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2022年06月19日
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カテゴリ: 遠州の報徳運動
三遠農学社の八老農 夏目喜平、平岩佐平
夏目喜平は、三ヶ日町鵺代(ぬえしろ)の隣海院の境内に墓と顕彰碑がある。
老農 夏目喜平墓 (顕彰碑)  明治二十九年四月十二日 三遠農学社建之
老農夏目喜平翁は文政十一年(1828)当地鵺代村に生を受け幼少の頃より学術修行に励まれた、青年期には諸国の情勢を見るために、西国金比羅・大峰・高野の諸山と、西国の諸国を五十五日間をかけて歴訪し地方の人々が艱難困苦している様子を見聞、農事の大切さを感得し、村人にも農業にいっそう精進することを奨めた。成人してよりは生来の才覚と努力によって田畑の改良を手がけ、明治八年より明治十四年にかけて、柑橘苗四百数十本の植樹を行った。大規模に、しかも畑に柑橘苗を植えたのは当地区内では最初のことであったと伝えられている。その後、明治十八年には、西遠農学社大会に於いて、篤農家の一員として郡長表彰の栄誉に浴した。喜平翁没(明治二十二年)後その業績を称えんとして三遠農学社の社員によって当隣海院境内に顕彰碑が建立されたのである。この度隣海院境内整備にともない、老農の末裔等志を合わせその徳を後世に伝えたく此処に移設した。 平成二十年(2008)十一月吉日

 平岩佐平(佐兵衛)は遠州七人衆と二宮尊徳との面会のきっかけを作った。「遠州七人衆桜秀坊を訪う」鈴木文雄(「かいびゃく」昭和33年9月号)に平岩の姿が活写されている。
 弘化3年(1846)、相模国大山の人浅田勇次郎が、遠州下石田の神谷与平治に出会ったのを機として翌4年に下石田報徳社が生まれた。1年おいて嘉永元年掛川倉眞村の岡田佐平治が勇次郎の兄、安居院庄七に会い、その年12月に牛岡報徳社が結成され、安居院と佐平治の推進力で嘉永2年には、袋井高部藤左衛門を中心に、高部報徳社が、その年に気賀町恩田彦右衛門、升田兵左衛門を中心に気賀社が発足した。更に嘉永4年周智郡片瀬報徳社、周智郡の平田社が結成され、翌5年安居院庄七は森町に滞在しここに報徳社を結成した。遠州における報徳結社は安居院庄七の指導の下、着々結成されその効果を上げていたが、遠州報徳社が二宮尊徳の直接の指導下にないことは報徳連中に一抹の寂しさを与えていた。一度二宮先生に会い、じきじきの指導をうけたいというのが遠州報徳連中の念願であったのである。
 嘉永6年の正月。昨5年の年末から、江戸の主人が、大病であるとの報にあとを頼んで出府していた成瀧村の平岩佐兵衛は、二宮尊徳が当時相馬屋敷に逗留中であることをきいて郷里の報徳連中への土産にもと、二宮先生の指導をうけたいと相馬屋敷に足を運んだが、「年末多事にして取込中に付き差し戻し」と面会を許されなかった。
嘉永6年正月、佐兵衛は帰国を前に二宮先生に面会したいと3度目の相馬屋敷訪問を試みた。当時尊徳67歳、日光神領復興の命を受け畢生の努力をつぎこまんとしていた時である。平岩「再三、二宮先生にお目にかかりたく伺いました。遠州の平岩佐兵衛と申す者ですが、明日は国もとに帰りますので、ほんの少々の間でもお話しを伺いたいと重ねてお願いに参りました」受付「先生はこのごろ大変お忙しいので、今日も外出中で、お留守でございます。まことにお気の毒ですが」「あっお帰りのようです」「先生この方が昨年の暮から再三見えられて是非先生にお目にかかりたいと」二宮「どちらの」平岩「遠州成瀧村の平岩佐兵衛です」二宮先生は佐兵衛の遠州の報徳連の話を聞いて「遠州にはかねがね私の報徳の道を説くものがあるということは聞いていたが、詳しい事がわからないし、誰がその先達であるか分からなかった。今日は様子はわかったが、私の説く報徳の道には事と次第というものがある。ただの口説法だけで何もわからない百姓に説教をきかせて、かえって世の人をあやまることにもなりかねない。実はそれを心配していた。遠州の重だった世話人に、一度そろって出てこい」と言われた。
語り手 平岩佐兵衛の帰りをまって嘉永6年春、高部村、高山藤左衛門の所で、遠州報徳社の大参会がひらかれ、席上、平岩は江戸での二宮との面会の模様を話したのである。

語り手 かくて協議の結果、影森村の内田啓助、倉真村の岡田佐平治、気賀町の升田兵左衛門、同じく松井藤太夫、森町の中村常蔵、山中利助、この人は後に新村をついで新村利助となる、下石田村の神谷久太郎の七人が選ばれ、これに安居院庄七を加えて8人が二宮尊徳を訪れることになった。我々は、この七人を遠州七人衆とよぶ。





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最終更新日  2022年06月19日 15時24分33秒


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