田佐平治が社長で、伊藤七郎平、小野江善六、新村里三郎、名倉太郎馬、神谷喜源治等が幹事だった。岡田佐平治の子の良一郎が社長となり、見付町と掛川町に分館を置いた。日本精製糖株式会社が、「事蹟」の「殖産興業」の部で紹介されている。「東京小名木川日本精製糖会社は遠江国報徳社員鈴木藤三郎の創立で資本金二百万円を有し、日本第一の精糖所とする。その特殊の発明は純白なる氷糖である。始め藤三郎は薄資の菓子商であったが、報徳社に加入して商業の真理を悟り、いわゆる元値商いの法によって漸次商業の繁盛を来し、かたわら氷糖製造の研究に専念した。時に野州今市に二宮尊徳の法会があった。墓参のためおもむいた。帰途宇都宮の旅舎において隣室に宿泊した時に、学生の化学談を聞いて悟る所があった。これにより純白透明の氷糖を製造することができた。これより工場を改造し大いに事業を拡張し、後、東京に移住して遂に今日の大成をなすに至った。藤三郎は氷糖製造を以て二宮神霊のたまものとし、厚く報徳の道を信じ、毎月一回報徳会を小名木川の自宅に開き、工場の役員を始めとし職工等を集めて報徳談を行い、勤倹貯蓄を奨励し、兼ねて恩恵を職工に施したので工場制度自からその間に行われる。藤三郎は現在同会社の専務取締役である。資産は数万円に及ぶ。同志者吉川長三郎がまた同社の取締として藤三郎と心をあわせ共に力を尽している。これもまた遠江国報徳社員である。」 明治十五年見付町第二館において有志者で常会とは別に報徳学研究会を設け、報徳の原理を究め、実践の方法を講じた。また掛川町第三館では毎月一回第三日曜日を定会とし岡田良一郎を会長とした。会員は四〇余名であった。明治三五年五月大日本報徳学友社を創立し、岡田良一郎を会長とし、駿河東報徳社長の西ヶ谷可吉を副会長、山田猪太郎を編纂委員とし、毎月一回会報を発行した。 報徳遠譲社は遠江国磐田郡三川村に本社を置いた。明治四年八月福山瀧助の指導により結社し、すべて無利息貸付とするところに特徴があった。 報本社は遠江国周智郡森町に本社を置いた。森町の新村里助(豊作)らが安居院庄七の指導で結社した森町報徳社がその始めである。森町報徳社は、明治五年福山瀧助が遠譲社を組織したとき遠譲社に入社したが、明治八年岡田佐平治が遠江国報徳社を結成した時にまたこれに入社した。明治一七年岡田良一郎が遠江国報徳社の無利息扱いを全廃するときに、新村里三郎が役員だったがこれに反対した。明治二八年遠江国報徳社が無利息金の全廃を決行したため、新村里三郎は同社を退いて報本社を組織した。鈴木藤三郎について「事蹟」の「報本社」の「殖産興業」に紹介されている。「東京における日本精製糖会社は森町鈴木藤三郎の創立した所であるが、藤三郎は初め資力が微弱で起業するに困難であったため、新村里三郎が大変これを助けたので、その報酬として藤三郎より当該会社株の贈与があった」とある。鈴木藤三郎は明治九年一月生家に年始に行ったときに二宮尊徳の「天命十か条」を読んで、初めて報徳の教えを知った。藤三郎は、熱心に報徳の集会に参加し、諸先輩に質問し、報徳の教えを研究した。人が生きる目的は金銭や名誉ではない。人は国家、社会のために、その利益を増進する仕事を行うべきだ。過去の人が行ったことを、今の人が増進して後世の子孫に伝えて国家社会の利益を増進すべきだ。すべての人がこの目的に向かって勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務である。職務の間に上下尊卑の区別はない。自分の職務に専心して尽して天地の秘を明らかにするのが人生の目的である。各人が職務に全力を傾注するときは、職務の遂行に伴って利益や栄達もおのずから発達してくる。藤三郎はそう悟った。明治一〇年一月一日より藤三郎は二宮尊徳の「荒地の力で荒地を拓く」という方法を菓子製造販売業に適用したところ、五年間で売上高が一〇倍になった。藤三郎は「荒地の力で荒地を拓く」という主義はどんな事業でも応用できると確信する。藤三郎は精糖業で国家社会を利そうと志を立て、数年間研究し透明な氷砂糖製造法を発明する。氷砂糖製造工場の建設資金を森町の実業家福川泉吾から融通を受けた。また藤三郎は報徳社の「無利息貸付」を効果的に利用した。明治一八年氷砂糖第二工場新築に一八五円四〇銭、一九年経営資金に一月二五二円、四月二八八円、二一年氷砂糖工場東京移転建設資金に三二四円、二二年経営資金に三三三円、二四年鈴木鉄工部設立に三三三円の貸付を受けている。事業成績は良好で、毎年拝借後、半年から一年で返済している。鈴木藤三郎は「報徳の精神」をその事業を興す考え方の基盤とするとともに、氷砂糖、精製糖、鉄工事業の草創期は、福川泉吾の援助と森町報徳社の「無利息貸付」によって資金調達を得ていたのである。
2022年01月08日
絹を生む里 運ぶ道 612月19日(日)第8回報徳講座で掛川に新幹線で赴いた折、掛川駅から袋井の会場までHさんに車で送っていただいた。その折に、「私の知人が週刊長野に 絹を生む里 運ぶ道 という特集を載せています」と二枚の記事の切り抜きをいただいた。読むとちょうど当日、「鳥居信平を読む」で朗読する「カカオの話」の一節と重なる うた が載っていたので、講演会の席で紹介した。「秋葉路や 花橘も 茶の香り 流れも清き 太田川 若鮎踊る 頃となり 松の緑も 色さゑて 遠州森町 よい茶の出処」講演が終わった後、参加者の一人から「森町のお茶を宣伝いただきありがとうございました」とお礼を言われた(^^)2021年11月27日の花嶋堯春さんの「絹を生む里 運ぶ道6」には、この歌はもともと森町のお茶の宣伝のために生まれたとある。「江戸幕末、横浜開港と同時に輸出品の双璧を成したのが生糸と茶だ。森町も茶の産地、大いに活気づいたのはいうまでもない。 ところが昭和初めの世界的大恐慌で苦境に陥る。活路を見出そうと1932年(昭和7)年、森町茶業青年研究会が結成された。初代会長の島房太郎が<秋葉路や>で始まる一編の詩をまとめあげる。 そのころ大人気の浪曲師広沢虎蔵のところに持ち込み、口演の冒頭に織り込んでもらえないかと懇願した。1934(昭和9)年のことだ。町内の劇場で「清水次郎長伝森の石松」が始まるや<遠州森町 よい茶の出処>と虎蔵節がうなる。 以来、ラジオで放送され、レコードになり、遠州森町の茶が全国に知られていった」とある。鳥居信平が「カカオの話」で「宇治の出華や花橘よりもと唄われた駿河の茶」と書いたのは1909(明治42)年のことで、虎蔵がうたったより、4半世紀前のことである。もとは芭蕉の俳句にあるというが、「花橘も 茶の香り」という名フレーズが、五感を刺激するのであろうか、信平の郷里への愛情を感じることができる。Hさん、タイミングのよい情報ありがとうございました。 カ ヽ オ の 話 農學士 鳥居 信平珈琲(コーヒー)、カヽオ、チヨコレートの様(よう)な嗜好的(しこうてき)飲料(いんりょう)が近來(きんらい)我國(わがくに)固有(こゆう)の宇治(うじ)の出(で)華(ばな)や花(はな)橘(たちばな)よりもと唄(うた)はれた駿河(するが)の茶(ちゃ)の需要(じゅよう)を頗(すこぶ)る壓迫(あっぱく)したものである、で珈琲(コーヒー)やカヽオの年々(ねんねん)の輸入(ゆにゅう)額(がく)は増加(ぞうか)する計(ばか)りであるが、チヨコレートは錫紙(すずがみ)に包(つつ)まれたるクリームの中(なか)の粉末(こな)、珈琲(コーヒー)は角(かく)砂糖(ざとう)に定(き)まつたものと唯々(ただ)心得(こころえ)ては、一碗(わん)の煎茶(せんちゃ)に彼(か)の宇治(うじ)の焙爐(ほいろ)の匂(にお)ふ時(とき)とか駿河(するが)路(じ)の茶摘(ちゃつみ)唄(うた)に思(おも)ひを走(は)せて飲料(いんりょう)其物(そのもの)の味感(みかん)と其(そ)れより來(く)る趣味(しゅみ)聯想(れんそう)とを享受(きょうじゅ)する様(よう)なことは甚(はなは)だ以(もっ)て難(むずかし)いのである。せめて吾(われ)等(ら)は一杯(ワンカップ)の珈琲(コーヒー)やカヽオの間(あいだ)にも南洋(なんよう)の強(つよ)き日光(にっこう)の下(した)に色(いろ)飽(あ)くまで綠(みどり)なる葉(は)と、紅(べに)燃(も)ゆらんばかりの其(その)實(み)をつけなしたる珈琲(コーヒー)や、下弦(かげん)の月(つき)を浴(あ)びてカヽオの實(み)を摘(つ)むヴェネズエラあたりの土人(どじん)の面影(おもかげ)を恐條(きょうじょう)(想像(そうぞう)?)し得(え)ば如何(いか)に樂(たの)しかるべき① 駿河路や花橘も茶の匂ひ(芭蕉 真蹟懐紙/炭俵)
2021年12月29日
2021年12月21日放送の「この歌詞が刺さった!グッとフレーズ」(TBS系)に滝沢カレンさんが出演していて、おばあちゃんの教えとして「自分は人間の底辺だと思え」を紹介していた。加藤浩次「カレンちゃんが大切にしていることって何だろう?」カレン「私にはおばあちゃんから教えてもらったあるひと言の言葉がある。『どんなにあなたが年齢が上がっても、あなたは人間の底辺であることを忘れるな』」加藤「ひどくないか!?」カレン「なんだろうな、自分が底辺って感覚的に思うと、それはそれで楽しくて。自分が何かをやりました、すごいと言われました、その時に拍手をしてもらっていることが奇跡なんだって。調子に乗ったりとか生意気になったりするのを止めてくれるのがきっとこの言葉じゃないのかな」滝沢カレン、敬語を使う理由は祖母の教え「お前は人間の誰よりも底辺だ」2021/03/02「私、親が働いてたのでおばあちゃんに育てられて。そのおばあちゃんにいつも言われたのが『お前は人間の誰よりも底辺だ』って」「それで今まで育ってきちゃったので、後輩を作るなんて恐れ多いっていう気持ちになっちゃって。でも私は良いと思ってるんです」小学3年の時点で敬語を使い、後輩にも「ずっと敬語で喋りかけていた」と回顧。芸能界においても、プライベートで仲の良い先輩の前で思わず「可愛い!」と話してしまった際にはすぐに「すみません」と謝罪し、「可愛い“です”」と言い直すさまぁ~ずの大竹一樹「そこから敬語が生まれてるんだ」滝沢「そうなんです。なので小学3年生のときに小学1年生にずっと敬語でしゃべりかけてたんですよ」「一見、過激な表現にも聞こえてしまう祖母からの言葉ですが、ハーフの滝沢はかつて小学生時代にいじめを受けていたと打ち明けたことがあり、その際、祖母からは多くの励ましの言葉があったといいます。高身長を理由に『ダースベイダー』とのあだ名を付けられたり、『国へ帰れ』という言葉にも傷付いたようで、泣きながら帰宅すると、祖母は滝沢に『大きいんだから、やり返せばいい』『コンプレックスを武器にしろ』と叱咤。その後、実際に滝沢がボス的な存在の男子生徒と戦うと、『いつの間にか勝てちゃった』とし、逆に滝沢がボスのような立場になったようです。そんな孫娘の苦労を知っていた祖母ですから、常に滝沢には低姿勢で居続けるよう諭したのかもしれません。ネットでも、“誰よりも底辺”との言い回しについて、『おそらく“謙虚に生きろ”と教えたかったんだろう』『お祖母様の教えはあくまでカレンさんをイジメから守るためだったのではないでしょうか』『おばあさん強烈ですけど、結果オーライですね!』との声が集まっています」(エンタメ誌ライター)💛遠州に報徳を広めた福山滝助には「蓑笠(みのかさ)で暮らせ」という教えがある。滝助は常に「蓑笠(みのかさ)で暮らせ」と教えました。これは二つとも下を向いているという意味で、感謝して生活しなさいということです。遠州に赴任し三河に没するまで25年間、滝助は家を持たず事務所を置かず、社から社へ、常会から常会へ、一所不住で巡りました。脚絆にわらじ、すげがさ、腰に矢立をさし、書類を入れた幾つもの竹ごおりを大風呂敷に包んで背負った格好は、出迎えの者が富山の薬売りと間違えるほどでした。常会では、まず仕法書を朗読し、講話をし、社員の芋こじに加わりました。どの社員宅でも喜んで泊まりましたが、菜は一菜に限り、酒は飲みませんでした。滝助は故郷小田原に春秋2回帰省し、また4、5年に1回は小田原社・遠譲社の帳簿を持って相馬を訪れ、三代尊親や富田高慶に報告しました。明治26年4月、三河国(愛知県)八名郡山吉田村大字上吉田の共有家屋で77歳の生涯を閉じました。
2021年12月22日
「三遠農学社―遠州・三河の報徳運動第二集」目次Ⅰ 概説三遠農学社 (資料編)一 訳注「静岡県報徳社事蹟」(遠州地方)・・・ 2(一)二宮尊徳小伝 ・・・・・・・・ 4(二)報徳の起源 ・・・・・・・・ 12 (三)報徳の大意 ・・・・・・・・ 13(四)安居院庄七の伝 ・・・・・・・・ 15(五)静岡県における報徳の沿革 ・・・・・・ 24(六)遠江国報徳社 ・・・・・・・・ 25(七)報徳遠譲社 ・・・・・・・・ 34(八)報 本 社 ・・・・・・・・ 42二 三遠農学社と松島授三郎・松嶋吉平(十湖)(一)三遠農学社と報徳農業道 ・・・ 133(二)松島授三郎小伝 ・・・・ 137(三)翁の余徳(四)三 三河国報徳社(一)山吉田の報徳(「鳳来町誌」)・・・・ 141「遠州・三河の報徳運動」年譜 ・・・・ 143コラム 遠州報徳・師父の風景 安居院庄七(22 23)、荒井由蔵(31 32)、名倉太郎馬(33)、福山滝助(65 66)、岡田佐平治(86)、報徳三兄弟(93 103)、中村譲庵(105)三遠農学社・師父の風景・・・主要参考文献 『二宮尊徳全集』、『静岡県報徳社事蹟』、『報徳』(明治三五年創刊の大日本報徳社機関誌)、『日本報徳運動雑誌集成』、『図説森町史』、『報徳運動100年のあゆみ』、『山中家盛衰記』山中眞喜夫、『遠州報徳の夜明け』、『遠州報徳主義の成立』海野福寿、『安居院義道 報徳開拓者』鷲山恭平、『福山滝助翁』小田原市城内国民学校編、『福山先生一代記』金井利太郎、『岡田無息軒翁一代記』岡田良一郎、『小野江善六翁小伝』神村直三郎、『伊藤七郎平翁』鷲山恭平、本資料集は平成二八年一二月一七日袋井市開催の報徳講座(戸田孝氏企画)の講演テキスト「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」の続編である。読みやすさを重視し、漢字は原則新漢字に改め、原文のカタカナをひらがなに改め、史料はできるだけ現代語訳化した。(令和三年一二月)一 訳注「静岡県報徳社事蹟」(遠州地方分)抜粋○明治後半の静岡県の遠州地方の報徳運動について静岡県地方における報徳運動を記した文書に「静岡県報徳社事蹟」がある。「事蹟」の「緒言」に「明治三九年一月静岡県事務官 丸山熊男」とある。公的な機関が静岡県内の報徳社から提出された資料をもとにまとめたもので、明治後半の静岡県内の報徳運動を知る上で貴重な資料である。静岡県報徳社事蹟 緒言〔前書き〕二宮翁の唱導に係る報徳の教義は広く各地に行われ、その効果の見るべきものは少なくありません。なかでも報徳結社の方法によって最も善良の発達を遂げ、翁の理想が大いに行われているのは、我が静岡県です。明治三七年末、本県における公益法人報徳社及びこれと目的を同じくする社団は、本支社を合せて四四二の多きに及んでいます。そしてこれら公益社団は結社以来、善をすすめ産業を興す目的をもって社員を導き助け、その事業の遂行によって、人民の個性の啓発や徳育の刷新、難村の救済もしくは農工商業の改良発達に利益を与えただけでなく、町村の公共事業を振興させたことも少なくありません。そこでその施設事業及び効果の顕著なものを調査し叙述し、もって民心をしてますます共同経営のみちに向わせるとともに、これらの機関が必要なことを知らしめ、将来この報徳の教えがますます普及することを期して本書を公刊するに至りました。本編はつとめて完璧を期し、鋭意調査しましたが、史料に乏しく、加えて事務の余暇に急いで編集したもので、事実をいまだ詳細に調査したものと保証はできません。これらはまさに識者の是正を待って補うところがありましょう。この本を見る人はどうかこのことをご了解ください。明治三九年一月 静岡県事務官 丸山熊男 目 次一 二宮尊徳小伝二 報徳の起源三 報徳の大意四 安居院庄七の伝五 静岡県における報徳の沿革六 遠江国報徳社 同支社七 駿河東報徳社 同支社八 報徳遠譲社 同支社九 報 本 社 同支社十 静岡報徳社 同支社 十一駿河西報徳社 同支社一二法多報徳社1 「事蹟」に紹介されている報徳社は、1遠江国報徳社、2駿河東報徳社、3報徳遠譲社、4報本社、5静岡報徳社、6駿河西報徳社、7法多報徳社の7社である。遠州地方に限ると、遠江国報徳社、報徳遠譲社、報本社が並立していた。遠江国報徳社は本部を浜松町に置き、見付町と掛川町に支部を置いていた。一八四七年に安居院庄七が浜松の下石田村の神谷与平治に報徳の教えを説き、初めて遠州に報徳社が設立された。その後、毎年一回遠江各地で報徳大会を開いて、結社の数が増加した。そこで各社を統轄する必要が生じ、明治八年遠江国報徳本社を浜松町に設置した。岡田佐平治が社長で、伊藤七郎平、小野江善六、新村里三郎、名倉太郎馬、神谷喜源治等が幹事だった。岡田佐平治の子の良一郎が社長となり、見付町と掛川町に分館を置いた。 明治十五年見付町第二館において有志者で常会とは別に報徳学研究会を設け、報徳の原理を究め、実践の方法を講じた。また掛川町第三館では毎月一回第三日曜日を定会とし岡田良一郎を会長とした。会員は四〇余名であった。明治三五年五月大日本報徳学友社を創立し、岡田良一郎を会長とし、駿河東報徳社長の西ヶ谷可吉を副会長、山田猪太郎を編纂委員とし、毎月一回会報を発行した。 報徳遠譲社は遠江国磐田郡三川村に本社を置いた。明治四年八月福山瀧助の指導により結社し、すべて無利息貸付とするところに特徴があった。 報本社は遠江国周智郡森町に本社を置いた。森町の新村里助(豊作)らが安居院庄七の指導で結社した森町報徳社がその始めである。森町報徳社は、明治五年福山瀧助が遠譲社を組織したとき遠譲社に入社したが、明治八年岡田佐平治が遠江国報徳社を結成した時にまたこれに入社した。明治一七年岡田良一郎が遠江国報徳社の無利息扱いを全廃するときに、新村里三郎が役員だったがこれに反対した。明治二八年遠江国報徳社が無利息金の全廃を決行したため、新村里三郎は同社を退いて報本社を組織した。鈴木藤三郎について「事蹟」の「報本社」の「殖産興業」に紹介されている。「東京における日本精製糖会社は森町鈴木藤三郎の創立した所であるが、藤三郎は初め資力が微弱で起業するに困難であったため、新村里三郎が大変これを助けたので、その報酬として藤三郎より当該会社株の贈与があった」とある。鈴木藤三郎は明治九年一月生家に年始に行ったときに二宮尊徳の「天命十か条」を読んで、初めて報徳の教えを知った。藤三郎は、熱心に報徳の集会に参加し、諸先輩に質問し、報徳の教えを研究した。人が生きる目的は金銭や名誉ではない。人は国家、社会のために、その利益を増進する仕事を行うべきだ。過去の人が行ったことを、今の人が増進して後世の子孫に伝えて国家社会の利益を増進すべきだ。すべての人がこの目的に向かって勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務である。職務の間に上下尊卑の区別はない。自分の職務に専心して尽して天地の秘を明らかにするのが人生の目的である。各人が職務に全力を傾注するときは、職務の遂行に伴って利益や栄達もおのずから発達してくる。藤三郎はそう悟った。明治一〇年一月一日より藤三郎は二宮尊徳の「荒地の力で荒地を拓く」という方法を菓子製造販売業に適用したところ、五年間で売上高が一〇倍になった。藤三郎は「荒地の力で荒地を拓く」という主義はどんな事業でも応用できると確信する。藤三郎は精糖業で国家社会を利そうと志を立て、数年間研究し透明な氷砂糖製造法を発明する。氷砂糖製造工場の建設資金を森町の実業家福川泉吾から融通を受けた。また藤三郎は報徳社の「無利息貸付」を効果的に利用した。明治一八年氷砂糖第二工場新築に一八五円四〇銭、一九年経営資金に一月二五二円、四月二八八円、二一年氷砂糖工場東京移転建設資金に三二四円、二二年経営資金に三三三円、二四年鈴木鉄工部設立に三三三円の貸付を受けている。事業成績は良好で、毎年拝借後、半年から一年で返済している。鈴木藤三郎は「報徳の精神」をその事業を興す考え方の基盤とするとともに、氷砂糖、精製糖、鉄工事業の草創期は、福川泉吾の援助と森町報徳社の「無利息貸付」によって資金調達を得ていたのである。
2021年12月12日
中村藤吉(なかむらとうきち)中村藤吉とは中村藤吉は、小間物商、事業家。報徳の教えを守り明治年間に巨万の財を築き、浜松市第一の富豪と言わしめた浜松市財界の偉人。1854(安政元)年浜松宿田町(現:中区田町)の棒屋中村商店に誕生した六代目藤吉は、幼い頃は負けず嫌いのがんばり屋で凝り性。亡くなった兄のかわりに、幼い頃から跡継ぎとしての精神を教え込まれて育った。祖先はもともと農家だったが、1569(永禄12)年家康が浜松に城をかまえるとともに商売をスタート。天秤棒や背負籠などを販売していた。そこから「棒屋」の商名が生まれた。1785(天明5)年に分家したのが初代藤吉で、父にあたる四代目は報徳を信条とし秋葉神社信仰が深く、浜松宿田町の秋葉大鳥居を作った人物である。六代目となる藤吉は、1873(明治6)年肴町間淵酒屋のはな子と結婚。1879(明治12)年には浜松町会議員に当選、1887(明治20)年奥山の富幕山に林道を作り、山を買って杉苗を植えた。1888(明治21)年からは10年かけて、現在の北区引佐町伊平、川名にも杉や松を植え、1889(明治22)年から1899(明治33)年にかけては、現在の北区都田にも松林を植えた。さらに、白脇海岸地区にある耕地の潮水流入問題には、砂浜に松の木を植えて砂堤防を完成させ、また自費で道路修築や新道開通、橋梁仮設を行った。六代目藤吉の言葉も報徳の精神を感じられる「商売はモノを動かすだけで、富を作ることはないから、商人は反面ではそうして富を造る道をしなければならない」「商売をする事は、どこかで人のためにならなくてはいけない。人を困らせて自分だけ儲けようなどとは、商業の道ではない」💛12月17日(日)の「第8回報徳講座」のチラシを「技師鳥居信平著述集」のクラウドファンディングに賛同してくれた人に郵送している。これまでざっと30人くらい送っただろうか。会場の袋井市から遠く離れた方は来ることは難しいであろうが、単に本を出版するだけでなく、こうして講演会を開催するなり、引き続いて鳥居信平を世に知らしめる活動が尊い。尊徳先生遺言に曰く「倦(う)むことなかれ。勤めよや、少子(こどもたち)」
2021年11月17日
「斯民」第4編第5号(70~75頁)より西遠山間における模範的報徳社員 小島源三郎 谷上報徳社 遠州浜松より三方ヶ原の古戦場を過ぎ、北に進むと約2里の山間に一部落あり。都田村という(引佐郡に属し戸数650戸)。村内に5小字に、横尾社、中野社、谷上社、滝沢東社、滝沢西社の5報徳社の設置あり。総社員223人にして、報徳社の造成額12,700余円に上り、皆克(よ)く報徳主義を実行し、社員は皆精神の修養と、一家経済の向上に努め、結社の目的を達せんことを図り、ひいて一村自治の発達と、民風の振興上に資しつゝあり。なかんずく谷上(たにかみ)社は、明治15年中の創設にかかり、既に幾多の歳月を閲(けみ)したるが故に、社員の共同的精神はますます強固となり、従ってその間、道路の修繕、橋梁の架設等の公益的事業を為し、或いは社田を購入して、社中特別善行者に耕作せしめ(納税金及び僅少の納米の外皆自己の所得に帰す)、或いは善行者の表彰をなし、ますます社業の盛んならんことを期しつゝあり。故に全社員はあたかも一家のごとく、和気洋々の間に、報徳的観念をもって、各々その業務に従い現に30名の社員にして、既に報徳金4,300余円を造成するに至り、地方報徳社中、その実質において、はた成功の域に達する点において、優に一頭地を抜くものあり。これ即ち社員熱心の致す所なるべしと雖も、また経営者の堅忍なる志操と、不抜なる行為とにより、克く社員を誘掖指導せるありて、ここに至りたるものなるべし。依つて本社創立者として、はたまた十年一日のごとく、献身的に業務を経営せられ、今なおその任に当たりつゝある、社長富田林三郎の立志経歴を挙げてここにこれを紹介せん。 貧困に処して発憤せる少年 富田林三郎は鳥居大吉なる人の3男にして、天保14年9月10日をもって一農家に生る。家極めて貧なりしかども、幼より学を好み、8歳の時に至り、村松某につき8ヵ年の間大工職を習えり。ある年のことなりき。新年の回礼に羽織無かりしかば、師の某に乞うて茶色の羽織を借り、辛うじて家を出でけるに、たまたま一団の喜遊する児童あり。その内に師の妹なる少女あり。たちまちこれを認めて大声群集に告げて、見よ見よと、哀れむべき林三郎は、衆人環視のうちにおいて、貧困のために笑殺せられ、先きに羽織を借りたる時の喜びは、暫時にして貧困の悲しみと変じ、この時の悲憤は骨髄に徹したり。然れども彼れは発憤せり。思えらく世に貧しきばかり悲しきものはなし。早く一個の男子となり、良運を得て身をおこすことを得ば、いかにしてか世の不幸者を救わんものをと。これより心を励まし、職業に励精し、一日も怠ることなかりき。しかも当時得る所の賃金一日僅かに8厘に過ぎず。その半ばを師に預けその半ばを実家の用に供したれども、極貧の家負債を償うに足らず。家兄が債主の督促に苦しむを見てこれを憂い、いかにしてこれを助けんと、昼は師家の業務に従い、夜は家に帰りて夜業にロクロ棒の製造をなし、時に鶏鳴に及ぶことあるも、朝はつとに起き出して師家に行き、またかくする事毎夜に及びければ、父母これを見、身心労すべしとてこれを制することありしという。長じて父母の高恩を物語るときは、必ず落涙数行に及ぶ。かくして幾多歳月を経、ようやく負債を償却し、満期後師家を辞し、別に一家を立てゝ両親を養うに至れり。 壮年時代とその職業 慶応3年、林三郎24歳の時、富田林左衛門の義子となる。富田の家も素より貧しくして、僅かに路傍に小店を構え居酒屋を営みたるに過ぎざりしも、その先代が焼酎製造に従いたることありければ、林三郎思えらく、家道を興さんには、祖先の業務に励精するより外なかるべしと。ここにおいてか、数年間心血をそそぎて修得せる職業を棄て、断然酒類製造業に従事す。時に明治2年なりき。かくして傍ら農事をも励み、遂に一家を興し、相当の資産を有するに至れり。明治15年中、彼は報徳教師福岡滝助の門に入り、大いに悟る所あり。遂に同志を糾合して報徳社を組織し、農民部落の改善を企て、創立以来その社長となり、献身的に尽瘁し、もって今日の盛運を呈するに至れり。顧みれば古来富めるもの多くは仁ならず。仁なるもの多くは富まざるは人世の通慣なり。これ自我の一方に偏して他を忘るゝが故なり。二宮翁のいわゆる「道徳と経済との調和」を得ば、富者も仁者たり、仁者もまた富者たることを得べし。要は推譲の精神のいかんにありて存す。而して彼林三郎は富者といういうべき程ならざるも、またすこぶる余裕ある身になれり。而して常に推譲を怠らず。報徳社に対しては前後数百円の加入金を出して社員を利し、また一村の公共事業に対しては率先尽力して止まず。いやしくも村民の福利を増すこと得べきものと認むるときは、極力その成功を計り、或いは私財を投じてその成功を期せり。故に報徳社員は勿論他の村民も、彼の性行に感じ、常に多大の崇拝を払えり。彼はまた名聞ということを嫌い、勉めて陰徳を積むことを心掛く。遠譲社(本社)第6分社に尽くせる功多きをもって、衆望により社長に挙げられたれけども、固辞してこれを受けず。かくのごとき有形の推譲と無形の推譲とあいまって、ますますその人格を顕わし、老後ますますその光を増しつつあり。 現在におけるその行為実(げ)にや艱難は汝を玉にすと。貧困と戦い困苦と闘いたる彼林三郎は、種々なる方面に活動し、出でては村民のため、一村自治のために力を尽し、入れては吾が家庭の清福を計る。しかも多年身を報徳社に投じ、心神の修養を勉めければ、満身これ至誠をもって玉成せられたるの観あり。彼は町村制実施以来村会議員として20有5年間勤続し、その間幾多時代の変遷あるにかかわらず、衆望を一身に集め、悠然自己の所信を遂行し来りたるがごとき、至誠公に奉ずるの心事を窺うに足らん。今や齢い66歳、なお村会議員、区会議員等の公職にあずかり、また銀行の取締役たり。而して報徳社の経営に関しては殆んど全力を尽くし、遠譲本社第6分社その他各社に関係して、常に斯道の発達に貢献し、近時また家庭改善の須要なるを感じ、谷上区婦人会を組織し、婦人の修養上に尽瘁しつつあり。 古帳を携えて昔の借りを返して歩く明治22年の頃、林三郎の養父彼に向って曰く、隣村某は汝の知るごとく、家計裕かに家屋をも新築せり。されど彼もと家計意のごとくならず、我彼に金円を貸与せしも、彼は遂に家資分散し、ために我は少なからざる損害を蒙れり。然るに今彼は昔の彼にあらず。故によろしく前債を督促すべしと。林三郎曰く、大人(だいじん)の命に背くは不孝なりと雖も、今我が家幸いにして富貴の天運に至るも、これもとより人を助けたるにより自然陰徳の報いに来れるならん。今彼富めりと雖も、我これを督促せば我が徳を損するに似たり。寧ろ我が家を自省するにしかず。もし我が子孫にしてかくのごときとありたらんには、人の我を視ること、なお我が彼を視るがごとけんと。養父曰く、汝の言理あり。我が家も祖先の時、家資分産をなしたりと聞けり。されば督促を見合わせ、我が家の旧記を調ぶべしとて、古帳をことごとく調査したるに、果たして発見するを得たり。林三郎曰く、これ実に我が家の一大事なり。よろしく速やかに償還せざるべからずと。これより古帳を携えて、一に債主について、その理由を述べ、ことごとくこれを償却せり。債主の多くは既に時代の変遷により少しも知らざるものあり。ために反って債主より怪しまれたりと(債主は引佐・浜名両郡にわたりて8名ありたりと)貧児の就学奨励を為したる事明治37年1月1日、林三郎は、村立尋常高等小学校学務委員たるをもって、元旦の拝賀式に参列せり。式後同校職員に問うに、自己の区内における子弟就学上の勤惰いかんを以てす。職員曰く、本田儀平なるものごとんど出席せず。ために進級せしむるに由なし、けだし家庭の事情によるならんと。後に同児童の家庭につきて実査せるに、果たしてその原因あることを認む。同児童の家は家極めて貧にして、しかのみならず、母は継母にして、しかも継母には当時一人の実子を挙げければ、母の儀平に対する態度常に苛刻を極め、ある時は食を与えず、衣服を給せず、残酷暴肆至らざるなし。而してある時は継母は熟睡せる可憐なる儀平の肉を爪針するありとぞ、この一事より全般を推測するに足らん。かくのごときが故に儀平の登校は継母の妨ぐる所となり、携帯すべき昼食すら与えず、冷然として顧みざるの有様なれば、儀平の小なる胸中には、学に就くことを憂えずして、食を得ざるの哀を訴うるに至れり。林三郎はこの哀れむべき一少年をして、かかる境遇に終わらしめば、遂に痴愚なすなきものと化しおわらん。これあに一身一家の不幸のみならんやと。ここにおいて弁当米を給与し、学に就かしめんとし、十日間ごとに白米1升搗き麦一升を給し、また時に衣服、傘、木履(ぼくり)等を与え、雨雪の日の登校に便ならしむ。かくのごとくにして遂に義務教育を終わらしめたり。林三郎常に人に語りて曰く、「世の中に貧のため学を修むること能はざる程憐れむべきものなし。教育は人物を造るものなり。而して健全なる人物は国家の要素なれば、世の富者識者たるものは、徒らに天下国家の大を論ぜんより、よろしくこの貴(たっと)むべき問題に留意せよ。」と事小なりと雖も、前記のごとく憐れむべきの少年を苛酷なる継母の手より救い出し、遂によく義務教育を終らしめたる、彼の理想の一端を現実にしたるものの一つなり。 下男に家を興し貯金を為さしむ 林三郎は又よく下男下女をも薫陶せり。されば彼の 家を辞して一身一家を確立せしもの数多(あまた)あり。うち最も成功せるは本田儀作とす。儀作17歳のとき、ある日下肥えを畑に施すべく、肥桶を肩にして程遠からぬ耕作地に行かんとせしが、中途においていかなるはずみなりしか、忽然一方の紐の切断せしため、全部の肥料を地上に散流したり。然れどもその多くはなお窪地に貯留したれば、儀作は躊躇することなく、ただちに柄杓をもって付近の耕地に散布し、なお一方の満足なりし分をも加えてことごとくこれを散じたり。たまたま付近の者これを目撃して曰く、それは他人の耕地にあらずや。何となれば汝は自己の肥料を他人の耕地に散布するの愚を為すやと。儀作答えて曰く、かかる場合には一勺たりとも耕地の肥料と為すにしかず。あに自他の区別をなすのいとまあらんや。もしそれ一方の満足なる分をも散布したるは、施肥を平均せんとの意なるのみと、平然として家に帰れり。ある人これを林三郎に告ぐ。林三郎はこの趣味ある答えに感じ、遂に同人を雇い入れたり。儀作は極めて忠実に仕えたりければ、林三郎は吾が子のごとくこれを愛し、毎月1回の報徳通常会には、日課金を与えて出席せしめ、教訓を怠らず、かくして4か年を経、家に入り自己の得たる報酬をもって、ことごとく父の借財を償却したりという。また同人は報徳の教えによりて、誠実勤勉の徳を発揮し、社員中の精勤家をもって目せらるゝに至れり。谷上社においては、明治22年より37年までの間4回に報徳金200円を貸付けたるも、林三郎の好意によりことごとくこれを貯蓄し、いよいよ業務に励精し、全く家政を回復し、800円の貯蓄を有するに至れり。これ即ち林三郎の薫陶によるものゝ一つなり。親の年忌に教育基金の寄付をなす二宮翁の遺書に曰く、「仏事を厚うしてその長ずるを禁じ、或いは吉礼凶礼すべて本源を厚うしてその長ずるを禁じ、或いは吉礼凶礼すべて本源を厚うし、弊風驕侈を省く」と。彼思えらく、近時世の物質的進歩に伴い、人心ようやく奢侈安逸に流れ、随って冠婚葬祭等においても、ひたすら華美を競うの風長じ来たれり。これ決して喜ぶべき現象にあらず。できうべくんばこれらの贅費を転じて、社会のために投ずべしと。かつて亡母1周年忌に相当せしをもって、前記二宮翁の教えに基づき、仏事に要すべき金円を、村内学校教育基金の内に寄付せり。
2021年10月20日
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