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2022年07月21日
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2022年7月21日(木)

報徳記巻の2

現代語訳「報徳記」巻の2


Ⅲ ビジョン編―報徳は精神変革である― 1 『桜町治蹟』を読む
『桜町治蹟』は山本東野氏が編集し、明治四十四年十月下野報徳本社が発行した。自序によると、山本氏は桜町陣屋に三週間滞在し、報徳記などのほか、芳賀郡長青木浦次郎、現物部村長広澤平八、家庭学校長留岡幸助、下野報徳本社幹事長海老澤元蔵、物部尋常高等小学校長笠村勝三、真岡町田村直七、芳賀郡山前村高松甚兵衛氏等から直接関接に参考資料を提供され、土地の古老の談を伝えられ編集したとある。いわば二宮尊徳の桜町時代のエピソード集である。報徳記に漏れている逸話や人物の名前が分るものもあり、また二宮尊徳の考え、教化や教育の方法を知るうえで貴重である。そのいくつかを紹介しよう。
  ⑴ 盥(たらい)の水の原理
尊徳は実物教授の主義でどこでも説かれ、推
譲の理屈も何人にも分かるように話された。人夫などが仕事の休みなどに、タライに水を酌んで置いて、『その水を前の方にばかりかいて見よ。幾ら汗水を流して前へかいてもその水は向うに行ってしまう。しかしこれと反対にこの水を向うにばかり押すというといくら押しても帰って来るばかりである。欲が深く自分の方にばかりかきこんでそう自分の方にばかり来るものでない』と言って開墾事業の視察に行っては実物について話された。これは盥の教訓と言われて名高い話である。」この盥の水の教訓は、推譲の理を譬えで分りやすく説かれたものである。
報徳教林【六四】盥の中に水を入れ、己が方へかき寄せれば両脇の水は向うへ行くなり。又前の方より向うの方へ水をかきおくれば、両方の水、前の方へ来るなり。又作物も大切の種を向うへ蒔く時に後にこの実り来るなり。(『尊徳門人聞書集』p.13)

尊徳は常に門人に語るに、『私の巡回は、全
く村民に勉強の習慣をつけさせたいという趣
旨から来ている。これを譬えると椀の中に箸
を入れて廻わすと、始めは箸のみまわって水
はそのままだが、暫くすると水もまわり始め、
水のまわる勢いが段々強くなると箸はまわさ
なくても自然と水の勢いのため箸がまわるよ
うになる。私の巡回の趣旨もその通りで、始
め村民は惰弱の者があっても自然と感化され
て勤めるようになるから早起きをして巡回し
ているのだ』と言われた。

尊徳は常に農民に語るに、畑の草は小さい草
から取れ、余り多く生えていない所から取れと言われ、反対に多く生えた所から始めて時日を費やすうちに小さい草が大きくなると言われた。尊徳が復興事業を行うにもこの方法で、まず小さな平易な所から始め難しい所の仕法をした。ある日多数の人夫が堀浚いをしている時に人夫が一鍬ごとに泥がはねる。翁はこれを見て素足になって鍬を取って上の方の泥をすくいて左右にならしてその後を掘ると少しも泥がはねないようになった。自ら手を下し、工夫改善する方法を教えた。
⑷ 子供の教育
 尊徳が桜町陣屋着任後二、三年を経て、弥太郎が五、六歳の時、左官を呼んで陣屋の壁を塗らせた。弥太郎は子ども心に壁の所を通り抜けようとした。乳母は通れないと話したが承知しない。翁はそこにいて、それなら通してやろうと左官に壁を破らせて通らせたら弥太郎は大いに喜んだ。それから左官に壁を作らせ、弥太郎を膝下に呼んでこういう所は通る所ではない。通ってはいけない所を通るのは人のするべきことではない。左官もいるから破った壁を修理できて怪我もなくてすんだが、そうでなければ怪我するだろうから決してこういう所は通ってはならないと誡められた。翁は、始めは満足を与えて、それから後に諄々と躾けられた。翁はみだりに子どもを叱るようなことはなく、子供を愛された。子の弥太郎が自宅や同僚の横山周平の家にいた時、翁の膝の上に上がったり、寝転んだりしても叱りつけるようなことはなく、私は子どもは好きだから少しのことでは叱らないと言われた。尊徳は毎日朝は早く家を出て夜は遅く帰るということで、子どもの生長のことはよく知らなかったくらいで、家庭の教育は夫人にまかされていたが、仕事の都合で陣屋にいる時は愛情が一層深く、ちょっと陣屋にいても、よく子どもの躾けには注意されて愛情を注がれて善い方へ導かれた。決してはげしく子どもを叱りつけるやり方はしなかった。
⑸ 杉皮むき職人への慈愛 

⑹ 翁は廉潔の人なり
 尊徳は横山周平を非常に信頼され、出府の際など周平の宅に宿泊された。ある時、翁が江戸に出て周平宅に滞在された時、種々の進物を持参し尊徳に面会を求めた者があったが、尊徳は謝絶した。周平夫人が気の毒に思って取りなしたが頑として応じなかった。尊徳は、「私の目は後ろにもあれば面会をしなくともその来意は分る。無駄な面会をして、時を費やすのは欲しない」と言った。翁は面会を請う者からの進物は受けることを禁じたが、翁の留守など取次人はやむを得ず受けることもあり進物も多かったが、尊徳は手も触れなかった。尊徳は常に質素な生活をし、外泊の時など酒を飲まず、飯と一汁の外決して甘味を食べなかった。また外泊はしない方でどんなに夜が遅くなっても努めて陣屋へ帰った。青木の堰普請の時も遂に一晩も外泊しなかった。
  ⑺ 翁と富田高慶との対面
 富田高慶は相馬の藩士、江戸の聖堂で十年儒教を学んだ。病気がちで芝の巴町の医に診察を受けた。ある時野州から来た患者の一人に「天下には私の師と仰ぐべき人物はいない」と言うと、患者の言うに、私の国に今、宇津家の所領の桜町の復興をやっている二宮金次郎という人がいる。彼の人ならどうでしょうと話した。高慶は書物を売却し旅費にあて、桜町に行き尊徳に面会を求めた。尊徳は「高慶は江戸の学者である。百姓が会った所で益がなかろう」と謝絶した。尊徳の門下生が気の毒に思い、自分の家に下宿させ暫く時の来るを待たせた。高慶は寺子屋を開き半年ばかり子弟を教育した。その人格・学識が評判になり遂に尊徳の耳に達し、今度は羽織袴を持たせ面会をしようと迎えにやった。高慶はその知遇に感じ、早速陣屋に来て翁に面会した。尊徳は「貴君は学者であるということであるが、豆という字を知っているか」と言われた。高慶は豆という字を書いた。尊徳は言われた。「貴君の書いた豆は馬が食うか」と言って、門弟に倉より一つかみの豆を持って来させ、「私の作った豆は馬が食べる」と高慶の前で見せた。これが両者の初対面である。高慶は理屈だけでは天下国家を救うことができないということを知って、誠心誠意、二宮先生について実際的に学問をしたということである。
  ⑻ 尊徳は政治を口に出すことなし 
翁は生涯の中に不平のことがあっても政治上の事について口を開いたことはない。ただ東郷在任中米国の使節ペリーが浦賀に来た時に次のようなことを言った。「これに対し世間では打ちはらうと言うがそれも家康公の教えを守るのでよいかもしれません。彼の国にも不足のものがあるから彼の国の不足のものがあったらこれを補ってやり、また我が国の不足のものは彼に求めて交易をして行くようにそれを調査して、その求めに応じられるようにして、国内で入用だけのものは開発して品物を作ってやるようにして攘夷などと言わず、殖産興業の起るまで時期の来るを待つといって述べて帰したらよかろう」と言われた。そして自分の職分に忠実であればよい。政治の事は言わなくてよい。事業を行う上で決して言うべきものではない。商人は商売のことを熱心にやり、農家は農業のことを一生懸命にやればよい。牧民官は職務を忠実に行えばよいと門人などが政治の事を聴いても決して言うものではないと退けて政治に押し及ぼさなかった。また上官の干渉の不平、頑民の反抗等があっても政治の議論をしたことはない。翁は実行の人であって政治の口に論議する人でなく忠実に殖産のことを奨励した。自称政治家などがいたずらに口を政治にかりて終に財産を傾けるようのものが多いが、そういう考えをもっていては一家を保って行けないと言って深く門人らを戒められた。

2 岸右衛門について
「中村氏岸右衛門問答聞書」が『近世の村と生活文化』大藤修著p.131に紹介されている。
「谷田部藩が尊徳仕法を導入した発端は、野州芳賀郡中里村の出身で、江戸に医術の修業に出ていた中村元順が、親族の桜町領物井村の百姓岸右衛門から、尊徳仕法のことを伝聞したことにある。玄順は、自らが借財に苦しんでいたことから、これに関心を持ち、岸右衛門に仕法金拝借を尊徳に懇願してくれるよう依頼した。これに対し、岸右衛門は『そこもとが借財に苦しんでいるには、財を施すことはさて置き、草の根木の皮のたぐいにて薬代を貪り、その身を富ますことしか念頭にないため、世間の人々に人徳を慕われることがなく、したがって医者の家業も不振にならざるをえないからだ』と批判した。そして、『自分もかつては、自分の利益しか考えなかったが、二宮様よりご教諭を受け、他人の生活が成り立つよう献身してこそ、自己の家業も安泰を保てる』ということを悟り、『ただただ大勢を助ける道につき自分のことは暮らし方の内を取り縮めて、冥加のために無給にて』二宮様の手足となって働いているのだと話して聞かせた。この岸右衛門の話には、尊徳の教諭によって、農民がどのように精神変革を遂げたかがよく示されていよう。」(太字・傍線は編者、以下同じ)。
 岸右衛門は、八、九年は二宮尊徳の教諭が分らなかったと告白する。次第に恩徳に報いることが第一であるとの明暮のご教諭が心魂に徹し、「難有」(ありがたし)と自分から進んで随身し、自弁で江戸に出てその事業をお手伝いしているという。
内山稔氏は言う。「尊徳の生涯と事業、あるいはさらにその精神を知るには、彼の高弟富田高慶が熱誠をこめて綴った伝記『報徳記』にしくものはない」「『報徳記』を読んで感動しない者は、たとえ他にどんなにたくさん解説書・研究書を読んでも、尊徳の精神、尊徳の事業を正しく理解することはできないし、その神髄に迫ることはできないであろう。内村鑑三はこの本を読んでいたく心を打たれたので、尊徳を『代表的日本人』の一人として海外に紹介し、また、尊徳の精神と事業とを『後世への最大遺物』の一つに加えたのであった。」(「尊徳の実践経済倫理」p.139)
 内村鑑三は「諸君はまず善人となるべし、至誠の人となるべし。二宮先生の根本とするところは道徳なるが故に諸君も必ずまず道徳的大変化大復興起こらざるべからず」と静岡県袋井市で行った講演会で言っている⑴。
岸右衛門の「精神変革」は、まさに内村のいう「道徳的大変化大復興起こらざるべからず」を体現している。報徳は「精神変革」の思想である。報徳思想を真に継承しようという人間は、「必ずまず道徳的に大変化・大復興」が起こらなければならないのである。
岸右衛門の人脈や行動力は尋常ではない。
岸右衛門の不二孝仲間の頭領的役割を指摘されたのは、岡田博氏である。『二宮尊徳政道論序説』の「桜町領仕法と不二孝仲間」で、文政十年三月一五日「夜峯右衛門不二孝聞に行」、翌一六日「岸右衛門方夜に入り行、富士こう聞。」とある。岡田氏は一五日の「峯右衛門」も「岸右衛門」であろうとされている。(「序説」p.125)
 文政一一年八月七日二宮尊徳夫人波が子供二人と不二孝仲間五人と宇都宮にいた不二孝指導者小谷三志に会いに行く。不二孝仲間として筆頭で挙げられるのが岸右衛門で、物井の不二孝仲間の中心であった。八月一八日『金銭出納帳』に左の文がある。






令和4年5月8日現在
「報徳記を読む」第二集ー報徳は精神改革であるー
全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年11月28日発行)

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朝、少し家を出るのが遅くなったので、蓮池のほとりで蓮の花を見やりつつスロースクワットと片脚立ち。
昨日、今年12月18日(日)の講演会に青山学院大学の先生が「実業家鈴木藤三郎の考え方」で講演することを快諾。御殿場の先生、浜松Oさんと一旦了解しながら断ってきたので一人で通しでもと考えたが、戸田さんから森町に関係する話題をと連絡があり「自費自弁ですが」と断ってお願いしたところ了承。
毎日藤三郎の願文の「報徳の教えが全世界に広まり真正の文明の実を見ることができました。感謝します」と魔法の言葉を口に出して念ずる。真民さんの「念ずれば花開く」のように一つ一つ花が開いていく(。•̀ᴗ-)✧





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最終更新日  2022年07月22日 18時39分52秒


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