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2018年は、飼犬イオの死で始まった。2019年は私の骨折で始まり、前半は義母の介護にかなりの時間が割かれ、後半は義母の死の受け止めにだいぶ時間を要した。 こんなことを思っていると、2020年はどんなふうに始まるものやら、いくぶん気持ちが沈んでしまうのだが、さいわい2か月前に若い野良猫が突然現れて、いまでは家の中を我が物顔で徘徊するようになった。 このコトラと名付けた猫とおとなしく正月を迎え、2020年を始めるというのがさしあたってのささやかな願いである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2019/12/20 18:14~18:37) 今年最後の脱原発金曜デモは、毎年のことだが元鍛冶丁公園での集会で始まった。暮れには「光のページェント」が開催される定禅寺通りは交通量が激しくなるので、デモコースに組み込めないのである。定禅寺通りを通らないコースの出発地として肴町公園や元鍛冶丁公園が集会場所になるのである。 電力は原子力から切り替えるべきだと言う発言があり、それを受けて何よりも節電することが大切だというスピーチが続いた。また、女川原発2号機の新規制基準審査書に対するパブコメの提出要請があらためてなされた。 最後に講演会の告知や新年会の案内などがあって、30人のデモは、国分町、稲荷小路の賑やかな飲食店街を横切って一番町に向かった。一番町。(2019/12/20 18:40~18:48) 宗教者が核燃料サイクル事業廃止を求める裁判を起こすために、原告となる宗教者を募集しているというニュースがネットで流れてきた。 日本原燃株式会社に対して青森県六ケ所村の再処理工場などの原子力施設の運転差し止めを求める訴訟を2020年3月に東京地裁に起こす予定だという。ホームページには次のような主張が掲げられている。1.原発、原子力法制は主権者の権利を保障する日本国憲法に違反していること。-幸福追求の権利、健康で文化的生活をする権利、働く権利、職業の自由、居住・移転の自由、教育を受ける権利等憲法上の権利を全て覆す。-憲法のよってたつ基盤(国民・国土)を覆し、憲法の存在を危うくする。2. プルトニウムを生み出す核燃料サイクルは極めて危険性の高いものであり、技術的に無謀であること、また政策が変われば軍事転用の恐れがあること。3. 使用済み燃料・放射性廃棄物を後世に残すことは、宗教者、信仰者としての倫理性に極めて反すること。4. 核燃サイクル事業は原子力発電所などでの労働者の総被ばく量を増やし続けることになるため、この事業を廃止すること。5. 地震・津波などにより再処理工場が、事故を起こす確率が非常に高いこと。6. 一旦、再処理工場が事故を起こした場合、超大量の放射性物質が放出され、日本だけでなく世界的規模の汚染が広がり、その影響は後世に及ぶこと。7. 再処理施設の耐震基準に設定されている基準地震動が現実にそぐわず、耐震安全性に重大な欠陥があること。 この訴訟の中心となっているのは、「原子力行政を問い直す宗教者の会」という仏教、キリスト教などの宗教人の集まりである。「原子力行政を問い直す宗教者の会」が結成されたのは1993年7月で、その集会宣言に関する記事の中に世話人の一人として鶴谷忠男の名が記されている。 鶴谷忠男は日本キリスト教団の牧師で、宮崎県の都農町や三重県尾鷲市などでの牧師生活を終えて近江八幡に落ち着いた後、2006年に急死した。この鶴谷忠男は、私の義兄にあたる。鶴谷の妻は私の妻の姉である。 会が結成される前に、鶴谷が仙台にやってきて原子力や放射線について教会の集まりで話すように言われたことがあった。どんな話をしたのかほとんど記憶にないが、鶴谷に声をかけられた宗教者の集まりで、見知った牧師さんの顔もあった。青葉通り。(2019/12/20 18:50~18:57) 今年最後のデモも終わった。来年は、1月10日がデモ初めとなる。今年は、何かとデモを休むことが多くなったが、さて来年はどうだろう。 帰宅してパソコンで写真の整理をしていると、その足下でコトラがうるさく騒ぐ。体を寝そべらせて鳴きながらこちらを見ている。「体を撫でてくれ」と要求しているのだ。2か月前のノラ君はその程度には馴れて図々しくなっているのである。 このコトラと一緒に年を越すのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2019.12.20
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衝撃的なニュースだ。12月4日、アフガニスタンで医療・農業支援に取り組んでいたNGO「ペシャワールの会」代表の医師・中村哲さんが銃撃されて亡くなった。 医療支援のためアフガニスタンに行ったものの「医療よりは生きること、まず水だ」として1600もの井戸を掘り、灌漑用水を作り続け、現地の農民ばかりではなく内戦で敵対する政府とタリバンの双方からも尊敬されていたという。 アフガニスタン政府も日本政府も事前に中村さん襲撃の情報を得ていて本人にも伝えていたという。襲撃計画は周到に準備されたものらしいが、まだ襲撃グループの正体はわからないようだ。 常々「平和に武器はいらない」と話されていて、ひたすら人道支援に励まれていた。カソリックなら「聖人」に列せられるべき人であろう。その中村さんは、日本の政権について「こんなバカな政権はない。……憲法に従う義務はあるが、政権に従う義務はない」と語っていたという。 そして、その日本政府は12月20日にも自衛隊を中東に派遣する閣議決定を行うという。軍事力を紛争解決に用いようとする日本政府は、中村さんの意思の真逆の道を進もうとしている。事の真偽は定かではないが、そのような日本政府への反発が中村さんの悲劇の遠因ではないかという指摘がネットで流れているのも故無きことではないだろう。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2019/12/6 18:17~18:35) この季節になると夕方のデモという雰囲気はまったくない。完全無欠の夜デモである。服装も例年の冬と同じほどになった。先週より一段と寒くなったがデモ人は同じように元鍛冶丁公園に集まっている。 先週と同じく、規制委員会の女川原発2号機「新基準」適合という審査書へのパブリックコメントを出そうという案内スピーチがあり、そのパブコメへの緊急学習会「水蒸気爆発は本当に起きないのか?」(講師:高島武雄さん、12月14日(土)13:30~、エルパーク仙台5階セミナーホール)の告知などがあって、30人の脱原発デモは元鍛冶丁通りを一番町に向かった。一番町。(2019/12/6 18:37~18:47) 反吐が出るようなニュースもあった。政府主催の「桜を見る会」の安倍首相の私物化が追求されているが、国会で招待者名簿を提出するように要求されたその当日に名簿を廃棄した。森友事件のときと同様に公文書隠蔽として強く批判されているが、安倍首相は国会で、名簿廃棄したのは雇用障害者だったために(仕事が遅れて)たまたまその日に廃棄することになったという趣旨の言い訳をした。このことにネットではもとより、ニューヨークタイムスやワシントンポストなど海外の主要メディアからも強い非難の声が上がっている。 自らの不正に非難が集中しているとき、安倍首相は障害者にその責任を押し付けようとしているのである。いわば、この障害者は「人間の盾」にされているのだ。非難するならこの障害者を非難しろということなのである。 B級映画やテレビドラマで、捕虜や人質を先頭に立てた「人間の盾」に隠れて戦う悪の集団がしばしば描かれる。お前たちが攻撃したら「人間の盾」が死ぬぞという卑劣な戦術である。安倍首相(と内閣府)は、まさにその酷薄・卑劣な悪逆集団そのものを演じている。腐敗し、腐臭漂う典型的な悪そのもののキャラクターを演じている。いや、演じているのではなく、それが彼らの存在の本質なのだろう。 虚偽答弁を重ね、書類を隠蔽し、公文書を改竄し続けた先に出てきたのが「人間の盾」である。絶望的なほどの卑劣さである。青葉通り。(2019/12/6 18:47~18:56) ニュースに害された気分のせいか、写した写真のどれもが暗く見えてしまう。もちろん明るく補正できるが、暗いものは暗いままに、暗鬱なものは暗鬱なままに、などと考えながら暗い夜道を帰って来た。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)7
2019.12.06
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脱原発みやぎ金曜デモは「女川原発を廃炉にしよう!」の横断幕を先頭に毎週仙台市街で脱原発を訴えてきた。原子力規制委員会は、11月27日、その当の女川原発2号機が新規制基準に合格したとする審査書を公表した。 もとより原子力規制委員会は、原子力行政の公平性や安全性を擬態するための組織であることは百も承知だが、福島事故以来の被災者の苦難や復興の困難さ、何よりも国民の反原発意識の昂揚などをAIならぬ人間で組織されている委員会がなにがしかは受け止めているだろうと微かには期待していた、愚かにも。 女川原発の再稼働へ向けた動きのニュースに勝って、来日したローマ教皇がマスコミを賑わしていた。教皇は長崎と広島を訪れ、核兵器を強く批判したばかりではなく、福島事故の被害者と面会したあと次のように述べて原発への強い危惧を表明した(11月26日付け『東京新聞TOKYO Web』)。 ご存じのとおり、戦争、難民、食料、経済格差、環境問題は、切り離して判断したり対処したりはできません。今日、問題を強大なネットワークの一部と見なすことなく、個別に扱えると考えるのは大きな間違いです。的確に指摘してくださったように、私たちはこの地球の一部であり、環境の一部です。究極的には、全てが互いに絡み合っているからです。 思うに最初の一歩は、天然資源の使用に関して、そして特に将来のエネルギー源に関して、勇気ある重大な決断をすることです。 (中略) この意味で特別に思い起こしたいのが東京電力福島第1原発事故とその余波です。科学的・医学的な懸念に加え、社会構造を回復するという途方もない作業もあります。 地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません。 これが意味するのは、私の兄弟である日本の司教たちがいみじくも指摘した原子力の継続的な使用に対する懸念であり、司教たちは原発の廃止を求めました。 この時代は、技術の進歩を人類の進歩の尺度にしたいという誘惑を受けています。進歩と発展のこの「技術主義パラダイム」は、人々の生活と社会の仕組みを形成します。そしてそれは、しばしば私たちの社会のあらゆる領域に影響を与える還元主義につながります。 従って、このような時には立ち止まり、振り返ってみることが大切です。私たちは何者なのか、そしてできればより批判的に、どのような者になりたいのかを省みるのが大事なのです。 控えめで穏やかな論調だが、人間がこの社会、世界、その未来を考えるとき、その考えの基底となるべき大切な思いを語っている。 それにしても、面談した福島事故被害者の名前を挙げて個別の受苦に心を寄せながら世界の「戦争、難民、食料、経済格差、環境問題」へと考えを及ぼしていて、13億人とも言われるカソリック信者の頂点に位置する教皇が大いなる尊敬を受けていることも宜なることではある。肴町公園から一番町へ。(2019/12/1 14:03~14:26) 集会では、当然ながら、女川原発が新規制基準をクリアしたとする規制委員会の発表への批判と、規制委員会が審査書の正式決定前に募集するパブリックコメントへ反対意見を出そうというスピーチが続いた。 「脱原発みやぎ金曜デモ」として規制委員会判断を批判する集会アピール文を読み上げ、30人の脱原発デモは肴町公園を出発した。 【適合性審査書案公表へのアピール】女川原発2号機の適合性審査書案が公表されました。私たち「脱原発みやぎ金曜デモ」の参加者は、再稼働ありきの審査書案が出されたことに強く抗議します。 原子力規制委員会に、問いたい。この審査書案に、宮城県民の姿はあるのか、と。 女川原発とは何でしょうか。東北電力という一私企業が、自社の利益のために、女川町に建設した発電所です。たかが一企業の財産に過ぎません。なのに、ひとたび不測の事態が起きれは、たとえ東北電力に関わりない人であっても、多くの県民が避難せねばなりません。県民生活の根底を揺るがす可能性がある施設に運用再開のお墨付きを与えることを、規制委員会はどのように考えているのでしょうか。また、それにより生じる事態にどのように責任を取るのでしょうか。住民の避難計画を作るのに各自治体がどれだけの人的・時間的資源をかけねばならないのでしょうか。たかだか一企業の発電所を動かし儲けさせるために。 私たち宮城県民は、福島をずっと見てきました。規制委員会での議論を、原発ありきの電力会社や社会の在り方を変える機会にしてほしいと願いながら注視してきました。あらゆる学問と知識とを総動員して、徹底的に調べ論じた上で、既成事実やしがらみにとらわれない結論が出されるものと信じて見ていました。そんな宮城県民を失望させる規制書案です。 審査は東北電力のペースで進んだように見えました。東北電力が「対策を施した上で再稼働させる」方針に基づいて提案し、議論自体がそれに引きずられていました。例えば火山噴火の可能性やその影響など議論が深められないままに終わった議題や、水蒸気爆発の問題など不適切な実験データを引用したと疑われたにもかかわらずそのまま進められてしまった議題もありました。火山学の専門家からは異論も出たと聞きます。議論で未消化だったテーマについて、改めて深める機会は設けられるのでしょうか。 原発は20世紀の遺物です。ただ技術を信仰し依っていれば安心安全がもたらされるという「神話」は2011年3月11日を限りに崩壊しました。21世紀の現実世界を女川原発に向き合って生きねばならない宮城県民は、この審査書を信頼していいのでしょうか。 規制委員会は、この審査書案を撤回して、再度審査をやり直すよう、心から願います。 今後も私たちは女川原発の全基廃炉を求め続けます。全基の完全な廃炉が実現するまで歩き続けます。 2019年12月1日「脱原発みやぎ金曜デモ(日曜版)」参加者一同一番町。(2019/12/1 14:30~14:32) 経産省がしがみつく核燃料サイクルの惨めな一端を顕わすニュースがあった。「伊方、高浜で使用済みMOX取り出しへ 国内初、12月以降」(11月30日付け『中日新聞CYUNICHI Web』)。 核燃料サイクルは、使用済みウラニウム核燃料からプルトニウムを抽出し、そのプルトニウムを核燃料の一部としてウラニウムと混合したMOX燃料として使用する。さらに使用済みMOX燃料はウラニウムとプルトニウムを再抽出して利用する。 この核燃料サイクルを実現するには核燃料の再処理が必要不可欠だが、26年前に着工した六ヶ所村の再処理工場は、さまざまなトラブルが相次ぎいまだに稼働できていない。仮に六ヶ所村の再処理工場が稼働したとしても使用済みウラニウム燃料しか処理できず、比放射能の高いMOX燃料は処理できないのである。 もちろん、政府は将来的にはMOX燃料最処理工場建設を計画しているが、26年かけてもウラニウム燃料再処理工場を完成できない日本の技術力で、それよりも格段に困難なMOX燃料最処理工場の建設に何年還るつもりなのだろう。 これもまた、解決できない絵空事となって、大量の使用済みMOX燃料もまた後世の人々に押し付けることにしかならないだろう。「今、ここ」という目の前のことさえどうにかなればよいという官僚型思考の典型である。彼らはしばしば「30年後に解決する」とか「30年後に見直す」と口にする。30年も経てば、関係官僚は退職して責任を取る必要がないせいである。広瀬通り、晩翠通り。(2019/12/1 14:34~14:44)青葉通り。(2019/12/1 14:49~15:05) 広瀬通りのイチョウ並木は、半分は黄色、半分は緑色となっている。東西に走る広瀬通りでは、日の当たりぐあいが黄葉化の遅速を決定しているのがよくわかる。 青葉通りの欅はほぼ葉を振るい落としている。青葉通りの明るさは寒々したイメージとともにやってくる。 寒さとともにわが家にやってくるのが野良猫である。昨年の秋にはカショーと名付けたチャトラがやって来た。家猫化が進んだが3ヶ月ほどでまったく姿を見せなくなった。 今年も11月12日にキジシロの一歳ほどの若い牡猫が姿を現した。まだ首輪もさせてくれないし、動物病院に連れて行くまでには至ってないが、今ではほぼ居ついたかのようにわが家で暮らしている。 デモが終われば、その猫の食べ物を買って、頼んでいた新しいメガネを受け取って帰るのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2019.12.01
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