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自動車免許更新のために高齢者講習を受けてきた。こんなふうに年を取ったためにやらねばならないことが増えることもあるが、反対に年を取ったためにやらなくて済むこともある。 高齢者講習の一週間ほど前、ある会合で私と同年配の女性が真剣な顔で「おいくつなんですか」と聞いてきた。少しびくつきながら答えると、「ああ、そうですか。それじゃ無理ですね」と言う。この地域に保護司をやる人がいなくて、私がその候補に挙がったのだが、私が60代か70代かで意見が分かれたのでやむなく直接聞きにきたというのである。 年齢のおかげであっさりと免除されたのでほっとしたが、これからはいろんなことが免除されていくだろう。そういう意味では、若く見られることはとても危険なことだと悟ったのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2019/11/22 18:14~18:33) 今日は珍しく集会が始まる前に元鍛冶丁公園に着いた。4、5分で集会が始まり、司会者が「脱原発カーは風邪をひいてしまって今日は来ていません」と話し始めた。脱原発カーの故障を「風邪ひき」に喩えたのだろうと思って感心したが、ただ単に運転するスタッフが風邪ひきなのかもしれない。 そういう私は、先週の木曜日から熱と咳の風邪で三日ほど寝込み、脱原発デモもさぼることになってしまった。ここ2、3か月は2週に1度のペースでしかデモに参加できていない。 原子力規制委員会による女川原発2号機の審査が終了し、早ければ月内にも事実上合格する見通しとなったというニュースや、その女川原発2号機の広域避難計画には実効性がないとして、石巻の市民団体が宮城県と石巻市を相手に再稼働への地元同意の差し止めを求める仮処分を申し立てたことなどについてのスピーチ、インターネットTV局『OurPlanet-TV』の主宰の白石草(しらいし はじめ)さんの講演会「市民による検証~チェルノブイリ33年・フクシマ8年」(11月30日13:30~16:00、仙台市サポセンB1F)の案内などがあって、30人のデモは一番町に向かった。 集会の進行中にスタッフの一人が手招きして真っ暗な茂みを指さしていた。真っ赤な小さな花(サルビアの仲間で○○○セージなどと呼ばれている種類)が咲いていた。咲き残りなのか、帰り花なのかわからなかったが、そのスタッフが小さな懐中電灯で照らすと何とかシャッターが下りるのだった。一番町。(2019/11/22 18:34~18:40) とくに注目すべきでも何でもないが、核燃料サイクルについて梶山経産相が「推進方針に変わりない」」と青森県の三村申吾知事に話したというニュース記事があった(11月11日付け『KYODO』)。 原発が排出する放射能汚染物の処理の方法がまったく確立していないのに「いずれしっかりと処分できる」と根拠のない指針を語り、原発立地県には使用済み核燃料を永久保存はしないと当てのない約束をし、青森県には高濃度放射能汚染物を貯蔵しないなどと実現性が疑わしい政策を掲げることで原発推進を推し進めてきた政府の一連の虚言の一つとして、何十年も動かせないでいる核燃料処理プラントを根拠にこれまた実現性の低い核燃料サイクルについて虚言を弄しているに過ぎない。 核燃料サイクルについては、10月4日の本ブログ記事でで紹介した「絵空事の核燃料サイクル、今やニュース価値なし?」という9月15日付の『論座』の記事をあげておけばいいだろう。 高速増殖炉の原型炉「もんじゅ」改革が完全に破綻した日本はフランスの高速増殖炉「アストリッド」計画を頼みの綱としていたが、そのフランスが「アストリッド」計画を完全に放棄して、日本の核燃料サイクル計画はほとんど班端しかけているのにマスコミはまともに取り上げない。実現性のない日本政府の核燃料サイクル計画の動向にもうニュース価値はないのか、と皮肉を聞かせた記事である。 さて、先のKYUDOUのニュースにはどんな価値があるのだろう。青葉通り。(2019/11/22 18:46~18:53) 先週の風邪はほぼ治ったもののときどきの咳きこみが残ってしまった。何かの拍子で咳きこむとなかなか止まらない。歯の定期検診も予定に入っていたが、大口を開けたまま咳きこんではたまらないので一週間日延べしてもらった。 とはいえ、デモの間はほとんど咳が出なかった。デモが終わりカメラをバッグに仕舞って歩き出したら、咳が出始めた。なにか暇つぶしのような咳である。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2019.11.22
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先週のデモ(11月1日)は、久しぶりの1泊2日の出張で札幌に出かけていて参加できなかった。このような出張を必要とする公的な仕事はもう1年ほどで終わる(はずだ)。そう思うといくぶんなにがしかの感情が湧いてくるかと思いきや、飛行機も電車もバスもすっかりスケジュールが定められていて、バタバタと仕事(?)は進んでいくのだった。 それほど気を遣う仕事でもなく、スケジュール通りに淡々とこなされていくだけなので疲れるはずがないと高を括っていたのだが、帰宅して見ればふわーっとした疲労感が全身に漂っているのだった。疲れたという明らかな実感はないのだが、かといって何かをやろうという気力はさらさらないのである。こういうのを「老いの味わい」とでも呼べばいいのだろうか。味わい深いなんてことはまったくないのだが……。肴町公園から一番町へ。(2019/11/8 18:20~18:36) 先週のデモは不参加だったが、その前は月1回の日曜昼デモだった。今日と同じ肴町公園で集会があったはずだが、それを思い出すのにだいぶ時間がかかった。昼の肴町公園と夜の肴町公園の印象がだいぶ違う。 日が暮れてからの肴町公園の集会は数えきれないほどあったのだが、こんなに暗いという印象はなかった。公園に着いてカメラを取り出し、集会を写し始めたのだがシャッターが下りないのである。ほんとうに暗いのである。前の回が昼デモだったので、ことさら暗いと思ったのかもしれない。ファインダー越しに見る肴町公園の印象ということらしい。カメラのファインダーから覗くようなスタイルで私はデモに参加しているみたいだ。 国会が始まって、学級崩壊ならぬ国会崩壊と呼べるような無残な議会の報道が多くなったせいか、最近は際立った原発関連のニュース報道がとても少ないように思う。それでも、放射能汚染ゴミの一般焼却問題での大崎市の市民による訴訟の継続のことや、女川原発の事故時の避難が困難であることなどを理由に石巻市民が再稼働の地元同意を差し止める仮処分を地裁に申し立てることなどのスピーチがあった。 また、初めて参加された人の挨拶などもあって、30人の脱原発デモは暗い肴町公園を出発した。一番町。(2019/11/8 18:37~18:41) この前の金デモのブログで「原発マネー還流発覚で関電崩壊、原発消滅カウントダウン始まる」というネット記事(10月3日付け『ASCII.jp×ビジネス』)を紹介したが、なぜか今はネットでは読めなくなっている。原発立地自治体へ投入した金が関西電力に賄賂として戻ってきたことが発覚して原子力業界が先行きを案じているという記事だった。 その記事とよく似た記事が11月8日付けの『東洋経済ONLINE』に「関電不祥事を機に原発は消滅の道をたどる」というタイトルで掲載されている。サブタイトルに「専門家に聞く、関電「金品授受問題」の本質」とあって、この記事も上記の記事と同様に誰かに聞いた話がベースになっている。 その専門家は「エネルギー政策や電力会社の経営に詳しい」と紹介されている東京理科大学大学院の橘川武郎教授である。橘川教授は、今回の不祥事が原子力政策に及ぼす影響は?」と問われて、次のように答えている。文中の「豊松氏」とは関西電力の原子力事業本部の最高幹部の豊松秀己元副社長のことである。 極めて大きく深刻だ。3月に私が原子力発電部門のトップを務めていた豊松氏(当時)に会った際、「今年中には絶対に美浜でのリプレースを明らかにしますよ」と断言した。今になって思えばどこまで本気の発言だったのか疑問もあるが、その豊松氏が株主総会を機に退任し、今回不祥事が発覚して処分された。 原発の新設やリプレースに首相官邸や経済産業省が及び腰であり続けている中で、それを言い出せるのは、原発事故で東京電力なき後の盟主ともいえる関電しかなかった。ところが、そうしたゲームチェンジャーの役割を担うはずの人たちが、豊松氏を含めて皆いなくなってしまった。このことは、原発の今後に計り知れない影響を及ぼす。 政府は2050年までに温室効果ガス排出量の8割削減の方針を掲げるとともに、原発を脱炭素化の有力な選択肢の一つだとしている。そのためには原子力の発電能力を維持しなければならない。目標の実現は古い原発を閉鎖するとともに、新しくて危険性が相対的に少ない原発へのリプレースなしでは不可能だ。 それが今回の不祥事によって困難になってしまった。このままでは稼働期間を終えた原発が消えていく一方でリプレースも進まず、原子力はやがて野垂れ死にするのではないか。 先の記事では「早ければ……2049年までに、日本から原発が自然消滅する」と予言していたが、ここでも橘川教授は「原子力はやがて野垂れ死にするのではないか」という嬉しい予言をしている。 予言の確度はさておき、原発の新設やリプレースという日本の原子力政策の将来を決定するような事項が民間電力会社の一人の重役の去就に強く左右されているということに驚く(そして、そういう社会構造を無批判に解説している学者(?)にも驚いている)。 原子力は、福島の人を故郷から追いやり、その生命・健康を脅かし、広くばらまかれた放射能は日本人全体の健康を未来に亘ってじわじわと侵し続け、そして世界中の原発が垂れ流す放射能は人類の未来(存続)そのものを脅かすものである。大学院まで原子力を学んだ人間としての、それは私の確信である。 いわば、人類の絶滅に関わる問題の主要な部分が、賄賂を平気で受け取るような民間会社の一人物に委ねられていることに恐怖を覚える。その恐怖は、小学校低学年の子どもが戦争ごっこを遂行する程度の知性しかない宰相に国のかじ取りを委ねている恐怖に匹敵する。 日本は、社会の基底構造から徹底的に変革する必要がある。それだけは間違いない。広瀬通り、晩翠通り。(2019/11/8 18:41~18:53)青葉通り。(2019/11/8 18:53~19:08) ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』で写真技術や映画は芸術のありようを根底的に変えたと書いているが、さらに時代は進んでカメラはデジタル技術の粋を取り入れたというものの、やはり闇には打ち勝てないままなのである。 たくさんの写真を撮ったが、たぶんそのほとんどは使えないだろうな、そう思いながらニコンの一眼レフをバッグに仕舞いこんでとぼとぼと帰るのである。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2019.11.08
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【ホームページを閉じるにあたり、2011年10月17日に掲載したものを転載した】【続き】 頂上標を過ぎると、やや複雑な地形に残雪が広がっていて、道を間違えた。道は真っ直ぐに薮道へと続いていたのだが、笹が雪で倒されていたうえに左手に下っていく細い残雪の下に道があると思って下ってしまった。頂上を過ぎたので少し下っても不思議はないと思い込んでいたのである。下りながら右上の斜面を見ると道がはっきりと見えて、15mほどで引き返すことができた。Photo G 残雪の向こうの道に頂上標が見える。 (2010/5/31 9:49) 道は尾根のやや南側を走る。頂上標から10分ほどのところでPhoto H のようなダケカンバを見た。根本から分枝するダケカンバもないわけではないが、これだけきっちりと根元で分かれて、空を受け止めるように広がっている木は珍しいと思う。 船形連山の北泉が岳から泉ヶ岳西麓の水神に下って来る道にダケカンバの林があるが、ほとんどは直立する太い一本の幹を持っている。尾根とはいえ、形からは風の影響とは考えにくい。積雪のせいでもあろうか。Photo H 頂上標を過ぎた尾根道で見たダケカンバ。(2010/5/31 10:01)空の奥から こぼれ墜ちてくる小鳥を そのつど灌木は たなごごろに享けとめるが 鳥や樹木にそうやって 形を与えてやまないのは 背後の空間の優しさだ 鳥や樹木に形をわけ与えた そのぶんだけ 空は欠落し 誰も知らないところで 血を流しながら 空は途方にくれるのだ 鈴木漠「拾遺」部分 [2]Photo I 頂上標を過ぎてから見る地図上の須金岳の眺望。(2010/5/31 10:02) 道はすぐ下が急斜面のところをトラバースして尾根筋に戻るのだが、その手前から、尾根筋にそって残雪が続いているのが見える(Photo I)。ここから見るかぎり、残雪の端には灌木が茂り、危険な雪庇はないように思える。見つゝ来しごとく残雪峰に寄る 山口誓子 [3] 麓でも確かに残雪があるのを見てはいたが、尾根にこんなに残っているとは。しかし、どうして、この句のように、残雪は「峰に寄る」のだろう。たんに標高差という理由ではないだろう。風が吹き通る尾根ではとくに積雪量が多くなるとも思えない。 尾根から下る斜面の斜度が問題なのかもしれない。良く見ると写真の中央付近の斜面に下に伸びる何本もの筋が見える。雪崩が雪を落としたために、斜面の雪が早く消え、相対的に遅くまで尾根に雪が残ったということかもしれない。 道が尾根に直角にぶつかろところには、3mほどの雪の壁であった。オーバーハングはしていないので、危険はないとおもうのだが、足がかりがない。道はこの残雪を右に折れていくはずなのだが、その方向には這い上れそうな斜面はない。 遠回りだが左手に回ってみると少し傾斜の緩やかな斜面があったので、そこを上がることにする。連れと私をつなぐリードをつけたままでは無理なので、連れのリードをはずすと、そのまま雪面を駆けあがり、早く来いと急かすのである。私は、山靴で削って足場を堅めながらなので、早くはあがれない。連れは上から覗きこんで、じっと待っていてくれた。Photo J 荒雄岳(次に登る予定)。 (2010/5/31 10:02)Photo K 残雪の上にもなにかの痕跡があるようだ。(2010/5/31 10:09) 残雪の稜線は、灌木にも邪魔されず、きわめて展望がよい。上ってきた道の方向をふり返れば、向こうに禿岳が見える。あの山は、三回目のチャレンジでやっと登れたのである。一回目は、大雨になってしまい、連れの散歩代わりにと、30分登って引き返し、毎朝の1時間相当の散歩とした。二回目は台風の後で、花立峠登り口への道が閉鎖されていたのである。 南には、やや低い荒雄岳が意外に複雑な山容を見せているし、北には虎毛山がゆったりとしたふくよかな印象の姿を見せている。いずれも5月の清新な青空と白雲を背景として、映えている。 私が山に登るときはいつもこんなふうに良い天気である。当たり前である。こんな良い天気にしか登らないのだ。雨具はもちろん持ち歩いているが、ここ7、8年で使用したのは、先の禿山と、天気予報になかった急な低温におそわれた蔵王連峰、熊野岳山頂で防寒着代わりに着た、その2回だけである。Photo L 北方には虎毛山(1433m)。 (2010/5/31 10:10)嶺々の雲ばなれよき五月かな 鷹羽狩行 [4] これは麓で読んだ句だろうが、鮮明なきっかりとしたイメージがとても良い。でも、次のような句が、私は好きだ。子規、虚子から続く俳句の王道たる写生句から少しはずれた句が好きなのである。峰雲や生きてひとりの強さ弱さ 秋本不死男 [5] 残雪の上を、地図上の須金岳の峰の方向に歩き始めたが、実はあんまり期待したほど楽しくない。安全を期して残雪のまん中を歩く。ごく緩やかな傾斜で、単調に続く。もういいか、と思ったのである。臆病なので、事故が起きないうちに、とも思ったのだ。 引き返すことにした。Photo M 残雪の上から望む禿岳。右手前に来た道が見える。(2010/5/31 10:28) あまり急斜面のない山の下りは快適である。老骨の膝へのダメージの心配もあまりない。気休めかもしれないが、急な下りの山では、膝保護のサポーターを両膝に着用することもあるし、トレッキングポールを使うこともある。持参してはいるが、この山ではどちらもその必要を感じなかった。 頂上標の手前の道脇には、イワカガミが群生している。もちろん花はまだだが、葉が照り輝いていて、植木の下草に使えたらすてきだろうなと思うが、まったく無理な話である。 林の中に入ると、マイヅルソウの道である(Photo N)。これも花はまだである。マイヅルソウは丈夫な山草としての園芸的な人気もある。山草趣味は30年も以前に止めてしまったが、わたしもかつて大きな平鉢に満杯に咲かせたことがある。それくらい、丈夫でよく増えるのである。Photo N マイズルソウの道。(2010/5/31 11:06)上:ムラサキヤシオ、下:ヤブデマリ 行程の中で一番目を引いたのはムラサキヤシオの花である。この花が好きで、2mほどに成長したものを買って庭に植えたことがある。6年ほど花を見せてくれたが、突然枯れてしまった。草も木もいったん枯らしてしまうと、二度目はなかなか手が出ない。また殺すのか、という感じが離れないのである。 登っていくときには気づかなかったのだが、登山口近くで不思議なものを見た。太い立ち枯れの木の、朽ちた中心部に一本の木が生えているのである(Photo O1)。朽ちた木の上に実生で生える木があっても不思議はないが、少なくとも10年以上成長したような太さなのである。その間、朽ちた木が立ち枯れのままでいるというのは想像しにくいのである。Photo O1 枯れ木の空洞のなかの一本の樹?(2010/5/31 12:22)Photo O2 細い命脈が上の太枝の命を支える。(2010/5/31 12:22)そのとき 一本の樹が、 さらに大きい自分のなかに沈みこみ、 そのたっぷりした容量だけで やさしく自負している。 菅原克己 「野」 部分 [6] 生き抜く命のすごさ、生命体のこの極端な可塑性に、少しのあいだ呆然としていた。ハルゼミの鳴き声に促されるようにして正気に戻ったような気がする。その寸時の間、ハルゼミは鳴きやんでいたわけではない、ずっとうるさく鳴き続けていたはずなのに。けふはけふの山川をゆく虫しぐれ 飴山實 [7] そのハルゼミを見つけた。この蝉を間近に見るのは初めてである。弱っていて、クマザサの葉に止まっている。持って帰って子どもに見せてやろう、と一瞬思い、それからゆっくりと、二人の子供はとうの昔に大きくなって家を出ていることを思い出すのであった。 いや、それでも我が家にはハルゼミの声を聞いたことのない人間がいる。106才の義母(妻の母)である。たぶん、義母にはハルゼミとヒグラシの区別はつかないだろうから、持って帰って見せてもどうにもならないだろう。ただ、この強烈なハルゼミならではの大合唱だけはめずらしいと思う。デジカメには録音機能のオプションがあること思い出し、何度か録音して見た。義母に聞かせてみようと思ったのだ。 家に帰り、録音したはずのハルゼミの大合唱を再生してみた。まったくだめなのである。大合唱どころか、たしかになにかの音がするという程度なのである。「何でもできる装置は、どれもろくにできない装置である」ということは、実験物理屋の常識であるのに、こんな失敗をいつもするのである。ハルゼミ 旧仙秋ラインのゲートを6時13分に抜けて入り、抜け出たのは12時50分の山歩きであった。[2] 「現代詩文庫162 鈴木漠」(思潮社 2001年) p. 66。 [3] 「季題別 山口誓子全句集」(本阿弥書店 1998年) p. 22。[4] 鷹羽狩行「句集 十二紅」(富士見書房 平成10年) p. 26。 [5] 「季語別 秋本不死男全句集」鷹羽狩行編(角川書店 平成13年) p. 78。[6] 「菅原克己全詩集」(西田書店 2003年) p. 64。 [7] 「飴山實全句集」(花神社 平成15年) p. 164。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2019.11.03
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【ホームページを閉じるにあたり、2011年10月17日に掲載したものを転載した】須金岳全景 108号線を鬼首温泉郷を抜けた付近から。(2010/5/31 5:52) 宮城県の北部の小さな農村で生まれた私にとって、幼いころの山といえば栗駒山であった。小学校の校歌にも、「あおげ自由の栗駒を」という一節があった。(「自由の栗駒」というのは、小さいころは何となくそうかと思っていたものの、どんなことをイメージすればよいのか、いまだに解らないのである。中学校でも高校でも、校歌は一見簡単そうで、じつはその実質を理解するのは難しいもののようだ。) 高校時代の登山で、雫石(岩手県)から秋田駒ヶ岳を越えて、帰りは小安温泉(秋田県)から栗駒山に登り、駒の湯温泉に下りたことがある。台風の日で強引な登山であった。お金が底をついて宿泊できなくなって、友人と二人でそんな無茶をしたのである。 登山のことなど考えられなかった大学、大学院時代が過ぎ、また山歩きを始め、子供をはじめて連れていった山も栗駒山だった。その時は、私の母と妻の母は駒の湯温泉での湯治をしながら、まだ小さすぎた娘のお守りをしていてくれた。 駒の湯温泉は宮城県のもっとも主要な栗駒山登山基地であったが、その私の記憶する宿は、2008年6月14日の岩手・宮城内陸地震で壊滅してしまった。 仙台に住んで山歩きをしようとすると、船形山を中心とする連山、大東岳とその周辺、蔵王連山に目が行ってしまい、船形山と栗駒山の間の地域にある山々はすっぽりと意識から抜け落ちてしまっていた。 日帰りができて体に無理のない山行を、というのが最近のスタイルで、それに適した山を探していて、翁峠や禿岳、荒雄岳などとともに須金岳もやっと候補となった。翁峠、禿岳と北上して、やっと須金岳というわけである。雪の多い冬だったので、半月ほど延ばしての2010年5月31日の山歩きである。Map A 須金岳周辺と2010年5月31日のコース。地図のベースは、「プロアトラスSV4」、歩行軌跡は、 「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。Map B 須金岳。A~Oは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV4」、歩行軌跡は、 「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。 旧仙秋ラインのゲートが開いていることを期待していたが、だめだった。仙北沢林道を歩くことになったが、林道でのゆったりした歩き始めは良いことなのだ、と言い聞かせながらの歩き出しである。ついつい急いでしまわないように、花を探しながら歩くのである。歩行軌跡が林道から外れているのは、花を見に沢へ下ってみたためである。左:ラショウモンカズラ、右:カタクリPhoto A 仙北沢林道、仙北橋から仙北沢上流を見010/5/31 6:34) 旧仙秋ラインのゲートから20分ほどで仙北沢にかかる仙北橋に出る。若いころの一時期、イワナ釣りに夢中になったことがあったが、荒雄川流域に入川したことはない。 この沢かどうかはわからないが、荒雄川のいくつかの支流の奥には、純系のイワナが生存していることが最近明らかになった。種苗に気を配ることのなかったかつて(現在もか?)の放流事業で、多くの河川のイワナ、ヤマメは混血となってしまった。山奥に孤立するイワナは、地域変異が大きく、その保存は重要である。 施設や資金にやや困難がつきまとうものの、いまこの原種系のイワナを増やそうとする一部の人たちの努力が進行しつつある。期待している。 橋を越えるとすぐ右手に、棒杭に記された「須金岳登山道入口」の道標が見つかる。細い登山道に上がると、林道から離れることができて、少し気分が上がる。 登山道は杉林から始まるが、数分で明るい雑木の林となってすぐに分岐道が出てくる。案内標識があって、道はほぼ直角に折れ、斜面に取りつく。といっても、すぐにPhoto B のようなおだやかな道になる。 道はちょっとした尾根道のようになり、大木が次々に現れる。三合目の標識は、ちょっとした峰になったところである(Photo C)。Photo B 緩やかで快適な林間の上り道。(2010/5/31 6:59)Photo C 3合目のちょっとした峰。(2010/5/31 7:15) 針葉樹の大木もある。たぶん、サワラ(椹)ではないかと思うが、じつはよく分からない。私には、ヒノキ、アスナロ、サワラの区別がつかないのである。他にもヒムロというのがあるらしい。枝がまばらなこと、葉がおおぶりで粗い感じがすることからサワラではないかと思ったのであるが、当てずっぽうである。 花が美しいとか、実が食べられるとか、そんなことがないとなかなか覚えられないのである。クヌギとコナラの違いも判然としない。何回も調べてみるものの、すぐに忘れて、現物を前にして何の役にも立たないのである。「どんぐり」がおいしく食べられたら、問題はなかったのである。私は、モミとカヤの区別が直感的にできる。子供のころ、カヤの実を拾い、煎っておやつとして食べていたからである。 木々の切れ目から、これから行く峰が見える(Photo D)。尾根筋に白く残雪が光っていて、少し心配になる。数年前の春先、たしか寒風山から白髪山の尾根筋の登山道でだったと思うが、尾根の雪庇が崩れて、比較的年配の人が遭難死したニュースを聞いていた。 私は冬山には登らない。残雪の時期には、アイゼンなどの装備があればよいと思うときがあるが、購入はしない。へたに装備を持ってしまうと、雪山に出かけてしまうのではないかと心配してしまう。基本的に臆病なので、危険には近づきたくないのである。それに、山ばっかりの生活というわけにもいかない。冬は冬でやりたいことがある、ということもあるのだ。 かつて釣り全般に夢中になって、一年中釣り三昧になって、支障が出たことがある。そのときは、海釣りの道具一切を処分し、アユとヤマメだけに限定することで切り抜けた。夢中になると、崖から飛び出すように走ってしまう自分がおそろしいのである。「なにごとも適当に、いいかげんに」というのが今の目標である。平らな野原に立っていてはならぬ! あまりに高く登りすぎてもならぬ! 世界がもっともすばらしく見えるのは 中庸を得た高みからである。 フリードリッヒ・ニーチェ「処世術」 [1]Photo D 3合目を過ぎた尾根筋からみる山頂。(2010/5/31 7:20)上:タムシバ、下:アオダモ左:オオバキスミレ、右:シラネアオイキクザキイチゲ(上:紫花、下:白花) いつかサワラの大木の道から雑木林の道になり、タムシバの花が咲いていた。コブシは仙台市内でもよく見かけるが、タムシバをそれとして認識したのも最近である。 加美町小野田の鍋越峠から商人沼、吹越山(939m)を経由して翁峠(1075m)まで歩いたときの山中で、しみじみとタムシバを眺めたのである。その頃にやっと、コブシとタムシバの区別がつくようになった、ということである。 水沢森の頂上付近まで来ると、結構な量の雪が残っているが、危険というほどのことはない(Photo E)。 雪のない陽当たりを探して、朝食をとる。 連れ(イオ)の朝食を先に準備して、次に私の分を開く。どちらも弁当である。もちろん、連れのは、2種類のドッグフードでできたものである。少しだけ食べて、私の弁当が開くのを待っている。肉が入っているのを期待しているのだ。家では食べない果物も、山で私からもらうといくらか食べるのである。犬だって、山での食事は、それなりに別格なのであろう。Photo E 水沢森頂上付近。(2010/5/31 8:37) 水沢森から先は、鞍部の尾根筋の道で歩きやすい。林のなかの道だったり、眺望が開けたり、足もとにはオオバキスミレやシラネアオイが咲いている。 シラネアオイは低山から1000mあたりまで分布していて、山菜採りで山を歩いてもたくさん見ることができる。我が家の庭にも20年生くらいのシラネアオイの大株があって、毎年たくさんの花をつける。庭のシラネアオイが咲くのは、山菜採りに出かける時期の知らせでもある。 七合目、八合目、九合目とじつに順調な道である。この時期に典型的な、よく見かけるキクザキイチゲはやはり白花も紫花も咲いている。むかし、紫花がキクザキイチゲで、白花がアズマイチゲだと思い込んでいた。これも最近区別できるようになったものの一つである。Photo F 九合目付近の道。(2010/5/31 9:41) 道が間ノ岳近くになるとまた残雪である。道は間ノ岳のすぐ北を通るのであるが、そこに「須金岳山頂」の道標が立っている。実際の須金岳の山頂はそれより1.5kmも先である。道標の標高部分は消えてしまっているが、すぐ傍の薮に「1.253M]という別の金属表示板が落ちていた。これは、地図表記の標高と同じである。たまたま同じ標高なのか、頂上というからには地図表記と同じ標高にしなければならないとしたのか、謎である。どんな事情があって、こんなことになったのだろうか、不思議な話ではある。 南雁戸山のツインピークも、GPSデータで確認すると、国土地理院の地図に「1486」と記されたピークのもう一方のピークに1486mと記した山頂標があった。この場合は、ごく近いピークだし、もし標高が同じであれば、とくに矛盾があるというわけではない。しかし、須金岳のこの違いは、よほどの事情があるのではないかと思う。[1] フリードリッヒ・ニーチェ(秋山英夫・富岡近雄訳)「ニーチェ全詩集」(人文書院2011年) p. 154。【続く】 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2019.11.03
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